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Gender in Africa 2


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Gender in Africa
アフリカ Africa 2015


おかねおくれ


作成:斉藤龍一郎
 *(特活)アフリカ日本協議会事務局長

アフリカ日本協議会(AJF)2010
HIV/AIDS 2010
グローバル・エイズ・アップデイト
Gender in Africa
アフリカの子ども
アフリカ障害者の10年
アフリカ開発会議(TICAD)
気候変動とアフリカ
アフリカと中国
アフリカとスポーツ
アフリカの食料・農業問題
アフリカの石油、資源
アフリカの保健・医療
アフリカのICT
ケニア共和国 Republic of Kenya 大統領選挙と騒乱
ソマリア海賊対策と自衛隊派遣問題
アルジェリア民主人民共和国アンゴラ共和国ウガンダ共和国エジプト・アラブ共和国エチオピア連邦民主共和国エリトリア国ガーナ共和国カーボヴェルデ共和国ガボン共和国カメルーン共和国ガンビア共和国ギニア共和国ギニアビサウ共和国ケニア共和国コートジボワール共和国コモロ連合コンゴ共和国コンゴ民主共和国サハラ・アラブ民主共和国サントメ・プリンシペ民主共和国ザンビア共和国シエラレオネ共和国ジンバブエ共和国スーダン共和国スペイン領カナリア諸島スワジランド王国セーシェル共和国赤道ギニア共和国セネガル共和国ソマリア民主共和国タンザニア連合共和国チャド共和国チュニジア共和国中央アフリカ共和国トーゴ共和国ナイジェリア連邦共和国ナミビア共和国ニジェール共和国ブルキナファソブルンジ共和国ベナン共和国ボツワナ共和国マダガスカル共和国マラウイ共和国マリ共和国南アフリカ共和国南スーダン共和国モーリシャス共和国モーリタニア・イスラム共和国モザンビーク共和国モルディブ共和国モロッコ王国リビア(旧 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)リベリア共和国ルワンダ共和国レソト王国
※外務省ウェブサイトを基に、国名を表記しています。

アフリカにおけるジェンダー問題の現状を広く共有することで、新たな切り口でアフリカ社会への認識を深めることは、アフリカの情報自体が不足し、偏重しがちな日本においては、大きな意義があると思われます。
【Gender in Africa】 と称して、ajf-info(AJF会員対象のML)、希望者へのBCC同報メールなどを通じて、アフリカのGender関連の記事の翻訳や寄稿を中心に情報発信をしています。つきましては、翻訳ボランティアなど、ジェンダー問題に興味のある方はinfo@ajf.gr.jp(斉藤)までご連絡ください。また、不適切な用語や表現、誤訳などがあると思います。気づいた方は教えて下さい。よろしくお願いします。

Gender in Africa チーム:斉藤龍一郎、橋場美奈、野木美早子

アフリカ女性たちの平等への闘い〜北京会議後10年間での前進の陰で残される主な課題〜
十代の妊娠をめぐる議論が盛んに −ナミビア
アフリカ女性の『サクセス・ストーリー』
リベリアの新大統領、レイプのタブーを打破
リプロダクティブ・ライツ基金を求めるアフリカの声に、いらだつアメリカ
アフリカ全体のために経済成長と健全なリプロダクティブ・ヘルスの両立を
Body blows−障害女性が直面するいくつもの苦難−
おばあちゃんが母子保健を改善する−地域の人々の知恵の管理者としての役割
西アフリカにおいて女性が果たしてきた政治的役割
アフリカの女性たち、指導者になる準備完了
リベリア:戦争後も続く女性への性的暴行を、政府、女性グループが激しく非難
コンゴの女性たち、レイプの遺産に立ち向かう
ソマリア:内戦で最も苦しむのは女性と子ども達
女性商店主がマラウイの農業を後押し
Jeune Afrique 国際女性デー2007特集 女性の時代
Jeune Afrique 国際女性デー2007特集 女性たちの発言
 ○Wangari Maathai 環境活動家
 ○Leonora Miano 作家
 ○Latina Jbabdi 公平・和解機関メンバー
 ○Ameenah Gurib-Fakim 科学者
 ○Dora Akunyili 食料品・薬品管理検査局長
 ○Bernadette Tokwaulu Aena 電力会社総支配人
 ○Lala Moulaye 銀行社長
 ○Hadda Hazzam 新聞社長
 ○Emilienne Macauley 携帯電話会社支社長
 ○Awa Maria Coll Seck ロール・バック・マラリア事務局長
 ○Hakima Himmich カサブランカ大学病院センター感染症局長
 ○Naha Mint Mouknass 民主主義と進歩のための連盟党首

