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『障害の地平』No.79

視覚障害者労働問題協議会 編 19940530 SSK通巻第413号;身体障害者定期刊行物協会,24p.

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last update: 20210528



視覚障害者労働問題協議会 編 19940530 『障害の地平』第79号,SSK通巻第413号;身体障害者定期刊行物協会,24p. ds. v01

■全文

表紙
 SSK―障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のために―
 子宮から墓場までノーマライゼーション!

 ―視労協―
 障害の地平 No.79
 改めて視覚障害者の「職業選択」を問う
 視覚障害者労働問題協議会

 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 一九九四年五月三〇日発行SSK通巻四一三号

目次
 しろうきょうてききぶん     込山光広……1
 歴史的岐路に立つ視障者の三療 与那嶺岩夫……3
 視覚障害者の職域拡大を目指して 阿部貞信……7
「障碍」を持つ教師の闘いの道   大葉利夫……10
 第10回交流大会報告      ……13
 視労協大会に参加して       兵藤美奈子……17
 視労協の大会に参加して      安達麗子……18
 新入会員プロフィール    ……20
 いままでの自分を振り返って    山村豊……21
 お知らせ・編集後記

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 しろうきょうてき きぶん
 込山光広

 今政治が面白い。自民党1党政府体制 (55年体制) が38年ぶりに崩壊し、社会党、新生党、公明党、日本新党など8党派による連立政府 (細川内閣)が樹立されたのが咋年の8月。そしてこの4月には社会党と新党さきがけが連立政権を離脱し、「改新」と公明党による少数与党政府(羽田内閣)が発足した。
 この1年間の政界の動きを大づかみにした上で、それぞれの政党や政界再編をめざしたグループ、各政治家個人がどのように決断し行動してきたのかをみると誠に興味が尽きない。55年体制下では自民党政府という確固とした枠組が決っており、何が起きようともその一定の枠組の中で処理されてきた。従って国民にとっては相変わらず変わり映えのしない政治が続いた。実はこの「変わり映えのしない政治」が国民の願いだったかもしれない。選挙で自民党、社会党、共産党などに、それぞれが安心して投票できる「そこそこの生活、そこそこの平和」が実現しており、その「そこそこ」の体系は崩してほしくない。誰も社会党や共産党が政権をとると思って投票しないし、自民党の政策が良いと思ったから投票したわけでもない。何となく我が身のまわりが安全であればよいという国民的感情が、55年体制を支え、40年近くもの長きにわたって政治状況への意識の停滞(あきらめと安心)を、作り出してきたと言える。だが現在それは大きく変わりつつある。いかなる理念を掲げて、その実現に向けてどんな方法で具体的に政策として実施するかが今日課題となっており、それは私達一人ひとりの意志(選択)に委ねられている。そういう意味では私達が責任を持って政治参加をしなければならない時である。
 日本国憲法をめぐる議論がある。改憲論と護憲論である。改憲論にも全面見直しの究極的タカ派的なものから、9条の削除あるいは9条の1部見直しまである。国際貢献を軍事的にも行える普通の国(強い国)になろうとすれば、解釈改憲では無理があり、是非にも改憲せざるを得ないだろう。護憲論にも現憲法を絶対に守るべしと、とりあえず守るべしとがある。とりあえず論にも国民の権利の伸長を図ろうとする積極的な考え方と、解釈改憲でやっていけるという相異なる2つの潮流がある。政治参加にあたって日本国憲法に対する自分なりのスタンスを決めておく必要がある。そのことは自らがど

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ういう国(社会)を望んでいるかを示すことになるからである。
 政治手法は何がいいかがある。有能な政治家や専門家によって打ち出された政策を私達が判断し、判断が誤っているならば訂正してもらいながら、強い指導力を持ったリーダーに政策を実現してもらうのがひとつ。私達の声を基に政策を作り、あるいは打ち出された政策の中に私達の声を生かして、国民的コンセンサスを得ながら政策の実現を図るのがもうひとつの選択。この場合、前者は優れた整合性のある政策がスピーディーに実行され、後者は国民に納得のいく政策ではあるが時間的にスムースさに欠けることになる。
「普通の国(強い国)」では、当然前者が選択される。
 障害者問題にひきつけて考えてみる。視労協の目的のひとつにノーマライゼーションの実現がある。それでは「完全参加と平等」が実現される社会はあるか?。ひとつはアメリカ型社会である。この社会では競争が主軸となってできあがっている。社会的に不利な条件を負わされている者には、ADA法やアファーマティブ・アクションなどにより、その不利を是正し、できるだけ一定のスタートラインにおくことを考える。しかしその本質はあくまでも競争であり、能力をいかんなく発揮でき、勝利を得られる者には極めて生きがいのある社会と言える。他のひとつは北欧型の社会である。この社会では、人は自然や他の人達との関係性の中で、生きていて、ありきたりの平凡な生活を送っているようにみえる。「アメリカ型」は負担が少く、優れてさえいれば豊かな暮らしができる。「北欧型」は負担が多いが経済的な心配はなく、文化も享受できそれなりの生活を楽しめる。この2つのどちらかを選択するか、あるいは第3の道を模索するか?。ノーマライゼーションと言っても、極端に言えば「自然淘汰」も含めて様々に考えられる危険性もある。目指すべき社会のビジョンを具体的に明らかにすべき時がきているのではないかと思う。
 さて、憲法問題、政治手法、ノーマライゼーションについて大まかに2者択一を説いてきた。私の回答は決っているが、その意図は隠して「公平に」書いてきたつもりである。最初に「今政治が面白い」と言ったが、単に傍観者的に楽しんでいるのではない。新保守、ネオファシズムの危険な流れがあるのは事実である。しかし、ゆるぎない政治体制が崩れ、新しい政治的な枠組への活動は私達の政治参加への意義も大きくし、政治への期待も大きくするものである。
 まあ無関心であってはならない。政治は面白い方がいい。 

p3
 歴史的岐路に立つ視障害者の三療
 与那嶺岩夫 (国リハあはきの会事務局長)

