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日本の反アパルトヘイト運動年表
ーアフリカ行動委員会(JAAC TOKYO)の運動を中心に作成したものー


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反アパルトヘイト運動アフリカアフリカ Africa 2016

■ 第一期 モシ会議(63・2)から、アフリカ行動委員会誕生(69・5)まで
1950年代 *1950年代末から英米で反アパルトヘイト市民運動(AAMs)が始まる
1960年 *3月 シャープヴィル虐殺事件
*4月 在南ア日本人に「名誉白人」待遇を与えられる
1962年 2月 タンガニイカのモシで開かれたAA連帯人民会議でアフリカ研究者野間寛二郎、田中稔男・寿美子社党代議士らは南アANC代表団から、日本での反アパルトヘイト運動を要請される。
5月 日本AA連帯(分裂前)内に「南ア人種差別反対実行委員会準備会」が先の代表団のほか、伊藤実らによって結成される。(野間は当時AA連帯理事) 
*国連総会南ア制裁決議 (通商・外交・交通のボイコット)
*日本はAA諸国提案の南ア制裁決議では棄権か反対投票でAA諸国の厳しい非難を受ける
1963年 2月 タンガニイカのモシで開かれたAA連帯人民会議。アフリカ研究者野間寛二郎、田中稔男・寿美子社会党代議士等は南アANC代表団から、日本での反アパルトヘイト運動を要請される。
5月 日本AA連帯(分裂前)内に「南ア人種差別反対実行委員会準備会」が先の代表団のほか、伊藤実らによって結成される。(野間は当時AA連帯理事)
6月〜7月 野間寛二郎、五味川純平(作家)らダルエスサラームで開かれた南アフリーダム・デーの集会に参加
8月 ANCのピリソが原水禁大会に参加(前記実行委メンバーと会談)
12月 野間はAA作家会議大衆集会で「南アの人種差別」について講演
12月 野間は「実行委準備会」を通じて「南ア通信」(1号)、「リヴォニア事件」のパンフなどを次々に発行。AA連帯外務省に対南ア政策を抗議。
 
1964年 2月 全電通会館に50名が参加し「第1回南ア人種差別反対懇談会」。
5月 AA連帯委員会内に「南ア人種差別反対実行委員会」(JAAC)が発足。(労組・政党・市民グループなどが参加)。学者・文化人(末川博・上原専禄等)の10人アピール(南ア政治犯を救え!)。市民グループ・労組・連帯委らが一緒になり反アパ署名活動、パンフ発行、商品ボイコットなどに取り組む。
5月 市民グループの「AAの仲間」は中ソ論争や政党対立などの影響で反アパ運動が困難になる状況の中で、歴史学者の上原専禄を訪ね、教えを乞う。
6月26日 日本最初のフリーダム・デー集会は分裂集会。実行委員会解体の兆し。野間らは「南ア問題懇話会」(後にアフリカ問題懇話会)を立ち上げ、これがJAACを引き継ぐ形となる。<
8月 先の市民グループ「AAの仲間」内に「南班」が生まれ独自の活動を始め、野間らの「懇話会」につながる、「AAの仲間」(No6〜7合併号)が南ア特集)
*スポーツボイコット国連決議
1965年 6月 第二回フリーダムデーはAA連帯委内の実行委員会と懇話会の合同開催。同月ミニ、カインガら黒人労組指導者の処刑に抗議し総領事館に抗議。この頃より明大・東外大・東大・日本女子大などに学生のアフリカ研究グループが誕生してくる。(*5月24日「ベ平連」最初のデモ。多くの若者が参加。ベ平連の運動はその後の市民運動のスタイルに多大な影響を及ぼす。) 
1966年 6月 野間寛二郎、ロンドン経由でガーナへ(翌年夏にも野間はアフリカ諸国とヨーロッパへの旅を続け、南部アフリカの解放組織、英国等の反アパルトヘイト運動団体と交流し、たくさんの運動資料を持ち帰る。) ヨハネスブルグに日本人学校設置
1967年 5月 東大の学生アフリカ研究グループINKULULEKO(インクルレコ)が『アパルトヘイト−根源と実態と解放』(五月祭にむけたパンフ)を作成刊行。 *8月 ローデシアでZAPU=ANCの連合ゲリラ活動のニュース。また、アンゴラ、ギニアビサウ、モザンビークの武装闘争のニュースも入ってくる。
