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『カルチャー・レヴュー』2001
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
『カルチャー・レヴュー』
*以下は立岩に送っていただいたものです。
直接上記のホームページをご覧ください。
Date: Fri, 1 Jun 2001 21:55:19 +0900
Subject: <直送版>『カルチャー・レヴュー』17号
■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご紹介ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>
◆直送版◆
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(創刊1998/10/01) (発行部数約1250部)
『カルチャー・レヴュー』17号(2001/04/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[18号は、2001/08/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆「La Vue」6号のご案内
◆終わりなき闘争?――柄谷行人の「転回」 平野 真
◆『少年とアフリカ』という本にて――殺すこと、殺されること 中島洋治
◆ダンスに感応する関西での日々 小暮宣雄
◆自費出版のご案内◆インフォメーション◆編集後記
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////// 「La Vue」6号のご案内 //////
◆鳳凰堂のペルシャ美と京都復興―「京都デザインリーグ」の試み
渡辺豊和(京都造形大学教授・渡辺豊和建築工房主宰)
◆「わたしは、『「懸命に」ゲイに「ならなければならない」』
大北全俊(大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室)
◆「態度の変更」として――柄谷行人著『倫理21』を読む 村田 豪
◆「これが好きだ」ということが好きだ 小杉なんぎ(コラムニスト)
◆わたしたちは忘却を達成した――大東亜戦争と許容された戦後
野原 燐
■協賛:哲学的腹ぺこ塾
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
英出版研究所 http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センター他に配布
本紙は市民の表現を保障する媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
また本紙を安定的に発行するために、賛助会員を募っております。
年会費一口、1000円(5号〜8号までの定期購読料+送料+投げ銭)からの
「木戸銭」を申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321
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////// 現代思想 //////
終わりなき闘争?――柄谷行人の「転回」
平野 真
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『トランスクリティーク』以後の柄谷行人が評価されるとき、例えば、山城む
つみなどは「転回」という言葉を使いながら柄谷のことを語っている。最近出
版された『可能なるコミュニズム』、『原理』、『NAM生成』などで語られ
る理論的な考察は、すべて「NAM(New Associationist Movement)」に関す
るものであると言ってよいが、柄谷行人の「転回」とは、理論家・柄谷行人
が、実践家・柄谷行人へと転換したことを漠然と意味しているように思える。
『トランス・クリティーク』以前の柄谷行人は、歴史上出現した社会主義に対
して批判的な距離をとりつつ、アイロニカルに資本主義を肯定し、資本主義の
徹底化を通じて求められる共産主義という抽象的なビジョンしか提示してこな
かったがゆえに、なおさら、実践家への「転回」が際立ってくるのである。
われわれは、90年代中ごろまでの柄谷行人から原理的なものを探求・批判す
る驚くべき一貫した態度を見ることはできよう。だが、それが、即座に社会的
実践への指針となることはないといってよい。実際、岩井克人との対談をまと
めた柄谷行人の極めて旺盛な批判精神を見ることができる『終わりなき対話』
をわれわれが読むとき、われわれが手にすることになるのは、矛盾を抱えた制
度からバランスがとれた理論的な距離を保つための指針とでも言うべきものに
過ぎないだろう。その指針とは、個が、社会性を喪失し、差異性を失ったナシ
ョナルな特殊性に埋没することなく、世界資本主義のダイナミズムに身をゆだ
ねて、単独的な自由な個の結合を目指し、「歴史の終わり」というヘーゲル主
義に対抗する形で、「終わりなき闘争」を目指すという抽象的なものにすぎな
い。
岩井 さっきの個の自由な結合としての共産主義ということですけれど、
それは世界資本主義とどこが違うのですか?
柄谷 同じことですね。
(p203,『終わりなき世界』)
この書物における二人の対談は、ベルリンの壁崩壊、東欧の崩壊、ソビエト
連邦の崩壊という歴史的経験によって生じた「マルクス主義の崩壊」=「歴史
の終わり」を受け止めつつ行われたものである。フランシス・フクヤマなどの
イデオローグは、冷戦構造の崩壊を「歴史の終わり」というヘーゲル主義的な
ビジョンに回収してしまう。そのヘーゲル的ビジョンとは以下のようなもので
ある。人類が命を賭けて体制選択のために行う政治的なイデオロギー闘争は、
ソビエト連邦に代表される社会主義圏が歴史的に敗北=崩壊し、「自由」と
「民主主義」という基底的な枠組みが人類の歴史において勝利することで終わ
りを迎えた。したがって、歴史において「自由」と「民主主義」は、最終的に
人類によって選択されたのであり、以後の人類の歴史は、そういう「自由」と
「民主主義」という基底的な枠組みを前提として歩みを進めるがゆえに「終わ
った」のだ、というビジョンがそれである。したがって、フクヤマなどのイデ
オローグによれば、マルクスに対して自由主義思想家としてのヘーゲルが勝利
したのであり、歴史は20世紀末に再び、「終わった」と判断されたのである。
もちろん、柄谷行人はこうした自由主義イデオローグたちの見方にくみする
わけではない。だが、この90年に行われた対談では、「歴史の終わり」という
強力な歴史的ビジョンに対して「現実を止揚する運動」(マルクス)としての
共産主義を主張しつつ歴史の目的や終わりの観念を批判するに留まっている。
ここで押さえておきたいのは、この時期の柄谷行人にとっても、自由と民主主
義という資本主義を支える基本的な前提のうえにたって行われる反システム的
なマイノリティ運動などのラジカルな民主主義=ポスト・マルクス主義的な社
会民主主義には断固として批判的であったということである。柄谷行人は、初
めから状況に対して「倫理」的であり、資本主義的な経済の批判を前提として
いた。
柄谷行人が自己の立場を語るところによれば、彼の「転回」は、状況の変化
に即したものである。冷戦構造が存在する時代には、ソ連圏の社会主義体制と
自由主義圏の資本主義体制の両者を批判する第三の道を提示するために、米ソ
の二極構造を根底で支える世界資本主義のダイナミズムをアイロニカルに肯定
し、それを超える第三の道としてのコミュニズムを柄谷行人は語っていた。だ
が、二極構造を支えていた一方が、崩壊し、世界が資本主義経済圏の勝利に見
えるような状況においては、理論家が語るべきことは違ってくると彼は言うの
である。そこでは、68年から90年まで有効に思えた脱構築主義などが保守的な
ものとなり、むしろ、具体的な実践的な思考が要請されると言うのである。現
在、浅田彰が述べているように、新カント派的な良識派的なモラリズムへの回
帰がフランスやドイツやアメリカ、および日本において生じている。社会主義
圏が崩壊した後、理論家たちは、マルクス主義の理念を再検討したり、資本主
義のシステムの根底を批判するのではなく、資本主義的な前提を踏まえつつ、
自由競争と私的所有が作り出す矛盾を解決するためのセーフティ・ネットとし
ての「社会民主主義」への思想的な回帰=転向が見られるのである。
柄谷行人は、もちろん、社会民主主義的な綱領を認めない。では、マルクス
をいかに読むのか。彼は、西欧マルクス主義の歴史の総体、すなわち、ルカー
チ、グラムシを経て、アルチュセール、フーコーにいたる系譜を批判する。柄
谷は、ルカーチがヘーゲルの主と奴の弁証法を賃労働―資本の関係に適用し、
労働者が、意識の物象化を乗り越え、資本家を打ち破るという生産中心史観を
提示したことを、マルクスをヘーゲルに後退させるものだと批判する。さら
に、グラムシを経てアルチュセールの国家のイデオロギー装置にいたる理論
は、革命化しない労働者階級の日常を上部構造に狙いを定めて、制度的な分析
を行ったものなのだが、柄谷が指摘するように、そうした上部構造の研究をい
くら緻密に行っても当然ながら、労働者階級は革命化しないし、実践的な指針
にはならなず、それらは、逆に、結果的に、理論家のヘーゲル的な「歴史の終
わり」への「転向」を示すものに過ぎない。だから、そういう理論はマルクス
主義にとって無効であると柄谷は宣言する。それらの理論には、ヘーゲルの主
人と奴隷の弁証法を労働者階級と資本家の関係に誤って適用すること、及び、
生産中心主義的に理論を構成しているという問題があるのだ。さらに、柄谷行
人は、そうした理論が前提とする上部構造、土台という二元論は、『資本論』
において意味を喪失しているのだと考えている。
柄谷行人にとって、マルクスは、『資本論』全三巻の到達点から見られねば
ならないものである。とりわけ、柄谷行人は、資本主義社会の現実的な幻想と
しての宗教的な構造、すなわち、信用の制度、価値の形而上学的な性質などに
関心を向けている。
彼は、マルクスの価値形態論をラジカルに読みつつ、価値の幻想性を暴露す
るために、価値が交換の事後性において発生することを強調する。商品の売り
手と買い手の間には、キルケゴールが『恐れと慄き』において信仰における倫
理の構造を問題にしつつ、倫理的なものを宙吊りにしてしまったように、価値
それ自体の根拠が宙吊りにされる契機が存在するのである。マルクスは、それ
を「命懸けの飛躍」と言う言葉で表現したのであった。柄谷のマルクス読解に
は、こうした意味で、しばしば、幻想中断的な批評性を強調する傾向が存在し
売り手と買い手の非対称性を強調しつつ、即物的な実践を幻想に対置すること
によって幻想を解体しようとする傾向が内在している。
柄谷行人は、『可能なるコミュニズム』の序言のなかで、『トランス・クリ
ティーク』の最終章を書いているときに大きな「転回」が起こったと言ってい
る。資本制が要請する「倫理」は、原理的に言って、他者をたんに価値増殖の
ための手段とするシステムであるが、柄谷は、コミュニズムを、カントの言
葉、「他者をたんに手段としてのみならず、同時に目的として扱え」を経済的
に表現したものだと理解したのである。ここで、確かに、柄谷行人は、90年の
岩井克人との対談で言っていたことから「転回」していると言ってよい。コミ
ュニズムが、カント的なものを内在させた行為によって確証される倫理的な絶
対的な実践として、理解されることになったからである。それ以前までの柄谷
の理論によれば、実践は経験的なレベルに留まっており、カントの考える定言
命法のレベルで考えられたものではない。それは、その場、その場における偶
然的な実践として理解される傾向があったと言える。だからこそ、共産主義を
目指す実践とは、アイロニカルに資本主義を肯定しつつ、それを超えるものと
して抽象的に表現されるに留まっていたのである。
柄谷は、そうした「コミュニズム」の可能性を労働者と消費者運動の結合に
見ようとする。柄谷行人が指摘するように、生産中心主義のマルクス主義は、
労働者を革命の主体と把握していたがゆえに限界に直面する。生産中心主義的
な労働者運動は、資本の能動性が、労働者を受動的に組織するがゆえに、権利
獲得運動以上には進展しないのだ。柄谷は、むしろ、労働者が主体として登場
する場にこそ可能性を求めるべきだと言うのである。つまり、資本制商品が売
られる市場においてこそ、労働者は主体として資本に向き合うことが出来るの
であり、そこにおいてこそ、非暴力的ながらも革命的に労働者は資本に対して
振舞えるのである。
資本主義に労働者が、抵抗するには、単純に、資本というG―W―G’の運
動を止めさせればよいと、柄谷は言う。彼は、資本が最終的に、流通過程にお
いてしか剰余価値を実現できないことを強調し、資本の増殖運動に潜む「命懸
けの飛躍」を内在させた幻想的な核を消費者運動という即物的な実践によって
宙吊りにし、価値増殖運動に停止を命じようとしているのである。
ここまでくれば、NAMの柄谷行人まであと一歩である。柄谷はさらに、剰
余価値源泉である労働者が、資本に自己を売り渡す際にも抵抗を示せるような
仕組みを考えようとする。柄谷は、資本の無限の価値増殖運動を停止させるに
は、資本制商品を買わないで、かつ、資本制商品を生産するな、という単純明
快な「倫理」を実践すればよい、とすることで、二段階目の「転回」を果たす
のである。
NAMは、生産協同組合を通じた消費者としての労働運動として考えられた
ものであり、それは、主体としての労働者が消費者として市場に登場する側面
を強調した不買運動からさらに一歩踏み出す形で生まれた実践である。NAM
とは、労働者が資本に自己を売り渡さないでも生産が可能になる場を創設する
運動なのである。NAMという運動は互酬性に基づく地域貨幣の創設によっ
て、個々の市場が成立するその度ごとに売り手と買い手の間に自由に地域貨幣
を発行するシステムなのだが、それがどこまで機能するのか、そして、その地
域貨幣たるLETSに基づくNAMがどれだけの広がりをもちうるのかという
問題は、残念ながら、本稿の課題を超えるので、次の機会に考えたい。
我々は、柄谷の90年以後の歩みをざっと眺めてきたわけであるが、彼の転回
は、社会主義圏や東欧の崩壊を契機として始まったといえる。その転回が、
『トランス・クリティーク』の結論部で、消費者=労働者運動という資本の流
通過程に対する抵抗運動として表現されることになった。柄谷の「希望の原
理」としての「コミュニズム」は、カントとマルクスを非弁証法的に媒介し、
マルクスをカントから読むこと、あるいは、カントをマルクスから読むことで
可能になるものであり、「可能なるコミュニズム」としての資本への抵抗運動
は、「倫理的な資本への抵抗」として理解されるべきものである。
柄谷は、NAMに可能性を見出しつつ、共同組合的な生産者によるトランス
ナショナルでネットワーク的な生産が作り出す新しい「結合された悟性」を、
超越論的な統覚として機能させる「コミュニズム」を「目的の王国」として、
行為によって確証される実践理性の「意味」とするのである。だが、ここに
は、ある捩れが存在している。なぜなら、柄谷自身が、こうしたLETSを内
在させたNAMを「対抗ガン」的なものとして考えており、後期情報資本主義
段階の制度それ自体を内部から侵食する実践と考えているからである。柄谷な
らば、それが、実践の拡大によって、意味を変えていくだろうことを、おそら
く折込済みであり、エンゲルスがある意味で素朴唯物論的に「プディングの味
は食べてみないと解らない」と語ったのと同じように、「やってみなければわ
からない」という曖昧さが付き纏っているように思われる。私自身、この短い
エッセイを纏めるために、出版されたNAM関係の書物は全て目を通したが、
その資料や柄谷の歩みからは、そういうNAMの実践が要請される理論的な意
味それ自体は、良く理解できるし必要なものだと考える。いつもながら、柄谷
行人の政治的でありかつ動物的カンの良さには敬服するのだが、運動それ自体
の可能性についてはまだわからないという印象しか残らない。
柄谷の「トランス・クリティーク」は、カントをマルクスによって、マルク
スをカントによって読むことによって達成されたものであった。そもそも柄谷
の理論そのものに、資本主義制度それ自体が作り出す宗教的な幻想の構造を素
朴な実践を対置させることによって、宙吊りにするという批評的、あるいは、
幻想中断的な傾向が内在しているが、「トランス・クリティーク」において
は、柄谷の従来の側面に対してカントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』
をアクロバティックに適応することによって、柄谷の理論を基礎付けようとし
ているように思える。したがって、柄谷行人の理論的可能性は、カント哲学そ
のものの可能性に対応しているのではないか。
カントは、理論理性において、人間の精神の無限性を表現するものである
「来世」、「神」、「永遠」などの理念を宙吊りしつつ、理性の適用を悟性の
範囲に限定したのであった。そして、実践理性においては、悟性の範囲に適用
された理性が、実践理性の優位のもと、行為によって確証される理念の実現に
拡張される。だが、カントの理論そのものの限界と可能性は、主体の根拠づけ
を欲しながら、実際は主体を宙吊りにしてしまい、現実と理論の関係そものの
が、主体の実践的効果でしかないこと、すなわち理論と実践の関係を根拠付け
る理論そのものが、根拠付け不可能という不可能性を内在させていることを示
してしまったことである。そういう意味で、ヘーゲルは、カントの超越論的な
主体を「空虚」な主体と呼び、ヘーゲル理論はその空虚な位置を主体に確保し
ようとして、『精神現象学』を書いたのである。
柄谷の理論は、メビウスの帯のように、現実と理論が対応関係を持ちつつ構
成されているように見える。というのも、柄谷行人において、NAMの実践
は、資本主義社会の宗教的で幻想的な構造を宙吊りにし、そこに倫理的に介入
することで、無限に進行するように見える資本の増殖運動に「停止」を命じる
のだが、その運動それ自体が、現在のところ資本主義制度総体のそのものの存
在に依存しているからである。NAMが提出する共同体のシステムと資本主義
のシステムの区別それ自体を、資本主義が内在化させる傾向をもっているよう
に思われることが問題なのだ。だが、NAMそれ自体は、メビウスの帯のよう
に絡まった現実と理論そのものの関係をユートピア的に外部から眺めることが
出来る「視点」そのものを提供するのである。その点が重要なのであって、そ
れゆえNAMにおいて、主体が倫理化されうる可能性を持つのである。
だが、互酬性に基づくLETSの運動が拡大して、複雑な生産システムを持
ってしまったときマルクスが『哲学の貧困』において、「労働貨幣」運動を推
進するプルードンを批判したように、「資本」を創造してしまわないという保
証はどこにもないように思える。その運動は、資本主義社会の幻想の構造を抜
け出すかに見えて、また、その幻想に内在化されてしまう傾向を不断に持って
いるように思えるからだ。だが、柄谷は、幻想の宙吊り、停止の瞬間そのもの
を実現する「行為」それ自体の唯物論的な力にすべてを賭けるのであり、その
幻想が中断される瞬間において、「可能性」が根源的に噴出すことを理論によ
って肯定し、それを「希望の原理」としたのだということは最低限、言い得る
だろう。
私たちはあくまでも「NAM」に結果する柄谷の歩みを理論的に見てゆかね
ばならないのであり、同時にそれを現実の運動に即して経験的に判断しなけれ
ばならない。
柄谷行人の世紀末の10年から21世紀への歩みは、具体的な実践へと投げ返さ
れることで収束したのだが、その「終わりなき闘争」は、わたくしたち自身に
投げかけられた「問い」であり、かつ、長い歴史によって評価されるものだろ
う。
【参考文献】
『トランス・クリティーク』(『群像』98年9月号〜99年4月号に掲載)
『可能なるコミュニズム』(太田出版)
『原理』(太田出版) 『NAM生成』(太田出版)
岩井克人、柄谷行人著、『終わりなき世界』(太田出版)
浅田彰著、『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)
フランシス・フクヤマ著、『歴史の終わり・上』(三笠書房)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(ひらの・まこと)1969年生まれ。ドイツ近現代哲学・美学専攻。大学院修士
課程修了。とりわけベンヤミン、アドルノなど。在野の研究者。共著『反論―
ネットワークにおける言論の自由と責任』(光芒社)、論文「商品の呪術的性
格の脱魔術化に向けて」「複製芸術論のアクチュアリティー」(「La Vue」2
号、5号掲載)など。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/7059/
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////// 哲 学 //////
『少年とアフリカ』という本にて
――殺すこと、殺されること
中島洋治