「こっちの分科会は暗いんだよね。」
「そうなんだよね、ほんとに。」
 1994年3月6日、視労協総会の三療分科会が終った後、私はこんな会話を耳にした。席上、私はカイロ(カイロプラクティック療法)についての問題提起をしたのであったが、二人の短いこの言葉が今も冴え冴えと頭に残っている。
 一体なぜ、視障者にとっての三療がこんなに「暗く」なってしまったのだろうか。私達の先輩はこの業により、ちゃんと自立を果たしてきたと聞いているのに、一体いつ頃からこうなってしまったのだろうか。
 それぞれの立場から様々なファクターをあげて、これに答えることができると思われるが、厚生省当局とあはき関係団体指導層の、カイロ、整体等、無資格業者に対するあいまいで無責任な姿勢も、無視できない重要なファクターのひとつであると、私は考えている。この点について詳しく述べる紙数は与えられていないので、この一文では、最近の前二者の動向からみて・事態が極めて重大な歴史的岐路にさしかかっていることを明らかにしたいと思う。

 昨年12月6日、あはき新法推進協議会は、構成7団体から成る「カイロ等対策小委員会」を発足させた。同委員会は初会合で、カイロ、整体等をあはき法に吸収、包含させる方向を打ち出し、今年3月11日、4回目の討議で答申を行った。

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 その内容は、「相当な譲歩を覚悟しつつ」も、カイロ、整体等のあはき法組み入れが、最良の策であるというものであった。
 カイロの法制化に反対してきた私達には、まさに寝耳に水であった。確かにこれまでも、「法律を作って縛るのが得策」とする議論がないわけではなかった。しかし、後で触れるように、これは事実認識を誤った安易な議論であって、決してあはき師全体のコンセンサスではあり得ない。
 今年3月23日、私達はこの件を質すため、厚生省医事課を参議院会館に呼んだ。医事課はこの動きへの関与を否定すると共に、「カイロ法制化は厚生省のタイムスケジュールに入っていない」と明言した。しかし、あくまでも仮定の話と断りながらも、法制化にあたっての現任者、つまり現在開業中の者への経過措置のあり方について言及する事をはばからなかったのは、注目に値する。ここに対応の変化がうかがい知れる。
 一方、カイロ業界の動きはどうか。表面上はあはき法組み入れに向けての具体的な動きはつかめない。今年3月3日に、カイロ養成校の副学長で都議の本会議質問があるだけだが、初めて都議会でカイロ容認を求めたという点では、意味の大きい事であろう。
 以上、3者の動向をアットランダムにみてきたが、次に問題点を整理してみよう。
 1.法律で身分を認め、それに基く取り締まりを強化すれば、カイロ等の無資格者が減少すると考えるのは幻想にすぎず、この考えの主張者達のする説明は、そのほとんどがまやかしである。
 カイロ、整体等の実態や実数を厚生省は把握してはいない。3年前の6月に厚生省が出した、カイロの危険な治療法を禁止する通知が、彼等に届いていないのは衆知の事実であるが、ルートがないのだから当然の事で、看板を出した者は我れ関せずで、そのまま営業を続けるだろう。厚生省が一軒、一軒回って、免許の有無を調べるのなら話は別だが‥‥‥。
 あはき業界の幹部は、カイロ包含の件でこんなことを言っている。
 「カイロは年寄りが多く勉強していないから、試験をすればどんどん落ちる‥‥‥。」
 真っ赤な嘘である。私は事実をあげて反論する意欲さえ失ってしまうのである。
 また、盲人団体幹部達は、カイロ、整体等の数を“2万、数万、9万"と次第に増やし、これを放置すると大変な事になると言う。数字は全くでたら

