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『カルチャー・レヴュー』2005・4

『カルチャー・レヴュー』
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/


 *以下は立岩に送っていただいたものです。
  直接上記のホームページをご覧ください。

 『カルチャー・レヴュー』2005・1
『カルチャー・レヴュー』46号(如月号)
『カルチャー・レヴュー』47号(弥生号)
『カルチャー・レヴュー』48号(卯月号)

 『カルチャー・レヴュー』2005・2
『カルチャー・レヴュー』49号(皐月号)
『カルチャー・レヴュー』50号(水無月号)
『カルチャー・レヴュー』51号(文月号)

 『カルチャー・レヴュー』2005・3
『カルチャー・レヴュー』52号(葉月号)
『カルチャー・レヴュー』53号(長月)
『カルチャー・レヴュー』54号(神無月)

 『カルチャー・レヴュー』2005・4
『カルチャー・レヴュー』55号(霜月号)
『カルチャー・レヴュー』56号(師走号)


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■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
     『カルチャー・レヴュー』55号(霜月号)
         (2005/11/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [56号は、2005/12/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆特別連載(2):私を教育塔に「合葬」しないで下さい----------加藤正太郎
◆連載「映画館の日々」第10回:成瀬巳喜男の日々の砕片(1)----鈴木 薫
◆連載「文学のはざま2」第3回:小説家保坂和志による渾身の小説論『小説
 の自由』を読み解きたい!-----------------------------------村田 豪
◆INFORMATION:ブックフェアのご案内
◆黒猫房主の周辺「黒猫とブログな日々」-----------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版を47号より立ち上げました。各論考ごとに読者の方が
コメントや感想を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
 http://kujronekob.exblog.jp/

/////////////////////////////////////////////////////////////////////
////// 特別連載「戦争責任/戦後責任を考える」(2) //////

        私を教育塔に「合葬」しないで下さい
         ――『新合葬者名簿』編――
                             加藤正太郎
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

 私は今、日本教職員組合(日教組)作成の『第64回教育祭(1999年10月30
日)新合葬者名簿』[註1]なる小冊子を手に取り、精読しようとしているの
である。一昨日、つまり「教育勅語発布記念日」[註2]である10月30日は、
大阪城公園大手前広場にそびえ立つ、巨大な建造物・教育塔の前で、教育祭な
るものが執り行われる日でもあったのであり、それを見学した私は、上記小冊
子の注解作業に迫られたのであった。なぜなら、もしも私が死亡した場合に
も、職場の校長や私の遺族(母と弟)がこれを読み、あるいは日教組からの提
示・説明を受けて、教育塔への「合葬」(合祀)を申請してしまう危険性があ
るからなのである。だからそんな火急の場合にそなえて、私の遺志をわかりや
すく理解してもらうために、この小冊子に即して書いておく必要性を痛感させ
られたのであった。

 [註1]『広辞苑』によれば、「合葬」(がっそう)=「同一の墓に二人以
 上の遺骸を埋葬すること」であるが、教育塔は「墓」ではなく、遺骸が埋葬
 されるわけではない。日教組は、第51回教育祭(1986年)から、それまでの
 「合祀」(ごうし)=「二柱以上の神を一社に合わせまつること」から「合
 葬」への言い換えを行った。また「柱」は、神道において「神の数をかぞえ
 る時の語」(『日本宗教事典』弘文堂)のことである。なお、日教組は2000
 年から『新合葬者名簿』の「関係者」以外への公開を拒否している(教育祭
 受付係の説明による)。
 [註2]1890年に発布された「教育勅語」については、周知のことと思われ
 るが、その内容は、(1)天皇の祖先が国を始め、道徳を作り、臣民は忠孝
 を尽くし、美風を作ってきた、(2)臣民は互いに仲良くし、勉強して立派
 な人間になり、仕事をして、法律を守れ。そして危急の大事が起こったとき
 には、身を捧げて天皇の国のために尽くせ、(3)これは、外国においても
 正しい道である、といったものであり、学校儀式において繰り返し「奉読」
 され、その間は、頭を下げたまま決して動いてはならず、咳をしたり鼻水を
 すすったりすることもできなかった。また「教育勅語謄本」と「御真影」
 (天皇の写真)を「奉護」することは教員最大の責務であり(出来なかった
 ら処分された)、教員の「宿直」は、これらの「下賜」とともに一般化した
 制度であるという。

 さて『新合葬者名簿』全19ページは、「教育塔の由来」「塔の維持管理およ
び教育祭の運営」「教育塔のすがた」「教育塔管理委員会規定」「教育塔に合
葬される方の基準」とつづき、そして新「合葬」者の氏名・死亡年月日やその
「事歴」からなる一覧表が掲載されているのであったが、それらのうち、今は
少なくともここに、「由来」と「すがた」を書き写していかなければならない
(漢数字を算用数字に変え、【1】【2】などは注解のための記号)。

『新合葬者名簿』

〈教育塔の由来〉
 1934(昭和9年)年9月21日、第1室戸台風が近畿地方を襲いました。多数
の校舎が崩壊し、教職員18名(大阪府風水害誌・1936年刊)をはじめ、子ども
たちが多数亡くなるなど教育界でも甚大な被害がありました。災害直後、大阪
の教育界は二度とこのような災害が起こらないことを願って【2】、子ども、
教職員、教育関係者を追悼し、その名を永くとどめるため、教育塔を建てるこ
とを全国の教育会に呼びかけました。全国の教育関係者はこの呼びかけにこた
え【1】、いま見られるような立派な塔ができあがりました。
 塔の建築には当時の金額で32万円ほどかかりました【3】。塔の設計は公募
され、設計者は島川精氏【4】、塔の正面の彫刻は長谷川義起氏の手によるも
のです。彫刻は災害時の情景と日常教育場面が描かれています【5】。
〈教育塔のすがた〉 教育塔は(略)面積は333平方メートル、高さは約30
メートル。(略)塔の下の中央には162平方メートルの塔心室があります。塔
心室の中央には「やすらかに」と書かれた石碑が建っています【6】。(以下
略)

『新合葬者名簿』の注解

 これは本当に、仮にも「民主団体」と自他共に認めるはずの、あの日教組の
作成した文書であるのだろうか。ほとんどすべての句点ごとに、それぞれ【注
解】をつけていかなければならない有様なのである。

【1】「呼びかけ」「呼びかけにこたえ」
 なぜ「塔」の建設なのか、「募金」を集めるのならば、他に使い道があった
はずではなかったか、という疑問は措くとしても、これではまるで「善意の
キャッチボール」がなされたかのようである。「呼びかけ」と「こたえ」は、
大阪市教育会の決議から帝国教育会による建設までの経緯を指すと思われる
が、帝国教育会の「教育塔建設趣旨」は次のようなものだったのである(以下
引用は、特に記さない限り『教育塔誌』1937年帝国教育会編から)。

 今回ノ殉難者ト併セテ明治五年学制頒布以後並二将来二亘リテノ殉職者芳名
 ヲ勒シ(中略)教育尽忠教育報国ノ大精神ヲ天下二顕彰セントスルニアル

 つまり1872年「学制」頒布以来の「殉職者」(「今回」の室戸台風の犠牲者
だけでなく)の「教育尽忠教育報国の大精神」の「顕彰」ということになる
が、「教育尽忠教育報国」がわかりにくいかもしれないので、第1回教育祭
(1936年10月30日)における帝国教育会会長「挨拶」に解説してもらうなら
ば、次のようになるであろう(読みやすくするために、いくつかの漢字をひら
がなにし、読点をつけた)。

 「教育者がその愛護する生徒を救はんがために、自らその身を喪ひ、あるい
はその学業のために職に仆れたるがごとき事は、全く武士が戦場において花々
しく討死したると同一でありまして、その烈々たる教育報国の精神は、まさに
百世の亀鑑として、我々を感激奮起せしめずんば止まぬ所であります。(中
略)すなわち教育塔の建設は、永遠不滅の教育報国の殿堂、換言すれば教育招
魂社の建設であって、教育祭は、すなわち師魂を礼賛し、師道を発揚する教育
的総動員であります」(『帝国教育』第698号)

 教師が教育のために死ぬことは、「武士が戦場において花々しく討死」する
ことと「同一」であり、教育塔は「教育の靖国神社」(1869年創設の東京招魂
社が1879年に靖国神社へと改称)なのであった。そして実際に、「教師=武
士」が少しも誇張でなかったことは、次の【2】からも知ることが出来る。

【2】「二度とこのような災害が起こらないことを願って」
 すでに【1】から明らかなように、これは虚偽というほかないものであろ
う。教育塔は「災害が起こらないことを願」い、つまり死者の出ないことを
願って建てられたものでは全くなく、その死を「礼賛」するために、つまり軍
人と同じように死ぬことを要求するために建てられたのである。
 では実際に、どのような人々が「合祀」されたのだろうか。『教育塔誌』の
「事歴」(第2回教育祭までの教職員の合計168人)は、(1)「御真影」
「教育勅語」の守護によるもの17人、(2)「土匪」「匪徒」の襲撃によるも
の23人について、例えば以下のように述べている(括弧内は私の補足、カタカ
ナはひらがなに変え、読点をつけた)。

(1)「御真影」守護:(尋常高等小学校の)訓導 杉坂タキ(当時23歳)
   大正十二年(1923年のこと)九月一日
   大震災に際し、日直として勤務中、大震に遭ひ、御真影奉安所前にて
  「御真影御真影」と叫びつつ、一死以て奉護し、猛火に包まれて殉職す
 
 「叫びつつ」なる脚色が誰の手によるものかは不明ながら、この教員が「奉
安所前」で「奉護」のために死んだというこの「美談」は、「御真影」焼失弁
明のための、校長による作り話であったことが明らかになっている(『「御真
影」に殉じた教師たち』岩本努、大月書店)。
 また、こうした「美談」は数多く作られ、新聞報道(そしてもちろん「教育
祭」)を通して喧伝されたのであり、「静座の姿をとったまま「御真影」とと
もに焼死した」(これは事実だという)小学校校長の場合には、郡長が弔問に
駆けつけ、遺骸を前にし、「先生、よく死んでくださいました」としばらく感
涙にむせんでいたというのである[註3]。

(2)「土匪」「匪徒」の襲撃:台湾総督府学務部員 井原順之介(など6
名)
   明治二十九年(1896年のこと)一月一日
   台湾総督府学務部員として芝山巌に勤務中、土匪の蜂起するに遭ひ、
   匪徒の凶刃にかかり殉職す
   明治三十一年九月三十日を以て、靖国神社に合祀する
 
 つまりこの「事歴」を注釈すると、1895年の台湾領有決定後(日清戦争の結
果)、「台湾総督府」は「学務部」を台北郊外の「芝山巖」に設置し、皇民化
教育を開始していたが(激しい抵抗が続いていた)、「土匪」つまり現地の
人々の蜂起があり、この6人は、「匪徒」つまり現地の人々によって殺され
た、ということになる[註4]。

