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『カルチャー・レヴュー』2005・3
『カルチャー・レヴュー』
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
*以下は立岩に送っていただいたものです。
直接上記のホームページをご覧ください。
『カルチャー・レヴュー』2005・1
◆『カルチャー・レヴュー』46号(如月号)
◆『カルチャー・レヴュー』47号(弥生号)
◆『カルチャー・レヴュー』48号(卯月号)
『カルチャー・レヴュー』2005・2
◆『カルチャー・レヴュー』49号(皐月号)
◆『カルチャー・レヴュー』50号(水無月号)
◆『カルチャー・レヴュー』51号(文月号)
『カルチャー・レヴュー』2005・3
◆『カルチャー・レヴュー』52号(葉月号)
◆『カルチャー・レヴュー』53号(長月)
◆『カルチャー・レヴュー』54号(神無月)
『カルチャー・レヴュー』2005・4
◆『カルチャー・レヴュー』55号(霜月号)
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■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。
◆直送版◆
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(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』52号(葉月号)
(2005/08/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[53号は、2005/09/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「マルジナリア」第9回:世界の界面-----------------------中原紀生
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第9回:「宗教」って何なんだ〜!?-----ひるます
◆INFORMATION:緊急の要請/第57回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(「責任論の位相」)-------------------------黒猫房主
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★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版も立ち上げました。各論考ごとに読者の方がコメント
や感想を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
http://kujronekob.exblog.jp/
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////// 連載「マルジナリア」第9回 //////
世界の界面
中原紀生
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マルジナリア9「」/中原紀生
●『マッハとニーチェ』を読んで以来すっかり木田元さんの語り口に魅了され
ている。同じ話題を繰り返し反復しながら語り直す(「遣い回す」ではない)
落語の名人を思わせる話術は、それに接するたび既知の事柄が「いま・ここ」
でアクチュアルに立ち上がってくる。同じ話を何度でも初めてのように愉しむ
ことができる。ハイデガー哲学の語り直し(「焼き直し」ではない)の名人芸
にただゆったりと身をゆだね、逐行的に細部を味わいつくし繰り返し反復しな
がら読み直すことで、大袈裟にいえば「生きる歓び」のようなものを感じとる
ことができる。
保坂和志が『反哲学史』の文庫解説で「この本を読んだら…まずはもう一度
この本を読み直してみるのが一番いいんじゃないかと思う」と書いている。哲
学するとは哲学を語り直すことと同義で、それも「何度でも」語り直すことに
意味があるのであって、それはAはAであるという認識や知識を情報として受
けとることとはまるで違う(「A」は概念であっても個物や「私」であっても
いい)。哲学するとはAが(現に「いま・ここ」で)Aであること、あるいは
AがAになる生成の現場を身をもって何度でも生きることそのものなのだ。保
坂さんが言いたかったのはたぶんそういうことではないかと思うが、違うかも
しれない。
●木田元を讃えることがここでの本題ではないので、話題を先に進めよう。
(以下に出てくるハイデガー云々はほとんど木田元さんの書物、たとえば『反
哲学史』や『ハイデガー拾い読み』などからの受け売りです。)
ハイデガーによると、西洋の形而上学的思考はプラトン/アリストテレスに
よる存在の二区別に端を発する。すなわち「形相(エイドス)」あるいは「そ
れが何デアルかという存在」と「質料(ヒュレー)」あるいは「それガアル
(かないか)という存在」の区別で、この二つの存在概念はそれぞれ中世スコ
ラ哲学における「本質存在(エッセンティア)」と「事実存在(エクシステン
ティア)」に引き継がれ、その嫡出子たる自然科学(物質的自然観)を生み、
形而上学の終極において「力への意志」と「永劫回帰」へと変奏されていっ
た。
●それでは分岐する以前の存在概念はどのようなものだったか。ソクラテス以
前の思想家たちが一様にそれをめぐる著書を残したと伝えられる「生きた自
然」すなわち「フュシス」である。ハイデガーは『形而上学入門』で、フュシ
スについて「それは、おのずから発現するもの(たとえばバラの開花)、自己
を開示しつつ展開すること、このように展開することにおいて現象へと踏み入
ること、そしてこの現象の中で自己をひき止めて、そこで永くとどまること」
とか「存在そのものであり、これのおかげで初めて存在者は観察可能になり、
いつまでも観察可能なのである」と書いている。「フュシスは、もともと天を
も地をも、石をも植物をも、動物をも人間をも、人間と神々との作品である人
間の歴史をも意味し、最後に、そして第一に、運命のもとにある神々自身をも
意味する」。
●ところで「エクシステンティア」の概念は「アクトゥアリタス」というラテ
ン語と等価であって、この言葉には「働く」という意味の動詞の過去分詞形
「アクトゥス」が含まれている。このことからハイデガーは、神の創造作用で
あれ(スコラ哲学の場合)主観の表象作用であれ(カントの場合)およそ西洋
形而上学の根底にプラトン/アリストテレス以来の「制作的存在論」がひそん
でいると主張するのだが、それはここでの本題ではない。
「アクトゥアリタス」はアリステレスの「エネルゲイア」(現実態)のラテ
ン語訳である。そうすると「エネルゲイア」と対になる「デュナミス」(可能
態)のラテン語訳「ヴィルトゥス」は「エッセンティア」という概念と等価な
のだろうか。そしてまたここに出てきたアクチュアル/ヴァーチュアル(現実
的/潜在的)の軸は、ベルクソン/ドゥルーズによってこれとの差異が強調さ
れたリアル/ポッシブル(実在的/可能的)の軸とどのような関係を切り結ぶ
ことになるのだろうか。
●木村敏は「リアリティとアクチュアリティ」で、離人症とは「行為的直観」
や「環境のアフォーダンス」の障害であり、そこで失われるのは公共的・客観
的・三人称的な実在に関する「リアリティ」ではなく、私的・主観的・一人称
的な「アクチュアリティ」であると書いている。
《動詞の時制を借りていえば、リアリティが「過去形」あるいは「完了形」で
表現されるのに対して、アクチュアリティは「現在形」――あるいはより適切
には英語でいう「現在進行形」――でしか展開しない。リアリティが存在者の
指標であるとするならば、アクチュアリティは生成そのものの特性であって、
いかなる形でも存在の標識にはならない。ただ、人間の志向的意識は、あらゆ
るものを知のノエマ的対象に変え、(ニーチェの言葉を借りれば)「生成に存
在の刻印を押そうとする〈力への意志〉」によって支配されている。こうして
アクチュアリティを知のノエマ的所与として捉えようとすれば、それはたちま
ちリアリティとしての存在者に姿を変えてしまう。》
●ベルクソン/ドゥルーズによると、リアリティ(実在性)はポッシビリティ
(可能性)と対をなし、アクチュアリティ(現実性)は「アクチュアリティが
アクチュアリティとして実現されていない状態」すなわちヴァーチュアリティ
(潜在性)と対をなす。
木村敏はこのことを囲碁のコンピュータ・ゲームと生身の棋士の場合との違
いで説明している。前者においてある局面で打たれる石は多数の可能性のなか
から確率論的な計算によって特定されるものであるのに対して、後者では打た
れる石はそれぞれに潜在的な働きあるいは勢いをもっている。しかしゲームが
終了すると、あるいはその途中であっても第三者が客観的に盤面を眺めたと
き、碁盤の上には静止した多数の石の「リアル」な配列しか見えてこない。
「そこではかつてのヴァーチュアリティが、こうも打てたであろう、という可
能性に姿を変えている」。
それはあたかも紙の上に書かれた文字の「アフォーダンス」すなわち「意味
のアクチュアリティ」が消え失せたとき、そこに奇怪でグロテスクな描線の集
合が「裸の実在」として出現しているのに等しい。あるいは離人症患者におい
て「つねに自らを現実化しつつある自己の潜在性」が失われたとき、そこに対
象化された「自己」の形骸が「リアル」に存在しているのに等しい。
《潜在と現実の――ある意味で「虚実皮膜」の――境界におけるアクチュアル
な活動が、身体と環境の境界でわれわれの生を維持している。このアクチュア
リティこそ、ふつう「自己」の名で呼ばれているものの「実質」である。自己
とは、それ自身がそれ自身との境界あるいは差異でありながら、環境あるいは
世界との境界において生成し続けている「自己現実化」の動きに他ならな
い。》
●垂直方向にアクチュアル/ヴァーチュアルの軸を引く。それは下方(潜在
性)から上方(現実性)への力の矢印となるだろう。パースにならって普遍
(確定されないもの)から個別(確定されたもの)へと言ってもいいし、木村
敏の表現を借りて「ディオニューソス的ゾーエー」から「アポロン的ビオス」
へと言い換えてもいい。リアル/ポッシブルの軸はこの垂直軸に直角に交差す
る水平軸をなす。それは(離人症患者でないかぎり)アクチュアリティとリア
リティが表裏一体のものとして現象する世界の界面である。
この図式はフェリックス・ガタリが『分裂分析的地図作成法』で示した「四
つのカテゴリーの交差行列」と相同である。この謎めいた地図(主体性が生産
される場)がいったい何を意味しているのか私にはよく判らない。アリストテ
レスがプシューケーの能力のうち感覚と思考の間にあるものとした「ファンタ
シア」――イマジネーションやカントの「構想力」につながるもの――がこの
図式のうちにどう位置づけられるのかも判らない。あるいはラカンの「前未来
形」がこれとどう関係してくるのか、そもそもそこに言語がかかわってくるの
かこないのか、それらもまたよく判らない。
●先に引用したハイデガーの文章を読んで、私はロレンスが『黙示録論』で古
代ギリシャ人の「神」をめぐって書いた文章を想起した。
《古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて神
であった。…ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれ
がなんでも神となるのだ。…あるいは青色の閃光が突如として意識をとらえる
ことがあるかも知れない、そうしたらそれが神となるのだ。…水に触れてその
つめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいも
の》としてそこに現象するのである。だが、これは決して単なる質ではない、
儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい。》
私は「フュシス」とは「クオリア」のことではないかと考え始めている。少
なくとも「本質存在」の概念に根ざす力(生命そのもの)と「事実存在」の概
念に由来する物質(生命物質=身体)とが接触する界面(脳内現象)におい
て、つまり先の二軸の交差によって切り拓かれる世界の断面において、分岐以
前の「生きた自然」は「クオリア」として現われ出るのではないか。
●木村敏は「自分であるとはどのようなことか」(『関係としての自己』)
で、クオリアは「個人と世界の界面現象」として「そのつど新たに成立するア
クチュアリティ」であると書いている。この自己のクオリアは単層構造のもの
ではない。「私と世界の界面現象」である自己のクオリアは「そのつどの対人
的な場」の関数だからである。議論はこうして集団的な「場のクオリア」に及
び、「有機体と環境世界の界面現象としての主体」(ヴァイツゼカー)という
概念を経て人間以外の生物にまで及ぶ。(はては「生命それ自身」(ゾー
エー)と「個別的生命」(ビオス)の区別を経て「父母未生已然の自己」にま
で及んでいく。)
《渡り鳥にとっては群れがまとまって越冬地に向けて移動する飛翔それ自身
が、合奏の演奏者にとっては全員で演奏している音楽それ自身が、何にもまし
てアクチュアルな「事実」ないし「そうであること」である。/世界が「そう
であること」のすべてであるのなら、自分が(上に述べた自己の重層構造を
ひっくるめて)自分自身であるということも、自己にとっての世界だというこ
とになり、世界との界面現象としての自己(あるいは主体)は、自己自身との
界面現象として捉えられることになる。》
●木村敏はある対談で、クオリアは「質感」というより「感触」と訳す方がい
いと語っている。またクオンタ(量子)がクオンタムの複数形であるように、
クオリアも複数形で、量子に対する「質子」なのではないかと語っている。
斎藤慶典は「「アクチュアリティ」の/と場所」(『講座生命5』)で木村
のこの提案を「魅力的」としながらも、「現象がそれに対して現象するところ
のもの」(私=行為主体)の問題と「現象するものを現象させる作用」(ノエ
シス)の問題とはまったく別の問いであり、後者においては現象することの内
部に位置する「感じ」を云々する余地はないと書いている。
《…世界のすべてを現象へともたらすこのはたらきが受容されることがもしあ
るとすれば、それは、それ自体としてはまったく何の実質ももたない(この意
味で「空」であると言ってもよい)このはたらきが、世界の「無」(何も現象
しないこと)との鋭い対比の中で浮かび上がったその瞬間を措いてほかにはあ
りえないように思われる。そのときすべてが現象するのである(「無」との対
比で言えば、そのときすべてが「存在」するのである)。すなわちそれは、現
象すること(存在すること)の受容であり、現象すること(存在すること)を
被ること(passion あるいは leiden、だがそれは「感情」ではないのだ)で
あり、かくして現象すること(存在すること)の贈与なのである。》
斎藤慶典の議論はここから確率論的な表現をもつ量子力学の「実在」へと進
んでいく。さらに『レヴィナス 無起源からの思考』では、世界の開闢(「一
度も現在であったことのない過去」、「いま・ここ」の根底においていつもす
でに生じているような「太古の」時)において響いた「光あれ」に言及してい
る。いずれも途方もなく魅力的な議論なのだが、そのこともまたここでの本題
ではない
●世界には第二の界面がある。現象することと何も現象しないこと、すなわち
「空」(ヴァーチュアリティ)と「無」との界面。それはもはや「ある」とは
言えない。それは「界面」ではなく「世界の底」、あるいは生命と物質と言語
が統一される場と言うべきかもしれない。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第8回 //////
「宗教」って何なんだ〜!?
