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『カルチャー・レヴュー』2004・3

『カルチャー・レヴュー』
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/


 *以下は立岩に送っていただいたものです。
  直接上記のホームページをご覧ください。

『カルチャー・レヴュー』39号(文月号)
 (2004/07/01発行)
『カルチャー・レヴュー』40号(葉月号)
 (2004/08/01発行)
『カルチャー・レヴュー』41号(長月号)
 (2004/09/01発行)



 ="039">
 
>TOP

Date: Thu, 1 Jul 2004 20:14:04 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』39号(文月号)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
したので、ご変更をお願いします。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』39号(文月号)
         (2004/07/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [40号は、2004/08/01頃発行予定です]
   ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★

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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆ホモソーシャリティの廃墟へ
――クリント・イーストウッド論のために(1)---------------鈴木 薫
◆スガ秀実、ツッコミ不在時代の貴重な戦力--------------------村田 豪
◆INFORMATION:シンポジウム「こんな逮捕はぜったいおかしい! 〜有事法
 制化で上昇する排除と弾圧を考える〜」/「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)--------------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
★今秋創刊予定、会員制の評論誌「コーラ」(A5判・80頁・予価500円)への
投稿を募集中です。投稿規定等の詳細はメールにてお問い合わせください。
E-mail:YIJ00302@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re32.html#32-1

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////// 連載「映画館の日々」第3回 //////

        ホモソーシャリティの廃墟へ
        ――クリント・イーストウッド論のために(1)

                              鈴木 薫
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 池袋の新文芸坐で、クリント・イーストウッド特集(『ミスティック・リ
バー』(2003)、『ブラッド・ワーク』(2002)、『スペース カウボーイ』
(2000) 、『トゥルー・クライム』(1999)、『目撃』(1997)、『真夜中
のサバナ』(1996)、『マディソン郡の橋』(1995))を見、ついでに『ハー
トブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986)をヴィデオで見た。『ハートブレ
イク・リッジ』は、誰が敵で何が大義かが明らかだったよき時代に、軍隊とい
うホモソーシャルでホモフォビックな世界で、退役間近の鬼軍曹が落ちこぼれ
部隊を鍛え上げ、グレナダ侵攻で勝利を収める話である。一方で彼は、女に対
しては不器用で「純情」な男だが、最後には一度別れた妻をも勝ち取ることに
なる。

『ハートブレイク・リッジ』を見て、ただちに注意を惹かれることがいくつか
ある。一つは、イーストウッドが、ここではまだ年少者に対する教育を信じて
いることだ。最初は箸にも棒にもかからなかった兵士の中から、最後には彼の
後継者になるかもしれぬ者さえ現われて、彼は復縁した妻と安んじて農場へ引
退できそうだ。『スペース カウボーイ』をすでに知っている私たちにとっ
て、これは興味深いことである。朝鮮戦争の英雄だった軍曹よりさらに時代遅
れの、本物の老人になった彼は、もはや若い連中と馴染もうとさえしないだろ
う。もう一つは、別れた妻が最後に戻ってくることだ。凱旋してきたイースト
ウッドが彼女に気づき、二人が目を合わせるとき、彼女が胸元で振る小さな星
条旗。そして二人が向かいあうとき、キャメラが回り込んでイーストウッドの
背後にはためかせる(そして、二人がともにフレームから出てしまったあとも
暫時スクリーンに残される)巨大な星条旗。とりあえずこのあたりを手がかり
として、今回見た作品について述べることにしよう。

 たとえば、最新作『ミスティック・リバー』は、ケヴィン・ベーコンの家出
した妻が最後に戻ってくる話でもある。しかし、終幕の星条旗はためくパレー
ドの場面で彼と視線を交わらせるのは、妻ではなく、ショーン・ペンだ。と
いっても、妻よりも幼なじみのペンとの間により強い絆が存在するというよう
なことではもとよりない。妻と並んでパレードを見ていた目を、ベーコンがふ
とそらすと、見物人の中にペンがいる。そのときベーコンは何をしたか。指で
拳銃の形を作って相手を狙い、撃つ真似をしたのだ。馬鹿にしたように肩をす
くめ、ペンは両手を広げる仕種で応じる。

 前夜彼は、自分の娘を殺した犯人(と信ずる相手)に、復讐の銃弾を撃ち込
んでいる。イーストウッドによって映画の中でなされるのを私たちが繰り返し
目撃した、凄まじい形相で相手を見下ろし、狙いを定め、引金をひく動作に続
く重い銃声。ショーン・ペンによるその反復は、しかし観客にはすでに無実と
わかっている相手へ向けての、そして観客へまともに向けての轟音とともに目
くらむ白光となってスクリーンを覆い、この作品では一貫して白い曇天しか容
易に見せない空へと移行する。白い空から路上へとゆるやかに降りてくるキャ
メラがが最初に見出すもの、それは、早朝の道端に座り込むショーン・ペン
と、その後方で建物から突き出して静かに揺れる星条旗だ。その直後の会話で
真相を知ったベーコンの、本来ならイーストウッド自身の役柄であろう刑事も
また、最後に至って「犯人」を前にイーストウッドの行為をなぞるわけだが、
それは児戯に類する徹底的に無力な身ぶりによってであった。

『ミスティック・リバー』の交わされる眼差しは、『スペース カウボーイ』
の最後および最後から二番目のカットの、友人同士(ケヴィン・ベーコンと
ショーン・ペンも、現在はともあれ、少年時代は友だちであった)の視線の交
わり――二つの天体間での切り返し――を、ただちに思い起こさせる。しかし
それは、単に二人の男が目を見交わすからではなく、一方の男の傍に妻がいる
からだ。『スペース カウボーイ』では、イーストウッドとその妻は、寄り
添って同じ月を優しい眼差しで振り仰ぎ、その先には死せる親友がいたのだ
が、ベーコンの妻はもはや夫と同じものを見てはいない。映画のはじめから無
言電話をかけてきては、夫に一方的に話させていた、終り近くなってようやく
言葉を発し、ルージュを塗った口もと以外を私たちにはじめて見せることにな
る妻は、別居中に産んだ娘を抱いて彼の横にひっそりと立つ。『スペース カ
ウボーイ』では、イーストウッドとトミー・リー・ジョーンズを隔てる距離と
互いの不可視性にもかかわらず、彼らを結ぶ強い絆が私たちを感動させたもの
である。しかしここでは、ペンとの間のかくもわずかな距離を踏破して、法の
番人としての務めを果たすことすら彼にはできない。

 無実の男の処刑を、新聞記者イーストウッドが文字通り土壇場で阻止する
『トゥルー・クライム』のラストでも、彼は、自らが救った元死刑囚イザイア
・ワシントンと、クリスマスの夜の街角で視線を交わす。実はこの瞬間に至る
まで、彼が本当に生き延びたかどうかは観客には必ずしも明らかではない。
イーストウッドが冤罪の証拠を得て薬物による死刑執行を中止させるまでに、
ワシントンの体内にはすでにかなりの量の薬が流れ込んでいたのであり、人々
が死刑執行室へなだれ込み、腕から注射器が引き抜かれたとはいえ、仕切りの
ガラスに貼りついて必死に彼を呼ぶ妻の姿は、救出が成功したかどうかについ
て観客に疑いを抱かせる。映画がはじまってまもなく、イーストウッドが口説
きそこねた同僚の若い女が、一人で運転しての帰り道、魔のカーヴで突っ込ん
で車を大破させるという場面があるが(彼女の仕事を引き継いで、彼は死刑囚
にかかわることになる)、彼女がどうなったかはそのあとしばらく、死刑執行
の場面からクリスマスの夜までの隔たり同様、私たちに知らされないまま話が
進む。とはいえ、衝突のすさまじさと車の破損ぶりから彼女は死んだと解する
のが映画の見方としては妥当なのであり、その反復としか思えぬ死刑執行場面
の凄まじさは、イーストウッドが奔走したのだから話はハッピー・エンドで終
るはずという期待が観客を楽天的にしていなければ、彼の死を容易に信じさせ
ていたことだろう。

 クリスマスの買物を抱えたワシントンにイーストウッドが出会うとき、傍に
はその妻と娘もいたのだが、彼女らはイーストウッドに気づかない。彼とワシ
ントンは、なぜか妻と幼い娘という同じ構成の家族を持つのだが、それにして
も、命の恩人に再会する場面がこんなにあっさりしていていいものだろうか。
かつて助けを求める少女の祈りに応え、白馬に乗った幽霊ガンマンとして彼女
とその母の前に出現したように、また、満たされない主婦の願望を一身に体現
してメリル・ストリープの前に現われたように、彼は死刑囚とその妻の前に現
われた。しかし、『ペイルライダー』(1985)の母娘や、『マディソン郡の
橋』のストリープにとってのような偏在する神のごとき存在であった彼とは異
なり、ここでの彼は、死刑当日にたまたま事件について調べはじめたに過ぎな
い。(「今まで一体どこにいたの?」と彼に向かって妻は叫ぶ。)それでも死
刑執行までには真相をつきとめてしまうのだから、御都合主義もいいところ
だ。実はワシントンは、『ミスティック・リバー』のケース同様、無実の罪で
処刑され、夜の路上での再会は残った者の夢にすぎないと空想してみることも
できようが、むしろここで起きているのは、リアリズムの稀薄化であり、正義
の執行者としてのイーストウッドの力の弱まりであると見るべきだろう。

 リアリティの稀薄さといえば、彼の年齢を指摘しておかねばならないだろ
う。女と見れば口説き、上司の妻と浮気し、離婚寸前の妻との間にまだ五つに
しかならない娘がいる男を演じるには、彼は年を取り過ぎてしまった(妻を寝
取られた上司と較べても、どう見てもイーストウッドの方がくたびれてい
る)。娘を演じている愛らしい少女がイーストウッドの実の娘であり、その母
親とはまた別の三十幾つだか下の女性と結婚したばかりで、しかも、娘の母親
と新妻のどちらもこの映画に出ていると私たちは知ってはいるが、しかし映画
は少なくとも現実よりはリアルでなければならないだろう。再会の場面の直
前、彼は娘へのプレゼントを選びながら若い売り子を口説きにかかり、にべも
なく断わられる(むろん、承知の上での演出に違いない)。

『トゥルー・クライム』で彼が事件を解決できた理由、それは彼がクリント・
イーストウッドであったからだ。力の弱まりと言ったが、この意味では彼は
ABSOLUTE POWER(『目撃』の原題)の持ち主であるとも言える。イーストウッ
ドのあとにイーストウッドなし。彼自身がスクリーンに姿を現わさないとき、
イーストウッド映画に何が起こるか。たとえば『真夜中のサバナ』の場合、こ
こでの「彼」に相当する狂言回し、ジョン・キューザックは、およそ存在感の
薄い男である。彼が訪ねた古都サバナで、富豪の実業家ケヴィン・スペイシー
が、恋人であるジュード・ロウを射殺する。同性愛に対する偏見の強い南部の
町で、それが正当防衛であることを証明しようとキューザックが奔走して得た
証拠も、『トゥルー・クライム』でのように真実の発見につながることはな
い。裁判で無罪となったスペイシーが自宅に戻って心臓発作に襲われるとき、
絨毯に倒れ伏した彼の眼差しの先には、殺された美青年が同じように横たわっ
ているのが見える。交わされる二人の眼差し。ほほえみを浮かべてジュード・
ロウが起き上がってくるとき、彼は一瞬、イーストウッド作品でおなじみの、
幽霊となって甦ってくるあの復讐の天使のひとりとなり、そして消える。かく
して、(人知れず)正義は行なわれ、罪は裁かれる。

 しかし正義とは何かということもまた、周知のとおりイーストウッド映画で
は、とうの昔に明快なものではなくなっている。『許されざる者』でイースト
ウッドは保安官のジーン・ハックマンを倒すが、ハックマンもまた絶対的な悪
とは言いがたい、休日には自宅をコツコツ手作りしているような男である(拳
銃を構えるイーストウッドを見上げながら、彼は建築途中で死ぬ無念さを口に
する)。しかし彼は、イーストウッドの相棒モーガン・フリーマンをなぶり殺
しにし、酒場の外にさらし者にししたあとなので、観客の同情は保安官には向
けられない。『目撃』の、もはや行動するのをやめて見る者となった、映画の
観客か透明人間のようなイーストウッドでさえ、自分の娘の命を狙う者には容
赦しなかった。ハックマンに家族がいないのに対し(もし、家の完成を待つ妻
子がいたとしたらどうだろう)、イーストウッドには、彼を改心させ真人間に
したと言われる亡き妻がおり、彼女に操立てして娼婦の据え膳も断わってい
る。彼が幼い二人の子らとカリフォルニアへ行って成功したというナレーショ
ンを、私たちはほっとする思いで聞く。たとえ丸腰の酒場の主人(フリーマン
を店の外にさらさせた)を射殺しようと、私たちはイーストウッドを許してし
まう。

