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元子ども兵士たち:リベリアの復興を阻む『時限爆弾』?


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アフリカアフリカ Africa 2015


おかねおくれ


作成:斉藤龍一郎
 *(特活)アフリカ日本協議会事務局長

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※外務省ウェブサイトを基に、国名を表記しています。

元子ども兵士たち:リベリアの復興を阻む『時限爆弾』?

この8月、西アフリカのリベリアからダイヤの輸出が再開されたというニュースを衛星放送で見た。4年前の2003年8月、「破綻国家」の典型と言われたこの国を特派員として訪れた時、実弾が飛び交う最前線で出会い、話を聞いた何人もの子ども兵士たちの顔が、すぐに思い浮かんだ。

この時、リベリアや、隣国シエラレオネの残虐な紛争の張本人だった当時のリベリア大統領チャールズ・テーラーの独裁政権の崩壊と亡命も目撃した。テーラーは両国の「紛争地ダイヤ」を違法に海外に売りさばき、その資金で多量の小型武器を買い、拉致して軍事訓練した多数の子どもたちに持たせて「戦争の道具」として徹底的に利用した男だ。私が見た戦闘中の子ども兵士たちの狂気と悲惨な生き様は、今年封切られた映画「ブラッド・ダイヤモンド」で描かれた以上で、今も私の心にも忘れ難い衝撃と傷となって残っている。

■大混乱と無秩序の中で■

あの夏、リベリアの人道危機に全世界の目が注がれていた。2つの反政府武装勢力が人口約50万人の首都モンロビアを完全に包囲し、首都侵攻を宣言。テーラー率いる政府軍に連日激しい攻撃を仕掛けていた。西アフリカ諸国がつくる西アフリカ経済共同体(ECOWAS)は多国籍軍を派遣して軍事介入し、国連の安全保障理事会も平和維持軍の派遣を決めた。

イラク戦争でフセイン政権を倒した直後の超大国・米国も動いた。ブッシュ大統領はイラクでの「大規模戦闘の終了」を宣言し、リベリア危機のピークを迎える直前に就任後初めてアフリカ5カ国を歴訪したばかりだった。私も米大統領専用機にホワイトハウス記者団と乗り込み、大統領がセネガルや南アフリカ、ナイジェリアで、アフリカ諸国の紛争解決への支援に本腰を入れると全世界に向けてスピーチするのを聞いた。

リベリア危機で、米国はその約束が嘘ではないことを示す必要に迫られた。米国は2000人以上の米海兵隊部隊と、戦闘機や武装ヘリコプターを積んだ強襲揚陸艦「イオージマ」など3隻の艦隊を急派した。米国は1991年、ソマリアに国連の「平和執行部隊」の中核として多数の兵員を派遣し、手痛い損害を出して撤退してから、アフリカ諸国の紛争への人道介入には消極的だった。米国の解放奴隷が19世紀に建国したゆかりがあるリベリアの悲劇は無視できず、10年ぶりの米正規部隊の派遣に踏み切った。日本政府も、ガーナの首都アクラで続いていたリベリアの紛争当時者や関係国の和平会議の開催費用を負担し、最悪の事態を回避する道を模索していた。

当時、朝日新聞社のアフリカ特派員として、サハラ砂漠以南のブラックアフリカ48カ国をただ一人でカバーしていた私は、支局があるケニアのナイロビを発ち、カメルーン、コートジボワールを経由し、3日がかりで首都モンロビアに入った。8月7日のことだった。

海外メディアの記者やカメラマンが集まる、大西洋の荒い波涛が耳に響く海沿いの小さな「マンバ・ポイント・ホテル」を取材拠点と決め、日本のトヨタ製の4輪駆動車とドライバー、通訳を見つけて雇った。車の窓ガラスには、政府軍、反政府勢力の双方に敵対勢力でないことを示し、銃撃されても割れにくいように、白いガムテープで全面に「TV」と大文字を描いた。防弾チョッキやイリジウム衛星携帯電話、デジタルカメラ、録音用のMDレコーダーなどの「七つ道具」を入れたデイパックを肩に、取材に動き始めた。日本のマスメディアの記者では一番乗りだったこともあり、記事が1面や国際面に大きな扱いで掲載され始めた。でも「競争に勝った」という業界内でしか通用しない自己満足は、すぐに吹き飛んでしまった。

