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『カルチャー・レヴュー』

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/

『カルチャー・レヴュー』2007年
『カルチャー・レヴュー』2006年・3
『カルチャー・レヴュー』2006年・2
『カルチャー・レヴュー』2006年・1
『カルチャー・レヴュー』2005年・1
『カルチャー・レヴュー』2004年・4
『カルチャー・レヴュー』2004年・3
『カルチャー・レヴュー』2004年・2
『カルチャー・レヴュー』2004年・1
『カルチャー・レヴュー』2004年
『カルチャー・レヴュー』2003年
『カルチャー・レヴュー』2002年
『カルチャー・レヴュー』2001年


 *以下は立岩に送っていただいたものです。
  直接上記のホームページをご覧ください。

◆20001201
Date: Fri, 1 Dec 2000 20:22:45 +0900
From: "山本繁樹"
Reply-To: "山本繁樹"
To: "YAMAMOTO"
Subject: 直送版『カルチャー・レヴュー』14号

■本誌は<転送可>です。お知り合いの方にご紹介ください。その場合は著者
 ・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・出
 版権を配慮してください。無断転載禁。
■申込・解除・変更は下記の(直送便は、るな工房まで)
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/touroku.htmlまで
■情報提供・投稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。
■本誌のバックナンバーは、
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.htmlにあります。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)               (発行部数約1250部)

 『カルチャー・レヴュー』14号(2000/12/01発行)
    
      発行所:るな工房@黒猫房出版/Chat noir Cafe′
        [15号は、2001/02/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
●本誌は●哲学/思想●文学●詩●映画●舞踏/ダンス●演劇●音楽●アート
●コミック●生活●医療福祉●教育●スポーツ●インターネット●フェミニズ
ム●セクシュアリティ●風俗●出版などをテーマに、文化情況の〈現在形〉を
各執筆者のトポス=視点から批判=論評を試みます。そして表現を通して「他
者」との交差、あるいは「視座」の交換=相互性を志向します。また、季刊紙
『LaVue』と相互リンクしています。

■目 次■-----------------------------------------------------------
◆第2回「合評会」のご案内                  編集部
◆いま、なぜそしてどんな途上国支援が必要か         岩淵 剛
◆オネエな生活                       大北全俊
◆奉祝活動のご報告                     高橋 靖
◆編集後記
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////// ご案内 //////

  ■第2回「合評会」
  ■対 象:『LaVue4号』および『カルチャー・レヴュー14号』
  ■日 時:2001年01月13日(土)の午後2時より
  ■場 所:未定(間近にWebにてご案内します)
  ■会 費:500円
  ■予 約:前日まで可能ですが、お早めにお申し込みください。
  ■問合先:るな工房@黒猫房出版/Chat noir Cafe′
       仮予約は、こちらまで、YIJ00302@nifty.ne.jp
       TEL/FAX:06-6326-6426

/////////////////////////////////////////////////////////////////////
////// 途上国支援 //////

        いま、なぜそしてどんな途上国支援が必要か

                              岩淵 剛
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

1.額を取ってみると、この10年間ほど日本のODA≪政府開発援助≫は、世
界一を続けてきた。
 今年2000年度で見ると、約1兆5,000億円である。赤ん坊を含めて日本人一人
あたり10,000円以上の税金をそのために払っていることになる。ODAの供与
国は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの発展途上国である。日本の場合ア
ジア諸国への供与の比率が高い。しかし日本の援助のあり方は、国内外からい
ろいろ批判されてきた。絶対額は多いが、それでも経済力の大きさからいえば
GNP比率はまだ低い、無償供与比率が低い、ひも付き援助が多い、情報が公
開されないなど。日本国外務省は、それらの内外の批判を意識して、ODAの
あり方を急速にいわゆるグローバルスタンダードに変えてきつつある。

2.われわれも最近、公立病院の新築移転に伴って廃棄処分になった病院用
ベッドなどを、南部アフリカのジンバブエ共和国に贈った。関連医療器具を含
めて大型コンテナ4、5台分であるから、かなりの量である。この輸送用にO
DAの一部である外務省の「草の根無償供与資金」が出ることになった。リサ
イクルを兼ねた援助と言うことで助成の対象になった。

3.今地球上に住む約60億の人口のうち、五分の一が絶対的貧困状況≪一日1
US$以下の生活≫にあるとされる。北の先進国に対する南の発展途上国の経済
的・社会的格差は、IT化を伴う世界経済のグローバライゼーションのもと
で、ますます大きなものとなりつつある。しかも増大する南北格差のもとで、
地球環境の危機がますます深刻になりつつある。途上国の貧しい人々は、先進
国の人々の便利で豊かな「文明生活」のために、ますます貧しくなりながら底
の知れない危機的な地球環境悪化につきあわされている。

4.どうしたらよいのか。文明社会に生きる文明人は、生活の「利便と豊か
さ」追求を少し自己抑制しないといけない。そのため「大量生産・大量消費・
浪費」の生活様式を「少量生産・節約・循環」のそれに本気で変えないといけ
ないだろう。その節約分を、〈まじめに〉途上国の人々の貧困の緩和・解決に
役立ててゆかないといけない。この〈本気とまじめさ〉が大切である。我々自
身の無駄の多い生活が何を作り出しているかを、われわれは本気で考えていな
いのだ。まじめに節約分を途上国の貧困解決に役立てようと思ったら、やれる
ことはいっぱいあるのにやっていないのだ。

5.アメリカもイギリスも、最近、これまでの途上国援助のあり方を見直す必
要を述べた報告書を出している。日本政府もその線に沿って手直ししている。
いわく、世界で最も貧しい人々が多くすむサハラ以南のアフリカ諸国に、過去
10年ほどそれ以外の途上国の3倍以上の援助資金を投入してきたにもかかわら
ず、絶対的貧困状況は改善・解決されていない。それは何故か。それは、貧し
い人々が貧しさから抜け出すことに実際に役立つ効果的な援助をしてこなかっ
たからである 貧しい人々自身が、貧しさから抜け出そうとする努力の主役で
ある。援助者は、専門家を含めてあくまで脇役なのであって、思い違いをして
はいけない。

6.ではどうすればよいのか。現地の貧しい人々自身がそこから抜け出そうと
する努力を、地球環境問題をこれ以上悪くさせない仕方で援助すること、つま
り「持続可能な人間開発・社会開発」援助である。そのためには、自分の国で
公害・環境破壊を起こさないだけでなく、公害輸出、環境破壊を認めずに貧困
から抜け出そうと努力する途上国の人々のことを知らなければならない。貧し
さゆえに困難になかなか立ち向かえない人々を、時に励まし時に手を携えるこ
とのできる援助する側の人間がいる。途上国支援のNGOが、途上国援助の主
役にならないといけない。これはコペンハーゲン社会開発サミット(1995年)
以来の国際的合意である。にもかかわらずわが国のODA資金のNGOへの配分比率
は驚くほど少ない≪1997年度で総ODAの0.1%≫。これを抜本的に高める必
要がある。そのためにも、途上国支援のNGOをもっと増やししかも大きくす
る必要がある。

7.「少量生産・節約・循環」のライフスタイル採用と並んで、その節約分を
途上国支援のNGOへの何らかの参加・協力に向けることを、市民のごく普通
のライフスタイルにする必要がある。そんなライフスタイルを〈本気でまじめ
に〉生きる市民が、グローバルシティズン≪地球市民≫であろう。その点では
北欧諸国の人々は、日本人よりかなり〈本気でまじめ〉である。たとえばデン
マークは、国会で決議してGNPの1%をODAにまわしている(ちなみに日
本は、GNPの0.28%、1997年)。私の本音を言えば、北欧諸国の援助水準で
もまだまだ足りないのである。それだけ、英・独・仏をはじめとした、ヨー
ロッパ列強による植民地支配時代以降の南北格差の蓄積が大きい。西欧文明世
界の豊かさや繁栄は、全地球的な広がりの中で体制化している南北格差の結果
に他ならない。この南北格差体制がどうすれば多少とも改まってゆくのであろ
うか。

8.国連機関などで働く国際公務員にも各国の国家利益のために働く外務公務
員にも出来ない真の意味で全人類の利益のために働くということが、関連する
NGOにかかわる世界市民にはできることを、いくつかの分野でのNGOの活
動が証明しつつある。「地雷禁止条約」の締結、「地球温暖化防止」に関する
京都会議でのある種の合意形成は、近年での目覚しい例である。圧倒的な南北
格差体制、その結果としての人類の五分の一の絶対的貧困を急速に改善・克服
することは、全人類の利益になることである。国家利益の壁を越え、全人類の
利益の実現を求めることが、途上国支援にかかわるNGOには可能である。私
は、〈本気でまじめに〉途上国支援NGOにかかわる世界市民の活躍に、そん
な夢を描いている。

9.あらゆる分野、あらゆる段階の国際開発教育、国際理解教育は、国家利益
優先主義を超えて、人類共通の利益優先に変える必要がある。国益などどうで
もいいとはいわない。一度知った文明生活の豊かさと利便を、先進国の人々に
放棄することを求めることは難しい。無駄を省き節約した分を、絶対的貧困か
ら立ち上がろうとする人々の経済社会開発支援に確実につなげることが、世界
市民に求められる。そのためにはどうすればよいか。国連機関・政府機関を含
めて、つなげる営みを他人任せしないことである。国連機関・政府機関を敵視
せよと言うことではない。存立目的から生ずる存在意味の違いとその限界を良
く知る必要があると言うことである。それらと協力しながらも、それらの限界
を超えるところでの役割が、今日では大きい。では、国連機関・政府機関の限
界を超える役割とは何か。一言で言えば、全人類的社会連帯の実現と言うこと
である。言い換えれば、南北共生の実現である。しかし共生とは、南北の格差
体制に目を瞑って、ともに生きることをいうのではない。格差の結果貧困に苦
しむ人々の悩み・苦しみ・悲しさへの人間的共感、そこから貧困の改善・克服
に向かおうとする人々の努力に対する人間的連帯、それを共生と理解したい。
10.このような人間的共感・人間的連帯は、途上国の人々の貧困による困難を
体験的に知らないことには、生じようが無い。ともかく怖がらずに現地に出か
けてみて欲しい。人々の暮らしに直接・関節に触れてみて欲しい。何が足りな
くて困っているのかを、体ごと感じて欲しい。年間1,500万人とも2,000万人と
も言われる海外旅行に出かける人々がいる。海外旅行に出かける人々には、旅
行先に途上国を選び、その中に貧しさに苦しむ人々との交流のスケジュールを
加えて欲しい。そのような場は、われわれ先進国人が教育される場でもある。
全地球的に見るなら、われわれ先進国人がいかに人間的共感にも人間的連帯に
も欠けた事をやっているかが、〈本気でまじめに〉分かることを余儀なくされ
る。何もやらないことが〈本気でまじめに〉恥ずかしくなることが大事であ
る。そしてその原点を大事にしながら、人頼みにしないで、自分で節約した金
と時間と労力を用いて、地球的広がりでの人間的共感・連帯の営みに参加する
ことである。この参加は、国内では最近とみに得にくくなっている人間的共感
・連帯の心を実感できる貴重な機会でもある。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(いわぶち・つよし)1942年宮城県生まれ。名古屋大学大学院文学研究科博士
課程終了。専門は哲学・倫理学、科学史。現在岡崎女子短期大学教授。デン
マーク研究会代表。アフリカ支援NGOエコークラブ顧問・常任委員。ジンバ
ブエに病院用ベッドを贈る会代表。日本科学史学会東海支部代表。
http://www.sun-inet.or.jp/~masaru/zim/index.html