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近ごろ、気のせいかもしれないが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」を
テーマにした話を、雑誌やテレビで見かける機会が多かったように思う。ま
た、そうした言葉がタイトルや帯に印刷された単行本も少なからず見かけた。
この問いは、きっと若いうちに誰もが一度は問うような問いだろうと思ってい
た。実際のところはどうか分からないけれども。私はといえば、10代の頃は今
よりは真面目にこのことについて考えていたような気がする。
『少年とアフリカ 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話』(文藝春秋、
2001年)という本は、音楽家の坂本龍一氏と、作家の天童荒太氏の対談を収め
たものである。なぜ人を殺してはいけないかという問いを冒頭に書いたのは、
この本の中でもそれに類したテーマが話されていたからである。しかし、『少
年とアフリカ』での坂本氏の問いは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と
いうものではない。彼の言葉は、「僕は自分の子どもが殺されたら、やっぱり
復讐に行く」というものである。また、「僕は、息子が人さまの子どもを殺し
たら、息子を殺すと思う」とも言っている。私には子どもがいないので、この
言葉を現実の自分の生活に対してそのまま問うことはできなかったが、これ
は、「なぜ人を殺してはいけないか?」という一般的な形での問いではなく、
「自分の子どもや愛する人が殺されたらどう思うか、どうするか?」という、
より具体的な問いになる。
『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフは、「一つの生命(いのち)を消す
ことによって――数千の生命が腐敗と堕落とから救われる。一つの死と百の生
命の交代――こんなことは算術の計算をするまでもなく明らかじゃないか!」
と、ある士官に言う(新潮文庫版より)。この理論(?)は今まで何度も語ら
れてきたかもしれない。しかし一方で、最近になって私を驚かせた殺人事件が
あった。「人が死ぬのを見てみたかった」という供述をした少年の話が新聞に
載っていたのだった。過去に「太陽がまぶしかったから銃を撃った」という小
説も確かにあった。しかし同時代に起きた事件はその迫り方がまた違う。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うた時に、「よい」という結論は
見えてくる。しかし同時に「いけない」という結論も見えてくる。そして分か
らなくなる。これが私の実相だ。「分からない」のである。したがって、私は
「人を殺してもよいか?」と問われても答えることができない。しかし、その
問いに対して、問いと答えがずれているのは分かっている上で、私は「いや
だ」と答えたいと欲する。そしてまた、このようには言う。「あなたが私や、
私が殺されてほしくないと思っている人を殺そうとしたら、私は「必死で」あ
なたを殺そうとする。そして、あなたがそれによってどれほど苦しんでも私は
知らない。そしてもし私が生き残った場合、私はすごく悩むかもしれない」。
永井均氏は、『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998年)の中で、
「相互性の原理」について触れている。すなわち、「きみ自身やきみが愛する
人が殺される場合を考えてみるべきだ。それが嫌なら、自分が殺す場合も同じ
ことではないか」というものだ。私が上に書いた言葉は、概ねこの相互性の原
理に相当するだろう。違いは、私の言葉には、相互性の原理とともに、正当防
衛および報復や仇討ちの論理が見えているところである。
永井氏によれば、この原理には二つの応答の可能性があるという。一つは、
「私には愛する人などいないし、自分自身いつ死んでもかまわないと思ってい
る」というものであり、いま一つは、「私や私の愛する人が殺されるのは嫌だ
が、だからといってそれがどうして私が他人を殺してはいけない理由になるの
かがわからない」というものである。(ちなみに、永井氏は、「人を殺しては
いけないのか?」に対する本当の答え(ニーチェによる)は、「重罰になる可
能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」のだと述べ
ている。また、ニーチェは、究極的には、この答えに相互性の原理を介在させ
てはならないと考えていたのではないかと言う)。
ところで、相互性の原理に対する応答は、相互性の原理が理に訴えて説得力
があるように、応答の方も理に訴えて説得力があると思われる。先日、テレビ
(確か、読売テレビの「希望の国のエクソダス」に関する番組)で香山リカ氏
が、第一の応答をするような若者が実際にいる、と語っていた。そして、根拠
があるわけではないが、きっといるに違いないと私も思った。しかし、どれほ
どの覚悟をもってそのように言えるのかは、もう一度問うて然るべきだと思
う。ついでに言えば、その覚悟をしていれば私はその人に誠実さを感じること
もできなくはない。ただし、「然るべき」とか「誠実さを感じる」という言葉
は、それ自体、倫理的・価値的な言葉である。
羅列的にいくつかの意見を書いてきたが、ここで私は注意をしたいことがあ
る。たとえば、私が上に書いたような言葉、「あなたが私や、私が殺されてほ
しくないと思っている人云々……」は、日常性の文脈と、たとえば限界状況で
は当然違った意味をもつ、ということである。端的に言えば、これは一般論で
はおさまらない言葉なのだ。厳密に言うならば、あらゆる言明は一般論をのが
れるのかもしれないが、しかし、「殺す」とか「殺される」といった「物騒
な」言葉は、私には厳密さを言う前にじつに重苦しいのだという認識がある。
理由は簡単かもしれない。私は殺されたくないからである。
先ほどの坂本氏の問いにはいくつかの契機があるが、そのうちの一つとし
て、「自分の子どもが殺されたのだから、その殺したやつを殺しに行ってはい
けないのか?」というテーゼが読み取れる。これは「人を殺してはいけないの
か?」という一般的な問いと、ある条件ではどうか? という問い、それから
相互性の原理での前半部分、「きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考
えてみるべきだ」を指している。原理は一般を扱うので、坂本氏は原理に従え
ば殺しに行くことはできないが、少なくとも原理への言及を行っている。具体
的な事象を語ることで、錯綜した状況を明らかにしている。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うと同時に、『少年とアフリカ』
のように、自分の息子を殺されたら殺しに行くか、と問う態度は必要だと思
う。特にこのような「重苦しい」問題についてはそうだろう。一般的な問いと
具体的な状況での問いが世界には存在する。その両方を意識しつつ語ることは
難しいが、じつは、現在固定化したように思われる理論、たとえば今までの文
脈からは少々突飛な例のような感じがするかもしれないが、数学や物理学の理
論も、そうした両者への志向を持っていたと思う(また、持っていてほしいと
思う)。議論を整理することの難しさと大切さ、それと同時に、そうしないこ
との大切さもあるのではないかと思うのである。
『少年とアフリカ』の最後の方で、坂本氏は次のように語る。「最愛の人が
殺された。仕返ししてやる――そうではない思考力が人間にはある。それをな
んとか表現しようとする人もいる。」それは「許す」という言葉で表されるも
のではなく、むしろ「生命への畏れ」とでもいうようなものであるという。私
はその言葉に救われた気がした。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかじま・ようじ)1970年生まれ。男性。大学では哲学専攻。職を転々と
し、最後は編集、今は自由業。茶飲みジジババになることを目指している。
http://www.asahi-net.or.jp/~ah9y-nkjm/
●●●●インフォメーション●-----------------------------------------
■アジア雑貨とお茶の店「ロシオ」
神戸発:楽しいアジア雑貨や衣料、中国茶を中心としたアジア各地のこだわ
りのお茶などを取り揃えております。オンラインショップ6月1日にオープ
ンしました!
http://homepage2.nifty.com/rocio/ E-mail:rocio.tearoom@nifty.com
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////// 舞踏/ダンス //////
ダンスに感応する関西での日々
〜「観る身体」になるために〜
小暮宣雄
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もう一年以上も前になるが、ダンスの「パフォーマンスと解説」に来ていた
伊藤キムさんらと道後温泉に入ったことがある。その時彼が、ダンサーは世界
で二番目に古い職業だってねと笑って言った。
彼の知人が道後温泉でストリッパーとして踊っていたことに話題が広がりは
したが、芸術ダンスの鑑賞について、松山ダンスウェーブという市主催の企画
で彼と語ろうとしていた私にはこのテーマは荷が重すぎた。
確かにオーケストラの語源が「踊る場所」という意味だったり、芸能の原点
に舞踊があることは以前から理解していたつもりだった。でも、職業としての
ダンサーと、一番古い職業だと言われたりする売春/セックスワークとの関係
については深く考えたことがなかったのだ。
…天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、天の香山の天の日影を手次(たす
き)に繋けて、天の眞拆(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉
(をさば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の岩屋戸に槽(うけ)伏せて踏み轟
こし、神懸りして、胸乳(むねち)をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に
押し垂れき。ここに高天の原動(とよ)みて、八百萬の神共に咲(わら)ひ
き。…
ご存じ、天照大神が岩屋戸に隠れた古事記の一節である。踊る衣裳の起源や
踊る体が発する音の効果についてを考えさせてくれる所でもあるが、ここでは
すでに舞踊に観客が存在しているということに注目したい。「踊り子」には触
ってはいけないという「ダンスを観る」快楽の基本的構造が出来上がっている
わけだ。
セックスもまた身体の日常的でない動作によって生じる快楽だが、踊り手と
観客というような区分はもともとはない。セックスを職業とする専門者が生じ
ても、お客は参加することが原則となる。セックスワーカーがどうしてダンサ
ーよりも古いのか。それはストリップダンスを観るだけの客のような、物理的
には参加しない快楽者が出現していない時代からの職業だからかも知れない。
なんて屁理屈をようよう思いつく。
6月10日天王寺の茶臼山舞台にて、山梨県白州/舞塾(現・桃花村)の玉井
康成独舞『ザマ』の始まりを待っている時に、このエッセイを依頼された。玉
井康成の舞台については、まず毎日つけている「アーツ日記」に書き、その一
部をインターネットにあげた(ので、それを参照して欲しい)。
そこでも触れたが、原稿を頼まれたこともあって、どういう時にこのダンス
は自分に届いたなあと感じ、どういう時に感じないかを意識しながら観てい
た。
すると、観ている私にダンスが届くには、そのダンスに共振する自分の身体
があるかどうかにかかっていることが分かってきた。つまりそこで私が「踊り
を観る身体」になって初めて踊りについて語ることができるのである。
結局そこに物理的に居ても、実際は踊りの場に私が居たとはならないのだ。
そしてその「踊りを観る身体」はダンスが始まる前から徐々に準備ができてい
るときもある。公演が始まってから、ある一瞬の動きや身体と音(光)との出
会いがそれを引き出してくれることもある。
鑑賞し損なう原因は、世俗的な雑念などの時もあるし、制作の不手際や周囲
の観客層など小屋環境のもろもろの条件にも左右される。しかし、一番大切な
のはもとより眼前のダンスそれ自体である。
ただ、その次に大きく影響するのは、今までにどんな身体動作を自分自身の
目で観察したり体験したか? によるように私には思える。その経験の中のあ
る塊が、いま眼前にある身体によって数珠つなぎに引きだされるのだ。瞬時に
私の身体が、過去に踊りを観た当時の身体の感応記憶と参照しつつ、眼前の身
体の新鮮度や巧拙を教えてくれる。
そうなればしめたものだ。自分の身体なのに、踊りを観る私の身体は、今ま
での他者の踊りを観た記憶や、他者との交わりによって身体に刻まれた体験に
よって、今だけの、私だけのものではすでになくなっている。
ひょっとしたら、古事記にあるような、踊る身体を観る快楽に「はまった」
先祖たちの感応した記憶までも尾てい骨あたりに潜ませて、私たちの身体は、
ダンスを観る快楽をいつかリリースさせようと待機しているのかも知れない。
(「La Vue」3号より転載)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(こぐれ・のぶお)京都橘女子大学文化政策学部教員。NPO法人アーツワーク
ス理事。1955年大阪市生まれ。10年ほど前から、継続的に様々なアーツ現場を
観察するようになり、その記録を日記形式で書き綴り、99年9月からは「アー
ツ・カレンダー」(http://www.arts-calendar.co.jp/)にレビュー「こぐれ
日記」を掲載(5月にはCD-ROM「つれづれアーツ日記1996-98」をアーツワー
クスから出版)している。中でも関西の若手ダンサーには触発されることが多
い。由良部正美はじめとする生きた舞踏の流れの他にも、岩下徹のワークショ
ップ体験から出発した山下残や若井博人、あるいは黒子さなえや北村成美、砂
連尾理・寺田美砂子、クルスタシアにポポル・ヴフ、BISCO…。ジャンルも様
式も現れも多様な振付家たちが、海外や関東などとの交流も始まって、難波の
トリイホールや京都の中京青年の家などの小さなスペースで新鮮な公演を続け
ている。あとは、その場に座り、いつ自分の体が「踊りを観る身体」になるの
か、その瞬間を待てばいいのである。
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★★★自費出版のお手伝いをします。★★★
るな工房/黒猫房/窓月書房が、あなた好みの造本で編集・製作いたします。
皮装・フランス装などの特別装幀も行います。一度ご相談ください。
お申し込みは、こちらまで。YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/koubou.html
●●●●インフォメーション●-----------------------------------------
「哲学的腹ぺこ塾」21回例会のご案内
■日 時:2001年06月17日(日)午後2時より5時まで
その後、暫時「二次会」へ(飲食類は、割り勘です)
■テキスト:T・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)
■報 告 者:中島洋治
■会 場:るな工房/黒猫房(TEL/FAX:06-6320-6426)
■会 費:500円
■編集後記■---------------------------------------------------------
★平野さんには、「NAM」批判のテーマで原稿依頼をしたところ、柄谷行人
のこの間の思想的「転回(展開)」に関して要領を得た論考を入稿していただ
いた。黒猫の提起した疑問にも言及され、柄谷入門としては「バッチ・グー」
ではないかと思う。「う〜む。なるほど」と膝を打った次第。
★中島さんのエッセイは、難解な言葉を遣わないで「哲学している」好感のも
てる論考で、とくに論旨の展開には共感を持った。しかし坂本龍一の言うよう
に、死に対して死を以て贖うことはできないと思う。報復や復讐の論理は、死
の非対称性の前では挫折するしかない。復讐しても死者は甦ってはこない。そ
れでも復讐心あるいはその逆の罪障感が生じるのは、残された生者が、死者か
らの負債を何とか返済しようとするからだろうか。しかしこの返済も、同じく
挫折するしかない。そしてその挫折が、「生命の畏れ」を感得させるのかもし
れない。
★小暮さんには、本誌の姉妹紙「La Vue」からの転載を快諾していただいた。
今春から大学の先生になられたが、気さくな人柄と落語家のような風貌が印象
的。関西のアート・シーンでの仕掛人であり、支援者として活躍されている。
(黒猫房主)
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『カルチャー・レヴュー』17号(2001/06/01)
■編集委員:いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英・加藤正太郎・
山口秀也・山本繁樹
■発行人:山本繁樹
■発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX 06-6320-6426
■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
Copyright(C), 1998-2001 許可無く転載することを禁じます。
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■申込・解除・変更は下記の(直送版は、るな工房まで)
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■情報提供・投稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。
■本誌のバックナンバーは、
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■本誌へのご意見・ご感想・は、下記のWeb「猫の砂場」(談話室)
または「るな工房」までメールでの投稿を歓迎します。
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■実費のみのオフ版(郵送版)もございますので、お問い合わせください。
■このメールは半角70字(全角35字)詰めで構成しております。レイアウトの
ズレがある場合は固定(等幅)フォントで修正してお読みください。
■本誌は「投げ銭システム推進準備委員会」の趣旨に賛同します。
http://www.nagesen.gr.jp/〈投げ銭フリーマーケット稼働中〉
■臓器移植法「改悪」に反対します。
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho.htm
◆Date: Sat, 1 Dec 2001 16:21:14 +0900
Subject: 訂正版『カルチャー・レヴュー』20号
★先に送信した本誌に一部誤植がありましたので、訂正版を送信しますので、
お手数ですが前便は削除してください。
■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご紹介ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>
◆直送版◆
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(創刊1998/10/01) (発行部数約1250部)
『カルチャー・レヴュー』20号
(2001/12/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[21号は、2002/02/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆じんわりと染み上がってくる愛しさ、しんみりとした感動 山口秀也
◆地雷の足とリストカットの腕 田中俊英
◆大江町に天皇・皇后がやってきた(後編) 三宅紀子
◆「La Vue」8号のご案内◆窓月書房からの新刊案内
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////// 書 評 //////
じんわりと染み上がってくる愛しさ、しんみりとした感動
『ぼくが父であるために』(松本康治著、春秋社、2001)を読んで
山口秀也
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これは、読者を最後のページまでうまく乗せて行ってくれる本だ。
のっけからテンポよく、キレのよい文章ではじまる。子ども嫌いの著者が、
しかしその妻の妊娠の事実を受け止めるためにどうしたか?
