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『カルチャー・レヴュー』2004・4

『カルチャー・レヴュー』
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/


 *以下は立岩に送っていただいたものです。
  直接上記のホームページをご覧ください。

『カルチャー・レヴュー』42号(神無月号)
(2004/10/01発行)
『カルチャー・レヴュー』43号(霜月号)
(2004/11/01発行)
『カルチャー・レヴュー』44号(師走特大号)
 (2004/12/01発行)


 ="042">
 
>TOP

Date: Fri, 1 Oct 2004 20:44:39 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』42号(神無月号)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
 したので、ご変更をお願いします。

◆直送版◆
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 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』42号(神無月号)
         (2004/10/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [43号は、2004/11/01頃発行予定です]
    ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第4回:
ヒステリーって何なんだ〜!?-------------------------------ひるます
◆連載「マルジナリア」第4回:存在の一義性-------------------中原紀生
◆INFORMATION:講演会「あなたの脳が危ない−−脳の予防手術から脳死・臓
 器移植まで」/公演会「卓道普化尺八行脚 MeYouHouse其の弐」
 /第50回「哲学的腹ぺこ塾」
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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第4回 //////

         ヒステリーって何なんだ〜!?
                              ひるます
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獏迦瀬:前回は日本の「世間」についてお聞きしましたが、結局のところ、問
題は個々の人間の生き方なんだってことになりましたね、ようするに実存って
ことです。
伊丹堂:ま、それはいつも言ってることなわけじゃがな(笑)。
獏迦瀬:しかし、実存というのは分かりにくい話でもありますよね。
伊丹堂:まあね〜、いわゆる実存的に生きたことのない人には、言葉でいって
も永遠に説明できないもんじゃろ。
獏迦瀬:そうなんですか……、僕なんかは分かるのか自信ないスね。
伊丹堂:ようするに、自分のやってきたコトを自分の責任として引き受けて、
あるいは何かを自分の責任でやってくってだけのことなんじゃが、それだけの
ことでも「自覚」してないとなかなか出来ない。実存というのは、自覚的に作
り上げた成果としてそうあるような態度のことなんじゃな。
獏迦瀬:どうすれば実存的に生きられるんでしょう?
伊丹堂:そりゃ本人ががんばるしかないじゃろ(笑)。
獏迦瀬:そうすね……。ていうか、はっきり言って「そういうふうには生きら
れない人」ってのがいるわけじゃないですか。
伊丹堂:まあね。
獏迦瀬:それは「世間」とか「文化」という問題ではなくて、個人的な問題と
いうべきなんでしょうけど、ようするに生い立ちとか性格とか、そういう問題
からして「まっとうに」生きられないという問題があると思います。
伊丹堂:それはしょうがないじゃろ、そもそも本人もそういう生き方をのぞん
どらんだろうし。
獏迦瀬:ま、実存が大事っていっても、全員がそう生きよ、というわけではな
いですからね。
伊丹堂:人生いろいろじゃろ。
獏迦瀬:そうなんですが、自分の責任をぜんぜん自覚しないで、人のせいにし
たり八つ当たりしたりする人が多くて(笑)、非常にメーワクしたりしてるの
です。
伊丹堂:ああ、実際問題ね(笑)。そりゃ問題じゃな。
獏迦瀬:そうなんですよ。人格障害っていうんでしょうか……。
伊丹堂:いや、人格障害ってのは、この対話シリーズでは何度も話題にしてる
ように、共感能力の欠如なんであって、そういう人は逆に人に当ったりしない
のな。当るってことは、他人との「感情の共有」を前提にしてるわけじゃか
ら。
獏迦瀬:なるほど、共感ですか。
伊丹堂:そう。だから人格障害者に「責任の引き受け」や、それをともなう
「決断」というような「人格的」な心の動きは存在しないとしても、彼らであ
れば、責任をとらないことについて、ただ「当たり前」と思うだけのことじゃ
ないかの。
獏迦瀬:ああ、無頓着というか……。
伊丹堂:じゃな。当ったり人を巻き込むのは「ヒステリー」というジャンル
じゃな。
獏迦瀬:ヒスですか。ヒステリーって、病気ですよね。
伊丹堂:心の葛藤が身体症状に転化されるのが、精神医学上のヒステリーじゃ
な。体が動かなくなったり痛んだり、特定の動作をしたり、泣叫んだりってや
つ。逆にそういう「身体症状」からその背後に「無意識」を発見したというの
が、フロイトのストーリーなわけじゃが。
獏迦瀬:ようするに「葛藤」という心の動きがあるわけですね。
伊丹堂:まあ、説明概念じゃな。見たわけじゃないから、ほんとにあるのかは
知らん(笑)。ちなみにヒステリーをもっともうまく説明したのが、斎藤環の
「依存しつつ拒絶する身ぶり」という定義じゃ。
獏迦瀬:この対話でも何度か引用しましたが、なるほどという感じです。
伊丹堂:拒絶する身ぶり、というのはヒステリーの身体症状やヒステリー者の
困った行動をうまくとらえてるが、なによりも「依存しつつ」というのがミソ
じゃな。
獏迦瀬:たしかに。拒絶するなら、ふつう相手とは縁が切れるはずですが、人
のせいにしたり八つ当たりすることで、逆に濃密にかかわってくるという感じ
なんですよね。
伊丹堂:がはは。ヒステリーの人は「共感能力」過剰というか、共感ってこと
を人間関係の前提に考えてるんじゃろうな。勝手に共感してるというか。
獏迦瀬:わかってくれるハズという感じですよね。
伊丹堂:ある意味で、ヒステリーと世間は親和的というか、共通のものがある
のかもしれんな。ようするに「共通の時間」を生きていると勝手に夢想してお
いて、そうではない者がいたり、そうではないことが分かると、それこそヒス
テリックに攻撃をはじめる。
獏迦瀬:なるほどね。ヒステリーというと女性という感じがしますが。
伊丹堂:それは印象判断じゃな。以前「臨場哲学通信」で批判したヒステリー
政治家はほとんど男だぞ。
獏迦瀬:ああ、そうでしたね……。世間という文化的背景の影響もあるので
しょうか。とすれば、日本にヒステリー性格が多いのも納得できますね。
伊丹堂:しかしそれを言うなら、アメリカの「報復戦争」そのものがヒステ
リー症状じゃろ。
獏迦瀬:ああ、よく言われることですよね。この場合は「グローバリズム」と
いう形で、世界を「共通時間」の中に取り込んでしまっがゆえの結果なんです
かね。
伊丹堂:それはどうかな。国家の上層部の行動をそういう「比喩」で語るのは
危険なんじゃが、ワシのいうのは、一般市民レベルで、このような無法な戦争
行為を支持させてしまうのは何か、ということじゃ。これはたしかに「病い」
というしかない。健全に、ふつうの民主主義的感性、そしてまともな遵法精神
のある「市民」であれば、当然、疑問に思うべき行為を、「心理的レベル」で
正当化させてしまう。ここには「ヒステリー症状」というしかないものがあ
る、ってことよ。
獏迦瀬:はあ。
伊丹堂:ヒステリーのもう一つの特徴は「記憶の恣意的なコントロール」って
ことよ。斎藤環もどこかで解離性人格障害(多重人格)は、形を変えたヒステ
リーだと言っていたが、まさに「多重人格」ってのも、記憶のコントロールに
かかわる病なわけじゃろ。ヒステリーの場合も、人に当ったり責任転嫁する場
合、自分の都合のよいように記憶を書き換えているものよ。
獏迦瀬:あ、そうです、そうです。
伊丹堂:困ったことに、その書き換えはまったく無自覚に行われていて、本人
は完全にほんとうと信じてる。ヒステリー者はあきらかに「嘘つき」なんじゃ
が、本人に「ウソ」という自覚もなく、罪悪感もない。それが問題じゃ。
獏迦瀬:そこを突いても話にならなくて、逆に相手のペースにのせられるとい
うか、さらに巻き込まれてくって感じですよね。
伊丹堂:それがヒスってもんよ(笑)。ま、それと同じことで、アメリカ人
も、状況をある程度理解ししていながら、自分達の都合のよいように記憶を改
ざんしいてるわけよ。あるいは大量破壊兵器がなかったなどという重要な情報
をあえて見なかったことにする、とかな。
獏迦瀬:なるほどね。……それにしてもヒステリーはどうしたらいいんですか

伊丹堂:だからほっとくしかないんじゃが……、ていうか、ヒステリー者にほ
んろうされるのは、自分の方にも原因がある(笑)。ようするに、キミもヒス
テリー者に依存してるのよ。
獏迦瀬:うっ……。
伊丹堂:ちなみにふつうの人がヒステリーになるのは、やはり幼少時の成長過
程で「愛情の体験がなかった」ってことじゃろ。その辺りのことは、このシ
リーズの最初の家族や愛の問題で語ったわけじゃが、それをよ〜く考えてみる
ことじゃな。
獏迦瀬:精進します。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/

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////// 連載「マルジナリア」第4回 //////

             存在の一義性
                              中原紀生
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●未完のベルクソン論『感想』が第五次小林秀雄全集・別巻として刊行されて
二年余り。長年求めていた幻の論考を書物のかたちで手にできさっそく読み始
めたものの、当初の緊張は持続せず、やがて活字を追うだけの怠惰な読書態度
とともに精神はすっかり弛緩していった。
 結局その時は、もっとも読みたかった四十九節以降――『物質と記憶』が到
達した物質理論、すなわち「内省によって経験されている精神の持続と類似し
た一種の持続が、物質にも在るというベルクソンの考え」を「今日の物理学が
到達した場所」(量子論)に関係させながら、アインシュタイン対ベルクソン
という「存在しなかった二人の論争を、一個の思想劇として存在させてみせる
こと」(前田英樹)を企て、ついに力尽きた五十六節まで――にはるか及ばな
いところで未完のまま中断した。
 この夏、再読へのはずみをつけるため山崎行太郎『小林秀雄とベルクソ
ン』、前田英樹『小林秀雄』の二冊にあらためて目を通した。

●『小林秀雄とベルクソン』は、小林秀雄の過激な原理的思考と理論物理学と
のきわめて密接な関係――「小林秀雄の批評は、アインシュタインの「相対性
理論」の出現と、ハイゼンベルグらの「量子物理学」の出現とに代表される、
かつてない大きな二十世紀の「科学革命」という歴史的状況の中から生まれて
きたものであった」――を文壇デビュー以前から丹念にたどってみせる。
 そのうえで、小林秀雄という批評家の「火薬庫」ともいうべき『感想』につ
いて、「それまで、秘密のベールにつつまれていた小林秀雄的思考の急所を、
ベルクソン論という形で公開した」「原理論の書」、「ベルクソン論というよ
りベルクソンを素材にして、小林秀雄が、様々な思考実験を行った評論」、
「小林秀雄自身による小林秀雄論」、「遺書」と規定している。
 小林秀雄と理論物理学というテーマ設定そのものはいま読んでも画期的だと
思うが、『感想』刊行後となってはもはやそれだけでは物足りない。

●たとえば、山崎氏は小林秀雄が理論物理学に異常なまでの関心をもった理由
をめぐって、小林が物理学革命の中に自身の体験してきた文学革命と同じもの
を見出したからであり、またアインシュタインの例に見られるような矛盾を恐
れない過激な思考力の展開のためであったと書いている。
 ここで言われる文学革命の実質は「物」的世界像から「場」的世界像への転
換であって、それは小林自身のドストエフスキイ論のうちに表明されていた。
――ドストエフスキイは「人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして
扱い、主客物心の対立の消えた生活の「場」の中心に、新しい人間像を建て
た」。「ここに現れた近代小説に於ける世界像の変革は、恰も近代物理学に於
ける実体的な「物」を基礎とした従来の世界像が、電磁波的な「場」の発見に
よって覆ったにも比すべき変革であった」。

●あるいはそれは「様々なる意匠」に出てくる「人間喜劇」から「天才喜劇」
への転換、つまり小説家小林秀雄の挫折から批評家小林秀雄の誕生にいたる
「知的クーデター」のうちに表明されていた。
 そこには――ニールス・ボーアが「量子論にあっては、私達は俳優でもある
し、観客でもある」と表現した「観測問題」とともに――「実在」の客観的記
述をめぐる理論物理学のパラダイム転換とパラレルなものが潜んでいる。
《小林秀雄が「観測者」としての「作家」を問題にしたということは、…きわ
めて画期的なことだと言わなければならない。つまり、作家は「人間」という
対象を観測する古典物理学的な観測者である。これに対して、「観測者」とし
ての「作家」を観測する批評家の誕生は、世界観、ないしは存在観の変換を背
景にしている。》

●小林秀雄と理論物理学をつなぐいまひとつの側面(矛盾を恐れない過激な思
考力の展開)をめぐって、山崎氏は――小林自身の言葉で「ある人の観念学は
常にその人の全存在にかかっている。その人の宿命にかかっている」と表現さ
れた――「宿命の理論」をもちだす。
 山崎氏によれば、宿命の理論は「概念と実在の一致」が真理であると考える
ような認識論が崩壊したあとで、それにとってかわるべきもう一つ別の認識論
へとラディカルに思考軸の座標変換をはたす、極限から極限への命懸けの飛躍
を伴うものであった。
《小林秀雄は新しい理論によって、新しい解釈を提出したのではない。小林が
提出した問題は、理論が現実と一致することは決してありえないという、理論
的思考そのものの不可能性という問題であった。(略)小林はあくまでも理論
の人として、その理論の可能な限りの極限をめざした人である。そしてその理
論の極限において、あらゆる理論がそのパラドックスに直面して崩壊していく
様を見た人なのだ。すくなくとも小林秀雄は、アインシュタインの相対性理論
からヘイゼンベルグ、ボーアらの量子物理学にいたるまでの理論物理学の歩み
をたどれるだけの理論的能力の所有者だったことを忘れてはならない。小林の
ベルクソン論は、まさしく量子物理学の説明が終わったところで中断してい
る。小林秀雄ももうそれ以上先へ進むことができなかったからだ。》
 
●それ以上先へ進むことができなかったのは、むしろ『小林秀雄とベルクソ
ン』の方である。そもそも山崎氏の議論は、理論物理学の話題を抜きにしても
語りうるものだ。そこには『感想』における小林秀雄の思考が強いられた錯綜
や紆余曲折に拮抗するもの、あるいは「実在の複雑紛糾」(『物質と記憶』第
七版の序)に由来するもの、端的に言えば「観念論や実在論が存在と現象に分
けてしまう以前の物質」(同)に対するさしせまった「問い」――「彼の全身
を血球とともに循る」(「様々なる意匠」)ほどの――を見出すことはできな
い。

●ここで、先にふれた『感想』五十四節の冒頭を正確に引用しておこう。《内
省によって経験されている精神の持続と類似した一種の持続が、物質にも在る
というベルクソンの考えは、発表当時は、理解し難い異様なものと思われた
が、今日の物理学が到達した場所から、これを顧みるなら、大変興味ある考え
になる。物理学が、[プランクの]常数hの有限値の為に、物的世界を、マク
ロコスムとミクロコスムの二つの世界に区分して理解しなければならなくなっ
た事は、「実用の[プラティック]」世界の奥に「運動性[モビリテ]」の世
界が在るというベルクソンの哲学的反省に一致している。そうは言えないとし
ても、両者は決して無関係ではあるまい。》

●いまひとつ、五十五節の末尾から。《物資の持続は、これをどこまでも分析
して行けば、限りなく早い諸瞬間の継起になり、それらは、遂に、互に等価な
ものに、同質の振動になって了うであろう。これが、絶えず新たに繰返される
現在なのである。そして、持続に於て継起する諸瞬間の完全な等価とは、まさ
しく、絶対的必然性を意味する。ただ、注意すべきは、そういう、各瞬間が、
それに先立つ瞬間から数学的に導かれる厳密な必然性が、物質の持続の真相で
あるとは、ベルグソンは断言していない事である。(略)予言は的中したと
言っても過言ではない。少くともこうは言えるだろう。ベルグソンの物質理論
は、彼のメタフィジックのほんの一部を成すものだが、彼が、自分の仕事を、
ポジティヴィスム・メタフィジックと呼んだ真意は、今日のフィジックが明ら
かにした筈だ、と。》