●●●●「La Vue」4号の内容(00/12/01発行)●-----------------

 ◆インタビュー「生命学者の森岡正博さんに聞いてみよう。
  ―大切な「本人の意思」原則―臓器移植法「改正」に異議あり!」
   森岡正博(大阪府立大学教授)
 ◆「書物受難の時代」福嶋 聡(ジュンク堂池袋店副店長)
 ◆「シドニーは燃えているか、あるいは日本〈的〉サッカーの行方」
   山口秀也(フリランサー)
 ◆「横に立つ―演劇を遠く離れて」桃田のん(演出家)
 ◆「千早振る『うつ病者の手記』三年目」
   時枝 武(人文書院刊『うつ病者の手記』の著者)
 ◆「言葉という原罪―「癩」の表記について」森ひろし(フリーランサー)

■広告協賛:図書出版・冬弓社 http://thought.ne.jp/
      文研出版 http://www.shinko-keirin.co.jp
      図書出版・ジャパンマシニスト社
      図書出版。アリーフ一葉舎
      紀伊國屋書店出版部 http://www.kinokuniya.co.jp/
■協賛:哲学的腹ぺこ塾
■後援:ヒントブックス http://homepage1.nifty.com/hint-yf/
英出版研究所 http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センター他に配布

 なお本紙は、読者の方の評価による「投げ銭」及び「木戸銭」というパトロ
 ンシップによって、運営をめざすスタイルを志向しています。頒価100円
 は、読者の方の「投げ銭」の目安です。
 また本紙の賛助会員として一口年会費1000円(1号〜4号までの定期購読料
 +送料+投げ銭)を「木戸銭」として申し受けております。本紙を確実に入
 手していただくには、この会員になられるのが一番です。

■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321

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////// ジェンダー //////

              オネエな生活 

                             大北全俊
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 「オネエって何?」。そう疑問に思う人もいると思います。とりあえずは、
「男」の人なのに、「女っぽい」話し方、仕草をする人ということにしておき
ましょう。
 先日、宝塚で「メンズ・センター・ジャパン」という大阪のメンズリブ団体
が主催する「男のフェスティバル」という催しがありました。「メンズ・リブ
とは?」という疑問もあるかと思いますが、これも「男の人」が「男らしさ」
から降りるために自分を見つめ直す運動、ということにしておきたいと思いま
す。もう一言いえば、「男」であるがゆえに「男らしくする」ことで自分も、
人(とりわけ女の人)も、苦しめてしまっているのではないか、という反省か
ら「男らしさから距離をとって楽になろうよ」と呼びかける運動とも言ってお
きましょう。わたしは、メンズ・リブに関わっているわけではないのですが、
何かのつながりで、その催しで一つの分科会(要するにお話をする場)を主催
することになりました。正確には、この分科会をきっかけに知り合った二人の
ナイスな「オネエ」と組んで「オネエ」3人組で主催しました。そこで、メン
ズ・リブの運動に関係するのかどうかあまり考えることなく、「オネエ」につ
いて話をしてみたいと思って、『オネエな生活』と名付けて、参加者の人に自
分が「オネエ」なら自分の生活を、「オネエ」でないなら、自分の生活で出
会った「オネエ」の人のことについて話をしてもらいました。そこで、自ら
「プロのオネエ」と自負する参加者が、こう言いました。「オネエっていうの
はパロディよ」。

 解説しましょう。さっき、「オネエとは」ということでとりあえず「男の人
なのに女っぽい話し方仕草をする人」と言いましたね。この「男の人なのに」
の「なのに」が重要なのです。これはメンズ・リブの「男であるがゆえに」と
通じるかもしれません。「男の人」なのだから「男らしい」のが当たり前で
しょう。それが、「あたしね」と話し出したり、「おほほほ」と高笑いを始め
たら、まずだいたいの人はギョッとするのでは?。このズレというか違和感を
活かして、芸としてテレビで笑いをとることもあれば、「オカマ」と言われて
いじめられたりもするのですが、ともかくあまり日常的とは言えないかも。
「男の人」は男らしく、「女の人」は女らしく。納まるところに納まるのが日
常かもしれません。でも、「オネエの人」とりわけ「プロのオネエ」は、この
「オネエ」であることが生活だし日常です。それでは、さっきのオネエ様の発
言、「オネエっていうのはパロディよ」というのはどういうことか。
 まず、まあその人も「男」なわけですが、「俺ってさあ」と話し出すより
「あたしってばさあ」と話し出す方が「自然」だししっくりくるし、楽なわけ
です。でも、そのまま外にでるとたいがいギョッとされるという周囲の何気な
い反応に出くわす。さあ、ここでひるんではいけません。そこであえて「何
よ。文句あるの。」と、オネエを貫くのです。まあ、「オネエ」になってしま
うと、なぜそんなにギョッとするのか不思議になってくるのですが、この不思
議感と「パロディ」ということが通じるのです。「男」だから「男らしい」の
が自然なのに「女らしい」しゃべり方をしてもそれはそれで自然だから、「な
ぜそんなにギョッとする?」と不思議感が涌くのですが、でも、「男」なのに
「女らしい」しゃべり方、仕草をするからそれは「パロディ」です。もう少し
正確にいうと、「女らしい」しゃべり方といっても、そんなの生まれる前から
インプットされているわけではないので、オネエとはいえ自分の身の回りにい
る「女の人」のしゃべり方や仕草とかを「演じている」のです。「男の人」が
「女らしさ」を「演じる」ということで「パロディ」なわけですが、でも、場
合によっては、「男らしく」しなければまずいときもあったりします。今日は
就職活動で、面接試験があるからともかくあたりさわらず「男らしく」振る
舞っておくか、みたいな。その時は「男らしさ」を「演じ」ている。「男の
人」なのに、「女らしい」しゃべり方、仕草がそれはそれで自然な感じがして
「演じる」のですが、場合によっては「男らしさ」を「演じる」というのが
「オネエ」です(男を演じるのを忘れてしまった人もいますが)。こうなって
くると、ひょっとすると「男の人」が「男らしく」するのも実は「男らしさ」
を「演じ」ているんじゃないかしら、という気がしてきませんか。「男の人」
「女の人」なんて言い方をしましたけれど、そもそもそういう人種っているの
かしら。ただ「男らしい」「女らしい」という「演じる」流儀があるだけなん
じゃないかしら。「女の人」が「男の人」を思い通りにするために「女を使
う」という言い方があるでしょう。あれも「女の人」があえて「女」を演じて
いるということじゃないの?ともかく、「パロディ」を生きちゃうと、「男は
男、女は女」というのがかえって不思議だわ。
 「そんなことはありえない。男は男、女は女、それが自然。」と叫んでも仕
のないことで、事実「オネエ」は存在するし、「パロディ」を生きているんだ
から仕方がない。「何が自然か」言い争っても本当に仕方がないのでは?それ
とも、許せないから「オネエ」を抹殺しますか?どうぞ、お気に召すまま。殺
した端から涌いてくるから。

 解説で終わってしまったわ。ただ、この文章を終わる前に、いくつか注意し
ておきたいなあと思うことがあります。一つは、「オネエ」と似たような存在
が「女の人」の場合もあるのか。「ない」とは決して言えませんが、簡単に
「男らしく振る舞う女の人」と「オネエ」の定義を逆にするのは、何だか罠の
ような気がするのです。とりわけ「男」が「女らしさ」を演じるときに「オネ
エ」という言葉があるということ、その反対がなかなか名付けにくいし、しか
も知名度がないということ、これは結構深い意味があるかもしれません。
「男」と「女」は言葉の上では一見対等な対をなしているように見えますが、
実はそうではないのかもしれません。あくまで、「男」が「女らしさ」を「演
じる」ことが際だつのなら、なぜ「男から女へ」の一方通行なのか、「オネ
エ」にとっても他人事ではない問いです。
 それと、もう一つ。例の分科会を『オネエな生活』と名付けたその「生活」
ついてです。「オネエ」と一緒にわいわい楽しむのは結構だとしても、あくま
で「オネエ」にとっては「オネエ」は生活です。「オネエ」とは、オネエのた
めの、その人のための、自分のための「生活」であって、「芸」だけではな
い。だから、朝顔の観察日記のように分析の対象にするのは、ちょっと的はず
れかも。むしろ、オネエはこう投げかけます。
 「パロディを生きている私たちをみて、そこのあなた。あなたはどうなの。
オネエになるのならないの。」

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(おおきた・たけとし)現在、大阪大学大学院文学研究科臨床哲学在籍。一
応、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンについての研究を「本職」としてい
たはずが、現在ただの「隠れ蓑」になりつつある。「現場から問いを立ち上げ
る」という「臨床哲学」のプロジェクトを大まじめに遂行することに。「現
場」としては、セクシュアリティ・ジェンダー、動物、野宿労働者(とりわけ
釜ヶ崎でのボランティア活動)など。もし関心があれば、ご連絡ください。ま
た、同研究室の栗田隆子と『月刊Oui-da』というミニコミを発行。これも関心
があればご連絡ください。E-mail:ZVL01404@nifty.ne.jp

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知る人ぞ知る京都の人文書専門店・三月書房さんは、一見、古本屋のような佇
まいだが、店内に入るとその品揃の独特な「系」には圧倒されるでしょう。そ
の三月書房さんが発行する無料メールマガジンは、いちおう出版業界向けに制
作されていますが、読書家にもお薦めです。
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ます。因みに、『LaVue』も置いていただいております。

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 2000/11/29[02-15-41]  (c)SISIDO,Tatuo        *転送歓迎*

     e-mail版 三月書房 販売速報(仮題) 041号
     
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   あるいは、E-mail:sangatu@mbox.kyoto-inet.or.jp
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 自費出版なさいませんか!
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 一度ご相談ください。 お申し込みは、こちらまで。YIJ00302@nifty.ne.jp
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////// 違憲問題 //////