ところがある日、妻の妊娠が判明した。妻は「えらいことやで」と言っ
た。
あせった僕がその日まずしたことは、その受精卵に「まりも」という名
前をつけることだった。芽生えたばかりの生命を僕の中の逃避的邪念の誘
惑から守り、現実を粛々と受け入れるためには、邪念が入りこむ前に急い
でそれを人格化してしまう必要を感じたのだ。(「春風の発見」)
ここには、無定形の生活者たる著者の眼前に、突然わけの分からない未来が
大きな口を開けて現れたさまと、その前でゴクリと喉を鳴らして立ち尽くし、
現実を確かめるべく頬をつねる代りの、人を喰った行動がユーモラスに描かれ
ている。
やがて「まりも」は成長し外界へ出てきたが、男だったので「丘」(きゅ
う)と改名し、本書の元になった初出誌(「KID」)のタイトル「丘のさん
ぽ道」の「丘くん」の登場となるのだが、このエピソードは、さらに4年後に
生まれる第2子が女の子だったのでめでたく「まりも」を襲名するという(ま
りもちゃんは、胎児のときは「まりも3(スリー)」と呼ばれていた)オチま
でついている(「いもうと」)。
著者・松本康治氏は、大阪の寝屋川市生まれ、現在30代後半の僕とほぼ同年
代にあたる。医療・福祉の専門誌「いのちジャーナル」の編集長であり、その
発行元「さいろ社」(http://www.sairosha.com/)の代表である。
本書は、著者と、1993年に生まれた「丘」くん(1997年には妹「まりも」
ちゃんも誕生)とのふれあいを綴ったエッセイを元に編まれたものである。丘
くんが1歳のころから阪神大震災までの第1章「小さな人と」、震災後から保
育所終了直前までの第2章「親という人、子という人」、小学校入学準備か
ら、著者夫婦の離婚という試練を経た丘くん7歳までの出来事を綴った第3章
「子どもの試練、親の試練」の3部から成る。
「うちの子はこんな子です」と子どものことばかり観察して書きたくないと
著者は言う。こっちもそんなものは読みたくない。共働きのことや、保育所の
こと、親について、ふるさとについて、人の死について、さまざまな事柄が、
子どもの情景と重ねられ語られている。口はばったいいいかたをすればこうな
るだろうか? 子どもの事象に対するアプローチから、常識に塗りつぶされた
この社会の、矛盾を肌で感じ取る。たとえば、著者の母親が死んだ日、冷蔵庫
が壊れて、捨てようとマンションのドアの外へ出しておいたところ、外から
帰ってきた丘くんが、
大好きな冷蔵庫(アイスキャンデーやヨーグルトが入っているから)が
表に出されているのを見て、ビックリして部屋へかけこみ、「なんで?」
と尋ねる。「冷蔵庫、死んでしもたんよ」と言うと、丘は再び冷蔵庫の前
へとって返し、手を合わせて熱心に拝んでいた。
その次の週の葬式では、参列者がまだ泣いていないうちから「もう会わ
れへんから、泣くの?」と母親に聞いていた。丘も少しずつ「死」の意味
を理解しつつあるようだ。(「葬式」)
我々大人が、葬式に出たりする場合、子どもが感じるような、「死」への不
可解さや、戸惑いはないのが普通だ。そこでは、セレモニーとしての葬式があ
り、ルールとしてのその場での立ち居振る舞いがあるだけだ。葬儀場は悲しい
振りをする大人で溢れている。
なんということのない日常の一瞬間を、ポンと目の前に(しかも押しつけが
ましくなく)さし出されたような、出来事や人や自然の事物に寄り添うように
綴られる文章には何度も目頭を熱くさせられた。
ある夜、丘がスーパーの袋にみかんをせっせと入れている。一〇個ほど
つめこんだと思ったら玄関へ運んでいき、靴をはこうとしている。妻が
「あれ、丘ちゃん、こんな夜にどこ行くの?」と聞くと、丘は「保育
所、いく」と言う。「そのみかん、どうするの?」と聞くと、「みんな、
あげる」と言ったそうだ。
彼は、親以外の人間と過ごす時間を持っている。そして彼の中で、保育
所は、おいしいみかんを分けてあげたい大事なオトモダチとシェンシェー
のいる場所として、しっかり根づいている。(「保育所」)
これには、じん、ときた。いったん、子どもの視点から語られると、これまで
「保育に欠ける児への措置」とされてきた保育所が、まるでちがったものに感
じられる。ここでも、子どもというフィルターを通して見ることの新鮮さが際
立っている。
本書をしめくくる夫婦の離婚後の家族旅行のくだりが、とくにいい。著者
は、離婚という事実を、現実にそのまま抛り出して、さてどう考えたものか
と、思いを巡らすが、それが、いわゆる論理的な思考というよりは、身体(か
らだ)ごと考えるというふうである。元妻と子どもたちと「家族」旅行に行く
のだが、いく先の決定から、その過ごし方、旅程が語られていく中で、息子
が、台風の近づく海辺で波と戯れる情景を、子どものかよう保育所へ思いを巡
らせたり、また、息子の裸で遊びまわるさまを思い出し、感慨に耽る、という
ふうに自然や人や想念が、行ったり来たりする。たんたんと描かれる自然の点
景とその一部に成り果てている人間。湯に浸かりながら、弛緩する身体と精神
が、それ自身が思考するように語り始める。
夏の昼下がり、湯上りにうつらうつらしながら、全肯定モードの延長
で、その場にいない丘のことをぼんやり思った。(「家族旅行」)
それでも、こうして海と空のもとで裸になると、子どもはいのちを蘇ら
せ、いきいきと跳ねる。そんな姿を見ていると、ああ、あのちっぽけな裸
の小僧は僕の大事な息子なのだなあ、とそのまんまの愛しさがじんわりと
染み上がってくる。(「家族旅行」)
こうして見てくると、村上龍の「最後の家族」より、この「家族旅行」を、
題名を「本当の家族」とでもしてドラマにして欲しかった気がしてくる。不倫
や不登校や援交と、これでもかと今っぽいキーワードを振り回す「物語」はも
う沢山だ。それよりも、こんな映画を誰か撮ってくれないかなあと思う。北野
武に、最近、ワンパターンに陥りつつあるヤクザものでなく、雄大な自然と無
邪気な子どもが、冷えてきた夫婦の関係を修復させて、改めて家族の大切さを
知る、というようなウソくさい(実際にウソだと思うが)話ではない、味わい
深い家族の映画を、離婚後の家族旅行の話を元に撮らせてくれないものだろう
か。
この全編に「しんみりとした感動」が溢れている本を、なぜか、ニール・ヤ
ングの古い曲(「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」など)を聴きながら読む
と「しんみり」「ぽかぽか」具合がよけい身に滲みた。
家族論として読んで欲しいと言おうとしてためらった。論などといういやし
い肩書きは、この本には相応しくない。育児書ばかり買い求め、問題解決のマ
ニュアルにしか興味を示せない親(べつに親である必要はない)に、自分や家
族を見つめなおす、あるいははじめて考えるきっかけとして読んで欲しい。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(やまぐち・ひでや)1963年生まれ、京都市出身。2つの出版社勤務を経て、
現在フリーエディター・ライター。いまは、某印刷会社の一室で、Office XP
に翻弄されながら膨大な文書と格闘する日々を送っている。本書と同じ、一男
一女の父。「カルチャー・レヴュー」 および「 La Vue」 編集委員。哲学的
腹ぺこ塾塾生。
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////// エッセイ //////
地雷の足とリストカットの腕
田中俊英
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僕は、青少年への援助という仕事の関係上、いわゆる「リストカット」した
少女少年と時々出会うことがある。それの原因は、心理学的にはたとえば解離
現象とかいろいろ説明できるのであろうが、僕にはあまり理解できないし実は
そうした説明にはほとんど興味はない。
親からはそのことについてまったく聞かされておらず、いざ自宅へ訪問して
本人と会ってみると、左腕に200くらいのカッターかナイフによる傷跡をもっ
た少年が出てきたりしたこともある。時には、リストカットの最中に直面させ
られ、介護したこともあった。リストカット最中に居合わせるのはまれだとし
て、腕を傷だらけにした少女少年と出会うことは、訪問先で会うかカウンセリ
ング室で会うかの違いはあるにしろ、援助の仕事をしている人だったら珍しく
はないだろう。
僕はそんな彼らの腕を見ていて、「所有」という観点から、2つのことを
思ったりする。
1つは、身体をモノのように扱っている、つまり、身体をまるで大根とか鶏
肉のような自分とは違う物体として彼らはみているのではないかということ
だ。自分が自分であるという最後の根拠であろう「身体」でさえ自分ではない
という感覚を持っていて、まるで壁を殴るようなノリで、腕を切る。つまり自
分が一時的に「所有」しているような感覚の腕を傷つける。
そんな「所有」という見方とは反対に、こんな考え方もある。それは、彼ら
は自分の「存在」を常に否定しようとしていて、何かきっかけがあるとすぐに
衝動的に自分の存在そのもの=身体を傷つけようとする、という見方だ。特
に、リストカットした後その行為自体を記憶していないエピソードに接したと
きなど、こちらの見方を僕はとってしまう。その行為自体に及んでいるときは
通常の意識がぶっ飛んでいるんだから、通常の意識がないということは「所
有」感みたいなものも当然なく、その衝動本能は、もっと深いところから、つ
まりは「自分が自分であるという『存在』感覚」めいたものから発動されてい
るのではないかと思うのだ。
このようにして、かけがえのないそのときかぎりの個別的な行為を勝手に解
釈することは実に勝手なことで、僕も解釈していて自分がいやになる。ただ、
上の2つとも、いわゆる「他者」がないことは確かだろう。1つめの「所有」
と2つめの「存在」、どちらの立場をとるにしろ、他者は介入していない。
たとえば「所有」の場合だと、他人が代わりに「切る」こともできる。モノ
のような身体を、自分ではなく他者に切ってもらうような依頼。それは僕のよ
うな凡人にとってはおぞましいことだが、たとえばエロティシズムというよう
な観点から見るとたいして目新しいことではない。そしてそれを「他者論」に
まで拡大して、自己と他者の視点の変換として語ることもできるかもしれな
い。
また「存在」の場合だと、他人によって根こそぎその「存在」が破壊される
ことがある。例としては、レイプ。これを「被害者が『所有』する身体」のみ
を汚されたとする見方には僕は反対だ。根こそぎその「存在」そのものが(自
意識までひっくるめて)破壊されたとする説明がしっくりくる。ただ僕には、
リストカットという行為が他者からの自分への存在の全否定に結びついている
ようには、良くも悪くも思えない。
そう、リストカットは、「自分」という容器に閉ざされた行為のように僕に
は思える。「所有」にしろ「存在」にしろ、すべてを自分の中で完結させてし
まう行為。それは、行為という風船の中に、膨らみきったいっぱいいっぱいの
自分のみで占められた行為だ。
このとき厳密に考えると、すでにリストカットの行為者に「他者」は侵入し
ているのかもしれない。たとえば「前人称的」(メルロ=ポンティ)とか
「ウィ・ウィ」(デリダ)とかというように、こうした行為を相対化する意味
でよく言われる他者が、「自己」の存在以前から我々にはすでにあるのではな
いかという見方だ。僕も、そうした根源的なレベルでは彼らの中に「他者」は
いると思う。
だから根源的レベルの他者は誰にでもいる。そのあとで、リストカット行為
者は、自分でいっぱいいっぱいでありながらも具体的な○○さん(人称的)を
思って彼らは腕を切っていることもあるだろう。その○○さんは彼らにとって
誰なのか。この場合、○○さんという名前を持っているので、「人は自己意識
や言語以前の段階から他者に囲まれている」といった前人称的レベルではな
い。とりあえずそこには自己意識や言語はある。つまり、まず「自分」があ
る。そしてそのうえでその○○さんをとらえている。その○○さんは、自己意
識が確立したあとで未熟にとらえている「他者」であり、圧倒的な自己の疎外
感のために「絶対的な外部」へと放り出している他者でもある。結果、言語以
前の段階で我々に前人称的に侵入している他者の存在に思いが飛ばず、当事者
は孤独に包まれる。我々の多くは実は、すでに他者に囲まれた存在であり、そ
のことを実感して安心できると彼らは「回復」へと向かうことができるのかも
しれない。
レイプと地雷の恐ろしさは、自己意識の確立以前の、「前人称的で根源的な
レベルの他者」が野獣化するという点にある。言い換えると、他者が「自己」
の存在以前から我々にはすでにあるという、我々が根源的に我々であるところ
の“安心感”が破壊させられるということだ。我々が我々であっていいという
存在そのものを脅かす事態、それがレイプであり、地雷であり、爆弾だ。
アフガニスタンへの空爆による被害として、さっそくテレビはその被害者を
インタビューしていた。その人は10代の少年で、足を怪我していた。それを見
て僕は、これまでメディア上で何回も見た、地雷で足を失った人々を連想し
た。メディアを信用できないという立場から、僕はこれ以上は語れない。た
だ、突然の爆発とはいったいなんなんだろう。アフガンだろうが四国だろうが
ソマリアだろうが、我々は土地と太陽の間で生きている。土地と太陽の間に
は、生物があり、我々人類としてはそこには「他者」がいる。生まれたときか
ら他者がそこにはおり、予告なしの破壊などそこにはない。
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(たなか・としひで)1964年生まれ。大学卒業後、1992年頃より、友人と設立
した出版社(さいろ社)勤務のかたわら「相談家庭教師」という名称で不登校
の子への訪問活動を始める。96年、個人事務所「ドーナツトーク社」を設立。
訪問・相談活動の他、講座運営などを行なう。今春より、大阪大学大学院文学
研究科臨床哲学修士課程に在籍。また月刊誌『Kid―「対話する」ことで子
どもへの援助が見えてくる』、 Web版「週刊ドーナツトーク」
http://member.nifty.ne.jp/donutstalk/を発行。
E-mail:zan01701@nifty.ne.jp
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////// 天皇制 //////
大江町に天皇・皇后がやってきた(後編)
三宅紀子
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10月2日、朝からパトカーのサイレンの音が谷間をぬってきこえてくる。今
日は、大江町に天皇がやって来る日だ。
私は近所中のみんなが「行幸啓」の見学に出払って集落にいるのは猫と私た
ちだけかなあ……と思いながら畑仕事をしていた。
山々に囲まれたこの集落にはふだんまわりの雑音が一切届かない。いつもな
ら竹林が風に揺れる音、棚田の溝を流れ落ちていく水の音、鳥の鳴き声、虫の
羽音を遠く近くに聞きながら、うっとり考えごとをしつつ体を動かしているの
だが、この日はヘリコプターが3機、爆音でかわるがわる頭上を飛び廻ってい
て、うっとおしい。
■町費800万円
午前10時35分。京都と関西国際空港を結ぶ特急「はるか」が特別列車に仕立
てられ、大江駅に到着。
駅前の鬼瓦公園で町長、町会議員、在町叙勲者が並び、天皇・皇后を迎え
る。町内の各種団体、保育園児、小学生(!)、中学生(!)、一般町民など
1200人がまわりを囲んで「日の丸」の小旗を振り、歓声を上げる。大江町行幸
啓奉祝実行委員会には、部落解放同盟大江支部を含む町内の各種42団体が名を
連ねる。
天皇・皇后は専用車で大江山中腹にある鬼の交流博物館へ京都府警本部の白
バイを先頭に、13台の車両と8台の白バイと共に向かう。鬼瓦公園から鬼の交
流博物館までの国道、府道の沿道には10カ所以上「奉迎」場所が設置され、町
の人口の7割近い3500人の町民が「日の丸」の小旗を振って立っている。天皇
・皇后を乗せた専用車はそれぞれの「奉迎」場所ではスピードを落として、窓
から手を振り走っていく。
鬼の交流博物館にも保育園児、小学生、一般町民800人がいる。博物館見学
後、正午すぎに天皇・皇后は次の訪問先である福知山市に車で出発。
この間2時間弱。天皇・皇后の大江町訪問を「歓迎」するために使われた町
費800万円。警察動員2000人(大江町には3つの駐在所、3人の巡査しかいな
い)。ヘリコプター3台。(私はこのとき集落から出なかったので実際によう
すを見たわけではない。この部分は後日配布された町の公報などから抜粋して
まとまめたものである。)
■二人の死者
昼すぎ、うちの下手で数台の車の音や人の声がしていて、ああみんな帰って
きたんだ、と思っていたら、隣のおばあちゃんがやってきて、Sさん夫婦が今
朝事故で亡くなったと言う。青天の霹靂。
私はこの御夫婦にずいぶんかわいがってもらった。特に95才のおじいさんは
大柄ででっぷり肥えていて、はげ上がった頭はツルツル。顔は血色が良くてツ
ヤツヤ。100才まで生きるで、ともっぱらのうわさだったのに。いつも夫婦二
人で軽自動車に乗って町の中心部に暮らす子ども夫婦の家と山奥の自宅を往復
していた。それなのに、どうして!?
