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『カルチャー・レヴュー』2005・1
『カルチャー・レヴュー』
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
*以下は立岩に送っていただいたものです。
直接上記のホームページをご覧ください。
『カルチャー・レヴュー』2005・1
◆『カルチャー・レヴュー』46号(如月号)
◆『カルチャー・レヴュー』47号(弥生号)
◆『カルチャー・レヴュー』48号(卯月号)
『カルチャー・レヴュー』2005・2
◆『カルチャー・レヴュー』49号(皐月号)
◆『カルチャー・レヴュー』50号(水無月号)
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■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
したので、ご変更をお願いします。
◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』46号(如月号)
(2005/02/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[47号は、2005/03/01頃発行予定です]
★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第6回:「実存」って何なんだ〜!?---ひるます
◆連載「マルジナリア」第6回:神の位階-------------------------中原紀生
◆「バーマニアの今月の一軒」Gymnopedie-------------久世明宏
◆INFORMATION:第51回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)---------------------------------黒猫房主
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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第6回 //////
「実存」って何なんだ〜!?
ひるます
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■伊丹堂のコトワリ
第6回 「実存」って何なんだ〜!?
獏迦瀬:このところ話題の中心になってるのが「実存」っつ〜ことですよね。
前回の最後で、単なる様式ではないということをおっしゃってましたが…。
伊丹堂:様式には還元されないってこっちゃな。もちろん「文化」の対話
(『カルチャー・レヴュー』38号
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re38.html#38-1)で言ったように、実
存、つまり「どう生きるか」ということは、その時代の文化によってはじめ
て成り立つわけで、それはウラハラな関係にある。
獏迦瀬:その還元されない問題を伊丹堂さんは「決断」とか「創造」といって
るわけですよね。逆にいえば、そういう生き方が「実存」ってコトなんでしょ
うか。
伊丹堂:そりゃ単なる言葉の定義の話で、同語反復みたいなもんじゃな。そう
言っても何も意味はないわけで…。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:ま、それが「実存」ってものの「語りえなさ」なんじゃが…。
獏迦瀬:わかる人には分かるってやつですかね。
伊丹堂:というか、まさに「語りえていない」んじゃろ(笑)、よ〜するにま
だ誰もうまく語れていないから、語ろうとすると「別のこと」を語ってしま
うっつ〜か?
獏迦瀬:というと?
伊丹堂:たとえば実存、どう生きるか、を語ろうとして、単なる自分の嗜好を
語ってしまう、という場合が多いわけよ。その中心にある「なんとなく実存め
いたもの」を感じとる人は多いが、それをいざ語ろうとすると、いきおい自分
の「体験談」でしかなくなる。いわゆる「人生哲学」ってのがこれじゃな。
獏迦瀬:ああ、なるほど…それはよく聞かされる気がします(笑)。実存主
義ってのもそうなんですかね。
伊丹堂:実存主義ってのは、基本的には文学的な「気分」として人口に膾炙し
たわけじゃな。ただ、わしらがこ〜して「なんとなく実存めいたもの」につい
て、なんとなく共通認識を持ちつつ会話ができるのは、その「実存主義」って
もんが、流行ってくれたおかげなわけで、それがなかったら、そもそもこうい
う対話はなりたたないわな。
獏迦瀬:たしかに。そういう意味では実存主義ってのもダイジではあったわけ
ですね。哲学で実存といえばハイデガーですが。
伊丹堂:開祖じゃな(笑)。ようするに実存というのも彼の造語じゃが、彼が
その実存について語ったストーリーというものが、いわゆる実存的な生き方の
フォームと受け取られているわけじゃな。
獏迦瀬:というと?
伊丹堂:つまり彼が語ったストーリーというのは、人は他人のではない自分自
身の「死」を自覚したときにはじめて、本来的な生き方を決意し、そう生きる
ようになる…というわけじゃろ。この「死の意識」から「自己の覚醒」という
パターンは多くの人にとって、共通の体験として実感されるようなある原型的
なナニカがあったわけじゃな。
獏迦瀬:なるほど…。
伊丹堂:なるほどっていっても、実際は別に「死の自覚」から「本来的な生き
方」に至るなんてことはそんなにないじゃろ(笑)。
獏迦瀬:はあ、…。
伊丹堂:結局、文学じゃからな。「そう思わせる」というところに意味があ
る。「世界の中心で実存を叫ぶ」ちゅ〜もんじゃろう。彼の場合、ではその
「本来的生き方」って何よ、とか、そこからナチスに行ってしまうとか、いろ
いろ問題があるんじゃが、よ〜するに思考としてのツメが甘かったってことに
つきるわな。
獏迦瀬:わなな…って、そうなんスカ。
伊丹堂:ま、開祖じゃからして、十分に敬意は表しておくがな…、っていう
か、実際その思考には多くのヒントがある。たとえば実存は「死」と関わりが
あるというのも、いいポイントじゃな。
獏迦瀬:ポイントですか。
伊丹堂:しかし、せっかくいいとこを突きながら、そこで死を契機に実存を説
こうとするのがダメなわけじゃが…。
獏迦瀬:ああ、…というと。
伊丹堂:ようするにワシのいつもいう「構造と実存」の問題がごっちゃになっ
てしまう。簡単にいえば、死を自覚「すれば〜となる」という論理(構造)に
なるが、実存の問題としては、別にそうなるとも限らない。人それぞれなわけ
で。ロールズの「無知のヴェール」も同じ問題なのじゃな。
獏迦瀬:無知のヴェールを被れば、公平に考えるから正義を行うことになる、
という論理ですか。これはなにゆえ無知のヴェールを被るかというモチーフが
説明されないし、そういう正義を意識したからといって実行するかどうかはま
た別の問題になる…、ということでしたね。
伊丹堂:ま、ロールズについては他のとこで書いたので(注1)、詳しくは言
わんが、いずれにしても実存的な問題を構造(様式)の問題にしてしまおうと
いう慣性的な指向があるワケよね。
獏迦瀬:思考というか、脳のクセみたいなもんなんすかね。
伊丹堂:さあね。それはともかく、死の問題じゃが…。
獏迦瀬:死って何なんだ〜?ですかね。
伊丹堂:これもまた人それぞれにさまざまな「答え」があって、そこにまたそ
れぞれの「生き方」が表現されたりするわけじゃが…。
獏迦瀬:それもまたそれぞれの「実存」そのものなわけですね…。
伊丹堂:ちゅ〜こっちゃ。そこでそれを「構造」として、つまり突き放してみ
ると、「死とは何か」というよりも、「人は死ぬもんだ」っちゅうことにな
る。
獏迦瀬:なんか屁理屈みたいですがね。
伊丹堂:まあそうなんじゃが(笑)、これも人間存在、実存の神秘化、物語化
に対抗するには必要なコトなのよ。
獏迦瀬:そうなんですか。。。
伊丹堂:つまり「人は死ぬもん」であると。しかし、「にも関わらず生きてい
くもん」だということは「構造」として言えるわけじゃろ。
獏迦瀬:ああ、…。
伊丹堂:じゃからして、原理的に人は「にも関わらず」生きていく存在だとい
うことが言える。
獏迦瀬:そうしなくていいにもかかわらず、〜する…というのが、「倫理」の
あり方でしたね。(注2)
伊丹堂:倫理とは、それぞれの「実存」においてなされるもんでしかない、わ
けじゃが、それを構造としてみれば、倫理とは、「そうしなくていい」にも関
わらず、それをする、という様式として捉えられるわけじゃ。
獏迦瀬:そうしなくてはならない、からしたのであれば別に倫理ではないです
からね。
伊丹堂:だが、ある意味で、「しなくていいのにする」というのは、突拍子も
ない出来事ではあるわけじゃ。
獏迦瀬:(笑)ですよね。
伊丹堂:つまりそういった倫理的なあり方(実存)は、なにか特殊な神秘的な
力によってなされるのではないか?という印象を与えることになるわけじゃ
が…、しかし、こうして人はそもそも「死ぬ、にもかかわらず生きていく」も
んだということを踏まえてみれば、実存というあり方もまたそういった構造の
中の一変奏としてとらえることができる。
獏迦瀬:ああ、…なんとなく分かりますが。
伊丹堂:ようするに、死を自覚すれば実存に至る、のではなくて、実存的に生
きることができるのは、人は死ぬにもかかわらず生きていくような存在だから
だってこっちゃね。
獏迦瀬:実存の可能性、っていうか土台として捉えるってことですかね。ただ
どういう「実存」に至るかは、人それぞれ、人生いろいろ、ということになる
わけですね。
伊丹堂:そう、しかしただ普通に、ハイデガ−的にいえば日常的存在として生
きている者を実存とは言わないわけで、やはりその土台の上で特殊な条件が必
要になってくる。つまり、そうしなくていいにもかかわらず、〜するというこ
とを「自覚」して行っている、というこっちゃな。
獏迦瀬:それは死の自覚ということではないのですか?
伊丹堂:そういうと具体的なコトガラ、つまり体験談になってしまうだろう。
死を自覚「すれば」実存に至るわけではないわけで…何度もいうことじゃが。
ここはその特殊な条件ってもんを、吟味しておかなくてはならないとこじゃ。
獏迦瀬:自覚的に「そうしなくてもいいにもかかわらず、〜する」ことの条
件…ですか。
伊丹堂:まずは、そのような自覚自体が、ひとつの創造だということが肝心
じゃな。
獏迦瀬:そうしなくていい、ということ自体がヒラメキというか、アイデアな
わけですもんね。
伊丹堂:そ、以前の『カルチャーレビュー』25号
(http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re25.html#25-2)でも指摘したが、
哲学というものはアイデアや創造というものに対する敬意が不足しとるからな
(笑)。だから「〜すれば〜となる」というような構造的な論理で説明しがち
なんじゃな。
獏迦瀬:クセですね(笑)。
伊丹堂:それとウラハラになるが、「〜すべき」という共同体の論理(ルー
ル)がある意味でユルくなっているということが言えるじゃろうな。
獏迦瀬:共同体が崩壊しているわけではなくて…。
伊丹堂:そういうとまた、共同体が崩壊した「から」人は実存的になった、と
いうことになるじゃろ。そうではない、ということを言いたいわけじゃな。
獏迦瀬:まあ完全に行動が共同体にがんじがらめに縛られていたら、創造を働
かせる余地はないわけですけどね。つまり個人の自覚というものが成り立って
いるというか…。
伊丹堂:それが以前から問題にしている「個人としての時間」というこっちゃ
な。
獏迦瀬:ああ、なるほどね。以前「世間」をテーマにしたとき(『カルチャー
レビュー』40号 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re40.html#40-2)、阿
部謹也さんの話として、世間が「共通の時間」というあり方をしているのに対
して、「個人としての時間」というのが出てきたのでした。伊丹堂:おもしろ
いのは、共通の時間、つまり共有された時間の中では「死」というものはな
い、ってこっちゃな。
獏迦瀬:死がない…。
伊丹堂:ようするに「共有された時間」というのは、はじまりも終わりもない
「永遠の今」みたいなもんなんじゃな。阿部謹也は世間では「おくやみ」が重
要と言っているが、それは世間という共有された関係の中で、そのやりとりの
アイテムとして重要なのであって、その死んだ人自身の生死、生きざまといっ
たものが問題なわけではないってことじゃな。
獏迦瀬:世間の中で生きている人にとっては、その共通の時間が主であって、
自分の命はそこに附随しているという感覚なのかもしれないですね…まあ、そ
んな風に意識はしないんでしょうけど。
伊丹堂:深く意識しない、ということ自体がすでにそういうことなんじゃな。
ともかく、個人としての時間を生きるということは、個体としての生命を意識
することであり、結局は死の自覚でもあるわけじゃな。ようするにこれらはウ
ラハラに実存というあり方の条件を形作っているわけよ。
獏迦瀬:死がない、というのは、輪廻転生の世界ですよね。
伊丹堂:そう、昔インドではみんなが輪廻転生を信じてて、「共有された時
間」を生きてるときに、「いや、オレは死ぬよ」といったのが、ブッダじゃな
(笑)。
獏迦瀬:あ、それが解脱ってことですか…、とするとお釈迦さまは「実存」主
義者なんですか?
伊丹堂:っていうか、それはず〜と前に橋本治がオウム本(「宗教なんかこわ
くない!」)の中で指摘しとったコトよ。
獏迦瀬:あれからもう10年なんですよね…。
伊丹堂:ふふ、そういう言い方がまさに「共有された時間」なんじゃな。なん
となく日々生きてるからそんなヒト事みたいな言い方になる。
獏迦瀬:あわわ。
伊丹堂:もうひとつ大事なのは「共有された時間」の中に死がない、というこ
とは、死者もまた「個人」ではない、ということじゃな。
獏迦瀬:死者の人格がないってこと、ですか?