モンロビアの街中は文字通り「カオス」だった。14年間も続いていた内戦で電気も通っていない首都は、日没後は真っ暗闇だった。そこに50万人以上の避難民が流れ込み、食糧不足で乳幼児の栄養失調が急増していた。中心部の目抜き通りには昼間、果物や魚、日用雑貨などを売る人々が繰り出したが、肝心の主食のコメやトウモロコシ粉はどこにもなかった。

市内にある5万人収容のサッカースタジアムは、巨大な難民収容施設に変わっていた。胸にあばら骨の浮き出た母親たちが、何人もの赤子や幼児を抱いてコンクリートの地べたに眠っている。森の木の葉や雑草を食べて飢えをしのいでいる一家もいた。

インタビューのたびに胸が締め付けられた。長い内戦で家族や親類を殺され、家を焼かれ、命からがら首都に辿り着いた人たちばかりだ。年老いた母親から「今晩食べるものが何もない。助けてほしい」とせがまれた。

でも何もできない。痩せ衰え、ぐったりしていた3歳の男の子が大きな瞳で真っすぐに見つめ、意外に強い力で手を握り締めてきた。部族の言葉は分からない。でも同じ人間だから思いは通じる。「お願い。行かないで」と訴えているのだ。

「この実情を日本に、世界に伝えるから」。言い訳にならないような説明をして、逃げるように立ち去るしかなかった。

報道の仕事の「非情さ」を思う瞬間だ。自分にできる仕事は、ただ見て、話を聞き、写真を撮って、それを記事にすることだけだ。目を覆いたくなるような悲劇を目の前にして、ただ「傍観者」でいるだけの自分が、時々許せなくなる。新聞に記事が載れば、「この国を助けよう」という個人や団体が出てくるかもしれない。日本や諸外国の政府、国連が動けば、平和構築のための外交努力や緊急人道援助も始まるかもしれない。

でも、無慈悲な殺戮と暴力が荒れ狂う内戦国の飢餓と無秩序を前に、そんな時間はない。「今すぐ助けなければ。この人たちは明日にでも死んでしまうかもしれない」と思えてしまう。自分が医者やNGOのスタッフか、援助食料を届ける国連職員だったらいいのに、と思う。揺れまどう気持ちをどうにか抑え付け、原稿を書き上げ、日本に送る。

西アフリカでは原稿の締め切りが早い。日本との時差が9時間もあるからだ。その日に取材したルポや原稿を日本で翌朝に配られる朝刊に掲載しようと思えば、原稿と写真を、遅くとも日本時間の午後5時ごろまでには東京本社の外報部に送らなければならない。リベリア時間では午前8時だ。まだ夜が明けきらないうちにホテルを出て、取材を早朝の5時に始めた。それでも原稿を書き上げるまでに3時間の猶予しかない。原稿と写真はパソコンから電子メールで日本に送る。電話網も破壊された内戦国では、通信手段は衛星電話だけが頼りだ。

■忘れ得ぬ光景■

翌日、首都攻防戦の最前線に向かった。

首都の目抜き通りから数百メートルほどの所に、トゥルカー橋という細い橋が架かっている。向こう岸は反政府勢力「リベリア和解民主連合」(LURD)の支配地域だ。首都への進入路は政府軍と民兵が何とか守っている。毎日のように、この橋を巡って激しい銃砲撃戦が交わされていたが、その日は戦闘は収まっていた。LURDはリベリア最大の港モンロビア自由港を占領し、国連世界食糧計画(WFP)などの緊急援助の食糧の陸揚げを阻止し、勝手に略奪していた。首都のひどい飢餓の原因は、この「兵糧攻め」にあった。 

「日本のジャーナリストだ。あなたたちの立場や主張を聞きたい」と説明し、そろそろと橋を渡る。橋の終わりで、自動小銃を持った若い兵士が立っている。もう一度説明し、検問を通してもらう。 

突然、景色が一変した。街の建物は半壊し、銃弾とロケット砲攻撃で蜂の巣のようになっている。破壊された電信柱から電線がたれ下がっている。 

車を降りて歩き始めた時、ズルッと足をとられ、危うく転びそうになった。路上にびっしりと碁石を敷き詰めたように、自動小銃や機関銃を撃った後の円筒形の空薬莢が転がっていたのだ。 半径数100メートルの狭い地区で、いかに多数の弾薬が使われ、銃弾が飛び交っているか。これで、どれだけ多数の人が命を落としたり、傷つけられたのか。

