Subject: 直送版『カルチャー・レヴュー』38号(水無月号)
■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
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■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
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したので、ご変更をお願いします。
◆直送版◆
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(創刊1998/10/01)
『カルチャー・レヴュー』38号(水無月号)
(2004/06/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[39号は、2004/07/01頃発行予定です]
★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第2回:文化って何なんだ〜!?----ひるます
◆連載「マルジナリア」第2回:世界の肉----------------------中原紀生
◆バーマニアの今月の一軒「ROCKFISH 北浜店」-----------------久世明宏
◆INFORMATION:哲学的腹ぺこ塾
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★今秋創刊予定、人文系評論誌「コーラ」(A5判・80頁・予価500円)への投
稿を募集中です。投稿規定等の詳細はメールにてお問い合わせください。
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http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re32.html#32-1
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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第2回 //////
文化って何なんだ〜!?
ひるます
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獏迦瀬:えっと、前回は「家族」ってことで、家族とはエロス的関わりだ、と
いうようなことを話したわけですが、家族といっても核家族から大家族、一夫
多妻制やら、母権制やらいろんな形があり、そういったことにはふれてません
でした…。
伊丹堂:そうか?、っていうかそれは家族とは関係ない話じゃろ。
獏迦瀬:え…、そうなんスカ?
伊丹堂:関係ないといったらナンだけど、ようするに、それは家族とは何か?
という問いの答えではないってことな。ようするに、前回はさまざまな時代の
世の中の成り立ちの違いに左右されないような「家族の本質」というものを考
えてみただけのことで、逆にそういった時代時代のあり様としての家族を問題
にする、ということはもちろんできるわけじゃ。ただ、それは問題としてはも
はや「家族とは」ということではなくて、「世の中」とは、という問題になる
わけじゃ。
獏迦瀬:ようするに制度の問題っていうか。
伊丹堂:制度ねえ…、しかし「制度」という言い方はなんか分かったようでい
て、曖昧な概念じゃな。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:ようするに「制度」ということで、何を言ワンとしているのか? 封
建制とか一夫多妻制ってのは、誰かが「せ〜の」で決めたわけでもなんでもな
くて、世の中の成り立ちとしてそうなっているわけじゃろ? しかし制度とい
うと「国民皆保険制度」といったような明らかに人為的につくったルールも制
度なわけじゃろ?
獏迦瀬:なるほどね…では社会システムとでも言いますか。
伊丹堂:同じようなもんじゃな。ようするに世の中の成り立ちを記述して「そ
ういう仕組みなんです」と言ってるだけで、なんの意味もないわけじゃろ。
獏迦瀬:まあ他人事っていうか、そもそも「制度」という言い方にはなにか
「やらされてる」感じはあります(笑)。
伊丹堂:たとえば封建制なんかは、マルクス主義的にみると、武士が権力で農
民を圧殺していたなんて見方になるんじゃが、そんなことで世の中が成り立つ
わけがない。それが世の中として成り立っている以上、そこには人々のなんら
かの「合意」があり、人はそこで自己実現をなしていたわけで…。逆にそうい
うふうに人々が積極的に参加することによって、世の中というのは成り立って
いる、という循環的な構造になっているわけじゃ。
獏迦瀬:なかなかにフクザツですね。
伊丹堂:いや、『オムレット』ではそう説明しているんじゃが(笑)、いずれ
にしても「制度」とか「社会システム」という言い方では、そういった「実
存」の問題がすっぽり抜け落ちてしまうんじゃよ。
獏迦瀬:実存…ですか?
伊丹堂:つまり「どう生きるか」という問題じゃな。
獏迦瀬:はあ、それこそ「世の中」とは関係ないんじゃないスカ? 世の中と
無関係に生きる人もいると思いますが…。
伊丹堂:そりゃ本人にとっての「意識」の問題じゃろ。人生イロイロってこと
よ。しかし事実として人が生きるということは、他の人と関わり、世の中
「で」生きることになる以上、世の中と無関係ではありえない。
獏迦瀬:まあそれはそうでしょうが、「どう生きるか」が「世の中の成り立
ち」と関わっているという言い方だと、社会的に為になることをするのが正し
い、というニュアンスが強いじゃないですか。
伊丹堂:がはは、いやここで問題にしたいのは、そんな話ではまったくない。
結局、世の中というものそれ自体が、ある「生き方のフォーム」によって成り
立っていて、それを通じてそれぞれの人は生きていく…そういう意味で実存と
世の中の成り立ちは関わりがある、ということなんじゃが。
獏迦瀬:生き方のフォーム?
