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『カルチャー・レヴュー』2002

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『カルチャー・レヴュー』


 *以下は立岩に送っていただいたものです。
  直接上記のホームページをご覧ください。

◆Date: Sun, 1 Dec 2002 19:03:12 +0900
 Subject: 直送版『カルチャー・レヴュー』26号

■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご転送ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>

◆直送版◆
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 (創刊1998/10/01)               (発行部数約1240部)

      『カルチャー・レヴュー』26号
        (2002/12/01発行)

     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
         [27号は、2003/02/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆アンケート「映画」                     編集部
◆小説「月に昇る」のための習作1              足立和政
◆「La Vue」12号のご案内       編集部
◆アンケート「一読多読」
◆インフォメーション/新刊案内『幸せではないが、もういい』
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////// アンケート「映画」 //////

Q:いわゆる「名画」とは限らない、私にとって決定的な影響を与えた映画や
想い出深い映画、あなたのお薦めの映画、印象深い映画など3点を挙げてくだ
さい。
A:映画名・監督・その映画についての簡単なコメント(コメントは無くても
可です)。回答者名は、匿名も可です。

■「La Vue」13号と「カルチャー・レヴュー」にて掲載します。
■回答者には、掲載紙1部進呈します。
■回答締切:03/01/15
■回答形態:メール入稿
■回答送付先:るな工房/窓月書房 編集部
 〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
 TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp

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////// 創 作 //////

         小説「月に昇る」のための習作1


                             足立和政
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 外気は零下だろう。それでも壁一枚隔てた部屋で汗をかいてオレは布団をは
ね除けた。寝巻き代わりのTシャツがべっとりと肌に張り付いている。髪も汗
に濡れ、額にへばり付いている。手の甲がワックスを塗ったかのようにてらて
らと光っている。ペニスも濡れた陰毛の中にだらんと垂れ下がり、饐えた臭い
が鼻を突く気がする。時計に目を遣ると、午前四時。冬の夜は深く長く、窓に
は墨に墨を幾重にも重ねた羊羹の切り口のような漆黒が映っている。部屋の中
には煌々と明かりがさ明かりが灯されてれている。部屋を明るくしておかない
と眠れなくなったのはいつからだろう、と言葉が浮かんだが、すぐにどこかに
消えてしまった。ここ十日間ほど休んでいる仕事の夢を見ていたような気がす
る。くるくる回り続ける輪転機に巻き込まれ自分自身が印刷されてしまう夢
だ。否、それだけではない、と頭の奥に別のイメージが浮かんでくる。ああ、
また龍三の夢を見ていたのだ。久しく見なかったのにこのところ三日ほど続い
ているな、と思ったとたん胴震いする寒気が襲った。
 初めから龍三はマンションのベランダに段ボールで部屋を拵えて、そこに住
まわってい た。これまでその部屋を出たことがない。どうしてマンションと
分かるのか、ベランダと分かるのか、分からない。そしてなぜ龍三がそんな所
にいるのかも。二日前の龍三は部屋の中で、ガラスのカップを振りながらそれ
を眺めていた。ワンカップのお酒の容器のようなものだ。中には何か液体が満
たされているが、酒ではないようだ。龍三はそれを飲もうとはしなかったし、
蓋すら開けようとはしなかった。ただ振ったり、渦を起こしたりて、その波の
揺れをじっと観察していたのだった。中学生のときに行った化学実験のフラス
コの中の溶液を見つめるかのように。
 昨夜の龍三は、そのカップを段ボールで作った机の上に置いて蛍光灯の光を
当て続けていた。一昨日よりその液体は濁っている。光の中、チンダル現象で
細かな粒子が上下しているのが見て取れる。そのとき、龍三がカップくるっと
回して渦を作った。粒子は銀河のように尾をひいて回転し、きらりと光った。
 今日の龍三はどうだったのかよく思いだせない。初めて龍三の言葉を聞いた
ような気もするが意味は不明だ。それも仕方がない夢の話なのだから。ただ
「う」という音が頭の隅に残り、鉛のように重たかった。
 オレは着替えて外に出かける準備をした。自虐的な仕事の夢の分析や龍三の
ことを思い出していると、時計は五時になろうとしていた。駅前の酒の自販機
が営業を開始する時間だ。マフラーを首にぐるぐると象アザラシのように巻き
付け、スニーカーを突っかけ、零下の明け切らぬ夜へ身を溶け込ませた。塗装
工事中で古ぼけたマンションを養生している保護シートが風に吹かれてぶるぶ
ると身震いをしている。建築用の足場が凍てつく空を幾何学模様に区割りして
いる。帽子を忘れたことを後悔した。汗で濡れた髪が凍りそうだ。髪が鋭いメ
スとなって耳を切り落としそうだ。街灯の極端に少ないマンションの裏道を
行った。遠くの明かりは霧で濡れ、その下には枯れ枝が横たわっている。ぺ
きっぺきっという音が歩調に合わせて聞こえてくる。足下には何が横たわって
いるのかよく見えない。指の骨かもしれないな、と思ってみたりもした。
 がたりとカップの転げ出る音がした。擦り手止めて取り出すと、燗酒のはず
のガラス容器は冷たかった。一気に飲み干して、二本目を買う。今度はひと口
含みゆっくりと嚥下した。頭のどこが麻痺するのか、この一分間少々の行為で
寒さは何処かに霧散する。今ごろ街灯の回りに漂っていた陰気な霧も消えてい
るに違いない。帰り道のための一瓶、部屋で飲むための一瓶をポケットに突っ
込み自販機にさよならをした。これで夢はともかく、ひどい寝汗はかかずに済
むはずだった。
 連続飲酒が始まり三日間不眠不休で酒を飲んだ。そして倒れた。粥をすす
り、一日中ベッドに横たわっている。トイレで用をたすといっても、水のよう
な便しかでなかった。そんな体力しかないのだが、一つの例外があった。酒が
飲みたくなると自販機まで歩いて行 くことができた。夢とも現とも知れぬ
日々が続き、そして三日前から龍三の夢が再来した のだった。
 次の夜、龍三は段ボールの部屋から外に出た。初めてのことだった。ベラン
ダの外側に足場が組まれ、マンション自体が養生されている。どこかで見た風
景だった。龍三の足下はさながら資材置き場のようだ。月の光が無機的なイン
トレの束を浮かび上がらせている。龍三は、その鋼鉄の山の頂上にワンカップ
を倒れないようにそっと置いた。カップの中には嵐が吹いていた。その液体は
逆巻き大波を作り出している。中心部には渦潮が見える。月の光がその不思議
な光景を一層幻想的なものに仕立てている。カップの中は海そのものだった。
龍三は鶏に餌を与えるような格好でしゃがみ、そしてカップの中の海を見据え
ていた。月の光の粒子が海に降り注ぐ。
 会社から電話があり、容態といつから出勤できるのかを問われた。容態とか
出勤とか言われても返事するすべはなかった。立ち上がったついでに着替え、
外に出た。駅前は買い物目的の主婦でいっぱいだ。脇道にそれて、傾いて潰れ
そうな軒の酒屋に入った。小売り値で昼間から酒を飲ませてくれる。三メート
ルほどのカウンターが申し訳程度に備え付けられていて、奥の棚には缶詰めが
ピラミッド状に積み上げられている。いつものしわくちゃ婆さんが一人ストー
ブにあたっていた。ワンカップが石油缶を下から十センチ程度の高さで切った
容器に並べられ、湯で燗されている。自分で蓋を開けて飲む。婆さんは下を向
いたまま、こちらを見ようともしない。三本飲み干し、金を払おうとすると、
婆さんが
「龍三さん、もう帰りなさるか」
とぼそっと呟いたような気がした。
いよいよ幻聴まで出てきたか。
表の自販機で冷や酒をひとカップ買って家に向かった。そして、あろうこと
か、オレはその酒を飲むことができなかったのだ。
 その夜、龍三はカップをまたイントレに置き、なにかぶつぶつと祈りのよう
な言葉を囁いていた。月は明日満月を迎えようとしていた。海となった溶液は
今夜凪いでいる。鏡のような水面だ。龍三が呟く。鏡面が震えた。龍三が話し
かける。海が鳴き始める。龍三が見つめ続ける。海に同心円の輪が広がる。そ
れは生命の誕生だった。単細胞の原生生物が、円の中心で身を踊らせていた。
 今日のオレは昨日買ってきたカップ酒の蓋も開けず、ふるふると揺すってみ
ては、その不思議なものとなってしまった液体を見つめ続けていた。自らが振
り続けることで手の震えを消していたのかもしれなかったが。離脱症状の脂汗
が額から、脇から、股間から滲み出していた。この液体から生命が生まれるの
か。龍三の夢が頭を支配していた。カップを激しく揺らす。ぐるぐると回転さ
せ渦を作ってみる。ふと思い当たることがあった。オレは駅前のスーパーへ行
き、段ボールを抱え込んで帰ってきた。オレのベランダに人ひとり住むスペー
スを造りだすまでには、スーパーとマンションを十何往復しなければならな
かったが厭わなかった。かくしてオレの段ボール部屋暮らしが始まった。それ
から、ぷつりと龍三は夢に現われなくなった。
 眠っているとき以外は、カップを振り続けた。龍三の取った行動を思い出
し、蛍光灯に当てたり、夜中資材置き場からイントレをくすねてきたりもし
た。取り憑かれた。泥酔で食事ができないのではなく、ひたすらカップの中に
海が出現するのを焦がれて、食事を忘れた。体は痩せこけ、眼孔は窪み、眼だ
けが異様にぎらぎらと輝いていた。そこに一人で何やら呪文のようなものをぼ
つっぼつっと呟いている自分がいた。そして、ひたすら満月 を待っていた。
 半月ほど経つと、自分の五感が冴えている、否、正常に戻っているのに気づ
いた。常に感じていた手の痺れが取れ、宙に浮いたように発せられていた言葉
も、舌に根付いているかのようだった。脂汗も手の震動もなかった。カップを
振り始めてから、海を待ちわびてから、命の出現を願ってから、それ以来、酒
を口にしていないことに気づいた。その夜、龍三が現れた。
 その夜の龍三も段ボールの部屋の外にいた。足をやや開いて立ちすくんでい
る。首を垂れ、揺れるワンカップの中の海を見ている。生命が進化したのかど
うかはこの位置からでは見えない。否、生きているのか死んでいるのかも分か
らぬ話だ。龍三は手を揺らし続け、海は混沌の輝きを見せる。
手が動いた。龍三はカップの蓋を開けた。足が動いた。龍三はベランダの柵を
乗り越え、 足場を昇り始めた。確実だが足取りは早い。片手に海を持ち、一
方でイントレの取っ手を握り締める。空には満月が輝いている。月の光子の中
で龍三が揺れ、カップの海が揺れ、海の中の生命が揺れる。もうあんなに昇っ
てしまった。オレ小さな小さな野生に戻された手長ザルのように見えるのだ
が、脳裏にはその握り締めた指の先にあるものが大きく映しだされている。海
はカップの外へこぼれようとしている。ああ、海が夜空に溢れ、龍三が月に
昇ってしまうと思ったとき、オレは足場のてっぺんに立っていた。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(あだち・かずまさ)1955年京都生まれ。現在、大阪寝屋川市在住。編集・執
筆業を生業としていたが、アルコール依存症にかかる。現在、リハビリ、アル
バイト、小説を書いて日々を過ごす。

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////// 「La Vue」12号のご案内 //////

■掲載内容(02/12/01発行)
■3周年特集号《一読多読》
 ◎武田百合子『ことばの食卓』/内浦 亨(図書出版「冬弓舎」代表)
 ◎往還の湖――橋本康介『祭りの笛』覚書断片/今野和代(詩人)
 ◎マカール・ジェーヴシキンという性格/中島洋治(元編集者)
 ◎狂気なき狂気の現代―バタイユ『至高性』/宮山昌治(投稿者)
 ◎ありふれた平凡な自分とありふれた平凡なコトバ/安喜健人(編集者)
 ◎アンケート「一読多読」の回答

■協賛:哲学的腹ぺこ塾
    http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/harapeko.html
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
■投げ銭価格100円より・B4判・10頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京)・文化センター・等に配布
■配布情報 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html

 本紙は市民の相互批評を目指す媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
 頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
 また本紙を安定的に発行するために、支援会員を募っております。
 年会費一口、600円(13号〜15号までの送料+投げ銭)からの「木戸銭」を
 申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321

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////// アンケート「一読多読」 //////

Q:いわゆる「良書」とは限らない、私にとって決定的な影響を与えた本や想
い出深い本など、あなたのお薦めの本、印象深い本三点を挙げてください。
A:書名・執筆者・発行所名・その本についての簡単なコメント(コメントは
無くても可です)。(掲載は、入稿順です。「La Vue」12号より転載)

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■真島正臣
1 『アメリカに学ぶ市民が政治を動かす方法』バリー・R・ルービン、日本
評論社
 市民の意見を反映させられる政治参加は可能か?――問題解決型の実践論が
提示されている。
2 『敗北を抱きしめて(上・下)』ジョン・ダワー、岩波書店
 小泉構造改革には、日本の将来へのビジョンがないといわれる。心情を共有
できた時代の日本人を再考する上で、戦後の歴史から学べるあれこれがいきい
きと描かれている。
3 『マイクロビジネス―すべては個人の情熱から始まる』加藤敏春、講談社
 リストラに逢い独立を検討している人なら読んで元気がでる。コミュニティ
・ビジネスなどの小さな起業を奨励する本である。簡便で読みやすい。講談社
+α新書のシリーズに入っている。加藤氏の翻訳本『市民起業家』日本経済評
論社、参照。

■yamabiko
1 『現代の古典解析』森毅、現代数学社
 解析学と代数学を接続した。
2 『歴史の進歩とは何か』市井三郎、岩波書店
 人間とはなにか、を問うた。
3 『構造主義生物学とは何か』池田清彦、海鳴社
 科学とはなにか、を問うた。

■黒崎宣博
1 『文化のフェティシズム』丸山圭三郎、勁草書房
 1989年。私はこの本を読んだのがきかっけで、読書、研究の世界に足を踏み
入れてしまった(決定的な影響を受けた)。
2 『ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源』マーヴィ
ン・ハリス、早川書房
 歴史と社会についての新しい視点を獲得できる。全面的に正しいか否かは別
にして、一人でも多くの人に読んでいただきたい本である(印象深い。お薦
め)。
3 『ビーグル号の3人―艦長とダーウィンと地の果ての少年』リチャード・
L・マークス、白揚社
 宗教と科学、未開と文明が交錯する数奇な物語(印象深い。お薦め)。

■鵜飼雅則
1 『中野重治詩集』中野重治、岩波文庫他
2 『潮風の町』松下竜一、筑摩書房、講談社文庫
3 『石田波郷全集』石田波郷、富士見書房

■S・H
1 『共同幻想論』吉本隆明、角川文庫他
 現実の捉え方を示唆してくれた。
2 『かもめのジョナサン』リチャード・バッグ
 夢と勇気を与えてくれた。
3 『パン屋再襲撃』村上春樹
 戯曲なのか小説なのかボーダーレスな空想小説。

■ 國岡克知子
1 『心のおもむくままに』スザンナ・タマーロ、草思社
 めずらしく二回も熟読してしまった本。いろいろ考えさせられた。ベストセ
ラーとはどうやって作られるものなのかを研究しようとして 読んでいるうち
に、すっかりこの本の世界にはまった。
2 『整体入門』野口晴哉、ちくま文庫
 体癖という著者の考え方が以前から気になっていた。おもしろい。
3 『さらば、わが青春の少年ジャンプ』西村繁男、幻冬社文庫
 編集者の原点を知りたい人には絶対おすすめ。熱く爽やかな読後感。本宮ひ
ろ志の『天然まんが家』もあわせて読むと面白さが倍増する。

■岩田憲明
1 『精神指導の規則』デカルト、岩波文庫
 学問の用不用を教えてくれる本。特に、経済学者にとって必読。
2 『道徳形而上学原論』カント、岩波文庫
 自己の内に聖なる他者がいることを示唆してくれる本。
3 『多賀墨卿にこたふる書』三浦梅園、『三浦梅園自然哲学論集』、『三浦
梅園集』、共に岩波文庫
 根源を問い続ける哲学の現場が見えてくる本。

■ひるます
1 『意味と生命』栗本慎一郎、青土社
 ほとんどそう考える人はいないと思うが、現代においてもっとも重要な哲学
書。これを前にすれば、ほとんどの哲学・思想は文献を前に悩んだ振りをして
いるだけに等しい。マイケル・ポランニーの暗黙知理論を栗本が継承し、現代
に通用するフォームに練り上げた思考。それをさらに継承したのが『オムレッ
ト』(我田引水)。
2 『文脈病』斎藤環、青土社
 『オムレット』を作成する上で、決定的なコンセプトとなった「コトの創
造」という着想をこの本から得た。モノの構造における部分と全体という発想
にとどまる暗黙知理論を「コトのリアリティ」という観点によってブレイクス
ルーしたと、今にして言える。
3 『プラトン入門』竹田青嗣、ちくま新書
 「La Vue」掲載の『伊丹堂対話シリーズ」など、『オムレット』以降の倫理
・正義・美などについての論考を書く上で手がかりとなった本。いわゆる「真
・善・美」を実体ではなく価値のヨリドコロとして捉える発想は重要。ただし
倫理をめぐる考え方では竹田の「欲望の現象学」にはいろいろ問題はある。