女性の時代

3月8日は国際女性デー。人類の半数がいまだに被っている大きな不平等を嘆く(数少なすぎる)貴重な機会だ。でも今世紀に入ってから、権力の座に就く女性の数は徐々に増えている。この世界的な現象について調査した。(記者=エリーズ・コレット)

アフリカ大陸の歴史に残る快挙を成し遂げた女性がいる。ラビアトゥ・セラ・ジャロ(Rabiatou Serah Diallo)だ。彼女はギニアの全国労働組合連合のリーダーであり、20年以上にわたる長期政権を揺るがす原動力となった。ギニア労働者全国連合(Confederation nationale des travailleurs de Guinee, CNTG)の事務局長として、1年以上、国家元首ランサナ・コンテと対決し、1月10日から続くゼネストでとうとう大統領を妥協させたのだ。宿敵たちや他の労働組合のリーダー達は、天使のような優しいまなざしをしていてもヘラクレスの力を持つディアロの決意が目的を達成することを阻むことはできなかった。ディアロは、古参の組合活動家セク・トーレ(Sekou Toure)のかつての協力者であり、その政治へのコミットメントは、19歳の時、彼女がCNTGの専従活動家になろうと試みた時に始まる。1969年には試みはかなわなかったが、2000年には成功し、2006年には数千人のギニア人たちを街頭に登場させ初めての運動を開始した。ディアロのように、(男である)権力者をたじろがせたり、少なくとも張り合う女性は徐々に増えている。

あと2ヶ月で、パリのエリゼ宮(大統領官邸)に女性が足を踏み入れるかもしれない。あと18ヶ月で、別の女性が、ホワイトハウスを目指す競争の中、アメリカ合衆国民主党の大統領候補になるかもしれない。そして国連の事務局次長に一人の女性が任命されてから、ちょうど3ヶ月が経つ。3月8日の「国際女性デー」は、もともとは世界中の女性の権利の進歩を祝う日として、1975年に定められた。21世紀初頭以来、この日は、毎年少しずつその策定者の意図したイメージに近づいている。

いまだに圧倒的多数の女性が不利な立場に置かれ、抑圧され、瑣末な労働に従事させられ、ときには奴隷にされているものの、世界では今、静かな革命が起きている。この革命によって、20世紀末の数十年の間に女性は賃金労働に就けるようになり、今日ではその内何人かがより重要な職業に就けるようになった。

人類の半数にとって、今は改革の気運が高まっている時期だ。アメリカの月刊誌Forbesが行った「世界で最も影響力のある女性」の格付けは、最近の女性進出の傾向を示している。上位6人(順に、ドイツ首相アンゲラ・メルケル、米国務長官コンドリーザ・ライス、中国副総統 呂秀蓮、PepsiCo社社長Indra Nooyi、ゼロックス社社長Anne Mulcahy、シティーグループ社長Sallie Krawcheck)は、全員2001年から2006年の間にそのポストに就任した。2005年以来、四半期ごとに新たにパイオニアの女性が現れている。最近では、去年11月に米連邦議会の議長に女性として初めて就任したナンシー・ペロシや、1月に国連のナンバー2に選ばれたタンザニア人のAsha-Rose Migiroの記憶が新しい。