1968年 *4月 IOCは南アのメキシコ・オリンピック参加を取り消す。
*UN対南ア文化ボイコット決議
*日本政府対南ア直接投資の禁止(大蔵省告示)
*12月 FRELIMO議長モンドラーネ暗殺
1969年 1月 野間、ハルツームの「ポ領アフリカと南部アフリカ人民支援国際会議」へ。南部アフリカ、ポ領アフリカの解放闘争の動向が知らされる。欧米の反アパの動きも。
5月 アフリカ行動委員会(最初はJAAC-Youth Section、後にJAAC-Tokyo)結成。野間の「懇話会」に関わっていた市民グループ「AAの仲間」と東大のINKULULEKOが中心になって生まれる。時あたかも学生闘争の時代。多くの学生たちが関わって来る。
5月 「アフリカ行動委員会ニュース」創刊(野間メッセージを寄せる)
5月 野間寛二郎『差別と叛逆の原点』(理論社)刊行
*4月 ANCモロゴロ会議(南ア国内でのゲリラ闘争)
*米での黒人解放闘争
*各国でのベトナム反戦運動、ラテン・アメリカの農民闘争、ポ領アフリカの戦いなど。(第三世界の闘い)
*1969〜70年にかけて日本の大手商社が南アに支店開設
★日本企業のアパルトヘイト政権への加担の現実とANCの要請を受けて始まった運動は、市民グループ・労組・政党・学者文化人などの幅広い運動として出発したが、 中ソ対立、社共分裂などで瞬く間に収束。AA連帯の運動から離れた野間の独立した活動を市民グループと学生グループが支える形で再出発。世界各地の大学闘争、第三世界の闘い(とりわけベトナム)の盛り上がりの中で、たくさんの学生・若者たちが反アパルトヘイト運動に関わってくるようになった。
■ 第二期 アフリカ行動委員会誕生から、ソウェト蜂起(76・6)まで
1970年 3月 ANCロンドン駐在のM・クネーネがANCの闘争資金集めのため来日。政党・労組などいずれも要請に応えず絶望して離日。作家の竹内泰宏・アフリカ行動委らが対応。Japan is killing us. Japanese prosperity depends upon our blood.(Kuneneが残した言葉、また彼はToo much talkではなく、Gunsを!とも語った。)「クネーネ・ショック」…行動委員会の初めての解放戦線(ANC)との出会いであった。
6月 第1回フリーダムデーのデモ。アフリカ行動委員会と懇話会の主催、清水谷公園を出発し、100名ほどが参加。大阪からも2名参加。この2人によって1970年末に大阪に、こむらどアフリカ委員会(JAAC-Osaka)が結成される
8月〜10月 行動委員会の大岡俊明がヨーロッパ・アフリカへの旅で会報組織やヨーロッパのAAMsと交流。 9月 ポルトガル大使館へデモ(FRELIMOの武装闘争記念日)
*2月 政府派遣アフリカ経済視察団(団長・三菱重工会長)
1971年 6月 第二回フリーダムデー・デモ(清水谷公園)
1972年 6月 小川忠博写真集「Nô PINTCHA」(ギニア・ビサウ解放戦線従軍ルポ)刊行…GB解放戦線および世界各地に送る
8月 原水禁大会で来日中のアミルカル・カブラル(ギニア=カーボヴェルデ・アフリカ独立党(PAIGC)議長)を招き講演会(カブラルは73年1月にコナクリで暗殺される)
1973年 2月 カブラル追悼集会
6月 第四回フリーダムデーは経団連に抗議デモ
8月 小川忠博の解放区ルポ「モザンビーク解放戦線」(「太陽」特集)をポ及び英訳を付してモザンビークの解放区へ数百冊送る
9月 アフリカ行動委員会ニュースNo.15で「アパルトヘイトを支える日本企業」特集
10月 ギニア・ビサウ国の承認を求めて外務省へ
*「アパルトヘイト犯罪の防止及び処罰に関する国際条約」発効
1974年 3月 南ア選手出場の国際ゴルフ・トーナメント会場(読売ランド)で抗議行動
6月 「アフリカン・ウイーク・イン・東京」(講演・シンポ・映画・音楽)
7〜8月 日本企業の対ローデシア国連制裁決議違反調査と発表(英タイムズ・朝日・行動委の共同作業)「朝日ジャーナル」「タイムズ」同時発表)
