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社会モデル(social model)

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last update:20170717
 cf.個人モデル(individual model)

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立岩 真也 『社会モデル Ver.1.1』(2016−2017・期間限定版 \600) Gumroad経由で販売→gumroad経由 Kyoto Books
立岩 真也 『社会モデル』(2016・期間限定版) Gumroad経由で販売→gumroad経由 Kyoto Books

◆TATEIWA Shinya 2011/08/00 "On "the Social Model""
 Ars Vivendi Journal1:32-51
 http://www.ritsumei-arsvi.org/contents/read/id/27
 http://www.ritsumei-arsvi.org/uploads/contents/23/2011AVJ1_Article_Tateiwa.pdf




◆Union of the Physically Impaired Against Segregation(UPIAS) 1974

 「社会モデルとそれを巡る議論を紹介する同じ文章では、一九七四年のUPIASの方針(policy statement)の「目的」の最初の部分が引用されている。すこし「青い芝の会」ふうにすると――しかしやはりどこに怒っているのかその雰囲気はいささか異なるのだが――次のようなかんじになる。
 「我らは、階段、不適切な公的また私的な移動手段、不便な住居、工場での厳格に決まった勤務規定(work routines)、最新の援助や設備の欠如といったものによって、孤立化され排除されている者たちとして、我らを自覚する。」(Shakespeare[2010:266])」(立岩[201008]

◆Union of the Physically Impaired Against Segregation(UPIAS) 1976 Fundamental Priciples of Disability http://www.leeds.ac.uk/disability-studies/archiveuk/archframe.htmhttp://www.leeds.ac.uk/disability-studies/archiveuk/finkelstein/UPIAS%20Principles%202.pdf

 「我々の見解においては、身体障害者を無力化しているのは社会である。ディスアビリティとは、私たちが社会への完全参加から不当に孤立させられたり排除させられることによって、私たちのインペアメントを飛び越えて外から押しつけられたものである。このことを理解するためには、身体的インペアメントと、それをもつ人々の置かれている社会的状況との区別が不可欠であり、後者をディスアビリティと呼ぶ(UPIAS 1976:3-4;Oliver 1983:24による引用4))。」(杉野[2007:117]に引用)

 「「障害」をインペアメントとディスアビリティという2つの次元に分けて考えて,社会的に形成されるディスアビリティについて社会的責任を追及していくというイギリス障害学の社会モデルの考え方は,もともと1970年代に「隔離に反対する身体障害者連盟」Union of the Physically Impaired Against Segregation (UPIAS)3)によって採用された障害の定義を基盤として発展したものである.その意味でイギリスの社会モデルは,障害者運動実践のなかで形成された概念であり,その主旨は,障害者個人に問題の責任を帰するのではなく,障害がもたらすさまざまな問題を社会の問題として社会的解決を模索する方向に,障害者の意識と健常者社会全体の意識を転換させていくことだった.」(杉野[2007:117]*)
 「3) 1960年代後半,イギリスの障害者施設のなかでも「進歩的」と目されていた「チェシャーホーム」の一施設である「ル・コート」において,施設入居者による自治活動が施設批判へと展開し,ついには入居者による施設の「自主管理」という「異常事態」へと発展する.この運動の中心となったのが入所者のポール・ハントだった.その後チェシャーホームの経営側による「正常化」によって,ハントは施設を退去する.そして彼は1972年に,全国紙『ガーディアン』の投稿欄にて施設批判を展開し,施設入所している障害者たちに対して利用者主権運動の結成を呼びかけた.このハントによる呼びかけに呼応した人々によって結成されたのが「隔離に反対する身体障害者連盟」Union of the Physically Impaired Against Segregation (UPIAS)である(杉野昭博 2002a).」(杉野[2007:155]*)
 「4) UPIASが1976年に発表した歴史的文書Fundamental Principles of Disability(『障害の基本原理』)は、オリバーによって編集されたバージョンではあるが,Oliver(1996a:21-28)に一部が再録されている.フルテキストは,リーズ大学のCentre for Disability Studiesのホームページからダウンロードできる.」(杉野[2007:155]*)
 「5)アメリカの自立生活運動においても,イギリス障害学の個人モデルと社会モデルとよく似た,「リハビリテーション・パラダイム」と「自立生活パラダイム」という二元的な分類がおこなわれている.2つのパラダイムの相違は,問題の所在を障害者個人に求めるのか,環境要因に求めるのかという違いにあることが強調されている(DeJong 1983:20-25).また,日本においては,こうした自立生活パラダイムが1980年代に輸入されるなかで,「変わるべきは個人でなく社会である」(ibid. :21-22)といった主張が広がったのだが,それに先行する1970年代における「青い芝の会」などによる障害者解放運動と,その「健全者文明」批判が,障害問題の社会的責任追及の先駆となっていた.」(杉野[2007:155]*)

 「ほぼ同じ箇所がShakespeare[2010:267]にも引用されており、リーズ大学・障害学センターのHPのURLが記されている。ただそこではUPIAS[1975]となっている。これは、この「原理」が発表された「障害連盟」(Disability Alliance)との討論(その公刊が一九七六年)が一九七五年に開催されたことを受けているのだろう。「「障害の基本原理」の討論のドキュメントは、改良主義者の「障害連盟」(Disability Alliance)との不一致を記録しつつ、次のように記される」(Shakespeare[2010:267])として、シェイクスピアはその箇所を引用している。」(立岩[201008]

*Davis, Lennard J. ed. 2010 The Disability Studies Reader, Third Edition, Routledge, 672p. ISBN-10: 0415873762 ISBN-13: 978-0415873765 [amazon][kinokuniya] ※ ds.
*Oliver, Michael 1983 Social Work with Disabled People, London : Macmillan.
*Oliver, Michael 1996a Understanding Disability : From Theory to Practice, London : Macmillan
杉野 昭博 20070620 『障害学――理論形成と射程』,東京大学出版会,294p. ISBN-10: 4130511270 ISBN-13: 978-4130511278 3990 [amazon][kinokuniya] ※ ds
*Shakespeare, Tom 2010 "The Social Model of Disability", Davis ed.[2010:266-273]

◆Oliver, Michael 1990 The Politics of Disablement, Macmillan, 152p. ASIN: 0312046588 [amazon]=20060605 三島亜紀子・山岸倫子・山森亮・横須賀俊司訳, 『障害の政治――イギリス障害学の原点』 ,明石書店,276p. ASIN: 4750323381 2940 [amazon][kinokuniya]  ※ ds

「質問1
OPCS:「あなたの具合の悪いところはどこですか?」
オリバー:「社会の具合の悪いところはどこですか?」
質問2
OPCS:「どんな病状によって、物を持ったり、握ったり、ひねったりすることが難しくなりますか?」
オリバー:「瓶、やかん、缶のような日用品のいかなる欠陥によって、持ったり、握ったり、ひねったりすることが難しくなりますか?」
質問3
OPCS:「主に聴覚に問題があるために、人々が言うことを理解することが難しいですか?」
オリバー:「人々があなたとコミュニケーションをとることができないために、人々が言うことを理解できないですか?」
質問4
OPCS:「あなたには日常生活を制約するような傷跡、欠点、欠陥がありますか?」
オリバー:「あらゆる傷跡、欠点、欠陥に対する人々の反応が、あなたの日常生活を制約しますか?」
質問5
OPCS:「長期間にわたる健康上の問題あるいは障害のために特殊学校に通っていますか?」
オリバー:「健康上の問題や障害のある人は特殊学校に通う方がいいという、地方教育局の方針があるために、あなたは特殊学校に通っていますか?」
質問6
OPCS:「健康上の問題または障害のために、思い通りに外出できないことがありますか?」
オリバー:「近隣内での外出を難しくするような地域の環境とはどのようなものですか?」
質問7
OPCS:「健康上の問題または障害のために、バスを利用することが難しいですか?」
オリバー:「あなたが望むように外出することを妨げるような、交通上または金銭上の問題は何かありますか?」
質問8
OPCS:「あなたの健康上の問題または障害は、現在、何らかの点で仕事に影響を及ぼしていますか?」
オリバー:「物理的環境または他者の態度のために、職場で問題を抱えていますか?」
質問9
OPCS:「健康上の問題または障害があるために、あなたを支援するか面倒をみる親族、またはその他の人々と一緒に生活する必要がありますか?」
オリバー:「地域サービスが貧弱なために、適切なレベルでの身辺介助を提供する親族またはその他の人々に頼る必要がありますか?」
質問10
OPCS:「健康上の問題または障害があるために、現在の住居では何らかの改造をおこなっているのですか?」
オリバー:「家の不便な設計のために、あなたのニーズに合致するような改造をおこなう必要がありましたか?」(  )

◆Morris, Jenny, 1992, "Personal and Political: a Feminist Perspective on Researching Physical Disability," Disability, Handicap and Society, 7(2): 157-66.(星加[2007:27, 63]で言及)

 「障害の経験は、人体の脆さの経験である。もしこのことを否定するなら、我々は障害の個人的な経験が孤立的なものであることに気づくことになろう。我々は自らの差異を個人的で特異なものとして経験し、個人的非難や責任といった感覚を共通に経験することになる。」(Morris[1992:164]、星加[2007:63]に引用、訳文は星加)

