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『障害の地平』No.75

視覚障害者労働問題協議会 編 19930505 SSK通巻第269号;身体障害者定期刊行物協会,24p.

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last update: 20210515



視覚障害者労働問題協議会 編 19930505 『障害の地平』第75号,SSK通巻第269号;身体障害者定期刊行物協会,24p. ds. v01

■全文


 表紙
 SSK―障害者開放運動の理論的・実践的飛躍のために―
 子宮から墓場までノーマライゼーション!
 ―視労協―
 障害の地平 No.75
 あらゆる分野で明確にしよう「視覚障害者」独自の課題
 視覚障害者労働問題協議会
 一九七一年六月十七日第三種郵便物許可(毎月六回 五の日・0の日発行)
 一九九三年五月五日発行SSK通巻二六九号

 目次
 視労協的気分 込山光広…1
 くたばれ!タッチパネル 服部敦司…3
 誌上インタビュー
 「益田毅さんに聞く」…5
 第9回視労協交流大会報告…9
 分科会報告
 「公務員・教員」…10
 「生活」…12
 「三療」…15
 視労協大会に参加して 江見英一…16
 第9回視労協交流大会へ参加して 薩川勇…17
 資料@医業類似行為に対する取り扱いについて…19
 資料A「福祉用具の研究開発及び普及の促進に関する法律案」について…22
 資料BJTB「ご確認書」中止…24
 事務局移転のおしらせ
 編集後記

p1
 視労協的気分  込山光広
 A大学は私の母校である。1950年代の前半にキリスト教的建学精神により視覚障害者(以下視障者と略す)に門戸を開放し、2人め女性が入学し卒業した。しかし彼女達の1人が就職の世話を頼み、学校当局が仕事探しに大変苦労したとの理由で視障者に門戸を閉ざしてしまった。二度と苦労したくないということである。
 1960年代後半は学園紛争の季節であった。A大学では1967年に10年余りに渡って閉じてしまっていた門戸を再び視障者に開放した。理由はA大学入学を強く希望する受験者がいたこと、学院長の片腕といわれる教授が視障者の受入れに熱心であったこと、学園紛争の火種となるようなものは早く摘み取っておきたかったことなどであった。そして勿論キリスト教的建学精神も理由であった。門戸開放といっても本当に一部分の学科のみで、しかも「特別学生」というレッテルを貼ってである。
 1968年に3人の視障学生が入学した。大学の授業について行けるか、卒業することができるかを1年間かけてみるため「特別学生」という条件付である。この制度は外国人が入学する場合に適用される語学力の不足などから学業が続けられない場合、一般学生とちがい中退者の扱いにならず、従って大学にとって悪い実績として記録に残らないというものらしい。一年後当局は「特別学生」の延長をだしてきた。別に学生の身分として一般学生と何ら変るところはないから依存はないという。確かに実質的なちがいと言えば学生証の番号が普通はアルファベット順なのに視障者の場合はつけたりに一番後におかれるため出席をとる際に最後になる位のものであり、かえって授業に少々遅れても出席の点呼にまに合うメリットがある位だった。それ故とりたてて一般学生と分ける必要はないと私達は主張し、結果として視障者に関しては特別学生制度をやめさせた。
 視障者がいれば当然のこととして全学に渡って全ての学部学科の開放を求める気運が盛り上がる。門戸開放委員会が設置され、意気盛んな学園闘争の中で独自の活動が活発に展開された。しかし当局は通学及び学内の安全が保障できない、学習が保障できない、障害者の入学は世間的にイメージダウン

p2
になるなど現に存在する視障学生の実績を見ようとせず門戸開放に対し否定的な態度に終始した。
 そして1978年、A大学は再び門戸を閉ざした。学園紛争が鎮静化し紛争の火種がなくなったからだという。学園闘争を鎮めるために統一原理(世界基督教統一神霊教会)を導入し、保護、育成した大学はなりふりかまわず障害者をしめだした。そして日々学内のチャペルでは、人は神の前に平等であり誰もが尊い命であり希望をもって幸福な暮しができるようにと祈りが捧げられている。
 それから15年後、ノーマライゼーションを理念とし、「完全参加と平等」をテーマにした国際障害者年及びそれに引続く10年を経過した今も尚、A大は立派な校舎を建て増ししたが中味は旧態依然たる姿をはずかしくもなく曝している。
 私の人生の一時期かかわった学校にすぎないが障害者解放をのぞむものとして到底許すことのできない「大学」である。やはり立ち止まらずに明日をみつめて地道に運動を持続するしかない。
 (校正者注:挿絵省略)

p3
 くたばれ!タッチパネル
 服部敦司(視労協会員)
 タッチパネルは、ここ数年銀行の現金自動預払機(ATM)をはじめとしていろいろな機械に採用される様になった。スイッチがなく、接点がないので故障が少ない、だからメンテナンスが楽というのが普及している最大の理由である。しかし、この機械、私達視覚障害者には全く使う事ができない。 又、肢体不自由者や高齢者からも「使えない!」との声があがっている上に、健常者にとってもミスタッチが多かったり、画面が見にくかったりと決して使い易いものとは言えない様である。問題の発端は、京都銀行楠葉支店にこれまで設置されていたボタン式の現金自動支払機(CD)がタッチパネル式のATMに変換され、全盲の私が現金を引き出せなくなったところからはじまる。
 ○CD機は減価償却が終わった。
 ○すでにメーカーでもボタン式のものは作っていない。
 ○お客様(おそらく健常者)の中から、機械によって機能がちがうのは不公平との苦情がでていた。(確かにCD機はATMに比べて送金ができない等、機能面では劣る。)
これらが銀行側の言い分である。
 こちらは「3年前から、この銀行を利用しているのだから、客の中に視覚障害者がいた事は知っていたはず。今までできていた事が新しい機械が入った事によりできなくなったのは納得し難い」と反論。その後のやりとりで銀行側がメーカー(富士通)に対して視覚障害者にも使える様な補助パネルの開発を依頼。2月中旬、このパネルの試作品が完成した。それはプラスチック製のパネルに「引き出し」「確認」「訂正」、1〜0等の四角い穴があいており、そこに指を入れると本体のタッチパネルが反応するという、ごく簡単なものであった。使い易いとは言えないまでも、何とか操作は可能である。これで最低限の機能(引き出し)については、10月以前の状態に戻ったものの「入金」「送金」(振り込み)に関しては利用は不可である。又、この間の銀行とのやりとりで明らかになった事は、
 @ATMに対する苦情の大部分が高齢者からのものであること。
 A郵便局が障害者にも使い易いATMを開発し、各局に設置している事。