9月 政府は来日中のUNアパルトヘイト特別委員会に対して違法な投資を続ける日本企業をやめさせると約束
12月 北沢洋子、南アで日本企業の実態調査し、国連で発表
12月 日本企業の「ナミビア天然資源に関する国連法令」違反についての疑義が出される(衆院予算委員会)。
*国連総会から南ア排除される
*日本政府対南ア・スポーツ・教育・文化交流への制限措置を取る
1975年 2月 野間寛二郎、パーキンソン病で逝去(63歳)
4〜5月 南ア問題パリ国際セミナーに行動委から二名参加し、日本・南アの経済関係と核開発問題について報告
5月 三木首相と関西出力にナミビア・ウラン購入問題について公開質問状。
7月 「関西電力の南ア・ナミビアからのウラン輸入をやめさせる会」(「こむらど」「伊方労学共闘」「軍縮協」「新左翼社」などが中心)
11月 SWAPO代表団社会党の招待で来日。行動委員会と会見。
11月 行動委員会ニュースNo.18で「これがアパルトヘイトだ!」(野間寛二郎追悼)を特集
1976年 1月 公開セミナー「南アの黒人意識運動」(三井義・ジュネーブWUS)、「デンバサ最後の墓」を上映。この映画の日本語版(アパルトヘイトの国−南アフリカ)が後の反アパ運動の重要な媒体になる。
2月 「アンゴラ人民支援集会」(ラテンアメリカ行動委と共催)
5月 国連主催・反アパルトヘイト国際会議(パナマ)に二名派遣
6月 『森と精霊と戦士たち』(小川忠博写真集)出版。英語・ポ語版を作製してモザンビーク、アンゴラ、ギニア・ビサウそれに欧米の反アパ団体に送る(WCCの財政支援をえる)。
*南ア航空及び政府観光公社東京事務所設置
*1970年代後半から欧米では南ア進出企業が連合して自社系の企業の黒人労働者の人権擁護のために「行動原則」(code of conduct)を作成
★この期の運動の特徴は、大阪に「こむらどアフリカ委員会」の誕生したこと、反アパ・スポーツ問題への取り組みが始まったこと、ナミビア・ウラン密輸入と関連して反原発組織と提携して電力会社への抗議行動が行われるようになったこと。国連主催の反アパ国際会議に代表を送るようになったこと。WCCの援助をえて小川の写真ルポを大量にアフリカの解放区や世界の反アパ団体に送ったこと。そして日本反アパルトヘイト運動の父・野間寛二郎を喪ったこと。創設メンバーが退き、新しいメンバーの登場。
■ 第三期 ソウエト蜂起から、ソマフコ支援(84・11)まで
1976年 6月16日〜 ソウェト蜂起起こる。黒人意識運動(BCM)の顕在化。怒れる子ども・若者の登場。南アフリカの「恐怖とフラストレーション」の時代が終わる。
12月 パンフレット『黒い怒りが炸裂する』(黒人意識運動で生まれた詩)を刊行
*6月〜 南アの黒人居住区ソウェトで黒人の子ども・若者を中心にした蜂起。労働者・市民の闘いへ。3ヶ月で700人近い子ども・若者の犠牲者が出た。何千という若者たちが国外に逃れ、解放組織(ANCなど)に新しい若い血を注いだ。不動に見えた白人支配に深刻な亀裂を走らせた。
1977年 1月 「静岡アフリカに学ぶ会」(JAAC-SHIZUOKA)誕生
7月 反アパルトヘイト・ラゴス会議に二名派遣
11月 南ア総領事館前で3週間の連続昼休みデモ
11月 南ローデシア(現ジンバブエ)へのツアー計画に抗議(外務省+東京航空)中止させる。
12月 ボツワナに亡命中の黒人意識運動リーダー、R・ネングエクルを招待(全国各地で交流)
*「日本・南ア協会(スプリングボック・クラブ)結成
*9月12日 スティーヴ・ビコ(黒人意識運動の指導者)虐殺
*10月 黒人意識団体を中心に18団体を非合法化される
1978年 5月 第1回JAAC(日本反アパルトヘイト委員会)・反アパルトヘイト全国合宿(静岡)
8月 ジュネーヴの反アパルトヘイト会議に代表派遣
9月 国連広報センターの支援をえて映画『南ア解放への道』が完成
*3月21日〜翌年3月20日まで「国際反アパルトヘイト年」
1979年 2月 横浜・寿町で「アパルトヘイトの国−南ア」の上映会
4月 南アフリカを訪問した国会議員10人に公開質問状
1980年 5月 京都「南部アフリカ問題研究会」(JAAC-Kyoto)発足