●私は何も現代の「フィジック」や宇宙論や分子生物学や脳科学が明らかにし
た事柄に即して、小林秀雄が『感想』で取り組んだ「問い」を引き継ぎ、小林
が言うところの「物質精神連続体」としての実在の二重性をめぐる「メタフィ
ジック」の構築をめざすべきだったと言いたいのではない。
 山崎氏はたしかに小林秀雄の批評が孕んでいたある「秘密」の所在を明らか
にした。それは正当に評価されるべきだし、『小林秀雄とベルクソン』は決し
て暇つぶしに終わらぬ面白い読み物だったけれども、その論考自体は小林流の
批評ではなかった。少なくとも小林秀雄が『物質と記憶』に迫っていった渾身
の緊張をもって『感想』に挑んだわけではなかった。

●前田英樹の『小林秀雄』はスリリングな論考だった。とりわけ、絵画記号を
めぐる『近代絵画』や音声言語をめぐる『本居宣長』との(三部作としての)
関連性において、『感想』が成し遂げた達成を様々な水準における二重性――
生活上の行動がもつ「能動性」と実在との接触に関わる「受動性」、知覚(科
学)と直観(哲学)による経験の「二重化」、物質と精神という「実在が私た
ちの経験に与える二重の相」もしくは「経験の事実としての二元論」、あるい
は知覚(物質)と記憶(時間)の各々がもつ「現実的[actuel]」と「潜在的
[virtuel]」という二つの次元、知覚における無意識と記憶における無意識
の「二重の潜在性」等々――に即して腑分けしきった叙述は、質量ともに本書
の白眉をなすものだ。

●前田氏は、「モビリテ」の世界は「プラティック」な行動の世界の奥に、す
なわち「物質の潜在的次元」にあると言う。そして量子論が顕わにした極微的
物質の世界は、その存在の仕方においてベルクソンの「潜在性」と通じ合って
くるのだが、「潜在的なものを、現実的なものを語る用語によって説明すれ
ば、理性にとって堪えがたい矛盾、あるいは逆説を引き起こすしかない」と書
いている。
《『感想』が執拗に繰り返すように、私たちの生は、記憶と知覚とに、二重化
され、記憶と知覚とはまたそれぞれに二重化され、知覚に与えられる物質もま
た二重の構造をもって現われる。この二重性は、あらゆる水準において〈現実
的なもの〉と〈潜在的なもの〉との関係を取るが、「常識」は自然の設計がも
たらすこの二重性を、行動の中で一挙に統一して生きている。小林のベルクソ
ン論が一貫して説くことは、この統一[ユニテ]から身を起こし、こうしたユ
ニテが自然のなかで不断に果たしている二つの方向への分極を同時に果てまで
辿ってみよ、ということである。(略)だが、行動が果たすユニテの二つの方
向への分極を、同時に果てまで辿っていくことは、どのようにして可能なのだ
ろうか。量子論のパラドックスは、潜在的なものの構造を現実的なものの用語
法によって思考し、その結果を数式の統計的可能性によって表現する、という
ところから来ていた。それならば、重要なものは言葉、すなわち、実在が持つ
二重の方向を同時に辿りうるような言葉だろう。小林が、この問題を徹底して
取り上げるのは、言うまでもなく、宣長論においてである。》

●ところで、私が『小林秀雄』を読みながらつねに想起していたのは、かの
「精妙博士」ドゥンス・スコトゥスの名であり、ジル・ドゥルーズ(『差異と
反復』)がスピノザの実体やニーチェの永遠回帰の系譜に位置づけた「存在の
一義性」の概念だった。
 山内志郎(『天使の記号論』)によると、存在の一義性とは存在が神と被造
物、無限と有限とに中立的である(両者の間の共約不可能性の条件となる)と
いうことだが、それだけではない。そこにはあたかも受精以前の卵はオス、メ
スの「いずれでもないが、いずれともなりうる」という、「事物に内在する積
極的なものが現実化をなす」内在的超越の思想が込められている。そしてその
ような意味での存在の一義性において要となるのが潜在性(virtualitas)で
ある。
《〈存在〉の一義性の構造の骨組みだけ取り出せば、〈存在〉概念が矛盾対立
を引き起こしうる統一性を持った概念であることは、〈存在〉の一義性の〈十
分条件〉であり、〈存在〉の中立性は、その必要条件であり、〈存在〉の潜在
性における第一次性(primitas virtualitatis)ということが、その必要十分
条件である、ということだ。》
 ――小林秀雄の批評と理論物理学と西欧中世哲学。実在の二重性、実在との
接触をめぐる三組みの思考の跡を丹念に読み解き重ね合わせてみること。企て
る前に力尽きたこの試みに向けて、無学を乗り切ることはもちろん大体の見当
をつけることさえ(『感想』を読み終えていない私には)できない。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★現代医療を考える会・医療被害者救済の会共催★
 「あなたの脳が危ない−−脳の予防手術から脳死・臓器移植まで」

 先頃、 山口研一郎さんが『脳受難の時代』、小松美彦さんが『脳死・臓器
 移 植の本当の話』を出版されました。このお二人の出版を記念し、シンポ
 ジウム を開催します。
 予防医学について、インフォームド・コンセントや自己決定権の観点から皆
 様と共に考えることができればと思います。

 ■日時:20004年10月2日(土)午後1時30分〜5時
 ■場所:高槻市市民会館(高槻現代劇場)305号室
     大阪府高槻市野見町2-33(TEL:072-671-1061)
     JR高槻駅より徒歩15分、阪急高槻駅より徒歩10分
(http://www.city.takatsuki.osaka.jp/maplink.html より「高槻現代劇場」
で地図が検索できます)

 ■内容
 講演 「脳の予防手術と脳死・臓器移植」
 山口 研一郎 (脳外科医、現代医療を考える会代表)
 小松 美彦 (東京海洋大学海洋科学部教授)
 体験発表 「未破裂脳動脈瘤の予防手術による被害者の家族として 」
 シンポジウム 「予防医学について考える〜インフォームド・コンセントや
 自己決定の観点から〜 」
 近藤 誠(『患者よ癌と闘うな』著者、慶應義塾大学医学部放射線科講師)
 亀口 公一 (日本臨床心理学会)
 土屋 貴志 (大阪市立大学文学研究科)
 野間 幸子 (医療被害者救済の会代表)
 ■参加協力費(資料代として):800円

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このたび、9月に引き続きMeYouHouseにおきましてライブを行うこ
とになりました。前回同様、身近な所より生の音そして踊りを感じて頂けるも
のと思っております。お越し頂ける時は予約をお願い致します。

 ★卓道普化尺八行脚 MeYouHouse其の弐★

   秋の夜長にしみいるか、竹の韻
   メグル舞に ヒビキが集う

 ■演者:福本卓道(尺八) 金亀伊織&イルボン(舞踏)
     ken&金里馬(ディジュリドゥー)
 ■日時:10月10日(日)17:00 開場17:30開演
 ■お代:1500円(予約) 2000円(当日)(1ドリンク付き)
    1000円(極貧の方要事前承認)
 ■会場:古本喫茶 伽羅3F「MeYouHouse」
 ■連絡先:卓道音楽工房 E-mail:takudoo@d1.dion.ne.jp

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 ★第50回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年09月26日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★私は、ほんとど小林秀雄を通過して来なかった者なのですが、中原氏の論考
を読むと小林のベルグソン論には興味が惹かれますね。ところで「virtuel」
が、元々の意味は「力をもった」潜在性であるということをこの論考で知りま
したが、アリストテレスの「dynamis 可能態」との関連はどうなのだろうと
思って中原氏に質問しましたところ、デュナミスがラテン語でヴィルトゥスと
訳され、英語のヴァーチャリティにつながったそうです。
★そして下記の一文を教えていただいたので、この場でもご紹介します。
「ドゥンス・スコトゥスがvirtual にもともとの意味を与えた。ラテン語の
virtualiter が彼のリアリティ論の中心をなしているのである。精妙博士と呼
ばれる彼は、物の概念は経験的な属性を(あたかも物自体が経験的な観察から
離れて知覚し得るかのように)形式的に含んでいるのでなく、仮想的
(virtual) に含んでいるのだ、という意見の持ち主であった。物の性質を知
るにはわれわれの経験を掘り下げなくてはならないだろうが、現実の物質は常
に、単一の統一体の中にも多様な性質を仮想的(virtual) に含んでいる、さも
ないとそれらは、その物質の質として突出しないだろう、とするのである。つ
まりドゥンス・スコトゥスは、virtual という言葉を(われわれの概念的期待
によって定義された)形式的に統一された現実と、われわれの雑多な経験との
間を、橋渡しするものとして使っているのだ」(ハイム『仮想現実のメタフィ
ジックス』(田畑暁生訳)岩波書店.205p)
★上記の「仮想」は、クオリアをキーワードに、意識の問題に切り込み続ける
脳科学者・茂木健一郎が提示した新しい概念「仮想」とも、おそらくは通底し
ているのでしょう。その概念を展開した最新刊『脳と仮想』(新潮社)の中で
も、小林のベルグソン論への言及があるようです。これから読んでみたい一冊
です。(黒猫房主)。

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『カルチャー・レヴュー』42号(通巻43号)(2004/10/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
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Date: Mon, 1 Nov 2004 21:37:17 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』43号(霜月号)

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◆直送版◆
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 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』43号(霜月号)
         (2004/11/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [44号は、2004/12/01頃発行予定です]
    ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「映画館の日々」番外:猫撫で声のイデオローグ-----------鈴木 薫
◆連載「文学のはざま」第5回:白目むく中原昌也の大躍進-------村田 豪
◆INFORMATION:新刊案内『カルテ改ざん』(さいろ社)/公演会「卓道普化
 尺八行脚 MeYouHouse 其の参」/第51回「哲学的腹ぺこ塾」
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////// 連載「映画館の日々」番外 //////

  猫撫で声のイデオローグ
  ――三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』
   (光文社新書)を読む(1)

                              鈴木 薫
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S: 今回は映画の話は休んで番外編にさせていただきました。
I: こんにちは。第2回の「日本のレズビアン映画をヴィデオで見る」で初
登場のIです。(『オニババ化する女たちを取り出し、Sに向かい)読みまし
たよ。気持ち悪い本だから読め読めってSさんに言われて――まったく、なん
て勧め方だ!
S: 申し訳ないので、気持ちよい本も貸します。これ、たまたま本屋に入っ
て買ったんだけど(本を取り出す。多和田葉子『エクソフォニー――母語の外
へ出る旅』岩波書店)。口直し、なんて言ったのでは本と著者に失礼ながら、
『オニババ』の気持ち悪さをこれで中和しようと思って。
I: 内容的には関係あるの? これ、小説家のエッセイ集でしょう。
S: 関係づけてみましょう。多和田さんはドイツに住んで日本語でもドイツ
語でも創作をしている方ですが、女性作家は男性作家と書き方が違うかという
議論についての話が出てきます。著者がハンブルク大学にいた頃はそうした議
論がまだ盛んだったが、そのうちそれが、ジェンダーは生物学的な意味での性
ではないから、たとえ男の作家の作品でもジェンダーで言えば女性文学であり
うるということになり――「そしてわたしたちは当時、自分の好きな作家はク
ライストでも誰でもみんなジェンダーは女ということにしてしまった」。この
話で私が思い出したのは、ウーマンリブの活動家だった人に聞いた、当時「お
んな」というグループがあって男もメンバーになれたけれど、そこに入った人
は男でもすべて「おんな」と呼ばれたという話。
I: 面白いけど、それって、男から女になる場合にだけ可能な話では? 
だって逆だったら、自分だけ名誉男性扱いされて満足しているとか言われない

S: 鋭い! 確かにそこは対称でない……。
I: なるほど、こんなことも書いてある。「もうだいぶ前から「女流作家」
より「女性作家」という言い方の方が一般的になったが、もしかしたらジェン
ダーは「性」より「流」に近いかもしれない。「性」は持って生まれた性質や
宿命を指すが、「流」は「こんなやり方でやってます」という流儀のことだ。
(……)女だから持って生まれた性質や宿命があると言いたげな「性」の字に
は、ちょっといかがわしい真面目さがあり過ぎる」
S: 「女流」については、小説家よりも先に八十年代に詩の世界で、いちは
やく「女性詩人」という言い方がはじまったと記憶します。そしてこれには、
「女流」より生なましい、自らの性を直截的に表現する人、という意味が確か
に含まれていたような。
I: Sさんが詩を書いていた時期ってそのあとぐらいですよね。
S: 私の場合は編集者に、作品だけ見ているうちは「男の人だと思った」と
言われました。
I: で、嬉しかった?
S: 予想していた効果だから、思ったとおりだったという意味ではね。実は
ちょっとそのあたり、今考えていることがあって。「女性」がウリなのも、そ
の逆を行くのも、男の目、男の評価を意識しているという点では同じでしょう