全世界の全ての分野において、歴史的に男性が握ってきた権力の独占の構図が崩れ始めている。フェミニスト世代の子どもたちである50歳代の人々である彼女らは一般化した就学機会と女性に対する考え方の変化・進歩を享受している。その考え方の進歩の中で、女性個人を取り巻く環境は改善され、女性たちは「ガラスの天井」に達するまでになった。しかしながら、その「天井」を突き抜ける事ができた女性はまだ数少ないのが現状だ。世界の198カ国の内、国家元首が女性である国家は11カ国(女王がイギリス・オランダ・デンマークの3人、大統領がチリ・フィンランド・リベリア・フィリピン・スイス・アイルランド、イスラエル(暫定)、リトアニアの8人)、副大統領が女性なのは7カ国(南アフリカ・ブルンジ・コスタリカ・ガンビア・エル-サルバドル・台湾・ジンバブエ)、首相が女性であるのは5カ国(ドイツ・ニュージーランド・モザンビーク・ジャマイカ・韓国)である。しかしながらこの指導者達は、何世紀もの両性の不平等という海に今なお沈んでいる女性という氷山の、海面に表れた一角にすぎない。特にアフリカでは、リベリアでのジョンソン=サーリーフ(Ellen Johnson-Sirleaf)の当選は権力の座に就く女性の数少なさを際立たす結果となっている。主にグッド・ガバナンスが推進力となって、大臣の座に就く女性の数自体は増えてはいるが、大体の場合彼女達が就任するのは小規模な省の大臣職に限られている。そういった事情により、アフリカ大陸全体では、女性の大統領は53か国の内ただ1人、副大統領は4人、首相は1人を数えるだけである。重要な大臣職(財務大臣、外務大臣、法務大臣、内務大臣)に就いている女性は21人である。フェミニズムに勝利をもたらしているのは、Marina Barampamaが副大統領を務めているブルンジを除いては、フランス語圏以外の国々である。ブルンジ以外で(女性の)副大統領がいるのは南アフリカ、ガンビア、ジンバブエで、唯一の首相はモザンビーク人である。

しかしながら、重要な役職に就ける女性と、そうではない不利な立場に置かれている大部分の女性の間の差は、地理的理由にも社会的理由にもよるものではない。ブルキナファソと同じくフランスでも、南アフリカと同じく米国でも、貧困により女性は今も不平等な状況に置かれている。「富んでいるときは、分配するものがあるから皆自分の分け前をもらう事ができるわ」と2004年ノーベル賞受賞者のワンガリ・マータイは説明している。「でも、貧しいときは、少ししかない分配は全て男性が優先される。女性はいつも2の次でしかないのよ。」

いずれにせよ、今日でも、女性の成功は「奇妙なもの」と捉えられている。女性が組織の頂点に登りつめるたびに、その「女らしさ」という仮定が言及される。アンゲラ・メルケルは、母親ではないことを責められた事があったではないか?逆に、セゴレーヌ・ロワイヤルは母親すぎることを責められたではないか?コンドリーザ・ライスが中性的すぎるとの批判は?ヒラリー・クリントンは「〜の妻」であるという批判は?結局、女性が乗り越えるべき「初めて」のことはまだたくさんある、ということだ。そしてまず起こすべき「初めて」のことは、女性が重職に就くという事に誰も驚かなくなることである。

女性たちの発言

女性には、Ellen Johnson-Sirleaf、Simone Gbagbo、Nadia Yassine、Aicha Kaddafi、Aminata Traoreのように、もうその名を轟かせている者がいる。その一方で、男性が作った組織構造の中ではいあがり、その分野のトップに立った者もいる。アフリカでは、女性の社会進出への道のりが、なぜ、しばしばとても長いのか。その理由を12人の女性(政治家、活動家、科学者、文学者、企業経営者)に説明してもらった。

記者=Farid Alilat, Juliette Bastin, Colette Berthoud, Samy Ghorbal, Severine Kodjo-Grandvaux, Tshitenge Lubabu M.K., Marianne Meunier, Patrick Sandouly


Wangari Maathai

ケニア国籍の66歳。Green Belt Movementのリーダーで、2004年にノーベル平和賞を受賞した。

『私が東アフリカで初めて女性として博士号を得たのは1971年だけれど、その当時、科学研究を行う女性はほとんどいませんでした。女性達はその前にやる気を失ってしまったり、自らに見切りをつけてしまったりしていました。私の周りでは、両親を除いては、誰も私がなぜ学問続けたいのか分かってくれませんでした。その頃は、研究者という職は女性が就けるものではないと思われていたのです。女性は家庭にいるか教師になるものと思われていました。

今日では、もうそのような社会的圧迫はなくなりました。若い女の子達には、貧困以外には、学校に行かない理由がありません。でも今、責任ある地位に女性が就くことを妨げているのは、まさにこの貧困なのです。

女性の社会的位置は、その社会の経済的発展の度合いを鏡のように映し出します。社会が富んでいるならば、富の分配が十分になされるため、全ての人が自分の分け前をもらう事ができます。しかし社会が貧しいと富の分配はまず男性にいってしまうのです。女性はいつも2番目の選択肢なのです。女性がある職に任命されるときは、いつも「男性に適任者がいないから仕方なく」、なのです。男性は、女性がもつ有能さや、女性ならではの資質に敬意を払ってはくれますが、「ある女性が自分達よりも有能である」ということを認めるのには時間がかかるでしょう。