Shakespeare, Tome 1992 "A Response to Liz Crow", Coalition, September:40-42

 「障害者運動の成果として、我々の身体と社会的な状況との結び付きは解体され、差別や偏見といったディスアビリティの真の原因に焦点が当てられるようになってきている。生物学に言及し、苦痛というものを認め、インペアメントを直視することは、結局ディスアビリティとは「本当は」身体的な制約についてのものだという根拠を増幅させる抑圧の道具になる危険があるのだ。」(Shakespeare[1992:40]、星加[2007:65]に引用、訳文は星加、他に星加[2007:70]に言及)

◆Oliver 1996a

 「…個人化された、医療的なディスアビリティ観と我々は決別してきたが、そのことは我々の踏み込む世界において医療が何の役割も果たさないということを示唆するものではない。明らかにディスアビリティの経験の一部は、個人的なindividualものとして残るだろう。しかし、ディスアビリティに対するより適切な社会のsocietal反応を発展させるために、我々すべて、すなわち政治家、政策立案者、専門家、官僚、そして障害者も、これが部分的で限定された観点であることを理解しておくことが重要なのだ。我々の複雑で困難な課題は、この過程がディスアビリティについての世界観を転換する変化の一つであることを理解することなのである。」(Oliver 1996a: 128、星加[2007:]に引用)

 「それ(「社会モデル」のこと、引用者註)はディスアビリティの問題を……広く社会の内に位置付けるのである。問題の原因となるのは、いかなる種類であれ個人的制約なのではなく、社会的編成において障害者のニーズを十分に考慮した適切なサービスと十分な保障を提供することに関する社会の失敗なのである。」(Oliver 1996a: 32、星加[2007:]に引用)

◆Hughes and Paterson 1997

 「ヒューズとパターソンは、「社会モデルにおいては、身体はインペアメントないし身体的機能不全と同義である。それは、少なくとも含意としては、純粋に生物学的に定義されるのだ。身体は非歴史的である。それは本質的で、時間を持たず、存在論的な基礎である。したがって、インペアメントはディスアビリティと対極的な性質を持つことになる」(Hughes and Paterson 1997: 328-9)と述べ、「社会モデル」によってディスアビリティには社会的排除が、インペアメントには生物学的機能不全が割り当てられ、インペアメントが本質化されたと主張する。その上で彼らはインペアメントが本質的に定義されることを拒絶し、インペアメントの社会的構築性を指摘するのだが、社会的文脈においてインペアメントとディスアビリティとがどのように関連しているのかについての理論的探求はなされていない。」

▽◆立岩 真也 1998/02/01 「一九七〇年」,『現代思想』26-2(1998-2):216-233→立岩[2000]*
 *立岩 真也 2000 『弱くある自由へ』,青土社

 「1 できなくさせる社会、という把握

 最近いくつか主に英国の「障害学」の文献にあたることができた☆03。その全容を把握しつくしたなどと言うつもりはなく、とりあえずの感想だが、そこに書かれていることはもっともで大切なことなのだが、既に言われ、考えられてきたことだと思った。そして、その約二〇年前から、その先あるいはその手前のことを問題にしてきた人達がいるのに、と思った。そして、そう思ったのは初めてではない、米国の障害者運動の主張の一部についても感じてきたことだったと思った。だがまず、そのもっともで大切なことの確認から始めることにしよう。
 インペアメント(impairment)、ディスアビリティ(disability)、ハンディキャップ(handicap)という図式がある。訳語は確定していないが、ここではとりあえず──よい訳語だと思わないが――「損傷」「障害」「不利益」とする。☆04
 これは、身体的な「損傷」によって「障害」が生じ、その結果社会的な「不利」が生ずるという順序で受け取られがちなのだが、それに異議が唱えられる。「疾病モデル」「医療モデル」から「社会モデル」への移行が主張される。「損傷」が「障害」を生じさせるのは(例えば「手がない」ことによって「手が動かせない」のは)否定できないではないではないか。これに対して、「社会モデル」を主張する論者もそれはわかっている、そんなことを言いたいのではなく、「手が動かせない」ことが問題になる(当人にとっては不利になる)こと自体が、したがってまた――手が動くか動かないということに、手があるかないか、あるいは神経系に損傷があるかないかに関わることがある以上は――「手がない」「手の筋肉が萎縮している」ということ自体が、「社会的」な文脈の中で初めて問題になることなのだと言う。例えば顔のどこかの筋肉をうまい具合にあやつって耳を思い通りに動かせる人が一定数いる。他方で、動かせない人がよりたくさんいる。しかし、それが取り出されること、注目されること、問題とされることはめったにない。そんな些細なことを引き合いに出されても、と言う人に対して、「社会モデル派」は、いや、耳が動く/動かないことが些細で、耳が聞こえない/聞こえるということが些細でないということ自体が、社会的なことなのだと言うだろう。つまり、「損傷」「障害」が「不利」になる条件が問題なのだと言う。何が役に立つ/立たないということは、そしてそのための能力があるのか/ないのか、そしてそれに関係する損傷があるのか/ないのかが社会的に規定されているのだという主張である。確かに損傷はまた障害はあらかじめあると言えば言える。しかし、全く注目されずにある損傷は、ないのに等しいではないか、と言うのである。  このように「損傷」(が「損傷」として現われること)が「社会」が何を必要としているかによって規定されるという指摘はひとまず正しい。こうした主張は社会学や言語学やのものの見方にとっては当然のことではあるにしても、こんな当然のことにも気づかない人が実際にいるのだから、こういうことも、いつまででも言い続ける価値はある。
 さらに、障害学は認識論であるより「実践的」なものである。最初から社会運動的な志向をもっている。それは「障害」と「不利」の間を切断し、私がやる(べき)ことではなくて、あなた方(社会)がやる(べき)ことだという主張に連続するもの、あるいはその一部としてある。「できなくさせる社会」(disabling society)という語が使われる。

      [個人] I 〜 D → H ← [社会]

 足がないので、足が動かせず、私は動けない。エレベーターがないので私は動けない。上から考えようとする傾向がある。例えばリハビリテーションはどうしても「体」から、その「個人」から考えようとする、まず「身体」に注目しようとする。それは不快である。それで社会モデルを主張する。個人から社会へ、視点、力点を移動させる。助けを借りればできる。そして、私が無理するのと助けを借りるのと同じ結果がえられるのだったら、後者でよいではないか。こうして社会の側が変わっていけば、個人の側にある損傷・障害(のもつ意味)は薄まっていくはずだ。

 「歩けないのは車いすを使う事でカヴァーし、手を使わなければできない事は、周りの人達に頼んでしてもらえば、殆どの事には差し支えがない。ただ、車いすでは狭くて通れない所や階段があったり、また、頼んでもなかなかしてもらえず、時間が掛かる事はある。これらの事は、私にとっては今の社会に「不便」あるいは「不利」な点があるという事である。今の社会(私も含む)が「障害」を産み出し、私(たち)を「障害者」にしていると言っても過言にはならないと、私は思う。」(時田[1988:1])

 もちろん、筆者は何か「文献」を読んだからではなく実際に思うことを書いたのだろう。これまで障害「学」としてまとまった単行書や論文集が出版されてはこなかった(そのことについての解釈は略)☆05にせよ、この国でも同じ認識は分けもたれている。
 助けがあれば「私は」、障害のない人と「同じように」、「できる」。かつては「私が努力して」だったが、そんな暗いことは言わず、それを「社会」にゆだねる。
 ただここで、日本語の方も英語の方も用語法が揺れているのがわかるだろう。そしてこれは意外に大切な点である。道具を使いあるいは人の手を借り、その結果、私の身体の方はそのままで、私が仕事することが「できる」ようになることがある。これは「不利益」が解消されたのか、「障害」が解消されたのか。WHOの定義では「不利」の方だろう。だが、できない(disable)あるいはできなくさせられていた(disabled)ことができるようになったのだから、disablityの方を使いたくなって不思議ではない☆06。日本語にしても同様である。仕事ができないという「障害」が取り除かれ(就職できず、収入が得られないという「不利益」が解消された)と言っても、不自然な言葉の使い方ではない。そして単に言葉の問題だけがあるのではない。私が「できる」ようになるにあたって、そもそもは私に属していない人の手や何かが介在している時、そのできたことの中の「私の寄与分」はどれほどなのか。「そんなせこいことはどうでもよい」というのが一つの正しい答ではあるだろう。だが、そういうことが問題にされてしまう場面は実際にある。この図式は、そうした場面が事実存在することを曖昧にするようなものとして作られてしまっているのである。」(立岩[1998→2000])