おばあちゃんの話によると、昔町会議員をしていたSさんは叙勲者として天
皇・皇后に間近に会えることに興奮して昨夜あまり眠れなかったらしい。朝予
定よりずっと早くに正装して勲章をつけて車で家を出たらしい。通い慣れた道
なのに、なぜそこで事故を起こしたのか、みなが首を傾げる地点で川につっこ
み、車ごと転落し、二人共亡くなってしまった。そう言われれば朝聞こえたサ
イレンの音は、この事故で入ってきた救急車とパトカーだったのだ。
翌日が通夜、翌々日が葬式となる。この大事件で話はもちきりとなり、天皇
・皇后訪問の感想は集落の誰からもきくことはなかった。
お葬式で「でも」とおばあさんの一人が言う。「考えようによっては幸せや
で。天皇陛下に会えると思って気分も高まっていて、一張羅の服で着飾って、
夫婦二人で一緒に逝けて……」、うんうんとまわりのおばあちゃんが頷く。
“……でも。”と私は思う。
全部で17戸しかないのに、16戸になってしまって、いちどに二人も亡くなら
れてめちゃめちゃ淋しいやんか。Sさんは耳が遠いから私が視界に入って手を
振るのに気がつくと、いつも笑って大きな声で「よお!おまえこ!」って肩を
たたかれた。
“もう、会えない。”
■誰の指示
このあと、他区の知り合いに出会って、天皇・皇后「行幸啓」のようすをき
いた。「花は区費で用意したの?」ときくと、Aさんは「うちの区は、区長さ
んが個人的に頼みに廻った家で用意して、区で話し合いはしなかったよ。うち
も組長なので花植えて出したよ」と言う。Bさんは「うちのところは区長さん
が頼みやすい家に頼んだらしくて(みんな知らずにいたから、あとから)うち
も花を出したかったと文句を言ってる人がおるよ」と言う。曲がりなりにも報
告と話し合いがあった私の区とはずいぶん違うなあ。なんで各区によって説明
や対応のしかたが違うんやろう。
「見に行った?」ときくとCさんは「行った! 行った! 仕事休んで行った
わ。やっぱり上品いうか、私らとは違うね。すごく偉い人とか難しいことやな
くて、テレビに出てるスターに会いに行く気持ち。めっちゃ興奮したわ」と言
う。「でも、中学生がキャー! 美智子さん、こっち向いて〜! とか叫んで
たけど、無視してたなあ」「うんうん、保育園児に話しかけてたけど、園児の
一人が(白い帽子を見て)“何でおさらをかぶってるの?”と尋ねたら、やっ
ぱり無視してたね」とDさんが言う。けっこうみな至近距離で見ていたよう
だ。
ところで国道沿いに住むBさんが言うには「うちのおじいさん、体の具合が
悪いから家におったんやけど、車が通過するのを二階の窓から見たらあかん、
みんなカーテン閉めとけ、ということで家の前にも警官が立っているし、見れ
んかったらしい」。私が驚いて「誰がそんなこと決めて言うてくるんですか?
区長会ですか、警察ですか?」と尋ねると「いや、誰かはわからんけど、そ
ういうことらしい、という話やで」という答が返ってきた。
■小・中学生「動員」の中身
共産党の町会議員とも話す。「小中学生はなぜ参加することになったんです
か?」「いや、教職員組合は子どもを参加させることに反対で交渉したんやけ
ど、町教委も強硬で、府教委の命令や、いうて押し切ったらしい」ときいて驚
く。「府教委の命令!? そんなん、絶対!出るわけないわ」ときくと「町づ
くりの実績が評価されて今回の訪問を招いたんやから、“行幸啓”を見学する
ことには教育的意味があるということらしいわ」という答え。
「!!!」
結局、小学校では鬼の交流博物館まで遠足という形で途中少しだけ歓迎に参
加することにしたところや、駅前の鬼瓦公園での歓迎に全員参加したところも
あったようだ。中学校では、「行幸啓」歓迎については子どもの自由意志で参
加をさせ、学校に残る生徒は尊重するということになったらしい。「日の丸」
の小旗もはじめから配ってもたせるのでなく、現地にまとめて置いておいて、
ほしい者だけ取っていく、というようになったという。
「親で子どもを参加させたくない、という反対の声はなかったんですか?」に
始まり、「町教委に電話したらしいけど、名まえをきかれて、しかもまともに
対応されず、がっくりしてる人はいるんよ」「そういう時は、うちにも声かけ
てもらわんと!」「うん、話題になってたけど、子ども二人とも中学校卒業し
てはるということで、連絡しなかったん」「う〜。それでもできることがあっ
たかもしれないから、これからは思い出したら、一応声をかけて下さいね」と
いうやり取りをしながら、ふ〜とため息がでる。
組合が反対しているから、小中学生を「奉迎」に「動員」できないという話
はうわさでしかなかった。一応、反対のポーズを取りつつ、「府教委の命令」
を確認しない組合の姿に、強制でないのに強制のように振る舞い、「奉迎」を
支える姿を見出して悲しかった。
■記念碑建立
たくさんの「!!!」や「???」を生んだ天皇・皇后の「行幸啓」が過
ぎ、しばらくぶりに静かな町にもどった。町内のあちらこちらの店先で天皇・
皇后のスナップ写真が飾られていたり、町民共通の話題としてくり返し話され
ていたが、それでも年の瀬が近づいて忘れ去られていくように見えた。
ところが、今年2001年1月8日の成人式。60人(新成人の87%)が参加して
の式典、植樹、茶話会は例年どおりだったが、今年は何と「行幸啓記念碑」の
除幕式を鬼瓦公園で実施し、町長、議会議長のほか新成人を参加させたのだ。
碑は白っぽい御影石(たて170・横310・高さ40)の上に黒い石(たて90・横
180・高さ80)が組まれたものである。
表には「天皇皇后両陛下行幸啓記念」とあり、裏には「行幸啓」があったこ
との説明書きのあと、「……21世紀の幕開けにあたり、この栄を永遠に伝える
とともに更なる町づくりの進展を願いここに記念碑を建立する 2001年辛巳
成人の日 大江町長 佐藤克己」と彫られている。しかし、この碑には天皇
・皇后の名前は記されておらず、しかも西暦しか用いられていないため、後世
の人々が碑を見てもどの天皇が来たかわからないという一風変わったものに
なっている。ただ町長の名まえだけが強調されているのだ。
それにしてもこんなものをいつのまにつくっていたんだろう。わからないこ
とがある時はいつも共産党の町会議員に尋ねる。彼女曰く「町費を執行するの
に議会に諮らなければならない金額以下で計画・実行したらしくて、私たちも
全然知らなかったんよ。どのような経緯で記念碑建立に至ったのか、3月議会
の補正予算の論議のときに話が出てくるはずだから追及するわ。こんなことに
町費を使うのはおかしいということはキチンと言うつもり」。
「行幸啓」の日の夜、町の各戸放送で町長があいさつした「……前代未聞、空
前絶後の天皇・皇后両陛下の大江町『行幸啓』…」という言葉を思い出す。こ
の間の町長の言動には天皇・皇后と共に自分の名前を残そうとする欲望が露骨
に現れていた。
■「恩賜の煙草」
2月中旬。集落で毎年恒例の男ばかり集まる飲み会が前年の区長さん宅で行
われる。昼前から夜中まで飲み食い話し一日を過ごす。今年はしし肉、鹿肉、
きじ肉が用意された鍋で酔いもまわったころ、前区長さんが披露したのは「恩
賜の煙草」であった。秋の「行幸啓」で区長として「歓迎」準備に奔走したた
め、宮内庁から町を通してもらったらしい。そのことがうれしくてたまらな
かったようだ。まわりのおじいさんたちも「おお!」と感激している。巻き紙
に菊紋が印刷してあるその煙草を一本おすそわけしてもらったDさんが感無量
で歌い出したのは軍歌「空の勇士」。
空の勇士 大槻一郎 作詞 蔵野今春 作曲
恩賜の煙草いただいて
あすは死ぬぞと決めた夜は
曠野の風も腥く
ぐっと睨んだ敵空に
星が瞬く 二つ三つ(以下省略)
戦死した兄たちのことを話しながら、前区長さんは泣き出してしまう。
集落内のおじいさんはほぼ全員兵隊として従軍するか、軍関係の施設で仕事
に従事するかという形で、戦争を体験している。しかし、戦争体験は決して悲
惨な恨むべきこととしてだけではなく、青春時代と重なり、山奥の集落の小さ
な人間関係や身分意識から解放され、自分を発揮できたという喜びに満ちた記
憶となっている人が多いのだ。天皇への思い入れの現れるときは、戦争の記
憶……過ぎ去った若い日を懐かしむところから生まれるのだと強く感じさせら
れた。
■続・「奉迎」のつくられ方
今回の大江町の天皇・皇后訪問をめぐる騒動のレポートもそろそろ終わりに
近づいてきた。
「奉迎」のつくられ方には2つの側面がある。
ひとつは町長、町主導ということ。町長が音頭をとって、花いっぱい運動を
すすめ、舗装工事、草刈りなど沿道を整備し、「日の丸」の小旗7000本を用意
し、小・中学生を「動員」し、「奉迎」のお膳立てがすすめられた。くり返し
になるが、たった2時間の天皇・皇后の滞在のために使った町費は800万円に
もなる。町長が天皇を敬うかのような言葉を使い、振る舞いを見せることに
よって民主的な手続きを無視した町政をすすめることが可能となる。結局、天
皇を利用して彼が権勢欲を満足させたとしか見えない。
もうひとつは、つくられた「奉迎」に町民が乗っていくということ。スター
に憧れる気分と、クールに批判・観察したりおもしろ半分にうわさする気分を
共存させながら、「奉迎」に興奮していく。そして誰がいつどのように決めた
のか知らずわからずのまま、自己規制を受け入れる。
警察に歓迎者の名簿を提出したり、持ちものの検査をされるなど警備の対象
にされ、プライバシーを侵害されても平気である。沿道の民家の町民が美化に
協力するのはあたりまえと見做す。身内で自由に天皇家や皇族のうわさ話をす
ることと、お互いに生活の隅々まで知り相互監視することが表裏一体となって
いるのだ。本気で「奉祝」と思っていなくても「奉迎」を喜々として振る舞
い、権力にすり寄っていくことで権利を手放したりしていることに気づかな
い。
■遺されたもの
うちの前の山に月が上る。月は重なりあう山と山のあいだの小さな斜面に生
きる人間のひとつひとつの物語をずーっと見てきたんだなあ、と思う。こんな
静かな夜が私は好きだ。いつもなら月から届く白い光が私の砂つぶみたいな固
い気持ちを溶かしてくれる。だが頭の上にあるのは空だけのはずなのに、この
落ち着かなさは何だろう。
亡くなったSさん夫妻のことを思い出しながら、「行幸啓」は集落の人たち
にとって、晴れがましい祭りだったのだろうか、と考える。生産と生活と人間
関係が密接につながっていたかつての山村の暮らしの名残を生きて、先の見え
ない不安や空虚な気持ちを誰もが少なからず抱えている。
天皇という絶対の前にはまわりのすべてが相対化できて誰もが横ならびに見
える安心感や一体感がもて、つかの間の気晴らしと興奮を味わえたのかもしれ
ない。“…だけど。”
ここでは死者が風景に溶け込んでいる。私はおばあちゃんが「こないだ
な…」と40年前!の村人のことをきのうのことのように話すのをきくのが好き
だ。山をながめては植林を共にした人たちのことを、棚田の石垣を見ては石垣
積みの名人だった人のことを話すのをきくのが好きだ。Sさん夫婦の気配も集
落のあちらこちらに在る。“でも。”
ほのかな関係でしかなかった人たちだったが、どうしてもその死に割り切れ
なさを感じてしまう。言ってもしかたがないことはわかっていても、天皇が来
なければ亡くなることはなかった、と思う。そのうえ、私よりもっと彼らと愛
憎を含めた深いつながりをもつ集落の人々のやりきれなさが、「良い日に亡く
なった」とおとしどころを見つけてしまうことにも違和感がある。
そこからかつての戦争で亡くなった人々を思う気持ちにも考えがすすむ。
「奉迎」で「日の丸」の小旗を振った人々の多くは戦争体験者であり、遺族で
あるだろうから。遺された人々にとって親しい者を直接、天皇のために失った
感情の行き場はどこにあったろう。整理しきれるはずのない思いをどう手なず
けたろう。親しい者との関係が戦争によって断ち切られたあと、生者の中に生
きる死者としての彼らとの関係を、あらたにつくり上げてしまうことは、生き
て死んだその人たちを忘れてしまうことにならないだろうか。「奉迎」の日を
めぐる出来事に一瞬だが天皇をめぐる日本人の感情の陰影を垣間見せられた気
がする。その輪郭を表現する言葉を私はまだ持たない。今はただ突然断ち切ら
れたものと立ち現れたものを凝視していよう。
やって来たのは天皇と皇后だけではなかった。(了)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(みやけのりこ)1962年生まれ。町から山村に移り住んで12年。田畑をつくり
ながらアルバイト生活。天皇制、死刑制度のない日本を見てみたい、と思って
いる。
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////// 「La Vue」8号のご案内 //////
■2001/12/01発行<2周年記念号>
◆「これからおもしろくなる」
立岩真也(信州大学医療技術短期大学部助教授・社会学専攻)
◆「将来の公正らしさを保つ」という「超」能力の要求
―裁判官採用人事における思想差別―」神坂直樹(原告)
◆「竹田エロス論と<他者=外部>」神名龍子
◆「六条御息所の魂」ゆふまどひあかね(作家、女優、チェリスト)
◆「正義って何なんだ〜!」ひるます(漫画家)
◆「魂の経済学序説」中塚則男
■協賛:哲学的腹ぺこ塾
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/harapeko.html
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
英出版研究所 http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/
■投げ銭価格100円より・B4判・10頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京)・図書館・文化センター・
大学生協等に配布
■配布情報 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html
本紙は市民の表現を保障する媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
また本紙を安定的に発行するために、賛助会員を募っております。
年会費一口、1000円(9号〜12号までの定期購読料+送料+投げ銭)からの
「木戸銭」を申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321
●●●●インフォメーション●-----------------------------------------
■■■■2001年11月下旬新刊■■■
デジタル版「海の器 全12章」
(あとがき・「西風の見たもの」収録)
ゆふまどひあかね著
写真/菅野陽子、カラー挿絵/山口椿、線画挿絵/ゆふまどひあかね
CD-R(Windows &Macintosh ハイブリッド版)TTZファイル形式、
ブラウザソフト T-time(ボイジャー製)付属(音楽CDではありません)
■価格1500円(税別)・1300KB(四六判に換算して300頁以上の長編)
■発行:窓月書房(るな工房内)
〒533-0022大阪市東淀川区菅原7-5-23-7024
TEL&FAX:06-6320-64206
★ご注文は、るな工房(YIJ00302@nifty.ne.jp)
あるいはSUTDIO Fitz(inoue-mne@mvd.biglobe.ne.jp)で申し受けます。
動作環境(かならずご確認ください)
●Windows
CPU:Pentium-100MHz(MMX Pentium-233MHz 相当以上推奨)
OS:Microsoft Windows95/98/Me/NT4.0/2000、Quick Time 3 以上
●Macintosh
CPU:PowerPC搭載 以上推奨、OS:Mac OS 7.6.1(Mac OS 8.1 以上推奨)
Quick Time 3 以上
■編集後記■---------------------------------------------------------
★過日、松本康治さんから新著を頂戴した。読み始めると、文体のノリと感性
の瑞々しさに惹きつけられて、一挙に読了してしまった。そしてこの爽快な読
後感を書き留めて、すぐにも伝えたい気分に駆られた。それで直後に、読後感
を著者にメール送信した。その本が、本誌で山口さんに書評して貰った『ぼく
が父であるために』(春秋社)である。
★松本さんの資質だろうが、観念からではなく微細な体験を丁寧に掘り下げな
がら思想を編み上げる態度には好感をもつ。それと感心するのは、細部への目
配りと記憶力のよさ。前著の『四つの死亡時刻―阪大病院「脳死」移植殺人事
