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知的発達障害者刑事弁護センター


last update: 20160630


知的発達障害者人権センター基金                        2007.8.30
会員・支援者 各位
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ニュースレター・85

−今回は、ニルス・クリスティという人の著作を中心に−


 前略。8月下旬となってもまだ暑い日がつづきます。私はこの夏、少々体調を崩して日常をスローペースにしてきましたが、そんな不調の中で、最近、私に とって大きな励ましというか力というか、元気にさせてくれる"本"に出会いましたので、その本から与えられた元気のさめてしまわぬうちにニュースレターを 書くことにしました。この本を是非とも皆さんに読んでいただきたいという思いがありますので、紹介します。

あらためて、「福祉施設の劣悪な代替物としての刑務所」でいいのか−


我が国の刑務所の実態から
 私はニュースレター80<刑務所特集>の中で、浜井浩一さん(龍谷大)の『犯罪不安社会−誰が不審者?』(光文社新書)の著書をとりあげ、「あきれる 塀の中の実態/社会的弱者ばかりが収容され、刑務所が内部から崩壊しようとしています。そんな"崩壊"を福祉が支えてはなりません。」と報告しています。 浜井さんはその本の中で、刑務所は「福祉の最後の砦か」として、「社会が不要となった人材を刑務所に捨てているのではないか。」「そもそも、現在、刑務所 に収容されている受刑者は、本来、刑事司法の中で刑務所が設計された際に想定された人たちなのだろうか。」「地域社会がセイフティネットからこぼれた社会 的弱者を不気味な不審者として排除する以上、不審者の行きつくところは・・・・警察に捕まることでしかない。」「他に受け入れ先がない限り、絶対に受け入 れを拒否しない刑務所に集まるのは自然の成り行き」と書いていることを紹介しました。
 浜井さんは、紹介した文章をみればわかる通り、刑務所が福祉・セイフティネットとして"最後の砦"となっていることを決して肯定はしていません。私が以 前から繰り返し主張してきたように、我が国の刑務所には65才以上の高齢者と知的障害者が驚く程収容されていて、その収容率だけをみれば、おそらくあの刑 務所産業大国のアメリカをしのいでいる実態があります。犯罪白書で、<犯罪者の処遇>を特集した平成16年度版でも、その成年受刑者の中の年齢層別構成比 (主要欧米との対照表)をみても、60才以上の受刑者は、日本は11%、イギリス・フランス・ドイツで2〜3%台、そしてアメリカが3.1%となっていま す。そのうえでこの犯罪白書の「しめくくり」には、「犯罪を繰り返す高齢者に対する抜本的な方策を見いだすことは容易ではないが、刑務所が老人ホームに類 似した役割を担わざるを得なくなるような事実は回避しなければならない。」としています。そうはいっても、現実では、我が国の刑務所は社会的弱者がこの社 会から落ちこぼれた末の"行き先"となっているわけです。
 もうひとつ、我が国の刑務所の問題として、過剰収容があります。急激な受刑者数の増加から、刑務所はとにかくすし詰めとなってきています。同じく平成 16年・犯罪白書では、<過剰収容の深刻化>という独自の章をたてて、緊急事態宣言(刑務所側からみれば"叫び")をしています。10年前(平成7年頃) までは、刑務所収容の受刑者は長く3万人台できていたものが、平成7年以降、とりわけ平成11年から毎年3千人、4千人とふえつづけ、平成15年度には6 万人を超え、そして平成18年には7万人を超えるという事態になっています。犯罪の急増や凶悪化もないのに、10年で受刑者が2倍近くふえるという事態を どうみるのかという問題です。

犯罪化・重罰化の背景と問題
 浜井さんは、前記した著書の中で、犯罪の凶悪化は進んでいないし、重大犯罪が急増したわけではないことを、犯罪統計資料をもって検証されています。要す るに、ここには我が国の刑事司法(刑罰)システムが急変してきたこと、警察・検察など犯罪取締機関と裁判所において、新たな視点にたつ重罰化(厳罰化)と 犯罪化が<犯罪のない社会/体感治安の悪化>を理由に推進されてきているといえます。
 この犯罪化の問題は、10年・20年前では、社会的に嫌悪される行為や犯罪的な行為をなし少々の被害を生じさせた「事件」でも、直ちに警察に通報されそ の人の「素性」や事件の「社会的背景」を抜きに刑罰を科する犯罪化の視点から逮捕・取調べへとはならず、そして検察が起訴し実刑を強硬に主張する重罰化へ ともならず、さらに裁判所は、いまほど実刑を科し重罰の判決をくだすことはありませんでした。今、無期懲役、死刑判決は以前に比べると異常なほどふえてい ます。
 そのような刑罰システムの"変化"の中で、重大な問題として、新たに我が国にも民間刑務所、要するに刑務所産業がつくりだされてきているということで す。単純に民営化ととらえるべき問題ではありません。ここには、刑罰システムの"変化"として、刑罰という公的分野に、アメリカにならった利潤を獲得する 刑務所産業の創設という"産業化"があるといえるのではないでしょうか。そこから、冒頭のあげたテーマ<刑務所が福祉にとって代わろうとする実態・動きを どうみるか>という課題になってきます。福祉の"現場"が刑務所産業にとって代わられてはなりません。その刑務所産業が刑罰システムの主流(権力)となっ てしまい、とりかえしのつかない悲劇というか荒廃をうんだアメリカの実態をみれば、おそろしい社会への変貌であることがわかります。
 ここで少々唐突なことをいうなら、私らが支援し弁護としてかかわるこの人たち、知的障害や発達障害をもつ人たちの"弁護"とは、我が国の急変していく刑 罰システムとの"関係"が問われている事件だと、私は考えています。今の犯罪化・重罰化の刑罰システムに対して、正直にいうなら、対抗的なもっと別の処遇 システムがあることを、それが私たち人間の価値をふまえた選択であることを、被告人となったこの人たちの"人生と人格"からどれだけ認識し弁護しうるかだ と、そう思っています。