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めである。この他にも幻想を誘うまやかしの言葉はいくらでもあるが、きりがないのでやめる。
 2.カイロは本質的にあんま、マッサージ、指圧とは異質な治療法である。数あるカイロ団体の機関紙や学術誌の一つでも目を通したことのある人ならすぐわかる事だ。
 もし、「手を使う」という点だけに着目して、カイロを同質視するならば、経絡に沿ってマッサージをするという化粧品会社の美容部員も、あはき法に包含しなければならない。
 3、カイロ、整体等無資格業者野放しの責任は、あはき側にはない。厚生省側にある。それを肩代りして、あはき師が引き受けようとするのはなぜか。問題の核心はここにある。
 アメリカでは、6年課程を終えた者にのみDC (ドクター・オブ・カイロプラクティック)の免許を与える。日本にはこのDCが約50人いる。その他のカイロを名乗る人は、3週間から最長2年の勉強しかしていない。しかし、資質向上の必要を盛んに訴えていて、その実があがらないことに焦りを持っている。このまま粗製乱造が続けば、自滅をすると、心あるカイロ師は憂えているのである。
 そこへあはき師の方から手を差しのべてきたのだから渡りに舟となる。厚生省も取り締まりの責任を回避することができる。
 4.「相当な譲歩を覚悟しつつ」進めるカイロの吸収包包によって、それではあはき側にどんなメリットがあるのか。1988年の法改正の動きの中で言われた、メリットの数々を思い出す。今回はそれさえあげていない。むしろ、幻想とまやかし、さらには、脅しもいとわない無責任なことを言っているのである。
 何よりも、今不況にあえいでいる業界に多数の参入者迎え入れという、重大な事を秘密裡に進めているのか問題である。
 先の、「カイロ等対策小委員会」は、取材にあたった「点字毎日」に、報道を禁じた。総会を控えた都道府県組織の機関紙は、知っているのか知らないのか、この件については沈黙を守っている。そして、中央組織の機関誌では、結局カイロ法制化をしようとしているのかどうか判断に困る脈絡の、実にあいまいな文章で伝えているのである。
 これでは、水面下で行われている、あはき関係者とカイロ側、そして厚生省の3者の話し合いに想像をたくましくせざるを得ない。

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 5.最後に指摘したいのは・カイロ等のあはきへの組み入れは、あはき法19条の死文化を決定的にするということである。これについては詳しく述べる必要はないと思われるが、大方の期待にもかかわらず、新法下での国家試験受験者の学校別内訳の公表を、医事課はがんとして拒み続けている事、この問題を追及し続けているのは、私達「国リハあはきの会」だけであるのを考えてみればおわかりだろう。つまり、視覚障害あはき師の権益を法的根拠に基づいて、保とうとする意識があまりにも小さくなり、関係団体指導層や厚生省に任せておくことではだめだと言いたいのである。それにまず何としても、カイロ、整体のあはき法組み入れを阻止する事である。私は、この進め方が非民主的であればあるほど、失敗に追いやる事が可能であると信じている。
 視障者の三療が歴史的岐路に立たされている今、せばめられた暗い道をとぼとぼと歩くのか、過去の伝統を思い起こし、広く明るい道を胸張って歩く方向にするかは、私達の運動いかんに関わっている。
 (校正者注:挿絵省略)

p7
 視覚障害者の職域拡大を目指して

 私は今年で50才になりますが、4年前に網膜色素変性症により失明をいたしました。当詩大学病院からの失明の宣告を受けたときには、母を扶養し・子供2人がまだ学生であり経済的に大変な状況で、働きざかりの中途視覚障害特有の問題に直面をいたしました。自分自身の心の障害の克服、社会生活の自立訓練、そして職能訓練、また何と言っても大きな問題としては今後の経済的な計画というものが非常に不安でした。
 職場維持については、家族にも誰にも相談できず1人で大変悩みました。数回の会社との交渉にもかかわらず、「会社としては前例がない」という理由で、30年間勤務してきました都内の百貨店の経理の仕事を失う結果となりました。
 非常に心が揺れ動いているときではありましたが、とにかく仕事を見つけなければならないということで、地元の職業安定所を訪れまして、30年間の経験を生かしてできる仕事はないかという相談をしたところ、中年の男性職員が対応していたのですが、「視覚障害者の仕事はない」ということで、「市の福祉課で相談をして下さい」ということでした。
 視覚障害者の職域が無いということで、そのとき私は大変なショックを受けました。そのショックをバネとして、視覚障害者の職域拡大を自ら取り組むことを決意しました。
 日本点字図書館で点字を学びながら、視覚に障害を持ってもできる事務職の訓練はないだろうかということで、日本盲人職能開発センターを知り、そこで約1年3カ月間の音声コンピューターの訓練を受けて、都内の職業安定所主催の「障害者と企業集団見合」で、現在勤務しております近畿日本ツーリスト株式会社に再就職することになりました。入社を決めた最大のポイントとしては、仕事の内容デス。「アナタの障害の程度に合せた業務を開発しましょう」ということが決手となりました。
 本社総務部に配属され・まず私がコンピューターを用いて何ができるかということから取り組み、約1年間かけて定着したのが2つの柱です。その1つは、データベースを使っての法務関係案件の管理です。これは週1回の都内ミイテ

