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『精神医療』60 特集:精神医療の1968年


last update:20110112

■『精神医療』60 20101010 特集:精神医療の1968年,批評社,144p. ISBN-10: 4826505329 ISBN-13: 978-4826505321 1700+ [amazon][kinokuniya] ※
 『精神医療』編集委員会 編 4-No. 60[通巻135]

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いま、小熊英二や?秀実らの1968年論が多数の読者を獲得し、時代の転換点として省みられているが、学生運動の中心であった東大闘争の起点が精神医学教室であったことはほとんどふれられることがない。精神医療の1968年を検証することで、いつの時代も必然的に社会と繋がり合う精神医療の在り方を問い直す。

■目次

巻頭言○精神医療の1968年(高岡健
座談会○1968年――時代の転換期と精神医療(広田伊蘇夫+中山宏太郎+松本雅彦+岩尾俊一郎+佐原美智子+[司会]高岡健)
資料・クロニクル1968(高岡健
精神科看護の1968年(柴田恭亮+松崎澄子+[まとめ]犬飼直子)
1970年前後、臨床心理学会とその周辺(篠原睦治)
児童精神医学会の1968年――1960年代からの障害児問題(小池清廉)
1968年革命素描(森山公夫)
未完の盟約――ひとつの1968年論(浅野弘毅
コラム+連載+書評
視点――23○銃砲刀剣類所持等取締法の改正について(太田順一郎)
連載○雲に梯――4 ユクイに加わる(久場政博)
コラム○「居ること」の大切さ(河野節子)
連載○引き抜きにくい釘――28 私たちは何に服従しているのか(塚本千秋)
連載○老いのたわごと――47 日本社会精神医学外史[その9]――閉ざされた地域(長野県木曽)における金松直也の活動と私(浜田晋
書評○『老いるについて――下町精神科医 晩年の記』浜田晋著[岩波書店刊](竹中星郎)
紹介○『地域臨床心理学』日本臨床心理学会編[中央法規出版刊](岡村達也)
紹介○『こころの医療宅配便――精神科在宅ケア事始』高木俊介著[文藝春秋刊](近田真美子)
投稿原稿○精神保健福祉法の見直しに思うこと(桐原尚之)
編集後記(犬飼直子)

著者プロフィール
『精神医療』編集委員会
浅野弘毅、阿保順子、岩尾俊一郎、犬飼直子、岡崎伸郎、岡村達也、河野節子、高岡健、高木俊介、野口昌也、芳賀幸彦、広田伊蘇夫、松本雅彦、森山公夫によって構成される。

■引用

◆広田 伊蘇夫・中山 宏太郎・松本 雅彦・岩尾 俊一郎・佐原 美智子・高岡健 「1968年――時代の転換期と精神医療」(座談会),『精神医療』60:8-33

「高岡 それでは、ここから当時の改革派が何を考え、何を行動してきたのかという話に移っていくことにします。1968年以前からの組織としては、全国大学精神神経科医局連合と、それから、全国すっぽん会の2つがあります。
広田 すっぽん会は京大です。
松本 高木(隆郎)先生・小池(清廉)先生たちのグループですね。」(広田他[2010:24])

