Subject: 『カルチャー・レヴュー』44号(師走特大号)
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◆直送版◆
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(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』44号(師走特大号)
(2004/12/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[43号は、2005/01/01頃発行予定です]
★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「マルジナリア」第5回:存在の工場-----------------------中原紀生
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第5回:「他者」って何なんだ〜!?---ひるます
◆連載「映画館の日々」番外:猫撫で声のイデオローグ(2)------鈴木 薫
◆INFORMATION:新刊案内『ALS――不動の身体と息する機械』(立岩真也)
/「ジェンダー史学会・設立大会シンポジウム」のお知らせ/卓道普化尺八
行脚 MeYouHouse其の四/第51回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)---------------------------------黒猫房主
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////// 連載「マルジナリア」第5回 //////
存在の工場
中原紀生
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●最近、面白く読んだ二冊の本のなかにベルクソンをめぐる記述が出てきたの
で、まずその引用から始めよう。
實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』。實川氏によると、知覚を環境との
関わりの可能性ととらえる「アフォーダンス」の理論は中世以来の発想の枠組
みのなかにある考えであって、百年ほど前のベルクソンによっても語られ、そ
の後メルロ=ポンティが洗練された形で示した。この指摘は、次の文章につけ
られた註のなかに出てくる。
《一三世紀のトマスにおいては、感覚は「感覚器官の現実態」なのであった。
「現実態(アクトゥス)」とは、古代から中世の哲学用語である。それは「可
能態(ポテンチア)」から、つまり存在の可能性だけある状態から抜け出し
て、存在を実現している状態を意味する。何だか古くさい、かた苦しい言葉づ
かいに聞こえるかもしれない。しかし、このような発想自体は、現代の西洋思
想でも、あいかわらず、新しげなよそおいで続けられている。》
●内田樹『死と身体』。内田氏はそこで、甲野善紀氏の「人間の身体は、一瞬
手と手が触れただけで、相手の体軸、重心、足の位置、運動の力、速さがわか
る」という言葉と、「人間は指と指がふれた瞬間に無限の情報が伝授される」
というヴァレリーの身体論を紹介している。
《一九世紀から二○世紀の初めぐらいには、運動性の記憶とか、運動性の知覚
と伝達とかは、ヨーロッパではまっとうな学問として存在していた。それがな
ぜか一九二○年代にあらかた消えてしまう。「記憶を司るのは頭ではなく身体
である。記憶は運動的なものである」というベルクソンやヴァレリーの考え方
が一掃され、もう誰も相手にしなくなるのです。(略)プルーストの『失われ
た時を求めて』では、つまずいてよろけた瞬間にありありとむかしのことを思
い出すという有名なくだりがありますね。一九世紀までは、ある構えをすると
身体記憶、過去の体感が、場合によっては自分自身が経験していない他者の体
感がよみがえってくるというのは「常識」だったんです。それが九○年ほど前
に、常識から登録抹消された。》
●この文章の最後に出てくる「自分自身が経験していない他者の体感がよみが
えってくる」には強調符がついていて、これを目にしたとき、私は『思想史の
なかの臨床心理学』でのある議論を想起した。
實川氏は「歴史的には、意識と物質は西洋においても古代以来、一九世紀ま
で一体だった」という。ところが近代になって――臨床心理学による、古代以
来の「物質的な無意識」や「無意識の理性」(神の理性)に替わる新しい無意
識の「発明」に先だち――物質と精神の二面をもつ中性的で根源的な(自然科
学を基礎づける究極の事実としての)新しい意識が「発明」された。ユダヤ=
キリスト教的な「神の理性」の後継者としての意識が登場し(意識革命)、世
界は「神の国」から「意識の国」へと変換された。
《ここで、ひとつ注意しておきたいことがある。「意識革命」が起こり、「意
識の国」が築かれたとは言っても、この時代にはまだ、意識は公共のものだっ
たという点である。すなわち、意識は個々人の内側に閉じ込められてはおら
ず、もちろん感覚も含めて、みなが共有できるものだった。(略)意識が、観
察できない個々人の秘められた主観性だと一般に考えられるようになるのは、
二○世紀になってからである。》
●私が今回とりあげたいのはベルクソンの純粋知覚や記憶の理論ではない。あ
るいは(木田元氏が『マッハとニーチェ』で鮮やかに素描した)一九世紀から
二○世紀への世紀転換期の「知殻変動」の実質や、そこから派生した心脳問題
の意義といったことでもない。ベルクソンを話題の起点にして、プラグマティ
ズムという一つの哲学的気質がもたらす帰結の一端を見ておきたいと思ったの
である。
――ベルクソンは『思想と動くもの』に収められた「ウィリアム・ジェイム
ズのプラグマティズム 真理と事象」で、事象[レアリテ]の多様な流れとの
接触から生ずる真理(たとえば神秘家の心を動かす真理、その感情に属し意志
に依存する真理)、つまり「考えられる前に感ぜられる真理」にこそプラグマ
ティズムの起源があると書いている。
《実を言うと、ジェイムズが神秘的な心をのぞきこんでいるのは、ちょうどわ
れわれが春の日に朝風の柔らかさを感ずるために窓から乗り出したり、海岸で
どっちから風が吹くかを知るために船の往来やその帆の膨らみを眺めるような
ものであった。宗教的な感激に充たされた心は実際もちあげられて夢中になっ
ている。ちょうど科学の実験におけるように、それを夢中にしもちあげる力の
生きいきした姿をとらえさせるものではないか。そこに疑いもなくウィリアム
・ジェイムズの「プラグマティズム」の起源があり着想がある。われわれが認
識するのにもっとも重要な真理は、ジェイムズにとっては、思考される前に感
ぜられ生きられた真理である。》(河野与一訳)
●プラグマティズムの眼目は「行為」にある。ジェイムズは『プラグマティズ
ム』で、パースの原理――「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、そ
の思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。そ
の行為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である」――を紹介し、
プラグマティックな方法について、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必