 娘を殺されたにもかかわらず、しかしショーン・ペンには屈折した正義すら
許されない。ミスティック・リバーに遺体が沈められる一方で真犯人があきら
かになった一夜が明けたとき、静かに揺れる星条旗を背にした彼は、勝ち誇る
マッチョではありえない。『トゥルー・クライム』のイーストウッドは、一人
の男の命を救うという偉業をなしとげたにもかかわらず、『ハートブレイク・
リッジ』や『ミスティック・リバー』でのように、妻が彼のもとに戻るという
事態は起こらなかった(娘にカバのおもちゃは買ってやれても)。だが、彼の
稀薄な力は、あるいはそこにこそかかっていたかもしれないのだ。妻と幼い娘
との幸福をワシントンに譲り、自らは家族という桎梏から自由な存在として生
きる、その稀薄さと軽さこそに。

 なぜなら、自らの誤った正義に打ちひしがれるショーン・ペンは、夫の行為
を正当化し説得するローラ・リニーに支えられると同時に男らしさを鼓舞され
て、ますます観客の共感を呼ぶ存在であることから遠ざかり、ケヴィン・ベー
コンは、新たに娘を加えて(つまり「家族」となって)戻った妻とは交わすこ
とのない視線をショーン・ペンに注いでむなしい仕種をし、マーシャ・ゲイ・
ハーデンはローラ・リニー同様夫を抱きしめ庇護しようとしたものの、信じ切
れなかったために彼を失っているのだから。いずれにせよ、男たちは一人の女
とのつながりによってのみ支えられる弱い存在であり、最終的には家族と自分
さえ守られればいいと思っているのだと映画は語り、そして返す刀で、男同士
の美しい友情というかくも長く続いた幻想を打ち砕く。クリント・イースト
ウッドはホモソーシャリティの墓場に到達した。この映画の後味の悪さを多く
の人が口にするのは、人生の不条理とか正義が遂行されなかったことによるの
ではなく、実はそのせいに違いない。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)鈴木薫はペンネームだが、本名よりも大きく郵便受けにこ
の名を出して、紫陽花の枝を切っていると、同じ横町に住むオバサンと、自転
車で通りかかった同じ町会らしいオジサンから、結婚したのかと(別々に)声
をかけられた。(正確にはオバサンからは、「○○さんのオジサンが、結婚し
たんじゃないのって言ってたわよ」)。「はやりの夫婦別姓かと思った」とオ
バサン(むろん向うは冗談のつもりだ)。人名漢字追加案のせいだろう、新聞
に、子供の名前についての記事が載った。読み間違わず、男女の別が明らかな
名前がいいのだとか。そこまで読んで、隣に江崎玲於奈の談話があるのに気づ
き、失笑する。「玲於奈」こそ、女か男かわからない――というよりは、女と
間違えられる(だから海外では、彼はレオ・エサキで通すと読んだことがあ
る)名前ではないか。人とは違う自分の名前が昔から気に入っていたと玲於奈
氏。実はオバサンに話しかけられるより先に、鈴木薫あてには読者の若い女性
からのファンレターが届いていた。嬉しかった。

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////// 連載「文学のはざま」第3回 //////

      スガ秀実、ツッコミ不在時代の貴重な戦力

                              村田 豪
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 今年はじめに刊行されたスガ秀実(スガは「糸」ヘンに「圭」です。念のた
め)の評論集『Junkの逆襲』の表紙装丁を見て、そのあられもないバカバカし
さに失笑してしまった人は多いのではないでしょうか。いささか緊迫した表情
で何やら叫んでいる様子の、スガ本人の顔写真が、乱れたタイトル字とともに
大きく配されているからです。
http://images-jp.amazon.com/images/P/4878935898.09.LZZZZZZZ.jpg
(『Junkの逆襲』表紙拡大図−アマゾン・ジャパン販売サイト)

 60年代学生運動について、スガが、柄谷行人・西部邁・津村喬などと対話す
る井土紀州監督のドキュメンタリー映画『LEFT ALONE』(私は未見)でのひと
コマから抜き出されたというこの写真は、おそらくスガが現在においてもコ
ミットしている学生運動のデモの一場面なのでしょうが、憤激を抑えきれぬと
いうように対象を見つめ、挑みかからんとする瞬間の、大口を開けた著者のそ
の姿は、本来の文脈からずらされて、まことに滑稽、ほとんどアホさ満点と
いった次第です。文芸評論家としての「品格」など、まったく考慮に入れても
らわなかったもののようです。

 もちろんこれは編集者や装丁家、そして著者の明確な意図によるものです。
「あとがき」で著者も苦々しく認めているように、この装丁自体が、スガのい
うところの「Junk的なもの」=「なんでもよく、どうでもよいもの」について
の考察の反映となっており、確かによく出来ているといえば、よく出来ている
でしょうか。まあ、装丁うんぬんをおいても、本書は、現在の文学やジャーナ
リズム、大学教育などが危殆に瀕していることへの活気ある批評として、また
「寝惚けた時代への鋭いツッコミ!」(帯のコピー)として、十分読み応えの
あるものになっています。

 ところで「Junk ジャンク」=「クズ」みたいなものとは、いったい何のこ
とでしょう。それは、90年代ぐらいから『文藝』『リトルモア』などを中心に
出現した若い書き手による「新しい」小説に、「Jリーグ」「J−POP」など
を彷彿させる「J文学」なる名称が与えられようとしたことにたいして、スガ
が、その「J」の意味するところは「Japan」や「純文学」かもしれないが、
しかしより端的にはむしろ「Junk」つまり「クズ」であろう、と批判したこと
に由来します。文壇ジャーナリズムが、キャッチーな意匠をほどこして小説を
売ろうとする目論見に対抗し、とりあえずそれらの小説はまず「クズ」という
べきだ、と指摘したのです。

 しかし、これはまた多くの批評家などが、そういった新奇な(?)一連の作
品を「くだらない」と一括して斥けるのとは違います。なぜならスガが指摘し
ているのは、「J文学」であろうがなかろうが「文学」そのものがすでに「な
んでもよく、どうでもよいもの」に成り下がっているということであり、いま
だにその価値を前提にして「文学」をことほぎ、その「Junk化」を現在的な問
題として引き受けられないでいる小説家、文芸評論家の「バカ」さをむしろ際
立たせるための言葉だからです。

 その矛先は、ある場合には、夏目漱石を「国民文学の聖典」として温存しよ
うとする小森陽一他の「カルチュラル・スタディーズ」に向けられ、ある場合
には、そういう研究をダシに明治の文豪、とくに漱石を自分になぞらえた小説
をものする高橋源一郎に向けられます。またある場合には、「優れた」小説に
は「言論の自由」が保証されるべきだとして、自らのデビュー作出版差し止め
裁判を争った柳美里に向けられ、そしてまたある場合には、村上春樹を絶賛す
るにあたって「換喩」をキー概念に導入しながら、そのレトリックの説明が単
純に大間違いでしかない加藤典洋に向けられています。

 スガは、彼/彼女らが「文学」を称揚したり、無防備に「言論の自由」を振
りかざしたり、間違ったことを書いたことだけを批判しているのではありませ
ん。彼/彼女らは一様に「文学主義」への従属において、「優れたもの」を選
りわける仕草を示しながら、実は彼/彼女らの作品自体が、斥けられたその他
の「クズ」とそれほど区別があるわけでない、という厳然たる事実に気づかな
いでいる、そのことを指摘しているのです。

 実際、ここに書き出した文学的出来事にまつわる作品を、ほとんどの人は関
心も持たず、読もうとも思わないでしょう。どうせ「たいしたものでない」
と、予想されるからです。しかも困ったことにその予想は、おおかた当たって
もいます。そういうことからしても、現在を規定している「Junk的なもの」を
認めるところからしか文学も批評もはじまらないではないか、というスガの批
判には、一定の説得力があるように思います。

 もちろんそれは、スガ自身にも跳ね返ってくる問題であり、それゆえ本書は
その「Junk」っぽさを隠すことなく、おおっぴらげにしようとしているので
しょう。自分が「クズ」に過ぎないかもしれない可能性を否認せず、だからと
いって「クズ」でいいじゃないと開き直るのでもなく、けれども「クズ」に
よって開示しうるものを擁護すること。それこそがスガが「Junk的なもの」に
こめた、ある種の肯定性といえるのではないでしょうか。

 だからスガは、たとえばネット社会の閉鎖性やいかがわしさの象徴としてし
ばしば批判されるインターネット掲示板「2ちゃんねる」さえも、そう単純に
否定することはありません。匿名性をいいことに、差別発言や個人攻撃などろ
くでもない書き込みが蔓延する点は、さすがにほめたりしませんけれど、しか
し新聞・テレビなどの既存の巨大メディアそのものが、新しいメディアに相即
して「Junk化」している現状をみるとき、「2ちゃんねる」だけが「くだらな
い」とは、やはり言い切れないでしょう。ただし、このような「2ちゃんね
る」擁護にたつスガさえも、その掲示板ではボロクソにけなされたりしている
ようです。これこそが「Junk」の侮れないところといえるでしょうか。

 さて、この文学やジャーナリズムの現在の地平をあらわす「Junk的なもの」
は、面白いことに、同書の中で展開される、高等教育の再編成、いわゆる「大
学改革」問題の議論においても、同型の論理でもって繰り返されています。こ
のことも少し見てみましょう。

 まずスガは、偏差値教育の弊害を「是正」すべく導入された「ゆとり教育」
によって、最も顕著に、かついびつな形で影響を受けたのが、実は、教育問題
でほとんど世間から注目されることのない専門学校だったことを指摘していま
す。スガ自身がジャーナリスト養成の専門学校で長年教えていたのです。そし
て専門学校生には、たとえば外国語専門学校に属しながらも、英語の三単現の
「S」さえ知らないというようなレベルの学生が多数存在することを指摘し、
それをいわば「Junk的なもの」として(著者はそう書いていないが)措定して
います。

 一方、大学は安泰なのか、といえば全くそうではありません。というのも、
18歳以下人口の減少による経営危機を、受験の難易度を下げ、従来なら専門学
校に行ったかもしれない学生を無条件に受け入れていくことで乗り越えること
になるからです。ことによっては、数学が出来ない工学部生、英語の読めない
国際学部生もおかしくないであろう。なぜなら学生のニーズに迎合して、学生
を甘やかしてでも学生数を確保しなければならないからだ、とスガはいいま
す。ところが、文部科学省・学校関係者・ジャーナリズムは、総じてこの経済
的問題を、「学力低下」「偏差値教育」「学歴」などという観点からしか考察
できないでいるのです。

 ただ、ここで重要なのは、「Junk的なもの」として見いだされた専門学校生
も、結局は、多少の偏差値の差があったに過ぎず、本質的にはその他の大学生
と変わるところがない、ということでしょう。スガはこれを、大学を「レ
ジャーランド」に変えてきた「学生消費者主義」の帰結とみなしています。つ
まりは、ここでも「クズ」は広く事態を浸食し、避けては通れない問題として
あるのです。国家が国民にたいし「規律=訓練」ほどこし、「職業のエート
ス」をたたき込むはずの大学というシステムは、いまや「Junk化」によってほ
ぼリミットを迎え、結果フリーター予備軍の育成を続ける以外にないのです。
うーん、確かに私もスガの説明どおりの「クズ」学生だったし、今もフリー
ター崩れだもんなあ。