伊丹堂:そう、死んだ人はああ思っただろう、こう思ったろう、こんなことは
嘆かわしく思っているだろう…などといったことが、まことしやかに語られる
のが、この「共有された時間」なわけじゃ。
獏迦瀬:生者のご都合主義…ですか。
伊丹堂:死者への配慮ということを語る思想がたいていそういう傾向に落ち
いってるわけよ。
獏迦瀬:そういえばよく伊丹堂さんが「死者をして死者を語らしめよ」なんて
言ってましたね…。
伊丹堂:死者をほんとうに他者として捉えるということがわかっとらんのじゃ
な。
獏迦瀬:前回「他者」についての対話でおっしゃった「他者性」の問題です
ね。
伊丹堂:と、いうことがダイジなのは、個人としての時間、個体としての生を
生きるということは、個人が好き勝手に自分だけの世界に閉じこもるというこ
とではないから、じゃな。
獏迦瀬:それがまっとうさということですよね。
伊丹堂:じゃから、実存主義者のお釈迦様も「ではどう生きるか」という意味
での教団を作ったりする。
獏迦瀬:阿部謹也さんも、西洋において世間が解体して「個人としての時間」
が作られるにあたっては、キリスト教が「神と個人の契約関係」をつくるとい
うことが大きな意味を持ったとしていますよね。
伊丹堂:そう、実存ということの最後のファクターには、そういうブッダの教
えなりキリストとの契約なりと、共通するような、なんらかの「他者」が介在
しているってこっちゃな。
獏迦瀬:少なくとも、ひとりよがりに終わらない志向性というものが、実存と
いうあり方には必須ですよね、結果論としての成否は別として。
伊丹堂:しかしそういった志向性、つまり「志」ってのも個人とか死を自覚す
れば自動的に身につくってもんでは全然ない。
獏迦瀬:ですね…。やはり人にはなんらかの「宗教」みたいなもんが必要なん
でしょうか。
伊丹堂:いや。必要なのは「道」を示すってことだけじゃないかの。
注1)臨場哲学Vol.32など参照
http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/WEBZIN/hirumas32.html#1025
注2)倫理って何なんだ〜?「La Vue」7号(2001年)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/
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////// 連載「マルジナリア」第6回 //////
神の位階
中原紀生
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●永井均氏の『私・今・そして神』を繰り返し読んでいる。章節の流れに沿っ
て最初から順を追って読むこと三度目。第一刷の発行日が昨年の10月20日だか
ら、ほぼ月に一度の割合で読んでいる計算になる。それ以外にも折にふれ部分
的な拾い読みをしたり、通読する際にも前の頁に戻って復誦し、先の頁に飛ん
で確認しながら再帰的・反復的に読んでいるので、重要な箇所だと一頁あたり
五回以上は目を通している計算になる。
それほど読んでも十分に読み込んだ気がしない。熟読してもなぜか玩味でき
ない。陶酔(ロジカル・ハイ)もない。本書の平易で丁寧で率直な語り口は、
これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださな
ければならないほどに分かりやすい。それなのに、肝心なところでいまひとつ
分かった気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分
からなくなる。
●この本の論述の趣向、というか概念の道具立てはとても分かりやすい。それ
は(意図されたものかどうかは別として)形式美にかなっている。まず、本書
は初心者向けの第1章と玄人筋を想定した第3章、それらにはさまれて中心を
なす第2章の三つの章からなる。そして、そのそれぞれの章うちに相互に関連
する三組みの道具立てが設えられている。
第1章に出てくるそれは「神の三つの位階」である。土木工事(世界の物的
創造)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神。世界に人間には識別できない
が理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神。世界の
うちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階の神、す
なわち開闢の神。
第2章には、神の位階に対応するかたちで三つの原理が出てくる。弱いライ
プニッツ原理とカント原理と強いライプニッツ原理(=デカルト原理)。(そ
れらは『転校生とブラック・ジャック』に出てくる三つの原理、すなわち人格
同一性の原理、統覚原理、独在性原理に対応している。)
ここでライプニッツ原理とは「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界
だ」という原理であり、カント原理とは「起こることの内容的なつながりに
よって何が現実であるかが決まる」というもの。そして弱いライプニッツ原理
は、カント原理の内部でカント的に可能なものの中からの選択(そのうち一つ
の現実化)としてはたらくもので、強いライプニッツ原理は、カント的な可能
性の空間をはじめてつくりだすものをいう。
最後に、第3章に出てくる私的言語の三段階。それが神の三つの位階や私と
今と現実に関する三つの原理に対応しているだろうことは見やすい。でも、こ
こではそのことには触れない。というか、対応関係が私にはまだよく見えてい
ない。また、八木雄二氏の後掲書に出てくる三つのこと、普遍的原理(質料形
相論)と個別化原理とペルソナ性が大きく関連しているだろうことも見やすい
が、そのことにもここでは触れない。
●永井氏がこれらの道具立てを駆使して取り組んでいるのは、「独在性の
〈私〉」(現に今在る端的な〈私〉)をめぐるメタフィジックスそのものでは
ない(それもあることはある)。自己利益の主体(人)である『私』をめぐる
倫理学でも、生物(ヒト)としての“私”をめぐる人間学でもない。私たちの
世界の共同プレーヤーたる「単独性の《私》」(概念的に把握された〈私〉)
をめぐる論理学(「独在性の〈私〉」の語り方、そしてその語りのなかに見え
隠れする「独在性の〈他者〉」とでも呼ぶべき存在者の語り方の問題)であ
る。そういうことだったらよく分かる。でもそれが分かったからといって何が
わかったことになるのかが分からない。
あるいは『私・今・そして神』は、「存在」(現実存在=実存)と「概念」
(本質)との断絶をめぐって、そしてそこに言語がどう関与するかをめぐっ
て、言語によってなされた思考の記録である。たとえばそんなふうに要約して
もいい。でもそれだとちっとも面白くない。
●存在と概念の断絶――「存在」を生み出す「神」と「概念」を生み出す「言
語」(「脳」といってもいい)との断絶、永井氏の語彙でいえば「開闢」と
「持続」との断絶、あるいは「独在性の〈私〉」と「単独性の《私》」との断
絶――は、「その概念自体がそれの現実存在によってしか理解できないものの
存在」、すなわち神や私の存在をめぐる証明のうちに表現されている。
神の存在をめぐる存在論的証明と呼ばれるものがある。「神はXである」。
神は定義上完全だから、このXにはすべての肯定的な規定、たとえば「存在す
る(〜がある)」という規定も代入できる。したがって「神は(現実に)存在
する」。また、私の存在をめぐる存在論的証明ともいうべき論証がある。「我
思うゆえに我あり」。これらの証明のなかで論証された神や私は、はたして現
実に存在する「あの神」や「この私」を指せているか。本書の中心をなす箇所
(第2章11節)に出てくるこの問いのうちに、かの「断絶」は示されている。
でもそれは「事実存在」と「本質存在」の分岐――「がある」と「である」
の分岐、「これ性」と「何性」の分岐、財布の中の十億円と夢の中の十億円の
分岐、「蛙飛びこむ水の音」と「古池」との分岐(?)――が形而上学の起源
をなしたというハイデガーの所説そのものだ。そんなことを「お勉強」するた
めだったら永井均の著書を読む意味がない。(木田元氏のハイデガー本、最近
のものだと『ハイデガー拾い読み』などを読む方がずっと面白い。)
●あるいは「開闢の〈私〉」と開闢された世界のうちに持続的に位置づけられ
る「かけがえのない《私》」との関係をめぐる「神学」の書。
八木雄二氏は『「ただ一人」生きる思想』で、大要次のように述べている。
哲学は普遍的なものを追求する。科学もまた種を普遍的に説明する。いずれも
質料形相論という普遍的原理による説明でしかない。これに対して神学は個や
個物を対象とする。「なぜなら、個々のものは…神が創造する対象だからであ
る」。ドゥンス・スコトゥスが導入した「個別化原理」こそ、霊魂の個人性を
含めた「かけがえのない個」を説明する神学の原理であった。しかしこの原理
をもってしても人間がもつ「ペルソナ性」を説明することはできない。スコ
トゥスによれば、神の本性をもつ子のペルソナ(キリスト)の十字架上の死に
ならい、孤絶(ぎりぎりのところまで一人であること)のうちに思惟の自由を
貫徹することを通して人間の個はペルソナとなる、云々。
普遍的原理=質料形相論によって説明できる『私』や“私”ではなく、個別
化原理がもたらす「このもの」としての《私》やペルソナ性をもった〈私〉の
存在と概念をめぐる「永井神学」?
●内田樹氏は『他者と死者』で、レヴィナスやラカンが量産した「邪悪なまで
に難解なテクスト」が狙っているのは、わざと分かりにくく書くことでもって
「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか
?」という「子どもの問い」へと読者を誘導することであると書いている。
(ちなみに、ここに出てくる「子ども」はラカンのいう「想像界」にとどまる
もの、つまり「間主観的な自我=他我図式」に踏みとどまり「鏡像的な感情移
入」によって「大人」が示す「謎」を追尋するもののことであって、永井均的
な意味での「子ども」、つまりひねもす「問い」をたれながし、「問い」その
ものを生きる「子ども」のことではない。)
『私・今・そして神』の分からなさは、レヴィナス=ラカン的な意味での難
解(方法としての難解?)とはまるで違う種類のものだ。永井氏自身の言葉を
使うならば、「理解できるが識別できない」ことが理解できてしまうことの分
からなさとでもいおうか。
たとえば始めて句会に顔をだし、座をしきる宗匠から「なに、『残り火や赤
さわびしき夜ふけかな』か。〈や〉と〈かな〉の重複はとんでもねえ。〈や〉
は〈の〉とするんだな」(露伴)などと一喝され恐れ入ったあとで、さて何に
恐れ入ったのだったか判然としない、そんな感じ。(ちょっと違うか。むしろ
シャルル・ペローの童話「三つの願い」の大きなソーセージや、映画「シック
ス・センス」でブルース・ウィルス演じる小児精神科医マルコムが「死者が見
える」少年コールに披露した手品に出てきたコインのような、「通り越して短
絡させることができる」存在がもたらす空虚な感覚?)
