HOME > BOOK > 雑誌 > 『障害の地平』 >

『障害の地平』No.82

視覚障害者労働問題協議会 編 19950228 SSK通巻第509号;身体障害者定期刊行物協会,24p.

Tweet
last update: 20210528



視覚障害者労働問題協議会 編 19950228 『障害の地平』第82号,SSK通巻第509号;身体障害者定期刊行物協会,24p. ds. v01

■全文

表紙
 SSK増刊―障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のために―
 子宮から墓場までノーマライゼーション!

 ―視労協―
 障害の地平 No.82
 20年目に問う、差別・人権・自立
 視覚障害者労働問題協議会

 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 一九九五年二月二八日発行SSK通巻増刊五〇九号

目次
 障害者救援のカンパのお願い 視労協事務局…1
 視労協的気分 同情ということ 佐藤光子…2
 視労協交通アンケート報告……5
 飛べ、飛べ、視覚障害者(その3) 加藤けんじ…11
 精神保健法「改正」にみる障害者の概念 梅林和夫…15
 盲人教師を盲学校に 佐藤光子…17
 ジョイフル・ビギンNo2発行…24
 第11回視労協交流大会に参加しよう

 編集後記

p1
 阪神大震災被災障害者 救援カンパのお願い
 視労協事務局

 人の力ではどうすることもできない、すさまじいまでの自然のエネルギーと、「無防備都市」とも言える「まち」の構造によって、多大な犠牲と破壊がもたらされました。
 もともと、健常者中心に出来上がっているこの社会の中で、今回の震災が障害者の放置と隔離、差別の拡大につながらないよう、監視と発言と行動が求められています。
 一人ひとりの生活の基盤を確実なものにするとともに作業所や自立生活センターなどの設備と機能を復活させなければなりません。
 1月26日、総評会館においてDPl(障害者インターナショナル)日本会議、全国自立生活センター協議会(JIL)、障害者総合情報ネットワークを中心とした障害者と関係者が多数出席し、「阪神大震災被災障害者支援実行委員会」を結成しました。当面、DPIを窓口にカンパ集め・介護者スタッフのリスト作り、政府、自治体への要求行動などを行っていく事になりました。視労協も微力ながらこの実行委員会に加わり、「障害者による障害者救援」活動に取り組みたいと思います。読者の皆さんも職場地域でそれぞれカンパなど行っていると思いますが、「障害者の自立と社会参加」のため一層の御協力をお願いします。
 尚、このカンパはDPlで集約した後、全障連を中心に活動している大阪の「障害者救援対策本部」に送ります。そして「障害者問題を考える兵庫県連絡会」(障問連)を中心にした障害者グループに届けます。

 □カンパの送り先
 ○郵便振替 00110‐2‐47127 DPI日本会議
 ○銀行振込 第一勧業銀行神田支店 普通 1745708 DPI日本会議
 ※通信欄に必ず「救援カンパ」と書いて下さい。

p2
 視労協的気分 同情ということ
 佐藤光子

 「同情するなら金をくれ」という言葉がはやっていたが、視労協の立場で言うとすれば「同情するなら仕事をくれ」ということになるのだろうか。国連・障害者の十年が終わって、ノーマライゼーションを唱える政党の党首が総理大臣になっても、日本では障害者の社会参加が平等に実現されたとはまだ言えない状況だ。運良く仕事にありついても給料が低かったり、職場で居づらい思いをさせられたり、不況時には真っ先に首切の対象にされたり、災害救助は後回しにされたりする。
 障害者の社会参加が拒まれる理由として(障害児の統合教育や盲学校の卒業生の就職に関しては)はだいたい二つある。
 ひとつは能力主義。「仕事ができない」、「能率が悪い」というもの。たとえば見える人が目を使ってこなしていた仕事を、目の見えない人が同じようにやろうとしてもそのまま同じには出来ない。設備・制度の改善と当事者達の工夫・努力・闘いが必要だろう。経済効率のために人の権利や命が犠牲にされるような社会では、社会思想の変革や抜本的な法律・行政・制度改革が無いと解決はなかなか難しい。
 もうひとつは・いわゆる「お為ごかし」の差別。統合教育を望む障害児の親に対して、「健常児と同じ学校に入れたのではその子がかわいそうですよ」という教育行政関係者。そう思うならかわいそうでないよう配慮すれば良いではないか。行きたくもない遠くの学校に行かせられて近所の友達とも遊べなくさせられることはかわいそうだとは思わないのか。障害児者から、地域生活や選択の機会を奪ってしまうことはかわいそうではないのだろうか。
 今から20年近く前のことになるが、前任校にいた時に近くの学校へ音楽交流を申し入れたことがある。相手校の教員は盲学校のことも聞かずに言ったものだ。「うちの学校の生徒は良くできますから、おたくの生徒さんが劣等感を持ったらかわいそうですよ」と。その学校は地域のエリート校だった。他の学校の生徒はすべてできが悪いものと決めてかっているかのようだった。盲学校にも、できる生徒やできない生徒がいる。盲学校にいる生徒でも、通学途上での経験などから劣等感を感じる人は感じるだろう。劣等感を持たせ