p4
 Bこの郵便局のATMの開発に富士通、オムロン、沖電気の三大大手メーカーが技術協力している事。
 C現在、これらのメーカーがそれぞれ障害者用と銘うって、点字・音声表示機能などのついたATMを開発している事。
 Dすでに沖電気とオムロンからはこうしたATMが発売されている事。
 E京都銀行にも本店・支店を合わせて沖電気製のもの2台が導入されている事。
等である。
 京都銀行側は、今回の補助パネル製作を第1歩としてとらえ、今後徐々に改善していきたいと話している。しかし根本的な問題は利用者にとっての操作を全く無視して、経営者側(メーカーや銀行)の都合だけで、あの様な機械が普及しているところにある。このままタッチパネルを野放しにしておくと他の機械(例えば駅の券売機やジュース・タバコの自販機等)にも使われる恐れがあり、ますます私達障害者の排除が進む事が考えられる。今の段階で何らかの具体的な行動をおこしておく必要があると思われる。
皆さんのご協力を!!
 (校正者注:挿絵省略)

p5
 誌上インタビュー
 ―益田毅さんに聞く―(第1回)
 聞き手 奥山幸博
 知る人ぞ知る益田さんにインタビューを敢行。ついに機関紙に登場させることになりました。何せ長〜い人生経験を持っている益田さんのこと、とても1回だけで話を聞くのは無理です。シリーズ形式でこれからものせていきたいと思いますので楽しみにしていて下さい。
 (奥)=奥山 (益)=益田

 (奥)まず生い立ちから伺います。
 (益)生まれは1926年(大正15年、昭和元年)の6月6日です。
 (奥)視力の障害は生まれた時からですか?。
 (益)いえ、翌年の時あたかも4月29日、昭和天皇の誕生日に失明したそうです。親から聞いた話ですが。
 (奥)原因はわかっているのですか?。
 (益)私の祖母という人は明治の女性として権利意識もしっかり持った立派な人でした。私にもいい人でした。祖母は早くに未亡人となり、私の父は一人息子(女の子はいましたが)でした。そんなことで私の母親は食物などで気がねしたようで、その結果栄養不良ということだったようです。視神経の萎縮でした。
 (奥)子供時代のことで印象に残っていることは?。
 (益)昔のことではっきりした記憶はありませんが無性に泣いたのを覚えています。それは手術の時だったようです。
 (奥)手術はいつしたんですか?。
 (益)1927年です。私は父の最初の子で、家に帰ってくるのを楽しみにしていて散歩に連れていったそうです。いつもは顔をみるとニコニコしていたのですが、その日に限って様子がおかしいと気づいたそうです。当時、大森の馬込に住んでいたのですが、近所の2軒の医者に連れていったけれど目は開くし何ともないと・言われたそうです。ですが、やはりおかしいと思い東京へ出て、あちこち眼科をかけず

p6
りまわったそうです。当時眼科の名医であったコウモトさんに診てもらいましたが「わからない」と言われたそうです。それでコウモトさんの弟子で慶応のスガヌマという医者へ紹介されて再び診てもらいました。その医者によれば半月の間に手遅れになってしまったとのことでした。両親はショックを受けたそうです。ところがコウモトさんは「まだ見込みがあるかも知れない」と言って、毎日投薬をしてくれました。父の友人にその話をしたところ、その薬が梅毒の薬だったことがわかって父が怒鳴りこんだそうです。コウモトさんが言うには「眼というものは大体3つの原因がある。梅毒か、妊娠中の事故か、栄養不良いずれかで、とりあえず梅毒の薬を使ってみた」という説明だったそうです。
 (奥)結局、自分で物を見たという記憶はないんですか?。
 (益)そうですね。ただ光は感じて、一時眩しいので黒いメガネをかけていたこともあります
 (奥)話は変わりますが、学生生活はどこで?。
 (益)現在の付属盲の予科(現在の幼稚部)から初等部6年、中等部4年をすごしました。中等部1年からハリ・あんまを教えられました。西洋マッサージは2年からでした。中等部の4年間で学校は卒業しました。
 (奥)当時の免許のとりかたは?。
 (益)学校を出た者は警視庁の試験というものを受けました。当時は内務省で警察が監督官庁でした。厚生省ができたのは昭和14年ですから。免許のための試験は中学4年の時だったと思います。
 (奥)卒業後の仕事については?。
 (益)私が免許を取ったのは1944年(昭和19年)の秋でした。当時はあんまとマッサージは別でしたね。戦争中でしたから疎開で1945年の1月29日に東京を発って島根へ行き、そこで開業することになりました。地元の駐在所で手続きをとりました。
 (奥)そこに何年位居たのですか?。
 (益)1947年11月いっぱいいました。
 (奥)患者さんはいたのですか?。
 (益)母の父親という人が村に尽くした人だったので、その関係の人が多かったです。