まったく信じ難い現実が、次々に目に飛び込んできた。

兵士たちのほとんどは「子ども」なのだ。多くは日本なら中高生程度。中には6歳から10歳程度の子もいる。軍服姿ではない。Tシャツにジーンズ、サンダル履きで、頭にバンダナを巻いたり、思い思いの格好をしている。ペットの小猿やぬいぐるみを抱いたり、ラジカセを抱えた子、カラフルな小児用のマウンテンバイクを引く子もいるが、どの子も皆、手には自動小銃カラニシコフ(AK47)や、背丈より長い対戦車ロケット砲RPG-7を抱えているのだ。上官が来ると、ぴしっと背筋を伸ばし、敬礼をする。 

日本の随分古いモデルのトヨタ・カローラやニッサン・サニーなどの乗用車を、青や茶、黄色などの毒々しい迷彩模様にペイントしたのが、彼らの「戦闘車両」だ。カーステレオから大音量で音楽を流し、猛スピードで街を走り回っている。頭に野菜を入れたかごを乗せた主婦たちが、道路の端の方を、恐る恐る足早に歩きすぎる。 

国連の児童権利条約の選択議定書では、18歳以下の子どもの徴兵を禁止している。LURDの指揮官に聞くと「少年兵は1人もいない」と平然と言う。「じゃあ、この子たちは一体何なんだ」と聞くと、「もう大人だ」という返事だ。 

リベリアでは英語が何とか通じる。米国の解放奴隷が持ち込んだ英語が、長年の間に現地の部族語の影響で変質したブロークンな「ピジョン・イングリッシュ」だ。何を言っているのか全く理解できないこともあるが、子どもたちと最低限の会話が成立することもあった。指揮官に頼んで、1人だけ少年兵の話を聞くことができた。 

LURDのトゥルカー橋防衛部隊内での呼び名は「アイアン・ジャケット」。どう見ても10歳以下だ。目が真っ赤に充血し、よだれで唇の周りを濡らしている。 

「年は何歳?」と聞くと、ろれつが回らない口調で「フォー・イヤーズ、フォー・イヤーズ(4歳、4歳)」とうわごとのように口走る。「14歳と言いたいんだ。ヤクをやって、ラリってやがるんだ」。横にいた年長の少年兵が説明してくれた。辛抱強く問答を繰り返し、生まれ故郷の村から誘拐され、政府軍の民兵組織に入り、その後、敵対するLURDの捕虜になり、数年間戦い続けてきたことが分かった。 

話の途中、「来い!」と上官に耳を掴まれ、連れて行かれた。離れた所で怒鳴られ、殴られている。「どうして取材に応じたんだ」と責められているようだ。泣きべそをかいて助けを乞う姿は、たくさんの人を殺してきた少年兵とは思えない。まだ幼い子どもの姿だ。涙が出てきた。「やめろ!」と叫びたい思いを必死でこらえた。 

■狂気の子ども兵士たち■

橋の上を制圧し、攻撃が始まると政府軍陣地に発砲を繰り返していた少し年長の高校生程度の兵士たちは、「モンロビアに侵攻し、敵を皆殺しにしてやる」、「俺がテーラーをぶち殺す」などと、暗い表情で口々に息巻いていた。

ビール瓶を持った子やマリファナの葉を巻いたようにも見えるタバコを吸う子もいる。語調や目つきが殺気立っていて、実弾を装填した銃をしきりに振り回す。いつ何時態度を豹変させ、政府軍支配地からやって来たこちらに敵意を向けないとも限らない。恐怖心を押さえつけ、相手の言い分によく耳を傾けた。

子ども兵士たちと片っ端から握手を繰り返し、肩を叩いたり抱いたりした。「そうか、君は強い兵士なんだね」、「長い間戦ってきたんだな」、「テーラーは悪い奴だな」などとご機嫌取りも兼ねて声を掛けると、笑って頷いたり、恥ずかしそうにはにかんだりする。少しだけ彼らと心を通じ合え、緊張した場が和んだ。そうすることで誰よりも自分自身が安心したかったのだと思う。内心では、もう一人の冷静な自分が「どう取材を切り上げようか」、「橋を渡って帰れるだろうか」と冷や冷やしながら、「引き際」を考えていた。だが、想像を超えた現実が持つ強い吸引力、驚きと好奇心、彼らの実情をもっと知りたい、記者として伝えたいという強い思いが、恐怖や「戻りたい」という気持ちを超えてしまう。 