伊丹堂:ようするに「文化」じゃ。
獏迦瀬:なんだ、そうきますか(笑)。文化ということなら、この対話でも何
度かキーワードとして使ってきてました。まあ、今まで中心的なテーマとして
は語ってきてなかったわけで…、あらためて「文化」って何なんでしょう?
伊丹堂:文化とは、言い換えれば、人がコトをなす時に、そうすることが
「まっとう」であると納得できるような、背景となるコトの蓄積、じゃな。
獏迦瀬:まっとうさ、というのは正しさ、とは違うわけですよね。
伊丹堂:ここでは単に「間違ってない」ってくらいの意味じゃな。
獏迦瀬:妥当…というか。
伊丹堂:うむ。人が考えたり行動したりするということは、つまり「他人にも
理解可能な形でコトを創造している」ことなわけじゃが、その際、人はさしあ
たってたいていは、いちいち他人にこのコトはまっとうか? などと確かめは
しない。暗黙のうちにそれが妥当することを知っている。それはそういうコト
の蓄積があるからじゃろ。
獏迦瀬:事例ってことですかね?
伊丹堂:裁判所の判例みたいなものではないのじゃが(笑)、ようするにまっ
とうさを類推しうる「背景」としてそれがある…、というか心理的な事実とし
ては、我々にまずそういう「まっとうさの確信」が到来し、その根拠は何かと
考えてみれば、そういう背景の存在に思いいたる、ということじゃろうがな。
獏迦瀬:なるほどね、「来歴」っていうか…。
伊丹堂:背景、とわざわざ言うのは、その妥当の根拠になる事例が単独にある
のではなくて、さまざまなコトの連鎖として「システム」化された広がりを
持っているからじゃ。そのシステム化された背景が文化だ、ということになる
わな。
獏迦瀬:ソシュールの言語の共時的システムみたいなもんですかね。
伊丹堂:ていうか、言語も「文化」なわけよ。ただ「システム化された」と言
葉でいうと簡単じゃが、というか簡単にそれができるかのごとくに思ってしま
うが、一朝一夕にできたものではないわけで…。
獏迦瀬:いわゆる「せ〜の」で始めたわけではないと(笑)。
伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。ようするに成熟というか「練成」された結果とし
てそれがあるというところが肝心じゃ。
獏迦瀬:ある意味で普遍的というか?
伊丹堂:いや、普遍性というのは、個人がそれこそ実存において、コトの創造
を普遍的(誰にとっても妥当するごときもの)にしようとする「努力」に関わ
る概念であって、文化的な背景の問題とはちと異なる。文化そのものが普遍的
であったら、個人の実存などいらんってくらいのもので…。ようするにその成
員にとってはハビトゥス(習慣)となっているものが、文化なのじゃ。
獏迦瀬:文化は実存のヨリドコロってことですかね。
伊丹堂:どう生きるかという方向を示すにすぎない、あるいは「実存の可能性
の土台」だということもどこかで言ったかな。いずれにしても、そういう意味
で「生き方のフォーム」と言えるわけじゃ。じゃから人は原理的に自分の行為
の責任を「文化」のせいにすることはできない。そこからして言える肝心なこ
とは、この世に「正しい」文化というのはありえない、ということじゃな。
獏迦瀬:それは分かります。ようするに相対性理論みたいなもんですよね。文
化というのはその文化成員に対する「基準」になるけど、その基準で、他の文
化(相対論でいえば他の慣性系)を計ることはできない、と。
伊丹堂:ところがそれをやろうとしているのがグローバリズムなんじゃな。
獏迦瀬:なるほど。文化はその成員の「生きるヨリドコロ」なんだから、それ
を強引に変えろといわれても困りますよね。
伊丹堂:アメリカによるグローバリズム戦争はそれをやってるわけで、まった
く犯罪的というしかないね。
獏迦瀬:文化は外から変えることはできない、というか、してはならないんで
しょう。
伊丹堂:まあ歴史というのは、それが強引になされてきた歴史でもあるわけ
じゃが…、しかし、すべての文化が鎖国して自分の文化を守らねばならない、
ということも逆にないわけで、文化は当然、変わっていく。しかしそれは、そ
の変化自体が「練成」というカタチで、人々に自然に納得されていくものでな
くてはならんじゃろう。このへんはカルチャーレビュー25号の「竹田現象学批
判」で詳しく語ったことじゃがな。
獏迦瀬:文化の対立ということで考えてみると、リベラリズムってものがあり
ます。
伊丹堂:ロールズの正義じゃな。La Vueの「正義論」で語ったが。
獏迦瀬:他者の立場を配慮しつつ、可能な限りの公平さを実現しようという立
場ですよね。これは「無知のヴェール」を被るというか、「無縁」の立場をと