9月 「ナミビア人民の闘いと連帯する国際会議」(パリ)へ
10月 反アパ全国合宿(京都)
*7月 北沢洋子「国連ナミビア理事会ウラン問題公聴会」で日本のナミビア産ウラン密輸を報告
1982年 2月 「南アの核兵器開発」(南アの軍事及び核開発への国際加担行為に抗議する世界キャンペーン)の翻訳・出版(UNアパルトヘイト特別委員会より補助)
12月 国会で南アへの日本銀行の融資問題を質問(井上一成社会党議員)
1983年 3月 東洋工業、ダイハツへ公開質問状
11月 六回目の反アパ全国合宿(鎌倉)
11月 「人種差別撤廃条約」批准問題で部落問題研究所と会談。
12月 南ア問題研究所(兼アフリカ行動委員会事務所)を恵比寿に開設
*5月 南ア国内にUDF(民主統一戦線)とNL(全国フォーラム)登場
*9月 総評・同盟等4団体は「南アのアパルトヘイトに制裁を!」の要請を外務・通産・労働の各省に申し入れ
1984年 6月 設立されたばかりの「日本・南ア友好議員連盟」に公開質問状
9月 行動委メンバーがタンザニアの南ア亡命者の学校、ソロモン・マシャング解放学校(SOMAFCO)を訪問
10月 「友好議員連盟」の石原慎太郎代議士と会見
10月 ANC(ロンドン)のS・チョアビを日本に招く
11月 衆院予算委員会で井上一成議員、南アからの血漿輸入問題と青木功の南アのゴルフ大会出場問題で質問。85年5月「血漿輸入は中止させる」と政府答弁。
12月 SOMAFCOを応援する会(ナプモ)が行動委員会内に結成される
*日本・南ア友好議員連盟誕生
*9月〜10月 日本政府「アフリカ月間」…飢餓キャンペーン中心
*10月 南アは日本を最恵国待遇
*SATA(南部アフリカ貿易懇話会)が設立され、日・南ア経済関係を緊密化
*アメリカの20の都市で反アパ・デモが生まれ、NYの南ア領事館には2000人の市民が入り込んで逮捕さる。
★76・6のソウェト蜂起は南ア国内の声を初めて国際社会に伝えるものだった。子ども・若者の果敢な闘いとその背景となっている黒人意識運動の思想は日本の若者たちの内面にも響いた。蜂起以後青年・学生たちが国境をかいくぐって陸続と亡命し多くはANCに拠り所を求めた。かくしてANCは甦った。彼らの思想に近かったはずのPACは内紛が絶えずBCMの受け皿たりえなかった。ソウェト蜂起以降、80年代に入ると南ア国内からはUDFなどの民主的で統一的な戦いが伝えられ、欧米の反アパルトヘイト運動も盛り上がり、日本でも若い世代がこれまでになく運動に関わってくるようになった。
こうした若者たちによって「ソロモンマシャング解放学校(SOMAFCO)を応援する会」がJAAC内に84年12月に結成された。
■ 第四期ソマフコ支援(84・11)から、世界最大の対南ア貿易パートナーになるまで(87・12)
1985年 1月 PACモード・ジャクソンを招待・交流
2月 ソマフコ支援基金運動始まる(若者中心)
6月17〜28日 南ア総領事館前連続昼休みデモ
8月 募金200万円で必要物資を買ってタンザニアのソマフコに3人の若いメンバーが届ける
8月 反アパ全国合宿(京都)
8月 「反アパルトヘイト女性委員会」が大阪に誕生
9月 クルーガーランド金貨の輸入禁止など南アへの経済制裁強化を求める共同行動を呼びかける
10月 行動委の新聞への投書がきっかけで南ア駐在日本領事が処分される
10月 南ア総領事館包囲デモ
11月 国連アパルトヘイト特別委員会議長と会見
11月 反アパルトヘイトカレンダー(降矢洋子版画)が完成
12月 タンザニアのSOMAFCOからB・シェンベを招く
*ロンドンでは13万人の反アパ・デモが実現。ミュージシャンたちは各地で反アパ・コンサートを成功させた。
*国連もようやく安保理決議の形で南アへの新規投資禁止、クルーガーランド金貨販売禁止、軍・警察向けのコンピュータ機械の販売禁止などの制裁決議を採択。これに基づいて、北欧、EC諸国、コモンウェルス、日本、アメリカ等が多様な制裁措置を取るようになる。
*西側の主要銀行が南アへの投資を禁止。200を超える欧米の企業が南アから撤退。
*10月 日本政府は南ア軍・警察へのコンピュータ輸出の禁止、金貨の輸入自粛を決定