●で、いま『私・今・そして神』の三回目の通読に入っている。それは、本書
と三部作をなす『マンガは哲学する』や『転校生とブラック・ジャック』まで
ひっぱりだしての大がかりな(?)作業になりかけているのだが、ここで書い
ておきたいのはそのことの顛末ではない。たとえば同じ本を三度読むことの意
味、あるいは三部作を書くことの意味といった事柄である。
●内田樹氏は(ライフワーク「レヴィナス三部作」の第二作となる)前掲書
で、「何かが二度繰り返されたときにはじめて「謎」は生成する」と書いてい
る。
「何を意味するのか分からないが、何かを意味していることだけは分かる」
がゆえに、シニフィアンの終わりなき入れ替えを励起する「何か」――あるい
は、レヴィナスによって「現象」(慎みのない誇らしげな顕現)と対立するも
のとされた「謎」(おのれを顕示することなしに顕示する仕方)――は、「一
度として現在であったことのない過去」の「痕跡」という仕方で、あるいは
「私にとって一度として現実になったことのない過去」の経験(=「外傷」)
という仕方で、あるいは「ことばに命を与え、命を与えることで消え去るも
の」すなわち「前言撤回」という仕方で現出する。
何か同じことが二度繰り返されることによって、そこに「隠されていた意味
性」がたちあらわれる。「ゲームが二回続き、二度続けて勝つか負けるかする
と、そのとき、人はそれと知らないうちに「象徴界」に足を踏み入れてい
る」。ラカンはそう書いている。
●また、内田氏はモーリス・ブランショの「複数のパロール」の概念――「同
じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだ。それは同じ一つのこと
を言う人間はつねに他者だからだ」――をめぐって次のように書いている。
《「私」ともう一人「〈私〉と名乗る他者」の二つの声が輻輳するとき、そこ
に、「私」のことばによっては決して担いきることのできない「何か」がある
種の「倍音」のようにして聴き取られる。それをかつて詩人たちは「ミュー
ズ」と呼び、ソクラテスは「ダイモニオン」と呼び、村上春樹は「うなぎ」と
呼んだ。もちろんそれを「神の声」と呼ぶことだってできる。》
(ここに出てくる「うなぎ」は、村上春樹がある対談で語った言葉だ。《僕は
いつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけないと言うんですよ。…僕
という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人だけじゃ、小説というも
のは成立しないんですよ。そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるも
の。》)
内田氏はさらに、「主」とモーセの対面関係をプロトタイプとして構成され
るユダヤ教的師弟関係をめぐって次のように書いている。《重要なのは「誰」
と「誰」が対面しているかではなく、対面的事況そのものが成立することであ
る。(中略)対面的事況とは「私」と「あなた」の「二者」の間に成立するも
のではない。対話とは本質的に「三者協議」なのであり、外部から到来する
「第三者」を歓待する場のことなのである。》
●一度目の読みでは、読者は想像界にとどまる。二度目の読みで、象徴界に足
を踏み入れる。三度読むことで、現実界が到来する。三部作を書く場合も同
様。内田氏の著書を読みながら、私はそんなことを考えている。そして、この
ラカンの三組みと「永井神学」における神の三つの位階が妖しげな関係をはら
んでいるのではないかとも。
さらに、チャールズ・サンダーズ・パースの三組みの記号(イコン・イン
デックス・シンボル)や三つの形而上学カテゴリー(質・関係・媒介)までも
が艶めかしく思えてくる。「存在」と「概念」の対語は、永井均的語彙では
「開闢」と「持続」になる。これをさらに「偶然」と「連続」に置きかえるな
らば、それはパースの哲学のキーワードそのものだからである。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
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////// バーマニアの今月の一軒 //////
Gymnopedie
久世明宏
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神戸三宮の生田神社の東門街に良質のBARが次々にオープンしてゆくのが
目につくようになりました。
神戸の街は震災から10年が過ぎ、震災があったことすら忘れそうな復興ぶり
で街そのものが変わったという感じを受けます。
東門街というと、かつてはスナック、クラブの店が多く、BARは裏通りに
ちらほらあったというイメージが強いのですが、現在はメイン通りに目立つよ
うになりました。
今回ご紹介する「Gymnopedie」の店名は、エリック・サティの代
表曲に因んだそうで、場所は東門街メイン通りのほぼ中間あたりです。昨年11
月に店長の倉本尚枝さんが立ち上げられましたが、この方は永らく大阪梅田の
太融寺裏手にあった、名店(Sist)で経験を積まれたので、お酒の知識は
豊富です。また、どことなくミステリアスな雰囲気をもった、聡明なイメージ
を抱かせる人です。
昨年の暮れに右手を包丁で切ってしまい、医師からはもう元のようには動か
ないかもしれないと診断されたのですが、リハビリを続けながらカウンターに
立ち続ける頑張り屋さんです。
カウンター七席だけの小さなお店ですが、静かで、客のマナーもよいように
思いました。ぜひ一度お出掛けください。
★「Gymnopedie」★
神戸市中央区中山手通1-16-4 東門コーナービル2F
TEL:078-321-6897
開店:18:00/閉店:26:00
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★第53回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年03月27日(土)午後2時より5時まで。
■テキスト:永井均『私・今・そして神』(講談社現代新書)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★正月も終わって、今年もあと11か月となった。早いものだ(笑)。それはさ
ておき、先だって生食用の牡蠣にあたったらしく下痢と高熱に襲われた。高熱
で脳味噌が溶けるのではないかと心配になったほどだが、お陰でまたいちだん
と物忘れがすすんだに違いない。その二週間後には、今度は風邪を引いてし
まった。なにかとせわしい正月を過ごしたという次第。(黒猫房主)
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『カルチャー・レヴュー』46号(通巻49号)(2005/02/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
■流通協力:「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/(ID 0000015503)
■流通協力:「Macky!」http://macky.nifty.com(ID 2269)
■流通協力:「メルマガ天国」http://melten.com/(ID 16970)
■流通協力:「カプライト」http://kapu.biglobe.ne.jp/(ID 8879)
■ Copyright(C), 1998-2004 許可無く転載することを禁じます。
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■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。
>TOP
■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
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■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
したので、ご変更をお願いします。
◆直送版◆
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(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』47号(弥生号)
(2005/03/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[48号は、2005/04/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「映画館の日々」第6回:足と背中、わだかまる歩み――増村保造論
のための走り書き-------------------------------------------鈴木 薫
◆連載「文学のはざま」第7回:文学が今どんなものであるのかを手っとり
早く知るためには、思いきって斉藤環『文学の徴候』を手にしてみるべき
か、はたまた渡部直己・スガ秀実『新・それでも作家になりたい人のため
のブックガイド』のほうをやっぱり選ぶべきか、についてのできるだけ公
正な判断材料----------------------------------------------村田 豪
◆新刊紹介:『メディア・ビオトープ――メディアの生態系をデザインする』
(水越伸著・紀伊國屋書店刊)---------------------------------黒猫房主
◆INFORMATION:第53回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺---------------------------------------------黒猫房主
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////// 連載「映画館の日々」第6回 //////
足と背中、わだかまる歩み――増村保造論のための走り書き
鈴木 薫
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(1)2月5日から新文芸坐で一週間、毎日二本ずつ上映された増村保造監督作
品のうち、次の六本を見ることができた。『「女の小箱」より―夫が見た』
(1964)、『卍〈まんじ〉』(1964)、『清作の妻』(1965)、『赤い天使』(1966)
『刺青〈いれずみ〉』(1966)、『痴人の愛』(1967)。最初の五本が若尾文子主
演であり、『痴人の愛』は小沢昭一と安田道代の組合せだ。(ここでは若尾の
主演作だけを扱うことにする。)すっかり増村ファンになってしまったが、こ
れだけで増村/若尾作品を語ろうというのはいくら何でもおこがましい。私は
若尾文子主演の増村作品を、ほんのわずかかいま見ただけなのだから。
(2)だが、かいま見ることは映画の本質的な要素の一つでもあろう。上映中の
後扉を細めにあけて滑り込み、黒い垂れ幕をそっとかかげて、他人たちは魂を
奪われたように見入っているが、まだ自分がそこから締め出されている音響と
巨大な顏と光の明滅に見入る体験――新文芸坐は入替制でそういうことができ
なくなってしまったが――ばかりを言うのではない。たとえば今回のようなシ
ネマスコープ作品の場合、前列の端の方の座席だと、スクリーンの反対側の端
で起こっていることは、うかがい知ることしかできなくなる。あるいは、『夫
が見た』の冒頭で、私たちはいきなり湯上がりの温気に包まれた若尾文子の肉
体をかいま見(させられ)ることになる。
(3)言うまでもなく、前面からキャメラがそれを捉えることはありえず、かろ
うじで斜め後ろから胸のふくらみが窺われる程度で、しかもそれさえ若尾自身
ではなく吹き替えの身体なのだという(註1)。吹き替えならば、性器や乳房ば
かりでなく顏もキャメラを向けてはなるまい。代りにキャメラは、背、腰、足
を背後からフレーミングし、木綿のパンティ(ズロースと呼ぶべきか)に片方
ずつ足が通され、引き上げられる一部始終を不透明なガラス越しの影として見
せる。特集の四日目にはじめて訪れた私が、新文芸坐の巨大なスクリーンにま
ず見出したのはそうした映像であった。
(4)湯気のまとわりついた若尾文子の肉体の気配のあとに、着物にきっちり身
を包んだ彼女自身が現われる。今夜も遅くなるという夫からの電話、空のベッ
ドのショットに続いて、観客は若尾自身の台詞から、窃視症者の共犯にさせら
れてたった今かいま見たのが、性的不満を抱えた人妻の肉体であると知る。彼
女はナイトクラブのオーナー田宮二郎と知り合うが、彼は若尾の夫の勤める会
社の株を買い占め、乗っ取ろうとしている男である(ライブドアのニュースの
最中にこれを見た。なんてアクチュアル! ただし、田宮の資金調達法は、愛
人の岸田今日子に資産家とセックスさせることだ)。夫の敵である男と恋に落
ち、ベッドをともにした若尾は、はじめて性的な喜びを味わったと口にする。
なんという紋切型! だが、設定の通俗性やありきたりのプロットこそが口実
として映画には必要であることを誇示するかのようにフィルムは進む。
(5)若尾との結婚のため、田宮は長年の夢を捨てることを決意する。乗っ取り
をあきらめ、彼の野心のために文字通り身を捧げてきた岸田今日子とも、クラ
ブを売った大金を渡して別れようとする。岸田は金よりも田宮を刃物で刺す方
を選ぶが、彼は死なず――あるいは暫くの猶予を与えられて、物語(と田宮の
生命)は奇怪に引き延ばされる。ヤクザに頼んで若尾に危害を加えさせると言
い放って電話しかけた岸田の首を田宮は絞め、彼女はむしろ恍惚として彼の手
にかかって死ぬ。この立ち回りによる出血のため、若尾が友人の女医と駆けつ
けて応急処置をするものの、田宮は瀕死の状態だ。「抱いてくれ」と言う半裸
の田宮を、彼から贈られた真珠の指輪をはめた指を血まみれにして若尾は抱
く。膝を曲げた足が手前にあり、顏が一番奥にあり、そのあいだで裸の上半身
が若尾に愛撫されているのが脚の間から見える。
このシーンについて、斉藤綾子はこう述べている。
実はこの構図こそ〈尋常〉でない。横たわる田宮の開かれた足の構図は、何
と女性の出産シーンに一番近い。股間の奥に横たわる田宮の下腹部は血だらけ
で、まるで彼は去勢されたかのように見える構図なのだ。(註2)
(6)この文章に行き当たったとき、これだけはっきり言われてしまえばもう私
が付け加えることは何もない、と思ったが、しかし、他の作品も見て気づいた