れば「誰でもそう考えるだろう」という論理をとるわけですが、それはそうと
して、現実問題として、なぜにそういう立場がとりうるのか? ということが
問題になりました。
伊丹堂:それは、それこそ「そういう風に考えるように習慣化されている」か
ら、というのがロールズの答え。そういう態度をとるように「練成」されたの
がリベラリズムという「文化」だということじゃな。
獏迦瀬:それ自体、ひとつの文化だと自覚しているところがグローバリズムと
リベラリズムの違い、ですかね。
伊丹堂:もちろんそれはそうじゃが、そもそもリベラリズムというのは「相手
が」そういう立場をとることは期待してないわけよ。相手がどういう文化的立
場であろうと、そのことは「不問」として、しかし同じ「世の中」で生きてい
くにはどうするか? という考え方をとるわけで、ズケズケと相手の立場を解
体していこうとするグローバリズムの押し付けとはまったく違う。そこで必要
となる対話とか議論を結果的に「民主主義的」というのであって、グローバリ
ズムが相手を「民主化」するなどというのは愚の骨頂じゃな。
獏迦瀬:なるほどね。いま「同じ世の中」とおっしゃいましたが、それもリベ
ラリズムのひとつの前提でしょうね。つまりアメリカ社会のように異なる文化
がひとつの世の中に共存せざるを得なくなった、というある種、受動的な状況
の中で生まれてきた発想というか。つまりグローバリズムのように、ある意味
で積極的に他の文化を「自分の世の中」に組み込んでいこうという発想とはそ
もそも異なる…。
伊丹堂:まさにね。ただ、何度も言っとるが、リベラリズムといったって、そ
れはひとつの文化としてのフォームなんじゃから、その文化を持っているから
といって、常に「正しい」結果を出せるわけでもなんでもない。
獏迦瀬:ようするに実存、というか、個人のコトの創造にかかっていると。
伊丹堂:当然そこには「ひとりよがり問題」というのが生じてしまうわけで
な。そこでさっき言った普遍性ということが問題になるわけよ。ま、それにし
ても異なる立場の者は排除する、という日本の「世間」っちゅう文化もあるわ
けで、えらい違いとは言えるがな(笑)。
獏迦瀬:そういう文化ってのは、ナカナカ変わらないんでしょうね〜。
伊丹堂:さっきも言ったようにそれを強引に変えることはできないわけじゃ
が、しかし文化を良いものに変えていくのもまた「個人の努力」によるしかな
い、とも言える。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:つまり個人の努力としてのコトの創造が、人々に納得されて、それが
ひとつのフォームとして定着していくならば、それが新しい文化を創るってこ
とにはなるわけじゃ。文化創造としての格闘っつ〜かね。
獏迦瀬:まあ理屈ではそうでしょうがね。
伊丹堂:まあ実際、福祉とか慈善事業といったものの「精神的文化」は、そう
いった個人の努力によって創られてきたと言えるな。ひるますが事務所(ユニ
カイエ)でよく紹介してる映画「石井のお父さんありがとう」は、石井十次の
生涯を描いたものじゃが、石井という人は、福祉とか慈善といった文化的土壌
がまったくなかったところで、個人的にそれをはじめ、それを定着させていっ
たんじゃな。これは文化を「変えた」というか「創り出した」一つの好例じゃ
ろうな。
獏迦瀬:なんか最初は周囲から異常な人と見られたという話ですよね。
伊丹堂:フォームとして成り立ってしまえば当たり前のようなことでも、その
創造過程というのは、それこそ試行錯誤でしかない。そんな例は科学の発見が
なかなか認められなかったり、宗教家の受難(パッション)なんて感じでいく
らでもあることじゃがな。
獏迦瀬:まさに格闘ですよね。
伊丹堂:そっからして言えることがまたあって、そういう格闘というか、労苦
というものは文化の伝承についても言えるってことじゃ。
獏迦瀬:それは教育の問題ってことですかね。
伊丹堂:まあね。文化の創造にしても伝承にしても、個人が情熱的にあるコト
をなし、それを人が感動的に納得する、というカタチでの「共有」があっては
じめて可能になる。
獏迦瀬:伝えるのもまた格闘…。
伊丹堂:日本の「世間」といったような、相対的に「ぬるい」文化に浸ってい
ると分からなくなるのが、このことじゃ。キミも文化はなかなか変わらないと
言ったが、それを逆にいえば、別になにもしなくても「自然に文化は伝わ
る」って感じがあるわけじゃろ。しかし、そんなのは極めてマレな現象なん
じゃよ。
獏迦瀬:なるほどね…、日本の場合、自然に分からない方が悪いって感じです
からね。
伊丹堂:教育がないがしろにされるっていうか、そもそも教育という発想がな