 まあ、私のことはさておき、しかし、なぜこの大学教育の問題が、文学の問
題から出てきた「Junk的なもの」と同型のロジックで扱われることになるの
か、その理由がすぐには分かりにくいかもしれません。実は、これについても
スガは明確に分析し論じています。それは『Junkの逆襲』の各論考と同時期に
書かれた浩瀚な「ニューレフト」の研究書『革命的な、あまりに革命的な――
「1968年の革命」史論』においてであり、上記二つの事柄は、スガいうところ
の「1968年革命」が「勝利」した証拠、その「革命」が現在にも持続されてい
ることの証拠以外のものでない、ということなのです。文学の「Junk」化も、
大学の解体も、どちらも「世界システム」の変革の一環として生じた、文化的
ヘゲモニー闘争がもたらしたものにほかならないからです。

 ただし、いわゆる「全共闘運動」とも呼ばれる60年代半ばから70年代はじめ
にかけての学生運動について、それを「革命」と呼び、「挫折」や「敗北」で
なく今なお持続する「勝利」として語るスガを、おそらく多くの人は奇異に思
うでしょう。奇異どころか、反感さえ感じるかもしれません。確かにいろいろ
な点で『革命的な』には異論・批判を差しはさむことがでるでしょうし、スガ
の主張が、完全に正しいとは私も思いません。それでも、スターリン批判を受
けたあとの「ニューレフト」の闘争が、世界規模の政治−経済的要因に強く規
定された文化的ヘゲモニー闘争だったことは間違いないだろうし、それゆえ
「革命」は引き続きフェミニズムや反差別運動、エコロジー問題として展開、
浸透していったというスガのパースペクティブには、やはり現在において一定
のリアリティが宿っていることは疑えません。スガはそのことを「勝利」と呼
んでいるのです。

 それでもなお、スガの議論にどこか鵜呑みにしにくいところがあるとすれ
ば、それはスガが自らのロジックを、一貫してラカン的なフェティシズム論に
依拠して展開するためではないでしょうか。

 どういうことかというと、たとえば、68年の「ニューレフト」を特徴づける
思想的な意義を、著者は「疎外論批判」に見ています。それは、従来のマルク
ス主義がヒューマニズム(=疎外論)を脱しきれないことへの批判でした(廣
松渉やアルチュセール)。また具体的には、ノンセクト的な「群れ」として党
の指導性を否定し、未来の革命ではなく今ここの革命を肯定すること。メイン
カルチャーではなく、現代詩やアングラ演劇などのカウンターカルチャーの可
能性にこそかけること、などが、その「疎外論批判」の実践的側面でしょう。
 ところがこの「疎外論批判」は、成されたとたん追い払ったはずの「疎外
論」が、反動として回帰するような危うい「疎外論批判」でもあるのです。
「前衛党」の神話を解体したはいいが、それは同時にセクト間ヘゲモニー争い
や内ゲバの激化をもたらしもしたのでした。「詩は表現でない」(入沢康夫)
という「詩的言語革命」も、「模型千円札」(赤瀬川原平)の「反芸術」も、
「表象=代行」のモデルから逃れえたのはつかの間であり、消費資本主義の進
む中で、大文字の「芸術」か、あるいは単なる「クズ」に後退せざるをえな
かったのです。

 この問題を、スガはラカン的なフェティシズム論によって補強しようとして
います。つまり、なぜ消し去ったはずの「疎外論」はこのように回帰するのか
といえば、それが、去勢したはずの(自己に斜線を引いたはずの)主体に取り
ついて離れない「オブジェa」だからだ、というのです。そしてその回帰に
よって「革命」は、ある点ではより一層の「反革命」的様相を帯びざるを得な
い。「大学解体」は「大学改革」と名のものに実現し、学生は「管理=監視」
の対象以上のものではなくなったのです。よってスガは同書のなかで、東大全
共闘と討論し、「全体主義」に対抗するべく空虚としての天皇(フェティッ
シュ)を担ぎ上げた三島由紀夫の「反動的革命」を、相対的に優位に置くこと
にもなるわけです。

 しかしここまでくると、さすがにこの眉唾っぽさに耐えられない、と人がい
うのは、私も仕方ないと思います。「68年革命」が、「反革命」「受動的革
命」としてしか「勝利」していないなら、それはわざわざ「勝利」と呼ぶほど
のものではないのではないか、そういいたくなるのも無理はありませんから。

 ところで、先に「寝惚けた時代への鋭いツッコミ!」という『Junkの逆襲』
の帯コピーに触れましたが、ここにきて、そのコピーの持つ、おそらく意図さ
れていなかった含意がにわかに問題になっていることに気づかされます。漫才
やお笑いの一方の役割を示す「ツッコミ」という規定は、はたしてスガに本当
に適切なのかどうか、疑問に思えてくるからです。最終的には「反革命」にゆ
きつくものを「革命」だと言いつのるのは、ある意味で「ボケ」ていることに
なりはしないでしょうか。実際、スガの言動には、それこそこちらが「ツッコ
ミ」を入れたくなるような矛盾やブレみたいなものが散見されるように思いま
す。

 たとえば、「小ブル急進主義者」として「絶対的な無責任」を肯定し、善人
ぶった左翼連中の「良心のやましさ」を叩いていたのに、あるところでは自身
の中学卒業時に集団就職するものがいまだ学年の半数に及んでいたことに
ショックを受けたと語ったり、「差別表現」問題に発する筒井康隆の「言葉狩
り」というジャーナリズム批判をさらに反批判しながら、ところがある別の場
面では、高橋源一郎との論争で相手を「アルツハイマー」と罵ったり、キム
チョンミの『水平運動史研究』を高く買いながら、彼女から「元号」を使う是
非を追及されると、日本文学史を捉えるには避けられないところがあると、微
妙に抵抗したり、著書であれだけ「革命」の「勝利」を高らかに宣言しなが
ら、雑誌『重力』02号の討論では、あっさり「僕もそんなに(勝利だ)とは
思っていないから」と認めたり、と自ら「疎外論」と「疎外論批判」の間を
行ったり来たりするようなこの忙しさは、何というか、そう、ふたたびお笑い
タームに喩えていうならいわば「ひとりボケ・ツッコミ」とでも評したほう
が、ぴったりしているのではないかと思えてくるのです。

 だいたいスガは、元来どう見ても「ボケキャラ」ではないかのか、という気
もします。あのヒゲ面の風貌といい、何か落ち着きを欠くしゃべりかたとい
い。また小説家角田光代の証言では、酒の席ではだれかれかまわず「Do you
like sex ?」などと口にしてからむそうですし、もっと極めつけは、文壇バー
でしたたかに酔ったスガが「文学は中上健次で終わった」などとわめいている
と、デビューしてしばらくの柳美里がいるのをみつけ、その作品をけなした
り、彼女の容貌をけなしたり、ついには「ヌード写真集でも出したら」などと
言いがかりをつけたところで、柳に顔面を張り倒されたそうです。真偽はわか
りませんが、福田和也も別のところでこの事件には言及しているので、とりあ
えずある程度は事実なのでしょう。しかし、それにしても最低のセクハラオヤ
ジぶりですよね。

 いや、しかし、それはそうだとしてもです。スガはもともとの「ボケキャ
ラ」を、抑制せざるをえない理由があるのです。それは、現在の文壇ジャーナ
リズムの中でまともな「ツッコミ」の役割をになえる書き手が、あまりにすく
ないからなのです。「ボケ」なきゃ面白がってもらえないと、誰もがこぞって
「ボケ」へと転向(「クズ」に自足?「疎外論」に回帰?)しているのは、異
様なぐらいでしょう。だから「ひとりボケ・ツッコミ」であろうと「ツッコ
ミ」を効かせている点では、スガは相対的に「ツッコミ」として浮上してしま
うのです。帯のコピーは、それはそれで正しいといえるわけです。

 「ボケ」(疎外論=回帰する反革命)へと転じたくなる誘惑にかられなが
ら、あるいはその回帰におびえながら、自身の資質を乗り越えて「ツッコミ」
(疎外論批判)にとどまろうとするところに、現在のスガの批評家としての面
目があります。「ツッコミ」役が極めて希少な現在の文壇ジャーナリズムにお
いて、スガは、やはり貴重な戦力であることには間違いないところなのです。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。腹ぺこ塾塾生。

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★シンポジウム★
 こんな逮捕はぜったいおかしい!
 〜有事法制化で上昇する排除と弾圧を考える〜

 ■被弾圧当事者よりアピール
  釜ヶ先パトロールの会/立川テント村(予定)
 ■パネリスト:遠藤比呂通×斎藤貴男×酒井隆史
 ■日 時:04年07月17日(土)18:00〜21:00終了予定
 ■場 所:大淀コミュニティーセンター(TEL:06-6372-0213)
 ■入場料:一般1000円/学生600円

 ------------------------------------------------------------------

 ★第48回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年07月18日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:毛沢東『実践論・矛盾論』(岩波文庫・中公バックス)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★入梅してからと言うものの、台風を除けば、ほとんど空梅雨の風情。炎天
下、律儀に外回りしている黒猫房主を見かけたら、声をかけてやってくださ
い。(黒猫房主)

●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』39号(通巻41号)(2004/07/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原隣・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
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■ Copyright(C), 1998-2004 許可無く転載することを禁じます。
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Date: Sun, 1 Aug 2004 18:44:16 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』40号(葉月号)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
 したので、ご変更をお願いします。
★移転前のHPは04年8月末までに完全閉鎖されます。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』40号(葉月号)
         (2004/08/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [41号は、2004/09/01頃発行予定です]
    ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「マルジナリア」第3回:魂の学について-----------------中原紀生
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第3回:世間って何なんだ〜!?-----ひるます
◆ご恵贈本:『都市文学と少女たち―尾崎翠・金子みすヾ・林芙美子を歩く』
 INFORMATION:第49回「哲学的腹ぺこ塾」
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////// 連載「マルジナリア」第2回 //////

             魂の学について
                              中原紀生
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

●ここ数年来、私の夏休みの自由研究のテーマだった心脳問題をめぐって、小
林秀雄の『感想』に出てくる蛍の話に始まりライプニッツの「モナドロジー」
で終わる「宙を舞うモナド」(仮)という文章を書く予定だったけれど、体
調、脳調ともに最悪で、休載を申し出ようかと思いかけていたところ、ふと、
以前、茂木健一郎さんの呼びかけで企画され、養老孟司監修で徳間書房から刊
行される予定だった書物のために寄稿した古証文ならぬ古い文章(『La
Vue』No.8に掲載していただいた「魂の経済学序説」につながるもの)のこと
を思い出したので、今回はそれをそのまま掲載することにします。

●「古代人の意識にとっては、素材、物質、いわゆる実体あるものは、すべて
神であった。…ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそ
れがなんでも神となるのだ。…あるいは青色の閃光が突如として意識をとらえ
ることがあるかも知れない、そうしたらそれが神となるのだ。…水に触れてそ
のつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたい
もの》としてそこに現象するのである。だが、これは決して単なる質ではな
い、儼存する実体であり、殆ど生きものと言っていい。」(D.H.ロレンス
『現代人は愛しうるか』福田恆存訳)

●心と脳の関係を考えるとき、そこでいう「心」とは何かがまず問われなけれ
ばならない。意識、感情、感覚、自己、自我、私、精神、霊、魂、表象、情
動、意志、知覚・感性・思考・直観等々、これらのうち、どの「心」を対象と
するのか、そしていかなる定義(限定)のもとでそれを扱うかによって、問題
の様相はまったく異なってくるだろう。
 また、「関係」という語でもってどのような事態を語り出そうとしているの
か、見定めておくことが必要だ。それは因果関係なのか、生産関係なのか、そ
れとも推論関係とでもいうべきものなのか。粒子と波動、離散と連続、生と
死、有限と無限、内と外、面と体、主観と客観、世界と自我、超越と内在、神
化と受肉等々、これら諸々の事柄をめぐる「関係」とは何か、そしてそれは心
と脳の関係と相同なのかどうか。(仮にそれらが意味的・論理的な関係にほか
ならないのだとして、では「意味的・論理的関係」とは何か。)
 そして、そもそも「脳」とはいったい何なのだろう。それが複雑精妙なシス
テムを内蔵した物質の塊であることなら、誰でも知っている。それでは、生き
て働いている脳と、屍体とともに溶解していく脳と、そのいずれもが同じ脳な
のだろうか。諸々の脳が累々たる個別の死を超えて創り出してきたこの世界
は、脳ではないのか。