I: それは実際に、編集者とか出版社の人たちが男だからということ?
S: それもありますね。実際、私の詩のばあい、逆に「こういうものを女性
が書いたんですよ」ということで売り込めると言われました。
I: では、「同じ」ということでいいんですか、Sさん的には。
S: 実は最近、『オニババ』についてまともな批判を書いている人がいない
かと検索して、ちゃんとしたものを書かれている方のブログに行き着いたんで
すが、そこの関連掲示板に参加するうち、ある人から、私の書くものの「仮想
読者」はオヤジだと言われたんです。
I: えー、なに、それ。仮想読者のオヤジって誰よ――黒猫さん?
S: そ、それは、あんまりではー(笑)。私はずっと会っていないから、青
年黒猫しか知りません。もっとも、その人の定義では、オヤジというのは価値
観の共有を相手に強要する連中だそうですから、年齢が問題ではないわけです
が。
I: しかし、少なくとも、えらそうにしている男ではあるわけですね。Sさ
ん、その書き込みに、納得できないでしょう。
S: 一応、どういう論理でそういう言われ方をしているのかはわかったんで
すけどね。
I: どういう論理です。
S: ひとことで言えば、私が女の書き手だから。一般に女の書き手は構造的
に「オヤジ」を仮想読者、共犯者にしている――ということらしいです。
I: まだわからないけど、少なくとも「女の書き手」ってまとめられること
を許していいんですか、Sさん。
S: 必ずしもよくはないけれど、これはまだ進行中の話なので。とりあえず
私自身のことは脇へ置いて、どうしてこの話を持ち出したかというと、『オニ
ババ』にこれを応用して、この本の仮想読者について考えてみることができな
いかと思ったの。
I: 当然、女性に向けて書かれていると見えますが、実はオヤジだと?
S: そう考えてみることができるかと。それでね、自らの性についてあから
さまに言語化した「女性詩人」が「オヤジ」にとってはたとえば股から血を流
している女たちだったとすれば、『オニババ』の前半に登場するのは、膣の入
口に綿球をはさんでキュッと絞め、血を止めている女たちかと。
I: 突然すごいイメージ が。
S: どちらも、本当は「オヤジ」には関係ない話なんですよ。著者が書いて
いることは、月経のない人間には実感することも反駁することもできない種類
の話題、先ほどの多和田葉子が展開してみせたジェンダーの話とは違う、超え
ることのできない境界の向うで起こることです。それなのに、仮想というよ
り、事実として「オヤジ」ウケしてしまうのではないか。
I: 「女性詩人」が「オヤジ」のスケベ心に訴えることになるのもかまわ
ず、かつそれをあてにして、渾身の自己表現を試みたとして、『オニババ』の
三砂さんは何をしているんでしょう。
S: もう、あからさまに、「オヤジ」との共犯関係にあるのではないか。I
ちゃんに付き合ってもらって、そのあたりを考えてみたいと思ったんです。
I: ではまず、私が腹立ったところを挙げます。今や流行語になった「負け
犬」について、「それはごく少数の、インテリ層の人たちの目に映っているよ
うな『エリート女性』の話で、ごくふつうの女性の話ではないと思います」と
言っています。まず、これが気に入らなかった。だって、そうだとしたら私な
んて、自動的に「ごくふつうの女性」、「負け犬」以下に入れられるもの。
S: 「ふつうの女がふつうに女としてのオプションを生きる、ということを
誰もサポートしなくなっている」とあるけど、「ふつうの女」って誰なのか。
「ふつう」って何なのか。最初の「女」とあとの「女」はどう違うのか。びっ
くりするほどスカスカです。でも、疫学の専門家で国立公衆衛生院勤務を経て
津田塾大教授である著者自身は、明らかに「エリート女性」。だから、これだ
けいい加減な書き方をしても、ただの変なオバサン扱いされることはない。そ
れどころか、疫学者がオニババ化を警告、とか書いてもらえる。
I: 「ふつうの女」に入れられたが最後、「あなたは、まあ、何にもできな
いけど、という言い方は失礼かもしれないですが、この世の中でね、たいそう
な仕事はしないかもしれないけれど(やっぱり失礼ですね)、やっぱり結婚し
て子供を産んで、次の世代を残して、自分で家庭を切り盛りしてごらんなさ
い、女として生きなさい」と御託を並べられちゃうわけです。
S: 今のは、以前は女に対して出されていたのに今はなくなったと著者が言
うメッセージですね。「失礼かもしれないですが」と言っておいて「(やっぱ
り失礼ですね)」と言い添えるのは、通して読むとわかりますが、読者に対す
るおしつけがましさを和らげようとするこの書き手の癖です。今の文の前後
に、「おせっかいなことであったかもしれませんが」とか、「まあ押しつけて
たというところもありますけれども」とあるのも同様だし、他のところでは、
不妊の女性にも思いやりの言葉をかけ、負け犬の救済にまでおせっかいな言及
をしていますが、そのあたりが優しさと勘違いされるのかもしれません。で
も、いくら「かもしれませんが」をつけたところで失礼は失礼。「負け犬」女
性は「ろくでもない女性」として斜めに文化を伝えていけると著者はいけしゃ
あしゃあと言うのですが、いくら「ろくでもない」と自称する当事者がいたか
らって、そのまま流用するのは失礼です。
I: 失礼だし、おせっかいだし、押しつけだよ。今だってうちの親たちは寄
るとさわると結婚結婚と言っている。「女も結婚だけじゃなくていいんだと
か、仕事さえしてればいいんだ、という風潮で、単純労働に追いやったうえ
で、そこでもう、誰も周りは結婚のことは心配しない、というような状況」っ
てどこの話?
S: リアリティないし、女を「単純労働に追いや」るのは「風潮」なんか
じゃないでしょう。それ以外に「オプション」のない社会構造は問題にせず、
平気でそういうことを言う。どうやらこの著者にとって、女には「エリート女
性」と、「単純労働」しかできない落ちこぼれ、いえ、「ふつうの女」の二種
類しかいないようですね。これを読んで胸をつかれたという人の気持ちは、共
感はできないとはいえ、いくらかわかるような気がします。「醒めた目で見て
みると大した仕事をしているわけではない」とか、「こんな仕事のために、自
分のリプロダクティブライフを無駄にしたのか、と気づいても遅い」とか言わ
れれば、そりゃ、今の仕事は心から満足できるやりがいのあるものと言える人
は少ないでしょうから。
I: そうならないように、若くてあんまりものを考えたりしないうちに――
本当にこういう言葉を使ってるのよね、失礼なことに。フェミニズムになんて
染まるのは言語道断てことでしょうね――やりたい盛りの男の子にやられて
さっさと子供を産んじゃえと。ああ、やっぱりバカにされてる!
S: 若いうちに産んで育ててから仕事しろと。
I: 何ものかになろうと必死になっているときに? 無理無理、絶対無理。
大学は出てなくても、エリートでなくても、私にだってやりたいことはある。
Sさんは、「リプロダクティブライフを無駄にした」とか思う?
S: 「大した仕事」もしてないけれど、それで何かを犠牲にしたとは思いま
せん。自分にとっての本当の仕事はこれからと考えていますし。今思えば、I
ちゃんぐらいのときに早く何ものかになろうと焦らなくてもよかったと思うけ
ど、でも、志のある人にとって、先に子供を産んで自分の将来の見通しもない
まま育児をするなんて無理でしょう。
I: 「女性は仕事をゼロにしないほうがいいでしょう(……)それは、けっ
して、インテリ層のできる仕事、ということでなくてもよくて、どんな仕事で
もよいのです」とあるけれど、こんなことじゃ子供から手が離れたとき、とて
も再就職できないよね。
S: この人、自分の場合、「朝から晩まで会社に出ていって、子どもを保育
所に預けて、という思いは長らくしていませんでした。でも、[仕事を]ゼロ
にした時期はなかったわけです」と言ってるけど、これ、詭弁だよ。〈子供を
保育所に預けなくても仕事をゼロにはしなかった〉じゃない、例外的に恵まれ
た強者で、自宅で知的な仕事を続けられたから、保育所に預けずにすんだの
よ。子供を産んだときはブラジルでフィールドワークを組織していて、「調査
員たちに部屋に来てもらって数時間ディスカッションをしたり、調査のための
質問表を見直したりしていました。あとは在宅で仕事をして、論文を書いたり
できました」だもの。
I: ムカツクなあ。それで、「その他大勢の女性たち」には「どんな仕事で
もよいのです」ってか?
S: 三砂さんは今の現実に合わせようとかなり折衷案を出しています(それ
でときどき無理が来ています)。仕事の問題もそうだし、結婚せずに子どもを
持つことも柔軟に認めている。だけど基本的なメッセージはこうです。「女性
にとっては、子どもを産んで次の世代を育てていくということは、女性性の本
質なので、そのほかのことというのは本当は取るに足りないことなのです。逆
に、それらのことが中心にあるので、ほかのことに意味が出てくるとさえ言え
ます」ならず者の最後の拠り所は愛国心だそうですが、無力な女の最後の拠り
所が子供なんでしょうね。もちろん、産むなら安全に、しかも管理されず、楽
しく産んだ方がいいし、出産は素晴しい体験になりうるでしょう。そしてその
際、夫のないことが不利に働かない、そういう社会にしなければ。そういった
ことは、けっして三砂さんが言い出したわけではない。産科で管理されて産む
ことに対する、お産を女の手にというオルタナティヴはずっと求められてきた
ことだし、処女性が尊重されるようになる以前は月経の手当てに布などを中に
入れていたという話も、今までに聞き書きをしてきた人がいたはずです。女
が、自分たちが自由になるためのものとして示し、主張してきたそうしたこと
を、三砂さんはただただ自分の文脈、すなわち、後半のヘテロセクシストな子
宮中心主義に奉仕するものとして使っています。
I: 表題のオニババについて説明しますと、オニババが小僧さんを襲う話
(私は知りませんでした)は、「社会のなかで適切な役割を与えられない独身
の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり『エネ
ルギー』の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だったと私はと
らえています」「この『エネルギー』は、性と生殖に関わるエネルギーでしょ
う。女性のからだには、次の世代を準備する仕組みがあります。ですから、そ
れを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくるの
ではないでしょうか」
S: だいたい、「性と生殖」ってどうして一緒くたにできるのか。
I: 黒猫さんが見つけてくれた、東京都港区の人のAmazonカスタマー・レ
ビューがありましたね。勇気ある先人をおとしめているっていう――。
S: そうした歴史を知らずに、すべてが著者の発見と思ってしまう人もいる
でしょう。以下にレビューを引用します。ある意味、この本の批評はこのタイ
トルに尽きるでしょう。

 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 下品です

 「オニババ」……
 いやはや、「負け犬」に劣らず、低俗な雑誌に好まれそうなインパクトだ
 けを 狙った下品なネーミングだと思います。
 身体性に閉じ込められて来た多くの女性たちが、そこから解放されようと
 人生をかけて闘った礎の上に、今の女性の自由と地位はあります。
 「身体性を取り戻す」を「子宮至上主義」にすり替えた、科学的根拠もな
 い曖昧模糊とした理論、そしてこのタイトル。
 勇気ある女性をおとしめる言葉であるということを、あらためて著者は考
 えて みるべきです。

 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

I: あ、一つ言っておきたい。トイレで出すだけなら、経血コントロール私
もできるよ。
S: 月経のある人なら、多かれ少なかれ誰でもやっていることだと私も思い
ました。
I: ナプキンをあてるのは「垂れ流し」だなんて、あまりにもひどい言い
方。なんで女が自分でそういうこと言うんだろうって思いました。
S: やっぱり「オヤジ」の代弁者でしょうか。実はね、男で、女はだらしが
ない、生理の血を筋肉を絞めて止められないのかって言った人がいるの。
I: えー、誰。
S: それを憤っている女の人の書いたものを読んだことがあるんだけど、ず
いぶん前のことなので、何で読んだのか見当もつかなくて。ここ読んでまずそ
れを思い出しました。
I: 月経とお産の話、部分的には興味を惹かれるまともなことも書かれてい
るんだけど、この人の話すぐエスカレートするんだよね。今の六十代、七十代
はもういいお産をしていなかったというんだから、うちのおばあちゃんに、あ
たしのお産は至高体験なんかじゃなかったと反論してもらっても、「女として
の生活を楽しめなかった」世代だからと言われるだけで。
S: かと言って、三砂さんがインタヴューした頃は七十代だった、現在九十
五歳以上の人なら経血をコントロールできたって言われたって、そんな人見つ
けてこられないし。だいたい、過去を美化しすぎでしょう。いくら昔の日本は
よかった、過去の知恵は素晴しかったというためといえ。お産で死ぬ人はいく
らでもいたんだし、ナプキンだって私の経験だけで言っても、昔から較べれば
格段に性能がよくなっている。
I: セックスもよくなっているのかな?
S: Iちゃんのような若い子がそういうことを口に出せるだけでもましに
なっているんじゃない? つらいおつとめだった人だって大勢いるだろうか
ら。
I: ともかく男とセックスしていることが大切と三砂さんは言うんですよ
ね。そして男を襲うオニババというような形でですが、女の性欲を肯定してい
ます(――って、書きながら笑ってしまいました)。
S: 「現在ではもっとも性に対して保守的な人々でさえ、女の性的な歓びを
まず肯定しなければ、性を語るわけにはいかなくなっている」と山崎カヲルさ
んが「身体的快楽の系譜学」で書いている通りですね。現在というのは、米国
の性革命以降はということなんですが、三砂さんはアメリカ流のクリトリス中
心主義にえらく反感を持っているようです。
I: だって、クリトリスだけでイケちゃったら(もちろんイケるわけだけ
ど)、「行き場のないエネルギー」を解放するのに、男を襲わなくても――こ
れ、おかしいよね、女が男に襲われるのが普通というか、現実なのに――よく
なっちゃうじゃない。
S: そうなのよ。そうならないように、しょうもないお話が組み立てられて
います。「女の健康」にとって男が必要なことを言うためなら、矛盾に陥るの
もいとわずに。
I: 文章拾ってみますね。「女性として生まれてきたからには、自分の性、
つまり月経や、性経験、出産といった自らの女性性に向きあうことが大切にさ
れないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか(……)
反対に、自分のからだの声を聞き、女性としてからだをいとおしんで暮らすこ
とができれば、いろいろな変革をとげることができるのです」
S: 都教委もそうですが、保守が変革をいう時代になったんですねえ。
I: 「女性は、これはなかなか説明しづらいことですが、性生活がないと、
ある程度の年齢になるとやっぱりきついと考えます」これ、どういうことで
しょう。
S: 女性の性欲について著者がどう考えているのか、今一つ不明ですが、
「ある程度の年齢になると」とあるのをみると、若いときにはそうではなかっ
たのに、年齢が上がると性生活――これがあくまで膣にペニスを入れる性交と
いうことなんですが――なしでは「きつく」、「つらく」なると言っているん
ですよねえ。それで更年期過ぎると男を襲わなくてはならなくなるほどに性欲
が昂進する? 「説明しづらい」と言うより、まるきり荒唐無稽なのでは。
I: この少しあとの文章、「単純に、たとえば盛りのついた犬はちゃんと、
盛りを抑えるようなことをしないといけないではないですか。そうすると、穏
やかになりますよね。でも、女性にそんなことを言っても、私、性欲感じませ
ん、という人が多いわけでしょうから」性欲感じないならオニババにならない
んじゃないの?
S: それは、出産適齢期の若い女を想定しているんでしょう。きっと、処女
のままだと意識化もできないとか思ってるのよ。こんな記述もあるし――「性
欲としてその人が感じているかどうか、意識しているかどうかは別として、
やっぱり人間として、女として生まれてきたら、女としての性を生きたいとい
うからだの意思がありますから」I: そうか、頭はぼーとしていて、からだ
の方に意思があるのね! それを抑えつけているとどうなるか、ここにも書い
てあります。「ものすごく嫉妬深くなったり、自分ができないことをしている
人を見るととても許せなくなったり……。自分のからだを使って、性経験や出
産経験を通じて穏やかになっていく女性とは正反対の方向にいてしまうわけ
で、そういう人たちを昔はオニババと呼んだのでしょう」要するにこれ、一昔
前の、ヒステリーのオールドミスってやつでしょ。
S: 二昔も三昔も前でしょう。「昔話で、山里に行って包丁研いで、という
お話って、本当にびっくりするほど多いですよね」多いかどうか知らないけ
ど……多かったとして、だから何なの?
I: 「女性が定期的な性生活を持たないとき、どのように自分の身体性と折
り合いをつけていくか、ということの具体的な処方箋は、じつはあまりたくさ
んありません」オナニーすればすむことじゃない?
S: 「大人になって性関係を持たない女性が、どういうかたちで自分のから
だを確認していくか、というのはとても大きな問題だと思いますが、あまり論
じられていません」ともあるから、きっとオナニーもしないのよ。処方箋が一
つ書いてあるけど、ふるってる。「ふつうの女性」――「聖職者や芸術家など
特別な使命を持って独身を選び取る女性以外の女性」だって――がそういう環
境にあると、健康に問題が起こりやすいんだそうで、それに対して『愛のヨ
ガ』という本では、「お風呂でお湯を還流させながら長く入る、という、具体
的な方法を提示しています」
I: 女性アーティストは、修道女だったのか。
S: オナニーの件は、事実を全く無視するわけにいかず、またしても折衷案
です。つまり、「クリトリスはマスターベーション用のボタン、ぐらいの存在
ではないのでしょうか」と否定的に出してくる。神社は女性性の象徴で、「鳥
居をくぐって入ってくる御神輿が精子です。クリトリスなどは、鳥居についた
マークみたいなものです。そんなところで、鳥居の入口で遊んで楽しいと思っ
ているなんて、なんてもったいない、と昔の日本人なら思うのではないでしょ
うか」
I: なんで昔の日本人がどう思うかがこの人にわかるの?
S: だから、昔の日本人は神社=女性器と見なしていたからそう思うって。
論理になってないんですよ。「性交によるオーガズムというのは、子宮が収縮
するので、子宮にとってはいい運動になっているのでしょう」
I: あくまで「性交による」なのね。
S: 「でも、そういうことをあまり普段できないのであれば、少しぐらいは
子宮を収縮させておくほうが健康に暮らせるので、そのための装置としてクリ
トリスがあるのではないかと思ったりします」
I: 勝手に「思ったり」してくれ。
S: 「少しぐらいは」とか「健康」のためとか、なかなか細心の注意を払っ
た文章ですよ。「だから、相手の男性がいるときにやることではなくて――」
I: (笑)と入れましょう。
S: 「御神輿が入ってくるときに刺激されるというのは、ただ副次的なもの
なのだと思います(……)絶対にクリトリスは触らせない、という文化もある
のです」これ、性交中に、男にって意味でしょうか。「未熟な女の子の時期
に、クリトリスを用いたセックスばかりしていると、膣の感覚が開発されなく
なるので、触るな、ということだそうです。こんなものだと思っていたら、先
に行けない、という示唆なのです」
I: 男とやっているときにってことですよね。「副次的に」刺激されるのが
マクシマムなんだ。
S: 「女性としては、つねに子宮を使っている、ということも大事なことで
す。(……)あまり難しいことを考えず、現実に「セックスする」ということ
自体が重要なのではないでしょうか。(……)そういったことがないとずうっ
と緊張したままになっていますから、子宮系のトラブルは出てくるだろうし、
それこそ語源通りヒステリック(ヒステリー=古代ギリシア語で「子宮」)に
もなります。「はじめに」でも述べた、オニババ状態です」まったく、ここま
でベタな記述を、2004年に書かれた本の中で目にするとは思いもよりませんで
した。(つづく)

