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『カルチャー・レヴュー』2005・2
『カルチャー・レヴュー』
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
*以下は立岩に送っていただいたものです。
直接上記のホームページをご覧ください。
『カルチャー・レヴュー』2005・1
◆『カルチャー・レヴュー』46号(如月号)
◆『カルチャー・レヴュー』47号(弥生号)
◆『カルチャー・レヴュー』48号(卯月号)
『カルチャー・レヴュー』2005・2
◆『カルチャー・レヴュー』49号(皐月号)
◆『カルチャー・レヴュー』50号(水無月号)
◆『カルチャー・レヴュー』51号(文月号)
『カルチャー・レヴュー』2005・3
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■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。
◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』49号(皐月号)
(2005/05/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[50号は、2005/06/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「文学のはざま」第8回:鎌田哲哉の闘争 ねじりこむ批評の意地と熱
意と鋭さのありか-------------------------------------------村田 豪
◆連載「映画館の日々」第7回:薔薇の名前、作者の名前――黒澤明論のはる
か手前で---------------------------------------------------鈴木 薫
◆INFORMATION:木内昭彦「家具のかたち」/中明千賀子 コラージュ展/
第55回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺---------------------------------------------黒猫房主
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★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版があります。各論考ごとに読者の方がコメントや感想
を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
http://kujronekob.exblog.jp/
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////// 連載「文学のはざま」第8回 //////
鎌田哲哉の闘争 ねじりこむ批評の意地と熱意と鋭さのありか
村田 豪
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今回は、批評家、鎌田哲哉を取り上げます。
いまやジャンルとしてはずいぶんマイナーに属するであろう純文学系批評の
中で、さらに世間的に著名とはいいがたい鎌田哲哉を論じるのは、一種の狭
さ、息苦しさがあるのですが、それは許容してほしいと思います。というの
も、これまでこの連載小文をささやかながら書くにあたって、少なからぬ点で
鎌田の批評を参考にしてきたという借りが私にはあり、ここらでその負い目を
すっきりさせたい気持ちがあるからです。
もちろん真似をして書いたつもりはありません。それでも鎌田が刻みつけた
批判=批評の水準を、意識せぬうちに踏まえてしまっていたのは事実です。福
田和也やスガ秀実などを扱った回にはそれが顕著で、そのことは一度はっきり
自註してもいます。ただ今回は、参照していた鎌田の批評のフレームを、この
ように曖昧な形で援用するのではなく、それがいかなるものなのか、直接かつ
具体的に問うてみたいと思ったのです。
まず鎌田哲哉について、それなりに紹介が必要でしょう。鎌田は「丸山真男
論」(『群像』1998年6月号)で群像新人賞を受賞し、文芸ジャーナリズムで
のいわゆるデビューを果たしました。この論文については、主題である丸山真
男も、対比される福沢諭吉も、参照されるジョイスも私には知識がなく勉強も
足りず、まだ十分に読みこなせていませんので、この稿では言及しません。あ
らためてじっくり読み込む機会を得たいと思います。ただ、一つ付け加えるな
ら、その新人賞の選考委員の一人が、のちに鎌田が執拗に批判の矛先をねじり
こむことになる柄谷行人だったことです。
続いて発表されたのが「知里真志保の闘争」(『群像』1999年4月号)で
す。ここで鎌田は、アイヌの言語学者、知里真志保の二重の闘争を緻密に描き
出しています。「日本人」にも「アイヌ」にも単純な同調を拒んだ知里は、日
本人アイヌ語学者たちの作り上げた「アイヌ語」の虚偽と欺瞞を徹底的に暴
き、しかし同時に身近なアイヌたちの誤りをも厳しく批判しました。そしてそ
の過程でアイヌたちをも自縛している「抑圧民族」対「被抑圧民族」という馴
れ合いの図式そのものを、圧倒的な「怒り」と透徹した知性によって打ち砕か
んとしたのです。しかし、このひどく困難な「ジグザグ」の闘いは、決して誰
にとっても自明のものではありません。鎌田も「知性にとって怒りとは何か」
という強い問いを、論考全体にみなぎらせることによってこそ、この知里の
「わかりにくいもの」のありかを示しえているのではないかと思います。
これをとらえて早い段階に「領域を横断する怒りの批評」(『VOICE』1999
年6月号)という一文で鎌田を称賛したのは、浅田彰です。そこで浅田は「注
目に値するのは、それを論じる鎌田哲哉が、自らその怒りを生きていることだ
ろう。そこには、マイノリティへの感傷的な感情移入など、かけらもない。た
だ、ひたすら燃え上がる怒りがある。それがこの論文に異様な明晰さをもたら
し、横断的な力を与えているのだ」と述べ、同席したシンポジウムでは自身も
容赦なく批判されたことを付け加えながら、鎌田を「怒れる批評家」と肯定的
に紹介したのでした。これによって決定的に鎌田は、以降「怒りの人」とイ
メージづけられることになりました。
確かに、その後の鎌田の言動が、しばしば「怒り」や「苛立ち」、「怒
号」、「罵倒」に彩られていることに出くわすので、一般の読者はそれが「本
当」であることを確認することになります。
例えば、『早稲田文学』に連載された「進行中の批評」(2001年1月号から
2002年5月号まで断続的に連載)です。ある時は「資本と国家への対抗運動」
を称したNAMの事務局が、まだ運動は始まったばかりなのに「自立した個
人」を自明視して、大風呂敷を広げてしまうことの認識の「甘さ」、浅はかさ
を厳しく叩き、別の回では「理論」が撞着と矛盾に転げ回るうちに「人間とし
ての不潔さと汚さを示した」東浩紀の自意識過剰を詳細に暴き出し、また別の
回では、「放蕩」の優位がしょせん「小心」を隠した「精神勝利法」でしかな
い福田和也のアンフェアさに執拗に噛みつくなど、各回違った対象を断定口調
でやっつけまくりました。
また、批評文だけでなく、自らが主要メンバーとして立ち上げた雑誌『重力
01』(2002年2月)の共同討議でも、「経済的自立は精神的自立の必要条件で
ある」という鎌田自身が打ちだした原則を繰り返し「しつこく」同人にぶつけ
てしまうことで、微少な意見の相違さえも互いに承認しがたいぐらいに際だた
せることになったり、柄谷行人へのインタビュー「文学と運動 ―二〇〇一年
と一九六〇年の間で―」(『文学界』2001年1月号)では、昔柄谷が書いた柳
田國男論の不徹底さを、ほじくり返しては本人から嫌がられたりと、つねに非
妥協的・非順応的な態度を発揮し続けたのです。
さらにごく最近、鎌田自らが企画・執筆・編集して出した『LEFT ALONE 構
想と批判 ブックレット重力1』(2005年2月)も同じくそうでしょう。ここ
では「1968年革命」の可能性を現在的にとらえなおすドキュメンタリー映画
『LEFT ALONE』が、監督の井土紀州、主演者スガ秀実もろとも真っ向から批判
されています。鎌田もスガと対談をする部分で映画に出演し関わっていたので
すが、それで鎌田の筆鋒が鈍ることはありません。
論旨としては、“『LEFT ALONE』が新左翼運動の生成と展開を見直し、その
意義を問う映画だというなら、なぜ制作過程とほぼ同時期に組織され解体して
いった「資本と国家への対抗運動」NAMを扱わずに口をつぐむのか、NAM
の創設者であった柄谷行人と、NAMにもコミットしていたスガが、革命運動
について対談するシーンを含むこの映画が、NAMを問題にせず済ませている
のは、質の悪い隠蔽、自己欺瞞ではないか”、というものです。ここでも鎌田
はやはり完全にケンカ腰に見える言葉を採用しています。「文章を書くとは、
いかに親しい知人でも公然と傷つける覚悟をもつことであり……」、「スガ自
身の無様な姿はどうか。今や関井光男や岡崎乾二郎と並んで柄谷行人のパシ
リ、(略)「近大の三アホ」にすぎないのではないか」、「以上全ては井土紀
州のセンチメンタリズムとスガ秀実のそれとが、深く共振し癒着している事実
からきている」などと。
ついでに言うと、このブックレット自体が、闘争の書といえるでしょう。上
記の映画批判の文章「途中退場者の感想」は、実は書籍版『LEFT ALONE』(明
石書店)での掲載を前提に原稿依頼されて書かれたにもかかわらず、他の対談
者への批判を含むという理由で、最終的には出版社側から掲載を拒まれたもの
なのです。それに対して、逆に鎌田が自分の対談部分の掲載を拒否し、自ら
作ったブックレットに刊行の経緯、映画批判、対談部分を詰め込んだのでし
た。だからブックレットは、映画への批判と同時に、その過程の全体を明らか
にしようとする試みとして公にされたものなのです。
しかし以上のような証拠の列挙によって、私は鎌田に与えられる「怒りの
人」というイメージを追認・補強しようとしているのではありません。むしろ
逆に、そのイメージに一定の理由がないわけではないけれど、鎌田の書いてい
ることに即して、妥当なものといえるのかどうか、そのことを少し考えたいの
です。それにそんな情動的な姿を強調することは、鎌田が突きつけているもの
が何であるかを、考えないようにしてしまうことになるのではないかとさえ思
います。
例えば、前回取り上げた斉藤環『文学の徴候』(文芸春秋)では、先の浅田
の紹介文を受けて、まさに「怒り」が鎌田の批評の生命線であるかのように分
析されています。「怒り」は情動的なものとして批評を退行させ明晰さを奪う
のではないか、しかしそれが個人的なものにとどまらないならば、対象の欺瞞
と幻想を切り裂く鋭さを与えうるかもしれない、などというように。しかしこ
の手の問題設定は、もともとは鎌田自らが書いたことを、ただなまぬるく言い
かえただけにすぎません。当の「知里真志保論」冒頭章において、鎌田はその
種の「怒り」の構造を明晰に書きつけています。むしろ「怒り」を批判してい
るのです。以下長い引用です。
モンテーニュは『エセー』の中で、怒りはひとりよがりの思い上がった感
情である、と言っている(第二巻第三十一章、岩波文庫)。だが、彼がここ
で例証する怒りはおそらく不平家の怒りでしかない。そこには、世界の不正
全体への抗議へ彼らを徹底化させる導きの糸と、不幸によって彼らを毅然た
る人間へ研ぎすます時間の試練とのいずれもが欠けており、情念が主体の判
断を混濁させる見えすいた症例しか読者はその章に見いだせない。作者が我
々を引きつけかつ突き放すのは、右のように言う当人が深い長い呼吸で自分
自身の「怒り」を始める時である。それはさながら『白痴』のイポリートの
告白のように、テクスト全体に大断層を走らせている。「この逆上を打ち倒
すために私がとる手段、そしてもっともよいと思う手段は、高慢と人間的思
い上がりをたたきつぶし、踏みにじってやることである。人間のはかなさ、
むなしさ、空虚さを思い知らせてやることである。彼らの手から理性という
ちっぽけな武器をもぎ取ることである」(『エセー』第二巻第十二章「レー
モン・スボーンの弁護」)。
あらゆる情念が自然の相の下に認識されねばならない。理性もまたそこで
は自らの起源を忘れて思い上がった情念にすぎない。だが困難は、この認識
自体が自らを「響きと怒り」へ追いこむ過程のうちにある。彼にはそれを第
三十一章の怒りへ解消することができない。記述の全体を通して生き抜くこ
とはできても対象化することができない。だから彼は書く、「これは捨身の
一撃で、敵に武器を捨てさせようとすれば自分も武器を捨てなければなりま
せん。よくよくの場合でなければ、めったに使ってはならぬ秘法なのです。
敵を殺そうとして自分まで死ぬのははなはだしい無謀といわねばなりませ
ん」 (同前)。以下の考察は、個体にこの「一撃」を促す諸条件の検討と
してある。(「知里真志保論、0『怒り』について」)
つまり「怒り」は、自らも「ひとりよがりの思い上がった情念」のままであ
る可能性の中で、対象の「高慢と人間的思い上がりをたたきつぶ」すしかな
い。だからそれは「捨身の一撃」とならざるをえないのです。しかし、そこで
試されることになるのは、「怒り」の感情の強さではなく、「怒り」を生きる
ときに「世界の不正全体への抗議へ彼らを徹底化させる導きの糸と、不幸に
よって彼らを毅然たる人間へ研ぎすます時間の試練と」があったのか、なかっ
たのかのほうでしょう。これはおそらく簡単には見えてきません。鎌田が描い
た知里真志保に即していうなら、「その執拗な怒りがいかなる他者のいかなる
