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『カルチャー・レヴュー』2004・2

『カルチャー・レヴュー』
『カルチャー・レヴュー』2004・1
『カルチャー・レヴュー』2004・3
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/


 *以下は立岩に送っていただいたものです。
  直接上記のホームページをご覧ください。

◆『カルチャー・レヴュー』36号(卯月号)
(2004/04/01発行)
◆『カルチャー・レヴュー』37号(皐月号)
 (2004/05/01発行)
◆『カルチャー・レヴュー』38号(水無月号)
 (2004/06/01発行)


Date: Thu, 1 Apr 2004 19:34:53 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』36号(卯月号)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。E-mail:YIJ00302@nifty.com

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
     『カルチャー・レヴュー』36号(卯月号)
         (2004/04/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [37号は、2004/05/01頃発行予定です]
    ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました ★
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「マルジナリア」第1回:哲学の欄外          中原紀生
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第1回:家族って何なんだ〜!?  ひるます
◆INFORMATION:ブックフェアのご案内/第46回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)--------------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
★今秋創刊予定、会員制の評論誌「コーラ」(A5判・80頁・予価500円)への
投稿を募集中です。投稿規定等の詳細はメールにてお問い合わせください。
E-mail:YIJ00302@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re32.html#32-1

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////// 連載「マルジナリア」第1回 //////

             哲学の欄外

                              中原紀生
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●私の部屋の本棚の常備本に、草稿、遺稿、覚書、断章、引用の類を集めた書
物がいくつかある。ノヴァーリスの「断章と研究」や「一般草稿集」を収めた
沖積舎版全集第2巻とかベンヤミンの『パサージュ論』、ニーチェが遺した膨
大なアフォリズム群を実妹エリーザベトが編集した偽書『権力への意志』が、
読むでも考えるでもない朦朧とした、たとえばキース・ジャレットやグレン・
グールドのピアノソロなどを聞き流しながら過ごす箸休めにも似た一時の旅の
道連れとして、目下のところ重用している本たちだ。
 そのほかノーマン・O・ブラウンの『ラヴズ・ボディ』やウィトゲンシュタ
イン全集第1巻に収められた「草稿」、いま手許にはないけれどパスカルの
『パンセ』やヴァレリーの『カイエ』やシオランの著書なども、かつて熟読は
しないまでも玩味した書物だったし、ニーチェがいう悲劇時代の古代ギリシャ
の哲人たち、いわゆるフォアゾクラティカーをはじめとする、ディオゲネス・
ラエルティオスの『列伝』に登録された哲人たちの思想詩群――たとえば「す
でに過ぎ去った無限の時間から考えてみると、全宇宙には、何も目新しいこと
は起こらないのである」(岩波文庫『エピクロス』)など――は、『論理哲学
論考』ともども私の個人的な聖典ともいえるものだった。

●哲学系の書物を読むとき、それを体系的叙述として逐行的に追思考するより
は「思考細片」の編集物として、あるいは概念の「モザイク」として、細部を
逐語的に賞味しては私秘的な註釈や批評・解釈をほどこしたり、記憶の片隅に
わだかまる他の断章とのつながりをこじつけて楽しむのが私の癖で、だから断
片・引用好きは、いってみれば私自身の身体感覚や体質に根ざした(というか、
体力に合った)思考の方法なのだと思う。
 ポーのひそみにならった「マルジナリア」の最後に、澁澤龍彦は「私はこう
いう形式、つまり断章の形式が性に合っている」と書きつけている。澁澤にな
ぞらえるのは不遜だけれど、私もまた断片的思考(もしくは引用的思考)が体
質に合っている。

●ここで「性」もしくは「体質」は「気質」といいかえてもいい類のものだろ
う。ジンメルは『ショーペンハウアーとニーチェ』で次のように書いている。
《すべての偉大な哲学はしかし、心的現実においては到達しがたいこのような
形式的統一の先取りなのである。というのは、芸術が「ひとつの気質をとおし
て見られた」世界像であるように、哲学はひとつの世界像をとおして見られた
気質であり、つまり、ひとつの中心が確定され現存在に対する人類の偉大な態
度のひとつが確定されるように世界の諸要素を配列し解釈することだからであ
る。》

●思考の方法や表現形式と身体のあり様との不離の関係。あるいは、体質に即
して紡がれる思考。――ここで私が思い浮かべているのは、ベンヤミンとニー
チェである。
 たとえば、スコラ哲学で使われた入門教育書「トラクタート」にふれた「認
識批判的序章」の冒頭などを読むと、それはほとんどベンヤミンの「まわりく
ねった」文章がもつ体質(要約を許さない物質性、アドルノの言葉を借りるな
らば「音楽」のような)それ自体を言い当てている。
《気まぐれな断片に分かたれていながら、モザイクにはいつまでも尊厳が失わ
れることなく保たれるように、哲学的考察もまた飛躍を恐れはしない。モザイ
クも哲学的考察も、個別的なもの、そして互いに異なるものが寄り集まって成
り来たるのである。(中略)思考細片が基本構想を尺度として直接に測られる
度合いが少なければ少ないほど、思考細片の価値はそれだけ決定的なものとな
り、そして、モザイクの輝きがガラス溶塊の質に左右されるのと同じように、
叙述の輝きは思考細片の価値にかかっている。》

●あるいは、ハシッシ吸引による「実験」の核心部分にふれた文章(『陶酔
論』)。
《それはアウラの本質について僕が述べた部分である。(中略)第一に、真の
アウラはあらゆる事物に現われる。みんなが思うように、特定の事物にだけ現
われるのではない。第二に、アウラは事物がとるあらゆる運動――それがアウ
ラなのだが――につれて根本的に変わる。第三に、真のアウラは決して、通俗
的神秘主義の書物が図解したり描写したりしているような、通り一遍の心霊術
的光の魔術ではない。むしろどぎついもの、その中にこそアウラがある。装飾
的なもの、事物やその本質が裏地に縫い込められているようにしっかりと入り
こんだ装飾模様――そこにこそアウラがある。》

●今村仁司(『ベンヤミンの〈問い〉』)は、「過去の中に未来を見る」とい
うベンヤミンに独特な歴史概念をその「特異体質」に結びつけている。
《性格をもつ人はいつも同一に現れるというニーチェの言葉を引くのを好んだ
ベンヤミンは、同一なものの反復を厳しく批判した人であったが、やはり彼も、
傾向的に回帰してくる特異な性格の保持者であった。そのことを私は体質とい
う言葉で言い表しているのである。体質は癖のようなもので、いわば無意識で
あり、意識して抑えようとしてもけっして抑えられるものではない。》
――あるいは「認識批判的序章」の基礎的観念をなすイデアとモナドとの関連
にふれた文章に出てくる「内臓的体質」や「動物感覚」といった語彙。
《彼にとって内臓的(visceral)とでも言える体質となった独自の観念は「星
座」(Konstellation)である。彼の星座論あるいは星座のイメージを哲学的
概念として表現する場合に、それにもっとも親和力のある観念を伝統の遺産の
なかから選ぶとすれば、彼の動物感覚からすれば、イデアとモナドであるほか
はなかったのだと思われる。だからイデアもモナドも、ベンヤミンの思考のな
かでは星座の観念/イメージによって充電され、あるいは変形される。》

●思想的体験としてのニーチェの病。――樫村晴香は「ドゥルーズのどこが間
違っているか?」で、永劫回帰の体験は隠喩なのではなく、「実体としての細
部をもつ思想的体験」としての病であったと書いている。
《もし人がニーチェの言葉に直接耳を傾けるなら(つまりハイデッガーのそれ
も含めて、解説書を通じて何かを「理解」しようとしないなら)、この体験が
「真実」であり、そこには表現の一語一句が代置不能な価値をもつ、緊密な
「物理的実在」が存在し、その実在的力によって、啓示‐伝播の最大限の魅惑
‐暴力が駆動することが、了解されるだろう。》

●強度の近眼がもたらしたニーチェの世界。――澁澤龍彦の「ニーチェ雑感」
に次の文章が出てくる。
《シュテファン・ツヴァイクはゲーテとニーチェのイタリア体験を比較して、
前者は地中に埋もれたもの、たとえば古代の芸術だとか、ローマの精神だとか、
植物や鉱物の神秘だとかを探求するのに対して、後者は頭上にあるもの、たと
えばサファイア色の空だとか、無辺際に澄み渡った地平線だとか、全身の毛穴
に射しこむ日光の魔術だとかに惹かれる、と言っている。(中略)もしかした
ら、ニーチェは度の強い近眼だったから、ゲーテのように植物や鉱物や造形美
術に注意を惹かれるということがなく、むしろもっと大きな、光と影の対照の
はっきりした、風景とか空間といったものに関心を向けざるを得なかったので
はなかったろうか。(中略)「ニーチェが発見したのは、気分(ドイツ語のシ
ュティンムンク)に基づいた不思議な深遠な詩情、神秘的で無限な孤独であっ
た」とキリコは書いている。「それは空が澄みわたり、太陽が低く沈みかける
ので、影が夏におけるよりも長くなる、秋の午後の気分に基づいている」と。》

●再び、ニーチェの病について。――田島正樹(『ニーチェの遠近法』)によ
ると、ニーチェのテクストに繰り返し立ち現れてくる「病と病からの快癒」と
いう主題は、決して偶然的なエピソードの回顧にとどまるものではなく、ニー
チェはそこに自分の哲学の隠喩を見ている。
《さまざまな病をかいくぐり、病から癒える経験によって、哲学者は自らの生
を使って思想の実験を行うのである。つまりそれは、さまざまに異なる生のパ
ースペクティヴに自ら身をさらすことなのだ。》

●田島正樹は「ニーチェのテクストは、真理を直接語るのではなく、上演しよ
うとする」と言う。そしてそれは、超越論的哲学を転覆するものとして企てら
れたニーチェ哲学の首尾一貫した帰結であると。――「超越論的」とは本来、
認識が認識者の実存へと振り返るような構造をもつものであった。
《ところが超越論的哲学は、自らを真理一般について語られた一つの真理と装
うのだが、その際それを語ることが語られることに対して、せいぜい外的・偶
然的に関わるにすぎない。発話内容の真理性にとって、実際の発話はあっても
なくても変わりがないものであるかのように見なされてしまうのである。した
がってまた、そこで内容を理解するということも、理解される内容にとって外
的・偶然的なことがらとして、超越論的反省を免れた理解の外的額縁にとどま
っているのである。だから、誰によって理解されようと、理解内容は同一のま
まであることが、自明視されてしまっている。つまり、超越論的哲学は、哲学
を哲学者の実存に基づけようとしたにもかかわらず、その際認識者としての哲
学者の能力が考慮されたばかりで、哲学的発話の現場(論争的対話状況)が視
野の外に出てしまっているのである。そのため、その哲学の表現や、それを受
け取る読者の側の理解様式の問題は、哲学的反省の外に置かれてしまった。
このことは、哲学的真理を匿名的な真理一般・客観的真理として語ることであ
り、その結果、パースペクティヴの観念を流産させてしまうのである。》

●ここに出てくる「外的額縁」は「欄外」ともいいかえられる。そしてそれは、
永劫回帰の肯定的理解について論じる場面で、回帰=反復の認知に関して「そ
こには、いかなる欄外もありえない」とか、「もしニーチェの回帰思想が、真
理についての一般論を説くものであったとしたら、この思想自身は、回帰の欄
外に立つものとなってしまうだろう。そして、真理一般についての超越論的真
理は、その背後に必ずや哲学者のルサンチマン的権力を胚胎してしまうのであ
る」といったかたちで使用される。
 「欄外」はまた「余白」とも「表象できないもの」とも、「至高性」や「非
知」(バタイユ)とも、ウーシア(目の前に既にあるもの)に対する「フィシ
ス」もしくは「コーラ」(ハイデガー『形而上学入門』)とも、あるいは「流
動的知性=対称性無意識」(中沢新一『対称性人類学』)といった概念とも、
捻れた関係を結ぶことになるだろう。――哲学的思考にとって、もしくは、あ
る体質をもつ身体に到来した体験を通じてかいま見られる世界において、欄外
への書き込みを行う主体(第四人称で表記される?)はいない。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかはら・のりお)星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や
画像の錯綜からたちあがるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れ
たい。そんなブッキッシュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え
(の予感)とともに、それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始め
た。哲学的思考は身体という現場からたちあがってくる。そのことを確認する
ための作業を、この場を借りてやってみたいと思います。
★E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html


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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第1回 //////

            家族って何なんだ〜!?