             奉祝活動のご報告

               最高裁判所五十周年奉祝委員会 高橋 靖
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 弊会は平成九年の最高裁判所様設立五十周年の奉祝のため設立されました。
 その奉祝事業といたしましてはまづ、まことに僣越ながら、最高裁判所様の
五十年間のご足跡を記しました冊子「最高裁判所五十周年奉祝のしほり―国民
とともに五十年―」を弊会の優秀な執筆者(スタッフ)が編集し、最高裁判所
様本庁はもとより、司法研修所をはじめ、全国各地の裁判所様、また、弁護士
会、そして一般国民の皆様に頒布させていただきました。
 この「奉祝のしほり」はありのままの最高裁判所様のお姿が描かれてをりま
すので最高裁判所様の意に沿わぬ裁判官に対するいじめ等どうしても「罪」の
部分が目立ち気味なのですが、そこはそれぞれの事件ごとにきちんと「しかし
ながらこのたびは五十年に一度の慶事でござゐますので国民の皆様におかれま
してはそのやうな雑音に耳をかさないやうお願ひゐたします」等の注釈を怠ら
ず細心の配慮をいたしてをります。そして特に平成六年におこりました神坂直
樹さん任官拒否事件に関しましては詳しく取り上げ、この事件の前向きの解決
を切に望み半世紀後の百周年を迎えるおりには国民がこぞってお祝いできます
やふ期待を述べ結びとしてをります。
 弊会は奉祝活動に際しましては、寺西裁判官分限処分の決定にみられますや
ふ「公正らしさ」といった外見に重きを置かれる最高裁判所様のことでござゐ
ますので、服装はもちろん上下そろいの背広にネクタイ着用、名刺のご用意、
そして礼儀正しい言葉使い等、くれぐれも最高裁判所様に対して粗相のなきや
う細心の注意を払ってをります。おかげさまで、地方の裁判所へ「奉祝のしほ
り」をお持ちしましても弊会に対する信用は絶大でござゐまして(中には聞き
なれない弊会の名前に怪訝さふなお顔をされる方もいらっしゃいますが)、名
刺の会の名前に「最高裁判所…」とあるだけで「ご苦労様でございます」と労
いのお言葉までかけていただくことさえあり、最高裁判所様のご威光、ご威徳
を再認識いたしました次第でござゐます。
 弊会ではこの「奉祝のしほり」刊行以外でも奉祝活動に努めてをります。
 例えば、昨年には「日独裁判官物語」といふ活動写真(*注)が制作されま
したが、私どもはそこに描かれましたわが国の最高裁判所様の孤高のお姿に感
銘を受け、活動写真ご出演のお祝いに、その映像電磁巻物(ビデオテープ)を
特別注文の金文字入りの化粧箱に入れ、「献納 最高裁判所五十周年奉祝委員
会」ののしをお付けし、献納に参りましたが、「約束がない」ということで受
け取っていただけず、さらばと、大阪に帰ってから郵便でお送りいたしました
が、すぐさま「お気持ちだけ頂戴いたします」という旨の公文書を添え郵便小
包で送り返してこられました。受け取っていただけなくてまことに残念でした
が気持ちだけはご理解いただけたやうでほっと安堵いたしました。このとき初
めていただきました最高裁判所様の印鑑付の公文書は弊会と最高裁判所様の絆
の印として大切に保管してをります。
 また、今年の七月、梅雨明けの暑中お見舞いのご挨拶に参りまし折には、遅
ればせながら先の衆議院選挙での最高裁判所裁判官の国民審査での皆様の無事
全員ご信任のお祝いを申し上げました。ただその中で以外にも山口長官が罷免
を求める票数で全裁判官中で第二位だったことにお気を悪くされているのでは
と心配でしたので、「山口長官におかれましては選抜(エリート)中の選抜
(エリート)であられ、今まで法服を着てをられた時間よりも司法行政といっ
たあまりにも高度なお仕事に携われていた時間の方が長かったため、判決の書
き方に疎くなられたのもやむをえないことでございます。私どもはさふいった
事情もよく配慮してをりますので、山口長官におかれましてはその国民審査の
結果にお気を悪くされることなく、これからもこれまでどおり『正義の殿堂』
最高裁判所長官として国民の権利を守っていただくやふよろしくお伝えくださ
い」とまことに僣越ながら激励させていただきました。
 このやふな弊会の奉祝活動に対して中には「それは『奉祝』といいながら、
『いやがらせ』ではないのか」などとひどいことをおっしゃる方もいらっしゃ
ゐますが、畏れ多くも最高裁判所様に対して『いやがらせ』なぞめっそうもご
ざゐません。私どもの眼中にはただただ『奉祝』あるのみでござゐます。皆様
方におかれましても、弊会の奉祝活動にご理解賜りますやふ宜しくお願ひ申し
上げます。

(*注)映画「日独裁判官物語」
日本の裁判所がドイツの裁判所に比べいかに国民に背を向けた権威主義的で行
政と癒着しているかを問題にした映画

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(たかはし・やすし)神坂さんの任官拒否を考える市民の会会員。神坂直樹さ
んの任官拒否事件については下記のホームページを参照してください。最高裁
判所五十周年奉祝委員会の活動も連載しています。
http://www.ne.jp/asahi/ninkankyohi/shimin/nin.html

■ ヒントブックスWeb情報---------------------------------------------
最新の更新情報は→http://homepage1.nifty.com/hint-yf/message.htm

■編集後記■---------------------------------------------------------
★たとえば就職試験において、信仰する宗教や支持政党、購読新聞や愛読書を
質問されたとしたら、どんな思いを持つだろうか。これらの質問は、思想信条
による差別を温存・助長するものと指摘され、さまざまな取り組みがなされて
きた。採用者側が非を認めない場合には、訴訟に発展することも当然にありう
るだろう。ところが「憲法の番人」たる最高裁判所では、裁判官への任官志望
者に「身上調書」を提出させて「尊敬している人物」を調査し、面接時には
「なぜ尊敬しているのか」と質問しているのだという。ユーモアなきブラック
ジョーク。そんな世界に私たちは生きているのかもしれない。(加藤)
★『オネエな生活』は、しなやかな入門編という感じだわ。もう少しモジモジ
とネチッコク踏み込んでほしいと思うのは、アタシだけかしら。「ん〜、だか
ら男の子はねぇ〜駄目ね」と橋本治さんなら言うかしら? きっと言語や語法
は、振る舞いや頭(思考)を支配してると思うね。じゃぁ「革命」は、言葉遣
いから? 「関係の変革」ってむずかしいなぁって思うこの頃よ。(山本)

●○●---------------------------------------------------------●○●
           『カルチャー・レヴュー』14号
 2000/12/01
                編集委員
        いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英
          加藤正太郎・山口秀也・山本繁樹
発行人:山本繁樹
発行所:るな工房@黒猫房主出版/シャノワール・カフェ
E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX 06-6320-6426
■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
       ■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
Copyright(C), 1998-2000 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●

■本誌へのご意見・ご感想・は、下記のWeb「猫の砂場」(談話室)
 または「るな工房」までメールでの投稿を歓迎します。
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
■実費のみのオフ版(郵送版)もございますので、お問い合わせください。
■このメールは半角70字(全角35字)詰めで構成しております。レイアウトの
 ズレがある場合は固定(等幅)フォントで修正してお読みください。
■本誌は「投げ銭システム推進準備委員会」の趣旨に賛同します。
 http://www.nagesen.gr.jp/〈投げ銭フリーマーケット稼働中〉

 

◆20001008
Date: Sun, 8 Oct 2000 10:04:47 +0900
From: "山本繁樹"
Reply-To: "山本繁樹"
To: "YAMAMOTO"
Subject: ★★★第1回「合評会」のご案内★★★


      ★★★第1回「合評会」のご案内★★★

  ■対象:『LaVue』3号および『カルチャー・レヴュー』13号
  ■日時:2000年10月14日(土)の午後2時より5時まで
  ■場所:フリースペース「うーぴー」(阪急/淡路駅近く)
      〒533-0023大阪市東淀川区東淡路3-1-6
      アビタシオン・カジ2F・A室
      TEL/FAX:06-6323-3717
  ■会費:500円
  ■仮予約は、こちらまで、YIJ00302@nifty.ne.jp
  ■問合先は、るな工房(TEL/FAX:06-6320-6426)
  ■地図は、添付ファイルをご参照ください。
  阪急電鉄淡路駅東口より徒歩10分
  *商店街のアーケードを抜けてからも、写真館までひたすら
   直進してください。

■■■ るな工房/黒猫房出版部/Chat noir Cafe′■■■
           山本繁樹
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702 
TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp  
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html

★ペーパー版「La Vue」3号配布情報(最終更新00/10/02)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/lavue.html
★ケンキョに書評(00/09/25最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyou.html
★Web評論マガジン「カルチャー・レヴュー」12号掲載
(00/08/02最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.html
★ショート・ショート・書評(00/09/11最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyoufa.html
★投げ銭フリーマーケット稼働中 http://www.nagesen.gr.jp/

 

◆20000613
Date: Tue, 13 Jun 2000 20:03:59 +0900
From: "山本繁樹"
Reply-To: "山本繁樹"
To: "yamamoto shigeki"
Subject: 「カルチャー・レヴュー」特別版


「カルチャー・レヴュー」読者 各位

日頃は、弊誌をご購読いただき御礼申し上げます。
この度、下記のように交流会を開催します。気取らない気さくな会ですので、
お友達をお誘いの上、ご参集いただければ幸いです。

           ■■■交流会のご案内■■■

「La Vue」2号の発刊を祝して、「La Vue」と「カルチャー・レ
ヴュー」の読者、著者、関係者との交流会(オフ会)の宴を開催いたしますの
で、ぜひご参加ください。詩の朗読、歌舞音曲入りで、賑々しく執り行いたい
と存じます。おおよその参加人数を把握したいので、仮予約で結構ですので、
参加の意思表明をメールで編集部までお願いいたします。
★編集委員・山口氏による特製料理も出品されます。

  ■日時:7月8日(土)の午後2時より午後5時まで
  ■場所:ビデオ工房AKAMEスタジオ(阪急/淡路駅近く)
  ■内容:詩人・富哲也氏の詩の朗読、インド音楽の演奏、酒盛り・軽食
      付、会場でのチラシ・パンフレットなどの配布・販売を歓迎いた
      します。なお、中国茶の実演も予定?
      (隠しテーマとして「投げ銭と文化支援・批評」)
  ■会費:2000円〜3000円までを予定
  ■予約は前日まで可能ですが、お早めにお申し込みください。
   当日参加も、たぶん可能です。
  ■仮予約は、こちらまで、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp

★「ビデオ工房AKAME」の場所
 〒533-0023 大阪市東淀川区東淡路3-1-6 アビタシオン・カジ2F・B
       TEL/FAX 06-6370-8568
       e-mail : akamev@osk4.3web.ne.jp
       WEBSITE : http://www2.osk.3web.ne.jp/~akamev/

--------------------------------------------------------------------
  《ビデオ工房AKAMEの地図》
★アーケードを抜けてもしばらく直進、駅より徒歩5分から10分の距離です。
 

                  ┌―――――┐
  ――――――――――――――――┤阪急淡路駅├――――至・京都
         ┃        └――┰――┘
         ┃■←ヒラキ写真館   ┃東口
  ━━━━━━━╋━━━━━━━━┳━━╋━━━━━━━
  中古バイク屋■┃■←八百屋よもぎ┃■ ┃
         ┃        ┃銀 ┃
         ┃        ┃行 ┃
         ┃        ┃  ┃
  ━━━━━━━╋━━━━━━━━┫  ┃
      米屋■┃        ┃  ┃
         ┃        ┃  ┃
  ━━━━━━━╋━━━━━━━━┫  ┃
       ★★┃        ┃  ┃
        ↑ビデオ工房AKAME
        (1Fは、くろだ歯科)

★「La Vue」2号の配布も、あらかた終了しました。
 今回から、東京方面の応援団も配布協力していただいています。
 配布状況は、Webをご覧ください。

●●●●「La Vue」2号の内容(00/06/01発行)●-----------------

◆ジェンダー・立ちすくむ経験・・・・・落合祥堯(「人文書院」編集者)
◆フットボールの進歩についての試論・・・・・・・・・・・・・山口秀也
◆商品の呪術的性格の脱魔術化に向けて・・・・・・・・・・・・平野 真
◆ヘーゲル『精神現象学』は〈超・娯楽読み物〉である・・・・・佐野正晴

■広告協賛:
 朱鷺書房・澪標・アリーフ一葉舎
 人文書院 http://www.jimbunshoin.co.jp/index.html
 東方出版 http://www.tohoshuppan.co.jp/
 さいろ社 http://www2.osk.3web.ne.jp/~sairo/
■協賛:哲学的腹ぺこ塾
■後援:ヒントブックス・英出版研究所
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布

本紙は、京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・大学生協書籍部・図書館・
文化センター等に配布し、配布情報は順次Webに掲載しております。
なお本紙は、読者の方の評価による「投げ銭」及び「木戸銭」というパトロン
シップによって、運営をめざすスタイルを模索します。頒価100円は、書店さ
んが販売している場合を除いては、読者の方の「投げ銭」の目安です。
また本紙の賛助会員として一口年会費1000円(1号〜4号までの定期購読料+
送料+特典)を「木戸銭」として申し受けております。本紙を確実に入手して
いただくには、この会員になられるのが一番です。また、一緒に愉しんでお手
伝いいただける方を募っております。
■「投げ銭」「木戸銭」は、切手にても承ります。
■郵便振替口座 「るな工房」00920―9―114321
----------------------------------------------------------------------
★書評頁新設しました。(00/06/05最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyou.html

★異端作家・山口椿のエロティク・ポストカードをWeb販売中
http://www5a.biglobe.ne.jp/~maoniao/tubaki/09.html


■■■るな工房/Chat noir Cafe′山本繁樹■■■
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702 
TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp  
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html

■書評頁新設(00/06/05最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyou.html
■Web評論マガジン「カルチャー・レヴュー」11号掲載
(2000/06/05最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.html
■ペーパー版「La Vue」2号(06/01発行)配布情報毎日更新
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/vue.html
■「ルネパブ公開読書会」実施中
http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/runepub.html
■投げ銭フリーマーケット稼働中 http://www.nagesen.gr.jp/