小過も永久に赦すことなく、不信と嫌悪と嘲笑の低温で論敵を粉々に打ち砕く
光景を我々は繰り返し通過」しても、それはなお残る「わかりにくいもの」と
いうことになるでしょう。
知里真志保の思考を問うことは、知性にとって怒りとは何か、を問うこと
である。不幸にも、彼をめぐる言説の殆ど全てがその怒りを情念の水準でと
らえてきた。知里を「怒りの人」と呼ぶこと、それは小利口な誰もがいまだ
に得意気にしていることだ。
(「同上、1知里における『わかりにくいもの』」)
だから私たちは、当然鎌田の「怒り」から距離をもたざるえないのはもちろ
ん、鎌田がしきりに「怒り」の次に導き入れようとするもの(「わかりにくい
もの」「ジグザグ」)こそをつかむ必要があります。それは、同じく鎌田が何
度も使用している語彙であらわすなら、「盲点」というものについての自覚、
とも言いうるはずです。知覚の裏側に隙があるせいで、見ているつもりでも見
えず、見えていないことにも気づかないようなものを突っつきだしてくること
です。
注意しなければならないのは、明らかにされたことが、いっとき私たちに把
握できるように思えても、それは死角をなくして、今後はすっかり事態が明瞭
にとらえ続けられることを全く意味しないことです。「盲点」はただ移動した
だけで、別の何かを見落とすことを引きかえにしている可能性があり、それど
ころかつかまえたと思ったことも、視線を戻せば元のふやけた光景の中に紛れ
させてしまうのかもしれない。鎌田の「怒り」は、そういう究極的には見つけ
だしもできず、消し去ることもできない「盲点」の所在を、私たちに痛感させ
るものとしてのみ論じる価値があるのではないでしょうか。
この「盲点」という比喩は、思いつきではありません。知里をとらえる憤怒
のわかりにくさを解読するために「知里真志保論」で鎌田が導入した武田泰淳
『ひかりごけ』、その小説の鍵となる「ひかりごけの光学」とも、また完全に
一致するものでしょう。「ひかりごけは見ないがゆえに見えないのではなく、
逆に見るがゆえに見えないものとしてある。『私』が見ていないものとは実は
『私』が見ているものである。それは見えるものと見えないものとの見えない
関係の認識を到来させる」
(「同上、2『ひかりごけ』について――知里と武田(1)」)
しかしこのことは、「盲点」を承認すれば承認するほど「盲点についての自
覚」が、より一層自明なものでなくなることでもあるはずです。とくに相手の
盲点を突いていると思って、自分のほうがより致命的な「盲点」に陥る可能性
を、鎌田はどのように回避できたというのでしょうか。実際、数々の論敵をぶ
ちのめしているとき、彼にも誤りは生じて、いわば「お前にも見えていないも
のがあるではないか」というように「盲点」を突き返されることにもなりま
す。
例えば、上述の「途中退場者の感想」については、井土紀州から、映画
『LEFT ALONE』に「NAM」への言及が一言もないという鎌田の批判が、とり
あえず事実として間違っていることを指摘されています(「末吉」『LEFT
ALONE 構想と批判』)。また上野昂志からは、鎌田の記述は、批判している
事柄の時間の前後関係が明確でなく、事情を知らないものを誤解させる(「上
野昂志の木刀両断その十二」『早稲田文学』2005年5月号)、という疑問がだ
されています(ただし、これらの指摘は、鎌田の全体の論旨を覆すものでない
と確言できますが、それは長くなるので省きます)。
もちろん「盲点」を逃れえることを、自分だけが無謬であることを、鎌田が
勘違いしているわけではないことは、そのつどそのつど本人がしつこく書いて
いることです。また「誤謬や矛盾をそのものとして率直に承認する姿勢を獲得
すること」(「進行中の批評<2>『東浩紀的なもの』の問題」)の必要性も
自他ともに対して銘記させようとしてきました。しかしこういったことは、自
覚だけではどうにもならないこともまた、鎌田は、批評対象が無残な過ちへい
たる原因を分析する過程で、くり返し描き出してもきたのでした。では実際私
たちは、どうあればいいというのでしょうか。
正直、ここにきても私はこの永久に逃れようのない「落ちくぼみ」につい
て、鎌田の追求を生半可にたどるだけで、それ以上のことができません。いま
だに自分でその認識を獲得し、徹底化させることが、どのようなかたちであり
うるのか、よくわからないままなのです。鎌田の批評を、ある程度身振りとし
て獲得することはできます。分析対象の「盲点」を見つけだすことは、さほど
難しいことではないからです。しかし「盲点」が自分のものであることの可能
性において思考する方法とは、どんなものなのでしょうか。
かすかな直感についてだけ、書いてみます。それは例えば鎌田が、柄谷行人
に対して向けてきた批評のあり方です。先にも書いたように、鎌田はNAMに
関する柄谷の責任を何度も取り上げています。これについては私も、地域通貨
団体Qへの「旧態依然たる左翼的破壊工作」を扇動しNAMを解体に導いた柄
谷の覆いようのない「卑劣」さ、それに盲従する取り巻きの「愚劣」さは、ま
ず多くの点で否定できないことだと思います。それは鎌田によって「京都オフ
ライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」(http://www.q-project.org/)で
逃れがたい事実として克明に記録され、『重力02』(2003年3月)の共同討議
や合評資料、『LEFT ALONE 構想と批判』「編者序文」その他で、ボロクソに
こき下ろされてきた通りです。
「それを読めば、柄谷氏が『神聖喜劇』の吉原さながら、実際の出来事の一
番の急所の部分にだけ捏造を施し、事実と虚偽のアマルガムに一定の説得力を
付与する悪質な手法を用いているのがわかる」「そこに柄谷さんの致命的な盲
点があって、西部忠への怨恨に満ちた文章を読んだり、NAMでの悲惨な自滅
行為を仄聞する限り、言語的な水準の問題を簡単に放棄したとしか思えない」
「柄谷は自分のどす黒い手の汚れを回避することは絶対にできない」「終わっ
ているのは近代文学ではなく、自分自身にすぎないのを柄谷は強く銘記すべき
だ」
ただし、鎌田が、これほどこっぴどく言葉を極めて柄谷を「殺し」にかかる
には、それ以前の柄谷に対する透徹した「批評」、そしてそれを条件付けてい
た(今もいるだろう)「服従」や「強制」についての「記憶」「焼き付け」
「刻み込み」があってのことなのです。
例えば「統整的理念の不可能性と不可避性 柄谷行人の『我慢』への疑問」
(『批評空間』第2期21号1999年4月)で鎌田は、柄谷が「今ここ」にいる他
者を越えて「統整的理念」(=コミュニズム)を語りだしたとき、すでにその
「盲点」を厳密に指摘していました。これはカント的な問題として単に「理性
の構成的使用」へ転落する恐れだけを指摘したのではありません。それはむし
ろ柄谷がすでに考察した問題です。そうではなく、柄谷が「統整的理念」を語
らなければならなくなった「強制(無理、我慢)」そのものが何であるかを、
疑問とともに見いだしていたのです。
柄谷はここで、「戦前の思考」を覆す「戦争神経症」=「戦後文学」とし
て現れる「超自我」の統整的作用を肯定的に問いかける。だが(略)我々の
「文化」は果たして「罪悪感に支配された神経症的な状態」にあるだろう
か。我々は我々の内部に、癒えるべきか否かを問うに値する「悪夢」を一度
とし て反復強迫したことがあったのか。
(「統整的理念の不可能性と不可避性」)
外傷的なものによる「反復強迫」が「超自我」の姿で人を統整的作用に向か
わせる、というフロイトを援用した柄谷の理論に、鎌田は「今ここ」の「不
安」から強いられている「我慢」を一定程度認めています。しかし同時にその
「反復強迫」は本当に私たちが「心に刻みつけてきた」ものかどうかも疑問視
しているのです。ところで、肝心なのは、鎌田がそうした決定的な疑問を提出
しながらも、このあと柄谷の理念には「服従を誓う」ことです。
この怒号と覚醒とが分裂的に共存する限り、柄谷行人は永久に正しい。そ
して正しいものは正しいと私はいうしかない。――私はここで、柄谷にでも
誰にでもなく、この理念それ自体に対しての絶対的な服従を誓う。これ以上
悪くなれないはずの地点からさらに悪くなってゆく状況へ可能な迎撃の全て
を自分が加えずにはいないこと、その迎撃の具体的な実行が「いかにして自
らをコミュニストに作るか」という問いへの私自身の間接的な解答であるこ
とを私は誓う。(同上)
これは鎌田にとって当時一貫した姿勢でもありました。上述のNAM事務局
の「自立した個人」の上滑りを批判した時にも、「NAMの原理」についてだ
けは「原理の絶え間ない修正の過程としての運動」を肯定するものとして、柄
谷を超えて自分の「原理」とすることを明確にしていました。また別の共同討
議(『批評空間』第2期25号2000年4月)でも「柄谷さんが言ったことは何も
考えずに思考を始めるしかない。思い切りその自由=強制を享受すべきだし、
他の水準で考えられるふりをしたくない」と語っていたのです。
この「服従」は、「服従」としては驚くべきものです。しかしこれだけが
「盲点」から自由でないことを自分にも他人にも知らしめ続けながら思考する
唯一の方法、少なくとも私が鎌田に見いだした、唯一の方法であるかもしれま
せん。
そして、この「服従」「強制」の受け入れは、鎌田がその後書きついだ「有
島武郎のグリンプス」(『批評空間』第3期1号2001年、同3号2002年、『重
力02』2003年)でも中心的なテーマになっています。そこで描かれる有島の内
村鑑三に対する「服従」と闘争は、実際の鎌田の柄谷に対する「服従」と闘争
とほとんど相似形をなしているのです。もちろん鎌田自身が意識して、柄谷や
NAMなどに対する現在的「批判=批評」を念頭にしながら書いていたはずで
す。そして、ただ現実の引き写しを行うにとどまらず、そこには鎌田なりの
「原理の絶え間ない修正の過程」が刻まれてもいるでしょう。
例えば、内村がある時まで単独者でいながら、取り巻く崇拝者や弟子たちを
分離できずにいることを批判し照らし出す、有島の「一個動カス可ラザル沈
静」。これは鎌田を「怒り」のイメージの単調さから解放し、新たな「ジグザ
グ」へと歩ませるにたる強い形象をなしています。また『或る女』の主人公葉
子が「自然」に依拠して階級や制度を覆そうと闘ったがゆえに、のちに「自
然」に手痛いお返しをくらい翻弄されてゆく過程。その反復と強制によってな
めさせられる「苦い後味」も、有島だけでなくすでに鎌田自身のものかもしれ
ません。
今回は、鎌田批評の素描を試みました。要点をかいつまんだがゆえに、大
ざっぱで荒い理解のまま放り出されているところも多いと思います。また最初
に触れた「丸山真男論」や「『ドストエフスキー・ノート』の諸問題」などの
主要論文も読まずに済ませたので、おおよそこれが鎌田の全体像などとは言え
ないものです。それでも鎌田の批評に宿る「意地と熱意と鋭さ」のありかを自
分なりに把握できたと思います。しかし、鎌田はその仕事をまだ始めたばかり
でしょう。『重力03』も刊行の準備がなされているようです。今後の活躍が期
待されるところです。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。
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////// 連載「映画館の日々」第7回 //////
薔薇の名前、作者の名前――黒澤明論のはるか手前で
鈴木 薫
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長年、生きた屍のような人生を送ってきた小役人が、癌で余命いくばくもな
いと悟ったとき、はじめて生きることの意味にめざめ、住民を悩ませていた下
水溜りを埋め立てて小公園を作ることに奔走、ついに完成した公園でブランコ
に乗ったまま「ゴンドラの歌」を口ずさみながら死ぬ――誰がそんな映画を見
たいと思うだろう?
幸い、黒澤明監督の『生きる』(1952年)はそういう映画ではなかった。
「小田切君」――そう名前(役名)が呼ばれるのを聞いたとき、直観的にそれ
が誰であるのかがわかった。最後にその顏を見てから長い時が経っていたが、
そして、それほど若いときの顏ははじめて見るものだったが、それでも、それ
はまぎれもなく「チャコちゃん」(四方晴美)の母親――TVドラマ内での母
親役であると同時に実の母――小田切みきであった(*)。
ピエール・ド・ロンサールと言えば今や薔薇の名前であるらしい(Googleで
検索するとそればかりヒットする)が、もともとは十六世紀フランスの「薔薇
の詩人」である。「エレーヌのためのソネ」は、老いたエレーヌがすでに鬼籍
に入った詩人を回想して、ロンサールが昔、私を讃美してくれたっけと呟く未
来の情景を喚起し、そのときになってからでは遅い、今日の薔薇を摘み給えと
誘う(口説く)ものだ。「命短し、恋せよ少女[おとめ]」という「ゴンドラ
の唄」の歌詞は、あるいはロンサールが下敷ではないかと思いつくが、より広
範なトポス(文学的クリシェ)に基づくという方がよりありそうなことだ。
ろくにフランス語が読めない(今もだが)大学一年の頃出席していた、詩人
のK氏による「フランス詩入門」の講義でこの詩に出会ったとき、その現代版
たるレーモン・クノーの“Si tu t'imagine”(「そのつもりでも」)をK氏
は板書し、私たちは(少なくとも私は)わけもわからぬままに写した――si
tu t'imagines si tu t'imagines fillette fillette si tu t'imagines.....
xa va xa va xa va durer toujours.....allons cueille cueille les roses
les roses roses de la vie.
