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『障害の地平』No.85

視覚障害者労働問題協議会 編 19951230 SSK通巻第626号;身体障害者定期刊行物協会,24p.

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視覚障害者労働問題協議会 編 19951230 『障害の地平』第85号,SSK通巻第626号;身体障害者定期刊行物協会,24p. ds. v01

■全文

表紙
 SSK−障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のために−
 子宮から墓場までノーマライゼーション!

 −視労協―
 障害の地平 No.85
‘95.1.17を忘れまい
 視覚障害者労働問題協議会

 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 一九九五年十二月三十日発行SSK通巻626号

目次
 視労協的気分「共に生きる社会」と私あれこれ 宮昭夫…1
 ノーマライゼーションプランと今後の戦略 堀利和…4
 〈資料〉障害者プランにおける数値目標…9
 視労協の20年を振り返って(2) 込山光広…10
 飛べ、飛べ、視覚障害者(その6) かとうけんじ…14
 「『森』はいきているか」 森登美江…18
 「ジョイフル・ビギン NO5」の紹介
 編集後記

p1
 視労協的気分
 「共に生きる社会」と私あれこれ
 宮昭夫

 1
 点字の市民権はまだまだだけれど、それでも最近はいろんな団体の会報や機関誌、各自治体の広報誌など点字印刷物を受け取る機会はかなり増えてきた。うっかりしているとそれらは、たちまち机の上や本箱の上を占領し、収拾のつかない無秩序と混乱におとしいれるほどである。なにしろ点字はどうしようもなくかさばるのだ。
 ある日曜日私は覚悟をきめて作業に取り掛かった。つまり「大事なもの」と「捨ててもいいもの」とを分けるために、かたっぱしから読み始めた。だが、しばらくその作業を続けているうちに、私は奇妙な事実に気がついて愕然とした。私が実際に読んでいるものというのは、捨てようか取っておこうかと迷うようなもの、捨てようとは思うがその前に1度くらいは読んでおこうと思うものなのだ。最も大事だと思ったものは「あとでゆっくり読むため」に再び本箱か机の上に、もどされる。そして、それらの「大事なもの」は(これまでの経験からすると)また半年か1年先まで(ひょっとすると永久に)読まれないままなのかもしれない。
 大事な事は先に延ばして、些末な事や、どうしてもしなければならない羽目に陥った事だけをかろうじてやる。明らかにそれは私の個人的な欠点だ。大事な事を素直に(そして、骨惜しみせず)大事に出来る人間であれたらと思う。
 2
 同じ日曜の夜、何が大事なものかまたまた考えさせられるテレビ番組にぶつかった。それは一言でいえば、たいして重要とは思えないような事に対して「特殊能力」を持っている人間を集めてくるという番組だ。たとえば、鼻でビールが飲めるとか、目からたばこの煙が出せるとか、バストで絵が書けるとかいった類の事が出来る人達が続々登場する。ある意味でそれは頭のいいもの、野球やサッカーのうまいやつ、顔のいい人だけが持てはやされる現代の能力主義に対する否定や諷刺を意味しているかもしれない。そして、「

p2
共に生きる社会」が、それぞれの能力や個性を最大限認めあい評価しあう社会だとすれば、それは「共に生きる社会」への一つの入り口を指し示しているのか?まさか?冗談じゃない。それは能力主義の否定じゃなくて、単なる能力主義の頽廃だ。そうかもしれない。だけど頽廃は衰退の兆候だよ。その後に何が来るかが問題だ。番組の後もしばらく私は自問自答を続ける。
 3
 「…悪臭漂う地下通路をさまよわされる視覚障害者としては、ホームレスの居住権(?)よりも歩行者の交通へのアクセス権を優先し『動く歩道』の早期設置を望みたい」
 これは「点字毎日・11月19日号」に自身視覚障害者である記者の一人がコラムふうに書いた1文である。私も一人の視覚障害者として彼の気持ちは分からなくはない。よく分かるといった方がいいかもしれない。しかし、…やっぱり考え込んでしまう。私は物分かりのいいポーズで奇麗事をいっているに過ぎないのだろうか?私だって地下街を歩いていて何度か彼らの「居室」に踏み込んだり、酒盛りのまんなかに迷い込んだりした事もある。しかし、べつに命の危険にさらされるという訳ではない。どちらかといえば危険にさらされているのは彼らの方だ。おちおち寝てもいられないのだから。
 私は彼らに地下街から出ていって欲しいとは思わない。もちろんそのかわり、彼らにもたまに私達が足を踏んだり、杖の先でつっついたりする事を許してもらわねばならない。「共に生きる社会」は単に我慢しあう社会ではないだろう。たぶん、もっと心通いあう社会のはずだ。ともかく、視覚障害者と「ホームレス」の人達とが排除しあう所から生まれるものでない事だけは確かだろう。
 4
 最近の集会では大抵、討議資料が事前に準備されている事が多い。(もちろん、点字はごく一部分だけという事が多いけれど)。つまり、集会での主な発言内容は事前に目を通しておいたり、後で読んでおいたりする事が可能でかならずしも集会そのものに集中している必要はない。いってみれば、散漫な集団読書会といった、しらじらしい雰囲気を感じてしまう事が多い。発言者のほとんどは直接聴衆の感情や論理に訴えかけそれを揺り動かそうとい