気をつけてほしいのは、ここで「有能」というのは、「同質」という意味ではないということです。女性は男性とは異なる能力、特性を育んでいます。女性の方が男性よりも子どもに敏感で、平和のためにより尽力します。それはなぜかというと、男達が戦線へと出かけて行く時、息子を失い難民となってしまうのは自分自身だからです。

でも、今のところ、女性が権力や影響力のある職に就いても、していることはあまり男性と変わらないように見えますね。それが、今日の女性の問題なのです。私達女性は、男性によって何世紀も前に作られた古典的な社会システムの中を上へ上へと登っていっているから、そう見えてしまうのですよ。

何かを成し遂げる女性一人ひとりが、未来に向かっての大きな一歩です。誰ももう、「女性が大統領に選出されるということがあってもいいのだろうか?」なんて思わない未来に向かっての、ね。』


Leonora Miano

33歳、カメルーン国籍。小説家。

私は、作家への道を歩んでいく中で、障害にぶち当たった事はあまりありません。でも、女性は出版上の差別を受けることはないけれど、特定のテーマを小説で取り上げると悪く思われることがありますね。私の初めての小説が出版されたときもそうでした。

女性の条件というのは、まずはホルモンの条件のことを指しています。女性であるということは、毎月生理があって、場合によっては出産するという事です。私は女性が本当に解放されたとは思っていません。女性の体の露出度が広告でエスカレートしていることを見れば、女性は事物化されている事が分かります。女性を考える主体ではなく、かわいい物としてまずはみなすという、昔と同じレベルに社会はまだあります。

さて、私は、女性と男性は、調和することで活性化するエネルギーだと考えています。しかし今でも、世界のあちこちで家父長制が人々を支配しています。調和のバランスを取り戻さなければいけません。

各文化により生み出された「男性のイメージ」に多くの男性が囚われているということは、今まで十分に話題になってきませんでした。女性は男性が他のあり方をするのを手伝ってあげなくてはいけません。もし、フェミニズムが男性に対して戦争を仕掛けるというなら、私はフェミニズムにノーと言います。また、もしフェミニズムが私達女性を被害を受けた種で、私達は犠牲となるような行動と議論しかすることができないとみなすのであれば、私はフェミニズムにノーと言うでしょう。でももし、フェミニズムが憎しみを含まず、正義と平等を目指すものなら、私はフェミニズムにイエスと言います。男性だって、子どもの頃にレイプされていても、弱い男だと思われるのが怖くて、簡単にそのことを口にできない…というような状況にいます。妻に虐待を受けているような状況でもそれは同じです。

フェミニズムの役割は、人一人ひとりが開花できるよう、バランスを探すことだと思います。私達が思っているのとは反対に、男性だって苦しんでいるのです。社会がそうできているからといっても、いつも征服者のように振舞うのは簡単なことではありませんから。


Latina Jbabdi

モロッコ国籍の51歳。公平・和解機関(Instance Equite et Reconciliation)のメンバー。

私は6人の子どものいる家庭で2番目に生まれ、近代主義者で政治活動家の父親に教育されました。私はとても若くして政治に身を投じました。14歳の時、不平等と不公平に憤慨して政治に関わるようになり、その少し後にOADPのの前身である3月23日組織という共産主義組織に加入したことにより、地下活動に入りました。重苦しい日々でした・・・。1972年に短期間、拘束され、その後また1977年に逮捕されました。その時は裁判なしで3年間拘禁されました。1980年、3月23日組織は、民主主義運動に方針転換し、革命幻想に背を向けました。

1980年初頭に生まれたモロッコ人女性運動にも、その当初から参加しました。私達が繰り返し要求したのは、Moudawanaという女性に関する旧式な法典の変革でした。当時、女性問題は対した問題ではないと考えられていました。階級間の闘争でしか物事を判断しない左派を含め、私達の要求に対する動きはとても鈍いものでした。でも1992年には、私達が行った署名活動には何百万という署名が集まり、保守主義者たちに大きなダメージを与えたのです。その後大きな転機となったのは、私が調整役を務め、2000年3月に行われたRabat女性デモでした。政治的に女性問題は避けて通れなくなり、社会はこの問題をめぐって割れました。