『生きる』は、帰る場所を失った老人が誰にも看取られることなく公園で息絶
える話だ。病気が判明した日、暗い室内に彼がひそんでいるとは思いもよら
ず、父の貯金と退職金をあてにした会話をしながら息子夫婦が帰ってくる
(蹲った彼に気づいた息子の妻が低く叫ぶが、私と同じ列にいた男性客も、亡
霊のような彼の姿に思わず声を上げていた)。彼の人生の目的だった息子は、
今や新婚の妻しか眼中になく、いつの間にかそこはもう彼のテリトリーではな
くなりかけていたのだ。家と役所のあいだをひたすら往復していた彼は、そこ
からはずれて外へ出てゆく。ミラーボールが廻り、亡者のような男女の群れが
蠢く――いや、ダンスする――(あのエキストラの数、というか量はすごい)
世界を経て、彼が最後に行きつくのは周知のとおりの場所だが、そこで彼の口
から出るのが若い娘に歌いかけるべきラヴ・ソングだというのはいかにも皮肉
である。
職場で弁当をつかいながら食べ物を口に入れたまましゃべる、あかぬけな
い、しかし生命力あふれる小田切みき、彼女こそ、本来「恋せよ少女」と歌い
かけられるべき相手であろう。「命短し」とか、「明日の月日はないものを」
とは、いうまでもなく花の盛りの短さを指す(実際に若さのただなかにある者
には、それが過ぎ去ってしまうことなど思いもよらない)修辞であり、生物学
的な死の近さを意味するものではない。ロンサールのエレーヌは、朱い唇が褪
せたのちも長寿を保っていたではないか。それがここでは、未来なき老人に歌
わせることによって、文字どおり剥き出しの死を指し示すことになる。メフィ
ストフェレス的な伊藤雄之助に案内されたからといって、ファウストのように
若さが取り戻せるわけではない。降り出した雪の中で、その歌詞はただ彼自身
の耳にのみ吸われてゆく。
役所をやめた小田切みきが町工場でおもちゃの兎を作る仕事にやりがいを感
じていることが語られ、残された時間に何をすべきかを志村が悟るシークエン
スで、階段の吹抜けを隔てて向かい合う部屋では、盛装した楽しげな若者のグ
ループがバースデー・ケーキを用意している。そして、志村が階段を下り、入
れかわりに誕生日を迎えた娘が階段を上がる瞬間、ハッピー・バースデーの歌
が流れ、それは同時に、志村の残された生への第二の誕生をも祝福するもので
ある――と、一般には解釈されているらしい(**)。しかしこの対比は何よ
りもまず、二人のあいだの差異を残酷に強調せずにはおかない。友人たちに迎
えられ誕生日の娘が歩み入る空間と、「老いらくの恋? それならお断りよ」
と小田切みきから宣言されたばかりの志村喬が降[くだ]りゆくところ――そ
の対比は天国と地獄そのもので、そのどんづまりには夜の公園があり、そこで
はただ寒さと闇と孤独が待つばかりだ。
それにしても公園とは何だろう。それはその名のとおり個人の家とは対極に
ある空間だ。「命の薔薇」を摘むべき場所はプライヴェート・ガーデンだろ
う。まして公園はそこで死ぬべき場所ではありえない。それなのに、志村はそ
こで死んでしまった。そのスキャンダル(美談? まさか!)とどう折り合い
をつけるかが、通夜の場面での回想劇にほかならない。自分の功績を認めても
らえなかったことへの抗議の死という、合理的な意味づけは直ちに却下され
る。ブランコの上で絶命したなどというのは、思えばかなり気味の悪い話であ
り、たとえば幽霊譚が子供のあいだで流布したとしても不思議はない性質の事
柄だ。そういえば、プロジェクトを推し進める志村が他の部署の人間を動かす
のは説得とか交渉によってではなく、相手にとことんつきまとうことによって
だった。まるで生きているうちからこの世に思いを残している幽霊のように。
下水溜りを公園にした第一の功労者でありながら、滅私奉公すべき公僕たる
彼の名あるいは彼の死は、記念されることがない。たとえばその名が公園につ
けられるなどということはありえない。そればかりか、彼が作ったと住民は
言っているがそれは間違いだ、一課長の力で公園を作れるものではないという
発言まで飛び出す始末だ。明らかに一人で作れるものではない、映画のことを
考えてみるのもいいだろう。しかし、主人公の死のあとまで続く物語であるこ
とと、どちらも子供たちの遊び場を作る話だという点から、ここで私が比較し
てみたいのは宮澤賢治の『虔十公園林』だ。
個人的には生まれてはじめて読んだ賢治作品である、比較的地味でごく短い
このテクストでは、主人公に暴力をふるう嫌な奴がチフスで死んだと知って一
瞬ほっとすると、次の行では主人公もまたチフスで死んだことが告げられ、そ
れでもやまずに「お話はどんどん進みます」と非人称の語りがパフォーマティ
ヴに宣言する。この驚くべき加速には、はじめて読んだときから今日に至るま
で嘆息するしかない。お話が終ったあとまで幸せに暮らすのでもなければ、主
人公の死で終るのでもないのだ。「少し足りない」虔十が笑われながら植えた
杉苗が、人々に慰めと喜びをあたえ(杉花粉症などない時代だ)、時が流れた
のちにその場所は公園となる。死後の語りは、そうやって作者の死のはるか後
における作品の運命を指し示す。
「虔十公園林」(はじめて読んだときはもちろん、今に至るまで見慣れなかっ
た主人公の名前の字が敬虔の虔だと、今回はじめて気がついた)は賢治の短篇
の題だが、同時に、虔十の残した林につけられることになった名前でもある。
『生きる』は、子供たちの遊び場になる公園を作ろうとして公園を作る話だ
が、「虔十公園林」はそうではない。虔十の名は、彼自身の意図を越えてその
〈作品〉に与えられる。「青い橄欖岩」に虔十公園林と彫られた碑が林の入口
に建てられたと賢治は記す。「王侯の大理石や黄金の記念碑より」も自分の詩
の方が長く生きると書いたシェイクスピアのように、「青い橄欖岩」よりも自
分の童話は長く残ると賢治-虔十も言いえたであろう。
小公園が志村の作品ではないことが強調されるとき、それに反対して彼の死
を心から悲しむのは、弔問に訪れた貧しい主婦たち、下水溜りだったところの
周辺に住み、今では子供を公園で遊ばせる母親たちだ。この挿話自体は疑いも
なく感動的なものである。だが、彼女たちが帰ったあとも、彼のエレーヌたる
小田切とよ(そういう役名なのだ)は現われない。彼女は(本気で)志村が気
味悪くなっていたのだ。あの(感動的な)「ハッピー・バースデー」に至る店
内での彼女の嫌悪の表情を思い出せばそれはわかる。靴下を買ってくれたり、
甘いものや食事をおごってくれるくらいなら笑っていられても、あまりにも度
重なるともう目的がわからない。誕生日を祝ってもらう娘のように優雅な身分
ではなく、町工場で身を粉にして働き、ストッキングの踵には大穴があいてい
ようとも、彼女には志村につきあう理由はない。余りある時をゆくてに持つ
――少なくとも「そのつもりで」いる――彼女だが、大きな目でうらめしげに
見つめる老人を相手にしているひまだけはない。
ところで虔十は、賢治のむやみに有名な詩の「サウイフモノ」に近い存在
――ある意味ではほとんどそのものである。「イツモシヅカニワラツテヰル」
などというのは、『虔十』にそのとおりの描写があり、そのため子供たちにも
馬鹿にされているのだが、そのような存在こそが、逆説的に〈作者〉たりうる
のだろうか? そのとおりと言いたい人はいくらでもいそうで、黒澤自身、説
教臭くなる危険をつねに抱えている(それどころか、彼の作品はそのためしば
しば破綻している)。昔、区の連合学芸会で一校だけ、劇をやらずに大勢で舞
台に並び、あの詩を声張り上げて暗唱したところがあって、みな閉口(および
冷笑)したものだった。黒澤作品を見るときは、たとえば『七人の侍』なら
ば、幕切れの、勝ったのはわれわれではなく百姓だという、〈作者の意図〉に
そった小賢しい科白などは聞き流し、『生きる』に〈ヒューマンな感動〉を覚
えたというような言説には冷笑を向けるのが、正しい観客作法なのかもしれな
い。
(*)本名を役名に流用されたのかと思ったら、これを機に芸名をそう変えた
のだという。四方晴美の父親(役の上での父であると同時に実父であり、小田
切みきの夫)は安井昌二と、今でもすらすら名前が出る。当時私が持った疑問
は、この家族はなんで苗字がひとりひとり違うのかということだった。「ケン
ちゃん」が四方晴美の弟として登場する以前の話……Mais ou sont les
neiges d'antan?
(**)このあと、休んでいた市役所に志村が戻り、人が変わったように仕事
に取り組みはじめるとき、「ハッピー・バースデー」のメロディーが再び流れ
るのだから、作者の意図するところともこれが一致するのは明らかだ。この
フィルムはこういうところが本当にくどい。伊藤雄之介と志村喬が出会ってす
ぐ、酒場に黒犬が入ってくる。『ファウスト』を知っている人ならハハアと思
うし、知らなければ何も思わないだろうが(そんな簡単に犬が入ってくるだろ
うかと思う人もいるかもしれないが、この十年ぐらいあとの東京でも、街中を
犬がふつうに歩いていたもので、「犬殺し」という言葉も生きていた)、事情
を知った伊藤は、自分がメフィスフェレスになって案内役を務めよう、ちょう
ど黒犬もいるし、と言う。黒澤がリアリズムの映画作家だなどと誰が言ったの
だろう。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)。新文芸坐で全作品マイナス一本の黒澤明特集をやると
知ったときにはこれでネタは決まりと思ったが、残念ながら今月は諸々の事情
でほとんど映画館に行けなかった。取り上げたのは一本きりですがおつきあい
下さい。
年一回発行の「女性学」と「女性学年報」の最新号を読もうと久しぶりに東
京ウィメンズプラザに行くと、どちらも2003年分までしか書架にない。ウィメ
ンズプラザは、母体の東京女性財団を石原慎太郎につぶされ、都の直営となっ
て予算も極端に減らされているのだが、その後知ったところでは、昨年6月の
都議会で、特定の偏った思想(彼らのいう「ジェンダーフリー」思想)を宣伝
する場となっており、都の男女平等施策推進の拠点にふさわしくない、「天皇
制を根本的に否定した女性運動家の写真」の展示もしていた、改革が必要だと
思うがどうかと質問が出たのを受けて、都生活文化局の部課長による「東京
ウィメンズプラザ図書等選定委員会」が作られて、図書購入は複数の管理職が
決めるようになったという 。以前は女性運動のパイオニア等の特集展示がよ
くなされていたが、そういう企画もできなくなった。なぜなら、展示には「思
想性が表れるから」。こうしたことが報道されず、研究者から抗議の声が上
がってもいないらしいこと自体が不気味だ。http://kaoruSZ.exblog.jp/
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★木内昭彦「家具のかたち」★
■日時:4月29日(金)〜5月8日(日)/10:30〜18:30
■場所:ギャラリー3
東京都新宿区西新宿3-7-1 新宿パークタワー1F
TEL.03-5322-6490
-------------------------------------------------------------------
★中明千賀子 コラージュ展★
■場所:ジュンク堂書店西宮店 カウンター横ギャラリー
(阪急西宮北口駅・アクタ西宮4F)
■日時:5月1日(日)〜5月31日(火)
-------------------------------------------------------------------
★第55回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年05月15日(日)午後2時より5時まで。
■テキスト:スピノザ『エチカ・上』(岩波文庫他)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
■編集後記(黒猫房主の周辺)
★柄谷行人による「NAM崩壊騒動」は、「2チャンネル」でその崩壊に至る
内容のMLがリアルタイムで流されその真偽が話題になったが、今回「京都オ
フライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」(http://www.q-project.org/)
を読むと、柄谷の横暴振りがよく伝わってくる。結局、NAMは「自立した個
人の協働態」ではなく、柄谷個人の意向が支配していた/柄谷個人にメンバー
依存していたことが、よくわかる。柄谷が紡ぎ出した透徹した思想と柄谷個人
の振る舞いの乖離に愕然とする人は多いだろう。このような話はよくある話だ
と言えばそうなのだが、その人格とは別に思想の価値は検討に値するだろう。
つまり柄谷個人をカリスマ化しないことであり、その意味で柄谷はもはや「古
典」と化したとも言い得る。だが人格が追いつかないような思想が、果たして
私たちにとって有効なのかという問いも、また切実であり検証に値する。
★鈴木さんの原稿を校正しながら、「チャコちゃん」の箇所でニヤリ。やや唐
突感はあるものの、同世代にはサービスフレーズだろう。「チャコちゃん」と
は、鈴木さんや黒猫が小学生の頃の人気TVドラマので主人公のことで、その
名前を冠した「チャコちゃん」シリーズ(1962年〜68年)がTBS系で全国放
送されていた。しかし今や昔、「往時茫々ただ夢の如し」(鈴木さんの脚注*
のフランス語の意味)な話であろう。Webで検索すると、当時のシリーズを紹
介したページにヒットするので、興味ある方はどうぞ
(http://www.geocities.jp/kindanhm/ken.html)。
★鈴木さんのプロフィールでも紹介されているが、フェミニズムへのバックク
ラッシュが各地で起きている。関西でも豊中市の女性センター非常勤館長を雇
い止めされた三井マリ子さんのバックラッシュ裁判が闘われている。
(http://mbs.jp/voice/special/200504/0414_1.shtml)その裁判支援をする
Webは、こちら(http://fightback.exblog.jp/i3)。このような反動攻勢は、
憲法「改正」言説とも連動している。(黒猫房主)
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『カルチャー・レヴュー』49号(通巻52号)(2005/05/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
電子メール("YIJ00302"を"@nifty.com"の前に付けて下さい)
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■本誌のバックナンバーは、
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■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。
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本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。
◆直送版◆
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(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』50号(水無月号)
(2005/06/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[51号は、2005/07/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第8回:「死」って何なんだ〜!?-----ひるます
◆連載「マルジナリア」第8回:デタッチメントの哲学-------------中原紀生
◆INFORMATION:集会「聞いて!パレスチナの子どもとお母さんのことを」
第56回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)---------------------------------黒猫房主
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★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版を47号より立ち上げました。各論考ごとに読者の方が
コメントや感想を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
http://kujronekob.exblog.jp/
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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第8回 //////
「死」って何なんだ〜!?
ひるます
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■伊丹堂のコトワリ
第8回 「死」って何なんだ〜!?