p3
たくないのなら劣等感を感じさせないように配慮してくれれば良いのだとは思ったが、当時はまだ障害者の社会参加希望を「わがまま」と評する時代だった。この話は私白身の転勤のためそのままに終わったのだが、その時の相手校教員の、人を馬鹿にしたような態度を思い出すと今だに腹が立つ。(エリート校の教師とは一体何様?)
 このことを思い出したのは・実は盲学校の教員が同じようなことを言ったと聞いたからである。盲学校の教員採用に当たって、卒業生が応募で落ちたらその人の「力がない」ことがわかってかわいそうだからと、非常勤で来ている卒業生や他の障害者にも募集を知らせずにおこうとしたそうだ。障害者を採用する気がなかったと言うことだろう。教員希望を持ちながらチャンスも与えられずに無視された障害者たちはかわいそうではないのだろうか?このような言葉を今頃になってまた身近に聞こうとは思っても見なかった。
 評価というものは、科目によっては評価する人の思想や感情に影響される。評価の基準や方法も結果に関係する。たとえばアイマスクをして実技テストを実施してみれば結果はどうなるのか?入学試験にしても採用試験にしても、その結果は受験した時点での技術なり知識なりの成績であって、受験者の人間としての究極的な評価ではないはずだ。駄目だったらその部分をがんばるかあきらめるかすればいいのではないか。落ちたことだけで特別その人の力がないという証明にはならないだろう。そのことを劣等感として感じさせ憐れむことのどこに教育があるのだろうか?
 障害は本人の罪でも何でもないのだから、目が見えないことのせいで「できない」ということが劣等感につながっているのであれば盲学校の教育の在り方を、ひいては日本の教育思想そのものを考え直さねばならないのではないか?障害者に社会参加の権利を認めるということの中には障害からくるハンディを社会の責任で補うということも当然含まれるはずだ。
 また権利には義務が伴うし、自由には危険がつきものだ。人間社会では良いこともあれば傷つくこともある。盲学校の教員が本気で視覚障害者の社会参加をすすめようとするならば、生徒や卒業生の「できない」ことに同情するのではなく、劣等感を招くような社会通念の不合理さを認識し変えていくこと、情報不足と経験不足を量的質的に補うこと、自尊心を持たせること、劣等感をプラスのエネルギーに換えていくことなどのための思想と方法を教えるべきではないのだろうか。そして、可能な限りハンディを補う制度、悪平等にはならない条件を整えるべきではないか。闘うチャンスすら与えられ

p4
ないことの方が闘って負けるよりも優つかないことだなどと、勝手に判断すべきではないだろう。人生をどう考えてどう生きるかを本人が選択できなくてどうして人間としての権利が保障されたと言えるのか。
 卒業生や同僚たちと話していてふと思うことがある。私を含めた目の見える教師たちがもしも全盲であったとしたら教師になれただろうか?子どもの頃から重度の視覚障害持っていたとしたら付属盲に入れてもらえただろうか?大学まで行けただろうか?まともな収入を得られる職に就けただろうか?などなど。
 視覚障害者の一人として言えば、たまたま目が見えるというだけの人に同情されても慰めにすらならない。それよりも職業選択の自由がほしい。
 (校正者注:挿絵省略)

p5
 視労協交通アンケート、報告
 ●解答数30名(40代13名、20代7名、30代4名、50代3名、60代3名)
 ●日頃利用している駅などについて知っている範囲で答えてもらった。
 ●以下、数字の単位は「人」

 鉄道
 点字表示
 [券売機] 運賃ボタン「あり」28、「介護者または、他の利用者に買ってもらう」2
 呼び出し、取り消しボタン「あり」23、「分からない」5
 大人・子供切り換えボタン「あり」4
 きっぷ枚数ボタン「あり」1(関西地区JR)
 会社線乗換えきっぷボタン「あり」1(東京JR)
 カード専用、回数券「あり」1(神奈川JR、当事者運動により)
 東京フリーきっぷ、グリーン券、主要駅往復きっぷボタン「あり」1(JR東海道線、当事者運動によるもの)
 入場券「あり」2(東京京王線西武線)
 京都市営地下鉄、表示全くなし。
[階段・てすり]「あり」15、「なし」5、「慣れているので利用していない」12
[運賃表と時刻表]運賃表「あり」13、「なし」9、「分からない」4
 時刻表は、ほとんど知られていない。
「点訳ボランティアに依頼し個人的に持っている」2
 運賃表、時刻表について「あれば利用する、あれば便利」28(但し、決まった位置に設置する事が条件。また、在れば便利だが聞いた方が早い)
「めんどうだから利用しない」2
[点字表示に対する意見、感想]
 (ア)はがれかけていたり、逆さまだったりする。
 (イ)はがれかけた表示板で怪我をしかけた事がある。