ことがある。田宮の姿勢は、横長のスクリーンという条件の制約を受けてのも
のでもあるのだ。世界が長方形をしていないにもかかわらず、映画は当然のよ
うに横長のスクリーンを持っている。横長の(おまけにシネマスコープの)ス
クリーンは何を見せられるか?
自由に、なんでも、どんなふうにでも見せられるわけではもちろんない。性
器を見せられない不自由さなどこの絶対的な不自由さの前ではほとんど問題に
もならないような不自由さに抗して、たとえば中川信夫は、柱時計をスクリー
ンいっぱいに横にして時を告げさせた(『地獄』)。人間もまた横たわってい
るときが最もスクリーンにおさまりやすい。横長のスクリーンは縦の運動を捉
えられないので、『赤い天使』の投身自殺は、飛び降りる過程を省略し、地上
に横たわる死体のカットだけで処理されている。
(7)だから、風呂上りの女が身じまいを整えるまでの立ち姿もまた、スクリー
ンが捉えることのできないものであったのだ。逆に、横たわった場合、それは
スクリーンに無理なく馴染むだろう。『夫が見た』では、情事のあとの女[江
波杏子だったと思う]が身体の正面をこちらに向けてそろえた脚を折り曲げ
て、膝の上に顏を乗せたポーズを取っているのが見られたが、これもまた、乳
房と性器を巧みに隠しつつ、横長のスクリーンに全身を入れる方途であった。
スクリーンの奥に頭を向け、こちらに足を向けて横たわる人体を足の方から撮
れば、必然的に顏と性器が接近する。性器を直視させることができないとした
ら残るのは顏と足だ。
(8)『卍〈まんじ〉』には、同様に足の方から撮ったショット、しかしこちら
は膝を伸ばしてのそれが、何度か出てきたように思う。ベッドの上に上体を起
こし、顏はこちらを向き、画面手前に足の裏が見えている。園子役の岸田と光
子役の若尾に加えて、園子の夫が一つベッドの上で並んでいる場面では、大き
さの異なる六つのあしうらがきれいに並ぶ。『刺青(いれずみ)』が一部を依拠
している谷崎潤一郎の短篇(註3)で刺青をされる娘についても、美しい足の裏
という記述が出てくるし、新藤兼人による『刺青(いれずみ)』の脚本は、谷崎
のいま一つの小説『お艶殺し』の、大店の娘が手代と駆け落ちするが騙されて
芸者に売られ、男を手玉に取る女になるという話の大筋はそのままに、ヒロイ
ンのお艶の背中に女郎蜘蛛の刺青を彫るという形で強引に『刺青』を割り込ま
せているのだが、雪の舞う中の道行きでお艶は芸者を気取って素足のままだ。
(9)谷崎の足フェティシズムに目配せしてのことかと思われる並んだ足の裏
は、『赤い天使』では、野戦病院で次から次へと切り取られる兵士たちの脚に
変わって、ゴルフのクラブのように何本もまとめて足の裏を見せゴミ箱に押し
込まれている。従軍看護婦・若尾が愛することになる軍医・芦田伸介は、兵士
の命を救うため盛大にmemberを切り取るが、彼自身はモルヒネの常用のために
不能である。『赤い天使』のメイン・プロットは不能の男を恢復させての若尾
の恋の成就だが、その手段はエロティックなものではない。禁断症状で暴れる
彼にのしかかって渾身の力で押えつける行為は、前半で手足を切り取られる兵
士たちに若尾が行なうのをさんざん見せつけられたのと同じものだ(外科手術
がエロティックと感じられるのであれば別だが)。映画がはじまってすぐ、若
尾は深夜の見回り中、傷病兵に襲われている。スカートがまくり上げられ、脚
が押えつけられたところで別の兵士が廊下に面した窓を閉めて私たちの視線を
遮るが、この場面はまた、こののち若尾が送られる前線の病院で、押えつけら
れては切断される兵士たちの手足を予告してもいたのだった。
(10)川津祐介演じる若い兵士は、両腕を切り取られ、本来内地へ送還されるは
ずが、そうした姿が人目に触れること自体が厭戦気分をあおるという理由で家
族とも会わせぬまま病院で飼い殺しになる運命らしい。彼は若尾に性的奉仕を
望んで叶えられる。ベッドにあおむけになったままの姿なので観客は勘違いし
そうになるが、江戸川乱歩の『芋虫』とは違い、彼にはちゃんと足がある。愛
撫するための足(ベッドの脇に立った若尾に彼はそれを使った)ではなく、歩
くための足。若尾は婦長に一日彼との外出を願い出る。彼に服を着せ、無い腕
を隠して、町へ出てホテルに入る。一切はありえない夢の中でのように起こ
る。彼の境遇については関わらぬようにと若尾に言った婦長も外出には快く賛
成する。これ一度きりだからと若尾は彼に念を押す。翌日、川津は飛び降り自
殺を遂げる。
(11)「手がなくても何でもできる」とホテルの場面で川津は言う。むろん、芦
田伸介と違って機能する男性器を持ち、かつ、『夫は見た』の田宮と同様、腕
のない彼は相手に抱かれる立場でもある。『赤い天使』で若尾が性関係を持つ
男は少なくとも三人いる。彼女を犯した傷病兵 (彼女が婦長に訴えたため、
そのあと前線に送られた)、川津、そして芦田だが、レイプ事件と芦田との本
筋とのあいだに挟まれたこのエピソードは、川津が若くて美しいこともあり、
優しさとエロティシズムを感じさせる。芦田が恢復した夜、彼の軍服をつけ、
あまっさえ長靴[ちょうか]を芦田の手で履かせてもらう若尾の傍で下着姿で
いるオヤジ・芦田伸介には、どうにも魅力が感じられない。若尾の死んだ父親
に芦田が似ているという繰り返される言及さえ、彼に外見的な魅力のないこと
のエクスキューズに聞こえる。
(12)夜の終りに見えない敵がやってくる。衣服まで剥ぎ取られる虐殺のなか
で、穴のようなところに身を潜めた若尾だけが生き残る。彼女が気がついたと
き、敵はすでに去っている(全篇を通じて、私たちは敵の姿を見ることはな
い)。彼女だけが、看護婦の制服(白衣ではない)を身につけたまま、生きて
いる者は他にいない戦場を歩き回る。思えば若尾のコスプレはジェンダーを撹
乱させるものというより、彼女だけが制服姿で――誰もが芦田のように下着姿
に剥かれる中で――生き延びられることの予告だったのかもしれない。彼女は
芦田を捜すが、彼が生き残っているわけがないことをすでに私たちは知ってい
る。なぜなら若尾は死の天使であり、彼女を強姦した兵士、自殺した川津と、
かかわった男を死なせてきたのであり、彼女が見出すのは芦田の屍以外ではあ
りえないからだ。
(13)『清作の妻』では、冒頭、シネマスコープにふさわしい横たわる人々がつ
ぎつぎと私たちの視界を占めることになる。横たわる動作をけっして見せるこ
となしに、いつの間にか彼らは横たわっている。最初は若尾の病気の父だ。若
尾を妾にしている殿山泰治は、父親に向かい、今度温泉に行かせてやると言
う。妾宅に戻って殿山は風呂をつかうが、若尾が気づいたとき、すでに彼は裸
のまま湯殿の床に横たわっている。次に映し出されるのは殿山の葬式かと思わ
れる祭壇だが、父親の写真が黒枠に入っているのを認め、私たちは若尾の父も
また死んだことを、もはや温泉には行かれないことを知る。殿山の遺した大金
を懐に若尾とその母は故郷の村へ帰るが、そこで私たちが見出す彼女は、前景
に母親がいるその後方の屋内で、昼間からしどけなく横になっている。次に
キャメラは彼女を後ろから写し、腰の曲線が印象的な寝姿はスクリーンの大方
を覆い尽くすシルエットとなる。(註4)
(14)谷崎は原作の『刺青』で、刺青をされた娘の背中で巨大な女郎蜘蛛の足が
蟠[わだかま]っていると書いている。その足はまた娘を抱きしめ、呪縛して
いもいて、『刺青』ではこの刺青ゆえに娘は男を支配するようになるはずなの
だが、映画『刺青〈いれずみ〉』で実際に若尾の背中(および吹き替えの背中
?)に描かれた女郎蜘蛛は迫力がないことおびただしく、ひょろひょろした足
は蟠っているという感じでは全然ない。刺青がなくても、若尾は最初から主導
権を握って丁稚をそそのかして出奔する、恐れず突き進む女で、それは原作の
お艶の性格でもあるのだが、その結果、『お艶殺し』に『刺青』の設定をわざ
わざ加えたことは無意味に見え、刺青師の山本学が、自分の仕事が怪物的な女
を産んでしまったと、彼女の行為をかいま見て悔いるさまがそらぞらしく見え
てしまうことは否めない。女郎蜘蛛の足が娘の身体を締めつけるとか、刺青が
朝日に燦爛と輝いたとか、言葉はそう書くだけですむがそれを視覚化するのは
至難の業で、しかもここでは若尾(と吹き替え)の背中は性器や乳房や顏と異
なり、それが観客の前にさらされなくてはそもそも作品が成り立ちえぬ部分で
ある。
(15)ほとんど顏と足だけの構図については(7)で触れたが、女郎蜘蛛はこの
ヴァリエーションだと言えるかもしれない。それは性器の代替物として、平然
と観客の視線にさらされる。恋人だった手代を殺した若尾は刺青師・山本学に
よって背中から刺され、山本もその場で自害するが(これらは脚本のオリジナ
ル)、そのあとキャメラはいったん引いて、二人の男と一人の女の死が建具の
フレームの中におさまった一幅の絵のように私たちに示される。若尾の背中が
大写しになると、女郎蜘蛛の顏からはなおも血があふれている。
(16)『清作の妻』において、スクリーンの前面に異常な大きさで拡大された若
尾の背中には何もわだかまっていないのだろうか。それは、夫となった田村高
廣を戦場に戻れなくするため彼の両眼に釘を突き立てた罪で入獄した若尾の姿
を、盲目になった田村が想像するときのショットに見ることができると思う。
なぜならこのとき、スクリーンは、一瞥しただけでは何が映し出されているか
わからない、ただ一面にわだかまるもので満たされるからだ。ずるずると一部
が動き、引かれ、ほぐれゆくと、ようやくそれが囚人の足に巻かれる鉄の鎖で
あることがわかる。その端は当然若尾の足首を縛めている。夥しい鎖の堆積
は、だが、若尾一人をつなぎとめておくためにしてはあまりにも過剰であり、
だからそれは現実の情景ではなく、田村の想像裡のできごとだと思えるのだ。
監獄の中庭のようなところを足に鎖をつけられたまま、若尾と女囚たちは煉獄
で蠢く死者のよう歩きつづける。
(17)この、どこかへ行くのではない、鎖の重さを引きずったわだかまる歩み。
『清作の妻』のラストでは、画面の左手上にしゃがみ込んだ盲目の田宮を残し
て、若尾が土に鍬を入れつつ、後ずさりして右下へ進む。地面には鍬のあとが
刺青のように刻まれつつ、田村と若尾のあいだの隔たりは次第に開いてゆく。
『夫は見た』や『刺青〈いれずみ〉』でもそうであったように、このフィルム
もまた、終ろうとして終らないでいるとき、スクリーンの片隅に〈完〉の文字
が貼り付くようにあらわれて当の作品を宙吊りにする。『夫は見た』で、田宮
二郎は死んだのだろうか。いや、彼は、若尾の腕に瀕死の状態で抱かれてお
り、〈完〉の字が現われたときもまだ生きていた。悲嘆にくれる若尾の腕の中
で、死にゆくものでありつづけていた。『赤い天使』では、裸に剥かれた死者
たちとは無関係に、一種の死の彼方へ、制服に身を固めた若尾文子は無傷のま
ま歩み入っていた。『刺青〈いれずみ〉』では、三人の死ののちも、背中の女
郎蜘蛛が血をあふれさせていた。そして『清作の妻』もまた、あたかも進行中
のアクションが中途で立ち切られたかのように終了する。
(註1)四方田犬彦・斉藤綾子編著『映画女優 若尾文子』p.199(みすず書房、
2003)
(註2)同 p.217
(註3)松田修によれば「いれずみ」とは刑罰として入れられるものであり、谷
崎の小説の題名の読みとしては「しせい」以外にはありえないのだが。(『刺
青・性・死―逆光の日本史』平凡社、1972)
(註4)横たわる巨大な女体としての若尾の後ろ姿。それはまた、田村高廣が鐘
を打ち鳴らすのに先立って、スクリーン一杯に映し出される故郷の山――そこ
に鐘の音は響き渡ることになる――ともどこか似かよっているようだ(彼が鐘
を打ち鳴らすことができなくなったとき、もう一度同じショットが挿入され
る)。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)。二月はしっぽを切られた月で原稿を書く日が残っていな
い。しかたがないので夜眠らずに書きました。あとは確定申告です。
http://kaoruSZ.exblog.jp/
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////// 連載「文学のはざま」第7回 //////
文学が今どんなものであるのかを手っとり早く知るためには、思いきって
斉藤環『文学の徴候』を手にしてみるべきか、はたまた渡部直己・スガ秀
実『新・それでも作家になりたい人のためのブックガイド』のほうをやっ
ぱり選ぶべきか、についてのできるだけ公正な判断材料
村田 豪
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今回は、前置きもそこそこに、タイトルに示されるようなことをどんどん書
いていくスタイルでいきたいと思います。
斉藤環は、精神科医の立場から、「ひきこもり」を中心に青年病理の問題に
ついて積極的な啓発を展開してきました。近年のその活躍ぶりは、みなさんご
存じのとおりです。またその一方で、ラカン派精神分析を駆使して、メディア
論やサブカル論を手際よくものにするなど、専門にとどまらぬ多才さでも知ら
れているところでしょう。去年11月に出た『文学の徴候』(文芸春秋)では、
それら社会病理的文化論のさらなる発展として、余技ではありながらも、本格
的な(純粋)文芸批評にまでとうとう手を染めてしまいました。しかしこれが
なかなか侮れるものではないのです。
一方、同じ頃出た『新・それでも作家になりたい人のためのブックガイド』
(太田出版)は、文字通りの小説家志望者向けの入門書です。種々多彩な小説
家の作品からじかに引用し、おのおの「書き出し」「語り手の設定」「対象描
写」「会話」など小説を構成する具体的な側面に切り分け、その技術的巧拙を
身も蓋もないほど開けっぴろげに解説しています。そんなふうに読者の「役に
立つ」ことをひたすら目指しているところなどが、この本の「売り」でもある
ようです。しかし、それに加えて、文学の現状を総ざらいする二人の対談が、
全体に批評的見取り図を与えているので、やはり同書は、(純粋)文芸批評
家、渡部直己とスガ秀実による「現在文学ミニ批評集」のような観を呈してい
ます。これも読んで損はないと言えそうです。
さて、この両文芸批評集を比較するうえでまず確認しておきたいのは、取り
上げられている作家がほぼ同じという点についてです。前者では、一作家につ
き一章があてがわれる形式で(約16ページが割かれて)論じられるのにたい
し、後者では、作品引用と評者によるコメントが見開き2ページで済まされて
いるので、斎藤本では二十数名、渡部・スガ本では五十名と、扱われる作家の
人数にかなりの差が現れています。けれど前者二十数名のうち、柳美里、舞城