■プロフィール■------------------------------------------------------
(すずき・かおる)ブログ開設しました。http://kaoruSZ.exblog.jp/

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////// 連載「文学のはざま」第5回 //////

      白目むく中原昌也の大躍進

                              村田 豪
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 今年に入って中原昌也の本が4冊もたてつづけに刊行されました。小説あ
り、映画についての対談集あり、ミュージシャンとしての自身のノイズ系CD
付きブックありと、それぞれに面白いものです。その中でも『ボクのブンブン
分泌業』(太田出版)というエッセイ・音楽評・映画評・対談などなどをかき
集めた「雑文」集は、スゴイといいようがないぐらいサイコーです。それに中
原という作家の「秘密」を探るうえでも、これはとりわけ興味深いものでしょ
う。

 中原昌也といえば、3年前に長編(?)小説『あらゆる場所に花束が……』で
三島賞を受賞しました。その時、この奇妙な作品について、はたして正当な文
学的意義を見いだせるものかどうか、あるいは下品でデタラメな「小説もど
き」にすぎないのではないか、と文壇では多少の物議をかもしたことが思い出
されます。といっても、まあ、みなさんはあまり関心もなくそんなこと知らな
いかもしれませんけれど。とにかく、新しく出た『ボクのブンブン分泌業』
は、その問題にもう一度、前とは違った形で照明をあてうる格好の材料を提供
しているように思えます。今回は、中原の「秘密」と「魅力」に迫るべく、あ
らためてその作品評をたどり直しながら、最新作を論じてみたいと思います。

 中原の小説の第一の特徴は、まずは大ざっぱに以下のような点があげられる
でしょう。

 (1)エピソードが次々に現れるたびに話題の中心がどんどんずれてゆき、話
の途中ともいえる場面で不意に作品自体が終わってしまう、その脈絡の欠落と
途絶感
 (2)バカバカしくて使いようのない紋切り型のフレーズやありきたりの言葉
づかいが、場違いなまま過剰に打ちだされる時の異化作用
 (3)人物たちの奇矯で、理解を絶する言動と性向
 (4)妄想的でありながらも、出来事が放つ暴力的で強烈な露呈の感触
 (5)語り手が作品に対してとっているはずの距離感・位置関係の不分明さ

 これらの要素が絡み合うことで、作品には独特の不条理とユーモア、不吉で
不快な印象と不思議な爽快感が醸しだされることになります。確かにこんな作
品は他にはないと、感服させられるのです。

 しかし一方で、筋や物語に一貫性がなく無頓着であるがゆえに、「何が言い
たいのか理解できない」「意味不明」「デタラメ」との否定的評価があること
も認めなくてはなりません。おそらくほとんど誰もが、その小説の内容を具体
的に思い浮かべたり記憶したり、人に伝達したりすることにひどく困難を感じ
るはずです。それぐらいいわば「メチャクチャ」なのです。当時、三島賞の選
者の一人であった宮本輝も「フラグメントの重ね合わせで無用に長い作品に仕
立てあげたこと自体、私は幼稚だと感じた」と、いわばその「無内容」を指摘
し、あくまで受賞には反対だったのでした。

 興味深いのは、中原を評価・擁護する評者たちにも、事態はそう変わらない
ことです。つまり、宮本輝が「無内容」と規定したまさに同じその小説同じそ
の文章を、それとは逆にポジティブなものとして指し示さなければならないの
ですから。しかしながら、これが何であるかを端的にいうことは、擁護派の批
評家たちといえどもやはり難しいようなのです。それで、中原作品を「直接」
説明するのではなく、何ごとか別のものに喩えるように強いられることになり
ます。しかも大抵は一つの喩えではしっくりこないとでもいうように、手を変
え品を変えいろいろな比喩を繰り出そうとしたり、何かに似ているといい募っ
たりするのです。そういう作品への接近の難しさ自体が、中原小説の特徴をま
た示しているのかもしれません。

 面白いので「小説家・中原昌也」が認知され始めた頃のそんな例をいくつか
あげてみましょう。

 「この小説の斬新さを発見できない人間は批評家の看板をおろすべきだろ
う」と挑発的なタンカを切って激賞したのは陣野俊史です(『文学界』2001年
5月号「新人小説月報」)。そのナンセンスさにおいて彷彿させるということ
でしょうか、『あらゆる場所に』を評して、「手短に言えばこの小説は深沢七
郎である」とズバリ言いきっています。けれど残念ながら具体的にどこがそう
なのかはよく分かりません。というのも陣野の説明では、中原の小説は「レミ
ニッセンス=無意識の借用」という高度なレベルにおいて深沢文学と遠く呼応
しているらしいからです。ありていに言えば「そんな感じがするぞ!」という
ぐらいのことなのでしょう。それでも作品の雰囲気を伝えようとして喩えられ
た「ドアが次々に開き、そのドアがバタバタとしめし合わせたように閉じる読
後感」という表現は、先ほど(1)で取り上げた脈絡のバラバラさ加減や途絶感
をよく表していると思います。

 同じく「新人小説月評」(『文学界』2001年5月号)で高澤秀次は、すでに
あり得ないはずの「前衛」という問題性に触れ、中原をデビュー当時の高橋源
一郎と引き比べています。高橋自体が「前衛」など不可能だというところから
始めたのだから、今さらそんなものに幻想を抱くことはありえない、という論
旨です。ところが中原の「前衛」ぶりを否定するのかと思いきや、「冷凍保存
された言葉が、解凍しきらぬままに発火したように、そこかしこに不吉な冷気
と焦げ臭さ、血腥さまでもが漂っている」「言葉を冷たく発火させる物騒な起
動実験なのである」という比喩をつむぎだしては、その「過激な新しさ」に相
応の評価を与えているようです。

 また丹生谷貴志は、中原作品の「文体の端正さと驚くべき簡潔さ」に感激し
たことをいち早く表明しました(『新潮』2000年4月号)。その不思議な文体
の「秘密」を説明するのに、「地表に芽吹いた瞬間に成長を放擲してしまう不
思議な植物群の簡潔さに似ていると言うべきかもしれない」という、おそらく
実際に小説を読んだ他の誰もが、絶対に思いつかないような美しいメタファー
を用意したのです。そして「痙攣的切断と固着した幼生の世界」という独自の
観点で梶井基次郎の仕事と重ね合わせています。ただ、これが妥当なものなの
かどうか、「檸檬」しか読んだことのない私には判断がつきかねますが。

 評価についての是非はどうであれ、以上のような批評家の身振りには、どこ
か変なところがあるのは分かっていただけるでしょうか。なぜこんなにも比喩
を多用するのか、なぜ誰かほかのものに似ていると言わなければならないの
か。それは作品から強烈な印象を受けるのに、いざその「魅力」に迫ろうとす
ると、どうも具体的にはとらえどころのない作品であることに気づかざるをえ
ないからに違いありません。分析してみたら、受け取ったはずの印象が間違っ
ていることになりかねない。だから作品の分析よりは、印象の補強のためのメ
タファーが誘発されるのでしょう。他の作家を持ち出すのも、イメージを塗り
固めておくのに都合がいいからにほかなりません。

 しかし、それだけでは何か物足りない感じがします。どちらかというと評者
のもともと持ち合わせていたある種の文学イメージをなぞっているだけで、真
に迫る作家評・作品論になっていないのではないか、という疑問がわいてきま
す。そういう私の不満に応じてくれるような中原評がないものでしょうか。い
え、一つだけあったのです。自身が比較の対象にされもした高橋源一郎の論じ
る「暗号としての中原昌也の小説」です(『小説Tripper』2001年秋号)。

 高橋も例によって「中原の小説に(…)似た印象を受けるのはアメリカの作
家、ドナルド・バーセルミの小説だ」と似たものの推察から始めているのです
が、他の評者と違うのは、比喩で印象を包んでしまわずに、意味不明でも、と
いうか、意味不明であるがゆえに、もとの中原作品の断片をいちいち引用して
分析しているのです。引用は作品のあちらこちらから計20箇所にも及んでいま
す。そして脈絡を追うのでなく、その文が形作る不思議な印象はどこからやっ
てくるのか、と具体的に文の構造をいじくりながら、中原の「秘密」を解読し
ようとしたのです。

 中原の文章を「直接」扱うことで、高橋が最終的に導き出したのは、“中原
の小説は解読すべき原文が存在しないような暗号文だ”という見方です。何
だ、それでは「デタラメ」というのとそう変わりないではないか、と言いたく
なるところですが、やはり違うのです。なぜならそんな暗号文は、人を「覚
醒」させるからです。「デタラメ」とれなればそれですべて終わってしまいま
すが、暗号文であるからには、何かがそこにあるかもしれないと、われわれを
探究に駆り立てることになるからです。読者として中原の作品に接するとは、
その「覚醒」において「暗号文をただの暗号文として」読むことであり、「そ
の不思議な日本語を、直接味わうしかない」のです。そんな高橋の結論に、私
はかなりの納得がいったのでした。

 しかし、ようやく本題に戻りますが『ボクのブンブン分泌業』を読むにい
たって、中原昌也というヤツはホントに「食えない」ヤツだということが、よ
く分かるのでした。これまでの中原評は、デビューの頃から三島賞受賞前後に
集中していたせいもあるのですが、問題の捉え方が、ある側面のみに偏ってい
たのではないか、という気がするのです。 ある面というのは小説の「芸術
性」としての面ということです。ところで、由緒正しい近代小説には、確か
「実存」や「人生」としての側面もあったよなあ、とそう思い出すのです。

 つまり『分泌業』に含まれるいくつもの小文を読んでいって、驚きあきれる
のは、作家中原昌也のその「実存」ぶりなのです。何のことかというと、文芸
誌の注文原稿のエッセイであろうが、音楽誌の60年代ロック紹介の企画だろう
が、サブカル誌での映画コラムであろうが、「原稿を書くのが苦痛だ」という
ことばかりを書いているのです。はじめはおそらく編集者からの要望を満たそ
うと、本人も努力している形跡はあるのですが、単発ならば原稿の半ばあたり
から、連載ならば3回目ぐらいから、「書くことがない。なんでこんな嫌な原
稿を引き受けてしまったのか。もともと書きたいことがあったわけでもなく、
特に書くのが得意でもない自分が、なぜこんな文筆業みたいな苦痛でしかない
仕事を強いられなくてはならないのか」などとぼやき始めるのです。

 何だ、そんなことは作家によくある苦労話か自己韜晦の一種ではないか、と
思われるかもしれません。けれど中原は、間違いなくいくつかの点で「本気」
なのです。

 まずよく想像してほしいのは、サブカル誌や音楽誌で、連載のテーマと全く
関係のない「書くことの苦痛」を綴り続けるその光景です。「金をくれるから
我慢してこうして書いているが、よく考えたら家賃も払えないようなちっぽけ
な原稿料のために、なぜこんなに苦しまなくてはならないのか。そんなことな
ら連載など早々にうち切って、いっそコンビニバイトでもしたほうがマシなの
ではないのか。いわば編集者Aに自分は騙されたようなものだ。とにかく原稿
を書かずに生活がしたい……」よくこんなものを載せたな、と感心してしまい
ますが、そんな内容の文章が行ったり来たり数回も続けば、編集者側も根負け
するのでしょうか、晴れて(?)連載は打ち切りになるようなのです。それにし
ても事後的に作家の本としてまとめられているからまだこうして読めるので
しょうが、連載時に読者はそれを一体何だと思っていたのでしょうか?

 ところが恐ろしいもので、中原の生活の都合と雑誌ジャーナリズムの需要が
からまりあって、中原にまた別の原稿を書かせているのです。しかし書くこと
が急に楽しいものになるはずもなく、苦痛は続くのですが、そうならばとしま
いには本人自身が「原稿がイヤでたまらない中原昌也」を売りにし始めるので
す。

 例えば「中原昌也のための音楽ライター養成講座」と銘打って、“三島賞を
取った作家なのに、今だ原稿をどう書けばいいか分からない中原昌也さんのた
め、音楽評論家各氏に著述業のなんたるかを教えてもらう”というような連載
を始めたりしています。そこでも雑誌側の主旨よりも中原は悪辣で、「どうす
れば手抜きして原稿を仕上げられるのか」をしきりに聞いているのです。また
別の連載ではとうとうタイトルに「連載打ち切り秒読み状態」とかかげ、これ
は連載の1行目から「新しい連載がはじまった。最初に言っておくが、何も書
くことは決まっていない。僕には特に何もみなさんに伝えたいことなどないの
だ」と始まるシロモノなのです。

 これら「書くのがイヤだ病」を発症した時の中原の言っていることは、基本
的にいつも同じことの繰り返しで、まとめて読んでいると心の底からあきあき
してくるようなものですが、雑誌掲載の初出時を確認しているといろいろ面白
いことにも気づきます。一つに、作家としてよりは「暴力温泉芸者」の名で
ミュージシャンとして知られていた時代からすでにこの「病気」は始まってい
たことです。つまり最近になって身にまとったジャーナリズム上の「芸」とだ
とも言い切れないのです。しかし作家として認知され、三島賞を受賞した以降
にその症状が頻発し、深刻化しているということも見逃せません。そしてこの
病は、とうとう小説のうえでも伝染し、発症するのでした。

 今年出た4冊のうちの一つである短編小説集『待望の短編集は忘却の彼方
に』(何か冗語的ですが、本の題なのであしからず)所収の7編のうち、半分
以上の4編がその症状の影響下で書かれたものであることが、はっきり分かり
ます。とくにタイトルも露骨な「お金をあげるからもう書かないで、と言われ
ればよろこんで」は、「作家・中原昌也」が企業から流出した個人情報を売り
つける怪しい売人として登場し、全く商売として成り立たずすでに廃業したと
いう作家業への悪態、そこを牛耳っている石原慎太郎への中傷をさんざんにま
き散らすという内容です。

 また「凶暴な放浪者」の前半は、中原らしき人物がエッセイと同じような
「書くことがなく、苦痛で仕方がない。金のために無理矢理くだらないことを
書いている自分が、読者などよりいっそうつらい」という恨み言を延々と語り
続け、黙って聞かされることについに我慢が出来なくなった編集者が「ボーナ
スをあげるから、もう読ませないでくれ!」と、「凶暴な放浪者」というタイ
トルの原稿を燃やしてしまうという、ほとんどこれ以上説明を要さない話で
す。
 先に、中原文学の核心は「原文のない暗号文」だという高橋源一郎の批評を
紹介しましたが、この解釈は、もうすでにお分かりのように、完全に中原の行
状においてくつがえされています。たしかにそこに「読むべき価値のあるも
の」としての「原文」はないのかもしれない。しかし「これは暗号ではない
か」という高橋が導いた「覚醒」は、中原のばかばかしいまでにあらわな「実
存」の前で、うつろなお為ごかしと今やなり果ててしまっています。