●だが、これらの問題とともに、いや、これらの問題とは別の次元で大切なこ
とは、心脳問題というときの「問題」の実質だ。それはどのような内容をもっ
た問題であるのか、ではない。なぜ人は心と脳の関係を問うのか、でもない。
なぜかしら「私」はそこに問題を感じ、その問題とともに生きるほかなくて、
それは、心と脳の関係を考えることがすなわち「私」の生である、といった事
情のもとで生きることへの覚悟あるいは態度と切り離すことができない種類の
問題である。
 こうした、いわば形式的感覚に根ざした抽象化の作業(あるいは、その言語
的・公共的表現の試み)を徹底することこそ、心と脳の関係を問うことの実質
なのであって、そのような問題感覚を欠いた抽象的議論は、せいぜい哲学的駄
弁か科学的交換日記でしかない。

●脳との関係で心を考えるとき、私はそれを「魂」――もしくは独在性の〈意
識〉(永井均氏の表記法を借用)――と呼ぶことにしている。存在、時間、記
憶、他者、情報、精霊、天使的存在等々、いずれを採用することもできるし、
「χ」「φ」「ω」等々と表記してもいいものなのだが、「魂」と名づけるこ
とで、数千年に及ぶ先人たちの思考(たとえば、プロティノスに始まり、エリ
ウゲナ等々によって反復的に変奏されていったグノーシス的ネオ・プラトニズ
ムの系譜)へと接続することができはしまいかと思うからだ。
 また、魂と脳の関係について、ここでは「魂*脳」の公式を提示しておくに
止めよう。「*」に代入できるのは、推論の形式を示す五つの論理詞(連言、
選言、含意、同値、否定)に対応する記号である。私の直観が告げるのは、魂
と脳は、それらすべての記号が代入可能な高次元の関係を取り結んでいるだろ
うというものだ。しかも、その一つ一つの記号によって示される推論の形式が
さらに複数に分岐するといった、複雑怪奇な関係。(たとえば、「脳⇒魂」で
表現される関係は、事象間の帰納[in-duction]的な因果関係や演繹
[de-duction]的な論理的同型性を、あるいは「洞察」[ab-duction]による
意味関係や「生産」[pro-duction]による理解関係を表現している。)
 そして、魂との関係において「脳」を考えるとき、私はそれを端的に「世
界」ととらえる。精確にいうならば、時空構造(宇宙)を孕んだ世界。そこに
は物質と精神が見えてくるだろう、さらに観察者自身もまたそこに含まれる、
いわば汎脳論的世界であって、このような世界において、唯脳論と無脳論があ
る不可思議な回路を経て重ね合わされることになるのではないかと私は直観し
ている。

●さて、魂と脳の関係をめぐる問題、すなわち魂脳問題をめぐって――より私
の関心にひきつけていえば、魂の存在様式やその法則が稼働する時空の問題を
めぐって――、西欧世界では古来、三つの学がそれぞれの方法と問題意識で
もって取り組んできた。哲学と神学と数学。いずれも「無限」(神や霊性であ
れ、宇宙・自然であれ、イデア的世界であれ)を対象とする学でもあった。
 私は、その現代版として、神経哲学、情報神学、言語数学の三つの学の可能
性を考えている。いまの段階でそれらの内実を十分に構想できているわけでは
ないので、はたして命名価値や流通可能性があるかどうか解らないのだが、以
下、脳と魂の関係をめぐるこれら三つの学の守備範囲を概観しておくことにし
よう。

●まず、意識哲学ならぬ神経哲学について。それは脳=世界を、すなわち物質
と精神の構造と機能を解明し、両者の関係を説明する。物理学(自然哲学)が
探究の素材としてきた物質世界と、神学が一般に弁明の対象としてきた精神的
世界との関係を、前者から後者への推移に力点をおきつつ説明しようとするの
が神経哲学だ。
 ここで物質というとき、私は、「離散」性と「連続」性、そしてそれらを通
底もしくは媒介する「論理」性や「無限」性、さらにはこれら四項の相互関係
そのものに関係する「情報」によって構造づけられたリアリティ――ヴァー
チャルなものであれアクチャルなものであれ、数学的リアリティであれ観測可
能という意味でのリアリティであれ――を想定している。
 また、精神というとき、それは個人の内面性や心理をではなく、むしろ身体
をめぐる観念に根ざした共同性や言語、あるいは社会の諸過程や歴史といった
公共的な事柄を想定している。このような意味での精神にあっても、離散・連
続・論理・無限・情報による構造化とその表現(リアリティ)を見出すことが
できるのではないかと私は考えている。
 ところで、物質と精神の両世界に共在するのが「身体」である。そうする
と、神経哲学とは身体器官としての脳の構造と機能を解明する学である、と規
定することができるかもしれない。(これを「肉体」と表記すると、問題の様
相がかなり異なったものになる。肉はまず食糧であり、したがって屍体であ
り、料理=埋葬の対象であり、あるいは欲望を、とりわけ生殖と結びつく性欲
を内臓したものである。肉体は伝統的に霊性と対立させられてきた観念であっ
て、むしろ次に述べる情報神学の問題領域に属するものだ。)

●次に、純粋魂学ともいうべき情報神学について。それは、生者と死者、機械
と幽霊、動物と人間、神と人間等々の関係を問う言語(たとえば、預言と啓
示、一人称単数の告白と二人称単数の祈りと三人称単数の戒律、旧約=古い脳
を包含する新約=新しい脳の物語言語等々)によって立ち上がるもの、あるい
はそれらの言語が稼働するシステムそのものの起源と構造と機能と変容のプロ
セスを弁明する学である。しかし、このような抽象的な定義では、何も語った
ことにはならないだろう。ここでは霊性と魂の、したがって霊性神学と情報神
学の違いを素描しておく。
 私の未完の「体系」によると、物質と精神を媒介し通底させるものは生命ま
たは〈意識〉である。鈴木大拙が精神と物質を一つにする「はたらき」と呼ん
だ霊性は、このうち生命に関係するもの、たとえば生命感覚とか「種社会」に
リアリティをもたらす内属感のようなものなのではないかと考え、私自身は、
これとは異なるいま一つの回路、つまり〈意識〉=魂のはたらきを介した精神
と物質の関係を考察することができはしまいかと目論んでいる。霊性が根源的
な生命感覚の覚醒であるとすれば、〈意識〉=魂は根源的な物質感覚の覚醒な
のであって、それは想念が物質化する(たとえば、カントールの対角線論法に
おいて、「天使」的存在ともいうべき実数が無限に立ち上がってくるような)
不可思議な時空を切り拓くのではないか、などと考えている。
 こうした「認識=存在=生成」という世界の根源的なリアリティの基底にあ
るものを、私は「情報」ととらえ、霊性から魂への転換のうちにその生理を解
明する、というより創造する学として情報神学を考えている。

●補遺。ある特殊なシステム(たとえば脳)があって、これに対応してある特
殊な観測者(脳)がいる。この二つの要素からなる全体を「(情報神学的)原
システム」と名づけよう。そして、この原システムから観測者を除去して考え
られたシステムを「(神経哲学的)抽象システム」と名づけることにしよう。
ここで抽象システムは、その「内部」に「測りがたい」深淵や超越や分裂や矛
盾等々をかかえることになるだろう。なぜなら、そこには観測者がいないか
ら。
 この抽象システムにおける不在の観測者は、時として「神」とか「意志」な
どと呼ばれることがあるが、実はそれは「外部」に仮構されたインターフェイ
スないしは「外部」へのパスウエイのこと、「鏡」とでも名づけるべきものの
ことをいっている。たとえば、「鏡」と「自己」の二つの要素からなる擬似
「原システム=情報システム」としての精神もしくは神経回路がそれだ。

●最後に、関係の学としての言語数学について。それは、ポイエーシスにかか
わる詩譜に属するもの、さらには言語物質論の系譜に属するものといっていい
だろう。
 もともと数学は、生命感覚もしくは霊性感覚に根ざしたもの(たとえば、数
秘術)だった。これに、この世界を規律し、記述し、表出し、告知する、精神
由来の言語が繰り込まれたとき、物質の生成を司る、つまり時空構造そのもの
の設営にかかわる言語を対象とした新しい数学が誕生するのではないかと私は
考えているのだが、これはいまだ夢想の域を出ないものである。――以下、作
成途上の研究対象リストを掲げておく。

 1 模倣言語(物質から生命=霊性へ。物質を統治する生命の言語)
    物質言語――DNA、アルゴリズム、プログラミング言語
 2 記憶言語(生命=霊性から精神へ。生命=霊性を統治する精神の言語)
    宗教言語――預言、福音、神託
 3 解釈言語(精神から〈意識〉=魂へ。精神を統治する〈意識〉=魂の言
   語)
    詩的言語――韻文、譜面、レシピ、指令
 4 表象言語(〈意識〉=魂から物質へ。〈意識〉=魂を統治する物質の言
   語)
    霊的言語――呪文、マントラ、呪言、ESP
 5 外部性の言語(物質と精神を連接する言語)
    感覚言語――法華七喩、戒律、法律、固有名、言霊
 6 他者性の言語(生命=霊性と〈意識〉=魂を連接する言語)
    歴史言語――暗号、アナグラム

●物質から精神へ(神経哲学)、そして――精神から生命=霊性への回路を経
由して――霊性から魂へ(情報神学)、さらに――精神から〈意識〉への回路
を繰り込んで――魂から物質へ(言語数学)。
 こうして一つの循環がかたちづくられた。一つの循環=円環が完成すると
き、始まりが終わりに接続するとき、そこから異なる次元が、つまり別の時空
構造を孕んだ世界が立ち上がり、再び探究が開始される。魂と脳の関係をめぐ
る、だれもまだ「経験」したことのない思考へと向かって。(この高次元循環
システムのエコノミーを考察する、心脳問題をめぐる第四の学を構想すること
ができるかもしれない。たとえば、「普遍経済学」や「生きた貨幣」をめぐる
考察等々。)

●空の青みに見入っていると、自我が極微の要素から合成されていること、そ
してこれらの要素はどの一つをとってみても確固たる実在ではないこと、ただ
関係があるだけだと解ってくる。そのような自我が無限小と無限大を結ぶ奇妙
な等式にのっとって空の青み全体に拡散していく。それはもはや私の主観では
ない。空そのものにまで広がった自我は、「私」の自我と名づけることはもち
ろん、もはや「自我」とさえ呼ぶことのできない客観世界をかたちづくってい
る。ただ空の「青み」が私の感覚に刺激を与え続けるかぎりで、主観と客観は
浸透しあっている。
 私が見ているのは空であり空の青みであり、そこに映し出された私ではない
私であり、つまりは抽象である。そこには一片のイメージすらない。全き空虚
である。ただ空が、空の青みがある。あるという言葉がもはや確たる手触りを
もたらさないようなあり方で、空の青みはそこにある。私の主観、私の自我は
感覚に収斂されている。抽象と感覚。――心と脳の関係をめぐる私の「問題」
がめばえるのは、その時だ。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
共著として『熱い書評から親しむ感動の名著』( bk1with熱い書評プロジェク
ト著・すばる舎)などがある。
★E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html

/////////////////////////////////////////////////////////////////////
////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第3回 //////

           世間って何なんだ〜!?