p6
 (ウ)地元視障者団体や点訳ボランティアといっしょに、駅と交渉し改善されつつあるが、近郊連絡券売機は使えず、音声案内などが必要。
 (工)券売機の表示位置の統一。
 (オ)必要な情報を漏れなく的確に。
 (カ)利用者不在の表示たとえば、島式ホームのてすりの片側のみの表示、「投入口」と書いてあって運賃表示がないなど。
 (キ)券売機の全てのボタンに表示を。
 (ク)ブロックにそっていった所の券売機に点字表示がされていない。
 (ケ)精算機の追加料金の音声案内を。
 (コ)行政か駅かの責任を明らかにした上で、駅舎に入る階段・てすりに点字表示を。
 (サ)階段とエスカレーターが並んでいるばあいの安全な誘導方法を。
 (シ)利用者が多いばあい階段・てすりの表示確認が困難。
 (ス)表示点検センターの設置。
 (セ)表示の仕方と内容の全国統一とともに地域や場所に応じた配慮とが同時に行なわれるべき。
 (ソ)点字の市民権という点からいえば意味はあるが、必要性は感じない。
 (タ)あれば便利だと思うが利用する気はない。
 (チ)てすり表示不要、窓口復活。
 点字ブロック
 [誘導(線)ブロック]「あり」27、「なし」2、「特に気にしていない」1(介護者といっしょのため)
 [位置(点)ブロック]「あり」29
 [ホームからの転落やその他の事故]「線路への転落」12、「転落寸前、柱および階段裏での衝突や怪我など」12、「直接経験していないが常に危険は感じている」6
 [ブロックに対する意見、感想]
 (ア)雨のとき滑りやすいものがある。
 (イ)線路側を確認できる材質や形の工夫と統一。
 (ウ)床面や滑り止めなどとはっきり区別できる材質のものを使用する。

p7
 (エ)色、形、材質に統一した意味を持たせる。
 (オ)ホーム中央にも必要。
 (カ)黄色に統一を。
 (キ)階段の上、下のブロックのはばをもっと広く。
 (ク)歩く速さや足の裏の感覚などの観点から、形には細かくこだわらなくても良いのでは。
 (ケ)当事者側でじっくり話し合い、種類や敷設方法などを具体的に駅や行政に提起して行く。
 各アナウンス
 [構内アナウンス]「テープによる案内で情報も的確で分かりやすい」24、「テープだが情報が不正確」4、「係員によるもので分かりやすい」1、
 [車内アナウンス]「テープ案内で聞取りやすい」9、「テープだが音量が小さすぎたり、不明瞭だったりする」5、「乗務員によるもので分かりやすい」10、「乗務員の気分しだい」11(特にJR)、「日中全くなし」1
 [アナウンスに関する意見、感想]
 (ア)同じ会社で駅によってあったりなかったりする。(乗降客が多い少ないに関係があるのか?)
 (イ)テープだがエンジン音が大きくて聞取りにくい事がある。
 (ウ)深夜聞取りにくかったり打ち切られたりする。
 (エ)事故その他の緊急アナウンスはスピーディー且つ正確に。
 (オ)東京の東武東上線の構内アナウンスは全くされていない。
 (カ)テープ案内のさい音声統一を。たとえば、登りは男声、下りは女声など。
 (キ)都市部首都圏に行くと車内アナウンスが少なくて困る。
 (ク)騒音公害というが、音声アナウンスは我々にとって欠くべからざる情報源。
 (ケ)特にJRが分かりにくい。
 (コ)必要最少限度の的確な情報を。
 その他

p8
 [誘導チャイム]「あり」15(階段や有人改札、運賃表など知らせるもの。京都市営地下鉄と京阪は構内点字案内板と出入口に)、「なし」13。
 [エスカレーター]「あり」23、「なし」7
 [エレベーター]「あり」6(大手私鉄、地下鉄で徐々に。JR新幹線に極一部)、「なし」23(内、「分からない」1「知らないだけかも」1)
 バス
 行き先と停留所の確認
 [複数の路線バスが停車するばあい]「テープか乗務員の案内を待つ」6、「乗務員か周囲の利用者に尋ねる」9、「利用者に尋ねる」4、「感に頼る」1、「その他」1(ターミナル駅)
 [停留所の位置]「位置ブロックあり」6、「停留所案内板を捜す」3、「人に尋ねる」9、「その他」6
 京都市営バスの新しい地下ターミナルはホームドア方式を採用(位置ブロックと案内板がドアのすぐ手前にあるが、ラッシュ時などそこまで行きつけないし、後ろの方ではアナウンスも聞こえない。
 [車内アナウンス]「テープ」17、「テープと乗務員」5
 都営バスの一部でテストケースとして、二つ先の停留所名を含めたアナウンスが試みられた。それほど検討もされないまま中止になってしまった。
 交通機関の利用に当たって
 [単独利用と介護についって]
 (ア)自宅に専業主婦がいるとヘルパー制度が利用できない。
 (イ)ガイドヘルパー制度の簡素化。急な外出への対応。
 (ウ)「正確な情報が確保され、体調や事情に応じて手引きも可能という保障の基に単独歩行を望む」という解答が多数よせられた。
 (エ)整備にかかわらず歩かざるをえない。
 (オ)なんとか単独で行動しているがもっと整備されれば良い。
 (カ)慣れるまで家族の手を借りる。
 (キ)正確な情報と安全性に加えて、駅係員や乗務員をはじめ周囲の人達との人間どうしとしての触れ合いも忘れたくない。
 [各交通機関への要望]