獏迦瀬:死ってなんなんでしょう。
伊丹堂:また藪から棒じゃな。
獏迦瀬:いろいろと事件や事故があると、やはり考えてしまいますね。
伊丹堂:君がそんなことを考えても死者も浮かばれないだろうにね。
獏迦瀬:はあ……そうすけどね。死については以前、「実存とは何か」のとき
にちょっと話に出ました(カルチャーレビュー46号
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re46.html#46-1)。ようするに人間は
死ぬモンだってことでした。
伊丹堂:死ぬ、にもかかわらず生きていくと、いうこっちゃな。
獏迦瀬:まあ動物も死ぬにもかかわらず生きているわけですが、ただ動物は死
ぬということを自覚してないでしょうね。もちろん防衛本能がありますから、
死の恐怖ということはあるんでしょうけど、普段、自分が死にゆく存在である
などということは考えていない、だろうと思われるわけです(笑)。
伊丹堂:人間の場合はその自覚がある……といっても、自覚しうるという可能
性とか能力ってもんがあるということであって、さしあたってたいていの場
合、人はそのことを忘却しているわけじゃな。それがハイデガーのいう「ひ
と」というあり方なわけで、そういうレベルでは人も動物も同じってことには
なるわな。
獏迦瀬:そうっすよね。さしあたってたいていは、それを自覚しない。それは
日々、忙しいとかヒマとかには関係なく、そういうことを意識しない「日常的
モード」っていうんですか、そんな感じで暮らしているってことなんでしょう
けど。ようするに実存の話の時に伊丹堂さんが言っていた「共有された時間の
中に死はない」ということと同じだと思うんですが、日常的なあり方がスッ
コーンと壊れて「個人的な時間」で自分と向き合うとき、人は死を自覚するも
のだという気がします。
伊丹堂:まあ、実存の話の時もしつこく言ったが、そういう自覚があ「れ
ば」、実存的な生き方に至る、というわけではないってことも肝心じゃがな。
ただ、その自覚ってのが、「他者」の自覚にもつながってるってことは言え
る。死の自覚が「共有された時間」からの離脱であれば、当然、それは「わか
りあえている(と思いこんでいるにしても)関係」から、「わかりえない(相
手が誰かわからない)他者との関係」に入る、ということになるわけじゃから
な。
獏迦瀬:あくまで可能性の条件として、ということでしたが……。いずれにし
ても「日常的モード」に対して「死のモード」というか、ハイデガー風にいう
と「本来的」なモードってのがあるわけですね。ハイデガーのいう「本来
性」ってのは、伊丹堂さんの言う「まっとうさ」ってことなんですかね
(笑)。
伊丹堂:いや、それはちょっと違うが……、いずれにしてもそういうモードは
ある意味「気分」なわけじゃろ。それでワシはそういうモードに入「れば」実
存的な生き方だというわけでは「ない」ということを言っとるわけよ。
獏迦瀬:受動的っつ〜か、いわゆる「魔の刻」ってやつですか。魔境とか。
伊丹堂:「共有された時間」の方からみれば、たしかに「魔」ということにな
るわな。
獏迦瀬:魔が差す、というか。でもその「魔」も、個人的な実存の可能性をひ
らく場としては、大切なものである、という2面があるんでしょうね。ところ
で、いずれにしてもこういったコトは「死」についての自覚や気分の問題で、
死そのものが何かという問題はまた別のような気がしますが。
伊丹堂:死そのもの、ねぇ。
獏迦瀬:たとえば脳死臓器移植の問題がこのところ再び議論されています。法
改正の動きが再び出てきたってことですね。
伊丹堂:脳死臓器移植についてはだいぶ以前に「カルチャーレビュー」別冊2
号の特集(http://homepage3.nifty.com/luna-sy/reb02.html#02-4)にひるま
すとしても書いているが、今回の議論では以前の町野案のごとき暴力的な話で
はなく、死生観の多様性を前提にする、という合意があるような感じではある
の。ただ、親族への優先的な移植を規定するなど、そもそもの臓器移植の「精
神」とは異なるものが入ってきている。これについては、改めて議論しなくて
はならないじゃろうな。
獏迦瀬:結局、脳死は「死」なのか、というのはどうなるんでしょう……。
伊丹堂:というか、死というのは外側から見る限り、プロセスなのであって、
そのプロセスの中のどこで死なのか、ということは科学的に議論しても無意味
ということが、ほぼ共通の認識になってきた、ということはええことなんじゃ
ないかの。
獏迦瀬:なるほどね、内側からみた死、つまり自分の死というのは、ハイデ
ガーに言われるまでもなく、体験不能であり、知ることのできないもの、とい
うことになりますね。
伊丹堂:う〜ん、死がわからないというより、我々はそもそも「生」というこ
とがわかっていない(笑)。
獏迦瀬:生命論ですね、なんだかんだ言っても、物理・科学的に生命という現
象は説明できない、よってウラハラに死ということも語り得ない、ということ
ですか。
伊丹堂:いや、生命という現象を前提としてしまえば、その終わりということ
で「死」は単純に説明がつく。「生命」の発生のみをいわば「括弧に入れて」
不問にし、その現象を前提とする、というのが我々のいわば「生命の現象学」
じゃからな。
獏迦瀬:生命の現象学ね……。
伊丹堂:それはともかく、生命の死ということを語りうる、といっても、それ
はあくまで外部からの観察によるわけじゃな。それが語り得なくなるのは、よ
うするにそこに「個体」という問題がでてくるからじゃ。
獏迦瀬:個体……ですか。
伊丹堂:個体としての生命、というのが問題よ。細菌や微生物、植物などのよ
うな「個体化」しない生命のあり方も可能だったにもかかわらず、なぜに我々
は「個体化」するような生命の形をとることになったのか。あえてSF的にいえ
ば、おそらく個体でなく「共体」とでもいうべき生命の進化のあり方が可能
だったかもしれないにもかかわらず、我々は個体という進化をしている。ま、
そうなったからそうなったわけで、しょうがないのじゃが。
獏迦瀬:共体ですか。共体ということは、ようするに「死」がない……?
伊丹堂:死がないというか、定義上あたりまえじゃが、個体としての死がな
い。生命である以上、不死ではないわけじゃから、細胞としては死ぬわけじゃ
な。
獏迦瀬:細胞の死というと、以前、話題になりましたね、アポトーシス……。
伊丹堂:アポトーシスは、単なる細胞死というより、細胞の自死じゃな。細胞
が老化して死ぬというのではなく、計画的に死滅することによって、生物の形
態がつくられる、というような積極的な意味合いのある、多細胞生物の構造に
かかわる概念じゃな。
獏迦瀬:計画的に死滅して全体に貢献する、ということはその全体としての
「個体」を前提にしているわけですかね。
伊丹堂:それは微妙じゃな。前提はあくまで「多細胞生物」ってことじゃな。
たとえば植物などは「個体」といいうるか、というとこがあるわな。
獏迦瀬:たしかに……。海草の群なんか見てるとまさに「共体」ですよね。
伊丹堂:以前から紹介しているが、アポトーシスを提唱している田沼靖一氏が
言っている画期的に面白い話が、生物が「性」を獲得したときに、はじめて生
物は「個体」になった、ということじゃ。
獏迦瀬:性と個体はウラハラ……。
伊丹堂:というか個体である、ということは個体として「死ぬ」ということ
じゃから、性と生はウラハラだってことになる。
獏迦瀬:ああ、そんな話がありましたね。臨場哲学通信No.78の「恋と宿命」
(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/RIN/head78.html)という話題で、珠緒
さんたちが話してます。
伊丹堂:恋とエロスの話ね……それはともかく、性の獲得と個体の確立によっ
て、はじめて「個体としての生命」同士のコミュニケーションというのも始
まったといえるわけじゃな。結果として地球上の生命のほとんどは、個体とし
ては死に「種」という形で世代交代しつつ連続する、というシステムというか
構造になっているわけよ。
獏迦瀬:それは変えようのない「構造」だと……。
伊丹堂:まさに構造としてはそうでしかない、わけじゃな。ただ、そういう構
造の上で、我々は「個体」というあり方が可能になっている、それをどう捉え
るか、じゃな。
獏迦瀬:それは、まさに実存の問題ってことですかね。
伊丹堂:ちゅ〜こっちゃが、そこには非常に哲学的というか、宗教的な問題が
ある。
獏迦瀬:ん、宗教テキっ?
伊丹堂:そんなビビルほどのことでもないが、……ようするに「私」とは何
かってことじゃね。
獏迦瀬:ああ、……独我論っていうか、例のヴィトゲンシュタイン点とかの話
ですか。(オムレット第3章蛇足参照)
伊丹堂:まあそんなとこじゃ。誰でも考えるのは、たとえば我々が「共体」と
いうあり方をしていたとしたら、「私」という意識はどうなっていたか?って
ことじゃね。
獏迦瀬:そりゃ、私でなくて「我々」になってたろう、と……。
伊丹堂:しかし「我々」という言い方はなんというか、個体差みたいなものを
前提にしている感じがするだろう。
獏迦瀬:ですよね。
伊丹堂:と、言っても、それが「生命体」として自覚している、と前提すれ
ば、それは世界というか、外界というか、対象としての外側の世界に対しては
「自分」という自覚があるのではないか、と考えられるわな。
獏迦瀬:ああ、オムレット第3章で珠緒さんが言ってた「極性」というもんで
すかね、極性としてのヴィトゲンシュタイン点……。
伊丹堂:極性としての「われ」という自覚はあるが、個体として独立している
わけではないから、漠然とした「自分−たち」という意識が背景にあって、そ
こで共体としての全体の中で、ある部分がある行為をするときに「その行為に
ついての自覚」みたいなものだけが生じるのではないか、ということが予測で
きるわけじゃ。
獏迦瀬:行為についての自覚だけ……そういえば酔っぱらってほとんど記憶が
ない時に、「なんかをしているという自覚」はあるけど、それをコントロール
する「自分」の意識というのはない、ということはあるような気がしますね。
伊丹堂:それよ(笑)。
獏迦瀬:そうなんすかね。
伊丹堂:っていうか、これはただの空想で、どうでもいい話じゃ(笑)。
獏迦瀬:なんすか、それ。
伊丹堂:しかしこういう空想を引き合いに出してみれば、「私そのもの」がな
にか特別なモノとして存在するというような独我論的な考えの奇妙さがよく分
かる。
獏迦瀬:はあ……、それはつまり、個体というあり方がそもそもたまたまとい
うか、偶然的だということでしょうか。その個体を前提として、「私そのも
の」のような意識を想定することに無理があるというか。
伊丹堂:無理というより、それを言うなら、なにゆえ「極性としての意識」み
たいなものが、この世界に生じたか?、つまり生命はいかにして誕生し得たの
か?ということが問題だろう、というこっちゃな。
獏迦瀬:う〜ん、それはようするに生命とは? ということと同じですかね。
伊丹堂:それゆえ、ワシとしてはその「なにゆえ」は問題にしない。そのよう
な極性としての意識が、なぜか有るのである、ということを前提とするわけ
じゃな、生命の現象学としては。
獏迦瀬:さいでっか。そうすると、どういうことになるんですか。
伊丹堂:個体であれ共体(というものがあるにせよ、ないにせよ)であれ、極
性としての意識があるとすると、それはその生命体の上にしか生じない。オム
レット的にいうと、その生命の「内側からわかる」ということであって、空中
にぽっかりと自分の意識が生じる、なんてことはないわけじゃな。
獏迦瀬:そりゃ幽体離脱じゃないですか。
伊丹堂:と、いうようにその極性の意識そのものが存在しうる、とか、その意
識の大本は宇宙の意識なのだ、とかその根源を問題にするお話はすべて「解
釈」にすぎない、ということになるわな。
獏迦瀬:ああ、そういう話ですか。
伊丹堂:しかしそこに肝心な問題がある。我々のような「個体としての生命」
の場合、その「われ」という意識は、自分自身の個体の上にしか生じない。さ
らにいうと、それは中空には生じない、というよりは、他の個体、人という同
類の個体だけではなくて、犬猫、ミジンコといったものも含めた「他の個体」
の上には決して起こらない。
獏迦瀬:それが起きたら憑依というか、転生ですが……。
伊丹堂:そういうことが起きないにもかかわらず、ワシらは「他の個体」にお
いて「そこ」に自分と同様な極性の意識が生じているだろうと思っている。
獏迦瀬:それを前提にしなきゃ、会話もできませんよね。まあ、犬猫はともか
く、ミジンコにそういう極性を感じる人はまずいませんけど……。
伊丹堂:逆に哲学では「他我問題」といって、なぜに他人にも自分と同じよう
な意識があると分かるのか? という議論がある。誰でも一度くらいは「他の
人にも意識」ってあるのかと疑問に思うというか、空想してみたことくらいは
あるんじゃなかろうか。というように、哲学的というより抽象化した議論にお
いては、それもそうだと納得させるものがあるわけじゃな。
獏迦瀬:まあそうでしょうね。
伊丹堂:そういう議論や空想も、じつはウラハラにわしらがいかに普段、他人
の意識が他人の「そこ」で生じている、ということを確信しているか、という
ことの表れではあるわけよ。これは単なる解釈ではなくて、わしらが生きてい
く上での基本的なリアリティといってもいい。
獏迦瀬:リアルの到来ってやつですね。
伊丹堂:以前、LA Vueに掲載された中塚則男氏の「魂脳論序説」(5号)への
論評で語ったことがあるが(臨場哲学通信55号
http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/RIN/head55.html)、このように自分にと
っては「ここ」で内側からわかる自覚が生じている、つまり「ここ」で世界が
開かれていると同様に、他人にとっては「そこ」で世界が開かれているだろう
という確信が、ようするに「魂」だ、ということじゃな。
獏迦瀬:ああ、魂を実体としてではなく、関係性として捉えるということでし
たね。
伊丹堂:その人の魂が実在するかどうか、という問題ではなく、我々が動かし
がたい感情として、「そこ」に他人の魂のリアルを感じてしまう、それが大事
だったこと。これが大事だというのは、脳死の議論でもそうだが、たとえば痴
呆や脳の病でまったくその人の「自我」が失われているように感じた場合で
も、その人が粗末に扱われたり、みすみす殺されたりすることが許し難いと感
じる。
獏迦瀬:そりゃそうです。
伊丹堂:それはなぜか、と問われれば、そこにその人の魂を感じるから、とい
うことになるだろう。そこにイノチがある、ということでもいいんじゃが、ま
あ、人それぞれの言い方はあるとしても、そういうことになる。
獏迦瀬:脳死議論でひるますが言ってたのが脳死の人の「そこ」でなんらかの
世界が開けている可能性を否定できない、といってたのが、それですね。意識
がないのに世界が開けているというのは奇妙ですが、たとえ「無」のような時
間だろうと、それは世界があるのであってないのではないといえる、というわ
けです。
伊丹堂:そう。ただそれを「実体」としてのそこでの「世界の開け」があるか
どうかという話にしてしまうと、魂の実在という宗教的な議論になってしま
う。そうではなくて、わしらが他人の「そこ」に「世界の開け」を確信してし
まう、ということ、ようするに「関わりとしての魂」というとらえ捉え方が肝
心なわけよ。
獏迦瀬:なるほどね、ただ確信というと、なにやらひとりよがりな思いこみみ
たいですけど。
伊丹堂:勝手な共感による思いこみってのは「ヒステリー」についての話で
語った(42号 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re42.html#42-1)。たし
かにそれは微妙なのじゃが、勝手な共感というのは基本的に「共有された時
間」ってのを前提にしている。お互いが分かり合っている、という幻想のよう
なもんじゃな。しかし魂の確信というのは、それとはまったく別のレベルの心
の動きであって、他者の側から、それがこちらの理解とは無関係に開かれてい
るということなんじゃな。
獏迦瀬:ええ……、それは分かりますが、さしあたってたいていの日本人の場
合、その共有された時間を生きているようですから、やはり他者の魂に対する
態度もヒステリックなのかな、と。
伊丹堂:日本人に魂はない(笑)。ま、そういう意味では、「魂」という見方
は、実はその他者の側からの観点を要請するわけで、共有された時間から離れ
て、まっとうに考えてみるには大事な見方だ、といえるじゃろうな。
獏迦瀬:なるほど精進ですね。
伊丹堂:いずれにしても、身近であれ見知らぬ人であれ、我々が他人の死とい
うものを悼まざるをえないのは、この「魂という確信」があるからだ、といえ
る。人が死ぬということは世界がひとつ失われるということに等しい。
獏迦瀬:ああ。
伊丹堂:ワシもいずれは死ぬ。ところで自分の死というのを考えると、それが
いたましいとは思えんが(笑)
獏迦瀬:そりゃ伊丹堂さんがニヒリスティックだからじゃないですか。
伊丹堂:そういうわけではないが、他人のではなくて、自分の魂が失われるの
が損失だなどと、世界に向かって叫ぶのはおこがましいというもんじゃろ。
獏迦瀬:そりゃ恥ずかしいでしょ。
伊丹堂:ようするに自分の場合は、リアルの重心が「魂」というところではな
く「いかに生きるか」というところにある。まあ存在するのが単なる前提じゃ
からして、当たり前のことじゃが。
獏迦瀬:実存ってことですね。やはり自分の死を考えることが実存的に生きる
こととかかわるってことなんですかね?