い。それでいて「最近の子どもはダメになった」とか「親がダメになった」と
か評論するのは好きなんじゃが、そもそも誰も教育されていない以上、ダメに
なるもなにもないんじゃよな。
獏迦瀬:文化果つるところ…って感じですね。ということは、日本の場合、文
化を創るってくらいの気持ちで生きてかないといかんってことでしょうか。
伊丹堂:たまには威勢のイイこと言うの(笑)。これは日本だけのことではな
いが、文化はそこにいる成員にとってはなかなか自覚されない。文化が一種の
ハビトゥスである以上、しょうがないことじゃが、一般的に「そうではない発
想」というのがなかなかしにくくなる負の側面というものがあるわけじゃ。そ
ういう意味ではつねに文化創造を心掛けるという「生き方のフォーム」は大切
じゃろうな。
獏迦瀬:ですね…、まあデキルかどうかは別として。
伊丹堂:結局、文化は個人の努力によって創られ伝承されるが、逆に個人は、
そういった文化をヨリドコロにしてはじめて生きる意味を実感できる、そうい
うウラハラの関係にある。それが分かった上で、あとはそれぞれがどう生きる
か? ってことがあるだけじゃな。
獏迦瀬:精進します…。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モー
ドセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ラ
イター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEBデザイ
ナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/
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////// 連載「マルジナリア」第2回 //////
世界の肉
中原紀生
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●私が初めて買った哲学書は『世界の名著 スピノザ・ライプニッツ』だっ
た。高校2年の時、ある雑誌である探検家の愛読書が『エティカ』と紹介して
あるのを見て、探検家に特段の関心があったわけではないが、妙にその選書が
気になって買い求めた。学校に持っていき、級友から「お前は変態か!」と
いった類の反応を引き出して満足したことを懐かしく思い出す。その友人もい
まは某大学で都市社会工学を教えている。すっかり疎遠になってしまったけれ
ど、あの頃、最初の数行だけ読んだ『死に至る病』を肴にエントロピー増大の
法則をめぐる大激論を交わして互いの早熟ぶりを、というより負けん気を競い
あったこともいまとなっては懐かしい。
初めて買った、であって初めて読んだではない。初めて最後まで通して読み
切った最初の哲学書は『世界の名著 ニーチェ』に収められた「ツァラトゥス
トラ」で、それは大学1年の時だった。読み終えたのは下宿の二階の部屋の窓
際で、その時たしか春の雨がまるで重力にさからうように弱々しい白い光のな
かでたゆたっていたのを覚えている。
一冊の哲学書を読むことで世界が変わってしまうわけなどないが、私の身体
の感覚はその一瞬だけたしかに変わったような気がした。夜を徹して一気に読
み耽ったあとの身体の重い疲れと精神の軽い興奮ゆえの錯覚だったかもしれな
い。そういえば読み終えた時に雨が降っていたという記憶も、視力が弱って春
先の鈍い光を捕らえ損なったがゆえの幻覚ではないかと言われれば、そんな気
もしてくる。第一、哲学書を読んだといったところで、それは「ツァラトゥス
トラ」がそのジャンルに分類されているからなのであって、一編の文学作品に
没頭した経験との区別さえ当時の私にはできなかったはずだ。
いずれにせよ読書体験が意味記憶としてではなく、そのようなエピソード記
憶として後々まで残るという経験は、たぶん若い肉体ゆえのことだったのだと
思う。なにしろ最近では短期記憶としての定着ですらおぼつかないのだから。
●メルロ=ポンティは、1960年5月の研究ノート「世界の肉――身体の肉
――〈存在〉」(『見えるものと見えないもの』)に「私の身体は世界と同じ
肉でできている」と書きつけている。――「ツァラトゥストラ」を読了した時
のあの身体の浮遊感、まるで宙を舞う水滴とともに舞踏しているような、世界
のうちに浸出し渾然と溶け込んでいくような消失感と一体感とのキアスム(絡
み合い)、見ることと見られること、思惟することと思惟されること、感覚す
ることと感覚されることの一致、共感覚的な響き合い(五大ならぬ五感に響き