p9
 (ア)大きな駅の略図が欲しい。
 (イ)ホームからの転落が最も怖い(転落6回ほど、階段裏で頭をぶつける事数回)
 (ウ)全席シルバーシートあるいは、逆でも良いが一部だけというのは感心しない。
 (エ)電車から下りたときそのホームの階段の位置を誘導チャイムなどで知らせて欲しい。
 (オ)前の方に並んでいても座席確保は難しい。車内で空席があると思っても捜すのが困難。指定席も人に尋ねなければ見付けられない。
 (カ)乗り降りのさいの援助や車内アナウンスがはっきり分かれば単独利用も可能だが、現状では不安で人に頼らざるをえない。
 (キ)点字本はかさばるので込むと困るため早く家を出るようにしている。
 (ク)バスのばあいしっかりと行き先案内を。
 (ケ)タクシーは空車のばあい、視障者が捜しているようだったら回数を決めてクラクションを鳴らすなど合図を工夫する。
 (コ)新幹線は音がうるさいので、かならず、改札から係員を付けて安全を保障する。
 (サ)バス、電車、タクシー、船、飛行機どれにおいても点字や音声で、晴眼者に提供される情報を我々にも正確且つ的確に提供する事。障害者故の乗車拒否や乗務員や駅員の不親切な対応を無くす為の研修を。
 (シ)JRに比べ他の私鉄は人的サービスが悪いと思う。どんなに機械が発達しても最後は人です。
 (ス)ブロックの上にはなるべく立たない、右「左」側通行を守るなど駅利用者がマナーを守れば、かなりの危険は避けられると思う。設備の問題もさることながら交通機関の側の利用者への働きかけも考えて欲しい。
 (セ)土地の有効利用を理由に、利用者の利便性を全く無視した地下バスターミナルが作られている。
 (ソ)車椅子使用者がもっと自由に安全に公共交通機関が利用できるようになればいいと思う。
 (タ)車内放送では駅名だけでなく乗換え階段や各方面の出口の案内など

p10
 (ア)放置自転車の撤去、駐輪場整備。
 (イ)排除締め出しだけではない別の視点からの模索が必要。
 (ウ)止まっている自転車を確認できる方法を考えるのも、白杖の損害を防ぐ為に必要である。
 (エ)よけると車道に出てしまうという危険な状況。
 (オ)バスターミナル整備や地下鉄建設のさい駐輪場設置は前提とされていない。(京都市の対応、交渉結果より)
 (カ)条令が制定され駅周辺は歩きやすくなった。(新潟市)
 (キ)条令で禁止区域を定めてもあとを絶たない。啓発ちらしを放置自転車に。
 (ク)行政のしっかりした対応、罰金制度の強化。
 (ケ)高齢者事業団などで管理者を置けないか。
 [歩道と車道および路地との段差について]
 「ブロックが統一され正しい情報が得られるならスロープでも良い」8、
 「2・3cmの段差は必要」13
 「2・3cmの段差も車椅子には危険で体に与える震動も大きい」1
 
 今回のアンケートは内容が不十分で解答しにくいものとなってしまいました。もう1度見直すとともに今回得られた貴重な資料をさらに細かく検討して取り組みを進めていく必要があると思います。読者のみなさんからのご意見や情報をお待ちしています。
 最後にご協力くださったみなさんありがとうございました。また、解答とともに事務局へのメッセージをお書き添えくださった方々に重ねてお礼申し上げます。

p11
 飛べ、飛べ、視覚障害者(その3)
 加藤けんじ

 〈はじめに〉
 前回の最後に気付きのワークショップについて、少し触れたが、今回は、まずはじめにミューズカンパニーという団体のワークショップチラシを紹介しよう。この団体は「視覚を越えた造形」というテーマのワークショップを提供している。
 「とかく私たちは美術というと目の見える人たちだけのものだと考えがちですが、ここでは視覚障害を持つ人も持たない人も、視覚に頼らず粘土で作品を創作していくプロセスの中で、より深い自分自身の表現を探っていきます。(晴眼者は、アイマスクを使用します)。
 視覚障害のある人たちに対しては、より開かれた創造活動の場とプログラムが必要であると同時に、視覚に頼り過ぎるあまり、他の感覚までもが、視覚による疑似錯覚にとらわれがちな晴眼者の為にも従来の枠を越えた創作活動の場を提供したいと考えます。」(一部省略)
 ミューズカンパニーの主張は、大体に於て私の主張と一致する。しかし、少し気になったことがある。それは、視覚障害者こそが視覚にとらわれてしまっているのではないだろうかということだ。今回は「視覚障害者の視覚依存」について探ってみたい。