                              ひるます
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

獏迦瀬:前回、「文化」の話の最後で、伊丹堂さんが「世間」について、「相
対的にぬるい文化」というようなことをおっしゃってました。というわけで、
今回は「世間」って何なのか? というのをお聞きしたいわけですけど、世間
といえば、ひるます氏の事務所、ユニカイエが「日本世間学会」の事務局を
やってまして、そちらで紹介したりしてます。くわしくはユニカイエ通信をご
らんいただきたいところです。
伊丹堂:というとこで今回は終わりじゃな(笑)。
獏迦瀬:いやいやいや…、で、こんど、その世間学会の中心メンバーの一人、
佐藤直樹さんが『世間の目』という本を出されまして(光文社)、これが大好
評のようです。
伊丹堂:NHKの「視点・論点」でも「世間の目に縛られる日本人」というテー
マで話したそうじゃな、ワシは未見なんじゃが…。
獏迦瀬:僕はビデオにとっちゃいましたよ(笑)。例のイラク人質バッシング
などを引き合いに、異質なものを排除する世間のあり方を指摘したりしてまし
た。「世間」ということを学問的というか、思想的な考察の対象としたのは、
阿部謹也さんの『世間とは何か』(講談社現代新書)から始まるわけですが、
ここにきてようやっと一般に浸透してきたって感じですかね。
伊丹堂:この前も夕刊紙の見出しに「曽我さん一家に世間の目」なんてのが
あったからな(笑)。
獏迦瀬:うわ…。佐藤さんも斎藤環くらいコメンテーターでひっぱりだこにな
ると面白いんですがね(笑)。
伊丹堂:がはは、しかしそれは比喩でなく面白いの。つまり斎藤環は「ひきこ
もり」という言葉を世にひろめることによって何をしたかというと、「ひきこ
もり」の状態にありながら、自分がいったい何なのかということが分からな
かった人々(若者)に、「ひきこもり」という自己規定を与えることができた
のだ、というわけじゃな。それは功罪なかばとも言われるのじゃが、とにもか
くにも、そういう自己規定が与えられた事によって、それぞれの「ひきこも
り」の人々が自分のことを考えるきっかけになったということは確かなわけ
よ。
獏迦瀬:なるほどね。
伊丹堂:ところがそれとまったく同じように「世間」という概念は、世の中で
「息苦しく」生きてる人たちに、それが「世間」の中で生きている、という
か、自分自身が「世間」そのものとして生きている、ことによる、という「自
己規定」というか、視点を与えるわけじゃろ。
獏迦瀬:たしかに…「世間の目」の読者の方からも多くの共感の声が寄せられ
てますけど、ほとんどが、なんでそうなのかが分かった、という感じの「目か
らウロコ」的なものが多いですね。つまり、もわ〜と分かってたところにズ
バッと言葉を与えてもらったというような。
伊丹堂:モワ・ズバね(笑)。
獏迦瀬:そこで肝心なのが、佐藤氏の主張や、これまでの阿部氏の本もそうで
すけど、なんでも「世間のせい」にしてすます、ということではまったくない
ということでしょう。
伊丹堂:そ、まさに自分がその一部というか、そのものというかのあり方をし
ているのが「世間」ってものだというわけじゃな。佐藤さんは「世間」という
ものを対象化するのに「現象学的方法」を用いているが(「世間の現象学」参
照)、そこにも世間を対象にする自分がそもそも世間的に生きているというこ
とへの自戒があるわけじゃな。
獏迦瀬:そこで、世間って何なんだ〜、ということになるのですが、前回も
言ったように「世間」もまた「文化」なわけですよね。
伊丹堂:外側から見た価値判断ぬきで、人がその中で「まっとうに」生きてい
る、と実感しうるようなヨリドコロが文化である以上、世間というのもまた
「文化」ではあるわけじゃな。
獏迦瀬:阿部さんや佐藤さんが「世間」の特徴としてあげているのが、贈与・
互酬の関係です。つまり資本主義経済なのに、商品そのものの価値や良さとい
うところではなく、知り合いだとか、恩があるだとかという、あげたりもらっ
たりという「お互い様」の世界で、世の中が動いていく…というような。
伊丹堂:いっけん情け深い、いい世の中に見えるが、お互い様の関係の「中」
だけの話だから、他人、つまり「世間」の外の人には極端に冷酷じゃ。世間の
外に出たとたんに批判の対象にされたのが例の人質。
獏迦瀬:あの問題でもそうですが、結局、個人の意見というか存在というもの
がない、というのが「世間」の特徴ですよね。
伊丹堂:自己責任とかなんとか言って、それを口にする者の誰が「自己責任」
をかけて生きてたんか? と問いたいような空虚な議論じゃったの〜。
獏迦瀬:まあ、そういう文化的特徴を「あきらかに」してくれたという意味で
は貴重な事件だったんでしょうね…。そういう「自分のなさ」といのは、世間
というものが「お互い様」の関係で出来てるから、「自分で」決定する必要が
ないというか、してはならない、というハビトゥスから来てるわけですよね。
伊丹堂:というか阿部さんや佐藤さんは明確に「呪術性」だと言ってる。よう
するにモノをもらってお返ししないとバチ(天罰)がくだる。その人に悪い、
とか、その人に仕返しされるとか言うんでなくて、人外のなんらかの力を恐れ
ているわけよ。ようするにある種の「宗教的心性」というか、アミニズムなわ
けじゃが、ゲンをかつぐということも含めて、それにとらわれていながら、別
に宗教や超常現象は信じないとかいって「合理的」精神を持ってるかのごとく
に思い込んでる人が多いのには困ったもんじゃな。
獏迦瀬:阿部さんは、西洋ではそういった呪術性がキリスト教によって徹底的
に駆逐された結果として、贈与・互酬ではない、「個人」と「個人」による
「契約」によって「社会」がつくられた、としています。そこからして、そう
いう呪術の駆逐がなかった日本では当然「社会」はつくられず、日本には「世
間」はあっても「社会」はないということになるわけです。
伊丹堂:じゃからといって、世間が悪いではすまないというさっきの話と一緒
で、日本にも「社会を作らねばならない」という話にはならないわけじゃが
な。
獏迦瀬:まあしかし、「世間の目」への関心の高さからしても、人々が人質問
題で「世間性」をあらわにする一方で、世間的なあり方ではマズイと感じてい
ることも事実でしょう。
伊丹堂:まっとうじゃないってこっちゃな(笑)
獏迦瀬:しかし「まっとうと感じられるフォーム」が文化で、世間も文化だっ
たわけでしょう。
伊丹堂:まさに「だった」という過去形として文化だったわけじゃな。
獏迦瀬:なるほどね。
伊丹堂:世間というあり方がまっとうじゃないというのは、自分自身がないと
いうことに尽きるが、阿部さんがこのところ『日本人の歴史意識』(岩波新
書)で問題にしているのは、世間というあり方、お互い様という関係の中で、
人々は「共通の時間」を生きている感覚になるというのじゃな。
獏迦瀬:はじめての人に「いつもお世話になっております」と言ったり、別れ
る時に「またよろしくお願いします」と言ったりというやつですね。
伊丹堂:そういう共通時間に生きてる日本人には「個人の生きる時間」として
の歴史というのはないんだと言っておる。しかし、まさにそういう「個人とい
う時間」が「自分」であり「実存」ってもんだとワシは思うわけよ。
獏迦瀬:実存ですか。
伊丹堂:ある意味でワシらは、世間で生きるだけでなく、それぞれが独立した
人間として、一生を終えていくしかない、そいうことを知ってしまった時代の
人間として、そういう時代の文化を生きてるわけじゃろ?
獏迦瀬:ですよね。
伊丹堂:である以上、もうたんに世間に戻るってのは、ありえないわけで、ワ
シらはそういうイッコの人間としての生の中で、自分自身におとしまえをつけ
るとでもいうような「生き方」でないと「まっとうではない」と感じ始めてい
るってことじゃろ。とくに「思想的」な人がというのでなくて、普通に生きて
る上で。
獏迦瀬:ただ自分の時間を生きるというと、なんか自分勝手に生きるという感
じもありますが。
伊丹堂:そうではなくて、それがまっとうに感じられるのは、実は「個人とし
ての時間」を生きなければ、ほんとうの意味での「コミュニケーション」もあ
り得ないってことに多くの人が気づいてるからだと、ワシは思っとる。つまり
「お互いが別」であって、それぞれが相手が「別の時間」を生きていることを
前提に、それを尊重したり情報交換したりするのがコミュニケーションじゃろ
う。
獏迦瀬:たしかに…。
伊丹堂:逆にいえば「世間」というのは、お互い様といいつつ、すでに誰かが
決めた「お互い様のルール」に従っていれば、個人個人はコミュニケーション
しなくて済む。そういう、実はお互いが傷付かず、関わりもしないで「済む」
ための文化装置だったということが分かるはずじゃ。
獏迦瀬:まるで「ひきこもり」ですね(笑)。
伊丹堂:まさにな。それでも世間をまっとうと思うかどうかは、自分で考えな
さいってこっちゃな!

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)
卒。セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレー
ター、編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック
・WEBデザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」http://www.unicahier.com/に
て対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向
は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/

●●●●ご恵贈本●●●-----------------------------------------------

 『都市文学と少女たち――尾崎翠・金子みすヾ・林芙美子を歩く』

 ■寺田 操 著(ISBN4-89359-101-0)
 ■四六判・定価2310円(税込)
 ■白地社 TEL.075-751-7879 FAX.075-751-7519

東京が大都市へと変貌し、社会が急激に都市化していく時代、昭和モダニズム
のただなか、1920、30年代の詩人や作家たちとの対話を模索する著者が、大正
から昭和初期にかけての、ほんのわずかな時間の時代の空気や気配にひかれる
なかで、詩人たちや、文学のとば口に詩を書いていた作家たちがいかにモダン
を呼吸していったか、という同時代の息づかいを探る旅に出る。それは、とり
わけ本書では尾崎翠・金子みすヾ・林芙美子の世界を中心に、彼女たちのリア
ルな眼に裏打ちされた幻想的な世界にまぎれこむという、いわゆる文学的な故
郷、原風景を歩く一方で、地図をひろげてその足跡をたどる旅でもある。

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★第49回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年09月26日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムとの倫理と資本
       主義の精神』(岩波文庫)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★残暑お見舞い申し上げます。ホント今夏は猛暑でございますね。というわけ
で、黒猫と同世代の中原さんも体調・脳調ダウンのとことで、ストック原稿を
寄稿していただきました。
★この数ヶ月ずうっと低迷している黒猫の日常は、仕事に出かける前にシャ
ワーを浴びて小綺麗に(?)してから炎天下を目指します。外回りから帰って
くるとすぐにシャワーを浴びて、夕食と共に「淡麗<生>」1缶グイッと呑み干
しTVニュースを観ながら小一時間うたた寝。就眠前に1時間ていどの読書を
するのですが、シビレタ頭は回転休業状態で読書は捗りませんぬ。集中して読
書できるのは週末の深夜ぐらいですか。
★ところで昨今、「読み聞かせ」や「声を出して読む」ことがブームになって
いるようですが、そんなことで読書好きの子どもが増えたり「読解力」が向上
すると思うのは「善意の抑圧」か、「心のノート」と同じように政治的には
「反動」のように思います。「読書=善」という思いこみが、そもそも問われ
るべきです。その意味で趙博さんが批判するように、「読み聞かせ→読書の習
慣化→学力の増加」という図式がオトナの思いこみとご都合主義の別名以外で
はないという意見(季刊誌「おそい・はやい・ひくい・たかい」24号掲載)に
熱烈同意。(黒猫房主)

●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』40号(通巻41号)(2004/08/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
      http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
■流通協力:「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/(ID 0000015503)
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■流通協力:「メルマガ天国」http://melten.com/(ID 16970)
■流通協力:「カプライト」http://kapu.biglobe.ne.jp/(ID 8879)
■ Copyright(C), 1998-2004 許可無く転載することを禁じます。
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■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。


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Date: Wed, 1 Sep 2004 11:22:54 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』41号(るな工房・窓月書房)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
 したので、ご変更をお願いします。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』41号(長月号)
         (2004/09/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [42号は、2004/10/01頃発行予定です]
   ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★

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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆漢字なんてなくてもいいんではないでしょうかという話--------村田 豪
◆ホモソーシャリティの廃墟へ
――クリント・イーストウッド論のために(2)--------------鈴木 薫
◆バーマニアの今月の一軒「Cafe&Bar あんさんぶる」-----------久世明宏
◆INFORMATION:茂木健一郎トークイベント/「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)--------------------------------黒猫房主
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////// 連載「文学のはざま」第4回 //////

漢字なんてなくてもいいんではないでしょうかという話

                              村田 豪
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

 今回は当コラム「文学のはざま」にふさわしい内容とはいえないかもしれま
せんが、日本語を書きあらわす文字である漢字とかなについてすこし考えさせ
てもらいたいとおもいます。というのも、わたしが参加しているある読書サー
クルで、「漢字問題」についての報告をする機会をえたのですが、この一ヶ月
ほどそのことばかり調べていたせいか、どうもそれ以外のことが頭にうかばな
くなっているようなのです。どんな本をひらいても、書いている内容ではな
く、「この人はこんなところまで漢字をつかっているなぁ」などと文字づらば
かりおいかけてしまうぐらいなのです。これでは意味ぶかい「文学」のことな
ど到底考えられないのもわかっていただけるでしょう。