 

◆20000629
Date: Thu, 29 Jun 2000 17:32:02 +0900
From: "山本繁樹"
Reply-To: "山本繁樹"
To: "yamamoto shigeki"
Subject: 「カルチャー・レヴュー」特別号

「カルチャー・レヴュー」読者 各位

日頃は、弊誌をご購読いただき御礼申し上げます。

Webの頁増設のご案内です。
■「哲学的腹ぺこ塾」塾生による「ケンキョに書評」(2本掲載)
■「現役書店人によるショート・ショート・書評」(12本掲載)
いずれも、下記のトップ頁よりアクセスください。
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html

★まだ少し余裕がありますので、「交流会」にもお出かけください。

           ■■■交流会のご案内■■■

「La Vue」2号の発刊を祝して、「La Vue」と「カルチャー・レ
ヴュー」の読者、著者、関係者との交流会(オフ会)の宴を開催いたしますの
で、ぜひご参加ください。詩の朗読、歌舞音曲入りで、賑々しく執り行いたい
と存じます。おおよその参加人数を把握したいので、仮予約で結構ですので、
参加の意思表明をメールで編集部までお願いいたします。
★編集委員・山口氏による特製料理も出品されます。

  ■日時:7月8日(土)の午後2時より午後5時まで
  ■場所:ビデオ工房AKAMEスタジオ(阪急/淡路駅近く)
  ■内容:詩人・富哲也氏の詩の朗読、インド音楽の演奏、舞踏、酒盛り・
      軽食付、会場でのチラシ・パンフレットなどの配布・販売を歓迎
      いたします。なお、中国茶の実演も予定?
      (隠しテーマとして「投げ銭と文化支援・批評」)
  ■会費:2000円〜3000円までを予定
  ■予約は前日まで可能ですが、お早めにお申し込みください。
   当日参加も、たぶん可能です。
  ■仮予約は、こちらまで、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp

★「ビデオ工房AKAME」の場所
 〒533-0023 大阪市東淀川区東淡路3-1-6 アビタシオン・カジ2F・B
       TEL/FAX 06-6370-8568
       e-mail : akamev@osk4.3web.ne.jp
       WEBSITE : http://www2.osk.3web.ne.jp/~akamev/

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  《ビデオ工房AKAMEの地図》
★アーケードを抜けてもしばらく直進、駅より徒歩5分から10分の距離です。


                  ┌―――――┐
  ――――――――――――――――┤阪急淡路駅├――――至・京都
         ┃        └――┰――┘
         ┃■←ヒラキ写真館   ┃東口
  ━━━━━━━╋━━━━━━━━┳━━╋━━━━━━━
  中古バイク屋■┃■←八百屋よもぎ┃■ ┃
         ┃        ┃銀 ┃
         ┃        ┃行 ┃
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      米屋■┃        ┃  ┃
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       ★★┃        ┃  ┃
        ↑ビデオ工房AKAME
        (1Fは、くろだ歯科)

★「La Vue」2号の配布も、あらかた終了しました。
 今回から、東京方面の応援団も配布協力していただいています。
 配布状況は、Webをご覧ください。

■■■ るな工房/Chat noir Cafe′山本繁樹■■■
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp 
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html

★ショート・ショート・書評(00/06/25最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyouf.html
★ケンキョに書(00/06/17最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/syohyou.html
★Web評論マガジン「カルチャー・レヴュー」11号掲載
(2000/06/05最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.html
★ペーパー版「La Vue」2号(06/01発行)配布情報掲載中
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/vue.html
★投げ銭フリーマーケット稼働中 http://www.nagesen.gr.jp/

 

◆20000601
Date: Thu, 1 Jun 2000 00:44:38 +0900
From: "山本繁樹"
To: "yamamoto shigeki"
Subject: <直送版>『カルチャー・レヴュー』11号

■本誌は<転送可>です。お知り合いの方にご紹介ください。その場合は著者
 ・発行所を明記した「全頁」の転送であること、またそれぞれの著作権・出
 版権を配慮してください。無断転載禁。
■申込・解除・変更は下記の(直送便は、るな工房まで)
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/touroku.htmlまで
■情報提供・投稿は、E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jpまで。
■本誌のバックナンバ
ーは、
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/review1.htmlにあります。

◆直送版◆
●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)               (発行部数約1200部)

 『カルチャー・レヴュー』11号(2000/06/01発行)

     発行所:るな工房/Chat noir Cafe′発行人:山本繁樹
        [12号は、2000/08/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●

本紙は●哲学/思想●文学●詩●映画●舞踏/ダンス●演劇●音楽●アート●
コミックス●生活●医療福祉●教育●スポーツ●インターネット●フェミニズ
ム●セクシュアリティ●風俗●出版などをテーマに、文化情況の〈現在形〉を
各執筆者のトポス=視点から批判=論評を試みます。そして表現を通して「他
者」との交差、あるいは「視座」の交換=相互性を志向します。またペーパー
版『La Vue』と相互リンクしています。

■目 次■-----------------------------------------------------------
◆交流会のご案内                       編集部
◆『罪なく罰せられて ―婚外子の声―』を制作して      江上論子
◆『La Vue(ラ・ヴュー)』2号のご案内          編集部
◆セクシュアリティ・ジェンダーについての語り口の模索    栗田隆子
◆ヒューム熱                        中塚則男
◆新詩集『殺佛』のこと・など                富 哲世
◆新刊案内◆インフォメーション◆編集後記
---------------------------------------------------------------------
/////////////////////////////////////////////////////////////////////
///// 交流会のご案内 /////

7月8日(土)の午後に、「La Vue」2号の発刊を祝して、「La V
ue」と「カルチャー・レヴュー」の読者、著者、関係者との交流会(オフ
会)の宴を開催いたしますので、ぜひご参加ください。詩の朗読、歌舞音曲入
りで、賑々しく執り行いたいと存じます。会場・会費等の詳細は、追ってご連
絡申し上げますが、おおよその参加人数を把握して会場を探しますので、仮予
約で結構ですので、参加の意思表明をメールで編集部までお願いいたします。
仮予約は、こちらまで■E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp

/////////////////////////////////////////////////////////////////////
///// 差 別 /////

      『罪なく罰せられて ―婚外子の声―』を制作して

                             江上諭子
/////////////////////////////////////////////////////////////////////

 ビデオ工房AKAMEは女性ばかりの映像制作集団だ。活動を始めてから丸
7年が過ぎた。そして、これが、わたしの実質的な第1作だ。「婚外子」など
という、NHKの朝ドラのテーマにでもならなければ、一般にはあまり知られ
ていないこのテーマにわたしが取り組み始めたきっかけは、「わたしの父が婚
外子だから」というごく単純な理由だ。
 いまから13年ほど前、父と、父の一番上の兄との年齢が20歳ほど離れている
ことについてわたしが「おばあちゃんて、すごく長い間、子ども産み続けたん
だね。すごいね」と言ったとき、父がとても小さな声で「母親が違うから」。
そのときのわたしのショックは、「後頭部をハンマーで殴られたような」とい
う表現がピッタリの、漫画によく出てくる「ガーン」という擬音がピッタリの
状態で、頭の奥が「ジーン」となったのを覚えている。「わたしって不倫でで
きた子どもの子どもなわけ〜! そんなの嫌だ〜」というのがそのショックの
原因だったのだが、それが分かるまでには数カ月かかった。そのころわたし
は、すでにフェミニズムに傾倒していたが、結婚せずに子どもを産むというこ
と、それも不倫というのは耐えがたいことだった。その混乱した頭の中で唯一
考えたことは「この混乱から何もごまかさずに必ず抜け出してみせる」という
意気込みで、「決着をつけてやる」という気持だった。その後偶然、ビデオと
の出会いがあり、そのときに「婚外子の声を集めたビデオを作ろう」と思った
のだ。
 婚外子というのは、昔は庶子とか私生児などと呼ばれていた子どもたちのこ
とで、両親が婚姻届を出していない子どものことだ。戸籍の続柄欄を見ると分
かるが、婚外子の場合は「女」「男」というように性別のみが書かれている。
両親が婚姻している場合は「長女」「次女」というように生まれた順番が性別
に付く。この差別表記があることによって、結婚差別、就職差別がまだあるの
が現状だ。
 以前は、社会保険の健康保険証や、住民票の続柄欄にもこのような差別表記
があったが、現在はどの子どもの続柄も「子」に統一されている。
 今回制作したビデオに出演してくれた婚外子の方たちのうち2人が、歴史に
残る裁判を闘っている。1人は東京高等裁判所で勝訴した中田千鶴子さん。も
う1人は最高裁で敗訴した山田満枝さん。2人とも婚外子の相続分は婚内子の
半分という民法900条4号但書前段の規定は憲法に反するということで争っ
た。山田さんは敗訴しているが、民法900条4号但書前段の違憲性を最高裁で
争ったのは初めてのことで、歴史に残る裁判であることには違いない。
 わたしは、このビデオで婚外子の「生の声」「生の思い」をそのまま伝えよ
うと試みた。だから、説明的な部分は必要最小限に抑え、それぞれの方の発言
をできる限り入れた。「婚外子差別とは何なのか」それを婚外子自身に語って
もらったのだ。
 婚外子差別に対する闘いは「身内の醜い金の争い」ととらえられることもあ
る。「なぜわたしの相続分は半分なの? おかしいじゃない」ということを
言っているわけだから、そう受け取る人もいるだろう。しかし「なぜ半分なの
?」という言葉は「わたしの取り分が少ない」ということを意味しているので
はなく「なぜ?」のところが大事なのだ。「なぜ?」の後ろに来るのは「同じ
人間ではないから」という言葉だ。婚外子は同じ家族の一員ではないのだ。中
田さんは、調停員から「婚外子は殺人者と同じ加害者なんだから」と言われて
いる。一方、山田さんは財産相続の話を一切知らず、不動産屋からの「あなた
の土地を買いたい」という突然の電話に驚く。親戚に聞いても「これはウチの
財産だ。あんたには関係ない」と言われる。
 あと2人の出演者は屋代美智子さんと落合恵子さん。屋代さんは両親に捨て
られている。屋代さんは婚外子として生まれたということ以外、どんな事情が
あったかは分からず、「捨てられた」という事実に苦しみ続けてきた。屋代さ
んは「2人(親)は、婚外子差別から逃げている」と語る。その言葉の中に、
婚外子差別の非情さとそれに負けた両親への思い、そして屋代さんが受けてき
た苦しみをにじませる。
 落合さんの母親は1枚の皿を何時間も洗い続ける「強迫神経症」にかかって
しまう。婚外子である落合さんを生んだこともその病気の原因の1つだろうと
落合さんは言う。婚外子差別があるために母は子どもに済まないと思い、子ど
もは自分が母親を苦しめていると感じる。差別の被害者が、苦しみの原因を
「差別そのもの」に向けることができず、お互いを苦しめ、自分を傷付けてし
まうことについて語ってくれた。
 このビデオは、婚外子とその母親に向けた応援メッセージだ。ぜひ、これら
の人に見ていただきたい。もちろん、この問題についてまったく知識がない人
にも分かるように作ってあるので、多くの人に見ていただきたい。そして、こ
れが婚外子だけの問題ではなく、戸籍にかかわるわたしたちすべての問題であ
ると感じてもらえればうれしい。
 第1回の上映会を3月18日に行った。そのときに、落合さん以外の出演者に
来ていただき、シンポジウムを行った。ライヴの迫力はさすがで、ビデオの何
倍ものインパクトを持って、婚外子の生の声や思いが会場に伝わったと思う。
現在、ビデオの販売準備中で5月中に発売予定。ビデオにはこのシンポジウム
の様子も冊子にして付ける予定だ。ライブラリー価格(無料上映会、無料貸出
が可能)1万2000円。個人価格(個人視聴のみ)3000円。