 [註3]『松代大本営 歴史の証言』(青木孝寿 新日本出版社)によれ
 ば、1945年6月、地下大施設を建設中の長野県・松代に視察に来た宮内省係
 官は、「賢所」(「神器」を祀る場所)を、「御座所」(完成しつつあった
 天皇の住居)と伊勢神宮を結ぶ直線上に、「純粋の日本人」の手によって作
 ることを指示。また「陛下に万一のことがあっても、三種の神器は不可侵で
 ある」と述べたと記す「回顧録」があるという(天皇自身も「万一の場合は
 自分が御守りして運命を共にするほかない」と言っていたらしい)。教員の
 生命よりも「御真影」が大切であり、天皇の生命よりも三種の神器が大切で
 あり、この時期になってまだ「直線上」などと指示。これを「カルト」と呼
 ばずして何と言えばいいのか。私には適当な言葉が思いつかない。
 [註4]『広辞苑』によれば、「土匪」は土着の「匪賊」(徒党を組んで出
 没し、殺人・掠奪を事とする盗賊)のことである。また、(1)帝国教育会
 が定めた「教育塔規定」第5条の3「原簿」の項に、「原簿ヲ作製シ各事歴
 ヲ記録シテ別室ニ俣存スルモノトス」とあり(「靖国神社」の「霊璽簿」に
 あたるものであろう)、(2)日教組が、これら「土匪」「匪徒」なる表現
 について何らかの見解を示し、あるいは「原簿」に「説明」をつけ加えたと
 は、見聞していない。以上(1)(2)から私は確信する。これらの言葉の
 数々が書き付けられた「原簿」は、今現在も、あの教育塔の中の「別室」に
 「保存」されているのであろう。

【3】「塔の建築には当時の金額で32万円ほどかかりました」
 これについては、次の2点を指摘するにとどめておきたい。
(1)教育塔建設のための「下賜金」が天皇から与えられ、『教育塔概要』な
る小冊子(第1回教育祭用のパンフレットと思われる)の巻頭言は、『教育塔
建設に畏くも 御下賜金の恩命を拝す」である。
(2)日教組は1991年の『新合葬者名簿』においては、「これは全国の教職員
を初め教育関係者の募金によるものであります」と述べていたが、この「募
金」は、小学校児童1人当たり1銭、中等学校生徒3銭、小学校教職員10銭な
どと割り当てられていて、それらの合計「予算」額が「32万2500円」であっ
た。

【4】「塔の設計は公募され、設計者は島川精氏」
 とある審査員は、島川案について「仏塔らしい雰囲気も認められないのもよ
く」[註5]と褒めているが、1868年の「祭政一致」の布告および「神仏判然
令」や、1871年の「神社を国家の宗祀とする」布告から形成されていく「国家
神道」と現在の「政教分離」の意味を考えるとき、「仏塔らしい雰囲気がな
い」ことが当選理由の一つであったことは、記憶にとどめておく必要があるだ
ろう、と私は思った。

 [註5]「靖国」参拝について小泉首相は、「日本人の国民感情として、亡
 くなるとすべて仏様になる」として、「神社で仏を拝んで何が悪い」旨、述
 べ ている(2001年7月11日の党首討論)。

【5】「(塔正面の)彫刻は災害時の情景と日常教育場面が描かれています」
 「静動二相」の中に「教育尽忠、教育報国の大精神を芸術的に顕現」するこ
とを狙ったという当選者・長谷川義起氏は、次のように述べている。「「動」
は非常時に於ける教育者が教へ子を背負ひあるいはその手をひいて、恰も守護
神の如く暴風雨をものともせず、児童を誘導しつつ避難する有様を表はすこと
に努め」、また「静」については、「初めの試案は、校長先生が教育勅語を奉
読するの場面を考へたのであるが、あるいは抵触することを慮り」「訓書清読
の形式となった次第である」[註6]。

 [註6]日教組は、この「訓書清読の形式となった」をもって、「奉読」の
 場面ではないと主張しているようだが(「「教育勅語は無関係」と結論づけ
 た」朝日新聞2000年10月30日朝刊)、当時の学校で校長が話す場面は「教育
 勅語奉読」と「講話」以外にはなく、「訓書」などというものは存在しなか
 ったと言われている。しかしその真偽はともかく、ここではむしろ、「ある
 いは抵触することを慮り」に着目するべきであろう。「教育勅語」の「彫
 刻」が風雨にさらされることが(あるいはそれを形取ったこと自体が)畏れ
 多かったのであり、つまりは、「不敬」にあたらないぎりぎりの「表現」と
 して描かれた「教育勅語奉読場面」と言うべきものである。これをどうして
 も「日常場面」と言いたいのであれば、長谷川氏の配慮にそくして、「教育
 勅語が畏れ多かった時代の日常教育場面」と言うべきであろう。

【6】「塔心室の中央には「やすらかに」と書かれた石碑が建っています」
 この「やすらかに」は、「箕面忠魂碑違憲訴訟を支援する会」の粘り強い申
し入れを受け入れ(「訴訟」の被告・箕面市長は「日教組も教育塔前で教育祭
をやってるじゃないか」を主張)、1981年にやっと「改善」したものであるが
(それでも私はこの「やすらかに」という言葉に鳥肌が立つ)、それまでは、
この石碑には「塔心銘」が刻まれており、表側は「教育勅語」の結語である
「咸一其徳」(みなその徳を一にせん)、裏側は「教育勅語は斯道に従事する
者の恭しく奉じて彜憲(いけん=人として守るべき不変の法)と為す所なり」
であったのである。

 さて、どうでしょう。かなり足早に書いたのですが、少なくとも1945年以前
の教育に「問題」を感じている教員であるならば、この教育塔に「漉F之丞さまの尺
八ならよく聞かせてもらったから知っていると言ったので、どのようにして聞
かせたのかと五平は嫉妬にかられます。

 尺八を聞かせてもらったくらいでそんな、とはお國も観客も思うことでしょ
うし(そういう形であらわれる五平の恋慕がこのときはまだ観客を微笑ませも
します)、自分を「浮いた女」(という言い方をするのですね)と思ってか、
と気色ばむお國に五平は詫びますが、結局のところ、「わしは死ぬのは嫌だ」
を連発する卑怯未練な友之丞を斬ることは、「その女、お國どのはな、わしに
一度身をまかせたことがあるのだぞ」という死に際の科白を彼から引き出すこ
とにもなる。つまり、お國の言葉にもかかわらず(このときも「嘘じゃ」と言
下に否定したお國は、「斬れ」と命じて、友之丞の口を封じるかのように五平
はとどめを刺します)、彼女が「浮いた女」であることが結局は証明されてし
まうのです。

 ところで前回、私はかなりいい加減なことを書きました。特に後半(読み返
さなくていいです)、つい筆がすべって、具体的な作品につくことのない空虚
なおしゃべりをしてしまいました。恥しいことです。少々弁解するなら、これ
には、それまでに見ることのできた成瀬作品の多くが特定の時期に偏っていた
という事情もあり、もっぱら〈女たちの条件〉をめぐる話だという観察は、そ
れ自体としては間違っていなかったと思いますが、成瀬のようにキャリアの長
い監督について、一括りにまとめてしまうような書き方は早計でした(小林桂
樹の証言を引きまし友之丞さまの尺
八ならよく聞かせてもらったから知っていると言ったので、どのようにして聞
かせたのかと五平は嫉妬にかられます。

 尺八を聞かせてもらったくらいでそんな、とはお國も観客も思うことでしょ
うし(そういう形であらわれる五平の恋慕がこのときはまだ観客を微笑ませも
します)、自分を「浮いた女」(という言い方をするのですね)と思ってか、
と気色ばむお國に五平は詫びますが、結局のところ、「わしは死ぬのは嫌だ」
を連発する卑怯未練な友之丞を斬ることは、「その女、お國どのはな、わしに
一度身をまかせたことがあるのだぞ」という死に際の科白を彼から引き出すこ
とにもなる。つまり、お國の言葉にもかかわらず(このときも「嘘じゃ」と言
下に否定したお國は、「斬れ」と命じて、友之丞の口を封じるかのように五平
はとどめを刺します)、彼女が「浮いた女」であることが結局は証明されてし
まうのです。

 ところで前回、私はかなりいい加減なことを書きました。特に後半(読み返
さなくていいです)、つい筆がすべって、具体的な作品につくことのない空虚
なおしゃべりをしてしまいました。恥しいことです。少々弁解するなら、これ
には、それまでに見ることのできた成瀬作品の多くが特定の時期に偏っていた
という事情もあり、もっぱら〈女たちの条件〉をめぐる話だという観察は、そ
れ自体としては間違っていなかったと思いますが、成瀬のようにキャリアの長
い監督について、一括りにまとめてしまうような書き方は早計でした(小林桂
樹の証言を引きまし友之丞さまの尺
八ならよく聞かせてもらったから知っていると言ったので、どのようにして聞
かせたのかと五平は嫉妬にかられます。

 尺八を聞かせてもらったくらいでそんな、とはお國も観客も思うことでしょ
うし(そういう形であらわれる五平の恋慕がこのときはまだ観客を微笑ませも
します)、自分を「浮いた女」(という言い方をするのですね)と思ってか、
と気色ばむお國に五平は詫びますが、結局のところ、「わしは死ぬのは嫌だ」
を連発する卑怯未練な友之丞を斬ることは、「その女、お國どのはな、わしに
一度身をまかせたことがあるのだぞ」という死に際の科白を彼から引き出すこ
とにもなる。つまり、お國の言葉にもかかわらず(このときも「嘘じゃ」と言
下に否定したお國は、「斬れ」と命じて、友之丞の口を封じるかのように五平
はとどめを刺します)、彼女が「浮いた女」であることが結局は証明されてし
まうのです。

 ところで前回、私はかなりいい加減なことを書きました。特に後半(読み返
さなくていいです)、つい筆がすべって、具体的な作品につくことのない空虚
なおしゃべりをしてしまいました。恥しいことです。少々弁解するなら、これ
には、それまでに見ることのできた成瀬作品の多くが特定の時期に偏っていた
という事情もあり、もっぱら〈女たちの条件〉をめぐる話だという観察は、そ
れ自体としては間違っていなかったと思いますが、成瀬のようにキャリアの長
い監督について、一括りにまとめてしまうような書き方は早計でした(小林桂
樹の証言を引きましたが、1930年に最初の短篇を撮っている成瀬を語るには小
林でさえ若すぎる――ある時代の成瀬しか見ていない――のです)。成瀬には
二本の時代劇があるが基本的に同時代にキャメラを向けた監督であるという記
述も、「基本的に」という限定に救われていますが、たとえ丁髷を結っていな
くとも、映画制作時にすでに過ぎ去った時代であった明治を舞台に、『桃中軒
雲右衛門』(1936)、『芝居道』(1944)、『あらくれ』(1957)と撮ってい
るわけで(他にもあったかもしれません)、前回の原稿を書いたときはこれら
のいずれも未見だったとはいえ、現在から見て区別をつけなかったのは誤りで
した。

 ただ、時代劇が二本だけというのは本当です。そして幸い、そのどちらも今
回見ることができました。一つは、『三十三間堂通し矢物語』(1945)で、こ
れは、藩を代表して通し矢チャンピオンになったものの記録を破られ自害した
侍の遺児が弓の修業に励み、新記録保持者の属する藩の構成員に妨害されなが
らも、長谷川一夫演じる謎の男に助けられて志を果たすというもの、なるほど
これなら当局に見とがめられはしないでしょう(しかし、戦意昂揚映画になっ
たんでしょうか。東京が焼けてしまったので成瀬は京都でこれを撮ったそうで
すが、そんな非常時の緊迫感は、画面からは何ひとつ窺えません。)実は長谷
川一夫こそ、若者の父の記録を破った弓の名手、そして妨害しているのはその
実弟なのですが、この弟の、私は兄上と違って母上を喜ばせること(弓矢の腕
によって、家名入りの額を三十三間堂に掲げることです)ができないから、母
の喜びである額が下ろされないよう努めるのだというイジケぶりなど、スト
レートな忠孝思想にはおさまらない面白さです。