件の真相』(さいろ社)のドキュメントも読み応えがあったが、新著のエッセ
イでも再現力が如何なく発揮されていて、臨場感に溢れた構成になっている。
★松本さんと同世代で子育中の山口さんに、共感をもって読んで貰えると思っ
て書評をお願いした。そして期待通りの、松本さんの感性に交響した原稿が入
稿したという次第。(黒猫房主)
●○●---------------------------------------------------------●○●
『カルチャー・レヴュー』20号(通巻24号)(2001/12/01)
■編集委員:いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英・加藤正太郎・
山口秀也・山本繁樹
■発行人:山本繁樹
■発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX 06-6320-6426
■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
Copyright(C), 1998-2001 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●
■申込・解除・変更は下記の(直送版は、るな工房まで)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/touroku.htmlまで。
■情報提供・投稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。
■本誌のバックナンバーは、
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.htmlにあります。
■本誌へのご意見・ご感想・は、下記のWeb「猫の砂場」(談話室)
または「るな工房」までメールでの投稿を歓迎します。
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
■このメールは半角70字(全角35字)詰めで構成しております。レイアウトの
ズレがある場合は固定(等幅)フォントで修正してお読みください。
■臓器移植法「改悪」に反対します。
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho.htm
◆20010101
『カルチャー・レヴュー』&『La Vue 4号』読者 各位
明けましておめでとうございます。
本年も本誌・紙のご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。
2001.01.01
黒猫房主こと山本繁樹
■■■第2回「合評会」のご案内■■■
■対 象:『La Vue 4号』および『カルチャー・レヴュー』14号
・別冊02号
■日 時:2001年01月13日(土)の午後1時より5時まで
■場 所:難波市民学習センター・会議室
〒556-0017 大阪市浪速区湊町1-4-1 OCATビル4F
TEL:06-6643-7010
■会 費:500円
■定員16名ですので、お早めにお申し込みください。
■問合先:るな工房/Chat noir Cafe′(TEL/FAX:06-6326-6426)
■仮予約は、YIJ00302@nifty.ne.jpまで
■■■ るな工房/@黒猫房出版/Chat noir Cafe′■■■
黒猫房主こと山本繁樹
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
★ペーパー版「La Vue」4号配布情報掲載中(最終更新00/12/19)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html
★Web評論マガジン「カルチャー・レヴュー」14号最新版
(00/12/06最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.html
★ケンキョに書評(00/11/01最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyou.html
★ショート・ショート・書評(00/12/11最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyoufa.html
★臓器移植法「改悪」に反対します。
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho.htm
◆20010702着
■■■第4回「合評会」のご案内■■■
■対 象:『La Vue 6号』および『カルチャー・レヴュー』17号
■日 時:2001年07月22日(日)の午後1時より5時まで
■場 所:るな工房/黒猫房
■会 費:500円
■お早めにお申し込みください。
■問合先:るな工房/黒猫房(TEL/FAX:06-6326-6426)
■仮予約は、YIJ00302@nifty.ne.jpまで
■■■■■■ るな工房/黒猫房/窓月書房 ■■■■■■
黒猫房主こと山本繁樹
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
★ペーパー版「La Vue」6号配布先掲載中(最終更新01/06/30)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html
★Web評論マガジン「カルチャー・レヴュー」17号最新版
(01/06/03最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.html
★ショート・ショート・書評(01/06/25最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyoufa.html
Date: Thu, 1 Nov 2001 21:24:37 +0900
From: "山本繁樹"
Subject: 直送版『カルチャー・レヴュー』別冊03号
■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご紹介ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>
◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
(創刊1998/10/01) (発行部数約1250部)
『カルチャー・レヴュー』別冊03号
(2001/11/01発行)
<対米同時テロル事件特集>
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[20号は、2001/12/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆ブッシュ大統領のアナロジー アルキメデス
◆正義=自己の脱構築 野原 燐
◆「正義」の行方 黒猫房主
◆インフォメーション
---------------------------------------------------------------------
★★★「カルチャー・レヴュー」共同アピール★★★
「私たちは戦争に反対する」
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/re19.html#19-1
//////////////////////////////////////////////////////////////////////
////// 難民緊急救援募金 //////
◆アフガニスタン難民緊急救援募金を開始しました◆
アフガニスタンでは、ここ3年続いてきた旱魃で収穫が充分なかったことに加
え、今回の戦争で非常に危機的な状況です。すでに100万人が自分の家を離れ
アフガニスタン内部で難民化しています。このままこの状態が続けば、今後
500万人が難民になる可能性が出てきています。国連の推定では11月半ばまで
に56,000トンの食糧が必要になると言われています。
シャプラニールは、バングラデシュとネパールで30年近い活動を続けてきた
NGOです。この状況に対して少しでも何かできないかと、アフガニスタン難民
支援募金を開始することにしました。
現在の非常に不安定な状況下、すでに活動を展開しているNGOを支援するこ
とが一番合理的と考え、いくつかのNGOを検討した結果、世界のオックスファ
ムの連合であるオックスファム・インターナショナル(Oxfam International)
を支援することにしました。
皆様からいただいた募金はシャプラニールが責任を持ってオックスファム・
インターナショナルにお届けします。またオックスファム・インターナショナ
ルから定期的に情報収集し、皆様にもその情報をお知らせしていきます。最新
情報はシャプラニールのウェブサイトで随時ご紹介していきます。
http://www.shaplaneer.org/
オックスファムはアフガニスタン国内に140名のスタッフが残っています。
また外国人スタッフは現在パキスタンに待機中です。9月21日には1,500トンの
食糧をアフガニスタンで配給を行いました。現在の空爆で一時救援活動を停止
していますが、できるだけ早いうちに次の活動を開始するチャンスをうかがっ
ています。
今後はアフガニスタン国内、またパキスタン国境付近で以下のような支援活
動を計画中です。
◎救援活動の概要
活動地域:ヘラート州、カンダハル州、バダフシャン州、ハザラジャット州
期間:10月から8カ月
配布物:食糧配給(小麦、豆、食用油)
飲料水の確保
次の耕作のための種の配布
◎救援募金の送り先
1.郵便振替
実施期間:10月17日〜12月末(場合によって延長することもあります)
振込先:00140-1-133937 口座名シャプラニール緊急救援(通信欄に「アフ
ガン難民」とご記入ください)
2.インターネットオンライン寄付
当会ウェブサイトからリンクでご寄付が可能です
http://www.shaplaneer.org/
◎連絡先
特定非営利活動法人 シャプラニール=市民による海外協力の会
〒169-8611 東京都新宿区西早稲田2-3-1 早稲田奉仕園内
TEL 03−3202−7863 FAX 03-3202-4593
E-mail info@shaplaneer.org
Website http://www.shaplaneer.org/
//////////////////////////////////////////////////////////////////////
////// アナロジー //////
ブッシュ大統領のアナロジー
アルキメデス
/////////////////////////////////////////////////////////////////////
とうとうアフガニスタンへの攻撃が始まってしまいました。この文章を書い
ている時点(2001/10/11)で、引き返せる可能性があるのか、はたまた取り返
しのつかない泥沼へと、人類は突入してしまったのか、皆目見当がつきませ
ん。
顧みればWTC事件のあと、アメリカ合衆国とその眷属は、執拗に自陣営を
正義とし、事件の首謀者たちを悪なるテロリズム集団と断言し連呼しました。
わが国の為政者たちも「テロリズムは絶対悪」と主張して臆面もありません。
これらの点に関しては議論する価値が十分ありますが、おそらく別の記事で吟
味されるでしょうから、ここでは触れません。
WTC事件が起きて間もないころ、ブッシュ大統領が行ったスピーチ場面を
TVで見ていて、ふとシェークスピア『ジュリアス・シーザー』を想い浮かべ
ました。あの、シェークスピアにしては得意の駄洒落が出てこない、荘重な悲
劇です。少し前NHKのBS放送で放映されました、チャールトン・ヘストン
がアントニーを演じた短縮版のアメリカ映画のシーンが想起されたのです。戯
曲でいえば第三幕第二場、第一場のシーザー暗殺の場面に続くローマの広場の
シーンです。この場面は、当然のことながら映画では割愛されていませんでし
た。
第二場の冒頭ブルータスがシーザー暗殺(B.C.44年3月)の理由をローマ市
民に弁明します。「シーザーはローマ皇帝に成り上り、諸君を奴隷にしようと
していたのだ。奴隷の身となるか、自由なるローマ人であるか、賢明なる諸君
はどちらを取るか」
戦争で疲弊したローマの市民たちは、なるほどと了解し納得します。
弔辞を宣べるためにアントニーは、そこにシーザーの遺骸を運んで来ます。
第一場の終わりの部分で、ブルータスはアントニーが自陣営につくと信じ、ア
ントニーが弔辞を宣べるのを許可したのでした。この弔辞がシェークスピアの
面目躍如といったところです。アントニーの巧みな弁舌でローマ市民の、ブ
ルータスによって確固としたローマ市民の敵と位置付けられた、シーザーに対
する意識のなかに疑問を起こさせ、次第にアジテーションへと盛り上げていき
ます。始めのうちはブルータスをたたえる詞を述べながら、何時の間にかブ
ルータスに対する疑念を聴衆に吹きこんでいく、という見事な長口舌です。
TVに映るブッシュ大統領のスピーチを見ているうちに、そういうことだっ
たのか、崩壊したWTCビルはジュリアス・シーザーの遺骸であり、ブッシュ
大統領はアントニーなのだ、というアナロジーが脳裏に浮かんできました。思
い起こせば、ブッシュ大統領の声明はアジ演説そのものではなかったでしょう
か。ヒステリックに国民の憎しみを掻き立てるような、アメリカ合衆国は正義
であり、実行犯たちの糸を引くオサマ・ビンラディン一味は悪である、という
言明。アジ演説は証拠を必要としません。
マーク・アントニーがローマ市民たちに示した、シーザーの遺言状は本物
だったのでしょうか。シェークスピアの芝居には、その遺言状を見せろ、とい
うような台詞はなかったと思います。ともあれアントニーもブッシュ大統領
も、スピーチに成功しているのです。「シーザーの遺骸」さえあれば、民衆の
心を動かすのは、案外簡単なことなのかもしれません。結局、ブッシュ大統領
のスピーチの巧みさに感心するべきでなく、シェークスピアの透徹した民衆観
を賞賛すべきだということでしょう。これは、大統領がゴアであっても同じ
だったのではないでしょうか。
最後に、もう一つアナロジーを考えてみましょう。
アントニーは『ジュリアス・シーザー』の後半、ブルータスたちとの戦争で
勝利を得ます。(B.C.42年)しかしこれも束の間、同じシェークスピアの7、
8年後の作品『アントニーとクレオパトラ』で描かれるように、アントニーは
クレオパトラ(7世)に出会います。(BC.41年)因みにクレオパトラはエジ
プト人でなく、ギリシャ人だということを、どこかで読んだことがあります。
アントニーは、クレオパトラの妖艶な色香に迷い、ローマの執政官でありなが
らエジプトに寄り添い、ローマと不和になっていきます。そして最後はローマ
のオクタヴィアヌス軍との戦いで敗れ、哀れアントニーはエジプトに逃れ自殺
します。(BC.30年8月1日)
さて、アフガニスタン攻撃の指揮者、ブッシュ大統領の結末はどうなるで
しょうか?
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(あるきめです)1949年08月31日、東京都に生まれる。千葉県柏市在住。家族
は妻と二人の男児。電気工事会社の人材開発部門勤務、元電気・計装エンジニ
ア。電気は嘘をつかないが真理も語らない。ゆえに文化的嗜好は電気を避け、
多岐亡羊を宗とする。HP http://members.jcom.home.ne.jp/arkhimedes/
E-mail Arkhimedes@lycos.ne.jp
●●●●好評発売中●-------------------------------------------------
「オムレット〜心のカガクを探検する〜」
心の科学研究会G.N.C./ひるます著
A5判・150頁・定価1400円+税
発行:広英社 発売元:丸善出版事業部
http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/COMIC/digicomi15.html
心とは何か? 心はどこにあるのか? 自分はどこにいるのか? 人が生きる
意味とは何か?、など、一般の人々がふと感じる心についての疑問を、最新の
哲学・認知科学・精神医学などの研究成果をふまえ、ストーリィ性のあるマン
ガによってわかりやすく解説。初心者から専門家まで、幅広く読んでいただけ
る快著!!