                              ひるます
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獏迦瀬:ごぶさたしておりました…。今回のテーマは「家族」ってことですが。
伊丹堂:あいかわらず唐突な感じじゃな(笑)。
獏迦瀬:いぜんLa Vue(13号)で「美って何なんだ〜?」って対話がありまし
て、それに続く対話として「愛って何なんだ〜?」というのがメルマガ版・臨
場哲学79号(http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/RIN/head79.html)であった
のです。その愛って何なんだの結論が、愛は幸せを求めるもの…というもので
したので、まあ話がつながってなくもナイですよね。伊丹堂:家庭のシアワセ
って話じゃったな…。あそこでは「家庭がどうあるべき」という話じゃったが、
「家族」というのは、どうあるべきとかこうあるべきというものではない。
獏迦瀬:家庭と家族の違いですか…、まあ英語でいえばホームとファミリーで
すかね。
伊丹堂:言葉はどうでもいいんじゃが、いつものことながら、実存的というか
態度としての問題と、事実としてこうなっている、という問題を常に分けて考
えねばならんってこっちゃな。
獏迦瀬:家族ってのはある意味で「自然」な関係だってことですか。
伊丹堂:いや、そうではない。というか、その「家族は自然な関係」という発
想そのものが諸悪の根源ともいえる。つまり実はそういう発想こそが、家族は
自然「だから」家族は(自然に)仲良く「しなければならない」という風に、
価値観の押し付けのごとく作用する大本になっとるワケじゃな。
獏迦瀬:なるほど…。でもそうすると、事実としての家族というのはどういう
…。
伊丹堂:ようするに「さしあたってたいていは」という奴だね。概念としての
家族といってもいい。実はそんなものはどこにもないかもしれないのじゃが、
いちおう「そういうもん」としての家族をとらえることはできる。それは「社
会とは〜」とか「世間とは〜」という理解が、社会そのものや世間そのものが
どこにもなくても出来るのと一緒じゃろ。
獏迦瀬:とすると「そういうもん」としての家族とは、なんなんでしょう。
伊丹堂:基本的に家族ってのは、親子関係じゃな。恋人や夫婦だけでは家族で
はない。
獏迦瀬:血縁ってことですかね。
伊丹堂:それは、本質的な問題ではないのじゃが、血縁という事実が「家族」
というつながりのヨリドコロではある。しかしカンジンなことは、その「家族
というつながり」の実質じゃな。ようするに「親が子供を自分のからだの一部
と感じる」ような、身体イメージのレベルでの繋がりなんであって、それは血
縁という事実とは無関係に成り立つわけじゃ…。
獏迦瀬:その身体イメージのつながりが「家族」ってことスカ?
伊丹堂:さしあたってな(笑)。ようするに小浜逸郎のいう「エロス的関わり」
じゃな。
獏迦瀬:「エロス的」というのは、「恋と宿命」(臨場哲学78号
http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/RIN/head78.html)でも話題にしましたが、
身体的というより細胞レベルで一体化したいというような欲望でしたね。つま
り「恋=エロス」って話でしたが。
伊丹堂:恋が日常化というか、常態化したのが家族か(笑)。だからここでは
欲望というよりそれが「事実」になっておる。そうありたいと願うのではなく
て、すでにそうなっとるから、逆に子供を傷つけられたり、奪われたときに、
それを喪失感として感じるわけじゃな。
獏迦瀬:子供にとっては、どうなんスカね、あんまり自分の親を「自分の身体
の一部」と感じることはナイような気がしますけど。。。
伊丹堂:まさにそうじゃ。しかしここでは親の子供に対する関係しか問題にな
らんのよ。なぜならば、子供は主体ではないから。
獏迦瀬:はあ?
伊丹堂:「家族」という関係においては、子供は「欲望の対象」であって、主
体ではないってことよ。当たり前じゃが、子供は自分で主体的に親を選んでき
たわけじゃなくて、その関係の中に「産まれる(受動態)」のであって、そも
そもの初めから「身体的一体化の対象」という存在なわけじゃ。
獏迦瀬:う〜ん…そうすると、家族的つながりというのは、親だけの観念とい
うかイメージってことになるんですか?
伊丹堂:そりゃ君、悪しき「主体主義」じゃな(笑)。子供はそういう欲望と
いうか関係の「主体」ではないのじゃが、しかし、現実としてそういう「関わ
り」の中にいる、つまり「一体化の対象にされている」関係の中にいる限りに
おいては、そういう身体イメージを受け入れているのじゃ。エロス的関係とい
うのは、そういうふうに互換的というか、共犯的というような関係の中で、一
定のリアルをつくり出しているわけじゃ。そういう意味ではやはり恋愛に似て
いるとも言える(笑)。
獏迦瀬:はあ…なんか今回はいやらしいですね(笑)。
伊丹堂:しゃ〜ないな、エロい話じゃから。しかし、こういう一体化の関係と
いうものは、生まれてからしばらくの子供には絶対的に必要と言われている。
ようするにそれが、子供の精神の安定的な基盤や共感能力の基盤になる、とい
うわけじゃな。
獏迦瀬:でも最初に問題にしたように、すべての「家族」がそんなふうに一体
化しているわけではないわけですよね。。
伊丹堂:定義の問題じゃからな。しかし「家族」をそういう風に定義してみれ
ば、後はようするに、そのような一体化の関係がないものは「家族ではない」
と言えばすむ(笑)。「夫婦+子供」とか。
獏迦瀬:「家族だから〜すべき」ではなく、「家族ではない」と言うわけです
ね…。
伊丹堂:というより、すでに「そういうもん」として一体化しているような状
態を「家族」というだけで、そうなってはいないもんは「家族ではない」とい
うだけのことじゃな。そうならんもんはそうならんのじゃから、しょうがない。
獏迦瀬:はあ…なるほどね。
伊丹堂:そう定義しておくと便利なのは、いわゆる「愛情のない家庭」という
のが、実はその実態としては「愛情」ではなくて、この一体化感がない家族関
係なのだろう、と類推できるじゃろ。
獏迦瀬:なるほどね…。いわゆる「子供を愛せない母親」とか、話題になりま
すよね。それって「愛せない」んではなく、たんに「一体化」できないんだと。
伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。
獏迦瀬:でもそれも言葉の問題なんではないスカ?
伊丹堂:そうでもない。カンジンなことは、「愛って何なんだ〜?」でハッキ
リさせといたように、愛というのは、実存的というか、ある種の倫理的な態度
のことだったわけじゃろ。しかし家族とは、エロス的な一体化の関係だとすれ
ば、そこには「そう(一体化)したいからそうする」ということがあるだけで
あって、「そう(子供を愛す)しなくてもいいにもかかわらず、そうする」と
いう倫理的意味での「愛」は存在しないわけじゃ。これは理屈じゃが…。
獏迦瀬:ようするに「家庭にはそもそも愛がない」ってコトですか。
伊丹堂:そ。「子供を愛せない母親」というのは、これはただもうしょうがな
いんじゃが、ある意味ではただの正直者なのかもしれん。ま、それは冗談とし
て、そういう前提でみれば「子供を愛している」と錯覚して、実は子供を自分
の思いのままにしたがってるだけっつう親がいかに多いかもナットクできるじ
ゃろ。
獏迦瀬:子供を愛してるわけではなく、ただ一体化を欲してるのだと。
伊丹堂:愛とは、愛する相手の立場にたってその幸せを志向することなんじゃ
が、さしあたってたいていの親がやってるのは、自分の幸福の追求なんじゃな。
しかも困ったことに、それは一体化の感情に基づいてるので、愛情や思いやり
と矛盾しないものとして感じられてしまうわけじゃな。
獏迦瀬:それは…困った親ですね…。
伊丹堂:というか、親とは、家族とはそういうもんだ、という割きりがカンジ
ンよ。なんでも親のせいにしてはいかん(笑)。
獏迦瀬:つまり価値判断をはなれて、まず家族をそういうものとしてみる、っ
てことですか。
伊丹堂:そういうこと。子供はそういう家族関係を背景にしながら、いずれは
自分も大人になって、家族を作っていく。さっきは子供は主体ではない、と言
ったが、それは家族関係からみれば、という話であって、子供の側から見れば、
家族というのは自分が生きていく背景というか土台でしかない。もちろんそう
いう一体化の感覚は生きていく上で必要なものなわけじゃが。
獏迦瀬:成長ってことですね。
伊丹堂:子供が、徐々に親との関係を対象化しつつ、切断し、主体化していく
というのが成長の過程で、『オムレット』第5章でも描いているわな。
獏迦瀬:…でしたね。そうすると、そういう成長というプロセスそのものもま
た、家族の機能というかシステムということになるんでしょうか?
伊丹堂:いや、それは別じゃろ、さしあたってたいていは(笑)。まあ精神分
析やら心理学ではなんでも発達とか成長の過程として描きたがる。そこでは家
族が中心になってるように描かれるわけじゃが、実際に子供が成長していくの
は、子供自身の生きる力というか、想像力や、家族より広い、外側の世界の
「文化」といったファクターが大きい。
獏迦瀬:たしかに、家族関係がエロス的な一体化なら、そこから「自然に」成
長がおこるはずはありませんね。
伊丹堂:つまり定義上、家族は成長や自立とは関係がない。オムレット風にい
えば、成長ということは、家族「外」の領域におけるコトの成否、つまりリア
ルの獲得の問題なのであって、親子関係とは関係ないということになる。実際
問題としてみれば、エロス的な一体化の関係が子供にとって「リアル」になっ
ている状況で、それを打ち砕く程のリアルに出会えるかどうか? という宿命
の問題になるわな。
獏迦瀬:そういえばこの前、ヒッチコックの「汚名」って映画をDVDで見た
のですが、これ父親がスパイだったということで、投げやりになってる娘イン
グリッド・バーグマンのお話なんです。日本だと「世間」から身を隠して生き
るという話になるかと思うんですが、この場合は自分に対する破壊的な衝動に
なっている。でもふつうに考えると、父親がスパイだからといって自分がそう
なるというのもヘンですよね。なんか父−娘のエロス的な一体化を感じます。
伊丹堂:そりゃまさにそのものじゃろ。日本でいえば小津の映画じゃな。
獏迦瀬:そうなんですか? で、「汚名」の場合、その父−娘の一体化を破壊
するのは、FBIだかCIAだかのエージェントのケーリー・グラントとの恋愛関係
ということになるんですが、これがひとすじナワではいかない。ふつうに恋愛
という感覚があれば、そうはしないだろう、という方向にどんどん進んでいく
んですよね。つまり恋愛関係を破壊するような方向ってことですが、それも父
親との一体化という前提でみると、妙にリアルな映画でしたね。
伊丹堂:ワシも昔見たが、そんな面白い映画じゃったかな(笑)? ま、家族
関係がそういうふうに成長っつ〜か、広い意味での生きるってことを阻害する
要因になるってことは往々にしてあるってことかいな。それこそ物語の数だけ
ある…というか。
獏迦瀬:家族の病理って奴ですかね〜。
伊丹堂:そういうと家族、つまり一体化の感覚そのものが「悪」のような響き
があるの。断っておかなくてはならんのは、家族そのものは、あくまで「そう
いうもんとしてある」のであって、それ自体が問題というわけではない。ただ
それが障碍となる様々な状況が生じてしまうということじゃろう。
獏迦瀬:とすると、そうならないようにする、というのが「あるべき家族」の
形なのかもしれませんね。
伊丹堂:ま、あるべき…というより、単に「まっとうにあれ」という程度のこ
となんじゃがな(笑)。
獏迦瀬:まっとうな家族ですか、それはどういうもんなんでしょうか。
伊丹堂:ふむ、そりゃ家族ってことに自覚的であれ、ということになるんじゃ
ろうが、そういう実存的というか思想的なことを言ってもしょうがないんで、
具体的にいえば、家族は二の次だってことを肝に命じろってことじゃな。
獏迦瀬:二の次ですか…、ようするに「そういうもん」でしかないから?、と
すると、一番はなんでしょうか、仕事ですか?
伊丹堂:仕事の人がいてもいいんじゃが、家族ってことを考えれば、家族を成
り立たせているのは、まずは夫婦だってことが大事なんじゃな。
獏迦瀬:ああ、夫婦ね。
伊丹堂:最初にいったように、夫婦と家族は違う。それでいて家族というのは、
夫婦からつくられるわけだから、コトの順序から言ってもまさに二の次なわけ
よ。というとダジャレみたいじゃが、夫婦関係がうまくいってれば、たいてい
の家族問題というのはおきないのだな。結局、夫婦関係がうまくいってない、
ようするに愛しあっていないからこそ、父親か母親のどちらかが、過度に家族
関係(エロス的一体化)にのめり込んだり、あるいは逆にまったく「一体化の
ない家族」になったり、というところから、子供の「まっとうな」成長が阻害
されるという状況が生じるわけじゃろ。
獏迦瀬:う〜ん、それはあまりに単純ですが、…たしかにそれは真実のような
気がしますね。
伊丹堂:別に複雑に考えればいいってもんでもないじゃろ。だいたい家族なん
てもんが、極端に単純な世界なわけで、そこで起きる問題なんてのもそんなも
んなのよ。夫婦がちゃんと愛しあっていれば、子供とのエロス的関係がバラン
スのとれたものになる。つまり子供に対してエロス的一体化をしつつ、「子供
もまたいずれ誰かと夫婦になっていく存在」すなわち「成長していく存在」と
いうことを常に自覚していられる、ってことでもあるじゃろ。たしかそんな歌
を歌ってるグループがおったろう…。
獏迦瀬:歌、ですか?
伊丹堂:知らんのか。スマップのライオンハート。
獏迦瀬:…そんな歌よく知ってますね…。それはともかく、それがまっとうさ
ということだとすれば、愛のない夫婦は家族をつくるな、ということになりま
すよね。
伊丹堂:当たり前じゃ。ま、子供を幸せにする自信があるなら、というか、責
任をとれるなら、それをやってもかまわんがな。そうでなきゃそれは「まっと
う」ではないだけのことよ。
獏迦瀬:そう言われると反論しようもありませんが…、でも例えば事故や病気
で片親になってしまうとか、愛がないのに家族ができて、結局は別れてしまっ
たとか、今となっては「まっとうな」状況なんて望めないというバアイもある
かと思いますけど、そういう人にはどうしたらいいんでしょう?、まっとうに
生きよといってもしょうがないと思うのですが。
伊丹堂:アホか。そういう人たちはようするに「不幸」という状況にいるので
あって、そういう人にはそういう人のまっとうさがある。だいたい不幸だから
といって特別枠に入れたり、不幸そのものを救済してやろうというのが傲慢な
んじゃ。人生において不幸を生きるってことも大事なんだということが、あま
りにないがしろにされてないか?
獏迦瀬:不幸を生きよ、と…。
伊丹堂:不幸を生きるということに対してワシらはもっと正々堂々としなくて
はならんし、そう生きている人に対しては、静かに敬意を払っていればそれで
いいってことなのじゃ。

■プロフィール■------------------------------------------------------
(ひるます)19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。
セツ・モードセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、
編集者、ライター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEBデ
ザイナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。著書とし
て『オムレット――心のカガクを探検する』(広英社:発行、丸善:発売元)。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」http://www.unicahier.com/に
て対応しております。お気軽にお問い合わせください。ひるますの個人的動向
は「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★ブックフェアのご案内★
 「<私=意識>とは何か〜哲学を柱に認知科学から脳科学まで」をテーマ
 に、約60点を選書したブックフェアを下記の書店にて開催中です。