伊丹堂:いや、そうではなくて、ここから言えるのは、いつも言ってる、人は
成長の過程で「無償で愛される経験が必要」だということにつながる。
獏迦瀬:と、いうと?
伊丹堂:ようするにワシらは平気で、他人の命が失われるのは世界が失われる
ことに等しい、なんてことを口にするが、まったく愛されたことがない者は、
自分自身で、自分の魂に対して「それが失われることは世界が失われることに
等しい」と思いつづけねばいられない。
獏迦瀬:なるほど、それはキツいですね。
伊丹堂:基本的にそれは他人の魂への配慮の形なんであって、そのループから
抜けられないというのは、非常に不幸なことであるわけよ。
獏迦瀬:はあ、むずかしいことですね。
伊丹堂:だからどうしよう、ということではないんじゃが、ようするにヒステ
リックにならず、過度にネガティブにならず、死のコトをまっとうに考えてい
かねばならん、っつ〜こっちゃ!
獏迦瀬:精進します……。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/
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////// 連載「マルジナリア」第8回 //////
デタッチメントの哲学
中原紀生
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●古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』が文庫化された。この本
はかつて選書メチエ版で読み、とても興奮したことがある。永井均さんが解説
を書いているので、同日付けで出た『他界からのまなざし』とあわせて速攻で
買った。古東さんの本では『ハイデガー=存在神秘の哲学』も素晴らしかっ
た。そのあまりの濃度に圧倒され序章だけ読んで中断している『〈在る〉こと
の不思議』ともども、しばらく古東さんの骨太の叙述に浸ってみることにし
た。(「骨太の叙述」とは永井さんの言葉。「私の哲学上の仕事は、いわば古
東哲学の内部にあって、その細部を穿り返しては埋めなおすような作業にすぎ
ない」と永井さんは書いている。)
●古東さんは『現代思想としてのギリシア哲学』の第五章で、プラトンがいう
プシューケー(たましい)とは「器官なき身体としての〈ミ〉」のことだと書
いている。ここでいわれる〈ミ〉とは「物体としての身体(肉体)」に対する
「機能しつつある生ける身体(身)」のことで、肉体が外部から観察すること
によって一個の物体のように表象できる身体の認識相であるのに対して、
〈ミ〉は「そもそも、観察し物象化するその眼自身がソコを生き、ソコで可能
になっている前提」である。
そのような、〈今ここ〉に刻一刻と立ち起こるリアルな「生ける身体」の生
起現場に立ち会うことはとんでもなくむつかしい。《ぼくたちの思考や感情
は、すぐに外界へ旅立ってしまうからだ。〈今ここ〉ではない〈いつかどこ
か〉の対象像やカレンダーばかりに、意識は吸い寄せられてしまう構造になっ
ているからだ。だから、文字どおりあまりに「身近」すぎる〈今ここ〉の生き
た身体(ミ)は、クリプトグラム(墓碑銘・暗号記号)と化し、意識作用の欄
外にすぐにその正体を消してしまう。生ける身体(ミ)とは、「空白の身
体」。ぼくたちは、じつはふだんは「身元不明者」というわけだ。》
●ここに出てくる「意識作用の欄外」や「空白の身体」という言葉を目にし
て、私は、この「マルジナリア」の連載を通じて(ほんとうに)取り組みた
かったことがなんだっかにようやく思いあたった。それは一言でいってしまえ
ば「考えているのは私ではない」という思いの実質を記録することだ。
古東さんは、世阿彌の「離見の見」や大杉栄の「自我の棄却」をフッサール
の間主体性(モナド共同体)論や現象学的還元に結びつけるという離れ業を
やってのけた『他界からのまなざし』の第四章で、人間の作為や知的構想をは
るかに越えた場所、つまり「措定的な知性や意志にとって絶対的な外部にとど
まる非知の位相」を「空白」と呼んでいる。そして、人為的な共同体や日常の
コミュニケーションを可能にする超越論的制約として、そのような場所ですで
につねに成立している存在論的コミューン、つまり「人や物が存在するという
事実とともに最初から開かれている「〈形而上学的〉原事実」としての共同
体」のことを「空白の共同体」と呼ぶ。
大雑把な言い方だが、私は古東さんのいう「空白の共同体」を意識作用の欄
外に居住まいする「哲学者たちの共同体」のことだとみなしている。そこには
物質としての私や人称・固有名をもった私はいない。だから考えているのは私
ではないし、書いているのも私ではない。(私は「自動機械」のようなものと
して、そこに在る。)私が引用するのは他者の言葉ではない。それはすでに私
が考えたことであり、私が書くはずだった文章だ。(しかし、そこには何も実
質的なことは書かれていない。)そこに記されているのはただ墓碑銘であり、
暗号記号でしかない。(「クリプトグラム」とは哲学書の別称である。)
●古東さんは、プラトンの哲学書などこの地上に存在しない、プラトン哲学を
理解したければ対話篇の行間に記された痕跡を糸口にして追体験するしかない
と書いている。また、ハイデガーが死の数日前に残した「道。著作ではない」
という「全集編集上の留意」という覚書をめぐって、「これら膨大な全集草稿
は、ある場所へ読者をはこぶ道であって、その場所について直接記述するよう
な著作(思想の所産)ではない」と書いている(『ハイデガー=存在神秘の哲
学』)。
そのような「形式的指標」の言説作法――古東氏いわく「形式的指標とは、
実質ある叙述をさけることで、かえって「現実的なものとの前記号的[前言語
的]な接触」を読者自身がひきおこすことができるよう、しくまれた語り方」
――で書かれた複数の哲学書を同時進行的に読みかじり、前言語的(原比喩的
?)な脳の働きでもって非同一のうちに同一を、非連続のうちに連続を見いだ
したとき、意識作用の欄外、空白(沈黙)の領域で私は興奮する。(存在の感
触とか実在感覚とか、そんな漠とした表現でしかいいあらわせないものが起動
する。)そしてそのことを意識作用をもって記録する。(しかし、そこには実
質的なものは何もない。)
●上野修さんの『スピノザの世界』を読んだ。スピノザの異例・異様な思考世
界をとても手際よく簡潔かつ無味乾燥に(これは悪口ではない)解説してい
る。「『エチカ』のこのあたり[第5部の最後、定理21から42]を読むといつ
も異様な緊張を感じるのだが、きっとそれは、証明している自分自身が証明さ
れているという特異な必然性経験をしてしまうからだろう」とか「このあたり
[同定理32の系]に来ると『エチカ』はいったい何ものが語っているのかわか
らなくなってくる」とか、スピノザ小旅行のガイドブックとしては最高のフ
レーズだと思う。
本書のキモは次の文章のうちに凝縮している。《スピノザの話についていく
ためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却
しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念が
ある、という雰囲気で臨まなければならない。》――考えているのは自然(事
物)であって、私(精神)ではない。
●『本』5月号に上野さんが「スピノザから見える不思議な光景」という短い
文章を書いている。いわく、スピノザは「地球に落ちてきた男」を思わせる。
スピノザは神を非擬人化すると同時に人間を非擬人化している。スピノザの哲
学は(「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ。すな
わち、われわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無
限な思考宇宙の一部分である。われわれに思考があるのにわれわれがその部分
である自然に思考がないとするのは不自然である。われわれの中で事物自身が
事物自身について肯定したり否定したりするようになったとき、われわれの精
神は「自動機械」となって、自分のいる場所(自然)がずっと「神」であった
とわかる。カメラが引いていくと、帰還した地球の故郷が実は惑星ソラリスの
変様部分であるのが判明するあのタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」のラ
ストシーンを思い出す。
●この文章を読んでいると、『現代思想としてのギリシア哲学』の序章「月か
ら落ちてきた眼」を思い出す。古東さんはそこで「エイリアン」すなわち「ク
セノス」(異邦人・異星人・客人)としての哲学者像を描いていた。この哲学
者の「外からの視線」が「他界からのまなざし」であり、そのようなまなざし
をもって、つまりたましいの向け変え(ペリアゴーケー:実存変容)をもって
この世界のありさまを感じ考え生き直すことが古東さんのいう「臨生」であ
る。
ちなみに、装置、機械、技法といった語彙が頻出する『他界からのまなざ
し』は、スピノザの「自動機械」を思わせる。上野さんによると『エチカ』は
「説明の体系」であり「一個の証明機械」である。この「『エチカ』で稼働す
る証明機械、これは『知性改善論』の言っていたあの「霊的自動機械」を思わ
せる」。
●「地球に落ちてきた男」とか「月から落ちてきた眼」とかいわれると、大森
哲学のことを想起する。正確には「大森哲学の感触」を想起する。(そもそも
「大森哲学」なるものはない。そこにあるのは、ただ神秘体験なき神秘主義の
感触で、それは永井均さんの書き物に通じている。)
最近「ことだま論」(『物と心』)と『知の構築とその呪縛』を読んだ。大
森荘蔵の文章に接するたび、その理路に圧倒され、かつその叙述に「無理」を
感じる。言葉や概念が少しずつ「人間的な」意味を剥奪され、言葉以前、概念
以前、古代のギリシャ人が「ピュシス」と呼んだ「とほうもない分からなさ」
(古東哲明)の方へとなだれこんでいく。『知の構築とその呪縛』では「古代
中世の略画的世界観がもっていた、活物自然と人間との一体感」とか、「自然
の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかなら
ないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである」と書かれている
が、そこには「一体感」を感じる私はいない。もちろん私などいなくなっても
いいのだが、人は論理でもってそのような境地には導かれない。
●たとえば『時間と自我』に、過去とは夢物語であり「限りなく無意味に近い
制作物ではあるまいか、こうした恐怖を感じさせる奈落に面しては立ちすくむ
以外にはない」と書いてある。『時間と存在』では、「これまで度々経験した
ことだが、自分で出した奇怪な考え[ここでは「自然科学的世界の空性」とい
う結論]に馴れるのにかなりの年月が必要だろう」と書いてある。
ちなみに池田晶子さんの「埴谷雄高と大森荘蔵」(『魂を考える』)には次
のように書いてあった。《物質は「実在」しない、過去もまた「実在」しな
い、それらは全て、言語によって制作された「存在の意味」なのだ、と落とし
どころに見事に落とす大森の論理の運びは痛快である。分析哲学者ならずと
も、快哉を叫んだ人は多いと思う。けれども、快哉を叫んでいるこの自分は、
すると、いったい「どこ」に立っているのか。足下に開いたでっかい暗い黒い
穴ぼこ、これはいったいなんなんだ、いったいどうしろと言うのだ。(略)研
究会後の飲み会の席で、こっそり尋ねたことがある。先生、率直なところ、ど
のようにお感じなのですか、と。彼は、一瞬の沈黙のあと、いつものきっぱり
とした口調で、こう言った。「ゾッとします」》
●今回の話題はほぼ尽きた。以下は、補遺。――エチエンヌ・ジルソンの『神
と哲学』を読んだ。たかだか四頁ほどのスピノザをめぐる叙述が際立ってい
た。「スピノザの宗教は、哲学だけによって人間の救済に到るにはどうすれば
よいかという問に対する、形而上学的に百パーセント純粋な解答である」。
「スピノザの形而上学的実験は、少なくとも次のような断案の決定的証明と
なったことは確かである。すなわちそれは、およそいかなる宗教的な神であ
れ、その真の名が「在る者」でない神は単なる神話にすぎないということであ
る」。
ちなみに「キリスト教の神を見失った世界が、この神を見いだす以前の世界
[タレスやプラトンの世界]に似てくるのは、やむをえないことである」とい
うジルソンの指摘は、というより『神と哲学』の第一章そのものが『現代思想
としてのギリシア哲学』と響きあっている。
●補遺、その二。ダマシオが『スピノザを求めて――喜び、悲しみ、感じる
脳』という本を書いているらしい。『現代思想』2月号に掲載された桜井直文
さんの「身体がなければ精神もない」によると、「かれ[ダマシオ]の求めて
いるスピノザはそこにはおそらくいない」。
その三。ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』を読んでいる。意識は生
物学的進化によって生まれたのではない。それは言語に基づいている。意識は
幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二分心」
(bicameral mind)の精神構造の衰弱とともに、ほぼ三千年前に誕生した。こ
の仮説は、古代ギリシャ哲学が「神の死」の後の精神状況(死んだ神にかわる
新しい至高性の希求)から生まれたとする古東さんの議論とつながる。『知の
構築とその呪縛』に出てくる「略画的世界観」から「密画的世界観」への転換
の議論とも響きあっている。
その四。茂木健一郎さんが『中央公論』6月号に「なぜナショナリズムは相
互理解されないか」という文章を寄せている。茂木さんはそこで「科学のすば
らしさは、対象に対して認知的距離(ディタッチメント)をもって接すること
ができる点にこそある」と書いている。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
「聞いて!パレスチナの子どもとお母さんのことを」
●来日報告 アブラ・マフルーンさん●
(パレスチナ ジェニン幼児教育センター所長、女性)
★東京★ 6月19日(日)14:00〜17:00
会場:総評会館 千代田区神田駿河台3-2-11
JR御茶ノ水駅5分、都営新宿線小川町駅3分、
千代田線新御茶ノ水駅B3出口すぐ
地図:(以下のURLを参照ください)
http://www.sohyokaikan.or.jp/access/index.html
★大阪★ 6月25日(土)14:00〜16:30
会場:大阪市立こども文化センター
西区北堀江4-2-9
地下鉄千日前線・長堀鶴見緑地線 西長堀駅7号出口すぐ
●参加費:両会場とも800円(会員・学生500円)
●保育はありませんが子ども連れ歓迎
●ぜひ、パレスチナからの直接の声を聞きにきてください。
●お友達や知人にご紹介ください。
軍事占領下にあって、パレスチナの人々の日常は大変に厳しいものがありま
す。外出禁止令、検問、隔離壁、爆撃と破壊、生活の厳しさ……。そうした中
でお母さんと子どもはどのように過ごし、何を感じているのでしょうか。
またどんな問題を抱え、それをどうやって解決しようとしているのでしょう
か? パレスチナと日本では、子育てはどれだけ違うのでしょうか?