★斎藤 環(精神科医)
「御著、さっそく拝読させていただきました。なかなかに異様(私にとって
は、最大級の誉め言葉ですが)な作品で、感銘を受けました。よくもまあ、あ
れだけの内容を、漫画という形式に格納し得たものとまず感心しました。
「心の科学」と言いつつも、心理学とも哲学ともつかないジャンルの横断
性、あえて好みを貫かれたであろう文献の偏り(「文脈病」をチョイスするあ
たりが、その最大の証左ですね)、それにも関わらず「速読」できる!という
ハイ・コンテクスト性。ちなみに「オムレット」は、ラカンの「エクリ」の引
用と見ましたが、どうでしょうか?是非とも沢山の読者を獲得して欲しいもの
です。」
★西垣 通(東京大学大学院 情報学環 教授)
「さっそく拝読して、感心しております。ハードな知見がソフトな表現の中に
実にうまく入れ込んでありますね。「自分にとってのリアルとは何か」という
点は、若い人々に大きな関心を呼ぶはずです。今後いっそうのご発展を祈りま
す。」
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////// 対抗言説 //////
正義=自己の脱構築
野原 燐
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9.11にツインタワービルが崩壊した直後に、ブッシュ大統領は叫びました。
「戦争だ!」と。それに追従する勢力は多い。だが、その巨大さはまた、それ
に反対する勢力をももたらす。反対派を便宜的に3つに分けて考えることがで
きよう。
α.どんな戦争も絶対悪である。
β.「国連憲章どおり国連の枠組みでの対応でおこなうべき」という主張が
ある。
この内部にも、小沢一郎や日本共産党などいろいろな差異がある。
γ.アメリカ帝国主義がまず巨大な悪であり、テロリストは仮に悪であるとし
てもより小さな悪である 。「新左翼」などがこれに属する。便宜的に
<反帝派>とする。
以上三派に対し、それぞれ彼らの<神>を想定することができる。
α:WTCビルの死者たち
(これは戦後最も強力な死者だったヒロシマの死者たちを引き継ぐ)
祭司としてはジョン・レノン
β:国家というレベルをまがりなりにも越えた国際秩序、
国家を越えた<普遍性>
γ:パレスチナの死者たち
(最も抑圧されしもの、世界革命の究極の主体に近い)
各派を攻撃したいときには、それぞれの<神>を逆に「・・・にすぎないもの
を絶対の正義の基準として物神化している」という言説によって攻撃すること
ができる。
αの相対化、例:えひめ丸事件の死者による相対化
βの相対化、例:ブッシュの唱える国際秩序と大差ない
γの相対化、例:ビンラディン、タリバンの残虐性、未開性の強調
αへの批判:戦争の否定とは現在の国際秩序の肯定になる。それは国際秩序を
変えていく別の方法が存在しない限り、現状肯定主義になる。アフガンなどの
最貧国の人々は彼らの責任で貧しいわけではないのにいつまでもそれを甘受し
続けるべきなのか。
WTCの死者と、アフガニスタンの死者を比べた場合、わたしたちの生活感覚
が前者とのみ通底していることは明らかである。アフガンの死者とニューヨー
クの死者は対等だ、と言うことは抽象的正しさにしか到達できず、その落差を
感傷性が埋めることになる。
γへの批判:自ら日本人として豊かな生活をおくりながら、頭脳の一部でだけ
現在の世界秩序を激しく批判している。批判は自らに帰ってくる、それをどこ
まで受け止める用意があるのか。それ無しの批判はただの自己欺瞞である。
βへの批判:ビンラディンは悪であるとどう言う立場で言えるのか。いまある
国際秩序はアメリカ中心のもので、パレスチナやアフガンに中立的に接近でき
る国際機関はいまだ成立していない。国家のエゴイズムをコントロールできな
いし、しようとするべきでもない。
最も優れたα(平和主義)とは。
「私が何年ものあいだ主張してきたのは、我々が今日アラブ人として持って
いる主たる武器は、軍事的ではなく倫理的なものだということだ。」(サイー
ド)彼は、アラブ人の立場で、こう言う。我々のうちの何人が、あらゆる自爆
的な活動を非道徳的で間違えていると非難してきただろうか。
見境なく殺そうとする人々の戦闘(それは愚の骨頂である)を一瞬たりとも認
めたり支持したりすることなく、新しい世俗的な[原文イタリック]アラブの
政治を知らしめなければならないのだ。
サイードは自爆テロを否定する、だがそれは、それを悪とし自らを善とする
構図においてではない。(サイード「バックラッシュとバックトラック」)
「9.11大事件に出会って心に地震が起こったほどの衝撃を受けたアメリカの
大衆」のその絶望は決して戦争によって癒されるべきものではない。
最も優れたβ(国連主義)とは。
国連総会は緊急人道援助においては「犠牲者へのアクセスが肝要である」と
宣言し、こういう救援を必要としているすべての国に対し、人道的救援活動を
おこなっている諸組織の活動を容易にするよう呼びかけた。1988年。アフガン
空爆のような「加害者をたたく」のではなく、「犠牲者を救う」ことを考える
方がましである。(p152、最上敏樹『人道的介入』岩波新書)
最も優れたγ(反帝国主義)とは。
松下昇氏の「ラセン情況論」と言うパンフに次のような文章がある。(p8
右)「事件全体の解明とは別に、オウム関係者の逮捕を歓迎し死刑を当然のこ
ととして予測する全ての人〜位置への批判的立場を持続する。
オウム関係者の行為を審理〜評価しうるのは、かれらのやろうとしたことと対
等なことを別の方法で実現していくことを開示している者だけである。オウム
関係者の行為にたとえ非人間的な要素が感じられるとしても、現代の非人間的
な要素の総体との関連において、とりわけヒトラー、スターリン登場から現在
の世界的な内戦状況における無数の死者の群の重さを視野に入れない判断は、
必ず国家によるオウムへの報復(の安易な追認)と真の問題の隠蔽を招く。こ
の社会の全ての矛盾の責任追及との関連なしにオウム責任追求などなしえな
い。」
ビンラディン一派が犯人であったとして、この文章のオウム関係者をビンラ
ディン一派と読み替えて見よう。オウムの場合と違いわりに素直に納得でき
る。というのは、国家の恣意性というのは国内だけの視野では極めて見えにく
いものなのだ。今回の事件はアメリカなどの掲げる秩序というものが先進国向
けのものであり、誰にとっても普遍的なものだとは言い難いと言うことを明ら
かにした。
ここで松下は、現在有る国家による裁きを否定している。しかし、革命の大
義を仮託できる位置に有ればすべてが許されるといった発想はとっていないだ
ろう。無罪なわたしは存在し得ず、自らの被告人性を切り開いていくことが未
来につながる、というのが松下の発想だったように思える。
以上まとめると、
自分が主張するとき、敵を圧倒しようと焦るあまりつい他者に開かれていな
い正義を絶対的なものとして強く押し出し勝ちである。そうではなく、自己の
弱みをも公開することを避けないようにしてリラックスして進んでいくべき
だ。
各派をそれぞれそれが何らかの求心的価値を持っているはずだ、という予断
のもとに判断してはいけない。
以上、わざとではありますが、主張(色分け)のはっきりしない文章でした。
■プロフィール■----------------------------------------------------
(のはら・りん)1953年、兵庫県生まれ、男性。18歳のときペンネーム野原ひ
としを名乗る。その後野原燐に改名。1975年、松下昇氏に出会い以後大きな影
響を受ける。E-mail:VYN03317@nifty.ne.jp
http://members.tripod.co.jp/noharra/
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////// 情 況 //////
「正義」の行方
黒猫房主
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■情況としての「世界内戦/安全保障=危機管理」
9.11の「同時多発テロ事件」は、ドナルド・ラムズフェルド国防長官によっ
て、「新しい戦争」と名付けられたが、それは、前線(戦闘員)/後方(非戦
闘員)、日常/非日常、国家/非国家、敵/味方の境界が不鮮明で、「終戦戦
略」を持たない、「終わりのない戦争」へとアメリカ政府が突入したことを示
唆した(註1)。
つまり9.11事件が象徴しているのは、アメリカを盟主とする世界システムの
中心が襲撃されたことで、情況としての「世界内戦=global civil war」が鮮
明になったということだろうか(土佐弘之が指摘するグローバリゼーションの
スピンオフ:「世界内戦」化)(註2)。だが戦争であるためには、「敵/味
方」が要請されなければならない。そのことをブッシュはよく知っていたから
こそ「この紛争に中立領域は存在しない(In this cnflict there is no
neutral ground)」と全世界に宣言したのだろう。
だが実のところアメリカ政府とその同盟国は、誰が(どこが)敵なのか、よ
く理解(特定)できてはいないのだ。それが、いまだに、ビンランディンを首
謀者とする証拠を公開できないでいる最大の理由ではないのか(註3)。
すでに、自爆テロの実行犯は死んでしまったのであるから、その直接的な
「敵」を「犯罪者」として懲罰することはできない。そこでアメリカ政府とそ
の同盟は、別の「敵」を見つけ出して「正義」を行使(証明)しなければなら
なかった。それが別の理由から当面の「敵」として選ばれた、ビンラディンと
タリバーンであったに過ぎない(という可能性は充分にあるだろう)。
そうしなければ、アメリカを盟主とするグローバリゼーションという帝国の
「正統性」は保証されないだろう。いち早く駆けつけて戦争支援を表明したイ
ギリスのブレア首相は、そのことをよく理解していた。小泉は、少し寝ぼけて
遅れをとった分だけアメリカに尻尾を振りすぎた。それで、憲法解釈を無視し
て「個別的自衛権」から「集団的自衛権」へと一挙にジャンプしてしまったの
だ。これは歴代の内閣がなし得なかった、事実上の「改憲」である。
小泉は、グローバリゼーションを錦の御旗に「世界の常識」と「国際貢献」
を<超法理>として、いわば「無血的」にかつ「違憲的」に「改憲」してし
まったも同然なのだが、小泉を支持する7割の国民のその大半はそのことを、
リアルポリテイックスに、かつ「民主的」に? 支持しているようだ。つま
り、憲法の平和主義によって「国家を開く」という方向ではなく、同盟のパ
ワーポリティックスによって安全保証的に「国家を閉じる」というリアリズム
を選んでいるのだと言える。それはこの間の「通信傍受法」という法案にも端
的に表象されている。
情況はグローバル化に反比例して、ますます閉塞的に後退している。人々に
は、前進的な「平和」よりも後退的な「危機管理としての安全保障」が焦眉の
課題とされている。炭疽菌しかり、狂牛病しかり、災害しかり、「外国人」労
働者しかり、「精神病」者しかり、テロリストしかり、潜在的テロリストしか
り、サヨクしかり、等々。すなわち「市民社会」への脅威は「敵」として認知
され、強大な公安警察の権力化を呼び込んでいるのだ。
■他者なき正義の言説
法哲学者のラートブルフは、「法の理念」として「正義の実現」を言ってい
る。「正義は、真・善・美のように一個の絶対的価値であり、したがって、自
己自身に基礎をもち、より高次の価値から導き出されるものではない」、そし
て正義の中核を「平等」思想に求め、アリストテレスいらいの「配分的正義」
と「交換的正義」に分類して、正義の原形式を配分的正義(各人に彼のもの
を)にあるとし、交換的正義は正義の派生的形式であるとした。
故に正義はポジティブには定義できない。それは、「不正義でない」と相互
承認できる範囲で、事後的にかつ生成的にしか出現しない事態ではないのか。
また、この「不正義でない」と相互承認できる範囲を、相互承認に基づく「妥
当性=法」と捉えると、それは「その都度の正義」を実現してしまうが、それ
では相互承認の対称性から「排除されたもの=他者」は、「不正義」として異
議申し立てすることになるだろう。
それで正義は、より正しくあろうとしてその他者を対称性に回収すること
で、その他者性を否定し「普遍性としての正義」を目指そうとする。だが、そ
れは正義の自己中心性という閉域を拡大強化するだけで、「普遍性という暴
力」によって他者を根こそぎにすることにしかならない。
この正義が言説として、具体的に他者を否定する事例として1999年のコソボ
紛争でのNATOの「人道的介入」は、そのことをよく示している。当時のヨー
ロッパのメディアや多くの知識人たちは、ミロシェビッチによる「民族浄化」
は「ナチスの再来」であるとして、NATOによるユーゴ空爆を支持表明した。
「民族浄化」というレトリックは、「人道的介入」という「正義」を発動さ
せ、その空爆による他者の否定を正当化する言説を組織した。そのような情況
下においてドイツではほとんど唯一その空爆に抗議した、ペーター・ハントケ
という作家がいる。彼は、実際に空爆下のユーゴを二度に亘って訪れ、空爆下
の人々の「現在」を照らし出すことで、この正義という言説の暴力性を炙り出
している。
ユーゴスラビアに対する戦争――それは単にクラスター爆弾やミサイル弾
によって遂行されたのではなく、とりわけ「コンテクスト」と「理念」に
よって成されたのだ。(p175、『空爆下のユーゴスラビアで―涙の下から
問いかける―』同学社、2001年)
■「正義」の行方
現下のグロバーリズムにおける「正義の自己中心性=他者なき正義」は、ア
メリカを盟主とする第4帝国を正統化するだろう。だが、このような「正義」
は脱構築されなければならない。
J・デリダは「脱構築とは正義である」と宣言した。しかしどのようにして
「脱構築/正義」は可能であるのか。「脱構築は、不可能なものの経験として
可能である。すなわち、正義――は現実存在していないけども、また現前して
いる/現にそこにある(present)わけでもない――いまだ現前していない、
またこれまでも一度も現前したことがない――けれども、それでもやはり正義
は存在する(il ya)という場合において、脱構築は可能である」(註5)。
そして「世界内戦化」を終焉に導くのもは、この正義に他ならない。具体的
には、「富の偏在」から世界的な「富の再配分=配分的正義」であるだろう。
あるいは、「能力に応じて働き、必要に応じて配分される」(K・マルクス)
世界の実現であろうが、それはいまだ現前していない。
(註1)「哲学クロニクル」208号
http://nakayama.org/polylogos/chronique/208.htmlで、ラムズフェルドの
コメントが読める。
(註2)土佐弘之「脱領土的テロリズム、ポストモダン帝国体系と世界内戦」
(「現代思想」2001年10月臨時増刊、青土社)
(註3)ダグラス・ラミスは、同時多発テロルの首謀者として、米軍とCIAに育
てられたテロリストがアメリカへの反発や憎悪から攻撃したのであって、大
義名分などもたない「犯罪者」であるとの見解を示している(「中立地域」
「現代思想」2001年10月臨時増刊、青土社)
(註4)グスターフ・ラートブルフ「法哲学入門」(ラートブルフ著作集4『実
定法と自然法』所収、東京大学出版会)
(註5)ジャック・デリダ『法の力』(法政大学出版局)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(くろねこ・ぼうしゅ)1953年、愛媛県松山市生まれ。3社の出版社を経て8
年前に独立。専門書の販売促進から企画・編集・製作を業務とする「るな工
房」を営む。隔月刊誌『カルチャー・レヴュー』および季刊紙『La Vue』編集
・発行人。「哲学的腹ぺこ塾」世話人。Web「Chat noir Cafe′」の黒猫房主
として、リアルの黒猫房開店を模索中(スポンサー求む)。
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////// 「La Vue」8号のご案内 //////
■2001/12/01発行予定日
◆「これからおもしろくなる」
立岩真也(信州大学医療短期大学部助教授・社会学専攻)
◆「将来の公正らしさを保つ」という「超」能力の要求
―裁判官採用人事における思想差別―」神坂直樹(原告)
◆「正義って何なんだ〜!」ひるます(漫画家)
◆「竹田エロス論と<他者=外部>」神名龍子
◆「六条御息所の魂」ゆふまどひ・あかね(作家、女優、チェリスト)
◆「魂の経済学序説」中塚則男(在野研究者)
■協賛:哲学的腹ぺこ塾
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
英出版研究所 http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京)・図書館・文化センター・大学
生協他に配布
本紙は市民の表現を保障する媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
また本紙を安定的に発行するために、賛助会員を募っております。
年会費一口、1000円(5号〜8号までの定期購読料+送料+投げ銭)からの
「木戸銭」を申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321
●●●●インフォメーション●-----------------------------------------
「哲学的腹ぺこ塾」25回例会&「忘年会」のご案内
■日 時:2001年12月02日(日)午後1時より4時まで
4時より「忘年会」(会費は3000円程度を予定)
■テキスト:フッサール『デカルト的省察』の内、第5省察の
「モナド論的相互主観としての先験的存在領域の解明」
(「世界の名著51」あるいは岩波文庫版『デカルト的省察』)