1986年 2月 「反アパルトヘイト大集会」(労音会館)
3月 労働5団体の「反アパルトヘイト集会」に参加
4月 アムネスティの招待で来日中のファリサニ師(かつての政治囚)と会見。師は12月に再び逮捕さる。
5月 ナミビアの即時独立を求めるUNマルタ集会に参加
8月 ツツ主教来日受け入れのための連絡会議が「反アパルトヘイト連絡会」(市民グループ、教会、労組など)となる
9月 ボタ外相来日に抗議して外務省前でビラまき。
*南ア全土に非常事態宣言
*6月〜9月 南アから観光相、蔵相、外相の来日あいつぐ
*日本は南ア世界供給量の半分近い580万トンの金を輸入(その半分が天皇在位60年記念金貨に)
*アメリカはレーガン大統領の拒否権を上下院が覆し、「包括的反アパルトヘイト法」を成立させた。
1987年 3月 サッツ・クーパー(黒人意識運動リーダーの一人)来日・集会
3月 南ア進出企業に公開質問状発送
3月 アフリカフェ輸入・販売プロジェクト動き出す
4月 ANCタンボ議長来日歓迎集会(政府招待)
5月 A・ブーサック師来日歓迎集会(NCC招待)
5月 来日中のトイボ=ヤ=トイボSWAPO書記長と会見
9月 「アパルトヘイト下の子ども・抑圧・法に関する国際会議」(ハラレ)に出席
10月 「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」が刊行され始める。その後の運動の最重要機関誌となる。
11月 集会「アパルトヘイト下の子どもと女性」
12月 南アの報道規制に抗議し南ア紙に意見広告(ニューネーション、サンデー・スター)
*5月 南ア白人議会選挙(右派躍進)
*スウェーデン政府は対南ア・ナミビア貿易の全面禁止を決定
*4月 日本外相は南アの黒人非政府組織に40万ドル援助供与を表明
*5月 南ア全国鉱山労組のストライキ、各地でストや市民の不服従闘争始まる
*年末、日本が南アの最大の貿易相手国となることが明らかになる。国際非難起こる
★「アパルトヘイトを考える市民の会」(名古屋 1985)、「日本反アパルトヘイト女性委員会」(大阪 1985)、「広島アフリカ講座実行委員会」(1986)、「松戸アフリカから学ぶ会」(1986)、「反アパルトヘイト委員会熊本」(1986)、「札幌反アパルトヘイト委員会」(1987)、「ごめんだアパルトヘイト神戸の会」(1988)、「千葉アフリカから学ぶ会」(1989)などの反アパ兄弟・姉妹市民団体が次々と誕生。
この間欧米では市民運動や政府の圧力によって南ア進出企業の撤退が始まる。日本企業の動向は鈍く、ついに1987年には、日本は対南ア貿易額が世界第一位となり「アパルトヘイトのパートナー」と呼ばれるようになり、国際世論の矢面に立たされる。JAACも毎年国際会議に代表を送り、日本の荷担の状況を報告せざるをえなくなる。国内にもようやく南ア商品ボイコット、南ア各紙への意見広告掲載、進出企業批判などの全国ネットワークが生まれ始める。
■第五期 アパルトヘイトの最大のパートナー(87・11)から、マンデラの釈放(90・2)まで
1988年 3月 政府「遠い夜明け」の上映
3月 ツツ主教、ブーサック師らの逮捕と17組織の活動禁止に抗議して総領事館抗議行動
4月 南ア紙「サンデー・スター」に抗議の意見広告
4月 集会「アパルトヘイト最大のパートナー」(K・スローター、千草スティーヴンらがゲスト)千駄ヶ谷区民会館
4月 死刑を求刑された「シャープヴィル6人」救援要請のために総領事館内に30名が入りコシシケレリ・アフリカの合唱(逮捕されず)
5月 ANC東京事務所開設(J・マツィーラ着任)
5月 南ア商品ボイコット・キャンペーンを東京・銀座の歩行者天国から開始
5月 D・ウッズ講演会(主催:反差別国際運動)
6月 イトーヨーカ堂、ダイエー、ジャスコなどが南ア商品取り扱い中止を決める。各地の小売店からもアップルタイザー、南アワイン、黄桃缶詰などが消える(アパルトヘイト商品ボイコット運動盛り上がる)
6〜7月 「ニューネーション」、「ウィクリーメール」に全面意見広告