「写真を撮ろう」。カメラを向けると、彼らは得意気に銃やロケット砲を構え、自分の強さを精一杯誇示しようとする。そのいたいけな姿に、子どもらしい弱さの残渣を見た。自身で「格好いい」と思え、他人に見せびらかしたい姿。1人か2人を撮影していると、周りの兵士たちも集まってきて、我先にカメラの前の方に陣取り、少しでも目立とうと他の子と違うポーズをとろうと工夫し、背伸びをしたり、地面に横たわってみたりする。戦場の狂気と、彼らがこれまでの半生で背負ってきた悲惨の中で、それでも叩き潰されずに僅かに残った「子どもらしさ」とでも言うべきだろうか。

2時間ほど滞在しただろうか。橋を渡ってモンロビアに戻ろうと思ったら、さらに我が目を疑うような光景に遭遇した。

まるでファッション雑誌から飛び出してきたような10代後半から20代前半くらいの女の子たちの一群が、さっそうと歩いてくるのだ。ほとんどの子はスタイルが抜群だ。スレンダーで、背も160センチ以上ある。鮮やかなブルーやオレンジのピチピチのスリムジーンズやおしゃれなパンプスのような靴、カラフルなタートルネックのセーターやスカーフやバンダナなどで着飾り、ピアスや化粧をしている子もいる。腰に携帯型のCDプレーヤーをつけた先頭の美女は、音楽を聴いているのか、リズムに乗って軽快に手や足腰を降りつつやって来る。現場にいた外国人ジャーナリストは皆、息を呑んだ。私も一瞬「夢でも見ているのではないか」と思った。 

彼女たちは「少女兵」の集団だった。その証拠に、全員がカラシニコフやピストル、ナイフで武装している。橋を警備していた少年兵たちが道を開け、司令官が笑顔で出迎えた。顔に少年兵たちのような狂気や呆けた表情、疲れや暗さは見えなかった。時に笑顔さえ見せ、自信に満ち満ちているように見えた。後で聞いたら、司令官の身辺を警護し、身の回りも世話もする女性兵士たちという話だった。「親衛隊」のような存在なのだろう。

LURDのナンバー2の指導者コネ氏は、私のインタビューに対して「リベリア国民がテーラーの政治に長い間苦しめられてきた。リベリアに平和と正義をもたらすために、我々はモンロビアに進攻する。新しい政権を樹立し、テーラーの悪事を暴く。法の裁きにかける」と語った。

首都進攻が起これば、政府軍は死に物狂いで最後の抵抗を試みるだろう。そこで真っ先に犠牲になるのは、この子ども兵士たちなのだ。無秩序状態の中で、ひどい虐殺や略奪が起こるだろう。苦しむのは罪も無い非戦闘員、市民や女子どもたちだ。テーラーも非道なら、国連の援助食糧を略奪、横流しし、連日多数の子ども兵士に殺し合いをさせているLURDにも正義はないはずだ。子ども兵士たちは、このインタビューの間も、私とコネ氏の周りを取り巻き、時に頷きながら真剣に耳を傾けている。

ふと気が付くと、トゥルカー橋に至る道路に、ピンク色のスプレーで大きく「PEACE」という文字が吹き付けられていた。たった今、誰かが吹き付けたのだ。首都に進攻して、殺戮と政治権力奪取の上に「彼らの平和」を打ち立てようというのか。それとも、「もう戦争はこりごりだ、無益な闘いはやめたい」という子どもたちの本音を吐露したメッセージだったのか。

ひどい暴力と狂気の中に身を置いていると、正義や平和、人道、公正といった信じていた理念が揺らいでくる気がする。いったい何が正義で、何が悪なのか。誰が正しくて、誰が間違っているのか。判断基準や境界線が曖昧になってくる。そして、目の前に次々に展開される光景が、とても現実のものとは思えなくなってくるのだ。ここでは「正義」や「平和」とは一つではなく、政治と同じように、何か胡散臭い、信用できないものであることは確かだ。

「ランボー」、「コマンドー」、「ビクトリー」……。トゥルカー橋で聞いた子ども兵士たちの名前だ。ロボットのように忠実な「戦闘マシーン」にされ、最激戦地で次々に幼い命を散らしていく子どもたち。彼らに付けられた奇妙なニックネームを聞いていると、目の前のあまりに残酷な世界が、空想の近未来小説かアクション映画に出てくる狂気の世界なのではないかとさえ思えてくる。 