p7
 (奥)それは一人でやっていたんですか?。
 (益)そうです。それで父から東京に家を買ったので上京するようにと話があり、その年の12月に東京に戻りました。
 (奥)東京に帰ってまたすぐ開業したのですか?。
 (益)すぐにということではありませんでしたが、開業しました。ずっと自宅で一人でやってきました。病院や治療院にいたことはありません。
 (奥)昭和20.30年代、視覚障害者の就職先はどうでしたか?。
 (益)同級生の中には師範部を出て教師になった者もいます。僕も実は師範部を受けろと言われたんです。なぜ、受けなかったかと言うと戦争中、燃料がないでしょう。点字が手がかじかんで読めないんです。それで断念しました。また病院に勤めた者もいました。
 (奥)全盲の人でも病院に勤めていましたか?。
 (益)あの頃の方がかえって居たと思います。昔ほど全盲は病院が多かったと思います。だんだん弱視や晴眼者になっていきました。
 (奥)またまた話は変わりますが視労協と出会ったきっかけは?。
 (益)全障連の方が先だったかも知れません。ふみづき会に参加したのがきっかけでした。おそらく視労協ができて2年後位だったと思います。
 (奥)視労協の活動の中で印象に残っていることは?。
 (益)最初は公務員の点字試験でしたが、堀氏と宮氏が「職業選択」の本を書いたり、三療に関しても重要視していることは立派だと思う。マッサージユニオンを創ったことについては他の団体の人達も評価していますよ。
 (奥)個人的なことを聞きますが趣味は何ですか?。
 (益)僕はクラシックのバロック音楽です。好きになった理由は盲学校時代キリスト教の日曜学校に行き、そこで賛美歌を聞く機会が多かったんです。宗教音楽の断片ですね。どちらかといえばドイツよりイタリアの古いものが好きです。
 (奥)集会に参加するのは趣味ではないんですか?。
 (益)好奇心が強いんでしょうね。たまには旅行に誘われたりしますが、あまり行きませんね。
 (奥)集会ばかり出ていて仕事をする時間がないんじゃないかと心配する

p8
んですが。
 (益)2階を貸しているということもあるけど、月20日位は仕事してますよ。
 (奥)仕事は主に家ですか、それとも往診という形ですか?。
 (益)昔は家でやったんですが、色々物が増えて、今は外へ出てやっています。組合の老人の奉仕など。
 (奥)食事を自分で作ったという経験はあるのですか?。
 (益)あります。家にいた人が御飯の炊き方を教えてくれました。おかずも作りましたよ。
 (奥)最近はほとんどお弁当屋さんのようですがあきませんか?。
 (益)そんなことないです。あきないようなものを選んでますから、カマボコとかソーセージが好きですからあまりあきません。
 (奥)それでは今回はこれくらいにしておきましょう。また機会を作りますから話をして下さい。  (益)わかりました。
 (校正者注:挿絵省略)

p9
 〜大いに飲み、大いに食べ、大いに討論しました〜
 第9回視労協交流大会報告
 奥山幸博(視労協事務局)

 2月27日、28日の両日、東京都障害者総合スポーツセンターにおいて第9回視労協交流大会が開催されました。今年のテーマは「立ち止まらず明日を見つめよう―明日を触ったことがありますか?―」というもので、現状をきちんと認識し明日への運動の方向性を明らかにしていきたいという思いがこめられていました。
 そんな思いを具体的なものにするため27日の午後には「大放談会・視労協の昨日、今日、明日」を行いました。堀議員、込山代表、的野事務局長の3人からテーマに沿った形で問題提起がされました。視労協の結成から、その後の多くの闘いと成果や課題、障害者運動をめぐる今日の状況と視労協の位置、そして視覚障害者の団体として何をなすべきなのかといったことが熱心に語られました。現実問題として限られた活動メンバーの中で何ができ、何ができないのか、独自の目標や闘いをどう組んでいくのか、など新しい事務局体制の下で方向付けをしていかなけれはならないことが数多くあります。
 27日の夕方からは視労協が最も得意?とする交流会。約30人の参加者が狭い部屋の中をあっちへ行ったり、こっちに行ったり、どうにも止まらない大騒ぎ。結末は皆さんの御想像におまかせします。
 28日はう()(校正者注:文書()内、文字が消えているため判読不能)て(?)大真面の1日でした、午前中の総会は残念ながらほとんど()(校正者注:文書()内、文字が消えているため判読不能)も出されずシャンシャンでおしまい。各地の報告は大阪市職の森本さんから「障害者雇用のとりくみ」、京都の仁科さんから「落し物の文書処理をめぐっての警察とのやりとり」、静岡の薩川さんから「地域に根差した治療センター作りのとりくみ」の3つが行われました。
 午後の連帯あいさつでは、次の方より発言及びメッゼージをいただきました。改めてお礼を申し上げます。
  全障連(矢内さん)、全障連(太田さん)・障教連(大葉さん)
  付属盲労組(有宗さん)、民生局支部(古屋さん)、労災被災者の会
  無年金東京都連絡会議、自治労本部
 午後1時30分〜4時まで分科会討論(別途報告)を行い、最後に分科会報告、大会宣言を決議して無事(?)に終了することができました。
 尚、総会の際に行った大阪の慎さんのカンパ(火事にあわれた)は32.365円でした。ご協力ありがとうございました。