■中塚則男
1 『〈私〉のメタフィジックス』永井均、勁草書房
2 『脳とクオリア』茂木健一郎、日経サイエンス社
3 『〈私〉という演算』保坂和志、新書館

■野原 燐
1 『無限と連続』遠山啓、岩波新書
 数学はかっこいいものだ、ということを教えてくれた。
2 『吉本隆明全著作集13巻 政治思想評論集』吉本隆明、勁草書房
 1970年の夏私たちの高校では高校紛争があった。その直後に読んだので余計
思い出深い。
番外 「大東亜戦争の総括・東アジア人に〈成る〉」というテーマに関わっ
て、二つの長大なシリーズ本を読みたいと思っています。皆さんもよかったら
一緒に読みませんか?
☆『ある無能兵士の軌跡(全9巻)』彦坂 諦
 1部「ひとはどのようにして兵となるか(上・下)」創樹社
 2部「兵はどのようにして殺されるか(上・下)」創樹社
 2部別冊年表「兵はどのようにして殺されるか」創樹社
 2部別巻「蛾島1984=1942」創樹社
 3部「ひとはどのようにして生きのびるのか(上・下)」柘植書房新社
 最終巻「総年表 ある無能兵士の軌跡」柘植書房新社
☆『火山島(全7巻)』、金石範、文藝春秋
 上下段びっしり詰まっているので読み応えがある。一巻だけ読んだが、かな
り面白い、と思う。

■高橋秀明
1 『比較転向論序説』磯田光一、勁草書房
 高校生のときに学校図書室で偶然手にして、「文学」というものに開眼させ
られたような気がしました。曰く。「純粋客観としての存在の世界を二次的な
ものとし、主体との関わりにおいて意識された存在に真のリアリティを認める
のは、あらゆる観念論の(あるいはロマン主義の)基本原理である。しかし、
それが近代的な実在論の観点から見てどれほど不合理にみえようとも、やはり
それは人間の根源的な生き方に深くつながっているのである。人は科学の進ん
だ今日においても死者の墓を建てることをやめはしない。死者がすでに非存在
である限り、死者への礼拝は明らかに架空のものへの礼拝であり、それは非合
理的な所業であるというほかはない。と同時に、それは人間が生きる上にいか
に架空の原理を必要とするかを鮮やかに物語っているのである。二十一世紀の
人類は、死者の肉体を肥料に使う最も合理的な態度を身につけうるかもしれ
ぬ。しかし、今日、私たちは「墓」の人間的なリアリティを否定することがで
きるであろうか。」―「序論・問題と視点」の中の一節ですが、この一節が、
トラウマのように心中に刻み込まれたためか、今も、「ロマン主義」を蔑称の
ごとくに用いる思想の言辞にはあらかじめ不信感を抱いてしまう僻見からどう
しても自由になれないままでいます。
2 『吉本隆明全著作集』吉本隆明、勁草書房
 大学生のときは、吉本隆明全著作集ばかりを繰り返し読みました。一番最初
に読んで目からウロコが落ちたのは、「文学と政治」という問題のはざまで
「想像力」というものをどう理解して良いのか途方に暮れていた折りに、「文
学論T」の中の「想像力派の批判」を読んだときです。概念とも感覚とも違う
イメージの構成力を想像力と呼ぶべきだと書かれている箇所で、目からウロコ
が落ちたと思いました。曰く。「存在が意識されたものだとすれば、イメージ
は仮構の存在についての意識であるか、存在しないものについての意識である
ほかはない。しかし前者はいわば仮構力とよぶべきものであり、後者はまず存
在しないものについてのイメージはおこりえないことからそれ自体背理にほか
ならない。わたしのかんがえでは、想像力はたんにサルトルのいうように非実
在物を存在するかのようにかんがえうる力ではなく(それは空想力または仮構
力である)、じぶんの意識にとって矛盾であるとかんがえうる意識の能力をさ
している。【中略】想像力は不変ではなく、(不変なのは意識の仮構力だ)も
しも社会的疎外がなくなったとすれば、対象の人間化という意識活動のなかに
消滅するか、あるいは、まったくちがった意識の綜合作用としてのこるほかは
ないのである。」
3 『わが驟雨・永島卓詩集』永島 卓、永井出版企画
 社会人になって、学生時代から好きだったこの詩人の詩集を、万引きなどで
はなく、ちゃんと買うことができるようになりました。「かわらぬ意識の土地
で立つ/幻の土器を追う鼬橋を/かならず渡りきる」という一節ではじまる
「鼬橋」の詩編をはじめとするこの詩集にどれだけ鼓舞されたかわかりませ
ん。詩篇の続きは以下のとおり。「硬い驟雨で洗いきれぬ/日常への重い惨劇
を/沈黙しつづける出崎で/一途に迎えながら/影の終着駅で凍結するのだ/
死魚たちの群れが/夜の膨らむ川から這いあがってくる/鼬橋が組む坂の論理
を/一斉に解体しようとすれば/坂をこえる位置からも/逃れることができぬ
/散乱した土器の迷路で/青い亡姉が空を包みながら/風景の皮膚へ触れると
/軒並みひしめく家系たちが/声もなく悲鳴をあげて/ふるさとを焦がすの
だ」

■松本康治
1 『風車小屋だより』ドーデ、岩波文庫
 ワケわからないなりにも陶酔した若き日々。
2 『自転車野郎世界を行く』浜村紀道、秋元文庫
 コテコテの青春冒険ロマンに憧れた若き日々。
3 『シュマリ』手塚治虫、講談社
 手塚マンガとしての完成度はイマイチだがなぜかひかれた。
番外 ああ、ほかにも挙げたいなあ。『高熱随道』吉村昭、新潮文庫とか、
『八甲田山死の彷徨』新田次郎、新潮文庫とか……。そう考えると、この3点
がベストスリーっていうわけじゃ決してないんですが。

■中津雅夫
1 『大菩薩峠』中里介山、角川文庫
 たしか二十九巻だったと思う。高校生のときはやたら大長編ばかり読んでい
た。これ以外は白井喬二『富士に立つ影』、直木三十五『南国太平記』、吉川
英治『三国志』『宮本武蔵』など。ついでに長編というそれだけの理由で島崎
藤村『夜明け前』も。読む時間は主に汽車+電車の通学途上。母親から「T君
はいつも豆単の暗記や数学の問題を解いているのに…」と落ちこぼれ宣言。ま
さに人生を決められてしまった本といえる。
2 「鼬の道」(『本所しぐれ町物語』所収)藤沢周平、新潮文庫
 一九七四年に続いて1998年(56歳)に二度目の心臓手術のため入院。一時間あ
るいはひょっとして十分後にはぽっくりと逝くかも知れない、とにかく生きて
いるうちに物語は終わって欲しい、そう思うと短編しか読む気がなくなった。
藤沢周平の小説はほとんど読んでいたが、短編は避けていた。鼬は同じ道を二
度と通らぬところから「鼬の道切り」という。お見舞いに来ていただいた人と
別れるさい、常にこの言葉を思い浮かべ、これで二度と会えぬかも…ともうい
ちど振り返るのであった。
3 『透谷全集全三巻』勝本清一郎編纂・校訂・解題、岩波書店
 私にとって、生涯をかけて真向かうべきひとと思想。

■上倉庸敬
1 『奇譚クラブ』(雑誌)、暁書房
 性が五十歳をこえても生の大きな問題になっているだろうとは、子どものわ
たくしに予想できたはずもありませんでした。
2 『春夫詩鈔』佐藤春夫、岩波文庫
 詩の、というよりむしろ一般に悦楽というものをおぼえた始めです。
3 『砂漠の隠者 シャルル・ド・フコーの生涯』
 著者も、訳者も、出版社もおぼえていません。二十世紀になってから亡なく
なったフランス人カトリック修道士の伝記です。内容はほとんど忘れました
が、人間にはあるべき姿があるということを示された感動はいまも鮮明です。

■F
1 『デミアン』ヘルマン・ヘッセ、岩波文庫
 これを読んで、万年学級委員長から不良少女に。
2 『歴史について〜小林秀雄対談集』小林秀雄、文春文庫
 表題の江藤淳との対談における発言。「宣長の間違いを正したら宣長ではな
くなってしまう。宣長は大へん偉かったから間違った、そういうふうに見れば
いいんだ。じゃ、どう偉かったから、ああなったのか、ということが僕にうま
く書ければ、あの人は間違わなかったことになるんだ。それが生きた歴史
だ。」に深く感銘。以来ヒデオイヤンに。
3 『なぜ書きつづけてきたか、なぜ沈黙しつづけてきたか』金石範・金時
鐘、平凡社
 在日を相対化して考えられるようになった一冊。

■山口秀也
1 『バイトくん(全3巻)』いしいひさいち、プレイガイドジャーナル社
 中学時代「プガジャ」で知り、腹が捩れるほど笑った。でも、いまこれほど
笑えないのはなぜだろう。
2 『ラビリンス』ひさうちみちお、ブロンズ社
 これも中学時代。「ジュネ」が懐かしい著者初の単行本。クノップフなどの
幻想絵画やコクトーに興味を持つきっかけになった。
3 『地球の午後3時』さべあのま、サンコミックス
 彼女のすべてがつまっている単行本。ペンネームの由来はなんだったろう。
 あとは、くらもちふさこ、さいとうたかお、いしかわじゅん、いがらしゆみ
こ、ちばあきお、ちばてつや、おおやちき、たがみよしひさ、わたせせいぞう
あたりでしょうか。はらたいら、やなせたかし、さくらももこはあまり好きく
ありません。かとうれいこ、は漫画は描きません。

■山田利行
1 『携帯市民六法』 責任編集・渡辺洋三 編集委員・小川政亮 等、実業之
日本社、1976年
 市民運動に役立つと思われるものを収録した法律全書。絶版。こういうもの
を、もう一度刊行して欲しいという願いをこめて選。
2 『市民の暦』小田実・鶴見俊輔・吉川勇一編、朝日新聞社
 いわゆる365日事典。きょうは何の日かのテーマは、市民の視点から選ば
れていた。現代史を学ぶには好著だった。絶版。これも誰か編集してくれない
かなあ。
3 月刊誌『未来』未来社(発行) ただし、西谷能雄が社長をしていたときで
編集長が松本昌次だった全号
 1970のある時期、この小冊子を知り、バックナンバーを全部取り寄せた。
一、二冊欠けた程度で、ほとんどを入手(数十冊)。松本昌次執筆による編集後
記を全部読んだ、たぶん。これを読んでいなかったら、ヒントブックスを興さ
なかったかもしれない。

■山田照子
1 『冬物語』南木佳士、文藝春秋
 ヒントブックスは無店舗書店です。えっ? 無店舗。そうなんですよ。いわ
ゆる店がないんですよ。店がぁ? だから、自慢じゃないが、万引きは一度も
されたことがありません。立ち読みもできません。レジなんかもないんです
よ。お客さんに「カバーはどうなさいます?」と訊ねたことが一回もないんで
す。まあ、「店番」という役割がないんです。
 私の楽しみは、お客さんが注文した本が入荷したとき。重いダンボール箱を
開けるとき、きょうも何か発見できそうな……。
 表紙やタイトルはそれほど惹かれなかったけれど、ちょっと開いてみた『冬
物語』。書き出し一行目に「不定愁訴」の文字があって、ドキッ!
 そのまま読み進む。「めまい、のぼせ、ふらつき、いらいら、頭重
感、……。」「三年前、医者になって十五年目、三十九歳の秋に痛烈なしっぺ
返しを受けた。ある朝、病棟の回診に出かけようとしたら、不定愁訴が束に
なって襲いかかってきた。動悸、めまい、不整脈、冷や汗……。」「病名は恐
慌性障害(パニック・ディスオーダー)。うつ病によく似た心の病であっ
た。」
 著者の南木佳士は心の病とつきあいながら、人間の、むきだしの弱さから目
をそむけなることなく、淡々と人生の切なさ、悲しみ、喜びを繊細な気持ちで
綴っている。体力に余裕のある若い人には、この本に書かれてあることは理解
できないかもしれない。でも五十五歳になった私の心情にはぴったりだ。
2 『転がる香港に苔は生えない』星野博美、 情報センター出版局
 私は忙しい毎日を送っている。そう他人(ひと)に言うと、決まって不思議
そうな顔をされる。想像力の欠如である。どんなに忙しい毎日を私が送ってい
るか、想像できないのである。
 私は朝五時に起きる。それから明石公園まで自転車に乗り、公園の入口に自
転車を置き、散歩する。夕方にも体力が残っていれば、もう一度散歩に行きた
い。これは願望である。
 私は夜十一時には眠る。そのようにして六時間睡眠を保っている。私のライ
フスタイル(生活習慣)のうち、睡眠に関しては守られている。
 さて、昼間はヒントブックスの仕事をしている。昼寝をしているのではと想
像してはいけない。想像力はほどほどでなくてはならない。仕事熱心なあま
り、本を読む時間がほとんど取れない。悲しい。だから私は「あとがき」や
「まえがき」を短時間で読む。中は、ちょろちょろと読む。これを繰り返す。
だからどの本にどんなことが書いてあったか、こんがらがって思い出すのに苦
労する。単なる加齢による記憶力低下現象かもしれない。
 そう、私は、パラパラ読派である。ノンフィクションが好きで、星野博美が
好き。『転がる香港には苔は生えない』は分厚い本で、なかなか読み切れな
い。例のごとく、「あとがき」を読む。「世界に香港があってよかった。私に
はあの街が必要だった」「たまらなくあの雑踏の中に戻りたくなる」星野に
とって、香港は刺激的だった。私にとって「あとがき」は刺激的だった。
3 『笑う敬語術 オトナ社会のことばのしくみ』関根健一、勁草書房
 最近ちょっと気になる言葉「ご苦労さ
ま」。――ハンカチ片手に握りしめ、三者懇談とやらで中学校まで。先生と対
面するや、「暑い中、ほんとうにご苦労様です」と、先生は“深々”とまでは
いかなんだが、軽く頭を下げてご挨拶。
 今年の夏はホンマニ暑かった。だから「暑い中」そこまではソノトオリ! 
でもねえ二十代のお若い先生に、五十代の年配者が「ご苦労さま」とねぎらわ
れても、ねー。
 中年太りになったといえどもその脂肪をかすかに上回る教養が、汗とともに
じわーと出てくるではないですか! そもそも「ご苦労」というのは、上の者
が下の者をねぎらうときに使われてきた言葉である、オッホン。そのことを年
配者はよく知っている。時代劇なんかで殿様が、「うーん、ご苦労であった」
とかなんとか言ってふんぞりかえっているシーンを見たことないかなあ。ま
あ、私が先生よりわかーく見られたんならウシシだけど……。
 人間関係に上下関係を持ち込むのはよしましょうよ。では、何と言えばいい
のかな? 「お疲れさま」ぐらいでどうでしょう。と、まあここまで書いて、
私の敬語に関する教養ソースは『笑う敬語術』であることをバラしておきま
しょう。
 著者の関根健一さんは「あとがき」で、敬語の「マニュアル本はあまた出て
いるけれど、うっとうしい文法論と辛気臭い精神論ばかり。ならば、文法用語
は極力避け、理論的厳密さよりわかりやすさを、道徳と人生訓の代わりに冗談
と与太話を、ということで出来上がったのが本書」とあるとおり、笑って読ま
せてもらいました。

■S・K
1 『第三の性』森崎和江、三一新書
2 『女遊び』上野千鶴子、学陽書房
 前二冊は “男”との関係に行き詰まっている “あなた”に、解決の扉を開
く本。「第三の性」は一九六〇年代にはこの本しかなかった。その意味で、感
謝を込めてリスト・アップ。『女遊び』は言わずと知れた上野千鶴子さんの
本。さらに、理論として明確になってる部分はあっても、いまでも古くない
よ。
3 『復讐の白き荒野』笠井潔、原書房
 笠井潔のカケルシリーズ以外の本格推理小説。笠井潔と島田荘司との対談
『日本型悪平等起源論―「もの言わぬ民」の真相を推理する』のなかでもこの
本について触れている。もと左翼の方にも右翼の方にもお勧めの本。二転三転
とあっと驚くこと請け合い。結末を推理出来た方は日本の右翼、左翼問題に精
通している方か? 笠井潔の推理小説の中で一押しの一冊。『バイバイ・エン
ジェル』をはじめとする“カケル”シリーズを読んだ方にも是非お勧めしま
す。私は講談社版を読みました。