アメリカの刑務所産業/民間刑務所とは
−犯罪化された社会的弱者に対する営利を目的とした強制収容所−


アメリカの刑務所を知っているか/
 私たちは、アメリカという社会が著しい格差から膨大な貧困層をうみ、その底辺の人たち(中心はアフリカ系アメリカ人、ここでは黒人といいます)の犯罪化 を<国内の戦争>と呼んで、犯罪と闘っている社会、犯罪取締りの「先進国」というイメージをもっています。ただ、その<犯罪との戦争>といわれる実態がど うなっているかを私はほとんど知りませんでした。私にしてそうですから、多くの人もそうではなかったかと思います。
 ここで<ニルス・クリスティ>の2冊の著作、『司法改革への警鐘』(これは日本版の題名で、原題は「産業としての犯罪取締り」というものです。私には原 題の方が本の内容にふさわしいし、また私たち日本の読者層にも訴えたと思います。/2001年・平成13年発行、信山社)、そして最近出版された『人が人 を裁くとき−裁判員のための修復的司法入門−』(原書は2004年・平成16年に発行され、日本語訳は2006年12月/有信堂)から、アメリカの刑務所 事情、とりわけアメリカで民間刑務所がビジネス・刑務所産業として大成功して"隆盛"をきわめている実態の1部を報告いたします。
 アメリカは、世界最大の刑務所国家です。ニルス・クリスティはノルウェーのオスロ大学の犯罪学教授で、世界的に著名な「行動する」犯罪社会学者です。 『人が人を裁くとき』の本の中に紹介されていることですが、クリスティがアメリカのテキサスの地で開催された、この本の推薦者である国連アジア極東犯罪防 止研修所の新海浩之氏も参加する研修で次のような講演をなしたというのです。新海氏は、(クリスティ教授が)『アメリカで最も懲罰的とされるテキサス州 で、刑務所人口を増やし続けるアメリカの犯罪対策がナチスのホロコーストに類似していると、淡々とした口調で説く姿とその内容に深く共感したことを覚えて いる。』と書かれています。

ニルス・クリスティの「本」からの驚き
 とにかく、アメリカ・刑務所大国の規模と内容は、我が国とは全くけた違いだということです。クリスティ教授は、その刑務所の実態をアメリカにおける「奴 隷制の復活」として、圧倒的な多数の黒人受刑者に対する無権利状態によって収奪する囚人労働をまざまざと示してくれています。まさにナチスのホロコースト というべき実態です。なお、このクリスティ教授は、学者としてナチス・ホロコーストの実態解明の研究から犯罪社会学の研究に入った人です。
 そしてもうひとつ、あとでくわしく紹介したいと思っていますが、クリスティ教授はノルウェーの知的障害者の人たちの"村"に住み、この人たちとともに長 く家族のように暮らしてきている人でもあるということです。だから、私がこのクリスティ教授の「犯罪と刑務所」の実証レポート(本)とともに、その本に流 れる人間としての<思想>にほれこむ気持ちをもったといえるのかもしれません。

刑務所産業複合体とは
 『アメリカ経済のダイナミズムの源は、<規制のない>労働市場と政府による<非干渉主義>的スタンスであるとよく聞かされてきた。しかし、これほど現実 から程遠いものはない。アメリカの労働市場は、どのヨーロッパの国よりも規制されており、政府は干渉主義である。違いは、規制の量にあるのではなく、合衆 国内で実行されている規制の種類にあるのだ。・・・合衆国労働事情に対する軍産複合体の影響がエコノミストやその他の社会科学者の間で広く認識されても、 刑務所産業複合体については同じことはいえないのである。防衛産業への公的支出が・・・刑務所産業の2倍であることは事実だ。一方、アメリカの刑事システ ムにおける<労働集約的な性格>からすると、刑務所への支出は<資本集約的な>防衛支出よりも労働市場にはるかに直接的影響を与える。』(「司法改革への 警鐘/生産活動としての犯罪取締・生産活動としての刑務所」から)
 『アメリカは、現在、210万人以上の囚人がいる。つまり、人口10万人あたりの囚人730人、0.7%である。・・・これらの囚人に加えて、保釈、仮 釈放、執行猶予が470万人いる。つまり、2003年には680万人のアメリカ人が刑事機関のなんらかの監視下にあるということだ。それはアメリカの全人 口の2.4%にあたり、15才以上の人口の3.1%にあたる。』
 『アメリカ西部の黒人は、奴隷解放によって自由になった。どこへでも自由に移動でき、黒人差別パスの廃止により、バスの前部にも座ることができるように なった。やがて北部へも行き、都会に住み、そこから今度は刑務所へ送られるようになったということである。黒人男性人口10万人あたり、2001年には 3,535人が投獄されている。白人男性は462人である。高い囚人数は、奴隷制度の伝統につながっている。』(ともに『人が人を裁くとき』の「第4章・ 投獄という解決」の章から)
 ところで、我が国の「刑事施設収容人員の推移」についての統計(平成18年度犯罪白書)によれば、「受刑者及び未決拘禁者等の一日平均収容人員」とし て、2003年(平成15年)は71,889人、そして最新の統計である2004年(平成16年)は75,289人と報告しています。2004年度の人口 10万人あたり(総人口・1億2千7百万人とする)収容率にすれば、<60人>ということになる。その人口10万人あたりでの<60人>は、アメリカの <730人>と対比すれば、刑務所化はすすんでいないといえます。ノルウェーやフィンランド、スウェーデンなど北欧諸国(スカンジナビア諸国)と同じレベ ルです。それでも、その60人の中味をみれば、前記したように、社会的弱者が、刑務所大国のアメリカをはじめ欧米諸国と比べれば著しい比率となっているわ けです。
 クリスティ教授は、『人が人を裁くとき』の「日本語版への序文」の中で、『本書が日本語で出版されることをたいへん嬉しく思います。』という書き出しか ら、『まず、第1に、日本はある重要な点で我が国ノルウェーと似ています。それは、ともに囚人数が少ないということです。この点で日本は抜きんでており、 人口10万人あたりの囚人数はわずか60人であり、ノルウェーでは69人です。・・・合衆国(アメリカ)では市民10万人あたり730人が投獄されている ことになります。』としたうえで、最後に、『1992年の日本では、人口10万人あたりの囚人数は37人でしたが、現在では60人になっています。ノル ウェーでは1992年の58人が今では69人になっています。ここに、本書が取り上げる問題が出てきます。つまり、<犯罪の適量>ということです。犯罪件 数や囚人数のような公的数値の増加は、"警告"として解釈できるものです。投獄その他の刑罰を増加させても、犯罪そのものに対して影響を与えることはでき ません。しかし、その数値を使って、社会が正しい道を歩んでいるかどうかを知ることができるのです。』と書いています。
 そうだろうと思います。私は、1992年の37人がその10数年後に60人にふえていることの"意味"、それは前記した統計の「社会的弱者」の視点から みれば、約4万人の受刑者が7万人を超える受刑者になる増加は決して無視される変化ではないといえます。