p10
 公務員・教員分科会報告

 参加者十五名、教員の方からは六里・荘田さん・大葉さん、公務員からは小山さん・伊藤さんの現場報告があった。

 大里 九十一年十月小学校に復職。視覚障害と人工透析の二重障害がある為、現在に居たっても仕事を摸索中。都教委は『特別措置教員』の更新か『休職』の二者選択を迫っている。健康チェックの為、指定医で受診の通知を受けるが拒否。現在の仕事は『図書の時間』に、点訳してもらった童話などの読み聞かせと点字を少しずつ教えている。しかし都教委はこれを仕事と認めてくれないので、現在ある仕事の中で一人でできそうなものとして通級学級(言葉の教室)への勤務地変更を申請している。しかし、昨年度病欠が多かったため移動はできないとのこと…。もう一つの問題として人工透析の勤務時間内通院がある。現在有給休暇で行っている。
 荘田 小学校三年を担任、十三年前に腎臓の悪化に伴って家庭科専科に変わったが、昨年十年目の強制移動で移動しようとしたがうまくいかず、担任になる。遠足や体育は嘱託の先生にたのんでいる。人工透析に行かない日に仕事の皺寄せがくる。透析に行く時間の補償はされているが、仕事量の軽減は成されていない。今一番の望みはテストの丸付けなどを手伝ってくれる人がほしい。また今年も家庭科で移動を出している。夜間透析にはいろいろ問題がある。近くへ移動できない場合は辞めるしかないのか不安である。透析についてあまり知られていない。少し手伝ってもらえば仕事が続けられる。  大葉 障害があっても教師を続けたいという仲間で「障」教・連をつくった。視覚障害者が教師を続けたいと言っても「目が見えないから生徒の安全管理ができない。目が見えないから授業ができないのでは…」というような視点が根強く残っている。
 具体的な要望として、
 1 眼性疲労などのための授業時間数の軽減
 2 人的援助(アシスタント等) 物的援助(音声ワープロ、立体コピー等)
 3 勤務地の移動。現在の職場は駅からの交通が不便!
 などが上げられる。要望が実現化したものとして、朗読ボランティアが勤務時間内に校内に入れるようになった。そして音声ワープロが公費で購入できた。現在教育委員会に障害者が働き続けるために障害に応じたいろいろな援助(障害補償)の要求をしている。特別措置教員から外されてみたものの今度は健常者並の仕事のノルマを課せられてへばっている。今日の話し合いを土台として教育委員会に働き掛けていかなければならない。

 報告・感想・質疑応答
 *大阪市職では九十三年二月から人工透析に限り、職務免除の制度ができた。半日の職務免除で人工透析に限られているのだが、一方で他の通院問題をどのように解決していくか…

p11
 *東京都では都労連との間に、人工透析のための病気欠勤(時間病欠)が合意されているはずだが都教委は確認をしただけで認めてはいない。
 Q1 統合教育の進められている今、小学校で点字や手話といったものの時間は確保されているのか。また教師としてそういう教育の在り方をどのように考えているのか。
 A1 教育内容が多すぎて授業時数が足りない中で確保するのは難しい。しかしやっていく必要を感じる。
 *視力の低下でいろいろ困っているが、周りの同僚に正しく理解してもらうのが難しい。
 *公立に比べて私学の方か勤務は難しいが私教連にも障害補償の要請をしている。
 Q2 教員は障害者の雇用率の除外に入っていたのでは…?
 A2 公立と私立で違いはあるが、中・高校では50パーセント、小学校では公立が100パーセント、私立では75パーセント。
 小山 組合の専従で視覚障害者の雇用を担当。大阪市では資格障害者はオベレーターが適職とされていた。しかし採用されても仕事がなく、障害を理解してもらえないことから、たくさんの障害者から雇用してもらいたいとの意見があり要望書も出された。障害者雇用の中で視覚障害者・知的障害者の雇用は遅れていたが九十年には福祉職に限り点字受験が認められた。現在の問題点は視覚障害者の仕事の拡大で、事務職にどう入り込むかである。また採用制度の問題点としては市内在住者に限られていることや、自立通勤・自立勤務遂行などの制約がある。これからは市民レベルの運動が必要であると考えている。
 伊藤 川崎市の民生局福祉センター業務課盲人図書館に勤務。現在の仕事が録音図書を担当。アシスタントの仕事は構成表のチェック・発送など墨字の確認。アシスタントは同僚からの要求で職場内の予算の関係から可能になった。問題点としては一つに、今の職場ではアシスタントが取れているが、移動すると取れなくなる場合もある。二つ目にはアシスタントが付くことによって他の同僚がアシスタントに任せておけばいいという感じになる。

 報告・感想・質疑応答
 *千葉県では来年度から上級職に限り点字受験か行われる。
 *九十二年四月からアシスタント(嘱託)が週三日で付いている。主な仕事内容は会議の資料づくりや報告書、会議に関する調査等の点訳。アシスタントの仕事は墨字化した原稿のチェック、調査書の宛名書き等である、十月から週四日に変わった。アシスタントと他の同僚との人間関係はうまくいっているが仕事が少ない上に他の仕事に係われ無いため時間を持て余している。仕事を増やしてほしい!
 Q1 そのアシスタント付きに期限はあるのか?
 A1よく分からない。
 *品川区では福祉関係の施設に配属されてしまう。他の仕事に移動を出しても移してもらえない。本人は移動の希望を出しているが組合としては職種を広げたくないようだ。

p12
 生活分科会報告
 込山 光広

 視覚障害者の生活上の問題をざっくばらんに出し合い解決に向けて行動することを視野におきながら話し合われた。
 パネラーとして井山哲郎さん(都職員・老人ホーム指導員)甲賀恵子さん(派遣会社勤務電話交換手)、古屋幸宏さん(都職員・元視覚障害者施設勤務)の3氏を迎かえ21人の参加者で活ぱつに意見交換が行われた。