然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向おうとする態度な
のである」と規定している。
《プラグマティズムはまったく親切である。それはどんな仮説でも受け入れ、
どんなわかりきったことでも考慮に入れるだろう。それだからプラグマティズ
ムは宗教の領域においては、反神学的な偏執を有する実証主義的経験論と、幽
遠なもの、高貴なもの、単純なもの、抽象的な概念にもっぱら興味をよせる宗
教的合理論とのどちらよりもはるかに有利な地歩をしめることになる。(略)
プラグマティズムが真理の公算を定める唯一の根拠は、われわれを導く上に最
もよく働くもの、生活のどの部分にも一番よく適合して、経験の諸要素をどれ
一つ残さずにその全体と結びつくものということである。もし神学上の諸観念
がこれを果たすとすれば、もしとくに神の観念がそれを果たすことが事実とし
て証明されるとすれば、どうしてプラグマティズムは神の存在を否定しえよ
う。》(桝田啓三郎訳)
●その仮説から将来の経験や行為が導き出せないとすれば、もしくは過去回顧
的な見地からは、唯物論も有神論も、つまり物質(盲目的なアトムの目的なき
結び合わせ)も神(摂理)も同一物である。絶対者、神、自由意志、設計と
いった神学上の諸概念は、主知主義的には暗闇である。ただ未来展望的な見
地、プラグマティズムの見地からのみ、それらは「救済の説」としての意義を
もつ。たとえば自由意志。それは「この世界に新しいものが出現するというこ
と、すなわち……未来は過去と同一的に繰りかえすものでも模倣するものでも
ないことを期待する権利」という意義をもつ。――ジェイムズは『プラグマ
ティズム』の最終講で、われわれの行為こそが世界の救済を創造するのではな
いかと問いかけている。
《なぜそうではないのか? われわれの行為、われわれの転換の場、そこでわ
れわれはみずからわれわれ自身を作りそして生長して行くのであるから、それ
はわれわれにもっとも近い世界の部分なのである。この部分についてこそわれ
われの知識はもっともよく通じており完全なのである。なぜわれわれはそれを
額面どおりに受け取ってはならないのか? なぜそれがそう見えるとおりに世
界の現実的な転換の場、生長の場でありえないのか――なぜ存在の工場である
ことができないのか。この工場においてこそ、われわれは事実をその生成過程
において捉えるのであり、したがって、世界はそれ以外の仕方では、どこにも
生長しえないのではいか。》
●しかし、それは非合理ではないか。新しい存在が局所的に現われてくるはず
がない。事物の存在理由は全自然界の物質的圧力ないしはその論理的強制のほ
かはない。だとすれば世界は万遍なく生長すべきであって、単なる部分がそれ
だけで生長するなどは非合理である。――このありうべき非難に対してジェイ
ムズは答える。
《論理、必然性、範疇、絶対者、そのほか哲学工場全部の製造品をお気に召す
ままに持ち出されて結構であるが、およそ何ものかが存在しなければならぬと
いう現実的な理由としては、誰かがそれのここにあることを欲するというただ
一つの理由しか私には考えられないのである。それは要求されてあるのであ
る。――どれほど小さい世界の部分であろうとそれをいわば救助するために要
求されてあるのである。これが生きた理由なのであって、この理由にくらべる
と、物質的原因とか論理的必然性とかは幽霊みたいなものである。》
●プラグマティズムは「神学」の異称である。私はおぼろげにそう考えてい
る。それは、たとえばパースの「プラグマティシズム」とジェイムズの「プラ
グマティズム」のうちにスコラ的実在論と唯名論を重ね合わせるといったよく
ある議論にはじまり、パースのいう「仮説についての科学」としての純粋数学
もしくは「数学的形而上学」(『連続性の哲学』)、前田英樹氏がいう――形
而上学の体系的思考(からごころ)を批判する共通の立脚点としての、あるい
は「今、ここにしかじかの身体を持つ」というところから世界を捉える(身ひ
とつで学問の実義を生きる)こととしての――「深い意味でのプラグマティズ
ム」(「『感想』とは何か」)、そしてジル・ドゥルーズの「生命論」などを
ブレンドした新しい神学のことである。
●ジェイムズは「変化しつつある実在という考えについて」(『純粋経験の哲
学』)のなかで次のように書き、「ベルクソンの研究者たちがパース氏の思想
をベルクソンの思想と比較してみるよう、心から勧める」と結んでいる。新し
い神学をめぐる(私の)作業はこの比較論から始まるだろう。
《パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのである
が、ふたりの思想は完全に重なり合うものである。どちらの哲学者も、事物に
おける新しさの出現は純然たる本物の出来事であると信じている。新しさは、
それを生じさせる原因の外に立って観察する者にとっては、多大な「偶然」の
関与ということでしかありえないが、その内部に立つ者にとっては、それは
「自由な創造的活動性」である。》(伊藤邦武訳)
●先の文章のなかで、ベルクソンは、自然の力を利用するために機械的な装置
を創造するように、われわれは事象を利用するために真理を「発明」するので
あって、そこにこそプラグマティズムの真理観の要点があると書いている。
《赤ん坊は、「物」すなわち過ぎていく雑多な動く現象を通じて不変に独立し
て存続するなにかについてはっきりした観念をもってはいない。この不変とこ
の独立を信じようと思いついた最初の人は一つの仮説を作った。その仮説をわ
れわれはふだん一つの名詞を使うたびに、われわれがものを言うたびに採用し
ているのである。もしも人類がその進化の過程において別の種類の仮説を採用
する方がいいと思ったとすれば、われわれの文法は別のものとなっていただろ
うし、われわれの思考の分節も別のものとなっていたであろう。(略)私はこ
れが、表面には指摘されていないとしても、プラグマティズムのもっとも重要
な論旨だと思う。この点でプラグマティズムはカント思想を続けているのであ
る。》
●これを読んで私は、永井均『私・今・そして神』の序文を想起した。永井氏
はそこで、矛盾対立する哲学上の学説がいつまでも淘汰されず敬意を払われつ
づけるのは、「哲学が学問でありながらも、じつはなにか特別の種類の天才
の、凡人に真似のできない傑出した技芸の伝承によってしか、その真価を伝え
ることができないようにできているからだと思う」と書いている。
プラグマティズムは「哲学」の異称でもある。私はいまおぼろげにそう考え
はじめている。――哲学工場(というより、なにか特別の種類の哲学的技術が
伝承される工房)における工具製造の技芸としてのプラグマティズム。その工
具(概念)を使い、存在の工場を稼働させる推論の法則(可能態から現実態へ
の仮説形成的=実験神学的な創造の法則)としてのプラグマティズム。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第5回 //////
「他者」って何なんだ〜!?
ひるます
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獏迦瀬:前回は「実存」の話から、いきなりヒステリーについての話に飛びま
した。前々回の「世間」の話と共通するところとして、他人との共感という
か、共通の時間を生きている感覚というのが問題になりました。そこで肝心な
のが「他人」、「他者」ってのが何なのか?ってことなんだと思うのです。
伊丹堂:というと?