−刑務所の産業化/民間刑務所は何を意味するだろうか−


 クリスティ教授は『司法改革への警鐘』で、アメリカの民営化された刑務所産業の現状、そして、いかにして刑務所市場が大企業の下におかれ巨大市場へと化 していったか、現在のホロコースト(囚人奴隷)をつくりあげてきたかを、その歴史と構造の検証をふまえて論説しています。とにかくすさまじい民間刑務所の 実態です。
 『人を裁くとき』の訳者のひとり、大東文化大学の平松毅教授は、その巻頭言「クリスティの人と業績」の中で、次のようにアメリカの民間刑務所の実態と社 会的機能をまとめられています。
 『アメリカでは、ここ15年間ほど毎年1000人規模の刑務所が100ヶ所ほど建設されている。それに伴い、刑務所関連の建設・給食・警備などの刑務所 依存産業が急成長し、それが囚人数増加への圧力団体となっている。刑務所が民営化すると、刑務所の公共的機能よりも事業収入が刑務所産業に対する事業評価 の基準となる。できるだけ少ない人員・経費・設備で、できるだけ多くの囚人を収容し、それを効率的に管理することが、刑務所産業の目標となる。囚人数の減 少は経営を悪化させる。犯罪があるから刑務所があるのではなく、刑務所があるから囚人は増加する。判断基準となるのは、犯罪人を放任した場合の犯罪取締の 費用と、それを刑務所に収容した場合の比較なのである。犯罪はもはや矯正(教育)の対象ではなく、戦いの対象となり、隔離すること自体が目標となったので ある。』と。
 また、『人を裁くとき』の本の最後のところで、クリスティ教授は、自分がその自由の国・アメリカを愛する心情をもつ者であるとしながらも、<福祉の代わ りに刑務所を用いる国・アメリカ>を厳しく糾弾しています。『アメリカは、世界で最も富める国である。にもかかわらず、福祉の代わりに刑務所を用いる国で ある。たえず自由について語る国でありながら、世界最大の刑務所を有している国である。奴隷制度廃止のために、激しい市民戦争を闘った国である。にもかか わらず、刑務所には異常なほど黒人が多い。』そして、『アメリカの刑事政策は、自国民にとっても人間としての価値への脅威となっている。/危険なのは、我 々がアメリカの基準に呼応し、屈服してしまうことである。』と訴えています。(『司法改革への警鐘』の末尾、「世界チャンピオンのアメリカ」から)

利用される犯罪/犯罪を促進する国家
 私は、アメリカの刑務所大国をつくりだした原因は戦争ではないかと、アメリカはこの100年、常に戦争をやってきた国です。そこから国内の犯罪対策も戦 争だとしてきました。膨大な貧困と被差別から噴出する社会の問題に対し、社会の亀裂として緩和する社会政策ではなく、犯罪として徹底的に取締り撲滅すると いう過酷な犯罪対策をとり、それを<国内の戦争>と位置づけています。戦争ゆえに、その戦費と装備はとどまることなく政府から容認され、投じられてきまし た。そして、その費用をおさえるためとして民間刑務所・刑務所産業をつくり、さらに刑務所の受刑者を"敵"とする過酷な体制を推進してきています。その結 果つくりだされたものが刑務所産業複合体であり、その利益と効率を図るためにナチスのホロコースト、ソ連・ロシアの強制収容所の構造に似た刑罰システムが うみだされてきました。刑務所産業にとっては<利用する犯罪>であり、<犯罪を促進する国家>が形成されてきたとクリスティ教授は指摘しています。
 政治がその刑務所産業の育成を果たしています。クリスティ教授は『人が人を裁くとき』の中で、現代では政治家は犯罪取締りを自分の見せ場とするように なったと、『犯罪が政治にとって残された主要な舞台なのだ。この舞台では、自分を豊かな消費者と共通の価値観をもつ、投票されるにふさわしい人物としてア ピールすることができるのである。ほとんどどこでも、自分をあるいはその政党を、犯罪と闘うリーダーであると誇示するための激しい競争がある。ビル・クリ ントンは犯罪に対する態度でこのことを示し、トニー・ブレアも、ジョージ・ブッシュもそうしている。通常、政治家や政党は、お互いにより厳しい手段を主張 しあうのが政策となっている。ほかに見せ場はほとんどないのである。犯罪と定義されるものとその取締りとが圧倒的に重要となってきた。』としています。
 そのような政治・権力の厳しく犯罪と闘うという政策が、民間刑務所を中心とする膨大な<刑務所産業複合体の形成とその政治的社会的な力の影響力>、そし て司法における<刑罰システムの犯罪化・重罰化>と<均一の抽象化された刑罰量刑システムによる統制>という、現代の「ホロコースト」を支える司法の体制 を築いたといえるだろうと理解しました。

アメリカ・刑務所産業複合体の実態
 クリスティ教授の『司法改革への警鐘−刑務所がビジネスに−』の本には、何故、このような巨大な刑務所産業をうみだし、巨大な刑務所で囚人を「奴隷労 働」のように酷使し、利益をあげていく体制がつくりだされていったか、が検証されています。
 そのアメリカでも1980年代当初の頃、今から約30年前までは、アメリカの囚人数が人口10万人あたり200人を超える実態に強く憂えて、囚人数をへ らすべきだという警告を発する大学教授や専門家がいたことを書いています。<これほどの囚人を刑務所に収容しておく資源はなく、経費はかさむ一方だ。破綻 するときがくる。><心底びっくりしている。驚くべき増加だ。><ますます恐ろしい事態になっていく。>というシカゴ大学をはじめ犯罪学の専門家らの言葉 を紹介しています。それが民間刑務所への大企業の進出から、刑罰システムが刑罰市場へと<生産活動としての犯罪取締>に変貌して拡大成長してきています。
 そして今では、アメリカの国防産業に比肩されるべき刑務所産業複合体が形成され、その産業体が決定的にアメリカの政治と経済を左右するという事態にまで なっています。そのすさまじさをみると、アメリカはその人間の価値基準<自由と人権>からいうなら、もうあともどりできない地平にはまって、立ち往生して あとは崩壊を待つだけの事態になったのではないか、と思わざるをえません。