★おまけ★ビデオ工房AKAME新作情報!
■「Go Women go ! ―市民とメディア・アクセス―」(VHS26分)
 1999年6月、わたしともう1人のAKAMEのメンバーは、サンフランシス
コ市とバークレー市を訪ねた。市民ならだれでも番組を流せる「パブリック・
アクセス・チャンネル」というものがケーブルテレビにあるということを聞い
て、視察旅行に参加したのだ。
 アメリカでは、この市民のアクセス権が法律で保証されている。番組内容は
玉石混交だが、環境問題、教育問題、健康問題、女性問題、同性愛の問題な
ど、さまざまなテーマが扱われている。番組を作っている市民プロデューサー
や、市民の番組づくりを支援するNPO(=アクセス・センター)で働くス
タッフの話からは、パブリック・アクセス・チャンネルを心から楽しんでいる
のが伝わってくる。この作品では、パブリック・アクセス・チャンネルの仕組
を解説しているだけでなく、市民が作った番組をたくさん紹介している。きっ
と、何か番組を作ってみたくなりますよ。
 付記。先日、サンフランシスコから電子メールが来た。この作品をパブリッ
ク・アクセス・チャンネルで流してくれるそうだ。日本ではそういう場はまだ
少ししかないが、アメリカでなら今すぐ流せるんだなと気がついた。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(えがみ・ゆうこ)1963年、東京都生まれ。写植の会社を転々としながら関西
へやってきた。女性による女性のための映像制作集団「ビデオ工房AKAM
E」の創立メンバー。ディレクション、撮影、編集のすべてをメンバー内でこ
なす。AKAMEがいままでに扱ってきたテーマは離婚、従軍慰安婦、働く女
性、在日朝鮮人女性、など。99年に行われた山形ドキュメンタリー映画祭で韓
国の女性ドキュメンタリストたちと知り合い、来年に向けてシングルマザーを
テーマにした作品を日韓で共同制作する予定。
ビデオ工房AKAME http://www2.osk.3web.ne.jp/~akamev/
E-mail:akamev@osk4.3web.ne.jp

●●●●「La Vue」2号の内容(00/06/01発行)●-----------------

◆ジェンダー・立ちすくむ経験・・・・・落合祥堯(「人文書院」編集者)
◆フットボールの進歩についての試論・・・・・・・・・・・・・山口秀也
◆商品の呪術的性格の脱魔術化に向けて・・・・・・・・・・・・平野 真
◆ヘーゲル『精神現象学』は〈超・娯楽読み物〉である・・・・・佐野正晴

■広告協賛:
 朱鷺書房・澪標・アリーフ一葉舎
 人文書院 http://www.jimbunshoin.co.jp/index.html
 東方出版 http://www.tohoshuppan.co.jp/
 さいろ社 http://www2.osk.3web.ne.jp/~sairo/
■協賛:哲学的腹ぺこ塾
■後援:ヒントブックス・英出版研究所
■投げ銭価格100円より・B4判・8頁・発行部数10000部
■京阪神地区の主要書店(一部東京方面)・図書館・文化センターに配布

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///// セクシュアリティ・ジェンダー /////

    セクシュアリティ・ジェンダーについての語り口の模索
       ―「私で語る/私を語る」その意味と無意味―

                             栗田隆子
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 セックスのことや、それにまつわるもの、生理や避妊など、ある場合はタ
ブーにされ、ある場合には、たとえば酒場での「下ネタ」といったような、特
定の語りを要求される。
 または、ジェンダーについて、ここ最近読んだ本の中で面白かった本のひと
つである遙洋子さんの『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』のなかにこんなく
だりがある。
 「意見はふとしたはずみで簡単に対立する・・・語り言葉の裏側のメッセー
ジが本番中、痛いほど耳に飛び込んできた。『私はみんなに好かれたい
の。』『女は黙れ』・・・(中略)私にはこの第二のメッセージが気持ち悪く
て仕方がない。実は、ひとは、本来語り合わねばならないテーマではなく、違
うところで議論をしているのではないか? 議論を左右するのは、論理ではな
く、第二のメッセージのほうが、じつは語っていて、そっちのほうで勝負が決
まることが多いのではないか・・・」
 そう、ジェンダーもまた、隠される。いや、あるコードにしたがって示され
ること以外、そんな存在はなにもなかったものとして処理される。そのように
隠されてこそ、以上のような「政治的」機能がジェンダーやセクシュアリティ
に課せられていくのだ。

 だからこそ。セクシュアリティやジェンダーの既成の言説に戸惑いを感じて
るひとが、それを的確に表現したいと思うとき、特に自分が「語られてしまっ
ている存在」と感じたとき、どうしたら、よいか。そのひとつの方法として有
効な武器になるのが「私」を主語にセクシュアリティについて、そしてジェン
ダーについての疑い、感覚を語るやりかたなのだ。
 それは、ある既成のカテゴリーを壊す有効な武器となるだろう。また、その
発言に対して口を封じさせるような言動、表現があるならばそれはまさに「顕
在化された暴力」としてクローズアップされるから、「私」を主語としてとし
て語られたセクシュアリティ・ジェンダーの問題は、現在どんな問題がジェン
ダー・セクシュアリティに関する領域でおこっているかを、わかりやすくさせ
る。それは、話し手にとってもそうであるが、聞き手にとっては「わかりやす
く」提示されたものと捉えられる。たとえば同性愛のカミングアウトは、それ
を行うことで、みずからのアイデンティティを否定しないものとして、語ると
いう行為そのものが力を持つ。そしてそのような自分を語りうる関係がそこに
あるであろう、と希望できることもまた、語り手の「力」となることは、否定
できないだろう。そして確かに聞き手にとっても、もしその聞き手がいままで
同性愛という存在にある恣意的なイメージを抱き、もやもやとした印象のみを
抱えていた場合、そのカテゴリー(それはマイノリティである場合が多いが)
を体現した個人に出会うということは、衝撃とともに考察をうながす力になる
ということもまた否定できないだろう。
 しかし、もうひとつ、「私」という主語でセクシュアリティやジェンダーに
ついて語ることの意味がある、というか意味を持たされている。それは(セク
シュアリティやジェンダーをひとまず乱暴に「性」といってしまうこととし
て)、その「性」について表現することに、ある程度の「誠意」や「具体性」
を持たせるならば、その性について何らかの違和感なり、共鳴なり、関心を持
つ「私」について語らざるを得なくなる、ということだ。
 今この文で、私が書きたいと思うことは、そのように、ある誠実さをもっ
て、言いかえれば「人にわかりやすく話すために「私」で語らなければいけな
い、性にまつわる言説(ディスクール)とはなんなのか?」ということなの
だ。 別冊宝島の『ゲイの贈り物』のなかでセクシュアリティに関して伏見憲
明が対談の中でこのように語る。
 「ほんとにセクシュアリティというのは多様で、僕の理論というのはその多
様性のひとつを、僕自身のセクシュアリティを言語化することによって提示し
たということでしかない」
 「語りなおし」としての「私」の存在、(この文章のタイトルにあるよう
に)セクシュアリティを「私」で語ること、それはたしかに既存の性の言説に
対する武器になる。つまり、ある偏見、枠組みを壊すものとして、「私」が語
られるのだ。
 しかし、ゲイやレズビアンとして自分を語ることも、また女性問題としてく
くって語ることもできない場合、また逆に「フェミニズム」や「ウーマンリ
ブ」の理論を通してこそ浮かび上がった自分の体験として、当人が語ろうとす
ると、それがひとつの「理論」としてみなされ、「自分の、身の丈にあった語
りではない」とみなされる場合も、「私」でセクシュアリティを語ることのか
えって困難さ、意味のなさがうかびあがってくるのではないか。また逆に
「性」の問題を「私」で語らなければいけないのか? という問いも噴出す
る。さらに仮にゲイや、レズビアンといったセクシュアルマイノリティであっ
てもそのことを語るときに「私」がそうだから、その問題をとりあげるのだ、
という語り方しかできないのか? という問いも立てることができる。
 性について「私」で語ることが「誠実」となるこの枠組み、これもまた、注
意すべきことなのではないだろうか。いや、さらにいえば性について「私」で
語ることが聞き手にとって「わかりやすさ」につながり、聞き手が語り手に
「私」で語ってほしいと思いやすいところに、なにか落とし穴があるのではな
いだろうか。
 このセクシュアリティを語ること(とりわけ「私」を主語にして)の意味
(そして無意味)については、私の大学の有志で行っている「セクシュアリ
ティに臨む哲学研究会」でも再三取り上げられたことであり、さらにこのあい
だ、ドーナツトークの田中俊英氏の主催した会合のテーマも"Gender & I"とい
うタイトルでまさにジェンダー問題とそれにまつわる「私」との関係がテーマ
だった。そしてこの文章作成にあたり、そこで交わされた対話が非常に影響を
あたえていることにふれておかなければならないだろう。あらためてこの場を
借りて、そこで出会った人々に御礼申し上げたい。
 そのような会合のなかで私がわかっていったことは、今まで書いてきたこと
と、さらになぜ「私」で語らなければいけないのか、という素朴な疑問だった
のだった。たとえばいかに、「まじめに」語られたとしても、こんなにまじめ
に性について語っている「私」を受け入れてほしい、という「承認」をもとめ
るような「私」という主語で性を語られたとしたら、それは同じ「私」で語っ
ているにしてもさきほどの伏見憲明のいう「私」とは違うものとなっているだ
ろう。「性」を「私」で語るのではなく、「性」を利用して「私」を語るとで
もいうような・・・。なんでも「私」で語ることによってセクシュアリティの
語り口が免責されるわけではないことも、最近改めて感じている。特に性を語
るということそのものが、リスキーな行為として受け止められる要素は大き
く、それゆえにかえって、「性を語る自分」というものが「性を誠実に考える
探求者」として(周囲にそして自分自身にも)認識されうる要素が大きいので
はないか。「性」を語るということによりその目の前にいる相手とどんな関係
を自分は結びたいのかということを照らし出してしまう。それを無視して語る
ことにより、その語りがたとえ「私」を主語とし、私をさらすというリスクを
犯すにしても、それが単に「性を誠実に語り、探求する」姿勢から、そのよう
な「私語り」をするのならば、それはまた違う形での「性を語るにはこの語り
しかない」といった狭い姿勢におちいってしまうのではないだろうか。
 性を語るというのは、不思議な行為だ。ある種の科学的な「誠実さ」をあざ
わらい、なんのために誠実に「あなたに対して」語らなければいけないの?
と常に問い返されてしまう。そして、性の語り方を「―ではない」と否定形で
論じてきた私だが、その姿勢もまた私のある狭量さを明らかにしているであろ
うこともまた、予測でき、焦っているのだ。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(くりた・りゅうこ)1973年、東京生まれ。現在大阪大学文学研究科「臨床哲
学」博士前期課程2年に在籍中。現在の関心事:ひつじ書房から出た『ルネッ
サンス・パブリッシャー』に影響され、「大道芸的ミニコミ」の可能性を考え
てます。興味のある方、メールください。E-mail:ouidaRK@aol.com