 そして、『お國と五平』になれば、寡婦とはいえ主人の妻と通じてしまう話
ですし(富山の薬売りが語る国元の消息――仲間の武士の女敵[めがたき]討
ちが大評判になっている(言うまでもなく、密通した妻と相手の男を殺すこの
行為は罪になりません)――は、すでに惹かれあっているお國と五平にとって
結構不吉な話柄ではないかと思うのですが、二人は敵討ちの旅に出た自分たち
が故郷の人々に忘れられているらしいことに落胆こそすれ、特に気にしている
ようには見えません。しかし、友之丞が死に際に言うように「わしを討つ前に
夫婦[めおと]になった」ことが知れれば、二人は糾弾される可能性十分なの
です)。友之丞ときたらお國に、お國と五平がそうなったことを宿屋の隣室で
知ったときは「悲しかったぞ」と未練を見せ(観客を笑わせ)つつ、しかしこ
れでそなたたちも命が惜しくなったであろう、自分も命が惜しい、もう仇討ち
の理由もなくなったからやめにしよう、と申し出るのですから、これは戦後で
なくては作られることのなかった「時代劇」です。

 成瀬はこれ以後、「時代劇」は二度と作りませんでしたが、同時代を扱っ
た、つまり「現代劇」の多くが、多かれ少なかれ女の貞操の問題を含んでいま
す。貞操――それにしても古めかしい言葉を私は引っ張り出してきましたねえ
――と言って、女の性の問題と言わないのは、それが妻か妾か、素人か玄人
か、堅い女か浮いた女か――あるいはは許すか許さないか――といった二分法
の図式にたやすくおさまってしまうからです。(『お國と五平』は、彼らの道
行きが「寡婦と一緒に旅すること」と「結ばれること」の二者択一という問題
を含んでいる点で、『乱れる』(1967)や『乱れ雲』(1967)の前身と見なさ
れ得ましょう)。性の問題以外でも、また、戦時中の作品にとどまらず、成瀬
がいかに時代のイデオロギーに迎合し、またはいかに反時代的でありえたか、
という点は、興味深いところです。というのも、色とりどりの毛糸屑の箱に入
れられた蓑虫のように、外的な条件をかえって〈機会〉として受け入れ、取り
込み、利用して、結局は自分の作品にしてしまうという、強靱な混淆性は成瀬
の特徴の一つだと思われるからです。

 もとより映画は、純粋な自己表現という錯覚に陥るには、あまりにも多くの
人間がかかわり、あまりにも多くのプロセスを踏み、撮影される現実の存在と
いうフィクションを必要とする、外的条件に左右されることの多いジャンルで
す。しかも成瀬は、他人の企画で、客の入る商品としての映画をコンスタント
に生産するという、システムの中で働いた監督でした。戦後の成瀬について言
えば、民主主義が、男女交際が、高度経済成長が、交通戦争が、その作品には
次々と取り入れられます。それらは根拠のないものの寄せ集めですが、もとも
と、寄せ集めに過ぎないものに見せかけのコンティニュイティを与えて、あた
かも最初からそうあったかのように均質に仕上げることこそが創造の秘密(映
画に限らず)であるともいえます。『晩菊』において杉村春子がせかせかと
入ってくる路地についての、キャメラマン、玉井正夫の証言を思い出すのもい
いかもしれません。最後の袋小路のセットに至るまでの道は、東京のあちこち
で気に入った路地を撮り、あたかもそれがつながっているかのように見せるの
だと、それもセットはロケのように、ロケはセットのように見せるのだという
――。

 成瀬の作品において時代性の刻印はしばしば明らかなのですが、しかし多く
の場合、成瀬はそうしたどれからも身をかわしているという印象があります。
そして別なところで彼自身の刻印を残すのですが、それは一方では、直接的な
科白の押しつけがまさに対する、無言のやりとりや、まなざしや、身ぶりと
いった、きわめて慎ましいものであり、一方では、物語と別なところで彼の映
画に特徴的な細部として、私たちがすぐにではなくても徐々に認識を深めてゆ
くものです――しかし、こうしたことこそ一括りに語るのを禁欲し、作品に即
して見てゆくべきものでしょう。

 先に、小林桂樹でさえ若すぎると書きましたが――では、誰だったらいいの
でしょう? 成瀬の作品の多くは、彼の生きているあいだにもその後にも、作
者自身にとってさえ、見ることも他人に見せることもできないフィルムであり
つづけたというのに。『まごころ』(1939)は、封切以来、山根貞雄と蓮實重
彦の尽力により1996年の東京国際映画祭で、東宝に残っていた原版からプリン
トを焼いて上映されるまで、実に五十七年間も公開される機会がないまま眠り
つづけていたのでした。そのように途方もない時間、誰の目にも触れずに経過
したものが甦ったのを見ると――私自身、今回はじめて見ましたが――それは
信じられないほどにみずみずしい〈現在〉なのでした。成瀬は今年生誕百年で
すが、映画はそれより十年若いだけです(人生の短さに対比される長さのもの
の一ジャンルであるべき映画の歴史の、なんという短さ)。しかも映画は、そ
のわずかのあいだに、見世物としてはじまり、大衆向け娯楽として成長し、隆
盛を極め、そしておもむろに衰退して行きました。十五歳で小道具係として撮
影所に入り、二十八歳で最初の短篇を手がけ、生涯に八十九本の作品を撮った
成瀬巳喜男は、その人生が映画の歴史と同調しなければありえなかった種類の
(したがって、今後はもう生まれるべくもない)、驚くべき豊かな作品――ど
うして今までこれを知らぬまま、映画を好きだと言ってきたのだろうと思われ
る種類の――を残したのです。

 フィルムやビデオテープやDVDを所有することはできますが、過ぎ去る時
間そのものに他ならない〈映画〉を所有できる者は誰もいません。かりそめの
物語が解体したあと、もはや起源を持たぬ砕片(かけら)となって記憶の中に
漂うものたち。以下では、そのかけらを拾いながら、映画の快楽を今少し引き
延ばすために、もうしばらく成瀬の作品の中を旅してみたいと思います。

 その際、道しるべには何がなりうるのでしょうか。ほとんど根拠なしに(し
かし、「友之丞どのの尺八が聞える」と口走りながら、お國に背を向け枯野に
踏み入ってゆく五平の姿をちらと思い浮かべて)、音、と言ってみましょう。
成瀬の映画では、本当によく音が聞えるのです(サイレントであってさえ)。
そのことを不意にはっきりと意識したのは、何本も成瀬作品を見たのちのこと
なのですが。その結果、文芸座で見たときは印象に残らなかったのに、今回
『晩菊』の渋いタイトルバックが終ったとき、やかましく通りを流す宣伝カー
がファースト・ショットであったことにはじめて気がつきました(当然のこと
ながら、『乱れる』の冒頭が思い起こされました)。杉村春子が一緒に暮らし
ている女中が聾唖という設定のこの作品には、実のところ音があふれかえって
おり、いつの間にか私の耳はそれが気になってしょうがなくなっていたので
す。殺した友之丞の尺八の音が耳について離れなくなった五平のように。けれ
ども、最初に述べたように、友之丞の尺八は、本当はずっと前から聞えていた
のでした――このことに注目、いえ、耳をかたむけることにしましょう。

*参考文献は最後に載せます。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)文中にある、成瀬についての「断片的な覚書」はブログに
あります。よろしかったら併せてお読みください。
http://kaoruSZ.exblog.jp/

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////// 連載「文学のはざま2」第3回 //////

  小説家保坂和志による渾身の小説論『小説の自由』を読み解きたい!
    ――だけどそれが小説に従属するのだとしたら
                              村田 豪
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 保坂和志の小説の中で一番好きなものはどれか、どんなところがいいのか、
と聞かれたら、多くの人は少し迷うことになるだろうし、私も今迷いつつそれ
を考えようとしているのだが、たぶん保坂の小説をまだ読んだことのない人
も、いくつか読めばそれなりに好印象を持つのはおそらく間違いない。ただ、
どれが一番だとか、どこがいいのかとか、そういうある一部分に好きになった
理由や根拠を求められると、どうもそういう言い方で答えにくい作品(群)だ
ということも同時に気づかされるだろう。

 それは、よく保坂評として挙げられる「特にこれといった出来事が何も起こ
らない」とか「若い男女が出てくるのに恋愛にならない」とか「作者の言いた
いことがどこにあるのかわからない」とか、そういう「物語の起伏の富んでい
なさ」のような作品の特徴とも関係しているのかもしれない。つまり「物語が
ああなってこうなるから面白い」とは言えず、なんとなく全体の雰囲気がいい
としか言いようがない気がするのだ。

 しかし好きになった理由として「なんとなく全体の雰囲気がいい」などと
言ってしまうのは、説明としては知恵が足りないような気がする。そんな答え
を口にするとしたら私がバカと思われかねず、そういうバカが「雰囲気がい
い」とか言って喜んでいるような小説が保坂の作品なのだと、早合点される恐
れもあり、なかなか評価の仕方も難しい。それに全体がいいといっても、また
着目しているのは、各場面の造形や登場人物同士の個別の会話でもある。それ
を一つずつ取り上げて、果たして何が面白いのか伝わらないかもしれないが、
ここは話の取っかかりとして、いくらか例をあげておこう。読んだ人は復習の
つもりで、まだ読んでいない人は予告編のつもりでたどってほしい(といって
も嫌かな)。

 デビュー作『プレーンソング』で、私にとって印象深いのは「アキラ」とい
うよくしゃべる、馴れ馴れしいような人なつっこいようなお調子者の年若い兄
(アン)ちゃんだ。語り手の「ぼく」の部屋に押し掛けるようにして泊まりに
きては、ひとしきりはしゃいだりするものだから、「ぼく」も冷たくあしらう
こともあるが、年上らしくまあなんとなくやりたいようにやらせている。そう
するとしばらくしてまた泊まりにきたときには、ナンパしたらしい女の子「よ
う子」を連れてきて、二人で何日も泊まるのだ。何という図々しく迷惑なヤツ
だろう、私ならこんなのとは、絶対つきあえないと思うのだが。

 しかしこの連れてこられた「よう子」というのがまた何を考えているのかわ
からない女の子で、「ぼく」が近所の野良猫に餌をあげているのを知ると、一
応会社勤めをしている「ぼく」になりかわり餌あげをはじめたりする。そして
いつか「ぼく」以上に熱心に猫に餌をあげて回るのを日課とするようになり、
結局二人は居着くのが当たり前のようになっていくし、「ぼく」もそれに強い
て違和を示さない。

 「アキラ」は最初、「よう子」が餌あげに熱心になって自分が構われないこ
とに不満を持つようだけど、それもなんとなくおさまって、それよりも夏なの
だから海水浴に行こうとまた突然うるさく言い立てて、他のものはそう乗り気
でもないのだけれど、これもなんとなく「アキラ」の強引さに悪い意味でなく
押し切られて、その他「ぼく」の部屋に泊まりにくる「島田」や「ゴンタ」を
まじえて、海に行くことになる。そうすると行きの車中でもテープをかけたり
歌を歌ったり大騒ぎしていた「アキラ」が、浜辺で水着になって微妙に居心地
の悪いような感じで座っているみんなのなかで、いつものようにはしゃぐこと
もなく、黙って海を見ていたりするのだ。以下引用。