ひるます
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獏迦瀬:前回は「死」について語りました。「死」を考えるというと、すぐ連
想するのは「宗教」ってことで、今回は「宗教」をテーマにお送りいたしま
す。
伊丹堂:お送りかい。ま、死者をお送りするのが宗教だといえば言えるがね。
獏迦瀬:あの世に送る…と、つまり葬式をやるのが宗教ですか。
伊丹堂:いや、定義として葬式をやるのが宗教ではなくて、結果として、宗教
は葬式をやる。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:つまり、なぜに宗教が葬式をやるのかってのが、カンジンなこっちゃ
な。
獏迦瀬:なぜに…ですか、まあ宗教といってもイロイロでしょうからね…。
伊丹堂:そ、仏教とキリスト教の場合だけ考えてみたって、その意味合いは異
なるわな。
獏迦瀬:ですよね。成仏させるというのと、神の国に復活させるというのでは
かなり違いますよね…ただ人の死後の問題を扱ってるということでは共通しま
すけどね…。
伊丹堂:ま、ここで宗教学をやろうというわけでもないし、誰もそんなもの期
待しとらんじゃろうから、具体的な宗教についてはいちいち言わんがな。いず
れにしても、いうことは宗教とは「人の死後の問題」に関わっている、という
ことがまず言えるわな。
獏迦瀬:人間の死後について考える…あなたの知らない世界ってことですかね
(笑)。
伊丹堂:うむ、しかしようするに死後について考えるってのは、どういうこと
か、といえば一言で言って「超越」ってこっちゃろ。
獏迦瀬:超越…超常現象ってことですか??
伊丹堂:アホか。超越ってのは、ここで何度も話題にしていることじゃ。つま
り人はさしあたってたいていは目先のことを配慮して生きているが、それとは
別に全体的な観点からモノゴトをとらえようとする、これが超越ってこっ
ちゃ。
獏迦瀬:ああ、それは「政治」の話の時によく言ってましたね。目先の配慮の
連鎖で出来ているのが世の中で、それに対して超越的な観点から介入するのが
政治というものの構造だと。
伊丹堂:そういう構造をつくっているのは、ようするに人は目先のコトだけで
は生きていられず、ついついそうしなくていいにもかかわらず「全体」を思考
してしまう存在だから、というしかないわけじゃ。
獏迦瀬:人の人生の「全体」を考えれば、当然、死や死後のこと、というのを
含めて考えることになる…ということですか。
伊丹堂:個々の人生というのもそうじゃが、むしろ人間というものが「どこか
ら来てどこへ行くのか」を問題にするのが宗教というもんである。
獏迦瀬:壮大なんですね…僕なんか、こ〜いう哲学的な対話に参加しながら、
ほとんどそんなコト考えたことはないですけどね…。
伊丹堂:いかんな、ってのは冗談で、それが普通じゃろう。よ〜するに、人が
超越的な観点から思考してしまう、という構造にある、ということと、ある個
人がそういう「テツガク的なこと」に熱中して考えてしまうということとは
まったく別次元のことじゃからな。個人のそういう思考(趣向)は、ようする
に関心事の問題であり、実存の問題なんじゃからな。
獏迦瀬:実存でなく、構造の問題?
伊丹堂:ある意味で「宗教をやってる人」にとっては、宗教ほど実存的なもの
はないわけじゃが、それはおいといて、ここでは「構造としての宗教」を見て
おきたいってことヨ。つまり宗教というモノにある種の普遍性があるのは、人
が熱烈にそのようなコトを考えるというわけではなくて、人間が普通に生きて
いく上で、どうしてもそういう観点をチラッとでも必要としてしまう、という
ところにある。
獏迦瀬:ようするに自分で探求しないけど、気になるというか?
伊丹堂:気になる(笑)また一言でいえば、人間ってのは、納得したがる動物
でもある。
獏迦瀬:ナットクしないと落ち着かない…ってのはありますよね。
伊丹堂:じゃから、自分らの世界全体がどうなっていて、世の中の全体がどう
動いているのかってことに対する知識、つまり「世界ってこんなもん」という
暗黙の了解っつ〜かな、そういうもんは絶対に必要なわけよ。別に宗教を持っ
ていない我々にとってもそういうもんがあるわけじゃろ。宗教ではないが、な
んとなく物理科学的に説明された世界観っつ〜もんが。そういう科学の登場以
前には宗教的な世界観が支配していたわけよ。
獏迦瀬:そこでは宗教が必要とされたと…。
伊丹堂:というか、古代国家というのは、ほとんど「宗教国家」じゃろ。よう
するに宗教と政治が一体となって、人々がある種のナットクの中で安定的にく
らす「世の中」というのがでてきていったというわけじゃな。
獏迦瀬:なるほど、まつりごと、と言いますからね。
伊丹堂:そう、まつり、つまり宗教的儀式と、政治、つまり世の中に対する超
越的介入が、おなじ「まつり」という言葉で表現されるってのは、象徴的だわ
な。ま、いかに古代国家が宗教的な「意味」でもって社会・国家を創り出して
いったかということを研究したのがウェーバーの「宗教社会学」で、これは必
読書じゃな。
獏迦瀬:いまの政治では「政教分離」ということが言われますけどね。
伊丹堂:しかしそれはまた誤解されているわな。政教分離というのは、またま
た一言で言えば、宗教的な指導者が直接、政治的指導者とはならないってこと
じゃろ。しかし、依然として世界のほとんどの国家は明確にであれ、暗黙のう
ちにであれ「宗教国家」ではあるわけよ。
獏迦瀬:キリスト教国家、イスラム国家ってことですか。テロの原因でもあり
ますよね。
伊丹堂:日本だって、天皇教国家なわけよ。
獏迦瀬:うわわ。
伊丹堂:事実じゃからしょうがないわな(笑)。日本なんてはるか以前に政教
分離がおこなわれ、摂関政治、幕藩政治、ときて明治政府、戦後民主政府、と
続くわけじゃが、いずれにしても「国家であること」の基盤はあいかわらず
「天皇の国」であるというところにあるわけじゃろ。
獏迦瀬:西欧のキリスト教国家というのはどうなんです。
伊丹堂:国家の存在理由というとこじゃろ。国家は、けっきょくのところ、国
民がキリスト教徒としてまっとうに生涯を生きて、いずれ神の国に転生す
る、ってことを保障するというか、保護するために存在するっていうのが、暗
黙の了解じゃ。このことを考えずに、単なる「民主国家」などと考えると、現
代の世界情勢というのは、まったく理解できなくなるわけよ。
獏迦瀬:ナルホド…。
伊丹堂:ようするに人はナットクしたがっている、と言ったが、そういう意味
では、宗教−国家−個人という三位一体っつ〜かな、それは個人の深いところ
で、ナットクが形成されていて、それがほとんど人格の基盤をなしている、と
いってもいい。靖国に行きたがる首相や、なにがなんでもイスラム国家をこの
世から消滅させたい集団がいて、その人たちにどんなに「理屈」を言ってもそ
の考えを変えることなどできないのは、そのためよ。
獏迦瀬:話せば分かる、わけではない、と…これは「バカの壁」のキャッチで
したね(古)。
伊丹堂:みんながカント哲学を学べば理解し合える、なんて寝ぼけたことを
言ってもしょうがないわけ。
獏迦瀬:どうすればいいんですか、けっきょく、「正しい」宗教、というか、
絶対の宗教というのはないわけですからね…。
伊丹堂:それは前に竹田問題(カルチャーレビュー25号)で話したが…、ここ
で言っとくべきなのは、「宗教だから」いろんな考えや実存のあり方があっ
て、正しいものがないというのではなくて、一般に、人の考えや行動は「コト
の創造」だから、絶対のものはありえない、ということじゃな。ましてや宗教
や実存がかかわる「超越」の問題については、まさにカントではないが、どう
とでも言える以上、共通の理解にいたるはずがない。だからカントを学べ、と
いうのではなく、そういうもんだということを「割り切って」他人とつきあっ
ていくしかないってことじゃ。
獏迦瀬:了解です。ところで、そういう暗黙のというか、背景の生き方として
の宗教ということとは別に、「宗教やってる人」の問題というのがありますよ
ね。
伊丹堂:オウム問題っつ〜か?