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ィングにテープレコーダーを持参して出席をし、その後テープによりデーターを更進するものです。
 それからもう1つは、株主総会、社外セミナー等のテープ起しの作業です。これは「おんくんシステム」を使って文書化して、「新松システム」で校正をして仕上げるというやり方をしております。最終的な校正については、その担当者に校正をしていただきテープにて返していただくという効率的な作業を行なっています。
 職場内でのコミュニケーション、移動等については回りの人が非常に良く配慮してくれますので大変助かっています。
 これは一口に直属の上司の理解、また私本人の仕事に対する熱意というものが回りに伝わったのではないかと思います。
 視覚障害者が企業に入るということは大変なことではあるが、入ってからの業務の確立、持続をいかにしていくかということが非常に大変なことだと考えております。その意味で私たちコンピューターを使った一般事務作業を行なっている者は常に新しい情報を入手し、新しい技術を身に付け、そして新しい業務の拡大を心掛けなければならないと思います。
 特に今後取り組まなければならないと考えておりますのは、視覚障害者の技術革新であります。視覚障害者が、各企業内で技術を磨くということは、視覚障害者の社内教育システムというものが確立しておらず、各企業内に求めるということは非常に難しく、またそれを外部に求めようとしてもそういう機関というものが無いというのが現状です。こういう機関を公的な支援体制でバックアップをするような制度を早急に確立する必要があります。また、機器というものはいつトラブルを起すかも知れません。そういう場合でも社内での対応というのは、特殊ソフトを使用している関係で非常に困難です。そんなとき、電話1本ですぐに職場に来て対応してくれるような公的機関という制度が必要であると考えております。
 また、企業に入ってからの職場定着についても軽視できない問題であります。これは職場内での仕事以外での人間関係等、非常に難しい問題があるとは思いますが、特に訓練元(職親)に、労働行政が絡んで職場定着フォローが定期的に行なう必要があると考えます。このことについても、今後あらゆる機会に声

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を出していきます。
 私は、3年前に「中途視覚障害者職域拡大研究会」を9人で発足させ、人生中途で視覚障害となり、やむなく転職をせざるをえなくなり、それも一般事務職としてどんな仕事ができるのかということを会員で研究をいたしております。今後更に同研究会を通じ、私たち視覚障害者の働く職域拡大の一助となるように頑張って参ります。
                          
 1994年4月12日
 千葉県船橋市大穴北2‐28‐9
 阿部貞信
 (校正者注:挿絵省略)

p10
 「障碍(ショウガイ)」を持つ教師の闘いの道
 大葉利夫
 都立東村山高等学校教諭/視覚障碍
 「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会代表
 全国視覚障害教師の会 副代表

 1.はじめに
 1989年9月に、私が「視労協」の当該者として初登場してから4年半が過ぎました。実感としては、とても長くも感じたり、短くも感じたり複雑な気がします。83年から89年にかけての苦しい6年間の、「孤立無縁」状態から脱出出来るまでの期間と比べれ、ば段違いの境遇の変化と言うのが、社交辞令かも知れません。しかし、基本的立場は、「当該」のままである事には変わりません。当該にとっては、「直接の支援」が絶対に必要であります。その意味では、視労協で的野碩郎さん (当時事務局長)との出会いは、画期的出来事であったと言えます。彼に対しては、「とんでもない大葉」に出会ってしまったものだと、後悔を感じさせる程のエネルギーを使わせてしまったかも知れません。しかし、悪い事をしたとも私は思っていません。私と共に、人生をこれから先も共有する事は明かでありましょう。
 大葉担当会議(「多摩会議」、森登美江・宮昭夫を加えた4人〉が大きな支えとなりました。緻密な連絡と対策がそこでは実行されました。やさしくも厳しくもあり、森進一のカラオケもありました今日の自分があるのは、「多摩会議」の存在であると言いきれます。もっと言えば、的野さんとの出会いであります。それが視労協の大きさを感じさせる源でもありました。
 要するに「当該」にとっては、
「直接的・共に動く支援」(校正者注:「直接的・共に動く支援」太字)が必要であると言う事です。私は経験的にそれを痛感します.これからも視労協の皆さんと、その嫌な運動が共に出来ればよいと願っています。
 実は今回、私が以下に紹介する「障教連」に関しても、その思いを込めて結成したのであります。現実はなかなかそのように機能しきれず、これから「基本的思い」を浸透させていく事が、今後の課題と考え

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ています。
 今回若干の思い出を語らせて頂く機会をいただきながら、「障教連」の紹介に入って行きます。

 2.「障教連」結成への軌跡
 1989年に、視覚障碍認定を受けた私は、東京砂漠で一人さまよって「退職・転職」の勧めの砂嵐に吹き飛ばされそうになっておりました。しかし、「教師は辞めない・障碍を理由の排除は拒否」の姿勢だけは持っていました。何故そのように「こだわり」が持てたのかは、別の機会に致します。
 そんな私が多くの理解・支援者をその後得る事が出来たのは、言うまでもありません。思い出の一つとしては、89年に天草に全盲の高校教師を尋ねに飛んでいった事です。私が、現在網脈絡膜萎縮の為に、「生徒の顔が見えない・墨字が読めない」中で、高等学校で数学の教師を続けていられるのも、熊本での貴重な仲間との出会いがあったからだと言えます。そして先に述べた「視労協」の出会いがあった事は言うまでもありません。
 私は、今日も困難を抱えた状態でいますが、それでも「幸運な立場」であると思っています。多くの当該者は、孤立無縁のまま教壇を去っています。その様な現在までの歴史的な状況を変える為に、今の会の発足に踏み切りました。

 3.会の主旨
 @孤立無縁の仲間を点と点で結ぶ。
 Aお互いに支援・運動をする。障碍の共有化が必要。
 B行政・組合・マスコミ・社会に問題の解決を求める。
 C「ノーマライゼーションは教育現場から」の実現。
 すなわち、イデオロギーの壁を越えて運動活動していく会とする。