■報 告 者:山口秀也
■会 場:るな工房/黒猫房(TEL/FAX:06-6320-6426)
■会 費:500円
■編集後記■---------------------------------------------------------
★今回の「対米同時テロ/戦争」には、すでに多くの分析や解説が巷を潤して
いるが、情報操作に惑わされることなく、冷静に真偽を見極めて行動したいと
思います。(黒猫房主)
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『カルチャー・レヴュー』別冊03号(通巻23号)(2001/11/01)
■編集委員:いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英・加藤正太郎・
山口秀也・山本繁樹
■発行人:山本繁樹
■発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX 06-6320-6426
■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
Copyright(C), 1998-2001 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●
■申込・解除・変更は下記の(直送版は、るな工房まで)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/touroku.htmlまで。
■情報提供・投稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。
■本誌のバックナンバーは、
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.htmlにあります。
■本誌へのご意見・ご感想・は、下記のWeb「猫の砂場」(談話室)
または「るな工房」までメールでの投稿を歓迎します。
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
■実費のみのオフ版(郵送版)もございますので、お問い合わせください。
■このメールは半角70字(全角35字)詰めで構成しております。レイアウトの
ズレがある場合は固定(等幅)フォントで修正してお読みください。
■本誌は「投げ銭システム推進準備委員会」の趣旨に賛同します。
http://www.nagesen.gr.jp/〈投げ銭フリーマーケット稼働中〉
■臓器移植法「改悪」に反対します。
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho.htm
Date: Thu, 2 Aug 2001 08:24:03 +0900
From: "山本繁樹"
Reply-To: "山本繁樹"
To: "DOKUSYA"
Subject: 改訂版『カルチャー・レヴュー』18号
■18号の訂正と追加記事加えた改訂版を送信しますので、お手数ですが昨日の
送信号は削除ください。
■本誌は<転送歓迎>です。お知り合いの方にご紹介ください。その場合は、
著者・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・
出版権を配慮してください。<無断部分転載厳禁>
◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
(創刊1998/10/01) (発行部数約1250部)
『カルチャー・レヴュー』18号(2001/08/01発行)
発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
[19号は、2001/10/01頃発行予定です]
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■目 次■-----------------------------------------------------------
◆「La Vue」7号のご案内 編集部
◆続 音触りのすすめ ―サティについての空想的試論― 小原まさる
◆教科書の将来と講義の著作権問題 植村八潮
◆水のほとりで ゆふまどひあかね
◆自費出版のご案内◆ロルカ詩祭のご案内◆インフォメーション◆編集後記
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////// 「La Vue」7号のご案内 //////
■2001/09/01発行予定日
◆「日本映画について」(仮題)上倉庸敬(大阪大学教授・美学)
◆「倫理って何なんだ〜!―倫理の共有は可能か?―」ひるます(漫画家)
◆「緑の国のインディアン」小原まさる
◆「新宮市住宅地図調査日誌―新宮で読む中上健次―」村田 豪
■協賛:哲学的腹ぺこ塾
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
英出版研究所 http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店・図書館・文化センター・大学生協他に配布
本紙は市民の表現を保障する媒体として、読者の方々の「投げ銭」及び
「木戸銭」というパトロンシップによって、非営利的に発行しております。
頒価100円は、読者の方々の「投げ銭」の目安です。
また本紙を安定的に発行するために、賛助会員を募っております。
年会費一口、1000円(5号〜8号までの定期購読料+送料+投げ銭)からの
「木戸銭」を申し受けております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321
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////// 音 楽 //////
続 音触りのすすめ ―サティについての空想的試論―
小原まさる
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1.音のクリーニング
「黒猫」(註1)のピアノ弾きだった頃、22才のエリック・サティは「ジム
ノペディー」を作曲した。この清楚な音楽の作者は、「音のクリーニング」が
必要だと言った。彼は音から余分なものを取り去ることを訴え続けた。
19世紀末からの西洋音楽における音の質的な部分の復権の動きは、注目すべ
き出来事だ。オペラや歌劇の時代から音と肉体の復権の時代(バレーの復権で
もあった)への変化の中で、情景描写という仕事に忙しかった音楽は、物語に
従属することを拒み始める。同時に多くの失ったものの回復が始まる。機能和
声法によって締め出されていたバロック以前の旋法が、そして舞踏のリズムが
復活し、さらに民俗音楽や大衆音楽への関心と受け入れが始まる。
この分岐点にサティはいた。そして彼こそが、来るべき新しい音楽の発明者
の一人であった。彼の音楽には、ジャンケレビッチの言葉を借りれば、「雄弁
に対する羞恥、勿体ぶった大仰な話し方にたいする羞恥」を含んだ「表現の拒
否」の姿勢を見ることができる。その「挑発的な素っ気なさ」は、ロマン派の
「何がなんでも表現しようとする意志」に対する彼からの挑戦状だった。
「表現の拒否」は、音の対象化を促進する。そして音は、音自身の美を発見
する。彼は、「黒猫」の次の職場「釘」で出会って友情を深めることになった
クロード・ドビュッシーに、(サティによれば)印象派の画家たちの手法を音
楽で利用するというアイデアを提案した。このこと自体の真偽はともかく、ド
ビュッシーは音響現象を探究した。そして、感情の表現の道具としての立場か
ら自由になった音楽は、「月の光」を音で表現しようとして実は音そのものの
「きらめき」を体験するのだ。これは音楽が、「きわめて感覚的な音芸術」
(柴田南雄)として、新しい形で聴かれる条件を整えて行くことの始まりでも
あった。このことは今日の音楽にも大きな影響を及ぼし続けている。
2.併合された領土
「スイッチト・オン・バッハ」の衝撃から間もなく、富田勲がシンセサイ
ザーを使った最初のアルバムをドビユッシーの作品で構成したことは、不自然
なことではない。シンセサイザー音楽の題材が、バロックからいきなり印象派
へジャンプするのは、ある意味で必然だった(この二つのシンセサイザーによ
るアルバムの間には、別の意味での断層が存在すると思うが)。この時、単音
しか出ないムーグ・シンセサイザーの音を何度も重ねて録音し、音の厚みを出
すことに多くの労力がさかれたが、こうしたサウンド作りへの執着によってこ
そ、商品価値が生まれ、多くの人に受け入れられることが改めて認識されたの
だ。テクノ・ポップの時代には、サンプラーで現実音が、そしてシンセサイ
ザーでノイズを敢えて取り入れた音作り等もされたが、それだけでなく電子エ
コーやコーラス・フランジャーといったエフェクターが不可欠のものとして活
用された。こうして、かつて実験的であった電子音楽で培われた技術は、いわ
ばドビユッシー的サウンド(たぶんドビユッシー自身も後年離脱しようとして
いたものでもあるが)の再発見を通して、商業音楽の製作の場で市民権を得て
行く。そしてこれらの音作りの仕組みは、アコースティックな音楽をも含めた
ポップミュージックのレコーディングそしてライブのための、あたりまえの技
術として応用され、一般化する。
電子技術は、音楽の空間を拡張した。新たなサウンドの開発は、新たな商品
価値を生み出す。現代音楽の産み出した様々な資源も、民族音楽の音色やリズ
ムも、音響であるかぎりにおいて、(細川周平が指摘したように)すべてこの
水準で取り込まれる(ロック音楽は20世紀の前半部分をやり直したかのよう
だ)。どんな新たな素材でも構わない。エフェクターは外界との境界をぼか
す。画像用レタッチソフトのぼかしツールのように、音の「ざらつき」や「へ
り」を隠し、すわりの悪い音も背景に馴染ませる。音は現代音楽や初期のロッ
ク等で瞬間その地肌を見せながらも、最終的にサウンドの空間に取り込まれて
いく。こうしてどのような音もサウンドとして流通させる装置ができ上がった
のだ。そしてこの装置はまた、音楽のグローバル化がサウンドという点を軸に
して進行していく道を確保する。
サウンドは、表現することに躊躇する音楽が、新たに設定した不安定な境界
線の上に成り立っており、それは自らを拡張することによってこそ(かつては
音楽の素材として認識されていなっかたものが、新たに音楽の空間に取り込ま
れるという運動を通して)存在し得るのだ。これはサティによってすでに指摘
されていたことである。
「騒音と音楽の領域をへだてる謎に満ちた境界はますます消滅する傾向にあ
る。音楽家たちは、音の響きのこれほど豊かな未知の領土を併合して、満足を
ますます増大させている。」
サティは、このことについて必ずしも否定的ではなかった。
「(音を発生させる新しい方法は)確実に音楽のエクリチュールを発達させる
であろう。」
音の録音技術の誕生や、機械の自動演奏は衝撃的であった。サティは、スト
ラビンスキーが、これらを新しい要素として音楽にもたらしたことを称賛す
る。新しい音が音楽に取り入れられる時、その空間の「境界」にズレが生じ、
人は音と音楽についての新たな経験を得るからだ。彼はピアノラ(註2)やカ
レイドフォン(註3)もまた、この体験の可能性をもたらすと考えるのだ(重
要な場が、ピアノとピアノラの間に発生する)。だが音楽的響きの開発は、果
てしない響きへの欲望に捕らわれる。サティは、音楽のために新しい音響の開
発をするよりも、音楽そのものを音響として捉え、さらに対象化するという道
を歩む。それはドビュッシーとの離別であり、さらなる「表現からの逃走」
(ブンデル)であった。「音の測定器を手に、私は楽しく、そして確実に仕事
する」とサティは書いた。
3.フィロフォニー
「未来はフィロフォニー(音愛)に属するものとなるだろう」、サティはこ
う宣言していた。マン・レイはサティに敬意を表しつつ、これを写真のために
「フィロフォティー」に置き換えたが、サティは、この時「オブジェ」として
の音を発見したとも言える。ドビュッシーよりはるかに大胆に、音響としての
音楽の領域を最大限に拡大して考えることで、彼は生活の中に特別なものとし
て音楽が存在するのではなく、生活の空間すべてに音楽の素材が存在すること
をついに発見する(音楽はさらに新しい領土を見つけることになる・・・後に
ミュージック・コンクレートは、現実音を素材として使用したが、ピンク・フ
ロイド等もこの手法を応用した)。
こうした新しい状況の中で、聴く行為についての新しいかたちが生まれねば
ならなかった。とめどもなく増殖する音楽の空間を前に、サティがその作品と
ともに開発したのは、人が音を楽しむ新しい方法、新しい音楽の活用法であ
り、これは来るべき時代のために彼が準備したものなのだ。今や素材としての
音の領域の拡大ではなく、音楽に向き合うための、これまでとは違った態度が
必要なのだ。
音は聴く側の状態や聴き方によって姿を変える。また聴くことと聴かないこ
との境目を楽しむこともできる。音に注意を払って聴いてみること(ポイント
をいろいろ変えて)、それに退屈したら音のすき間の音を聴くこと、それにも
飽きたら音のことは忘れる。これらによる気分の変化と音の見え方の変化を感
じること(これはシェイファーやイーノによって再発見される)。こうした体
験を可能にする音楽、つまり、「周囲を取りまく雑多な音を考慮に入れる」音
楽、「それを圧倒したり、自分を押し付けたりするのではない」音楽(家具の
音楽)が実現されなくてはならないのだ(サティがフェルナン・レジェに言っ
た言葉)。サティはこの体験のための空間をいろいろな形で準備した。有名な
「ヴェクサシオン」もその一つである(繰り返しの連続はただの退屈ではな
い。ロックの世代が東洋を再発見したとき、ミニマル・ミュージックが生ま
れ、サティはこの分野でも先駆者として語られる)。
聴くということは、自分が新たな音の空間を受け入れるべく変わることで
ある。それは聴く者の音への感性に変化を与え、新しい音の発見を可能にす
る。しかしそれだけでは新たな音楽の新たな奴隷を生むだけかも知れない。サ
ティは、ある発見の後に人が望むであろうものを、次回には意図的に裏切るよ
うな構成を用いた(彼の新しい作品もまた以前の作品のイメージを覆してい
く)。彼の作品は、人が音と音楽との複雑な境界を持続的(断続的)に感じ、
体験すべく準備された空間である。このことは、彼の作品を演奏する場合に、
さらに重要な意味を持つ。彼のいくつかのピアノ曲は、ピアノを弾く者のため
の特別な音楽だ。不思議な題名のついたこれらの曲は、フォーレのピアノ曲の
ように愛すべき小品でもあるが、それだけではない。美しいメロディーは現れ
そうになると途切れてしまうし、楽譜に書かれた様々な言葉が音楽の中に入り
過ぎないように意識を覚ます。これは楽譜を読みながら鍵盤をたたく人のため
のものであり、「コンサートではほとんど演奏不可能な・・・それ自身で満ち
足りている作品(シャタック)」である。
「サラバンド」(最も初期の作品)では、弾く者は音の響きを確かめながら
演奏することになる。だましだまし響きを探りながら弾く感じだ。これは作品
なのか、作品以前なのか。自分で弾いているにもかかわらず意外な形で変化す
るその響きは、演奏する者に音楽的な隙間を体験させる。ひとつの響きの空間
の後に、予想もしない新たな空間がやって来る。これは主題の展開や変奏では
ない。音楽は始まろうとしては、また新たな始まりを始める。そして弾く者
は、次に立ち現れる快楽を待ち受ける。
この音楽には、音の複雑さはかえって邪魔になる。沢山の音は必要がないの
だ。彼は古いスタイルのイメージを利用した。
「過去の中に《美しいもの》がある。たいへん美しいものが。どんな忠告も求
めることなく自分たちでそれを探そう。」
彼の音楽は大変シンプルな形を手に入れる。「ジムノペディー」、「グノ
シェンヌ」そして「ソクラテス」。しかしこの清楚なスタイルは、ときに誤解
を招きやすい。ドビュッシーによる「ジムノペディー」のオーケストレーショ
ンは、せっかく空いた音の隙間にハープの音をちりばめる(「サウンドオブサ
イレンス」のリミックス版のようだ)。「癒しの音楽」の同じCDに収録され
るほどの同一性はあっても、坂本龍一のピアノ曲は、サティのそれに比べてと
ても情緒的だ。「ノクチュルヌ」や「世紀ごとの時間と瞬間の時間」等のよう
な曲は、その新鮮なスタイルや語法のみが再利用される可能性を持っている。
4.白い音楽
音はもともと自由であるはずだ。雑音を音楽にするのは、そこに居る自分自
身なのだ。しかし、「音楽」として提供されるものには、その消費のスタイル
までが、あの手この手で語られ準備されている。そこからは完全に逃れられな
いかも知れないが、そのお仕着せがましい圧力から自由になろうと望み、うん
ざりするほどの音楽から遠ざかること。サティにとって、そのために重要なの
は、「自分を新たにしつづける」(ケージ)ことだった。
作曲とは、聴き(そして聞く)者が、そして演奏する者が、それぞれのやり
方で音楽の新しい体験をするための空間の準備である。彼はそのための仕掛け
を考案しては、物議を醸す。この場合、作曲者はその体験の中身ついて保証は
しないし、そんなことはできない。それは用意された音響の中に浸るのではな
く、聴く者や演奏する者自身が、音が音楽になるかならないかの、その生成の
場に立ち会うことである。この体験の中では、その体験者だけが、その世界の
中心に居る。
それは「眠り」というより「恍惚」の、「癒される」のではなく、自らの中
に新たな世界と新たな自分を発見していく体験である。そしてそれは音楽の誕
生の秘密についての体験であり、その美しさの訳を教えるものなのだ。彼が
ジャズやグレゴリオ聖歌のように、無名性の中に喜びと恍惚をもたらす音楽を
愛していたのはこのためだ。だからといって彼はもちろん中世への回帰を求め