国王モハメッド6世がこの問題を取り上げました。そうして、私達が生み出した推進力は2003年のMoudawanaの改正につながり、この改正は私達にとっても予想以上の成果となりました。今は政治の場での女性の代表性に注目することが必要となっており、選挙時に女性候補が一定の割合をしめる制度ができるように運動を続けていくつもりです。

私は「公平・和解機関」(Instance Equite et Reconciliation,IER)の16人のメンバーの1人(さらにただ1人の女性)という名誉ある立場に就きました。IERは、政治弾劾が行われた重苦しい年月について調査し、モロッコをその過去との和解に導くよう国王陛下によって設置された組織です。私は、その年月に失踪した人々の母親や妻たちと接しました。彼女達の心の傷や苦しみを自分のものとしました。それは私の人生で、最も印象深い体験となっています。


Ameenah Gurib-Fakim

モーリシャス国籍、47歳。化学教授、2007年科学オレアル−ユネスコ賞受賞者。

私は両親、特に母から、とても質の高い教育を受けました。母は、女性が自立する唯一の方法は教育であると考える人でした。教育は高くつきましたから、私と同世代で同じような教育を受けられた女性はほとんどいないと思います。男の子の方が、優先されていましたから。1976年に教育が無償化されたことによって、状況は変わりました。1世代で、多くの改善がなされたと思います。

今日、科学の分野では、女性は生物学や栄養学といった「女性的」とみなされる分野で働くことが特に多いのが現状です。しかし、ヒエラルキーの中で一定レベル以上になると、女性たちは目に見えない弱者となります。彼女たちに対する社会的圧力は強く、家族の世話も全て彼女たちがしなければならないからです。責任と仕事の分配を認めさせるだけの気概がある者はほとんどいません。私は、責任や仕事を分配して、唯一の女性教授になるために、ここに到達するどんな男性と比べても5倍以上の努力をしなければなりませんでした。

このような困難を乗り越えるには、途方もない精神力が必要です。私がこれを乗り越えることができたのは、モーリシャス島の薬草についての知識を教えてくれた、名もない女性たちの協力があったからだと思います。女性は科学にとって、とても重要なアプローチの仕方をしています。彼女たちは科学上の決定に攻撃的ではありません。そこに男性との補完性があります。女性はもっと意思決定に関わっているべきなのです。

私は、責任ある地位に女性が就いているところをもっと見たいとは思いますが、だからといって自分をフェミニストだとは感じた事はありません。だって、女性だって多くは人を殴りますからね!でも彼女達が感じている妬みは、女性が置かれている社会的不安定な状況を示していると思います。

社会は変わらなければいけません。なぜなら、人口の52%を無視しては国家は成長できないからです。教育にもっと力を注がなければなりません。若い女の子達には、女性の成功像が必要です。そして、とりわけ、女の子たちは教育に放されないようにしがみついていかなければダメね!


Dora Akunyili

ナイジェリア国籍の52歳。食料品・薬品管理検査局(Agence pour l'administration et le controle de l'alimentation et des medicaments)局長。

2001年に行われた、Obasanjo大統領による私のNafdac局長への任命は、政治階級には歓迎されないものでした。私がイボ人(編集者注:ナイジェリアの主要民族の一つ)で、Nafdacの上部機関である保健省の大臣もイボ人、不法取引者もイボ人だから、民族としてのつながりが私の仕事の遂行を邪魔するだろうと政治家達は言い張りました。でもそれはただの口実で、本当は、私が女性であるという事が彼らには気に入らなかったのです。

私がNafdac局長に就任すると、男性達は私を認めざるを得なくなりました。女性であると、男性の10倍働かなければなりません。でもその代わり、認められると、男性より10倍評価されます。Nafdacには、男性より女性職員の方が多くいます。この機関(編集者注:偽造された食品や薬品の流通を取り締まっている)で働いていると、誘惑がたくさんあります。贈収賄の機会も数多くあります。経験的に、私は男性よりも女性の方が買収されにくいと知っています。ある男性から、ライセンス授与を行う課の課長は女性であるべきだ、と言われたことすらあるくらいなんですよ!