あり)の体験を表現するのに、「肉[chair]」という語彙はいかにもふさわ
しい。
《肉は物質ではないし、精神でもなく、実体でもない。それを名づけるために
は、水・空気・土・火について語るために使用されていた意味での、言いかえ
れば空間・時間的個体と観念との中間にある一般的な物、つまりは存在が一か
けらでもある所にはどこにでも存在の或るスタイルを導入する一種の受肉した
原理という意味での「エレメント」という古い用語が必要になろう。肉は、そ
の意味では、〈存在〉の「エレメント」なのだ。》(「絡み合い――交叉配
列」,『見えるものと見えないもの』)
●私は、メルロ=ポンティがいう「肉」はプラトンが『ティマイオス』で「存
在」(イデア・形相)と「生成」(質料)の中間においた謎めいた「コーラ」
(場所)に、すなわちハイデガーが『形而上学入門』で「そこでそれが生成す
るそこ、媒介、生成するものがそこへと自己を形成し入れるもの、生成するも
のが、生成してしまうと次にはそこから抜け出るもの」と説明し、中沢新一が
『精霊の王』で「胞衣」にたとえたものと響き合うのではないか(「感覚の論
理」を通じて?)と考えているのだが、これはまだ仕上げられていない生煮え
の粗描でしかない。
――あるいはヒュポスタシス(どろどろしたもの)。あるいは「音響的鏡す
なわち聴覚−音声的皮膚」(ディディエ・アンジュー『皮膚−自我』)もしく
は音響の化石。(これは蛇足だが、身体のこと、肉のことを考える時、いつも
決まって思い出す言葉がある。藤原新也の『メメント・モリ』だったか『全東
洋街道』だったかに出てきたイスタンブールの娼婦の言葉、「人間は肉で
しょ、気持ちいっぱいあるでしょ」。)
●さて、『エティカ』はその後どうなったか。――スピノザについて書かれた
文章はずいぶんたくさん読んできたように思うが、肝心のスピノザの著作では
『知性改善論』を一瞥しただけで、いま(退屈の虫を噛み殺しながら)『神学
・政治論』を読んでいるところ。つまり『エティカ』は――池田晶子(「スピ
ノザ、ライプニッツ」,『考える人』所収)が「遠目から眺めれば、壮大に緻
密に繰り広げられるペルシャ絨毯のような」と形容した、観念論と唯物論のキ
アスムともいうべき書物、「二つの首をもつ謎の政治哲学」(中山元)の書は
――まだ読んでいない。池田晶子がいうように、『エティカ』を読むのは、め
んどうくさい。だからこれまで、これまた池田晶子いわく「野蛮な読み方」、
すなわち「とばし読み」をするしかなかったのだ。
●ところで『知性改善論』を読みながら、私は(御しがたい退屈とともに)形
容しがたい薄気味悪さを感じていた。スピノザは私に「オマエハ一個ノ機械ナ
ノダ」と告げている。ここには「この私」が帰属する場所がない。――このあ
たりの感触を池田晶子は次のように表現している。
《…デカルトの合理主義に触発されて、[東方的な]汎神論的直観を叙述しよ
うと思い立った近代人スピノザの神は、徹底的に論理の神、目的でもなければ
価値でもない、もとより人格ではないから自身を意志して在ったわけでもな
い。端的に、「その本性が存在するとしか考えられない」から存在する神であ
る。実に淡泊な神である。
cogito を完遂すると ego は消失する、そのときそれは神の cogito に成り
変わっている、したがって宇宙とは神の自己思惟の所産である、この過程をつ
づめて言えば、「我即自然」、ただし、これは私の直観である。そして、その
「我」は、あの「我」でも、どの「我」でもいいのではなくて、スピノザが絶
対に認めなかったまぎれもない他でもないこの「我」でなければならないのだ
が、この話は、また別の機会にします。》
●スピノザの退屈さは尋常ではない。たとえば『神学・政治論』に出てくる次
の指摘など、近代人の末裔たる私にとって陳腐な物言いでしかない。
《…聖書は、自然的光明に依って認識される諸原理からは導き出され得ない事
柄を極めて屡々取り扱っている。というのは聖書の主要部分を構成するものは
物語と啓示とであるが、物語は専ら奇蹟を、換言すれば…自然の異常な出来事
に関する話を内容としており、それはそれを語る人々の見解と判断に順応させ
られたものであるし、一方啓示も亦預言者たちの見解に順応させられたもので
あることは我々が…示した通りであって、それは実際には人間の把握力を超越
するものなのである。だからこれらすべての事柄に関する認識、換言すれば聖
書の内容を為す殆どすべての事柄に関する認識は、聖書自身からのみ得られな
くてはならぬ。恰も自然に関する認識が自然そのものから得られねばならぬと
同様に。》
●ところが田島正樹(『スピノザという暗号』)によると、そこにこそスピノ