しかし、これは現実なのだ。新聞の読者に、この事実を伝えなければならない。両親や社会から愛情を注がれて育つべき子どもたちが、戦争の道具として酷使され、殺され続けている。激しい怒りが込み上げてくる。取材を切り上げ、橋を渡り、モンロビアに帰還した。

夕刊の締め切りは日本時間午前9時ごろだ。リベリア時間では午前0時。衛星電話を通じての東京のデスクとのやり取りや原稿の確認作業が、それから夜を徹して続く。でも、すさまじい現場を歩いていると、徹夜を数日続けても、不思議と疲れをあまり感じない。「書かねば。伝えなければ」という思いが、心の底から沸いてくる。 

■政府軍にも

子ども兵士は、政府軍側にもたくさんいた。リベリア第2の都市ブキャナンに向かう途中、首都にかかる橋を警備していた政府軍部隊では、迷彩服やヘルメットを身につけた、いかにも「正規軍」然として兵士の一群に混じって、それ以上の数のTシャツや裸など思い思いの格好の子ども兵士が戦闘配置に就いているのを見た。ブキャナンには第2の武装勢力MODELが進攻し、制圧していた。政府軍の子ども兵士たちは、ブキャナンからモンロビアに通じる主要道の要所に陣取り、MODELの首都進攻を食い止めるのが役割だった。

政府軍部隊の指揮命令系統には入っている。軍服や装備の数が足りずに支給されないのか、正規軍とは別組織の武装民兵とでもいうべき存在なのかは、よく分からない。カーキ色の戦車や装甲車で移動する正規軍兵士とは違い、一般の乗用車などに乗って移動しているところは、反政府勢力の兵士らと変わりがない。銃やロケット砲さえ持っていなければ、どう見ても街中の不良少年かガラの悪いゴロツキの一団にしか見えない。

ここでも小さい子は小学校高学年程度だった。「国家元首テーラーの犯罪を目撃した」と思い、写真を撮った。

女物の長髪のカツラをかき上げて顔を見せ、山刀のようなナイフで自分で自分の首を切り裂くポーズを繰り返しとってくれる少年兵と出会った。彼だけが、軍から支給されたカーキ色の軍服を着ていた。その下には黄色いTシャツが覗いているので、すぐに正規軍の兵士でないことは分かる有様だったが。取材に動くと、ずっとついてくる。何度か英語で話しかけてみてが、部族語しか話せない様子だった。西アフリカには、女物のカツラをつけたり、殺した敵、できれば「強さ」の象徴である高い身分の指揮官などの人肉を食べると、強い力が与えられ、長く生きられるという信仰や風習がある。それを本気で信じている大人や子どもは多いと聞く。

別の少年兵は首飾りを見せてくれた。「グリグリ」と呼ばれるもので、西アフリカでは特別な霊感を持った霊媒師などが手作りし、紛争地で老若男女を問わず「お守り」代わりに身につけているのをよく見かけた。その少年兵は片言に身振り手振りのゼスチャーを混ぜながら「これを身につけていると、銃弾が体に当たる直前で水に変わるんだ。だから撃たれても、弾に当たらない。死なない」という趣旨のことを説明してくれた。

BBCだったかCNNだったか、海外メディアのクルーがトゥルカー橋で命がけで撮影してきた、LURDの少年兵が発砲する身の毛もよだつようなビデオ映像を思い出した。小学校高学年くらいのやせた身体の子は、政府軍の激しい銃撃を避けようともせず、すっくと立って、橋の上を敵陣に向けて歩いていくのだ。そして中ほどで急に我に返ったかのようにカラシニコフを乱射し、また元来た方に戻っていくのだ。発砲する時、大きく口を開いて、笑っていたのが忘れられない。手をひらひらさせたり、片足を上げて相手側を挑発するような仕草もした。あの子も「グリグリ」の魔力で、弾が命中しても不死身だと信じていたのだろうか。それだけではあるまい。あれは、まるで自己を喪失してしまった「戦闘ロボット」だった。麻薬を打たれるか、前後不覚になるほど酒を飲んでいただろう。自分が死ぬという恐怖心、動物としての生存のための防衛本能は完全に破壊されているようだった。「狂ってる。これはもう人間ではない」と思った。 