 もちろん『待望の短編集』でも、そんな私小説作家もビックリの「心情告
白」ばかりではなく、それまでの了解不能で不可思議な作品世界は健在です
が、どちらかというと、その作家の「実存」がせり出し、自身の作品世界を新
たな混乱へと引き込んでいるように思えます。つまり解読不能とされたことに
たいし、今度は同じ作品内に小説を読み解くための恐ろしく単純なコードを導
入してしまったのです。つまり「書くことなど何もない。金のために書いてい
るだけ。原稿が埋まるなら内容などなんでもいい」というあけすけな作者の声
ですが、これがとりあえずはそれまでの中原解釈への批評として作品に動きを
あたえているし、今のところ「理解不可能のコード」と「理解もクソもない
コード」は、危うい均衡を保っているように思えます。

 もちろん、これからもそううまくいく保証はありませんが、デビュー当時に
「成長以前の一瞬に氷結してしまったような」過激な「簡潔さ」ゆえに、丹生
谷貴志から「未来はない」と予見されたことを思うと、今のところ予見を裏
切って「反作家」然として堂々とやっているなあ、と私には素晴らしく思われ
るのです。

 最後に、先月『新潮』10月号誌上での筒井康隆と町田康と中原の対談「破壊
と創造のサンバ」を紹介して終わりましょう。それぞれ独自に既存の小説スタ
イルを破壊したとされる3人として人選されたようで、筒井・町田はそれぞれ
に自らの実験的試みを自負して語っているのですが、中原一人、またいつもの
調子で間抜けたことをうそぶいています。

 中原:自由奔放にやるっていうのは大変だなぁ。やっぱり決められた安全地
帯でやっているのが一番いいってことなんですかね。

 とか言って、筒井に怒鳴られているし、盗作や剽窃の問題を話しているとき
のコメントも最高にふるっています。

 中原:そういえば引っ越しで忙しかったんで、「新潮」で書いた小説のフ
レーズを「文学界」に使い回したら、編集者に唖然とされましたけど。どうせ
同じようなことしか書けないんだから、いいじゃないですか。ねえ。(……)
同じ文章だって違う気持ちで見れば違うものに読めるわけだし。マンネリだと
思うのは、読者のほうが悪い。冷水で顔洗ってから読めと言いたい。なはは
は。
 ここまでふざけられるのも、一種の才能だと認めてもいいでしょう。おそら
く「書くのがイヤだ」というのは、嘘偽りのない事実なのでしょうが、そのあ
まりの反復ゆえ独特のユーモアに転化してしまうのも、このキャラのあっての
ものであるかもしれません。「そんなこと言いながら、また書いているよ、こ
の人!」とわれわれは笑わうしかなくなるのですから。

 ちなみに、本稿タイトル「白目むく中原昌也」というのは、雑誌などの写真
で中原がよく白目をむいて写っていることからきています。その白目に意味
は、……たぶんない。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。腹ぺこ塾塾生。

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

★新刊案内(2004年11月10日頃刊行予定)★
『カルテ改ざん』
 石川寛俊監修
 医療情報の公開・開示を求める市民の会編
 四六判、136頁、本体1200円+税

医師-患者間でトラブルが起きたとき、今まさにやりたい放題の様相を呈して
いる「カルテ改ざん」の実態が、初めて俎上に乗せられます。
監修は、テレビドラマ「白い巨塔」の監修者でもある医療過誤訴訟の第一人者
・石川寛俊弁護士。
おもな執筆者としては、『患者よ、がんと闘うな』の近藤誠さん(慶応大学医
学部放射線科講師)をはじめ、勝村久司さん(医療情報の公開・開示を求める
市民の会事務局長)や出元明美さん(陣痛促進剤による被害を考える会)ほ
か、多数の医療被害者が実名で登場します。
改ざんされたカルテのコピーもそのまま公開しています。
かなりガツン!ときますよ。
くわしくはこちら http://www.sairosha.com/h-karte.htm をご覧ください。

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★卓道 「MeYouHouse月例ライブ 其の参」★

 秋深く 吹かぬ風に はにかみ草 葉をとじてとおくみる
 戯れながらとおもいつも またふたたび
 みまじといえば かなしきものなり

■プログラム
 part1 普化尺八本曲
 part2 構成劇「死んだ女の子」
      (野坂昭如作「死児を育てる」より)
■演 者:福本卓道(尺八)はくさん(デジュリドゥー)栄美穂
     ももとりさくら
■日 時:11月13日(土)18:00開場/18:30開演
■お 代:1500円(予約)2000円(当日)(1ドリンク付き)
     1000円(極貧の方要事前承認)
■会 場:古本喫茶/伽羅3F「MeYouHouse」(大阪・中津駅)
■連絡先:卓道音楽工房 takudoo@d1.dion.ne.jp

★11月22日(月)
 「結晶の会」パフォーマンスフェステバル
 『クリスタル』
  We Love Us !
 皆、かけがいのない命をもった表現者
 千本桜ホール
 目黒区鷹番3−8−11
 1000円
 佐藤文幸(パフォーマンス)筏丸けいこ(ポエトリーリーディング)
 荒木 巴(奇術・曲芸など)澤田麗子(ケーナ)トモ(トルコギター)
 菊地正明(うちわ太鼓)野々ユキノ(舞踏)福本卓道(尺八)他

★11月23日(火)・24日(水)
 女舞い男踏む月を偲んで 弐夜
 ダンサー:藤條虫丸・橡川キョウ・七感弥広彰他
 音:矢野司空・福本卓道(尺八)南沢靖浩(シタール)森山 繁(タブラ)
 Sarah(タンブーラ)HIDE190(ディジュリドゥー)
 七ツ寺共同スタジオ
 名古屋市中区大須2−27−20
 当日3000円/予約2800円/学生障害者2000円
 連絡先:052−221−1318

★11月28日(日)
 感月祭「Moon Light Cereblation」
 冴え冴えと大気澄む初冬。十六夜の月の下での感月祭を。
 会場:野外能舞台併設アートスペース
    えにし庵(大阪府四條畷市南野2−6−3)

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 ★第51回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年12月05日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:未定(その後、忘年会)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★『オニババ化する女たち』という本は、なんとも下品で不快になる代物のよ
うだ。Amazonのその後のレビューでも批判派が増えてきている。たとえば著者
と同業の女子大の先生によれば「この種の科学的な装いをこらしたトンデモ本
(と、敢えて言わせていただきます)が、出回ることによって、「女はセック
スや本能に翻弄されて生きるもの」という男たちの都合の良い決めつけがまた
行われるのかと思うと腹立たしいだけでなく、不快です」と。
★黒猫は村田氏のエッセイで、中原という作家をはじめて知りましたが、読め
ば途中で放り出すか、あるいはふかく感動するかもしれないなあ〜。と思い、
村田氏にその本を借りました。(黒猫房主)

●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』43号(通巻43号)(2004/11/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
      http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
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■ Copyright(C), 1998-2004 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●
■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。


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Date: Wed, 1 Dec 2004 00:03:58 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』44号(師走特大号)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
 したので、ご変更をお願いします。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
   『カルチャー・レヴュー』44号(師走特大号)
         (2004/12/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [43号は、2005/01/01頃発行予定です]
    ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「マルジナリア」第5回:存在の工場-----------------------中原紀生
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第5回:「他者」って何なんだ〜!?---ひるます
◆連載「映画館の日々」番外:猫撫で声のイデオローグ(2)------鈴木 薫
◆INFORMATION:新刊案内『ALS――不動の身体と息する機械』(立岩真也)
 /「ジェンダー史学会・設立大会シンポジウム」のお知らせ/卓道普化尺八
 行脚 MeYouHouse其の四/第51回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)---------------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
/////////////////////////////////////////////////////////////////////
////// 連載「マルジナリア」第5回 //////

             存在の工場
                              中原紀生
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

●最近、面白く読んだ二冊の本のなかにベルクソンをめぐる記述が出てきたの
で、まずその引用から始めよう。
 實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』。實川氏によると、知覚を環境との
関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組
みのなかにある考えであって、百年ほど前のベルクソンによっても語られ、そ
の後メルロ=ポンティが洗練された形で示した。この指摘は、次の文章につけ
られた註のなかに出てくる。
《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。
「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは「可
能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出し
て、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい言葉づ
かいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思
想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》

●内田樹『死と身体』。内田氏はそこで、甲野善紀氏の「人間の身体は、一瞬
手と手が触れただけで、相手の体軸、重心、足の位置、運動の力、速さがわか
る」という言葉と、「人間は指と指がふれた瞬間に無限の情報が伝授される」
というヴァレリーの身体論を紹介している。
《一九世紀から二○世紀の初めぐらいには、運動性の記憶とか、運動性の知覚
と伝達とかは、ヨーロッパではまっとうな学問として存在していた。それがな
ぜか一九二○年代にあらかた消えてしまう。「記憶を司るのは頭ではなく身体
である。記憶は運動的なものである」というベルクソンやヴァレリーの考え方
が一掃され、もう誰も相手にしなくなるのです。(略)プルーストの『失われ
た時を求めて』では、つまずいてよろけた瞬間にありありとむかしのことを思
い出すという有名なくだりがありますね。一九世紀までは、ある構えをすると
身体記憶、過去の体感が、場合によっては自分自身が経験していない他者の体
感がよみがえってくるというのは「常識」だったんです。それが九○年ほど前
に、常識から登録抹消された。》

●この文章の最後に出てくる「自分自身が経験していない他者の体感がよみが
えってくる」には強調符がついていて、これを目にしたとき、私は『思想史の
なかの臨床心理学』でのある議論を想起した。
 實川氏は「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀ま
で一体だった」という。ところが近代になって――臨床心理学による、古代以
来の「物質的な無意識」や「無意識の理性」(神の理性)に替わる新しい無意
識の「発明」に先だち――物質と精神の二面をもつ中性的で根源的な(自然科
学を基礎づける究極の事実としての)新しい意識が「発明」された。ユダヤ=
キリスト教的な「神の理性」の後継者としての意識が登場し(意識革命)、世
界は「神の国」から「意識の国」へと変換された。
《ここで、ひとつ注意しておきたいことがある。「意識革命」が起こり、「意
識の国」が築かれたとは言っても、この時代にはまだ、意識は公共のものだっ
たという点である。すなわち、意識は個々人の内側に閉じ込められてはおら
ず、もちろん感覚も含めて、みなが共有できるものだった。(略)意識が、観
察できない個々人の秘められた主観性だと一般に考えられるようになるのは、
二○世紀になってからである。》

●私が今回とりあげたいのはベルクソンの純粋知覚や記憶の理論ではない。あ
るいは(木田元氏が『マッハとニーチェ』で鮮やかに素描した)一九世紀から
二○世紀への世紀転換期の「知殻変動」の実質や、そこから派生した心脳問題
の意義といったことでもない。ベルクソンを話題の起点にして、プラグマティ
ズムという一つの哲学的気質がもたらす帰結の一端を見ておきたいと思ったの
である。
 ――ベルクソンは『思想と動くもの』に収められた「ウィリアム・ジェイム
ズのプラグマティズム 真理と事象」で、事象[レアリテ]の多様な流れとの
接触から生ずる真理(たとえば神秘家の心を動かす真理、その感情に属し意志
に依存する真理)、つまり「考えられる前に感ぜられる真理」にこそプラグマ
ティズムの起源があると書いている。
《実を言うと、ジェイムズが神秘的な心をのぞきこんでいるのは、ちょうどわ
れわれが春の日に朝風の柔らかさを感ずるために窓から乗り出したり、海岸で
どっちから風が吹くかを知るために船の往来やその帆の膨らみを眺めるような
ものであった。宗教的な感激に充たされた心は実際もちあげられて夢中になっ
ている。ちょうど科学の実験におけるように、それを夢中にしもちあげる力の
生きいきした姿をとらえさせるものではないか。そこに疑いもなくウィリアム
・ジェイムズの「プラグマティズム」の起源があり着想がある。われわれが認
識するのにもっとも重要な真理は、ジェイムズにとっては、思考される前に感
ぜられ生きられた真理である。》(河野与一訳)

●プラグマティズムの眼目は「行為」にある。ジェイムズは『プラグマティズ
ム』で、パースの原理――「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、そ
の思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。そ
の行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である」――を紹介し、
プラグマティックな方法について、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必
然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向おうとする態度な
のである」と規定している。
《プラグマティズムはまったく親切である。それはどんな仮説でも受け入れ、
どんなわかりきったことでも考慮に入れるだろう。それだからプラグマティズ
ムは宗教の領域においては、反神学的な偏執を有する実証主義的経験論と、幽
遠なもの、高貴なもの、単純なもの、抽象的な概念にもっぱら興味をよせる宗
教的合理論とのどちらよりもはるかに有利な地歩をしめることになる。(略)
プラグマティズムが真理の公算を定める唯一の根拠は、われわれを導く上に最
もよく働くもの、生活のどの部分にも一番よく適合して、経験の諸要素をどれ
一つ残さずにその全体と結びつくものということである。もし神学上の諸観念
がこれを果たすとすれば、もしとくに神の観念がそれを果たすことが事実とし
て証明されるとすれば、どうしてプラグマティズムは神の存在を否定しえよ
う。》(桝田啓三郎訳)

●その仮説から将来の経験や行為が導き出せないとすれば、もしくは過去回顧
的な見地からは、唯物論も有神論も、つまり物質(盲目的なアトムの目的なき
結び合わせ)も神(摂理)も同一物である。絶対者、神、自由意志、設計と
いった神学上の諸概念は、主知主義的には暗闇である。ただ未来展望的な見
地、プラグマティズムの見地からのみ、それらは「救済の説」としての意義を
もつ。たとえば自由意志。それは「この世界に新しいものが出現するというこ
と、すなわち……未来は過去と同一的に繰りかえすものでも模倣するものでも
ないことを期待する権利」という意義をもつ。――ジェイムズは『プラグマ
ティズム』の最終講で、われわれの行為こそが世界の救済を創造するのではな
いかと問いかけている。
《なぜそうではないのか? われわれの行為、われわれの転換の場、そこでわ
れわれはみずからわれわれ自身を作りそして生長して行くのであるから、それ
はわれわれにもっとも近い世界の部分なのである。この部分についてこそわれ
われの知識はもっともよく通じており完全なのである。なぜわれわれはそれを
額面どおりに受け取ってはならないのか? なぜそれがそう見えるとおりに世
界の現実的な転換の場、生長の場でありえないのか――なぜ存在の工場である
ことができないのか。この工場においてこそ、われわれは事実をその生成過程
において捉えるのであり、したがって、世界はそれ以外の仕方では、どこにも
生長しえないのではいか。》

●しかし、それは非合理ではないか。新しい存在が局所的に現われてくるはず
がない。事物の存在理由は全自然界の物質的圧力ないしはその論理的強制のほ
かはない。だとすれば世界は万遍なく生長すべきであって、単なる部分がそれ
だけで生長するなどは非合理である。――このありうべき非難に対してジェイ
ムズは答える。
《論理、必然性、範疇、絶対者、そのほか哲学工場全部の製造品をお気に召す
ままに持ち出されて結構であるが、およそ何ものかが存在しなければならぬと
いう現実的な理由としては、誰かがそれのここにあることを欲するというただ
一つの理由しか私には考えられないのである。それは要求されてあるのであ
る。――どれほど小さい世界の部分であろうとそれをいわば救助するために要
求されてあるのである。これが生きた理由なのであって、この理由にくらべる
と、物質的原因とか論理的必然性とかは幽霊みたいなものである。》