  そういえばアキラは車から降りたときにはもうすでに静かになっていたよ
 うな気がするし、よう子が着替えてきたときに「イヤア」と言ってみせた言
 い方もいつものようなからだごと押しつけてくるような言い方ではなかった
 ようにも思えてきた。アキラの目の焦点は、波に乗ってくるサーファーを追
 ったり、それより沖を横に動いていくウインド・サーフィンを追ったり、沖
 からこちらに飛んでくる海鳥を追ったりしていて、その合間にたまにぼくた
 ちの方を見たかと思うと、また波打ち際を眺めることに戻っていく。(略)
 「だからものすごく幸せなんだって」
  とよう子が言ったのは聞こえなかったようだった。よう子にそう言われて
 ぼくもアキラの様子が違うわけがわかって、それで海に来てからのアキラの
 態度や様子のこともあらためて思い返してみた。そうなると何か、そうやっ
 て一人で海を見ているアキラの背中も「幸せ」と言っているように見えてき
 て、それを眺めているこっちもアキラを眺めているのが一番いいような気に
 なったりもした。(『プレーンソング』中公文庫p199、p203-204)

 このあと五人はゴムボートで沖合に出て、たわいのない会話だけが延々と続
く有名なラストが現れるのだが、それを可能にしているのは(つまり地の文で
「ぼく」が何かを説明しなくても済むようになるのは)、この「アキラ」の柄
にもなくしんみりしたような幸福感に他のみんなも浸されたからだと読むこと
もできる。しかしそんなことより、このような「幸せ」の肯定を、読んでいる
ほうに恥ずかしさや嫌味を感じさせることなく、作者がぬけぬけと書きおおせ
るところは、やはり驚くべきものだ。ここだけ抜き出すと、ちょっとヒヤリと
しないでもないのだが、作品においてはこれは悪くない。

 『猫に時間の流れる』は少しかわいそうな話だ。「クロシロ」と呼ばれる近
所を我が物顔で徘徊する野良猫が、「ぼく」と「西井」と「美里さん」の住ま
う大原ハイツにやってきては、「西井」の飼い猫「パキ」にケンカを仕掛けた
り、マーキングのオシッコを引っかけていったりする。その悪さぶりは近所で
も有名で、タイル屋のおばさんなどは、凶暴な「クロシロ」がこのあたりのボ
スであり、しかも「猫エイズ」を持っているなどと悪評をばらまくほどで、三
人もそれはちょっと言い過ぎのような気もしないではないが、完全に否定でき
ない気持ちを持っている点でも、「クロシロ」に警戒心を持っている。

 しかし日常的に見かけたり、距離を持って観察してきたことや、人間の目の
届く範囲には現れない野良猫の生態を考察しているうちに、「クロシロ」にも
テリトリーを主張したり凶暴になったりする理由はあるのかもしれない、と数
年を経て「ぼく」が考えるようになっていて、そうしているとある時「クロシ
ロ」が現れないと思っていたら、黒い毛の背中が血をかぶったようにべったり
濡れて弱っているのを見つけるのだ。「エイズ」が発症したのかという疑いも
もちつつしかしそんな症状が現れるだろうかと考えつつ、実は猫嫌いの人に煮
えた油をかけられたのだ、という話を聞きつける。しかしそんな事実がどうと
いうよりも、あんなに他を圧するような振る舞いだった「クロシロ」が、いか
にも弱々しく苦しそうで見るに忍びない。「美里さん」たちと餌を与えたりし
て「クロシロ」はいちおう快復するのだが、以前のような誇り高さは影を潜め
ている。

 これは全体の一種の「粗筋」なのだが、でもこういう要約は正しいのかどう
か私も自信はないし、まただからどうなんだ、という反応に答えることを言う
べきなのだが、実はこれ以上に何か意見があるわけでなく、そんな話だなあ、
ということを書いたのだ。私は猫を飼ったりしたことはないので、猫の話だか
ら特別に感情移入することもないけど、でも嫌いでもないので、そういうとこ
ろも面白いと思っているのかもしれない。

 ちなみに「保坂和志は猫のことばっかり書いている」とも言われるのだが、
猫を完全に中心的な主題にして書いている作品は実は意外と少ない。猫は出て
きても、まあ素材の一つとか脇役的に(そしてそれでこそ十分に)描かれてい
ることの方が多く、また出てこない作品も割とある。猫のことを書いている
な、と感じさせるのは、この『猫に時間の流れる』と『キャットナップ』と
『生きる歓び』だと思う。

 『季節の記憶』は、鎌倉の風景を背景に、離婚した「僕」と五歳の息子の
「クイちゃん」、近所で便利屋をしてる四十がらみの松井さんと年の離れた二
十代の妹美沙ちゃんとの日常の交流を描いた作品だ。この作品には、息子から
発せられる「時間って、どういうの?」という素朴というかあまりに端的とい
うか、そういう質問に、「僕」や他の大人のほうが世界の成り立ちや世界観み
たいなものについての考察の刺激をうけるという構図があって、

 「時間っていうのもね、はじめは小さな種だったんだ。
  小さな小さな種だったのが、だんだんだんだん大きくなって、もっともっ
 と大きくなって、気がつくとものすごく大きくなってて、その中にクイちゃ
 んもパパも美沙ちゃんもおばあちゃんも、みーんな入っちゃってて――」
 「ポルトガルは?」
 「ポルトガル? うん、入っちゃう」
 「ニューカレドニアも入っちゃう?」
 「入っちゃう」
 「ホッキョクも?」
 「入る、入る。地球がぜーんぶ入っちゃうし、火星だって入っちゃう」
 「じゃあ、アンドロメダも?」
 「入っちゃう」
 「ひょえー」と息子は目を真ん丸くして、唇の上だけとんがらせて高い声を
 あげた。(『季節の記憶』中公文庫p9-10)

というやり取りや、その息子の「クイちゃん」を前にして「僕」と「美沙ちゃ
ん」との以下のようなやり取りが展開されたりする。

  美沙ちゃんはバカ笑いしたが、笑い終わると「そういえば」と思い出し
 て、
 「クイちゃんがね、きのうあたしに『時計は誰も見てないときにも動いてる
  ? 』って訊いてきたの」
  と言った。
 「で? 何て答えたの?」
 「それは――、『動いているよ』って笑えたけど(「答えたけど」の誤植か
  −註:村田)、『どうして?』って訊かれて何て答えればいいと思う?」
  僕は息子がまだ仰向けにひっくり返っているのを見ながら笑った。笑った
 のは息子がおかしかったからではなくて答えに困ったからだ。美沙ちゃんは
 言った。
 「時計の針が十分動いたから時間が十分たったっていうことじゃなくて、時
 間が十分たったから時計の針が十分動いた。時間は休みなく動いているから
 時計の針も動く。時計の中の電池が切れて時計が止まっても時間は休みなく
 動いている――っていうようなことを言った」
 「いいんじゃないのか。前おれが言った樹みたいな形の時間の中で物が育つ
 っていうのと、基本的に矛盾してないからいいんじゃないのか」
 「それでわかるかなあ」
 「わからなくてもいいんだよ。物は上から下に落ちるもので、下から上には
 落ちないっていうのと同じだよ」(同上p146-147)

 事実として、子供の経験や知識獲得の過程にこれほど寄り添うひとがいるな
ら、それはそれで素晴らしいと思う。「時間は時間だ」とか「そんなくだらな
いこと言うんじゃない」とかいうように自由な想像や思考を排除して、決めつ
けたようなかたちでしか子供に言葉を与えないことが多いかもしれない現実を
思えば、こういう態度はなんというか誠実だともいえるだろう。ただしかし、
小説のなかで「そういうのが演じられるのを読まされる」というような感じが
したときには、なんとなくあまり面白くないと感じていたことになる。

 しかし、小説家というのはスゴイなと思う。子供を純粋な存在に見立てて、
社会性にまみれさせずに、そこから生まれる創造力の可能性みたいな考えを設
定しておきながら、そのあとそんな考えの父親を裏切るように「クイちゃん」
のほうが「字を読みたい」と言い出させるのだ。それに対して、このいきさつ
が起こってえらく狼狽した「僕」は、その極端な考え方がより鮮明になり、
「字が読めるのなんて、ちっともエラくないんだから」とか「ほら、文字ばっ
かり使ってない方が、世界は豊かなんだよ」とまで言わせている。こんな変人
の父親はそういないだろう。結論は、「クイちゃん」のほうが字を読むことへ
の関心がふとおさまり、「僕」はひとまず安心することになる。しかし「いつ
息子に文字の世界に入らせるべきなのか」という悩ましい問題についての決断
が先送りにされただけ、ともいえるだろう。

 作品全体には、「僕」と「クイちゃん」と「美沙ちゃん」の散歩によって見
いだされる鎌倉の風景をつづる描写があふれていて、それが人物たちの「哲学
的考察の問答」の抽象性に色彩というか、具体的感触というか、そういうもの
をそそぎ込む要素になっていて、これは作者自身が意識的に導入した要素だ
と、どこかで書いていたはずで、描写の意義というか、その描き方の重要性に
ついては、あとで触れる『小説の自由』や『書きあぐねている人のための小説
入門』でも本格的に論じている。

 いや、しかし本当のところ、私は描写を読むのは苦手なのだ。この作品はた
またま鎌倉の風景で、一度旅行で歩いたところのあるところも出てくるぐらい
だったので、作品が描き出す山道や木々の緑の色合いや海岸など、ある程度自
分が見た印象と重ねてとらえることがとができた。その分いつもより風景描写
に苦労することなく、いわば「快適に」読むことになったのだが、もし私が鎌
倉に行ったことがなかったら、この作品はどんなふうに見えたのか、作者の描
いたことがこれほど明確な印象として受容できたのか、定かではない。ここは
気になるところであるが、でもそんなに違わなかっただろう、と良いほうを
取っておきたい。

 長くなったきたので、去年に出た『カンバセイションピース』については一
つだけいうと、ここで変な人物として印象的なのは、「森中」という図体がで
かくていつも汗をかいてるような、しかししゃべるのを全くやめず、人の言う
ことの表面的なところに妙にこだわったり、どういう関心からなのか「なんで
すかそれ?」「マジっすか?」「あるわけないじゃないですか、そんなこと」
とか過剰に相手に質問をしたりする男(若者?)だ。横にいてうるさいという
のもあるし、「私」や「浩介」ら年長のものの話の意図をうわすべりにすくっ
ていくのが、面白い。近くにいたらホントにうっとうしいだろうなとは思いな
がら、でもこの人物も意外と愛嬌がある感じがする。

 あとで読んで知ったのだが、保坂和志と阿部和重の対談(『群像』2003年12
月号)でこの「森中」という人物のモデルについての言及がある。阿部が噂を
耳にしたのでモデルについて確認すると、作者本人がそれは「中原昌也」だと
明言しているのだ。ちなみに「小説家・中原昌也」については以前「文学のは
ざま」の第5回で書いたが、やはり阿部が言うように「どの場面でも中原昌也
にしか見えなくなっちゃって」しまうところはある。ただし阿部が中原と実際
に親しいというのにたいして、もちろん私は中原昌也という人間を直接知って
いるわけではない。