獏迦瀬:まあ基本的には新興宗教ですよね。勧誘してきたりする人たち。
伊丹堂:ふうん、まあ人に迷惑をかけなきゃ何やってもかまわんというのがワ
シの立場じゃがな。
獏迦瀬:非常に多いように思いますけどね。
伊丹堂:そりゃ考えてみれば分かるが、国家があからさまに「宗教」的生き方
を語らなくなった以上、どっかでそれを補填しようという動きが出てくる。
獏迦瀬:オウムは「ナントカ省」なんか作って「国家」の戯画だとよく言われ
てました。
伊丹堂:というか、このところ話題にしている「実存」の問題よな。人が生き
る上で、熱烈にではなくても「超越」という観点を必要としている以上、身近
にそういうことを語る者がいれば、それに飛びつくということは当然ありうる
からの。
獏迦瀬:そりゃそうでしょうね。とくに哲学とか思想ということにまったく接
してなかった人が、ちょっと「超越的」なことを語る「ナントカセミナー」で
「気づき」を得た、なんてのが多いですよね。「哲学者」の伊丹堂さんとして
はどうなんすか、そういうの。
伊丹堂:なんか誘導くさいの(笑)。もちろん、ワシは宗教的な考え方を批判
する者なんじゃが、しかし、そういう生き方を一概に否定できないのは、とく
に地方都市などに暮らしていて、さしたる楽しみもなく、社交もせまく、しか
し過酷な経済状況を生きなければならない人などに「いきがい」を与えている
というところがあるからじゃ。
獏迦瀬:そういう人に宗教をやめろと言っても意味ないですよね。
伊丹堂:というか、逆に「単純に宗教を否定する」人たちに危惧を感じるわけ
よ。つまり、自分自身で「超越」という問題を考えたことがあるのか、と。
獏迦瀬:何も考えていないだけじゃないか、と(笑)。
伊丹堂:実際そうじゃろう。そういうことをふまえて言えば、ワシはもちろん
アラユル宗教を否定する者ではある。
獏迦瀬:そのココロは。
伊丹堂:ようするに思考停止じゃろ。せっかく「超越」のことを「気づいた」
んなら、そこである一つの「神話」にナットクするのではなくて、もっととこ
とん考えよってこと。
獏迦瀬:宗教の場合は、けっきょく「修行」というところに行きますよね。
伊丹堂:トコトン修行。体でわかるまで、というかね。
獏迦瀬:オウムの分析でよく「ワーク」ということが言われますが、ようする
に教団の全体の中で、それぞれが分担の仕事をして、それぞれが「生きる意
味」を実感できる仕組みになっていたという。あれは教団の構造としてうまく
出来ていたと言われてましたが、まさに「宗教国家」のミニチュアであるわけ
ですよね。
伊丹堂:ま、ただそれは宗教国家の「世俗面」なんじゃが、修行ということ
は、またそれとは異なるそれこそ「超越的」な体験なわけじゃろう。
獏迦瀬:神秘体験ってことですか。
伊丹堂:と、いうことじゃが、だからといって超常現象というわけではない。
一般的にいえば、前回話題にした「実存モード」のことじゃな。
獏迦瀬:ああ、魔の刻というか、魔境ですね。
伊丹堂:ようするに宗教的な創造者というのは、そういう「魔境」に自分をお
いて、その中で直観的に自分の宗教的世界を創造する。本人にしてみれば、神
のお告げだったりするんじゃろうが、いずれにしても、そういう非日常的な
「変成意識」状態というか、そういうモードの中ではじめて「超越」の問題が
体でワカルと、いうところがある。
獏迦瀬:なるほど。
伊丹堂:宗教の信者の修行というのは、たいてい、教祖と同様な意識状態に自
らをおいて、そこで体験的に「会得する」というところにあるわけじゃな。
獏迦瀬:う〜ん、宗教に限らず、実存体験というものはそういう意味合いがあ
るというのが、前回の話でしたね。
伊丹堂:しかしそれは受動的な気分である、ということも言った。しかも宗教
的な修行であれば、結論は最初から決まってるわけで、ようするに予定調和
じゃよな。
獏迦瀬:そう言っちゃうと身も蓋もない気もしますが…たしかにそれはそうで
しょうね。
伊丹堂:ようするにそれが思考停止ってことよ。そういうものにしか出会えな
かったということが不幸なんじゃが、それはしょうがないわな。
獏迦瀬:あらゆる宗教は思考停止であると。
伊丹堂:そうは言わん。たとえば釈迦の教えというのは、ようするに「魔境体
験」の中でさまざまなナットクが起きたが、そういうことの一切を幻想と見
切ったということじゃろう。以前、釈迦が実存主義者だったという話を紹介し
たが、それ以前に彼の教えというのは、まっとうな「哲学」なわけ。
獏迦瀬:哲学せよ、ということですかね。
伊丹堂:とは言わん。哲学だけで人は生きていくわけにはいかんからな
(笑)。「オムレット」で言ってるように、人にはそれぞれの関心事というも
のが必要で、インターネットを使ったりしてどんどん世の中が面白くなるのは
結構なことよ。それとちょっとばかり良質の哲学があればよい。
獏迦瀬:はあ…なんかそれってまた自分の宣伝なんじゃないでしょうね
(笑)。
伊丹堂:というか、いまの問題は、「哲学の宗教化」ということがアチコチで
起きてるのよ。なんとなくエッセイめかして、ある種の結論を「神話化」する
とか、むしろ積極的に「神秘」を語るとかな。ま、誰とは言わんが、イロイロ
よ。
獏迦瀬:精進しましょう…。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★緊急の要請★(転送歓迎)
中山文科大臣と河合隼雄の京都タウンミーティングへの抗議行動を!
*小学生〜高校生の子どもさんがおられる方は、参加申込みをして入場を!
*それ以外の方も、当日の抗議行動にご参加ください。
8月18日(木)、京都で「小泉内閣の国民対話---子どもが担う次代の文化力
タウンミーティングイン京都」が開催されます。登壇者は、教育基本法改悪に
向けて奔走し、この間のタウンミーティングで問題発言[1]ばかり続けている
中山文部科学大臣と、「心のノート」作成の中心人物で、もうすっかり「御用
学者」になってしまった河合隼雄[2]という大変な組み合わせです。
しかもこのタウンミーティングは、子どもたちが対象。小学校5年生〜高校生
と、その保護者しか入場できません。この2人が、いったいどのような話を、
子どもたちに刷り込もうというのでしょうか?
皆で入場して監視を!
入れない人は、会場入口でチラシ配布等の抗議行動を!
タウンミーティングの概要は下記のとおりです。
■日 時:8月18日(木)13:30〜15:10
■会 場:京都市学校歴史博物館(下京区御幸町通仏光寺 四条河原町より
南へ徒歩5分)
■登壇者:中山文部科学大臣、河合隼雄文化庁長官、黛まどか(俳人)
■募集対象:小学校5年生〜高校生と、その保護者(あわせて200名程度)
(子どものいない一般市民は入場できない。高校生は保護者がいなくても入場
可)
<参加申込>郵便番号、住所、氏名(ふりがな)、性別、年齢、電話番号を
記入の上、下記までハガキ、FAXで、8月10日(水)までに申し込む。
「タウンミーティング京都 参加係」
東京都港区芝5−3−7 三田奥山ビル4F−A 〒108-0014
FAX:03-5444-7602 TEL:0120-474-192
なお、詳細は、下記のホームページをご参照ください。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/17/07/05072004.htm
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★第57回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年09月04日(日)午後2時より5時まで。
■テキスト::『古事記』岩波文庫
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(「責任論の位相」)■--------------------------------
★暑中お見舞い申し上げます。
★新刊の仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書)を読みま
した。評判らしくすぐに重版している。その第一章で日本とドイツの「戦争責
任」を比較しながら、日本の戦後の戦争責任論が混乱しているのは、ヤスパー
スが分析した四分類(刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪)の
ような筋道をつけた責任論(『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー)が出な
かったからだと書いているが、果たしてそうだろうか。
★柄谷行人もこの責任の分類を不可欠だと認める。そうでないと、あらゆるこ
とが「責任」と同一視されてしまい、けっきょく責任が問われなくなるからだ
が、責任とはその本質においてすべて「形而上的」だとも言います。それは因
果関係を問おうとする態度からは責任は生じてこないからで、責任を引き受け
る態度は、他の原因によらない自由意志(自律性・自発性)に基づく「倫理的
態度」であるからだとされます。
★しかし形而上的ということに特別高邁な意味はないとも柄谷は言い、ヤス
パースがドイツ人に向かって、あえて形而上的罪を自ら感じ引き受けるべきだ
と説いたことは、実はドイツ人を高邁な民族として救済しようとした欺瞞であ
ると批判しています(『倫理21』太田出版)。
★このヤスパースの主張は、戦争責任を「血=生理的遺産」という共同性に求
めた家永三郎(『戦争責任』岩波現代文庫)とも心情的には通底しているよう
に思われます。その家永を批判した高橋哲哉が、今度は加藤典洋を批判する論
争の過程で、「汚辱の記憶を保持し恥じ入り続ける」という言い方をしたの
は、高橋が批判しているはずのナショナルな「共同的な語り口」に陥っている
と、加藤によって反批判されます(高橋哲哉『戦後責任論』講談社学術文庫、
加藤典洋『敗戦後論』講談社)。この「共同的な語り口」の点で保守派・革新
派の構造的同一性の指摘は、例外的に革新系の池田浩士によっても賛同されま
す(「終わらぬ夜としての戦後――加藤典洋『敗戦後論』の問題、『レヴィジ
オン[再審]第1輯』、社会評論社)。
★ここには、直接には加害責任(罪)のない戦後世代が、なぜ「戦争責任/戦
後責任」を負うことになるのかという課題の困難さが表出しています。宮台真
司はブログで、西ドイツの大統領だったヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
の「1945年5月8日〜あれから四十年」と題した記念講演(「戦争を知らぬ世
代」も戦争責任を負うべし)に言及しながら、行為(別様の選択可能性)が
「罪=過去言及」を生み、関係(選択不能な所与の事実性)が「責任=未来言
及」を生む、という論点を展開しています。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=277
★「選択不能な所与の事実性」とは、アーレントの言う「自発的行動によって
も解消しえない」という「集合的責任論」に近いようですが、この選択不能な
関係とは「先験的選択」(大澤真幸)であり、宮台によれば「親-子」「国-国
民」の関係だとされます。確かに、先験的に親を選んだりどこの国に生まれる
かを選ぶことはできませんが、事後的にその関係を解消することは原理的には
可能です。仲正昌樹は先の新書で、戦後世代に戦争責任があるのは親の遺産を
相続する際に、負の遺産も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈だと書
いていますが、不適切な比喩だと思います。親の相続放棄は簡単にできること
です。
★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまってい
ることは、原理的にも解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に
如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)
でもあると思います。先の高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方の真意
も、またその課題の表明でしょう。
★斎藤純一は次のように言います。「どのような自発的行動によっても解消し
えない」のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との
間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき
他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自
らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去る
ことはできない。
★しかし集合的責任と言えども限定的責任であることから、斎藤純一は国民国
家の配慮から排除された人たちへの、さらなる責任として「普遍的責任」
(アーレント)を問うています(「政治責任の二つの位相」、『戦争責任と
「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)。(黒猫房主)
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『カルチャー・レヴュー』52号(通巻55号)(2005/08/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
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の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
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◆直送版◆
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(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』53号(長月)
(2005/09/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[54号は、2005/10/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「文学のはざま2」第2回:笙野頼子の大傑作『金比羅』の凄さは伝わ
るか-------------------------------------------------------村田 豪
◆連載「映画館の日々」第9回:成瀬巳喜男の日々の泡-----------鈴木 薫
◆INFORMATION:トークセッションのご案内
◆黒猫房主の周辺「金比羅船々」-------------------------------黒猫房主
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★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版を47号より立ち上げました。各論考ごとに読者の方が
コメントや感想を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
http://kujronekob.exblog.jp/
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////// 連載「文学のはざま2」第2回 //////
笙野頼子の大傑作『金比羅』の凄さは伝わるか
――オカルトの国でサバイブするために
村田 豪
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笙野頼子については、前々から気にはなっていたが、ようやく最近何作かを
読むことができた。笙野ってだれ、という人もいるかもしれないから、まずは
簡単な略歴を紹介しよう。
1981年の群像新人文学賞を25歳で受賞。しかし若くしてデビューしたもの
の、それから約10年間本が出なかった。同じ回の群像新人賞の最終選考で落選
だったほうの高橋源一郎が、その後80年代の軽やかな時代の雰囲気を象徴する
ような作家として受け入れられていったのとは、対照的だった。それは初期作
品の、観念的で暗く時に晦渋な笙野の作風が、理解されなかったためだといわ
れている。
しかし90年代の笙野は、一気にその存在感をあらわにした。91年『なにもし
てない』で野間文芸新人賞、94年には「二百回忌」で三島賞、同年『タイムス
リップ・コンビナート』で芥川賞と、主要な新人賞を立て続けに受賞。純文学
系の作家の中でも新しいタイプの書き手として大きな脚光を浴びるようになっ
た。ある時は、ガルシア=マルケスやレイナルド・アレナスに通じる「日本の
マジック・リアリズム文学」と称讃され、またある時は、サイバーパンク、サ
イボーグ・フェミニズムなどとの同時代的関連性が指摘された。また松浦理英
子、多和田葉子、川上弘美などならんで、個性的な女性作家の目覚ましい活躍
を印象づける一人としても注目されたのだった。
確かに、作品は独特で素晴らしい。二百年分の時間が混じり合い、死者と生
者の境界が消滅する法事、常軌を逸した親族との交歓を描いた中編「二百回
忌」は、とんでもなく異様だし、マグロ(!)との恋愛を背景に灰色の海が見
える工業地帯の駅へ旅する『タイムスリップ・コンビナート』は、まさに「幻
想的」といえるだろう。
また、悪夢の中でワープロゲームのゾンビと戦う『レストレス・ドリーム』
の爆発的な言語的逸脱は、類例がないし、殺したはずの「おかあさん」が
「あ」から「ん」まで分裂増殖する『母の発達』は、母性にまつわる言葉をぶ
ちこわす楽しさにあふれている。愛のデマゴーグ「カニバット」と取り巻きの
ルサンチマン女たちがFAXのお化けになって襲いかかる『説教師カニバットと
百人の危ない美女』も、笙野のフェミニズムについての独特なスタンスを知る
にはお薦めの一作だ。
ただ、世間的な評価を頼りに、作品に近づいたせいか、今一つ私は作品にの
めり込めないでいた。決して面白くないわけではないし、作者の意気込み、真
摯な取り組みが伝わる作品が多いのだが、ツボにはまるような熱狂はやってこ
なかった。評価されてから時間のたった作品が多く、後追いで読む感覚が、作
品との距離感を作ってしまうのかもしれない。
しかし昨年でた『金比羅』は、違う。この作品は、「ぶっちぎり」の大傑作
である。評論家、他の小説家もほめているし、今年4月には伊藤整文学賞を受
賞している。けれど別にそんなことにはかかわらず、強烈な印象を受けた。飛
び抜けて壮大なテーマを内包した作品として、今後もおおいに問題にされるだ
ろう。
今回はこの『金比羅』を絶対的にほめる。ほめてほめて、ほめちぎる! け
れど、これがどのような作品であるか、読んでいない人に説明するのは、いさ
さか難しいような気もする。というのは、そんなに簡単に理解できるようなこ
とが書かれているわけではないからだ。かりに理解できるように説明をして
も、この小説の本当の凄さ、破格の度合いは、かえって伝わらなくなるのでは
ないか。難しいテーマを扱いながら、小説としての美点や機能、逸脱があらゆ
るかたちで駆使されていて、だからそれを簡単な説明に置き換えるのは、端的
にこの小説の複雑さに反してしまう。
しかし、まあ、そういうもったいぶったことを言わずに、私なりに愚直に説
明してみたいとは思う。だからこれは、『金比羅』という作品の偉大さに反す
るような解説である。
まず、『金比羅』は奇妙な小説である。作者とおぼしき「私」が47歳にし
て、自分がもともと「金比羅」であること、「金比羅」であったことに気づき
回生し、自分の一生を「金比羅」である立場から振り返りたどり直す一代記な
のだ。要約するならこれが物語の体裁のすべてであり、付け加えることは何も
ない。えっ、と思われるかもしれないが、本当だ。
しかし長編小説なのに、しかも傑作だと断言してやまない作品なのに、中身
がそれだけだなんて、あまりに芸のないふざけた解説だと思われるかもしれな
い。よって、もう少し踏み込んで言うとすると、「金比羅である」というとき
の「金比羅」とは何か、そして「金比羅」がそういうものだとするなら、「金
比羅である」とは、いかなる事態をしめすことになるのか。それを笙野頼子と
いう人間のバイオグラフィにおいて実験し、その可能性を証明した小説と言え
るだろうか。
ところで、そもそも世間でいうところの金比羅っていったいなんなのだろ
う。
ほら、「こんぴらさん」という愛称で親しまれている神様で、四国讃岐の像
頭山に鎮座する金刀比羅宮(ことひらぐう)のこと、千三百六十八段もの長い
石段も有名で、「金比羅船々、追い風に帆かけて、シュラシュシュシュ」っ
て、軽快な歌を聞いたことがあるでしょう?