 〈視覚障害者の定義〉
 まず、視覚障害者とは、なんぞや。と問い直してみよう。
 「視覚障害者とは、視覚に障害のある者という意味である。」(第一定義)一般的にはこうした意味で視覚障害者は理解されているのではないだろうか。しかし、この定義には、視覚障害者がもたらす社会的ハンディキャップが表現されていないように思える。社会的なハンディキャップに注目して定義してみるなら、こうなる。
 「視覚障害者とは、視覚によって障害を被った者という意味である。」

p12
 (第二定義)視覚によって障害を被るとは、少々表現が妙かもしれない。視覚重視の社会によって障害を被るという意味に取って欲しい。さて、では視覚重視の社会とは、どういうものか。私はこれを視覚依存社会と呼ぶことにする。

 〈「見ること」と「感じること」〉
 「視覚障害者教師は板書が出来ないから教師として失格である。」などという事がまかり通る社会があるのなら、それは、視覚依存社会としかいいようがない。
 子供の頃から私たちは「よく見なさい。」とか「ちゃんと聴きなさい。」としつけられている。「よく見なさい。」は視覚依存的教育であり、「ちゃんと聴きなさい」は聴覚依存的教育である。そして問題は、もう一つの大切な教育が排除されていることにある。それは「感じること」である。「もっと感じてごらん。」という指示を、私たちはほとんど聴かずに育ったし、実際そういう会話は、タブーであるようだ。
 また「感じる」は「考える」という言葉と対比される。つまり私たちは「見て考えること」や「聴いて考えること」を教育される。感覚は思考の道具としてのみ使用される。「見て感じる」ことや「聴いて感じる」ことは、娯楽や遊びの世界に押し込められ、「考える」より下位に置かれるのだ。順位付けられ、抑圧された「感じること」の力はどこに行くのだろうか。
 ミューズカンパニーの試みは「見る、感じる。」優位の思考パターンに抑圧された「触れる、感じる。」の可能性を解放する試みと言えるだろう。

 〈潜在的視覚障害者〉
 さて第二定義だけから考えれば、晴眼者自身が、視覚依存的に生きる時、視覚によって障害を被っている者となる。晴眼者は、程度の差はあれ視覚による疑似錯覚にとらわれているのだ。ここでとても面白い命題が生まれる。「晴眼者は視覚障害者である」。しかしこの命題は完全とは言えない。なぜなら晴眼者は第一定義を満たしていないからだ。晴眼者は潜在的視覚障害者とでも言うべき存在、あるいは、晴眼者と視覚障害者のハーフとしての存在なのだ。

p13
 〈視覚依存社会〉
 例えばある人が失明した場合、その人はどうなるか。今まで依存して来たものが失われる。それは絶望であり、挫折である。
 視覚依存社会では、人は視覚依存的な生活を強いられ、視覚依存的に生きることになる。視覚に依存せず生きる、本来の命に依拠して生きることは抑圧され排除されているのだ。
 失明によって起こる絶望はこの為だ。もし彼が視覚依存社会とは別の社会に生きていたなら、絶望など有り得ないだろう。悲しいかなそういう社会は現実化されていない。視覚依存社会とは別の社会があるとしたら、晴眼者が失明しても絶望しない社会があるとしたら、それは視覚障害者にとって理想社会ではないだろうか。

 〈狂気と理性、障害と健常〉
 構造主義哲学者の一人として知られるフーコーはその著書「狂気と理性」の中で、以下の様な事を述べている。
 ヨーロッパ時代のいわゆる「理性」は、はじめから存在したのではなく、いわゆる「狂気」を排除することによって成立した。
 近代社会が形成されていく過程で、近代社会の基準にそわないものは、「狂気」として規定され、隔離され、排除されていく。
 「理性」は「狂気すなわち非理性」という対立項をもつことによってはじめて「理性」となるのである。
 フーコーに習って障害者を考えてみよう。
 「理性」と「狂気」の関係はそのまま、「健常」と「障害」の関係にも適応するように見える。
 「健常」は「障害すなわち非健常」という、対立項によって規定され、それを排除し続けているのだ。
 一つ理解して欲しいのは、視覚障害者自身が、視覚依存社会の弊害に毒された思考パターンを受け継いでしまっているということだ。障害の有る無いに関わらず健常者の理論によって教育されて来たのだ。言い替えれば権力に飼い慣らされたと言ってもよい。