p3
う意気込みを感じない、たんたんとした口調で原稿を読む。所詮は、すでに書かれてある事を再確認するための儀式の色彩が濃い。いい意味でのアジテーションがほんとに少なくなった。つまり、「アジ」けなくなった。
 もちろん、資料が揃っている事が悪い訳ではない(だろう)。いいアジテーションが少なくなった事と資料が揃っている事とも(無関係ではないにしても)直接の関係はないのだろう。要は体制変革といった強烈な理想が希薄になった事が原因かもしれない。そうは思いつつも私はマニュアルやシュミレーションやイメージトレーニングといったもので象徴される「なんでも事前に役にたつ疑似体験」をしておこうという風潮が全てのものを味気なくさせているように思えてしかたがない。
 ここまで年寄りの繰り言を並べている時ふと、聴覚障害者にとっては集会の資料がちゃんと揃っている事がどれだけ有効な事であるかという事に気がついた。やれやれ「共に生きる事」はなかなか難しい。もちろん、私のような変わり者は別として、視覚障害者にとっても情報が保障される事はまちがいなく、いい事に違いない。
 5
 今日も「やる事」は、たくさんあるのに所詮どうどうめぐりに過ぎないような事を私は考えている。たぶん、不幸や絶望を共有する事から生まれる連帯感、それを基礎にした「共に生きる社会」なら私にもなんとか考える事ができる。ただ「幸福」や「理想」を共有できる社会について私には自信と創造力が欠けている。まあいいだろう。先が「見えなくても」歩かねばならないのが視覚障害者だ。大事な事は自分を前に押し出そうとしているものが真実であるかどうかを見極める事なのだから。

p4
 ノーマライゼーションプランと今後の戦略
 堀利和

 1.皆さんがこの文章をお読みになっている時には、すでに「プラン」について決着がはかられているはずである。今、最終段階をむかえ数値目標をめぐって、大蔵省との攻防を展開している。
 特に来年度予算にあたっては、これまで以上に厳しい。だが、新ゴールドプラン、エンゼルプランに続く3本目のプラン――ノーマライゼーションプラン(7か年計画)をなんとしても作り上げなければならない。

 2.昨年夏、まだ7年度予算の概算要求をめぐり、新ゴールドプラン、エンゼルプランの白紙要求をあわただしく審議している中、私は厚生省に対し、障害者にも具体的な数値目標を盛り込んだ「ノーマライゼーションプラン」の策定を提案した。そして5月22日に厚生事務次官を本部長とする「障害者保険福祉推進本部」が設置された。その後予算委員会や厚生委員会など、機会を見つけては、プランの作成の必要性と厚生行政の3局3課の「障害者福祉局」への統合、一本化を求めた。

 3.なぜ私が「ノーマライゼーションプラン」といい、その名称にこだわったか。それには二つの理由がある。
 ひとつはいうまでもなく、「ノーマライゼーション」という言葉、

p5
理念は、デンマークのミッケルセン、知的障害者の親たちの理念と運動から生まれたものであり、その理念を尊重し、伝えていかなければならないと考えたからである。
 もうひとつは、厚生省だけの保険福祉プラン(リハビリテーションプラン)にとどめたくなかったからである。建設、運輸、労働などの各省庁を加えたトータルな社会参加のためのプランにしたかったからにほかならない。

 4.一方、厚生課、障害者福祉課、精神保健課あるいは母子保健課の3局3課を「障害者保健福祉局」へ統合することににこだわりつづけたのは、今後の障害者保健福祉施策のありかたを占う上で、きわめて重要だからである。
 その理由の一つは、市町村中心の保健福祉対策になっていくこと。身体障害者に続いて、知的障害、精神障害の保健福祉もいずれ市町村に移行していくことになり、そうなれば、市町村において、まさに統合的な施策が展開されることになる。にもかかわらず、国レベルで障害の種類、年齢により、あいかわらずのタテ割り行政を続けていたのではうまくいかない。むしろ弊害にさえなりかねない。
 二つ目は、サービス供給の体制。町村における障害者の人口を考えた時、高齢者の保健福祉との連携もさけて通れない。現実に対応するためにも、障害者行政の一本化は不可欠である。
 三つ目は、医療と福祉の役割と連携を明確にして、近い将来「障害者福祉法」の大改正により、法体系の見直し、整備が必要である。そのための前段として、障害行政の統合、整備がはかられなければならない。

p6
 5.1年半にわたる私の取組について簡単に報告すると、すでに述べたように、それは昨夏から始まった。
 トータルとしての「ノーマライゼーションプラン」の実現は、とても厳しかった。厚生省としては、「保健福祉」のプランを考え、それにとどめたかったのである。
 その理由は、エンゼルプランを例にあげると、このプランは不十分な内容ではあるが、保育対策緊急5か年計画をを達成するため、労働、文部、建設の3省を巻き込んで「エンゼルプラン」とし、組み立てたものである。
 ところが、障害者対策については、他の省庁を巻き込むことで、厚生省の保健福祉プランそのものが破綻しかねない大変不安定な状況にあった。厚生省側としては、『くもの糸』のカンダタの気分であったに違いない。
 実際、労働、建設、運輸、郵政など、各省庁を見ても、民間部門が対象で、具体的数値目標を設定することは容易ではない。
 8年度概算要求では「保健福祉」のプランについては、白紙要求であったが、その他は従来どおりの概算要求にとどまっていることからも明かである。他の省庁は参加しなかった。
 平成7年7月25日の「中間報告」も、住宅や町づくり、情報・通信についてもふれられていたが、それはあくまで厚生行政の枠内であって、厚生省(推進本部)で書かれたものである。
 9月、私はぎりぎりの戦いを迫られた。
 厚生省以外の他の省庁は、数値目標は取り込まなくても、目玉と

p7
なる重点事業、21世紀に不可欠な事業項目をならべるだけでも良い。厚生省だけの保健福祉プランではなく、トータルプランに持ち込むために、各省庁の参画を実現しなければならない。そんな思いと決意だった。
 10月に入って、ノーマライゼーションプランはようやく厚生省から総理府の障害者対策本部の手に移った。同時に、行政組織も、来年度7月か10月に、厚生省大臣官房に「障害者保健福祉部」を設置することが内定した。
 私の夢と戦いは着実に成果をあげてきた。
 しかし、新ゴールドプラン、エンゼルプランにくらべ、障害者関係団体やマスコミなど、あまり盛り上がっていないのが現状である。私一人の力はあまりにも小さい。もっと障害者自身が声を合わせて要求すべきである。残念でならない。