■村田豪
1 『仮面の告白』三島由紀夫、新潮文庫
 現実と観念の乖離をイロニーによって乗り越えるという三島的な文学意匠
の、その動機がいわば語られているとみなせる初期傑作。感動的。
2 『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド、澁澤龍彦訳、河出文庫
 「自然」と「自由」の、折り合いのつきがたい二つの根源性に突き動かされ
る、性と哲学のオルギア。カントの第三アンチノミーの文学的解決!
3 『探究T』柄谷行人、講談社学術文庫
 それまでの形式化の問題を捨て、著者がウィトゲンシュタインの言語論にと
りつかねばならなかったのはなぜか。『トランスクリティーク』が著された今
だからこそ、その意味がようやく分かるのかもしれない。

■田中俊英
1 『ナイン・ストーリーズ』J・D・サリンジャー、新潮文庫
2 『レイモンド・カーヴァー集』、中央公論社
3 『差異と反復』ジル・ドゥルーズ、河出河出書房新社
 僕は現在三十八才。上記の本は順に、1「自殺」、2「コミュニケーショ
ン」、3「自我の崩壊」がテーマであり、それらに沿って確実に年を重ねてき
ました。

■黒猫房主
1 「日本のナショナリズム」(『吉本隆明全著作集 13巻』所収)吉本隆
明、勁草書房
 大衆を敵にしない思想、そして徹底した反スターリズムである「自立思想」
と「大衆の原像」の原点がここにある。同じく吉本隆明の「転向論」と併せて
読むとよい。
2 「駈け込み訴へ」(『晩年』所収)太宰治、新潮文庫
 「背信とは何か」を巡る否定神学? 13枚の銀貨で売ったユダだからこそ、
いっそうイエスへの愛が深いか、あるいはエゴイズム。併せて遠藤周作の『沈
黙』もお薦め。踏み絵を考案したのは、転向した信者だろうか。その踏み絵を
受け入れるイエスの愛の深さはカソリック的(普遍的)か?
3 「セヴンティーン」(『大江健三郎全作品 3巻』所収)大江健三郎、新
潮社
 中学生の私に文学好きの理科教師が大江健三郎の存在を教えた。それで初め
て読んだのが十四歳の春、打ち震えた。分からないままに性と政治が一挙に押
し寄せてきた。二度目に読んだのは一九七〇年の十七歳を迎えた年。その年に
三島由紀夫が割腹自死した。そして二十歳前になって同書二部『政治少年死
す』(事実上の発禁扱い)を入手して読む。ラストシーン、主人公が「純粋天
皇」への恋情を焦がす至上の瞬間、その自死の描写が脳裏に焼き付いている。
政治とエロティシズムの結託がよく表出されている初期傑作。ちなみに十七歳
時の大江健三郎は「掌上」という新制高校の文芸雑誌の編集後記に、十七歳に
は十七歳の文学があり得ると書いていた。

■MAO
1 『カニバリズム論』中野美代子、福武文庫
2 『ヒトはなぜヒトを食べたか(原題:食人族の王――文化の起源)』マー
ヴィン・ハリス、早川書房
3 『肉食という性の政治学』キャロル・J・アダムス、新宿書房
 小学校高学年の頃から陶酔を伴う死への憧れと恐怖にとりつかれる。「死ん
だらどうなる(される)のか」という妄想は死ねない自分にとってはある意味
で逃げ道であったろう。死に関する書物、写真は世に溢れていた。戦車に轢か
れてミンチになった青年。家族の死を惜しみ、焼いて食す民族。屠殺所で解体
され、バケツにつっこまれた豚の内蔵に群がるハエ。ゴミ袋に入れられた堕胎
児。昨日まで「牛:a cow」だった動物がある瞬間から「牛肉:beef」にモノ
化される過程。中でも人肉食は私の心を魅きつける。禁忌とは、行われて止ま
ない行動に設定されるからだ。起因が悲惨な飢えや政治的判断であろうと、敵
意や愛情であろうと。

●●●●インフォメーション●-----------------------------------------

 ■『幸せではないが、もういい』■
 ペーター・ハントケ/元吉瑞枝 訳
 ISBN4-8102-0215-1 C0097 1500円+税
 発行:同学社 東京都文京区水道1-10-7 TEL:03-3816-7011

 51歳で自殺した母。事実を前に言葉は「闇の中へ失墜する」、事実と言葉を
めぐる闘いの記録。ハントケ初期の代表作(帯のコピーより)。
 元吉さんよりハントケの本をご恵送いただいた。後半で、ハントケが母への
追想と独白を語るシーンは、映画「ベルリン天使の詩」の語り口を髣髴とさせ
る。51歳で死ぬには早すぎるが遅すぎるということもないだろう。私も、それ
ぐらいには生きてこれた。死は予兆でも突然やってくるわけでもなく、日々、
私たちの中で不安と畏れを隠しながら親密に近づいてくる。遅かれ早かれとい
う言葉が示すように、それは確実で逃れようがない。死が祝福であるのは、そ
れが最後で最期の希望であるからだろう。(私じしんそう思い定めて生き延び
てきたことを思った。)しかしこの感想は、読後感としては作品を“正しく”
反映していないだろう、たぶん。
 久しぶりに読むことそれ自体が、愛おしく感じられた作品であった。「訳者
あとがき」では、タイトルの「幸せではないが、もういい」の意図を解題して
いるが、名訳である。(黒猫房主)

■編集後記■---------------------------------------------------------
★みずからのアルコール依存症体験をもとに書かれた小説といって、まっ先に
頭にうかんだのは、中島らもの『今夜、すべてのバーで』(講談社文庫)であ
る。ここでも、著者の体験に裏付けられた飲酒の描写がなかなかにすばらしい
のだが、このなかに、医者に入院を言いわたされてから、「最後の一杯」であ
るワンカップを、自動販売機で買って飲むくだりがある。そこで主人公(ほと
んど中島らも本人である)は、「これがとうとうこの世で最後の一杯なのか、
と思うと、ついガラスの中の液体をながめてしまう。別に感傷的になったわけ
ではない。「性悪女」の顔を、別れる前にもう一度拝んでおこう、といったと
ころだ。」とつぶやく。ここでは酒は、いまいちどの邂逅を望むべき対象であ
る。
★くらべて、本号収載の小説「月に昇る」の主人公のばあい、ガラスのなかの
液体をながめることは、むしろ<祈り>にちかいものであるように感じられ
る。現実の世界から引き剥がされ、じぶんの創り出したフィクションの「龍
三」にやがては同化するように、カップのなかに渦巻きをつくり、それをなが
めつづけている。わけても、カップのなかの渦巻きの映画的といえる描写すば
らしい。月へ昇りつめていくという一方向へのベクトルは、あともどりを想定
していない。その折り返しのないおもいが<神への祈り>のようにおもえたの
だ。また、毎日くりかえされるカップのなかの渦をながめるという、倦むこと
なく繰りかえされる行為にも、祈りの一面をみた。まるで、アンドレイ・タル
コフスキーの映画「ノスタルジア」にでてくる狂人が、水のないプールを、ろ
うそくをもってゆっくりゆっくりと往復する、厳粛な場面にも似た。
★足立氏にはかねてより、「アル中日記」とでもいうような、エッセイを依頼
していた。ほとんどギブアップ状態であったところ、急に本稿が舞いこんでき
た。かねてよりの知り合いとすれば、書くことが彼の唯一のリハビリのように
かってに思いこんでいたのだが、この小編を読むと、足立氏にとっても、書く
ことが祈りに近いもののようになっていたように感じられた。というわけで、
この作品については、とくに読者諸氏の感想を待つものである。(山口)

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  『カルチャー・レヴュー』26号(通巻29号)(2002/12/01)
  ■編集委員:いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英・加藤正太郎・
        山口秀也・山本繁樹
  ■発行人:山本繁樹
 ■発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
   http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
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  Copyright(C), 1998-2002 許可無く転載することを禁じます。
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◆Date: Tue, 1 Oct 2002 20:01:51 +0900
 Subject: 直送版『カルチャー・レヴュー』25号

■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご転送ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>

◆直送版◆
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 (創刊1998/10/01)               (発行部数約1240部)

      『カルチャー・レヴュー』25号
        (2002/10/01発行)

     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
         [26号は、2002/12/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆柄谷行人『トランスクリティーク』批判の問題        村田 豪
◆資本システムと「倫理」〜竹田現象学のアポリア       ひるます
◆「La Vue」12号のご案内       編集部
◆インフォメーション/合評会
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////// 批評の批評 //////

      柄谷行人『トランスクリティーク』批判の問題点

                             村田 豪
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フランス人よ! 共和主義者たらんとせば、いま一息だ。
                  (マルキ・ド・サド『閨房哲学』)

 柄谷行人の近著『トランスクリティーク』についての批評、評論をいくつか
読んだ。
 正直な感想を言えば、かなり落胆させられた。とくに批判的スタンスで書か
れた論者の考察が、極めてお粗末に感じられた。もちろん各自が自分なりの観
点から、柄谷の考えなり、主張なりを批判しているつもりではあるのだろう。
そうであるならいいのだが、そして少なからず、そういうものを期待して目を
通すのだが、しかしながら、異なった立場から批判しているというよりは、柄
谷の提示した問題を理解しないまま、片言隻語を抜き出しては言いがかりをつ
けているだけ、というような印象を持った。
 一般の読者としては、ごく普通の意味で、柄谷の議論を問い直すような批評
を読ませてほしいと思うのだが、それを果たしてもらえない。それにしても、
なぜこんなことになるのだろうか。
 まずは、そういった論者にたいし公平を欠かないよう、とりあえずは、彼ら
の論旨を簡単に拾ってみる。その上で、それらが柄谷の著作の的を射ることも
なく、単に自説の開陳にとどまるか、あるいはひどい場合には、悪意に満ちた
中傷にしかなっていないことを示してみたい。

 たとえば大杉重男は「啓蒙と洗脳の結婚」(『文学界』2001年12月号)で、
柄谷の説く「啓蒙」が、いわゆる「洗脳」とどう違うのか、という疑念をあら
わしている。その例として、伝統的な見方に反して数学や形而上学が分析的判
断だけでは基礎づけられず、総合的判断を含むのではないか、という柄谷(本
当はカントのはずだが)の論点を取りあげ、以下のように批判する。

   しかし柄谷は「分析的判断を唯一確実なものと見なす形而上学」の代り
  に、総合的判断を唯一確実なものと見なす形而上学を数学に押しつけ、か
  つそれに依拠して自身の形而上学を正当化する。
                (「啓蒙と洗脳の結婚」前掲書 p251)

 大杉は、柄谷の言い回しを巧みに自分の文章に折り込みながら、柄谷自身
が、新たに「形而上学」を反復することになっている、とそう主張したいよう
なのだ。ところが、これにはまったく脈絡がない。
 「総合的判断を唯一確実なものと見なす」とは、まずなんのことなのか。柄
谷もカントもそれに類することを、ひとこともいっていないのはもちろん、そ
れ以前に文意が通じない。彼らの主張は、分析的で確実なものと見なされてい
る理論的科学的認識においてさえ「総合的判断」が含まれざるをえない、とい
うことであり、とくに柄谷は、むしろそれは「飛躍をはらみ、危うい」ものだ
と、繰り返し強調しているのではないのか。それのどこが「唯一確実なものと
見なす」ことになっているのだろうか。
 だから、大杉が上記のような奇妙なロジックを展開しているのは、『トラン
スクリティーク』をきちんと読んでいないからか、読んでも分からなかったか
らか、おそらく、どちらかだといえる。そしてこれはたぶん後者だと思う。な
ぜなら、たとえば以下の柄谷の洞察を、大杉はみごとなまでに理解できないか
らである。

   カントは『純粋理性批判』で、とりあえず総合的判断が成立していると
  見なした上で、その超越論的な条件を探る。それは事後的な立場である。
  しかしそれは総合的判断が容易であることを意味するものではない。総合
  的判断はつねにある飛躍をはらみ、危うい。だからこそまた、それは「拡
  張的」でありうるのである。(略)カントによれば、総合的判断でしかあ
  りえないことを分析的判断によって証明してしまうのが形而上学であり、
  思弁哲学であった。しかし、同じことが事後的な立場に立つ思想について
  もあてはまる。形而上学とは、事後的にしかないものを事前に投射してし
  まう思考なのだ。        (『トランスクリティーク』p280)

 このような批判を前にしながら、大杉は「事後的にしかないものを事前に投
射して」はばかるところがない。たとえば、「未来の他者」をめぐって言及し
ている以下の箇所がそうである。

   柄谷は「われわれが後代のために活動し死んだつもりでも、後代はそう
  は思わないし感謝もしない」と不満げにつぶやくが、しかしそれは必ずし
  も「不条理」なのではなく、単に私たちの活動が後代のためになっていな
  かったからに過ぎないからかもしれない。(略)だが少なくとも自分が未
  来において評価されないことに被害者意識を持つ必要はない。
                 (「啓蒙と洗脳の結婚」前掲書p254)

 柄谷が「未来の他者」を持ち出すのは、環境問題のような、結果がでてし
まってからでは手遅れになる現実的な諸問題と、それを事前に判断することの
飛躍性について考察しているからである。そのことを、結果的な立場から応接
してぶつけ返すのは、なんというか知性がなさすぎないか(ちなみに、大杉の
「後代のためになっていなかったからに過ぎないからかもしれない」という見
方は、勝手に「事後」を先取りしてはいるが、やはり「事前」の判断、一種の
「総合的判断」である。そういうものに頼るのは「形而上学」だと揶揄してい
たのは、まさに大杉であるが、どうしたことか。おそらく自分が何を言い、何
をおこなっているのよくかわからないのであろう)。
 しかし、それにしても、この箇所は言いがかりも甚だしいと思う。「不満げ
につぶやく」や「被害者意識」などという形容は、本書を読めば分かるよう
に、大杉の意地汚い創作である。柄谷は、該当個所で、むしろカントの考えを
説明しているのであって、自身の意見として述べているわけではない。ただ
し、こんな品性のない見方が生じるのは、大杉自身の人間性の問題というより
は、彼が「他者のため」ということを、功利主義的な立場以外で考えることが
できないからでもある。柄谷ははっきり述べている。感謝されることもない未
来の他者のためになぜ何かしなければならないのか。「それはわれわれ自身の
自由の問題」なのだ、と。つまりこれが理解できないのである。

 こんなことをいちいちあげつらっていても仕方ないけれども、どこを読んで
もこんなことばっかりの大杉の批評なのである。ところが、こういう弊は、ど
うも大杉に限らないから驚く。たとえば、水谷真人は「『理論的信』について
−コメンタリオルス試論(T)」(『早稲田文学』2002年3月号)で、柄谷が抱
える「認識上の分裂」「概念上の混乱」を指摘しているのだが、これもまった
くの理解不足からくる身勝手な論点にすぎない。
 水谷がポイントにして批判しているのは、たとえば、柄谷が科学的認識の
「実践的」側面を示すものとして取りあげた「理論的信」の具体例「詰め将棋
の問題は実践におけるよりはるかに易しい。かならず詰むという信が最大の情
報である」(『トランスクリティーク』p80)という箇所にたいしてである。
これは大杉の意見を受けた形で展開されている。

   だが大杉重男も述べるように、詰め将棋が実戦よりも易しいのは、「か
  ならず詰むという信」によるものではなく、「単にかならず詰むから」に
  過ぎない。「かならず詰むという信」は、詰め将棋を詰め将棋たらしめよ
  うとする「構成的」な要請から来ている。この情報は、柄谷の用語法に倣
  うならば、「思弁」(スペキュレーション)の領圏に属する。ところで詰
  め将棋が実際に詰んでしまうのは、そのような情報とは何ら関係のない、
  「投機」(スペキュレーション)に属する事柄なのだ。「理論的信」と
  「かならず詰むという信」を混同することは許されない。
                (「『理論的信』について」前掲書p43)