ザ哲学の根底をなす最も重要な要素がある。
《『聖書』を『聖書』自身から理解するという徹底した「内在主義」は、同時
に、『聖書』の言葉を『聖書』全体から理解するという「全体論的解釈」へと
導くだろう。『聖書』解釈を通じてスピノザが若くして確立したこの二つの態
度こそ、…生涯を通じて彼の哲学の根底を形成した、最も重要な要素をなして
いるのである。(略)
彼が使用する哲学用語は、よく見るといずれも伝統的用法から大きくずれて
おり、しばしばその用語法を生み出した問題圏域からさえ無関係なことが多
い。そのため、その用語の歴史を手がかりにしようとするスピノザ解釈の試み
は、しばしば途中で路を見失うことになってしまうのである。それらは、むし
ろスピノザ哲学全体の文脈から、全体論的に解釈されなければならないだろ
う。それは、スピノザの方法を、スピノザ自身に適用することなのである。》
――これに続けて田島正樹が引用しているスピノザの文章、「預言なるもの
が個々の預言者の表象力や気質に応じて相違したばかりでなく預言者が抱いて
いた思想に応じても相違したこと、従ってまた預言は決して預言者をより賢く
したわけではないこと」云々は、そこに出てくる「気質」という語彙によっ
て、また「キリストは精神対精神で神と交わった」のであって、「キリストの
外には誰もが表象力の助けに依ってのみ、即ち言葉や彫像の助けに依ってのみ
神の啓示を受けとった」のだという文章ともども、私の退屈をしばし癒してく
れる。
●スピノザの方法を、スピノザ自身に適用すること。――池田晶子の「スピノ
ザ、ライプニッツ」に付されたエピグラム、「夢見る世界に/夢見られつつ/
夢見る宇宙の/夢を見ている」と、メルロ=ポンティの「世界の肉――身体の
肉――〈存在〉」の次の文章とを比較せよ。――あるいは世阿弥の「離見の
見」。
《世界の肉、それは見られる〈存在〉(l'E^tre-vu)に属している。言いかえ
れば、それはすぐれた意味での percipi[知覚されるもの]であり、
percipere[知覚するということ]が理解されうるのもこの世界の肉によって
なのである。私の身体と呼ばれるこの知覚されるものは他の残りの知覚される
ものにおのれを向け、おのれ自身を自己によって知覚されるものとして、した
がって或る知覚するものとして扱うのであるが、こういったことがすべて可能
であり、それになにか意味があるのは、結局のところ〈存在〉があるから、そ
れも闇のなかで自己同一的であるような即自的〈存在〉がではなく、おのれの
否定、おのれの percipi[知覚されること]をも含んでいるような〈存在〉が
あるからにほかならない。》
●メルロ=ポンティは、1960年5月のもう一つの研究ノートに「肉とは鏡の現
象であり、鏡は私と身体との関係の拡張なのである」と書いている。――スピ
ノザが磨いたレンズもまた「肉」にかかわっているのだろうか。(スピノザの
屈折率。魂のレオロジー。)
ついでに書いておくと、1960年5月のこれとは別の研究ノートに「文学とは
つまり感覚的なものの哲学である」というのがある。――ここで言われる「感
覚的なもの」とは感覚質、すなわちクオリアのことだろう。
●それにしても、メルロ=ポンティの文章は美しい。その美しさは尋常ではな
い。池田晶子の言葉を借りるならば、形而上学的感受性と論理的思考力との幸
福な一致がそこにはある。いかなる脈絡も抜きにして、ただただ純粋に引用し
たくなる文章がいたるところに象嵌されている。以下は、そうした「純粋引
用」の一つ。
《ヴァレリーが言っていた牛乳のひそかな黒さにはその白さを通してしか近づ
きえないように、光の理念や音楽的理念は、光や音を下から裏づけているので
あり、それらの裏面ないし深みなのである。それらの理念の肉的な組成[き
め]は、すべての肉に欠けている組成[きめ]をわれわれに見せている。それ
は、不思議にもわれわれの眼下に、線引きする者もなしに引かれる航路であ
り、或る種のくぼみ、或る種の内部、或る種の不在、何ものでもないようなも
のではないところの否定性なのだ。》
●話は変わるが、ジュンク堂書店大阪本店で「<私=意識>とは何か〜哲学を
柱に認知科学から脳科学まで」というブックフェアが企画された際、ひるます
さんとともに私も選書に協力した。その時リストに挙げたいくつかの哲学系の
書物の一つに『スピノザという暗号』がある。私が念頭においていたのはクオ
リアをめぐる田島正樹の論考だったのだが、この「精神と物体の関係が最大限
に厄介な形で具現されているこの血の詰まった皮袋」(池田晶子)、すなわち
心身問題にかかわる話は、また別の機会にします。