獏迦瀬:たとえば伊丹堂さんのいう「まっとうな生き方」「実存」というの
は、これまでの対話で言ってきた「倫理」的な生き方と重なると思うのです
が、その場合に「他者への配慮」ってことが肝心になるわけですけど、「ヒス
テリー」や「世間」の場合にもやはり「他人」への配慮ということが問題に
なってるわけで、このへんどう違うのかということですね。
伊丹堂:そりゃ全然違う。ようするに「他人がこう思うだろう…」という推量
がすでに成り立っていて、それに合わせて行動を起こすのが「世間」的なもの
じゃが、「他人がどう思ってるか」ではなくて「こうすれば幸福になるだろ
う」と創造的に行動するのが「倫理」なわけじゃな。
獏迦瀬:それゆえ「倫理」は「ひとりよがり」とウラハラなのだということで
したね。
伊丹堂:しかし「世間的」に行動する場合だって「すでに分かってる」という
のは本人の思い込みにすぎない、なんの保証もないものなわけじゃからな。原
理的な問題として考えれば人は何をするにしても「ひとりよがり問題」とは縁
が切れないわけよ。ま、実際問題として世間的に行動する方が「失敗」は少な
いだろうとは言えるが、失敗しなかったからといって「幸福」になれるわけで
はないんじゃから、なんの意味があるのか?ってことになるわな。
獏迦瀬:たしかに…、まあ世間的に生きる人は、そういうふうに他人との間で
うまくいってれば幸せなんでしょうけどね。
伊丹堂:人それぞれってヤツな。
獏迦瀬:そう考えると、実存の場合とヒステリーや世間が対象としているよう
な「他者」とでは意味合いが違うということになってくると思うのですが。
伊丹堂:まあ言葉の問題じゃな。肝心なことは、人は根本的に、というか「構
造として」他者を配慮する存在だということと、その前提の上で、どのような
実存がありうるのか、この二つを分けて考える必要がある。これもいつも言っ
ておることじゃが。
獏迦瀬:構造として…というのは、ようするに人が何かを考えたり表現したり
することが、すでに「他者を想定」している、というレベルの話ですよね。
伊丹堂:そう、言葉で考えたり、何かを意識すること自体にすでに「他者の視
点」というものがかかわっている。こういった話は『オムレット』でさんざん
語ったとこじゃな。前回のヒスの話との関連でいうと、「感情」というものも
また「他者」に対する表現という側面があるというのも言っておく必要があ
る。
獏迦瀬:ああ、感情というと何か「身体的な」もので、個人的なもののような
気がしますが、たしかに感情というのは何かの「意味」というか「コト」の表
現になってるわけで、「他人に理解可能」な形式になっていますね。
伊丹堂:それが極端に「分かれ!」という押し付けになったものが「ヒス」と
も言えるわけじゃな(笑)。それはともかく、感情というのも人にとってはコ
ミュニケーションというか、ある種のコトの創造としてあると考えられる。と
ころで感情というものは「怒ろうと思って怒る」のではなく「喜ぼうとして喜
ぶ」のでなく、いわば「自動的に起こる」わけじゃが、ここからして言えるの
は…。
獏迦瀬:恋に似ていますね…。
伊丹堂:それも「感情」じゃからな。ともかく、それが自動的に起こることか
らも言えるのは、コトの創造が他者の視点からのものだといっても、それは
「他人の視点」がまず先にあって、そこからコトが作られるのではない、とい
うことな。そうではなくて、まず感情というリアルが到来して、それがさまざ
まなコトとして形を変えていくといってもいい。
獏迦瀬:その際に他者の視点からのコトの創造がなされる…。
伊丹堂:いちばん分かりやすいのは「怒ってる」とき。怒ると人は凶暴に暴れ
る人もいるが、だいたいはむしろじっと考えるようになる。何を考えるのかと
いうと、その怒ってる相手に対する反論やらなにやらを再現なく反復している
わけじゃ。
獏迦瀬:たしかに(笑)。相手の言い分までくりかえし思い出したりします
ね。
伊丹堂:ヒステリーの場合もそうじゃが、ようするに悪感情の中でコトを表現
しようとすると、それが意味のない繰り返しになってしまう。自分の中でぐる
ぐる繰り返しているならいいが、他人を巻き込んでぐるぐるまわっているのが
ヒステリーとも言えるな。
獏迦瀬:なるほどね〜。
伊丹堂:それはともかく、いま話してる「構造的に」他者の視点でコトを創造
するというレベルでは、その他者は具体的な「だれ」というわけではないし、
また「あらかじめシカジカのような他者」というのが想定されて、それに対す
る表現としてコトが作られるわけでもない。まずリアルが到来して、コトが語
られ、それがウラハラになんらかの他者を想定させる。というような関係にあ
るわけじゃな。
獏迦瀬:コトの創造がまずあり、他者は後からついてくる…って感じですかね
? コトの創造においては、想定される他者=文脈そのものが生成される、と
肥留間氏がどっかで言ってましたね(注1)。
伊丹堂:ふうん。で、その上で肝心なのは「実存的な」レベルで、ワシらが
まっとうに、実存的にモノゴトをなそうとすれば、それは必然的に「他者に先
立つ」ものにならざるを得ないってことな。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:ようするに、もしもあらかじめどういう他者かが明らかであり、それ
に対して、それに合わせてモノゴトをなすのだあれば、すでに語られたことは
「分かっていた」ことなのであり、そこにはなんの創造もないのだということ
になるじゃろう。語ることの不確定さこそが、そこで語られたことを他者がど
う受け取るかということの不確定さイコール、他者という存在の不確定さなの
であり、その不確定さにこそ「創造」ということがありうるわけよ。
獏迦瀬:なるほど、おっしゃることはよく分かりますが、そうすると単に相手
が誰だか分からない、何が確かか分からない…闇雲だという感じですけど。
伊丹堂:いや、だからその不確定さに対して、表現する人の「決断」と「責任
の引き受け」ということがあるわけよ。
獏迦瀬:ああ。
伊丹堂:不確定だから、そこで本人がいつまでも不確定さのままに漂うのでは
なくて、これでどうだ?! と言い切ることが表現における実存ってことであ
り、そこで言い切ったことに対しての責任を引き受けるということが、決断っ
てことの意味なわけよ。
獏迦瀬:表現は決断ですか…、まあずるずると漂ってるだけ、みたいな小説も
いっぱいありますけどね(笑)。
伊丹堂:(爆)がはは、たしかに。そういうものも「表現」として許容してし
まう日本人の問題ではあるな。それは小説だけではなくて、もちろん哲学や芸
術の領域でごまんとあることじゃな。
獏迦瀬:そこで日本人、というか「世間」の問題とつながると思うのですが、
いまの実存の話とはまったく逆に、すでに分かっている他人、というか「身
内」ですよね、それを相手に、すでに「承認された」モノゴトを「創造」では
なく「反復する」のが、世間を生きる日本人の生き方だということになります
かね〜。
伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。創造=決断がないから「責任」もない。世間の中
で「責任」を誰もとらないのはそういう構造によるわけじゃな。表現や発言の
内容が問題になるとすぐ出される反応が「私の意図が十分に伝わっていない」
というやつね。意図がどうかでなく発言の「内容」が問題になっているのに、
そういう反応が出るのは、意図というあいまいなレベルでは「みんな分かり
あっているハズ」という奇妙な共感が背景にあるわけじゃな。
獏迦瀬:あいまいな共感の中で表現しているから、どこかで決断したという自
覚もないわけですね…。
伊丹堂:世間というより「ヒステリー」の人も同様なんじゃが、表現の内容を
批判されると、自分がそれを行ったときに「ああだったこうだった」という事
情を説明したがるのな。ようするにそれは個人的な「事情」なんじゃが、それ
を「理解」してもらえば、その表現も理解してもらえると思うらしい。まさに
誰もが「共通の時間」を生きているハズという感覚なんじゃな。
獏迦瀬:そういえばどっかの政治家が「私は寝てないんだ」といって笑い者に
なりましたね…。
伊丹堂:決断をともなう表現は、その結果についての責任を引き受けるのみ。
そういう潔さがないんじゃよ。
獏迦瀬:ようするに自分の、ではなくて、事情をわかってくれる「みんな」の
共同責任というイメージなんですかね? だから「世間をお騒がせして申し訳
ない」という謝り方になる…。いずれにしても「世間」や「ヒステリー」とい
う中には「他者」はなくて、「身内」とか「みんな」というあり方だけがある
ということでしょう。とすると、あらためて「他者」とは何か? ということ
になるかと思うんですが。
伊丹堂:定義の問題じゃな。不可知な「外部」として現れる極性を「他者」と
呼ぶ、ということにすれば?