 正直、唖然とされる方も多いだろう。柄谷がいっているのは、明らかに、詰
め将棋を詰め将棋と分かって解く場合と、同じ問題を実戦で与えられた場合を
くらべての話である。実戦ではすでに詰み筋に入っていても、プロでさえそれ
を確信できないまま、正解を発見できずに負けるのである。なぜか。本当に詰
んでいるのかどうか、その時点では対局者には分からないからである。結論が
出る手前でせめぎ合う「勝負」において、どれほど「かならず詰むという信」
が大きな意味を持つのか、と考えれば、それを「理論的信」の例としてあげた
ことも容易に理解できよう。それをただ詰め将棋の話だと思いこみ、それが易
しいのは「単にかならず詰むから」にすぎないなどと居直る論者の不明は覆い
ようもない。
 さらに「柄谷の用語法に倣う」という部分も、首を傾げてしまう。確かに柄
谷は「科学認識(総合判断)はスペキュレーション(思弁)ではないが、ある
種のスペキュレーション(投機)をはらんでいる」と書いた。しかし言葉の意
味合いとしては、ごく一般的なものである。科学認識は「思弁」つまり「経験
によらない推論」ではないが、「投機」つまり「予測に掛けること」を含む実
践性がある、というほどのことである。ところが水谷にかかれば、「かならず
詰むという信」が「思弁」に属し(これが「投機」ではないか)、「実際に詰
んでしまう」ことが「投機」に属する(まったく意味不明。単なる結果ではな
いのか)、などと展開されてしまう。そしてそんな不可解な主張を通じて、
「『理論的信』と『かならず詰むという信』を混同することは許されない」と
いうような結論を導きだしているのである。
 いささか細かい指摘のように思われるかもしれないが、水谷論考の多くの箇
所でこういったことが目立つので、典型的な例をあえて取りあげた。そして気
がつくのは、大杉・水谷の両者に共通する問題点である。それは、(1)柄谷
の主張とはかけ離れたことを引き合いに出し、(2)柄谷が論じ扱った概念や
術語を不正確に援用することで、(3)最終的には論者にとって都合のいい結
論を出して柄谷への批判とする、という信じがたい三段論法である。
 いったいなぜこんなことになっているのだろうか。一つは、やはり批判者た
ちが『トランスクリティーク』をきっちり読んでいない、ということにつきる
と思う。内容を把握しているなら、柄谷の見解に反対するにせよ、賛成するに
せよ、上記のような議論は存在しえないはずである。だから、有益な議論を期
待する一読者として、こういった論者には、あらためて『トランスクリティー
ク』を再読いただいて、批判の立てなおしをはかってほしいと願うばかりだ。
 ただし、そうはいっても、これは難しい要求なのだろうか、ともう一度考え
させられることになった。というのは、この間、竹田青嗣「資本主義・国家・
倫理−『トランスクリティーク』のアポリア」(『群像』2002年9月号)を読
んだからである。
 もちろん、竹田の論評は、上記の大杉らほど雑なものではないし、彼らより
はるかに真面目に考察をほどこそうとしてはいる。全10章分のうち3、4章分
ほどを割いて、丁寧に柄谷の主張やカントの議論をあとづけてもいる。つまり
批評の対象をいちおうは読んでいると思われる。にもかかわらず、竹田の議論
の全体は、結局は、大杉や水谷のような、相手を批判したいがためだけの信じ
がたい三段論法と何らかわるところがなく、いっそう深く読者を徒労感におと
しいれることになる。
 とくに、この竹田論文がひどいのは、『トランスクリティーク』を批評をす
るというよりは、それにかこつけて自説を延々と述べつづけていることであ
る。たしかに、竹田はあらゆる場所で、柄谷の見解の略述を試みていはいる。
しかしそれがあまりに「自分なり」すぎるので、結局は、柄谷を自己対話の材
料にしているにすぎない。
 たとえば「1」から「4」は、おもにカント論の妥当性をめぐっての評価で
あるが、最初の2章からしてすでに、ほとんどが竹田自らのカント解釈の展開
である。「3」で、ようやく柄谷の議論の吟味にはいるが、これも柄谷が「普
遍性」を考える上で「未来の他者」を取り出したことに一定の評価を与えるだ
けである。しかもそれは本当は自らの他者論をなぞっているだけなので、柄谷
の提示した論点をまったく別の物にしてしまっている。たとえば、以下のよう
な記述がある。

   さて、柄谷が言うように、一共同体のうちの「公共的合意」は、他の共
  同体のそれを対置したとたん、「主観的」なものにすぎなくなる。これは
  つまり、一つの「世界認識」と他の「世界認識」とが互いに自己の認識の
  「真」を信憑しているところでは、「正しい世界観」という概念を超え出
  る原理が存在しない、ということだ。相互が自分の「世界認識」を、事実
  認識の問題としてではなく、「統整的理念」つまり「かくあれかしという
  要請」としての「世界了解」として自覚し、相対化できた場合だけ、二つ
  の絶対的な「世界認識」は、はじめて相互了解の可能性の原理を持つので
  ある。         (「資本主 義・国家・倫理」前掲書p175)

 柄谷は、まったくこのようなことを論じていない。むしろ竹田が言及してい
る箇所では、「単独性」について論じているのであって、異なった主観の認識
を「相互了解」で乗り越えるなどという安易な発想は、竹田のものにすぎな
い。
 しかも次章の「4」では、すぐにもヘーゲルに依拠して、柄谷の「他者」に
ひそむという「超越性」や「絶対性」を批判し始めるのだが、これも奇妙な展
開である。柄谷は、当該箇所で自身やカントの「普遍性−単独性」および「自
然−自由」を、ヘーゲルやヘーゲル的なロマン派の定式「普遍性−特殊性−個
別性」と丁寧に関係づけて、論じているのではないのか。ある意味で、竹田の
疑問に答えているようにも読めるのに、そこを無視する理由がまったく分から
ない。それをぬけぬけと、大上段にヘーゲルをもってきて「柄谷の『他者』は
いわば“直接性としての他者”であって、そのためこうして取り出された「倫
理」の根拠にはまだ超越性の残滓があると言わねばならない」などと見得をき
るのは、ほとんど間抜けである。
 しかし、問題はまだまだある。「5」は柄谷のマルクス論の概説だが、そこ
で竹田は資本主義を「人間欲望の顛倒した普遍形態」と要約してみせる。とこ
ろが柄谷は資本の運動の背後にある要因を厳密に「欲動」と書いている。しか
も「イントロダクション」では「マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたこ
とに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなく
て、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイト
にならってそう呼ぶことにしたい――なのだ」と、その語の意識的な使用につ
いて、親切にも注意をうながしてくれているではないか。なのに、言葉の違い
にたいする竹田のこの救いがたい鈍感さは、何によるのだろう。不思議で仕方
がない。もちろんそういうことも含め、竹田は、柄谷の資本主義批判の要点を
まったく見過ごすことになっているし、何も取り上げていないのに等しい。
 だから次章以降で、柄谷のマルクス論をもっと厳密に検討するのかと思いき
や、「6」「7」は、柄谷の議論とは関係のない文脈で、ルソーによる「自
由」と近代社会の政治原理を長々と語り始めるのである。そして最後に資本制
における「所有」「分業」「交換」が、近代的「自由」を実現する条件として
数え上げられる。なぜそんな話になっているかというと、「8」以降で、資本
主義に対抗するために柄谷の提示した「アソシエーション」や「LETS」を
批判するためなのである。資本主義の廃棄は、「自由」の否定につながる、と
いうような論拠をもって。しかも柄谷の議論を、最後までまったく何も検討し
ないままに。「『貨幣』も、また人間の幻想的な欲望の本質の表現形態であ
る」などという記述で自身の知的怠慢さを平気でさらしながら。
 とどのつまり、以上の説明で明らかなように、竹田は柄谷を論じる必要が
まったくないはずなのである。自説を展開するのはかまわない。大いにその思
索を深めていただきたい。しかし文芸誌の2段組の46ページにも及ぶ枚数をか
けて、自説を、こんな冗長で、ばかばかしい言いがかりに仕立て上げるほどの
無益が、いったいどこにあるというのだろうか。少なくとも読者にとっては、
こんなものを読まされるのは、いい迷惑である。
 しかしながら、柄谷批判者たちが、こうもそろいも揃って同じ轍をふんでい
くことに関しては、少々下世話な連想が働かないわけではない。要するに、彼
らはもともと純粋に柄谷を論じようということよりも、文壇・論壇上の覇権争
いでもしているつもりなのではないのか。柄谷を格好の競争相手として、でき
れば叩いておきたい、というような動機に突き動かされているのではないか
と。
 私自身は、一概に文壇上のヘゲモニー争いを悪いと思っているわけではな
い。そういう要素はなくなるものではかもしれない。とくに、それを必要とす
る経済的基盤(文芸ジャーナリズム)の上にいる限り、ほとんど避けられない
だろう。しかしこれについても柄谷は、たびたび著作権の問題などを取り上
げ、むしろ知識というものはコンピュータOSの「Linux」のように誰もがフ
リーでアクセスし、利用可能なオープンソースであるべきだと発言している。
そして実際に、自身の著作を、有志で立ち上げた「生産協同組合」を通じて出
版し、「NAM」や「Qプロジェクト」というかたちで、その理論を誰もが活
用できるように具体化したのだった。だから自身の思索の成果を、より大きな
資本主義的利権へと転化しようなどという動機そのものを批判していることに
なる。そういう柄谷の理論的・実践的構想にたいして、一方の側は、その中身
を吟味することもなく、単にヘゲモニーを握らんがための表面的な批判を展開
するのでは、あまりに弱いというほかない(実は、大杉は、そのことには気づ
いていて、先の論考の最後で「文芸誌の注文に漫然と受動的に応じていうるだ
けで日々をやり過ごしている私は、柄谷たちの主体的、実践的な態度を前にし
て恥ずかしく思うしかない」と少々本音をもらしているが)。
 まずは以上のことには自覚的であるべきだと思う。そして批判者たちは、運
動を始める柄谷に自分がなぜうさん臭さを感じるのか、政治・経済的システム
のオルタナティブを提起する柄谷になぜ「洗脳」や「超越性」をかぎつけるの
か、もっと明確にすべきである。それは、彼らがくどくど言い立てていたほど
には、理論的・哲学的問題からとは見なせない。
 むしろそれは、柄谷の理念の内容そのものに反感を抱いているからではない
のか。たとえば、彼らは、カント論についてはあれだけ紙幅を費やしながら、
マルクス論についてほとんど語らなかった。しかし本当はそちらについて考察
すべきだった。彼らは、カント論にこそ柄谷の「超越性」や「倫理」の原因が
あるのだと思っているのだが、それは思いこみである。たとえば、価値形態論
を分析する柄谷が、そこに混じっているマルクスの「労働価値説」をなぜ同時
に評価するのか。それは「各人がその必要に応じて与えられる社会こそがある
べきだ」という理念に貫かれているからである(『トランスクリティー
ク』p340註54を参照のこと)。それこそが、実践的態度の動機であろう。柄谷
は、マルクス論においてこそ厳しく倫理的だと言わざるをえない。
 だから、批判者たちは、柄谷の理念にたいして反対したいのなら、「まだ超
越性の残滓がある」というような持って回った言い方をせず、「人が飢えて死
のうが、自分の取り分を主張できる社会こそがあるべきだ」と自身の直情を明
確にするべきであった(たとえば、竹田の議論では、せいぜい「各人がその労
働に応じて与えられる取る社会」しか実現しないだろう。それは柄谷の理念と
は決定的に違うものである)。しかしそういった自身についての洞察も、あの
蒙昧さでは、おぼつかないままなのかもしれない。
 しかし、私は彼らをそういうレッテルに押し込めるために、こんなことを書
いたつもりではないので、最後にそれをお断りしておきたい。ただ何度も言う
が『トランスクリティーク』をもう少しきっちり読んでいただいて、「作品を
論じる」というまともな批評のスタイルにつかれんことを願ってのことであ
る。それは、おそらく、思想的決着をつけるためでもなく、文壇的覇権の意味
合いでもなく、あるいは、私のような読者を満足させるためでもない。きっと
論者自身のために、と気づいたときに、それはなされることであろう。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)1970年生まれ。サラリーマン、「哲学的腹ぺこ塾」塾生。