「高岡 1968年から69年5月の金沢学会までの期間には、水面下でさまざまな動きがあったのでしょうか。
佐原 小澤さんとパンフレットをつくったりとか、いろいろやったのでしょう。
中山 自分たちで何とかしなければならないというのがありました。教授に頼んでどうなるものでもないし、行政に頼んでもどうなるものでもなし、ある意味では孤立感みたいなものがあった。松本さんは、非常に達筆なものですから、僕らが原稿書いたら、その文章を一所懸命直してながら、ガリ版を切ってくれるわけです。それを刷って、いろいろなところに配る。それは、とにかく自分たちでどうにかしないといけないという意識があったからだと思います。
松本 確かにありましたね。
広田 あの頃は、全国誌を出して、それを全国にばらまいたりしていました。岡田靖雄さんや吉田哲雄さん、そして僕など、医局連合のメンバーがやったのです。
中山 僕らは、医局連合ということ自体がちょっと自分たちと違うな、という感じだったですね。大体、医局連合というのはおかしいのではないかというのが当時の感覚です。
岩尾 でも、医局という言葉はとれたのでしょう。
高岡 全国精神神経科連合になった。
佐原 関西と関東で大分落差があったのですね。金沢学会を周到に準備したのは、関西、なかでも京都あたりだと言われていますが、それはどのように準備されたのでしょうか。
松本 あの頃はよくガリ版切りをさせられていましたからね。最後は別れますけども、やはり金沢彰論文による認定医批判がはじまりでしょうね。さきほど話があったように、長崎学会で日本精神神経学会の理事会が何とか認定医を通そうとした。
 そこには何ら現状に対する批判的な視野がなく、ただ優れた精神科医を育成するための制度だという感じでしたから、それはおかしいではないかということを、金沢先生<0022<が指摘されたのです。
 大きな批判の焦点は、学会の教授連からなる理事会に対する異議申し立てでしょう。彼らが認定医制度を通そうとするのは、医局講座制の強化にすぎないのではないか、という批判に展開したのです。
中山 何度も言いますが、そこのところは僕の評価と違うわけです。僕自身は、よくわからない主張を根気よく聞いてくれるのはなぜだろうと、ずっと考えていた。だから、そのときも計画を立てて行ったわけではなく新井(清)君が、「先生、自動車で行くから乗ってください」と言って来たので、それで、僕は何となく、乗っただけなのですよ。そんな感じでしたね。情勢分析ができていないですから、あまり目的意識をもってということではなかったのです。
佐原 でも、京都の多くの人は、目的意識をもってやっていたわけでしょう。
松本 金沢では、「精神科医にとって学問とは何か」というビラを書いたのです。やはり、それなりの目標みたいなものをもっていたのではないかと思います。
中山 でも、金沢学会闘争は、少なくとも京都大学の精神科医が中心になってやったわけではないのですよ。
松本 そうではないと思いますね。やはり関西精神科医共闘会議ですよね。
中山 関西精神科医師会議という組織があって、現状認識に関しては一致していたのですが、立て看板をつくったりするのが上手な人がいて、勝手にやっていたのではないかと思いますね。
広田 やはり精神神経学会のあり方はおかしいということを、東京でも言っていましたね。
中山 それは言っていました。
広田 それを、金沢学会の中で明確にしようとした。薬屋から金をもらって学会をやっていいのかということもありました。学会というのは、もう少しつつましくやるものだという考え方が強かったですよ。 中山 そういう意識はあったと思いますが、それでは周到に計画されて、目標を持って、戦術を立ててやったかというと、必ずしもそうではない。理事会側にしても、理事会の周りの先生方、つまり教授層にしても、精神医療の悲惨さという共通の認識があったというのが僕の結論なのです。ですから、精神医療の悲惨さということに対する共通した認識が、旧体制の中でも、極右的な人とそうではない人を分離させたように僕は思います。
非広田 金沢学会が始まる前は、そういう共通した認識はなかったと思います。
中山 そうですね。なかったのです。
広田 そういうものが浮き彫りにされたという意味で、僕は金沢学会を評価しています。
中山 やはり、現状の悲惨さという言葉で言いあらわされているものは、一部の先生方を除いて共有できていたのではないか。にもかかわらず、必ずしも目標や戦術を立てずに突っ込<0023<んだ部隊が、あれよあれよという間に学会を支配するようになってしまった。
広田 学会で討議を重ねているうちに、変な部分がどんどん出てきたということですね。
中山 そういう感じですね。
広田 そこの中で学会の方針というのが少し変わっていったと思いますね。
松本 僕は、そうとは思わないですよ。わかっていながら、それに対して何もしようとしない、しかも、認定医制度という体裁のいい制度をつくって、ますます権威づけようとしていくことに我々は怒ったのですよ。
高岡 関西から東京へオルグに来ていたのは誰なのですか。
松本 僕と中山さんと新井君が……新井君にひっぱられてですけどね。最初に慶應義塾大学へ行って、そして、藤澤さんにも小平に会いに行ったのですよ。
高岡 中山さんは、どういう内容を持って東京へオルグに行っていたわけですか。
中山 若い連中がただごとならぬ雰囲気なわけですよ。これは無理ないなという同情ですね。放っておくわけにはいかない、というような感じでした。」(広田他[2010:22-24])
高岡 健 20101010 「資料・クロニクル1968」,『精神医療』60:34-39