獏迦瀬:極性ね…。レヴィナスの絶対的な他者みたいなもんですか?
伊丹堂:いや、そうではない。公共性や普遍性というのを、ヨリ公共的〜と
か、ヨリ普遍的〜という修飾辞として使うべき、ということを以前にいったが
(「La Vue」掲載の対話シリーズ等)、それと同じ。関係概念として捉えるっ
てことじゃな。倫理における「他者」ってのは、現状に対して「そうではな
い」と否定しうる視点がありうる、ということを徹底的に考える契機としてあ
るわけで、誰か特定の特殊な事情の「他人」を想定しているわけではないから
の。
獏迦瀬:ヨリ他者的〜ってことですか(笑)。
伊丹堂:どのように他者性を意識しているかという態度の問題として捉えるワ
ケよ。ともかく、そういう使い方をしていれば、「他者」が「他人がどう思う
から〜する」などといった「根拠」には間違ってもならないということが、
はっきり分かるはずなんじゃがな。
獏迦瀬:なるほどね…。そういえば以前の竹田現象学批判の巻(「カルチャー
レビュー」25号 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re25.html#25-2 )
で、竹田青嗣が「ありふれた他者を倫理の根拠におく」と言ってたのを批判し
ましたが、あれがまさに「すでに知っている他人」を根拠に行動するものとし
ての世間=グローバリズムという思想だったわけです。
伊丹堂:ま、さしあたってたいていは人は「他人がどう思うかをすでに知って
いる」という前提で、というか「かのように」行動しているわけで、それが問
題だというわけでは全然ないんじゃが、ようするにそれは「倫理」とか「生き
る意味」とかとはまったく関係がないってコトよな。
獏迦瀬:「実存」ではない…というか。
伊丹堂:まっとうじゃないってこっちゃな(笑)。以前「世間って何なん
だ〜」の巻で言ったように、今やワシらは「個人としての時間」を生きなけれ
ば、ほんとうの意味で「生きた」とか「コミュニケーション」をしたとは思え
ない、という時代にいるからじゃ。
獏迦瀬:世間という生き方ではもはやいけない、というかイケてない、という
話でしたね。
伊丹堂:ただ付け加えておかねばならないのは、世間がなければよいという話
ではないというこっちゃな。たとえば西洋では世間がなく個人が「自分の時
間」を生きている、という。しかしそれだけで「実存的」というわけでもな
い。日本人が「相手のことをすでに知っている」かのように行動するのが単に
「様式」であるように、西洋人が「相手のことを知らない」し、「自分のこと
をはっきり表現しないかぎり絶対に理解してもらえない」というふうに行動す
るのもまた「様式」なわけじゃ。実存というのは、そういう前提の上で、ある
種の「決断」を持った生き方なわけでな。
獏迦瀬:やはり精進っすね。
注1)ひるます「世間と他者性〜大澤真幸「戦後の思想空間」を読む」など参
照 http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/WEBZIN/hirumas25.html#0214
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/
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////// 連載「映画館の日々」番外 //////
猫撫で声のイデオローグ
――三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す』
(光文社新書)を読む(2)
鈴木 薫
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I:Sさん、カゼ引いたんですって? 年に一度くらいしか引かない人が。
S:ちょうど一年目だったんですよ。カゼそのものはひどくならなかったけ
ど、歯茎に黴菌が入ったらしく、右下の奥歯から顎まで腫れちゃいました。
今、左だけで噛んでいるんですが、まだ頚のリンパ腺がはれていて。唾を飲み
込んだだけでも痛いんです。でも、これは、そこで菌の侵入が止まっていると
いうことでしょう。
I:大丈夫?
S:食欲はあってちゃんと食べてますから。一番ひどいときでも食事だけはし
てました。あとは寝てましたが。
I:対談、延期します? 花じゃなくて食べ物をお見舞いに差し入れますよ。
S:ありがとう。でも、大丈夫。今話しているようなことが、実は身体性とい
うものです。今回は微熱程度だったので助かったけれど、体温が二、三度上昇
すれば、もうそれだけで私たちは何もできなくなってしまいます。ロラン・バ
ルトは、自分の身体の中立性が掻き乱される契機を偏頭痛と官能性だと言った
ことがありますが……。
I:あー、もう対談はじまってるの?
S:はじまってるの。「官能性」の原語はサンシュアリテ、英語のsensuality
ですが、松浦寿輝がそう訳して引用していた「偏頭痛とセックス」との方がわ
かりやすいかな……要するに苦痛と快楽の、どちらも軽微なもの、というわけ
で、だからセックスといっても生殖器性――genitality――とは異なります。
性器を排除するものではもちろんないのですが。
I:Sさん、ここで取り上げているのは、たかが『オニババ化する女たち』で
すよ。バルトを持ってくる必要あるんですか? そういうのを、ほら、なんて
言うんだったか――龍頭蛇尾。違った。羊頭狗肉?
S:何を言いたいの? 鷄を割くに牛刀をもってす?
I:そう、それそれ。
S:まあ、較べるのも笑止なことながら――『オニババ化』の著者が回復を訴
える身体性とは、たんなる生殖器性なわけです。逆に言えば、女の身体の、生
殖器への還元、矮小化です。妊娠、出産 の過大評価が、逆説的に、身体性と
いうものを、極めて限局されたものにしてしまっています。
I:歯茎が腫れて寝込んだり、熱が出て思考能力がなくなったりすることもま
た、身体性だというわけですね。
S:「至高体験」に至らないちょっとした快楽もね。だから逆に、『オニババ
化』みたいな本は、身体性の詰めが足りないんですよ。私たちが徹頭徹尾身体
であることに対してよほど鈍感にならなければ、こんな本は書けません。
I:「スピリチュアル系」とやらに惹かれる人に対しては、「からだは、いず
れ捨てていかなければならないものなのですから、今、今回持ってきたからだ
を、大事にするしかないですね」とかきくどく――うーん、意味不明ですね
え。
S:「スピリチュアルな世界」とやらを結局は認めているんですよね、この著
者は。「性生活というのは出産と同じで、魂の行き交う場、霊的な体験でしょ
う」とも言ってるでしょ。もういいです。否定するにも値しませんから。いい
加減、これを話題にするのもあきちゃったんですが――ずいぶんあちこちで話
のタネにされているようで、どんなにひどいのか確かめてみよう、新書だから
いくらもしないし、と買う人が多いとみえ、ピンクの腰巻に替えて本屋に平積
みになってるんですよね。いかに微力とはいえ、仮にも宣伝に加担するような
ことに手を出すべきではなかったか、と思わぬでもありません。
I:え? 私はまだ言い足りませんよ。付箋はまだまだ挟んである。「卵子の
悲しみ」紹介します。でも、その前に、私、Sさんに質問があって。前回の最
後でSさんが指摘したヒステリーの図式って、フロイトによるものなんでしょ
う?