私は恵まれていると思います。田舎では、女性はまだ本当に奴隷状態で、朝から晩まで不満を言う事もなく働いています。都市では、女性の立場はより急速に変化しています。私の祖母は、祖父と同じ席で夕飯を食べず、彼のことを「ご主人様」と呼んでいました。私の母は、父のことを「あなた」と呼んでいました。そして私の娘は、その夫と一緒に料理をしているんですよ!女性は、教育を受けていればいるほど、自由になれます。だから若い女の子達には、よく勉強して、自分の見てくれではなく頭に頼りなさい、と言ってあげたいと思います。


Bernadette Tokwaulu Aena

コンゴ民主共和国国籍の46歳、国家電力会社の総支配人。

私は昇進を重ねて昇りつめ、合計で22年間のキャリアを有しています。大使の娘として生まれ、いつも自由で、決断力があり、野心的な女性であり続けてきました。でも総支配人になってから12年間というもの、運営委員会には一度も参画できていません。私が女だからです。私はずっと若い女の子達に、セクシャル・ハラスメントを告発し、セックスによる昇進は断れ、と言い続けて来ました。でも、本当に彼女達にはその選択肢があるのでしょうか?

戦時中は、集団レイプが武器として行われました。以来、数人の女性が政治体制に切りこみ、政治における男女平等を要求してきました(編集者注:現在ではこの概念は憲法に盛り込まれている)。しかし、コンゴ人女性には、この憲法上の大躍進に対する準備ができていませんでした。男性はそれに輪をかけて準備ができていませんでした。近年の総選挙では、女性候補者はほとんどいません。

各政党には、女性活動家が十分にいません。そして数少ない女性の面々も、選挙名簿上でよい順番に記載されませんでした。野望が渦巻く場では、女性の野望は優先順位が低いのです。コンゴの民主主義は、長い対話の後に「授けられた」民主主義です。だから同様に、政治制度上の男女平等も「授けられる」べきです。よって、できるだけ多くの女性を、その能力に即して、色々な役職につけるべきだと思います。

男性に対抗して社会で重きをなそうとする女性の闘い、という解釈のフェミニズムはアフリカ文化にはそぐいません。私達には何が必要なのか?自分達の権利が認められることです。今日、母親の権利は認められましたが、妻の権利や娘の権利は全く認められていません。特定のケースで求められる夫の承認や、未亡人の身分規定がないということがそのことを証明しています。


Lala Moulaye

47歳。コートジボワール・アフリカ銀行(Bank of Africa Cote d'Ivoire)社長。

未亡人で現在16歳から22歳の3児の母のLala Moulayeはこれまでキャリアを優先してきた。銀行内では、内部研修がある度に昇進のためにその機会を利用し、2000年にはとうとうコートジボワールBOAの取引・開発部長に就任した。当時の社長と彼女の尽力により、コートジボワールBOAは5年間で2倍の規模に成長した。

謙虚な彼女は、「私はフェミニストではありませんから」と、自分が例として挙げられる事を拒む。しかしその職歴の時々で、「女性であるというのはむずかしいことで、苦しい事」であったというのはすすんで認めた。「特にビジネスの場では、男尊女卑の風潮がかなり強く、『ビジネスは男同士がやるものだ』と男性は男性だけで固まりたがるんです」。また彼女は、「女性に対して、国により文化的・社会的に異なる障害が存在し、コートジボワールではその障害はさほど強くない」と指摘する。

これらの洞察に支えられて組織の頂点に昇り詰めた今、彼女は、完全に女性の呼ばれ方(Directrice)よりも、「マダム・事務局長(Madame le directeur general )」と呼ばれることを好む。彼女が自らの女性らしさを表現するのは、その日の予定に合わせて念入りに選んだ服装によってである。


Hadda Hazzam

47歳、アルジェリア国籍。日刊紙「El-Fadjr(夜明け)」新聞社社長。

私の母は字が読めませんが、学歴上の成功が貧困に打ち勝つ唯一の方法だとみなしています。私はずっと新聞記者になりたいと思っていました。1979年にバカロレア を手にすると、事務方の仕事には全くやる気を感じなかったのですが、経済学学士を取ろうと大学に入りました。

1985年11月には日刊紙「El-Massa(夕方)」新聞の編集部に入社しました。持ち前の大胆さのせいで、何度も拘禁されそうになりました。新聞界の状況に幻滅して、2002年10月5日にアラビア語日刊紙の「El-Fadjr(夜明け)」を発行しました。なぜ10月5日なのかって?この日はアルジェリアにおいて、若者の反抗、民主主義と複数政党制の到来を象徴する日だからです。