 6.与党福祉プロジェクト、社会党厚生部会で、これからプランを作るという時に、私は2.3年後のプランの見直しを求め、政府から「必要な見直しは行う」との確約を取った。
 なぜ私が、プランができる前から見直しにこだわるのか、説明しておきたい。
 第一は、「新長期計画」の中間見直しの時期。
 第二は、障害者基本法に基づく市町村の計画作成が8年度中、それにともなうニーズ調査が実施され、新たな集計値がでてくる。ゴールドプランから新ゴールドプランヘの見直しと同じ考えかた。
 第三は、7年夏の通常国会で改正となった「精神保健および精神障害者の福祉に関する法律」により福祉の旗だけは立ち、あわせて

p8
同法が3年後に見直されることになっている。
 第四は、厚生省以外の各省庁にも、2,3年後までには可能な限り数値目標の検討を求める。
 このような理由から、3年後の「見直し」をめざして、さらに全力をつくす必要があると考える。そして、西暦2000年あるいは7か年プランが終わる2002年までには、すべての条件を整えて「障害者福祉法」への障害者施策、法体系の整備を計る。
 私たちは21世紀に向かって、計画的かつ精力的に前進しなければならない。

 7.たとえ8年度の財源が厳しくても、7か年の総目標達成数値を低く見てはならない。来年度予算に引きずられてはならない。
 ともあれ、今、大蔵省と火花を散らしている。
 「介護」問題も決着を迫られている。
 明日12月15日には、障害者団体と私たち与党と一緒になって、村山総理と会うことになっている。
 ノーマライゼーションプランの策定、実行が私たちに明るい21世紀を用意してくれると信じている。
 これはスケジュール闘争ではない。未来への闘争である。

 平成7年12月14日

p9
 〈資料〉障害者プランにおける数値目標
 (2002年度末の目標〉
 
 1.住まいや働く場ないし活動の場の確保 
 (1)グループホーム・福祉ホーム (現状)5000人―(目標)20000人
 (2)授産施設・福祉工場 (現状)40000人―(目標)68000人
 (3)新たに整備する全ての公共賃貸住宅は、身体機能の低下に配慮した仕様とする。
 (4)小規模作業所については、助成措置の充実を図る。

 2.地域における自立の支援
 (1)障害児の地域療育体制の整備
 重症心身障害児(者)等の通園事業  (現状)300ヶ所―(目標)1300ヶ所
 全都道府県域において、障害児療育の拠点となる施設の機能を充実する。
 (2)精神障害者の社会復帰の促進
 精神障害者生活訓練施設(援護寮)  (現状) 1500人―(目標)6000人
 精神障害者社会適応訓練事業  (現状)3500人―(目標)5000人
 精神科デイケア施設  (現状)370ヶ所―(目標)1000ヶ所
 (3)障害児の療育、精神障害者の社会復帰、障害者の総合的な相談・生活支援を地域で支える事業を、概ね人口30万人当たり、それぞれ2か所ずつ実施する。
 (4)障害者の社会参加を促進する事業を概ね人口5万人規模を単位として実施する。
 
 3.介護サービスの充実
 (1)在宅サービス
 ホームヘルパー 45000人上乗せ
 ショートステイ  (現状)1000人―(目標)4500人
 デイサービス  (現状)500ヵ所―(目標)1000ヵ所
 (2)施設サービス
 身体障害者療護施設  (現状)17000人―(目標)25000人
 精神薄弱者更生施設  (現状)85000人―(目標)95000人

p10
 4.障害者雇用の推進
 第3セクターによる重度障害者雇用企業等の、全都道府県域への設置を促進する。

 5.バリアフリー化の促進等
 (1)21世紀初頭までに幅の広い歩道(幅員3m以上)が約13万qとなるよう整備する。
 (2)新設・大改良駅及び段差5m以上、1日の乗降客5千人以上の既設駅について、エレベーター等の設置を計画的に整備するよう指導する。
 (3)新たに設置する窓口業務を持つ官庁施設等は全てバリアフリーのものとする。
 (4)高速道路等のSA・PAや主要な幹線道路の「道の駅」には、全て障害者用トイレや障害者用駐車スペースを整備する。
 (5)緊急通報を受理するファックス110番を全都道府県警察に整備する。

 視労協の20年を振り返って(2)
 込山光広
 
 去る10月22日、「視労協結成20周年記念の集い」が開かれた。場所は筑波大学附属盲学校。会場はアンサンブル室と会議室で、午後1時開会。はじめはアンサンブル室で、視労協からのあいさつの後、全障連、障害連、障教連など、これまで共に運動を作ってきた団体からの祝辞を頂いた。その後、同じ部屋で第1部のミニコンサートを楽しんだ。親しまれた曲を混じえての、白樫幸子さんのピアノ伴奏による中里聡さんのハーモニカ演奏は、大変感銘深いものであった。コンサート終了後、会場を会議室に移して第2部

p11
の祝宴に入った。グループ「ひびき」の潤達な和太鼓を堪能した後、視労協のこれまでの代表(堀、宮、込山)の思い出話をはじめ、歌、ギターはもちろんオカリナや手作りの「ケーナ?」まで飛び出し、バラエティーに富む祝宴となった。料理も酒も十分だったようだ。盲界のマスコミ関係にたずさわるある方からは、「他の集会とかち合ったが、ほんとに草の根からの運動をしてきた視労協の集いに顔を出した。がんばって欲しい」という言葉をもらい、参加人数こそ4〜50名と、こじんまりした集まりではあったが、充実した一時を過ごすことができた。初心を忘れず経験の蓄積を生かして、未来への運動へとつなげたいものである。