S:それはかなり微妙な問題で、むしろ通俗フロイディズムというべきです
ね。ヒステリーについていえば、三砂さんが推奨するような通常の性交によっ
て満足を得られないからこそ起こるとフロイトは理解していたはずです。三砂
さんは性に関する、これまでさんざん問題にされ、退けられていた紋切型を、
出所を明らかにせずに引いてきてまことしやかに語っています。前回引いた、
クリトリスを排した腟中心主義もそうで、誰もが知るとおり、悪名高いフロイ
トの記述の引き写しです。(もっとも、クリトリスに触るななんて馬鹿なこと
をフロイトは言っちゃいませんが。)私、以前、トマス・ラカーの『セックス
の発明』(工作舎)の書評を書いたことがあって……。
I:今度、ブログにも載せたんですよね。(http://kaoruSZ.exblog.jp/)
S:最後の部分を読みますね。
「性感帯のクリトリスから膣への移動説に関して、私は以前から当時の医学界
の常識に興味があったのだが、本書を読んで驚いた。何とフロイト以前には、
クリトリス以外に女性がオーガズムを感じる場所があるとは、誰も思っていな
かったし、彼自身、自分の主張の解剖学的・生理学的根拠のなさを知っていた
に違いないというのだ! 結局彼の関心は、解剖学的には根拠のない異性間性
交を身体が役割の性として引き受けさせられる、という事実を確認することに
あったのだと著者は言う。(……)フロイトは、クリトリスがペニスに相当す
ると知りながら、腟とペニスを対立させて、男女の社会的役割の根拠を身体組
織の中に見出したいという同時代の熱望に応えたのだった。私たちの居場所も
基本的にはここからさして隔たっていないのだが、さてそれは、いかなる同時
代の欲望の反映だろう?」
というわけで、フロイトの書き方を、たんに中立的な記述とばかり言うわけに
もいかないのですが、この書評を書いたのは六年前で、こう書きながら私は、
実は「同時代の欲望」について明確なイメージを持っていなかったんです。だ
からこそ、疑問形で終え、読者に思いえがいてもらうようにしむけたわけで。
それが今、『オニババ』のような本という形で、ある種の「同時代の欲望」が
不意に見えてきたような気がします。
I:もしかして、悪い時代になりつつある!?
S:そうなの。けっして私の目がよくなったわけじゃない。女に生まれた「不
幸」を、母になるという「至高体験」で帳消しにできると信じられれば、女性
は社会に疑問を抱かなくてもすむわけですよ。
I:それを信じられるのが不思議なんだけど……。ともあれ、子宮中心主義の
トンデモぶりについて、次に「卵子の悲しみ」を紹介しましょう。
S:念のために言っておくと、ここではもうフロイトは何の関係もありませ
ん。著者のオリジナルです――とも言えないか。以前、国立科学博物館の片隅
で、特別展とは別にひっそり映写していたアニメーションがあったのですが、
それを思い出しましたね。受精の絵解きで、男の子の恰好をした精子たちが卵
子めがけて競争するんですが、その卵子がまた、髪が長くてロングドレスで、
松本零次のマンガみたいな。イスカンダルで待つスターシアかって。
I:(笑)そこまでは行ってないかな。こっちは、精子にめぐりあえなかった
卵子の話ですからね。でも、擬人化はアニメに劣らずすごい。まず、月経後一
週間ぐらいのときには、「『誰か探せ、誰か探せ』と卵子がからだに呼びかけ
ている」んで人恋しくなるんだそうです。「それは、別にすごく性欲が昂進す
る、というかんじではなくて、それこそ誰かと電話で話したい、とか、一緒に
何かしたい、とか、一人でいることがたださみしいような気持ちになることが
あるのです」それから、月経前に起こる――
S:人によっては起こる、とすべきですね。
I:月経前に人によっては起こる「月経前緊張症」は、「卵子の悲しみ」が伝
わってきてそうなるのではないかと三砂さんは思っているんだそうで。「せっ
かく排卵したのに、全然精子に出会えなくて、むなしく死んでいく卵子が毎月
毎月いるわけです。トイレに落ちてしまって、あれ〜という感じで流されてし
まう」
S:スターシアみたいなのが、あれ〜と。(笑)
I:「なかには、「私はもう絶対に赤ちゃんになりたい」と思っているような
卵子もあるわけで――」[吹き出してしまって続けられない]
S:やっぱり、トンデモですねえ。
I:次はオカルトですよ。「ですから、排卵して一週間ぐらいすると、卵子の
くやしさ、悲しみというのが女性の感情に移ってくる」卵子の怨念ですね。
S:卵子供養が必要だね。
I:「だから月経前一週間ぐらいは、ものすごく暗い気分になったりするので
はないでしょうか」Sさん、そんなことあります?