唯一の新聞社女性社長であることに、私は誇りを持っています。もちろん、fahla(名誉ある女性)として扱われることを嬉しくも思いますが、fahlaは国内に何千人もいますから。2006年12月には、ある隠されたタブーの世界について、新たに注意を注ぐきっかけとなる体験をしました。その世界というのは、アルジェリアの刑務所です。Jebrane Touiniという殺害されたレバノン人新聞記者についてのシンポジウムに参加するために、ベイルートに行こうとアルジェの空港にいたら職務質問を受けました。そして13日間、El Harrach刑務所に拘禁されました。そこで私は人間としての退廃の危険と隣り合わせ、女性収容者たちの尊厳のかけらもない雑居状態を経験し、退行的な家族法の犠牲者となった女性たちの苦悩を分かち合いました。虐待され、辱められ、子どもたちと共に路頭に放り出されて、女性の尊厳を回復するためにとうとう不実な夫を絞め殺してしまったMalikaの表情をどう忘れよというのでしょう?


Emilienne Macauley

47歳、カーボヴェルデ国籍。Celtelマダガスカル支社長。

Emilienne Macauleyが携帯電話の通信オペレーター会社Celtelのブルキナファソ支社長に就任したのは、2003年11月、彼女がちょうど40の坂を越えた頃だった。今日では彼女は、Celtelが2005年に進出したマダガスカルの支社長を務めている。

「アフリカ人女性の地位向上は、とても重要な個人の闘いです」と彼女は言う。と同時に、支社長のような高い役職に就いているアフリカ大陸で数少ない女性の1人であるということは、特に「仕事上の挑戦であり、私の能力が自然に向上していくことです。よく、新しく始める研修の後援者として大学から招かれます。そういったとき、女学生達には、アフリカの発展に一役演ずるために困難を乗り越えることを学び、世界に立ち向かうことを学びなさいと勧めています」。

10代の頃、Emilienneは母親について5年ごとに引越しを繰り返していた。母親は、アフリカの国々が独立した時にその国家元首の下で働いていた、最初の若い女性の1人だった。Emilienneはこうしてアクラ、ロメ、アビジャン、ダカール…といった所へ、母親に付いていった。1979年には、高等教育で「奨学金をもらえることになったから」ベオグラードへ行き、「学費を払うために働かなければならなかったから」1982年にはアメリカ合衆国へと渡った。2000年にはCeltelブルキナファソ支社の営業・マーケティング部長となり、当社のブルキナファソでの事業の好調な滑り出しを保証した。2年後には、Celtelグループの任命によりガボンにおいて同じ役職に就いた。顧客は18ヶ月で倍増し、Emilienneは支社長に昇進した。

Directrice(「社長」という言葉の女性形)なのか、それともdirecteur(一般的に社長に対して呼び名として使われる男性形)なのか?「責任ある地位に就くだけの気持ちと用意さえあれば、男性であるか女性であるかということは重要ではありません」と彼女は言う。しかし同時に、「現在、各国政府は意思決定への女性の参加が重要であると認識してはいますが、実際には十分な数の女性が参加していません」と言う。この事態が変わるためには、「今よりずっと具体的で断固とした社会的コミットメントが必要で、そのためにはまず、若い女の子達が今よりも教育を受けられるようにしなければいけません」。


Awa Maria Coll Seck

56歳、セネガル国籍。世界的パートナーシップ『ロール・バック・マラリア』の事務局長。

4人の子どもの教育、政治活動や労働組合活動、そして私のキャリアの積み上げ…私はこれら全てを同時に行わなければなりませんでした。幸運なことに、医者である私の父は、私が彼と同じ道を行く事を誇りに思っていてくれました。私が経験した最初の試練は、1975年に参加した、ダカールの病院においてのインターンシップでした。同僚は全員男性で、私のような個人的負担を持ってはいませんでした。私は夜遅くまで働いたり、当直をしたり、娘に病院で授乳したりしなければいけませんでした。

その後、私は夫と子ども達をダカールに残してフランスで勉強を続けました。距離的に離れているという事は、家庭を壊しかねません。それでも私は、仕事上の成功のために私の家庭生活や社会生活を犠牲にしたとは思っていません。たしかにおしゃべりのために友達と長居することがあまり頻繁にできなくて、残念に思ったりはしますが…。今では子ども達も大きくなって、私のことを誇りに思ってくれていると思います。私も、子ども達のことを誇りに思っています。