6月 世界中の著名画家の反アパルトヘイト絵画を積んだ特殊トラック『ゆりあ・ぺんぺる』号が沖縄を起点に500日間日本各地を回り美術展を開催開始(主催「アパルトヘイト否!国際美術展」実行委員会)
7月 マンデラ70歳誕生記念集会(ANC主催)
8月 『反アパルトヘイト・アジア・オセアニア地域ワークショップ』(主催:全国JAAC、後援:国連アパルトヘイト特別委員会)。ANC、PAC、SWAPO等の解放組織、それにアジア、オセアニア、アメリカ(ハワイ)などの反アパ市民グループ、人権団体、宗教組織、日本国内の反差別団体、マイノリティ、女性グループ等が早稲田奉仕園に会して四日間のセミナー。「東京宣言」が採択される(29日)。その記録集は89年12月に刊行された。
9月 総評主催「反アパルトヘイト集会」
10月 10回目の反アパ全国合宿(広島)
10月 国連・反差別国際NGO会議(ジュネーヴ)に代表派遣
11月 ナミビア・ウラン密輸に関して東京電力と交渉
11月 (WCC)南部アフリカ前線諸国会議(ハラレ)に参加
12月 「南ア・ナミビアの政治犯を救え!コンサート」(ANC)
*2月 南ア政府UDF、AZAPOなど17団体の政治活動禁止
*2月 日本の対南ア貿易拡大に米黒人議員連盟は竹下首相に警告書
*7月〜 南ア国内からアパルトヘイト諸法や非常事態規制に公然と反対する不服従闘争のニュースが次々と入ってくる。
*8月 「東京宣言」で日本と台湾の代表は「名誉白人」を拒否宣言
1989年 1月 『二匹の犬と自由』(JAAC訳編・現代企画室)出版
1月 「南ア・ナミビアの難民・女性・子どもを支援する会議」(ハラレ)に参加
1月 F・チカネ師を迎えて「反アパルトヘイト集会」(NCCが招待)
2月 アシナマリ東京公演(2・14〜28)
3月 集会「シャーブヴィル6を救え」(南アの弁護士P・ディアを迎えて)
3月 ナミビア・ウラン密輸に反対する国際統一行動(東電本社、大阪関電本社、東電ロンドン支店などに対して国際的抗議)。その日14人が電気解約手続きをとる。
4月 一日電気ボイコット運動
4月 南ア環境・水資源大臣コッツェ来日に抗議
6月 東京に「マンデラ・ハウス」(勝俣邸)オープン
7月 集会「独立に向かうナミビア」(SWAPOカパンダ)
8月 「南ア女性の日」東京集会(M・チャーリー、E・モコトングを迎えて。主催:JAAC、NCC。庭野財団支援。フォークシンガーの豊田勇造も参加)
9月 大阪で「日本反アパルトヘイト委員会の調整連絡会議」
11月 JAAC全国会議(大阪)
11月 ナミビア独立選挙の国際監視団に峯陽一(JAAC-Kyoto)
12月 銀座田中貴金属店に30人のメンバーがANC東京事務所のジェリー・マツィーラと出向き、「名誉白人大賞」の賞状とクリスマスケーキを贈る
*南ア刑務所内のハンスト続く
*8月 デクラーク体制発足(対決より対話重視)
*10月 ワルター・シスルら釈放
1990年 2月 「南アのアパルトヘイトは今ーマンデラ氏獄中の27年を考える」集会。昼は総領事館へ行き即時釈放を要求。
3月 ミュージカル・サラフィナ東京公演(10〜19)
3月 南ア紙に意見広告(アパルトヘイト完全廃棄)
5月 南アのスクォッターキャンプ「ウィラーズ・ファーム」の学校建設基金カンパの開始(2年で300万円ほど集まる。
6月 「反アパルトヘイト・ウィーク」(コンサート、チャリティ・ウォーク、天皇即位10万円金貨反対キャンペーン、徐勝釈放集会など)
7月 マンデラ・バースデー・コンサート(マンデラ歓迎日本委員会主催)
9月 「マンデラ歓迎集会」「マンデラ歓迎シンポ」などが労組、法律家協会、市民グループ、歓迎実行委員会などの主催で全国各地で開かれる。
10月27日〜11月1日 マンデラらANC代表団が政府招待で来日。
10月28日 「マンデラ歓迎集会」(マンデラ・スピーチ)大阪扇町公園、東京では日大文理講堂(歓迎ライブ)
10月29日 「マンデラ歓迎集会」(マンデラ・スピーチ)東京日比谷野外音楽堂。国会でもマンデラは演説。
*2月 デクラーク大統領はマンデラらの政治犯を釈放