 視労協20年の運動の中で、しばしば困った場面に直面したことがある。その一部を紹介したい。
 1.国鉄の分割・民営化反対運動の時である。国鉄当局は、労働組合(国労)をつぶすために労働基本権を踏みにじり、基本的人権を無視し、なりふりかまわぬ労務政策を強行していた。労組や市民や障害者団体の、「国民の生命と安全を守れ」との要求に対しても、話し合いに応じないことはもとより、全く耳を貸そうとせず、要望書すら受け取らないという状況だった。それでも粘ると、平気で警察権力まで導入した。さて、視労協はある行動の後、夕方まで少し時間の空くことがわかった。折角みんなが時間の都合をつけたり休暇を取って集まったのだから、国鉄の分割・民営への抗議行動を行うことにした。行動の組立ては国鉄の非をならし、国鉄本社前と地下鉄の出入口で抗議のビラまきと拡声器による情宣活動をしようというものであった。ビラは用意した。しかし、要望書はこれまでの例から言えば受け取るはずのないものである。時間がないこともあって、どうせ受け取ってもらえないものだからと言って、要望書は作らなかった。視労協20名余りは、厳重に警戒体制が敷かれた国鉄本社前に出かけた。出て来た守衛に国鉄への要望書を提出したい旨を告げると、中で相談してきて受け取ると言う。私達はあわてた。「ただ受け取ってもらうだけでは困る。きちんと責任の取れる人を出して欲しい」との私達に、「運輸課長が責任を持ち、受ける」と言う。考えてもいなかったことなのでかなり戸惑った。ビラを渡して要望書と言おうかという案もあったが、結局「国鉄総裁を出せ。大事な要望書だから総裁以外には渡せない」ということにした。「総裁は国会に出ていてここにはいない」、「総裁を国会から呼んでこい」、「そういうわけにはいかない」、「それで

p12
は私達の要望書を受け取らないつもりなのか」、このようなやりとりの後、私達は国鉄当局の不当な対応に抗議のビラまきをし、要望書すらも受け取ろうとしないことを通行中の都民に訴えた。全く冷や汗ものであった。

 2.視労協が中心になり、他の障害者団体や労働組合の支援を得ながら、「中途失明者更生施設」の民間委託に果敢に反対行動を行った。3泊4日の都庁座り込み。そして、東京都知事室前での座り込みと集会、抗議のため、「知事は出て来い」とシュプレヒコールをしながら知事室のドアや壁をノックし、渦巻きデモを行った。当然守衛との間にはトラブルが発生し、騒然とした雰囲気であった。その中で私達の行動をカメラに納めていた奴がいた。総務局の課長で、前日座り込みをし泊まり込みの体制になっている私達の所に、「形式ですから」と断りながら退去勧告の立札を立てていった奴である。彼は証拠写真を撮っているのだ。何に使われるのかは明らかだ。私達は彼にフィルムをこちらに渡すように言ったが、彼や彼の部下は応じようとしない。守衛を混えてもみ合いとなった。ルールを無視した都当局の不当な対応を、都庁職員労働組合も許すわけがない。それを私達は確信していた。現に都庁職の支援がなければこの闘いは組めなかったのだ。私達は彼らに、「労働組合に敵対するのか?、都庁職は許さない」と言いながら、都庁職の支援を得るために労働組合事務所に一人を派遣した。数分後帰って来た彼はしょんぼりしている。「彼らは正式な仕事として写真を撮っている。都庁職としては介入できない」と言うのが回答だった。困った。こうなれば仕方がない。彼らに「都庁職の役員がやってくる。最後まで労働組合と闘うつもりか?」で押し通し、無事証拠フィルムを回収することができた。

 3.点字受験に関することである。1976年夏、東京特別区は視労協の要求を無視し、点字試験を実施しなかった。「点字も普通文字も文字として変わりがない」という都人事委員会の見解を武器にして、論理的には勝ちを制したが、点字試験は行われなかった。私達は抗議のため、視覚障害の受験希望者を受験会場に送り込み、実際に墨字の試験を受けて、いかに不当かの意思表示をした。受験した彼は墨字で出題された問題文を前に、机に向かってただじっと座り続けた。1時間たって出てきた彼は、「1日やればいいのかもしれないが非常に退屈だった。1時間が限界だ」と感想をもらしていた。特別区人事委員会は、「彼が会場に入っても一切案内はしない。席も教えな

p13
い。付き添いも認めない。みんな一人でやってもらい、晴眼者と同様に取扱う。それでも受けるのか?」と嫌がらせをしたが、同じ大学の学生の助力を得ながら受験を敢行した彼の勇気を讃えたい。
 都の「障害者別枠採用試験」でも点字受験は認められていない。私達の「点字受験を認めよ」に対し、受験資格に「活字印刷文の出題に対応出来る者」なる項目があり、従って点字使用の視覚障害者は、障害者を採用しようとする試験からさえ排除されている。しかし、私達は最後の手段として、「視覚障害者であってもオプタコンを使えば、活字印刷文の出題に対応できる」と言ってみた。人事委員会はやむを得ず視覚障害の受験希望者に、全盲であると知りつつ受験票を交付し、試験を実施しなければならなかった。彼のために別室が設けられた。数人の試験監督官が付き、こと細かに説明が行われた「ここが名前を書く欄。解答欄はここのスペース。…」など。大変にていねいな応対だったという。彼は適当に時間をつぶし受験会場を後にした。実は彼は墨字を書くことができないし、オプタコンを使えるような訓練も受けていなかったのである。「やあ、試験監督官が色々と親切に教えてくれるので困った。ほんとにいたたまれない思いだった」が彼の感想。本当に御苦労様でした。ちなみに、極めてすぐれたオプタコン活用能力の持ち主であっても、試験に合格することは絶対に無いと言っても言い過ぎではない。

 視労協は知恵を絞り、状況に応じて戦術を工夫してきた。苦境に立たされてもその場その場で適切に対処してきた。「無謀」と思えることができたのも若さがあり、勇気があり、そして何よりも差別を許さない強い気持があったからだろう。それにしても、自治体の採用試験の受験資格から「活字印刷物の出題に対応出来る者」を取り去りたいものである。この項目は視労協の運動によって、自治体当局が点字受験者(視覚障害者)を差別していることを明らかにしたものであるからである。運動によって明確にされた差別は、より強力な運動によって粉みじんになくしたい、そんな思いである。

p14
 飛べ、飛べ、視覚障害者その6
 かとうけんじ

 はじめに
 今回は、私の個人的体験に触れたいと思う。ヒーリングと言うものを説明するのに、それが一番の方法だと考えるからだ。この文章は「片手の音」と言う題のもので、私の主催する氣功教室の生徒用に書かれたものを、そのままの形で、取り上げたいと思う。専門的な用語もあり、分かりにくいかも知れないが、了承して頂きたい。