 さて「保坂の中で一番いい小説はどれか、面白いのはどんなとこか」とかい
いながら、保坂の主要な作品のいくつかについて多少言及したのは、そのこと
を本当に答えるのが目的ではなく、今年6月に出た保坂の小説論『小説の自
由』を読んだからだ。これは保坂が作家の立場から考えに考え抜いた、純度の
極めて高い小説論で、また保坂の独特な思考法の丁寧な再現も読みどころの一
つといえるかもしれない。それで今回このコラムでは、『小説の自由』をメイ
ンに論じようと考えたのだが、これについて実はうまく説明できる自信がない
のだった。だから小説のほうの感想を書いてしまった。

 『小説の自由』については、中身がわからなかったのではない。確かに保坂
の思考法は、回りくどいというか、話がどんどんずれていってもいくので、と
らえにくい、ということはあるのだが、わからないというのではない。という
よりはむしろ啓発的な考察が、絵画の重ね塗りのように何度も丹念に重ねられ
て、考えられていることの厚みのようなものを感じることができる。そして、
十分保坂の言わんとすることは、私にはよくわかるといっておこう。

 しかしこれを伝達するのが、どうも難しいような気がしてならないのだ。な
ぜなら保坂は、小説の一番重要な原理を「散文性」におき、それは言葉の説明
的な原理とは違うものだと規定している。また、その「散文性」をこの論考に
おいてまさに実践しようとしているからだ。これはおもに後半、アウグスティ
ヌスを解読しながら思考を延々と押しすすめているところにあらわれている
が、ここを読むのについては非常に面白いと思う。それと以前に『「私」とい
う演算』という作品があり、「散文」の運動が貫かれている限りは、表面上
エッセイや論考のような姿をしていても「小説」と呼んでもいいのでは、と作
者本人が後書きなどで語っていたのだが、これなども本作と共通した意識だと
言えると思う。小説論でありながら単に説明に終始するのではなく、「小説の
生成」に必要な「何か」を「何か」として分からせるような、そういう作品に
なっているのだ。

 だから、私が通り一遍の説明してしまうのでは、保坂が描き出した小説をめ
ぐる問題を単純化してしまうという危惧がある。それともう一つ、問題に感じ
るのは、保坂がどちらかというと場所によっては「誤解」を受けるような書き
方や表現をあえて選んでいるのではないだろうか、という疑問があることであ
る。私の理解はそういう書き手が設けた「誤解」の道を、きれいに避けてし
まっているのではないだろうか、ではまず「誤解」しているところからはじめ
るべきなのか、とか、そんなことを考えていると、そもそもどんなことが書か
れているのか、説明できなくなってくるのである。

 たとえば、保坂は、まず小説を規定している原理的な問題を考えるのに、
「現実」と「フィクション」というとらえ方の限界を指摘している。「現実」
が「フィクション」に描かれているという通常の考え方だけが問題なのではな
く、「フィクション」が描く「リアリティ」は「現実」そのものではない、と
いう観点まで含めて、奇妙な混乱を招くことを指摘し、その二分法では示せな
い「第三の領域」にこそ意識を向けるべきだという。

 具体的には、小説に現れる「私」(三人称や非人称を含めての)が作者の観
念の反映であることを極力弱めるべきだという主張があり、その悪い例とし
て、装飾的比喩がごてごてしている三島由紀夫の「人間化」された情景描写が
例示されている。むしろ人間の自然な知覚にならうようなかたちで描写などは
書かれるべきであり、白樺派の里見クや文章の神様志賀直哉をそのような好例
としてあげている。小津安二郎の映画も引き合いに出されている。そして極め
つけは、小説にも音楽のように「現前性」(!)が重要となってくる、という
のだ。

 ここですでにいろいろな偏見や誤解が生じてしまう。「保坂は自然らしさが
あればいいというのか?」「リアリズムについての考えが古すぎやしないか
?」「『現前性』って、ちょっとそれってありえないじゃない?」とか。しか
し、そうではないことも、だんだんと分かってくる。保坂が「現前性」という
ことばで言いたいのは、「写真や映画のように映像的あるべき」とか「まさに
あるように書け」とかではない。文字から頭に抽象として入力された言語が、
読み手の中で視覚や聴覚の仮想的な運動を引き起こさせることが、小説には最
低限必要なのであり、読者におこるその運動を「現前性」と呼んでいるのだ。

 保坂はその具体的な例として「視線の運動」をあげている。せっかく先に引
用したのだから、このことの説明のために保坂自身の作品を利用することにし
よう。たとえば『プレーンソング』でいつも騒々しい「アキラ」が黙って海を
眺めているとき、何もしていないわけでないことにみなさんは気づいただろう
か。その箇所を再引用すると、「アキラの目の焦点は、波に乗ってくるサー
ファーを追ったり、それより沖を横に動いていくウインド・サーフィンを追っ
たり、沖からこちらに飛んでくる海鳥を追ったりしていて、その合間にたまに
ぼくたちの方を見たかと思うと、また波打ち際を眺めることに戻っていく。」
のだ。

 これは海を眺めている「アキラ」の様子を「ぼく」が後ろから見ているとこ
ろで、「アキラ」は遠く海の上を行き来する存在とその動きに「視線=意識」
が奪われて、自然にそれ追っている。そしてふとこんな自分が見られているこ
とに気づいて振り向き、でもそれを確認するとまた海のほうに目をやる、そう
いう動きを「アキラ」の目になりつつも、「ぼく」の位置からその後ろ姿を描
いている。さりげなくそして静かな印象だけれど、二つの別の視点を通して非
常に複雑な情景の動きが描かれているのがよく伝わる箇所だろう。

 そして大事なのは、これが感覚や知覚にたいして丁寧な描き方でありなが
ら、やはり、実際の知覚そのものではないことだ。ここには知覚を言葉であら
わしたがゆえのズレがある。「アキラの目の焦点」を実際には「ぼく」が「ぼ
く」の位置から厳密にトレースできるはずはないし、「アキラ」にとって「波
に乗ってくるサーファー」は、その瞬間引きのカメラでなく、ずっとズームし
て近づいたかたちでとらえられているかもしれないし、なんとなくそうイメー
ジされもする。だから、描かれることとその再現にズレが生じていることが、
結果として全体に奥行きのある情景を実現しているのだ。これを読むときに起
こる印象のリアリティを保坂は「現前性」と呼んでいる。

 こんな例からも分かるように、「現前性」の話をしているとき、保坂は二つ
の表象を区別していることになる。まず当たり前だが、ここでは作者のリアリ
ティ(R)がそのまま読者のリアリティ(R’)へと伝わる(R→R’)など
というような単純なことを言っているのではない。では、フィクションとして
の作品(F)を通じて、作者から読者にリアリティが受け渡される(R→F→
R’)というのかというと、これも「第三の領域」を想定できない従来の考え
方に陥ってしまう。

 保坂が考えているのは、読み手は(reader=(r))は読み手で、自ら二つの
表象を担っているということだ(F→(r)→R)。つまり作品から与えられる
言語の内容を抽象として受容する(F→(r))ということ、それを自分の身体
性(知覚・記憶)に向けて表象する((r)→R)ということに分かれているの
だ。そのズレながら同時にある二つの過程があってこそ、作品はリアリティと
して感じ取られることになる。だから、三島の悪い手本では、「F→(r)」の
過程が観念や比喩の強い磁場にあることになり、それでは次の「(r)→R」の
過程で、読み手は「自由」に自分の身体や存在を活用するように開かれていか
ず、むしろ言語の拘束を受けたイメージを送り出すだけで、その送り出すもの
もほとんどリアリティとは呼べず、「F→(r)→F’」(F≒F’)として閉
じられてしまう、と言いたいのだ。

 この指摘は、すでに書き手の場に重要な問題を持ち込んでいる。書き手
(writer=(w))にも二つの表象とその運動がある。それは、現実なりリアリ
ティを感受し(R→(w))、それを言語化する((w)→F)という過程として、
つまり「R→(w)→F」としてあらわされるだろう。しかしこれはそう自明で
はない。なぜなら「R→(w)」と「(w)→F」の表象の原理は、先と同様に根本
的に異質だからだ(保坂は前者を「身体の原理」、後者を「言語の原理」とし
ている)。それなのに、書くという行為においてはどうしても言語の理屈やメ
カニズムが強まるため、結局「言語のイメージを言語に置き換えるだけ」(F
→(w)→F’)のようなことが起こりがちである、と言うのである。以下引
用。

  たとえば「秋になって街路樹の葉が落ちてアスファルトの道路の隅に吹き
 積もり、積もった葉もそのうち風に吹きさらわれるように、彼女からは、僕
 との夏の記憶は消えてゆくのだろう」というような文は、何も現実との対応
 を持たず、ほどよくイメージを喚起する言葉をつなげているだけで、ここか
 らは身体と言語とのきしみはまったく聞こえてこない。拡散的注意力はいっ
 さい働いていず、前章の新宮一成の言葉を借りれば、精神の眠りに陥ってい
 る。
  この手の文章を編集者、書評家、評論家の中にも「うまい」とか「心地よ
 い」とか褒める人がいるけれど(といっても私が即席にでっちあげた例文は
 あまりといえばあまりに下手だけれど、こういう文章を考えるのが嫌いなん
 だからカンベンしてください)、こういう文章を読める人は精神が眠ってい
 るだけだ。――なんて批判は書く方もバカバカしくて時間の無駄なのだが、
 一回ぐらいは書いておいてもいいだろう。というか、言葉の内側にこもって
 ただ練り上げていくだけのこういう文章は、別に村上春樹がはじめたという
 ようなことではなくて、日本の近代文学の歴史を通じて流れつづけてきたも
 のではないかと思うのだ。(『小説の自由』新潮社p174)

 つまり、もともとの理想化された「リアリティの伝達」(R→R’)どころ
か、われわれがおこなっているのは、ひょっとすると「F→(w)→F’→(r)→
F”」つまり「F→F’→F”」という「フィクションの伝達」にすぎないの
ではないか。こんなふうに非常にまずいことになりかねないのだ。これは純粋
に言語の運動でもあり、人間が免れることはないのかもしれないが(シニフィ
アンの連鎖とか。ちょっとラカンぽい?)、しかし、だからこそ知覚や身体の
運動=「現前性」のほうを保坂は重視するわけで、それによってかろうじて小
説は、「身体と言語とのきしみ」を持ち込むことができ、リアリティのとっか
かりを作ることができるのだ。そして小説がなぜ書かれなぜ読まれるのか、を
考える上でも、この「きしみ」が大切なものとなる。

 でも、このような説明は、はたして保坂の言わんとすることにどこまで沿う
ことになるのか、依然として私には分からない。それに、こうして記号なんか
使って理解を助ける(?)ように書くのは、それこそ保坂の考えに大いに反す
ることになるのではないか、そういう危惧もこの『小説の自由』を説明するの
が難しいと感じた理由の一つだったのだ。だが、「現前性」という言葉に「え
え!?」となる自分の、ある種の偏ったとらえ方を解こうとして、こういう方
法で考えるしかなかったのだから、これはこれでいいと自分としては考えた
い。