「★03 Oliver[1990](長瀬[1996:47]に一部紹介)、Swain et al. eds.[1993]、Hales ed.[1996]等。他に英国の運動史としてCampbell & Oliver[1996]、米国で出版された(米国では初めてらしい)リーダーズにDavis ed.[1997]。両国には学会誌もある。
★04 「「国際障害者年行動計画」の第六二項には、「国際障害者年は、個人の特質であるインペアメント(impairment)と、それによって引き起こされる機能的な支障であるディスアビリティ(disability)、そしてディスアビリティの社会的結果であるハンディキャップ(handicap)の間には区別があるという事実について認識を促進すべきである」と述べられている。/この障害の3つのレベルの具体的な内容は、世界保健機構(WHO)が一九八〇年に発表した「国際障害分類表」で詳細に提示され、わが国の関係者にも大きなインパクトを与えた。/impairment、disability、handicapの訳語はさまざまであるが、最近では、「機能・形態障害」「能力障害」「社会的不利」か、「機能障害」「能力低下」「社会的不利」の組み合わせがよく使われている。……/「国際障害分類試案」では……次のように定義している。/「機能障害とは、心理的、生理的、解剖的な構造又は機能のなんらかの喪失又は異常である」/「能力低下とは、人間として正常と見なされる方法や範囲で活動していく能力の(機能障害に起因する)なんらかの制限や欠如である。」/「社会的不利とは、機能障害や能力低下の結果として、その個人に生じた不利益であって、その個人にとって(年齢、性別、社会文化的因子からみて)正常な役割を果たすことが制限されたり妨げられたりすることである。」(三ツ木[1997:25-26])〔この分類(ICIDH=International Classification of Impairments, Disability and Handicap)には本文にも一部記した批判がなされ、改訂の作業が進んでいる。その経緯の一部は佐藤[1992][1998]等に記されている。〕
★05 石川・長瀬編[1999]が「障害学」を銘打った最初の本になる。〔その後、長瀬・倉本編[2000]。研究会(東京・大阪)の予定等についてホームページの「障害学」。〕
★06 佐藤[1992]が指摘するように、英国ではディスアビリティがインペアメントの意味で、ディスアビリティがハンディキャップの意味で使われことが多い。「disabling society」という表現もこのことに関わる。ちなみにハンディキャップという言葉は、物乞いで「帽子を差し出す」ことに由来するとかで、少なくとも一部では評判が悪い。」(立岩[1998→2000]、〔〕は立岩[2000]収録にあたり加えられた部分)△

◆Barnes, Colin; Mercer, Geoffrey; Shakespeare, Tom 1999 Exploring Disability : A Sociological Introduction, Polity Press [amazon][kinokuniya]=20040331 杉野 昭博松波 めぐみ山下 幸子 訳,『ディスアビリティ・スタディーズ――イギリス障害学概論』,明石書店,349p. ISBN:4-7503-1882-5 3800+ [amazon][kinokuniya] ※

第2章 ディスアビリティの理解
4. 二つのモデル
 本節では、より詳細に、支配的な障害の個人モデルを探求する。そして個人モデルと、もともとは障害者活動家の小さな集団から進められていった障害の社会モデルとを対比する。この社会モデルは、社会学的パースペクティブからの着想を直接的には採用していないが、社会学的想像力に基づく批判的アプローチを援用している。

障害の個人モデル→個人モデル
 […]

障害の社会モデルに向けて
 1970年代、1980年代の間、障害の個人・医学モデルに対する障害者活動家や障害当事者組織からの批判の声はますます高まってきた。障害の社会的アプローチとして知られるようになったものの発展に際して、イギリスの障害者は、インペアメントのある人々を無力化するのは社会であり、それゆえ何らかの意味のある解決方法は、個人の適応やリハビリテーションというよりは、むしろ社会的な変化へと向けられるべきだということを主張した。個人的・医学的アプローチに対する社会モデルのしっぺ返しは、「ディスアビリティは麻疹ではない」(Rioux & Bach, 1994)ということである。
 隔離に反対する身体障害者連盟Union of the Physically Impaired Against Segre-gation(UPIAS)は、障害の新たなモデルを要求する人々の先頭に立った。UPIASの声明書である『ディスアビリティの基本原理』Fundamental Prin-ciples of Disability(UPIAS, 1976)において、UPIASはディスアビリティの責任を、直接に社会の失敗においた。「私たちの考えでは、身体的にインペアメントのある人々を無力化するのは社会なのである。社会から不必要に孤立させられ、社会への完全参加が阻まれることによって、私たちはインペアメントに加えてディスアビリティを課されている。したがって障害者とは、社会のなかで抑圧された集団なのである」(UPIAS, 1976: 14)。
 インペアメント、ディスアビリティ、ハンディキャップという三つの密接な関係は、UPIASが提示するモデルにおいては否定される。社会モデルはインペアメントについての医学的定義をほぼ受け入れる一方で、ディスアビリティの意味を次のように示した。

・インペアメント
手足の一部あるいは全部の欠損、または手足の欠陥や、身体の組織または機能の欠陥。
・ディスアビリティ
現状の社会組織が身体的インペアメントのある人々のことをほとんど考慮しないために、社会的活動のメインストリームへの参加から彼らを排除することによって引き起こされる活動の不利益や制約。(UPIAS, 1976: 3-4)

 障害者や障害当事者組織の間でのその後の議論では、“身体的インペアメント”という言葉を、あらゆるインペアメント(知覚や知的インペアメントを含める)もディスアビリティの潜在的範囲に含めるように改訂している。
 インペアメントが個人の特質としてみなされる一方で、ディスアビリティはそうではない。ディスアビリティは「インペアメントをもつ人々とそれ以外の人々との間の抑圧的な関係の結果」(Finkelstein, 1980: 47)として説明されるのである。いったん障害者として定義されると、その個人はスティグマを付与される。例えば視覚あるいは聴覚にインペアメントをもつ人々はどのようにふるまうべきか、あるいは何ができるのかということについての社会的期待が、彼らの自立に影響を及ぼす。ディスアビリティという形式――すなわち社会的抑圧――は普遍的なものであるという仮説は、ディスアビリティの文化的・歴史的多様性を主張する社会アプローチによって否定される。
 同様に、社会モデル・アプローチの観点から考えると、OPCSの障害調査で採用した障害の測定法には、かなりの改訂が必要となる。特にディスエイブリングな(障害者を無力化する)“障壁や態度”に焦点をおくべきである。マイケル・オリバーは1980年代のOPCS調査での測定に用いられた質問項目をつくりかえることによって、調査者が社会モデルを採用していたならば、いかに障害について異なった問題点に焦点をあてることになるかということを、以下のように示している(Oliver, 1990: 7-8)。
 […上に引用…]
 このように、社会モデル・アプローチは外的につくられた一連の要因、すなわち、障害者に課せられた社会参加の機会を制約する障壁に焦点をあてるのである。それゆえ、ディスアビリティの測定には、障害者が経験した身体的・社会的・経済的障壁――つまり社会的排除――の要因や、差別禁止政策の影響を査定する方法を備えるべきである。このような社会モデルとは対照的に、「個人的悲劇理論はディスアビリティについての問題を個人の問題とし、それゆえ社会的・経済的構造についてはふれないままなのである」(Oliver, 1986: 16)。
 個人的悲劇理論への批判を進めていくなかで、障害当事者運動は障害の社会モデルをあみだし、それはまたわれわれの障害についての理解を根本から覆すことを主張したのである(表2−2を参照)。社会モデルは、「ディスアビリティの本質とは何か」「ディスアビリティが生じる原因とは何か」「どのようにディスアビリティを経験するのか」(Oliver, 1996b: 29-30)といった根本的な問題について、従来のものとは非常に異なる回答を用意した。そして、そのことによって社会モデルはより包括的なディスアビリティの社会理論の発展を促すことになる。つまり、「障害の社会モデルは、ディスアビリティの唯物史観といった社会理論と同一ではないし、まして福祉国家理論でもない」(Oliver, 1996b: 41)のである。
 もちろん、“唯物史観”は社会学者によって用いられる一連の理論的説明のほんの一つにすぎない。“ディスアビリティの社会学”は、インペアメントをもつ人々を“社会が無力化する”という議論について詳細に探求しなければならないのである。ディスアビリティの社会理論の発展に貢献する研究は広範囲に存在している。医療社会学や、特にいわゆる“慢性病と障害”(Bury, 1997)についての分析など、近接領域での研究を忘れてはならない。同様に、社会モデルが指摘する“ディスエイブリングな障壁”という概念について、もっと包括的な検討が必要である。その場合、日常生活においても、政府の社会政策の文脈でも、いずれにせよ、社会的抑圧と差別に伴う過程と構造について検討せねばなるまい。また、支配形式について考えるならば、文化と政治に関連する複雑な課題が出てくる。例えば、文化の領域は支配の根拠地になるだけでなく、障害者による抵抗と挑戦の場ともなるからである。
 社会モデルはディスアビリティの経験に焦点をあてるが、その経験は単なる個人の心理のレベルまたは個人間の関係に位置するものではない。そうではなく、家庭環境、収入や財政支援、教育、雇用、住宅、移動、建築環境といった、広範な社会的・物質的要因や条件のなかでディスアビリティの経験は考えられなければならない。また、障害者の個人的な事情にしても社会集団としての地位にしても、固定的なものではない。それゆえディスアビリティの経験とは、“現象的”で一時的であるという特徴をもっている。このため、個人のディスアビリティの経験とは、その人の一生涯の個人史という文脈においては、その人の社会関係や生活史にとどまらず、社会全般における障壁や差別的態度から、政府の施策や援助制度のもたらす影響まで含まれることになるのである。
 しかし、社会モデルの主張は誇張されるべきではない。

 「社会モデルは、私たちの身体のあらゆる機能不全が補助具または適切なデザインによって補完され、それによって誰もが1日8時間の労働をした後、夕方にはバドミントンができるようになると主張しているわけではない。社会モデルは、たとえ動作や知覚がない者でも、明日にも死ぬかもしれない者でも、すべての人々に一定の生活水準を維持する権利があり、その尊厳が守られるべきだということを主張しているのである。」(Vasey, 1992a: 44)」