 片手の音
 プロセス始動
 9月6日に起きたヒーリングはとても素晴らしいものでした。
 8月半ば頃から、なんとも言えない、虚脱感が私に付きまとっていました。人生のすべてがつまらないと言う声が、どこからか聞こえて来るのです。
 その頃、丁度、私は9月に起こるであろう完成のプロセスに、フォーカスしていました。ある情報では9月9日に、大地震がくるなどと言う噂もささやかれていました。私は直観的に、確かに9月には、たくさんの人が、意識の変化を体験すると感じていました。それが私の言葉で言えば「完成のプロセス」です。でも、それが地震と結び付くとは考えられないことでした。
 私は「インナーチャイルドヒーリング」と言う本を読みはじめていました。その中で、「愛することを他人任せにしている自分から、自分自身を愛する自分になる。」と言う内容が心を打ちました。そして、何か言い知れない悲しみのようなものがこみ上げてくるのです。私の中でプロセスが始まっていたのです。
 この本を読んでいると、ふと禅の本を読みたい衝動にかられまし

P15
た。そして、私は「片手の音を聴く」と言う公案〔禅問答〕に出会いました。昔から知っていましたが、その時私は出会ってしまったのです。
 「両手を叩けば、パンッと音が出る。これは両手音だ。では、片手の音を聴くにはどうすればよいか。」
 私は、この問いの深さをおぼろげに気づきました。これは、「自分自身を愛する」と言うことと同じなのではないだろうか。その発想は私の知性を満足はさせはしましたが、ハートには満たされないものが残りました。
 飽和状態へ
 思いっきりカタルシス〔感情を解放すること〕をしたい。私は、そう思いはじめていました。
 9月1日に、11月の一日セミナーの部屋を取ることが出来ました。自分の企画で始めて一日セミナーを行うのです。「うまくいかないのでは」と言う不安と闘いながら、セミナーの内容を考えていました。そうしていると他のセミナーに出て、何かいいアイディアを貰えないだろうかという想いが募ってきます。いまにして想えばこれも、「愛の人任せ」だったのです。
 過去世
 9月6日、今日はチャクラヒーリングのグループに参加する日です。これは、8月のはじめからコミットしていたことでした。リーダーはエリザベスと言うすてきな女性です。何かいつも懐かしさを与えてくれる人です。
 昼に時間が取れたので、瞑想することにしました。すると、過去世のビジョンが見えて来ました。私はヨーロッパ人で船の船長でした。ある時、故郷を離れ、新天地を求めて旅に出ることになりました。家族や親しい友人たちと一緒に旅発ったのです。この旅が、うまくいくことは、当然のことのように想われました。前世の私は船長として、一流の腕を持っていたのです。これまでも多くの難局を乗り越えて来た実績があったのです。しかし、その旅の途中、船は嵐で沈んでしまったのです。そして、私だけが生き残りました。私は自暴自棄の生活が待っていました。「こんな過去世なんて思い出したくもない。」瞑想の後、私はそう想いました。

p16
 グループ
 仕事をはやめに切り上げて、グループに参加する為に出かけました。「すてきな出会い」が欲しい。そんな思いでした。
 グループでは、はじめて出会った二人がペアを組んでお互いのことを話しました。但し、年齢や職業や住んでいる場所などに閲しては話さないこと。そして私のことを話す。そう言う表面的なレッテル無しに友人になるこのワークは、面白かった。そのほうがかえって親しさが湧いてくるのです。
 その中で、私は相手に、今日見た過去世の話をしました。そして、話しているうちに孤独感と悲しみと怒りが入り交じったような、最近ずっと感じていた感じが、すべてこの過去世のビジョンに集約されていることに気づいたです。ペアを組んだ女性が「孤独を全く感じない人はいないと想う。私も手から砂がこぼれ落ちていくよう空しさを何度も味わったことがある。」と言ってくれました。なんだかとても気が楽になりました。
 そしてリーダーが、「今のワークはどうでしたか」とみんなに問いかけました。私に向かって、「二人で楽しく喋れましたか」と聞いて来ました。「最初はちょっと気が重かったけど、話しているうちに楽しくなりました」「こう言うコミュニケーションが、日常の中でも出来ますか」答えた後、私はそう質問をしました。「出来ます。それをする為に今のワークをしたのです。」「私のことを話す。それだけを心がければ、うまく喋ることができます。そしてそれに対して相手がどう答えるかも、本当はみんな知っているんです。私たちの魂は、それをすべて知っているのです。」
 体験
 リーダーは話を続けています。私はそれを聴きながら自分のことを考えていました。「孤独感と言うのは、出会いの素晴らしさを感じるためにあるんだ。そして、すべての人がそれを持っている。」「過去世において、私は自ら選択して辛い人生を歩んだとするなら、それはなんの為だったのか。過去世で私が新天地を求めたのは、逃避だったのではないだろうか。その逃避に周りの人を巻き込んだだけだったのではないだろうか。そうだったなら、嵐で船が沈むことことも理解できる。故郷からの逃避、自分からの逃避、周りの人を

p17
巻き込むこと、従わせること。そんなことから発した行動が失敗するのは当然ではないか。そして、過去世で学ばなければならなかったことは、自分を愛して生きること。自分からすべてはじめることが素晴らしい出会いをもたらすと言うことを、理解することだったのではないだろうか。」
 私のからだの中を、エネルギーがかけ巡り溢れ出して行きました。ヒーリングが起こっているのです。感動だけがバイブレーションになって私の中心から湧き出て来ます。「自分の中心から来る感動のバイブレーション」、そして、それ以外のものは、すべて無くなりました。心が澄みわたり、次々と広がる波紋を眺めているようでした。そこには音はありません。無音の世界です。でもそこには音楽があるのです。そう、これが片手の音だったのです。私は片手の音に出会いました。
 グループは終わりました。リーダーのエリザベスの所へ行って、お礼を言いました。エリザベスは「それを聞くのが一番嬉しいわ。」と言ってハグしてくれました。
 祈り
 この体験が、真の正解なのかどうかは解りません。それは、どうでもいいことなのかも知れません。私の体験に惑わされることなく、自分の片手の音を聴いて下さい。その為のサポートは私のライフワークです。素晴らしい出会いが、皆さんにあることを心から祈っています。