我が国の民間刑務所への動き
 平成19年4月に、山口県美弥市に1000人収容の民間刑務所(名称は「社会復帰促進センター」)がオープンしました。マスコミはその快適な様子を報道 していましたので、見られた方も多いと思います。平成16年犯罪白書では、刑務所・過剰収容の打開策として、「PFI手法を活用した新設刑務所の整備・運 営」について次のような解説をしています。
@『PFIとは、民間の資金・経営能力及び技術的能力を活用して、公共施設等の建設・維持管理・運営等を行う行政手法であり、<民間資金等の活用による公 共施設等の整備等の促進に関する法律>に基づく制度である。・・・刑務所という「治安インフラ」を効率的かつ効果的に整備しようとするものであり、<民間 にできることは民間に>という構造改革の基本方針に従い、雇用創出や経済効果をもたらすことをもねらいとしている。』
A『具体的な事業の方式としては、PFI事業者が自ら資金を調達して施設(刑務所)を建設・所有し、事業の期間(20年間)にわたって施設の維持管理・運 営を行ったあと、事業期間終了時点で施設の所有権を国に移転する方式、BOT方式が採用されており、PFI事業者は、毎年度、国から委託費の支払い を受け ることによって収入を上げるという、いわゆるサービス購入型の利益が採用されている。』
Bそして、<導入にあたっての基本的考え方>として、『例えば、保安・作業・教育といった分野においては、大幅に民間委託をすることが検討されており、た だし、武器や戒具の使用、被収容者に対して行われる各種の処分など権力性・専門性が高い業務については、公務員である刑務官が行い、・・・米国や英国で見 られるような、すべての業務を民間事業者が行う<民間刑務所>ではなく、公務員である刑務官と民間職員が協働して運営する<混合運営施設方式>(ドイツや フランスにみられる)が構想されている。』
 などと書いていますが、ただ、その平成16年犯罪白書の"趣旨"をよく読むと、民間刑務所への動きを現場サイドからは慎重に、アメリカの民間刑務所への イメージがかさならないように、/当時の小泉構造改革との"調整"をふまえて解説しております。
 あらためて、ここで、前記した浜井さんの著作『犯罪不安社会』の"意味"を考えてみれば、刑務官をはじめとする刑務所サイドでは、我が国の民間刑務所へ の動きをもろ手をあげて賛成しているわけではないことがわかります。(浜井教授は、法務省職員として長く我が国の犯罪と刑務所の実態の調査と統計にかか わってきた人です。) 私からいうならば、刑務所の"増設"という方向ではなく、現在の過剰収容を現実的になくしていく、刑罰・処遇システムの再構築こそが求められている 刑事政 策だといえます。浜井さんから、私が参加した講演で教えられたことは、現在の過剰収容は犯罪の増加・凶悪化にあるのではなく、犯罪取締機関の肥大 化への要 求、そして裁判所の重罰化の流れ、加えて犯罪不安をあおることで国民の関心を得ようとする我が国のマスコミの動き(世論操作等)からうみだされてきたもの といえるのではないでしょうか。
 受刑者を減らすために、例えば、刑務所からの仮釈放をよりすすめていくこと、裁判所が重罰化の量刑システムから個々の受刑者の社会的背景と事情を重視し て執行猶予率をあげること、長く刑務所にとどまる長期刑を減らすこと、さらには犯罪取締機関が犯罪化だけでなく、犯罪の実情に応じた取り組みをなすこと、 そして、そのような刑罰システムの対象とされ出所する人たちに対する社会での支援システム、つまり、さまざまな福祉司法の分野を強化していくこと、それら の施策がまずもってなされるべきだろうと考えます。刑務所への収容を、あたかも福祉でありセーフティネットの如く理解し、それを容認することは、刑務所の 現状の"改革"には決してつながるものではありません。
 刑務所とは、人に苦痛を与えるために存在する施設です。人をより苦しめ、傷つけ、罰することで、人が自ら"人間としての価値"を学ぶこと など、私には信 じられません。人として生き直す機会(反省することでもある)を与えることを重視した刑罰システムであるべきです。刑務所の産業化としてのPFI方式によ る民間刑務所が、現状の改革につながるとはとうてい思えません。

ニルス・クリスティの思想と生き方について


クリスティ教授と知的障害をもつ人たちとの暮らし
 最新刊の『人が人を裁くとき』の第2章「地域社会の崩壊と単一文化の成立」の中で、クリスティ教授は、自らの生活史を書いています。その章の<共同体か ら学ぶもの>として、ノルウェーにある知的障害をもつ人たちの"村"での暮らしを語り、私たちの社会が高度に産業化し、貨幣と消費を中心とする構造になっ てしまって、人と人との大切な連帯・つながりが奪われてきたことを、知的障害をもつ人たちの"村"(共同体)の視点から、"刑務所社会"を厳しく批判して います。この本は福祉の本ではありません。その"自分"の記述も、あくまでクリスティ教授自身が"生きる"にあたって何を大切としているか、人間の価値と して何を中心にすえているかの"思想"をわかりやすく伝えるために書かれています。クリスティ教授の思想は、その知的障害をもつ人たちとの共同の暮らしに よくあらわされています。
 私は、ノルウェーの知的障害をもつ人たちがひとつの村として<外の市場>の論理と価値に対抗的につくりあげた共同体の暮らしに、なんともいえぬ魅力を感 じさせられました。<共同の帽子の中にみんながお金を入れる>という言葉が何度か繰り返されています。「この村では、仕事の誘因としての金銭について語る のを聞いたことがない。働く理由は、なすべき仕事があるからである。全員が働いている。懸命に働く人がいれば、楽々とできる人もいる。しかし、金銭を仕事 の理由とすることはない。/英語では労働(labor)と仕事(work)の概念は違う。労働は重荷であり、歴史的には苦痛と関係している。仕事には達成 感がある。芸術の創造に近いものがある。金銭は創造活動を脅かすものである。仕事が金銭を得るための道具になると、労働へと変化する。」として、このよう な仕事と暮らしの中にいる自分たちのことを<特権的生活をしている人>としています。それは皮肉ではなく、正直な評価の言葉として表現されています。