*1990年〜 南ア国内では黒人同士の暴力事件が頻発。とくにズールー民族の伝統的指導者ブテレジに率いられたINKATHAグループの民主勢力への襲撃事件が相次ぐ。多くの日本メディアは「部族抗争」と報じ、反アパルトヘイト関係者の批判を浴びた。
*3月21日 ナミビアが独立
★この時期が日本の反アパルトヘイト運動最盛期。著名なミュージシャンたちも運動に参加。南ア商品ボイコット運動も大きな成果を上げた。熊本県の球磨川の上流坂本村の中学校たちは「アパルトヘイトを考える会」を作り、「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」の村内開催に尽力した。人口5000人に満たない村民のうち2000人美術展に足を運んだ。行動委員会内部にも中・高生の活動グループ(SAFEセクション)が誕生し、反アパルトヘイト運動を担った。この時期に活動した行動委員会内部のセクションは「商品ボイコット・グループ」、「インターナショナル・グループ」、「南アの人たちに手紙を書くセクション」、「女性グループ」、「ナミビア支援グループ」、「ニュースレター編集グループ」、「意見広告グループ」…などである。たくさんのブックレットやパンフレットが生まれ運動を盛り上げた。版画家降矢洋子の反アパ・カレンダーは国内のみならず、国際的な反アパ運動の貢献した。
しかし、国家権力の掌握を間近にひかえたANCと、つねに権力批判の立場をとってきた市民グループのJAACの間に、88年のワークショップ以来微妙な違和感が生まれてきたこともまた事実だった。
■ 第六期 マンデラの離日(90・11)から、マンデラ大統領のもとでの新国家成立まで(94・5)
1991年 1月 集会「なぜ、まだアパルトヘイトなのか」
6月 経団連に対しての「経済制裁早期解除反対」行動
9月 アフリカ行動委員会制作の絵葉書の1枚「ナイロビの売春婦」をめぐる論争が『あんちアパルトヘイト ニュースレター』紙上で始まる
9月〜10月 JAACの招待でソウェトからエリック・ンゲレザ、ノマテンバ・ンゲレザ夫妻来日。東京・北海道・広島・名古屋で交流
11月 「UNアパルトヘイト特別委員会とNGOの協議」(ジュネーヴ)に参加
*4月 経団連中心の視察団南アへ
*6月 デクラーク、アパルトヘイト根幹法廃止
*10月 政府対南ア制裁を解除決定
1992年 1月 外務省前で「対南ア早期外交関係再開は時期尚早」の訴え
3月 集会「南アの現状と新憲法」(アムネスティ主催)
3月 JVC主催帰国報告会「南ア草の根の動きー女性・都市スラム・農村ー」
6月 「南ア大統領デクラーク来日緊急シンポ」(初めて財界代表・ジャーナリスト、開発/援助NGO、反アパグループが同席して討論)
7月 「南アの政治的暴力に関する国際公聴会」(ロンドン)に参加
9月 セミナー「南ア・暴力事件の背景」(アフリカ行動委員会とNCCの共催)
10月 「グショナ・ショーペを囲む夕べ」(アフリカ行動委員会、JVCの共催)
10月 JAAC全国合宿(14回目)全国合宿はこれが最後となる
11月 「私が変わる・村が変わる」(ノグゾラ・マギダ)(JVC主催)
*1992年〜 南ア制憲会議始まる
1993年 7月〜9月 写真家ヴィクター・マトム来日、全国各地で写真展や交流(写真展「南アの人々」実行委員会)
9月 「日本と南アの今後を考える市民の会」(川崎市平和館:マトム、黒人教育を支える会など)
10月 JAAC・Tokyoの事務所閉鎖(行動委・ニュースレター発行所・南ア問題研究所はそれぞれ別のところに移される)
*4月 クリス・ハニ暗殺さる
*5月 国連モザンビーク活動に政府は自衛隊派遣
*10月 政府「アフリカ開発会議」(第一回TICAD)
*10月 アフリカ・シンポ
1994年 2月 「反アパ国際会議(ブリュッセル)」に参加
3月 松島多恵子南ア特派員を支える会発足。95年2月迄
4月 パネル・ディスカッション「今、南アの選挙と私たち」−草の根の声を求めて−(日本カトリック会館)
6月 「新生南アの現状と女性たち」(講演とシンポ;佐保美恵子・勝俣誠ら)マトム写真展神奈川実行委員会とJVC共催
7月 講演会「激動の南ア」(JVC、写真展実行委員会)