たとえば、こんなふうにいわれても、私は最初、まったく何のことなのか分
からなかった。何かそういうものがこの世にあるのだろうな、というぐらいの
意識しかなかった。だいたい神社・神道・八百万の神にまつわること全般につ
いてめっぽう疎く、もともと興味もないのだ。ことによったら何か「怪しげ
な」たたずまいに居心地の悪さ、嫌悪感さえあるので、神社など近づくことさ
えろくにない。まあ、それにしても、いくら嫌いといっても世間的常識として
金比羅ぐらいは知っているものではなかろうか、と読者のみなさんには、この
世間知らずをわらわれるかもしれないが。
しかし金比羅のことを全然知らなくっても、作品を読み理解する上では、
まったく問題はない。というのは、こんなこと全部「作者=語り手の『私』=
金比羅」が、作品の中でため口地口悪口まじえて、面白おかしくじっくりしつ
こく説明してくれるからだ。というわけで、この小説の本質たる「金比羅」が
いかなるものかを知るべく、「私」がいわんとするところを、他の資料などで
補足しながらもう少し説明を加えてみよう。
金比羅は、もともとはインド、ヒンドゥー教の鰐の神「クンビーラ」から由
来している。日本では、蛇体の神と一体化し、それが仏法の守護神となって
入ってきた。また古くから龍神信仰と結びついて航海の神様としても信仰され
てきたといわれる。
そして現在の「本家」讃岐の像頭山には、そこを行場の霊山として信仰して
いた修験者・山伏が、神仏習合のもとに中世のころ金比羅を持ち込んだのだろ
うと見られている。資料的に確認されるのは、江戸の少し前、高野山の真言僧
によって像頭山の松尾寺に金比羅堂が造られたところからだ。そして、すぐの
ちの江戸期にはもう、「金比羅大権現」という「神仏習合ネーム」で松尾寺を
凌駕して、像頭山の信仰の中心にのし上がることになる。
これを今度は、讃岐を所領とする諸大名が、自分たちの江戸の藩邸に屋敷神
として勧請(神仏の分霊を他の場所に移し祀ること)した。一般にも参詣を許
し、これがまた江戸民衆に大ブレイク! 毎月十日の縁日には、参詣・願かけ
の人々で大にぎわいする流行神となり、江戸に「金比羅百社参あり」といわれ
たほど猖獗をきわめた。
これはまた江戸に限らない。もともと各地で航海・祈雨・稲妻・農耕の神様
として多様に信仰されていたこともあり、金比羅の霊験・御利益の噂は、その
他の諸国にもあまねく広がり、全国的な金比羅参りの隆盛を築くことになる。
大阪には道頓堀をはじめとして各所に金比羅参詣船の出帆場所があり、人々は
船で瀬戸内を伝って像頭山に押し寄せた。特に江戸中期から末期には、お伊勢
参りと競い並んで大流行したのだった。
ただし明治になって、近代国家による「神仏分離」がおこなわれれると、祭
神をオオモノヌシとする琴平神社、金刀比羅宮となり、仏教色は一掃されるこ
とになる。他の地域の金毘羅宮も同様である。それでも、もともと仏法の守護
神だった点からいっても、信仰の本質が変わるわけではなく、今も「こんぴら
さん」という愛称のもとに、信仰は受け継がれているのだ。
さて、多少細かく金比羅について書いてみた。だがしかし、以上のようなこ
とについては、実は曖昧なことも多いらしく、金比羅の実体はよく分かってい
ないのが正直なところらしい。上の説明でもよく考えれば、金比羅信仰が本来
的にはどこから生まれたのか、明確にはなっていないし、どちらかというと、
いろんなところから湧いてでたような印象さえある。本家も分家も偽物も区別
がつかない。それに金毘羅って「具体物」としては何なんなのだろう。もとも
とは鰐、それが蛇や龍となったり蟹になったり、翼が生えて天狗になったり、
海の神だったり、山の神だったり、風の神だったり、農業神だったり、多様と
いうよりは「むちゃくちゃの何でもあり」とさえいえるようだ。
これをとらえて、笙野頼子は「本当の金比羅」を、次のようなものとして描
き出すのだ。「ウィルスのように」あちこちに増殖し、「神仏習合」の能力を
生かし「地元の神をのっとってはびこるものだ」と。そして「地上のほろんだ
神にとりついてそれを再生」させるのだ、と。――しかしそれは何のためだろ
うか。
これはほとんど作品の結論でもあるが、皇祖神をいただく国家宗教・伊勢に
対抗するためだ。皇室の神に滅ぼされ、名もなくした土着の神をよみがえらせ
るためだ。「上からの土俗」として全てを決めつける権力者の神ではなく、自
分だけのための「極私的な」神を拝むためだ。だから「金毘羅」は「野生の
神」、「反逆の神」、「カンウンター神」、「捲土重来の神」であり、たとえ
そこに「金毘羅」の名前がみあたらなくとも、そのシステム自身が「金毘羅
的」だといえることになる。
そして、話は『金毘羅』の物語に戻る。あることから拝みすがる神を失っ
て、人生上の危機に立たされていた47歳の「人間の私」は、2003年8月21日、
「御山様」が幻覚のうちに現れ、ようやく自分が一介の野生の「金毘羅」で
あったことを思い出す。1956年3月16日、四日市で産声を上げてすぐに死んだ
赤ん坊の死体に乗り移って、人間の「女」として伊勢で生い立つことになった
自身の人生の始まりと、その後の苦難の意味を、その際一気に理解したのだっ
た。そして「金毘羅」の目によって、人間としての半生が語られる。以上が、
小説の本質と中心になる内容だ。
それで、どうして『金毘羅』が大傑作なのか、わかっていただけるだろう
か。まず、「神が人に乗り移った」というような物語を人はすぐに「荒唐無
稽」「空想的」というような形容を与えて、誰もが安心して受容できるように
配慮しがちだが、またそれはそれで間違いではないが、本作に関しては誤解を
与えかねないだろう。なぜなら小説として、これにはまったく破綻がないから
だ。私は確信をもって主人公「私」が「金毘羅」であることを認める。「主人
公の思い込みと現実がどちらとも取れるようになっている」というような、
安っぽい作りではない。近代小説の枠組みで、自らが「金毘羅」であることを
証明した、そういう驚異的な作品なのだ。
また『金毘羅』は、スリリングにも出来ている。設定によって与えられた
謎、「なぜ『金毘羅』の私が神仏習合を拒む『潔癖な』伊勢に送り込まれたの
か、他の地域に比べまったく金毘羅社がないような、いわば敵地の伊勢に、ど
のような経緯で人間の子として育つように仕向けられたのか、そしてそれがい
かなる宿命なのか」を見事に解明してみせるからだ。答えは初めから、ある程
度ほのめかされてもいるのだが、その謎は「私」の饒舌を鼓舞し、作品世界の
内奥へと読者を引っ張るエネルギーを与えている。そして結末で示されるフィ
ナーレは、感動的ですらある。
さらに『金毘羅』は、私小説として刺激に満ちている。もちろん「金毘羅」
が主人公であるのだから、リアリズムっぽい私小説とはテイストが違うのだ
が、構造は私小説そのものである。いや、単純にそうでもないか。人としての
「私」が語る幼少期からの出来事の描かれ方は、私小説的である。しかしそこ
に人間の視点を超える「金毘羅」の視点が覆いかぶさるため、自己の半生の意
味は「神さま」の境地に飛躍させられる。これはやはり非私小説的に見える。
けれでも「小説」は人間に向けて、「私」を含めた人間のために書かれるもの
であるがゆえに、私小説であることが保たれている。……といっても、少し分
かりにくいだろうか。
わかりやすい比較は、三島由紀夫の『仮面の告白』であろう。世界の崩壊を
信じた戦前戦中の甘美な観念を、「男性同性愛者」であるという自己規定(=
仮面をはがした仮面)によって、戦後の白々とした現実においてこそよみがえ
らせる語りの構造を、三島は開発した。これは笙野においては、「金毘羅」か
ら「人間だった自分」を語る構造にあたる。出生の場面を自分が見たかのよう
に描かれるところや、周りから期待されるジェンダーに違和感を抱き、現実世
界と齟齬をきたすエピソードなどにも強い類縁が見られるだろう。
しかし笙野「金毘羅」からすれば、「仮面」などともったいぶっているとこ
ろが、三島の弱いところだというかもしれない。つまり「仮面」という虚構性
のメタファーは、ケチくさいパラドックス(真偽の不確定性)を保証するだけ
だと。それが従来の私小説への脱構築になっているとしてもである。たいして
『金毘羅』において、「金毘羅」が単なるフィクション上の装置にとどまるこ
とはない。たとえば以下のようなくだりがある。
十二歳まで、私は自分を本当に男だと思っていました。無論、体は女ですけ
ど。
地上に遣わされたカウンター神の子、金毘羅の使命、それは、結構間抜けで
した。つまり「私は女だ。女の体を持ってしまったんだ」と思い知ることに全
力を尽くす。こういう不毛な作業にほぼ半生を費やしたのですから。ええ、普
通人間はそんなこと最初から判っています。でも金毘羅は判らない。一から始
めて根源的問題を解析する。凝り性なんですかね、でも相当長い事思いこんで
いました。「私は本当は男なんだいつか男になる」って。
そういう神的全能感を乗り越えるというたったそれだけの事、自分がマイノ
リティとされてしまう側なのを思い知る事、これが青春から中年までの全てで
した。そしてその後は「女である自分に注がれる外界からの侮蔑が消えない、
どうしても消えない」という事を思い知る修行の連続であった。
しかしそんなことが本当に金毘羅の仕事、使命なのか。あ、案外そうなんで
すよ。(『金毘羅』p67)
「私」が自分を「本当は男」と信じ込んだ背景には、母親や家族たちあるい
は世間から受けた抑圧がある。医者などの「理系」の仕事で出世しなければ人
間(=男)ではない、というような教育上の歪んだ観念を刷り込まれたり、女
らしい格好をしたがるのはもう男を「たらしこもう」と思っているからだ、と
セクシャリティについての差別的な蔑みをぶつけられたりした事実がある。そ
れらはさらに細かいエピソードを交え執拗に描かれている。だから「私」が
「ジェンダートラブル」を抱える原因を、人間心理に根ざして理解できるよう
に物語は構成されている。
だがそれだけではない。「私」が「金毘羅」であると気づいたときから「性
同一性障害」的な人間としての苦悩は、それよりも上位のいわば「神同一性障
害」的な問題によって解釈され、解放されているのだ(つまり、金毘羅だった
からこんなに「女」に違和感があったのか!あるいは笙野「金毘羅」のセリフ
「オレだって男だばーか」。もちろん「金毘羅」に性別はないが。ちなみに
「性同一性障害」も「神同一性障害」も作中の言葉ではなく、評者の私が便宜
上持ち込んだものだ。念のため)。
これで「人間の私」にとっての「ジェンダートラブル」は解消しているはず
だ。人間世間とことごとくずれ、苦しい思いをしてきたのは、「女」だとか
「男」だとかではなく「金毘羅」だったからだ、と。しかし話はそう単線的に
は進まない。新たに向き合うことになる「神同一性障害」的な問題も、その機
序には、「性同一性障害」と同様の権力問題がかかわってくるからだ。「金毘
羅の使命、それは、結構間抜けでした。つまり『私は女だ。女の体を持ってし
まったんだ』と思い知ることに全力を尽くす。(略)そんなことが本当に金毘
羅の仕事、使命なのか。あ、案外そうなんですよ」という上記の言葉に、そう
いう認識があらわれているだろう。つまり「金毘羅」であるということこそ
が、この国家宗教の日本においては、アイデンティティの困難をこうむる理由
であり、かつその困難を抵抗のポリティックスに導きうる根拠にもなるものな
のだ。
ただし、このことの具体的な説明は容易ではなく、私にはこれ以上は手にあ
まる。それはもう『金毘羅』という作品そのものなのであって、あとはじかに
読んでもらうしかないだろう。ここまでよく説明できたほうではないか。
まあ、それでもかりに簡単な図式化をするなら、国家は、天皇家の神しか許
さず、土着の神や個別の信仰を弾圧し、服従させる。愚かな民衆にも手前勝手
な自己都合のオカルトを平然と押しつけ、信じ込ませる。だからその決めごと
から逃れ、勝手に各地で「習合」して、滅んだ神を蘇らせる「金毘羅」など言
語道断なのだ(作中でも笙野「金比羅」は、国譲り神話の「オオクニヌシ」と
その古名「オオナンジ」というという通説をひっぺがし、各地の母系共同体の
女神であった「オオナンジ」を殺し征服したあとに、「オオクニヌシ」として
束ねまとめたのだ、と記紀神話を書き換えて、「オオナンジ」的な神を復活さ
せている)。
同じロジックで、国家は人間を固定したシステムにはめ込む。「男」は
「男」、「女」は「女」。主人公の「私」のような「自分が男だと思っている
女」は、ジェンダー上の「習合」であり、異端であり、排撃されることになる
わけである。しかしこんな経験(=「思い知る修行の連続」)を通じて、「金
毘羅」はいつしかルサンチマンを変形して「不屈の意志」を宿し、「人間の痛
みを理解する」ようになるのだ。
そういう点で、『金比羅』は、ハイブリッドな「私小説」というだけでな
く、神様が人間に宿ったゆえの「教養小説」と見なすこともできる。笙野自身
は、エッセイで自作を評して「金比羅文学」という「金比羅」をジャンル化し