◆石川 准・長瀬 修 編 19990331 『障害学への招待――社会、文化、ディスア ビリティ』,明石書店,321p. ISBN:4-7503-1138-3 2940 [amazon][kinokuniya] ※ ds

 「ディスアビリティの問題は、自分の身体にあるのではなく、障害者を排除する社会にあることを示した。…従来の個人モデル、医学モデルから脱却し、ここに社会モデルが成立した…」(『障害学への招待』p.17)

 「英国のマイケル・オリヴァー(Michael Oliver)等がこの言葉を用い出したが、その発想は日本のとくに1970年代以降の障害者運動を含む、全世界の障害者運動の中に見出される。個人の身体とその欠損にもっぱら注目し、そこに生ずる問題解決の責任を個人に負わせるとともに、治療したり訓練したりする医療・福祉の専門家の支配を正当化する「個人モデル」「医療モデル」に代えて、社会関係の中で障害が障害として現われるとし、問題の解決を社会制度・社会関係の変革に求める。障害をもって暮らす当人の経験を大切にし、変革への障害者自身の寄与を重視する。」

◆石川 准 2002 「ディスアビリティの削減、インペアメントの変換」,石川・倉本編[2002, 17-46]*(星加[2007:44, 52, 56, 67, 68, 90, 108, 318]で言及)
*石川 准・倉本 智明 編 20021031 『障害学の主張』,明石書店, 294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya]  ※ ds

 「もし社会モデルがインペアメントの文化への変換――障害全体のではない――を認め、文化モデルがディスアビリティという概念を認め、文化に変換する対象をインペアメント――ディスア<0066<ビリティも含めた障害全体ではない――に限定するなら、社会モデルと文化モデルとは両立しうる。同時に主張することもできるだろうし、一方に特化することもできる。(石川[2002:34]、星加[2007:66-67]に引用)

◆立岩 真也 20021031 「ないにこしたことはない、か・1」,石川准・倉本智明編『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya] pp.47-87

 「9 補足1・「社会モデル」の意味
 このように考えてくると、「医療モデル」「個人モデル」と「社会モデル」とをどのように解することができるか、おおよそのことが言える。
 社会モデルの主張が意味のある主張であるのは、それがその人が被っている不便や不利益の「原因」をその人にでなく社会に求めたから、ではない。少なくともその言い方は不正確である。医療モデル・個人モデルが「足がないからそこに行けない」と主張するのに対し、社会モデルは「車椅子が通れる道がないからそこに行けない」と主張するという対置は、わかりやすそうだが、正確ではなく、かえってわかりにくい。目的地に着くことが可能になる条件としてはどちらもそれなりに当たっている。問題は因果関係ではない★22。
 次に、なにかを実現する(たとえば目的地まで行く)ためにどのような手段を用いるか、それ自体にも問題の中心はないと考えるべきである。第3節でも述べたように、身体をなおすのと身体の機能をおぎなうのとは連続的であり、当の人にとってどちらがよいかもいちがいに言えない。なおすこととおぎなうことはどこが違うのか。身体にあるものに物理的に加えるものなく機能が獲得されればそれはなおったということになり、何かが加わったらそれはおぎなうことになるのか。しかし入れ歯もあるし、眼鏡もある。あるいは人工内耳で聞こえるようになる。脳のどこかと機械を直結させ、それで「視覚」を得られるようにしようという試みもある。これまでSFには描かれても現実的にはあまり問題にならなかったのだが、考えられなくはないし、今のところの技術では冗談のようなものしかできてはいないのだが、実際にないわけではない。
 この状態は障害が「おぎわれた」状態なのか、あるいは障害が「解消された」状態なのか。その境界はどこにあるのか。人工内耳は耳の中にある。しかし、少し不細工な機械なら身体からはみ出るだろうし、そしてはみ出たからといってまったく別ものだと言えない。大きさとか身体への近さとかが規定しているのではない。少なくとも両者は連続的だ。よく言われるように、使い慣れた道具は自らに一体化したものと感じられることがある。手段としては、自分の身体を使おうが、機械を使おうが、電子回路を頭にくっつけようが、基本的には――素朴な意味で言うのだが――物理的な身体とその外界との境界に格別の意味はない。同じなら同じであるかもしれない。
 「おぎなえばよい」という障害者側の主張を一つの方向に進めていけばそうなる。「なおした方がよい」あるいは「もともと身体がうまく動いた方がよい」と「なにか別のもの(人や機械)でおぎなえばよい」とは接近する。だから障害者運動の主張は、人によって補うことにとくにこだわらなければ、テクノ派からそう距離が遠いわけではない★23。
 社会モデルの主張をまちがって受け取ってしまうと、環境によって対応することはよいが、なおすことはよくないことだという主張だということになってしまう。そう主張しなくてならないことはなく、むしろ別の言い方をしなくてはならない。それぞれの選択肢について、なにを支払わなければならないのか、なにが得られるかを考えるべきだと第4節で述べた。
 核心的な問題、大きな分岐点は、どこかまで行けるという状態がどのように達成されるべきかにある。二つのモデルの有意味な違いは、誰が義務を負うのか、負担するのかという点にある。つまり対立は「私有派」と「分配派」(立岩[2001-2002])との対立としてある。社会モデルはそれは個人が克服するべきことではないとする。問題は個人、個人の身体ではなく社会だという主張は、責任・負担がもっぱら本人にかかっていること、そのことが自明とされていることを批判する。」

◆久野 研二・中西 由起子 20041010 『リハビリテーション国際協力入門』,三輪書店,251p.

 「障害の社会モデル(social model of disability)は、医学モデルが心身の機能的問題の側面を重視することを問題にしている。このモデルは「社会参加の機会が平等で、差別がないかどうか」という見方を基礎にすることで、「社会」そのものを見る対象とし、不平等で差別的な社会の構造や制度、人々の態度を障害と捉え、不平等な社会(障害のある社会)を平等な社会(障害のない社会)へとすることを目標とする。
 社会モデルは、障害を「心身機能に障害をもつ人のことをまったくまたはほとんど考慮せず、したがって社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会組織によって生み出された不利益または活動の制約」と定義する。つまり、障害とは個人の機能・能力障害ではなく、人々の社会参加を阻害する社会の障壁なのである」(p.72)

 本章では、ディスアビリティ理解において中心的な位置を占める不利益という概念を、どのように把握すべきかを検討する。第1節では、従来の「社会モデル」の理論構成においては、障害者の経験する不利益を特有なものとして同定することができず、結果として、その解消の主張の論理的妥当性を減殺させていることを確認する。それを受けて第2節では、不利益についての適切な概念化を行うことを通じて、不利益の同定のための議論の前提を準備するとともに、次の段階の問いを導出する。

Shakespeare, Tome 2006 "The Social Model of Disability," L. J. Davis ed, Disability Studies Reader 2nd edtion, Routledge: 197-204.

◆星加 良司 20070225 『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690040 ISBN-13: 978-4903690049 3150 [amazon][kinokuniya] ※ ds
 ※この本のページ内の堀田義太郎の紹介と検討を参照のこと。

 本章では、従来のディスアビリティに関する理論的探求によって、何が明らかにされ、何が課題として残されているのかについて概観する。障害に関する研究はこれまで様々な領域で行われてきたが、近年の理論的発展によって、障害研究は障害の社会的生成・構築の過程に着目する新たな段階を迎えた。本章では、こうした障害研究の理論的展開の意義を明確にするとともに、その限界やさらなる課題について、現実的問題を念頭に置いて確認する。

第1節 ディスアビリティ理論の到達点

 本節では、従来のディスアビリティ理論がどのようなものであったのかについて検討する。まず、今日のディスアビリティ理論の主要な認識枠組みとなっている「ディスアビリティの社会モデル」の要点について、「個人モデル」との対比を交えて確認する。ついで、その「社会モデル」を認識論として明確に位置付ける作業を行う。さらに、「社会モデル」に対してなされた批判とそれへの「社会モデル」の側からの応答について整理することを通じて、「社会モデル」の輪郭をより明確なものにする。これらの検討を受けて、従来のディスアビリティ理論が共有している基本的な前提について確認する。