クリスティ教授の本から、かいま見える福祉論
 クリスティ教授は、その本の中で、「私は、何年間も長くこれらの村にかかわった経験をまとめて、『孤独と施設を超えて』(1987年)という著書にし た」ことを書かれています。その本の題名にもひかれます。その本のところで、『2年前(2001年頃)に、イタリヤ語版の序文を依頼された。およそ15年 前に私が初めて村に住んだときから今日までに、(村は)どのように発展したのかを書いてくれと編集者から頼まれたのだった。そのとき、私は少し面食らっ た。』として、<何故、発展しなければならないのか>と。そして、『まず、村の主要な活動を考えるとき、村人の視点をおくことである。村人 の中には歩行の 困難な人もいる。そこで村の大きさにも限界が生じる。官僚制度を受け入れないのも同じである。規模が大きくなれば、そのような制度を拒むことは難しくな る。動機づけとして、金銭を排除することもそのひとつである。金銭を使って現代的な大建造物を建てても得るところはないどころか、逆に"発展"は生活の質 に脅威をもたらすだろう。関係者が増えれば増えるほど、緊密な人間関係は減っていくからである。』と書かれています。
 そこからクリスティ教授は、子どもと犯罪、家庭と犯罪、重い自閉症と思われる人の公園での犯罪、老人と犯罪、福祉と犯罪というわかりやすいテーマと題材 をあげて、<犯罪とは何か>を論証しています。そこには知的障害をもつ人たちの"村"でともに暮らし、生きている人間ならではの温かい論説があふれていま す。

岐路にたつ福祉国家について
 クリスティ教授は、『司法改革への警鐘』の中で、「古い福祉国家は、今、不安定な均衡状態にある。破綻を免れることができるのは、おそらく比較的安定し た経済状態、福祉国家としての長い伝統、そして均質で少ない人口を有する国々であろう。」として、そのような流れへの対抗的な取り組みを刑務所社会になら ない"道"として論じています。その記述の中で、私がクリスティ教授の"論"にもう少し説明を求めたいと考えさせられたところを紹介しておきます。
 福祉国家としての政策が後退していく流れの中での<守りの姿勢>の問題をとりあげています。ひとつは、ソーシャルワーカーが自らの職務を守るために福祉 の受給者との間にますます距離をおこうとしていること、そしてもうひとつは、<いわゆる施設からの解放運動がもたらしたもの/刑務所化への動き> としてい ます。
 『この運動は将来、これらの福祉国家において、刑務所に圧力をかける動きとなっていくだろう。この動因は、他国と同様に、<ノーマライゼーション>に向 かう動きから生じている。精神障害者施設及び特殊学級は廃止されてしまった。そのスローガンになったのは<通常に帰れ>である。ここから2つの結果が生じ るだろう。対応できずに結局、刑務所にいくことになる障害者がでてくるかもしれない。しかし、もう1つの側面もそれに劣らず重要である。<施設から の解 放>は、施設が消滅することを意味しない。これらは空き屋になり、前任者には仕事がなくなる。ここから、ある圧力と誘因が生じる。これらの建物のいくつか は容易に刑務所に転用することができ、職員は刑務所職員に転職させることができるということだ。』と。
 私は今、脱施設と刑務所化との"結合"に強く危惧していますが、それを的確にクリスティ教授は指摘しています。市場化を核とする「福祉国家」への攻撃と その政策の変遷が、「ノーマライゼーション」の動きとかさなって"自己責任"へと転嫁し、この人たちの"底辺の支援"をつき崩して、犯罪者化と刑務所化を すすめる"おそれ"は、あらためて主張するまでもなく、"現実"として登場してくる問題だといえるでしょう。

犯罪は存在するものではなく、つくられるものだということ
 ニルス・クリスティ教授は、犯罪というものはあたかも自然現象のように存在し発生してくるものではないということ、犯罪とは、その国家の政治的決定とし ての刑事政策(刑罰化システム)の中で、多くの"望まれない行為"の中から刑罰を加えることを相当とする行為だと"認定"され捕捉されることからつくられ るものだ、ということを強調しています。この2冊の本は、ともに犯罪と刑務所は、"国家"がその政治的な選択として犯罪取締機関に与えたところからうみだ される社会的構造の問題だということを論証しています。クリスティ教授はこの本の中で、<犯罪は存在しない。ただ行為が存在するだけである。><職業的法 律家は、個々の紛争に対して関係者がもつ意味を奪っている。><刑罰とは、人間に対して意図的に苦しみを与える行為である。><高度に市場化した社会は、 望まれない行為を犯罪と簡単に決めつけ、それが多くの人たちの「利益」となっており、/公式な抑制の可能性を減らしている社会である。>という"趣旨" を、歴史をさかのぼって繰り返しています。私自身、その論説にふれてあらためて<その通りだ>と感心させられました。

ニルス・クリスティ教授の本の紹介
1.『人が人を裁くとき−裁判員のための修復的司法入門−』
ニルス・クリスティ著、訳・平松毅氏(大東文化大教授)、寺澤比奈子氏(翻訳者・跡見学園女子大学講師)/有信堂/2006年12月7日初版・第1刷発 行、定価2000円。
2.『司法改革への警鐘−刑務所がビジネスに−』
ニルス・クリスティ著、訳・寺澤比奈子氏、平松毅氏、長岡徹氏(関西学院大教授)/信山社/2002年(平成14年)1月10日第1版・第1刷発行/定価 2800円。
 クリスティ教授の本は、よくある専門の法律家のような難解な論説ではありません。クリスティ教授は<自分を語り生き方を語る>ことを通して、私たちの歴 史と人間の価値にさかのぼって犯罪と刑務所を語っています。そのうえに翻訳者の寺沢比奈子氏は、本が多くの人に読んでもらえるために一般の大学生レベルの 人たちにわかるように工夫をかさねたことをインターネットでの紹介で書いておられます。本当にわかりやすい本です。クリスティ教授の本の推薦者である新海 浩之氏は、<この本を買いたまえ/この本に出会ったのは空前絶後の幸運なんだから/そうしなければ、一生犯罪を考えたなどという文句は吐けなくなるぞ>と いう五木寛之氏の言葉を借りて推薦していますが、私もそう思います。「犯罪・刑罰問題を考える人はこの本を読まねばならない。」(推薦者・新海氏の言葉か ら)と。