S:ないですよお。
I:ないときの理由も書いてありますよ。「でも、そういう気分にならないと
きもあるわけで、それは卵子の個性ではないかな、と思います。卵子にしても
あきらめの早いのもいて、「しょうがないか、まあ今回は」みたいな感じでト
イレにすっと[笑ってしまって続けられない]」
S:卵子ィの気持ちィは〜よ〜くわかる〜。
I:何ですか、それ。
S:いや、知らなきゃいいです。えーと、「そういう気分にならないときもあ
る」んじゃなく、たんにならないんですよ。
I:もともとSさん、生理痛もほとんどない羨ましい人なんですよね。
S:ただ、月経直前に性欲が昂進するのに気がついたことはあるんで、はっき
りした指標がないときには、気分の変化をいちいち月経周期と結びつけたりし
ないということもあるかもしれませんが。
I:そういう人は、子宮の声に耳をかたむけない女性と言われちゃうんです
よ。「そういうことをまったく無視していると、だんだん子宮もいじけてき
て、頑なになって筋腫になってしまったりとか、ねじくれて子宮後屈になった
りとか、子宮がいがんでくるような気がするのです」また、「気がするので
す」ですか。
S:「いがむ」ってどこの言葉?……はあー三砂さんは山口の人ですか。なか
なか感じ出てるじゃないですか。いがんで、いじけで、ねじくれて。物質的な
もので気分が左右されるというのはむしろ面白いと思いますが、子宮がいじけ
ると言われてもねえ。ついでに言うと、人恋しいのと性欲は、性欲と生殖が別
ものであるのと同様、別ものです。
I:「いったい自分のからだの中に何コ卵子が準備されていて、そのうちのど
れだけが精子に出会えるのでしょうか。やはり失意のうちに落ちていく卵子が
ほとんどで――」
S:すごい数、準備されてるんでしょう? 生まれたときから。というより、
もう生まれる前に。それを全部受精させろって? シャケか。
I:三砂さんもそこまでは言っていないでしょう。ただ、一人で十人産んだ昔
の女性を例に出すんです。生殖年齢にある間、排卵、妊娠、授乳、排卵、妊
娠、授乳の繰り返し。「そう思うと、そのころの卵子ってむだになっていな
かったのですね」
S:それでもやっぱり、準備された卵子のおおかたは、成熟することもなく閉
経を迎えていたわけで。私たちって、実にむだに作られているんですよね。そ
れよりも、避妊手段がないまま、性交を拒否できずにたかだか十箇ほどを受精
させたばかりに、健康をそこねた女性がどれだけいたことか。
I:ひいおばあちゃんが裸になると、文字どおり「垂乳根」だったのを今思い
出しました。
S:そこまでが、「卵子にも個性がある」の節、その次が、「子宮口にも心が
ある」ですね。
I:子宮口が、「たとえば子宮ガン検診のときに子宮口の粘膜に金属がふれた
りすると、ビクッと反応したりする(……)それがものすごくリアルな反応で
――」
S:そりゃ、ビクッとするでしょうよ。だからって、「子宮口にも心がある」
はないでしょう。このすぐあとでは、子宮は筋腫などがあってもできることな
ら取ってはいけない、使わなくてもなるべく取ってはいけない臓器だとありま
すが、これは本当だと思いますよ。ただし、他の臓器もまたそうであるよう
に、ですけどね。別に、三砂さんの言うように、「女性性の中心だから」とい
う理由ではなく。
I:管理されたお産はよくないという話なら、私たちも賛成じゃない? この
本で取り上げられている話題、総じて最初はもっともらしいんだけど、途中か
らおかしくなるのよね。
S:最初はまともに見えて、途中でトンデモ化する。
I:ここでは次のようにトンデモ化します。「ですからいくつになっても、
『自分の子宮はピンクでハート形みたいになってキラキラしている』というよ
うなイメージを持っているのがいいのでしょう」
S:サンリオとタイアップして売り出したらどうかな。ピンクの子宮。
I:いや、すでにこんなのあったような。セーラームーンの持ち物とか。
S:手術で子宮を摘出した人に対しては、「たとえ、今までにすでに取ってし
まった人でも、もとはあったのですから、イメージするのがよいと思います」
だって。
I:大きなお世話ですよー。
S:ほんと、想像力ないというか、さもなきゃ変な想像する人ですね。不妊の
話のところでも、「自分の女性性や子宮の存在を受け入れられないで生きてき
て、ここへきて急に子どもだけ作ろう、と思っても、それは虫がいい話ではな
いかと思うのです」とか、「不妊で苦しんでいる人を傷つけることになったら
とても不本意ですが」と例によって前置きしつつ、「やはり自分のからだに向
き合って、自分が女性であることを楽しんでいるでしょうか、という問いかけ
をしてみたいと思います」とか。
I:お説教がしたいんでしょうか。
S:それ以前に、レイプでだって妊娠するのにと思いましたよ。
I:一つ抜かした。「友人の産科医」いわく――
S:「おばあちゃんなども産科の外来にいらっしゃることがあるそうで、内診
させてもらって、「いやー、おばあちゃん、まだ元気でいけそうだよ!」など
と言うと、みんなぽっと顏を赤くして嬉しそうにするんだよね、と言います。
そんなことを言われて嫌がる人など、一人もいない、と」
I:セクハラでしょ、これ。
S:セクハラです。
I:あと、Sさんは、「昇華」について言っておきたいんですよね。
S:ええ。昇華という言葉の、この本でのいい加減な使い方について。
I:昇華ってそもそも何なんですか?
S:すごく簡単に言ってしまうと、性的欲望が目標を変えて、社会的に認めら
れた「高い」形に変換されることですね。
I:私も、たしかそんなもんだと思っていたんですよ。そうすると、物欲の
「度が過ぎるのも、性欲が満たされていないからでしょう。やはり、物欲が多
い人は欲望がガーッと出てきているのが目に見えるようです。でもそれはもと
もとは性欲なのですから、きちんと性欲としても昇華させてあげるために、世
の御主人たちももっとがんばってください、とも言いたくなります」とあるけ
れど――。
S:ああ、最後、御主人が出てくるわけですね。性欲として昇華させるという
ところは、私もクエスチョン・マークつけたんですが。
I:変ですよね、「性欲としても昇華」って。
S:だいたい、物欲に昇華されるってのも変ですが、「性欲としても昇華」な
ら、もとにあるのは何なんでしょうねえ。
I:やっぱり性欲なんですよ。
S:それでその性欲は、「御主人」に満たしてもらうしかないわけですね。だ
とすれば、ここには「昇華」なんてものははじめからなかった。あるのはなま
な性欲だけで、ペニスの反復服用――これはフロイトの先生が女たちへの処方
としてフロイトに耳うちした言葉ですが――でしか満たされないということで
す。
I:やっぱりもとはフロイトなんですね。
S:非難されるべきはフロイトではなく、今どきこうした図式を平然と持ち込
んでくる著者、そしてそれに感心する記憶喪失の読者です。
I:「昇華」なんて言葉使わないで、最初から、性欲は性欲として満足させよ
とだけ言えばいいのにね。
S:そうしないのは、フロイトのいう「昇華」にも色目をつかっているからで
しょう。「人間というのは、性欲を抑圧することで、いろいろな文化を作って
きたようなところがありますから、一概に否定するつもりはありません」とあ
るでしょう?
I:なまな性欲の充足以外のことも否定しないということですね。でも、その
欲求不満のおばさまたちのやっているのは、物欲の充足なんですよね。それ
が、ここでいう文化になるのかしら。
S:そのすぐあとに、「特に女性はある年齢になると性欲をうまく発散させて
いく必要が出てくる」とか、「性欲がうまく昇華される必要があるのは、三十
代後半以降だと思っている」とか、「このような時期に適切に昇華していかな
いと、オニババになると思うのです」とかありますが、これらの昇華という語
の使い方はすべてデタラメです。「御主人たち」に満足させてもらうことを昇
華と呼んでいるのですから。おおもとにあるのは、女には男とのセックスとい
う形でしか「発散」できないという偏見です。フロイトも女には昇華が困難だ
と思っていたし、女が知的方面で発達を遂げると、生殖系はだめになると十九
世紀には思われていました。
I:ああ、やっぱり、元凶はフロイト?!