1 ディスアビリティという問題

 「個人モデル」から「社会モデル」へ
 障害学の大きな成果の一つに、「ディスアビリティの社会モデルsocial model of disability」(以下、「社会モデル」)の提起がある。あえて強調するなら、この「社会モデル」の認識枠組みを共有しているかどうかが、それまでの(あるいはその後も存在し続けているその他の)障害研究と障害学との分岐点であるといっても過言ではない【注1】。
 この「社会モデル」は、障害の問題とはまず障害者が経験する社会的不利のことなのでありその原因は社会にあるとする、障害者解放の理論的枠組みであり、従来の「ディスアビリティの個人モデルindividual model of disability」(以下、「個人モデル」【注2】)において、障害の身体的・知的・精神的機能不全の位相がことさらに取り出され、その克服が障害者個人に帰責されてきたことに対する、当事者からの問いなおしの主張を反映したものである(Oliver 1990=2006, 1996a; 長瀬 1999; 倉本 2002)。この障害をめぐるパラダイムシフトによって、従来個人の機能的特質に起因する「個人的 individual」な問題として扱われてきた障害者問題は、社会的な解決が進んでいないことのみならずその発生が社会に源泉を持つという意味で、きわめて「社会的 social」なものとしてクローズアップされてきたのである。ここでは、「社会モデル」の提起によって駆動された障害認識の転換の要点を確認しよう。
「個人モデル」から「社会モデル」へのパラダイムシフトの意義を端的に述べれば、それは障害問題の焦点をインペアメントからディスアビリティに移行させたことにあると言える。従来ディスアビリティの原因は身体的・知的・精神的機能不全であり、個人に内属するものとして捉えられてきた。手足が動かないこと、目が見えないこと、耳が聞こえないこと等々から直接不利益が生まれているというわけだ。したがって、ディスアビリティの問題とはそのままインペアメントの問題であり、これらへの対処策は、まず第一義的には、そうした機能不全を「治療」し、少しでもその機能を高めることであり、それが難しい場合には、そうした機能を補うための技法や振舞を障害者本人が身につけることであった【注3】(Oliver 1990=2006)。こうしたディスアビリティへの対処は、主に医療や教育の場でなされるものとされ、障害研究もこれらの領域の中でのみ行われることとなった。
 この認識枠組みは、WHO(World Health Organization、世界保健機関)が一九八〇年に示したICIDH(International Classification of Impairments, Disabilities and Handicaps、国際障害分類)にも基本的に引き継がれている。以下の定義を参照されたい。

インペアメント:心理学的・生理学的・解剖学的な構造や機能の何らかの喪失・異常
ディスアビリティ:(インペアメントによってもたらされた)人間にとって正常と考えられる方法や範囲で行為を遂行する能力の何らかの制約・欠如
ハンディキャップ:インペアメント・ディスアビリティによってもたらされ、個々人にとっての(性・年齢・社会的・文化的諸条件に応じた)正常な役割遂行を制約・阻害する不利益(WHO 1980: 27-29)

 ここでまず確認しておかなければならないのは、本書で用いるインペアメント/ディスアビリティ概念は、序章でも述べたように基本的にイギリス障害学における枠組みを踏襲しており、ICIDHの分類とは用法が異なっている、ということだ。大まかにいえば、ICIDHにおける「インペアメント」と「ディスアビリティ」を包括したものを本書ではインペアメントと呼び、ICIDHにおける「ハンディキャップ」のことをディスアビリティと呼んでいる。このように整理すると、ICIDHの段階論的な障害構造把握が、インペアメントとディスアビリティとの間に因果的連関を想定していることが分かる。ディスアビリティはインペアメントの結果生じるものであり、インペアメントはディスアビリティの原因として把握されたのである。確かにICIDHは障害の社会的側面に光を当てるものであり、その意味で先進的な知見を採り入れたものだったが、そうした問題の原因を個人的要因に還元していく認識枠組みを踏襲している点において、まさに「個人モデル」の延長線上にあるのだ。

 こうしたディスアビリティ理解に対して異を唱えたのは障害を持つ当事者であり、むしろ問題は障害者を取り巻く社会の側にあるという主張を展開した【注4】。手足が動かないことによって不利益を被っているのではなく、手足が動かないと困るような社会であることによって不利益を被っているのだと主張したのである。「社会モデル」の提唱者であるオリバーは次のように言う。

 それ(「社会モデル」のこと、引用者註)はディスアビリティの問題を……広く社会の内に位置付けるのである。問題の原因となるのは、いかなる種類であれ個人的制約なのではなく、社会的編成において障害者のニーズを十分に考慮した適切なサービスと十分な保障を提供することに関する社会の失敗なのである。(Oliver 1996a: 32)

 ここでは、個人と社会とを峻別した上で、ディスアビリティの原因を社会の側に求める認識が示されている。ディスアビリティとは個人の「制約」の問題とは無関係に社会から与えられるものと解釈されたのである。こうした認識は、日本で「社会モデル」が受容される際にも引き継がれ、たとえば倉本は、「インペアメント/ディスアビリティ、つまり、身体/社会という二分法をとることで、問題の所在を明確化したのである。問われるべきは社会であり身体ではない、これが社会モデルの端的な主張である」(倉本 2002: 196)と述べている。さらに、この立場から、二〇〇一年にICIDHを改定する形で採択されたWHOのICF(International Classification of Functioning, Disability and Health、国際生活機能分類)を批判して、「ICFは、医療モデルと社会モデルの統合をうたっているが、そのようなことは論理的に不可能である。たとえ、環境因子を導入し、各要素間の関係を複線的なものにしたところで、社会的不利益の発生に生物学的/医学的な意味での身体の関与を認める限り、それは別ヴァージョンの医療モデル/個人モデルでしかない」(ibid.: 203)とも主張される【注5】。
 ここでディスアビリティは、個人の外部としての社会に起因するものとして認識されている。「個人モデル」が社会のあり方とは無関係な個人の属性にディスアビリティの原因を求めたのに対し、逆に「社会モデル」は個人の属性とは無関係な社会のあり方の方にディスアビリティの原因を求めた。そうすることで、ディスアビリティが障害者本人の抱える「問題」であるという認識の転換を図ったのであり、実践的にも社会変革に対して一定の有効性を持ったのである。

 不利益の集合としてのディスアビリティ
 前項で、ディスアビリティ理解の変遷について、基本的なことを述べた。ここでは、そもそもディスアビリティ概念が、どのような対象を表現するものとして用いられているのかについて、もう少し詳しく確認しておこう。「個人モデル」と「社会モデル」とはディスアビリティの原因論において鮮明な対照をなすが、ディスアビリティを不利益として捉える認識は基本的に共有されている。たとえば、ICIDHによる定義では、「インペアメントによってもたらされ、個々人にとっての(性・年齢・社会的・文化的諸条件に応じた)正常な役割遂行を制約・阻害する不利益」(WHO 1980)とされている一方、一九八二年に示されたDPI(Disabled People's International、障害者インターナショナル)の定義では、「物理的・社会的障壁によってもたらされた、他者と等しいレベルで共同体の正常な生活に参加する機会の喪失や制約」(DPI 1982)とされる。さらに、「社会モデル」のアイディアの基礎になった【注6】、UPIAS(Union of the Physically Impaired Against Segregation、反隔離身体障害者同盟)の定義では、「身体的なインペアメントを持つ人のことを全くまたはほとんど考慮せず、したがって社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会的編成によって生み出された不利益または活動制約」(UPIAS 1976)とされている。
 これら代表的な三つのディスアビリティ定義においては、それぞれ、「不利益」、「喪失や制約」、「不利益」または「制約」という形でディスアビリティの性質を把握しており、これらはいずれもディスアビリティを「否定的な社会的諸経験」(Oliver 1996b)として捉える認識を共有しているものであると言える。このようなディスアビリティ観について、本書では「不利益disadvantage」としてのディスアビリティ理解と呼ぶことにしよう。
 このことを踏まえると、相反する障害観を前提としている「個人モデル」と「社会モデル」の双方において、ディスアビリティを否定的なものとして捉える認識が共有されていることが分かる。「個人モデル」はディスアビリティをインペアメントの存在と因果的に結び付けることによって、ディスアビリティの原因であるインペアメントを常に治療の対象とし、リハビリテーションを通じた機能回復に向けた不断の努力を要請する。これは、インペアメントこそが障害問題の本質であると捉え、個人の身体に介入して身体的な差異を解消・矯正することによって、それを消去しようとする志向性を示している。一方の「社会モデル」においては、障害が問題になるのは、個人にインペアメントがあるからではなく、社会的にディスアビリティが生み出されているためなのであり、そのような社会のあり方が問題であるとされる。ここで社会のあり方、すなわち「できなくさせる社会disabling society」が問題とされるのは、「できないこと」を否定的に捉えているからである。このように、ディスアビリティを否定的に意味付けるという限りにおいて、「個人モデル」と「社会モデル」は同じ地平を共有している。対照をなすのは、その原因の帰属先と働きかけの焦点である。このコントラストは、解消努力を誰に要求するのかという問題に影響を与えるとともに、ディスアビリティを解消しきれない場合(通常完全には解消しきれないわけだが)に、否定性を付与される主体を名指す効果を有するという点で、重要な意味がある【注7】。しかし、こうした両者の差異について確認すると同時に、裏面で不利益としてのディスアビリティ認識を共有している点も看過すべきではない。
 さらに、この不利益は社会のいたるところに存在し、いたるところに発見しうるようなものであることも確認しておこう。

社会モデルによれば、ディスアビリティとは障害者に制限を課すあらゆるものであり、個人的偏見や制度的差別、アクセスの困難な公的な建造物や利用できない交通システム、隔離教育や排他的な労働環境などを含んでいる。(Oliver 1996a: 33)
 このように、ディスアビリティは障害者が社会的活動の様々な場面で経験する不利益の一つひとつを含んでいる。すなわち、障害者が経験するあらゆる不利益をディスアビリティとして捉えた上で、そうした個々の不利益の集合を総体としてのディスアビリティの経験として理解しているということなのである。
 また、ときおり散見される「障壁barrier」としてのディスアビリティ理解も不利益としてのディスアビリティ把握の一バージョンとして位置付けられる。ここでの「障壁」とは、社会的活動を妨げるもの、というぐらいの意味である。この「障壁」としてのディスアビリティ理解とは、たとえば次のようなものである。