この夏の取り組み/宇都宮事件と一宮身体拘束事件



 この夏の間、私が社会的事件として体の不調をおして力をふるいおこして取り組んだ事件は、ひとつは宇都宮事件、そしてもうひとつは愛知・一宮の身体拘束 控訴事件ということになります。どちらの事件も私にすれば負けられぬ事件で、また、ともに終盤を迎えて"山場"にさしかかっていることもあって、否応なく 走らざるをえない状況におかれてきました。
 愛知・一宮身体拘束事件は急性期病院での高齢者虐待事件ですので、このニュースレターでははじめのときに「呼びかけ」を掲載した程度で、その後の裁判の 展開は報告してきておりません。昔から私の活動分野として<高齢者の事件>がありますが、このセンター基金とは分野が違い少々なじまないということがあり ますので、いずれこのセンター基金(ニュースレターの読者の方々)と"重なる"ところがあったときに報告しようと思います。とりあえずは宇都宮事件の報告 です。

宇都宮事件は、第1次国賠(対・警察と検察)でCさん本人の本人尋問が2回、(第1回7/5、第2回8/23)実施されました。
 私からみて、Cさんは裁判所の法廷で大健闘、とりわけ検事の反対尋問を中心とする2回目の尋問は本当にすばらしい出来でした。Cさんを法廷にだして長時 間本人尋問をやるという「選択」は、成功しました。
 1回目(7/5)の時には、検事の反対尋問に不安と興奮から泣き出したり、さまざまな能力テストじみた尋問にプライドを傷つけられて落ち込んだりという 場面があり、Cさんを苦しめました。そのため、2回目(8/23)は本人もいやがり、裁判所へ行っても「帰っちゃうぞ/怒っちゃうぞ」といってプレッ シャーがありましたが、やってみると意外や意外、どんどんしゃべってくれ、それも今まで話すことができなかったことまで私ら弁護団が聞くとしゃべってくれ ました。
 例えば、元養父からの暴力の実態、当然ですが今も元養父を恐ろしがっています。元養父は覚せい剤違反と弁護団責任者の私への脅迫・強要未遂で実刑となっ て、某刑務所に入っていますが、Cさんは元養父のことになると、過去を思い出してか不安感が強くでてきたりして、<死んじゃった>とか<どこそこにいる> など、動揺し興奮したりしてきました。それが今回、過去の虐待体験を法廷ですらすらとしゃべってくれたのには驚きました。聞く私も事前の準備をしなくて、 2回目の再主尋問は実際に使用している携帯電話をもってきてもらい、その携帯のCさん独自の利用法から聞きました。具体的な"自分のもの"から入ったのが 良かったかと思います。
 Cさんは数字や文字(ひらがな等)を読めません。自分から電話番号を押してかけることはできませんが、"利用"はできます。その使い方はCさんらしい形 の記憶に基づいた利用法です。相手方代理人(検察・検事)は、携帯電話を利用できるのだからひょっとしたら文字や数字もわかり、それなりのコミュニケー ション能力、つまり法的にみて自己防禦可能な社会適応能力はあるんだというところを確かめようと攻めてきましたが、Cさんはそれに堂々とこたえて、相手の 意図をみごとに崩していました。私はまずはじめに、Cさん独特の携帯電話の使い方を聞き、そして、その携帯電話に登録された人たちのこと、それは日常的に Cさんの生活を支えている「ひばり」の金子さんをはじめとする福祉の支援関係者になるわけですが、その支援者のこと、現在の福祉のことを聞いていきまし た。Cさんは自分の生活の中で福祉からの支援の具体的な内容をしゃべり、自分らしく"自立"した暮らしを営んできていることをしゃべってくれました。
 そして、今の生活状態から前の生活に、つまり、元養父との生活に話を移していってくれました。以前の生活、つまり誤認逮捕事件の頃の生活となると、そこ は元養父からのひどい暴力となります。Cさんは自分から、<木刀でぶんなぐる/たくさんぶんなぐられた><めちゃくちゃになった/体が痛かった/ケガし た>、そして<ほれ>といって口を開けて、私らに<この歯、みんなぶっこわれちゃった>といって口の中の抜け落ちている前歯を見せてくれました。殴られて 前歯が折れてこんな悲惨な状態にさせられたんだ、ということを訴えてくれたわけです。
 私らはこれまで、Cさんがひどい虐待・暴力を受けてきた被害の"事実"を、どうしたら推測や伝聞ではなく本人の生きた事実として立証できるかを模索して きましたが、ここで一挙にその目的が達せられました。この虐待・暴力の実態について、第2次国賠で宇都宮市の福祉は、元養父からの暴力を知らないと強弁し てきていますので、有力な反撃の証拠になりました。

宇都宮事件の裁判/次回に結審
 第1次国賠(警察・検察)は、次回の10月25日で結審することになりました。第2次国賠(宇都宮市・福祉)も、第1次のCさんの本人尋問調書等の証拠 調べをして、ひきつづき結審となる予定です。私たちはその10月25日に、両事件ともこの裁判の総括と主張となる最終準備書面を提出いたします。判決は両 方とも来年早々かと考えております。これからその最終準備書面の作成という最後の大仕事がまっていますが、"事実"というところでは裁判は終わったという ことになります。
 ところで、裁判は終わったとしても、Cさんは私ら弁護団の手から離れて宇都宮という街でさまざまな人たちとのかかわり・支援を受けて生きていくというこ とになります。Cさんはこれまで私たちの社会の暴力や隔離や放置(ネグレクト)の中でも、自分らしく生きてきました。Cさんは私のいうところの<無敵のC さん>というたくましさ、元養父のような存在を含めて人から面倒をみられてきたという関係をつくる力、助けられるという「能力」、そしてなんともいえぬ人 としてのぬくもり・やさしさをもっています。それがCさんです。どうしてそんな人間としての"力"を重度の知的障害をもつCさんがもってきたか、それはお そらく、Cさんがこの社会でどのように育ってきたか、にあるはずです。それは、Cさんも私たちと同じく人として生まれ、保護され、育てられてくる中ではぐ くまれ、つくられて与えられた"力"というものではないでしょうか。