●プラグマティズムは「神学」の異称である。私はおぼろげにそう考えてい
る。それは、たとえばパースの「プラグマティシズム」とジェイムズの「プラ
グマティズム」のうちにスコラ的実在論と唯名論を重ね合わせるといったよく
ある議論にはじまり、パースのいう「仮説についての科学」としての純粋数学
もしくは「数学的形而上学」(『連続性の哲学』)、前田英樹氏がいう――形
而上学の体系的思考(からごころ)を批判する共通の立脚点としての、あるい
は「今、ここにしかじかの身体を持つ」というところから世界を捉える(身ひ
とつで学問の実義を生きる)こととしての――「深い意味でのプラグマティズ
ム」(「『感想』とは何か」)、そしてジル・ドゥルーズの「生命論」などを
ブレンドした新しい神学のことである。

●ジェイムズは「変化しつつある実在という考えについて」(『純粋経験の哲
学』)のなかで次のように書き、「ベルクソンの研究者たちがパース氏の思想
をベルクソンの思想と比較してみるよう、心から勧める」と結んでいる。新し
い神学をめぐる(私の)作業はこの比較論から始まるだろう。
《パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのである
が、ふたりの思想は完全に重なり合うものである。どちらの哲学者も、事物に
おける新しさの出現は純然たる本物の出来事であると信じている。新しさは、
それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては、多大な「偶然」の
関与ということでしかありえないが、その内部に立つ者にとっては、それは
「自由な創造的活動性」である。》(伊藤邦武訳)

●先の文章のなかで、ベルクソンは、自然の力を利用するために機械的な装置
を創造するように、われわれは事象を利用するために真理を「発明」するので
あって、そこにこそプラグマティズムの真理観の要点があると書いている。
《赤ん坊は、「物」すなわち過ぎていく雑多な動く現象を通じて不変に独立し
て存続するなにかについてはっきりした観念をもってはいない。この不変とこ
の独立を信じようと思いついた最初の人は一つの仮説を作った。その仮説をわ
れわれはふだん一つの名詞を使うたびに、われわれがものを言うたびに採用し
ているのである。もしも人類がその進化の過程において別の種類の仮説を採用
する方がいいと思ったとすれば、われわれの文法は別のものとなっていただろ
うし、われわれの思考の分節も別のものとなっていたであろう。(略)私はこ
れが、表面には指摘されていないとしても、プラグマティズムのもっとも重要
な論旨だと思う。この点でプラグマティズムはカント思想を続けているのであ
る。》

●これを読んで私は、永井均『私・今・そして神』の序文を想起した。永井氏
はそこで、矛盾対立する哲学上の学説がいつまでも淘汰されず敬意を払われつ
づけるのは、「哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才
の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝え
ることができないようにできているからだと思う」と書いている。
 プラグマティズムは「哲学」の異称でもある。私はいまおぼろげにそう考え
はじめている。――哲学工場(というより、なにか特別の種類の哲学的技術が
伝承される工房)における工具製造の技芸としてのプラグマティズム。その工
具(概念)を使い、存在の工場を稼働させる推論の法則(可能態から現実態へ
の仮説形成的=実験神学的な創造の法則)としてのプラグマティズム。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html

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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第5回 //////

         「他者」って何なんだ〜!?
                              ひるます
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

獏迦瀬:前回は「実存」の話から、いきなりヒステリーについての話に飛びま
した。前々回の「世間」の話と共通するところとして、他人との共感という
か、共通の時間を生きている感覚というのが問題になりました。そこで肝心な
のが「他人」、「他者」ってのが何なのか?ってことなんだと思うのです。

伊丹堂:というと?

獏迦瀬:たとえば伊丹堂さんのいう「まっとうな生き方」「実存」というの
は、これまでの対話で言ってきた「倫理」的な生き方と重なると思うのです
が、その場合に「他者への配慮」ってことが肝心になるわけですけど、「ヒス
テリー」や「世間」の場合にもやはり「他人」への配慮ということが問題に
なってるわけで、このへんどう違うのかということですね。

伊丹堂:そりゃ全然違う。ようするに「他人がこう思うだろう…」という推量
がすでに成り立っていて、それに合わせて行動を起こすのが「世間」的なもの
じゃが、「他人がどう思ってるか」ではなくて「こうすれば幸福になるだろ
う」と創造的に行動するのが「倫理」なわけじゃな。

獏迦瀬:それゆえ「倫理」は「ひとりよがり」とウラハラなのだということで
したね。

伊丹堂:しかし「世間的」に行動する場合だって「すでに分かってる」という
のは本人の思い込みにすぎない、なんの保証もないものなわけじゃからな。原
理的な問題として考えれば人は何をするにしても「ひとりよがり問題」とは縁
が切れないわけよ。ま、実際問題として世間的に行動する方が「失敗」は少な
いだろうとは言えるが、失敗しなかったからといって「幸福」になれるわけで
はないんじゃから、なんの意味があるのか?ってことになるわな。

獏迦瀬:たしかに…、まあ世間的に生きる人は、そういうふうに他人との間で
うまくいってれば幸せなんでしょうけどね。

伊丹堂:人それぞれってヤツな。

獏迦瀬:そう考えると、実存の場合とヒステリーや世間が対象としているよう
な「他者」とでは意味合いが違うということになってくると思うのですが。

伊丹堂:まあ言葉の問題じゃな。肝心なことは、人は根本的に、というか「構
造として」他者を配慮する存在だということと、その前提の上で、どのような
実存がありうるのか、この二つを分けて考える必要がある。これもいつも言っ
ておることじゃが。

獏迦瀬:構造として…というのは、ようするに人が何かを考えたり表現したり
することが、すでに「他者を想定」している、というレベルの話ですよね。

伊丹堂:そう、言葉で考えたり、何かを意識すること自体にすでに「他者の視
点」というものがかかわっている。こういった話は『オムレット』でさんざん
語ったとこじゃな。前回のヒスの話との関連でいうと、「感情」というものも
また「他者」に対する表現という側面があるというのも言っておく必要があ
る。

獏迦瀬:ああ、感情というと何か「身体的な」もので、個人的なもののような
気がしますが、たしかに感情というのは何かの「意味」というか「コト」の表
現になってるわけで、「他人に理解可能」な形式になっていますね。

伊丹堂:それが極端に「分かれ!」という押し付けになったものが「ヒス」と
も言えるわけじゃな(笑)。それはともかく、感情というのも人にとってはコ
ミュニケーションというか、ある種のコトの創造としてあると考えられる。と
ころで感情というものは「怒ろうと思って怒る」のではなく「喜ぼうとして喜
ぶ」のでなく、いわば「自動的に起こる」わけじゃが、ここからして言えるの
は…。

獏迦瀬:恋に似ていますね…。

伊丹堂:それも「感情」じゃからな。ともかく、それが自動的に起こることか
らも言えるのは、コトの創造が他者の視点からのものだといっても、それは
「他人の視点」がまず先にあって、そこからコトが作られるのではない、とい
うことな。そうではなくて、まず感情というリアルが到来して、それがさまざ
まなコトとして形を変えていくといってもいい。

獏迦瀬:その際に他者の視点からのコトの創造がなされる…。

伊丹堂:いちばん分かりやすいのは「怒ってる」とき。怒ると人は凶暴に暴れ
る人もいるが、だいたいはむしろじっと考えるようになる。何を考えるのかと
いうと、その怒ってる相手に対する反論やらなにやらを再現なく反復している
わけじゃ。

獏迦瀬:たしかに(笑)。相手の言い分までくりかえし思い出したりします
ね。

伊丹堂:ヒステリーの場合もそうじゃが、ようするに悪感情の中でコトを表現
しようとすると、それが意味のない繰り返しになってしまう。自分の中でぐる
ぐる繰り返しているならいいが、他人を巻き込んでぐるぐるまわっているのが
ヒステリーとも言えるな。

獏迦瀬:なるほどね〜。

伊丹堂:それはともかく、いま話してる「構造的に」他者の視点でコトを創造
するというレベルでは、その他者は具体的な「だれ」というわけではないし、
また「あらかじめシカジカのような他者」というのが想定されて、それに対す
る表現としてコトが作られるわけでもない。まずリアルが到来して、コトが語
られ、それがウラハラになんらかの他者を想定させる。というような関係にあ
るわけじゃな。

獏迦瀬:コトの創造がまずあり、他者は後からついてくる…って感じですかね
? コトの創造においては、想定される他者=文脈そのものが生成される、と
肥留間氏がどっかで言ってましたね(注1)。

伊丹堂:ふうん。で、その上で肝心なのは「実存的な」レベルで、ワシらが
まっとうに、実存的にモノゴトをなそうとすれば、それは必然的に「他者に先
立つ」ものにならざるを得ないってことな。

獏迦瀬:はあ…。

伊丹堂:ようするに、もしもあらかじめどういう他者かが明らかであり、それ
に対して、それに合わせてモノゴトをなすのだあれば、すでに語られたことは
「分かっていた」ことなのであり、そこにはなんの創造もないのだということ
になるじゃろう。語ることの不確定さこそが、そこで語られたことを他者がど
う受け取るかということの不確定さイコール、他者という存在の不確定さなの
であり、その不確定さにこそ「創造」ということがありうるわけよ。

獏迦瀬:なるほど、おっしゃることはよく分かりますが、そうすると単に相手
が誰だか分からない、何が確かか分からない…闇雲だという感じですけど。

伊丹堂:いや、だからその不確定さに対して、表現する人の「決断」と「責任
の引き受け」ということがあるわけよ。

獏迦瀬:ああ。

伊丹堂:不確定だから、そこで本人がいつまでも不確定さのままに漂うのでは
なくて、これでどうだ?! と言い切ることが表現における実存ってことであ
り、そこで言い切ったことに対しての責任を引き受けるということが、決断っ
てことの意味なわけよ。

獏迦瀬:表現は決断ですか…、まあずるずると漂ってるだけ、みたいな小説も
いっぱいありますけどね(笑)。

伊丹堂:(爆)がはは、たしかに。そういうものも「表現」として許容してし
まう日本人の問題ではあるな。それは小説だけではなくて、もちろん哲学や芸
術の領域でごまんとあることじゃな。

獏迦瀬:そこで日本人、というか「世間」の問題とつながると思うのですが、
いまの実存の話とはまったく逆に、すでに分かっている他人、というか「身
内」ですよね、それを相手に、すでに「承認された」モノゴトを「創造」では
なく「反復する」のが、世間を生きる日本人の生き方だということになります
かね〜。

伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。創造=決断がないから「責任」もない。世間の中
で「責任」を誰もとらないのはそういう構造によるわけじゃな。表現や発言の
内容が問題になるとすぐ出される反応が「私の意図が十分に伝わっていない」
というやつね。意図がどうかでなく発言の「内容」が問題になっているのに、
そういう反応が出るのは、意図というあいまいなレベルでは「みんな分かり
あっているハズ」という奇妙な共感が背景にあるわけじゃな。

獏迦瀬:あいまいな共感の中で表現しているから、どこかで決断したという自
覚もないわけですね…。

伊丹堂:世間というより「ヒステリー」の人も同様なんじゃが、表現の内容を
批判されると、自分がそれを行ったときに「ああだったこうだった」という事
情を説明したがるのな。ようするにそれは個人的な「事情」なんじゃが、それ
を「理解」してもらえば、その表現も理解してもらえると思うらしい。まさに
誰もが「共通の時間」を生きているハズという感覚なんじゃな。

獏迦瀬:そういえばどっかの政治家が「私は寝てないんだ」といって笑い者に
なりましたね…。

伊丹堂:決断をともなう表現は、その結果についての責任を引き受けるのみ。
そういう潔さがないんじゃよ。

獏迦瀬:ようするに自分の、ではなくて、事情をわかってくれる「みんな」の
共同責任というイメージなんですかね? だから「世間をお騒がせして申し訳
ない」という謝り方になる…。いずれにしても「世間」や「ヒステリー」とい
う中には「他者」はなくて、「身内」とか「みんな」というあり方だけがある
ということでしょう。とすると、あらためて「他者」とは何か? ということ
になるかと思うんですが。

伊丹堂:定義の問題じゃな。不可知な「外部」として現れる極性を「他者」と
呼ぶ、ということにすれば?

獏迦瀬:極性ね…。レヴィナスの絶対的な他者みたいなもんですか?

伊丹堂:いや、そうではない。公共性や普遍性というのを、ヨリ公共的〜と
か、ヨリ普遍的〜という修飾辞として使うべき、ということを以前にいったが
(「La Vue」掲載の対話シリーズ等)、それと同じ。関係概念として捉えるっ
てことじゃな。倫理における「他者」ってのは、現状に対して「そうではな
い」と否定しうる視点がありうる、ということを徹底的に考える契機としてあ
るわけで、誰か特定の特殊な事情の「他人」を想定しているわけではないから
の。

獏迦瀬:ヨリ他者的〜ってことですか(笑)。

伊丹堂:どのように他者性を意識しているかという態度の問題として捉えるワ
ケよ。ともかく、そういう使い方をしていれば、「他者」が「他人がどう思う
から〜する」などといった「根拠」には間違ってもならないということが、
はっきり分かるはずなんじゃがな。

獏迦瀬:なるほどね…。そういえば以前の竹田現象学批判の巻(「カルチャー
レビュー」25号 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re25.html#25-2 )
で、竹田青嗣が「ありふれた他者を倫理の根拠におく」と言ってたのを批判し
ましたが、あれがまさに「すでに知っている他人」を根拠に行動するものとし
ての世間=グローバリズムという思想だったわけです。

伊丹堂:ま、さしあたってたいていは人は「他人がどう思うかをすでに知って
いる」という前提で、というか「かのように」行動しているわけで、それが問
題だというわけでは全然ないんじゃが、ようするにそれは「倫理」とか「生き
る意味」とかとはまったく関係がないってコトよな。

獏迦瀬:「実存」ではない…というか。

伊丹堂:まっとうじゃないってこっちゃな(笑)。以前「世間って何なん
だ〜」の巻で言ったように、今やワシらは「個人としての時間」を生きなけれ
ば、ほんとうの意味で「生きた」とか「コミュニケーション」をしたとは思え
ない、という時代にいるからじゃ。

獏迦瀬:世間という生き方ではもはやいけない、というかイケてない、という
話でしたね。

伊丹堂:ただ付け加えておかねばならないのは、世間がなければよいという話
ではないというこっちゃな。たとえば西洋では世間がなく個人が「自分の時
間」を生きている、という。しかしそれだけで「実存的」というわけでもな
い。日本人が「相手のことをすでに知っている」かのように行動するのが単に
「様式」であるように、西洋人が「相手のことを知らない」し、「自分のこと
をはっきり表現しないかぎり絶対に理解してもらえない」というふうに行動す
るのもまた「様式」なわけじゃ。実存というのは、そういう前提の上で、ある
種の「決断」を持った生き方なわけでな。

獏迦瀬:やはり精進っすね。

注1)ひるます「世間と他者性〜大澤真幸「戦後の思想空間」を読む」など参
照 http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/WEBZIN/hirumas25.html#0214

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/

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////// 連載「映画館の日々」番外 //////

  猫撫で声のイデオローグ
  ――三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』
    (光文社新書)を読む(2)
                              鈴木 薫
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

I:Sさん、カゼ引いたんですって? 年に一度くらいしか引かない人が。

S:ちょうど一年目だったんですよ。カゼそのものはひどくならなかったけ
ど、歯茎に黴菌が入ったらしく、右下の奥歯から顎まで腫れちゃいました。
今、左だけで噛んでいるんですが、まだ頚のリンパ腺がはれていて。唾を飲み
込んだだけでも痛いんです。でも、これは、そこで菌の侵入が止まっていると
いうことでしょう。

I:大丈夫?