 井山…自らの自炊の経験とアパート探しの経験を通して問題点を話したい。自炊はまったく食べ物や料理についての知識のないところから始めた。ごはん炊きの水加減や「ひとくち大」の大きさなどがわからなかった。いく度も失敗を重ねながら今では得意料理や焼豚も作れるようになった。自分の経験から具体的に料理や相談ができるところや給食サービスの必要性を感じた。アパート探しでは話が進んでいざ契約という段階になって貸主に「目が不自由な人は預かれない。困った困った」と言われ契約がふいになった。不動産屋を50軒たずねたが、その9割までに白杖を見ただけで断られた。その他郵便物を出すこと、銀行の自動支払機 駅員がみつからない(聞くことができない)駅の不便さも感じている。よく言われる「障害者にやさしい街」ではなく「障害者に責任制を持つ街」作りが「完全参加と平等」達成のかぎである。

 甲賀…1才半の女の子を持つ母として、育児について語りたい。育児が大変なのは知らないからであり、問題として3点をあげたい。

P13
 (1)家庭経済 夫婦の在り方、子育てに関して盲教育(家庭科、社会科)の中でいっさい教わらなかった。晴眼者は赤ちゃんについて見聞きする機会が多く妊娠中、病院の待合室でも情報がとれる。視覚障害者は身近にいなければ赤ちゃんを見る(触わる)機会もない。赤ちゃん大の人形を使っての実習も必要であり、社会見学も保育所や学校などにしたら良いと思う。
 (2)産前、産後の仕事上の配慮や育児時間は法律上で認められていることなのに働きながら育児する母親に対する職場でのいやがらせはかなりきつい。妊娠中通り道にわざと椅子や物をおかれたり、男性にお腹をさわられたりした。もっと当然の権利として自信を持つ必要がある。
 (3)家庭で役割を分担し、育児にかかわらせることによって夫を変えて来た。子どもは夫婦が一緒に育てるものである。育児は大変、でもそれ以上に得られるものがある。

 古屋…見えるものの立場から話したい。重度身体障害者(視覚障害者と肢体不自由あるいは知恵遅れを合せ持つ者)授産施設に8年間勤務。労働組合としてひと味変った施設にと願ったがどこにでもある施設(個室ではなく集団生活)やはり特殊な社会になってしまった。年金はまちまちでありプライバシーはまったく保障されていない。施設利用者50名中全盲は5.6名と少数。見える人達を中心に考えるため移動(外出)の保障がなく不利益を被っている。個人個人への生活情報・提供も不充分である。日常生活で何を大事にするかが働く側がよく見えない。自治会の結成とその活動に期待したが、まとまった力として結集できず職員が対応しやすい施設利用者となっている。労組としては施設利用者を取り込んだ運動の

p14
 構築が課題である。

 フロアーからは次のような意見がだされた。
 (1)JTBの海外パック旅行で障害者の参加に条件がつけられていることになる。それは露骨な障害者排除である。
 (2)銀行の自動預払機がタッチパネルになり使えない。他の機会にも使用される恐れがある。
 (3)ヘルパーは時間帯、回数、人など全て行政が決め利用者はまったく選択できない。買い物など必要なことにガイドヘルパーを使えず障害者の自立を阻む生活のあり方となっている。利用者が参加する あるいは勝ち取っていく介護を思考すべきだ。
 (4)白夫川問題では、追いつめられた相手側は建物所有者、仲介不動産屋が借り、それを白夫川氏に転貸しする(即ち貸主は形式上視覚障害者に貸しているのではない)という提案をしてきた。あくまでも謝罪文を要求していく。
 (5)自動改札で出入口がわからないので誘導チャイムの設置を要求している。
 (6)盲学校では生徒数がきわめて少なく教育の態をなしていない。
 (7)今の学生は妥協することを覚え、強制されることに慣れている。とかく問題意識が希薄である。

 時間が足りず言い足りない人もいたようだ。参加者1人1人の意見を汲み上げ具体的な要求作りにいかし私たちの課題として取り組みたい。

p15
 三療分科会報告
 宮 昭夫

 何年ぶりになるのかははっきり思い出せないが、ともかく視労協人会の分科会に三療問題が復活した。出席者は12人。久し振りの割にはまずまずといったところか。自己紹介の後早速筑波大付属盲学校の有宗氏、ヘルスキーパー協会会長の伊藤氏、はり・マッサージユニオンの加藤氏の方からそれぞれ問題提起を受け、さらに病院勤務の立場から提出された的野氏のレポートを加えて活発な質疑が展開された。
 まず有宗氏は、一昨年厚生省が出したカイロプラクティック問題をめぐる「通知」を取り上げ、明らかに脊椎に問題のある疾患に対する施術の禁止やスラスト法と呼ばれる急激な矯正法の禁止など、一見カイロ業者一に大きな打撃を与えたかの様に見えるかもしれないが、通知の内容にはあやふやな点が多いし、また「通知」を逆に読めばスラスト法や脊椎疾患に対する施術さえしなければ、カイロの営業権を正式に認めることにもなると警戒を呼び掛けた。
 ヘルスキーパー協会の伊藤氏は、会発足の経過や現状を説明した後、ヘルスキーパーは一応着実に伸びてはいるが、結局は一人職場であることが多いなど、人間関係の問題や研修の問題、待遇の問題などヘルスキーパーをめぐる新たな課題について紹介した。
 はり・マサージユニオンの加藤氏は、新しい発想のもとに出発したユニオンの歴史と現状を紹介すると共に、新しい発想は組織や運動の面だけでなく、治療法に関しても必要ではないかと提起した。
 的野氏のレポートは、病院におけるマッサージの保険点数の問題や人間関係の問題など、益々困難な立場に置かれつつある病院マッサージ師の現状を分析し、問題を提起したものだった。
 自由討議は主にカイロ問題とヘルスキーパーの将来について,意見がかわされた。カイロに関しては今までいくつかの団体に分かれて、必ずしも足並のそろっていなかったカイロ業界が大同団結して「協議会」を結成するなど、益々重要局面をむかえつつあることで大方の見方は一致した。問題は我々の側の主張の一本化と団結という事。
 ヘルスキーパーに関しては様々な課題はあるが、この機会を逃さずさらに

p16
飛躍的な雇用拡大に向けて取り組むべきだという方向性が確認された。カイロ問題にしてもそうであるが三療をめぐるこれまでの我々の運動は、ともすれば我々の既得権、業権を守るために、「…に反対する」運動であった。それは必要であったし、今でも必要である。しかし、同時に我々は新たな権利や機会を勝ちとる運動を創り出す時ではないか。