パレスチナにジェニンという小さな街があります。憶えている方は多いと思
いますが3年前、大規模な軍事侵攻によって多くの人が犠牲になり、難民キャ
ンプは 破壊されました。子どもたちも大人も肉体的精神的な傷を負っていま
す。
このジェニンに、幼児教育を専門にしている「ジェニン幼児教育センター」
というNGOがあります。元々は幼稚園の先生のトレーニングや教材作りなど
の活動を行ってきましたが、2002年以降は私たち「パレスチナ子どものキャン
ペーン」と一緒にお母さんと子どもたちにカウンセリングやワークショップ、
リクリエーションなどを提供し、子どもたちの健やかな成長を広範に支援して
います。
●主催・連絡先●
特定非営利活動法人パレスチナ子どものキャンペーン
Tel:03-3953-1393 Fax:03-3953-1394
Email: ccp@bd.mbn.or.jp
HP:http://www32.ocn.ne.jp/~ccp/
----------------------------------------------------------------------
★第56回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年06月19日(日)午後2時より5時まで。
■テキスト::パスカル『パンセ』中公文庫他
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(編集後記)■----------------------------------------
★本誌は今号で50号を迎えました。別冊3号分を加えると、通巻53号の刊行と
なりますが、ここまで継続できたのは、ひとえに寄稿者の方々の尽力によるも
のです。改めてこの場を借りてお礼申し上げます。
★50号は年数にすると7年間あまりですが、この年数は私のPC歴とほぼ一致し
ています。当時は「メールマガジン」草創期で、その新しい媒体に魅せられて
創刊したという次第です。
★創刊の辞では、「<メール文化>は、電話と手紙を統合して進化した文化と
いってよいだろう。両方の長所を併せ持ち、その手軽さは抜群である。しかし
この手軽さと<メール通信>の内容の密度が如何に拮抗し得るかは、これから
の<課題>としたい!」と書いていますが、読書のみなさまの評価は如何で
しょうか。
★昨今は、メルマガに代わってブログが花盛りです。本誌も47号よりウェブ版
と並行してブログ版を立ち上げていますが、いまひとつ読者の反応が見えな
い。ぜひコメントをお願いします。(黒猫房主)
●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』50号(通巻53号)(2005/07/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
E-mailル:「YIJ00302」を「@nifty.com」の前に付けて下さい。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
■流通協力:「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/(ID 0000015503)
■流通協力:「Macky!」http://macky.nifty.com(ID 2269)
■流通協力:「メルマガ天国」http://melten.com/(ID 16970)
■流通協力:「カプライト」http://kapu.biglobe.ne.jp/(ID 8879)
■ Copyright(C), 1998-2005 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●
■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。
="051">
>TOP
■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。
◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』51号(文月号)
(2005/07/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[52号は、2005/08/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「映画館の日々」第8回:イーストウッドはフェミニストです(か)
――『ミリオンダラー・ベイビー』の場合---------------------鈴木 薫
◆連載「文学のはざま2」第1回:村上龍はまだわからない――最新作『半島
を出よ』を傑作にする現実的条件------------------------------村田 豪
◆INFORMATION:第57回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺---------------------------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
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////// 連載「映画館の日々」第8回 //////
イーストウッドはフェミニストです(か)
――『ミリオンダラー・ベイビー』の場合
鈴木 薫
/////////////////////////////////////////////////////////////////////
たとえば先日、上野の東京都美術館で「アール・デコ展」の展示として見た
マン・レイの写真《黒と白》(1925年)――目を閉じてテーブルの上に頬を乗
せた白人女性の美しい顏と、手で支えられたアフリカの黒い仮面の不意の出会
いは、美が中立的ではないことをあざやかに告げていた。 八十年後の私たち
の目に、マン・レイの浸っていたイデオロギーは黒と白の対比のようにはっき
りと見てとれる。はたして写真の傍には、モデルになった「キキの顏と歴史か
ら切り離されたアフリカのオブジェ」は、いずれも「アール・デコの特質に通
ずる整ったフォルムと滑らかな質感を持って」おり、「神秘の幻想と支配の欲
望をかきたてる美的な対象として、白人男性の眼差にさしむけられる」という
ゆきとどいた解説が添えられていた。アフリカの仮面がそれを産み出した歴史
から切り離されたように、照明を当てられ白さを強調された女の顏は身体の他
の部分から切り離されて、装飾的な見せ物と化しているのだ。
女の身体の部分化/対象化/見せ物化と、それが/にさしむけられる男の眼
差しという構図は、マン・レイのもう一枚の展示作品《電力》(原題は
《Electricite》)にもいちじるしい。その名のとおり電力会社に依頼された
広告写真(1931年)は、顏も手足もない女のトルソに放電が重ね焼きされたも
ので、こちらには、「ここでは女性の身体に対する眼差が、電気の光や輝きと
いったものに対する魅惑と重ね合わされている」との解説があった。電気を
放っているのは女の裸体かそれとも男の眼差しのほうなのか、あるいは男の眼
差しこそが女の身体をそのように輝かせるのか、この文からはいささかはっき
りしないけれど、要するに〈女の裸にビビビビビ!〉とでもいうべきコンセプ
トの具現化なわけで……これを今、東京電力が広告に使うことは――使ったら
面白いけど!――考えられない。
私がここから連想したのは、東京電力ではなく東京ガスの、昔――80年代く
らい?――のTVコマーシャルで、そこでは、家庭用ガス器具の導入によって
女の生活が便利になったことが、画面に登場する二人の女たちの一人によっ
て、「お義兄[にい]さん、優しいのねえ」という台詞で表現されていた。そ
こは夫の温情によって最新ガス器具が備えつけられた家だったのだ。最後に、
男のオフの声できわめつけのコピーが流れる。
東京ガスはフェミニストです
「フェミニスト」という語がマジョリティにとって女に優しい男、女に甘い男
を意味したのはさほど昔のことではない。(昨日生まれたガキばかりか、いい
年をした者までが、記憶喪失に陥って、何やら「フェミニスト」たちが唾棄す
べき(ないしは嗤うべき)危険思想をふりまいているようなアジテーションに
加担する今日、こうした用例が「茶の間」に流れていた歴史を想起するのは意
味のないことではあるまい。)画面にけっして現われることのない夫が、彼女
たちの(家事)労働を「優しく」軽減させている。東京ガスはそう告げていた
(思えば、『プロジェクトX』の、嫁ぎ先の家族全員の洗濯物を手洗いする妻
のため、電気洗濯機を開発する「フェミニスト」の夫たちという発想は、ここ
から一ミリも出ていないのだった)。不在の「主人」の、柔らかな、だが絶対
的な支配。そこには、マン・レイの上記の写真同様、目に見えないが遍在する
「男の眼差し」が前提とされている。
以上を枕に、クリント・イーストウッドの新作『ミリオンダラー・ベイ
ビー』を、拙稿「ホモソ−シャリティの廃墟へ――クリント・イーストウッド
論のために」(「カルチャー・レヴュー」39号と41号に掲載
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html)に、以下、簡単に接続さ
せてみたい(というのも、今回の作品は正しくその延長上にあるからだ)。
前作『ミスティック・リバー』では監督に徹しスクリーンに姿を見せること
のなかったイーストウッドは、この映画で再び私たちの前に戻ってきた。しか
し、拙稿でも指摘したように、イーストウッドはここまでにいくつかの問題を
抱えている。
(1)ホモソ−シャリティの破綻――今度の映画の相棒はまず間違いなく女だ
ろうとは、容易に想像のついたことだ。〈年少者に対する教育〉という点で言
えば、教えを受ける者が女性であるため、ホモソーシャルなパイデラスティア
的師弟関係は回避される。それにしてもボクサーを女にして彼自身はそのト
レーナーとはまたベタな! しかしそう知ったあとでは、口実としての紋切型
を彼がどう料理するか楽しみだった(蛇足ながら、期待は裏切られなかっ
た)。
(2)しかしこの設定の場合当然予想される教え子との恋愛という展開は、
イーストウッドの年齢の問題と衝突する。事実、ついにヒロインの恋人役をや
るには年を取り過ぎてしまったイーストウッドは、ここでは父と娘という設定
を利用する。言うまでもなく、自らの娘たちをも画面に出しながらこれまでも
扱ってきたテーマではあるが、これについては後述したい。
(3)〈女たちに支えられ〉るイーストウッド、ひいてはイーストウッドの
〈女性化〉という点については、ここでは一つの極限に達していると考えられ
る(ただし、主要女性登場人物がヒラリー・スワンクひとりである『ミリオン
ダラー』において「女たち」というのは正しくあるまい)。女(たち)に支え
られていることが〈「イーストウッド」の機能不全と解体の徴候でもある〉と
は前稿で指摘したことだが、『ミリオンダラー』においても、かかる機能不全
(もはやここには、それを倒すことで正義を貫徹できるような単純な相手は存
在しない)の進行は覆うべくもない。
イーストウッドは最初女のボクサーは取らないといってヒラリー・スワンク
を拒むが、それは、女にはボクシングが生物学的に無理とか、向かないとか
いった類の理由からではない。女のボクシングが社会的には見せ物(フリーク
・ショウと彼は言う)にしかなりえないことが、ボクサーになっても男なみの
選手にはなりえず、所詮女というジェンダーにしかとどまりえないことがわ
かっているからだ。女を取るところへ行ってくれと彼はスワンクに言うが、そ
れは、そうした見せ物的興業をよしとするトレーナーだ。
物語はモーガン・フリーマンの回想として語られる。遍在する「男の眼差
し」は、ここでは「白人男性」ならざる(男性ではあるが白人ではない)彼の
ものなのだ。全知の語り手として彼は語るが、しかし、正義の味方であった頃
のイーストウッドのように、出来事に影響を及ぼしうるわけではない。いや、
一つ、イーストウッドの使い古しのボール・バッグ――吊しておいて殴ると
ビュンビュン跳ね返ってくる巾着型で小型のサンドバッグ――をスワンクに与
えるという、重要な行為が彼にゆだねられていた。
ヒラリー・スワンクはジェンダーを逸脱する女である。一度は断わられなが
らも、イーストウッドのボール・バッグでトレーニングを続ける彼女は、女の
ボクサーになろうとしているのではない。彼女は、クリント・イーストウッド
になろうとしているのだ(このことはなかなか気づかれまい。最後に至って、
そのことが成就してさえも、ほとんど気づかれないだろう。なぜなら彼女は、
『ザ・シークレット・サービス』や『ブラッドワーク』でのイーストウッドの
それぞれの分身同様、似ても似つかぬ分身であるのだから)。
彼女がボクサーになろうとする動機としては、貧困から這い上がろうとする
ハングリー精神が挙げられている。十三のときからウェイトレスをやってきた
のよ。あたかもこの台詞ですべてが説明されてしまうかのように。しかし彼女
は、十七八の小娘というわけではない。三十を過ぎていながら、恋愛について
はひとことも語られない。彼女の過去の男は話にも出ない。主人公を男から女
に変えておきながらのこの事態には、娯楽映画としてはどこか尋常でないとこ
ろがある。
父娘関係というのはわかりやすい。わかりやすいから前面に出ている(そし
て観客をそこで判断停止させる)。イーストウッドは娘に拒否された父であ
る。詳しい事情は語られずじまいだが、娘への手紙が一度も開封されることな
く送り返されるのをトランクにコレクションしている父親だ。一方で、スワン
クの優しかった父親の思い出が語られ、駐車中の車の中からたまたま見えた、
別の車の中の幼い娘と犬の姿に彼女はほほえむ。彼女が遠い日の自らと飼犬の
姿を重ね合わせる女の子の、台詞がひとつきりの愛らしい姿は、それをイース
トウッドの一番年下の娘であると知らなくてさえ、観客の心をなごませよう。
ジェシカ・ベンジャミンの『愛の拘束』によれば、フロイトによって唱えら
れた悪名高いペニス羨望とは、父に同一化し、父のようになりたいと願う娘に
対する、父からの阻止された同一性のしるしである。彼女は〈父〉に同一化し
ようとし、そして〈男の子〉たりえぬ自分に絶望して〈女〉になる(男だった
ら後継ぎにしたのに――女に生まれた不運を父親からそう嘆かれ、才能を惜し
まれた娘は大勢いるに違いない)。だが、スワンクは拒否されない。彼女は
〈父〉に“my fighter”と呼ばれるようになる。(イーストウッドが、一度は
手放した先のトレーナーから彼女を取り戻すとき、そうスワンクを呼ぶ。)
イーストウッドが男のボクサーを育てたのなら、それは彼の後継ぎであるこ
とが誰の目にも明らかであったろう(そうした映画も彼は作ってきた)。『ミ
リオンダラー・ベイビー』では、このことは人知れず、だが、大胆に示され
る。後半でスワンクを見舞う運命は、栄光のあとの悲劇がこれだけ宣伝される
中では、予想しないでいる方が難しい。私が目を見張ったのは、監督・イース
トウッドが彼女の脚を切断したことである。床擦れで四肢の切断にまで至るな
どというのはおよそありそうにないことだが、そういう荒唐無稽な設定までし
て、イーストウッドはかつての、ドン・シーゲルと組んだ主演作での自らの運
命と、この映画でのスワンクの外形的な運命を一致させた。それによって女性
からの同一化を全面的に受け入れたのだ。
この悲劇的属性によって、この女が彼自身(を継ぐ者)であることは、今や
はっきりと観客に示される。だが、横たわる彼女の衰弱ぶりはすでにその死を
確信させるものだ。本来なら父が先立つはずであり、死にゆく父を娘が看取る
はずであったものを――。人工呼吸器をたんに外すという事故に紛う行為では
ない、はっきりととどめを刺すやり方でイーストウッドは彼女を殺す。だが、
この犯罪は罰せられない。彼に対して逮捕状が出されたとも、捜査が継続され
ているとも、彼が逃亡犯として追われているとも、語られることはない。彼は
消えた、見つからない、とフリーマンは言う。彼が裁きを受けないのは、彼が
正義を執行する者だからだろうか? スワンクにとって生殺与奪の権利を持つ
神に等しいからだろうか?