 ■選書リスト:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/bookfair.html#0403
        上記のWebで展示写真を掲載しています。
 ■開催期間:2004年3月中旬より4月中旬まで
 ■場  所:ジュンク堂書店大阪本店3階東窓側フェア台(喫茶部隣)
       大阪市北区堂島1-6-20 堂島アバンザ
       TEL.06-4799-1090  FAX.06-4799-1091)
       [営業時間] 午前10時〜午後9時
 ■企画選書:るな工房・窓月書房 ■選書協力:中原紀生+ひるます
 ------------------------------------------------------------------
 ★第46回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年05月18日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:立岩真也『自由の平等』(岩波書店)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★予告通り新連載の第二弾(偶数月)がスタートしました。
★中原さんの掲載論考の末尾で書かれている<第四人称>について、「<第四
人称>とは、有限の生のパースペクティブを超えた、時間的にも空間的にも凝
縮したもののことでしょうか?」と質問したところ、「横光利一は『純粋小説
論』に「純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の
世界を実現していくことだ」と書いています。私は、横光のいう「四人称」は
映画のパースペクティヴ、つまりカメラ・アイのことだと理解しています」と
応答がありました。なるほど、「カメラ・アイ」とは上手い言い方ですが、そ
れならばさらにそのカメラを覗いているものは誰かと尋ねたくなるけれども、
そこは超越論的位置、哲学する身体にとっては「欄外/外部」の一点としてあ
るのだろう。
★メルマガ「臨場哲学通信」が「伊丹堂のコトワリ」として復活しました。
(血縁/非血縁)家族というのは、子供にとって生まれて最初に出会う最小の
共同態であると言えますが、その近さ(直接態)を生きること(親密さや苦々
しさが孕む関係)において私事化されて語られるか、あるいはよそよそしく社
会学の統計データとして数値化される家族像として語られたりするのですが、
そのどちらでもなくそれぞれの家族の固有性を課題として語ること/生きるこ
とは難しいですね。
★この一週間ほど、黒猫房主のテンションは低い。それは間違いないことだけ
れども!(黒猫房主)

●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』36号(通巻38号)(2004/04/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原隣・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
      http://homepage3.nifty.com/luna-sy/
■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
■流通協力:「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/(ID 0000015503)
■流通協力:「Macky!」http://macky.nifty.com(ID 2269)
■流通協力:「メルマガ天国」http://melten.com/(ID 16970)
■流通協力:「カプライト」http://kapu.biglobe.ne.jp/(ID 8879)
■ Copyright(C), 1998-2004 許可無く転載することを禁じます。
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■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は固定フォントでお読みください。


 

Date: Sat, 1 May 2004 15:36:06 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 『カルチャー・レヴュー』37号(皐月号)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
したので、ご変更をお願いします。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』37号(皐月号)
         (2004/05/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [38号は、2004/06/01頃発行予定です]
   ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★

●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆「アベカズはほめられている?!」----------------------------村田 豪
◆「青春の終焉」から「青春の復権」へ------------------------橋本康介
◆日本のレズビアン映画をヴィデオで見る----------------------鈴木 薫
◆「自己責任」という妖怪------------------------------------黒猫房主
◆INFORMATION:「自衛隊イラク派遣に反対する訴訟 〜関西〜」
        「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺(編集後記)--------------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
★今秋創刊予定、会員制の評論誌「コーラ」(A5判・80頁・予価500円)への
投稿を募集中です。投稿規定等の詳細はメールにてお問い合わせください。
E-mail:YIJ00302@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re32.html#32-1

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////// 連載「文学のはざま」第2回 //////

         「アベカズはほめられている?!」

                              村田 豪
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

 アベカズこと阿部和重が、作者自ら「破格の作品として書き上げたという自
負は持っています」とまで豪語した新作長編小説『シンセミア』。これは去年
10月末の刊行ですから、上梓されてすでに半年がたっています。その間に新聞
・文芸誌などにおける書評・評論もずいぶんと出そろいました。とくに批評家
や同業作家からは、多くの称揚、賞賛、激賞の声があげられた模様です。

 とくに目立ったのは、高橋源一郎が朝日新聞の書評において手放しで大絶賛
したものでしょう。後に高橋・阿部両者の『広告批評』(2004年1月号)での
対談でも肉付けされて語られていますが、高橋の評価の力点はこうです。長編
を支えるためのニュートラルな文体は、同時に表現としては限界をもってしま
う。中上健次も高橋自身もそれに苦しんできた。にもかかわらず、アベカズは
「要するにデカい屁みたいなものだ」というような独特の荒っぽい口語調でそ
れを突破してしまう。グレート!新しい!自由だ!と。他の評者たちも、私が
見た限り、おおむねその明け透けな語りについては、高い評価をしているよう
です。

 ところが、概してアベカズファンを自称する一般の読者からは、今ひとつ歯
切れの悪い感想がこぼれてもいるようです。確かに力作ではあるかもしれな
い。内容も派手で構築性がありアベカズらしい。しかしこれまでの作品に通じ
てあらわれたモチーフである、多重人格や解離を思わせる一人称の語りに面白
みを感じ、音楽や映画、漫画などのサブカルチャーを小道具にして構築される
批評的パロディに感心していたものからすれば、今ひとつぴんとこない、とい
うのです。本作では、アベカズお得意の人称マジックみたいな手法は完全に後
退し、雑多な登場人物を擁する三人称体の、ある意味では素直な語りの視点が
採用されているために、期待はずれに映るのかもしれません。そして、総勢60
人から70人にもなるという人物群が描きだされているのですが、それぞれが物
語の駒として多彩に動き回る一方で、どの人物にも集約的な視点が与えられな
いので、人は不満げに「どの人物にも感情移入できない」と漏らすのでした。

 さて、私の感想を当然明らかにしなくてはならないのですが、実は、よく分
からないのです。というか、賛否分かれているかに見える、プロたちの評価と
一般読者の不満足どちらもが私にはよく分かるので、どのように自分の意見を
表明すればいいのか、それがよく分からないのです。「よく分かる分からな
い」ついでにいうと、実はアベカズがどういう意図とモチーフで本作を書きつ
づったのか、部分的にはハッとするぐらいよく分かったので、これも私なりの
感想を与えにくくしています。作者の意図が分かる、というのも不遜な言い方
ですが、なんとなくよく分かるのです。いらぬ誤解を起こさないようちゃんと
例証しましょう。

 まず作者は、この作品をきわめて近い時点での「近未来小説」として書こう
とした、ということです。物語の舞台は、作者の生まれ故郷山形県にある「神
町」という現実的な場所であり、また2000年の7月から8月という今では過ぎ
去った短い期間を扱っている点で、「近未来小説」なんていう言葉を連想する
人はおそらくいないでしょう。作家本人も完成後のインタビューや対談でその
ようなことは一切口にしていません。しかし、雑誌連載時の初出は「アサヒグ
ラフ」1999年10月15日号であり、作者は来るべき「世紀末」に向けて作品を用
意し、時代と随伴すべく書こうとしたことは明らかでしょう。

 問題は、なぜそんなことが、いかなる意味でアベカズに要請されたかという
ことです。それは当時(すでに誰もがすっかり忘れてしまっていますが)「世
紀末」というものがかき立てる猥雑なSF的妄想が、オカルトチックな陰謀マ
ニアや子供たちの共同体がつむぐおとぎ話を遙かにはみ出して、政治や社会一
般の言説にも不安げな圧力を加えていたわけですが、おそらくそんな趨勢にた
いして、作者は自らの想像力で対抗しようとし、別の(そして本当の)現実を
予見しようとしたはずです。

 端的な例は、当時施行されたり制定されようとしていた「児童虐待防止法」
や「通信傍受法」です。これらを作者は、物語中でも新しく制定された法律と
して具体的に名指し、人物たちにそれへのリアクションを引き起こさせている
のです。ロリータ愛の警官中山正は、児童虐待から少女を守るという大義名分
を得てこそ、その偏執的劣情を爆発させえたのだし、盗撮グループの首領松尾
丈史は、国家が獲得した諜報権力を羨望してこそ、住民総監視の活動を増長さ
せていくのです。つまりこれらの未来への予防的な法律が、皮肉にもいかなる
形で転倒するか、そして予防されるべき空恐ろしい「世紀末」とは、事実上は
そのような転倒としてだけ到来するであろうことを、あらかじめ言い当ててお
こうと作者は考えたのではないでしょうか。

 作品が完成したのが、物語の時間をずいぶんとやり過ごした後であったの
で、このことはあまり問われてはいません。作者も「分量としては当初1000枚
を目論んでいたのに結局1600枚も書いてしまった」という予定変更については
種明かしをしていましたが、現実の成り行きととどのような連携でもって、い
つまでに終わらせるつもりだったか、については、残念ながら明らかにはして
いません。でもひょっとすると完成の遅れだけが、問題なのではないかもしれ
ません。作者が自らの想像力と予見によって企てた現実への抵抗そのものが、
今ではどこか肩すかしを食らってしまっているようにも感じられなくはないの
です。

 例えば、物語では「世紀末」のその夏、何十人も死傷者を出すダンプカー暴
走事件に、パン屋の三代目宮田博徳とその妻が渋谷で遭遇することになってい
ます。しかし、卑近な例ですが、もし現実の世界における9.11のテロが先に起
こっていたら、アベカズはこのくだりをもっと違ったように処理したのではな
いでしょうか。衝撃的で「世紀末的」なカタストロフィにしては、現在からす
れば、この出来事は何か的を外したような中途半端さを与えているように思え
るからです。ですから、意図としては最初は明瞭だったのに、「世紀末」に向
け作家が投射しようとした光学が、現実によって屈折させられてしまったた
め、その意味合いは確定しにくくなっているのではないかと思えます。だから
この予見の問題は、作者の意欲を買いたいところなのですが、作品における成
否として評価することは難しくなっている気がするのです。

 その他にも、感想の与えにくさについては、いろいろと言うことができま
す。やはり気になるのは、一般の読者が不満げに指摘する、語りの人称と登場
人物の問題でしょう。アベカズ自身の自己分析を引用すると「一人称の、自分
語りの方向は、このままでは行き詰まるだろうという予感がありました。『イ
ンディヴィジュアル・プロジェクション』は自分なりに上手く書けたと思えた
作品だったから、今後はもっと複数の視点のものを書いていかなきゃいけない
だろう」(webサイト「エキサイト・ブックス」におけるインタビュー
http://media.excite.co.jp/book/special/abe/index.html)と考えたらしい。
あるいはさきの高橋との対談では、「美文」を追求しているのではなく、「レ
ゴブロックとかを組み立てるみたいに、本来の置き場所の異なるもの同士をつ
なげて、その組み合わせ方によって新しい印象を生み出していきたい」とその
手法の意義を説いています。

 確かにアベカズの目論見には、一定程度理解できるところがあります。とく
に陰謀論的世界観の人物を複数配置することで、人物の心理と行動のメカニズ
ムについての前作までの蓄積を、余すところなく活用もしている点で、『シン
セミア』はそれほど単純な客観小説ともやはり言えないのです。細部には、不
測の事態、偶然、驚き、反転が絡み合い、一度読んだだけでは、実際どうなっ
ているのか分からないぐらいなのです。しかし、それをただ物語として読み辿
るときには、どんな破天荒な「出来事」も、作品が規定する時系列と因果性を
踏み外すことがないせいで、なんとも奇妙な慎ましさの印象に支配されるので
す。一向に胸のすくような驚きへとは少しも到達させてくれないのです。人物
と出来事の圧倒的な複数化が組織されればされるほど、いわば予定調和の出来
事を累々と積み上げられていくだけのように思われてくるのです。

 ただし、このことについては蓮実重彦が『新潮』(2003年12月号)での書評
「パン屋はなぜパンを焼く以外の多くのことに手を染めざるをえず、また、あ
るとき、ただのパン屋であることへのノスタルジーを憶えざるをえないのか
― 阿部和重『シンセミア』論 ― 」で非常にうまく評価として論じていま
す。ここでの蓮実は、この膨大で錯綜した出来事の累積である『シンセミア』
を驚くほど分かりやすい見取り図を用いて説明してくれています。そして多く
の読者が「予定調和」と感じたところも、「偶然を宿命化するこの何気ない呆
気なさこそが、『シンセミア』阿部和重の素晴らしさにほかならない」と冴え
た言い回しでほめるのでした。

 ただ、やはりこれは蓮実が素描する『シンセミア』にすぎないなあ、とも思
います。例えば、「神町」の隠された破廉恥な出来事の犠牲者に「祖母」を持
ち、「母」もまた別の辱めを受けたため「神町」自体に異様な復讐心をもつ隈
元光博を、蓮実が「かつて神町で辱めを受けた娼婦と進駐軍兵士との間に生ま
れた混血児」などと間違って簡略化してしまうところなどにも、その単純化が
見て取れます。それでも『シンセミア』を読んで今ひとつ消化不良の人は、蓮
実の当該の書評を読めば、少しその胸につかえたもやもやをすっきりすること
はできるかもしれません。こんな素晴らしい小説だったんだ、と説得されるこ
と請け合いです。

 他にも、大西巨人が短いながらその書評(『小説TRIPPER』2004年春季号)
で、おそらく最上の讃辞と思われる「芸術犯」という独特オマージュを授けて
います。つまりアベカズを芸術上の「確信犯」、大西との「共同正犯者」に仕
立て上げ、「阿部の犯行完遂を願おう」とさらなる飛躍を、ほとんど約束され
たものであるかのように、格調高く奨励しています。これだけほめられたら、
アベカズも本望でしょう。

 しかし、この賞賛の合間には、他の論者が手放しでほめた『シンセミア』作
品中の漢語の多用については、大西らしい指摘でもって難じています。間違い
とは言えないが、「『顕在化した無意識に促されるようにして』とか、『過慮
とは理解しながらも』とか、『幼子らの喧しい泣哭が』とかいう語の選択・使
用・排列を、もっぱら消極的に評価する」と、ほめきれないのです。確かに物
語のある事態にたいしての、漢語表現が孕む微妙な踏み外し方が、文章のドラ
イブ感をそいでいるように私にも思われるのでした。高橋との対談でアベカズ
本人は「間違ってるということで終わってしまうんですね。僕の場合も「文章
がヘタだ」で終わってしまう。(笑)」と言葉遣いについてのよくある表面的
な批判を皮肉っているのですが、果たしてそれで済むのかどうか。さて、私は
なおよく分からなくなるのです。

 『シンセミア』は果たして、いいのか悪いのか。傑作なのか駄作なのか。結
論はでないままではありますが、しかし作品中、私なりに相当感動・感心した
箇所もあったので、それだけは最後に明らかにして、この『シンセミア』評価
にまつわる小文を終わらせたいと思います。