 視労協大会に参加して
 江見英一
 今、私が視労協大会の事を思い出そうとして一番に頭の中に浮かんでくるのは、真夜中まで(中には早朝までの人も居たが)続いた交流会の熱気というか、余韻というか、まあ大変な時間だったことだ。余りにもこの時の余韻が強すぎて他の出来事が頭の隅に追いやられてしまう。できるだけ思い出してみる。
 まず一日目は視労協の「昨日、今日、明日」ということで、それぞれの立場から視労協の説明やこれからの思いが語られた。普段の定例会で向い合って聞いている時より視労協の主力メンバーがしっかりと熱っぽく語っていた。その中で視労協の「昨日」についてなどは、私を含め若い世代にとっては測り知れない苦労があったようだ。
 第二日目は、夜の交流会に参加し宿泊したメンバーは一様にすぐれない様子で始まった。分科会の中で私が参加した生活分科会は、若い層の参加者もみられ、パネラーもまじえ活発な議論がかわされた。
 大会を通じて私は、視労協にはまだ沢山取り組まなけれはならない課題が山とある。そのためにも今の主力メンバーはもとより、もっと多くの仲間が普段から集い積極的な活動をしていかなければならない。

p17
 第9回視労協交流大会へ参加して
 静岡障害者雇用事業団
 はり・きゅう・マッサージゑいむ堂  代表 薩川勇

 去る2月27日, 28日にかけて行われました第9回視労協交流大会に初めて参加させていただき、大変有意義な時間を過ごす事が出来ました。本当にありがとうございました。全国の皆様方が、各地域で、そして職場でとそれぞれ問題意識を持ちながら視覚障害者のリーダーとして、日々活動なさっている様子を、直接肌で感じとる事が出来ました。
 それにひきかえ自分は?と見れば、本大会のテーマ「立ち止まらずに明日をみつめよう」とは程遠く、つい立ち止まっては、明日をみつめることもなく、ただのんべんだらりと過ごしてしまう毎日でとても反省させられました。帰りの新幹線では「明日から頑張るぞ」と決意を新たにしました(ビールを飲みながらの決意です)。
 さて、二日目の分科会は、自分に最も関係の深い三療分科会に参加させていただきました。その中でとくに、論議が集中したのは、ヘルスキーパーについてとカイロプラクティック問題でありました。その他各治療院は?という事になると、私の所を含め、ほとんど景気のいい話は聞かれませんでした。これも又、不況のあおりか無資格のカイロや晴眼者のめざましい進出で、視覚障害者の治療院は多大な影響を受けているという事なのか?。いずれにしても個人の治療院経営は困難になってきているようです。そんな厳しい現実が我々視覚障害者三療師の生活を圧迫しております。今、我々がこの三療業で生き残っていこうとする時どうしたらいいのか?自分自身の障害の他に、社会の厚い障壁とどう戦って乗り越えていけばいいのか?これは非常に難しい問題であります。しかし、このまま手をこまねいているだけでは、業界の将来は晴眼者だけの手にうばわれてしまい、盲人三療師はただ年金生活だけで飼い殺しになってしまうかも?…などと考えてしまうのは少し大袈裟過ぎるのでしょうか。でも中には社会の障壁にも負けずに、立派に実力で成功なさっている方々がいらっしゃる事も事実です。  私も以前から業界の現状には危機感を持っておりましたが、なんのてだて

p18
もなく・ともかく何とかしなければならないと漠然と思うばかりで今に至っております。
 私は免許を取得してから20年余りになり、去年の3月まで自宅で開業しておりました。この間勝手気ままに一人でやってまいりましたが、順風満帆というわけにはいかず、誰もが経験するように厳しい波風も多くありました。
 現在は去年4月から静岡障害者雇用事業団にお世話になり、三療業を主に少しですが点訳などの事業を担当しております。ここはその他にも障害者を主体とした事業所がいくつかあり、障害者の自立の基本でもあります働いて生活出来る場があり、健常者も障害者も全ての人が生き生きと楽しく暮らせる町づくりをめざし15年程前から活動している団体で、はり・きゅう・マッサージゑいむ堂もその中の一つの事業所です。それまでのたった一人の自宅開業とは違い、ゑいむ堂の開業前から仲間の障害者の人達が、近所への挨拶やビラまき等を手分けして協力してくれましたし、経営についても会議の中でみんなが色々なアイディアを出し合って決定していったりと、一人落ち込んで悩んでしまう事が少なくなりました。
 又、ゑいむ堂では不定期ではありますが、「ゑいむ堂通信」というニュースの発行・企画物として、地元の夏祭りに「ゑいむ堂花火を見る会」、「ゑいむ堂で話を聞く会」として講師を招いて夫々の立場で話していただきます。そして点字を習いたいという人の為に点字講習会を開いております。これらはゑいむ堂の宣伝の意味も大きいのですが、利益を得る事業としては・はり・きゅう・マッサージの他に治療チケットの販売、点字入りの名刺をはじめ各種点字印刷、例えば会合の資料の点訳、まだ取り扱ったことはありませんが飲食店のメニューの点字化等々点訳に関することを収入源としてやっております。
 新規開業から一年、まだまだ全てに順調というわけにはまいりません。改善しなければならない所もあると思いますが、今度は私一人で迷わなくてすみます。仲間に知恵をかりてやっていく事が出来ます。
 今の経営方法がいいのかどうか分かりません。まだ模索中です.ただ自宅での開業にあきがきていた私には、何か刺激が欲しかったのです。もっと違った経営の形がないものだろうかと思っていた時期でしたので、いい刺激にしたいと思いました。
 将来の見通しがつく所までは到底いっていませんが、一歩づう着実に成長していくように仲間と力を合わせて頑張りたいと思います。