携帯電話かハンディーの小型無線機のようなものを持った中学から高校生程度の「指揮官」のような女の子もいた。トゥルカー橋の「少女部隊」もそうだが、武装勢力や軍隊内で見た女の子は数は少ないが、いずれも階級がある程度高いようで、他の子ども兵士に指示を出したり、機敏に動き、高いプライドを持って自らの判断で動いているように見えた。

ユニセフの専門家や、子ども兵士に詳しいメディアの記者に聞くと、少女の兵士の中には戦場で少年より向こう見ずな蛮勇を振るったり、敵の捕虜への無慈悲な残虐行為をはたらいたりし、組織の中で恐れられる子がいるということだ。そうした子が組織の中で「昇進」し、新たに入隊してきた少年兵たちを上官として指揮する。また武装勢力の指導者や指揮官らの性的奴隷や身の回りの世話をするメイド役を長期間続けるうちに、男たちの威を借りて尊大に振る舞い、高官の「夫人」のように存在になる子もいると聞いた。

危険度が高いので他の外国メディアとコンボイを組んで取材に向かう途中だった。途中の道の通行許可をとり、安全にブキャナンに入るための交渉に時間がかかり、午後になっていた。日没後は危険なので、モンロビアに引き返すことになった。

■「平和」は訪れたように見えたが。

米海兵隊や特殊部隊の上陸と空港や主要港の制圧、ECOWAS平和維持軍の展開と干渉地帯の設定、在モンロビアの米国大使と南アやナイジェリア、ガーナなど各国首脳の調停……。その後、事態は急速に展開した。

高まる外圧にテーラーは国会で辞任を表明し、大統領機でナイジェリアに亡命した。多数の支持者や、テーラーに忠誠を誓い身辺を警護していた政府軍兵士までが涙を流し、笑顔で「あなたを愛しているけど、出て行って」と歌い踊る中、独裁者が逃亡する歴史的瞬間に、私も涙をこらえられなかった。アフリカ最悪の破綻国家が、最悪の事態の一歩手前で救われ、小さな平和への希望の火が灯った日だった。 

こうした連日の動きを取材し、記事を書いた。西アフリカの小さな国の記事が朝日新聞に次々に掲載された。だが、私の注意と関心は、兵士にされた子どもたちのことに引きつけられたままだった。時間を見つけては取材を続けた。

子ども兵士の解放や再教育のためにモンロビア入りしていた国連児童基金(ユニセフ)の職員や、市内に解放された元子ども兵士の学校を開いていた欧州の民間援助団体のスタッフに話を聞いた。ユニセフによると、リベリアの反政府勢力や政府軍の兵士、政府支持派の民兵の何と7〜8割は、18歳以下の子ども兵士ということだった。彼らが元子ども兵士たちから聞き出した話では、多くの子が家族を殺され、故郷の村から拉致されてくる。拷問で脅され、麻薬で判断力を奪われ、軍事訓練を課せられ、無理やり武装勢力の戦闘員にされた男の子や女の子だ。女の子の多くは、兵士や少年兵の「妻」として性の奴隷にされ、食事と洗濯などの強制労働を何年も課される。親に愛された体験もなく、教育もない子どもたちの心は歪み切っている。解放された時には廃人同然になっている子も多いという。

その数日後、この国際空港で、解放された16歳の元子ども兵士にゆっくり話を聞く機会を持つことができた。名を尋ねると「ワンタイム・リスペクト」と答えた。自分の出身部族を示す本当の名前は「覚えていない」と教えてくれなかった。仲間がつけたという奇妙な名前のいわれを聞くと、「危険な戦場で、いつも弾が飛んでくる方向に真っ先に飛び出して行って戦い、生きて帰ってきた。『お前はすごいやつだ』と言われ、最初の一度だけ、尊敬された」と話してくれた。

反政府武装勢力に拉致され、軍事訓練キャンプに入れられた。早朝から銃の撃ち方や行進、匍匐前進の仕方を教えられた。訓練に従わないと、まず食事を与えられなくなり、飢えで多くの子が従った。それでも従わなかった彼は殴る、蹴るの激しい暴行、拷問を受けたと語った。「7年前」と言っていたので、彼はその時、まだ9歳前後だったはずだ。彼も仲間たちも酒や麻薬をやっていたという。