確かに彼はいくつもの映画の中で、女にとって神に等しい存在であり、多く
の映画の中で絶対的な正義の執行者でもあった。しかし、彼が現実的な罪をな
んら追求されないのは、ここでは彼は自分自身を殺したのであり、その瞬間か
らすでに死んでいるからだ。スワンクの悲劇的な死に観客の目を惹きつけてお
き、その間に彼自身はひっそりと退場したのだ。アカデミー賞の栄誉さえ、自
らを継ぐ者に譲って。
病院の廊下をまっすぐ進み、突き当たりのドアから去ったイーストウッドの
後ろ姿が、今になって、『ぺイル・ライダー』の「牧師」が寒々とした雪の山
へあたかも死へ向かうように向かった馬上の後ろ姿に重なる。病院のドアから
彼が出てゆくとき、誰もそれが彼を見る最後だとは思わなかったはずだ。彼の
罪が追求されることがないとは思わなかったはずだ。イーストウッドはこのよ
うにして、一見それとわからぬやり方で、すでに私たちから消え去る準備を、
ひそかに――いや、大っぴらに――ととのえているのだろうか?
彼は消えたとフリーマンは言う。しかし私たちは信じない。
「どうして、バーユー将軍が、雲だけ食つた筈はない。おれはバーユー将軍
の、からだをよくみて知つてゐる。肺と胃の腑は同じでない。きつとどこかの
林の中に、お骨があるにちがひない。」なるほどさうかもしれないと思つた人
もたくさんあつた。(宮澤賢治『北守将軍と三人兄弟の医者』)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)この原稿が終ったら、6月13日を最後にストップしている
ブログを再開します。http://kaoruSZ.exblog.jp/
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////// 連載「文学のはざま2」第1回 //////
村上龍はまだわからない
――最新作『半島を出よ』を傑作にする現実的条件
村田 豪
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私はこの原稿を広島風お好み焼きの店「ヤバタ」で書き始めている。
広島には出張できているわけだが、昼は岡山・倉敷・東広島などの仕事のた
めの訪問先を緊密なスケジュールで走り回って、広島に着いた夜にはヘトヘト
に消耗しきっていた。だから、カリッと私の好みに焼き上げてくれる「ヤバ
タ」の広島焼きをあてにビールでも飲んで、一日の疲れをいやそうと思ってい
たのだ。
「ヤバタ」は広島の繁華街、紙屋町の商店街から少し南に歩いたあたりにあ
る。観光客向けに数十店舗が入っているお好み焼きビルもそこから近いが、結
局「ヤバタ」よりおいしいところが見つからなかったので、出張の折りにはた
いていこの店に来るようになった。
店内は、カウンターとテーブル二つに、申し訳程度の座敷があるだけで、せ
いぜい5、6坪しかないような小さな店だが、いつもやたらに繁盛しているの
は、おそらく地元の人々にも愛されている証拠だろう。今日もサラリーマンや
OLですでに満席状態だった。常連らしき年輩のおっちゃんが狭いカウンター
を詰めてくれて、ようやく腰をおろすことができた。
「肉玉そば入り」が焼き上がるまで、冷や奴などでちびちびビールを飲んで
いると、すぐ背中のテーブル席にいるサラリーマン4人組の会話に引っかかり
だした。というか、不意に後頭部と背中がざわめき、不愉快を呼び覚まされる
のではないか、という嫌な予感がしたのだ。
「あいつらが口出しすることじゃないけんね」
断っておくが、方言であることは、もちろんここでは一切関係がない。何か
こういう口ぶりに、ただ不穏な空気をかぎ取ってしまうのである。聞くまいと
聞くまいと思いはするものの、こんな狭い店で、しかも自分の真後ろで話され
てしまうので逃れようがない。そして不安はどうやら的中したようだ。彼らは
昨日(6月20日)、小泉純一郎日本国首相が訪韓し、ノムヒョン韓国大統領と
会談した内容について話題にしていたのだった。
「お国のために死んだ人を敬うのは当たり前じゃろ」ある一人がそう口にし
た。会談では、ノムヒョンを代表とする韓国側が、小泉による靖国神社参拝を
厳しく批判し、日本側に強く参拝中止を要求したのだったが、それにたいしこ
の広島のサラリーマンは反感を抱いているらしい。話を受けた者たちも、相応
にうなずくような雰囲気だった。そればかりか、話題はすぐにもほしいままに
流れだし、しばらく前の中国での「反日デモ」や北朝鮮の「拉致問題」にそれ
ぞれが簡単に言及しては、「あいつらはみんな野蛮じゃけぇ」などと言い放
ち、ついには「やっぱりわしら日本人でよかったのぅ」というところで、わは
はと大いに盛り上がるのだった。
何ということだろう!寡黙な「ヤバタ」のおやじが額に汗して、目の前で私
の広島焼きを、今まさに焼き上げんとしているときに、こんな浅ましくも恥知
らずな会話を聞かされることになろうとは!焦げたソースのにおいが小さい煙
とともに立ち上がり、私のお好み焼きがおやじの大きなこてで軽快に切られて
いく、このうるわしいはずの瞬間が、薄ら寒いことばによって突如として凍り
つき、どんよりと気の重い時間にかえられてしまうとは!
できれば、こんなアクシデントはなかったことにして、店にはいるところか
らやり直したかった。そんな人たちは目にもつかず、一日の仕事を振り返り、
あれは成功した、あれは失敗したなどとお為ごかしの反省などしながら、焼き
たての広島焼きを冷たいビールとともにひたすら堪能したかった。別の土地に
来たときの少々浮かれた気分の中で、キャベツのサクサク感とそばのもちもち
感と卵のふわっと感と表面の焼き上がったカリッと感を、一気にほおばり尽く
すはずだったのに……。
しかし、皿に盛られた目当てのお好み焼きが、実際に出てきたとき、私はそ
ういう未練を断ち切るしかないと思っていた。私は私の広島焼きを見つめなが
ら、もうそれは理想的なうまさを失ってしまっていることを認めざるを得なく
なっていた。この不愉快さの原因である連中について、さらに不愉快を承知で
何ごとかを考えるしかなくなっているからだ(ここで私は、この村上龍論を書
くための原稿ノートを取り出したのである)。
一ついいたいのは、韓国側の抗議にたいし小泉を筆頭とする日本国家は、曖
昧な物言いで相手と自分とをともにごまかし、問題に向き合うことができない
でいたことだ。もし日本国に何か利害の意識があり、問題に対処しようという
つもりがあるなら、両国間の障害になっている自分の言動こそを分析しなけれ
ばならなかっただろう。にもかかわらず、靖国参拝の意図を「二度と戦争を繰
り返してはならないという不戦の誓い」だとするような、従来通りの欺瞞まる
だしの説明しか用意せずにすませたのだ。
私は日本国政府の誰が究極的にアホなのかを、残念ながら示しえない。こう
した重要な政治的決定を、現在の権力中枢の要人たちがどのような力関係とど
のようなプロセスによって下しているのか詳しくわからないからである。とり
あえずここでは小泉であるとしておこう。では小泉のどこがアホなのか。
韓国側は、靖国神社は「日本の戦争遂行の精神的象徴」であると指摘して、
それを国家の長が参拝するなどあってはならない、と怒っているのである。事
実、靖国神社に「祀られ」ているのは、他国を侵略し、その土地や財産を収奪
し、その人民を殺戮する過程で死んだ軍人軍属であり、靖国はその行為を讃え
る施設だったのである。だから、たとえ日本人民をだますために「不戦の誓
い」というレトリックを思いつき、国内でそう言いつのることができたとして
も、韓国にそれが通用しないのは、はじめからわかっていたことではないか。
ところが、小泉以下日本国為政者は、そんな見かけとは正反対のウソを平然と
相手にぶつけたのだ。それがより問題を悪化させこそすれ事態を打開すること
などありえない、ということが、どうもわかっていなかったかのようなのだ。
不真面目あるいはシニカルな人たちは、二つの点で私のとらえ方に反論する
かもしれない。まず、「韓国がどう受け止めようが、これは日本の国内問題
だ」というものである。こういう内政干渉論的主張は、最近の右派メディアで
は顕著なものであろう。だから後ろのサラリーマンも「あいつらが口出しする
ことじゃないけんね」と放言できたようだ。しかしこの手の言い方が、社会で
は口にすると恥ずかしい赤ちゃん言葉みたいなものだと、人は早々に気づくべ
きである。
かりに韓国が「口出ししている」として、しかし相手はその理由を明示し、
正当なかたちで抗議しているのである。普通の大人なら、問題となっているこ
とを理解・分析したうえで、どうするか判断するのが当たり前で、その上で反
論したり、譲歩したりするしかない。それなのに何かを考えた様子もなく、
「口出ちはやめてほちいでちゅ」と意味不明にわめいているようでは、相手も
ただあぜんとするしかないだろう。しかも小泉は、関係改善のための交渉と称
して自分のほうが出向いてきたのだから、こんな態度では何をしに来たのかわ
からず、相手から「気が狂っている」と受け取られても仕方がない。
もう少しこの事態について知識がある人は、会談では「新しい追悼施設建設
を検討する」ことにしたのだから、政治的な交渉としてはまともだったのでは
ないか、という反論を思いつくかも知れない。しかしこの点においても、小泉
たちのデタラメさは覆いがたく、交渉を台無しにしたようだ。つまり靖国神社
と新しい追悼施設はあらゆる意味で両立しえないことは、世界中の誰もが知っ
ていて、小泉自身にだって明らかなことであり、だからノムヒョンが会見の場
であるにもかかわらず異例なかたちで「約束」という言葉を迫ったのは、要す
るに、「靖国」か「新しい追悼施設」か二者択一しかないとお説教されたので
ある。
小泉たちはおそらくこれにはビックリしただろう。というのは、靖国参拝を
やめないためにこそ、ごまかしとして追悼施設建設を言ってみただけなのに、
その見え透いた魂胆を堂々と世界のメディアの前でさらされ、釘を刺されたか
らだ。そして、小泉本人はというと、日本では「何が悪いの」と悪辣な開き直
りの上で、やりたい放題・言いたい放題を続けていながら、韓国での共同会見
では、信念であるはずの「靖国」の「ヤ」の字も口にできなかったのである。
国家首脳としても、考えうる限りの無能ぶりであろう。
さて、少し断っておきたいのは、私がこんなふうに小泉他日本国為政者の、
アホさ加減・目を覆いたくなる稚拙さ・驚くべき無能ぶりをやり玉にあげるか
らといって、ただ単に彼らをボロクソにやっつけて、溜飲を下げようとしてい
るのではない、ということである。さっき不愉快に襲われた私の気分が、これ
で晴れるわけではない。小泉たちのウソ・欺瞞・勘違いを指摘しても、それが
改善される見込みは今のところかなり少ない点では、引き続き暗い気持ちにな
らざるをえないからだ。実際、これを書きながら食べている広島焼きも、本来
の素晴らしいうまさを取り戻してはいない。
また「靖国問題」についても、私は参拝どころかその存在を肯定するあらゆ
る意見に反対だが、その理由と根拠を示すには、複雑で仔細な議論と検討を必
要とするだろうから、勉強も足りないことだし、ここではこれ以上書けない。
とりあえずここで言いたいのは、アホはやめよう、ということだ。もちろん
アホのふりもやっぱりいけない。それでもやはりアホであるしかないなら、せ
めて自分たちがいかにアホであるかに気づいていく努力が必要だと、それだけ
が言いたいのである。そうでないうちは、村上龍の最新作『半島を出よ』は、
日本の社会にたいし積極的な価値を持ち続け、いわば傑作と見なすほかないだ
ろう(どうやらようやく本題にたどり着いたが、「ヤバタ」で書くのは時間切
れだ)。
さて、あらためて村上龍の小説について説明しよう。どうして日本国家や日
本国民がアホなままである限りは、『半島を出よ』は傑作だ、といえるのか。
作品評価としては、こういうのはかなりアクロバティックな言い方だと思う
が、「ヤバタ」でサラリーマンの発言を耳にして、日韓首脳会談での小泉たち
の破廉恥きわまる振る舞いを考察しているうちに、そのことがひらめいたの
だ。
まず小説を読んでいない人のために、『半島を出よ』の物語を大ざっぱにま
とめてみよう。舞台は、円の大暴落で経済が破綻し、大不況によって失業者・
ホームレスが街にあふれ、アメリカから離反されることで国際的にも孤立し始
めたとされる2011年の日本である。この日本の苦境につけこんで、北朝鮮が特
殊部隊を使って巧妙な軍事侵攻を企てる、というのが話の発端だ。
北朝鮮の「反乱軍」と称する武装した精鋭のコマンドたちが海を渡って潜入