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 資料@
 医事第58号 平成3年6月28日
 各都道府県衛生担当部(局)長殿
 厚生省健康政策局医事課長

 医業類似行為に対する取扱いについて

 近時、多様な形態の医業類似行為又はこれと紛らわしい行為が見られるが、これらの行為に対する取扱いについては下記のとおりとするので、御了知いただくとともに、関係方面に対する周知・指導方よろしくお願いする。
 記
 1.医業類似行為に対する取扱いについて
 (1)あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう及び柔道整復について
 医業類似行為のうち、あん摩マッサージ指圧、はり、きゆう及び柔道整復については、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和22年法律第217号)第12条及び柔道整復師法(昭和45年法律第19号)第15条により、それぞれあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師及び柔道整復師の免許を有する者でなければこれを行ってはならないものであるので、無免許で業としてこれらの行為を行ったものは、それぞれあん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律第13条の5及び柔道整復師法第26条により処罰の対象になるものであること。

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 (2)あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう及び柔道整復以外の医業類似行為について
 あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう及び柔道整復以外の医業類似行為については、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律第12条の2により同法公布の際引き続き3か月以上医業類似行為を業としていた者で、届出をした者でなければこれを行ってはならないものであること。したがって、これらの届出をしていない者については、昭和35年3月30日付け医発第247号の1厚生省医務局長通知で示したとおり、当該医業類似行為の施術が医学的観点から人体に危害を及ぼすおそれがあれば禁止処罰の対象となるものであること。

 2.いわゆるカイロプラクティック療法に対する取扱いについて
 近時、カイロプラクティックと称して多様な療法を行う者が増加してきているがカイロプラクティック療法については、従来よりその有効性や危険性が明らかでなかったため、当省に「脊椎原性疾患の施術に関する医学的研究」のための研究会を設けて検討を行ってきたところである。今般、同研究会より別添のとおり穀告書がとりまとめられたが、同報告においては、カイロプラクティック療法の医学的効果についての科学的評価は未だ定まっておらず、今後とも検討が必要であるとの認識を示す一方で、同療法による事故を未然に防止するために必要な事項を指摘している。
 こうした報告内容を踏まえ、今後のカイロプラクテイック療法に対する取扱いについては、以下のとおりとする。

 (1)禁忌対象疾患の認識
 カイロプラクティック療法の対象とすることが適当でない疾患としては、一般的には腫瘍性、出血性、感染性疾患、リュウマチ、筋萎縮性疾患、心疾患等とされているが、このほか徒手調整の手技によって症状を悪化しうる頻度の高い疾患、例えば、椎間板ヘルニア、後縦靭帯骨化症、変形性脊椎症、脊柱管狭窄症、骨粗しょう症、環軸椎亜脱臼、不安定脊椎、側弯症、二分脊椎症、脊椎すべり症などと明確な診断がなされているも

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のについては、カイロプラクティック療法の対象とすることば適当ではないこと。
 (2)一部の危険な手技の禁止
 カイロプラクティック療法の手技には様々なものがあり、中には危険な手技が含まれているが、とりわけ頚椎に対する急激な回転伸展操作を加えるスラスト法は、患者の身体に損傷を加える危険が大きいため、こうした危険の高い行為は禁止する必要があること。
 (3)適切な医療受療の遅延防止
 長期間あるいは頻回のカイロプラクティック療法による施術によっても症状が憎悪する場合はもとより、腰痛等の症状が軽減、消失しない場合には、潜在的に器質的疾患を有している可能性があるので、施術を中止して速やかに医療機関において精査を受けること。
(4)誇大広告の規制
 カイロプラクティック療法に関して行われている誇大広告、とりわけがんの治療等医学的有効性をうたった広告については、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律第12条の2第2項において準用する第7条第1項又は医療法(昭和23年法律第205号)第69条第1項に基づく規制の対象となるものであること。

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 <資料>A
 「福祉用具の研究開発及び普及の促進に関する法律案」について
 厚生省
 通商産業省

 背景
 ○高齢者や障害者が住み慣れた地域や家庭で安心して暮らし続けるとともに、できるだけ自立し積極的に社会に参加していくことを可能にするためには、「高齢者保健福祉推進十か年戦略」等に基づく在宅福祉サービスの充実とともに、各種の福祉用具の利用が重要。
 【福祉用具の例】
 (電動)車いす、(電動)介護用ベッド、移動用リフト、補聴器、義手、義足、発声発語訓練装置
 ○しかしながら、福祉用具については、必ずしも積極的な研究開発が行われておらず、その普及も十分ではないという現状にあり、次のような課題が指摘されている。

 【研究開発】利用者の需要(心身の状況、本人又は介護する者の福祉用具を取り扱う能力、家屋の構造等)にあった福祉用具が少ないこと。我が国の優れた産業技術が福祉用具の研究開発に十分活用(ハイテクの活用、人間工学や生理学等の応用、多品種・少量生産に適した製造技術の採用)されていないこと。
 【普及】利用者が必要とする福祉用具を入手しにくいこと(福祉用具を実際に見たり、試したり、相談する場が少ない等)。