たような名前を与えているが、これもおおよそは、以上のようなことを含意し
ているだろう。小説自体が、複数の形式やジャンル、素材、観念をつかってデ
コボコと「習合」し、「同一性障害」=「金比羅」と化しているのだ。
さて、いくら私の解説がつたなくても、ここまでくれば『金毘羅』が傑作で
あることは、なんとなく伝わったのではないかと思う。だが最初にも断ったと
おり、作品がこんなものなのかと思ったら大間違いのもとなので、くれぐれも
自分で読んでみるまでは、分かった気にならないでいただきたい。まだまだ他
にも、取り上げていない読みどころや問題性、あるいは私には解読しきれない
要素が、多分に残されているはずだ。
ちゃんと言及できなかったことを一点だけあげるとすると、日本における
「神仏習合」の歴史的問題性からイマジネーションを炸裂させて、宗教・信仰
史を千数百年にもさかのぼり、おのずと戦後日本の問題を考察させるところ
だ。これには正直驚かされた。笙野自身がネタ本としてあげている『神仏習
合』(岩波新書)も読んでみたが、いろいろと啓発されてしまう。
たとえば、奈良時代から平安初期に王朝社会を揺るがせた「御霊信仰」とい
うものがある。王権に反逆した死者の怨霊が都をさまよい、疫病や災厄をもた
らすと恐れられ、これを鎮めるために「御霊」として祀ろうとしたのだ。この
信仰自体がいわば権力側を動揺させ、極端な場合、菅原道真の怨霊のように、
左遷され憤悶死した怨みを晴らすべく、政敵の王朝権力者や天皇にとりついて
呪い殺すという事態(信憑性)にまで発展した。仕方なく朝廷権力側も怨霊を
なだめるために「御霊会」(ごりょうえ・最終的には祇園祭にいきつく)を催
すようになるのだ。ところが、この怨霊を迎え入れるとき、天皇は呪われない
よう、取り殺されないよう、その間はその場から離れて「方違え」するという
システムができるそうだ。笙野はこれを怨霊の「ウラ」をかく「マジカルなト
リック」と作中で揶揄している。
これを読んだとき「ああ、今も靖国でやっているな」と直感的に思った。つ
まりA級戦犯合祀問題だ。知らない人もいるかもしれないが、天皇は戦後も靖
国参拝をおこなっていたのに、1978年のA級戦犯合祀によって、それ以降は参
拝しなくなっているのだ(裕仁も明仁も)。これは戦争責任問題を考慮して内
外の批判をかわすため、などと普通は常識的に解釈されている。まあ、単なる
責任逃れだが。
けれど、オカルトの内実に触れていると、これは「御霊会」みたいなもの
で、どうもA級戦犯の怨霊に呪い殺されないように「方違え」しているつもり
なのではないか、と思ってしまうのだ。ホントにかなりありえるところが怖
い。彼らはA級戦犯の合祀にもともと反対だったし、かりにいま問題にされて
いるようにあらためて分祀されたら、天皇が参拝を開始するのは目に見えてい
る。つまり戦争責任問題などまったく配慮などしていないのだ。どうせなら
「裕仁に裏切られて怨霊となっているのだろうA級戦犯のためにも合祀を続け
れば」といいたくなるのがまた怖い。これこそどっちに行っても恐ろしいカル
ト国家の実際だ。
ということで、『金比羅』は、こういうイマジネーションをかき立てるとこ
ろも最高ではないだろうか。いや、もちろん作者自身が巻末で「この小説は異
端、或いは反主流の学説を多く根拠にした空想の含まれる作品です。その他も
研究書、論文の通りにはなっていませんのでご注意ください」と念を押してい
るところではある。だからちょっとこれは、鵜呑みにしすぎるのも気をつけな
ければならない。しかし、それでも「金比羅」的には、オッケーだろう。「金
比羅」を信じることなしに、この作品の意味深さの大半を理解することはでき
ないだろうから。
そして最後に約束しよう。『金比羅』は、あなたにもきっと役立つはずだ。
いまだに国家宗教のこの日本ではとくに。自らこそがカルトであるのに、そう
でないかのような顔して、他の小さなオカルトには異常なまでの敵愾心と憎悪
をぶつけ殲滅しにかかる、この日本の宗教風土で生き抜くためには、とくに。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。
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////// 連載「映画館の日々」第9回 //////
成瀬巳喜男の日々の泡
鈴木 薫
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刻々を睫毛蘂なす少女の生、夏ゆくと脈こめかみにうつ(浜田到)
今年で生誕百年を迎えた成瀬巳喜男の作品を七月の十四日間に28本上映した
新文芸坐で27本見て、目下成瀬百回目の誕生日である8月20日にはじまった
フィルムセンターでの回顧上映(〜10月30日)に通いつづけています(なかな
か時間が取れないので――本当はそうしたいのですが――通いつめるまでいき
ません)。代表作と呼ばれるものはすでに新文芸坐で見てしまったようです
が、はじめて見る初期作品やマイナー作品にも、それらにまさるとも劣らない
尽きせぬ魅力があります。期間中に主要作品をも見直した上であらためて成瀬
論を試みたいのですが、今回は比較的記憶に新しい小品をとっかかりに、いく
らかの印象を記しておくことにします。
『朝[あした]の並木道』('36)について、フィルムセンターのチラシは次
のように「物語」を語っています。
「成瀬のオリジナル脚本は、田舎から上京した女のはかない恋物語。状況した
千代(千葉)は懸命に求職活動をするも、なかなか望む仕事にありつけない。
結局友人のすすめでバーのホステスをすることになり、そこで出会った常連客
の小川に淡い恋心を抱く。」
千葉とは、成瀬監督の最初の妻になる千葉早智子のことです。あらゆる映画
パンフレットがそうであるように、こうしたあらすじは実際に私たちの経験す
るものから大きくかけはなれています。この説明は、映画の中の「現実」の部
分と「夢」の部分をはっきり分けて、ただ「現実」しか語るまいとしています
(いわゆる「夢オチ」への配慮が含まれているにしても)。このフィルムの魅
惑はあげて「夢」の部分にあるのですが、この文章はそこにだけは触れまいと
しているようです。
実際にこの映画を見るなら、〈実際の夢〉がたいていそうであるように、ど
こから夢になったかはヒロインにも観客にも気づかれません。カフェの女給
(「バーのホステス」ではありません)である彼女が、「小川」と駆け落ち
(というよりはおだやかな出発のようで、旅行から戻ったら家を買う予定のよ
うです)するほどの仲に何時なったのかと観客がかすかな不審を抱いたとして
も、(これは映画だから夢のようなことだって起こりうる〉とたやすく納得し
てしまうでしょう。
いつの間にか列車に乗っていた二人ですが、男の方はどうやら誰かに追われ
ているらしい(夢といえどもけっしてヒロインの一人称で描かれているのでは
ありませんから、このことはまず観客にとって明らかになりますし、翌朝彼の
見る新聞記事という形で、千葉よりも先に私たちに真相が知らされます)。警
察の追跡を逃れて、自動車(当時はクルマとは言わないのです)に乗り、海辺
を行き、山に逃げ込むあたりのすばらしさ。低い位置から撮られた、波が斜め
に寄せる渚のショットや、山狩りをして二人を追いつめる警察――。何年でも
待つからと必死に自首を勧めるところで、うなされている千葉の顏へ画面は切
り替わります。
夢だったとわかってみれば、彼らが旅館で迎えた初夜が二人きりになったと
ころから翌朝へとつなぐことで省略されていたのも、実は省略ではなくもとも
と彼女の空想がそうなっていたものと思われます。彼女が見たことのある映画
でも、そうした部分は欠落していたに違いないのです(フロイトが、性的主題
をオミットするそうした機能を「検閲」と呼んだことの適確さがわかるよう
な)。これは省略ではなく、〈映画のように〉見られた世界にほかならないの
です。
「夢でよかった」というのが、夢からさめたヒロインと観客の意識にまず浮か
ぶ感想でしょう。しかし同時に、そこまで行ってもかまわないと思えるほどの
願望の強さを、私たち(と彼女)は痛切に意識せざるを得ません。残念、など
という言葉では足りないほどの喪失感を噛みしめつつ、しかし、その痛みは、
そのようなことにならなくて本当によかったと思うことで軽減されもします。
現実には、その朝やってきて彼女を呼び出した男は遠方への転勤を告げ、連絡
先のメモを渡してあっさり立ち去ってしまいます。転勤するので結婚してくれ
などという申し込みは、(夢や映画ではない)現実においてはけっして起こら
ないのです。しかし彼女は紙片を水に流し、明日へ向かって強く生きる決心を
します。最後の場面では、女給以外の職をなおも探そうとする彼女の姿が見ら
れます。千葉早智子の明るさゆえに観客に後味の悪さを感じさせないこの作品
は、〈夢〉の苦さと甘さの絶妙な匙加減に支えられています。
『朝の並木道』には 貧困、女が職に就いて自活することの難しさ、性的抑圧
といった主題が、表立って取り上げられることなく、しかし確実に存在してい
ます。こうしたもろもろの要素は戦後の成瀬の、女たちが置かれた絛件をきわ
だたせて見せる作品群で、顕在化することになるでしょう。それにしても、
『おかあさん』('52)『夫婦』('53)『妻』('53)『妻の心』('56)『女
が階段を上る時』('60)『娘・妻・母』('60)『妻として女として』
('61)『女の座』('62)『女の歴史』('63)『女の中にいる他人』('66)
――プログラム・ピクチャーとはいえ、思えばなんとベタな題名を戦後の成瀬
の作品群は持っていることでしょう。
二本の時代劇を撮ってはいますが、基本的に成瀬は同時代にキャメラを向け
た監督といえましょう。それは時代のドキュメンタリーでもあり、観客が見る
のは、はかなく消えてゆく現在の表層(の永遠化)です。『まごころ』の、瓦
屋根の家が並び和服姿の入江たか子があゆむ、かつての夏、どの家もがそうし
ていたように建具を開け放った美しい町並の通りは、以前なら日本中どこにお
いても見られたであろう、ありふれた風景です。戦後の成瀬映画の精巧なセッ
トと違い、これは日本のどこかに本当にあった町なのだと思って私たちは見ま
す。入江たか子が娘をおぶってその下を歩く大木の列は、今なお残っているの
ではないでしょうか? 手足がすんなり伸びた水着姿の女の子たちの洗練され
た映像は、終映後、私の横を歩きながら銀座の方へ折れて行った二人連れの女
性たちに「フランス映画みたい」と言わしめたものですが、このフィルムはま
た1939年に作られたものであり、出征する父親を送る風景で終ります。赤紙一
枚で兵隊に取られた話はよく聞きますが、その際の正しい挨拶は「おめでとう
ございます」であったのがこれを見るとわかります。さっきまで私たちをほほ
えませていた女の子が「敵をたくさんやっつけてきてね」と無邪気に口にして
私たちをとまどわせもします。フィルムに閉じ込められた彼らはまた、現在に
閉じ込められた私たちの喩でもあり、私たちもまた現在にしか通用しない台詞
を口うつしにしている者に他ならないのですが。
新文芸坐で上映(フィルムセンターの初日でも)された、成瀬組のスタッフ
と俳優にインタヴューした記録映画『成瀬巳喜男 記憶の現場』で、小林桂樹
がおおよそ次のようなことを言っていました。成瀬監督を思い出さない日はな
い。なぜなら、朝、起きて窓の外を見ると、出勤してゆくサラリーマンが毎日
毎日携帯で話していて、もし成瀬監督が今映画を作るとししたらきっとこれを
撮ると思うからだ。小林がいま携帯のTVコマーシャルに出ていることを別に
しても、この言葉は私たちを微笑させ、頷かせましょう。成瀬のキャメラが向
けられる対象とは、まさしくそうしたものであるからです。世界に成瀬映画し
か存在しなかったとしたら、高層ビルに突っ込む飛行機の映像が「映画のよ
う」と言われることはけっしてなかったでしょう。むしろ、一本の木のすべて
の葉が、裏を見せながらゆっくりとひるがえる運動を目にするとき、「まるで
映画のよう」と人は思うことでしょう。
ロラン・バルトが定義した写真のノエマ――「かつてそれはあった」――か
ら映画ははるかに遠い(そのため、映画より写真を好むとバルトは言っていま
す)。二度と繰り返されることのない梢のそよぎ、流れゆく雲の建築、キャメ
ラの視線を向けられてしまったために、以後つねによみがえる現在となったも
のたち――その現在は過ぎ去ります。映画は過去(かつてあった――いまはな
い)ではなく、その場で過ぎゆく、はかない、およそ重々しい伝統や権威に裏
づけられてはいないものです。キャメラを向けられたためにそれが永遠になる
のではなく、浮薄なるもののまま、それは定着されます――むしろ過ぎ去りゆ
くことを痛切に感じさせるものとして、それは存在しはじめます。夢と現実に
差がないように、かつてあったものと、いま眼前で生成するものの区別はフィ
ルムにはありません。携帯電話のイデアが存在しないように、女のイデアも存
在しない――女、妻、娘、母、夫婦……そうした記号がいかにちりばめられよ