 それは、見合い結婚して2年もたつのに互いにうちとけあえぬままに、しか
し仮面夫婦としての行き詰まりを感じていた宮田博徳と妻の和歌子が、洪水で
町全体が避難状態の騒動にあるただ中、偶然の思い違いが作用して、標高百数
十メートルの「若木山(おさなぎやま)」を二人して裸足で駆け上がる羽目に
なり、足を傷つけ息を切らせた頂上でとうとうお互いが相手を今や理解した
がっていることに気づく、という掌中唯一すがすがしく描き出された場面でし
た。大洪水の後の雲間から差し込む荘厳な光が、水に浸された「神町」を照ら
し出す、という描写まで添えられた非常に感動的な場面なのです。
  
 それまでの若い夫婦のでたらめな行状によってハラハラさせられてきた読者
としては、ここで突然の象徴的な山登りによって、主人公格の博徳とその妻の
間に、今までになかったような親密さが醸し出させられるのは、結構なカタル
シスになったことだと思います。これはおそらく私だけが感じたものではない
でしょう……。

 しかし、やはりアベカズを尊敬してやまないと私が感じたのは、もう十年も
前に書かれたデビュー第2作の『ABC戦争』の次のくだりを読み直したとき
でした。これにはやはり呆気にとられるしかありません。

 Y県の山、あるいは「文学的」山登り。しかしこれにはどうも嫌な予感がす
る。なぜなら「文学」にとって、山は、これまでどれほどおおく信仰の対象と
なってきたことか!おもいだせば、あれも登ったこれも登った、あの山もこの
山も……。(略)《跳躍》における滞空時間をできるかぎりひきのばしてゆく
ことをいちおう義務としてうけいれたものとしては、頂上に一気にのぼりつめ
たりしてはならず、―― 昼飯に食った鯛にあたって下痢などして ―― 中途
で立ち往生していなければならない、というのも、これから登ってみようとい
うY県の山とは、月山でもなければ鳥海山でもなく、ましてや蔵王山ですらな
い、標高一三三mというまことに小さな山、若木山なのである。(『ABC戦
争』)

 アベカズが、自分の小説世界に「若木山」を初めて登場させたとき、それは
山とも呼べぬ標高133メートルの小さな山、「文学的」な信仰の対象にはなり
えぬ山、作品に《跳躍》としての持続を望むならば「頂上へ一気にのぼりつめ
たりしてはなら」ない山としてでした。それゆえ同作では「若木山」は慎重に
(あるいは悪戯っぽく)「O山」と記号に書き換えられ、山を「自然主義的」
=「神秘主義的」なドラマの舞台として描くような「文学主義」を封殺する、
という手の込んだことをやっていたのでした。

 つまり、『シンセミア』で私が感動した「若木山」の夫婦による駆け上がり
は、十年前に同じ作者が批評の対象にした「文学的」なドラマそのものだった
わけです。十年かけてアベカズは、山ともいえぬちっぽけな「若木山」を、山
登りにふさわしいだけの、さらには信仰の対象としての「文学的」な山へと、
その力業で仕立て上げたのでした。なんとなれば、作品は、狂信的な一部の神
町住民による「若木山」御神体発掘作業のさなか、第二次大戦下に残された幾
多の不発弾が爆発しだし、ついには山の真上の闇夜をUFOのような赤い巨大
な光が浮かび上がる、といったまさに馬鹿馬鹿しい「神秘主義」でもって大団
円を迎えるのですから。

 最後に、『シンセミア』を読んでいない人には、私のこの論評は、「『シン
セミア』って結局どんな話なんだ」という疑問のフラストレーションを与える
ものでしかなかったかもしれません。しかし私の力量では、やはり要約のかな
わない作品なのです。ご容赦いただきたいと思います。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。腹ぺこ塾塾生。

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////// 投稿「書評」 //////

         「青春の終焉」から「青春の復権」へ

 ――脇田憲一著「朝鮮戦争と吹田・枚方事件−戦後史の空白を埋める−」
        (明石書店・4,800円・845頁)雑感――
                              橋本 康介
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 三浦雅士はその評論集「青春の終焉」(2001年 講談社)の前書きをこう始
める。

 ――「『さらば東京! おおわが青春!』
 一九三七年九月二十三日、中原中也は、詩集『在りし日の歌』の後記の最後
 に、そう書きしるした。享年三十一。詩集原稿は小林秀雄に托された。
 『還暦を祝われてみると、てれ臭い仕儀になるのだが、せめて、これを機会
 に、自分の青春は完全に失はれたぐらゐのことは、とくと合点したいものだ
 と思ふ』
 小林秀雄がそう書きしるしたのは、四半世紀後の一九六二年。友を失った批
 評家は、生き延びて、六十歳を迎えていたのである。」――

続けて、青春や青年という語の起源と、発展し世に定着する過程、下って60年
代後半に急速に萎んでしまった背景などを語っている。例えば「伊豆の踊子」
では、青春がエリート層の旧制高校・帝国大学という制度による囲いこみに
よって維持された、つまりは階級による特権者の独占物であったと語り、主人
公はまさにその青春に在り、登場する人々、踊子も栄吉やその女房も青春とは
無縁だったと述べる。60年代後半の学生反乱こそは、そうした永く続いたエ
リート層・特権者の独占構造の大衆化を通じた解体過程、青春の終焉であった
と言う。青年という語にはあらかじめ女性を排除する思想性が間違いなく付着
しているし、それは保護者の会を父兄会と呼び、労組などでも若い男女の部会
を青年婦人部と呼んでいたことにも正直に表れているとつなぐ。

 事実、70年を前にしたぼくの学生期には、所得倍増の「成果」が創り出した
その特権の大衆化の中で、青春や青年といった語は、臨終直前であり、やがて
青春・青年はダサい気恥ずかしい言葉として姿を消した。三浦氏が言うとお
り、青春文化・青年文化とは呼ばず、代わって若者文化と称したのだ。

 青春という語に宿るその気恥ずかしさは、社会的な特権背景もさることなが
ら、特権の渦中に在ればこそ無自覚な「青春はかくあらねばならぬという確
信」「青春の規範とでもいうべきもの」(三浦)という、青春という語の背後
に倫理めいて潜んでいる、いかがわしさにも依っている。そのいかがわしさを
見破ることにさえ、膨大な労力を費やし夥しい醜態を演じたのが、60年代後半
期の青年たる我が世代だと言われれば、ぼくや同世代者は怒るだろうか。

 さて、本書は敗戦から朝鮮戦争・55年日共「六全協」前後に至る時期の、日
共軍事路線の二転三転する混迷に翻弄されうごめく群像(企画段階の書名は
『炎の群像』)の、845頁にも及ぶ身を削っての当事者(著者は「枚方事件」
に被告人)ドキュメントと、関係者への聞き取りである。

 当時の日共の方針のブレや、党内抗争の裏面のいきさつにも触れていて、戦
後初期共産党史としても興味深い。何を巡って抗争していたのかさえ、一体ど
ちらがソ党の「介入作戦に毒された」のかさえ、たぶん当事者にも党中堅幹部
にもさっぱり解るまい。「所感派」「国際派」・「軍事方針」「平和革命路
線」・「臨時中央指導部」「全国統一委員会」・「四全協」「五全協」「六全
協」……その入り乱れて錯綜した経過と抗争内容は、昔(68年当時)若干学習
したが、いま本書を読み返しても相変わらず難しい。

 が、著者は元々、党の政治的総括を求めるために本書を書いているのではな
い。当時の東アジアの政治地図には世界史的の理由があり、選択された各種方
針には当事者なりの根拠がある。その理由・根拠を封印し、党史を改竄するそ
の党的在り方のことを言っているのだ。

「吹田事件」。1952年6月24〜25日。
 前夜の阪大石橋キャンパスに結集した朝鮮人・日本人の3000人も、同日阪大
下の待兼山米軍住宅への軍事攻撃を準備していた部隊も、深夜の行進の果てに
山田村で合流し、千里丘竹之鼻ガードをくぐって「吹田操車場」へ突入した
1800人も、笹川良一邸を襲撃した部隊も、「列車を一時間遅らせば千人の命が
救われる」との想いに基づくそれらの行動は等価ではないのか。

「枚方事件」。同年「吹田事件」の前日。
 旧陸軍の砲弾の70%を製造していた枚方工廠、その払い下げ先小松製作所の
砲弾製造手段を爆破しようとする著者を含む9名の行動。実行部隊4名の中に
いた3名の朝鮮人青年。参加者に共通した「同胞の殺戮を阻止したい」「日本
の直接戦争参加を許さない」とした爆弾製造手段爆破の実力闘争は、その政治
的方法論を巡る論議や政治的有効性の当否への客観的評価とは別に、後年装い
を新たにした党から「極左冒険主義」であり「無関係だ」として葬り去られる
べき行動ではない。党は紛れもなく、直接に関与していたのだ。
彼らの想いに誰が光を当てるのか? 著者はそう語っている。

 改憲論議が進み、イラク派兵は苦肉の特措法にさえ抵触している。北共和国
の不法不当な拉致問題を最大限に活用しての『過去ほうかむり精算』と『脅威
論の流布』が深く広く進行している。この国のぼくたちは脅威論と排外主義の
蔓延の中、再び為政者が企図した筋書きに乗るのだろうか。

「戦争のできる国」へとひた走る準備作業は、巨大メディアを駆使し、戦時下
イラクでのボランティアやジャナーリストの人質事件への「自己責任論」「損
害(?)賠償論」を広く形成することに成功した。

 自衛隊派兵だけではない日本の在り方を示してくれた若者を、一億挙げて袋
叩きにするという、世界に通用しない「奇妙」を堂々と繰り返す異常さえまか
り通っている。国家方針に沿わない行いや存在を力ずくで排除する危機の時代
の到来である。

「吹田・枚方」は、戦争と平和、民族と国家 を考える際の生きた教科書でも
あるだろう。
「吹田・枚方」が、いまぼくたちに語りかけるものは何なのか?

 やがて、著者はその後、和歌山水害救助隊への参加から、党の方針に従い
「山村工作隊」に入隊する。
 党が約束した食料補給が途絶える中、大阪へ出て集めた食料を担ぎ、雪深い
山道を独り往く著者、その冷たく冷え切った足先の感触が伝わって来て痛い。
 著者はその眼差しの向こうに何を見ていただろう……。

 このとき著者には「かくあらねばならぬという確信」や「規範とでもいうべ
きもの」のみでなく、いかがわしさを顧みぬ倫理でもない、内側から来る希い
のような原初の叫びが、理論や戦術戦略を超えて確かに在った。元々エリート
と無縁にして特権を持ち合わせない貧困夜間高校生としての著者が、当時の軍
事方針下の諸行動・諸個人を「極左冒険主義」として歴史から抹殺した党への
憤りを除けば、自己の内と想いを同じくする仲間の内において、「こと」の自
己責任を負う気概で立とうとしているのは、当時の「事件」への視点目線から
も、その後の経歴からも明らかだ。

 そこには、戦後のある時期、社会的特権性からもエリートという括りから
も、そしてその奥に潜んでいるいかがわしさからも免れた、民衆(あえてそう
言おう)に開かれた青春、原初の青春が確実に息づいていたと思い至る。奥深
い山の工作隊員間にときに発生する、党方針・食料問題・移動と人事を巡る紛
糾も、勤労奉仕や山びととの交流・信頼関係も、それは間違いなく丸ごと、
「こころざし」を維持した隊員たちの青春が支えた日々だ。おそらく類まれな
る天与の時期だったのだ。著者はそこに居た。

 その青春は畢竟ある種の世界性へ、全体性へと向かって当然なのだ。個々の
青春の有効性を求めてやまない在り様は、個々の青春を鷲掴みにして維持され
る司令部といった政治的・戦術的な党的存在ではなく、思想としての中枢を担
うべきもの=統括的な機能を果たす存在を模索していた。

 最近、旧友が、しばしば「党的な流儀の一切を拒否」するというぼくに棲み
ついた「党派性」に業を煮やし、「あのな、『全共闘』時期の教訓とはな、あ
えてひと言で言えば、依りかかりの対象としての『党』を拒否するあまり、必
ずや必要な統括機能をまるごと否定した、その無効性のことやないのか」と述
懐したのだが、急所を突いていて半ば了解できるのに、素直に聞けなかった。

 ひと昔まえなら、「依りかかりの対象としての『党』を拒否するというより
も、『必ずや必要な統括機能』であっても、『統括』や『機能』そのものが持
つ、その代理性=権力性をまるごと乗り超えることを志向したのだ!」などと
言い返していただろう。

 1955年7月、日共「六全協」(第六回全国協議会)。同年12月、著者は、工
作隊以後転々とした任務を経て従事していた「アカハタ」分局員を突如解任さ
れる。「弾圧事件関係者は党の常任になれないという機関決定」が理由とされ
た。「極左冒険主義」のその責任は「武装闘争を実践した下部党員」にあると
し、他ならぬ直接間接に武装闘争に関与した多くの幹部によって、党は生き延
びたのである。

 なお、著者の為に付け加えれば、除名を想定した意見書の提出などに見られ
るように、この突如解任がなくとも彼が党を離れていたことは疑いない。
党とは無関係な「間違い」とされ、一部の者の「冒険主義」だと葬り去られた
事実を、飾り立てや誇張を排し戦後史の中に過不足なく、正確に確実に、定位
させたい。それが、領導した党・参加した個人それら当事者の、歴史へのせめ
てものそして本源的な責務であり、唯一の可能者であるはずだ。著者はそう訴
えている。その責任を果たそうという作業を、政治的にではなく思想的に、臓
をしぼって開始したとき、党は党を超えられるのだろうか……?