10月 アフリカ日本協議会主催シンポ「新生南アと私たち」 1・2部構成で、NGO、外務省、南部アフリカ貿易懇話会、南アからの研修生、国会議員、アフリカ研究者らが参加
*4月〜5月 南アで国政選挙
*5月2日 ANCが62%を獲得、マンデラ勝利宣言
1995年 4月 「民主南アの展望」(主催:写真展「南アの人々」連絡会)
6月 「南アのために世界が祈る日−草の根の新たな連帯を求めて−」(NCC主催)
7月〜8月 マシイレ中等学校合唱団来日(ましいれプロジェクト実行委員会)
11月 「あんちアパルトヘイトニュースレター」最終号(No.85)
★行動委員会の最終章であるこの五年間は、反権力運動の闘士であったネルソン・マンデラがANC政権のもとでの新生南ア国家の最高権力者にかわる時期であった。そのことについての意識の切り替えに私たちは戸惑った。「権力闘争と反権力闘争を見間違うな」とある新聞記者にやんわりと諭されたが、私たちはそれほどに世間知らずだったのかもしれない。
この期の運動の前半は、まだアパルトヘイト根幹諸法も廃絶されずにアパルトヘイト体制が続いているにもかかわらず、南アに対する経済制裁を解き、南アとの経済・政治関係を再開しようとする「歴史健忘症」の日本の政財界に対しての「制裁解除時期尚早!」のキャンペーンだった。
自社・自国の利権のためにアパルトヘイトに、公然とあるいはひそかに加担し、アフリカ人の人権を踏みにじることに手を貸してきたことを反省もせず、その責任を取ろうともせず、新生マンデラ政権にすり寄っていく企業人や政治家、役人たちを目の当たりにして、私たちは重い疲労感にさいなまれた。
90年の半ば頃から短い期間だが、私たちは南アの草の根組織と出会い、日本で資金を募り、現地の「スクウォッター・キャンプ」の学校建設に協力する援助活動にかかわった。
が、これはそれまでの反アパルトヘイト運動とは別の哲学と技術と能力を必要とするもので、何の経験もない私たちには荷が重すぎ、活動は空中分解してしまった。この総括はまだ終わっていない。
かくして1960年代に始まったアフリカ行動委員会の運動は、アパルトヘイト体制の崩壊と新生南ア国家の誕生を見届けて終幕した。

この年表や「コメント」(★)は、必要あって私が個人的にまとめたもので、きわめて私的なノートにすぎません。アフリカ行動委員会の運動に関わられた一人ひとりの方々にとっては、大切で重要な出来事や関与が抜け落ちている、あるいは忘れられているものが多々あるだろうと思います。
そのために行動委員会の「ニュース」、「年報」、「ニュースレター」、ブックレット、カレンダーなど刊行物が、誰でも閲覧・利用できるように、公的な場所に保存される必要があると思います。
その第一歩として、大阪「こむらどアフリカ委員会」の下垣桂二さん、それにJAACの運動に関心をもっておられるアフリカ研究者の牧野久美子さんたちと、日本全国のJAACの出版物等のリストを作成中です。また、1987年10月〜1995年11月までの「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」(通巻85号)が須関さんのおかげで、いつでもウェブ・サイトでご覧になれるようになっています。



私が知る限りでのJAAC関係の物故者
安木宏明さん・富元一彦さん(静岡)・山口三夫さん(静岡)・白石顕二さん・芝生瑞和さん・弘中敦子さん・安達博子さん(仙台)・原田龍心さん(大阪)
(楠原 彰)

(注記)本資料は、「反アパルトヘイト運動の経験を振り返る」研究会(2014年10月11日、於:東京外国語大学本郷サテライト)における楠原彰氏の基調講演の配布資料をもとに作成されました。基調講演の内容および年表の一部は、(特活)アフリカ日本協議会発行『アフリカNOW』No.102にも掲載されています。研究会配布資料、『アフリカNOW』掲載年表、および本資料のあいだには、編集過程で若干の表現の差異が生じておりますことをご了承ください。(牧野久美子 記)



UP:2008 REV:20150612

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