 ただ、そうはいってもこれはこれで面白いのではないかとおもっています。
というのも、いままで「文字」の問題なんてさほど真面目に考えてこなかった
せいか、わたしにとっては知らぬことばかりで、その「勉強」はすくなからぬ
驚きにみちたものであったからです。また、驚きがあまりにおおすぎて、つい
には「これだけ異例なことがあるなら、文字のことだけを掘りさげてみても徒
労ではないか」という気さえするからです。ぜひ、その驚きと、ある種のウン
ザリ感をみなさんと共有したいとおもい、今回のテーマとさせていただくこと
になりました。

 まず、この「漢字問題」に目をむけたきっかけというのも、じつは何げない
ことなのです。以前から文章を書いていて、ある単語を漢字で書くべきかひら
がなで書くべきかについてやたら悩んでしまうのでした。悩むだけならまだし
も、基準や方針が自分のなかでいつまでたっても定まらないことに、なんとな
く不満と不審に感じていたからなのです。たとえば……、そう「たとえば」と
書くべきか、「例えば」と書くべきか? というようにです。もちろん自身の
方針として決めてしまえばいいのでしょうが、意外とこれが決めにくい。ある
場面では、ひらがなにしたくなり、ある場面では漢字にしたくなるからです。
だから、この「たとえ」「例え」も、さらに「喩え」や「譬え」なんていう使
いかたもあり、たいへん目うつりしてしまうわけです。

 しかしこれは書くほうの問題だから、どうぞ気のすむまで迷ってください、
といっていられます。しかし読むほうはどうなのでしょう。「たとえ」「例
え」「喩え」「譬え」などと使いわけられたら、その違いに何か深い理由があ
るように考えてしまわないでしょうか。生真面目な人に「どういうつもりで
『喩え』にしたのですか」などと聞かれたら、それこそ「ちょっと格好つけた
くなっただけで、深い理由はないんです、すいません」と謝ってしまいたくな
ります。

 実際本気で使いわけて書いている人なら、ひょっとするとその書きわけの微
妙なニュアンスを説明することも可能なのかもしれません。学校でそれぞれの
意味の違いを習ったとかおっしゃる人もいるでしょう。昨今の高性能ワープロ
ソフトでは、変換のたびにこれらの違いが解説されたうえで語の選択をさせて
くれるようです。でもこれらは本当に必要なことなのでしょうか。わたし自身
は、その選択にせまられるたびに、なにか余計なものをつけくわえているよう
な気がして、落ちつかないのでした。

 こんなモヤモヤをすっきりさせてくれたのが、高島俊男の『漢字と日本人』
(文春新書)でした。「たとえ」のような本来和語であることばが、複数の漢
字の訓としてあてられていることがよくあります。たとえば、「とる」(取
る、捕る、撮る、採る、執る)や「はかる」(計る、測る、量る)ですが、こ
れらを漢字で使いわけようとするのは愚かしいことだ、とはっきり書いてくれ
ています。日本語においては単一のことばとしてきちんと機能しているもの
を、わざわざ漢字ではどれにあたるのかなどと気にするのは、やくたいもない
漢字崇拝によるもので、害がおおいと力説してくれています。ホントそのとお
りで、わが意をえたり、という気持ちです。

 そのほか、この著者によって教えられたことはおおく、たいへん有意義でし
た。著者の話のベースにあるのは、漢語(中国語)と日本語のあいだにある言
語としての違いです。漢字はもともと「一文字・一音節・一単語」という形式
をもち、話しことばの漢語にもピッタリのものであり、日本語での「漢字」の
使いかたとは根本的にことなっているそうなのです。だから日本語の漢字でお
こっているような問題、たとえば同音異義語の氾濫や、一つの漢字にいくつも
の読みがあってそれを使いわけなければならない問題など、本家ではあるはず
もない現象なのだそうです。それじゃあ、漢字なんか無理に採用したのがそも
そもの間違いだったのでしょうか。

 でもそれは今さらいっても仕方ないことのようです。古代に漢字が取りいれ
られて以来、はじめのはじめから漢字に寄りそってつくられてきたのが日本語
にほかならないからです。「取」「捕」「撮」に同じ訓(意味)があてられた
りするのも、日本語にもともとその漢字の区別に対応することばがなかったか
らであり、また「生」「正」「清」「性」などに「セイ」という同じ音(発
音)があてられているのは、日本語の音韻構造が単純なため、本来の漢語の発
音を再現できなかったからなのだそうです。それでも漢字のおかげでこうして
ことばが増えて便利になったともいえるでしょう。ちょっと混乱したり、間
違ったりもしますが、そうやって使ってきたのですから、そんなもんだ、とい
う意見もあるとおもいます。なんといってもたいてい人は漢字に愛着があるよ
うですしね。

 しかしです。いろいろと面倒なことがあるなら、もうそろそろ漢字などやめ
てしまえばいいのではないか、と考えてみることにも、多少の意義があるよう
に依然としてわたしにはおもわれます。これは、日本語をあらわす文字として
便利か不便かという観点だけのことではないのです。どちらかというと気風・
道徳・人間性の問題です。漢字でハクをつける、その難しさに乗じてごまかし
をはかる、どちらの意味で使っているのか不問にできるなど、漢字の使用は、
日本人におけるうわべだけの態度やあいまいな態度の原因としても機能してい
るのではないかと推察したからです。ちょっと強引かもしれませんが。

 ところが、実はちょっと調べればすぐわかることで、みなさんもご存じのこ
とに属するのかもしれませんが、漢字を廃止するという考え方は、明治以降、
そして戦後においても日本国家の国語政策におけるある種の大方針・大前提
だったのです。これは少々驚きました。わたしとしては、漢字批判は権力批判
になるものではないかと、浅知恵的にかんがえていたからです。どうも逆のよ
うでした。でも「漢字廃止」が国の方針だったなら、なぜそれが今になっても
実現していないのか。それにはいろいろな紆余曲折があるようなので、簡単に
その「国語改革」の歴史をふりかえってみましょう。

 「漢字廃止」の考えは、明治の維新期には、すでに前島密によってうちださ
れています。なぜ「漢字廃止」を行なわなければならないかというと、当時の
公用文だった「漢文訓読体」は、近代化のために役立たないばかりか、それを
妨げるものでしかないと考えられたからでした。森有礼にいたっては英語を
「国語」にすればいい、とさえ唱えていたのです。よっぽど漢字がダメだとお
もっていたのですね。

 では漢字にかえて何を文字に使うのか、という議論になると話はいっこうに
まとまりませんでした。勢力として有力だったのは、「ローマ字」派と「か
な」派です。政府肝いりの言語学者も、漢字をなくして採用するにはどちらが
いいのか、当時最新の言語理論を駆使して、調査・報告・答申などをくりかえ
し、それなりにつよく後押しをしたのです。けれど漢字はなくなるどころか、
明治・大正・昭和、つまり近代化をおしすすめるうえで、以前の時代よりもは
るかに使われるようになったともいわれています。

 一番おおきな問題は、西洋から流入した新しいことばをすべて漢語に訳して
しまったことでしょう。この数は膨大なもので、ゆうに数千、ひょっとすると
数万ともいわれるそうです。だから、さきに挙げた同音異義語の氾濫は、むし
ろ漢字の歴史から見るとごく最近の問題なのです。漢字を廃止せよといってい
るその横で、せっせと漢字熟語が作られました。福沢諭吉や西周など漢字訳語
を世に多数おくりだした張本人たちですら、どちらかというと漢字廃止主義者
だったのですから、これはなんとも因果なものだとおもいませんか。

 漢字問題・国語問題にかんして、ちぐはぐだった例は、ほかにもあります。
漢字廃止論側が押しすすめた「棒引きかなづかい」というのがあるのですが、
明治の後期に小学校で採用されていた時期があるのです。これは長音にかんし
ては、現在のカタカナ語のように「ー」を使うので、たとえば「どーゆーぶん
しょーになるかとゆーと」こういう文章になるのです。このだらしなさにはさ
すがに漢字擁護派(歴史的かなづかい派)も完全にキレて、猛烈に反対キャン
ペーンをはり、数年で「棒引きかなづかい」を廃止においこんだのでした。も
う少しやりようがあったであろうに、と今さらながらおもうのですが。

 では、つねに漢字派が優勢だったのかというと、またそうではありません。
とりわけ日清日露戦争以降、帝国主義国家日本は植民地を多数かかえることに
なり、現地での言語教育に頭を悩ませなくてはならなかったからです。日本人
にでさえややこしい漢字(もちろん昔の難しい字体のほう)の数々、かなづか
いの意味不明さ(てふてふがいつぴきだつたんかいけふをわたつていつ
た……)を各民族語を話す子供にどう教えるというのか。しかも赴任する教師
たちからして、出身の方言によることばが、現在とはくらべものにならないぐ
らい遙かにまちまちで、なんとも悲惨な状況だったにちがいありません。

 だから朝鮮・台湾・関東・満州などの「外地」の教育関係者は、表音的かな
づかいと標準語の確定をつよく要求したのでした。もし植民地行政を成功させ
たいと考えるなら、漢字をすくなくし、表音的なかなづかいを採用しようとい
うのが合理的な考えでしょう。いっとき保守派に煮え湯を飲まされた改革派
も、この植民地政策が焦眉の問題となるやにわかに勢いづきました。しかし当
時の保守派・国体派はもっととんでもないものでした。「『国語』は科学では
なく『国体』を護持するものであって、外国人のために易しくするなどもって
のほかだ!」などと平気でいってのけたのです。いや、今でもいいそうで怖い
ですね。

 こうして戦前までは、大前提とされながら「漢字廃止」はいっこうに実現す
る気配を見せませんでした。しかし第二次大戦での敗戦が、国語改革派の長年
の夢をかなえさせようとしたのです。戦後改革のひとつとして、GHQの後押
しをうけながら「漢字廃止」を目標にした「当用漢字」「現代かなづかい」が
制定され、徹底的におこなわれたのでした。当然これには保守派が「反国語改
革」ののろしをあげて対抗したのですが、行政・教育・新聞などを通じてひろ
く押しすすめられた結果、くつがえすことができませんでした。ただ「漢字廃
止」の勢力もしだいに力を失い、どっちつかずの「漢字かなまじり」現代文が
こうして書かれつづけているのです。

 さてこのように「国語」の歴史を振りかえっておもわれるのは、「漢字廃
止」論には、いささかの問題点があるのではないか、ということです。戦後の
絶好のチャンスにも、道なかばにしてその目的を達成せぬままついえたとすれ
ば、なにかその立論にどこか欠点があるにちがいありません。そうおもって反
国語改革派の急先鋒・福田恒存の『私の國語教室』を読んでみると、なかなか
興味深いことに気づきました。「現代かなづかい」の「でたらめ」さがそこで
暴露・糾弾されているからです。

 福田は「歴史的かなづかい」を「現代かなづかい」にしてしまうと、語とし
ての意味を失うケースがあることを、いくつも例をあげながら問題にしていま
す(たとえば、こえ[越え]/こゑ[声]の区別)。また「現代かなづかい」
は表音主義を原則にしながら、いくつもの例外や破綻がかいまみられ、むしろ
しりぞけた「歴史的かなづかい」に依存していることさえある、というのです
(たとえば、同じ音でもおうぎ[扇]は「う」、おおきい[大きい]は「お」
など)。そんなことをして日本語を混乱させるぐらいなら、「歴史的かなづか
い」のままのほうがよほど合理的だったと。確かにわたしもおおいにうなづけ
るのでした。

 ここで浮上しているのは、文字が「語」をどのようにしてあらわすことがで
きるのか、という問題だとおもいます。「現代かなづかい」が「語」をあらわ
すときに、その弱点があらわれる。あまりに頼りないケースでは「歴史的かな
づかい」をひそかに援用しているわけです。そして福田はそれを批判している
のです。

 ただし私のみたところ「歴史的かなづかい」も事情はあまり変わらないので
はないかという気がします。というのも、「歴史的かなづかい」が「語」をあ
らわすとしながら、では戦前にあれだけ問題にされたのはなぜだったのか。そ
れは「かな」が「語」として定着しようとするいっぽうで、漢字があるかぎり
いつまでも「表音記号」の役目から逃れられず、「は」は「wa」とよむのか
「ha」と読むのか、その二重性に揺れつづけることになるからではないでしょ
うか。