 〈まとめ〉
 私が視覚障害者に訴えたいのは、視覚依存的な生き方からの脱却だ。それ

p14
は、また「もっと感じること」であり、それが唯一の方法である。また更には、理性依存的な思考からの脱却でもある。
 「狂気/理性」の二項対立、「障害/健常」の二項対立、「感じる/考える」の二項対立を越えることが必要だ。それには、まず抑圧項を浮上させ、そのエネルギーに乗って飛ぶことだ。
 その時、障害は単なるハードルに過ぎないのだ。それは飛び越えてしまうことが出来るものとして在るのだ。スローガンは「飛べ、飛べ、視覚障害者」。
 (校正者注:挿絵省略)

p15
 精神保健法「改正」に見る障害者の概念雑考
 梅林和夫
 
 精神保健法が改正されようとしている。現行の精神保健法は去年の4月1日施行で、今回の改正では今年の7月1日からの施行を予定しているらしい。1年ちょっとでまたまたの改正である。とてもじゃないが追いついていくのが大変である。
 そして、今回は名称が変わる。精神保健法から「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」になるそうである。改正の趣旨としては「障害者基本法及び地域保健法の成立を踏まえて」らしい。またまた言うがとても追いつけない。この改正についての公衆衛生審議会の答申が出たのが1月27日であり、3月の国会に上程されるらしい。まことに急ピッチである。だから、今回は当然のこととして改正案の検討としてあるのではなく、この改正案の中の障害者福祉の概念について考えたことのみ触れる。
 まず、第1条(この法律の目的)である。今まで「(精神障害者の)社会復帰を促進し」となっていた部分が「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行い」に変わった。皆さんもお気づきのようにこの「社会経済活動への参加」という文章は、障害者基本法の第6条(自立への努力)にある障害者の自立努力規定の項にある言葉である。障害者基本法の成立を踏まえての改正なら、その基本法の第1条(目的)なり第3条 (基本的理念)からの引用なら分からなくもないが、改正法案の言う「精神障害者福祉」とは、精神障害者の社会経済活動への参加の努力ということなのか。そして、この「自立と社会経済活動への参加」と言う言葉が、第2条(国及び地方公共団体の義務)、第3条

p16
(国民の義務)、以下最後まで都合12回も登場し、精神障害者福祉とは、正に「精神障害者の自立と社会経済活動への参加」なのだ言う趣旨一色に塗りつぶされている。
 さて、今回の改正で、登場した「精神障害者保健福祉手帳」であるが、この手帳は、精神科通院医療の公費負担制度を利用するときに必要な診断書の提出が要らなくなるのと、保健所を通して、先程らい述べている「社会復帰の促進及び自立と社会経済活動への参加の促進のために」必要な指導、訓練、助言を受けるための社会復帰施設(生活訓練施設、授産施設、福祉ホーム、福祉工場)や地域生活支援事業(いわゆるグループホームのこと)に入所斡旋してもらう時に必要なのらしい。しかし、49条に「精神障害者保健福祉手帳の交付を受けた精神障害者から求めがあったとき」に保健所は前記にある社会復帰施設等についての相談・斡旋を行うとあるが、何故手帳保持者のことがここで突然出てくるのか理解に苦しむ。そして、この手帳の交付基準 (どう言う精神障害者が受けられるのか)がいささか不明である。ただ、厚生省令で定めた精神障害を支給事由とする障害年金をうけている場合は、地方精神保健福祉審議会の意見を聞かなくても都道府県知事は交付できるような事が書いてあるので、障害年金支給に関する障害認定規準とこの手帳の交付規準は密接な関係があると考えて良かろうと思う(ここでは無年金者の問題は置く)。しかし、通院医療費公費負担、障害年金の受給、社会復帰施設の利用はそれぞれ別の事由を持つ範疇に嘱する問題であり、この事に関してだけ捉えてもこの手帳制度の創設は拙速な事だと感じざるを得ない。
 確かに、障害者基本法の対象に精神障害が加わり、他の障害者の福祉法と同じようなものを作りたかったのだろうが、法の目的自体からして、先程述べたような問題点を含んでおり、この改正案には到底賛成することは出来ない。
 1999.2.9

p17
 盲人教師を盲学校に
 佐藤光子
 附属盲学校での英語科教員採用の募集条件についての咋年の話題をご記億だろうか。附属盲の英語科ではすでに点字使用教員がいるので、新採用には墨字使用者を募集したいという意図があった。その募集要項をつくる際に、管理職との調整や事務処理などの時間的制約があったために、応募条件の中に弱視者をも排除してしまうような差別的な視力制限を盛り込んでしまったというものだ。それを知った卒業生などから疑問や抗議文が出されたことや、新聞取材での管理職の説明の不備などもあって誤解が生じたため、附属盲は会議で検討した後、募集要項を配った所宛に説明と訂正の文書を改めて配布した。
 最近は全国的に盲学校でも盲人教師をとらない傾向があり、募集条件を知った時には、あまりの心ない表現にく「附属よ、おまえもか」と絶望感すら覚えたものだが、事情がわ