王太郎、中原昌也、町田康、村上春樹、阿部和重、保坂和志、島田雅彦、小川
洋子、古井由吉、大西巨人、大江健三郎、石原慎太郎、金原ひとみ、村上龍、
島尾敏雄の実に十六名もが、後者でも個別取り上げられています。取り上げら
れなかった残りの作家も、対談部で言及されているものがほとんどなのです。
それに『新・それでも作家に』では、太宰治のような旧来の近代作家も相当数
ラインナップされており、それらは、現代作家にだけ限定している『文学の徴
候』では原則取り上げないものであるわけですから、そういう点も鑑みれば、
この二つの批評集間の一致の度合いは、およそ八割から九割と見なしうるで
しょう。
ところで、これには何か理由があるのでしょうか。私たち一般の読者には、
各作家への言及と評価が両者において比較しやすいのですから、利点とむしろ
呼ぶべきかもしれません。ただし論じられるべき作家の主要な部分が、示し合
わせたわけでもないのにこれだけ一致するのには、やはり何かあるのかと疑問
を持つのが普通でしょう。いえ、本当なら答えはすぐに、以下のどちらかに落
ち着くはずなのです。つまり(1)「評者の好みが一致しているため」か、(2)
「それらが論ずるに値する作家として妥当だから」か、になるに違いありませ
ん。ところが、二つの著作をつきわせる時、すんなりそのような答えが出ない
ことが、私の気にかかるところなのです。
(1)の「好み」については、両者がそれぞれ別の形で否定しています。渡部
・スガは前書きで「(小説の)技術教育に徹する」ためには、“「趣味」を問
題にしない”ことをはっきり断っています。実際、上記一致作家の多くが、そ
の小説作法の無頓着さ、稚拙さについて嘲弄され、あるいはテクニックは及第
点の場合でも、“この感性にはついてゆけない”というような揶揄にさらされ
ているのです。よって「好み」でないものも並んでいることが分かります。
かたや斎藤も、最後の章で「自分の趣味に自信がない」とし、“好悪を第一
の原理にしていない”ことを明かしています。しかし斎藤の場合は、作品を病
因論の枠組みでとらえることを第一にしながらも、「作品もしくは作者への好
意を、それを取り上げる身振りにおいてまず示す」とやや込み入ったことも
言っています。まあどちらにせよ、彼らの「好み」の一致が、対象作家の一致
になっているとは言えないことが分かるでしょう。
ではこの一致は(2)の「論ずるに値することの妥当性」をあらわすのでしょ
うか。結論はおそらくそうなるしかないのですが、それでもこの「論ずべき妥
当性」の根拠は、互いに全く別のようでもあるのです。しかし本当にそうなの
か? どうやら、これらが互いにどんな関係にあるのかが、本稿の主要な論点
になるようです。
『新・それでも』のほうは、割合すっきり説明できます。そこでは著者たち
の主張である“ポストモダン以降の「ディシプリン(規律/訓練)」の衰退が
もたらす文学の変質”が考察の中心におかれ、「妥当性」もこの点から測られ
ています。つまり誰もがろくに技術的訓練を受けずに、いわば「読まずに書
く」ため、技法的に稚拙な作品が大手を振って横行する、しかしそれらが世に
受け入れられているのだとしたら、従来の「ヘタ/ヘタウマ/ウマイ」の境界
が全く見失われざるをえない現状があるのであり、選ばれるのは、サンプルと
してそんな現状を反映している作品か、あるいは、そんな趨勢に抵抗するよう
な新たな可能性を示している作品だと見なせます。だからここでの「妥当性」
は、単に「ウマイ」か「ヘタ」かではなく、やはり「ヘタ/ウマイ」を新しく
線引きしうるような小説の「技術性」ということになるでしょう。
では『文学の徴候』において基準とされる「妥当性」は何でしょう。これは
斎藤自身が論述の各要所で何度も言及する「病因論的ドライブ」が、作品固有
のものとして立ち現れるかどうか、ということに尽きるでしょう。ただし、こ
れが批評基準となっているのは明瞭なのですが、しかしそれにしても、この
「病因論的ドライブ」の意味するところがなんといっても分かりにくいに違い
ありません。というか、何度読み直しても私にもいまだに何だか分かりにくい
ままなのです。ということで、ここはしばらく斉藤の論点に焦点を絞って考察
をしてみましょう。
はじめに斎藤は、自身の議論の枠組みの説明に「病跡学」をあげています。
芸術家や作家の分析に、精神病理学を適用する方法として知られているもので
す。しかしこれは、“作家Aが、傑作Bを作ったのは、病気Cにかかっていた
からだ”というような単純なもので、斎藤から「ハゲタカ的学問」としりぞけ
られています。創造や表現を、単に個人の病気に還元するのは、現在では受け
入れられない考え方でしょう。そこで斎藤は、宮本忠雄という精神病理学者の
提唱した「エピ・パトグラフィー」という分析手法を取り出します。これは作
家の創造行為の病跡論的契機を、個人の病から「関係性」へとシフトさせた点
で画期的だった、と評価しています。具体例として、高村光太郎が妻・智恵子
の「狂気」に触発され、そのことで詩作という創造へと向ったのだ、というモ
デルが挙げられています。
さて、ここまでならなんとなく分かるような気がするのです。しかし、斎藤
は作家の病理的創造の場を、作家個人の人間関係に限定せず、これを「作家と
作品そのもの、あるいは作家と共同体、作家と社会といった複数の関係性の領
域」に拡張し、そこに「創造性の端緒」を見いだすのだとするのです。その仮
説的な場を「病因論的ドライブ」と呼んだのでした。病理を帯びた作品にとっ
ては、さまざまな関係性が「創造の孵卵器としての環境」であることを明らか
にする、そんな方法を通じて作家の創造性を浮き彫りにしようというのです。
ところがこの拡張と命名には、ある曖昧さの問題が織り込まれています。と
いうのは、作家・作品をめぐるあらゆる関係に「病因論的」な磁場となる可能
性を見いだすのはいいとしても、各作家の分析に入ると、具体的に何と何の関
係においてそういえるのかが、あまり明示的でないのです。それよりは「境界
例」「解離」「人格障害」「統合失調症」「ヒステリー」などの表象(=症
状)が、作品にどう現れているかを説明することばかりが中心になっているよ
うに思われるのです。もちろんこの表象は、作家の態度、作品の社会的影響、
他ジャンルとの関わり、小説の形式、物語内の具体物、文体、言葉の選択な
ど、他の誰もが見いだしえないところにまでさまざまに解析されて、単純なも
のではありません。面白いものだとも思います。しかし、はじめに目論見とし
て設定された「病因論的ドライブ」は逆立ちしてしまい、「病理的な関係が創
造にどう影響を与えたのか」ではなく、むしろ「創造とは病理的な表象を生む
ことである」と主張しているように見えてくるのです。
なぜそうなるのか。理由は、もう一つの重大な曖昧さに関わるでしょう。そ
れは「病因論的」分析の遡行が、実は「作者と読者」「作品と読者」の関係に
も及んでしまっているからです。つまり、発見されるべき作家の創造の契機た
る「病因論的ドライブ」が、いつか解釈者の転移の対象とも見なされ、ある場
合には、斎藤自身の作品への転移そのものにさえすり替えられてしまうので
す。いったい作家にとっての「創造性の端緒」はどこに行ったのか? 斎藤批
評を読むうえで、このことが一番の困難の原因ではないか、と私には思えるの
です。
例えば『文学の徴候』冒頭に分析されている柳美里を見てみましょう。柳作
品は、「境界性人格障害(境界例)」的作品と診断され、作品の物語もさるこ
とながら、例のモデル問題にまつわる裁判にも、その「境界例」における敵味
方の二元論、それによって高じる誘惑的・挑発的特徴がよく認められる、と説
明されます。ここまでは良いのですが、すぐに斎藤はこんなことを書いてしま
うのです。
「まずなによりも彼らの作品は飛び抜けて面白い。つまり彼らの意図を越え
てそれらは誘惑的であり、挑発的だ(私が彼らに転移し、結果としてこのよう
な文章を書きたくなるほどに)。」(『文学の徴候』p19)
これは「発見」された柳作品の「病因論的ドライブ」が「境界例」的である
ことの証明としてまず読めるのですが、同時にこの「境界例」的というのは、
分析者が作者に読み込み、与えたがっている(=「転移」する)表象にすぎな
い、ということの主張かもしれないと思えてくるのです。というのも、作品に
強く惹かれることそれだけで「境界例」的であるなら、おおよそのどんな人気
作品も、すべて「境界例」的となりかねないからです。これでは分析の意味自
体が失われてしまいます。
私はこれらのことによって、斎藤の批評が無効だと言いたいのでは、全くあ
りません。作家の創造のファクターを示そうとしているのか、読む側の「転
移」による解釈の病理的創出を描いているのか、どちらか分からなくなってつ
まずくことが多いことを、ただ言いたいのです。斎藤はおそらく「どちらでも
同じことだ」と言うでしょうし、ラカン派精神分析においてはなおさら大いに
「同じ」ものなのでしょう。しかし、書き手が書いた「もの」と読み手が読む
「もの」が同じであったとしても、書き手が書く「こと」と読み手が読む「こ
と」は、やはり同じではないと私は思うのです。
この感じは、実は、別の場所での斎藤環自身の態度を思いだしてもいるので
す。例えば、『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店)所収「『ひきこもり』を
語る倫理」などにおいて、斎藤は、臨床医としてはどうしても「ひきこもり」
を治療の対象として見ることになるが、それでも実際には慎重な手続きをして
患者を診ることにしているのであり、であるからこそメディア向けの啓蒙活動
では積極的に「ひきこもり肯定論」を展開することになると、それぞれの場面
での態度の違いとその意義を繰り返し強調していました。あるいは『解離の
ポップスキル』(勁草書房)を見ても、多重人格をふくめた「解離」像の図式
化の、《一般的妥当性》と《一般化の危険性》を踏まえることが重要だと、丁
寧に考察していたはずです。こういった微妙に違うものを適宜峻別する斎藤の
「倫理」にたいしては、私は非常に立派なものを感じていました。ところが、
今回の文芸批評においては、なぜかこういった要請されるべき区別の意識が、
希薄な感じがするのですが。
まあ、そのことはまた後で少し触れるとして、そろそろ「なぜ取り上げる作
家が一致しているのか」に話を戻しましょう。以上見てきたように「妥当性」
の根拠は、『文学の徴候』と『新・それでも』それぞれにおいて中身としては
全く別のものです。ではその一致は、偶然か、文壇状況的な要因ぐらいでつま
らなく説明されて終わりなのでしょうか。いえ、そうではありません。上記で
検討した斎藤の「病因論的ドライブ」の問題的側面を考えると、それぞれの
「妥当性」の基準の中身は違っていても、扱いはほとんどそっくりだと気づか
されることになります。
『新・それでも』では、「小説を書く技術」を俎上にのぼせ、それが創作に
「役立つ」という触れ込みで本は成り立っていますが、しかしその種の技法の
解説書が、実際に小説の創作に本当に役立つなど、ちょっと想像ができませ
ん。もちろん最初に述べたように、著者たちは、技術的問題点をできるかぎり
明確に分析・開示しています。でもこれは具体作品がまずあってこそ、結果的
に読み手が指摘できる「技術」にすぎず、「ヘタ/ウマイ」どちらで指摘され
ようが、作家たちは「内容を抜きに技法のことを意識して書くはずがない(実
際書かなかった)」と主張するでしょう。つまりこれらは、一応作家にとって
の創造性のファクターだとしても、斎藤のタームを援用するならば「技法論的
ドライブ」とでも名づけたくなるような、解釈側の仮説的な想像物にとどまる
と指摘できるのです。だからでしょうか、渡部もスガも、本気でこの本によっ
てディシプリンを与えうるとは、さすがに思っていないようではありますが。
ここにきて斎藤本と渡部・スガ本の共通した特徴がようやくはっきりしてき
ました。それは作品を前にしたときの、批評の位置どりをめぐっての傾向なの
です。小説創造の秘密を批評の位置からまざまざと見尽くそうという「踏み込
み」であり、その時作家の「ドライブ(欲動)」に直に触れているように批評
を表象すること、と約言できるでしょう。しかし、そんなふうに見えたり思わ
せてくれるような作家はめったにいません。その希少な例が、両作で共通に取
り上げられた偉大な(?)作家たちなのでしょう。
面白いのは、この似ているといえる両者の本が出たのち、文芸誌においてそ
れぞれの著者が互いに批判と反発を交わしあっているところです。
『文学界』(2005年2月号)で渡部直己は、「徴候としての『批評』−斉藤
環『文学の徴候』をめぐって」という長めの書評で、斎藤にいくつかの疑義を
呈しています。これほど履歴や作風の異なる(渡部からすると到底ほめてやる
必要もないものも含む)作家を、分け隔てなく親しげに肯定するのは、「心」
を病む患者を前にした医者の「平等主義」として大目にみるとしても、症状を
見出すのに熱心なあまり、小説そのものの構造や「テクスト性」を無視しすぎ
ではないか。たとえば「語る私/語られる私」がズレをはらむことは、小説を
書く上で原理的に避けられない要請であり、そのことを抜きに「解離」などの
「病理」を当てはめるのは、いわば「転移」のポイントを逃しているというこ
とになるのではないか? にもかかわらず、作品の病理的解明にかくも固執し
続けるなら、著者の目論む「創造的」な批評というよりは、「症状消費」と呼
んだほうがふさわしかろう。細部においては若干の肯定と同意を含めながら
も、全体的に辛辣な渡部の批判は、おおむねこのようにまとめられるでしょ
う。
それに対する斎藤の反応、『新潮』(2005年3月号)に掲載されたやや奇妙
なタイトルの「ネタニマジレス、あるいは批評的弁明」はふるっています。そ
こで名指しはしないものの、しかし明らかに渡部の上記批判文を槍玉にあげて
います。論旨を引き延ばすように長く曲折した渡部の文章を、「当人にとって
本当に重要なことはことごとく些末な事項として除雪機のように路肩に積み上
げ」ていく方法だとして、そこに精神分析的「否認」の身振りを読み、ついに
は「否認型除雪機」というありがたい診断まで授けるのです。これがすぐに渡
部のことと私も気づいたぐらいだから、当たっているのかもしれません。
また、斎藤はそのほか既存の批評家から届いた自著への反応・反発があまり
に予想通りで、「精神分析=還元主義」という紋切り型の図式に寄りかかった
言及ばかりが目立つことに、少々あきれているか、怒っているかして、その
後、批評のあり方と意義についてレクチャーを繰り広げています。その内容を
説明するのはもう省きますが、ここにきて先ほど保留にした斎藤の、他の著作
との態度の違いの感じが何にもとづくのか、よく分かるような気がするのでし