S:食欲はあってちゃんと食べてますから。一番ひどいときでも食事だけはし
てました。あとは寝てましたが。

I:対談、延期します? 花じゃなくて食べ物をお見舞いに差し入れますよ。

S:ありがとう。でも、大丈夫。今話しているようなことが、実は身体性とい
うものです。今回は微熱程度だったので助かったけれど、体温が二、三度上昇
すれば、もうそれだけで私たちは何もできなくなってしまいます。ロラン・バ
ルトは、自分の身体の中立性が掻き乱される契機を偏頭痛と官能性だと言った
ことがありますが……。

I:あー、もう対談はじまってるの?

S:はじまってるの。「官能性」の原語はサンシュアリテ、英語のsensuality
ですが、松浦寿輝がそう訳して引用していた「偏頭痛とセックス」との方がわ
かりやすいかな……要するに苦痛と快楽の、どちらも軽微なもの、というわけ
で、だからセックスといっても生殖器性――genitality――とは異なります。
性器を排除するものではもちろんないのですが。

I:Sさん、ここで取り上げているのは、たかが『オニババ化する女たち』で
すよ。バルトを持ってくる必要あるんですか? そういうのを、ほら、なんて
言うんだったか――龍頭蛇尾。違った。羊頭狗肉?

S:何を言いたいの? 鷄を割くに牛刀をもってす?

I:そう、それそれ。

S:まあ、較べるのも笑止なことながら――『オニババ化』の著者が回復を訴
える身体性とは、たんなる生殖器性なわけです。逆に言えば、女の身体の、生
殖器への還元、矮小化です。妊娠、出産 の過大評価が、逆説的に、身体性と
いうものを、極めて限局されたものにしてしまっています。

I:歯茎が腫れて寝込んだり、熱が出て思考能力がなくなったりすることもま
た、身体性だというわけですね。

S:「至高体験」に至らないちょっとした快楽もね。だから逆に、『オニババ
化』みたいな本は、身体性の詰めが足りないんですよ。私たちが徹頭徹尾身体
であることに対してよほど鈍感にならなければ、こんな本は書けません。

I:「スピリチュアル系」とやらに惹かれる人に対しては、「からだは、いず
れ捨てていかなければならないものなのですから、今、今回持ってきたからだ
を、大事にするしかないですね」とかきくどく――うーん、意味不明ですね
え。

S:「スピリチュアルな世界」とやらを結局は認めているんですよね、この著
者は。「性生活というのは出産と同じで、魂の行き交う場、霊的な体験でしょ
う」とも言ってるでしょ。もういいです。否定するにも値しませんから。いい
加減、これを話題にするのもあきちゃったんですが――ずいぶんあちこちで話
のタネにされているようで、どんなにひどいのか確かめてみよう、新書だから
いくらもしないし、と買う人が多いとみえ、ピンクの腰巻に替えて本屋に平積
みになってるんですよね。いかに微力とはいえ、仮にも宣伝に加担するような
ことに手を出すべきではなかったか、と思わぬでもありません。

I:え? 私はまだ言い足りませんよ。付箋はまだまだ挟んである。「卵子の
悲しみ」紹介します。でも、その前に、私、Sさんに質問があって。前回の最
後でSさんが指摘したヒステリーの図式って、フロイトによるものなんでしょ
う?

S:それはかなり微妙な問題で、むしろ通俗フロイディズムというべきです
ね。ヒステリーについていえば、三砂さんが推奨するような通常の性交によっ
て満足を得られないからこそ起こるとフロイトは理解していたはずです。三砂
さんは性に関する、これまでさんざん問題にされ、退けられていた紋切型を、
出所を明らかにせずに引いてきてまことしやかに語っています。前回引いた、
クリトリスを排した腟中心主義もそうで、誰もが知るとおり、悪名高いフロイ
トの記述の引き写しです。(もっとも、クリトリスに触るななんて馬鹿なこと
をフロイトは言っちゃいませんが。)私、以前、トマス・ラカーの『セックス
の発明』(工作舎)の書評を書いたことがあって……。

I:今度、ブログにも載せたんですよね。(http://kaoruSZ.exblog.jp/)

S:最後の部分を読みますね。
「性感帯のクリトリスから膣への移動説に関して、私は以前から当時の医学界
の常識に興味があったのだが、本書を読んで驚いた。何とフロイト以前には、
クリトリス以外に女性がオーガズムを感じる場所があるとは、誰も思っていな
かったし、彼自身、自分の主張の解剖学的・生理学的根拠のなさを知っていた
に違いないというのだ! 結局彼の関心は、解剖学的には根拠のない異性間性
交を身体が役割の性として引き受けさせられる、という事実を確認することに
あったのだと著者は言う。(……)フロイトは、クリトリスがペニスに相当す
ると知りながら、腟とペニスを対立させて、男女の社会的役割の根拠を身体組
織の中に見出したいという同時代の熱望に応えたのだった。私たちの居場所も
基本的にはここからさして隔たっていないのだが、さてそれは、いかなる同時
代の欲望の反映だろう?」
というわけで、フロイトの書き方を、たんに中立的な記述とばかり言うわけに
もいかないのですが、この書評を書いたのは六年前で、こう書きながら私は、
実は「同時代の欲望」について明確なイメージを持っていなかったんです。だ
からこそ、疑問形で終え、読者に思いえがいてもらうようにしむけたわけで。
それが今、『オニババ』のような本という形で、ある種の「同時代の欲望」が
不意に見えてきたような気がします。

I:もしかして、悪い時代になりつつある!?

S:そうなの。けっして私の目がよくなったわけじゃない。女に生まれた「不
幸」を、母になるという「至高体験」で帳消しにできると信じられれば、女性
は社会に疑問を抱かなくてもすむわけですよ。

I:それを信じられるのが不思議なんだけど……。ともあれ、子宮中心主義の
トンデモぶりについて、次に「卵子の悲しみ」を紹介しましょう。

S:念のために言っておくと、ここではもうフロイトは何の関係もありませ
ん。著者のオリジナルです――とも言えないか。以前、国立科学博物館の片隅
で、特別展とは別にひっそり映写していたアニメーションがあったのですが、
それを思い出しましたね。受精の絵解きで、男の子の恰好をした精子たちが卵
子めがけて競争するんですが、その卵子がまた、髪が長くてロングドレスで、
松本零次のマンガみたいな。イスカンダルで待つスターシアかって。

I:(笑)そこまでは行ってないかな。こっちは、精子にめぐりあえなかった
卵子の話ですからね。でも、擬人化はアニメに劣らずすごい。まず、月経後一
週間ぐらいのときには、「『誰か探せ、誰か探せ』と卵子がからだに呼びかけ
ている」んで人恋しくなるんだそうです。「それは、別にすごく性欲が昂進す
る、というかんじではなくて、それこそ誰かと電話で話したい、とか、一緒に
何かしたい、とか、一人でいることがたださみしいような気持ちになることが
あるのです」それから、月経前に起こる――

S:人によっては起こる、とすべきですね。

I:月経前に人によっては起こる「月経前緊張症」は、「卵子の悲しみ」が伝
わってきてそうなるのではないかと三砂さんは思っているんだそうで。「せっ
かく排卵したのに、全然精子に出会えなくて、むなしく死んでいく卵子が毎月
毎月いるわけです。トイレに落ちてしまって、あれ〜という感じで流されてし
まう」

S:スターシアみたいなのが、あれ〜と。(笑)

I:「なかには、「私はもう絶対に赤ちゃんになりたい」と思っているような
卵子もあるわけで――」[吹き出してしまって続けられない]
S:やっぱり、トンデモですねえ。

I:次はオカルトですよ。「ですから、排卵して一週間ぐらいすると、卵子の
くやしさ、悲しみというのが女性の感情に移ってくる」卵子の怨念ですね。

S:卵子供養が必要だね。

I:「だから月経前一週間ぐらいは、ものすごく暗い気分になったりするので
はないでしょうか」Sさん、そんなことあります?

S:ないですよお。

I:ないときの理由も書いてありますよ。「でも、そういう気分にならないと
きもあるわけで、それは卵子の個性ではないかな、と思います。卵子にしても
あきらめの早いのもいて、「しょうがないか、まあ今回は」みたいな感じでト
イレにすっと[笑ってしまって続けられない]」

S:卵子ィの気持ちィは〜よ〜くわかる〜。

I:何ですか、それ。

S:いや、知らなきゃいいです。えーと、「そういう気分にならないときもあ
る」んじゃなく、たんにならないんですよ。

I:もともとSさん、生理痛もほとんどない羨ましい人なんですよね。

S:ただ、月経直前に性欲が昂進するのに気がついたことはあるんで、はっき
りした指標がないときには、気分の変化をいちいち月経周期と結びつけたりし
ないということもあるかもしれませんが。

I:そういう人は、子宮の声に耳をかたむけない女性と言われちゃうんです
よ。「そういうことをまったく無視していると、だんだん子宮もいじけてき
て、頑なになって筋腫になってしまったりとか、ねじくれて子宮後屈になった
りとか、子宮がいがんでくるような気がするのです」また、「気がするので
す」ですか。

S:「いがむ」ってどこの言葉?……はあー三砂さんは山口の人ですか。なか
なか感じ出てるじゃないですか。いがんで、いじけで、ねじくれて。物質的な
もので気分が左右されるというのはむしろ面白いと思いますが、子宮がいじけ
ると言われてもねえ。ついでに言うと、人恋しいのと性欲は、性欲と生殖が別
ものであるのと同様、別ものです。

I:「いったい自分のからだの中に何コ卵子が準備されていて、そのうちのど
れだけが精子に出会えるのでしょうか。やはり失意のうちに落ちていく卵子が
ほとんどで――」

S:すごい数、準備されてるんでしょう? 生まれたときから。というより、
もう生まれる前に。それを全部受精させろって? シャケか。

I:三砂さんもそこまでは言っていないでしょう。ただ、一人で十人産んだ昔
の女性を例に出すんです。生殖年齢にある間、排卵、妊娠、授乳、排卵、妊
娠、授乳の繰り返し。「そう思うと、そのころの卵子ってむだになっていな
かったのですね」

S:それでもやっぱり、準備された卵子のおおかたは、成熟することもなく閉
経を迎えていたわけで。私たちって、実にむだに作られているんですよね。そ
れよりも、避妊手段がないまま、性交を拒否できずにたかだか十箇ほどを受精
させたばかりに、健康をそこねた女性がどれだけいたことか。

I:ひいおばあちゃんが裸になると、文字どおり「垂乳根」だったのを今思い
出しました。

S:そこまでが、「卵子にも個性がある」の節、その次が、「子宮口にも心が
ある」ですね。

I:子宮口が、「たとえば子宮ガン検診のときに子宮口の粘膜に金属がふれた
りすると、ビクッと反応したりする(……)それがものすごくリアルな反応で
――」

S:そりゃ、ビクッとするでしょうよ。だからって、「子宮口にも心がある」
はないでしょう。このすぐあとでは、子宮は筋腫などがあってもできることな
ら取ってはいけない、使わなくてもなるべく取ってはいけない臓器だとありま
すが、これは本当だと思いますよ。ただし、他の臓器もまたそうであるよう
に、ですけどね。別に、三砂さんの言うように、「女性性の中心だから」とい
う理由ではなく。

I:管理されたお産はよくないという話なら、私たちも賛成じゃない? この
本で取り上げられている話題、総じて最初はもっともらしいんだけど、途中か
らおかしくなるのよね。

S:最初はまともに見えて、途中でトンデモ化する。

I:ここでは次のようにトンデモ化します。「ですからいくつになっても、
『自分の子宮はピンクでハート形みたいになってキラキラしている』というよ
うなイメージを持っているのがいいのでしょう」

S:サンリオとタイアップして売り出したらどうかな。ピンクの子宮。

I:いや、すでにこんなのあったような。セーラームーンの持ち物とか。

S:手術で子宮を摘出した人に対しては、「たとえ、今までにすでに取ってし
まった人でも、もとはあったのですから、イメージするのがよいと思います」
だって。

I:大きなお世話ですよー。

S:ほんと、想像力ないというか、さもなきゃ変な想像する人ですね。不妊の
話のところでも、「自分の女性性や子宮の存在を受け入れられないで生きてき
て、ここへきて急に子どもだけ作ろう、と思っても、それは虫がいい話ではな
いかと思うのです」とか、「不妊で苦しんでいる人を傷つけることになったら
とても不本意ですが」と例によって前置きしつつ、「やはり自分のからだに向
き合って、自分が女性であることを楽しんでいるでしょうか、という問いかけ
をしてみたいと思います」とか。

I:お説教がしたいんでしょうか。

S:それ以前に、レイプでだって妊娠するのにと思いましたよ。

I:一つ抜かした。「友人の産科医」いわく――

S:「おばあちゃんなども産科の外来にいらっしゃることがあるそうで、内診
させてもらって、「いやー、おばあちゃん、まだ元気でいけそうだよ!」など
と言うと、みんなぽっと顏を赤くして嬉しそうにするんだよね、と言います。
そんなことを言われて嫌がる人など、一人もいない、と」

I:セクハラでしょ、これ。

S:セクハラです。

I:あと、Sさんは、「昇華」について言っておきたいんですよね。

S:ええ。昇華という言葉の、この本でのいい加減な使い方について。

I:昇華ってそもそも何なんですか?

S:すごく簡単に言ってしまうと、性的欲望が目標を変えて、社会的に認めら
れた「高い」形に変換されることですね。

I:私も、たしかそんなもんだと思っていたんですよ。そうすると、物欲の
「度が過ぎるのも、性欲が満たされていないからでしょう。やはり、物欲が多
い人は欲望がガーッと出てきているのが目に見えるようです。でもそれはもと
もとは性欲なのですから、きちんと性欲としても昇華させてあげるために、世
の御主人たちももっとがんばってください、とも言いたくなります」とあるけ
れど――。

S:ああ、最後、御主人が出てくるわけですね。性欲として昇華させるという
ところは、私もクエスチョン・マークつけたんですが。

I:変ですよね、「性欲としても昇華」って。

S:だいたい、物欲に昇華されるってのも変ですが、「性欲としても昇華」な
ら、もとにあるのは何なんでしょうねえ。

I:やっぱり性欲なんですよ。

S:それでその性欲は、「御主人」に満たしてもらうしかないわけですね。だ
とすれば、ここには「昇華」なんてものははじめからなかった。あるのはなま
な性欲だけで、ペニスの反復服用――これはフロイトの先生が女たちへの処方
としてフロイトに耳うちした言葉ですが――でしか満たされないということで
す。

I:やっぱりもとはフロイトなんですね。

S:非難されるべきはフロイトではなく、今どきこうした図式を平然と持ち込
んでくる著者、そしてそれに感心する記憶喪失の読者です。

I:「昇華」なんて言葉使わないで、最初から、性欲は性欲として満足させよ
とだけ言えばいいのにね。

S:そうしないのは、フロイトのいう「昇華」にも色目をつかっているからで
しょう。「人間というのは、性欲を抑圧することで、いろいろな文化を作って
きたようなところがありますから、一概に否定するつもりはありません」とあ
るでしょう?

I:なまな性欲の充足以外のことも否定しないということですね。でも、その
欲求不満のおばさまたちのやっているのは、物欲の充足なんですよね。それ
が、ここでいう文化になるのかしら。

S:そのすぐあとに、「特に女性はある年齢になると性欲をうまく発散させて
いく必要が出てくる」とか、「性欲がうまく昇華される必要があるのは、三十
代後半以降だと思っている」とか、「このような時期に適切に昇華していかな
いと、オニババになると思うのです」とかありますが、これらの昇華という語
の使い方はすべてデタラメです。「御主人たち」に満足させてもらうことを昇
華と呼んでいるのですから。おおもとにあるのは、女には男とのセックスとい
う形でしか「発散」できないという偏見です。フロイトも女には昇華が困難だ
と思っていたし、女が知的方面で発達を遂げると、生殖系はだめになると十九
世紀には思われていました。

I:ああ、やっぱり、元凶はフロイト?!