ある日、キャンプに政府軍の捕虜が連れてこられた。「ワンタイム」は上官にナイフを手渡され、「今、ここで殺せ」と命令された。首を切って殺害しろとの指示だ。「ワンタイム」は「嫌だ。ナイフではできない。銃をくれ」と言ったが、「ナイフで首を切れ。そうすればお前も大人になれる。強くなれる」と強制された。机に上に横たえられ、手足を押さえつけられた男の捕虜は、「お願いだ。助けてくれ、助けてくれ」と泣きながら何度も許しを乞うていたそうだ。とてもできないと思い、「許してくれ」と断ると、上官は彼に銃を突きつけ、「やらなければ、お前を殺す」と言った。「ワンタイム」は泣きながら、震える手でナイフを捕虜の首に突き立てた。鮮血が吹き出し、顔にかかり、手がぬるぬるして滑ったという。

「兵士は悲鳴を上げ、ぐったりした。それから力を込め、首を切断していった。ナイフが首の骨にぶつかって、固くてなかなか切れなかった」。吐き気を催す殺人の生々しい体験を、13歳の彼はあまり表情も変えずに、訥々と語っていく。両手に力を入れて首を切るポーズをして、私に見せた。「もうだめだ。頭がおかしくなる。死にたいと思った。でも、この後、人を殺すことを嫌だと思わなくなった」と彼は語った。多数の仲間が見守る中での、この残虐な殺害で、彼は組織の中で「リスペクト」されるようになったそうだ。

戦闘に参加するようになり、リベリアの各地を転戦して回った。戦場も過酷だった。

キャンプで特に仲良くなった同年齢の男の子がいた。つらい訓練や戦闘を助け合い、励まし合って乗り越えてきた。ある日、激しい銃砲撃戦に遭遇し、敵が前方から激しく銃撃する中、前進を命じられた。あまりに激しい攻撃で、仲間は次々に撃たれ、倒れていった。地雷を踏んで爆発する兵士も出た。後ろに下がろうとしたら、上官に「前進しろ、攻撃しろ」と命令された。後ろの味方からも発砲されたそうだ。「前からも、後ろからも銃弾が飛んできて、後退できない」状況の中で、彼はすぐ横にいた「ベスト・フレンド」と地面を這ってしゃにむに前進した。

その時、前方からロケット弾が飛んできて、爆発した。衝撃が収まり、煙が消えると、「ベスト・フレンド」はどこかに消えていた。探すと、周りに挽き肉のように細かい人体の破片と血が散乱していた。それが自分の顔にも付着していた。それが親友のものだと知った。「泣いた。とても悲しかった。気分が悪くなって吐いた」と彼は語った。この時、初めて目をうるませた。

そのずっと後、戦闘中の混乱の中で、仲間とはぐれ、つかまって武装解除され、解放された。初めて自由の身となった彼は、政府か人権団体などの再教育を受けたようだ。「人殺しは悪いことだ。今はそれが分かった。でもあの時はほかに道はなかった」と語った。そして 「あの親友のことは忘れられない。たくさんの人を殺したけれど、あの捕虜の顔も忘れられない。夢に出てくる」と彼は話した。解放されて数年たった今も、心的外傷(トラウマ)に苦しんでいることを伺わせた。

インタビューでは、所属した武装組織の名や、戦った場所の地名、日時を確かめようとしたが、記憶が定かでないのか、身の危険を感じるのか、はっきりとは語らなかった。彼の目を直視しながら慎重に聞き、何度も確認の質問を返したが、捕虜を殺した体験や、戦場で仲間が死んだ話は実体験にも基づくもののようだった。これが子ども兵士への最後の取材となった。ルワンダの大統領選挙の取材が控えていたため、私はリベリアを離れた。

リベリアではその後、暫定政権が樹立され、民主的な選挙で初の女性大統領が選ばれた。平和と国家再興への長い道のりの最初の歩みが始まったばかりだ。武装勢力や民兵の武装解除が進み、多数の子ども兵士が解放された。テーラーはナイジェリアに亡命後、身柄を拘束され、シエラレオネの国際戦犯法廷で訴追された。多数の子ども兵士を利用した人権侵害や紛争地ダイヤの違法取引などの実態が白日の下に晒され、人道に対する罪を問われている。

だが、幼くして銃を持たされ、敵を殺すことが正しいことと教え込まれ、実際に多数の人を殺してきた元子ども兵士たちの今後も不確かだ。心に負ったトラウマを取り除き、社会に復帰させるには膨大な数のカウンセラーや医療スタッフ、多額の資金が必要だが、今のリベリア政府にはそんな経済力も人材もない。