 俯瞰すれば垣間見える無謀、ある意味での青春の無残、その恨み辛みを、と
うに終焉した青春にしがみついて書いたのではない。ましてや、逆にそれらを
隠蔽し美化した青春や、爆弾闘争の冒険譚や自慢話を書いたのでもない。決し
てそうではない。

 それら正負を超えて、自身のみと過去のためでなく、自身を含む人々と未来
のために、その展望の一助にと「青春の復権」を書いたのだ。著者はきっとそ
う言いたいはずだ。
 そうした「青春の復権」を今日的に可能にする方途の模索こそが、読者に与
えられた課題だろう。

 それが、もはや終焉したはずの今日に不適にして無効なる「青春」を、墓を
掘り起こしてまで、再び持ち出すことでないことは言うまでもない。
 著者が最後部分に書いている、いくつかの今日的取組みが著者にとっての今
日的方途の模索なのだが、その方途は読者各自がそれぞれに見出すしかない。

「自己責任」を問われバッシングに遭っても、対象と等身大に触れ合おうと再
び戦場へ向かう気概をさえ持つ若者たち、その青春。自民・公明・民主相乗り

助役上がり市長候補との闘い(茨木)に打って出、互角の戦いをした女性市民派
市長候補と選挙を支えた若者たち、その青春。済州島「四三事件」に関与し密
航して在日し、今なお、一九四五年に半島に居て構想した「原祖国」の意味を
問い、あえて日本語で語り続ける朝鮮人詩人・金時鐘の、その74歳の青春。

 それらは、新たな流儀=依りかかるまいという在り方、党力学とは無縁にし
て党から無援の在り方を示して、先に述べた旧友の述懐と「ひと昔まえのぼく
の言い返し」との応酬域を超えようとする地平に立ち、やはり「青春の復権」
を問うてはいないか。

 それらは、死語としての青春ではない、特権に支えられいかがわしさを抱え
持った青春ではないもの、著者が関与した党の日々=「極左冒険行動参加」
「山村工作隊体験」を可能ならしめたのにも通底する、あることを訴えてい
る。「青春の復権」なる言い回しが的を得ていないとしたら、ネーミングは任
せたいのである。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(はしもと・こうすけ)1947年、兵庫県生まれ。1970年、関西大学社会学部中
退。1977年、労働争議の末、勤務会社倒産。5年間社屋バリケード占拠の中、
仲間と自主管理企業設立。1998年、20年間余の経営を経て、同企業及び個人、
自己破産。2001年、小説『祭りの笛』執筆(2002年1月、文芸社刊)。2003
年、「映画から届いた『「肉声』」(「La Vue」14号)に寄稿。2002年、知人
の業務の支援として中国家具工場貿易ブローカー開始、現在に至る。大阪府茨
木市在住。

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////// 連載「映画館の日々」第2回 //////

        日本のレズビアン映画をヴィデオで見る

                              鈴木 薫
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■美しさと哀しみと☆ 誘惑者☆櫻の園☆ナチュラル・ウーマン☆blue

I: あらら……連載二回目にして、看板に偽りありじゃないですか。
S: このところ映画館に行かない(行けない)日々を送っているもので。今
回はこれで勘弁して下さい。上記五本を借りてきました。
I: Sさん、もともと映画をビデオで見るってことをしない人ですよね。
S: できない人 です。ロラン・バルトも言ってますが、明るい室内で、複
数の家具のうちの一つに注意を集中しつづけるなんて。
I: では、これらの映画も映画館で見ている?
S: ……それが、映画館で見ているのは『櫻の園』だけなんです。
I: それはかなりキビシイですね。だいたい、どうしてレズビアン映画なん
です?
S: それは、必要があって、『blue』以外は以前にもビデオで見ているもの
で、見直せばいいかと。
I: Sさん……「必要があって」だなんて(笑)、まるで、「男色には興味
ないけれど学問上必要で」と前置きしなければ発言できない国文学者みたい
じゃありませんか。
S: 同性愛には関心ないけど、ジッドのことが出ていたのでこの本を訳した
と訳者あとがきに書いてるデタラメ訳の人とか? いえ、別に、内容に興味が
あったからと言ったって何もこわくはないんだけど、私がビデオで映画みる
のってよっぽどのことだから。やっぱり、必要に迫られなくちゃ見ないんです
よ。
I: そうすると早い話、今回の私たちの対話は〈映画体験〉についてではな
いってことになりますね。
S: 残念ながらそう。作品の選択だって、たまたま貸しビデオ屋にあったも
のにすぎません。それでも、私(たち)がこれらのビデオを予想外に楽しんだ
ように、読者の関心を惹きつけ、楽しませられるような何がしかを語るべく、
せいぜい努力してみましょう。

■『美しさと哀しみと』(篠田正浩監督 1968)
I: 私はこれ、キモノを着たキレイな女二人を出したいという、男流作家と
男流監督の欲望の典型的な具現にしか思えなくて。おまけに、八千草薫演じる
女性画家の絵に、男流画家のアノ絵を使ったってのが……。
S: あれはいただけませんね。自分が亡くした赤ん坊を描きつづけることぐ
らいしか、女が芸術家になる動機としては思いつかないんでしょうね。殴り描
きされたような女体も、ああいう女流画家がもしいたとしても描かないよね
え。ちなみに、幽霊絵師は池田満寿夫です。
I: 内弟子である加賀まりこが、師匠であり恋人である八千草の昔の男に復
讐するため、男とその息子を誘惑するって、何なんですか、この馬鹿らしい設
定。
S: まあ、それはそうなんだけど。でも、加賀まりこがすごくいい。彼女最
近、自分の人生を振り返った本出してたんで、この映画のことが出てるかもと
思って立ち読みしたけど、原作者の川端康成に自分がどう見られたかってこと
しか書いてありませんでした。でも、俳優の自己認識とは別に、また、作中で
彼女に投げかけられる「怖いほど綺麗」「妖婦」「はげしい娘(こ)」といっ
た形容とも別に――当時の彼女には「小悪魔」というレッテルが貼られていた
わけですが、そうしたある時代の偏見から自由になって――私たちは今、これ
を見ることができるわけです。そうした意味づけを洗い流され、時間の彼方か
ら奇蹟的に甦った二十歳(はたち)のまりこのせつなげな唇を、イノセントで
ひたむきな表情を見、湯上がりの八千草薫のために彼女が画面外でコップに注
ぐ冷たい水の清冽な音を、八千草の指を口にふくんだ彼女の、「ちっとも
しょっぱくないわ、お湯にお入りになったから」とつぶやく声を聞くべきで
す。
I: 私は、「イルカごっこしません?」て、笑いながら走って行くところが
好き。
S: 師匠の昔の男と、水族館でイルカの餌やリをした帰路、イルカは腋の下
が弱いんだけどお嬢さんはどうでしょう、といやらしいことを言われて――。
I: セ・ク・ハ・ラ・お・や・ぢ。
S: 山村聡だから、それほど嫌な感じでもないんだけどね。そのあと、八千
草薫と二人きりの場面で、加賀まりこが「先生、イルカごっこしません?」
て。
I: 先生の方は何も知らないから、「イルカごっこって何?」って優しい声
を出してる。あの二人は、ちゃんと恋人同士なんですよね。
S: ちゃんとって、プラトニックじゃないってことね。それを許してるのっ
て何だと思う?
I: 二人とも、「普通の人」じゃないですよね。八千草薫、十七で産んだ山
村との子がすぐ死んで、自殺をはかって、「気違い病院」に半年入って――そ
れで芸術家になった。加賀まりこの方は――「気違いさん」だって、八千草か
ら山村に紹介されてますね。
S: この映画をテレビで見たことがないのはなぜかがよくわかります……今
でも本当は山村を愛しつづけていて加賀まりこを嫉妬に狂わせる八千草はとも
かく、加賀まりこの方ははっきりエクセントリックな女として提示されていま
すよね。というところで、四半世紀後に作られた『誘惑者』へ話をつなげま
しょう。

■『誘惑者』(長崎俊一監督 1989)
I: そうか、これは完全に「気違い」の話なんですね。
S: 病人ですね。レズビアン=病気と断言されているわけではないにして
も、ここに出てくるレズビアン、秋吉久美子は病人です。犯罪者でもある。
I: 最初ッから、草刈正雄が精神科医で、彼女は患者ですもんね。
S: ただ、私今回見直して、このヒエラルキーが絶対じゃないところが面白
いと思った。草刈正雄が弱い男なんですよね。二度も刺されるなんてマヌケ
じゃないですか。しかも、刺される場所が二回とも腿――あれは象徴的去勢で
しょう。
I: なーるほど、そうか……。でも、めげないんですよね。恋人の原田貴和
子を秋吉にとられちゃっても。また来るって言ってるし、原田も笑顔で応じて
るじゃない。自分で刺しといて。
S: 彼女たち、本当なら警察行きのところなのに、なぜ許されるか。それは
やっぱり、責任を取れるような「まとも」な側にはいないから。秋吉の妄想に
原田がつきあっているので、このままでは秋吉は人格崩壊をきたすと草刈に警
告されている。遠からずそれは現実となるんでしょう。二人の関係には未来が
ないし、社会性も、外部もない。いくら美しくても(とは、私は思いません
が)。結局のところ、医者=男が最終的には勝つと決まっているから、草刈は
負けられるのかも。『美しさと哀しみと』も、女二人で完結しない、男が媒介
する関係でしたが、これもやはり、男性によって囲い込まれた上で、美しい女
たちを楽しむという構図なんでしょうか。
I: 『誘惑者』は原作はあるの?
S: ないと思うけど。脚本家は――男性ですね。
I: 残る三本は、女性作家の作品の映画化です。較べてみてどうでしょう?

■『ナチュラル・ウーマン』(佐々木浩久監督 1994)、『櫻の園』(中原俊
監督 1990)、『blue』( 安藤尋監督 2001)
S: まず、『ナチュラル・ウーマン』ですが――これも、エクセントリック
女ですね。
I: さっきSさんが言った、男に媒介される関係っていうのは、ここでは影
をひそめてるでしょ。
S: でも、その代り、何がある?
I: 緒川たまきの胸と、ぎりぎりまで露出した脚。
S: 持ち上げている……。それを、男のための露出とは全く思わないけど、
でも、小説『ナチュラル・ウーマン』がああなってしまうというのはやっぱり
悲惨ですよ。
I: 『櫻の園』と『blue』はどちらもマンガが原作で、女子高での、女同士
の恋愛感情を描いたものですね。
S: これ、どっちが好き?
I: 『blue』ははじめて見たけど、私、前から、『櫻の園』かなり好きなん
ですよね。吉田秋生の原作よりも好き。
S: 私も、原作よりずっと好き。映画より原作の方を後で読んだけど、原作
は男性との初体験の話なんかがかなり重要な位置を占めていて、女の子が女の
子を好きというのは一部でしかないのよね。それも、女同士であることによる
共感の方が比重が大きかったような。
I: そう。映画の方が、〈好き〉に焦点が絞られていて。最後の記念写真の
場面、よかったな。
S: それがね、今回、『blue』の方に惹かれたら、『櫻の園』が作り物めい
て見えてきちゃって。『blue』は原作(魚喃キリコ)も好きだったはずなんだ
けど、今回見て、読み直したら、映画の方が好きになってたの。で、気に入ら
ないところを先に言うと、このどちらの映画も一人が一人に「好き」と告白し
て、「嬉しい」ともう一人が応えるけど、「嬉しい」の先がないのよね。
I: と言うと? ベッドに行けとか。
S: いや、そうじゃなくてさ。ベッドに行ったって、それでもう先がないっ
てことだってあるでしょ。つまり、どうしてこういう話が受け入れられるかっ
ていえば、それは、思春期の一過性のものだってことになってるからでしょ?
I: その先に、女同士にどういう関係がありうるかってことを想像できない
から、エキセントリックな女か、病人か、コドモってことになるって言いたい
のね。
S: そう。本当は高校生はコドモじゃないけどそう見なされていて、それな
らば安全ってことよね。本当の(異性の)恋人ができれば、嘘のように消えて
しまうもの。Vito Russoの“Celluloid Closet”に、精神病院の中だからレズ
ビアニズムを描くことが許されるっていう、六十年代の映画の例が出てきま
す。病気が治るってことは、レズビアニズムが治るってことと同じだという。
I: 女子高も精神病院も、構造的には同じだったのか! でも、アメリカの
場合のように、レズビアンが激しい排除と憎しみの対象になるっていうことは
ないよね。
S: それって、どうなのかな。そういうものがあることも考えられないほ
ど、同質性の幻想に捉われた社会であるとも言えるでしょう。