た。
渡部は、斎藤批評における医者としての「善意ある平等主義」を揶揄してい
ましたが、これははっきり見当違いといえるでしょう。そうではなく、臨床医
としての実際の治療の場ではまさにさまざまに自制が働いているのに、こと文
学にたいしては医者としての「お節介」を遺憾なく発揮していると見なすべき
ではないでしょうか。つまり書き手が症状を訴えていなかろうが、治療に同意
しなかろうが、強引にでも診断を下してすっきりしたいのです。特に行儀の悪
い批評家には、その口を塞いでやるぐらいに分析の処方を詰め込むという、い
くぶん手荒い所業に出てもよい、なにせ彼らの無意識は領域が大きくて、それ
ぐらいでは癒えず、しゃべるのをやめることはないだろうから、という感じな
のです。文章中、「批評」は《転移の強要》と化して、ところどころヒステ
リーっぽく見えますが、それも本人は当然分かってやっているのです。まあ、
文学の場なのだから、それぐらい許されてもいいでしょう。
さて、そろそろ紙幅も尽きてきました。結局、斎藤本、渡部・スガ本ともに
その作家論の中身には触れないまま終わるのは、ややズルイような気がします
が、そこまで力が及びませんでした。その代わりといってはなんですが、最後
に両批評集にそれぞれ寸評をつけておきたいと思います。
『文学の徴候』:過剰転移をも恐れない野心的解読によって、取り上げた作
家たちには、読むべき価値があるのだということを十分に伝えています。私も
著者の解釈に誘われて、今まで読んでいなかった舞城王太郎、滝本竜彦、保坂
和志などの作品を手にとることができました。引き続き、佐藤友哉、笙野頼子
などにもチャレンジしてみたいと思います。ただし、著者が解釈に盛り込んだ
肯定的分析の「リアリティ」が、当該作家の実作品には見いだせず、落胆する
こともあるようです。
『新・それでも作家になりたい人のためのブックガイド』:本書の効果は明
瞭です。著者たちの意図ほどに、読者を創作に向かわせたり、また断念させた
りすることもあまりありませんが、かなりの程度の確率で「批評とは面白いも
のだ」と気づかせてくれるでしょう。小説をこんなに勝手に切り刻んだり、作
者に言いたい放題言いのけられるのですから。もっとも、ある種の作家は読ま
なくていいという独断を養いやすいので、そこは注意が必要かもしれません。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。腹ぺこ塾塾生。
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////// 新刊紹介 //////
『メディア・ビオトープ――メディアの生態系をデザインする』
水越 伸 著
紀伊國屋書店・A5変型判・176頁・定価1575円 ISBN:4-314-00977-2
黒猫房主
/////////////////////////////////////////////////////////////////////
「メディア・ビオトープ」とは聞き慣れない言葉だ。それもそのはずで、この
言葉は著者による造語なのだ。もともとビオトープとは生態学の用語で、「生
物の棲息に適した小さな場所」を意味する。そのビオトープにメディアを複合
させて、あらたな方法概念を造り出したのだ。その企図するところは下記の通
りである。
「小さな点のような空間にいろいろな生物が棲めるように工夫をし、点と点を
たがいに結びつけ、網の目状に育み、ゆっくりと時間をかけて地域の生物生態
系を再生する。ビオトープとはそいう日常生活に根ざした生態学的な戦略のこ
とをいう。日本では里山保全運動がこれと深く結びついている。
僕はそのようなビオトープという営み、もののとらえ方を、メディアに応用
できないかと考えた。今のメディア社会が抱える問題を打倒し、僕たちが自律
的・主体的にメディアと関わることができるような状況をもたらす道筋を、メ
ディア・ビオトープという隠喩で照らし出すことができないかと考えたのであ
る。」(p4〜p5)
昨今、情報デザインやメディア・リテラシー(「媒体素養」という訳語もあ
る)の重要性が言挙されることが多くなった。それは、一方的に享受するだけ
のメディア消費者からの自律を促している。しかしそれは可能なのだろうか。
そして自律的・主体的な「個人」は存在するのだろうか。インターネットが普
及してさまざま可能性がでてきたが、果たしてそれを用いて社会変革を起こす
ような「個人」が今の日本人には存在するのだろうか、という老哲学者・鶴見
俊輔のペシミスティックな問いが1998年になされている(季刊「本とコン
ピュータ」1998年春号掲載)。それは鶴見の挑発でもあったが、その挑発に真
顔で応じたのが著者の水越である。
その回答である本書の特長は、難解な専門用語を使わず自筆のイラストで視
覚的に解説されていることや、事例が具体的で比喩が巧みなことだ。かてて加
えてメディア状況の分析や批評だけに終わらず、あらたな持続可能なメディア
環境の組み替え(デザイン)をしていくための仕掛けが組み込まれていること
にあるだろう。
それは例えば、創造知へと発芽する球根育成の比喩で語れる。あるいは
「点」として孤立したままのメディアではうまくゆかないが、それらを結びつ
けて「面」に育てることで、国家や資本にやすやすと引き裂かれたりつぶされ
ることなく、徐々に社会の変革がなされてゆく道筋として示される。
しかしその根底には、深いニヒリズムがあると著者はいう。それは、「現代
のメディア環境が抱える問題の深さと拡がりを、たじろがずにじっと見つめ、
どこにも逃げずに心の底から理解しようとする態度のことだ。そしてそれらの
問題とともに生きていこうとする覚悟のこと」なのだ。
この覚悟は、積極的ニヒリズムと呼ばれてよいと思う。だから著者は続けて
次のように言い得るのだろう。「メディア・ビオトープは、ニヒリズムに裏打
ちされ、だからこそ希望と可能性を志向する、実践的な隠喩の体系なのであ
る」と。
可能性を現実化するのは、希望という志に違いない。平易な文体と二項対立
ではない発想のしなやかさも手伝って、読後感の気持ちのよい本(スケッチ
ブック)である。
★水越 伸(みずこし・しん)
1963年生まれ。東京大学大学院情報学部助教授。メディア実践研究プロジェ
クト「メルプロジェクト」リーダー。著書に『メディアの生成――アメリカ
・ラジオの動態史』(同文館)、『デジタル・メディア社会』(岩波書店)
など。
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★第53回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年03月27日(土)午後2時より5時まで。
■テキスト:永井均『私・今・そして神』(講談社現代新書)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★昨日、確定申告をすませた。なぜか晴れ晴れとする気分なのだ。別に税金を
納めるのが善良な「国民」として嬉しいとかではなく、年度末の気懸かりで面
倒な申告作業から解放された、安堵感のようなものか。
★水越伸さんの新刊を読みながら、本誌ガ創刊のころを想い出していた。
(本誌創刊の辞 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re01.html#01-1 )
★本誌は独立系の小さな評論メディアだが、それに自足することなく「点」か
ら「面」への協働を活性化したい。(黒猫房主)
●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』47号(通巻49号)(2005/03/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
■流通協力:「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/(ID 0000015503)
■流通協力:「Macky!」http://macky.nifty.com(ID 2269)
■流通協力:「メルマガ天国」http://melten.com/(ID 16970)
■流通協力:「カプライト」http://kapu.biglobe.ne.jp/(ID 8879)
■ Copyright(C), 1998-2005 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●
■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。
>TOP
■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
無断部分転載は厳禁です。
■メールでの投稿を歓迎します。
◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』48号(卯月号)
(2005/04/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[49号は、2005/05/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「マルジナリア」第7回:世界の背理-----------------------中原紀生
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第7:「世の中」って何なんだ〜!?-----ひるます
◆INFORMATION:ブックフェアのご案内/第54回「哲学 的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺「私的言語への感想」(編集後記)-------------黒猫房主
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★本誌はメルマガ版ですが、他にバックナンバーとしてWeb版があります。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.html
それと並行してBlog版を47号より立ち上げました。各論考ごとに読者の方が
コメントや感想を書き込める機能がありますので、ご利用ください。
http://kujronekob.exblog.jp/
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////// 連載「マルジナリア」第7回 //////
世界の背理
中原紀生
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●あいかわらず『私・今・そして神』の周辺をたゆたっている。3月の「哲学
的腹ぺこ塾」で報告することになったので、前回読み飛ばしてしまった箇所や
根負けして思考を中断した論点、やり残した作業などを洗い出し、洗い出すだ
けでなく深く読み込み、思考を極め、作業を全うさせておきたいと思った。余
力があればこの際、永井均の「私哲学」に鋭く迫ってみたいと思った。
たとえば、前期三部作『〈私〉のメタフィジクス』『〈魂〉に対する態度』
『〈私〉の存在の比類なさ』の「独我論」と、後期三部作『マンガは哲学す
る』『転校生とブラックジャック』『私・今・そして神』の「中心化された世
界の存在論」とでは何が違うのかとか(永井均の哲学はまだ終わっていない、
というか実はまだ始まっていないのだから、中期三部作というべきか)。
●でも、何度読み返してみても、あいかわらず十分に読み込んだ気がしない。
当たり前すぎてつまらない話題がくどくど続くかと思うと、その同じ文章がこ
れまでとまったく違う(異様な)様相を帯びて迫ってくる。その逆の現象も頻
繁に起こる。永井氏自身の言葉を使って表現すれば、まったく同じ文章の「哲
学的緊張」が高まったり薄まったり、それが「心の琴線」に触れたり触れな
かったりする。私の問題意識、というか「哲学的感度」が永井均の「問題水
準」を(時々は)凌駕したり、(たいがいは)到達しなかったりするというこ
となのかもしれない。
「十分に読み込んだ気がしない」というのは、十分に理解できたときの爽快
感(征服感)のようなものが読後わきあがってこないというのとは違う。分か
るか分からないかという水準でなら、『私・今・そして神』はとてもよく分か
る。分かりすぎてつまらい議論だとさえ(時々は)思う。
●ただ、よく分からないところもある。私的言語の三つの段階が論じられた第
3章は、何度読んでも分からない(正確には、何が分かったのかが分からな
い)。私には私的言語をめぐる哲学界での議論の本筋が見えていない。だから
「玄人筋」を相手にした第3章の議論が腑に落ちないのだろう。
私的言語とは祈りである。論証抜きで、私はそう直感している。そういう観
点から第3章の議論を読み直すと、もしかすると霧が晴れるのかもしれない
(そういえば、『〈子ども〉のための哲学』に「哲学をすることは、ある点で
やはり、祈ることに似ているだろう」と書いてあった)。
●永井氏は「まえがき」で、第2章の「最後に出てくる『どちらか一方が私な
ら……』という一つの表現の二つの意味が理解できたら、本書の中心主題は理
解されたことになる」と書いている。
該当箇所を抜き書きする。私が「永井R」と「永井L」の二人の私に分裂し
てみたら、私はなぜかLのほうであった。この事実の重みは決定的だ。ところ
が、ふたたび融合した後では、この事実(私はLであったという過去の事実)
は跡形もなく消えてしまう。だが、分裂時に成立していた「どちらか一方が私
なら他方は私ではない」という事実が消え去るのではない。この同じ一つの表
現の、ライプニッツ的意味(特定の側が現に私になってしまっている)は儚く
消え去り、カント的意味(どちらか一方だけが私でありうる)は時間を超えて
生き残るのだ。
私には「どちらか一方が私なら他方は私ではない」という一つの表現の二つ
の意味が理解できる。少なくとも、概念としてはよく分かる(ライプニッツ的
偶然とカント的必然?)。しかし、正直に告白すると、理解できたからといっ
てそこにぞくぞくするようなリアルな「問題」を感じない。
●ここで注記を一つ。私がいいたいのは、私が分裂するなんてそんな非現実的
なことを想定した思考実験には「問題」が感じられない、ということではな
い。
小泉義之氏は『ドゥルーズの哲学』で、太郎と花子をめぐる記憶交換や身体
交換といった思考実験の出発点となる「SF的発想」を批判している。
《そもそも、太郎と花子を死なせないような仕方で、記憶や身体を交換するこ