モンロビアで多数の元子ども兵士を相手に、気が遠くなるような「ディトラウマタイゼーション」の作業の取りかかっていたユニセフの女性専門家は、「彼らはリベリアの復興を阻む『時限爆弾』になるだろう」と語った。鍛え上げられたプロの殺人マシーンとしての狙撃の腕前や戦場での実戦経験、過去の記憶もろとも「消去」してしまうことは不可能だ。解放後、平和な市民生活に戻れたとしても、職が無ければ武装強盗を始めるかもしれない。再び政情が不安定化したり、新手の政治勢力や武装集団が生まれれば、誘いに応じて民兵に戻ることもあり得るだろう。

「解放された元子ども兵士の多くは、森や土中に武器を隠して、私たちのところに現れる。自分を助けてくれるこの世でただ一つの物、力の源が銃だと思っている。平気な顔で嘘をついて大人をだますことに長けた子も多い。数カ月間かけて心を開き、ようやく信頼関係を築いて聞き出せたと思った十数年の生い立ちの話が、故郷だという村を訪ねたら、全て虚構の作り話だったこともある。生きていくためにやむを得なかったのだろうが、小さな子でも人殺しは人殺し。信用できないし、恐ろしい。可哀想だけれど、彼らの存在そのものが治安回復や平和の再構築の大きな障害になりかねない」。モンロビアを引き揚げる前夜に最後にインタビューをした彼女のこの言葉も忘れられない。

■世界に広がる子ども兵士 

子ども兵士は、私が学生時代に訪れた1980年代末期から90年代初頭のアフリカでも多数使われ、すでに問題になっていた。南部アフリカのモザンビークやアンゴラ、ナミビアなど、当時の南ア白人政権が支援する反政府武装勢力と黒人解放勢力との戦いの最前線で、双方が子どもたちを兵士や部隊の支援要員として使っていた。強制的に銃を持たせて訓練し、麻薬や暴力で判断力を失わせる手法も同じだった。

2001年、周辺の10カ国が介入した内戦で300万人近い死者が出ていたコンゴ民主共和国の首都キンシャサを訪れた時には、政府軍の大統領警護部隊の兵士だという13歳の少年と出会った。2004年夏に訪れたスーダン西部のダルフール地方と南部スーダンでは、反政府勢力の少年兵や元少年兵を見た。南部スーダンではアラブ人に拉致され、長年家畜の放牧や家事労働のための「奴隷」として酷使され、ユニセフなどの支援で解放された男の子や女の子に話を聞いた。東アフリカのウガンダでは、1994年ごろから反政府勢力「神の抵抗軍」(LRA)が数万人の子どもを誘拐し、兵士にしていると言われている。小中学校が襲われ、児童や生徒が100〜数百人規模で連れ去られ、政府軍が反攻して奪い返す「子どもの争奪戦」が起きていた。 

世界の内戦国などには約30万人の子ども兵士がいる。その4割がアフリカに集中している。子ども兵士の利用には、政治的対立が絡んだ部族紛争や周辺諸国の介入、小型武器の拡散、紛争地ダイヤの闇取引、児童労働や児童奴隷売買、アフリカの伝統文化などの諸問題が深く絡み合っている。その存在は、一地域だけでなく広大な周辺地域を不安定化させ、治安悪化や難民問題を発生させる深刻な問題だ。世界が足並みを揃え、一国も早い解決に取り組むべきグローバル・イシューである。 

私が取材で歩き、この目で見てきたアフリカの紛争国は、子どもたちにとって「煉獄」以外の何物でもなかった。神がいるのなら、なぜ子どもたちにこんな「世界」を用意し、こんな悲惨な目に遭わせるのか。私は取材中、何度も涙を流し、祈り、出会う人々に問うた。だが、その答えは今も与えられていない。

日本も62年前、第2次世界大戦で国土が荒廃し、一時は世界最貧国になりながら、現在は世界有数の豊かな経済大国となった。今、世界の紛争国の平和創出に積極的に貢献しようという機運も高まってきた。その中で生き、戦争や人間の暴力、ひどい現実への怒り、それを少しで良くしたいと願い、希望も理想も持っている一人の人間として、「今、私には何ができるのか」と、あのリベリアでの日々以来、ずっと考え続けている。(大崎敦司)



UP:2009
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