 4、活動の方向
 主旨を具体化する為に「障碍保障制度要項」をまとめ、とりあえず92年12月2日都教委に交渉と申し入れをする。しかし、当面の制度が無い中での問題と、制度を作らせる問題とが大きな課題となる。
 都教委とは、毎月の様に交渉を持てる様になったが、それだけでは二つの問題の解決にはならない。ましてや、会員以外の教師も全国に点在

 p12
している事も考えれば、根本的な変革をもたらさなければならない。その為には、国及び各都道府県に対して署名を提示し、議会や行政・社会が注目する様な運動とならなければならない。全国署名はその大事な使命を担っていると言えます。署名集めも大きなエネルギーのいる活動ですが、提示後の動きはさらに長く、気を許せない段階に入ると思われます。
 さて、大枠の運動の話しばかりになりましたが、実は一番大切でありしかも大変なのは、当該者の障碍を共有し、その支援に当る事です。これは、会の担い手の必要性が求められる事になります。

 5.成果のまとめ
 @全国的な仲間の広がり
 A「持ち時間」の適正(軽減)化の実現(94年1月に都教委と確認)
 B人工透析者の勤務時間内通院の実現(93年12月に都教委は、全都の教育委員会に指示)
 B障碍に応じた勤務校の異動の実現
 Cその他
 組合との連携。日教組にプロジェクトチームを結成させる。働き続ける為の「障碍保障制度要項」の作成と、都教委への提出とその後の毎月の交渉の機会獲得。さらには、「制度確立」に向けての全国署名展開。新聞・テレビ報道。

 6.課題と今後
 担い手も当該者である事が忘れられてしまったり、ついつい「個人の障碍」に陥ってしまう事が大変多い事が気になります。また、全国の会員のネットワーク化を進めて行く必要があります。当該会員と、共に会員の意識の充実と社会に対して運動の主旨を広めて行く継続性が、今後の本会の機関誌の名称である「ひとすじの白い道」が切り開かれていくのではないでしょうか。

 7.結び
 今後とも皆さんと一緒に歩んで行きたいと思います。その為にも、直接行動を共にしませんか。理解だけでは前進的結果は生まれません。もっと多くの仲間の輪を広げていきたいと願っています.

p13
 第10回交流大会報告
 
 3月5日、6日第10回視労協交流大会を開催しました。約70名の参加で、そのうち20名は学生。新たな出会いの中で交流の輪も広がりました。以下、分科会での討論を中心に報告します。また、今回の機関誌では、大会に参加した方から原稿を寄せていただきましたので、それらも合わせて読んで下さい。

 分科会の討論でみえてきた課題

 「生活分科会」
 参加者11名

 1.まちや駅の点字ブロック
 (1)現状
 ア)古い駅舎のホーム上に無理矢理敷設されているため、危険な箇所が多い(東京)。ホーム先端はそれ程の危険な箇所は見当たらないが、ブロックに使用されている材質に問題がある。塩化ビニール製の物はすべりやすい(大阪)。
 イ)歩道の埋め込みタイルと誘導ブロックの区別がしにくい。
 ウ)まちの景観を考慮してという意味あいで、ブロックの色が弱視者にとって、まわりと区別しにくいものがある(例えばグレーの誘導ブロックとグレーのインター・ロッキング。色の似かよったカラータイルとブロックなど)。
 (2)具体的な要望と検討課題
 ア)ブロック敷設の全国統一。
 イ)誘導ブロックと位置ブロックの形(誘導の場合、線になっているものと、位置確認の点ブロックよりもやや長めのものが、とぎれとぎれに

p14
続いているものなどがある)。材質(普及し始めた頃には、塩化ビニール製が手軽ということで、多く使用されていて、そのまま現在に至っている箇所があるが非常にすべりやすい)。コンクリートやゴムなどの検討も必要。障害者安全交通センターからの資料の収集。
 ウ)関西方面で多くみられるキャッツ・アイ(アルミまたはステンレス製のびょう)の普及。横断歩道の白線の両サイドや、歩道のない道路際の白線上などにあると安全な歩行の手掛りとなる。夜間には光って目立つ。
 エ)誘導ブロックについての一般市民も交えた学習と検討。
 2.点字の市民権
 (1)点字案内表示の現状
 ア)電車の運賃一覧表が券売機と券売機の間にあって利用しにくい駅がある(東京)。右端か左端かどちらかに案内板(大阪)。
 イ)階段手摺の表示については、新しくされ始めてた駅では、比較的わかりやすい内容になっているが、せっかく表示されていても全く無意味なものがまだまだ多い(東京)。京阪、阪急などは比較的正確(大阪)
 ウ)表示箇所の点検がされないため、はがれたままだったり、表示の誤ったものが放置されている場合がある。
 (2)具体的要望と検討課題
 ア)わかりやすい表示内容。
 イ)公共建物などのすべてのエレベーターに声の案内と、同時に点字表示を。
 ウ)まちの中に点字表示を。例えば町名や番地。スーパーなどでの商品名、値段、または各売場コーナーそれぞれの決まった位置に案内表示。
 エ)役所からのすべての通知の点字化。行政文書の点字化(例えば「福祉の手引き」など)。
 3.銀行など金融機関での自動預払い機について。障害者や高齢者をはじめ、すべての利用者にとって利用しやすい機器の導入を。例えばタッチパネルか、キーボードかの選択が利用者の状況に応じて可能な機器、その他。
 4.一人で歩く自由と共に、介助者をいつでも確保できる自由の保障。
 5.便利さの追及のかげに無視されてしまう存在をなくす。
 6.情報化社会の中で、パソコンを使わなくてもできる仕事や情報の収集が可能であるべき。