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////// 哲学/倫理 //////

      資本システムと「倫理」〜竹田現象学のアポリア


                             ひるます
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獏迦瀬:「群像」9月号に竹田青嗣さんによる柄谷行人さんの<トランスクリ
ティーク>に対する批判が掲載されてましたね。
伊丹堂:あれね。柄谷の運動にはワシはあまり興味がないんじゃが…。
獏迦瀬:そうですか? 柄谷さんの『倫理21』については、ウェブマガジンで
取り上げて(註1)、高く評価するっていうか学ぶところが多いと、そんな話
をしましたが…。
伊丹堂:そりゃあくまで「倫理」ということをどう捉えるかという点だけのこ
とじゃな。
獏迦瀬:ではやはり竹田さん同様、柄谷さんに対しては批判的、というとこで
すか?
伊丹堂:柄谷に対する批判はすでにその『倫理21』についての論評の中や、そ
の後の「倫理って何なんだ〜?」(註2)という対話でしているが、竹田の批
判に同意するわけでもない…。むしろこの論文では、竹田の考え方のほうに重
大な「問題」を感じるがな。
獏迦瀬:というと…。
伊丹堂:ようするに倫理ってコトがまったく分かっていない。ということはひ
いては「創造」とか「普遍性」ということが分かってないってことなんじゃ
が…。
獏迦瀬:ずいぶんデカイ話ですが(笑)、竹田さんも柄谷さんの「たえざる他
者への配慮」という論点(他者=物自体)のところだけは「重要な直感」が含
まれてるとして評価してますね。
伊丹堂:しかしそう言ってるだけで、だから何だってことは何も展開されてな
いんじゃないの? 「意志と努力の可能性の原理」と読み替えているが、いっ
たいぜんたいどこの誰がそんな努力を買って出るのか…。
獏迦瀬:まあ他人事ですよね。伊丹堂さん的に言えば「〜しなくてもいいにも
かかわらず〜する」という倫理の実存的なファクターが欠落してるってことに
なりますかね…。
伊丹堂:それは後半の社会契約とか権力に関しても問題になるところじゃが、
とりあえずは、他者への配慮ということで問題になるのは、普遍性とは何かっ
てことじゃろうね。
獏迦瀬:竹田さんは柄谷さんに同意しつつ、普遍性というのは、他者相関的な
ものだとは言うわけですが…。
伊丹堂:しかしそこで展開されるのは、お得意の認識とは対象との一致ではな
いとかいう教科書的な認識論話になっていて、普遍性という問題からはズレて
いる。
獏迦瀬:ズレてると言えばそうですよね。共同体が相容れない「世界認識」を
主張して対立している場合、お互いがそれを事実問題としてではなくて、世界
了解の仕方の違いとして自覚し、相対化できたときにだけ相互了解ができるん
だ、というような話がでてきましたケド、ようするに、みんながカント哲学、
ひいては現象学を学べばお互いに理解し合えるんだと、そういうことですか
ね。
伊丹堂:わはは、ちゅ〜ことになるんじゃろうな。しかしそんなのが成り立つ
のは、独断論を信奉する共同体と経験論を信奉する共同体が対立している、な
んていう希有なバアイだけじゃろ。
獏迦瀬:それってショートショートの世界じゃないですか。
伊丹堂:竹田がそういう解決を提示する「カントの思考」について「本質的に
哲学的なのだ」と言っとるが、まさにそのとおりで、そういう「解決」は哲学
的な「だけ」なんじゃな。もっとはっきり言えば、そういう解決は「哲学的文
脈」が成立するような関係においてしか成り立たないってことヨ。竹田はいと
も簡単に「事実問題」と「理念としての世界了解」を分けて考えることができ
るかに言っとるが、そもそもそれを分けるということ自体がある特定の「文
脈」の中でのみ可能だということに思いいたるべきじゃな。
獏迦瀬:そういえば、ひるます氏がある掲示板で「竹田現象学に文脈なし」と
書き込んでましたが、そのことでしたか…。
伊丹堂:それはともかく、ここで問題なのは、そうすると「普遍性」というも
のが、特定の哲学的な理解に限定されてしまうってことじゃ。
獏迦瀬:柄谷さんの提起した「物自体=他者」の無限の異義申し立てというこ
とを、他者との相互了解の要請、と読み替えることで、そういう哲学的な文脈
での理解を「普遍的な認識」とするわけですね。
伊丹堂:しかしそんなものは、ワシらが「普遍的」とか「普遍性」とかいうと
きのコトバ使いからは、とてつもなくかけ離れてるじゃろ。少なくとも、そも
そもこの論文のはじめで話題にしておったハズの「美の普遍性」という問題す
ら考えることができない。
獏迦瀬:そういえば「美と普遍性」の問題については、我らが「臨場哲学」で
肥留間氏が「美っ何なんだ〜?」という対話をしてましたけど(註3)。
伊丹堂:あれも直接ではないが、竹田現象学への「批判」になっておるよう
じゃから、あわせて読んでみるといいわな。そこで言ってるのは、ようするに
普遍性ってのは成熟とか洗練の度合いだってことじゃ。
獏迦瀬:というと…。
伊丹堂:以前「正義って何なんだ〜?」という対話で(註4)、「公共性」と
いう概念を、ヨリ開かれている状態を示す関係概念(修飾辞)と捉えた方が使
える、ということを言ったが、それと同じことヨ。普遍性も、ある条件を満た
せば決定的に普遍的だ! というのではなくて、ヨリ普遍的かどうかという関
係概念として捉えた方がいいということじゃ。
獏迦瀬:その場合のヨリ普遍的というのが問題ですが…。
伊丹堂:ワシらがコトを認識したり判断したりする際には、つまりコトを創造
する際には、ワシらはそれが「他の人にとって同様に成り立つ」という想定を
行いつつ、それをなしている。それが結果として本当にそうなっているか? 
共有しうるまでに練り込まれてるかど〜かというのがようするに、普遍的か
ど〜かってことじゃな。すなわち結果論よ。
獏迦瀬:そう言っちゃうと軽い感じがしますが…。
伊丹堂:しかしその程度のコトすらワシらにはナカナカ創りだせない。これは
「努力」とか「意志」とか、あるいは「問題意識」とはある意味で関係ないの
な。結果とは、かくも残酷なのじゃよ。
獏迦瀬:たしかに。そもそも美だけではなく知や善がコトガラとして「創造」
されるものだって発想は、現象学にはないんでしょうね。
伊丹堂:ないね。一般に哲学者ってのは「アイデア」とか「創造」ってものに
対する考えや敬意がキハクじゃな。もうイッコ肝心なのは、そういう創造には
「リアル」ってもんが関わってるってことじゃ。
獏迦瀬:リアルの到来ってやつですね。
伊丹堂:人においてコトの創造はリアルの到来とウラハラだってことじゃな。
人に伝えられる。それを受容する人においてもリアルが到来するなら、そこで
コトの説得−納得が成り立ったということになるわな。しかしそんなことが起
きるかど〜かは結果論だってことだったわけじゃ。
獏迦瀬:さっきの共同体間の世界観が衝突するって場合でも、お互いが理解し
あおうとするなら、お互いが納得できるような新たなコトを創造するしかない
わけですね。
伊丹堂:というより、共同体が衝突する場合ってのは、そもそも「相手が何を
考えてるか」が分からない(笑)。相手がこう思ってるだろう…という詮索そ
のものが一つのコトの創造(判断)でしかないわけよ。しかし問題は共同体が
衝突するというような場合に限らず、一般に人の世ってのは、常識に対して新
たなコトが創造されては普遍性を獲得しようとする戦い、というよりは修練、
の場だってことじゃな。
獏迦瀬:逆に言えば、同じ共同体だからって同じ「普遍性」をもって生きてる
わけでもないですからね。
伊丹堂:さしあたって共同体が共有してるようなものは、単に「常識」ってい
うんじゃな。創造とリアルがわかってないと、単なる常識と普遍性の違いって
ものも分からなくなるのよ。ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論がいい例
じゃな。
獏迦瀬:なるほどベタな話ですよね…。ところで話を戻すと、その普遍性と倫
理ってのはどういう関係になるんでしょう。
伊丹堂:いや、だからそれは関係ないわけヨ。倫理ってのは態度の問題であり
実存の問題なわけで、普遍性というのは実際問題としての結果なんじゃから、
そもそもの尺度が違う(註5)。それは反映されればめっけもんってくらいの
もんじゃろ。
獏迦瀬:でも創造ってのは倫理的なワケでしょ。
伊丹堂:わはは、いつも言ってるように倫理ということを考える場合、「我々
にとって」という視点と「個人にとって」という視点を考えないと何いってる
のか分からなくなるぞ。我々にとって、人はそうしなくていいにもかかわらず
創造をしてしまう、という意味で、「あらゆるコトの創造は倫理的である」と
いうことが言えるのじゃが、個人の視点においては、人はそうしなくていいな
らば、さしあたってたいていの場合、そうしない(笑)。
獏迦瀬:非−倫理的、なんですね。
伊丹堂:非−倫理的っていうと、なんか悪いことをしてるようじゃが、ようす
るに別に倫理的でも倫理に反するというわけでもない、倫理とは関係ないって
ことだね。肝心なことは、ワシらは誰でも非−倫理的に生きる権利(まっとう
さ)を持ってるってことじゃ。
獏迦瀬:ちなみに竹田さんも柄谷−カントの認識の普遍性の根拠を倫理におく
考えを批判していますが、そこからなぜか近代市民社会のルールとしての「自
由の相互承認」という話になる…という何かどんどん話がズレていく印象でし
たね。
伊丹堂:だから関係ないといえば済むんじゃが(笑)、柄谷の場合、自由であ
れという根拠もそうじゃが、「他者を自由な存在として扱う」「他者を手段で
はなく目的としてみる」というコトが「善」であるということになり、結論と
してはようするに「資本主義を否定することが善」というわけで、こういった
一連の論理がすべて「規範化」している。それを以前批判しておいたのじゃが
(註2)、ある意味柄谷のそういう大雑把な善意ってのは、無邪気さという意
味で罪がない。しかし竹田の理屈を追っていくと、ようするに近代市民国家が
そのものの構造において「倫理的」であると語ってしまっているんじゃないか
の? それは罪深いぞ。
獏迦瀬:実際、自由の相互承認と一般意志の成立という論理の中で、「ありふ
れた相対的な他者を倫理と普遍性の根拠としておく」と言ってますから、それ
を「倫理的」と思ってるんでしょうけど。
伊丹堂:ふうん。そんなものは倫理でもなんでもないと思うが…。ありふれた
相対的な他者の想定というが、そのような想定は竹田が批判する「超越的な他
者が誰かを自分こそが知っている」という僭称と同様にそもそも恣意的なもの
でしかないじゃろ。それでもとりあえず竹田の市民社会論が成り立っているか
に見えるのは、ようするにそれがすでに成立している市民社会−国家システム
を前提に語ってるというだけのことで…。
獏迦瀬:他者の自由の相互承認は「一斉に」行われなければならないとか…、
そんなことが行われたためしはないと思いますが、それこそどういう「文脈」
の話なのかはっきりしません。
伊丹堂:哲学的に「物語」を語ってはならないというのが竹田のモットーかと
思っていたが、これって徹頭徹尾、物語そのものじゃな。
獏迦瀬:ようするに国家権力の正当性を物語りたいわけですか。
伊丹堂:柄谷のポストモダンを批判しつつも、どっぷりとポストモダンなん
じゃよな。つまり「権力」なんてものの存在を認めるという程度のことにこれ
だけのリクツをつけないとど〜しても認められないってことじゃろ。それはあ
る意味哀れじゃがな。ようするに社会システムと権力ってことがまったく分
かってない。
獏迦瀬:ああ「世の中とは…」って話ですね(註4)。
伊丹堂:そう。世の中とは、人々がその都度その都度の目先のコトガラへ配慮
してする行為の連鎖が全体としては調和して成り立っているような「社会シス
テム」のことだと言ったわけじゃな。しかしそこには常にシステムに対して
「超越する」視点から介入するという構造があるのであって、それを一般的に
「政治」(権力)としたわけじゃ。これを直に「国家」と言ってしまわないの
は、とりあえず「国家」というものを歴史的に特殊なものと見ておく立場から
なんじゃが、ここで肝心なのは、この構造は近代市民社会にかかわらず、さし
あたってワシらが知っている歴史的な社会においてはすべてあてはまる「構
造」だってことヨ。
獏迦瀬:その構造の「ナカミ」が近代市民社会ではど〜なってるのか? って
ことですよね。「世の中」において人々がその都度その都度の目先のコトガラ
へ配慮して行為するってのを「倫理的」に表現すれば、それこそ竹田さんのい
う「ありふれた他者の想定」ってことになりますね。でもそれは単に世の中の
あり様だと…。
伊丹堂:そういう「見方」をしないと、構造(システム)の話をしているのか
「倫理」の話をしているかが見えなくなるわけよ。自由の相互承認なんて別に
人々が意志的に・倫理的にやってるのでもなんでもなくて、資本主義社会にお
いては人々が「自由にさせられている」ということだし、私的所有が自由の根
拠なんて話もでてくるのじゃが、私的所有だって、別に勝ち取ったものでもな
んでもなくて、商品経済が可能となるようにシステムにおいて「私的所有させ
られている」と見ることもできるわけよ。それこそ非−倫理的な世の中の流
れってことじゃな。
獏迦瀬:世の中がそういうシステムになっているから、それに対する介入権力
もまたそのような「自由」を保障することを主目的にしたものに変化したって
いうのが民主主義ってことですかね。それもとりあえずは「構造」としてあ
る…と。
伊丹堂:民主制だからといって、倫理的だとか正義だというわけではない、と
いうことは前も話した。ようするに単なる構造である以上、そこで人は非−倫
理的に流れていくわけで、常に政治腐敗がおこり官僚機構が腐敗してしまうと
いうことのコトワリがそこにある。
獏迦瀬:ところが竹田さんの論理だとまずは社会契約があって、権力がつくら
れ、それは成員の自由を確保するという一般意志を実現するためのものであっ
たのに、国家間の競合や緊張関係のために、それが国家の利益共同体としての
特殊意志に後退させられてしまう。それが近代国家のアポリアだというのです
よ!
伊丹堂:それはまた独断的な「理由づけ」じゃな…。なんども言うがやはり
「創造」ってことがちっともわかっとらんのじゃな。
獏迦瀬:というと?
伊丹堂:いいかね、一般に世の中ってのは、人々が「目先のこと」を配慮して
活動しているのだから、本人がいくら社会に反することをしていないつもりで
も、社会は全体としてはかく乱していくわけヨ。これはよく言えば、世の中と
いうものは常に「創造」によって変化しているということじゃろ。これを世の
中への介入によって調整して安定したところへ着地させるというのが政治機能
なんじゃが、近代国家においてその介入原則をいくら「成員の自由の確保」な
んてことに決めておっても、その実現ってのは、ようするにその都度さまざま
な条件や経緯の中で変わってくる。そこではどうすれば一般意志にかなうか?
なんてことが、最初からはっきり分かっているわけでもなんでもない。
獏迦瀬:まあそれが分かってたら裁判はいりませんからね。
伊丹堂:したがってそれはその都度のコトの創造としてなされる以外ないわけ
じゃろ。とすればその結果が原則からかけはなれたものになる、という可能性
は常にある、ということじゃ。
獏迦瀬:ようするに失敗するという可能性ですよね。
伊丹堂:つまり構造としてつねに社会介入システムは失敗したり腐敗したりす
る可能性があるということじゃな。…ところでここがまた肝心なんじゃが、そ
れを解決しようとする人々が倫理的であろうと非−倫理的であろうと、それは
実は関係がない。
獏迦瀬:まあさっきの倫理と普遍性は関係ないというのと同じですよね。倫理
的な人も失敗はするわけで(笑)。
伊丹堂:だから竹田のいうような「理由」で近代市民社会がうまく行かないの
ではなくて、そもそも構造的に社会介入システムというものがうまくいかない
ということが単なる当たり前としてあるのであれば、やはりどこかでそれがう
まく行くような「努力」というものが必要になるわけじゃ。
獏迦瀬:最初に出て来た「努力」=倫理性の問題ですね。まるで他人事って話
しでしたが、竹田さんの論理からいけばそもそも最初に一般意志として決定さ
れれば、あとはうまく作動するはずなので、努力はどこにも介在する余地はな
いってことになりますよね。
伊丹堂:ところが構造としてうまく行かない以上、努力なしに市民社会におけ
る介入原理=民主主義は成立しない。「民主主義とは日々の実行である」とい
うことの意義がそこにあるわけよ。
獏迦瀬:小室直樹さんの民主主義論ですね(註6)。
伊丹堂:倫理性は創造や判断の結果の正しさや普遍性を「保証」しないが、
人々ができるかぎりそれを正しく、普遍的にしようとする努力、そうしなくて
もいいにもかかわらずそうする努力によって、日々それは実行されているとい
うことじゃな。
獏迦瀬:そのためにはようするに教育が必要だということでしたね。
伊丹堂:ワシ的に言えば、人々がそこそこに「倫理的」である程度に習慣化さ
れている必要があるってことじゃな。
獏迦瀬:それは「システム」の問題であると同時に「システム」だけではしょ
うがない、実存の問題でもあるという微妙な話ですよね。
伊丹堂:いや単純に言って「文化」の問題じゃ。
獏迦瀬:なるほどね…。文化というとちょっと気になったのは、竹田さんの、
国家間の緊張が特殊意志をつくり出すという近代国家のアポリアの解決とし
て、国家間の「普遍意志」をつくり出さねばならないというところです。こ
れってようするにグローバリズムの普遍支配っていうか、文化帝国主義なん
じゃないですか?
伊丹堂:それはちょっとというより大いに気にしてほしいとこじゃな。竹田自
身が現実のグローバリズム台頭をどのように考えているかは知らんが、しかし
竹田の考えがグローバリズムに接近するのは、そもそもの根拠を「自由の相互
承認」という考えにおく限り当然の帰結ではあるわな。
獏迦瀬:というと…。
伊丹堂:ようするにそれは竹田流の「倫理」として捉えられているわけじゃ
ろ、ワシはそれを「倫理」とは思わんが。竹田にとっては「自由の相互承認」
という契約は、かならず「すべき」こと、という積極的な意味あいのものなん
じゃな。
獏迦瀬:実際は「〜させられてる」としても…。
伊丹堂:しかし考えてみるまでもなく、自由の相互承認なんて、とりあえず相
手の自由を拘束したり侵害したりしないってだけのことで、そんなものは「と
りあえず積極的に何もしない人」なら、意識する必要すらなく実行しているわ
けじゃ。よ〜するに「さしあたって人の嫌がることはしないでおこう・人の持
ち物には手出ししないでおこう」って程度の気分じゃね。
獏迦瀬:立岩真也さんの『私的所有論』にそんなくだりがありましたね。
伊丹堂:そういうあり方に対して積極的な意味合いの「相互承認」ということ
を言うこと自体がすでに「文化帝国主義的」なんじゃよ。つまり「メンバー」
として参加せよ、という命令になっているのな。
獏迦瀬:それが一気に「世界大に拡大する」原理ってことになるわけですよ。
伊丹堂:まったく別な社会システムにおいて成り立っている共同体に対して
も、同じメンバーとして参加しろ、しかも「お互いに自由であることを認め
よ」というわけじゃろ。
獏迦瀬:このへんのリクツは、市民社会においては「我々」という共同体が崩
壊するので、我々が「すべての人間」に拡大するしかないという展開です。そ
こですべての人間が「自由」と「尊厳」において対等であるという「世界大の
感覚」の上に市民社会の自由が成立する…と。なんかコトバとしてはかっちょ
いいのですが…。
伊丹堂:一言でいって大きなお世話じゃろうね。自分とこが崩壊したからって
全部一緒にって話じゃないの。
獏迦瀬:まあ実際は世界中で共同体的な社会システムは崩壊しつつあるんで
しょうけどね。
伊丹堂:そこを見ないで「自由の相互承認」なんてことを言うのが欺瞞なん
じゃな。別にワシらが他国の悲惨な状況をなんとかしなきゃと感じるのは、お
互いに「市民社会の一員として対等」だから、などというのではなくて、単に
かわいそうと思うだけのことじゃろ。向こうの人に「お互い自由だ」と認めて
ほしいとも思わんしな。
獏迦瀬:単にまっとうさの感覚があればそう思いますよ。
伊丹堂:ようするにそこからどういう「解決」とか「相互理解」をつくり出し
ていくかってことはすでに言ったように、それぞれの場合における解決や理解
のアイデアとして創造される以外ないわけじゃろ。世界が一つのシステムにな
る、ということが先にありき、ではないのじゃよ。
獏迦瀬:そういう創造がなされるように人々を教育するってのも文化だってこ
とですかね。
伊丹堂:そう。教育というと、メンバーとしての意識を植え付ける、みたいな
イメージが、とくにポストモダンな人々にはあるじゃろうが、自分達の文化を
押し付けるのではなくて、それを越えてその外側の他者をも配慮していこうと
いうのもまた、ある種の文化によるしかない。システムや原理がこうだからこ
うだという機械的な思考はそろそろやめて、まじめに文化としてどうあるべき
か? って話をするべきじゃろうな。ま、それが美学の問題ってことなんじゃ
がな。

(註1)柄谷行人『倫理21』を読む、臨場哲学Vol.33(2000年3月)
    http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/WEBZIN/hirumas33.html
(註2)「La Vue」7号掲載(2001年9月)
(註3)臨場哲学通信 Vol.76(2002年7月)
    http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/RIN/head76.html
(註4)「La Vue」8号掲載(2001年12月)
(註5)ひるますヘッドライン 第30号(2000年2月)
    http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/HEAD/head30.html
(註6)小室直樹『悪の民主主義〜民主主義原論』書評、臨場哲学Vol.32
    (1999年11月)
    http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/WEBZIN/hirumas32.html

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひるます)1961年、岩手県生まれ。マンガ家。単行本『オムレット―心のカ
ガクを探検する―』(広英社刊、1999年)のほか、商業誌掲載作品に「平成大
逆転男」「黄昏まで3万マイル」(いずれもコミックモーニング)がある。H
P「ひるますホームページ/臨場哲学」で書評・エッセイ・デジタルコミック
等を発表中。http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/
E-mail:hirumas@cancer.bekkoame.ne.jp