私は理解ある夫が得られて幸運でした。封建的な夫だったら、とても目立つ、時には自分よりも目立つような立場にいる妻など絶対に受け入れなかったでしょう。私達の社会では、夫婦の絆を傷つける多くのマイナス要因は、周囲からの中傷に端を発しています。周囲が夫に対して、妻は「また」旅行にでかけているのかとか、テレビには「彼女しか出演しない」とか言うのです…男性はそれで不満を感じることもあります。私の周りには、夫によって勉強を続けたり、昇進することを妨げられた若く賢い女の子達がたくさんいます。専門職に就けたものの、夜遅くに帰るということが夫婦喧嘩を引き起こした子もいます。その中には、夫に暴力を振るわれた子までいるのです。

女性の闘いは私の闘いでもあり、勉強を続けて結婚を遅らせる女性がセネガルでどんどん増えているのは喜ばしい事だと、私は感じています。


Hakima Himmich

62歳、モロッコ国籍。カサブランカ大学病院センターの感染症局長。

私は、兄弟達と私が別扱いされるのを受け入れた事は一度もありません。パリで学生だった時、左翼政党と全国モロッコ人学生連盟のために活動していましたが、男性活動家たちが私たち女を二次的な役割に押し込めようとするのには我慢がなりませんでした。私は完全にフェミニストです。

今日では、真剣に粘り強く取り組んできた甲斐あって、エイズ対策協会(Association de lutte contre le sida, ALCS。Hakima Himmichは1988年にこの団体を設立したメンバーの1人である=編集部注)で私たちがしている仕事はMohammed 6世陛下の支持を受けていますが、ALCSは自主独立した組織です。私は夫に支えられるという幸運と、子育ての手伝いを信頼できる人がしてくれるという特権に恵まれました。父だけが働けるのだとたたきこまれた多くの女性と違い、自分が働いている事に罪悪感を感じた事はありません。私自身の父は、私に高等教育を受けることを強く勧めてくれました。私は活動家世代の人間であり、そのことが役に立っていると感じています。若い女性たちには、彼女達が未来の医者であろうとなかろうと、女性の権利のための闘いの先頭をきり、一番になるために闘わなければならないことを分かってもらえるように努力しています。凡庸さは男性には認められても、女性には認められないんです。


Naha Mint Mouknass

37歳、モーリタニア国籍。民主主義と進歩のための連盟(Union pour la democratie et le progres, UDP)の党首。

政界に身を投じる女性は男性的になければならない、と世の中では思う傾向があります。私はこの考え方には賛成しません。女性は政界に進出しても女性らしさや、現実感覚、直感、実用主義といった女性特有の長所を持ち続けなければならないのです。もし男性に似ようなどとしたら、有権者は怖がって女性に投票してくれないでしょう。女性はある理想を体現しなければならないのです。女性であることで自分が得をしたか損をしたかは、私には判断できません。私は特別なケースで、父(UDPの創立者であり党首。前外務大臣=編集部注)が私に色々教えたり、私の段取りを考えてくれていました。

私はモーリタニア唯一の女性党首です。伝統的には、この国では女性は政治で目立つ存在ではありませんでした。夫や父、兄弟やおじを支えて、舞台裏の仕事をするのが常でした。その後、国が外に門戸を開いたことで、女性たちは教育を受けられるようになり野心が芽生えるようになったのです。経済活動の領域に目が向いている女性が多いですが、そうするのは正しい事だと思います。自身を確立して自由であるためには、経済的に自立していなければいけませんから。武器なしで政治に身を投じてはいけません。

去年7月、政治における女性の発言力を増すため、選挙人名簿の一定割合を女性候補が占めるよう定めた法律が閣議で決定されました。この女性候補割り当ての制度は、いつの日か女性に仇となるでしょう。なぜならこの制度は女性の長所、知的レベル、野心といったものを前面に押し出していないからです。女性たちを一番よく守れる女性が議員職につけるようになるには、そういったものを促進することが必要なのに。今日、国会には「法律でそう決まったから」そこにいる女性や、選ばれたくもなかったのに議員になってしまった女性がいます。私は、女性の向上のための基金の方が、「ミス・割り当て」よりも女性の地位向上のためには効果的だと思います。



UP:2007 REV:
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