★編集部・註:下記のWebにてブックフェアの様子と選書リストがご覧いただ
けます。http://homepage3.nifty.com/luna-sy/bookfair.html#0403
■プロフィール■-----------------------------------------------------
星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあ
がるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッ
シュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、
それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体
という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場
を借りてやってみたいと思います。E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
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////// バーマニアの今月の一軒 //////
ROCKFISH 北浜店
久世明宏
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関西では80年以上の歴史を持つスタンディングバー「サンボア」の特集が某
雑誌で組まれていましたが、今回私がお勧めするお店はその「サンボア」で10
年のキャリアを積んだ方がオーナー・バーテンダーとして経営されている、
「ROCKFISH 北浜店」です。
同店には東京の銀座店もありますが、今回ご紹介する北浜店はそのオーナー
が後輩(その方は「サンボア」では修業されておりませんが)に任せているお
店です。
「サンボア」の流れが随所に見られ、カウンターの後ろにさりげなく飾られ
ているコースターが「サンボア」出身のプライドを感じさせます。
お勧めのカクテルは「サンボア」と同じく、サントリーの角瓶を使用したハ
イボール、シンプルですが奥深いカクテルです。酒類はオールセッティングに
揃えており、フード類もあって私のお勧めのフードはカツサンド(1000円)で
す。
場所は、北浜駅(京阪・地下鉄)から徒歩約2分、旧大阪証券取引所の裏の
ビルの2階にあります。北浜のビジネス街ですが15時からOPENしており、
OPEN〜19時まではフード類の大半が半額になるハッピーアワー、CLOSEは27時
です。
店長の原さんは人柄もよく話もおもしろい方で、筆者とはプライベートでも
よく酒を飲み、酔うにつれ日常の営業トークがなくなり本音で話をしてくださ
います。
仕事に疲れた時、ブラリと立ち寄ってみてはいかがですか。
★「ROCKFISH 北浜店」
大阪市中央区北浜1-9-8 TEL:06-6231-6969
店休日:日曜・祝日 営業時間(15:00〜27:00)
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------
★第47回「哲学的腹ぺこ塾」★
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
■日 時:04年06月27日(日)午後2時より5時まで
■テキスト:J・ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』
(岩波書店・現代文庫)
■会 場:るな工房/黒猫房/窓月書房
■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★今号から(定期連載になるか未定ですが)、書店人にしてバーマニアの久世
さんによるバー紹介のコーナーを増設しました。乞うご期待ください。(黒猫
房主)
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『カルチャー・レヴュー』38号(通巻40号)(2004/06/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
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UP:20040404 REV:0526,0604
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