S:だから、それをこんなところへ持ち込むのがおかしいんだってば。
I:もっと前のところに、「性に関わらない身体性なんて本当はない」ではじ
まるくだりがありますよね。
S:ええ。今の言葉については、私も心から賛成しますよ。
I:ところが、三砂さんの場合は、そのすぐあとにこう続くのです。「生まれ
てからそういうことは何も教わらずに、勉強とか趣味とか、いろいろなことを
現代の人間はしていますけれども、それらはすべて、本質的な性欲が満たされ
ないなかでの発散手段になっているところがあります。ですからそういったこ
とだけしかしていないと、やはり歪みが入りますよね。所詮発散なのであっ
て、まっすぐな発露ではないわけですから。でもその歪みによっていろいろな
芸術ができたということももちろんありますから、一概に否定はできません」
そうか、発散ではなく、発露というわけですか。
S:突っ込みどころ満載のくだりですね。まず、この書き手は、「本質的な性
欲」が存在し、それが「御主人」のペニスによって解消されると信じているん
ですね。御主人にもうちょっと頑張ってもらえれば、おばさまたちもヨン様の
方ににがーっと行ったりしないというわけです。
I:女にはともかく「発露」をすすめるんですよね。
S:そう、「発散」したってろくなことにはならないからって。気づいたとき
にはオニババよって。三砂さんのいう「性に関わる身体性」というのは、繰り
返しになりますが、その「本質的な性欲」の発露に限られています。
I:では、芸術は誰が作るんですか。
S:男ですよ。
I:あー、やっぱりそういうことなのか。自分は男じゃないから男については
語らないようなことを言って、結局はそういうことなんですね。性欲を否定す
ることでいろいろな文化を作ってきた「人間」というのは、結局は「男」のこ
となんだ。
S:オヤジとの結託っていう最初の話ともこのへんでつながるかと思います。
I:いったいどうやってこれに対抗したらいいんでしょう。
S:参考になりそうなものをざっとですが紹介してみましょう。デイヴィッド
・ハルプリンは『同性愛の百年間』(法政大学出版局)で、ギリシア以来、そ
れこそ、「ヒステラ」が身体中を移動するのでヒステリーが起きると考えられ
ていた時代以来の、女のセクシュアリティが生殖と避け難く結びつけられてい
るとする考え方を総ざらいしています。そうした上でハルプリンは、性的快楽
と生殖が分かち難く結びついているのは男性のセクシュアリティなのであり、
男が女にそれを投影していたにすぎないと指摘します。長いあいだ信じられて
きたのとは反対に、女のセクシュアリティは生殖を目的としない。そのとき、
快楽のためにだけある器官、クリトリスがプロブレマティックになるわけです
が、『オニババ』のクリトリス軽視もこうした問題系から一ミリもはみ出して
いないのがわかるでしょう。昇華については、レオ・ベルサーニが人間の性欲
はそのはじまりからして昇華なのだと言っているのが役に立つでしょう。生殖
に向かう「本質的な性欲」とは、その特殊な形態にすぎない。『オニババ』の
著者が採用しているのは、性欲を抑圧してゆがめた結果「勉強とか趣味とか」
へ向かうという紋切型ですが、ベルサーニは「遊び、仕事、芸術、哲学的・科
学的探求の喜び」について、抑圧されないエネルギーが昇華されるのだと、昇
華とは「自我の楽しみの精緻を極めた形式」であると言っています。ついでに
言うと、性欲は低いもので、昇華は高級だというわけでもないんですよね。
I:女を生殖から自由になれないものと決めつけて、男にどういう得があるん
でしょうね。
S:さあ。所詮女は異なるもの、理解を超えたもの、としておきたいんでしょ
うか。『オニババ』では、月経に関する情報は好奇心から読むかもしれません
が、所詮ひとごとですから。女が書いて、女が批判し、あるいは賞賛するの
を、男は面白がっていればいいんですね。身体性は女のもの、精神性は男のも
のとして安堵する。
I:一方では嫉妬もしますよね。
S:しますね。そこまで身体性を極められる女がうらやましいって。女の方が
快楽が深いという幻想を維持しつつ、忘我できる女を憎むんですね。
I:女に対するあからさまな軽侮とひそかな嫉妬。
S:優越感と嫉妬ですね。相も変わらぬ男と女の再生産に役立つわけです。
I:女の快楽に関して、私がもう一つ納得できなかったのは、胸についての過
小評価です。
S:ああ、胸などにこだわるのはおかしいという。「性体験の深さということ
で言えば、たとえばお乳にこだわって吸ったりするというのは、性行為として
すごく稚拙なことといえないでしょうか」という記述。
I:乳首を吸うのは赤んぼにまかせておけというわけですか。
S:女性の胸のセックス・アピールの過大視については確かにそのとおりだと
思います。でも、不思議なことに三砂さん、ここで乳首を吸う男の「性体験」
の側に立っているんですよねえ。
I:女性の側の快感を無視するんですよね。
S:まして、男が吸われる場合の「性体験」においておや。
I:そうそう、男性だって、乳首は性感帯じゃないですか。「性に関わらない
身体性なんてない」という、その身体って下半身だけみたいですね。
S:性は大事だと言いながら、ついに性にはかかわることなく終っているとし
か思えません。Amazonのレビューで、少なくとも著者が性欲旺盛な方だという
ことはよくわかりました、と皮肉っている人がいたけれど、私はそういう印象
はまったく受けませんでした。
I:Amazonといえば、この本について、男女機会均等法に遅れた世代の女性が
若い世代を嫉妬しているんだという無茶なレビューを書いている人がいます
が、無知からくる見当はずれは恥しいよ。
S:「この世代の女性には、泣こうが喚こうが「結婚して男に従う」しか選択
肢がなかった」って、遠近法が間違ってますねえ。
I:均等法だって天から降ってきたわけではないんだから。上の世代の女性
が、指くわえて羨ましがっているなんてよく思うなあ。
S:あなたが大人になったときそこにそれがあったのは、前の世代が頑張った
からこそです。別に私が頑張ったわけではないけれど、「たった数年の差で
チャンスがなかったこの世代の女性は可哀相ではあるのだけれど」って、差別
に対して戦った女性たちに対して失礼ですよ。
I:仮にあなたの周りにそういう屈折した四十代女性が多かったとしても、そ
れを一般化しちゃいけません。ひどいレビューっていうだけなら他にいくらで
もありますが、『オニババ』否定のレビューなのであえて苦言を呈しておきま
す。
S:最後に、二十年以上前の私自身の経験を紹介させてください。当時の私の
勤め先に、M書房の編集者と大学で同級だった、私より十歳ばかり年上の男性
がいて、あるとき飲み会にその編集者が来たんです。バルトの翻訳書のあとが
きに訳者たちにより一度ならず名前を記され感謝を捧げられている人で、私は
勇んで、バルトの愛読者であることを告げました。『恋愛のディスクール』の
翻訳が出る前で、当時は洋書を注文すると船便で半年かかったんですが、私は
神保町の田村書店で、「恋愛講義」と手書きの標題のあるカバーで包まれた原
書を見つけて大喜びで買い求め、ろくろく読めないのに撫でさすっていたとこ
ろでした。
I:そういう人に会えて、その編集者も喜んだでしょう。
S:それが、別に嬉しそうな顔もせず……たいした話もしなかったんですが、
そのとき彼が言った中で、ひとつだけ今でも忘れないことがあります。バルト
の場合、エクリチュールそのものが官能的だというのが、女性にはわからな
い、と言ったんです。
I:なにィ? Sさん、何て応えたんですか?
S:黙って聞いていましたよ。若かったから。
I:今のSさんからは考えられませんねえ。
S:要するに女には、即物的で直接的な性しかわからない、ぐらいに思ってい
たんでしょうねえ、その男性編集者は。女にはわからない、しかし自分は男だ
からバルトがわかる、と。
I:鼻もちならない野郎だなー。
S:おまえにはバルトはわからない、と真向から言われたのなら、まだケンカ
のしようもあったのですが。
I:Sさん、自分が女に属しているのを知らなかったんじゃない?