S:だから、それをこんなところへ持ち込むのがおかしいんだってば。

I:もっと前のところに、「性に関わらない身体性なんて本当はない」ではじ
まるくだりがありますよね。

S:ええ。今の言葉については、私も心から賛成しますよ。

I:ところが、三砂さんの場合は、そのすぐあとにこう続くのです。「生まれ
てからそういうことは何も教わらずに、勉強とか趣味とか、いろいろなことを
現代の人間はしていますけれども、それらはすべて、本質的な性欲が満たされ
ないなかでの発散手段になっているところがあります。ですからそういったこ
とだけしかしていないと、やはり歪みが入りますよね。所詮発散なのであっ
て、まっすぐな発露ではないわけですから。でもその歪みによっていろいろな
芸術ができたということももちろんありますから、一概に否定はできません」
そうか、発散ではなく、発露というわけですか。

S:突っ込みどころ満載のくだりですね。まず、この書き手は、「本質的な性
欲」が存在し、それが「御主人」のペニスによって解消されると信じているん
ですね。御主人にもうちょっと頑張ってもらえれば、おばさまたちもヨン様の
方ににがーっと行ったりしないというわけです。

I:女にはともかく「発露」をすすめるんですよね。

S:そう、「発散」したってろくなことにはならないからって。気づいたとき
にはオニババよって。三砂さんのいう「性に関わる身体性」というのは、繰り
返しになりますが、その「本質的な性欲」の発露に限られています。

I:では、芸術は誰が作るんですか。

S:男ですよ。

I:あー、やっぱりそういうことなのか。自分は男じゃないから男については
語らないようなことを言って、結局はそういうことなんですね。性欲を否定す
ることでいろいろな文化を作ってきた「人間」というのは、結局は「男」のこ
となんだ。

S:オヤジとの結託っていう最初の話ともこのへんでつながるかと思います。

I:いったいどうやってこれに対抗したらいいんでしょう。

S:参考になりそうなものをざっとですが紹介してみましょう。デイヴィッド
・ハルプリンは『同性愛の百年間』(法政大学出版局)で、ギリシア以来、そ
れこそ、「ヒステラ」が身体中を移動するのでヒステリーが起きると考えられ
ていた時代以来の、女のセクシュアリティが生殖と避け難く結びつけられてい
るとする考え方を総ざらいしています。そうした上でハルプリンは、性的快楽
と生殖が分かち難く結びついているのは男性のセクシュアリティなのであり、
男が女にそれを投影していたにすぎないと指摘します。長いあいだ信じられて
きたのとは反対に、女のセクシュアリティは生殖を目的としない。そのとき、
快楽のためにだけある器官、クリトリスがプロブレマティックになるわけです
が、『オニババ』のクリトリス軽視もこうした問題系から一ミリもはみ出して
いないのがわかるでしょう。昇華については、レオ・ベルサーニが人間の性欲
はそのはじまりからして昇華なのだと言っているのが役に立つでしょう。生殖
に向かう「本質的な性欲」とは、その特殊な形態にすぎない。『オニババ』の
著者が採用しているのは、性欲を抑圧してゆがめた結果「勉強とか趣味とか」
へ向かうという紋切型ですが、ベルサーニは「遊び、仕事、芸術、哲学的・科
学的探求の喜び」について、抑圧されないエネルギーが昇華されるのだと、昇
華とは「自我の楽しみの精緻を極めた形式」であると言っています。ついでに
言うと、性欲は低いもので、昇華は高級だというわけでもないんですよね。

I:女を生殖から自由になれないものと決めつけて、男にどういう得があるん
でしょうね。

S:さあ。所詮女は異なるもの、理解を超えたもの、としておきたいんでしょ
うか。『オニババ』では、月経に関する情報は好奇心から読むかもしれません
が、所詮ひとごとですから。女が書いて、女が批判し、あるいは賞賛するの
を、男は面白がっていればいいんですね。身体性は女のもの、精神性は男のも
のとして安堵する。

I:一方では嫉妬もしますよね。

S:しますね。そこまで身体性を極められる女がうらやましいって。女の方が
快楽が深いという幻想を維持しつつ、忘我できる女を憎むんですね。

I:女に対するあからさまな軽侮とひそかな嫉妬。

S:優越感と嫉妬ですね。相も変わらぬ男と女の再生産に役立つわけです。

I:女の快楽に関して、私がもう一つ納得できなかったのは、胸についての過
小評価です。

S:ああ、胸などにこだわるのはおかしいという。「性体験の深さということ
で言えば、たとえばお乳にこだわって吸ったりするというのは、性行為として
すごく稚拙なことといえないでしょうか」という記述。

I:乳首を吸うのは赤んぼにまかせておけというわけですか。

S:女性の胸のセックス・アピールの過大視については確かにそのとおりだと
思います。でも、不思議なことに三砂さん、ここで乳首を吸う男の「性体験」
の側に立っているんですよねえ。

I:女性の側の快感を無視するんですよね。

S:まして、男が吸われる場合の「性体験」においておや。

I:そうそう、男性だって、乳首は性感帯じゃないですか。「性に関わらない
身体性なんてない」という、その身体って下半身だけみたいですね。

S:性は大事だと言いながら、ついに性にはかかわることなく終っているとし
か思えません。Amazonのレビューで、少なくとも著者が性欲旺盛な方だという
ことはよくわかりました、と皮肉っている人がいたけれど、私はそういう印象
はまったく受けませんでした。

I:Amazonといえば、この本について、男女機会均等法に遅れた世代の女性が
若い世代を嫉妬しているんだという無茶なレビューを書いている人がいます
が、無知からくる見当はずれは恥しいよ。

S:「この世代の女性には、泣こうが喚こうが「結婚して男に従う」しか選択
肢がなかった」って、遠近法が間違ってますねえ。

I:均等法だって天から降ってきたわけではないんだから。上の世代の女性
が、指くわえて羨ましがっているなんてよく思うなあ。

S:あなたが大人になったときそこにそれがあったのは、前の世代が頑張った
からこそです。別に私が頑張ったわけではないけれど、「たった数年の差で
チャンスがなかったこの世代の女性は可哀相ではあるのだけれど」って、差別
に対して戦った女性たちに対して失礼ですよ。

I:仮にあなたの周りにそういう屈折した四十代女性が多かったとしても、そ
れを一般化しちゃいけません。ひどいレビューっていうだけなら他にいくらで
もありますが、『オニババ』否定のレビューなのであえて苦言を呈しておきま
す。

S:最後に、二十年以上前の私自身の経験を紹介させてください。当時の私の
勤め先に、M書房の編集者と大学で同級だった、私より十歳ばかり年上の男性
がいて、あるとき飲み会にその編集者が来たんです。バルトの翻訳書のあとが
きに訳者たちにより一度ならず名前を記され感謝を捧げられている人で、私は
勇んで、バルトの愛読者であることを告げました。『恋愛のディスクール』の
翻訳が出る前で、当時は洋書を注文すると船便で半年かかったんですが、私は
神保町の田村書店で、「恋愛講義」と手書きの標題のあるカバーで包まれた原
書を見つけて大喜びで買い求め、ろくろく読めないのに撫でさすっていたとこ
ろでした。

I:そういう人に会えて、その編集者も喜んだでしょう。

S:それが、別に嬉しそうな顔もせず……たいした話もしなかったんですが、
そのとき彼が言った中で、ひとつだけ今でも忘れないことがあります。バルト
の場合、エクリチュールそのものが官能的だというのが、女性にはわからな
い、と言ったんです。

I:なにィ? Sさん、何て応えたんですか?

S:黙って聞いていましたよ。若かったから。

I:今のSさんからは考えられませんねえ。

S:要するに女には、即物的で直接的な性しかわからない、ぐらいに思ってい
たんでしょうねえ、その男性編集者は。女にはわからない、しかし自分は男だ
からバルトがわかる、と。

I:鼻もちならない野郎だなー。

S:おまえにはバルトはわからない、と真向から言われたのなら、まだケンカ
のしようもあったのですが。

I:Sさん、自分が女に属しているのを知らなかったんじゃない?

S:いえいえ、そんなことはないですよ。そのことをいつも思い出させてくれ
る社会ですから。ただ。男がそれほどまでに女を自分とは同類と認めたがらぬ
ことを、当時の私はまだ十分認識してはいなかったふしがあります。『オニバ
バ』の本は、こうした反動的で退屈な挿話の反復からできている歴史に、ごく
最近つけ加わった、凡庸な一ケースと考えるべきでしょう。それからもう一
つ、自らの女性性を無視したために病気になったとは、精神疾患にせよ、子宮
や卵巣や乳房といった女性特有とされる部分の病いにせよ、これまで多くの女
たちに、それもしばしば医療従事者によって、不当にも向けられてきた言説で
す。『オニババ』を賞賛したい人はすればよいが、そのときは自分がこうした
中傷に手を貸しているという自覚を忘れないでいただきたい。自分の生まれる
前のことだとて忘れてはならないこともあるのです。

■プロフィル■-------------------------------------------------------
(すずき・かおる)ポルノグラフィ=女性の人権と主体性を侵すものと信じる
女性は少なくないようだ。いったいそういう女性はどんなセクシュアル・ファ
ンタジーを持つ(あるいは持たない?)のだろう。研究者の友人は、発表の際
に資料としてつけた、彼女自身が愛読する「レディース・コミック」につい
て、「どんな階層の人が読むのか」と先生方に聞かれたことがあるという。ポ
ルノグラフィに表現された男性表象を女性が見ることを、たんなる「項の入れ
替え」にすぎず、ジェンダーからの解放は「『全員男に似る』ことではありえ
ない」とする著名な日本のフェミニストに異議を唱え、「項の入れ替え」を擁
護する彼女の文章を読みながら、男同士の性愛の表象を女性が読む場合の「入
れ替え」について思いめぐらす。これについての、精神科医・斉藤環の、「主
体の立場」を完全に抹消しての「他者の享楽」だとする説は全く信用できな
い。分析が享楽の完全さを傷つけるから彼女たちは作品の分析を好まないと
か、彼女たちにレズビアンはいないとかいう説も同様だ。高倍率だった冬コミ
(12月30日)当選し、目下〈ポルノグラフィ〉執筆中。
http://kaoruSZ.exblog.jp/

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★新刊案内★
『ALS――不動の身体と息する機械』
 立岩真也著
 医学書院・449頁・2940円(税込)ISBN:4-260-33377-1
 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b2.htm

サイボーグたちは、真の生命/生活を得んがための犠牲といった発想をイデオ
ロギーの源泉とすることを拒む。[…]生存こそが最大の関心事である。」
(Haraway[1991=2000:339])

私たちの社会では一方で、身近な、とくに善意もなにも必要とせず、むしろそ
れがうっとおしく感じられるような場面で、やさしさやふれあいが語られる。
善意が押しつけがましく押しつけられ、それは問題にされない。他方で、生死
に関わるような場面になると、本人の意志を尊重して云々と言う。周囲は口を
出さないようにしようと言う。これは逆さではないか。
 (p.143 第4章6節「「中立」について」より)

◎なお下記のWebで、稲葉振一郎氏による同書の書評が読めます。
http://www.arsvi.com/2000/0411is.htm

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 ★「ジェンダー史学会・設立大会シンポジウム」のお知らせ★

 ■日時:2004年12月4日(土)13:00〜17:00
 ■場所:中央大学駿河台記念館281号室

◎第一部:記念講演 13:00〜13:40
アン・ウォルソール(カリフォルニア大学教授)「ジェンダーの政治学――ア
メリカからみた日本の近代化」

◎第二部:シンポジウム「今、なぜジェンダー史学か」14:00〜17:00
大橋洋一(東京大学・英文学、文学理論)「ジェンダー、その専門性の構築と
脱構築」、服藤早苗(埼玉学園大学・日本古代史)「女性史とジェンダー史
――日本古代史の場合」、前山加奈子(駿河台大学・中国近現代社会文化思
想)「革命とジェンダー――中国女性史の再構築にむけて」、大森真紀(早稲
田大学・社会政策)「労働とジェンダー」、若桑みどり(川村女子大学・ジェ
ンダー美術史、表象文化論)「ジェンダー研究と表象研究の不可分な関係とそ
の成果について――実例による報告」

くわしくは、「ジェンダー史学会」ホームページをご覧ください。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~genderhistory

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 ★卓道普化尺八行脚 MeYouHouse其の四★

  せまって来たる 冬のけはい
  空はながく 琥珀色に ふるえ
  風がいざなう 枯れ葉
  ゆくえ語らず の時
  夢みし想いの ひとかけら
  一夜かぎりの 咲く花に たくしつつ

 ■演者:福本卓道(尺八)サカキ・マンゴー(イリンバ)はくさん(デジュ
     リドゥー)Yangjah & miki lyn taylor(舞踏)
     ken&金里馬(ディジュリドゥー)
 ■日時:12月11日(土)17:00 開場17:30開演
 ■お代:1800円(予約)2000円(当日)(1ドリンク付き)
     1000円(極貧の方要事前承認)
 ■会場:古本喫茶 伽羅3F「MeYouHouse」
 ■連絡先:卓道音楽工房 E-mail:takudoo@d1.dion.ne.jp
      http://www.d1.dion.ne.jp/~takudoo/

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 ★第51回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年12月11日(土)午後2時より5時まで、その後忘年会。
 ■テキスト:中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫)
       サブテキストとしてカント『永遠平和のために』(岩波文庫)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★今号は、鈴木薫さんの番外編を隔月ではなく連続で掲載しました。
★中江兆民の『三酔人経綸問答』(1887年)を読むと、西洋近代思想を理想と
し小国の平和主義(軍備放棄)を唱える「洋学紳士君」、膨張主義的国権主義
を唱える「豪傑君」、折衷的に対応するように見える現実主義の「南海先生」
との問答が、昨今の憲法「改正」論議との関連においても、いまもなおアク
チュアルでありその先見性に驚くだろう。
★はたして「南海先生」が現実主義者が否かは措くとして。括弧付きの「現
実」主義について丸山真男は、(1)現実の所与性においてそれをこの国では端
的に既成事実と等値され、その既成事実に屈服せよという諦観を意味する、
(2)現実の多面性が無視されて現実の一面のみが強調される、(3)その時々
の支配権力が選択する方向が事大主義的・権威主義的に肯定される、と指摘し
ている(「現実」主義の陥穽」、『現代政治の思想と行動』所収)。
★いっぽう現在の社会意識としての「現実主義」に関して北田暁大は、かつて
は保守派が左派を攻撃する際の常套句から、いまや保守/革新という冷戦的対
立軸を超える一つの(反)イデオロギーとして屹立している、という。そして、
「「現実主義者」は時と場合によって、左派にも右派にもなる。その独特の思
想的融通性、あるいは反思想的な立ち位置こそが「現実主義」の本質である。
「憲法の戦後レジーム」、「憲法問題=九条問題」フレームを瓦解させた(さ
せつつある)のは、こうしたクールな相貌を持つ反イデオロギー的思想として
の「現実主義」なのではなかろうか」と。しかもそのクールな「現実主義者」
は、自らが「現実」と定義する世界解釈によって複雑な現実を我が手中に収め
られるという不遜な欲望(設計主義)を秘めている、とその危険性も指摘して
いる(「反イデオロギーとしての「現実主義」」、別冊「世界――もしも憲法
9条が変えられてしまったら」2004.10掲載)。
★そのクールな「現実主義者」は、排除/抹殺という自覚をもつこともなく
「制御できない/すべきでないもの」(他者性)を、社会工学的にノイズとし
て「処理」するだろう。いや、すでにそれは始まっている。(黒猫房主)

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『カルチャー・レヴュー』44号(通巻47号)(2004/12/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
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UP:20041005 REV:..1202
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