p18
かるにつれて良心的な処理の仕方に一安心した次第。
 しかし、英語科に続いて音楽科での募集があったときには、再び附属盲に疑問を感じてしまった。
 音楽科教員定数を5人から6人にしようという時である。5人がすべて晴眼者であったので、私としては単純に、一人は点字使用者をとるべきだと思っていたのだ。しかし募集条件では、点字使用者へのハンディを補う方法をとることなく、技術レベルのテスト晴眼者を選んでしまった。点字使用者の応募が1名であったことも晴眼者が選ばれた一因ではあろうが、選ぶ側に点字使用者を優先しようという考えがなかったことも事実である。
 音楽にせよ何をするにせよ、生活・学習のすべてにおいて、盲人は「目が見えない」というハンディを負っている。現在までの日本の社会を考えれば、障害者にとって毎日の生活は「危険と不便がパートナー」といっても

p19
過言ではなかろう。便利な機器が開発されてきているとはいえ、情報量の絶対的少なさも厳然たる事実である。
 音楽は視覚障害のハンディが比較的少ないジャンルではあるが、指導者探し、楽譜の入手、音楽会への外出などに大きなハンディがあるのは否めない。このような現状を無視して敢えて「平等の条件で」というのは差別の肯定・促進につながるのではないのか、盲学校で盲人への配慮がなされないでどうするのだ、と怒りと絶望を再び感じさせられた。
 ここで断っておくが、附属盲学校は、普通教科においての点字使用教員が(調べたわけではないが)日本の盲学校の中では一番多いのではないかと思っている。次回の社会科教員募集でも点字使用者を採用する方針とのことである。また、卒業生の社会参加も活発でこの視労協も附属盲の卒業生が中心になって作り出したものであり、公務員採用や一般校への教員採用の要求に関しても附属盲の卒業

p20
生と教員達とが協力して動いてきた歴史がある。
 さて、目の見える教員がどこまで見えない子ども達の「先生」たり得るのか考えてみよう。教員のことを世間一般には「先生」と呼ぶ。これは先に生きる人、先達という意味が含まれるだろう。技術知識を教えたり、事務的な仕事をこなしたり、行動の安全をはかるという点では晴眼者の方が盲人よりも効率よく処理できるかも知れない。しかしたとえば障害故の不便さやくやしさ、心ない人たちの言動に対する怒りや絶望感や孤独と言ったような内面的なことをどう処理し、どう思いやるのかという点では盲人の方が盲学校の教師としては適しているような気がする。「解ってもらえた」という感覚は人間が生きていく上で大きな力になるはずである。
 勿論、晴眼者と同じように、盲人にも教職に向く人とそうでない人がいることは否定しない。また本人は盲人ではないが、本音で語

p21
り合える親友や伴侶が盲人であり、生徒の気持ちはよく解るという人もいるだろう。また附属の教員が「普通校と同じ教育をする」とか「一般社会に通用する人材を育てる」とか考えることに反対はしない。しかしそれは、視覚障害の特質や盲人の生活上のハンディなどを配慮しないと言う意味ではないはずである。
 附属盲を含む全国の盲学校で複数の担当者がいるセクションでは、そして盲児の通うすべての学校には教育上の必要性と配慮から、最低一人以上の盲人教師に居てもらいたいと願うのはかなわぬ夢でしかないのだろうか?
 健常者中心の社会制度の中で障害者が職場にいると周りの人がサポートするのが負担になるという理屈もあろう。しかしそれだから障害者を入れないと言うのは差別であり、そのままでは障害者の社会参加は有り得ない。周りの人が過負担にならないように、そして障害者も自分の持ち味を活かせるように制度

p22
や設備、仕事内容や方法を変えていくことも同時に必要だろう。

 ※編集部=視労協は「音楽科教員採用に関する要望書」を提出し、回答を受けましたので以下に掲載します。尚、付属盲ではこの4月から社会科教員として全盲の方の採用が決まっているとの事でした。

 〈付属盲学校校長への要望書〉
 1995年1月23日

 貴職におかれましては、視覚に障害を持つ児童・生徒の教育にとりくむとともに、卒業後の就職活動、さらに自校への視覚障害者の教員としての採用などを積極的に進められていることに対し、心から敬意を表します。
 さて私達は、昨年5月、英語科教員採用における「視力0.7以上の条件」問題について抗議するとともに、定員増による音楽科教員採用にあたっては、視覚障害者を積極的に採用するよう要望してきました。英語科問題については、「誤りであったと反省し、今後障害者の雇用運動の一端を担う」と表明されましたが、音楽科については結局晴眼者の採用となってしまいました。
 こうした経過の中で、音楽科においては、本年3月をもって2名の方の退職とその補充が行われようとしています。この機会に私達としては改めて視覚障害者の採用を強く要望するものです。音楽科という「専門牲」、また晴眼者の優位性(一面的な)にとらわれることなく、視覚障害者の雇用促進、共に働く事の意義、視覚に障害をもつ児童、生徒との関わりにおける障害者教員の存在の意義など、様々な観点から検討する必要があります。貴校の卒業生をはじめ、音楽科教員をめざす視覚障害者の願いに応えるためにも特段のご努力をお願い致します。