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///// 哲 学 /////

               ヒューム熱

                             中塚則男
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 1
 数年前にも一度微熱が続いたことがあった。ネットサーフィンという言葉が
まだ新鮮に響いた頃の話で、私もしばらく凝ってすぐに飽きてしまったことを
今となっては懐かしく思い出すのだけれど、ウェブAからウェブBへとリンク
をたどってあてもない漂流を繰り返しているうち、あ、もしかしたらこの「事
象Aから事象Bへ」の物語性の欠けた接続の経験、根拠や理由や必然性があっ
たりなかったり単なる偶然のなせるわざだったりする継起の経験は「ヒューム
的」とでも形容すべき世界での出来事なのではないか――電子メディア時代の
知覚の束としての主体による想像力の飛翔!――と唐突に思い至り、早速イン
ターネットで入手した‘ A Treatise of Human Nature ’全文をプリントアウ
トして読み始めてみたものの、何だったか今は思い出せない事柄に関心が移っ
て、だからその時は数頁も進まないうちに熱は冷めてしまった。
 今年の1月、ドゥルーズが22歳で書いた『経験論と主体性――ヒュームにお
ける人間的自然についての試論』の改訳版が出版され、翌月にはクレソンとの
共著『ヒューム』が出て、ドゥルーズ編集の「ヒューム抜粋集」や訳者の合田
正人氏の長編解説「ドゥルーズによるヒューム」もあってとても重宝だし、手
ごろな分量だったので少しずつ暇な時に読み始めたばかりのところ、久しぶり
に届いた友人(野原燐さんのことです)からのメールが第7回『哲学的腹ぺこ
塾』への誘いで、テキストはヒュームの『人性論』。シンクロニシティと呼ば
れる現象があって時折私も経験するのだが、メールを受け取ったちょうどその
日に読んでいたのが『ヨーロッパ精神史入門』(坂部恵)の「中世のヒューム
と現代の反カント」の章だったものだからこの符合にはちょっと驚いてしまっ
た。会合には欠席したし今回もまた『人性論』を読み通すことはできなかった
のだけれど、数年の時を経て再発したヒューム熱は今だに冷めない。
 それにしてもヒューム菌に取りつかれたなどと書くよりもヒューム熱に冒さ
れたと表現する方がぴったり来るのはなぜだろう。たとえば私はここ数年ベン
ヤミンという文人に強烈に惹かれ続けていて、この場合は何か物質的なものが
私の肉体に巣くっていて確実に繁殖しつつあるように実感しているし、それは
まさにベンヤミン菌とでもいうべき実体なのだと思う。

 2
 中世のヒュームとは14世紀パリの「過激」な唯名論者オートゥルクールのニ
コラウスのことで、『ヨーロッパ精神史入門』ではその《あるものごとが認識
されている、ということから、他のものごとがある、という判明な明証を、原
理ないし第一原理の確証にもとづいて導くことはできない》という文章が引用
されている。また現代の反カントに準えられているのはフーコーで、坂部氏は
『言葉と物』の有名な文章――ヒュームによって独断論のまどろみから醒まさ
れたという『プロレゴメナ』序文のカントの言葉を踏まえた《こうして、この
〈折り目〉のなかで、哲学は、新しいまどろみに入る。もはや今度は〈独断
論〉のまどろみではなく、〈人間学〉のまどろみに》や《今日、ひとびとはも
はや消滅した人間が残した空虚のなかでしか思考することはできない》――を
引用した後で《フーコーは、カントの第二の「人間学のまどろみ」を醒ますべ
き、第二のヒュームにみずからを擬しているようです》と書いている。
 ところで中世普遍論争には前々から関心があって、貨幣とは何か、魂とは何
か、言語とは何か等々を考える上で避けて通ることはできない、というよりそ
もそもそういう事柄が問題とされる精神の領域のようなものを設定したのがレ
アリスムス(スコトゥス派)とノミナリスムス(オッカム派)の対立だったの
ではないかと考えてきたし、スコラ的実在論の立場に立つパースがこの論争の
意義について独特の見解を示していたらしいことをある書物で読んで以来いつ
か調べておこうと思っていた。実は私はベンヤミン菌に侵されるずっと以前か
らパース病に罹っていて、だから『ヨーロッパ精神史入門』に出てきたパース
「形而上学ノート」からの引用[*1]とこれに対する坂部氏の解説[*2]はま
さに私が探し求めていた世界への格好の手引きだった。
 坂部氏によると、古代地中海世界に対する「ヨーロッパ世界」が確立され
「知性―理性―感覚、神学―哲学―自由学芸、という、以後数百年にわたって
ヨーロッパ世界を支配することになる思考と学問と教育制度との序列」の基礎
が据えられたのが9世紀で、以後、ノミナリズムによって神学と哲学との間に
亀裂が入った14世紀、次いで1770年から1820年にかけて第二の亀裂が哲学と自
由学芸(個別科学)との間に入り、現在は1960年以降の第三の亀裂の時を迎え
ているというのだが、この間一貫して、エリウゲナの「理解を絶しアクセス不
能な光の闇」や「神化」(テオーシス)の思想に発する精神の地下水脈が――
ニコラウス・クザーヌスやライプニッツの「垂直の個体概念」からパースの哲
学へ、そしてベルクソンの「内包的多様体」やホワイトヘッドの形而上学、ボ
ードレールの「万物照応」やヴァレリーの「錯綜体」、さらにデリダの「いま
だ名づけえぬもの」等々へと――流れていた。
 かねてから坂部氏は「ライプニッツは千年単位の天才、カントは百年単位の
天才」と主張しているのだが、もしかすると(坂部氏はそこまで明言していな
いが)わがヒュームの思考もまた「イギリス経験論」対「大陸合理論」といっ
た新カント派的な準拠枠では到底とらえることのできない垂直的な深みを湛え
ているのかもしれない。

[*1]《考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先
入観――思考においても、存在においても、発達過程においても、「確定され
ないもの」(the indefinite)は、完全な確実性という最初の状態からの退化
に由来する、という先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在
論者――「定まらないもの」(the unsettled)が最初の状態なのであり、
「定まったもの」の両極としての、「確実性」と「決定性」は、概していえ
ば、発達過程から見ても、認識論的にも、形而上学的にも、近似的なものを出
ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあるのである。》

[*2]スコトゥス派とオッカム派の対立は通常、個と普遍のプライオリティ如
何という問題をめぐるものとされるが、パースはその論争点をずらした。対立
はそれに先立って「確定されないもの」と「確定されたもの」のどちらを先な
るものと見るかにあるのであって、《…むしろ、(パースはそこまで明言して
いませんが)、個的なものをどう捉え、ないしはどう規定するかにかかわるも
のである…。/すなわち、個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが
肝心のところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分
有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直
接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的
な構成要素と見なすか。/「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところ
は、このような考え方のちがいにあるとおもわれます。》

 3
 ヒューム熱にうなされて、うっかりしているとたちどころに隣接と類似、因
果関係ならぬ時空の連続を超えた思考の系譜に沿って連想と譫妄と錯乱に陥っ
てしまう。――この隣接・類似・因果性は『人性論』に出てくる「われわれの
単純観念の統合ないし凝縮の原理」いわゆる観念連合の諸法則で、クレソン
(『ヒューム』第2章)によるとヒュームはデカルトが認めた三種類の実体の
うち物質的実体の観念は空間的時間的な隣接によって、精神的実体の観念は過
去の記憶と現在の知覚との類似によってそれぞれ連合された「哲学的亡霊」に
すぎないとして、さらに神的実体の観念というより「われわれの眼に永遠で必
然的な真理と映るとともに神にさえも課せられるすべての公理」とりわけ因果
性の原理もまた経験によって獲得された根深い習慣によって信じ込まされた観
念連合にすぎないとして廃棄した。
 またドゥルーズ(『ヒューム』第4章)は芸術・道徳・宗教という「一般的
諸規則ないし文化の体系(システム)」について、道徳を近き者と遠き者との
隣接に、芸術を情念と想像力との触発や反射・反映にかかわる類似に、宗教を
因果性にそれぞれ主として関連づけ、それらを基軸としながら叙述しているよ
うに思えて(気のせいかもしれない)それはそれでとても面白かったのだけれ
ど、これらの解説を読みながらパースの記号論、すなわちインデックス・イコ
ン・シンボルという記号三分の説をしきりと連想していて私はむしろそちらの
方が気になった。
 自分の文章を引用するのも変な感じがするけれども、隣接・類似・因果性を
めぐるヒュームとパースの「類似関係」についていちから書き始めるのが億劫
なので、ほぼ15年前パース病の初期症状を示し始めた頃の覚書を以下にペース
トしておく。
《レヴィ=ストロース(『野性の思考』)は美的創造と神話を生み出す創作行
為との違いを、美術作品の場合は「一つの共通の構造を明らかにすることに
よってそれ[一ないし数個の事物と一ないし数個の出来事の集合]に全体性を
付与する」行為から始まるのに対して、神話は逆の方向に――つまり構造の発
見ではなく、ある構造から出発して「構造をもちいて、出来事の集合の様相を
呈する絶対的事物を作り出す(なぜなら神話はつねに物語であるから)」方向
に向かう行為によって生み出される点に求めている。
 また科学と美術の違いについて、縮減模型の例を挙げて次のように指摘して
いる。すなわち美術作品の大多数は縮減模型なのだが、その特性は「縮減模型
では全体の認識が部分の認識に先立つ」こと、‘man made’であり「手づく
り」であって「対象物の単なる投影、受動的相同体ではな」くそれが「対象物
についての真の実験」であることの二点である。レヴィ=ストロースによれば
「科学のやり方が換喩的であって、あるものを他のものによって、結果を原因
によって置き換えるのに対し、美術のやり方は隠喩的である」。
 ここで対比される換喩(metonymy)・隠喩(metaphor)という比喩の二つの
型は、ヤーコブソンが記号行動の二本の軸である「連辞 syntagme 」(ある発
話の中で結合される語の横の連鎖にかかわる)と「範列 paradigme」(語形変
化表に通じ、語の縦の選択にかかわる)にそれぞれ対応させて使用したことに
依っている。ヤーコブソンによれば換喩的な言説を支えるのは隣接関係であ
り、隠喩的な言説を支えるのは類似関係である。
 ところで瀬戸賢一(『レトリックの宇宙』)はこのヤーコブソンによる隣接
性の用法が「倒錯的」であるとし、これを重層的な現実世界(仮想された世界
を含む)の時間的・空間的な隣接関係に基づく転義と概念操作の領域である意
味世界での「類−種」の包含関係に基づく転義とに分割し、前者を換喩、後者
を提喩(synecdoche)と定義している。瀬戸は「提喩と換喩は、互いに異なっ
た世界に属しているために、直接的な交渉を持つことができず、もし交渉を持
つ可能性があるとすれば、隠喩を経由した間接的なものにならざるを得ないの
ではないか」とし、隠喩が意味世界と現実世界の境界上に存在し両世界の橋渡
しをするものであることを指摘している。
 ここで明らかにされたのが「言語表現およびその基礎となる私たちの認識を
支える上でもっとも重要な役割を果たす三つ組を構成する」三種の比喩の位置
関係(トライアド)であり、瀬戸はさらにパースの記号の三分法と組み合わせ
て「換喩=指標記号(index)=隣接関係」「提喩=象徴記号(symbol)=包
含関係」「隠喩=類似記号(icon)=類似関係」という対応を導き出してい
る。》
 瀬戸氏のいう包含関係がヒュームの因果性と相同なものであるとすれば、こ
こに「物質的実体=換喩=インデックス=隣接関係(現実世界、仮想世界)=
道徳」「神的実体(公理的世界)=提喩=シンボル=包含関係(意味世界、概
念世界)=宗教」「精神的実体=隠喩=イコン=類似関係(現実世界と意味世
界の媒介)=芸術」といった対応が成り立つことになるのかもしれない。
 私としてはぜひそこに第四の比喩形象として逆喩(oxymoron)かケネス・
バーク由来のアイロニーを、第四の記号として仮面(mask)かベンヤミン由来
のアレゴリーを導入して、瀬戸氏がいう現実世界と意味世界を媒介するもう一
つの契機――超越論的なものではなく、その対極にある(トランスフォーメー
ショナルな? 物質貫通的な?)契機――を加えた四つ組(テトラド)を完成
させたいと思ってきたし、そのための突破口が古代フィリオクエ論争や中世普
遍論争やフェリックス・ガタリの『分裂分析的地図作成法』あたりにありそう
だと睨んではいるのだがこれは見果てぬ夢かもしれない。さらには未知の項を
導入して四次元世界でしか表示できない五つ組(ペンタド)を発見してもみた
いと長年思いをめぐらせているのだけれど、もはやそれは火を吐く龍や翼の生
えた馬のごとき譫妄・錯乱のなせる所業でしかない。