S:いえいえ、そんなことはないですよ。そのことをいつも思い出させてくれ
る社会ですから。ただ。男がそれほどまでに女を自分とは同類と認めたがらぬ
ことを、当時の私はまだ十分認識してはいなかったふしがあります。『オニバ
バ』の本は、こうした反動的で退屈な挿話の反復からできている歴史に、ごく
最近つけ加わった、凡庸な一ケースと考えるべきでしょう。それからもう一
つ、自らの女性性を無視したために病気になったとは、精神疾患にせよ、子宮
や卵巣や乳房といった女性特有とされる部分の病いにせよ、これまで多くの女
たちに、それもしばしば医療従事者によって、不当にも向けられてきた言説で
す。『オニババ』を賞賛したい人はすればよいが、そのときは自分がこうした
中傷に手を貸しているという自覚を忘れないでいただきたい。自分の生まれる
前のことだとて忘れてはならないこともあるのです。
■プロフィル■-------------------------------------------------------
(すずき・かおる)ポルノグラフィ=女性の人権と主体性を侵すものと信じる
女性は少なくないようだ。いったいそういう女性はどんなセクシュアル・ファ
ンタジーを持つ(あるいは持たない?)のだろう。研究者の友人は、発表の際
に資料としてつけた、彼女自身が愛読する「レディース・コミック」につい
て、「どんな階層の人が読むのか」と先生方に聞かれたことがあるという。ポ
ルノグラフィに表現された男性表象を女性が見ることを、たんなる「項の入れ
替え」にすぎず、ジェンダーからの解放は「『全員男に似る』ことではありえ
ない」とする著名な日本のフェミニストに異議を唱え、「項の入れ替え」を擁
護する彼女の文章を読みながら、男同士の性愛の表象を女性が読む場合の「入
れ替え」について思いめぐらす。これについての、精神科医・斉藤環の、「主
体の立場」を完全に抹消しての「他者の享楽」だとする説は全く信用できな
い。分析が享楽の完全さを傷つけるから彼女たちは作品の分析を好まないと
か、彼女たちにレズビアンはいないとかいう説も同様だ。高倍率だった冬コミ
(12月30日)当選し、目下〈ポルノグラフィ〉執筆中。
http://kaoruSZ.exblog.jp/
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★新刊案内★
『ALS――不動の身体と息する機械』
立岩真也著
医学書院・449頁・2940円(税込)ISBN:4-260-33377-1
http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b2.htm
サイボーグたちは、真の生命/生活を得んがための犠牲といった発想をイデオ
ロギーの源泉とすることを拒む。[…]生存こそが最大の関心事である。」
(Haraway[1991=2000:339])
私たちの社会では一方で、身近な、とくに善意もなにも必要とせず、むしろそ
れがうっとおしく感じられるような場面で、やさしさやふれあいが語られる。
善意が押しつけがましく押しつけられ、それは問題にされない。他方で、生死
に関わるような場面になると、本人の意志を尊重して云々と言う。周囲は口を
出さないようにしようと言う。これは逆さではないか。
(p.143 第4章6節「「中立」について」より)
◎なお下記のWebで、稲葉振一郎氏による同書の書評が読めます。
http://www.arsvi.com/2000/0411is.htm
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■日時:2004年12月4日(土)13:00〜17:00
■場所:中央大学駿河台記念館281号室
◎第一部:記念講演 13:00〜13:40
アン・ウォルソール(カリフォルニア大学教授)「ジェンダーの政治学――ア
メリカからみた日本の近代化」
◎第二部:シンポジウム「今、なぜジェンダー史学か」14:00〜17:00
大橋洋一(東京大学・英文学、文学理論)「ジェンダー、その専門性の構築と
脱構築」、服藤早苗(埼玉学園大学・日本古代史)「女性史とジェンダー史
――日本古代史の場合」、前山加奈子(駿河台大学・中国近現代社会文化思
想)「革命とジェンダー――中国女性史の再構築にむけて」、大森真紀(早稲
田大学・社会政策)「労働とジェンダー」、若桑みどり(川村女子大学・ジェ
ンダー美術史、表象文化論)「ジェンダー研究と表象研究の不可分な関係とそ
の成果について――実例による報告」
くわしくは、「ジェンダー史学会」ホームページをご覧ください。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~genderhistory
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■連絡先:卓道音楽工房 E-mail:takudoo@d1.dion.ne.jp
http://www.d1.dion.ne.jp/~takudoo/
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★第51回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:04年12月11日(土)午後2時より5時まで、その後忘年会。
■テキスト:中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫)
サブテキストとしてカント『永遠平和のために』(岩波文庫)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★今号は、鈴木薫さんの番外編を隔月ではなく連続で掲載しました。
★中江兆民の『三酔人経綸問答』(1887年)を読むと、西洋近代思想を理想と
し小国の平和主義(軍備放棄)を唱える「洋学紳士君」、膨張主義的国権主義
を唱える「豪傑君」、折衷的に対応するように見える現実主義の「南海先生」
との問答が、昨今の憲法「改正」論議との関連においても、いまもなおアク
チュアルでありその先見性に驚くだろう。
★はたして「南海先生」が現実主義者が否かは措くとして。括弧付きの「現
実」主義について丸山真男は、(1)現実の所与性においてそれをこの国では端
的に既成事実と等値され、その既成事実に屈服せよという諦観を意味する、
(2)現実の多面性が無視されて現実の一面のみが強調される、(3)その時々
の支配権力が選択する方向が事大主義的・権威主義的に肯定される、と指摘し
ている(「現実」主義の陥穽」、『現代政治の思想と行動』所収)。
★いっぽう現在の社会意識としての「現実主義」に関して北田暁大は、かつて
は保守派が左派を攻撃する際の常套句から、いまや保守/革新という冷戦的対
立軸を超える一つの(反)イデオロギーとして屹立している、という。そして、
「「現実主義者」は時と場合によって、左派にも右派にもなる。その独特の思
想的融通性、あるいは反思想的な立ち位置こそが「現実主義」の本質である。
「憲法の戦後レジーム」、「憲法問題=九条問題」フレームを瓦解させた(さ
せつつある)のは、こうしたクールな相貌を持つ反イデオロギー的思想として
の「現実主義」なのではなかろうか」と。しかもそのクールな「現実主義者」
は、自らが「現実」と定義する世界解釈によって複雑な現実を我が手中に収め
られるという不遜な欲望(設計主義)を秘めている、とその危険性も指摘して
いる(「反イデオロギーとしての「現実主義」」、別冊「世界――もしも憲法
9条が変えられてしまったら」2004.10掲載)。
★そのクールな「現実主義者」は、排除/抹殺という自覚をもつこともなく
「制御できない/すべきでないもの」(他者性)を、社会工学的にノイズとし
て「処理」するだろう。いや、すでにそれは始まっている。(黒猫房主)
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『カルチャー・レヴュー』44号(通巻47号)(2004/12/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
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UP:20041005 REV:..1202
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