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////// 「La Vue」12号のご案内 //////

■掲載内容(02/12/01発行)
■3周年特集号《一読多読》
 ◎武田百合子『ことばの食卓』/内浦 亨(図書出版「冬弓舎」代表)
 ◎往還の湖――橋本康介『祭りの笛』覚書断片/今野和代(詩人)
 ◎マカール・ジェーヴシキンという性格/中島洋治(元編集者)
 ◎狂気なき狂気の現代 バタイユ『至高性』/宮山昌治(投稿者)
 ◎心の通底に流れているテーマから(仮題)/安喜健人(編集者)
 ◎アンケートの回答

■協賛:哲学的腹ぺこ塾
    http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/harapeko.html
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京)・図書館・文化センター・大学生協等
 に配布
■配布情報 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html

 本紙は市民の相互批評を目指す媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
 頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
 また本紙を安定的に発行するために、賛助会員を募っております。
 年会費一口、1000円(9号〜12号までの定期購読料+送料+投げ銭)からの
 「木戸銭」を申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321


●●●●インフォメーション●-----------------------------------------

 「カルチャー・レヴュー」&「La Vue」の合評会
 ■日  時:02年10月20日(日)午後2時より5時まで
      その後、暫時「二次会」へ
 ■テキスト:「カルチャー・レヴュー」25号&「La Vue」11号
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房(TEL/FAX:06-6320-6426)
 ■会  費:500円
       定員に限りがあるので、お早めにお申し込みください。
       E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
   
■編集後記■---------------------------------------------------------
★今号は2本の長文の論考を寄稿していただいたので、一挙掲載にするため通
常号より掲載本数を減らしました。共にアクチュアルで論争的な内容になって
います。
★村田氏の論考を読みながら、テクストの読解における「態度」と「誤読」の
有り様とは何かを思いめぐらした。たとえば文学テクストにおける読者の「創
造的読解/創造的誤読」は、作者を超えて作品の可能性を広げることもあるだ
ろう。自然科学論文の場合は追試によって、その理論や成果が検証されるが、
そこでは厳密な実験方法と観察者の態度や認識が問われる。同じように人文批
評においても、厳密な読解と批評者の態度と認識が問われると思うが、それ故
にか? また「誤読」の不可避性にも思い当たる。
★今号の2本の論考では、共に竹田青嗣の柄谷批判が採りあげられている。竹
田は柄谷の問題提起に時代的な本質力があることを認めながらも、柄谷の方法
は「あるべき崇高な理想=超越項(市民社会の外部)」からの発想であり、そ
のような発想では人々を暗黙のうちに超越項を後ろ盾とする義の立場に立た
せ、現実の全体を善悪の二項対立に引き裂くだけで「近代市民社会」の原理を
超える代替原理足り得ていないと批判している。そのように柄谷を読解する竹
田は、そのような方法では、その「あるべき崇高な理想」がその理想を共有し
ない者にとっては抑圧の真理に転化すると言いたいのだろうと憶測する(竹田
の論考では、そこまで書いていない。因みに私は「トラクリ」を精読していな
いので竹田の読解の当否は問わないが、村田氏が書いているように柄谷を素材
にしながら竹田の「市民社会論」との自己対話になっていることは確かだ)。
★だが仮に竹田の言うように柄谷の「理想」が超越項だとしても、私たちはそ
の「理想」をさまざまにある可能性の理想のひとつに引きずり降ろして、対話
・批判して練り上げてゆくことを始めればよいだけのことだ。そして、竹田が
言うところの、歴史的社会制度の一段階としての本質をもつ「市民社会のルー
ルゲーム」ならばこそ、それは歴史的限界を有している。竹田じしんもそのこ
とには自覚的なのだから、そのルールゲームを乗り超えるべく、新たな原理を
「市民社会内部」から編み上げていくべきだろう。(黒猫房主)

●○●---------------------------------------------------------●○●
  『カルチャー・レヴュー』25号(通巻28号)(2002/10/01)
  ■編集委員:いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英・加藤正太郎・
        山口秀也・山本繁樹
  ■発行人:山本繁樹
 ■発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
   http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
  〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
  TEL/FAX 06-6320-6426
  ■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
  ■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
  Copyright(C), 1998-2002 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●

■申込・解除・変更は下記の(直送版は、るな工房まで)
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/touroku.htmlまで。
■情報提供・投稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。
■本誌のバックナンバーは、
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.htmlにあります。
■本誌へのご意見・ご感想・は、下記のWeb「黒猫の砂場」(談話室)
 または「るな工房」までメールでの投稿を歓迎します。
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
■このメールは半角70字(全角35字)詰めで構成しております。レイアウトの
 ズレがある場合は固定(等幅)フォントで修正してお読みください。

 

◆Date: Thu, 1 Aug 2002 21:42:49 +0900
 Subject: 『カルチャー・レヴュー』24号

■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご転送ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)               (発行部数約1240部)

      『カルチャー・レヴュー』24号
        (2002/08/01発行)

     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
         [25号は、2002/10/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆「La Vue」12号の原稿募集               編集部
◆贈ることの宇宙(2)                  小原まさる
◆信仰・啓示・躓きについての小文(2)           中島洋治
◆「La Vue」11号のご案内       編集部
◆コメントで読むワールドカップ               山口秀也
◆インフォメーション 「哲学的腹ぺこ塾」
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////// 「La Vue」12号の原稿募集 //////

    「一読多読〜本を糧に〜」特集

いわゆる「良書」とは限らない、私にとって決定的な影響を与えた本や想い出
深い本など、本についての特集を「La Vue」12号で掲載します。
そこで本紙読者の皆様に、上記のテーマで広く原稿を募集します。

「投稿規定」
■採用の可否は、編集部一任です(原稿は返却しません)。
■掲載紙10部贈呈(原稿料はありません)。
■原稿締切:02/09/25、字数:2000字前後。
■入稿形態:メール入稿あるいはFD(プレーンTXT形式、ワード形式は
 Ver.2000まで)、FDの場合は出力紙も同送のこと。
■簡単なプロフィール(150字前後)
■原稿送付先:るな工房/窓月書房 編集部
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp

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////// 文化人類学 //////

           贈ることの宇宙(2)

                             小原まさる
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 リオタールの見方を参考にすれば、レヴィ=ストロースの言説は、異質な思
考から距離をおき、自らの言葉で語ることのできる地点まで撤退して、なお語
ろうとする運動に支えられているとも言える。そして、見いだされた「具体の
科学」という科学の変種は、いずれ真の科学的思考へと取り込まれる宿命を
おっているかのように語られるのである。仮に「野生の思考」とういう名称
が、人類学者として異文化への最大限の敬意を込めたものであったとしても、
科学的思考による知の統合の素材となってしまっているように見えることには
変わりがないのである。宇宙観や生命観の異なる思考を前に、自らの限界を直
視するより、迂回しながら結局は自己の思考を語る言説へと回帰する状況を見
て取ることができるとも言えるだろう。しかし、そのような統合への意志を別
にしても、いったい何から距離を置き、何が迂回され避けられてきたのだろう
か。
 結局のところ、贈与の問題は、われわれを「死」のテーマに連れ戻すのであ
り、それこそが避けるべき問題だったと言うことができると思う。デリダは
『与えられた時』や『死の贈与』によって、ボードリヤールは『象徴交換と
死』によって、贈与と死を語るのである。ボードリヤールによれば、(西欧の
社会は)「死を脱社会化」してしまった。しかし、非西欧的社会は、死を社会
的に取り込んでいる、あるいは生活の中に取り込んでいる。いわば思考そのも
のが、死を中心に構成されていると言ってもよい。そして、こうした思考にお
いては、「存在はたまたまわれわれに帰属しているにすぎない」のである。こ
れに対して西欧には、初めに死を引き受けることで(デリダによれば「死の贈
与」によって)、人々をいわば生の世界に閉じこめる思考が存在するわけであ
る。
 だが、死を排除しない思考とは、どういうものであろうか。それは生命の連
鎖の思想である。特に、ポトラッチの舞台となるアメリカ北西部沿岸地域の先
住民の世界観では、それぞれの生命は、それ自身の中に他の生命を宿してい
て、その生命もまた他の命へと連鎖的に変身する(生まれ変わる)定めの中に
ある。新たな命は、元々それぞれの生命が内包しているものである。一個の生
き物は、すでに生命の複合体である(この考え方は、彼らの芸術に端的に表現
されているものであると思う。彼らの描く動物の絵の体内には、幾つかの別の
命を見ることができる。ワタリガラスの仮面は人の顔をその内側に持ってお
り、仮面自身が変身を示している)。したがって、ある生き物が命を全うする
ことは、その生き物の内部に存在する別の命を解放することになる。そして、
死を排除しないということは、命の連鎖の中に、死そのものを無効にすること
でもある。
 ポトラッチに話を戻せば、このような考え方を持ち、すべての物に魂が宿る
とする世界観では、事物の破壊は、命の再生の儀式となる。生き物や事物はそ
の役割を全うして初めて新たな命を持つ者として再生する。この連鎖の中で命
は停滞を嫌う。したがって、この場合、物の蓄積(たとえば魚を干して長期に
食料として保存すること)は、命を病んだ状態に拘束することでもある。そし
て、バタイユが、こうした思考を背景とするポトラッチを「所有」と対立する
ものとして捉えたのも不思議なことではない。なぜなら所有とは、将来におけ
る消費を目的とした行為だからである。彼は、奴隷的な経済行為に対立するも
のとして、徹底した消費(非生産的で無目的な消費)をポトラッチに見ようと
したわけである。
 とは言え、ポトラッチの破壊的性格を、バタイユの言う「消尽」という概念
で説明するだけでは不十分だと思う。「破壊」は、単なる「死」ではない。こ
の行為は新たな「生」のためのものなのである。だから破壊と誕生の儀式は、
まさにエロティックなのである。ポトラッチとは、新たな春のために、閉じこ
められていた命を宇宙に解き放つ儀式なのである。破壊とは、新たな命の贈与
である。正確には、命の解放である。しかし、命は元々宇宙を飛び交うもので
ある。だから、ただ命の自由な往来を遮るものを排除することだけが、人に
よって可能な行為なのである。そして、この自由な往来に対する妨害は所有と
蓄積によって発生するのである。
 ポトラッチの破壊的性格とその規模の拡大は、西欧人との交易によって、多
くの物資がもたらされてからであるとも言われている。日常生活で使用する以
上の物の蓄積は、命の循環の流れを堰き止めることであり、ポトラッチにおけ
る破壊は、あえて、この堰を切る行為なのだと思うのである。したがって、繰
り返しになるが、ポトラッチにおいては破壊自体が目的ではないのである。こ
の場合、「贈る」という行為は、事物の役割を終わらせることで、魂を宇宙に
「返す」行為なのである。モースがほとんどの地域のポトラッチに見いだした
という破壊的な性格は、こう考えれば納得できるのである。すなわち、「贈
る」という行為が、「破壊」という行為を通して実現されているのである。だ
が、「破壊」ばかりが強調されてはならない。命の連鎖にあっては、ある存在
の痛みは、他の存在においても同じように痛みとなるからである。
 ともかく、これまで「贈与」を巡る記述においては、いわゆる「交換」の意
味をずらし、それに新しい意味を持たせる場合においてさえも、「贈与」を交
換の一種として考えようとする点に、やはり誤解の原因があったのだと思う。
なぜなら交換の前提には、個人によってであろうが集団によってであろうが、
事物を固定した状態に置くこと、すなわち所有されることが必要である。そし
てまた贈与を受けるということは、新たな所有を意味する。しかしすでに見た
ように、「贈与」は、所有や蓄積の状態を避けようとする行為である。再び
ボードリヤールの言葉を借りれば、それは、「存在も世界もわれわれの持ち物
ではない」という思考が生み出す行為なのである。そして「贈与」は、移動、
往来、解放、変身を主題としているのである。
 贈与のもう一つの特徴は、生命の連鎖と同様に、それ自身が連鎖する性格を
もっていることである。新たな命の再来、つまり、春を呼ぶためには、贈り物
は世界の隅々にまで届けられねばならない。だから贈与は増幅され、連鎖して
いく性格を持っている。たとえば、アイヌの世界では、贈り物は神の国に届け
られると、より多くの贈りものとなってさらに神々に行き渡り、それによって
世界は新たな命で満たされるのである。つまり、贈与物は新たな場所で消費さ
れることで、その命の力を増幅させるのである。同様な意味で、ポトラッチも
また、競争的な性格の中に、連鎖的、増幅的性格を持っていると言えるのでは
ないだろうか。
 「贈与」とは、物を移動させ、破壊することで、命を固定的な状態から解放
させることである。その結果生じる贈与による効果は、命の連鎖によって宇宙
全体に及ばされるものであって、贈与をした当事者や特定の相手に直接及ぶも
のではない。しかしすべての命がこの連鎖の中にあるとすれば、贈与を受ける
のもまた、われわれであることになる。だから「贈与」は、富めるものが貧し
いものへ行う慈善的な行為ではない。それはむしろ「贈与」の本来的な意味に
反するものであるとさえ言えるだろう。何故ポトラッチの主催者は、客人の前
で自分の財産を焼き尽くして見せるのか、そのことを私たちが理解することは
結局困難であるかも知れない。しかし、善意によるものであれ、単に他者に物
を与えるということが多くの局面で事態の解決にならないことを、私たちはす
でに知っているのである。(了)

【参考文献】(前編の参考文献も参照してください。)
ジャン・ボードリヤール 『不可能な交換』 塚原史訳, 紀伊国屋書店, 2002.1
嶋田義仁 『異次元交換の政治人類学-人類学的思考とは何か』 勁草書房 ,
1993.10
ジャン・フランソワ・リオタール 『こどもたちに語るポストモダン』管 啓次
郎訳, ちくま文芸文庫,1998.8
Derrida, Jacques, The gift of death, Trans. David Wills, University of
Chicago Press , 1996.

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(こはら・まさる)某短大で、コンピュータ・ネットワークのシステム管理を
仕事にする傍ら、コンピュータのための(同時に人のための?)音楽の記述方
法を思案中。また、NGO活動を経て、ジンバブエの教育関係者との支援のた
めの共同研究に参加して(使われて)いる。

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////// 宗教/哲学 //////

       信仰・啓示・躓きについての小文(2)
       ――現実性と個別性から離れないよう念頭に置きつつ

                              中島洋治
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 キリスト教は正統的に言えば伝統的に啓示の宗教であったし、現在もそうで
あると思う。(カール・バルトは、人間の側からの神へ至ろうとする企てを
「宗教」と呼び、それを批判した。「宗教」と神からの「啓示」とを彼は区別
し、後者をもってキリスト教の絶対的な基礎とした。)現実的で個人的な私の
信仰、特にそのキリスト教的信仰を考えるとき、またもやここに、先に述べた
ような問題が横たわっている。つまり、啓示は神から降りてくるものでしかあ
り得ない。しかし、理性はそれを保証してくれないのである。
 そして同時に、これはあくまで概ねとしてとしか言えないが、宗教的なるも
の一般にしても、ここに大きな問題があるのではないかと思うのである。つま
り聖なるものの呼び声に対する信仰が、宗教によって人間に求められていると
いう問題である。キリスト教的に言えば「啓示」として顕れることへの信仰が
個人に求められている。否、恐らくより厳密にキリスト教的に言うならば、啓
示は神からの恩恵であるため、聖霊の働きが「私」を助けて下さる他ないと表
現すべきかもしれない。しかしカントが言ったように、それは理性の働きでは
ないのであり、また近代的理性的個人の自由な選択・決断と言うわけにはいか
ないのである。もちろん選択や決断を行うのは個人、私である。しかし啓示は
私の決断ではない。そして、それを「保証」するものを「個人が求める」姿勢
は、非キリスト教的となるのである。一般的に言っても宗教はそうした性格を
どこかに持っているのではないかと思う。キリスト教に即して言えば、キリス
トであるイエス、その啓示を「信仰」しなければキリスト教徒でなくなってし
まう。