 終わりに
 体験の回復こそが、真のヒーリングではないだろうか。体験の回復こそが真の運動ではないだろうか。私はそう皆さんに問いかけたい。
 スローガンは「飛べ、飛べ、視覚障害者」

p18
 「『森』は、生きているか」
 (視覚障害者として、人として私は、どう表現していくか)
 森登美江
 
 私は12月半ばで45歳になります。全くのひとり暮らしを始めてから5年が過ぎました。学校卒業後2年間は整形外科医院に就職して、職場が借りたアパートに寝起きし、3食・風呂付き待遇で働いていました。その後、結婚してからの15年間は4人の子供達との付き合いと、家事と少しばかりのマッサージアルバイトで過ごしてきました。様々な事情から友達付き合いもなく近所でも取り立てて親しい友人も出来ないままでした。
 家族と分かれて、私が歩んできた5年間を振り返る中で、これからの私を見付けてみたいと思います。このような、私的な事をこの誌面で展開する事が許されるかどうか分かりませんが、視労協と出会った一人の人間の表現として、受けとめていただけたらと思っています。
 
 家を飛び出した瞬間に私は当然の事ながら、収入が無いという最も基本的な生活危機を体験する事となりました。3男と4男を連れて出たのですが、残してきた子供達のために通帳を持ってきませんでした。現金1万円少々が財布に入っていたと記憶しています。知り合いの家に10日ほど居候した後、西多摩郡五日市町の母子寮に緊急措置されました。空気のいい山の上で生活必需品ほとんど全てが揃った1室に落ち着いて、ほっと一息着きました。緊急措置児は本来ならば対象にならないそうなのですが、二人の子供達は必死に寮の仲間の中へ飛び込んで行きました。みんなからも歓迎されて楽しい時間を積極的に作りだしていったようです。時期が夏休み中であった事も幸いだったのでしょう。寮長も、
 学童や学齢前の保育室の保母さんたちもそんな二人を排除する事は出来なかったようです。
 支給される生活費、1日一人当たり1200円プラス消費税。衣類以外はほとんど揃っています。私はそこで初めてテレビの副音声を知りました。炊

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事、洗濯、掃除、山を下りた所にあるスーパーへの買い物などそして、日々の記録。否応なしに1日1度は山を登り下りするという健康的な生活でした。他の緊急の仲間とも親しくなり、お互いにはげましあったり悩みを打ち明けあったりしました。小さな3人の子供をしっかり抱いて緊急の部屋に入ってきたある女性は「寮長から医療費が掛かりすぎるといわれてこまっちゃったわ」と涙ぐんでいました。その人はいつのまにか寮を出て、他の人から聞いたところ、結局泣く泣くもどったようでした。今ごろどうしているだろうかと、ふと思い出したりします。私も寮長から「なるべく早く落ち着き先を捜すように」とか「子供達の事を考えるのならばあんたが我慢して帰るのもいい方法だよ」などそれなりの「指導」をときおり受けながら2箇月ほど寮で暮らしました。その間、2年生だった3男は学校の事もあって話し合いの末、上の二人の兄の所へ帰って行きました。当時5歳だった4男も1年生の2学期の終りに兄弟の所に帰る事となって、以後私は子供達と会う事も許されない厳しいひとり暮らしへと入って行くのです。
 その2箇月の間に今まで住んでいた地域での家捜しをしました。親が障害者で子供は小さいとあってはごぞんじのように皆無に等しい状況でした。現在住んでいるこのアパートに福祉のケースワーカーが保証人になってくれて入居する事が出来ました。6畳一部屋と台所、風呂、ぱっちり南向き。10月半ばに引っ越しました。寮に行った時もここに越してきた時も、福祉の車を出してもらったのでとても助かりました。

 89年11月に渋谷のマッサージユニオンに就職しました。勤務時間も子供の保育所の事があるので、午前10時から午後5時までという条件で受け入れてもらいました。1年半そこで働きました。その間、離婚調停やら子供と分かれる問題やら精神的に不安定な状況が続きました。
 1年半で仕事をやめる事になった時も正直、衝動的で身勝手な、むちゃなやめ方だった事は認めます。そのために、いまだに、視労協のある会員から「あなたは、裏切り者なのだからユニオンについては何もいう資格はありません」といわれます。ただ私は、私の責任をはっきりと認めたうえで、なぜやめなければならなかったかについて、それにかかわった人の責任あるいは、

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生きかたにも原因の一端があった事もここに書き添えさせていただきます。事実については当時私は関係者の立場を考えて明らかにしなかったので、今になってほじくりかえそうとしているのでは、ありません。私がこれまで仲間との間で感じたり、経験した問題点を「相手の立場を考えて」という理由で明らかにしてこなかった事はまちがっていたのではないかと思っているのです。確かに相手の立場を考えると、いえなくなってしまったのも事実です。それと同時に私自身が傷つく事が怖かったのかもしれません。仲間であるからこそ、しっかりと確認するべきなのでしょう。
 確かにやめるにしても別なやめ方があったと、後から考えればいくらでもいえるのです。めちゃめちゃ酔っぱらって、理事のみなさんに迷惑をかけ、その次の日から予約をすっぽかして行かなくなってしまったのですから。でもそれが、私のあの時のせいいっぱいの抵抗というか表現だったと思います。40代ともなれば分別も常識も備わって、こんなふうにいってしまう私が未熟なのでしょうか。
 さて、何はともあれユニオンをやめた私はまたもや現実的にも不安定な生活になってしまいました。友人が電話帳から周辺の医院や病院の番号を拾って点字で一覧表を作ってくれました。私はそれを頼りに電話作戦を開始しました。そして、2週間後、現在も勤務している救急指定の個人病院にマッサージ師として就職する事が出来ました。