 4
 ヒュームの「思考の迷宮」の奥深く踏み込むこともなく近傍を漂流してい
る。ヒューム熱はこのまま私の脳髄に浸潤していって体熱と分かち難く潜伏す
ることになるだろう。このあたりでひとまず切り上げることとして、最後に
「ドゥルーズによるヒューム」から印象に残った事柄をいくつか粗描して筆を
擱く。――合田氏の文章はたとえば『レヴィナスを読む』もそうだったけれ
ど、細部に織り込まれた咀嚼しきれない大切な事どもがいつまでも原形のまま
結像しない語彙群として頭の中に残って時折間歇的に私の思考を撹乱する。こ
れとはかなり趣が異なるもののそれはドゥルーズ/ガタリの文章にも接続しう
るところがあるように思う。高速道路を移動している時や大群衆が犇くスク
リーンを眺めている時のような、剥き出しの構造か積分された時間とでも表現
できるものを垣間見ている感覚。(「情念化した想像力」=「重力化した光」
がもたらす速度感覚!)
 その一、貨幣。《ヒュームの経済理論の本質的でほとんど唯一のテーマは、
次のことを指摘するところにあると言ってよい――通常は貨幣の量に由来する
とみなされている諸結果は、実際には他のいくつかの原因に依存しているとい
うことである。そこにこそ、そうした[ヒュームの]経済学における具体的な
理念、すなわち経済活動はひとつの質的な動機づけを折り込んでいるという理
念がある。》(『経験論と主体性』第2章)――その二、超越論的経験論。虚
構的な原因性。合田氏は書いている。《私たちは、課税体系に象徴されるよう
な贈与と交換の日々を刻々生きている。》《ヒュームのいわゆる経験論の最大
の逆説は、それが、経験的所与によっては認識は説明されないという点を明確
に認めた点にある。(中略)ヒュームの経験論は、感性的経験の所与からのい
わば超越を語る、そのような経験論である。》――その三、正義論。合田氏は
「正義論の解体と構築」がドゥルーズの終生変わらぬ課題であったと自らの確
信を語っている。《つまり、経験に先立つ超越論的な「正義・公正」の法則、
それが「システム」の法則なのだ。》(『レヴィナスを読む』)――その四、
グッド・ヒューモアの哲学者ヒューム。
 個人的な註記。グラムシはマルクスが『聖家族』でフランス語の「平等」は
ドイツ語の「自己意識」に置換可能だといった趣旨のことを述べたのを踏まえ
て、カントが神様の首を刎ねロベスピエールは国王の首を刎ねた云々と書いて
いるらしい。ドイツ観念論の抽象的言語、フランス社会主義の直観的言語、イ
ギリス経験論の…、(アソシエーショニズム=「可能なるコミュニズム」と
ヒュームの観念連合…)、そしてイタリアの…。こうして私のヒューム熱は
――ベンヤミン菌が欠けた器の破片を接合しそしてまた解体する作業を永劫に
反復するのに対して、またパース病がたとえば写真、映画を通じてベンヤミン
とドゥルーズに転移していくのに対して――システムと関係と構造を経由して
感染し拡散していく。

《余録1》
 第一次世界大戦の本質はいまだ解明されていない。ある書物にそう書かれて
いた。桜井哲夫氏も『戦争の世紀』でこの戦争はヨーロッパ社会に根底的な変
化をもたらし「精神の危機としての20世紀」を生み出したのであって、われわ
れを拘束し続ける今日の政治的問題へとつながる決定的な出来事であったにも
かかわらずそもそも誰もが納得しうる戦争勃発の決定的要因ですら定まってい
ないのが実情だと書いている。
《つまり、諸国間が織りなしている様々な関係の網の目が、いつしか機能不全
となって切断されるに至ったのだ、と考えるほかはないということだろう。誰
もがこれほどの惨劇が生み出されることなど、考えてもいなかった。そして、
おそらく、この事態を生み出した要因の一つは、20世紀が生み出した「速度」
だと見なすことも可能である。》
 桜井氏はまた機関銃の出現が生み出した塹壕戦こそが第一次世界大戦で姿を
あらわした近代戦の姿であり、《塹壕体験は新たな共同体(戦士の共同体)体
験となり、その一体感(崇高なる沈黙の共有)が戦後のファシスト運動の基盤
となってゆくのである》と指摘し、ひとり、この戦争が何を失わせたのかを的
確に論じた人物がいた、それはヴァルター・ベンヤミンその人であるとして
――ジョルジュ・ソレルとベンヤミンという二人の思想家の出会いの意味を
「20世紀の政治的にして神学的問題をめぐる二つの傾向の対決の先取り」で
あったと規定した今村仁司氏(『ベンヤミンの〈問い〉』第3章)の議論を念
頭におきながら――1993年に書かれた「経験と貧困」を取り上げている。
《「経験」の崩壊は、世代間の断絶を生み、人と人との間の関係を変化させ、
「経験」や「文化的遺産」から切り離された無機質な文化を生み出し始める。
第一次世界大戦は、国民総動員の名のもとに、どこを切り取っても等質で、固
有の経験や文化を喪失した「国民」、すなわち、オルテガ=イ=ガセットの言
う「大衆」、ハイデガーの言う「ダス・マン(世の人)」を生み出した。
 かくて第一次世界大戦は、それ以前の社会や文化から世界を切断してしまっ
た。以後の世界を特徴づけるのは、「痕跡」を消した文化である。ベンヤミン
は、バウハウスの建築や作家シューアバルトが描いた移動可能なガラス住宅
は、人が住んだ痕跡を消してしまうことに注目する。人の住んだ歴史(痕跡)
が、一切残らない住居。それこそは、20世紀という、無機質な科学技術文化を
発展させ歴史意識(経験)を消し去ろうとしてきた時代の象徴とも言えるかも
しれない。
 なればこそ、ベンヤミンは、歴史のなかで打ち捨てられてきた廃物、屑を収
集し、死者の叫びを共有化する道を歩むことになる。おそらく、彼はそこに、
第一次世界大戦における膨大な死者たちの存在を意識していた。だが、彼は、
ドリュ=ラ=ロシェルやマルセル・デアとは異なって、塹壕共同体の「死者へ
の崇拝」から政治的崇高性(民族と祖国のために死ぬ)へと向かう回路を切断
し、民族や国家を越える(「法を越えて」)、つまり近代国家を越える道を模
索し続けることになるだろう。》
 私は第一次世界大戦の「本質」が問われ始めたのは坂部氏が「哲学にとって
大きな変革期、あるいはすくなくとも大きな変革期をおもわせる予兆をすくな
からずはらんだ時期」と規定した1960年代という時代だったのではないか、そ
してそこで問われたのは正義の、というより普遍的な意味での経済システムの
問題だったのではないかと考えているのだが、それにしても坂部氏が例に挙げ
ている『野性の思考』『言葉の物』(フーコー=第二のヒューム説!)『エク
リ』『エクリチュールと差異』『正義論』等々の書物、そしてまた合田氏が
フッサール由来の超越論的経験論という「奇形学[テラトラジー]に属する」
観念に関連して――ベンヤミンの「経験と貧困」に触れた後で――ドゥルーズ
とフーコーとデリダとロールズに言及している箇所を読むにつけ、そこにまぎ
れもないヒュームの「セントバーナードのような丸く陽気な顔」(ディドロ)
が見え隠れすることに驚いている。
 ちなみに合田氏は《ヒュームならびにドゥルーズのヒューム論が現代正義論
の相異なる潮流をつなぐ「失われた環」たりうる可能性を否定することはでき
ないだろう》と書いていた。付言すればヒュームと自己組織化との関係への合
田氏の言及――《…寄せ集めからシステムへという自己組織化の過程、すなわ
ち「習慣」の成立は、経験の反復よりもむしろ、いまだ経験されざるものとの
「類似」に司られているのであり…》――は来るべき「経済システム」への予
兆を示していると思う。

《余録2》
 ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』第1部の「過剰エネルギーの破局
的消費として見た戦争」の節で次のように書いている。《工業生産の余分が近
代戦争の、特に第一次大戦の淵源にあるという見方はときおり否定される。し
かしながら両次大戦がそれぞれ発汗したものはこの余分であり、それらに異常
な熾烈さをもたらしたものはその夥しさである。》(生田耕作訳)
 つまり戦争もまた経済学の、ただし「普遍経済学」のテーマであるというこ
となのだが、ここで私が想起しているのは先に第一次世界大戦の本質云々で触
れたある書物に《[人類は]貨幣をつくり、為替をつくり、株式社会や取引所
をつくりあげたはずなのに、実は経済システムについてはまだひとつとして総
合体系をもちえないでいるままなのだ》と書いてあったことだ。このある書物
とは『ボランタリー経済の誕生』のことで、共著者の一人金子郁容氏は同書の
キー・コンセプトである「ボランタリー・コモンズ」(自発する公共圏)につ
いて次のように述べている。
《ボランタリー・コモンズは、イメージでいえば、インターネット/ネット
ワークと伝統的地域共同体を重ね合せたものである。これらふたつは、一見す
るとまったく反対の方向性をもっているようで、情報についてはかなりの共通
点がある。いずれの場合も、情報の伝わり方は、契約関係や上下関係によるも
のでも経済関係だけによるものでなく、基本的には自発的な情報が互いに誘発
して伝わってゆくからである。また、情報は共有され、それが組織体の共同知
として蓄積される。企業間の競争を基礎に置く市場経済システムにおいては、
情報の独占が経済活動のエンジンであるから、システム全体としての共同知は
形成されない。伝統的地域共同体における共同知は、いいつたえであったり、
しきたりであったり、祭のやり方であったり、伝説、童謡、民話などといった
形で残される。インターネットで試行錯誤的に作られてきた通信プロトコルの
デファクト標準が共同知の典型例である。》
(http://www.hotwired.co.jp/matrix/9709/3_2.html)
 ここで出てくる「共同知」は「黙契」にかかわるものだと私は考えていて、
その意味するところは合田氏の次の文章に尽きている。――契約と隣接と換喩
と指標記号、制度と因果性と提喩と象徴記号、黙契と類似と隠喩と類似記号。
(そしてアイロニカルな第四の次元あるいは第四の言語ゲームとは?)
《ただ、人為的であるとはいえ、正義の起源はヒュームにとっては「約束」や
「契約」ではない。もしそうなら、いつでもそれを解消することができるから
だが、「正義」という「モラル・センス」(道徳感情)は、ボートを漕ぐ複数
の人間が水の流れと格闘しながらおのずとそれぞれの漕ぎ方を掴み、それが相
乗的な協働となる場合と同様に、「共通の利害に関する総対的センス」であっ
て、それをヒュームは「黙契」(convention)と呼ぶ。ドゥルーズはいわゆる
社会契約論とこの考えとの相違を強調し、『本能と制度』では、「有用性は制
度を定義するのに十分か」「制度は本能によっては説明されない」という小見
出しのもとにヒュームの言葉を引用している。
 のみならず、サド的「契約」(contract)とマゾッホ的「制度」
(institution)との対比のなかでも、「黙契」をめぐるヒュームの考え方が
応用されているのだが、契約や約束をも支えるこの「黙契」それ自体がいかに
して形成されるかという点については、ヒュームは「おのずから」としか答え
ていない。そこに、「前提なき帰結」(ブランシュヴィックがスピノザについ
て語った言葉)を看取し、それをドゥルーズの「帰結・効果の哲学」に結びつ
けることもできるだろうが、と同時に、「黙契」のいわば脱構築こそが私たち
に課せられた最大の課題のひとつであるとも言える。そこに、根源的な意味で
の「信頼」の何たるかが掛かっているのだから。》