とが、自然界において可能なのか。仮に不可能ならば、不可能なことの想定か
らは理論的に任意の結論を引き出せるから、論争に決着はつかないし、論争は
無意味であるということになる。何でもアリになるから、何も分からないとい
うことになる。》
これに対する永井氏の反論(?)が『転校生とブラック・ジャック』に出て
くる。
《われわれはいま、この世界が現実にどうできているか、どうできていない
か、を問題にしているんじゃなくて、どうできていざるをえないか、どうでき
ていることはできないか、を問題にしているんだ。手術室間の瞬間移動は、こ
の世界でたまたま成立している物理法則によって物理的に不可能だけど、それ
を考えることはできる。それに対して、時空連続性とも短期記憶の連鎖とも連
合していない裸の《おれ》が世界の中で持続するということは、考えることそ
のものができない。考えようとしても何をどう考えればいいのかわからなくな
るからね。そういったことは、こういう思考実験を積み重ね、組み合わせてい
くことによってしか、明らかにならないんだよ。》
思考実験とは神学の異称である。少なくとも、神学に固有の方法であ。私自
身そう思っているのだが、このことはまた別の機会にじっくり考えてみること
にしよう(たとえば「火星に行った中国人は赤い猫の夢を見るか?」とか「グ
レッグ・イーガンの『貸金庫』は哲学の問題をはらんでいるか?」などの考察
とあわせて)。
●「どちらか一方が私なら他方は私ではない」の二つの意味が理解できたから
といって、そこにある「問題」を実感できない。それと同じことが、「哲学は
まだ始まっていない」という節で永井氏が書いている問いについてもいえる。
《「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという
根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」――肝心かなめのこの問いに、
多少とも肉迫できた哲学者は、史上ひとりもいない。哲学の終焉とか哲学の生
き残りとかを語る人々がいるが、私は哲学はまだ始まっていないと思ってい
る。》
ここがキモなのだと思う。「私の分裂」はこの問いの問題性を実感させるた
めの思考実験なのであって、こういうありふれた事実に即した問いかけに「心
の琴線」を激しくふるわせる「哲学的感度」をもった人だけが『私・今・そし
て神』を十分に読み込むことができるのだ。
●実は、正直に告白すると、私も(時々は)ぞくっとくることがある。なにか
途方もない哲学的難問につきあたったという実感(感触)を覚えることがあ
る。そしてその事実はたちどころに儚く消え去り、記憶に残らない。「ぞくっ
ときた」と過去形の言葉で報告できる記憶の枠組みのようなもの(カント的事
実?)は残るが、肝心かなめの「ぞくっ」という実感(ライプニッツ的事実
?)は完璧に消え去る。だから同じ実感を何度でも初めて味わうことになる。
何度読んでも十分に読み込んだ気がしないのは、読むたびに初めてたちあがる
実感の同一性を認定する立場がどこにもないからだ。
●「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという
根本的な違いが生じているのはなぜなのか?」――この問いにぞくっとくると
き、私はおおよそ次のような二つの思いが重ね合わさった複合的な思いにとら
われている。
その一。幼児が言葉を覚え一人前の口がきけるようになって、ある日ふと、
なぜぼくはぼくで、ぼくはきみじゃないんだろうと疑問をいだく。それは言葉
に精通するなかでしか生まれず、しかも言葉でしか表現できない問いでありな
がら、言葉(概念)を超えた、あるいは言葉以前の「存在」を問うている。存
在の意味や本質をではなく、存在そのもの、そして存在がもたらす感触の違い
(ぼくときみの根本的な違い)を問うている。そのような問い、つまり言葉な
くして生じず、表現されず、しかも言葉を超え、言葉をもってしては答えられ
ない問いがなぜ問われうるのだろうか。
その二。私と私でない人間が一斉に消失し、地上から私と私でない人間のす
べてがいなくなったとしよう。そして、魂とか神とか空とか呼び名はなんでも
いいけれど(それらも所詮は概念にすぎない)、一つの大きなもののうちに融
合し統合されているとしよう。そのとき、私と私でない人間との根本的な違い
はどうなっているのだろう。すべてが私になるのだろうか。それともすべてが
私でないものになるのだろうか。あるいは私が消失した時点で、私と私でない
人間との関係も消失するのだろうか。そもそも私と私でない人間との根本的な
違いは、そのような「関係」なのだろうか。
第二の思いは、同じ実感を何度でも初めて味わうとか、同じものが何度でも
初めて生まれてくるとか、一回性をもった物語が何度でも反復するといったこ
とへの不可思議な思いと表裏一体をなしている。でも、この「私的思い」の間
のつながりを語る言語が私にはみつけられない。
●『〈私〉のメタフィジクス』を最初に読んだちょうどその頃、私は八木誠一
氏の神学啓蒙書にはまっていた。
八木神学のキーワードに「統合体」がある。「互いに異なり、それゆえ相互
否定的な一面を有する複数の個が、同時に相互否定媒介的にのみ成り立ち、し
かも全体としてひとつのまとまりであるようなもの」。この定義はあまり心の
琴線に触れないけれど、八木氏は統合体の例として精神や音楽などをあげて、
その統合をもたらす原理なり力が神であると書いていた(と思う)。
私は、聞きかじりの脳科学の知識(人間の脳は、反射脳=爬虫類の脳、情動
脳=前期哺乳類の脳、理性脳=霊長類の脳の三位一体でできている)と組み合
わせて、脳もまた統合体であると考えた。そして、その統合をもたらす力、と
いうか現に統合している人間の脳の中ではたらいている力が神であり、同時に
神の観念を人間の意識にもたらすのだと考えた。
つまり、神は私のうちに臨在している。さらに、私でないという根本的な存
在論的断絶に隔てられた他者のうちにも神は偏在している。私たちは一つ一
つ、そして一つなのだ。同じ私が(つまり神が)何度でも初めて存在し、かつ
唯一の私が(つまり神が)同時に複数存在する。ここにこそ永井均の「私哲
学」のよってたつ「現実的」な基盤がある。永井均の哲学は、だから永井神学
なのだ(思考実験による実験神学!)。
神学(テオロギア)とは弁明(アポロギア)である。弁明されるべきは神の
存在であり、たとえば神にして人であることの背理である。永井神学はやが
て、その自らがよってたつ基盤(背理)の構造解明へと向かうだろう。そし
て、そうした構造解明の持続こそが、実は弁明されるべき背理を構成すること
になるだろう。私はそう考えた。
●実際、『私・今・そして神』には受肉の秘義だとか神にとっての他我問題と
いった、弁明されるべき背理をめぐる話題が頻出する。それどころか神の位階
などという、いったいだれがそんなことを語りうるのか(高階のナレーター問
題!)と問い返さずにはいられない話題さえ論じられている。
だから本書はやはり、永井神学の『方法序説』であり『省察』なのだ。「私
は、本書において、この同じ世界に私と内属している読者の方々に語りかけて
いるのではない」と永井氏は書いている。そうだとすると、この書物は「祈り
の書」(聖書)であるというべきかもしれない。
そういえば『転校生とブラック・ジャック』では、先生NとAからLまで十
二人の学生による最後の晩餐での会話が記録されていた。四人の学生の「福音
書」も挿入されていた。そして、〈私〉がいなくなった後の世界を描いた終章
「解釈学・系譜学・考古学」は、『私・今・そして神』の到来を予言していた
(解釈学的世界=低次の神の世界=想像界、系譜学的世界=高階の神の世界=
象徴界、考古学的世界=開闢の神の世界=現実界?)。
●哲学はまだ始まっていない。永井氏のこの言葉は、私には哲学問題の連続発
生説の表明に聞こえる。私がいて、私でない人間がいて、そして世界がある。
そのこと自体のうちに永井哲学の、いや永井神学のよってたつ基盤があり背理
があるのだから、哲学はつねにすでに始まっている。そして、同じ問いを何度
でも初めて問うことのうちに、問われている当のものが存在する。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第7回 //////
「世の中」って何なんだ〜!?
ひるます
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獏迦瀬:いよいよひるます氏の事務所では『オムレット2』に向けた動きが本
格化してきましたね〜。
伊丹堂:ふ〜ん、ほんとなのかね。ま、どうせワシは主役ではないからの
(笑)。
獏迦瀬:とりあえず事務所の「ユニカイエ通信17号」で『オムレット』の誤植
暴露大会がありました(http://www.unicahier.com/17/)。なんか伊丹堂さん
のノドチンコは逆さに向いてるらしいですね(笑)。
伊丹堂:あれね、よく気づくよ。
獏迦瀬:まあ、いずれにしても『2』をやるなら、もっと売れるものにしない
としょうがないですね。流行の「頭がよくなる…」とかを冠につけたらどうで
しょう。
伊丹堂:「頭がよくなる哲学マンガ」…ねぇ。まあ、マンガはともかくとし
て、この対談シリーズ読んでりゃ、そうとう頭はよくなっとるはずなんじゃが
ね(笑)。
獏迦瀬:はあ…そうすか。でも今はやりの「頭がいい人悪い人」ってのは、人
に「頭がいい」とか「悪い」と思われるという問題であって、実際に頭がいい
かどうかは関係ない話みたいですね。
伊丹堂:当たり前じゃ、マニュアル読んで頭がよくなるわけがない。
獏迦瀬:はい…、でもこの対談は?
伊丹堂:頭をよくするための対談ではないが、結果としては頭がよくなってし
まう(笑)。
獏迦瀬:そうなんですか…。
伊丹堂:っていうか、かのベストセラーを読むと、ようするに「頭が悪い」と
いうのは、人やモノゴトへの対応がヒステリックということじゃろう。対応に
ゆとりがないというか、そもそもコトに対応せずワンパターンの反応をするか
ら馬鹿に見える。ヒスっていうよりは、神経症的、というべきかもしれんが。
獏迦瀬:なるほどね。われわれも「カルチャーレビュー42号」でヒスをとりあ
げました。
伊丹堂:まっとうにモノゴトに対応してりゃ、馬鹿には見えないもんよ。
獏迦瀬:そうゆう役に立つ対談ってことですね(笑)。というわけで、前回、
実存という話をしまして、いかに生きるべきかという「道」が示される必要が
ある、とそんな話になりました。その「道」というのが結局、まっとうさとい
うことになりますかね。
伊丹堂:というか、まっとうかどうかは結果論じゃからな。ただまっとうであ
ろうとする努力があるのみよ。
獏迦瀬:どうすればまっとうになれるんでしょう。
伊丹堂:言葉でいえば簡単なことじゃが、まっとうさというのは、日々、まっ
とうに生きる人に出会ったり、自分の行動を吟味したりしつつ、じっくりと蓄
積されていくような、なにかとしか言えんからな。ようするに道を究めればい
いわけよ。
獏迦瀬:道ね…。
伊丹堂:『オムレット』的にいえば「関心事」を極める。人は具体的なモノゴ
トを通じてしか成長できんようにできてる。なんらかのモノゴトをヨリドコロ
としつつ、創造し、人とコミュニケーションをするということでしか「まとも
さ」は身につかんと言ってもいいわな。
獏迦瀬:たしかに。ひとりで哲学的な思考にふけっていても、進歩はない気が
しますね。
伊丹堂:だいたい哲学「しか」やってない人の話が面白くもなんともないの
は、そのせいじゃ(笑)。
獏迦瀬:ああ(笑)、そういう人の話で突然、シュミの話とか出てくると最悪
ですよね。
伊丹堂:本人は気の利いたたとえ話のつもりなんじゃろうがな。
獏迦瀬:いずれにても、そういうシュミでなく…関心事ということですか。
伊丹堂:まあ、ことさらに関心事ではなくて日常的なコトガラでも、何十年に
もわたってそれを極めたという人がまっとうな人になる、ということは結果論
としてはある。しかし一般には関心事を通じて自らを鍛えた方が、成長は早い
わな。
獏迦瀬:関心事はいかにして見つければいいのか…という話は『オムレット』
の蛇足対談でもしましたね(笑)。
伊丹堂:その話はこの連載でいえば、第二回で語った「文化」の問題というこ
とになるわけじゃろ。
獏迦瀬:ああ、文化ね…ようするに「生き方のフォーム」ということでした。
伊丹堂:関心事やら生き方のフォーム「文化」としてこの社会というか「世の
中」に伝承され、蓄積されとるわけじゃな。
獏迦瀬:「文化」の話のときにも、文化は実存の可能性の土台というか、ヨリ
ドコロである、という話が出てましたね。そこで問題なのは、日々の習慣化さ
れた行動も文化というか生き方のフォームに基づいているし、人がある種、倫
理的な志をもってそれこそ「実存」する場合も、そこに文化的なフォームが必
要ということになると、その違いは何なのか? ってことなんですが。
伊丹堂:いや、そりゃ単純に文化の質の違いじゃろ。というか、人はさまざま
なフォームを同時に使い分けて生きているということじゃろうな。
獏迦瀬:それはそうなんでしょうけど、ただ日常的な生活のフォームという
と、非常に受動的な感じがするじゃないですか。志をもった実存もまた受動的
にフォームをなぞっているだけとすれば、人はただ流されて生きているという
感じがします…、というか、むしろ人は受動性において生きているという捉え
方もあると思いますが…。
伊丹堂:なるほど、というかそれは当の本人の意識にとって、どう受け止めら
れるかという解釈の問題のような気もするがの〜。
獏迦瀬:解釈ね…。
伊丹堂:というか、「La Vue」の「倫理って何なんだ〜」や「正義って何なん
だ〜」の時からすでに、倫理的行為において、「〜するのが正しい」というコ
トのリアルが到来し、それを人が行うというのであれば、それは受動的な行為
なのではないか? という議論はあったわけよ。
獏迦瀬:習慣=ハビトゥスによるのであれば受動的であろうと…。
伊丹堂:このへんはワシは参加しとらんが、「臨場哲学」の「ハビトゥスの哲
学」(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/RIN/head72.html)でちょっとふれ
ておったな。
獏迦瀬:山内志郎さんの「中動相的事態」という話ですね。喜んだり悲しんだ
りという人間の感情は、受動的に悲しまされたり、能動的に悲しんだりしてい
るわけではなくて、自ずからわき起こってくる(受動的)ものでありながら、
自らの表現として能動的な側面もあるという、どちらでもあるものとして「中
動的」ということを言っていましたね。
伊丹堂:うまい言い方じゃが、一般人には使いにくいわな(笑)。ワシ的にい