あらためてモンスターであったCさんの人間像について
 私らがCさんに出会ったとき、Cさんはまるで怪物(モンスター)でした。それは、前科が正式な逮捕されたものだけでも20犯あり、警察には年がら年中、 窃盗や女性・子どもへの不審者としてつかまり、取調べられてきています。昭和61年から平成11年まで入院してきた宇都宮精神病院の記録には、Cさんは暴 力や女性へのいたずら、そして問題行動をおこす患者であり、手にあまって退院してもらったとされています。退院後は「ヤクザ」に世話されています。福祉が 近づくことのできないアウトローの世界の住人という"外観"でした。だから、福祉も恐れて手をださず、「反社会的行為」を繰り返してきているようなCさん をこのまま放置しておくことができずに、警察はあえて連続強盗犯の「誤認逮捕」に踏み切ったものといえます。地元の警察官とすれば、福祉の尻ぬぐいという か、社会的治安から地域近隣に不安を与え望まれない行為をなす人間として、長期の刑務所送りの"犯罪者のレッテル"をはって"しょっぴく"以外になかった のかもしれません。
 この宇都宮事件裁判の中で明らかにされたCさんを逮捕し取調べた警察官や検事らの証言や、何回も微罪で逮捕しては不起訴とせざるをえなかった警察の記 録、そして宇都宮市の福祉が、重度のCさんをネグレクトしてきた関係の記録などの事実をみると、<犯罪はいかにしてつくられるものか>がわかります。ここ で<つくられる犯罪>を単に冤罪だけにしないで下さい。ニルス・クリスティ教授のいうところの、そもそも社会的に望まれない行為がその犯罪取締機関を指導 する政治的決定(刑罰システム)の中で犯罪とされていくプロセス、として理解して下さい。
 Cさんの場合、全く無実で、警察が犯人とした自白調書や証拠はすべて「でっちあげ」られたものでしたが、それでは仮定の話として、<犯罪とされる行為を なしていた場合>はどうでしょうか。例えば、Cさんのような人が洋菓子店やスーパーに包丁をもって押し込み、店員を脅してお金や商品を奪ったという場合 は、警察から強盗犯とされ、裁判所で長期の刑務所送りの実刑を言い渡されても、それはなんら問題にもならず、「当然の報い」ということになるのでしょう か。あえて私の個人的弁護論をいいますと、私は、Cさんのような人が確かに行為として包丁をもち他人に示して脅かし、無理にお金や食べものを奪ったとして も、私は基本的にこの冤罪事件と同じ視点で、同じような立場から、同じような弁護の姿勢をとったといえます。それは、その犯人とされた人がCさんと同じよ うな社会的環境/社会的現実の下におかれている時、そこでの弁護は基本的に同じだととらえているからです。

何を、何故、弁護するのか
 私は多くの犯罪/刑事裁判の弁護をしてきていますが、はじめから冤罪であったことが前提となる"事件"はこの宇都宮事件のCさんがはじめてです。私のか かわった刑事弁護で、罪体(犯行)がないとして無罪となった事件はありません。違法とされる行為はなしているが、しかし、訴訟能力・責任能力がないという ことで、判決で無罪ではなく公判停止となった事件が2件(所沢事件・静岡金谷町事件)あるだけです。その他はすべて有罪で、その中には無期懲役や死刑と なった事件もあります。
 通り魔殺人鬼とされた浅草レッサーパンダ事件のように、3年以上の期間、このセンター基金を支えに何百万という多額の弁護活動の資金をもちだして、それ は徹底した時間と労力をかけて弁護をした事件もあります。裁判所はその3年以上を費やした私たちの弁護、それも確かな目撃証言などの証拠までも全く排除・ 否定して、警察・検察のいう通り無期懲役の判決を下しました。裁判の"効率"からいえば敗北というべきでしょうが、しかし、私は裁判所からも全く否定され た弁護を、あえて「勝利宣言」という言葉でしめくくりました。(無期懲役という判決が勝利ではないことは当たり前で、あくまで弁護としての意味です。)
 何故、裁判の形として全く否定された弁護が「勝利」なのか、ということです。その私の考えと思いは、その判決言い渡し直後の浅草事件判決の報告集会で私 なりの表現でしゃべっておりますが、どうでしょうか、聞いてくれた人たちに私の勝利という言葉の意味が伝わったかどうか。あらためて、ここで<この人たち の犯罪をどうして争い、弁護するのか>の弁護論を少し再論しようと思います。

この人たちの弁護論/この人たちを知るということ
 私はこの人たちの弁護の場面で、他の人からしばしば、どうしてこの人たち(とりわけ自閉症とされる人たち)の弁護をするのかと問われて、「この人たちに 悪い人たちはいないから/この人たちの犯罪とされる行為には、必ずその生きざまにおいて弁護されるべき社会的実態があるから/犯罪取締機関のこの人たちを みる犯罪者観、そしてマスコミの報道するこの人たちに対する犯人像は、単に行為の1部の現象面だけを拡大解釈しているから/など」と答えてきています。 <悪い人はいない>という私の言葉に、自閉症スペクトラムの人と深くかかわり知っている人は嬉しそうにうなづいてくれます。ところが、新聞やテレビ・雑誌 など報道の記者となると、まるで逆の反応・表情を示します。そのけげんな表情の報道関係者はこの人たちを知らない人たちだからです。この人たちを<知って いること>が極めて重要な要因となってきます。私の<悪い人はいない>という言葉(確かに、断片的で誤解をうむ表現でもありますが)に対して反応が違って くるという事実を経験的に確かめてきています。
 それでは、犯罪取締機関の人たちはどちら側の人かといえば、それは知らない人たちの枠にすべてというぐらい入ってしまいます。私もこれまで、事件の担当 者が、あとでわかってくれたことですが、自閉症をもつ子どもの親であったことがあります。また、父親が長く警察官として勤めてきて、その中で我が子と同じ ような人たち(自閉症)に対する警察の現場での偏見と不当な扱いに苦しめられてきた、という話を聞いたこともあります。知っているかどうかは単に知識をさ すことではなく、人間の関係としてかかわってきたプロセスをさしていますが、そのようなプロセスとして、関係論的な趣旨でこの人たちを知っているかどうか が問われてくるともいえるのではないかと考えています。