 だから、保坂の考えていることが「R→F」とあらわされ、私にとって「F
→R’」と理解されるとき、私は「R≒R’」であることを信じるが(私は
「現前」を信じる!)、しかしこれを今書いているこのような文章でそれを説
明する(R’→F’)とき、その説明の内容を理解する(F’→R”)人が、
「保坂の言っているのとは違うのでは」つまり「R≠R”」ではないか、とい
うかもしれない。それでも私は「R≒R’」であることを信じ、かつ「R’≒
R”」であることを保証する。しかし一番目の「R」と三番目の「R”」の直
接の関係を問うことは、私からはできない。これは、まずは読み手で、次に書
き手となった私の位置の限界であり、保坂の「身体と言語という異なるもの媒
介」という問題を引き受けるとき、これは十分な態度だとも思う。「R≠
R”」を主張する人には、またその人なりの「R”→F”」(表現)があらわ
れているはずである。

 しかしこのことは一般的な原理にすぎないので、これで話が終わるのならた
いしたことはない。保坂が考えさせることで一番重要なのは、繰り返すが、こ
のリアリティについての問いが「文学は何のために書かれ何のために読まれる
のか」というような大きな問題にまで、にわかにかかわりを持ち始めることだ
と思う。

 ただしこれについては、私にはもう説明できない。紙幅の問題ではなく、た
ぶん私の能力として単にできない。やや尻つぼみで申し訳ないが、でも興味の
ある人は、『書きあぐねている人のための小説入門』が非常に分かりやすく、
「何のために小説はあるのか」というについて考察をうながすような具体例が
でているので、そちらを読むのをお薦めする。とてもよく考えられて書かれて
いると思う。

 でも、やはり正直言うと、保坂は小説のほうがすごい。これは「本来小説家
なのだから小説のほうがいいに決まっている」とかいう、同語反復で、ありき
たりなオチとして言うのではない。今回の『小説の自由』のような論考的な作
品も、興味かき立てることがたくさんつまっているのだが、やはり何か弱い。
それはひょっとして、保坂自身のいくつもの小説の存在こそが、その論旨を支
えているということなのかもしれない。あるいは『小説の自由』で考え抜こう
としたことを、保坂は最終的には小説を書くための糧にしてしまうはず、だか
らかもしれない。どうしても小説のほうが優位なものとして立ち上がってしま
う。だから本当は、描写の意義や人物のモデルを設定することについて、保坂
の論点を批評するようなことを書きたかったが、残念ながら今回はこれまで。

 でも最後に一つ、どうしても言いたいことがある。それは、実際の保坂とい
う人は、かなり意地悪な人なのではないのか、ということだ。意地悪というよ
り、客観的には「頑固」「強情」「自分の考え以外はとりつく島を与えない」
ぐらいが穏当かもしれないが、近くにいたら絶対その言葉に意地悪さを感じて
しまいそうだ。「あなたの解釈は、非常に単純な見落としがあって」とか「結
局そういう表層的なボキャブラリーで理解して、思考の自動化を起こしてし
まっていて」とか、「悪気なく」指摘されそうで、そういう強迫観念を感じさ
せられて今回はかなり苦しんだ。もちろんこんな想定は考えすぎなのだが。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)サラリーマン。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
■ブックフェア■
 「現代思想は死んだか――空虚な時代を生き抜くための限界の思想」
  宮台真司vs北田暁大vs仲正昌樹

 双風舎の新刊『限界の思想』(宮台真司・北田暁大)『デリダの遺言』(仲
 正昌樹)に併せて、11月上旬より、下記の書店にて三者の代表作を揃えたフ
 ェアを開催します。
 ★旭屋書店本店(大阪)★ブックファースト梅田店★旭屋書店京都店

■黒猫房主の周辺「黒猫とブログな日々」■------------------------------
★今月は3本立て。しかも村田氏の論考は長文なので出力してお読みになるこ
とをお薦めしますが、保坂和志の『明け方の猫』に言及していなかったのが僕
的には残念。同書は内容もさることながら、ブックデザインがよろしい。カ
バーを取り外した本体のデザインにも、仕掛けがあって二度愉しめます。猫好
きには、たまりませんねぇ。
★リアリティとは、僕なりの言い方だとその瞬間に僕は立ち会って<いる>と
いうことの<端的性>だと思います。これはもちろん永井均の哲学に由来して
いますが、おそらく保坂和志にも通底しているように思います。
★ところで、さいきん投稿参加型の「黒猫カレンダー・プロジェクト」を立ち
上げましたので、次のWebサイトをご覧ください。そのおかげで、週末は戸外
の黒猫を探し歩いて撮影に逐われています(笑)。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ca01.html
★「シャノワール・カフェ別館あるいは黒猫房主の寄り道」というブログを開
設して、はや一ヶ月を過ぎ、自分でも驚いているのですが三日坊主にもならず
連日更新しております。ご来店くだされば、幸甚です。
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/

●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』55号(通巻58号)(2005/11/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・黒猫房主
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:黒猫房主
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
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 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』56号(師走号)
         (2005/12/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [57号は、2006/01/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「メディアななめよみ」第1回:「オシム語録」−そして人生は続く−
 -----------------------------------------------------------山口秀也
◆連載「マルジナリア」第10回:遍在する私(一)----------------中原紀生
◆INFORMATION:ご恵贈本/ブックフェア「進化論っておもしろい」/「第59
 回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺「師走の候」---------------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版も立ち上げました。各論考ごとに読者の方がコメント
や感想を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
 http://kujronekob.exblog.jp/
★「シャノワールカフェ別館」というブログサイトを創設いたしました。
ほぼ連日更新中です。http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/

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////// 連載「メディアななめよみ」第1回 //////

       「オシム語録」−そして人生は続く−
                              山口秀也
/////////////////////////////////////////////////////////////////////
 たとえば、神が貧乏グループと金持ちグループの二つを作ったとする。ほと
んど、真ん中のグループは作らず、「どちらか」の世界だった。金持ちは夢を
見ない。貧乏グループは夢を見るだろう。でも、夢を見るのは現実とは違う。
それでも夢を見たいと願う。貧乏が夢を見るには、それなりの質が必要なん
だ。(「週刊サッカーマガジン」984号)

■オシムの警句に祖国の戦乱の記憶を読み解く

 サッカーに興味がない人にはそれほど知られていないであろうが、Jリーグ
に贔屓のチームがあるというほどには入れあげてはいなくとも、マスコミに煽
られてか代表戦ともなると、どこに隠し持っていたのかやおらナショナリズム
を発揚する輩(つまりは普通のスポーツ好き)ていどであれば「オシム語録」
なることばを知っているのではないかと思う。

「オシム語録」。2003年にJ1のジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイ
テッド市原・千葉)の監督に就任したイビチャ・オシム(Ivica Osim)のおも
にインタヴューから採られた、さながら箴言集といった趣きのある発言群を指
している。それはたとえばこんな風だ。

 「車が車庫から出たとき、すべてのほこりが舞い上がるかもしれない。何が
起こるかわからないのがサッカーだ」
 「まず自分たちを信じ、そして相手を尊敬すること。だが相手を恐れてはい
けない」
 「いいスタジアムを作るより、いいチームを作る方が少しだけ難しい」

 その巨躯をトレーニングスーツに包んだ「物静かな巨漢」から発せられるこ
とばは、64歳(1941年生まれ)という年齢も手伝って、Jリーグの他の若い監
督たちとくらべてもひときわ落ち着いた様子を醸し出している。なによりひね
りのある警句には、それに触れた人間をして、その裏に隠された何かを知りた
いと思わせずにいられないものがあるようだ。

 しかしこれらの気の利いたことばはこのところ、影がその人から引き剥がさ
れてどこか自分の知らないところに連れて行かれたかのような感がある。たと
えばその発言「私は彼らが変わろうとする手助けをするだけ。重要なことは、
選手に『もっとできる』と思わせること」は、たちどころに「リーダーの力」
などというタイトルのもとに経済紙の紙面を飾ることとなり、スポーツ誌のタ
イトルですら「オシムのサッカー構造改革。」(「Number」582号)となる。

 こういった風潮に乗っかるような形でこの語録を享受しているかぎりは、異
国の指導者がいかに弱小チームを建て直したかという物語の「さわり」を、経
営者の指南書として仕立て直したものを読むのにひとしく、そこからは「セカ
チュウ」をダイジェスト版(そんなものがあればの話だが)で読むほどの
「薄っぺらさ」しか得られないだろう。

 この場合、人びとが受け取っているのは、イビチャ・オシムその人ではな
く、あくまでメディアが加工し、複製し、虚構の入れもの(テレビやインター
ネット)に入れられた「見かけ」の情報であり、そこでは情報はあらかじめ
<異質なもの>を排除し、複雑なものは<端折られ><抽象化され>たものと
して現れる。そんな加工品から、オシムその人を知ることが困難であろうこと
は想像に難くない。

 それはともかくとして、極東の日本での経済紙で取り上げられるような受け
入れられ方とは裏腹に、サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身のオシム
が味わった、無残にも戦場に変わり果てた祖国での苦い人生の道のりに思いを
いたすとき、この国のマネーゲームに勝利したヒルズ族(このことばも早晩死
語になるであろう)たちが使うことばと同じ土俵で語られるはめになったオシ
ムのそれとの間に横たわる大きな隔たりを意識せざるを得ない。

「語録」にことさら政治的な臭いを嗅ぎ取ることは極力慎みたいし、実際オシ
ムは試合後の会見場でも、スポーツと政治を混同するような発言をすることは
ない。

 しかしたとえば、旧ユーゴ代表でオシムのもとでプレーしたセルビア人の
スーパースターストイコビッチなどは、98年フランスワールドカップを前にし
た記者会見上、予選リーグで同じ組に入ったドイツ、アメリカの感想を問われ
たとき次のように答えたのだった。このスロベニア、クロアチア、ボスニア・
ヘルツェゴビナの独立を強く推し、ユーゴ紛争においてセルビアに厳しい態度
をとり続けた国ぐにに対してはじめこそ「スポーツと政治は別です。ですか
ら、特に感情的なものには支配されません。」と答えたものの、やはりがまん
し切れずに「しかし、アメリカやドイツがいつまでも自分たちを世界の警察官
だとおもっているのはおかしい」と怒りを露わにしている。

 オシムにしたところで、日本で受けた新聞のインタヴューで「サッカーは戦
争ではない」と言ったすぐそのあとに彼の口をついたことば「政治がスポーツ
に悪影響を及ぼさないことを、強く願う」は、政治に翻弄された彼のサッカー
人生を、はからずも逆説的に惹起させる。

 このように、気の利いた警句の底に沈む重い祖国の戦乱の記憶を読み解くこ
とは、オシムという指導者の発言の真意を測り、そのサッカー観や人生観を知
る上で重要なことであるように思われる。

 ところで彼のプロフィールや年齢的からはあるていど合点がいくことである
が、よくオシムはサッカーを人生になぞらえている。たとえば「どこで何が起
こるかわからないもの!人生とはいつも危険と隣合わせだ。サッカーも同じ
だ」と言う時でもオシムが、いままでなにごともなく暮らしていた隣人同士が
ある日を境に、それがちがう民族だというだけの理由で殺し合うというシチュ
エーションを突然迎える、あの内戦を思い出していないとはたして誰が言える
だろうか。

 そんな彼のサッカー人生を、歴史的な事実と平行させながら辿ることは、12
月に上梓されるはずのジャーナリスト木村元彦が書いた『オシムの言葉 
フィールドの向こうに人生が見える』(集英社新書)に譲りたい。日本語で読
めるオシムの本格的な評伝がこれまでなかったことと、この著者のいずれも
サッカーおよびユーゴ紛争にかんする旧著3作が出色の出来であるという理由
で、併せて読まれることを強く奨めたい。