〔引用開始〕ディスアビリティとは、作為的、不作為的な社会の障壁のことであり、それによって引き起こされる機会の喪失や排除のことであり、だからディスアビリティを削減するための負担を負おうとしない「できなくさせる社会disabling society」の変革が必要だと主張されたのである。(石川 2002b: 26)〔引用終了〕

 ここではディスアビリティの説明として「社会の障壁」と「それによって引き起こされる機会の喪失や排除」とが並置されており、「障壁」もまたディスアビリティを構成する要素であるとされる。また、先に引用したオリバーの議論でも、「ディスアビリティとは、障害者に制限を課すあらゆるものである」(Oliver 1996a: 33)とされており、ここでも障害者に対して影響を与える外的な要因がディスアビリティとして捉えられている。
 しかし、これらの把握は、基本的にDPIの定義に近い認識に含まれるものとして理解してさしつかえない。すなわち、社会に存在する「障壁」が個人の経験する不利益の原因となっているということだ。そもそもdisabilityという原語は「できないこと」や「できなさ」を表現する言葉だから、そうした経験をする当事者に照準した概念として把握するのが妥当であり、その外的な要因である「障壁」をディスアビリティに含める用語法は混乱を招く。「障壁」のようにディスアビリティの原因となる外的要因については、「できなくさせるもの(無力化するもの)」を意味するディスエイブルメントdisablementという用語があり(Oliver 1996a; 夏目 2000)、本書ではこの区別を明確に維持して、「障壁」を不利益の生成に関わる要因として位置付けることにする。こうしてみると、「障壁」としてディスアビリティを捉える見方も含めて、従来の理解においては不利益の集合としてディスアビリティを把握しているものと総括できるだろう。
 つまり、原因を何に求めるのかについては立場を異にするとしても、ディスアビリティを不利益として捉える認識は概ね共有されているのだ。障害者は駅利用の際、買い物の際、就職の際等、様々な社会的場面で不利益を経験することになるが、そうした個別の社会的状況における不利益の一つひとつがディスアビリティと考えられているのである【注8】。

2 認識論としての「社会モデル」

 原因帰属をめぐる認識論的転換
 前項で、従来のディスアビリティ理解において、ディスアビリティを不利益の集合として捉える認識が共有されていることを述べた。では、「社会モデル」はそうしたディスアビリティ理解の中で、どのような水準における理論的貢献を行ったことになるのか。ここでは、オリバーの議論を手がかりにこの点について検討しよう。
 オリバーはディスアビリティ理論の射程を存在論的レベル、認識論的レベル、経験的レベルの三つに分割し、それぞれの主要な問いは、ディスアビリティの本質natureとは何か、その原因は何か、それはいかに経験されるのか、であると論じている(Oliver 1996a)。オリバーによれば、これら三つのレベルは相互に影響関係を持ちながら、ディスアビリティの全体性totalityないしヘゲモニーを形作ることになる。資本主義社会における経済的・社会的排除の結果として、「ディスアビリティは、医療的処置を必要とする個人的な問題という特定の形式において生産されている」(ibid.: 127)のだが、この生産の形式は三つのレベルの想定や解釈と深く結び付いているという。たとえば近代資本主義社会においては、「病理学的で問題指向的」(ibid.: 129)であるという存在論的な想定は、介入や治療や処置を要するものを諸個人の中に見出そうとする認識論的関心と直接結び付き、そしてこれらの結果、健常者も障害者も「個人がおかしい」という形でディスアビリティを経験するようになるのである。これに対して近年では、存在論的レベルにおいて「ディスアビリティの問題指向的な本質を否定しはしないが、病理という想定を否定し」(ibid.: 129)、認識論的レベルにおいて「ディスエイブリングな障壁と社会的制約の除去に関する社会の失敗」(ibid.: 129)に原因を求める転換が生じ、経験的レベルでも「社会がおかしい」ものとしてディスアビリティを捉えるようになったとされる。つまり、三つのレベルそれぞれにおいてディスアビリティ理解の転換が起こったということなのだ。
 この主張の意義を了解した上で、「ディスアビリティの社会モデル」の提起がどのレベルにおいて最も大きなインパクトを与えたのかといえば、それは原因帰属をめぐる認識論のレベルにおいてであると理解するのが適切だろう。このことをオリバー理論の検討を通じて明らかにする。以下は、オリバーが一九八〇年代に行われたOPCS(Office of Population Censuses and Surveys、国勢調査局。一九九七年よりOffice for National Statistics、国民統計局)の調査項目に対して「社会モデル」の立場から示した対案のリストの一部である。それぞれの項目における対比が、「個人モデル」と「社会モデル」との基本的認識の差異を示すものとして提示されている。

 […上に引用…]

 上記のように、「個人モデル」と「社会モデル」におけるディスアビリティ認識を分かつのは、「どんな病状」のためなのか「日用品のどんな欠陥」のためなのか(質問2)、「聴覚に問題がある」ためなのか「人々があなたとコミュニケーションをとることができない」ためなのか(質問3)、「損傷・欠損・欠陥」が問題なのか「損傷・欠損・欠陥に対する人々の反応」が問題なのか(質問4)、「健康上の問題や障害」のためなのか「地方教育局の方針」や「物理的環境や他者の態度」等のためなのか(質問5、8、9、10)といった、ディスアビリティを引き起こしている原因レベルの問題であることが分かる。すなわち、現実に起こっている現象がどのようなものであるのかについての把握や、それが当事者にとって回避されるべき「問題的」な事態であるという認識は基本的に共有した上で、その原因についての記述を修正し、あるいは原因の探求自体をめぐる問いを再提示することによって、「社会モデル」の輪郭が描かれているのである。
 このことは、前項で確認したディスアビリティ理解の内容と合致する。すなわち、不利益の集合という障害者にとって否定的な現象に関して、ディスアビリティ概念によって把握するところまでは、「個人モデル」的ディスアビリティ理解と「社会モデル」的ディスアビリティ理解との間に大きなギャップはないのだが、そうした現象が何によって引き起こされているのかについての原因論レベルの認識において、両者は決定的に袂を分かつということだ。確かにオリバーは、ディスアビリティとはどのような現象なのかという存在論レベルにおいても、「社会モデル」は病理的想定からの脱却という意義を有していると主張している(Oliver 1996a)。また、障害者の集合的アイデンティティの重要性を強調する文脈で次のようにも言っている。

〔引用開始〕ディスアビリティが悲劇と捉えられるなら、障害者はある種の悲劇的出来事や環境の犠牲者として扱われることになろう。(中略)代わりに、ディスアビリティが社会的抑圧として定義されるなら、障害者が環境の個別的な犠牲者としてではなく、無配慮で無知な社会の集合的な犠牲者と見なされるようになるのは、論理の必然だろう。(Oliver 1993: 62)〔引用終了〕

 ただし、病理的想定やアイデンティティの個別化という論点は、何も「個人モデル」に固有に、また必然的に付随しているものではない。問題が「個人的悲劇」として語られてもそれが病理的な色彩を帯びないことはいくらでもあるし、また病理的に捉えられた問題が社会問題化する過程で集合的なアイデンティティを獲得していくこともある【注9】。つまり、一般的にはディスアビリティ認識にそのような想定や傾向が認められたとしても、それは概ね経験的レベルの問題であって、少なくとも存在論的レベルにおける理論的な問題としてはそれほど大きな意味を持っていないはずなのである。「社会モデル」によって惹起された主要な認識上の転換は、やはり認識論的レベルの原因帰属をめぐって示されているものと考えていいだろう。この点についてはオリバー自身も、決定的に重要なのは「否定的な社会的諸経験や障害者が生活を営む劣悪な諸条件をいかに説明するのか」(Oliver 1996b: 32)であるとして、因果性causalityをめぐる問題が主要な論点であることを認めている。

 解消可能性による解釈
 このように、少なくとも「社会モデル」の提唱者であるオリバーにおいて、その主要な理論的貢献のポイントは、原因帰属をめぐる認識論的な転換であったと考えられている。ただし、これとは別に、「社会モデル」の意義や射程については、幾つかの異なる見解も示されている。たとえば、解消可能性によってディスアビリティを特徴付けようとするディスアビリティ理解がある。すなわち、障害にまつわる問題のうち解消可能な不利益のみがディスアビリティである、という議論である。

 社会が負担を負えば解決するような障害のことをディスアビリティと呼ぶことにしたのだから、社会が負担を負っても解決しない障害はディスアビリティではない。(石川 2002b: 27)