うと、〈女〉の〈真実〉や永遠不変な男女関係を成瀬は描いているわけではあ
りません。イデアに裏打ちされないもの、永遠ではなく、過ぎゆくもの、消え
去るもの。一時的な、うつろいやすい、偶発的なもの(ボードレールがモデル
ニテを形容したときの語彙を借りれば)の世界を、かくして人は「映画のよう
に」眺めはじめることでしょう……。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)パトリック・カリフィア他著『セックス・チェンジズ――
トランスジェンダーの政治学 』(作品社)という本が出ました。実は、著者
名の「他」のところに入っている人の短い論文を訳したグループに、私も名を
連ねています。パトリック・カリフィアはもとはパット・カリフィアといい、
肩書はSMレズビアン作家となっていますが、私は(メイル)ゲイ・ポルノの
作家としてずっと名前(と作品)を知っていました。今では男になり、名前も
パトリックと変えています。本連載の今年の私の担当分はあと二回になりまし
たが、一回は成瀬論、あとの一回は番外編として、この本と『やおい小説論
――女性のためのエロス表現』(永久保陽子、専修大学出版局)あたりをあわ
せて論じてみたいと思っています。黒猫さん、如何でしょう?
http://kaoruSZ.exblog.jp/
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
■師弟対談! 見田宗介×大澤真幸「対話のケミストリー」
◎大澤真幸『思想のケミストリー』刊行記念トークセッション
見田宗介×大澤真幸「対話のケミストリー」
日本の社会学を名実ともにリードしてきた極上の師弟関係がひこおこす、一回
かぎりの化学反応(ケミストリー)を見逃すな!
◎日時:2005年9月11日(日)14:00〜16:00(開場13:30)
◎場所:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン
◎料金:要電話予約・入場料500円(税込)当日精算
ご予約&お問い合せ:青山ブックセンター本店 電話03-5485-5511
○『思想のケミストリー』大澤真幸著、紀伊國屋書店、本体価格2000円、ISBN
4-314-00983-7 初の思想家・作家論集! 戦後思想を問い直す、明晰な書!
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■トークセッション
反復する歴史をどう認識するのか? ―伝統の創造からロマン主義へ―
◎講師 : 仲正昌樹さん(金沢大学教授)、北田暁大さん(東京大学助教授)
◎日時 : 2005年9月11日(日) 16時〜
◎場所 : 三省堂書店神田本店8F
◎参加費 500円、先着100名様
◎お問い合わせ先 : 三省堂書店 神田本店1F TEL:03-3233-3312(代表)
■黒猫房主の周辺「金比羅船々」■--------------------------------------
★いつも、ギリギリの入稿原稿を読んでから校正や編集後記を書くのは時間と
の勝負なので、けっこう辛いものがありますよ(苦笑)。
★そんなわけで発行日前日に届いた村田さんの原稿を読みながら、<「金比羅
船々、追い風に帆かけて、シュラシュシュシュ」って、軽快な歌を聞いたこと
があるでしょう?>というフレーズが気になった。彼が引用している金比羅さ
んの歌は、彼の記憶によるものなのか、小説『金比羅』で紹介されているもの
なのか? 私の知っている金比羅さんの歌とは違っているので、念のため調べ
てみたという次第。私は「お池に帆かけて」と誤って覚えていたので、いろい
ろ調べてみると「追手に帆かけて」という記述が見つかったが、それだと意味
が通じない。「追い風」は意味的には納得だが語呂が悪い。しかし「追風」と
書いて「おいて」と読むこと(「順風」の意味)から、「おいてに帆かけて」
が正解らしいことを村田さんに伝えておいた。な〜んか、勉強しちゃったで
す。
★ところで、村田氏が本文で書いている「知らない人もいるかもしれないが、
天皇は戦後も靖国参拝をおこなっていたのに、1978年のA級戦犯合祀によっ
て、それ以降は参拝しなくなっているのだ(裕仁も明仁も)。これは戦争責任
問題を考慮して内外の批判をかわすため、などと普通は常識的に解釈されてい
る。まあ、単なる責任逃れだが。/けれど、オカルトの内実に触れていると、
これは「御霊会」みたいなもので、どうもA級戦犯の怨霊に呪い殺されないよ
うに「方違え」しているつもりなのではないか、と思ってしまうのだ」という
視点はなかなかに面白いが、私はA級戦犯に対する天皇の負い目ではないかと
思っている。A級戦犯の彼らは天皇に替わって「戦争責任」を引き受けたので
あり、とりわけ裕仁の信任の厚かった東条英樹に全責任を負わせたことは、日
米の合意による「国体護持」であった。そして現憲法の9条とセットで1条の
「象徴天皇制」が「護持」されたという歴史を、護憲派は見落としてはならな
いと思う。
★「戦争責任」をテーマにした本誌の増刊号を企画していますので、広く投稿
を募ります。お問い合わせは、電子メール("YIJ00302"を"@nifty.com"の前に
付けて下さい)でお願いします。因みに、前号の「黒猫房主の周辺」で「責任
論の位相」を書いたところ、野原燐さんのサイトで議論が展開されていますの
でご高覧ください。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827(黒猫房主)
●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』53号(通巻57号)(2005/09/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・黒猫房主
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:黒猫房主
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
電子メール("YIJ00302"を"@nifty.com"の前に付けて下さい)
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
■流通協力:「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/(ID 0000015503)
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■ Copyright(C), 1998-2005 許可無く転載することを禁じます。
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■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。
="054">
>TOP
■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。
◆直送版◆
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(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』54号(神無月号)
(2005/10/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[55号は、2005/11/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆特別連載(1)「いざとなったらこれで死になさい」--------------野原 燐
◆連載「マルジナリア」第10回:「フィロソフィカル・ハイ--------中原紀生
◆INFORMATION:「貝原浩◇偲ぶ展のお知らせ」「パギやんこと趙博ミニコン
サート」「第58回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺「秋風の頃」---------------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版も立ち上げました。各論考ごとに読者の方がコメント
や感想を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
http://kujronekob.exblog.jp/
★「シャノワールカフェ別館」というブログサイトを創設いたしましたので、
ご来店お願い申し上げます。http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/
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////// 特別連載「戦争責任/戦後責任を考える」(1) //////
いざとなったらこれで死になさい
野原 燐
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<1>
「一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民た
ちが集団で自殺したということが起こりました。渡嘉敷島で、三百人以上、座
間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。」大江健三郎は、2005年
8月16日付けの朝日新聞・朝刊の連載エッセー「伝える言葉」の冒頭で、こう
書いている。
「私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』(岩波新書)での、慶良間諸
島の集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本人守備隊長と、渡嘉
敷村の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされていま
す。」世界の大江が訴えられるという事件が最近起こっているのです。その割
には話題になってないようにも思うがどうだろう。大江自身この文章で「私は
この裁判についてできるだけ詳しい報道がなされることを願っています。」と
書いている。意外な反響の無さに大江自身も戸惑っているようにも思える。
じつはわたしは「この裁判」そのものについてそれほど興味があるわけでは
ありません。だが、この辺境の島の集団自殺をどうとらえるかは、「大東亜戦
争」をどう捉えるかの根幹に関わる問題であるとも言えるだろう。そこでもう
少し書いてみたい。
わたしのブログ(下記参照)では、7月24日以降何度かこの問題を取り上げ
ました。
原告の日本人守備隊長たちの主張は、「大江氏らは、これらの島に駐屯して
いた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、その
ような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。」といううもの
らしい。わたしはこれを読んで、ふーんといぶかしく思った。「そのような軍
命令」があったかどうかを争おうとしている。だいたい守備隊長に住民の自決
を命じる権限が法的に存在したのかどうか分からない。仮に権限がなかったと
すればそれは命令ではなく依頼ということになろう。つまり法的には「軍命
令」というものは存在しなかったということになる。おそらく原告はこれに類
するトリヴィアルな法廷戦術を駆使して「命令はなかった」と言いつのるつも
りだろう。原告に幾分かの勝ち目はあるだろう。とわたしは思った。
しかしいぶかしい思いは残る。守備隊長の本当の名誉はそんなことで回復さ
れるのだろうか。たくさんの日本人を死なせてしまったことへの悔恨はいま彼
のなかにはないのだろうか。
この提訴は最初から論点のすり替えを意図しているように思える。裁判の論
点はどうあれ、わたしたち市民〜国民にとっての論点は、「国軍が市民(国
民)を守る」という建前が崩れたかどうか? であろう。「国軍が村の上層部
などと一体になって働きかけることにより、たくさんの市民の「自決」が行わ
れた」ことはどうあがいても動かせないのではないか。
当時の日本軍は「生きて俘虜の辱めを受けず」という命令を住民に強制しよ
うとしていた。「自決」した住民たち(女性子ども老人が多い)は被害者であ
り、皇軍は加害者である。
軍人は「命令を出さなかった」と主張しているようだが、仮にそうであると
して彼らの存在が被害者を作ったという因果関係は明らかにある、と言えるよ
うだ、次の林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」を読めば。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm
また、林博史氏は別のインタビューでこう答えている。
■「集団自決」に至る背景をどうとらえますか。
「直接だれが命令したかは、それほど大きな問題ではない。住民は『米軍の
捕虜になるな』という命令を軍や行政から受けていた。追い詰められ、逃げ
場がないなら死ぬしかない、と徹底されている。日本という国家のシステム
が、全体として住民にそう思い込ませていた。それを抜きにして、『集団自
決』は理解できない。部隊長の直接命令の有無にこだわり、『集団自決』に
軍の強要がないと結論付ける見解があるが、乱暴な手法だろう
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper55.htm
わたしたちはすでに当時の沖縄の一般住民がどのような雰囲気のなかにおか
れていたのかをうまく想像できなくなっている。林氏の文章からもう一ヶ所引
くと、次のように「一人十殺」なんていう荒唐無稽なスローガンが、兵士に対
してではなく、住民に対して真顔で強力に注入されていた、ということが分か
る。
軍は「県民の採るべき方途、その心構へ」として「ただ軍の指導を理窟な
しに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ、即ち一人十殺の闘魂をもつて
敵を撃砕するのだ」とし、この「一人十殺」という言葉を「沖縄県民の決戦
合言葉」にせよ、と主張していた(前掲『沖縄新報』一九四五年一月二十七
日)。(林博史)http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm
住民が「竹槍で米軍に勝てると本当に信じこまされていた(同上より)」とい
うのは今の感覚からはどうも信じがたい。だが何が何でも竹槍で突撃だ! と
いう方向に追い立てられていったことは確かなのだろう。
大量の「自決」者を生んでしまったのは、皇国皇軍の構造的問題であり、そ
れを一人部隊長に負わせるのは酷だという理屈は成り立たないことはないだろ
う。しかし皇国皇軍の構造的問題の批判は六〇年経っても充分出来ていないの
だ。それなしにこうした裁判を提起することは、結局構造的問題はなかった
(=一部の住民が自発的に死んだだけ)ということになる。一部の住民はなる
ほど無学だったかもしれないが、馬鹿だったわけではない。犠牲者を馬鹿にす
るのは許されない。
<2>
かって曾野綾子によって問題とされ、さらに今回名誉毀損裁判を起こされる
に至った大江の「沖縄ノート」の一文とは次のようなものである。
「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試み
を、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、
あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいと
ねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて
罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去
の事実の改変に力をつくす。(『沖縄ノート』210頁)」
「A大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現していま
す。」と曾野は言っている(註1)のだが、この文章をそう読むことはできな
い。
この文の主語たる彼、あるいは「責任者」は「自己欺瞞と他者への瞞着の試
みをたえずくりかえす」者である、つまりそれを悪であると大江が指弾してい
ることは確かだ。しかしながら「自己欺瞞」というキーワードが明らかに示す
ように、この文章は大江特有の実存主義的臭気にみたされている。罪といって
も権力の発語する罪とは違い、Aという実在の人を白日の下に罰に導く力を
持っているものではない。「たえずくりかえしてきたことだろう」という述語
により「責任者」という主体は現実世界からズレ、自己(他者)瞞着を逃れえ
ない実存の世界の住人となるのだ。そこにおいては、「彼」を指弾すること
は、「かれの内なるわれわれ自身」を指弾することでもなければならない。
「あまりにも巨きい罪の巨塊」は<わたし>の前にごろんところがってい
る。つまり予め<わたし>と罪が結ばれているわけではないのだ。だのに<わ
たし>は、否認しなければという思いに駆られ、その「巨塊」をかみ砕きすり
減らそうとする。それは確かに見たところ希薄化していく。しかしその努力こ
そが“わたしの内に罪を”根付かせるのだ。大江が言っているのはこういうこ
とに近い。したがって「赤松大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の
巨塊」と表現しています。」というのは、虚偽である。
ところで、Aさんに対し、「国民を守るべき「皇軍」の一員としての「集団
自決」を阻止しなかった/認容した「政治上の罪」(集合責任)はあるだろ
う」といえるだろうか?
たぶん言えるだろうと思う。だがAさんの責任について論じるためには、そ
の時そこで何が在ったのか、を私自身追及し納得しなければいけない。わたし
はすでにこの問題に言及しており関わってしまっているともいえるが、その島
で起こった事件の総体とAさんとの関わり、責任について論じる準備はとうて
い無い。
「小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は
「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。
まったく狂気の沙汰だ。」と 『ニューヨーク・タイムズ』のウオーレン・モ
スコウ記者は45年3月29日付の報道のなかにあるそうです。
この文章の存在には反するのですが、全き狂気をひとは観察し記述すること
がどのように可能なのでしょうか。
絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。人はそれ
を犠牲者として同定することすらできません。それは、自己をそれとして提
示=現前化することさえできないのです。(略)
全歴史が諸力の抗争の場であり、そこで問題なのは、読みとれなくするこ
と、排除すること、排除しつつ措定すること、排除しつつ支配的な力を押し
つけること、つまりただ単に犠牲者たちを周縁に追いやり、のけ者にするだ
けでなく、犠牲者たちのいかなる痕跡も残らないようにし、彼(女)らが犠
牲者であるという事実を人が証言することさえできなくし、あるいは犠牲者
たちがそのことをみずから証言することさえできなくすることなのです。
(デリダ「パサージュ」註2)
「たぶん」ではなく、Aさんの責任について法的にも、「政治上の罪」(集
合責任)としても語られなければいけない。
死んでしまった者は絶対的に何も語れない。そして60年体験者が死に絶えた
のを待って訴訟が提起される。
「犠牲者たちのいかなる痕跡も残らないように」、「死を知らず、死について
語られることを欲しない」「絶対悪」が裁判を起こしている。永劫無窮の名前
のない国家がその「絶対悪」なのであろうか。
(註1)http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
第34回司法制度改革審議会議事録
(註2)p270高橋哲哉『デリダ』より孫引き isbn:406265928X
★野原による関連表現の一部、は下記にあります。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050724#p3
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050816#p2
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(のはら・りん)1953年、兵庫県生まれ、男性。18歳のときペンネーム「野原
ひとし」を名乗る。その後「野原燐」に改名。1975年、松下昇氏に出会い以後
大きな影響を受ける。http://members.tripod.co.jp/noharra/
ブログ「彎曲していく日常」http://d.hatena.ne.jp/noharra/
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////// 連載「マルジナリア」第10回 //////
フィロソフィカル・ハイ
中原紀生
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●数年前ヘーゲルの『大論理学』を十三箇月かけて通読したことがあった。
ちょうどメーリングリストへの書き込みが面白くなってきた頃で、ある人の呼
びかけに応じてネット読書会のモデレーター役をかってでた。参加者は十数名
程度だったし(今から思うと相当いい加減な)要約と思いつきを書きなぐった
レジュメを一方的に送りつけるだけで、ほとんど議論もなく淡々と進んでいっ
た。それはとても幸福な時間だった。ほとんど毎日のように岩波全集版のあの
面妖な訳語(中国人の名前かと見紛う「有」「定有」「向自有」など)に親し
んでいると、やがてそれらの言葉が人格をもった固有名か何かのように思えて
きて、相互の人間関係ならぬ論理関係をたどたどしく探っていくうち幾度とな
く陶酔(フィロソフィカル・ハイ)を覚えるようになった。
最近ベルクソンの『物質と記憶』の独り読書会を始めた。毎日曜日の午前に
一時間から二時間、一年ほどかけてじっくりと読みこみ、小林秀雄の『感想』
やドゥルーズの『差異と反復』『シネマ』につなげていきたいと思っている。
小林秀雄の講演「現代思想について」に「君の問題は哲学の問題だ、なぜ哲学
を勉強しないのか、ベルグソンをお読みなさい」と質問者にたたみかけるくだ
りがあって、何度聴いても異様に迫力がある。ここで小林秀雄がお読みなさい
と言っているのが『物質と記憶』で、百年に一人の天才の仕事だと絶賛してい
る。八年間かけてただ一つの切実な問題を考え続けたベルクソンを尊敬すると
も。八年どころか一年続くかどうかさえ不安だけれど、しばらくはこの本を基
軸にしてやっていけそうだと確信している。
●保坂和志が『小説の自由』で「小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解
したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり
強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っ
ていない。それらをすべて忘れずにいられたら私たちはすごいことになってい
るだろう。」と書いている。ほんとうに「すごいこと」になっているだろう。
その何分の一かの割合を少しでも大きくするため、『物質と記憶』を読みなが
ら自然に思い出したり強引に思い出したりした「いろいろなこと」をなるべく
時をおかず記録することにした。以下は、最初の「フィロソフィカル・ハイ」
を経験した週とその翌週の記録から。第一章四節「イマージュの選択」を読ん
でいる時にそれは訪れた。
●この節はここだけ読んでも独立した哲学作品になっている。冒頭の「神経系
は表象をつくり出さない」(衝撃的な仮説!)から末尾の「対象Pのイマー
ジュが形成され知覚されるのは[脳の灰白質においてではなく]まさにPにお
いてなのだ」(大森荘蔵!)まで、寸分の隙のない論理に導かれて(ベルクソ
ンの思考でも私の思考でもない「純粋思考」とでもいうべき)思考が進んでい
く。まだ二度読んだだけだが、読むたびに世界を覆う薄皮がはがれ落ち(けっ
して隠されていたわけではない)世界の実相が剥き出しにされていく。
冒頭と末尾のこの二つのテーゼをつなぐのが、イマージュと純粋知覚のそれ
ぞれについての二区分と相互の関係をめぐる議論である。イマージュ(物質
界)には「現存するイマージュ」(あること=客観的実在)と「表象されたイ
マージュ」(意識的に知覚されてあること)の二つがあって、後者は前者が
「減少」したものである(つまりこの二つのイマージュには程度の相違がある
だけで、本性の相違はない)。知覚には「無意識的知覚」(無意識な物質の一
点のもつ知覚=万物の可能的知覚)と「意識的知覚」の二つがあって、後者は
前者のうちからフィルター(不確定=選択可能性の領域)を通じて浮き上がっ
たものである。
●これらは結局同じ一つのことを言っている。物質(イマージュの体系)から
「生気を呈するすべての性質」をはぎとると、そこに意識に属する「表象=物
質の幽霊」と科学に属する「物質=空間的広がり」(たとえば脳)との二区分
が生まれ、いわゆる「心脳問題」が発生する(物質である脳からいかにして主
観的表象=意識的知覚が生じるのか)。ことの発端は物質(イマージュ)を二