■ふたたび『blue』
S: 話を『blue』に戻すと、あれも、あらかじめ限界を設けた上での切ない
話だよね。
I: ちょっと原作との違いを指摘しますと、桐島(映画では市川実日子が演
じる役)は、原作では遠藤(同じく小西真奈美)を好きになって、彼女に中絶
経験があることを知り、遠藤に近づきたくて男の子とホテルへ行きます。
S: あれ、映画では原作ほど痛々しくなかった。
I: 市川実日子のキャラクターもあって、さらりと流してた。
S: 原作になくて映画にあった切ない場面は、妻子ある男と別れた遠藤に向
かって桐島が、今は一番の人の場所が空いてるけど、結局また誰か(男)が一
番になって自分は二番でしかなくなる。それでもあたしはいつまでも遠藤が好
きだよ、というところ。遠藤の側から言えば、男との関係に躓いたから、女性
との二次的な関係に甘んじているわけです。いくら笑顔でも、キスしてくれて
も。この点は、『美しさと哀しみと』から変わっていない。
I: しかも、両方とも妊娠小説ですねえ!
S: この二人、どっちが好み?
I: 小西真奈美。市川実日子を好きって人の方が多いと思うけど。でも、ほ
んとはこの二人が一緒にいるのが好きなんだ。
S: 市川実日子の低い声と、小西真奈美のしっとりした声。両方ともいいよ
ね。男と女のように対極(と思われているだけだけど)というわけじゃなく
て、たんに「違って」いる二人。
I: もっと表情をよく見せてくれればいいのに、すぐ暗くなっちゃって。
S: 私は、あの、自然光で撮られてるのがいいと思ったよ。確かに、すぐ逆
光になっちゃうけど。原作は鋭い描線の、本当に、エッセンスだけでできてい
るような絵じゃない。だけど、映画は何でもキャメラを向ければ映っちゃうか
らね。畑が広がる野へ出てゆき、走るバスを映す。東京で一緒に暮らしたらど
うだろうという会話も、原作では室内だけど、映画では夜明けの水のような空
を背景に交わされる。丸襟のブラウスに四角い襟あきのジャンパースカートと
いう、シンプルきわまりない制服(『櫻の園』の制服が媚びて見えてきま
す)、袖は半袖、脚は黒のハイソックスで、夏の光の中で撮られた映画です。
I:  そういえば原作との違いで際立つのは、セザンヌの画集を小西真奈美
から借りた市川実日子が、それをまねて静物画を描きはじめるところですよ
ね。原作にはセザンヌは出てきません。
S: 結局彼女はそれがもとで美大を目指し、受かって東京へ行ってしまう。
セザンヌの絵も、キャメラを向ければそれで再現できるんだから、それは正し
いやり方だと思います。画集の上でも、光を絞って、果物を闇に沈ませたりし
てましたね。ああ、やっぱりスクリーンで見るべきですね。
I: 小西真奈美の方は、家に画集を持っているくらいだから、美術、好きな
んでしょう。でも、鑑賞するだけの側。ところが、彼女に影響を受けた市川実
日子の方は創り手になってしまう。一種の芸術家小説になってると言ったら、
大げさかしら。
S: 実は今日取り上げた作品の三本まで、ヴィジュアル・アートがかかわっ
た話なんですよ。つまり、八千草薫と加賀まりこも画家だし、『ナチュラル・
ウーマン』の二人をつないでいたのは劇画を描くことですよね。(そこに意味
を見出したいわけでは全然ありませんが。)『blue』の原作にはなかったけれ
ど、映画版ではできたこと。それは、小西真奈美が、ビデオカメラを手にする
ことで「芸術家」になったことです。絵を描かなくとも、ただキャメラを向け
るだけでいい。彼女が撮って送った青い海を、東京で市川実日子が繰り返し繰
り返し見ていることが語られる。
I: その向うには何があるんでしょうね。ビデオ画面の海の向うには。
S: 何にもないに決まってるでしょ。
I: 原作の遠藤は、親元を離れられないままいずれ結婚するみたいだけど、
小西真奈美の方はどうにかなるんでしょうか?
S: どうにかって?
I: つまり、「芸術家」になってさ、市川実日子と暮らすために東京へやっ
てくるとか。
S: それはありえないでしょう。沖に雲が連なり、波が寄せては返す、その
無窮の運動のように繰り返し見られるビデオの空と海、さらに接近してただ散
乱する光になるブルー。それが映画『blue』の美しさの極まりであり、限界で
す。
I: どうしたらいいんでしょう?
S: 私に答えを提示しろと?
I: だって、Sさん、答えを知っているのかと思って。
S: 桐島も、遠藤が答えを知っていると思ったのよね。それで「遠藤になり
たい」と言ったんだけど、最後には遠藤の方が自分には何もないって言い出し
て、桐島の方が何ものかになって(なろうとして)東京へ出てゆく。東京って
いうのは、閉ざされた領域の外部の象徴ですけど。
I: これ、成長物語でもあるのよね。
S: そういう意味では多くの人に、胸のつまるような懐しい思いをさせる作
品なのかもしれません。でも、懐かしむというのが、距離を介して安全に追悼
することだとしたら、それはけっして過ぎ去ったわけでも手の届かないところ
へ行ってしまったわけでもないと、とりあえず言っておきましょうか。
I: 私たちの関係って何でしょう。ねえ、Sさん。私、Sさんの何なんで
しょうか?
S: さあ……内弟子ってことでどうですか?

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)体制側による用語のアプロプリエイションについては田崎
英明が書いていたが、最近驚いたのは都教委の人間が、都立高校への日の丸君
が代全面強制を「改革」と称していたこと。全都立高でたぶん唯一、69年の高
校生の叛乱を、校史でも「改革」と呼んでいる(はずの)高校を私は出てい
る。かつてはその名自体抵抗のしるし、都教委には許し難かったはずなのだ。
四方田犬彦の『ハイスクール1968』(彼の母校では最近校史から紛争の記載が
消えたという)に『blue』を足すと、私の1969年にいくらか近づくだろうか?
 四方田も言うように、大学紛争に比べ高校生の叛乱の記録は格段に少ない。
校舎が占拠されていた時も美術室でデッサンをしていた私の導き手は、17年後
精神病院で死亡。事実はあまりにも奇にして小説にもならない。5月3日(月)
三国志本(小説)でコミケに初参加、5月15日(土)夜、東京・本郷にて「き
ままな読書会」の予定。いずれも詳細はdokushokai@hotmail.comへ。

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////// 情 況 //////

          「自己責任」という妖怪

                              黒猫房主
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「自己責任」という妖怪がうろついている。しかしこの用語は精確に遣われて
いるのだろうか。

「自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、人は自分の負うべき責任のみを
負い、他人の責任まで負うことはない、と言うことです。従って他に、責任を
負う者が居るのに、事実上全責任を負うことを強いられている者の「責任」を
意味するものではありません。」
(http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/683/683_04.htm より)また法律辞典
でも、同じ趣旨の説明がされている。

 そこで、イラクで人質になった人々を「自己責任」論をもって、パッシング
する論法の誤用を批判してみよう。

 人質になった人々は「ある目的」でバクダッドへ向かった(A)。そして、人
質になった(B)。

 AとBは近接あるいは連続した事態(AそしてB)であるために因果関係が
あるように思われ、Bという結果の原因がAという行為にあるように思われる
が、この関係に因果関係はない(AだからBではない!)。

 この事例をパラフレーズしてみよう。
 私は夜道を歩いた。そして強盗に襲われ、助けを求めた。

 強盗という行為の原因は「私」にはなく、「私」は被害者であることは明白
である。また「不注意」や「自己防衛」できなかった「私」にも責任があると
する論法は教訓的ではあるが、そして「不注意」はあったかも知れず「自己防
衛」も怠ったかも知れないが、そのことをもって被害に対する「自己責任」に
は直結しえない。

 しかしイラク「人質」事件と強盗の事例とは違うではないか、という反論が
ありえよう。危険地域を「承知」で踏み込んで危険な目にあったのだから、そ
れを他者のせいにしてはならないという意見(自己責任)はもっともであるよ
うに聞こえるが、そのような責任ならばすでに彼らは引き受けている。そして
承知(その承知内容とその程度が問われてよい)していたのだからと言って、
起こりうる結果のすべての責任が彼らにあるとは言えないし、救助しなくても
よいということには繋がらない。

 今回のイラク「人質事件」の事例では、Aという行為をしなければBという
結果にならなかった可能性は高いが、A以外の行為をしてもBになった可能性
も高い(バクダッド以外の場所でも人質になった可能性は、もはや高いだろ
う)。そして肝心なことは、Bの原因は別のところにあるという点だ。(*1)

 つまり「人質」にされる理由(政治的原因)は彼らにではなく、アメリカ政
府とそれを支援する日本政府にあるということだ。ところが、政府は「自己責
任キャンペーン」によって、「人質」になった全責任が彼らにあるように世論
を誘導したのであった(これは、本来の「自己責任の原則」に反する)。それ
は日本政府の政治責任を彼らに転化して隠蔽するためであり、右派メディアが
それを増幅したといえる。

 しかし、なぜ少なくない一部の「国民」がそのキャンペーンにのせられてい
るのか? 先に日本人外交官(公人)が亡くなった際には「英雄」と称えた、
かの「国民」は、なぜ私人たちの人道支援を貶めるのだろうか?(*2)

 それは彼らが「私人」として自律的に振る舞うことへの「嫉妬/怯え」では
ないのか、加えて日本政府に批判的であることへの反発(かの国のある国会議
員は、「反日分子」と呼んで憚らない。「非国民」は救助に値しないというこ
とを端的に表明したが、これを支持する「国民」も少なからずいるというこ
と)から生じるように思われる。(*3)

 その感情がAとBを短絡させて、自分勝手なことをしたのだから「自業自
得」(AだからB)という「自己責任」論を押しつけ、彼らの行為を貶めるル
サンチマンの感情を増幅させているように思えるが、これはまさに批判精神を
封じる「奴隷根性」ではないだろうか。

*1 私は今回の「人質」をイラク人による抵抗活動の一環として捉えてい
る。いわゆる「金目当て」の犯罪者による「犯罪」とは考えていないがゆえ
に、そのレジスタンスの原因をもたらしているアメリカ政府と日本政府に「人
質」の政治的責任があると考える。またレジスタンスを「テロ行為」と名指す
ことは、アメリカ軍によるイラク攻撃を隠蔽するものである。

*2 フリーランスのジャーナリストやNPOの活動家たちが戦場にリスクを
抱えてまでも行くのは、まさにその悲惨な状況に<応答>しようとする倫理性
であろうと推測する。そして彼らの行為は「無謀」にして「軽率」であったと
言いうる面があるにしても、その行為によって彼らは自律的-人道的に「応答
責任」としての自己責任を果たそうとしたとは言えるだろう。また自分の行為
における危険性を引き受けるという意味においてもその覚悟(自己責任)はな
されていたと推測されるし、その覚悟があるからと言ってその家族等が救助を
求めることを否定はできない。そのことから危険に際して、救助を求めること
が非難される理由にはならない。

*3 政府に批判的であることと、その政府に救助や保護を求めることは矛盾
しているという意見に対して。国家は「国民」に対する保護義務があり(憲法
13条)、「国民」はそれを求める権利がある。またその権利ゆえに批判も可能
である。「人質」の家族等が国家に救助を求めることは権利として肯定され
る。それとは別に、私は「国民国家を開く」という意味においても、「国民」
に限定されない、すべての人が保護・救助される生存権を有していると考え
る。
●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

★自衛隊イラク派遣に反対する訴訟 〜関西〜 ★
 http://www15.ocn.ne.jp/~j-stop/

自衛隊 イラク 派兵の差止訴訟・違憲確認訴訟を、大阪地方裁判所に提訴しま
す。京都、神戸兵庫、奈良、和歌山、滋賀からも、ぜひご参加を!イラク派兵
(イラク派遣)に反対する声を、近畿一円に広げましょう。

 2004年4月30日 午後1時に、大阪地方裁判所で提訴します。
       〜 大阪から、平和を願う市民の声を 〜

 原告は、小田実さん、鶴見俊輔さん など多彩な顔ぶれです。
 あなたも、原告として裁判に加わりませんか
 約160名の弁護士がサポートします!

           【 今 後 の 予 定 】
      第1次提訴・・・2004年4月30日 午後1時
      第2次提訴・・・2004年6月上旬頃
      自衛隊イラク派遣反対関西訴訟弁護団

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 ★第46回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年05月23日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:立岩真也『自由と平等』(岩波書店)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★この一週間、十二指腸潰瘍初期症状の痛みで苦しんでいたが、薬を変えて改
善、一息ついている。(黒猫房主)

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『カルチャー・レヴュー』37号(通巻39号)(2004/05/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原隣・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
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■購読登録・解除:http://homepage3.nifty.com/luna-sy/touroku.html
■流通協力:「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/(ID 0000015503)
■流通協力:「Macky!」http://macky.nifty.com(ID 2269)
■流通協力:「メルマガ天国」http://melten.com/(ID 16970)
■流通協力:「カプライト」http://kapu.biglobe.ne.jp/(ID 8879)
■ Copyright(C), 1998-2004 許可無く転載することを禁じます。
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■本誌のバックナンバーは、
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/review.htmlにあります。
■本誌は半角70字(全角35字)詰め、固定フォントでお読みください。


 

Date: Tue, 1 Jun 2004 14:28:31 +0900
From: 山本繁樹(るな工房・窓月書房)
Subject: 直送版『カルチャー・レヴュー』38号(水無月号)

■本誌は<転送歓迎>です。但しその場合は著者・発行所を明記した「全頁」
 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
http://bbs3.otd.co.jp/307218/bbs_plain または「るな工房」まで。
■メールでの投稿を歓迎します。
■リンクされている方は、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ に移転しま
 したので、ご変更をお願いします。

◆直送版◆
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 (創刊1998/10/01)
    『カルチャー・レヴュー』38号(水無月号)
         (2004/06/01発行)
     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
        [39号は、2004/07/01頃発行予定です]
    ★ http://homepage3.nifty.com/luna-sy/に移転しました。★
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「伊丹堂のコトワリ」第2回:文化って何なんだ〜!?----ひるます
◆連載「マルジナリア」第2回:世界の肉----------------------中原紀生
◆バーマニアの今月の一軒「ROCKFISH 北浜店」-----------------久世明宏
◆INFORMATION:哲学的腹ぺこ塾
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★今秋創刊予定、人文系評論誌「コーラ」(A5判・80頁・予価500円)への投
稿を募集中です。投稿規定等の詳細はメールにてお問い合わせください。
 E-mail:YIJ00302@nifty.com
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re32.html#32-1

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////// 連載「伊丹堂のコトワリ」第2回 //////

            文化って何なんだ〜!?