 翻って本稿についてはあくまで、オシムの語ったことばという諸もろの表象
をとおして、それらが交差するある一点で像を結ぶところを捉えられたらとい
う目論見があるだけである。必要以上の深読みは避けたいが、彼の、チームや
選手に向けられる様ざまなことばや身振りに彼自身の人生がつよく反映されて
いる、と感じる部分があるからこそ、人はこの語録に魅力を感じるのではない
だろうか。

■<サッカー/人生>の哲学

 しかし、知らない人のために少しだけオシムのキャリアと、彼や彼の家族が
さらされた歴史の波について触れてみることにする。

 1941年サラエボ生まれ。サラエボでプロのサッカー選手になり、東京オリン
ピックのユーゴ代表にも選ばれたテクニシャンだった。その後フランスに渡り
37歳で現役を退いて、監督としてのキャリアをスタートさせた。そこでの実績
をもって一足飛びにユーゴ代表監督に就任するわけであるが、就任中には「妖
精」ストイコビッチを擁して90年のイタリアワールドカップでベスト8に進出
している。その余勢をかりて臨むべく予選を突破した92年のヨーロッパ選手権
では、大会に乗り込んでからユーゴにたいする内戦の制裁措置により出場停止
となったのである。オシム自身は同じ年のボスニア内戦で、ベオグラードにい
た彼と離れていた夫人と娘がその後2年にわたってサラエボを出ることができ
なかった。それからギリシャのパナシナイコスを経て、1993年から指揮を執っ
たオーストリアのシュトルム・グラーツ(これも当初は国内でも強いチームで
はなかった)でUEFAチャンピオンズリーグに3度出場するなど監督として
の名声を高め、2003年からジェフ市原の監督に就いている。

 この間の詳しい足跡についても、前述の労作が語ってくれていると思うが、
この簡単なキャリアを見ても面白いと思うのは、シュトルム・グラーツという
弱小チームを8年も率い、優勝させるところまで引き上げたということだ。し
かしそのあとにビッグクラブへ移ることはなかった。そして20年ほど時を経た
今もオシムはやはりリーグの中堅チームジェフに籍を置き、好成績をあげてい
るにもかかわらずそこに腰を落ち着けている。現代であれば、スペインやイタ
リア、イングランドといった隆盛を誇るヨーロッパの一流チームの監督は、つ
ねにステップアップを望むものである。FCポルト(ポルトガル)での成功を
引っさげて金満チーム、チェルシーの監督の座に上りつめたモウリーニョなど
は、自らの上昇志向、野心を誰に憚ることなく表明しあまつさえ「売り」にま
でしているが、オシムにはそんなところは露ほども見られない。それがワール
ドカップのベスト8進出国の監督、しかもその陣容を見てだれもが羨望の眼差
しを向ける一級品のチームを率いた監督であれば、なおさらその後あえて傍系
を渡り歩くオシムの行動はある意味、一般の理解の範疇を超えているのかもし
れない。

 しかしそこにある行動理念にこそオシムの<サッカー/人生>哲学があり、
また人びとを惹きつけてやまない点なのである。「私は失うものがない。私は
自分がやれることをやりに日本に来ているのです。お金にも興味はありません
し、うまくいかなかったら帰るだけ。この2年間そう思って戦ってき」たので
あり、「壊すのは簡単です。(中略)作り上げる、つまり攻めることは難し
い。でもね、作り上げることのほうがいい人生」なのである。また2年目の指
揮を引き受けたことに対し「普通の監督なら、1年目のような結果が出せれ
ば、あそこで辞める。1年目よりいい結果を求められるからだ。でも、私は
残った。これが挑戦だからだ。」と語っている。「挑戦」もまたオシムの重要
なキーワードである。またこれらほど至極明快でありながら実践のむずかしい
ことはない。

 オシムはしかしこの哲学を貫き通し、「うぬぼれたプレーをしている。やり
直そうと思った時には遅い」「何かをやろうとしなければ、何も変わらな
い。」と選手とおそらく自分自身を鼓舞し続け、とうとうジェフにおいても先
日(2005年11月5日)カップ戦(ヤマザキナビスコカップ)を制し初タイトル
を手にした。オシムは冒頭のことばにあるとおり、貧乏が夢見るために必要な
質を手に入れるための辛抱と努力それに考えることを自らとチームに課して、
それに成功したのである。

 そしてこれらの行動指針に、戦争体験をふくむ彼の人生観が深く影響してい
ることを否定することはむずかしいだろう。

「夢ばかり見て後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に
良くしていくことを考えるべきだ」

■サッカー−メディア−戦争

 メディアが発する情報で、サッカー選手は駄目になり、人は戦争を始める。

 オシムが来日して、ジェフの成績が上がるとメディアもすぐに「オシムマ
ジック」ということばを使ってオシムとその選手を持ち上げた。しかし「若い
選手が少しよいプレーをしたらメディアは書き立てる。でも少し調子が落ちて
きたら一切書かない。すると選手は一気に駄目になっていく。彼の人生にはト
ラウマが残るが、メディアは責任を取らない」ことを彼は経験的に知ってい
る。それに便乗する世間は世間で格好の話題に飛びつくのに躊躇しない。

 またこれとは別に、旧ユーゴ紛争時のメディアのあり方は、それによって深
く傷つけられた、旧ユーゴの人間のだれもが疑問をもっているはずである。下
記は、当時の為政者側の偽装によるミスリードとしてのメディアのあり方を糾
弾した文学者ペーター・ハントケの発言である。

  君たちメディアは、まず爆撃の共犯者となり、しかる後に君たちによって
  (あらゆる意味で「君たちによって」なのだ)爆撃された人たちのストー
  リーを高く売りつけることによって、どんな共感の内実も遠のけた、ある
  いは、むしろこう言ったほうがいい、共感を変質させ、腐らせてしまった
  のだ。そのやりかたは、先ず破壊し、然る後に平和の裁判官を演じるとい
  う国家の手口と似ている。(『空爆下のユーゴスラビアで』ペーター・ハ
  ントケ著、元吉瑞枝訳、同学社)

 一降りの雨が左官屋を殺すように、ひとつ使い方をまちがえば、サッカー選
手どころか、人までが死ぬのというのがメディアに対する旧ユーゴに暮らした
人びとの実感ではないだろうか。ここからはあくまでも想像であるが、オシム
においても、メディアは単なるゴシップを書きたてるものではないということ
を経験的に学んでおり、それに対する警戒心も、(本国で)戦争のない国の国
民とはまた違ったものがあるという風に解釈できる。実際にハントケの発言や
次のストイコビッチの体験は、それを納得させる説得力を備えているのもまた
確かである。

 セルビア人であるストイコビッチは、1992年こんな経験をしている。当時在
籍していたイタリアのベローナというチームの練習で、「お前たちはまったく
モンスターか」とイタリア人のコーチから罵倒されたのだ。

 この年は、前年にドイツが単独で承認した後追いのような形でECがスロベ
ニアとクロアチアの独立を承認した年である。イタリア人コーチの不可解な言
動の正体は、その時テレビから流れていたCNNニュースで判明した。カメラ
が捉えたクロアチア難民の少女の訴える被害状況にたいする説明が、全く逆の
意味に翻訳された英語のテロップが流れていて、そこではすべての原因がセル
ビアにあるということになっていた。この出来事に遭遇したときのストイコ
ビッチの戸惑いと絶望の大きさは想像に難くない。

 しかし、いかに彼や彼の家族や同胞が辿ってきた道が険しいものであろうと
も、オシムは、ただ悲嘆したり、あるいは達観したりすることはない。ただ
きょうもサッカーをするのである。

 本稿ではことさらオシムの発言に戦争の影響を云々してきたが、だからと
いって彼はサッカーを通じて政治的なメッセージを送るようなことはしない。
彼にとってサッカーはそれ以外のもの、たとえば政治や宗教あるいはそのほか
のものに取って代わることができないものとして存在している。その意味でイ
ビチャ・オシムにとって、ただひとつサッカーだけが人生と同じ重さと尊さを
もって存在しているということことだけを、この語録は語っている。

 「私にとって、サッカーは人生そのものだ。人生からは逃げられない」(イ
ビチャ・オシム)

※「 」で括られている短文については、そのほとんどを「オシム監督語録」
(ジェフユナイテッド市原・千葉公式ホームページ)に拠っている。

【参考資料】
「オシム監督語録」(ジェフユナイテッド市原・千葉公式ホームページ 
http://www.so-net.ne.jp/JEFUNITED/)
『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』1998年、木村元彦著、東京新聞出
版局)
『ユーゴスラビアサッカー戦記 悪者見参』(2000年、木村元彦著、集英社)
『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』2005年、木村元彦著、集英
社新書)
『空爆下のユーゴスラビアで』(2001年、ペーター・ハントケ著、元吉瑞枝
訳、同学社)
「メディアに隠された場所で――ユーゴへの旅――」元吉瑞枝(「La Vue」9
号、2002年3月1日発行、ウェブ版
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/motoyosi.html)

■プロフィール■------------------------------------------------------
(やまぐち・ひでや)1963年生まれ。京都市出身。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。

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////// 連載「マルジナリア」第10回 //////

             遍在する私(一)
                              中原紀生
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

●いつどこで読んだのか思い出せないけれど「目はあっても見える」という言
い方がある。「親はあっても子は育つ」と同類のレトリックとしてこれを読め
ば、肉眼はかえって物の本然の姿を眩ませてしまう、心眼をもってしてはじめ
て物の本質を見通すことができると解釈することができようが、それではいっ
こう面白くない。文字通り、物が見えるとは目と脳の生理的機能による現象な
のではなく、すなわち感覚器官や神経系の有無にかかわらず物は見えているの
であって、目や脳のはたらきはこの本来的視覚ともいうべきものを前提にしつ
つ、これを制御・限定しながら所期の機能を果たしていると解するべきであろ
う。

●いま苦し紛れに本来的視覚と呼んだもののことをベルクソンは純粋知覚と名
づけている。前回引用した「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経
系の協力なしに知覚される可能性」のうちに含意されている「万物の可能的知
覚」がそれで、そのような純粋知覚は宇宙空間のうちに遍く存在している。
《私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真に
とった景観のように思うところからきている。すなわちそれは、知覚器官とい
う特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不
思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像されるのだろう、というわけ
だ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物のまさしく内部で、空間の
あらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることを、どうして
みとめないわけにいくであろうか。どのような形而上学、いや、物理学も、こ
の結論をさけることはできない。》(田島節夫訳『物質と記憶』)

●純粋記憶もまた、神経系の有無にかかわらず宇宙の時間のうちに遍く存在し
ている。純粋思考というものが権利上存在しうるとして、それもまた宇宙のう
ちに遍く存在している(たとえば「エラン・ヴィタル」もしくはパース=ホフ
マイヤーの「記号過程」として)。純粋意識というものが権利上存在しうると
して、それもまた森羅万象のうちに遍在する。そして「私」もまた遍在する。
私があっても思考することができる。あるいは、考えているのは私ではない
(ラカンいわく「われなきところでわれ思う、ゆえに、われ思わぬところにわ
れあり」)。