p15
 7.日々実際に単独歩行をしている人達の声を、交通機関やまちづくりに反映させること。

「教育分科会」
 今回の教育分科会は、若い人達を中心に20名程の参加で行われました。
 分科会では盲学校教育、統合教育、学生生活の各テーマで、パネラーの皆さんにスピーチしていただきました。盲学校教育では、盲学校の閉鎖性、それに関連して地域とのつながりがつくりにくいなど、体験が語られ、また統合教育では、まず地域にいる事がむずかしく、どうしても運動などで勝ち取っていかなければ一般学校へ入れない。視覚障害児の入学を拒否する学校などが、よく拒否の理由にあげるのが設備の不十分だが、設備というものは、障害者当事者を入学させ、それから一緒になって作っていくもので、順番がちがうのではないかなどを熱心に語ってくれました。
 学生生活では、友達関係で悩む事があったり、大学卒業後の就職問題で特に不安を覚えるなどを話してもらいました。
 会場からは、同じように就職問題で不安を覚えるや、もっと幼い頃から、視覚障害児と健常児がふれ合う機会があれば、より深く理解しあえるのではないかなど、貴重な意見が出されました。

「三療分科会」
 三療分科会は、出席者12名で以下の様な点について討論した。

 1.あはき(あんま、はり、きゅう)の国家試験において、視覚障害者の合格率が晴眼者より、かなり下回っている現状にどう取り組むべきか。
 2.あはき師の生活を脅かすカイロプラクティック等のあはき類似業者に対して、どのような態度で我々の業権を守っていくべきか。
 3.病院マッサージ師の解雇や就職難が伝えられる中、マッサージの保険点数復活をも含めて、この問題にどう取り組んでいくか。
 4.ヘルスキーパーをはじめ、ゴールドプランヘのあはき師の参加や、THPへの進出等、あはきによる新しい職種の開拓をどう進めていくか。いずれの問題にもはっきりとした結論はでなかったが、それぞれの問題に

p16
対する認識を深めるのに大きな意味があったと思う。

「労働分科会」
 参加者15名。
 問題提起は公務員(福島県いわき市の村上さん)、教員(南葛飾高校定時制の松浦さん)、民間企業(近畿日本ツーリストの阿部さん)のそれぞれの立場から現状と今後の課題などについて報告していただいた。また助言者として日本障害者雇用促進協会の指田さんにも参加していただいた。
 ○検討課題と要望事項
 1.公務員の場合の職場異動。同じ職場に長期間勤務することが多く、職域開拓、機器の活用、ヒューマンアシスタント、職場環境など多くの検討課題がある。
 2.教員問題
 (1)点字試験の問題の作り方を工夫する必要がある(表や同音異義語など)。時間延長も現状でよいのかを検討する必要がある。
 (2)全体の教員採用数が少ない中で、障害者の別枠ないし優先採用も検討する必要がある。
 (3)就職した場合には、教材準備、授業展開、事務処理などにおいて、物的、人的支援体制を整備することが大きな課題である。
 (4)中途障害者に対しても、実態に応じた多様できめの細かい支援体制の確立が求められている。
 3.民間企業
 (1)中途失明の場合現職復帰が困難な場合もある。また他の会社に入る場合にも正社員ではなく嘱託の身分となることも多い。こうした点については視覚障害者が一般事務も含めて様々な仕事につき、それをこなしていっている事例を集めて社会に広くアピールしていく必要がある。
 (2)OA機器については技術の進歩に対応するために、現職での研修が受けられるようなシステムを作ること。
 (3)OA機器のメンテナンスについても公的な分野でのシステムが必要。

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 視労協大会に参加して
 兵藤 美奈子(花園大学)

 初めて参加して障害者運動に対する考え方が変わったように思う。これまでも友達からいろいろ話は聞いていましたが、あまり関心がなかったのでこれまで参加しなかった。しかし、今回参加してみて、大学を卒業してからの就職問題をはじめとする、あらゆる差別の問題を考えている事も知った。今回は10周年という事で、全国から沢山参加しているようだった。また、学生の参加が多かった事にびっくりしたが、障害者運動に対する若い人達の関心を高めるにはいい機会だと思う。運動の高齢化が問題になっている事を聞いた事がある。そういった事も考えた上で、もっと若い人達の参加を呼び掛けていければいいと思う。また、私達学生が一人でも多く参加する事で、今私達が抱えている問題を、他の人達と共に考えていければいいと思う。また、あらゆる世代の人達が参加して、違った人達との交流を深めたり、互いに意見を出し合う中で、新たな問題を考えていくなど、新しい視労協作りをしていければいいと思う。
 障害者が積極的に外へ出ていく事で、新たな社会参加の在り方も考えていけると思う。私も今回初めて参加し、懇親会などでいろんな人と知り合えて、教えられる事も多く勉強になった。あまり深く考えず気軽に参加して、親睦を深めていくという形で、一人でも多くの人が参加して輪を広げていければいいのではないだろうか。また、私は今回初めて参加したにも関わらず、パネラーとして盲学校教育について話させて頂いた。初めての経験で戸惑う事も多かったが、こういった機会を与えて下さった事に感謝している。また、盲学校教育の問題点なども、この機会に考えればと思っている。教育分科会も、比較的若い人達の参加が多かったので、身近な問題として考えるにはいい機会だと思った。
 今回参加して、いろいろな人と知り合え、教えてもらうことも多かったので、これを機会に、また機会があれば参加したいと思っています。