 これによれば、ディスアビリティとは「社会が負担を負えば解決するような障害」のことであり、それ以外はディスアビリティではないということになる。「障害」という概念の意味内容ははっきりしないが、その中でのディスアビリティの特定に当たっては、「解決」の可能性がディスアビリティの要件とされている【注10】。
 これは一見、本書で掲げた「解消可能性要求」と一致する見解であるように見える。本書でもディスアビリティを解消可能性に開かれたものとして提示しようとしているのだから、結果として得られるディスアビリティ概念の扱う範囲は解消可能なものに限られると言えるからだ。しかし、両者は同じものではない。まず、ディスアビリティ概念が論理的な解消可能性を含んでいるということと、現実に存在するディスアビリティが社会的に解消可能であるということとは、似て非なることである。本書の立場からは、適切なディスアビリティ概念によって把握されたディスアビリティが、論理的に解消可能なものであることは保証されることになるが、それはそのディスアビリティが現行の社会において直ちに解消可能であることを意味しているわけではない。それに対して、石川の理解に基づけば、定義上、ある社会においてディスアビリティと把握されるものはすべて、その「社会が負担を負」うことによって解消可能なものだということになる。
 このように、ディスアビリティ/インペアメントの分析的区別を現実の社会における解消可能性に還元してしまうと、たとえば情報技術の発達によって視覚障害者の情報処理環境が劇的に改善する以前に、視覚障害者がどれほど情報処理に困難を抱え、その結果社会的活動において不利益を経験していたとしても、それはディスアビリティの範疇には入らないということになり、その線引きは技術水準に深く依存して変動してしまうのだ。さらにいえば、たとえば「障害を補う」技術の水準が異なる社会において、ディスアビリティの水準の違いを問題にすることが可能なのかという疑問もある。この枠組みでは、現行の技術水準で「解決」することができるのに「解決」していない部分のみがディスアビリティであるということになるが、これでは技術水準が劣っているために他の社会に比べてより深刻な不利益を経験している人々の問題は、少なくともディスアビリティ理論の内部においては扱えないことになる。したがって、技術の進歩によって「できなかった」ことが「できる」ようになるという事態を、ディスアビリティの「削減」や「解決」として記述することが、論理的には不可能になるのである【注11】。これは当事者にとっての不利益に定位してディスアビリティを理解しようとする立場からは、難点となる。
 さらに議論を先取りして言えば、本書でのディスアビリティの概念化に関する「解消可能性要求」は必ずしも不利益の解消可能性に還元し得ないものとして提示される予定であり(本書第3章)、その意味でも、ディスアビリティを不利益の集合として把握した上でそれら諸不利益の解消可能性を定義に含み込む形でディスアビリティを特定しようとする議論とは、一線を画するものになるはずである。
 以上の検討によって示されたように、少なくとも現実の社会の解消可能性によってディスアビリティを特定しようとする議論は、必ずしも適当ではない。それは、現実の社会において解消可能なものしかディスアビリティとして把握できず、不利益の経験とのギャップが生じるという難点を含んでいる。このことを踏まえて、本書の枠組みが、解消可能性によってディスアビリティを特定するものとして「社会モデル」を捉える議論にはコミットしていないことを確認しておく。

 帰責性による解釈
 その他に、ディスアビリティの解消責任の帰属先によって「社会モデル」の意義を説明しようとする議論もある。以下の主張はその代表的なものである。<0054<

 社会モデルの主張が意味のある主張であるのは、それがその人が被っている不便や不利益の「原因」をその人にでなく社会に求めたから、ではない。(中略)核心的な問題、大きな分岐点は、どこかまで行けるという状態がどのように達成されるべきかにある。二つのモデルの有意味な違いは、誰が義務を負うのか、負担するのかという点にある。(立岩 2002: 69-71)

 これは、ディスアビリティの解消の仕方についての規範的な含意を読みこんだ理解を提示したものであるといえる。前段では、「社会モデル」の要諦はディスアビリティの原因をめぐる認識論的な主題にあるのではないとされ、代わってディスアビリティの解消に当たっての負担を誰に義務付けるかが「核心的な問題、大きな分岐点」であるとされる。
 この主張を受けて確認しておきたいのは、ディスアビリティの原因を特定することと、その解消の方法を特定することとは、確かに別のことであるということだ。これは、たとえばBによって金銭を盗まれたAにとっての経済的損失が、必ずしもBからの返済によってのみ回復されうるのではなく、CやDからの贈与によっても回復されうることや、他者の過失によって消失してしまった自己の思考の記録データは、おそらく自己の努力によってしか回復し得ないということを想起すれば、容易に理解できるだろう。つまり、ディスアビリティの原因が個人に帰属されようが社会に帰属されようが、その解消を社会に帰責することは論理的に可能であり、まったく同様に、それが個人に帰責される可能性も排除されないということである。ここで立岩が言っているのは、「個人モデル」がディスアビ<0055<リティの解消のための負担を個人に課す枠組みであるのに対して、「社会モデル」はその責任を社会に投げ返したという点にこそ、重要な認識上の転換があったのだということなのである。
 同様の趣旨で石川は次のように述べている。

 社会モデルは、社会が障害を補う責任を負うべきだと言い、社会が補うべき障害の側面や範囲をディスアビリティと呼び、補えない部分をインペアメントとした。(石川 2002b: 33)

 ここでも「社会モデル」は「障害を補う責任を負うべき」主体として社会を名指すものであるとされ、解消責任の帰属先の特定という点で「社会モデル」の特徴が把握されている【注12】。
 このような「社会モデル」理解は、その実践的意義に着目するものとしては一定の妥当性がある。「社会モデル」は第一義的にはディスアビリティ認識のあり方に関わって理論的水準で提起されたものだが、それが障害者運動における当事者の実践的な必要から導出されたものであり、その後の運動においても政治的な正当性を確保する道具として価値を持ったという点を踏まえれば、「社会モデル」には理論的意義と同時に実践的意義がある。その点に関する限り、責任帰属をめぐる転換は確かに重要であり、少なくとも「社会モデル」のレトリカルな効果として、それは大きな特徴であると言えよう。
 ただし、責任帰属による「社会モデル」の解釈には、いくつかの困難がある。第一に、少なくとも<0056<ディスアビリティ認識に関わる理論的水準で「社会モデル」を捉える場合、責任帰属による解釈はやや奇妙な構造になっている。「社会が補うべき障害の側面や範囲をディスアビリティと呼」(ibid.)ぶとすると、何について社会が解消責任を負うのかが予め特定されていなければ、ディスアビリティを特定することもできない。しかし、それを特定する基準は用意されていないばかりか、そもそもそれをディスアビリティという現象の特有性に言及することなく特定できるのかどうか疑わしい。本書第3章第1節での議論をやや先取りしておけば、一般的な責任帰属の線引きを適用することによってはディスアビリティ現象を十分に焦点化することができず(むしろそうであるからこそ特有な社会現象としてのディスアビリティを主題化する理由がある)、帰責されるべき問題の特定化という作業そのものがディスアビリティの認識論を含むことにならざるを得ないと思われる。そうだとすれば、帰責性による解釈においては二次的ないし付随的な位置に置かれている、社会が解消責任を負うべき不利益とは何であるのかという問い自体が、むしろディスアビリティ認識についての一次的な回答を準備することになっており、その意味で冗長な理論構成を採っていることになる。
 第二に、責任帰属によるディスアビリティの特定化は、「社会モデル」の提起に当たって焦点が当てられた問題と、完全には重ならない部分を持っている。これについて考えるために、従来のディスアビリティ認識が「個人モデル」として批判された際のポイントについて、今一度確認してみよう。「個人モデル」への批判の主要なポイントが、個人の身体に介入し、インペアメントの消去を目指す医療的な処置に向けられたものであったことは、既に見た(本節1)。そこでは、医師などの専門家<0057<が障害者を医療の対象として捉え、「健常」「正常」へと近づけようとする磁場の中に障害者をからめとっていったことが批判され、そうした社会の「医療化medicalization」(Illich 1976=1979)の中で障害者が受動的なサービスの受け手として無力化されていったことが告発された。
 またオリバーは、「個人モデル」的なディスアビリティ理解の問題性について、以下のように指摘している。

 したがってこの想定は、ディスアビリティとは、健康の観点では病理であり、福祉の観点では社会的なsocial問題だというものである。処置や治療は、病理や問題に対する適切な社会のsocietal反応なのである。(Oliver 1996a: 129)

 これによれば、少なくとも障害が医学的・社会的に問題化されて以降、「個人モデル」においても社会による働きかけが無視されていたわけではなく、むしろ「処置」や「治療」という形で積極的になされようとしていた。まさにディスアビリティの問題は、医療をはじめとする専門家のコントロールの対象として「社会問題化」していたのである。その限りで、「個人モデル」においてディスアビリティの解消責任が個人にのみ帰属させられたという理解は正確ではない。そうではなくて、誰によって解消されるべきかということもさることながら、いかにして解消されるべきなのかが焦点化されたのではなかったか。以下の記述にもそのことが示されているように思われる。<0058<

 つまり、外科手術をすることも場合によっては大事には違いないけれども、それ以上にどうやったら障害者が社会の中で障害をもったままで生きていけるのかを考えることのほうが大事だということになってきたのです。僕自身、現在ではその考えが正しいと思います。(二日市 2001: 180)

 ここでは「外科手術」の意義は相対的に低く評価されているが、それは「外科手術」が個人の手によってなされるからでも費用負担が個人に課せられるからでもないだろう。また、「外科手術」に伴うリハビリテーションの過程で個人の努力が過度に要請されることへの懸念や反発はあるとしても、それが主要な理由でもないだろう。ここで示されているのは、「外科手術」が完全に社会的な責任において行われるとしても、そのことを必ずしも第一義的なものとはしないという認識ではないだろうか。逆にいえば、「どうやったら障害者が社会の中で障害をもったままで生きていけるのか」と言われるとき、そのために個人の責任において払われる努力を排他的に除外する意図は、必ずしもないはずである。
 以上のことから、「社会モデル」の責任帰属による解釈は、その実践的効果に着目した場合には的を射たものであるが、ディスアビリティとは何か、という認識論的な問いへの回答としては必ずしも適切でないと考えられる。しかし、第2章・第3章で論じるように、ディスアビリティの特定に当<0059<たって規範的な問題へのアプローチが必要であることは、この解釈において示唆されており、その点は重要な着眼点であるといえる【注13】。