 ローマ・カトリック教会に対しては、それ自身の「伝統」がその保証であっ
たという側面を強調することが可能かもしれない。カトリシズムの権威的で支
配的な側面を強調するならば(例えば「教皇無謬説」を想起してみても)、プ
ロテスタンティズムが抗議するように、キリストであるイエスを信仰すること
に反する契機を持つと言うことが可能であろう。しかし同時に、組織団体が歴
史と共に権威化していくという性格を逃れられないならば、いかに宗教改革が
的を射た抗議を行ったとしても、プロテスタンティズム自身がその道を歩まな
い保証はないかもしれないのである。
 カントは、教会に対して「可視的教会(見える教会)」と「不可視的教会
(見えざる教会)」という区別を立てた。前者は、神的な道徳的な立法のもと
にある理念的な教会である。「真の」可視的教会は、神の「道徳的」な国を人
間のできる限りにおいて地上に表さなければならない。言い換えれば、不可視
的教会の地上的実現を目指すのである。ルターもまた、可視的・不可視的な教
会の区別をしたが、カントと違ってそれは同一の教会の両側面とでも言えるよ
うなものであった。そしてもちろん、カントのような「道徳的」教会を不可視
的教会としているわけではない。ティリッヒによれば、ルターにとっての可視
的教会は不可視的教会の「宗教的あるいは霊的側面であって、それ(不可視的
教会)は可視的教会に内在」しているものであると言う(註3)。(無論、カ
ントでは理性宗教が優位であり、ルターでは啓示が優位――というより絶対的
な真理とでも言うべきものである。)
 ルターに従うならば、カトリシズムと違って、キリスト者は叙階されること
はなく皆が他の人への祭司になり得る。(ただし、カルヴァンはこれとは違っ
たことを説いた。)これは私にとって実にキリスト教的であるように思える考
え方である。しかしプロテスタンティズムにおいても、現実の教会では、組織
化はどうしても避けられないものであろう。いくら可視的教会と不可視的教会
が不可分と言っても、信者は皆祭司たり得ると言っても、私の個人的な経験か
ら言えば、可視的教会は理念的たろうとするにしては余りに現世的に過ぎる
し、現に教会にはヒエラルキアが存在していると感じる。

 しかし、ルター自身は非常に罪に関して強い――実存的とも言えるような感
覚を抱いていたようである。そして罪とは不信仰、神からの離反であり、それ
以外の罪は二義的なものとなる。そして、あらゆる人は罪を持つという洞察も
持っていたと思われる。ティリッヒによれば、ルターにとっての「信仰のみ
sola fide」とは、「信仰において受け入れられる恩寵によってのみ」(註
4)ということを意味し、つまり恩寵を受容することイコール信仰にほかなら
ない。ここに私はキルケゴールの姿を重ねて見ることができる。実際キルケ
ゴール自身、ルターは正しかったのだという意味の言葉を述べており、自身の
思想がルターに依拠していることを隠していない。
 キルケゴールにとって、罪とは「神の前で、あるいは神の観念をいだきなが
ら、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、もしくは、絶望して自己自身
であろうと欲することである。」(註5)そして、罪の反対は信仰なのであ
る。私が想像できるルター像の一つは、ルターが実存的であったのではないか
ということである。ルターもまた、自己の罪人であること、絶望とでも呼ぶべ
き内的な苦悩を意識していたのではないかという印象を持っている。彼は例外
なくわれわれは罪人であると言い、そして「悪しき欲望と罪から逃れようと願
うならばキリストを信ぜよ」という神の契約と約束が聞こえてくると言う(註
6)。キルケゴールの絶望――彼の言う絶望は独特のものであるが――は、
「神の前で」罪となるのである。キルケゴールにとっても、罪とは神からの離
反を意味する。

 冒頭に引用したキルケゴールの言葉に戻ろう。「私がそれのために生き、そ
して死にたいと思うようなイデー」とは彼にとって、キリストであるイエスで
あり、啓示から始まるキリスト教である。現代の実存主義の創始者と言われる
キルケゴールもまた、内なる罪を悲痛なまでに意識し、それにもかかわらず、
否、それを抑えきれないまでに強く認識、意識して信仰と救いを欲したのでは
なかったか。そして、有限者の中に存する無限者を実存的につかみ、そこに信
仰、「私にとっての真理」を見ることに賭けたのではなかったか。バルトもま
た、「われわれは罪人ならぬ人間などというものは知りえない」と書いた(註
7)。そこに実存的な響きを感じることができるのではないかと私は思う。
(バルトがキルケゴールの影響によって、『ローマ書講解』を書き換えたとい
うエピソードは周知の通りである。)
 キリスト教、および西洋思想の中で、一つの流れを見ることができるとティ
リッヒは言う。それは有限者である人間(私)の内なる無限者(無限性)を見
つめるものである。彼が挙げる神学者や哲学者は、プラトン、アウグスティヌ
ス、ドゥンス・スコトゥス、ヤコブ・ベーメらであり、もちろん、シェリン
グ、キルケゴール、ニーチェ、フォイエルバッハ等の名前も挙げられている。
マルティン・ブーバーも加えてよいかもしれない。そこには、現実(いま、こ
こ)という状況に置かれた「私」の決断や意志を思考する哲学者の姿が示され
ている。
 もしある者(私かもしれないのである)が信仰を告白するというのであれ
ば、その信仰者は哲学者以上に、これを背負う覚悟はどこかで必要であろう。
私は罪をそこまで深く刻印する必要があるとは必ずしも思わないが(それは
「普通の」人にとっては重すぎるものである)、忘れることもできないと私に
は思えるのである。

 話が戻ってしまうが、先に私は何度か、カントの主張や啓示神学について述
べた際に、「聖なるものの呼び声を保証するもの」を求める問題について書い
た。これは私にとって、信仰に付随してくる一般的な疑問符である。論理的に
は「信」の反対は「疑」かもしれず、これは矛盾なのかもしれないのだが、宗
教的な次元で言えば「信仰」と「懐疑」が対立するとは私は思わない。これは
別の観点から言えば、信仰への懐疑でもある。つまり、信仰者にとって信仰を
疑うことを意味する。しかし寧ろ、これは信仰にとって必然的、あるいは欠く
べからざることではないだろうか。というのも、ファンダメンタリズム――と
いうのは極端かもしれないけれども、「信仰誇り」と呼ばれるような状態へ信
仰者を連れていくことを避ける道だと思うからであり、そしてまた、「祈り」
が実存的かつ啓示的な信仰として行われるとき、私は敬虔さや崇高さをそこに
見るからである。自分を見つめれば見つめるほど罪は意識的となり、信仰への
懐疑が「限界状況」のような場合に自分はどうするかを考えざるを得ないのは
実存的である。このときキルケゴールが、アシジのフランシスコが、そしてイ
エスが祈るときの姿の印象が私には重なってくるのである。それが私の「主観
的」印象や象徴であったとしても。

 最後に一言付け加えておこうと思う。冒頭に引用したキルケゴールの言葉か
ら「神が欲したもうことを知る」という部分を除けば、「私にとって真理であ
るような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うような
イデーを発見すること」がその人間の背負うものとなり、これは宗教だけに適
用される言葉ではなくなる。この言葉だけ取り出せば、それは余りにも重い表
明である。私は信仰が全ての人に最初から関係しているなどとは考えてない。
ただ、ほとんどの人が実存的と呼ばれるべき状況に立たされる可能性は否定で
きないのではないかとは思っている。このことを思うと、ともにキルケゴール
の言葉が私の頭の中に浮かんでくるのである。これはまた、まだ哲学が決意や
意志と関係していること、生きている人間にとって哲学的なるものが何らかの
課題を持っていることの表明にも聞こえるのである。なぜなら、いかに実存主
義というスタイルが廃れていっても、哲学としての実存主義は人間の在り方を
一つの方向として適切に洞察していると思うからである。(了)

 [付]
 私はこの小文の中で「理性」とか「決断・決意」、「意志」等という言葉
を、無批判的に使いましたが、こうした言葉・概念は、今後哲学はもっと明確
にしていくべきものだと思っています。それは、言語の分析や超越論的な方法
によるだけでなく、科学的な意味も含めての実証的positive な方法でもなさ
れてしかるべきだと思います。

(註3)文献4、389ページより。
(註4)文献4、361ページより。
(註5)文献9、387ページより。
(註6)文献2、514ページより。
(註7)文献8、198ページより。

【参考文献】
1)石田慶和、薗田坦[編]『宗教学を学ぶ人のために』(世界思想社、1989)
2)桝田啓三郎[編]『世界の名著40 キルケゴール』(中央公論社、1966)
3)『カント全集・第9巻 宗教論』(飯島宗享、宇都宮芳明訳、理想社、
1977)
4)ティリッヒ『キリスト教思想史1』(大木英夫、清水正訳、白水社、1997)
5)ティリッヒ『キリスト教思想史2』(大木英夫、清水正訳、白水社、1997)
6)『ティリッヒ著作集 第5巻 プロテスタント時代の終焉』(古屋安雄訳、
白水社、1978)
7)山田晶[編]『中公バックス 世界の名著20 トマス・アクィナス』(中央
公論社、1980)
8)『カール・バルト著作集14 ローマ書』(吉村善夫訳、新教出版社、1967)
9)『世界の大思想3 アウグスチヌス・ルター』(村治能就[他]訳、河出書
房新社、1966)

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかじま・ようじ)1970年生まれ。男性。大学では哲学専攻(哲学科の直接
の志望動機は実存主義だが、卒論テーマは科学哲学^_^)。編集者を経て現在
は図書館に勤務。パートナーとともに「茶飲みジジババ」になることを目指し
ている。

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////// 「La Vue」11号のご案内 //////

■掲載内容(02/09/01発行)
 ◎「グローバリゼーションと身体のテクノロジー」
   美馬達哉(医療社会学・大脳生理学、京都大学医学部助手)
 ◎「ポストWTCの建築」米正太郎(建築家)
 ◎「肉声の明滅」
   上山和樹(『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)の著者)
 ◎「技術革新と個人出版」8月サンタ(「日刊デジクリ」ライター)
 ◎「翻訳学の可能性」岩坂 彰 (翻訳家)

■協賛:哲学的腹ぺこ塾
    http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/harapeko.html
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京)・図書館・文化センター・大学生協等
 に配布
■配布情報 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html

 本紙は市民の相互批評を目指す媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
 頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
 また本紙を安定的に発行するために、賛助会員を募っております。
 年会費一口、1000円(9号〜12号までの定期購読料+送料+投げ銭)からの
 「木戸銭」を申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321

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////// スポーツ //////

         コメントで読むワールドカップ
         ――ヒディングは「勝て」と言った――

                              山口秀也
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■韓日ワールドカップはほんとうは行われなかった
 今回のワールドカップを熱心には見なかった。ことさら斜に構える気もない
し、チケットが手に入らなくて拗ねているのでもない(少しは、アル)。もち
ろんたくさんTV観戦したし、非常に興奮もしたが、期間中も終わってからも
いちどもスポーツ紙、専門誌、総括号のようなムックも購入していない。ビデ
オもPCとTVで一回ずつ録ったが、けっきょく見ずに、サンディと加山雄三
と高木ブーが競演していた「ミュージックフェア」やなにかを重ね録りしてし
まった。

 なぜだろう? 判らないけれど、マスコミや周りの人間、日本人全員に蔓延
した「感動をありがとう」式の盛り上がりが、ヘタに日本で開催されているこ
とで加熱しすぎてキモチワルイというのはたしかにあった。テレビをどのチャ
ンネルに合わせても、出演者が日本のユニフォームをそれらしく着こなしてい
る中、ワイドショーのキャスターに収まっているのが奇異な感じがする前田吟
が、ふつうのカッターシャツだかポロシャツだかの上からユニフォームを着て
いたのを見て正常な感覚を取り戻したという妙な感覚を味わった。ワールド
カップも終わってしばらくすると、テレビのワイドショーは、サッカーなどな
かったかのように安室奈美恵の離婚を伝えている。街の声は「エーッ! 信じ
らんない。なんでェ、ふたりで協力して子育てもしてたし、尊敬してたの
にぃ」だった。あれ、このトーン、ワールドカップ中の街の声といっしょ。ほ
んとうにワールドカップが日本で行われたのだろうか。マスコミが総力を結集
し、ワールドカップを捏造したのだ。そしてワールドカップのあとはまた、
「イズミモトヤ」や「タナカヤスオ」や「クボヅカヨウスケカノウキョウコ」
を登場させているだけではないのか。「日本歴史的勝ち点1」「奇跡のベスト
16」の
新聞見出し、テレビから垂れ流される街の声、電車や店先で交わされる会話ま
で、2次的な情報が溢れれば溢れるほど、ワールドカップが日本で行われてい
るという事実自体は剥ぎ取られているようだった。じっさいの試合の映像を見
てもその感覚は残った。

 そんななか、専門誌もスポーツ新聞も購読しなかったが、わが家のA新聞に
だけは目をとおしていた。ここでも、試合の情報や監督や選手の試合後のコメ
ントによって、じっさいには行われなかったワールドカップが精確に再現され
ているような錯覚のなか、それでも毎日それらを読んですごした。

 そんな訳で、1ヶ月のあいだA紙より拾ったコメント群で、日本で行われた
(という)ワールドカップを振り返ってみる。

■ことばたち(Some Words)
○夢みたいだ、でもミラクルではない。(初戦で前回の王者フランスに勝利し
たセネガル、メツ監督)

○シンジかな。(デンマークのチームメートのパスとフェイエノールトの同僚
小野のパスどっちがいい? の質問に答えたデンマーク、トマソン)
 わがことのようにうれしい。条件反射のように鼻がツーンとした。

 次のふたつは、外国人独特の言い回し、いちど言ってみたいなというコメン
ト。負けても一応かたちがつくし、あとのほうはやっぱりカッコイイ。

○われわれは良い試合をした。しかし、デンマークは点の取り方を知ってい
た。(ウルグアイ、プア監督)

○F組はどこも強い。われわれがW杯で戦い続けるには、これから2つの決勝
が待っている。(イングランド、エリクソン監督)

○なぜ笑えないんだろう。自分でも不思議だが、5,6度の決定機をゴールでき
ないようでは。(アメリカ戦に引き分けて1勝1敗だというのに、韓国、ヒ
ディング監督)

 この人は、今大会、何を言っても許される稀有な存在だった。ポルトガル戦
のハーフタイムでは、「勝て」といったそう。

 こちらは、笑えるセリフ。

○反省すべきことは、もっと早く日本に来ていればということだ。(カメルー
ン、シェーファー監督)

○日本に行かずに後悔している。(マラドーナ)

○W杯でブラジルと戦うことができたが、ユニフォームは交換してもらえな
かった。(北京の新聞記事)

○ブラジルに金を賭けているが、イングランドが勝つと思っている。(イング
ランド、マンチェスター・ユナイテッドのファーガソン監督)

○僕たちは魔術でなく体を使ってプレーしている。(南アフリカ、マッカー
シー)

 NHKの「これが世界のサッカーだ」で、カメルーンのコーチが、アフリカ
選手権の準決勝か決勝戦の試合前に、タッチライン沿いにミカンの皮を捨てて
警察に逮捕されていた場面があった。少し前どころか、いまだにアフリカには
ブラックマジックで試合の結果を左右させることができると信じられているよ
うだ。

 日本選手とトルシエのコメントは、あまりパッとしないが、ひとつふたつ。
下のトルシエのコメントなんかは、イケてるような気もするが、やはりヒディ
ングにくらべて、目標の低さを露呈してしまっているような……。

○リーグ戦を突破したら残りはすべてボーナスだ。(チュニジア戦を前にして
のトルシエ)

○シュート以前に、ゴール前のあの位置に入れたことがあまりなかったから、
あれは決めないと。(チュニジア戦のゴールについて、中田英寿)

 中山を筆頭とする優等生的コメントとくらべ、さすがヒデしぶいという感
じ。

 一次リーグの最終戦から決勝トーナメントにかけては、やはりコメントも含
蓄のあるものがふえてくる。

○木が根っこからねじれているようだった。(ポルトガル、パウロベント)

 一次リーグ、韓国との最終戦を落としたときのものだが、ポルトガル「黄金
の世代」が、アメリカ、韓国という、同じヨーロッパからすれば、ここに負け
たら笑われるというところに負けた、その苦悩、混乱を示しておもしろい。

○サッカーでは毎週何かを証明しなければならない。人々は忘れるのがとても
早い。われわれにはまだ証明すべきことがある。(セネガル、ディアオ)

 今大会の一番の台風の目らしく、野心に満ちたコメントである。

■プレーしながら心の中で泣いていた
 ワールドカップの期間中、A新聞で韓国の新村(シンチョン)リポートと題
して、沢木耕太郎が、短い文を何回かに分けて載せていた。その中で紹介され
た安貞桓(アン・ジョンファン)が、イタリア戦で、開始早々のPKを外した
ことに触れたコメントが凄い。

○プレーをしながら心の中でずっと泣いていました。

 沢木耕太郎は言う。韓国は、致命的な失敗をした選手が「心の中で泣きなが
ら」プレーをする国である、と。この「国」が一体感をもつ感覚は、しかし、
日本の盛り上がりとはずいぶんと趣きを異にしている。だから、この文章のは
じめに触れた日本人の軽佻浮薄さとくらべてどちらが良いというのではない。
違うといっているだけだ。新聞の見出しひとつとっても、「この勝利は4,700
万国民の勝利だ」という文字が躍るお国柄である。