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 視労協の大会に参加して
 安達 麗子

 私は今回初めて、視労協の大会に参加させていただいたのですが、本題に入る前に、どのような経過で私が視労協を知るに至ったのか、お話させていただきたいと思います。
 私が視労協を知ったのは、大学3年の秋頃だったと思います。大学の点訳サークルの友人がお手伝いにうかがっており、友人を通して視労協のことを聞いたのが一番最初の出会いでした。その後、お電話で江見さんとも何度かお話をし、是非大会にも参加してみたいと思ってはいたのですが、大学4年になり、就職活動などでバタバタしているうちにチャンスを逃がしてしまっていました。ところが、そんな1月のある日、思いがけず江見さんから、「3月に視労協の大会があるので参加してみませんか」というお誘いの電話をいただいたのですが、それだけではなく、「その時の教育分科会のパネラーとして『視覚障害者の学生生活』について話して下さい」と頼まれてしまいました。私は視労協というグループが活動していることは知っていたのですが、具体的な活動についてはほとんど知らなかったので、そんな状態で話などできないと思い、何度お断りしようと思ったのですが、江見さんの熱心さにほだされ、私でお役に立てるならとお引き受けすることにしました。
 当日は、教育分科会、生活分科会、労働分科会、三療分科会と4つのグループに分かれ、活発な議論がなされました。先程触れましたように、私は教育分科会に参加し、「視覚障害者の学生生活」について話をさせていただいたのですが、ほかの2人のパネラーのお話に比べ、私のそれはまとまりがなく、支離滅裂なものになってしまい、大変お聞き苦しかったのではと、今になって反省しているのですが、私の話の中からどのような学生生活を送ってきたかを、少しでも理解していただければ幸いと思っております。
 パネラーのお話が終わると出席者の方々から、活発な意見が多く出、最終的には(結論は出なかったのですが)、盲学校教育がよいか、統合教育がよいかというところにまで話がエスカレートしました。近年では視覚障害者に門戸を開く大学も多くなり、また少しづつではありますが、小・中・高等学校における統合教育も行われつつあります。私もその中の一人で、小学校か
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ら高校までは公立の学校に通い、大学も私立の女子大で学びました。「視覚障害児(者)にとって盲学校がよいか、統合教育がよいか」という問題は、すぐに結論のでるものではありませんが、私に関して言える事は、「大変な事もあったけれど、統合教育を受けさせてくれた両親や、私を支え、助けてくれた先生方や友人に感謝している」ということです。しかし就職活動をして感じたことは、盲学校に知り合いがいないため、得られる情報が少ないということと、視覚障害を持っていらっしゃる方が、将来をどのように考え、職業を選択しているのかということを知らなさすぎたという思いも感じています。とは言え最終的にはすばらしい友人や先生方にも恵まれ、充実した学生生活を送ることができましたし、友人を含め、一般の健常者の間でも私と接することによって視覚障害者に対する認識が少しでも高められればと思っています。
 最後になりましたが、これからも視労協の活動が視覚障害者にとってあらゆる面で、よりよき道を切り開いていくものとなりますよう念願いたします。
 (平成6年4月14日)
 (校正者注:挿絵省略)

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 新入会員プロフィール

 前号に続いて今回も2人の新入会員のプロフィールを紹介します。
 ○質問項目―@なまえ A学校、職場など B希望の職業 C視覚障害者の課題 D視労協への提言 E好きなミュージシャン F趣味、特技など。

 ◎@本間美紀。A日本ルーテル神学大学。B大学で4年間学んだ事を生かして、福祉の分野で働きたいと思っている。C障害者の中でも特に視覚障害者の就職選択の幅は狭い。今すでにある選択肢を維持し続けていくと同時に、ほんの少しだけでも開拓していく必要がある。可能な限りの技術は身につけること、視覚に障害がある故に感じること、経験すること、できること、楽しめることなど、もっと世の中にアピールしていくことが大切であると思う。また、視覚障害者の持つ鋭い感覚、豊かな感受性(本当に持っているのかわからないが、健常者はそう思っているようだ)を生かして、それを利用した職業を考え、創り出していくこともできたら面白いと思う。D視労協についてはあまりよく知らないので何とも言えない。E好きなミュージシャンは誰かと聞かれると本当に困る。私は音楽は全般的に何でも聴く。そして何を聴いても楽しめるのである。クラシックも童謡も民謡も洋楽も、とにかく何でも聴くし好きである。F趣味は読書、音楽鑑賞、スポーツ、食べる事、旅行など沢山ある。単純な生活なので、何をやっていてもその時その時で楽しめる。特技は何もない。

 ◎@愛甲和広。A松本病院(はり、きゅう治療)。B―。C視覚障害者一人一人が今おかれている状況を理解し、危機感を持たなければならない。D―。E今井美樹。F特になし。

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 いままでの自分を振り返って
 山村豊(視労協会員)