 具体的要望事項
 1.視覚障害者を差別することなく、受験の機会を平等に保障すること。
 2.視覚障害者が優先的に採用されるような措置を講じること。
 3.上記1.2について、2月3日までに文書をもって御回答いただきますようお願い致します。

p23
 〈回答文〉
 1995年2月3日

 1.「要望事項1.」について
 本校教員採用に当たっては、過去の反省を踏まえて、視覚障害者に対しても受験の機会が平等に確保されるよう、出来るかぎりの努力を重ねております。具体的には、応募要項に視力制限を設けず、本校卒業生等、本校で把握できる範囲において、関係教員を通じて情報提供に努めております。

 2.「要望事項2.」について
 採用試験におきましては、特に視覚障害者が不利になるような選考方法は取っておらず、すべて平等に行われております。したがいまして、教師としての資質を評価するにあたっては、視覚に障害を持つ応募者に対しましても、他の応募者とまったく区別することなく扱われております。その上で、盲学校生徒に対する模範やはげましとしての役割り、視覚障害者の就職の機会を得ることの困難性等を考慮し、出来るかぎり視覚障害者を採用するよう努めております。
 以上
 (校正者注:挿絵省略)

p24
 ジョイフル・ビギン No2発行
 特集/自立生活
 (点字、テープ、ディスクも同価格)

 JBジョイフル・ビギンNo2
 ●定価/1545円 A5判152頁
 障害者発の楽しい情報誌
 『写真省略』
 障害をもつ人も、もたない人も共に生きる社会をめざした情報を発信していきます。2号は、「自立生活 自分で作る自分の生活」を特集。「地域に根差して16年 静岡自立生活センター」をはじめ、障害者ならではの情報満載。
 
 会員となっていっしょにうごきをつくって下さい。

 特集/自立生活
 ―自分でつくる自分の生活―
 ●地域に根ざして16年…堤愛子
 ●自立生活者インタビュー 斉藤雅子・生田進・福島智・水口英一・野中君江
 ●座談会これが本番/「地方の時代」 中西正司/斎藤明子/渡辺正直/北野誠一/尾上浩二
 ●シリーズ 障害者100人に聞きました 他
 ●制度・制作
 ●情報ホットライン
 ●発売元 現代書館

 ●既刊●
 ●1号/まちづくり
 ●特集予告
 ●3号/はたらく
 ●4号/権利擁護
 

 障害者総合情報ネットワークの略称はBEGINです
 ■A会員 会費:年3万円
 @月刊「BEGIN」をお送りします。
 A季刊「ジョイフルビギン」をお送りします。
 Bこ希望の資料のコピーサービスを年間500枚まで無料提供。
 Cブックレットや速報紙をお送りします
 Dネットワークの活動への優先参加
 ■B会員 会費:年1万円
 @Aを提供します。BCは有料で提供。
 ■賛助会員(団体)会費:1口年1万円
 B会員に準じます。

 ●当面の具体的な取り組み
 ○季刊情報誌「ジョイフル・ビギン」発行。
 ○月刊情報紙「BEGIN」の発行。
 ○情報収集とコピーサービス。
 ○地域研究集会の開催。
 ○ブックレットの発行。
 ○全国研究集会の開催。
 ○課題別研究集会の開催。
 ※詳細は事務局までお問い合わせ下さい。
 障害者総合情報ネットワーク
 Basic Essential & Genuine Information Network
 東京都新宿区山吹町354トライポート101
 〒162 電話・FAX 03‐5228‐3484

裏表紙の裏
 第11回
 視労協大会に参加しよう!

 テーマ
 20年目に問う、差別・人権・自立

 障害者一人ひとりをとりまく、差別・人権・自立の現状を検証し課題を明らかにし、広く、固く団結し、具体的な問題解決に向けた討論を一緒にやりましょう。
 ○日時 1995年3月4日(土)、5日(日)
 ○場所 東京都障害者総合スポーツセンター(北区十条台1‐2‐2 TEL 03‐3907‐5631)
 ○問い合わせ・連絡先(どちらも昼間のみ)
 奥山 0468‐22‐6711
 宮 03‐3780‐0585(木曜を除く)

 ―編集後記―
 何を考えているのかよくわからない「若者達」がボランティアとして急に動き出した。彼らを動かしているものは何なのかよくわからないが、戦後最大といわれる「危機」の中で何かが変わり始めていることは確かなようだ。「共に生きる」ということの意味合いも少しはっきりしてきたし、そのことの困難さもまた明らかになったように思われる。「危機管理」=「住民管理」、「差別の拡大再生産」にならないような闘いも提起されている。 (奥)

裏表紙(奥付)
 199( )年2月20日(校正者注:()内空白) 定価200円
 編集人 視覚障害者労働問題協議会
 〒239 横須賀市長沢115グリーンハイツ2‐7‐405 奥山幸博気付
 発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6〜26〜21

 視覚障害者労働問題協議会




■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
TOP HOME (http://www.arsvi.com)