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(なかつか・のりお)1950年代生まれ。神戸在住。震災後インターネットを始
め、メーリングリストに「表現」の場を見出す。最近、そこで知りあった「イ
ンターネット哲学集団」(!)による『ポリロゴス1 特集:ミシェル・フー
コー』(中山元編集、冬弓舎)に参加。哲学というよりは哲学者に魅かれつ
つ、森羅万象への関心を漂流させながら日々を過ごしている。(なお、『ポリ
ロゴス』は中山氏のサイト[http://nakayama.org/polylogos/]から送料なし
で購入できます。)E-mail:norio-n@sanynet.ne.jp
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n
■(編集部・註)本紙の掲載論文は、中塚氏の初稿を大幅に縮小整理したもの
で、初稿の全文は上記の中塚氏のWebに掲載されております。

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///// 現代詩 /////

           新詩集『殺佛』のこと・など

                             富 哲世
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 詩的な言表行為が事態として示そうとしている態度の過程を、果たして「詩
の思考」という風に、思考や思惟という名で呼べるかどうか、そう呼ぶことに
は少なからぬ抵抗の気持ちがある。言表事態と言表態度との意味作用における
確固たる対応を旨とする、たとえば哲学的思考、散文批評的思考と詩のそれと
は、およそ近くて遠い報復神的なモダリティの距離がある。前者的精神の思考
が、判断がどこまでも判断を追い詰めてゆこうとすることへ向かう世界解釈の
運動態であるのに対し、詩的な行いとは判断の放棄により世界を提示すること
に、その最終の絵を思い描こうとするものではないだろうか。詩とここでいう
思考とは、一方がそれぞれ他方のなかに己れを見い出そうとするとき、また同
じことだが己れの裡に他方を見い出そうとするとき、容易にオイディプスとそ
の父との関係に擬せられうる事態を生じる。詩をつくる者自らが思考の王とし
て詩のなかでふるまおうとしたり(それは幼稚さをさらけだすことにしかすぎ
ないのに)、思考の王道をゆく純粋な思考の達人にとって、詩がときとして脆
弱な知性の逃げ場所のように見えたり、また逆にたましいをかすることばの妙
技に映ったりするかもしれないのは、おそらくその理由による。詩のメタファ
とは、否を「肯」と表すことである。
 この度の詩集の題名『殺佛』の語彙は、永田耕衣の句集の題名によって初め
て知った。臨済玄義禅師法語の編纂集『臨済録』に見える語。20年程も前に読
んだその句集のはるかな残響と、印象の強烈さの記憶をも蘇らせながら、その
「殺」の事態がそこにふさわしいと思いつつ、詩集となるべき緒編を書き接い
でいた。その事態とは、訣別への意志とそのイミそのものとも、また訣別を生
きるという「思慕」の形式の一変形ともなりうるかたどりなのではないだろう
か。「訣別を生きる」とはなにも他者との訣れを生きるということのみをイミ
しているのではなく、それは自身との訣れを生きるという情動の上に立つこと
がらでもある。この詩集の暗黙の意図のひとつは、未来の悼歌からわたくした
ちはどれほど歩み出せるか(帰還できるか)、ということだったのではないだ
ろうかと思っている。近づきつつある親しい者への死のあした、震災の記憶の
なかからあらわれてきたものなど、なにか「聞き書き」のように、暮らしの主
題に見え隠れする仮構の声、その事態の声を書き写すこと。それが少なくとも
死者がそれとして「死」に拘わるときの(死が死者を殺すときの)、生きる者
にとっての「殺」のイミである。
 たとえば死のなかにある死者は、もちろん位牌のなかに、遺影や仏壇の本尊
のかたわらにいるわけではなく、わたくしのこころのなかにいるというわけで
もない。その人は、わたくしのこころのなかにもいないという不在のなかにあ
ることでのみ、そこにいるのであり、わたくしがこの世に出会える人たちとの
ドーブルでありうるのである。その「どこにももう居ない」ということの再認
の想いは、その人の死が許されたようにわたくし自身にもそれが許されたのだ
という発見の想いへと連なり、それは恐怖心の消失といくばくかの答えのない
しづまりを、わたくしに示して呉れる。
 詩的行為としてのその「殺」は、「一編の詩が生まれるためには、われわれ
は多くのものを殺さなければならない」という、それが死者を蘇らせるただひ
とつの道であるという田村隆一の『四千の日と夜』の想念とも、背景の異想を
越えてどこかで重なってくるのかもしれない。これらの想いは今、祈りのそば
にあるものの姿をわたくしに見させて呉れようとしている。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(とみ・てつよ)神戸市生まれ。獅子座。詩集:「血の月」1993年。「天人五
衰」1999年。「めらんじゅ」同人。

●●●●新刊案内●---------------------------------------------------

 詩集『殺 佛』(めらんじゅ叢書第2巻)
 富 哲世・著
 装幀:いのうえ・なおこ http://www5a.biglobe.ne.jp/~maoniao/nao.html
発行:ルナ企画/定価1500円+税/B5判・40頁

見えない法則に灰色に光る/猫の目のむれを/角のとれた昼の会話で愛し/藁
塚の家で育てている。/たとえば病棟にたとえられる/深夜の廊下で/雨の朝
には出会いたくない/能く死んだ人たちのモップの音がひびく。/古いのぞみ
を掃いて/閉じてゆく薄明かりの下/舌をからめ、つどうものらを/ひとり育
て(「詩集」より抜粋)

■ご注文は、るな工房でも申し受け回送いたします。
ルナ企画 〒650-0022 神戸市中央区元町通6-5-8松尾ビル4F
TEL:078-362-2650/FAX:078-362-2680/E-mail:runa@intercity.or.jp

●●●●インフォメーション●----------------------------------------

 ■YASUNARI TAMAI SOLO DANCE "UNGAINLY"■
 玉井康成独舞『ザマ』

 ●日 時:2000年06月10日(土) 午後7時開演
 ●出 演:玉井康成
 1963年東京生まれ。83年より田中泯主宰の舞塾に参加。85年より山梨県にて
 身体気象農場の一員として農民となり、農業から生まれる踊りを探る。同時
 にソロ活動も行う。現在、桃花村のメンバーでもある。
 ● 音 :戸田象太郎(SOUND:ZOTARO TODA)
 ●料 金:2000円(当日のみ)
 ●会 場:茶臼山舞台 (JR天王寺駅北へ徒歩7分)
 ●問合先:TEL06-6393-0089

●●●●インフォメーション●----------------------------------------

 ■今 貂子と綺羅座舞踏公演■
 アー・トナウ2000 ダンス・パフォーマンス’参加
 「恋心願望―おっとさんからの手紙」神戸版

 ●日 時:2000年07月16日(日)午後2時より
 ●場 所:兵庫県立近代美術館
 ●料 金:美術展チケット
 ●問合先:TEL/FAX075-525-4467あるいは携帯090-7098-2869

●●●●インフォメーション●-----------------------------------------

 第10回「哲学的腹ぺこ塾」例会
 日 時:00年06月18日(土)午後12時から
 課題書:シモーヌ・ヴェーユ「神への愛と不幸」
    (シモーヌ・ヴェーユ著作集4巻『神を待ちのぞむ』所収・春秋社)
 報告者:栗田隆子
 場 所:るな工房/Chat noir Cafe′
 問合先:山本繁樹(TEL:06-6320-6426/E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp)

■編集後記■---------------------------------------------------------
★ジェンダーやセクシュアリティに関して偏見や差別意識を持っていない人は
いないと思う。僕の場合、そうした自分が持つ偏見は、セクシュアル・マイノ
リティの「他者」との具体的出会いの中から気づいた。だからそれを克服した
いと思う。だからさしあたり、その偏見や差別意識をできるだけ飾らないかた
ちで表現し、自分で認識し、他人に批判してもらうようにする。しかしその行
為は同時に「他者」を傷つけていることでもある。もちろん僕は差別意識だけ
で構成されているわけではないだろう。でも差別意識の表出は、いかにも自分
がそれだけで構成されているような気分になるし、他人をもそうした気分にさ
せてしまう。つまり、差別を乗り越えるためにお互いが傷んでいる。このよう
な傷つきはどうしても避けられない「手続き」なのだろうか。   (田中)
★今回は、『La Vue』2号と並行しての編集作業で、2誌・紙同時発行
の割には、掲載原稿が早々と入稿していたので、精神的ゆとりがあった。しか
しメルマガ版と違って、ペーパー版の編集作業は段階が多くて手間と校正作業
にはより一層の神経を使うが、やはりリアルの手触りはなんとも捨てがたい。
巷ではIT革命という幽霊が彷徨いているらしく、これに対応できるか否か
で、今後は情報格差による所得階層が明瞭に分離するとの予測がある。それに
応じて21世紀の思想・文化・出版モデルは、どのように変貌するのか、あるい
はしないのか、見極めたい。                  (山本)

●○●---------------------------------------------------------●○●
           『カルチャー・レヴュー』11号
 2000/06/01
    編集委員:小原まさる・田中俊英・加藤正太郎・山本繁樹
発行人:山本繁樹
発行所:るな工房/シャノワール・カフェ
E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX 06-6320-6426
■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
       ■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
Copyright(C), 1998-2000 許可無く転載することを禁じます。
●○●---------------------------------------------------------●○●

■本誌へのご意見・ご感想は、下記のWeb「猫の砂場」(掲示板・会議室)
 または「るな工房」までメールでにて投稿をお願いします。
 http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
■実費のみのオフ版(郵送版)もございますので、お問い合わせください。
■このメールは半角70字(全角35字)詰めで構成しております。レイアウトの
 ズレがある場合は固定(等幅)フォントで修正してお読みください。
■本誌は「投げ銭システム推進準備委員会」の趣旨に賛同します。
 http://www.nagesen.gr.jp/〈投げ銭フリーマーケット稼働中〉

 

◆200001
頌  春

大過なく2000年問題もクリアーされて、長閑な元旦を迎えました。
みなさまは如何でしたでしょうか。
日頃は、「カルチャー・レヴュー」をご愛読いただきお礼申し上げます。

さて、本が売れなくなったと叫ばれて久しいですが、「本の危機」とは何で
しょうか? 読者は、何処に?
現在、Webで公開読書会を開催中です。テキストの「ルネッサンスパブリッ
シャー宣言」(松本功・ひつじ書房)もWebで公開されていますので、奮って
ご参加ください。

■公開読書会のURL http://www.page.sannet.ne.jp/hpri/runepub.html
■「ルネッサンスパブリッシャー宣言」のテキストURL
  http://www.hituzi.co.jp/hituzi/runepub.html

この出版業界の長期的な不景気は、過去に類例をみないほどの厳しいものです
が、私はどっこい生き延びていますよ。
昨年は、オリジナルTシャツをWeb販売したり、メールマガジンに加えて、
季刊・評論紙「La Vue(ラ・ウ゛ュー)」も創刊しました。
かくて「前へ、まえへ〜」と突き進むべく、奇声ならぬ気炎をあげて中年は
新世紀を目指すのであります。

旧年中は格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

            2000年 元旦

         る な 工 房 房主山本繁樹

■PS 東京方面の読者の方々へ
年末に「La Vue」を、神田神保町の「書肆アクセス」と中野ブロードウェィの
「タコシェ」に送付しましたので、店頭で入手出来るかも知れません(出来な
いかも?)ので、よろしく!
■京阪神地区の配布状況はWebに掲載していますが、現時点での在庫は保障の

りではありませんので、悪しからず!

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るな工房/Chat noir Cafe′山本繁樹
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX:06-6320-6426 E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp 
■Web評論マガジン「カルチャー・レヴュー」(2000/01/01最終更新)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
■季刊紙「La Vue」創刊(京阪神地区のみ配布)
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<投げ銭システム>をすべてのWebに!http://www.shohyo.co.jp/nagesen/


REV: 20160630
BOOK  ◇雑誌