つに断ち切ったことにある。断ち切ったから、これを「縫い合わせなければな
らぬ」と錯覚するのだ。
《知覚がそこ[脳]から出てくることはありうべくもない。脳は他のイマー
ジュと同じく一個のイマージュであり、大量のイマージュに包まれているわけ
で、容器から中味が出てくるということは、理屈に合わないからである。
(略)意識的知覚と脳の変化は厳密に照応している。したがって、この二項の
いわゆる相互依存は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることか
らくる。》
●こんな要約ではとても汲み尽くせない。豊かな哲学的思考の種子が惜しげも
なく蒔かれた沃土。――上に引用した「容器と中味」のくだりを読んでいて保
坂和志の議論を想起した。たしか『小説の自由』の中に容器と中味云々という
言葉が出てきたように記憶していたのだが、いくら探してもみつからない。み
つからなくてもいい。意識的知覚と脳の変化、意志の不確定の三項関係は、保
坂和志が書いている精神性と物質性とフィクション(第三の領域)の三項関係
とほぼ相似形の関係にある。
それは私の脳が勝手にそう思うだけのことにすぎないが、ついでに書いてお
くと、保坂和志がよく言及するチェホフの「学生」の過去と現在を結びつける
鎖の話(「いっぽうの端に触れたら、もういっぽうの端がぴくりとふるえ
た」)は、ベルクソンがやがて導入する記憶の議論に関係してくる。石川忠司
が『現代小説のレッスン』の保坂和志を取り上げたところで引用している、物
的知覚物と身体を結ぶ「ロープ」(ウィリアム・ジェイムズ)も。
ついでに『エックハルト説教集』から。《ある師は、目が歌とは関係なく、
耳が色と関係がないように、魂はその本性においては、この世界のすべてのも
のと関係がないのであると言っている。それゆえに自然学の師たちは、魂が体
の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだと言っている。ワイン
が樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するので
はなく、魂がその内に体を保有するのである。》
●もう一つついでに書いておくと、茂木健一郎『脳の中の小さな神々』巻末の
「特別講義」に「対象―脳内過程―意識」の三項関係が出てくる。これは脳科
学が「見る」という体験を「(外界からの刺激を受けて)神経細胞があるパ
ターンで活動すること自体が脳の中でのさまざまな情報の「表現」であり、そ
のような「表現」が集まって「見る」という体験ができあがる」と説明すると
きに準拠している枠組みで、茂木健一郎いわく、この方法では「見る」という
体験(視覚的アウェアネス)を説明することはできない。脳科学は外界(対
象)からの視覚的刺激と脳内過程(神経細胞の活動)との対応関係を説明する
だけで、脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが「私」にとってクオリア
として成り立つメカニズム自体を説明するわけではない。「むずかしい言葉を
使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視覚
特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである」。
●これに対して提示されるのが「メタ認知的ホムンクルス」のモデルで、それ
は「「私」の一部である脳の神経活動を、あたかも「外」に出たかのように観
察する「メタ認知」のプロセスを通して、あたかもホムンクルスがスクリーン
に映った映像を見ているかのような意識体験が生じる」というものだ。このモ
デルにあっては先の三項関係はいったん「物自体―脳内過程」の二項関係に置
き換えられ(ただし「脳内過程」の項は「後頭葉=認識の客体」と「前頭葉=
認識の主体」という二項が非分離の状態にあるものとされる)、その後「物自
体―脳内過程―小さな神の視点」の三項関係へと修整される。ここに出てくる
「小さな神」(ホムンクルス)という「主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心
とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される」。
《「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部
をメタ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」は
もっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の
視点」として成立している。/私たちの脳の中には、小さな神が棲んでいるの
である。/これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考
察していったときの、論理的な帰結である。》
●脳の中に棲む小さな神が見ているものは「表象されたイマージュ」である。
それは脳内過程を通じて生み出されたものではなくて、あらかじめ与えられた
イマージュ(物質)が神経系の活動を通じて縮減されたものである(何のため
に? 不確定=選択可能性=潜在性の領域を現実化するために、つまり行動の
ために)。そう考えることができるならば、そこにはいささかの困難(神秘)
もない。「メタ認知的ホムンクルス」のモデルが優れているのは、そこに
「神」が出てくることだろう(それは『小説の自由』最終章に出てくるKつま
り樫村晴香の言葉――「神」や「リアリティ・宗教性」――と響き合ってい
る)。心脳問題はすぐれて神学の問題である。そんなことは実はとうの昔から
分かっていたことなのである。思わず吠えてしまった。
●最初のハイを経験してから、日曜の午前が待ち遠しくなった。第一章五節
「表象と行動の関係」を熟読して、続く二節分を通読。四節「イマージュの選
択」も少し読み返した。ハイの余韻が続く。これを読んでいた時に脳髄に浮か
んでいたことをウロ覚えで書いておく(本を見ずに記憶だけで書くのは、なぜ
だかとても健康的なことに思える)。
ベルクソンは書いている。児童の知覚は非人称である(児童の表象は非人格
的である、だったかもしれない)。これは「アナログの私」(ジュリアン・
ジェインズ『神々の沈黙』)がつくられる前の知覚の実質をさしている。児童
のまだ朧気な意識のうちに、無人称の「脳」のはたらきによって縮減されたイ
マージュが浮かび上がっているということだ。知覚するのは「私」ではない。
行動するのは「私」ではない。思考するのは「私」ではない。一人称の「私」
を無人称の「脳」に置き換えても同断だ。「私」が「脳」のはたらきによって
産出されたアナログであるとすれば、部分が全体を統治できないように「私」
が「脳」を使って知覚し行動し思考することはできない。だからといって
「脳」が知覚し行動し思考するわけではない。「脳」は伝導体である。神経系
は伝導体である。
●ここでベルクソンが論じているのは「純粋知覚」なのである。それは権利上
の存在であって、事実上の存在ではない。権利上の存在ということであれば、
「無意識な物質の一点がもつ知覚」や「物質が神経系の協力なしに知覚される
可能性」だって議論することができる。全宇宙を隈なく映しだす透明な写真。
児童の非人称の知覚はこうした無意識の知覚に限りなく近い。三歳までのまだ
言葉を使いこなせない(言語のはたらきを通じてつくられるアナログの私=三
つ子の魂の輪郭がまだ朧気でしかない)児童。七歳までは神の内と言われる父
母未生已前の世界に(まだ言語によって切断されきっていない臍の緒で)つな
がった児童。児童とは一個の身体である。児童は物質である。
●物質は屈折率をもっている。ベルクソンは、光が異なる媒質間の界面で屈折
せず全反射する現象を知覚になぞらえている。この界面(身体の表面)は「自
由」の名で呼ばれる。反射した光は虚の光源をさししめす。これが「表象され
たイマージュ」である。実の光源すなわち「現存するイマージュ」から虚の光
源を浮き出させるのが意識的知覚のはたらきである。この分離作用、弁別する
はたらきは精神を告知する。ベルクソンはそう書いていた。
ずっと前から「スピノザの屈折率」というアイデアを温めてきた。スピノザ
が磨いたレンズを身体になぞらえ、あるいはモナドと見比べながら、身体と精
神という二つの媒質の界面で生起することをみさだめたいと考えてきた。言葉
にすると訳が分からないが、ベルクソンを読むことでその実相が少しずつあき
らかになっていきそうな予感がする。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★【貝原浩◇偲ぶ展】のお知らせ
○10月1日(土)〜10月10日(月)12-7pm
※ただし平日[10/3〜10/7]は前日までに予約いただく申込制でオープン展覧い
たします。
※フリマガ「堀江ジャンクション20号」掲載の会期(10/1〜16)は変更になりま
した。
貝原さんとおつきあいがあった関西在住の皆さま。お集まりください。また、
本の表紙絵や挿絵、絵本などで貝原さんの作品に出会って親しみを感じている
皆さんも遠慮なくお越しください。
貝原浩の絵に囲まれて、ただただ彼について語り合うだけの会です。
没後、アトリエ(ばってん房)を整理中にでてきた未発表のデッサンなどを、お
つれあいのリツコさんに運んでもらい展示します。こちらのほうもぜひご覧い
ただきたいものです。
10/1●トークG屯●貝原さんを偲びボソボソ語る会●
10月1日(土) 午後3〜7時[2時ごろ受付] 会費千円
※観覧のかたはお早めに(12-2pm)お越しください。
○はじめにおつれあいの世良田律子さんにほんの少しお話ししていただきま
す。
※要予約 天音堂ギャラリー 06-6543-0135
(留守電時、平明の携帯番号をアナウンスします)
=============================================================
10/10●ライブG屯●パギやんこと趙博ミニコンサート●
10月10日(月・祝日) 午後6時開演[5時受付] 会費千円
※絵は12-5pmの間にご観覧ください。
○貝原さんが好きだった「一本の鉛筆」「君が代尽くし」、またぼくが好きな
「夢・葬送」などをお願いする予定。
http://fanto.org/schedule.htm
※要予約 天音堂ギャラリー 06-6543-0135 (上に同じ)
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★第58回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年10月16日(日)午後2時より5時まで。
■テキスト:青山治城「戦争と責任」、斎藤純一「政治責任の二つの位相」
(共に『「戦争責任と「われわれ』所収、ナカニシヤ出版)
ヤスパース『戦争の罪を問う』(平凡社ライブラリー)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺「秋風の頃」■---------------------------------------
★秋風がここちよい季節となりました。先日も交差点で信号待ちしていたとこ
ろ、とつぜん見知らぬ方から「秋風だねぇ」と声をかけられました。残暑を過
ぎた心地よさが人の心を穏やかにさせている、そんな今日この頃ですが色でい
えば「白秋」です。
★連載寄稿者のひるます氏が多忙のため今回は休載となりました(今後は不定
期の連載となる予定です)。そこで急遽、増刊号用に依頼していた野原燐さん
の原稿を、特別連載「戦争責任/戦後責任を考える」の1回目に切り替えて掲
載しました。2回目は、加藤正太郎さんに寄稿していただく予定です。
★巻頭でもご案内しましたように、ブログ「シャノワール・カフェ別館」とい
うバーチャルのカフェを開設いたしました。いまのところ三日坊主にもならず
毎日更新しております。そのお陰もあってか、常連のご来店客さんも増えてき
てコメントを頂戴しておりますが、読者の皆さまからもお題(コメント)を頂
戴して、丁々発止と展開できればと思います。(黒猫房主)
http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/
●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』54号(通巻55号)(2005/10/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・黒猫房主
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:黒猫房主
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