 私は、東京は多摩の山懐(ふところ)、青梅市に住む、山村豊と言います。
 生まれた時から目に異常があったらしく(詳しい事は分かりませんが)生後5日目位の時に眼科にかかったみたいです。
 それから、5才位までは普通の子供と変わりなく、かえって活発な子供だったように思います。ただ、テレビをつけるとテレビに目を近付けて見てしまって、母親からよく叱られ、また、なんだか変だなということになりました。そして、また改めて眼科に行ってみました。
 その結果、強度の遠視だということが分かりました。(裸眼で0.04位で今もそれ程変わってはいないと思います。)
 そこで、メガネを作ることになりました。ただ、メガネを作っても、本などを読む時にはあまり良く見えないし、物凄く分厚いレンズになってしまったのです。
 それで、メガネを掛けても0.2〜0.3位しか見えないので、小学校に入学するとき、普通学校に行くか、それとも盲学校の様な所に行った方が良いのかで問題になりました。
 しかし、結局普通の小学校に入学しました。学校に入ってからは不自由なこともあったし、「牛乳ビンのようなメガネ」などと言われてずいぶんいじめられたこともありました。このことでは今でも物凄くコンプレックスを持っています。けれども、なんとか高校までは進むことができました。(途中でコンタクトレンズを使用したこともありましたがどうして

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も違和感があって馴染めませんでした。)
 そして、高校を卒業するというときになって、これから先どうしていったら良いのか分からず悩みました。
 ただ、このとき父の勧めで(知り合いが居たらしい?のですが)栄養士の学校に行くことにしました。自分では他の何か道に行きたかった思いもあったのですが。
 栄養士の学校そのものは、やはり、きつかったけれど(赤点ばっかり取っていました。)なんとか卒業はすることができました。
 ところが、いざ社会にでようとする時になってまた悩んでしまいました。コンプレックスがあったせいもあると思います。
 しかし、やっと、なんとか日産自動車が委託している「G」という会社(正式名は、お世話になった人がいるので伏せさせて下さい。)に就職することができました。
 この会社は、日産の給食をやっている会社で、ここで私は、キャッシャー・自動販売機の管理・そして調理のような仕事をやりました。
 ところが、まず、消費税に関しての問題・そして日産が不況というか景気が悪くなってから、自分の仕事にだんだん問題が起きてきました。
 そして、だんだん、他の人とは一緒には仕事ができなくなってきてしまったのです。たとえば、視労協の人達には分かって貰えると思うのですが、車の問題などもあります。そして、結局Gという会社を辞めてしまいました。
 ここで、自分は普通の人とは、同じ様には仕事などにつく

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ことができないと思ったので、障害者手帳のことで、障害者手帳を交付してもらうことはできないかということで、心身障害者福祉センターに行きました。
 しかし、手帳の交付はできないと言われました。前にも一度、別のところだったと思いますが、相談にのってもらったことがあったのですが、その時もだめでした。
 仕方がないので、また、普通のかたちで就職活動して、東京青梅病院というところにやっと就職することができました。しかし、ここでもやはり旨くいかず、結局、辞めることになりました。特に、東京青梅病院は最初就職した際に話したことと少し話が違っていたし、人間関係がうまく行かなくなって辞めてしまったのです。
 また、失業状態になってしまいました。そして、また、就職活動をすることになりました。しかし、これは口実に使われてしまうだけなのかも知れませんが、視力のこと、車の免許を持っていないことなどの理由で、面接に行っても全然仕事が見付からないのです。
 そして、だんだん、なんだかイライラしてきて、一種のノイローゼのようになってしまいました。それで、もう一度、身体障害者手帳のこととかで心身障害者福祉センターに行ったりもしました。そうした行動をしていた中で、障害連(校正者注:「障害連」下線)の関根義雄さんと知り合いになりました。そして、関根義雄さんから視労協を紹介してもらいました。
 視労協の活動のことなどはまだ良く分かっていませんが、いま、視労協の活動に参加することに興味があり、メンバーの人達と会っているとなんだか気持ちがホッとするような楽

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しい気持ちになります。
 自分のこれからのことはまだ見定まっていませんが、いま、OA講習に行っていて、それが生かせるような仕事につけるかどうか分かりませんが、頑張ります。
 これからもよろしくお願いします。
 (校正者注:挿絵省略)

裏表紙の裏
 〈お知らせ〉
 □障害者生産協同組合
 はり・マッサージユニオン第8回総会
 ○1994年6月4日(土)午後2時〜
 ○渋谷区立勤労福祉会館
 ○問い合わせ03‐3780‐0585(宮)

 □会費・定期購読費・カンパの送り先
 ○郵便振替口座 東京8‐92981
 加入者名 視覚障害者労働問題協議会

 編集後記

 会員の勤める病院で、「物療科閉鎖」の提案が出されました。マッサージ単独での保険点数がとれない状況の中で、視覚障害マッサージ師の解雇が続いてしまうのでしょうか。正直なところ、こうした事態に反撃する体制を作ることができていません。国家試験での合格率低下やカイロの動向も含めて、この1年間視労協運動の中心的課題として取り組んでいかなければならないと思います。(奥)

裏表紙(奥付)
 1994年5月20日 定価200円
 編集人 視覚障害者労働問題協議会
 〒239 横須賀市長沢115グリーンハイツ2-7-405 奥山 幸博気付
 発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6〜26〜21
 視覚障害者労働問題協議会



■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
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