 それに「歴史的かなづかい」もまた、過去にどう発音されたかということに
依存する点では「表音主義」にほかなりません。その悪しき面をあげるなら、
「てふ」(蝶)のように、戦前は「字音語」(音読み漢字)にまでやたら古代
の「音」をつづりとして再現していたのでした。そんな読み方もつづりも受け
つがれてきたわけでなく、近世・近代以降の国学派の研究からおしひろげただ
けのものなのです。その結果どうなるか。おそらく「てふ」を「chyo:」と読
まず「tefu」と読む人があらわるということなのです。実際にも、そう真面目
に読んでいたひとがいただろうことをわたしは疑いません。

 ここにあらわれている難問こそが、「漢字廃止」論者としてのわたしを悩ま
せるものでもあります。はたして言語は、「音」からはじまるのでしょうか、
「文字」からはじまるのでしょうか。あるいは「音」にもとづいて「文字」を
決めるのに、なぜこれほどの困難がまとわりつくのでしょうか。こういう事態
を確認しながら、いつまでも「音」をあらわしたものが「文字」だと考えつづ
けることができるのでしょうか。

 それにくらべれば「漢字」は、観念だけを表示して「音」はいつでもその
人、その時代、その時の権勢におうじて決めていけばいいのですから、なんと
も便利なものです。訓をあたえることができるから、場合によっては「意味」
だっていつでも都合よく変えることができるでしょう。そのかわり「漢字」に
依拠してしゃべっているのを横で聞いても、いつまでたっても「こやつはなに
をいっておるのか」といぶかしいおもいをしなければならないわけです。それ
が日本語の運命だというなら、そういうものか、と納得しないではないです
が。

 結局、「漢字廃止」論者の問題点はなにか、ここにきてようやくわたしは気
づくことができました。つまり段階的な「漢字制限」という手法では、根本的
には「漢字擁護」派とその考えにほとんど差がない、ということなのです。だ
から戦後の「国語改革」は革新的だったのか保守的だったのか、いまではよく
わからない代物になっています。つまり日本語の革命は一挙にやるしかなかっ
た。混乱しようが、不平分子がいようが、歴史をうしなおうが、強権的に全部
「かな」か「ローマ字」にして一気にやるしかなかったのでしょう。まあ、わ
たしのこの考えにくみする人は、現在ほとんどいないでしょうが。

 最後に、少し話はずれますが、さきごろ発表され、テレビ・新聞などで話題
になった「人名用漢字」についてひとこと。くれぐれも、本稿を読みとおして
いただいた人なら「これからは赤ちゃんに『苺』や『林檎』と名づけられる」
などと喜んだりしないでください。当然「いちご」「りんご」とひらがなで登
録申請できたわけですから。

 もうひとこと。くれぐれも、本稿を読みとおしたのになお
「『糞』『屍』『呪』が名前に使えるなんてどういうことだ!」などと憤慨し
ないようにしましょう。人名として使用できる漢字として指定されている「常
用漢字」には、「死」も「病」も「殺」も、もともとあるのですから。

 そんなことよりは、なぜ「人名用漢字」にわざわざそのような漢字があるこ
とを「お上」は強調し、議論を引き起こそうとしたのかを考えてみたいところ
です(マスコミもそろいもそろってあんな露骨なお膳立てをしなくていいの
に、とわたしなんかはおもうのですが)。ようは、漢字制限緩和のムードを醸
成しながらも(反動は歓迎)、しかし最終的にはこれは国家がコントロールす
る問題なのだといいたいんでしょうね。という点からみれば、国民のほうから
漢字制限を要求したというかたちにもっていくのが、一番好都合なのでしょ
う。うまいことかんがえたものです。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。腹ぺこ塾塾生。

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////// 連載「映画館の日々」第4回 //////

        ホモソーシャリティの廃墟へ
        ――クリント・イーストウッド論のために(2)

                              鈴木 薫
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

■クリント・イーストウッドは男の中の男である(註1)。
 デイヴィッド・ハルプリンは『同性愛の百年間――ギリシア的愛について』
(紀伊国屋書店)に収められた「英雄とその親友」という論文の中で、「おま
えの愛はすばらしかった、女の愛にもまさっていた」というダビデの言葉が示
すのは、一見そう思われがちな、彼とヨナタンとの関係に性的動機があったと
いうことではなく、性的ならざる愛が性的な愛を超え得たことへの驚きなのだ
という意味のことを言っていた。これを敷衍すれば、「女の愛」が一般に(あ
るレヴェルで)価値あるものとされているとき、それをも超えた「男同士の関
係」はいやましに輝くということになろう。

 敵が何人いようと拳銃をぶっぱなせば百発百中、自分だけは無傷の「不死鳥
の哲」こと渡哲也が東へ西へと流れ歩き、彼が現われるたび流れる主題曲が実
は画面内でも聞えていることがメロディを聞きつけたチンピラが「哲だ!」と
叫ぶことでわかる、クライマックスでは純白のナイトクラブに純白のスーツで
哲が現われ、次々に色を替えるライトにひたされたセットで松原智恵子が歌
う、目もくらむほど嘘っぽい『東京流れ者』(鈴木清順監督、1966)では、
「流れ者に女はいらねえんだ。女と一緒じゃ歩けねえんだ」と最後に哲が松原
を拒むとき、場内に拍手が起こったものだ。女を排して、つるみ、裏切り、殺
しあい、愛しあう、こうした男たちの関係(『東京流れ者』はマニエリスムの
極地であるが)――日活アクション映画や東映やくざ映画や香港ノワール――
を、イヴ・セジウィックを実践的に応用して論じた評論集『男たちの絆、アジ
ア映画 ホモソーシャルな欲望』(四方田犬彦、斉藤綾子編 平凡社)が最近
出た。すでに詩誌「ユリイカ」が七十年代に出したやくざ映画特集で同性愛と
の関連は論じられていたが(当時、同級生の女の子がそれを読んで面白がって
話しかけてきたのはいいが、いったいなんでそんなに笑いながらでなければ話
ができないのか、第一そんなに意外な指摘か? と不機嫌な応対をした記憶が
ある)、今やホモソーシャリティという魔法の言葉が導入されたため、ホモセ
クシュアリティとの通底と切断について考えることができるようになったとい
うわけだ。

 この本のまえがきで四方田犬彦は、「あるときわたしは突然にある評論家か
ら、あなたの好きな映画は、結局はみんなホモ映画ではないかという指摘を受
け、ひどく驚愕したことがあった」と書いている。ゲイ・プロパー作品、たと
えばケネス・アンガーの『花火』などをすでに見ていながら、「無自覚のうち
に、自分を取り囲んでいる社会的ホモフォビア(同性愛恐怖)のイデオロギー
のさなかにあった」ため、そうした「特殊」な映画と、「一般」映画(仁侠も
のも入る)とのつながりに思い至らなかったというのだ。(これにはこちらが
一驚。少女マンガにも造詣の深い四方田氏にしてこんなことを言うのか。)。
セーラー服の水兵が顏にミルクをかけられ、股間に花火を挟んで火をつける
『花火』(1947年)は95年にようやく劇場公開されたが、これにしても、監房
の壁の穴を通して隣室の囚人同士がタバコの煙を与えあい、看守が独房に押し
入って囚人の口に銃身を押し込むジャン・ジュネの『愛の唄』にしても(どち
らも、七十年代の終り頃、故佐藤重臣のコレクションによるアンダーグラウン
ド上映で繰り返し見たものだ)、言うまでもなく真空の中に純粋なゲイの感受
性というようなものがあって、そこから出てきたわけではない。なぞるべき男
同士の関係(「一般」映画にも見出される)が、すでに「無自覚のうちに」
(たとえば当時十七歳の高校生だったアンガーに)夢の種子として刷り込まれ
ていたのでなかったら、けっして花開くことはなかったはずだ。

 映画の中で同性愛がどう描かれてきたかを論じたヴィト・ルッソの『セルロ
イド・クローゼット』に、『真夜中のカーボ−イ』(ジョン・シュレジン
ジャー監督、1969)で、ダスティン・ホフマンがジョン・ヴォイト演じる
「ジョー」のカウボーイ姿に「破壊的な批評」を加えるところについて述べ
た、次のようなくだりがある。
「本当のことを知りたいんなら教えてやらあ。そいつはホモ野郎の服だ。ホモ
の着るもんなんだよ」と彼は叫ぶ。傷つき、困惑して、ジョーは自らを守ろう
と言い返す。「ジョン・ウェインは! ジョン・ウェインがホモだって言うの
か?」/これが恐怖の正体だ。西部劇のヒーローと四十四丁目のホモに真の違
いがないとしたら、アメリカの男らしさには何が残るだろう?(Celluloid
Closet, P.81)

 ヴォイトの必死の反撃は、現在ならばクリント・イーストウッドに名前を入
れ替えても成立しよう。相手を「ホモ」呼ばわりすることが最大の侮辱である
がゆえに、殴り合いに先立ってその種の悪口の応酬が行なわれる男だけの空間
(カウボーイの集団、兵舎、監獄)――アンガーもジュネもこうした意匠を流
用した――で、イーストウッドはつねに男の中の男であった。アルカトラズ刑
務所で、彼は仲間の囚人からの性的誘惑を暴力的に退けている(『アルカトラ
ズからの脱出』ドン・シーゲル監督、1979)。『ミッドナイト・エクスプレ
ス』(1978)のブラッド・デイヴィスでさえ、シャワーに半ば隠されての男同
士のキスは――それ以上の行為はいとも優しく退けたとはいえ――拒まなかっ
たのに。(ちなみに、モデルになった実在の主人公の方は何一つ拒まなかった
という)。走ると息が切れる『ザ・シークレット・サービス』(W・ペーター
ゼン監督、1993)の彼は、若く美しい女の同僚との恋を昔と変わらず成就させ
るし、『トゥルー・クライム』(1999)での微妙に齟齬をきたしている老いた
る二枚目ぶりは前回述べた。前回触れられなかった『ブラッドワーク』(2002)
の、心臓移植後でしょっちゅう手を胸に当てている彼にも、姉を殺された依頼
人という恋人ができ、ベッド・シーンまで演じていた(『スペースカウボー
イ』(2000)におけると同様、女の医師に対して身体を見せる場面も頻出す
る。手術後だから当然なのだが)。つねに正義の味方であり、つねに犯罪者を
追う側であるのと同じくらい、彼は正真正銘ヘテロセクシュアルの、新作のた
びにそこに相手役の女優が用意されている男であった。

■女たちのあいだで
『マディソン郡の橋』(1995)はイーストウッド初のラヴ・ストーリーという
ふれ込みだったが、彼の映画は大方がラヴ・ストーリーでもあったはずだ。要
するに、それまでの主演作から勧善懲悪のプロットを抜き取ればラヴ・ストー
リーが残ったということであり、起こっているのは『ペイルライダー』(1985)
同様、女たちと〈神〉との出遭いだと言える。助けを求める娘の祈りに応える
ように白馬(蒼ざめた馬)にまたがって現われ、少女の母のみならず、女の子
からようやく娘になろうとする年頃の彼女にまでセックスを求められる後者で
の牧師同様、『マディソン郡』の写真家は、主婦の願望の化身のように出現す
る。イーストウッド監督は、原作より若い女優でという周囲の意見を退けて四
十五歳のメリル・ストリ−プを起用し、彼女は体重を増やして撮影に臨んだと
いう(ストリ−プより実に十九歳年上のイーストウッドを、若い男優に取り替
えようと言う者はいなかったらしい)。念のため言いそえれば、若い美男美女
のメロドラマであったなら、この映画はけっして傑作にはなりえなかったろ
う。

 女たちの恋人であり、女たちを救う者であった彼は、初監督作品『恐怖のメ
ロディ』(1971)では一夜を共にした女に命を狙われ、『白い肌の異常な夜』
(ドン・シーゲル監督、1971)では、女たちに弄ばれ、殺されもした。しか
し、年とともに女たちは、まるで男性の相棒のように、彼の対等な仲間となっ
て、めざましい働きを見せるようになったのだ。彼は男たちのあいだで生きて
きたのだが、年を取るにつれ、目立って女性に庇護されるようになった。『許
されざる者』(1992)では娼婦と連帯し(註2)、『ブラッドワーク』では、
医師も、協力してくれる刑事も女性であった(しかも刑事は黒人、恋人になる
のはヒスパニックの女性である)。依頼人である彼女が船を果敢にも廃船に体
当たりさせたからこそ、彼は犯人を撃てたのだし、最後にそっと伸びてきてと
どめを刺すのは彼女の手だ。