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 取組み
 ○厚生省では、老人福祉法等の「研究開発の推進は国の責務」とする規定、心身障害者各法の諸規定等を踏まえ、国立身体障害者リハビリテーションセンターにおける研究開発・製造業者に対する助成、公的な給付事業の拡充、地域における展示・相談センターの整備等の研究開発から普及にわたる総合的な施策の充実に取り組んできたところである。
 また、平成4年7月には、厚生科学会議の部会として設置した「介護機器等研究開発推進会議」から今後取り組むべき施策を内容とする報告書が提出されている。
 ○通産省では、昭和51年以来「医療福祉機器技術研究開発制度」において最先端の産業技術を駆使した福祉用具の研究開発に取り組むとともに、製造業者、販売業者等に対する支援を行ってきている。また、本年1月には、産業技術審議会に設置された「福祉機器技術政策小委員会」から、福祉機器の技術に関する総合的政策の今後のあり方について報告書が提出されている。
 ○このような取組みを踏まえ、その一層の推進に向けて基盤を整備するため、厚生省及び通商産業省は「福祉用具の研究開発及び普及の促進に関する法律(仮称)」案を今国会に提出することとした。

   法律案
 ○法律案の性格
 「福祉用具の研究開発及び普及の促進に関する法律(仮称)」は、我が国産業技術を応用した、利用者の心身の状況にふさわしい福祉用具の研究開発及び利用者が必要とする福祉用具を入手できるシステムの整備の促進を目指すもの。
 ○法律案の内容(現在、政府部内で調整中)
 (1)国による福祉用具の研究開発・普及を促進するための基本方針
 (2)国・地方公共団体の責務
 (3)事業者等の責務
 (4)研究開発助成、情報の収集・提供等を総合的に実施する指定法人
 (5)NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の研究開発助成
 (6)国有試験研究施設の廉価使用
 (7)その他


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 朝日<資料>B
 (校正者注:新聞記事が掲載されている、以下、記事の内容)
 3年(平成5年)4月11日 日曜日 13版 第2社会 (26)
 障害者・お年寄りの海外ツアー
 「ご確認書」中止 JTB
 海外のパッケージ旅行に参加する障害者や高齢者の健康状態などを、JTB(日本交通公社)が文書で提出を求め確認しようとした問題で、同社は、同伴者の解除責任などを明記した「ご確認書」や障害者手帳のコピーは求めないなど、計画の一部を改め、今月から実施している。この計画に対しては、障害者団体を中心に百件を超える抗議や問い合わせが寄せられていた。JTBは「現状では、社会的に理解が得られない部分があると判断した」と話している。
 当初の計画では、障害者には手帳のコピーとともに、団体行動の際の支障の程度を「お伺い書」に記入してもらう。その上で、旅行に支障があるとJTBが判断した場合、解除は添乗員や他の参加者に頼まず、同伴者が責任をもつことなどを明記した「ご確認書」に署名・捺印(なついん)を求める。「ご確認書」は、七十五歳以上の高齢者で、健康上問題ある場合にも求めることにしていた。
 このうち、「ご確認書」は「健常者でも急病で介助が必要になる場合がある。一部だけに要求するのは不公平」として中止。障害者手帳も「プライバシーを尊重」してコピーを求めないことにした。この改訂内容は、三月下旬に全国の支店に通知し、今月から実施に移している。
 竹内幸雄・同社広報空次長の話 「事前の調査は差別につながる。一切まかりならん」という厳しいご意見もあった。しかし、なるべく多くのみなさんに参加してもらい、全員の安全と健康を守るためには、最低限の情報収集が必要不可欠というのが我々の立場だ。もちろん、今回の改訂が最善だとは考えていない。今後もより良い方法を模索していきたい。

 社会の意見をよくぞ聞いた
 障害者のための海外旅行案内の出版準備を進めているトラベルデザイナー、おそどまさこさんの話 JTBは社会の意見をよくぞ採り入れた。でも、これからが大変だ。実際に起こる問題を解決していくには、身障者と有識者が参加する懇談会のような協議の場が必要だろう。
 旅行では、全員が時間内に自分の希望を満足させたい、と考えている。できることは自分でするのが鉄則だ。旅行会社だって、同じ費用を払っているなら、同じに扱わざるを得ない。中途半端な善意は続かないので、できることとできないことを、健常者がはっきりと身障者に言える関係が必要になってくる。


裏表紙の裏
 《事務局移転のお知らせ》
 新しい事務局が下記のところに変わりました
 〒239横須賀市長沢115グリーンハイツ2-7-405
 奥山幸博気付
 視覚障害者労働問題協議会
 電話ー次の2カ所(いずれも昼間のみ)
 奥山0468-22-6711・宮03-3780-0585

 編集後記
 ロック歌手、尾崎豊が死んで1年が過ぎました。当時の若者たちの嘆きは大変なものでした。その後もレコード売り上げは大幅に伸び、後援会会員も倍増しているとのことです。また先日の新聞には「世代を越え共感」というタイトルで、30〜40代以後のそれも女性たちの間で尾崎の歌が支持されてきているという記事が出ていました。「自分は何か」を自問し、ひたすら愛と真実」を追い求めた彼の詩が、「何かおかしい」、「何かしたい」という彼女達の思いとどこかでつながっているのでしょうか。
 皆さんも一度聞いてみたらいかがでしょう。(奥)

裏表紙(奥付)
 1993年4年月30日
 定価200円
 編集人 視覚障害者労働問題協議会
 〒239横須賀市長沢115グリーンハイツ2-7-405
 奥山幸博気付
 発行人 身体障害者団体定期刊行物協会
 世田谷区砧6〜26〜21
 視覚障害者労働問題協議会


■引用



■書評・紹介



■言及





*作成:仲尾 謙二
UP: 20210528 REV:
障害学 視覚障害  ◇身体×世界:関連書籍  ◇『障害の地平』  ◇雑誌  ◇BOOK  ◇全文掲載
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