 三療は私にとって好きな仕事なので、患者たちとのつながりは、けっこうなんとかなっていると思っています。仕事の内容そのものではないところの職場での人間関係の問題がいまだ解決されていません。ある意味ではそれも私自身がはっきりと示してこなかった事も原因の一つだと思います。都合のいいように気持ちをすりかえてひらきなおって、ほんとうの解決ではないと心の中で思いながら、今はけっこう気楽に拘束時間をやり過ごしています。
 最初の2年間は、ぴりぴりしどうしで疲れはてていました。いつだつたか機関誌に職場でのイベントは全て欠席するという事情を書いた事がありました。それはそのまま、今も同じです。不景気とそれからこのところ、監査による厳しいチェックと基準看護への移行など、人材や資金面での苦労が重な

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つたためか、私達にとっては幸か不幸か年に2度だった食事会が1度に、それも、あるかないかという状況になっています。また、1年間の積み立てを強引に返されてその後の積み立てを拒否されている職員旅行の件。理事長は「障害者の私達が参加する事は他の職員に負担をかける事になり、平等ではない」という理由で拒否しています。80半ばの彼女とそれから、のらりくらりの事務長となかなか話し合うきっかけもつかめないまま、いいかえれば積極的な働きかけもせずに今にいたっています。そして、もう1歩踏み込んでいけない原因の一つに、晴眼マッサージ職員のAさんが飛行機が嫌いで海外など行きたくないという理由から1年おきの順番がきても行かない事、そして、同じく晴眼マッサージ職員のBさんも長年の付き合いであるAさんに遠慮して参加をあきらめているようなのです。つまり、マッサージ室はだれも職員旅行に行かないのです。私達以前に勤めていたマッサージ師たちはもちろん交替で参加していました。月に2度ほどマッサージ室にやってきて、Aさんに1時間半から2時間近くもマッサージをさせる理事長は、旅行日が近付くとこっそり誘っているようですが…。
 それから、マッサージ室の職員以外とはほとんど会話も交わさないし挨拶も返ってきたり、こなかったりは変わりません。そして、私達視覚障害者職員二人の頭越しに目配せや会話が交わされ、無視されつづけているのも同じです。そうはなりたくないと思いつつも、給料日やボーナスを目的に、公休日や日曜・祭日を楽しみになんとか拘束時間を我慢するといった精神的な技術が、日1日とこの身にこびりついてくるのが分かります。これもどこかでふっきりたいけれど、精神力も体力も数年前とは違っているなという実感も正直あります。
 
 日頃ストレスにつながりやすい事としてアパートの家主との問題も抱えています。越してきた当初は仕事がなかったのでよくお茶飲みに行ったし、なにか煮物など作った時に持って行ったりしていました。「よけいな事はしゃべらないし自分で働いて生活しているから偉い」と彼女の価値観からの評価を得ていました。
 ちょっとしたトラブルの発端は3〜4年前、5月分の家賃が2〜3日遅れ

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た事でした。当時、同じ棟の一番端の部屋に住んでいた家主が同じ敷地内の少し離れた所に住居を新築したのです。家の向きの関係で玄関からいってもだれも出てきません。いつも出入りする所は植木鉢やら様々置いてあって、硝子戸を探り当てるのが大変なのです。4月の終りに家賃を持って行ったのですが、あいにくの雨で庭はぐちゃぐちゃ、どうしても見つからずに尋ねる人もいないまま帰ってきました。その後、何度か挑戦して結局前家賃の約束が遅れた訳です。「そんなに大変ならもっと安い所を捜すように」といわれてしまいました。その事はそれで済んだのですが、同じ年にさらに大きな食い遠いが生じてしまったのです。
 私の地域では民間アパートなどの家賃の半額補助の制度が数年前から実施されています。3箇月に1度領収書を提示して支給されます。契約更新の際にはその新しい契約書の提示が必要となります。ところが、このアパートの場合入居の時以来契約書は作成されません。昔ながらの通い帳を渡されるだけです。正式な契約書でなくてもいいから証明をもらってくるようにいわれて初めてその事を頼みに行きました。すると、「私に無断で役所に補助を頼むとはなにごとだ」とご立腹です。「ここには生活保護の人がたくさんいる。そんなに困っているのなら担当のケースワーカーに会うように」といって話を聞いてくれません。結局そのワーカーに助成制度の説明をしてもらって、表面上は落ち着いたかに見えました。しかし、次に家賃を持って行ったとき、「ワーカーから聞いたが、あなたは高給取りだそうだから役所の援助を受けるのはやめて欲しい。こちらにも都合があるしこの先ごちゃごちゃするようなら出てもらいたい」という話でした。税金対策などで大変なのでしょう。とにかく役所の担当者との話で「家主を刺激しないで書類の処理が出来るよううにしてみましょう」という事になっています。この秋、3回目の契約更新をしました。年明け早々頭の痛い事になりそうです。

 仕事や生活の中で様々な思いをしながら、一人になって直ぐ出会った視労協での活動は私にとって大きなものでした。その視労協が20周年をむかえ、そして、新しく生まれ変わるといった画期的な変化でもない限り、かなり深刻な危機に追い込まれています。

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様々な形でよりよい「まちづくり」が研究されています。視覚障害者も独自の要求を話し合うようになってきました。個々の個性はどの障害においてもいえる事ですが、特に私達は一致して具体的に示せる要求がまとめにくいという気がします。点字ブロックも実は「うっとうしい」と思っている人もいるでしょう。点字表示など「読んでいる暇にどうにかなるさ」という声もあります。はっきりいえば、視労協の事務局の中でも、「役所の書類など点字で欲しい」と思っている人間がどれだけいるかという事です。たとえば、家族
に読んでもらえるならわざわざ、そんなうっとうしい作業はいらないと思うでしょう。1度読んだら捨てるようなものまで、点字化しなくてもよいと思うかもしれません。点字は確かにかさばって困ります。でも、世の中の情報を一つでも多く知っておきたいのも事実です。情報を得るのならば、テープでも、パソコン通信でもそれから、テレホンサービスもあります。そこに、点字による情報収集も選べるべきだと思うのです。自分の立場や状況と同時に他の人の立場や状況をも自分の事として運動を組み立てていけるのかどうかを視労協の中でしっかり確認出来なければ、なにも生まれないのではないでしょうか。実働メンバーの少ないところでは、提起した人間が全面的にその活動を背負わなければなりません。だから、みんななにもいわないのか、それとも、特に考えていないからなのか。飲み仲間が欲しいとか、みんなでわいわい騒ぎたいとかそういう事を積み重ねて行きながら、大事なものを発見したり作りだして行くというありかたも一つの形だと思います。
 私は視労協に入ってから、点字製版機を練習してローラーを回して、みんなに情報を提供する作業に携わっていた時期がありました。そんな経験の中から音声ワープロを自宅に置いて、今、ようやく活字文をプリントするところまでにたどりつきました。活字文を1度も見た事のない私ですから、いわゆるレイアウトのイメージが作れません。知らない文字を音声機器を頼りに書いていって、何時間後かに1枚の活字文をプリントしおわった時の感動と複雑な心境はなんともいえません。校正してもらってうっかりミスの多い時などがっかりですが、けっこう楽しんでもいるようです。
 そして、私はみんなの声を集めて生活雑誌を作りたいと思っています。私に出来るのはそういう形での運動、世の中や仲間への働きかけのような気が