えば、リアルの到来…ということじゃが、ここでなぜそれを「リアルに受動的
に動かされる」と表現しないかというと、それには深いわけがある。
獏迦瀬:というと。
伊丹堂:『オムレット』をはじめから読めばわかるが、基本的にこの本は脳神
経系で、どのように世界が認識されているか、という話からはじまっている。
獏迦瀬:認知科学というジャンルにおかれたりしてますからね(笑)。
伊丹堂:そこで受動というと、「外界からの刺激」によって、受動的に脳内の
信号が伝達され、それに対して人間の行動が引き起こされる…という機械的な
説明になってしまう。そんなわけで、受動という言葉は使えないわけよ。
獏迦瀬:なんだそんなことですか(笑)、『オムレット』では先制的作用とい
うようなことを言ってましたね。生き方のフォームの場合もそういう先制的な
ものである、と。
伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。ようするにコトの創造というかね、あるヒラメキ
が到来したとしても、それを実行しないということが人間にはありうるし、具
体的にそれを実行するとなると、たんに「受動」ということではすまされない
デテールというものがあるわけよ。
獏迦瀬:たしかに受動的なヒラメキだけではこういう対話文は書けませんよ
ね…。
伊丹堂:それはどうか知らんが(笑)、いずれにしても、生き方のフォームと
いうことには、そういう受動的かつ能動的で、かつ「そうしなくていいのでし
ない」とか、「そうしなくていいのにする」というさまざまなファクターがか
らみつつ、人の営みが営まれていくわけじゃね。
獏迦瀬:そういう営みが実際に行われ、文化がフォームとして蓄積されていく
「場」が、伊丹堂さんのいう「世の中」ってことですよね。この概念もちょっ
と説明してください。
伊丹堂:「世の中」という言い方自体は、たんなる名付けにすぎんから、なん
と言ってもいいわけじゃが、ようするに単に「社会システム」という言い方だ
と、それこそ受動に人が社会の仕組みを成り立たせるように動かされていると
いうニュアンスが強くて、そういった人の営みという側面が捉えられないの
で、あえて使っておるわけじゃが。
獏迦瀬:「世の中」の伊丹堂的定義は「人々がその都度その都度の目先のコト
ガラへ配慮してする行為の連鎖が全体としては調和して成り立っている(社
会)システム」ってことでしたね(「正義って何なんだ〜」La Vue8号掲載、
等)。
伊丹堂:目先のコトガラを配慮していつつ、全体として破綻に至らないのは、
結局は、その配慮が、実は全体の中で錬成されたフォームをヨリドコロとして
行為していたからだ、という循環論法になっているわけじゃがね。
獏迦瀬:世の中というのは、ようするにそういう循環論的なものだということ
ですかね…、ようするに以前も話に出ましたが「せ〜の」で始めたものでない
以上、世の中の「はじまり」というのは気がついたら循環していた、というこ
とでしかないんでしょうからね。
伊丹堂:せ〜ので始まる社会学は全部ウソというか、物語ってことじゃな。
獏迦瀬:ところで社会と「世の中」は違うわけですよね。
伊丹堂:これは「世間学」の教えるところじゃが、ようするに「社会」という
のは、特殊なヨーロッパ的概念。
獏迦瀬:日本には「世間」はあっても「社会」はない、と。社会は個人と個人
の契約によってつくられている…ということですよね。
伊丹堂:必ずしも個人ではなくて、階級とか団体とかいろいろな主体がある
が、いずれにしてもその関係が「契約」というもんであるってことな。契約っ
ちゅうのは、ある種の敵対的というか分断的な関係にある者どうしが第三者
(たとえば神)を仲立ちにして、とりあえず手をとりあうっちゅうことじゃ
な。
獏迦瀬:ようするに「共通の時間」を生きていない者同士の結びつきってこと
でしたね。
伊丹堂:しかし日本の「世間」の場合は、逆にそういう「共通の時間」を介し
て人々がつながっているという状況なわけで、ようするに「社会」ではない。
獏迦瀬:ホリエモン対フジサンケイグループは象徴的な事件ですよね。
伊丹堂:まさにね。法というか経済的な所有関係を根拠に会社を経営しようと
したホリエモンと、会社をつとめあげてきた「ウチの会社」という共同体意識
で会社を経営しようとする現経営陣とのしのぎあいは、「社会」対「世間」
じゃな。ま、それが「ニュース」になること自体、日本にいかに「社会」とい
う関係がないかの表れでもあるわな。
獏迦瀬:現時点(3/23)では、高裁で「新株予約権発行差止め」が認められ、
いちおう日本にも「社会」はあるということで踏みとどまったわけですが。
伊丹堂:いずれにしても、そういう「社会」を持たない社会というと変じゃ
が、そういうモンは日本だけじゃなくて、世界にはいろいろとあるわけで、そ
れを語るには「世の中」という言葉が必要となる。
獏迦瀬:ようするに「社会」も「世間」もひとくくりにする集合概念ってこと
ですかね。
伊丹堂:というよりも、社会や世間というのは、それこそ「文化」的な概念で
あって、その基体となる人々の行為の連鎖そのものを「世の中」ということに
すれば、わかりやすい。
獏迦瀬:「社会」は文化、つまり人が人とどうつきあうか? のフォームのひ
とつというわけですね…。
伊丹堂:それと「社会」というと「個人と社会」というように、個人とのかか
わりは恣意的というか偶然的なものに感じるじゃろ。
獏迦瀬:社会とは関係なく個人が存在しうるという感覚ですか。
伊丹堂:実際、社会というのは、そこから抜けることができるわけよ。契約な
んじゃから、それを破棄すればいいわけじゃからな(笑)。
獏迦瀬:まあそうでしょうけど…。
伊丹堂:じゃが、人はコトをなす者として、なんらかの他人との「かかわり」
の中でしか生きていくことはできない。人が存在するってことはウラハラに
「人とのかかわり」つまり「世の中」に生きる、ということでもある。そうい
う意味で「世の中」は、人が生きる宿命的な基盤なんじゃな。
獏迦瀬:切り離すことのできない関係…。人間は人の「間」と書く、というこ
との意義というのが昔からいわれますが、まさに「世の中」というのがそれな
のかもしれませんねー。
伊丹堂:ふふ、しかし逆に「世の中」の方からすれば、人が生きることによっ
てはじめて「世の中」はその体をなしている。人は日々、世の中を創り出して
いる、ということにもなるわけじゃ。
獏迦瀬:なるほど…。
伊丹堂:キミも日々、世の中をつくりだしているという自覚をもって生きてゆ
きたまえよ。
獏迦瀬:精進します…。ところで「世の中」という概念で重要なのは、それと
「政治」ということがセットになってるってことでしたね。以前「正義とは」
の話でも話題に出ましたが、そのような「世の中」に対して、超越的に介入す
る構造を「政治」という…。世の中は「目先の配慮」で動いているから、それ
だけではうまくいかないので、そういうものが必要だということでした。
伊丹堂:まあそれはひとつのストーリーとしてってことじゃな。ようするに世
の中のはじまりが循環論的なものであるのと同じように、いつ政治が始まった
のかはわからないくらいのもので、ようするにそれほど世の中と政治というの
は密着した構造としてあるわけじゃな。
獏迦瀬:どんな時代の社会、じゃなかった世の中にも当てはまる構造…と。
伊丹堂:と、定義しておくと、非常にモノゴトが明解になるってことじゃな。
肝心なことは社会的に、というよりも、公共的にまっとうなことをなそうとす
るならば、必ず政治的な権力というものの行使が必要になる、ということじゃ
な。これについてはその正義論や「民主主義入門」の付録コラム
(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/COMIC2/minshu.html)でも語ったよう
に、政治=国家と固定的にとらえるのではなく、一般的に超越的観点から世の
中に介入する行為そのものを政治および政治権力と捉えるべきということなの
じゃな。
獏迦瀬:でしたね。ところで、ここで問題なのは「世の中」という場合、どの
範囲をひとつの世の中として捉えるか、ということです。
伊丹堂:世の中そのものの中に世の中の境界は存在しない。境界はそれこそ、
超越的な介入としての「政治」によって、明確にされるしかないとも言える
な。
獏迦瀬:現実的には国境ということになりますよね、政治が国家の壁をつく
り、戦争が引き起こされるというのは必然なんでしょうかね。
伊丹堂:それは、それこそ「政治の質」の問題じゃないのかの。ようするにど
ういう風に他者を配慮する文化なのか、ということじゃな。
獏迦瀬:他の「世の中」をどう配慮するか、ということですよね。これはグ
ローバリズムの問題とからんできますが。
伊丹堂:グローバリズムというにのは結局は「他」の世の中の存在を許さな
い、ということじゃな。
獏迦瀬:境界をなくしたい…?
伊丹堂:というより、やってることは「他」を滅ぼしたいってことじゃろ。ど
う考えてもイラクの人を自国民と同じ豊かな生活水準にしたい、つまり同一の
世の中としたい、とは考えとらんじゃろ。
獏迦瀬:滅ぼしたい…ですか。そういえば先日、朝日新聞書評で大澤真幸さん
の『現実の向こう』という講演集が取り上げられてました(評者・松原隆一
郎)。なんでもヨーロッパは普遍的正義を信じていて、「話せばわかる」モダ
ン状況にあり、アメリカは「話してもわかりあえない」ポストモダン状況にあ
るというんですね。ようするに「話してもわからない」から攻撃するって感覚
だというんですね。
伊丹堂:そんなのモダンとかポストとか高級な話ではぜんぜんなくて、単なる
幼稚さじゃないのかね〜。
獏迦瀬:たしかに…。
伊丹堂:政治の質の問題は結局は国民というか、世の中を生きる人々の意識の
問題じゃからな。教育の問題でしかないんじゃが、いまやそれを言うのもむな
しいわな。
獏迦瀬:まずは自分の世の中をまっとうに考えなきゃないすよね。
伊丹堂:世の中に生きるのが宿命である以上、それが必然的に伴う「政治」と
いう構造に関心を持って参加するのは、まっとうに生きる人にとっては当然の
ことなんじゃな。
獏迦瀬:精進しますって、今日は2度目ですね(笑)。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★ブックフェアのご案内★
「メディア・ビオトープの本棚」を下記の書店にて開催中です。
■ジュンク堂書店大阪本店3階東側レジ側のフェア棚)
(2005年3月中旬より4月中旬まで)
■ブックファースト大阪店(2階人文書平台)
(2005年4月より月末まで)
●展示写真は下記のWebをご覧ください。
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/bookfair.html
「希少本フェア」
■ブックファースト大阪店(2005年4月下旬より)
---------------------------------------------------------------------
★第54回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:05年04月17日(日)午後2時より5時まで。
■テキスト::「形而上学叙説」
(『モナドロジー 形而上学叙説』中公クラシックス41巻所収、他)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺「私的言語への感想」(編集後記)■-------------------
★先月の「哲学的腹ぺこ塾」では、永井均の最新作『私・今・そして神』(講
談社)の読解を中原紀生さんのレポートで行った。思い起こせば、この塾の第
1回目は永井均の『<子どもの>ための哲学』(講談社)からスタートしたの
だった。最近知ったのだが、「勝手に永井均評論ページ」
(http://ugpc.hp.infoseek.co.jp/nagai/index-nagai.html)では、中原さん
(オリオン)の論考「「私」がいっぱい」
(http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/17.html)と「哲学的
腹ぺこ塾」の1回目と2回目のレジュメがリンクされていた。この場を借りて
お礼申し上げます。
★その中原さんの長大なレポートや本誌の論考(そのレポートからの抜粋)を
読みながら、黒猫は小学校で初めて五線譜楽譜の記法を習い、教師が弾いた
(指示した)ピアノの音階をその五線譜に記譜するというテストがあったこと
を想い出していた。黒猫は教師が弾いたその都度の音階をその都度正確に聞き
分けることができたのだが、果たして黒猫のノートに記譜された採点はすべて
バツとされた。なぜなのか?
★例えば、黒猫は「ド」の音を聞き分けその音の五線譜に記述すべき位置も識
別できたのが、「記譜の仕方=順序」については「私的な規則」に従っていた
のである。このことを世間では普通は「誤解」というわけだが、これはクリプ
キの指摘した「プラス」と「クワス」の事例に相同するだろう。
★このことを永井は、規則に「私的に」従うことと「私的な」規則に従うこと
の違いとして説明している。「規則への違う従い方は、提示されたとたんに、
違う規則への従い方に変わる。そして違う規則は、われわれにとってどこまで
も理解可能なのである」(『ウィトゲンシュタイン入門』p180、ちくま新書)
として、「私的規則」その一例として私的言語はどこまでも可能であると書い
ている。そのことが『私・今・そして神』における「およそ言語というものが
可能であるためには、端的でない私的言語や今的言語は可能でなければならな
い、とは考えられないだろうか?」(p161)に繋がっているだろう。
★ここでのポイントは、永井哲学/永井神学における「端的さ=概念によって
はとらえられない現実存在=独在的」な在り方である。つまり、「私的に遣う
言語=端的な私的言語」と「私的な遣い方の言語=端的でない私的言語」の違
いである。この違いが、『私・今・そして神』の3章のテーマであろう。そし
て「端的な私的言語」は同格の他者という対称性を超えている故に、(中原さ
んが書いているように)ある意味では「神への祈り」と言えるのであろうが、
別の意味では私(たち)には概念化できない故に、私的言語としてはどこまで
も不可能(語り得ない)なのである。(黒猫房主)
●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』48号(通巻51号)(2005/04/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
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