し、9人でまず福岡ドームを占拠。混乱に乗じて間髪を入れず500名ほどの特
殊部隊が来襲して、一気に福岡中心部を占領してしまうのだ。そしてついには
日本から福岡独立を宣言させるのだが、その間日本政府は、福岡市民多数がい
わば人質にされていることもあって、自衛隊に軍事攻撃をさせるわけにもいか
ず、また政治交渉もできないという、ジレンマに陥る。むしろ首都東京にテロ
がおよぶことを警戒して、事態の打開という難問から逃れるかのように、自ら
福岡・九州へのルートを封鎖してしまうのだ。
このように物語が展開するのなかで、日本国家・政府の要人たちは、作者に
よってことごとく批判的に描かれることになる。目の前の危機にただ場当たり
的な対応をするばかりで、優先事項を見極められず、その判断の甘さ、決断力
のなさが繰り返し露呈してしまうからだ。
例えば、ある閣僚が、対テロ作戦用に訓練された特殊部隊SATの派遣を、
ほとんど思いつきで指令するのだが、結果として状況を無視したかたちで投入
され、北朝鮮兵士と銃撃戦となり、福岡市民何十人を巻き添えにしてしまう事
件が起こる。そんな致命的な作戦失敗を犯しながら、政府要人は誰一人責任を
取ろうしない。それが一般市民の不信をつのらせ、事態はより深刻化するの
だった。
そもそも、数年来の経済破綻と国際的地位の大失墜も、このような政府首脳
の判断力のなさ、リスク管理の意識の低さ、政治的手腕のなさが招いたものと
説明されている。そのような国家運営者をいただいた国が、目的のためなら人
命がいくら失われようが、手段方法をえらばない北朝鮮特殊部隊反乱軍「高麗
遠征軍」に勝てるはずがないではないか、作品は、陰に陽にそういうメッセー
ジを読者に迫ることになっている。
さてここでもう一度お断りしておくが、私は決してこのような作品内の政府
批判や日本人批判にリアリティを感じて、溜飲をおろしているわけではない。
むしろ多数の評者が指摘するように、村上の作品に盛り込まれた政治・経済ネ
タは、ジャーナリズム的な紋切り型に近く、必ずしも説得力を醸しだすような
深みがあるとは言えないところがある。
斎藤美奈子はつとに、村上のそのいわば小説の名を借りた「ニュース解説」
を、批評家などが真に受けてありがたがる、その単純さを指摘している(『文
壇アイドル論』)。また福田和也はからは、旧作から繰り返されている「経済
的に破綻した日本を舞台に日本人のダメさを描くという構図」には、「スト
レートに日本人にたいする軽蔑が露呈」していて、そこに認められる「自分は
賢い」という優越感は、実は「救い難い劣等感の裏返し」ではないか、との批
判もあるようだ(『週刊新潮』6月9日号)。
しかし先ほども見たように、現実の政治言説がとち狂ったのかと思うほどの
バカさ加減である状況で、「作品が描く現実はずいぶん紋切り型だ」とは、何
を根拠に言いうるのだろうか。「作品は紋切り型だ」と批判するとき、現実は
もっと複雑・巧緻・精妙だということを前提にしているわけだが、しかしそん
なものがこの現実のどこにあるというのだろうか。
また福田がいうような「ストレートに日本人にたいする軽蔑」がかりに村上
龍にあるとして、しかしそんな指摘に意味があるだろうか。この作品を好んで
読む読者に「救いがたい劣等感の裏返し」があるとして、しかしそのことに関
係なく、ただ小泉および日本人民のアホは、現実的にアホのままではないか。
要するに村上龍は、作家としての能力の最大限を投入して日本のダメさを描
いた。そしてそれがよく描けているのか、下手くそなのかにはまったく関係な
く、現実の日本はおぞましいほどアホである。そうすると『半島を出よ』にた
いして、作品の出来映えにもとづいてそのリアリティを評価・批判しようとす
る作品論は、どこか空回りしてしまうことに気づかずにはいられないだろう。
作品内の現実をほめようと批判しようと、それが上手く描けようが下手であろ
うが、変わらず現実は悲惨なのだから。
ある意味では、現実にたいして作品が屹立する仕方が独特であるからこそ、
評者・読者は、延々と終わることなく村上龍の作品に言及し、論じ続けられる
のかもしれない。村上は、自分が描く現実と作品の反映関係にはたいして興味
がないかのように、その作品外にこそ現実があることを指し示そうとするが、
当の作品には、他の誰の作品よりもとびっきり「生々しく」日本の現実が描か
れているように見えるのだ。以上が、村上龍作『半島を出よ』を傑作に位置づ
けている現実的条件である。
一応これが結論だ。でも、これでは作品の中身を評価していることになって
いないと、単純に不満を言われるかもしれない。私も、現実にたいして結果空
回りになろうが、作品に独自に備わるリアリティを問う真摯な批評があってい
いと思うし、それを軽視するつもりではない。ただ今回は、そんな村上作品を
受容するときに生じる、ある「両極端」を回避したかったのだ。
このことを説明するのに少々思い出話をしよう。実は、もともと私は村上龍
にたいして強い偏見を抱いていた。デビュー作の『限りなく透明に近いブ
ルー』と『コインロッカー・ベイビーズ』を読んだのは高校生の頃、80年代半
ばだが、前者は「感性的」な表現にたいする作者の短絡性が目につき、後者は
工夫のないお決まりの言葉で文をつないで、話を進めただけのような小説だと
思ったら、解説で三浦雅士が「まるで映画の名場面」などと評価しているのに
ずっこけたことを憶えている。要するに私は村上龍を「下手くそ」だと感じて
いたのだ。
もう一つの別の偏見もあった。ちょうど同じ高校生の頃、ある種の秘め事と
してドキドキしながら本屋でエッチな雑誌を買ったら、そこで村上龍がエッセ
イを連載していたのだ。『ザ・ベストMAGAZINE』というヌードグラビアがふん
だんに盛り込りこまれた男性誌だったので、一流の作家がこんなところで商売
しているのかと驚いた(ちなみに今も連載しているんではないだろうか)。の
ちに『すべての男は消耗品である』というタイトルでまとめられる最初期のも
のが載っていたのだが、「女は戦利品だ」とか「ブスでもやらせてくれるなら
いい」とか、とてもひどいことが書かれていると感じたのだった。こんな性差
別主義者だったとは知らなかった、と一気に幻滅したように思う(そしてなん
だかエッチな気分まで萎えてしまった)。
評価をやや訂正するきっかけになったのは、さらに10年ぐらいして『トパー
ズ』や『エクスタシー』そしてなんといっても『KYOKO』を読んでからだ。い
つの間にか以前よりも上手くなったのでは、とそう素直に思えるのだった。
『KYOKO』では不覚にも主人公に感情移入してしまい泣いてしまうほどであっ
た(残念ながら高岡早紀主演の映画は見ていない)。『五分後の世界』も充実
した読了感をえることができた。
しかし、この私の両極端な反応は、実は私が変化しただけなのか、村上龍が
変わったのかわかりにくいところがある。とりあえず、以前のように毛嫌いす
ることはなくなったのだが、しかし必ずしもつねに村上作品を素晴らしいと思
うわけではない。これを多くの人は、作品の善し悪しや好みの問題として片づ
けているように思う。そういうしかないのかもしれないが、私には若干考察を
必要とするように思えるのだ。
例えば、多くの人は『KYOKO』で村上龍が上手くなったなど絶対に認めない
だろう。『ブルー』が下手だったというのも、容認できないかもしれない。
『昭和歌謡大全』は好きだが、『ラブ&ポップ』は最低、という人もいるだろ
うが、しかしそれは作品の優劣によるのだろうか。また『イン・ザ・ミソスー
プ』や『共生虫』も書かれた当時の事件や社会問題とつなげて読まれたわけだ
が、話題になって売れたとして、はたして小説作品としての出来はどういえる
のか。また『希望の国のエクソダス』が味わい深いなどというと、ただの政治
経済の「お勉強小説」だという批判があるかもしれない。
何が言いたいのかというと、村上龍の作品は受容のされ方が、社会問題や特
異な事件を通じた時代的状況論的に読まれるか、ある種のセンス・文体の強度
・美意識・文学趣味性で読まれるかが、完全に両極端に分かれてしまうよう
に、まずは見える。しかしながら、よく調べてみると、その区分がどこにある
のかは、必ずしも明瞭でないということなのだ。
例えば『トパーズ』も『KYOKO』も『ラブ&ポップ』も女性を主人公にして
いる。おそらく普通は『トパーズ』が一番文学的・美的と見なされるだろう。
しかし作者にとっては『トパーズ』も、社会的マイナーであったSM風俗嬢に
焦点化することで、当時の現代的問題性として捉えようとしていたことは明ら
かだ。『ラブ&ポップ』は、最初から「援助交際」という社会現象の文脈で読
まれただろうが、しかし女子高生の言葉づかい、ブランドの羅列など、文体論
的な先取性・優位性をかなり多くの評者が論じていたのではなかったか。そし
て『KYOKO』のエイズ問題にたいするアプローチはPC的で文学としては真っ
当すぎる、などといわれたが、私は最高だと思った。
今回の『半島を出よ』も同じだろう。国内の不景気・アメリカを中心とした
経済問題・東アジアの政治関係・北朝鮮の体制と軍事問題など、現在人の耳目
を集めるネタにはことかかない。作者の勉強ぶりに脱帽して、ここに現在のリ
アリティを読み込む肯定的な評価は数多い。しかし一方で同時に多くの評者
が、これがいかに文学的であるかをしきりに説明しようとしている。いちいち
明示しないが、例えば松浦寿輝は、『半島を出よ』が過去の村上作品の中で最
も「文体的に濃密」であると称賛している(『文学界』7月号)。
一方、「国家」や「日本」を大文字で語るあまり、それが紋切り型で何の新
しい視点も与えない、単なるルポルタージュかニュース解説か、という批判は
すでに紹介した。文学的な評価にしても、北朝鮮兵士や少年たちの人物像がグ
ループごとにみんな一様で、人物がリアルに描きわけられていないとか、エン
ターテイメントとして読むにはいいが、それ以上ではないとか、否定的な意見
も目立つようだ。
しかしこの「両極端」な読まれ方と、それぞれに否定・肯定の受容を同時に
引き起こすところこそが、村上作品の秘密だろう。それは、私の考えでは、現
実に強く依拠しながら描いたのに、作品はついには現実からずれる(作品では
なく現実が問題になる)という、さきに説明した村上作品独特の構造にかかわ
るものだろう、と思う。もっと単純にいうなら、村上龍は、乗り越えるべき現
実があるから作品を書いているのであって、そんな現実がなくなるなら「文
学」などどうでもいいということだろう。いや、しかしこの指摘は、まだせい
ぜい直感にとどまる。
私は村上龍のいい読者ではない。昔から好きであったわけではなかったし、
読んでいない作品も、まだかなりある。その独特な問題に直接アプローチする
には、もう少し時間がかかるだろう。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★第57回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年09月04日(日)午後2時より5時まで。
■テキスト:『古事記』(岩波文庫他)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★発行日(毎月1日)の21時、ギリギリで鈴木さんの原稿が入稿、早速原稿を
チェック。これで何とか発行日の1日中に本誌が送信できるのでホットする。
これまで本誌が一度も発行日を遅延することなく発行できているのは、このよ
うな寄稿者の協力があってのことなのです。多忙な寄稿者の皆さんに、改めて
お礼申し上げます。
★黒猫は『ミリオンダラー・ベイビー』はまだ観ていないのですが、宮台真司
氏のブログで、イーストウッド監督『許されざる男』(92)を題材にしたネオ
コンと暴力を巡る論考(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=275)を
面白く読み、その縁で先日そのビデオを借りて観たところでした。
★村田氏はノリのいい文体で新連載を開始しました。村上龍への着眼点が面白
いと思います。
★時間もないので、この辺りで。続きはWebに書くかもしれませんが……。
●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』51号(通巻54号)(2005/07/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
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