●最近、日本語による哲学的思考の可能性ということに思いをめぐらせてい
る。日本語で西欧特産の哲学をするのはナンセンスではないか、あるいは逆に
日本の伝統や文化に根ざした哲学的思考でもって西欧哲学の行き詰まりを打破
することができるのではないか、つまり西欧原産の哲学を日本の風土や土壌の
うちに根づかせハイブリッド化することが可能ではないか、いやそもそも日本
原産もしくは特産の哲学がありうるのではないかなど、問いはさまざまに分岐
していくが、そういった問題をかかえて日々悩んでいるわけではない。
 目下のところ関心を寄せているのは、坂部恵が「日本哲学の可能性」(『モ
デルニテ・バロック』)で論じていること、すなわち「日本文化の場と日本語
というフィルター」を最低の条件とする哲学の可能性を考える際、ヨーロッパ
における精神史的転換期と日本におけるそれとの対比とともに、日本文化圏の
歴史的伝統のうちに眠っている「精神史的リソース」を抜きにすることはでき
ないという指摘だ。とりわけ14世紀から15世紀にかけての「歌論、連歌論、そ
の他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活
用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」と言われる、そ
の歌論・連歌論・能楽論の類から発芽しうる「フィロソフィア・ヤポニカ」の
可能性に惹かれている。

●ここで、坂部恵「日本語の思考の未来のために」(『仮面の解釈学』)から
サワリの箇所を抜き書きしておく。
《ところで、この旧国語学[国学]の伝統が、連歌の〈切れ字〉における「て
にをは」の用法への反省あたりを起点として、ほとんどもっぱら日本の詩的言
語のあり方への反省的自覚(時枝[誠記]のいい方によれば「古歌の解釈と和
歌の作法のため」)を核にして形成されてきたものであることの意味を、わた
したちはあらためて考えてみなくてはなるまい。なぜなら、詩的言語(あるい
は言語のうちにある詩的側面)こそ、たんなる伝達の道具としてではなく、有
限な人間がその中に住まうものとしての言語のもっとも純化されたものにほか
ならず、詩的言語による示差作用こそ(〈主体〉の形成に先立って)、人間も
自然をも含めたわたしたちの具体的な生存の場に原初の分節(デリダのいう
‘trace’)を入れ、それを〈住まい〉として構成するものにほかならず、し
たがって、〈日本語とは何か〉〈日本語による思考とは何か〉という問いにた
いする答えは、一般的な形で答えることには限界があり、究極的には、くり返
し日本語の詩的伝統の現実の中にたちかえり、その創造的ないとなみにみずか
ら立ち会い、いわば幽明境を接する仮面の無限の重なり合いとしての、世界と
ことばとのくり返してのあらたな発見の“おどろき”をともにすることをほか
にしては、ありえないと考えられるからである。》

●話を本題に戻す。本題とは、意識的・個体的な知覚や記憶や思考に先立って
無意識的・集合的な知覚や記憶や思考がすでにそこに立ち上がっているのでは
ないか、そしてそれらは「幽明境を接する仮面の無限の重なり合い」として幾
層にもわたって上書きもしくは重ね描きされているのではないかということ
だ。これと同じ事態が、たとえば哲学的思考をめぐる外来語=漢字(概念語)
と和語=かな(感性語)との関係のうちにも成り立っているのではないか。概
念に先立つ生の哲学的思考の可能性。あるいは、概念はあっても哲学的思考は
できる。

●フロイトは無意識を象形文字として捉えた。ラカンはこれを踏まえて、無意
識=象形文字を常に露出させている日本語のような文字の使い方をする者には
精神分析は不要だと語っている。《どこの国にしても、それが方言ででもなけ
れば、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なに
よりも――もっと強調すべき点ですが――、それが断え間なく思考から、つま
り無意識から言葉[パロール]への距離を触知可能にするほど未知の国語から
文字を借用したなどということはないのです。》(宮本忠雄他訳『エクリ』序
文)
 大澤真幸は『思想のケミストリー』で、ラカンのこの「皮肉混じりの指摘」
は日本語の使用、いや言語使用一般に常に伴う疎外(〈私〉が〈この私〉であ
ることの基底をなす中核部分が〈私〉にとって最も外的な何か=残余として立
ち現れること)の感覚に巧みに照準していると書いている。
《かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読
み)を注釈していると見なしたくなる。(略)だが、ラカンは、まったく逆
に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮
上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書
字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べて
きたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性
を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、
この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。》

●私はなにも「かな=純粋知覚、漢字=純粋記憶」とか「抽象思考は常に外部
から到来して野生の思考を注釈する」といった議論を展開したいわけではな
い。また、以下に引用する「物の学習」を「かな=純粋知覚=野生の思考(実
証思考)」の系列に位置づけて、日本語を母語とする哲学的思考の可能性、と
りわけ詩的言語を中核とするそれについて主題的に考えたいと思っているわけ
でもない。そもそも考えているのはいったい誰なのか。迂遠な言い方だが、こ
こ(『マルジナリア』)での私の関心はつねにこの一点の周辺にとどまってい
る。
 注記を一つ。川崎謙は『神と自然の科学史』で、神のロゴスを思考枠組みと
する西欧自然科学と「実相[イデア界]は諸法[現象界・物質界]なり」(道
元)を思考枠組みとする「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っている
わけではない)とを歴史的眺望のうちに置いて比較している。ロゴスなり諸法
実相が、それ自体は無意味な世界である「素材の世界」に秩序を与え、それぞ
れを「ネイチャー」もしくは「自然」として認識させる。少なくとも、このよ
うな意味での自然科学的思考は「哲学的」である。

●前田英樹『倫理という力』に「物の学習」と「記号の学習」という対になる
言葉が出てくる。動物の本能は群れの能力であり、人間の知性は個体の能力で
ある。発達した知性は道具を使い、道具を使う知性は二つの方向に分化する。
宮大工の棟梁が養う知性は、物の性質に入り込みさまざまな性質の差異を見分
ける「物の学習」にかかわり、図面を引き機械を設計する知性は、ルネサンス
から産業革命にかけて爆発的に進展した「記号の学習」を極める方向に進んで
いった。そもそも人間の知性は記号と共に出現した。しかしこれらの諸記号は
個体の知性を超えて社会を組織してしまう。ここには群れを組織する本能とは
別のもうひとつの原理、生命とは無関係な何か自動的で抽象的な原理がある。
《どんなやり方であれ、〈物の学習〉を深めた人間なら誰でも知っている。
〈心の学習〉は、〈物の学習〉によってだけ可能になることを。あるいは、そ
の一部分でしかないことを。このことは、唯物論というような大仰な考えとは
関係がない。木を削ることは、木の繊維が持つ性質の差異に深く降りていくこ
とである。その時、削る道具はそれ自体が無数の性質を持った一種の繊維でな
くてはいけない。木には木の無数の心が、鉄には鉄の無数の心が、変化しなが
ら存在している。そうとしか言いようのない学習を宮大工はいつでもしてい
る。学習する自分の心は、ひたすら木や鉄の心を追い、それと連続する何かに
なる。千年の堂塔が建つのは、そういう大工たちの心のあれこれが、誤りなく
組み合わされた時である。》

●この「物」と「記号」を養老孟司(『人間科学』)がいう「情報」の仲間だ
と考えてみる。ここで情報とはスルメやDNAのように停止し止まったもの、
動かないもの、変化しないもののことだ。養老人間科学においてこれと対にな
るのが「システム」で、それは生きたイカや細胞のようにひたすら動いて変化
していく。
 「木には木の無数の心が、鉄には鉄の無数の心が、変化しながら存在してい
る」と言われる、その物との接触のうちに培われそれらと連続していく知性、
いわば実証的で具体的な神話的思考にかかわる智慧のようなものを、記号をめ
ぐる抽象的で論理的な科学的思考とひとまとめにしてしまうのは気がひける
が、そして「神話的」と使った手前思わず「科学的」とレッテルを貼ったこと
にも慎重な註釈が必要だとは思うが、それらの疵は素通りして先へ進むことに
する。

●補遺。ジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』に関連する議論が出てく
る。ニワトリが先か、タマゴが先か。「DNAは生体のデジタル化された自己
記述である」のか、むしろ「生体の方がDNAのアナログ化された自己記述と
見なされるべき」なのか。現在の知識ではこの二つの可能性のいずれも排除す
ることができない。
《私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、
「自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。なぜなら、もしD
NAがそれ自身のコピーに過ぎなかったなら、DNAの「メッセージ」は何の
意味も持たず空虚なものであろう。逆に、もしDNAにその増殖が保証されて
いなければ、生体のメッセージについて語るべきものは何もない。(略)生命
はこのデジタルとアナログの二つの形に託されたメッセージの間の記号論的相
互作用に依っている。言い換えるならそれは記号双対性とも言うべきものであ
る。生物の中ではこの二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己」であ
る。人間における自己が肉体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原
形質とDNAの両方から成る。》(松野孝一郎他訳)
 デジタル記号=情報、アナログ記号=システムと見てもいいと思うが、ここ
では「デジタル(記号)+アナログ(物)=情報」と考えておく。

■プロフィール■-----------------------------------------
(なかはら・のりお)サラリーマン。論考として『ポリロゴス1 特集:ミ
シェル・フーコー』『ポリロゴス2 特集:メディア――越境する身体』(中
山元編集、冬弓舎)掲載。共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』(
bk1with熱い書評プロジェクト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
中原紀生さんが、ついにブログを開始され連日更新中です。
★ブログ「不連続な読書日記」http://d.hatena.ne.jp/orion-n/

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『怒りのブドウ球菌』永吉克之著、デジタルクリエイターズ刊

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「日刊デジタルクリエイターズ」(発行部数・約18,000部)の連載エッセイを
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 ■日  時:05年12月10日(土)午後1時より4時まで。その後、忘年会。
 ■テキスト:ホルクハイマー/アドルノの『啓蒙の弁証法』(岩波書店)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺「師走にて候」■--------------------------------------
★今号より、山口秀也さんの新連載「メディアななめよみみ」がスタートしま
した。中原紀生さんが、ついにブログを開始され連日更新中です。
★う〜む。油断していたわけではないが、あっいう間に師走。走れ走れ「師」
の付く職業の人。僕は、ゆくり歩きますよ。
★「師走」の語源は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によ
れば、<一般には、12月は年末で皆忙しく、普段は走らない師匠さえも趨走
(すうそう)することから「師趨(しすう)」と呼び、これが「師走(しは
す)」になったとされている。師は法師(お坊さん)であるとし、法師が各家
で経を読むために馳せ走る「師馳月(しはせつき)」であるとする説も一般的
である。また、「年果つる月(としはつるつき)」「為果つ月(しはつつ
き)」が「しはす」となったもので、「師走」は宛字とする説もある。「三冬
月(みふゆつき)」などの別名もある。>だそうで、看護師・美容師・鍼灸師
等は「師」がつくが消防士は「士」なので、この「師」と「士」の遣い分けに
ご注意。しかし年末は消防士も急がしそうだなあ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%88
★ブログ「シャノワール・カフェ別館あるいは黒猫房主の寄り道」では、この
数日、漫画評論家の夏目房之介さんからもコメントを頂戴して「キャラと萌え
の考察」というテーマで盛り上がっていますので、ご高覧いただくと幸いで
す。http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/

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『カルチャー・レヴュー』56号(通巻59)(2005/12/01)
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      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・黒猫房主
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:黒猫房主
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
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