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します。文章を書いたり製版や印刷の作業をしたりするのが楽しいし、表現出来そうな気がするのです。

 今まで視労協メンバーには酔っぱらってずいぶん迷惑を掛けています。反省して「これからはそのような事がないようにします」といえればいいのですが、無理な事は迷惑を掛けられたメンバーがよく知っています。「ひらきなおるな」と叱られそうですが…。
 それからカラオケ。私は1.3〜4歳のころに、角膜移植後の拒絶反応を抑える新薬の注射を1箇月間ぐらい受けてから、声が出にくくなりました。小学校3・4年生のころには音楽クラブにいて歌も大好きでしたが、新薬を使った時から喉の痛みがあり、声も出にくくそれ以来喉は弱いままです。そんな私が40過ぎて人の前で歌が歌えるなんて、上手へたはともかく感動的です。ただし、飲まないと歌えません。だから、お酒とカラオケは私にとっては常に「セットもの」なのです。
 私のもう一つの目標。人前で思った事がとりあえず「いえる」ようになる事。「いまさら」かもしれませんが、私なりの表現を追求して行くためには絶対に必要な事なのです。
 
 私が無視する訳には行かない4人の人達の生き様があります。長男と次男が決定的に決裂して、弟二人が振り回されているようです。子供との同居を消極的にではあるけれど考えて、都営住宅の申込みをしました。今回は外れましたが、これからどうして行くかじつくり考えなければなりません。年明けの2月には3男の高校受験が控えています。長男の就職の問題もあります。
 私の力ではこの誌面に羅列した事柄にどれだけ表現して行けるのか分かりません。どれも大事なので、しっかりとかかわって行きたいと思っています。
 年が明ければ直ぐに視労協の交流大会が待っています。活気のある楽しい企画を組んで、にぎやかにしたいものです。人との出会いはけっこう心をげんきにしてくれるものです。人との付き合いのへたな私ですが、人の中にいる暖かさが大好きです。結局結論はそういう所に落ち着いたようです。
 それでは、また。

裏表紙の裏
 JBジョイフル・ビギンNo.5
 障害者発の情報誌
 ●定価/1,000円(送料込1,100円)
 A5判
 障害をもつ人も、もたない人も共に生きる社会をめざした情報を発信していきます。5号は障害者の権利をテーマに最新情報を掲載しました。青森県内潟療護園のオンブズマン制度を特別ルポ、海外の情報も取り入れたニューフェイス「JB」です。
 会員となっていっしょに動きをつくって下さい。

 特集/人権
 ●オンブズマン制度ってなんだろう
 特別ルポ= 青森県内潟療護園のオンブズマン制度
 ■らい予防法撤廃へ/どうなる優生保護法
 副島洋明/松本信/堤愛子
 ●交通アクセス権
 丸山武/大須賀郁夫/池田直樹
 ●障害者の政治参加
 障害者関係議員全国マップ
 樋口恵子/東俊裕/川内美彦/レーシェル・ハースト
 ●シリーズ(国際情報ほか)・制度政策・情報ホットライン
 
 発売
 現代書館
 障害者総合情報ネットワークの略称はBEGINです
 ■A会員 会費:年3万円
 @月刊「BEGIN」をお送りします。
 A季刊「ジョイフルビギン』をお送りします。
 Bご希望の資料のコピーサービスを年間500校まで無料提供。
 Cブックレットや速報紙を送りします。
 Dネットワークの活動への優先参加。
 ■B会員 会費:年1万円
 @ACを提供します。Bは有料で提供。
 ■賛助会員(団体) 会費:1口年1万円
 B会員に準じます。
 ■購読会員 会費:年6千円
 季刊「ジョイフルビギン」とブックレットをお送りします。
 ◆既刊◆
 ●1号/まちづくり
 ●2号/自分でつくる自分の生活
 ●3号/はたらく
 ●4号/緊急特集=障害者と「阪神淡路大震災」
 *詳細は事務局までお問い合わせ下さい。
 障害者総合情報ネットワーク
 Basic Essential & Genuine Information network
 東京都新宿区山吹町354トライポート101
 〒162 電話03-5228-6916/電話・FAX03-5228-3484

 ―編集後記―
 12月9日、東京・総評会館において「第1回障害者政策研究全国集会」が開催された。主催者側の予想を大きく上回る400人以上の参加で、熱気あふれる集会となった。今回の成功をバネに「当事者による政策提起」を一層強めていきたいものだ。/ようやく「障害者プラン」が示された。数値目標を盛り込むなど評価できるものもあるが、問題点もありそうだ。各地からの検証・意思表示が重要だ。/震災から1年が経とうとしている。被災地の仲間と共に、1996年を実りある年にしよう。(奥)

裏表紙(奥付)
 1995年12月15日
 定価200円
 編集人 視覚障害者労働問題協議会
 〒239横須賀市長沢115グリーンハイツ2-7-405
 奥山幸博気付
 発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6〜26〜21
 視覚障害者労働問題協議会
 


■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
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