たのではない(「わたしは12世紀の人間ではありません・・・」)。
他者に向かって感情を表現するための音楽、あるいは音響としての豊かさを
求める音楽でもなく、自分自身が音楽の楽しみを創造するための音楽、彼は
「白い」音楽を夢見る。
「まっ白な、ほんとうにまっ白な線状の小品を書きたい。」
それはつつましく、それだけで人が自らの中に喜びを感じることのできる音
楽である。フォーレと共に「日常生活の白いオクターブ」(ジャンケレビッ
チ)を共有しつつも、それはすでに憧れの音楽かも知れない。
(註1)モンマルトルにあった文学酒場 Chat Noir 。ここに多くの芸術家が
集まった。
(註2)米国のエオリアン社の自動(演奏)ピアノにつけられた商標。パンフ
レットには「ピアノラ ピアノ」と書かれた。
(註3)楽器屋の父を持ち、万華鏡の発明に刺激を受けた英国の物理学者
チャールズ・ホイートストンが、1827年に発表した音の振動を視覚的なパター
ンとして示す装置。「『冷たい曲』を書くのに、私はカレイドフォン記録装置
を利用した。」とサティは書いているが、文脈から見て、思いを伝えるために
想像上の行為として述べたと思われる。なお、ホイートストンと関係のあった
人物に、コンピュータ・プログラムの創始者といわれるエイダがいる。ちなみ
に彼女は、プログラムが音楽の制作に活用されるであろうことを想定してい
た。
*記載のない引用はすべて「エリック・サティ文集」オルネラ・ヴォルタ編
(岩崎力訳)による。その他の引用文献
『夜の音楽』ヴラディミール・ジャンケレビッチ(千葉文夫他訳)
『エリック・サティ』マルク・ブンデル(高橋悠治・岩崎力訳)
『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル
(青山マミ訳)
『サティとプラカードの音楽』R・シャタック(岩佐鉄男訳)
『西洋音楽史4(印象派以後)』柴田南雄
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(こはら・まさる)某短大で、コンピュータ・ネットワークのシステム管理を
仕事にする傍ら、コンピュータのための(同時に人のための?)音楽の記述方
法を思案中。また、NGO活動を経て、ジンバブエの教育関係者との支援のた
めの共同研究に参加して(使われて)いる。
●●●●インフォメーション●-----------------------------------------
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////// 出 版 //////
教科書の将来と講義の著作権問題
――MIT OCWの投げかけた波紋
植村八潮
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アメリカ発のITニュースには驚かされることが多いが、マサチューセッツ
工科大学(MIT)が4月に発表したプロジェクトには本当に驚いた。これから
の10年間で、ほとんどすべての講義内容をインターネットで無料で公開すると
いうのである。
MIT OpenCourseWare(OCW)と名付けられたこのプロジェクト
(http://web.mit.edu/ocw/)は、2001年秋にスタートし、最初の2年半でWeb
を利用するためのソフトウェア開発と500以上の講義内容を準備する。最終的
には多岐にわたる分野で2000コースの開設を目指すという。利用対象は当然、
MITのみならず世界中の学生や教育機関である。
eラーニングあるいはバーチャル大学が話題になるにつれて、二つのことが
気になっていた。まず、教科書出版のビジネスモデルに変化が訪れること。さ
らに、教科書や講義の著作権の所在が改めて問われることになるのではない
か、ということである。話題を耳にしている人も多いと思うが、詳細をぜひ
Webで確認していただきたい。このプロジェクト、出版界にとってもかなりの
問題を提起したのではないかと思う。
◎知のパブリケーションと私有化
「出版」とは、もともと個人の所産による発見や知を、文字どおり「公のも
のにする」(パブリケーション)ことだと考えている。生み出され流通するこ
とで公有化された知識は、多くの人たちが学ぶ機会を得ることで、再び個人の
ものとなって(privatization)、初めて循環することになる。しかし、あまね
く公開された知を個人が獲得するためには、歴史的にも地域的にも対価が要求
されてきた。OCWというプロジェクトが「知の私有化(privatization)」である
というのは、ここに意味がある。
確かに「出版」は知の流通を担っているが、その知の獲得のためには本を買
う必要がある。同様に教室で学ぶには授業料を払う必要があるし、大学で生み
出されたばかりの知は研究室でしか知ることができない。インターネットの世
界では、知のパブリケーションと私有化が同時に可能であり、両者は同義的で
すらある。MITが「前例のない挑戦」に臨んだ結果、教育コンテンツは無料と
いう常識が定着するかも知れない。
◎出版界へ押し寄せる津波
OCWは他の大学がコンテンツを公開することのモデルとなり、将来、教育の
ための巨大な資源ができる、とMITは考えている。しかし、単位認定も教員と
の交流もないOCWはバーチャル大学ではない。MITで学び卒業したというレッテ
ルがほしい者は、今後とも大学の門をくぐることになる。学位授与機関として
の権威を保つことで、大学ビジネスは不変である。
一方、質の高い教科書や講義録がフリーで手に入るということは、紙の教科
書出版社が打撃を受けることは間違いない。MITの教授の一人は香港で過ごし
た少年時代に、父親からもらったMITの教科書にインスパイアされた体験を
持っている。本の力を知っている彼は、Webの時代にふさわしい方法で、自ら
の体験を生かそうとしているのである。
彼らの挑戦は「一石を投じる」なんてレベルではない。まさにビッグウェー
ブが高等教育の壁を越えて出版社にも押し寄せてくるだろう。
◎講義の著作権は誰のものか
大学の先生が原稿を書く場合、大抵、昼日中、研究室で学校備品のパソコン
を使って書いている。特に教科書の場合は、執筆に先立つ何年間の授業での成
果、つまり講義ノートをもとにしている。教員は教育することで大学から給料
をもらっている。さらに言えば本を書くことだって研究業績になるわけで、そ
れも給料対象である。普通の感覚からいえば、これは「法人著作」だと思うの
だが、一般には、大学教員が教科書を執筆し著作権者になることは教員の自由
であり、日本でも欧米でも問題になることはない。
では、「講義の著作権は誰のものか?」「バーチャル大学における教科書の
著作権は教員にあるのか?」となると、どうだろうか。紙の教科書ならば教員
のもの。しかし、教員が所属する学校以外で講義を受け持つ場合、つまり非常
勤講師となる場合に大学当局の許可が必要なことも、日米の共通事項である。
つまり講義は一般講演とは違い、大学の管理下にあるのである。
すでにアメリカでは、オンライン授業の著作権を争う事件が起きている。
ハーバード大学法学部アーサー・ミラー教授が、大学で行っている講義のビデ
オ録画をコンコード・ロー・スクールというバーチャル大学に売ったことで、
大学当局から規則違反と抗議を受けたのである。著名な法学博士として知られ
たミラー教授の講義ビデオは、高い商品価値を持っており、大学当局も別な講
義をすでにビデオ化して販売していた。原稿料や講演収入に比して講義ビデオ
は莫大な売上げであり、個人収入となることに大学も見過ごせなかったといわ
れている。
半年後の昨年5月、大学は「他機関でのオンライン授業も許可を有する」と
いった新たな指針を出すことで決着した。おそらく、これが全米大学の基本方
針となっていくのではないだろうか(参照:吉田文「カレッジマネジメント
106」)。
◎講義と教材と教科書の一体化
そもそもオンライン授業のコンテンツは、講義なのか教科書なのか。これに
ついてメディア教育開発センター助教授の吉田文氏は、講義とも教材とも教科
書とも呼べるものであり、デジタル技術による一体化状況が起きていると指摘
している。とすれば、オンライン授業の著作権問題は、教科書出版ビジネスの
変化とともにWebがもたらした新たな問題といえる。
OCWが「講義をフリーにする」と決めるさいに、ハーバード大学での事件が
念頭にあったことは想像に難くない。その上でMITの教員が著作権をどう考え
ているのか気になるところである。事実、教授会では熱狂的な賛同とともに、
講義内容を有料で提供することから得られる富を手放すことはない、という反
論もあったという。
その富を手放すのは大学当局なのか教員個人なのか。どのような議論があっ
たのかはうかがい知れないが、プログラムのオープンソース化に対し発展的な
貢献をしてきたMITの結論は、フリーと出たのである。OCWの発表から2ヶ月
後、早くも二つの民間財団からあわせて11億ドルの寄付が決定した。OCWの収
益モデルはMITの思惑通りに動き出している。(yashio@jim.dendai.ac.jp)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
(うえむら・やしお)東京電機大学出版局・編集課長。「出版の志はデジタル
で生かされる」と思っています。日本出版学会 理事/事務局長/デジタル出
版部会長、JIS符号化文字集合調査研究委員会、画像処理技術標準化調査研究
委員会等委員。『印刷雑誌』『新文化』等に、デジタル出版に関するコラムを
連載中。E-mail:yashio@jim.dendai.ac.jp
http://www.dendai.ac.jp/press/ 「ネットワークと出版」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ペ ヨ ト ル 興 亡 史――ボクが出版をやめたわけ 7月20日刊行
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■今野裕一(ペヨトル工房主宰)ほか著 A5判並製/244頁/本体2000円
◇帯文:山形浩生 ◇装幀:ミルキィ・イソベ
■発行:冬弓舎(http://thought.ne.jp/ ) 地方・小出版流通センター扱
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年代の文化状況を知りたい人に。出版を始めようと思っている人に。出版を
やめようと思っている人に。そして、すべての「本」を愛する人たちに!
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////// ダンス/パフォーマンス //////
水のほとりで
ゆふまどひあかね
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ムーヴマンを練り、それを肉体で表現するときに、わたくしはいつも風が樹
木に戯れ、葉がそよぎ、また水の流れるような動きでありたいと念じます。植
物や空の雲、海の姿など、自然の姿はいつものびやかであり、また簡潔に、
いっときもとどまることなく流動を続けながら、同時に静謐な美しさにあふれ
ています。流転してやまぬものと静寂を紡ぐものと、反する二相が矛盾なく存
在し、悠久を織りなす摂理に、胸うたれるのでした。
卓越したバレエダンサーの動きを見ると、わたくしには踊り手のテクニック
や様式の違いを超えて、そのムーヴマンの優雅が、まるで水面に拡がる波紋
や、風になびく花々の描く流線と同じであることに目をみはります。地上に縛
られた人間の動きを超えたしなやかさ、みずみずしさを体現するダンサーたち
はいずれも、わたくしなど手の届きえぬお月さまのようです。
現代バレエの巨匠であるジョージ・バランシン、またその一番弟子である
ジェローム・ロビンズは、古典的な物語バレエと袂(たもと)を分かつ思想を
掲げながらも、自身の作品を踊るダンサーは厳しく選別し、クラシックの高度
な技術と、均整のとれたしなやかな容姿の持ち主であることを要求しました。
牧神(パン)の笛 鬱する午後の戯れに
消えをあやぶむ そのささめきよ
さらに、ロビンズがあるインタビューで語った言葉を、わたくしはしばしば
思いだします。率直で無駄のない態度……余分な挙措が日常にない人格が望ま
しい。そうすれば、舞台でわざとらしい動作を避けられる……。
ムーヴマンは、すべてそのダンサーの心からなるもの、というナタリア・マ
カロワの吐露と思い合わせて、せめてわたくしにかなう洗練とは、心を陶冶
(とうや)することであろうか、と噛みしめるのです。
平素、わたくしはひとり芝居に舞踊の要素を組み合わせたパフォーマンスを
中心としていますが、先天的に柔軟性と感情移入能力に恵まれたおかげで、上
半身はほとんど自動的に、芝居の台詞や音楽のもたらす情緒に感応して、自分
の意思以上に動いてしまうようです。芝居の狂言回しである山口椿からは、た
びたび抑制を諭(さと)されますが、しばらく前まで、わたくしは音楽や台本
の影響によってひとりでに突き動かされる自身の肉体の反応、声の調子を自制
することができなかったのです。
とはいえ、芝居においてどれほど激しい感情をたぎらせていようと、演技者
であるわたくしは冷静で、終始醒めたまなざしを失うことはありませんでし
た。このような沈着を保つことができるのは、芝居の所作に台詞のあてぶりで
はなく、バレエに習った抽象表現を心がけたおかげかもしれません。気が緩む
と即座に崩れてしまう非日常的なムーヴマンを連続させるには、台詞を喋るの
とはまた違った精神集中が不可欠でした。理性を失わないのに、自分のからだ
の反応を制御できない不思議さ妖しさに、わたくしはしばしば考えこんだもの
です。
明る妙(あかるたへ)
言(こと)通はざる深みより
さし出づる手の白き舞姫
しかしながら、上半身よりさらに難しいのは下半身のコントロールでしょ
う。それは、足が高くあがるか、回転やジャンプができるかといったテクニッ
ク以前に、基本的な歩き方そのものに演技の核心はあると思います。
さきにロビンズの「率直で……」という言葉を引用しましたが、見る目のあ
る者にとっては、日常のなにげない空間移動の姿に、相手の隠れた心の姿を、
いくばくでも察することができるのかも知れません。
繰り返し同じ人物をひきあいに出すのは恐縮ですが、ナタリア・マカロワは
ワガノワ・アカデミーの生徒だった頃、教師たちに丹念に「役柄にふさわしい
歩き方」を教えられたそうです。すなわち、ジゼルにはジゼルの、オデットに
はオデットにふさわしい歩き方があり、それを可能にするためには、演じるヒ
ロインの内面を理解しなければなりません。
歩き方をめぐり、マカロワは感に耐えたように述べています。かつてガリー
ナ・ウラノワ演じるジュリエットが黒いマントをひるがえし、ロミオに会うた
めに走ってゆくシーンには、少女のひとりよがりな情熱、さらに来(きた)る
べき悲劇の予兆さえ見てとることができた、と。そのいっぽうで、完全主義者
マカロワは、世界最高の精鋭ぞろいのキーロフバレエ団の朋輩について、おど
ろくほど厳しい言葉を残しています。「たいていの者は、わざとらしい歩き方
しかできないのだ」
影萎(しな)ひ 風ひくき夜の奥津城(おくつき)に
さ青のジゼル さまよひ出づる
まことに卑小ながら、わたくしはマカロワに従い、演じる時には、役柄の内
面にふさわしい歩き方を努めます。ひとり芝居ですから、たいていの作品で複
数の人物を演じ分けるのですが、歩き方、ひいては姿勢についての示唆は、大
変貴重な教えでした。例えば、知的な女の登場から淫蕩で大胆な歩みへ、さら
に結末を予知しつつ、愛憎錯綜した万感籠もる姿、と自分の主要な演目「ロベ
ルトは今夜」の三場の展開を、わたくしは明確に意図して歩きますが、さてど
れほどの成果が得られていることか。腕ほどに、わたくしの両足は自在ではあ
りません。ともすると、地のままの粗雑なわたくしが無防備に現れてしまうよ
うです。
役柄に過不足ない的確で自然な歩き方、それもやはり心のありかた次第と思
います。自然に、というありふれた修辞を、わたくしは大切にうけとめていま
す。なぜなら、森羅万象を擁する自然は、常にアムヴィヴァレントな存在であ
り、わたくしにとって真に迫った表現とは、人物の基本的な性格把握の上に、
この二律背反を――それを演技として表現するか否かはさておき――すくなく
とも内心において弁え、さながら地下をゆく隠れ水のように表にあらわに見え
なくとも、その潤いによって、芝居全体をひきしめ、陰影を彫あげ、豊かな舞
台幻想を生み出す、というものなのです。
表現についてのわたくしのこのような意志は、いたらぬ身には過剰にすぎる
かも知れません。けれどもなろうことなら、とるにたらぬささやかな芝居で
あっても、台詞に語られぬわたくしの思いが、ムーヴマンとなって空間にあふ
れ、それをお客様に伝えることができたなら、と。
手にあまる思ひ知らずや
はやりかに爛(た)けゆく夏の影まばゆきを
■プロフィール-------------------------------------------------------
(ゆふまどひ・あかね)作家、女優、チェリスト。山口椿(作家・画家・チェ
リスト)の主要な作品を全てひとり芝居で演じる。「ロベルトは今夜」「薔薇
とナイチンゲール」「サロメ」など。作家としての処女作「海の器」が、スイ
ス・アリエル社より仏独伊三ヶ国語で翻訳中。今秋、デジタルブックとして
STUDIO Fitzより日本語版原作を販売予定。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~maoniao/tubaki/01.html
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★★★自費出版のお手伝いをします。★★★
るな工房/黒猫房/窓月書房が、あなた好みの造本で編集・製作いたします。
革装・フランス装などの