                              ひるます
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獏迦瀬:えっと、前回は「家族」ってことで、家族とはエロス的関わりだ、と
いうようなことを話したわけですが、家族といっても核家族から大家族、一夫
多妻制やら、母権制やらいろんな形があり、そういったことにはふれてません
でした…。
伊丹堂:そうか?、っていうかそれは家族とは関係ない話じゃろ。
獏迦瀬:え…、そうなんスカ?
伊丹堂:関係ないといったらナンだけど、ようするに、それは家族とは何か?
という問いの答えではないってことな。ようするに、前回はさまざまな時代の
世の中の成り立ちの違いに左右されないような「家族の本質」というものを考
えてみただけのことで、逆にそういった時代時代のあり様としての家族を問題
にする、ということはもちろんできるわけじゃ。ただ、それは問題としてはも
はや「家族とは」ということではなくて、「世の中」とは、という問題になる
わけじゃ。
獏迦瀬:ようするに制度の問題っていうか。
伊丹堂:制度ねえ…、しかし「制度」という言い方はなんか分かったようでい
て、曖昧な概念じゃな。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:ようするに「制度」ということで、何を言ワンとしているのか? 封
建制とか一夫多妻制ってのは、誰かが「せ〜の」で決めたわけでもなんでもな
くて、世の中の成り立ちとしてそうなっているわけじゃろ? しかし制度とい
うと「国民皆保険制度」といったような明らかに人為的につくったルールも制
度なわけじゃろ?
獏迦瀬:なるほどね…では社会システムとでも言いますか。
伊丹堂:同じようなもんじゃな。ようするに世の中の成り立ちを記述して「そ
ういう仕組みなんです」と言ってるだけで、なんの意味もないわけじゃろ。
獏迦瀬:まあ他人事っていうか、そもそも「制度」という言い方にはなにか
「やらされてる」感じはあります(笑)。
伊丹堂:たとえば封建制なんかは、マルクス主義的にみると、武士が権力で農
民を圧殺していたなんて見方になるんじゃが、そんなことで世の中が成り立つ
わけがない。それが世の中として成り立っている以上、そこには人々のなんら
かの「合意」があり、人はそこで自己実現をなしていたわけで…。逆にそうい
うふうに人々が積極的に参加することによって、世の中というのは成り立って
いる、という循環的な構造になっているわけじゃ。
獏迦瀬:なかなかにフクザツですね。
伊丹堂:いや、『オムレット』ではそう説明しているんじゃが(笑)、いずれ
にしても「制度」とか「社会システム」という言い方では、そういった「実
存」の問題がすっぽり抜け落ちてしまうんじゃよ。
獏迦瀬:実存…ですか?
伊丹堂:つまり「どう生きるか」という問題じゃな。
獏迦瀬:はあ、それこそ「世の中」とは関係ないんじゃないスカ? 世の中と
無関係に生きる人もいると思いますが…。
伊丹堂:そりゃ本人にとっての「意識」の問題じゃろ。人生イロイロってこと
よ。しかし事実として人が生きるということは、他の人と関わり、世の中
「で」生きることになる以上、世の中と無関係ではありえない。
獏迦瀬:まあそれはそうでしょうが、「どう生きるか」が「世の中の成り立
ち」と関わっているという言い方だと、社会的に為になることをするのが正し
い、というニュアンスが強いじゃないですか。
伊丹堂:がはは、いやここで問題にしたいのは、そんな話ではまったくない。
結局、世の中というものそれ自体が、ある「生き方のフォーム」によって成り
立っていて、それを通じてそれぞれの人は生きていく…そういう意味で実存と
世の中の成り立ちは関わりがある、ということなんじゃが。
獏迦瀬:生き方のフォーム?
伊丹堂:ようするに「文化」じゃ。
獏迦瀬:なんだ、そうきますか(笑)。文化ということなら、この対話でも何
度かキーワードとして使ってきてました。まあ、今まで中心的なテーマとして
は語ってきてなかったわけで…、あらためて「文化」って何なんでしょう?
伊丹堂:文化とは、言い換えれば、人がコトをなす時に、そうすることが
「まっとう」であると納得できるような、背景となるコトの蓄積、じゃな。
獏迦瀬:まっとうさ、というのは正しさ、とは違うわけですよね。
伊丹堂:ここでは単に「間違ってない」ってくらいの意味じゃな。
獏迦瀬:妥当…というか。
伊丹堂:うむ。人が考えたり行動したりするということは、つまり「他人にも
理解可能な形でコトを創造している」ことなわけじゃが、その際、人はさしあ
たってたいていは、いちいち他人にこのコトはまっとうか? などと確かめは
しない。暗黙のうちにそれが妥当することを知っている。それはそういうコト
の蓄積があるからじゃろ。
獏迦瀬:事例ってことですかね?
伊丹堂:裁判所の判例みたいなものではないのじゃが(笑)、ようするにまっ
とうさを類推しうる「背景」としてそれがある…、というか心理的な事実とし
ては、我々にまずそういう「まっとうさの確信」が到来し、その根拠は何かと
考えてみれば、そういう背景の存在に思いいたる、ということじゃろうがな。
獏迦瀬:なるほどね、「来歴」っていうか…。
伊丹堂:背景、とわざわざ言うのは、その妥当の根拠になる事例が単独にある
のではなくて、さまざまなコトの連鎖として「システム」化された広がりを
持っているからじゃ。そのシステム化された背景が文化だ、ということになる
わな。
獏迦瀬:ソシュールの言語の共時的システムみたいなもんですかね。
伊丹堂:ていうか、言語も「文化」なわけよ。ただ「システム化された」と言
葉でいうと簡単じゃが、というか簡単にそれができるかのごとくに思ってしま
うが、一朝一夕にできたものではないわけで…。
獏迦瀬:いわゆる「せ〜の」で始めたわけではないと(笑)。
伊丹堂:ちゅ〜こっちゃな。ようするに成熟というか「練成」された結果とし
てそれがあるというところが肝心じゃ。
獏迦瀬:ある意味で普遍的というか?
伊丹堂:いや、普遍性というのは、個人がそれこそ実存において、コトの創造
を普遍的(誰にとっても妥当するごときもの)にしようとする「努力」に関わ
る概念であって、文化的な背景の問題とはちと異なる。文化そのものが普遍的
であったら、個人の実存などいらんってくらいのもので…。ようするにその成
員にとってはハビトゥス(習慣)となっているものが、文化なのじゃ。
獏迦瀬:文化は実存のヨリドコロってことですかね。
伊丹堂:どう生きるかという方向を示すにすぎない、あるいは「実存の可能性
の土台」だということもどこかで言ったかな。いずれにしても、そういう意味
で「生き方のフォーム」と言えるわけじゃ。じゃから人は原理的に自分の行為
の責任を「文化」のせいにすることはできない。そこからして言える肝心なこ
とは、この世に「正しい」文化というのはありえない、ということじゃな。
獏迦瀬:それは分かります。ようするに相対性理論みたいなもんですよね。文
化というのはその文化成員に対する「基準」になるけど、その基準で、他の文
化(相対論でいえば他の慣性系)を計ることはできない、と。
伊丹堂:ところがそれをやろうとしているのがグローバリズムなんじゃな。
獏迦瀬:なるほど。文化はその成員の「生きるヨリドコロ」なんだから、それ
を強引に変えろといわれても困りますよね。
伊丹堂:アメリカによるグローバリズム戦争はそれをやってるわけで、まった
く犯罪的というしかないね。
獏迦瀬:文化は外から変えることはできない、というか、してはならないんで
しょう。
伊丹堂:まあ歴史というのは、それが強引になされてきた歴史でもあるわけ
じゃが…、しかし、すべての文化が鎖国して自分の文化を守らねばならない、
ということも逆にないわけで、文化は当然、変わっていく。しかしそれは、そ
の変化自体が「練成」というカタチで、人々に自然に納得されていくものでな
くてはならんじゃろう。このへんはカルチャーレビュー25号の「竹田現象学批
判」で詳しく語ったことじゃがな。
獏迦瀬:文化の対立ということで考えてみると、リベラリズムってものがあり
ます。
伊丹堂:ロールズの正義じゃな。La Vueの「正義論」で語ったが。
獏迦瀬:他者の立場を配慮しつつ、可能な限りの公平さを実現しようという立
場ですよね。これは「無知のヴェール」を被るというか、「無縁」の立場をと
れば「誰でもそう考えるだろう」という論理をとるわけですが、それはそうと
して、現実問題として、なぜにそういう立場がとりうるのか? ということが
問題になりました。
伊丹堂:それは、それこそ「そういう風に考えるように習慣化されている」か
ら、というのがロールズの答え。そういう態度をとるように「練成」されたの
がリベラリズムという「文化」だということじゃな。
獏迦瀬:それ自体、ひとつの文化だと自覚しているところがグローバリズムと
リベラリズムの違い、ですかね。
伊丹堂:もちろんそれはそうじゃが、そもそもリベラリズムというのは「相手
が」そういう立場をとることは期待してないわけよ。相手がどういう文化的立
場であろうと、そのことは「不問」として、しかし同じ「世の中」で生きてい
くにはどうするか? という考え方をとるわけで、ズケズケと相手の立場を解
体していこうとするグローバリズムの押し付けとはまったく違う。そこで必要
となる対話とか議論を結果的に「民主主義的」というのであって、グローバリ
ズムが相手を「民主化」するなどというのは愚の骨頂じゃな。
獏迦瀬:なるほどね。いま「同じ世の中」とおっしゃいましたが、それもリベ
ラリズムのひとつの前提でしょうね。つまりアメリカ社会のように異なる文化
がひとつの世の中に共存せざるを得なくなった、というある種、受動的な状況
の中で生まれてきた発想というか。つまりグローバリズムのように、ある意味
で積極的に他の文化を「自分の世の中」に組み込んでいこうという発想とはそ
もそも異なる…。
伊丹堂:まさにね。ただ、何度も言っとるが、リベラリズムといったって、そ
れはひとつの文化としてのフォームなんじゃから、その文化を持っているから
といって、常に「正しい」結果を出せるわけでもなんでもない。
獏迦瀬:ようするに実存、というか、個人のコトの創造にかかっていると。
伊丹堂:当然そこには「ひとりよがり問題」というのが生じてしまうわけで
な。そこでさっき言った普遍性ということが問題になるわけよ。ま、それにし
ても異なる立場の者は排除する、という日本の「世間」っちゅう文化もあるわ
けで、えらい違いとは言えるがな(笑)。
獏迦瀬:そういう文化ってのは、ナカナカ変わらないんでしょうね〜。
伊丹堂:さっきも言ったようにそれを強引に変えることはできないわけじゃ
が、しかし文化を良いものに変えていくのもまた「個人の努力」によるしかな
い、とも言える。
獏迦瀬:はあ…。
伊丹堂:つまり個人の努力としてのコトの創造が、人々に納得されて、それが
ひとつのフォームとして定着していくならば、それが新しい文化を創るってこ
とにはなるわけじゃ。文化創造としての格闘っつ〜かね。
獏迦瀬:まあ理屈ではそうでしょうがね。
伊丹堂:まあ実際、福祉とか慈善事業といったものの「精神的文化」は、そう
いった個人の努力によって創られてきたと言えるな。ひるますが事務所(ユニ
カイエ)でよく紹介してる映画「石井のお父さんありがとう」は、石井十次の
生涯を描いたものじゃが、石井という人は、福祉とか慈善といった文化的土壌
がまったくなかったところで、個人的にそれをはじめ、それを定着させていっ
たんじゃな。これは文化を「変えた」というか「創り出した」一つの好例じゃ
ろうな。
獏迦瀬:なんか最初は周囲から異常な人と見られたという話ですよね。
伊丹堂:フォームとして成り立ってしまえば当たり前のようなことでも、その
創造過程というのは、それこそ試行錯誤でしかない。そんな例は科学の発見が
なかなか認められなかったり、宗教家の受難(パッション)なんて感じでいく
らでもあることじゃがな。
獏迦瀬:まさに格闘ですよね。
伊丹堂:そっからして言えることがまたあって、そういう格闘というか、労苦
というものは文化の伝承についても言えるってことじゃ。
獏迦瀬:それは教育の問題ってことですかね。
伊丹堂:まあね。文化の創造にしても伝承にしても、個人が情熱的にあるコト
をなし、それを人が感動的に納得する、というカタチでの「共有」があっては
じめて可能になる。
獏迦瀬:伝えるのもまた格闘…。
伊丹堂:日本の「世間」といったような、相対的に「ぬるい」文化に浸ってい
ると分からなくなるのが、このことじゃ。キミも文化はなかなか変わらないと
言ったが、それを逆にいえば、別になにもしなくても「自然に文化は伝わ
る」って感じがあるわけじゃろ。しかし、そんなのは極めてマレな現象なん
じゃよ。
獏迦瀬:なるほどね…、日本の場合、自然に分からない方が悪いって感じです
からね。
伊丹堂:教育がないがしろにされるっていうか、そもそも教育という発想がな
い。それでいて「最近の子どもはダメになった」とか「親がダメになった」と
か評論するのは好きなんじゃが、そもそも誰も教育されていない以上、ダメに
なるもなにもないんじゃよな。
獏迦瀬:文化果つるところ…って感じですね。ということは、日本の場合、文
化を創るってくらいの気持ちで生きてかないといかんってことでしょうか。
伊丹堂:たまには威勢のイイこと言うの(笑)。これは日本だけのことではな
いが、文化はそこにいる成員にとってはなかなか自覚されない。文化が一種の
ハビトゥスである以上、しょうがないことじゃが、一般的に「そうではない発
想」というのがなかなかしにくくなる負の側面というものがあるわけじゃ。そ
ういう意味ではつねに文化創造を心掛けるという「生き方のフォーム」は大切
じゃろうな。
獏迦瀬:ですね…、まあデキルかどうかは別として。
伊丹堂:結局、文化は個人の努力によって創られ伝承されるが、逆に個人は、
そういった文化をヨリドコロにしてはじめて生きる意味を実感できる、そうい
うウラハラの関係にある。それが分かった上で、あとはそれぞれがどう生きる
か? ってことがあるだけじゃな。
獏迦瀬:精進します…。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
19XX年生6月生まれ。岩手県出身。新潟大学人文学部(哲学)卒。セツ・モー
ドセミナー美術科卒。東京都在住。マンガ家、イラストレーター、編集者、ラ
イター、リサーチャー、アートディレクター、グラフィック・WEBデザイ
ナー、DTPインストラクター、占い師など、いろいろやってます。
なお以上の業務の受託は事務所「ユニカイエ」
(http://www.unicahier.com/)にて対応しております。お気軽にお問い合わ
せください。ひるますの個人的動向は 「ひるますの手帖」 をご覧下さい。
ひるますホームページ「臨場哲学」http://hirumas.hp.infoseek.co.jp/