 引用
 「長崎学会の前日、すっぽん会の人たち[…]は、お寺に集まって、学会対策について話し合った。評議員の岡田、江熊が、学会評議員会における非力を述べたあと、新顔の金沢彰がパンフレットを持参して、学会認定医反対の意見を述べた。全国大学精神科医局連合(通称、医局連合、委員長原田憲一)の若手、樋田精一ら多くの参加があった。シンポジウムでは、金沢の発表が多くの支持を得たと思える。総会では、すっぽん会と医局連合が相次いで発言し、認定医制の決議は不可能となった。1968年の学会評議員選挙には、すっぽん会推薦候補が何人か当選した。」(小池[1989:44]、高岡[2010:36]に引用)
 「金沢学会前夜、すっぽん会、医局連合そして新たに結成された「関西精神科医師会議」が一堂に会した。江熊ら新日本医師協会グループは、我々は出ないといって去っていった。新たな状況がそこに生まれていたのである。」(小池[1989:44]、高岡[2010:38]に引用)
 「第66回日本精神神経学会は製薬資本、関連病院の寄付や金沢大学医学部神経精神医学教室員の犠牲の上に立っておこなわれてきた。このような従来の慣習は精神医療、精神医学のあり方を歪めるものであったことを反省し、今後は学会員の負担によって運営していくことを決議する。」(山口[2003:679]、高岡[2010:38-39]に引用)

◇山口 成良 2003 「学会の歴史に残る金沢総会」,『日本精神神経学会百年史』

森山 公夫 20101010 「1968年革命素描」,『精神医療』60:68-81

 「なぜ精神科自主管理闘争はかくも長く続いたのだろうか。それは基本的には精神科医療の現実があまりにも悲惨であり、そのためわたしたちの「自主管理」闘争を支持する層は予想以上に多かったため、と考える。では、なぜそれは最終的には終了(敗北)せざるをえなかったか。いろいろ事情はあるにしても究極的な問題は、「一国社会主義」の問題と同様、1箇<0076<所だけの孤立した「自主管理」の永続困難性にあったと考える。さまざまな供給源が絶たれた状態では、「自主管理」を前進的に発展させることは結局困難であった。」(森山[2010:76-77])

 「精神医療運動の中にも、やはり内ゲバが生じた。いわゆる「精医研」(精神医療研究会)対「プシ共闘」(全国精神科医師共闘会議)の内ゲバであり、さいわい殺人にまではいたらなかったが、プシ共闘(わたしも含む)が一方的に精医研から喧嘩を売られたという印象が強い。世界観とか論理とかの相違というよりは、なんらかの感情的軋轢を背景としたものという感が強く、いまだもってその全貌はわたしなどにはよく分からない。まったく無意味な、といよりは有害な争いだった。こうした場合は特に組織指導者の責任が問われるべきであろう。」(森山[2010:80])

浅野 弘毅 20101010 「未完の盟約――ひとつの1968年論」,『精神医療』60:92-99

◆犬飼 直子 20101010 「編集後記」,『精神医療』60:68-81

 「昨年(2009年)は”1968年”に注目が集まり、各種の本が出され、それをめぐる議論が各紙誌をにぎわせた。何故いま、1968年なのだろうかと思いながらも、ひきこまれるようにして読んで、1968年が歴史の転換点であったことを改めて認識し、「言葉がみつからない(または持てなかった)」闘争の意味を考えなおす必要があるのではないかと感じた。
 しかし、ブームとなった「1968年」論には、精神医療・精神科病院が全く抜け落ちていた。今回の特集では精神医療・精神科病院で、当時の運動や現場実践に励んでおられた当事者の方々に書いていただいた。”あの時代”から40年の時が経つが、過去ではあるが過去にはなりきってはいず、語るにのにさまざまな配慮が必要で難しい面もあったことと思う。」(犬飼[2010:144])

■言及

◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料
◆立岩 真也 2011/03/01 「社会派の行き先・5――連載 64」,『現代思想』39-3(2011-3):- 資料
◆立岩 真也 2011/04/01 「社会派の行き先・6――連載 65」,『現代思想』39-4(2011-4):- 資料
◆立岩 真也 2011/06/01 「社会派の行き先・8――連載 67」,『現代思想』39-8(2011-6):- 資料

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
『造反有理――精神医療現代史へ』表紙


UP: 20110112 REV:20110210, 0515, 20140126
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