犯罪者とされる人(この人たち)に、その行為はどういう意味があったのか/彼はそのとき、何を見ていたか/
 犯罪は、犯罪取締機関によってつくられるものです。犯罪とした犯罪取締機関が、その行為にどのような意味/ストーリーを付与するか、にかかっているとと らえています。警察が重要だ/罰されるべき犯罪だ/ととらえれば、そこでの出来事は事件となり、その出来事が社会の多数派の人たちにとってきらわれて危 険・悪質だという側面をもつ行為であれば、それは凶悪犯罪とされ、マスコミも犯罪取締機関と利害を共通して、その行為に付与する"意味"を拡大していきま す。
 今、自閉症スペクトラムとされる人たちの症状(4つの枠/診断基準)をみればわかる通り、へたすると、人間的な感情というか情緒的関係性を喪失した、若 しくは著しく偏向した傾向をもち、対人的コミュニケーションのとれない人間なのだということになってしまいかねません。いや、自閉症スペクトラムの人を知 らない人からみれば、その症状だけの診断基準を読めば、その多くは、困った非人間的な傾向をもつ人たちなんだろうという「理解」をしてしまいます。
 この人たちの"症状"からくる"印象"が犯罪、それも結果的に他者に被害を及ぼした犯罪(暴力・傷害・殺人・放火等)に結びつけば、どう"解釈"される でしょうか。人としての感情を失った冷酷非情な人間の凶行とされてしまうのではないでしょうか。現に、浅草レッサーパンダ事件のYさんをはじめ、自閉症ス ペクトラムをもつとされた人たちの犯罪報道をみれば、"症状"の拡大解釈(偏見とねつ造)がまかり通っている現実を思い知らされます。
 それは、知的障害(医学的な精神遅滞)にも大なり小なりいえることです。知的障害とは、知的能力(知能検査)だけでなく、その社会的・対人関係の社会適 応性のところで、<欠陥または不全>であることを要件としている障害です。私自身は、素人なりに、自閉症スペクトラムと知的障害とは確かに多くのところで 違いはあっても、その社会性のところでのハンディということでは共通している、大きな質的な違いはないととらえて、この人たちの事件の弁護にかかわってい ます。

そのとき、彼は何を見ていたか、見ようとしていたかの問題と弁護
 私は、人はその生をうけて誕生した時から、親などの大人の世話を受けて人としての生きる力をはぐくまれ、言葉を獲得し、人との関係を手探りでつくってい く、それは成長した人間にとって<共通する体験>であり、そこからうまれる人間としての"力"は、いかに重度の脳機能の障害・疾患をもつ人であっても、人 としては共有・共同するものだととらえています。そういう意味で、人が人として対人関係で情感・情緒・うれしさや悲しさの感情を"失っている"などという ことは信じられないし、また、私がかかわってきた知的障害や自閉症の人たちで、そういう人間に出会ったことはありません。そこは距離・関係性にかかわる弁 護の基礎となるものです。客観的な観察と分析からは、この人たちの"思い"は見えないのではないでしょうか。
 ところが、社会的にはこの人たちの"現象"として、確かに対人関係(社会性)において極めてその情感や人との関係性がつかみにくい、見えにくい人たちが いることは事実です。知らない人と対面関係となって目と目をあわせる、顔や言葉で感情的表現をする、ということに<著明な障害>がある人たちも多くいます し、確かに人との交流が苦手な人たちです。しかし、その人たちでも、時間をかけ関係を築いた人との関係の中では、例えば、親御さんや身近に世話する福祉関 係者には、そのような重度とみえる障害も消え、情感が表現されてきます。そうすると、この人たちの行為の意味は、その行為を解釈する側、ここでは犯罪のス トーリーをつくる人たちによって大きく左右されるという実態があることがわかります。この人たちの視点から行為はどう見えたのかを解明すること、それは事 件(犯罪)の真相解明であり、この人たちの弁護であるわけです。

この人たちの生きてきた社会的現実の掘り下げ
 今の司法(法律/裁判)の仕組みは、人の行為を法律の抽象的要件にあてはめて、その事件にかかわるたくさんの社会的事実を法律の要件から排除し、切り捨 てるという構造をもっています。ここは、非法律家の人たちのとっては大変にわかりにくいことですが、犯罪取締機関や裁判所が犯罪とするとき、その人間が幼 少時にどのような差別と苦しみの中で生きてきたか、そして個人的にどのような社会的ハンディを抱えているか、今、どういう社会生活を強いられているか、と いう社会的現実は、裁判における主要事実ではなく、法的関連性のうすいものとして基本的に犯罪の成否や内容から排除・無視すべき事実(証拠)だとされてい る、ということがあります。
 しかし、私は(もちろん、皆さんも)、このような犯罪のかげに存在する社会的現実こそ、犯罪とされる<望まれない行為>をうみだす大きな原因だととらえ ています。ところが、そのような生育史や社会的環境は、今の司法では、犯罪の成否と刑罰システムにとって重視すべき"事実"ではないと、つまり、罪体や犯 罪行為の構成要件(主要事実)でなく、犯罪であることを前提としたうえでの個人的な"情状"にすぎないもの、とされています。この法律論のところで、あく まで端役(わきやく)でしか意味を与えられていない情状が、裁かれるこの人たちにとって、私には、この人たちの弁護として犯罪の成否と内容を左右する"重 要事実"だということになります。裁判所からは、争う理由として犯罪の構成要件に該当しない、法的関連性がうすいとして却下・制限される事実であっても、 この人たちの生きる社会的現実を掘り下げることは、きわめて重要な弁護だととらえています。

−最後に−
 この人たちの弁護論として、ひとつはこの人たちの視点・立場から何が見えたかをつかみとること、そしてもうひとつは、この人たちが生きてきたその社会的 現実を掘り下げること、という弁護活動となります。そのような弁護活動からみえてくる犯罪像、正しくは犯人とされた人間像は、犯罪取締機関がつくりだし、 報道され、そして裁判所で裁かれる犯罪のストーリーとおよそ似ても似つかぬ"実体"をもっているといえますし、私はそう実感してきています。これが私の弁 護論の"基本"ということになりますか。
 今回は私の思いのままに書きつらねた長文のニュースレターとなりましたが、そこを是非とも読んでいただき、できればその感想を教えていただければ、と 思っております。よろしくお願いいたします。

人権センター基金会費・支援振込先
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 郵便振替/00130−5−75221 知的障害者刑事弁護センター



UP:20070902 REV: 20160630
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