 自らの老いを、彼は十二分に利用している。『許されざる者』の場合はま
だ、何年も前に映画化権を得ていながら役柄にふさわしい年齢になるまで待っ
たというだけあって、今は堅気の元無法者、久しぶりに馬に乗ろうとして失敗
し、試しに銃を撃っても当たらないという主人公を余裕をもって演じており、
もとは凄腕だったという設定も、スクリーン上での彼自身の経歴に見合ってい
る。しかし、『スペース カウボーイ』の健康診断の場面でしなびたお尻まで
見せた身体を再びさらす『ブラッドワーク』の場合、事態は異なる段階へと
入ったように思われる。前述のとおり、ここでは彼は、依頼人、女刑事、女医
に支えられ、ようやくクリント・イーストウッドをやっているのであり、その
点、『トゥルー・クライム』とも違うのだ。あまっさえ心臓までが被害者の女
性からもらったものだ。そうやって女たちに支えられていることは必ずしも悪
いことではないが、同時に、「イーストウッド」の機能不全と解体の徴候でも
ある。そのことの一つの帰結が、イーストウッドなきイーストウッド映画『ミ
スティック・リバー』(2003)であると見ることもできよう。

 女たちとの連帯以外に、イーストウッドには深いつながりを持つ別の系列の
者たちがいた。言うまでもなく犯人たちだ。『恐怖のメロディ』の場合はま
だ、DJである彼に音楽をリクエストしてくるジェシカ・ウォルターは、たん
なる怪物であった。電話やラジオという距離をおいた関係から、距離を廃棄し
ての情交を経て、最後には目の前に現われナイフを突き出してくる理解不能な
絶対の敵へと変貌した女を、崖下に突き落して排除することでフィルムは終っ
た。犯罪者たちはしかしたいていは男であり、愛を求めるジェシカ・ウォル
ターと、実はそれほど異質な存在ではない。犯罪者にして分身――『タイト
ロープ』(リチャード・タッグル監督、1984)の刑事は犯人は自分ではないかと
疑い出したものだが、それよりもよくあるのは、あたかも恋愛妄想のように、
イーストウッドとの特別な絆を彼らが感じている場合だ。この分身は外見は
イーストウッドに似ていない。『ザ・シークレット・サービス』のジョン・マ
ルコヴィッチは、最初私たちに小出しにしか見せられない。『去年の夏、突然
に』(1959)で同じような登場のしかたをする同性愛者についてヴィト・ルッ
ソが言っている言葉を借りれば、「一度に見せられるには恐ろし過ぎる、映画
の中の怪物のようだ」。彼は変装により(マルコヴィッチがもともとそういう
役者であるが)千変万化の姿を見せる。(イーストウッドはそれとは反対に、
たとえ変装していてもつねにイーストウッドである。『目撃』(1997)で、娘
のローラ・リニーと待ち合わせたカフェにイーストウッドが現われるのを、警
察と暗殺者、そして観客が待ち受けるとき、あの長身を見分けることができな
いとは誰ひとり思うまい)。ウィリアム・ウィルソンと違ってこの分身は目の
前にいてもわからない。『ブラッドワーク』の場合、文字通り相棒[バディ]
として現に目の前に存在しながら、観客にもイーストウッドにも気づかれな
い。

『ブラッドワーク』で、引退した刑事であるイーストウッドは、犯人に誘惑さ
れて再びゲームに引き入れられる。捜査を開始した彼がその状態を
“connected”と表現したとき、それを聞いて「イキそうだった」とのちに犯
人は告白する。彼に移植された心臓は、脳死になるよう計算して被害者の頭に
銃弾を撃ち込んだ犯人からの、ヴァレンタイン・デーの贈り物であった。そう
やってイーストウッドを復帰させ、互いにコネクトされている快感をもう一度
味わおうとしたのだ。女の心臓をもらったことで、イーストウッドが女性化し
たのではないかと犯人は揶揄する。心とは性器なのだ。ロラン・バルトが、膨
張したり衰えたりするという特徴を挙げて言ったように。山口百恵が、「あな
たにあげる」べき「女の子の一番大切なもの」とは何かと訊かれ、「心です」
と答えたように。イーストウッドが現場に首を突っ込むのを嫌う刑事が口にす
る、アレも移植したらどうか、とか、今度はケツを移植したらどうだ、引き裂
いてやる、という冗談は明らかにホモセクシュアル、かつ、一方を女性化して
ヘテロセクシュアリティに還元するホモフォビックなものであるが、しかし
イーストウッドにはすでに心臓[こころ]という女性器が移植されている。

『ミスティック・リバー』では、ホモセクシュアリティとは白髪混じりの狒爺
による少年の誘拐・監禁・暴行か、さもなければ買売春である。それ以外の可
能性はいっさいない。車の中で少年を買っていた男を、少年を暴行していたと
表現するトム・ハンクスにとっては、少年時代に自らが受けた性的暴行と、現
在少年である者たちが金を受け取ってフェラチオをすることに差はないのだ。
もはやここには男同士の美しい絆へと通じるいかなる道もない。あるのはた
だ、思い込みで友人を手にかけてしまったことに苦しむショーン・ペンに、あ
なたは正しいのよとベッドに押し倒してささやくローラ・リニーの強さだけ
だ。これをどこまでも現実的な、自分のことしか考えない、地上を這い回る女
の恐しさ、鈍感さと見なしてしまってはなるまい。そうしたのでは結局のとこ
ろ、すべてを再びミソジニーに還元することになるだろう。男らしさへの憧れ
を温存することになるだろう。そうではなく、強さは正しいというこの確信が
――そもそも弱さを糊塗する妄想であったがゆえに――すでに機能しなくなっ
ていること、ローラ・リニーは「イーストウッド」たりえない男に、あなたは
強いのよと暗示をかけつつ、「男らしさ」が勃起という目に見える形で具現す
るための共犯者を演じていること(註3)、ホモソーシャリティの墓場はこの
時代にあって、実のところ私たちの唯一の希望でもあることをこそ思わねばな
るまい。

(註1)あるクリント・イーストウッド論のタイトル。
(註2)実は1968年の主演作『奴らを高く吊るせ』(テッド・ポスト監督)に
も、すでに庇護してくれる娼婦は存在していた。前回の原稿を書いた直後ヴィ
デオで見て驚いたのだが、冤罪とリンチ、どう見ても死んだとしか思えない経
験を生き延びた男、復讐、傷痕、正義と死刑に対する懐疑までが勢ぞろいして
いる。今回は考察する余地がなかった。他日を期したい。
(註3)まだ通読していない本だが、酒井隆史は『暴力の哲学』の120〜126頁
で、仁侠映画と区別される「実録もの」やくざ映画を例に取り、『仁義なき戦
い』の脚本家が「男の中の男」など本当はいないと書いていることを紹介しつ
つ、暴力とは自らの男らしさ[の欠如]に不安を持つ者の「無力(不能)」の
否認であると述べていて興味深い。(河出書房新社、2004)。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)下町の星・金メダルで荒川区は大騒ぎかって? まさか。
静かなもんです。トンデモ男女共同参画条例案を引っ込めた区長、何をはしゃ
いでるんだか。北島君は違うかもしれないが、将来自民党議員をふやすのに何
人かは貢献するんだろうね、あの人たち。都教委が「つくる会」歴史教科書を
来春開校の「新設の都立中高一貫校」に採用。新設って……昨日や今日できた
わけじゃないぞ、学校群制度下でなければ私も行っていたはずの白鴎高(北島
くんちのメンチカツを常時おくことになった上野松坂屋近く)に、何をするん
だ、石原! 委員の顏ぶれがまたスゴい。ジェンダーについて考える精神科医
のサイトで知って、委員の一人、某棋士のわかりやすすぎる「放談」(「胸が
ふくらんだ女性を見たら、むらむらっとくるような男を育てるのだ」)を読
む。http://homepage1.nifty.com/yonenaga-kunio/sakusaku/4_1.htm
 オヤジの絶望的に貧しい頭の中身。(脱力するよ。)

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////// バーマニアの今月の一軒 //////

            Cafe&Bar あんさんぶる

                              久世明宏
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 京阪電鉄本線関目駅西口下車、国道一号線に出て右手を見ると、すぐに
「Cafe&Bar あんさんぶる」というお店が見えます。外から見るとこぢんまり
とした印象で、中に入ると落ち着いた空間が広がります。
 入口の正面にカウンターがあり、椅子は4席しかありません。あえて4席に
したのは、椅子の間隔を広くとりお客様にゆったりとくつろいでいただけるよ
うに、というオーナーの配慮からです。カウンター後ろにテーブル席もありま
すが、ぜひカウンターに座り、マスターの話を聞きながらお酒を飲むのがよい
かと思います。
 カクテルが中心のお店で、700円から飲めるリーズナブルな価格設定。少々
高価なリキュールをオーダーしても、大抵は700円で出してもらえます。その
他のお酒や摘み類もオールセッティングに揃えています。
 関目駅は繁華街ではありませんが、京橋駅から約5分、梅田駅から約10分の
場所です。早い時間帯から飲むのであれば、意外に穴場ではないかと思いま
す。

「Cafe&Bar あんさんぶる」
大阪市城東区関目5-3-28 〒534-0008
Tel&Fax.06-6930-1210
(Cafe)AM7:00〜PM5:00 木曜日定休
(Bar) PM6:00〜AM2:00 日曜日定休

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★茂木健一郎(脳科学者)トークイベント★

 〜これは脳科学の革命だ!
 千億ものバラバラの細胞が、なぜ「ひとつの意識」を持てるのか?
 <私>という明確な意識はいかにして成り立つのか?
 大胆な仮説を元に、意識誕生の仕組みを探究する革命児が著書『脳内革命』
 (NHKブックス)のエッセンスを語る〜

 ■日 時:04年09月04日(土)16:00〜18:00
 ■場 所:阪急ブックファースト梅田店 3階リビングカフェ
      (TEL:06-4796-7188)
 ■入場料:先着15名、ドリンク付き席300円/当日の立ち見席は無料

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 ★第49回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年09月19日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:マックス・ヴェーバー
      『プロテスタンティズムとの倫理と資本主義の精神』
      (岩波文庫他)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★「スローライフの言説」が消費される一方で、年間3万人以上もの自殺者が
発生しているこの国では、そのギャップを埋めているのが「癒しの言説」であ
る。この「癒しの言説」は「保守化」とも通底しているだろう。その在り方と
しては間違いではないかもしれない、その「スローライフ」も、それを可能に
する物質的基礎を問わないかぎり、後退した「癒しの言説」に過ぎなくなる。
★働きたくても働けない人がおり、一方に働き過ぎで過労死する人がいる。こ
の矛盾への怒りは上手く焦点化されていない。出来ること(働くことや能力)
と所有(収入)の関係を切断あるいは相対化した上で、存在の肯定を目指すた
めに分配が主張されるべきだ。その分配は、立岩真也氏が言うように「譲渡し
たくないものを譲渡せずにすむような分配」であることが、基本に置かれるべ
きである。そうでないような「徴収と分配のシステム」は、「理性」の名を借
りて「差異」を封じ込める抑圧に転化するだろう。
★かくして「働ける人が働き、必要な人がとる」という理想の具体化と現実化
が目指される。しかしこの分配への道程は、私的所有のしがらみを思うとあま
りにも現実味がないよう思われるかもしれない。それは確かに困難ではあるが
同時にその実現が不可能である理由がないことによって、すべての人ではなく
とも多数の人々にそのことが理解されれば、そこには希望はある。(立岩真也
『自由の平等』参照 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b1.htm)
★先月号の「編集後記」で「読書運動」批判をしたところ、いろいろとご批判
をいただいた。改めてこの場を借りてお礼を申し上げます。そのご批判への応
答を込めて、加筆のうえ再論をWeb版に掲載しましたので、ご一読いただけれ
ば幸いです。http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re40.html#40-3
(黒猫房主)

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『カルチャー・レヴュー』41号(通巻42号)(2004/09/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原隣・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
      http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
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