 これに似た国があるとすれば南米の国々であろうか。その中でも今回はアル
ゼンチンのコメントがいちばん目につく。

○心に穴があいたような空洞感と悲しみ。こんなきもちが最近あっただろう
か。(アルゼンチン解説者)

○ゴールがどんどん小さくなる気がした。(アルゼンチン、ベロン)

○ボールがゴールに入りたがらないんだ。(アルゼンチン、シメオネ)

 いずれも一次リーグ敗退の結果に対するコメントである。78年の政情不安
を、開催国優勝によって、国民に勇気を与えたアルゼンチンが、今回のワール
ドカップでも、自国の代表チームの優勝というプレゼントで経済不況を乗り越
えようという事情はあったにせよ、いや、だからこそ、民衆の、サッカーに、
アルゼンチン代表にかける思いの強さが、コメントにどうしようもない絶望感
を沁み込ませる。

 そのアルゼンチンを因縁のPKで沈めたベッカムフィーバーについて、香山
リカが、「Number」の別冊で触れている。W杯は、男も女にも「我を忘れさせ
てくれた祭り」だったが、一歩外からそれを俯瞰する男とちがい、女のばあい
は、自らがW杯がもたらす熱狂の中に巻き込まれたい、と願うのだと言う。そ
れが、W杯の中心にいる選手の恋人になったら、と想像してみることに女は当
事者感覚を発揮する。それがベッカムフィーバーであったと。

 その当事者感覚を、南米のサポーターたちは、日々の生活をとおして、みず
からの応援するチームを心底から熱狂的に応援することで発露させるのではな
いだろうか。

■ボールは丸い
 上で引いたコメントのようなものはともかく、今回のワールドカップでは、
その解説記事や専門家とよばれる人たちの書いたものがあまりおもしろく感じ
られなかった。そんななか6月22日付けのA紙で、細川周平のようなことばが
いちばんしっくりと腹のなかに落ちる感じがした。

 よくは覚えていないが、実力ではどうしようもならない運命の力を信じるこ
とにサッカー愛は集約されるということ。そのどうしようもなさを、古くから
「ボールは丸い」ということばで言いあらわしているのである。誤審もまた、
このような観点から見られるべきであろう。

 そのサッカー愛について今大会でも、次のような敗者の象徴的な弁があっ
た。

○何でも思ったとおりにならないのがサッカーだ。(チラベルト)

■ジーコは、代表チームを「王様のレストラン」にできるのか
 あっという間に終わってしまったワールドカップ。その後のいちばんの話題
は、なんといってもジーコ。この人のプロジェクトX的熱さ、経験に裏打ちさ
れた言辞には「まかせて安心」のオーラが立ち昇っている。
引用のコラージュに終始した小文を最後も引用で終わることにする。テレビで
「王様のレストラン」の再放送をやっている。松本幸四郎演ずるベテランギャ
ルソンが、かつて奉公した落ちぶれフランス料理店をみごと建て直す、三谷幸
喜脚本のコメディである。松本幸四郎と、シェフとしての可能性がありながら
そのことに自覚のないシェフの山口智子のやりとり。シェフは自信がないの
だ。


 しずか(山口智子)「自分のことは自分が一番解ってる」

 仙 石(松本幸四郎)「そう、自分のことしか解っていない。そして、私は
100人のシェフを識っている」


 たとえば、しずかのセリフを中村俊輔に、仙石のそれをジーコとしたうえ
で、シェフを「ミッドフィールダー」に置き換えてみると……。なんとなく、
ジーコが言いそうなセリフ。はたして、ジーコは日本代表を「王様のレストラ
ン」に変えることができるのか。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(やまぐち・ひでや)1963年生まれ。スロー・ラーナー代表。「カルチャー・
レヴュー」 および「 La Vue」 編集委員。哲学的腹ぺこ塾塾生。

●●●●インフォメーション●-----------------------------------------

 「哲学的腹ぺこ塾」33回例会のご案内
 ■日  時:02年09月15日(日)午後2時より5時まで
      その後、暫時「二次会」へ
 ■テキスト:『孟子』(「世界の名著」中央公論ほか)
 ■報 告 者:野原 燐
 ■会  場:るな工房/黒猫房/窓月書房(TEL/FAX:06-6320-6426)
 ■会  費:500円

■編集後記■---------------------------------------------------------
★う〜む。酷暑である。猫は犬と違って涼しい顔をして日陰で昼寝をしている
のだが、黒猫房主はそんな境遇にはない。この炎天下を歩き回って頗る消耗の
体なのである。毎夏この夏を超えられないと愚痴りながら、なんとか超えてい
るので、もう暫くは大丈夫か。来年は、齢50歳の大台である。
★小原さんの入稿が今夕(08/01)到着、これで発行日を厳守できた。本紙が
発行日を守れているのは、寄稿者の皆様の協力の賜です。深謝。(黒猫房主)

●○●---------------------------------------------------------●○●
  『カルチャー・レヴュー』24号(通巻27号)(2002/08/01)
  ■編集委員:いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英・加藤正太郎・
        山口秀也・山本繁樹
  ■発行人:山本繁樹
 ■発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
   http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
  〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
  TEL/FAX 06-6320-6426
  ■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
  ■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
  Copyright(C), 1998-2002 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●

■申込・解除・変更は下記の(直送版は、るな工房まで)
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/touroku.htmlまで。
■情報提供・投稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。
■本誌のバックナンバーは、
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.htmlにあります。
■本誌へのご意見・ご感想・は、下記のWeb「猫の砂場」(談話室)
 または「るな工房」までメールでの投稿を歓迎します。
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
■このメールは半角70字(全角35字)詰めで構成しております。レイアウトの
 ズレがある場合は固定(等幅)フォントで修正してお読みください。

 

◆Date: Sat, 1 Jun 2002 22:55:46 +0900
 Subject: 『カルチャー・レヴュー』23号

■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご転送ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)               (発行部数約1240部)

      『カルチャー・レヴュー』23号
        (2002/06/01発行)

     発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
         [24号は、2002/08/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆「La Vue」10号のご案内       編集部
◆贈ることの宇宙(1)                  小原まさる
◆ポストモダンの自己概念                  黒崎宣博
◆信仰・啓示・躓きについての小文              中島洋治
◆インフォメーション 「講演会のお知らせ」「哲学的腹ぺこ塾」
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////// 「La Vue」10号のご案内 //////

■掲載予定(02/06/01発行)
 ◎「出版物、大好き」ミルキィ・イソベ(装幀家・アートディレクター)
 ◎「「本をめぐるアート」をめぐる試み」吉本麻美(うらわ美術館学芸員)
 ◎「偶像崇拝の記号論」岩田憲明
 ◎「Beとして存在した芸人マルセ太郎」梨花(パフォーマー)
 ◎「男が暴力をふるう本当の理由」沼崎一郎(東北大学教員)

■協賛:哲学的腹ぺこ塾
    http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/harapeko.html
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京)・図書館・文化センター・大学生協等
 に配布
■配布情報 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html

 本紙は市民の相互批評を目指す媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
 頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
 また本紙を安定的に発行するために、賛助会員を募っております。
 年会費一口、1000円(9号〜12号までの定期購読料+送料+投げ銭)からの
 「木戸銭」を申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321


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////// 文化人類学 //////

           贈ることの宇宙(1)

                             小原まさる
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 アメリカの大学でポトラッチパ−ティ−というものがあった。各家庭で作っ
た手料理を持ち寄って留学生を歓迎するものであった。このポトラッチ(註
1)という言葉は、言うまでもなく先住民の儀式から持ってきた名称である。
しかし、アメリカ北西部沿岸の先住民の文化の中でも、このポトラッチという
行為ほど西欧の思考にインパクトを与えたものはないのではなかろうか。
 ポトラッチについてはマルセル・モ−スの『贈与論』が最も有名な著作であ
ることは周知の通りであるが(当然ながらデュルケ−ムやマリノフスキ−の研
究も忘れてはならない)、バタイユそしてボ−ドリア−ル、さらにはデリダへ
と語られ続けて行くのである。なぜ、これほどの多くの言説が生まれて来たの
だろうか。現実には、ポトラッチという行為は、植民地の政府によって抑圧の
対象となってきたのであり、言わば理解しがたい行為として扱われた歴史を
持っている。にもかかわらず(あるいは、であるが故に)、ポトラッチは、
様々な解釈を生み続けるのである。つまりは、西欧社会の時代の知的関心事の
変化につれて、姿を変えて捉えられ、語られていくのである。その意味からす
れば、それぞれの人類学者の見解は、それぞれの立場による限界性を持ってい
る。その限界性ゆえに、かれらは語るのだとも言えるだろう。彼らは、自己の
文化との差異に出会ったのであり、ある種のとまどいと驚きが語らせるのであ
ろう。したがって、こうした西欧の人類学者の言説を検討することは、西欧の
思考が、どのようにこの行為を見てきたのか、そして逆に言えば、彼らは、そ
こで何を発見したのか、そして何を発見し得る思考を持っていたのかを知るこ
とにもなるわけである。
 たとえば『贈与論』という本が、今日どのようなキャッチフレ−ズによって
売り出されているのかを見ることは、このことを考える場合に参考になるだろ
う。一つの解釈は、得ることより与えるという事が重要に見えるこの行為を、
若干の無理があっても反対贈与とともに交換の原始的な形として考えることで
ある。そして、同時この交換を、酒を酌み交わしたり、お祝いのプレゼントを
贈るときのように、人間関係を維持するためのコミュニケ−ションの手段とし
て捉え、そこに意味を見いだすものである。このような見方は確かにポトラッ
チという行為を身近なものとして理解することを容易にするものである。
 しかし、モースの「贈与」や「全体的給付」の概念は、いわゆる経済的な交
換とは別のものを、つまりはモースのある種の驚きを表現した概念であったと
思う。これは従来の概念では説明できない問題に直面することで生み出された
新しい概念であったと言えるのである。つまりモースにとって、この贈与とは
近代的な経済の原型となるものではなかった。そればかりでなく、特定の対象
への贈り物という性格のものでもなかったのである。モースは、贈与の持つ、
いわゆる近代社会での経済的な交換や贈り物以外の特徴に注意を向けようとし
たのである。
 これに対してレヴィ=ストロースの理論は、記号の交換の理論である。モー
スがポトラッチのような行為をいわゆる交換の概念とは異なる別のものとし
て、つまり贈与という概念で説明しようとしたように、レヴィ=ストロース
は、記号とういう概念を使って、贈与を含む人の行為を説明しようとした。こ
れは逆に言えば、交換の概念を、記号という、より一般的な概念によって拡大
してみせたことになる。この作業は、記号が一義的ではなく、多義的なもので
あるという考え方によって、また、記号は矛盾したもの表現することも可能で
あるという考え方によって可能となる。
 だが何故記号はそのような機能を持つことができるのであろうか。レヴィ=
ストロースは、神話の構造や婚姻の仕組みが、言語のような体系を持ち、それ
によって複雑なコミュニケーションの機能を持っていると考えたのである。し
かし、これらの構造は意識されているわけではないので、当事者にはその全貌
はわからない。言語を話す人が、言語の構造を意識して話しているわけではな
いのと同じである。だが彼によれば人類学者にはその構造が見えるのだ。いず
れにせよ、重要なのは記号が体系と体系を接続することである。そう考えれば
贈与という行為は、体系と体系との間の記号の交換として説明できるし、この
意味での記号という概念によって、より幅広い対象についての説明を可能にす
る。つまり交換理論は、こうしてその守備範囲を拡大するのである。レヴィ=
ストロースは、「交換」のイメージと言語学の理論から、記号と構造という概
念をもたらしたのだと思う。それは『贈与論』のモチーフの拡大であるとも言
えるが、全く性格の違うものである。
 レヴィ=ストロースによって示される「一般交換」の概念は、マリノフス
キーによって説明された「クラ」(註2)や、モースによって引用されたマリ
オ族の「タオンガ」(註3)ように、人から人へ、集団から集団へと送られる
贈与物のイメージであり、それは記号の交換による集団間のコミュニケーショ
ンの理論の根拠となる概念として定義されているように思う。この場合、贈与
物は記号であり、この記号こそが体系の連鎖を可能するのである。モースが直
面したのと同様の問題、(非近代的という意味で)非経済的で非個人的な交換
を、これらの概念によって、つまり記号によるシステムの連鎖によって説明し
たことになる。そして、これは社会集団の中での人々の他の行為を説明するこ
とのできる理論として一般化されるのである。トーテミズムもまた、自然界の
系列と人間社会の系列との関係付けによって生まれたものとして説明されるの
わけである。しかし、モースが、強調した破壊の意味について、レヴィ=スト
ロースはその行為の目的を「膨大な財産の証明」(仮面の道)であるとしてい
るものの、あまり言及しようとしてはいないように思う。構造と記号の交換と
いった概念によるコミュニケーションの理論では、このことを説明するのが困
難であったのかも知れない。
 逆に、この破壊的な性格を積極的に取り上げたのは、周知の通りバタイユで
あった。バタイユの見方は、ポトラッチの特性を「交換」という点よりも、
「破壊」という点から捉えている点で、注目すべきである。確かにポトラッチ
における銅板の破壊は、これまでもポトラッチの特徴ある行為として語られて
きた。しかし、モースによってポトラッチのすべての形態に含まれるとされた
この「破壊」という行為は、バタイユによってこそ直視されたものだと言える
だろう。何故、破壊は贈与と同じ場面でなされる行為なのか。これはポトラッ
チにおける最も重要な点であると思う。しかも、バタイユはむしろ破壊の方に
注目する。もし仮にレヴィ=ストロースの流儀で、これをコミュニケーション
の観点から見ると、ポトラッチは、いわば無のコミュニケーションであり、無
の交換であることになる。それでも関係性のなかで把握しようとすれば、その
行為は、関係性の切断という記号であり、本来の記号の役割とは逆であろう。
したがって、レヴィ=ストロースの思考が捉える交換の概念では説明されない
ものとなってしまうのである。
 モースは「破壊」の目的は「贈与」であると言ったのであり、彼にとってそ
れは、経済的な交換でも、富の誇示でもない。それは、ボードリヤールが、お
そらくはモースの中に発見した「価値の彼岸」を示すものであるかも知れな
い。そしてそれは、レヴィ=ストロースの解釈によって見えなくなっていたも
のであり、しかしモースには見えていたことなのである。(24号に続く)

(註1)北アメリカ大陸北西沿岸地域の先住民の儀式。多くの財物や食べ物が
招かれた客に贈られる他、銅版の破壊が行われ、時には主催者側の家屋に火が
放たれた。
(註2)ニューギニア島の東海域にある島々での贈与のしくみ。マリノフス
キーは、首飾りと腕輪がそれぞれ島々を逆方向に贈られ、回っていくとした。
(註3)モースが贈与論で言及したニュージーランドの先住民の贈り物。この
贈り物は自分のものとして所有してはならず、必ず次の相手に贈らなければな
らない。そうしなけば、害があると信じられていた。
【参考文献】
マルセル・モース『社会学と人類学1』有地 享、伊藤昌司、山口俊夫訳 所
収,弘文堂1973.4
マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』寺田和夫・増田義郎訳『世界の名著
59』,中央公論社1972.8
レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳 みすず書房1976.3
レヴィ=ストロース『仮面の道』山口昌男・渡辺守章訳,新潮社1977.8
ジョルジュ・バタイユ「原初の真実」山本功訳『神秘/芸術/科学』,二見書房
1973.5
ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』今村仁司・塚原史訳,ちくま学芸文
庫 1992.8

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(こはら・まさる)某短大で、コンピュータ・ネットワークのシステム管理を
仕事にする傍ら、コンピュータのための(同時に人のための?)音楽の記述方
法を思案中。また、NGO活動を経て、ジンバブエの教育関係者との支援のた
めの共同研究に参加して(使われて)いる。

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////// 思想/哲学 //////

           ポストモダンの自己概念

                              黒崎宣博
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1.個人という呪縛
 「日本のフロンティアは日本の中にある−自立と共治で築く新世紀」(2000
年1月)を読んで笑ってしまった。これは、小渕元首相の委嘱による「21世紀日
本の構想」懇談会の最終報告書であり、座長は河合隼雄氏だ。
 この報告書では、まず総論において二つの変革の核心が提示される。
 1)国民が国家と関わる方法とシステムを変えること。
 2)市民社会における個と公の関係を再定義し、再構築すること。
 何のことはない。国民ひとりひとりに意識の持ち方を変えろという、上から
下への通告である。そして、本論の中では、この上から下の一方通行を否定し
ている。この矛盾に気づかなかったとすれば、とても不思議である。
 この報告書はまず「個」に対する形容詞のパレードではじまる。<自由で自
立した責任感のある個、個の確立、たくましくてしなやかな個、寛容な個、創
造的で活力のある個、等々>何と総論にあたる第1章だけで、個人が52回、個
が33回、個々人が4回、計89回も使われている。
 それでいながら、述べられていることは個に対する形