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////// 連載「マルジナリア」第2回 //////

              世界の肉

                              中原紀生
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●私が初めて買った哲学書は『世界の名著 スピノザ・ライプニッツ』だっ
た。高校2年の時、ある雑誌である探検家の愛読書が『エティカ』と紹介して
あるのを見て、探検家に特段の関心があったわけではないが、妙にその選書が
気になって買い求めた。学校に持っていき、級友から「お前は変態か!」と
いった類の反応を引き出して満足したことを懐かしく思い出す。その友人もい
まは某大学で都市社会工学を教えている。すっかり疎遠になってしまったけれ
ど、あの頃、最初の数行だけ読んだ『死に至る病』を肴にエントロピー増大の
法則をめぐる大激論を交わして互いの早熟ぶりを、というより負けん気を競い
あったこともいまとなっては懐かしい。
 初めて買った、であって初めて読んだではない。初めて最後まで通して読み
切った最初の哲学書は『世界の名著 ニーチェ』に収められた「ツァラトゥス
トラ」で、それは大学1年の時だった。読み終えたのは下宿の二階の部屋の窓
際で、その時たしか春の雨がまるで重力にさからうように弱々しい白い光のな
かでたゆたっていたのを覚えている。
 一冊の哲学書を読むことで世界が変わってしまうわけなどないが、私の身体
の感覚はその一瞬だけたしかに変わったような気がした。夜を徹して一気に読
み耽ったあとの身体の重い疲れと精神の軽い興奮ゆえの錯覚だったかもしれな
い。そういえば読み終えた時に雨が降っていたという記憶も、視力が弱って春
先の鈍い光を捕らえ損なったがゆえの幻覚ではないかと言われれば、そんな気
もしてくる。第一、哲学書を読んだといったところで、それは「ツァラトゥス
トラ」がそのジャンルに分類されているからなのであって、一編の文学作品に
没頭した経験との区別さえ当時の私にはできなかったはずだ。
 いずれにせよ読書体験が意味記憶としてではなく、そのようなエピソード記
憶として後々まで残るという経験は、たぶん若い肉体ゆえのことだったのだと
思う。なにしろ最近では短期記憶としての定着ですらおぼつかないのだから。

●メルロ=ポンティは、1960年5月の研究ノート「世界の肉――身体の肉
――〈存在〉」(『見えるものと見えないもの』)に「私の身体は世界と同じ
肉でできている」と書きつけている。――「ツァラトゥストラ」を読了した時
のあの身体の浮遊感、まるで宙を舞う水滴とともに舞踏しているような、世界
のうちに浸出し渾然と溶け込んでいくような消失感と一体感とのキアスム(絡
み合い)、見ることと見られること、思惟することと思惟されること、感覚す
ることと感覚されることの一致、共感覚的な響き合い(五大ならぬ五感に響き
あり)の体験を表現するのに、「肉[chair]」という語彙はいかにもふさわ
しい。
《肉は物質ではないし、精神でもなく、実体でもない。それを名づけるために
は、水・空気・土・火について語るために使用されていた意味での、言いかえ
れば空間・時間的個体と観念との中間にある一般的な物、つまりは存在が一か
けらでもある所にはどこにでも存在の或るスタイルを導入する一種の受肉した
原理という意味での「エレメント」という古い用語が必要になろう。肉は、そ
の意味では、〈存在〉の「エレメント」なのだ。》(「絡み合い――交叉配
列」,『見えるものと見えないもの』)

●私は、メルロ=ポンティがいう「肉」はプラトンが『ティマイオス』で「存
在」(イデア・形相)と「生成」(質料)の中間においた謎めいた「コーラ」
(場所)に、すなわちハイデガーが『形而上学入門』で「そこでそれが生成す
るそこ、媒介、生成するものがそこへと自己を形成し入れるもの、生成するも
のが、生成してしまうと次にはそこから抜け出るもの」と説明し、中沢新一が
『精霊の王』で「胞衣」にたとえたものと響き合うのではないか(「感覚の論
理」を通じて?)と考えているのだが、これはまだ仕上げられていない生煮え
の粗描でしかない。
 ――あるいはヒュポスタシス(どろどろしたもの)。あるいは「音響的鏡す
なわち聴覚−音声的皮膚」(ディディエ・アンジュー『皮膚−自我』)もしく
は音響の化石。(これは蛇足だが、身体のこと、肉のことを考える時、いつも
決まって思い出す言葉がある。藤原新也の『メメント・モリ』だったか『全東
洋街道』だったかに出てきたイスタンブールの娼婦の言葉、「人間は肉で
しょ、気持ちいっぱいあるでしょ」。)

●さて、『エティカ』はその後どうなったか。――スピノザについて書かれた
文章はずいぶんたくさん読んできたように思うが、肝心のスピノザの著作では
『知性改善論』を一瞥しただけで、いま(退屈の虫を噛み殺しながら)『神学
・政治論』を読んでいるところ。つまり『エティカ』は――池田晶子(「スピ
ノザ、ライプニッツ」,『考える人』所収)が「遠目から眺めれば、壮大に緻
密に繰り広げられるペルシャ絨毯のような」と形容した、観念論と唯物論のキ
アスムともいうべき書物、「二つの首をもつ謎の政治哲学」(中山元)の書は
――まだ読んでいない。池田晶子がいうように、『エティカ』を読むのは、め
んどうくさい。だからこれまで、これまた池田晶子いわく「野蛮な読み方」、
すなわち「とばし読み」をするしかなかったのだ。

●ところで『知性改善論』を読みながら、私は(御しがたい退屈とともに)形
容しがたい薄気味悪さを感じていた。スピノザは私に「オマエハ一個ノ機械ナ
ノダ」と告げている。ここには「この私」が帰属する場所がない。――このあ
たりの感触を池田晶子は次のように表現している。
《…デカルトの合理主義に触発されて、[東方的な]汎神論的直観を叙述しよ
うと思い立った近代人スピノザの神は、徹底的に論理の神、目的でもなければ
価値でもない、もとより人格ではないから自身を意志して在ったわけでもな
い。端的に、「その本性が存在するとしか考えられない」から存在する神であ
る。実に淡泊な神である。
 cogito を完遂すると ego は消失する、そのときそれは神の cogito に成り
変わっている、したがって宇宙とは神の自己思惟の所産である、この過程をつ
づめて言えば、「我即自然」、ただし、これは私の直観である。そして、その
「我」は、あの「我」でも、どの「我」でもいいのではなくて、スピノザが絶
対に認めなかったまぎれもない他でもないこの「我」でなければならないのだ
が、この話は、また別の機会にします。》

●スピノザの退屈さは尋常ではない。たとえば『神学・政治論』に出てくる次
の指摘など、近代人の末裔たる私にとって陳腐な物言いでしかない。
《…聖書は、自然的光明に依って認識される諸原理からは導き出され得ない事
柄を極めて屡々取り扱っている。というのは聖書の主要部分を構成するものは
物語と啓示とであるが、物語は専ら奇蹟を、換言すれば…自然の異常な出来事
に関する話を内容としており、それはそれを語る人々の見解と判断に順応させ
られたものであるし、一方啓示も亦預言者たちの見解に順応させられたもので
あることは我々が…示した通りであって、それは実際には人間の把握力を超越
するものなのである。だからこれらすべての事柄に関する認識、換言すれば聖
書の内容を為す殆どすべての事柄に関する認識は、聖書自身からのみ得られな
くてはならぬ。恰も自然に関する認識が自然そのものから得られねばならぬと
同様に。》

●ところが田島正樹(『スピノザという暗号』)によると、そこにこそスピノ
ザ哲学の根底をなす最も重要な要素がある。
《『聖書』を『聖書』自身から理解するという徹底した「内在主義」は、同時
に、『聖書』の言葉を『聖書』全体から理解するという「全体論的解釈」へと
導くだろう。『聖書』解釈を通じてスピノザが若くして確立したこの二つの態
度こそ、…生涯を通じて彼の哲学の根底を形成した、最も重要な要素をなして
いるのである。(略)
 彼が使用する哲学用語は、よく見るといずれも伝統的用法から大きくずれて
おり、しばしばその用語法を生み出した問題圏域からさえ無関係なことが多
い。そのため、その用語の歴史を手がかりにしようとするスピノザ解釈の試み
は、しばしば途中で路を見失うことになってしまうのである。それらは、むし
ろスピノザ哲学全体の文脈から、全体論的に解釈されなければならないだろ
う。それは、スピノザの方法を、スピノザ自身に適用することなのである。》
 ――これに続けて田島正樹が引用しているスピノザの文章、「預言なるもの
が個々の預言者の表象力や気質に応じて相違したばかりでなく預言者が抱いて
いた思想に応じても相違したこと、従ってまた預言は決して預言者をより賢く
したわけではないこと」云々は、そこに出てくる「気質」という語彙によっ
て、また「キリストは精神対精神で神と交わった」のであって、「キリストの
外には誰もが表象力の助けに依ってのみ、即ち言葉や彫像の助けに依ってのみ
神の啓示を受けとった」のだという文章ともども、私の退屈をしばし癒してく
れる。

●スピノザの方法を、スピノザ自身に適用すること。――池田晶子の「スピノ
ザ、ライプニッツ」に付されたエピグラム、「夢見る世界に/夢見られつつ/
夢見る宇宙の/夢を見ている」と、メルロ=ポンティの「世界の肉――身体の
肉――〈存在〉」の次の文章とを比較せよ。――あるいは世阿弥の「離見の
見」。
《世界の肉、それは見られる〈存在〉(l'E^tre-vu)に属している。言いかえ
れば、それはすぐれた意味での percipi[知覚されるもの]であり、
percipere[知覚するということ]が理解されうるのもこの世界の肉によって
なのである。私の身体と呼ばれるこの知覚されるものは他の残りの知覚される
ものにおのれを向け、おのれ自身を自己によって知覚されるものとして、した
がって或る知覚するものとして扱うのであるが、こういったことがすべて可能
であり、それになにか意味があるのは、結局のところ〈存在〉があるから、そ
れも闇のなかで自己同一的であるような即自的〈存在〉がではなく、おのれの
否定、おのれの percipi[知覚されること]をも含んでいるような〈存在〉が
あるからにほかならない。》

●メルロ=ポンティは、1960年5月のもう一つの研究ノートに「肉とは鏡の現
象であり、鏡は私と身体との関係の拡張なのである」と書いている。――スピ
ノザが磨いたレンズもまた「肉」にかかわっているのだろうか。(スピノザの
屈折率。魂のレオロジー。)
 ついでに書いておくと、1960年5月のこれとは別の研究ノートに「文学とは
つまり感覚的なものの哲学である」というのがある。――ここで言われる「感
覚的なもの」とは感覚質、すなわちクオリアのことだろう。

●それにしても、メルロ=ポンティの文章は美しい。その美しさは尋常ではな
い。池田晶子の言葉を借りるならば、形而上学的感受性と論理的思考力との幸
福な一致がそこにはある。いかなる脈絡も抜きにして、ただただ純粋に引用し
たくなる文章がいたるところに象嵌されている。以下は、そうした「純粋引
用」の一つ。
《ヴァレリーが言っていた牛乳のひそかな黒さにはその白さを通してしか近づ
きえないように、光の理念や音楽的理念は、光や音を下から裏づけているので
あり、それらの裏面ないし深みなのである。それらの理念の肉的な組成[き
め]は、すべての肉に欠けている組成[きめ]をわれわれに見せている。それ
は、不思議にもわれわれの眼下に、線引きする者もなしに引かれる航路であ
り、或る種のくぼみ、或る種の内部、或る種の不在、何ものでもないようなも
のではないところの否定性なのだ。》

●話は変わるが、ジュンク堂書店大阪本店で「<私=意識>とは何か〜哲学を
柱に認知科学から脳科学まで」というブックフェアが企画された際、ひるます
さんとともに私も選書に協力した。その時リストに挙げたいくつかの哲学系の
書物の一つに『スピノザという暗号』がある。私が念頭においていたのはクオ
リアをめぐる田島正樹の論考だったのだが、この「精神と物体の関係が最大限
に厄介な形で具現されているこの血の詰まった皮袋」(池田晶子)、すなわち
心身問題にかかわる話は、また別の機会にします。

★編集部・註:下記のWebにてブックフェアの様子と選書リストがご覧いただ
けます。http://homepage3.nifty.com/luna-sy/bookfair.html#0403

■プロフィール■-----------------------------------------------------
星の数ほど、海辺の砂粒ほどの書物に埋もれて、活字や画像の錯綜からたちあ
がるイマジナリーでヴァーチャルな世界に身も心も溺れたい。そんなブッキッ
シュな生活に焦がれたこともあったけれど、体力の衰え(の予感)とともに、
それはヒトの生きる道ではない、とようやく気づき始めた。哲学的思考は身体
という現場からたちあがってくる。そのことを確認するための作業を、この場
を借りてやってみたいと思います。E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
★「オリオン」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
★「不連続な読書日記」http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html

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////// バーマニアの今月の一軒 //////

            ROCKFISH 北浜店

                              久世明宏
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 関西では80年以上の歴史を持つスタンディングバー「サンボア」の特集が某
雑誌で組まれていましたが、今回私がお勧めするお店はその「サンボア」で10
年のキャリアを積んだ方がオーナー・バーテンダーとして経営されている、
「ROCKFISH 北浜店」です。
 同店には東京の銀座店もありますが、今回ご紹介する北浜店はそのオーナー
が後輩(その方は「サンボア」では修業されておりませんが)に任せているお
店です。
 「サンボア」の流れが随所に見られ、カウンターの後ろにさりげなく飾られ
ているコースターが「サンボア」出身のプライドを感じさせます。
 お勧めのカクテルは「サンボア」と同じく、サントリーの角瓶を使用したハ
イボール、シンプルですが奥深いカクテルです。酒類はオールセッティングに
揃えており、フード類もあって私のお勧めのフードはカツサンド(1000円)で
す。
 場所は、北浜駅(京阪・地下鉄)から徒歩約2分、旧大阪証券取引所の裏の
ビルの2階にあります。北浜のビジネス街ですが15時からOPENしており、
OPEN〜19時まではフード類の大半が半額になるハッピーアワー、CLOSEは27時
です。

 店長の原さんは人柄もよく話もおもしろい方で、筆者とはプライベートでも
よく酒を飲み、酔うにつれ日常の営業トークがなくなり本音で話をしてくださ
います。
 仕事に疲れた時、ブラリと立ち寄ってみてはいかがですか。

★「ROCKFISH 北浜店」
 大阪市中央区北浜1-9-8 TEL:06-6231-6969
 店休日:日曜・祝日 営業時間(15:00〜27:00)

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★第47回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:04年06月27日(日)午後2時より5時まで
 ■テキスト:J・ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』
       (岩波書店・現代文庫)
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房

■黒猫房主の周辺(編集後記)■---------------------------------------
★今号から(定期連載になるか未定ですが)、書店人にしてバーマニアの久世
さんによるバー紹介のコーナーを増設しました。乞うご期待ください。(黒猫
房主)

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『カルチャー・レヴュー』38号(通巻40号)(2004/06/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・山本繁樹
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:山本繁樹
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.com
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UP:20040404 REV:0526,0604
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