 認識論上の特徴
 以上の議論から、「社会モデル」の提起によってディスアビリティ理論に認識論上の大きな転換が生じたこと、その転換において焦点化された理論的な争点としては、少なくとも原因帰属、解消可能性、責任帰属をめぐる解釈が提出されていることが確認された。既に指摘したように、この中で、認識論としての「社会モデル」の一般的な解釈となっているのは原因帰属をめぐるものだが、ここではこうした「社会モデル」理解に含まれる認識論上の特徴について確認しておきたい。
 その主要なポイントは、ディスアビリティは記述的に特定可能であるという想定が、明示的にせよ暗黙にせよ含まれていると考えられる点である。まず、原因帰属による「社会モデル」の解釈を、社会に原因を帰属しうるような不利益をディスアビリティとして把握する枠組みであると理解すれば、ディスアビリティの特定という主題は不利益の原因の特定という主題に読み替えられることになり、それは「科学的」な手続きによって「価値中立的」に探求されうるものとして提示されることになる。もちろん、原因についての「科学的」な探求は、社会現象の生成に関わる無数の要素の中から特定の視角に基づいて特定の要素を抽出し、それらの因果的関連性を特定するという作業において、「中立的」ではあり得ないのだが、少なくともそのような「科学的」な手続きにおいて要求されている限り<0060<での「記述的」な分析によって、ディスアビリティの特定が可能であるという前提を有しているものと考えることができる。また、原因帰属による「社会モデル」理解について、ディスアビリティを特定する理論的基準そのものは問うことなく、任意の不利益の原因の帰属先を特定する枠組みであると解するとした場合、その原因帰属がすべて社会の側になされるというのは端的に不自然なことであり、もしそれが「正当な」手続きによってなされているのだとすれば、それは問題とされた任意の不利益が既にそのような性格を持ったものとして選び出されていたと考えるのが妥当であろう。このとき、今度はそこでブラックボックスにされていたディスアビリティの特定の段階が焦点になるはずだが、この点については主題的に論及されることはなく、その特定に用いられる基準が予見として与えられているかのような論理構成を採ることによって、ディスアビリティの「記述的」な特定という想定は維持されているように見える。
 こうしたディスアビリティの「記述的」な特定という想定は、解消可能性による「社会モデル」の解釈にも共有されていると考えられる。解消可能な不利益と解消不可能な不利益との区別がいかにしてなされるのかについては必ずしも明示的に言及されることはないが、両者を分かつのは「可能性」の有無という基準だから、その弁別は「記述的」な分析によって行われうるという想定があると考えられるだろう。解消可能であるかどうかの判断は、「変革」の対象をどのような範囲に設定するのかという条件の特定の問題を除けば、主観的な価値判断とは独立に論理的になされうるものと考えられるからだ。<0061<
 責任帰属による「社会モデル」の解釈は、必ずしもこうした想定を置いているわけではなく、その点で異質なものであるといえるが、前項で指摘したように、この解釈は認識論的な水準でディスアビリティを特定する基準を含んでおらず、その点で認識論としての「社会モデル」理解としては完結した枠組みを提示し得ていない。そのため、ここではこの解釈の位置付けについては評価を留保し、従来の「社会モデル」理解の特徴として、ディスアビリティの記述的な特定、という想定を抽出することにしたい。

3 「社会モデル」への批判と応答

 それでは、「社会モデル」に対して障害学の領域の中で何が語られてきたのか。この点について、幾つかのパターンの「社会モデル」批判と、それに対する応答・反批判とに分けて整理し、その成果を確認しよう。ただし、ここで取り上げる議論は、認識論としての「社会モデル」をめぐって、インペアメントの位置付けを焦点にしてなされたものに限定されていることを、予め確認しておく【注14】。
 こうした観点から障害学第二世代の議論を整理すると、その焦点は、インペアメントの有する否定性への着目であると見ることができる。前項までの議論で確認したように、「社会モデル」はディスアビリティの否定性を共有した上で、その原因を社会に求めると同時に、インペアメントについて従来付与されてきた否定性を脱色しようとしてきた。これに対して、フェミニズムの影響も受けながら、第二世代の論者は否定的な経験としてのインペアメントの位相に再度焦点化しようとするのである。<0062<
 モリスは、「社会モデル」があらゆる身体的な差異や制約を社会的に作られたものだと見なしているとして批判する。環境的障壁や社会的態度がディスアビリティの経験の主要な部分を占めることは認めても、「それがすべてだと示唆することは、身体的・知的制約、病、死の恐怖といった個人的な経験を否定することなのである」(Morris 1991: 10)と主張するのである。またクロウも、「社会モデル」によるディスアビリティの焦点化が絶対的なものであるために、インペアメントの経験が過度に軽視されてしまっていることに対して、反省的な眼差しを向ける。障害の経験の複雑さを考慮しない運動において、インペアメントは無関係で、中立的で、肯定的なものとして表象されてきたが、そこには常に違和感が存在していたというのである(Crow 1996)。こうした彼女らの批判は、ときに否定的でありつつ重要な意味を持つ「個人的な経験」について「社会モデル」は十分に把握しきれない、という点に向けられている。
 さらに、こうした「社会モデル」によるインペアメントの無視は、障害者に対して否定的・抑圧的に機能すると主張される。

 […](Morris 1992: 164→引用済)<0063<

「個人的な経験」としてのインペアメントが、障害の問題の中心的な位置を占めるものとして社会的なアリーナにおいて主題化されなければ、その否定性は「個人的非難や責任」として経験されることになるのだという。ここには、ディスアビリティ経験と同様にインペアメント経験についても社会的な位置付けがなされることを求める理論的動機が伺われる。この種の議論には、「社会モデル」のインペアメントへの拡張を図ろうとする議論【注15】(Hughes and Paterson 1997)への志向性を読み取ることもできる。
 こうした批判に対する「社会モデル」の論者たちの応答は、次のようなものである。オリバーは、自らの理論に主観的・個人的次元が欠けているという批判に関して応答を試みる中で、「社会モデル」の意義を、「医療的あるいは他の専門的な処置によってではなく集合的行為によって変化させうるようなイシューを、同定し提示するプラグマティックな試み」(Oliver 1996a: 38)である点に求め、依然としてディスアビリティを個別的でindividual個人的なpersonal問題と捉えている今日の社会においては「政治的であることの代わりに個人的であることを強調するのは危険なのだ」(ibid.: 3)と主張する。さらに、「社会モデル」が多様な背景を持つ障害者が直面する多様な抑圧経験を問題にし得ていない点への批判(Morris 1991; Hill 1992; Hearn 1991)については、そうした批判の妥当性を認めた上で、ディスアビリティ理論はいまだ発展途上なのだという消極的な弁明を行っている【注16】(Oliver 1996a: 39)。また、ラエは、「社会モデル」はインペアメントのためにすべての障害者が関わることになる不正義を示すものであって、障害者はそれによって社会変革のための闘いの道具を手にするとともに、特定<0064<のインペアメントに関わる個人的なニーズはその中で満たされることになるのだと主張する。彼女によれば、「社会モデル」はモリスがいうように「個人的な経験」についての議論を封じているわけではなく、それが公的な領域の外部でなされることを求めているのだということになる(Rae 1996)。
 またバーンズは、「社会モデル」がインペアメントを包摂する枠組みたり得ていないこと等に向けられた批判に対して、それらの多くが誤解に基づいた「神話」であるとして再反論を試みている。彼によれば、「社会モデル」の焦点は「障害者を社会のメインストリームから排除している環境的・社会的障壁」であり、「社会による障害者のニーズへの対応の失敗」について問題にしているのであって、障壁の除去によってインペアメントにまつわる問題がすべて解消されるなどと言っているわけではない。また、インペアメントの経験は固有で多様なものであることから、インペアメントを「社会モデル」的に考察することが困難であることが指摘される(Barnes 1996)。さらに、シェイクスピアは次のように論じている。

 […](Shakespeare 1992: 40、引用済)<0065<

 すなわち、オリバーと同様、理論の持つ実践的でパフォーマティヴな効果を考慮して、インペアメントへの言及を戦略的に回避すべきであると主張するのである。個人的な身体との結び付きを持たないものとしての社会的要因を「ディスアビリティの真の原因」であると捉える認識枠組みを維持しつつ、「身体的な制約」としてのインペアメントとディスアビリティが認識論的に結び付きうるのかどうかという論点はあえて主題化せず、「個人モデル」的な認識枠組みへの回帰の危険性を回避するという実践的な動機に、ディスアビリティの認識論を従属させていると言えよう【注17】。また、「社会モデル」の評価をめぐる障害者内部の対立は相対的にはマイナーな点に過ぎず、それよりもディスアビリティについての社会的分析を促進することにプライオリティを置くべきであるとも主張される(Shakespeare and Watson 1997)。
 このように、「社会モデル」の側からの応答は主に、インペアメントの存在を否定しないがそれは理論の射程ではない、というものであって、インペアメント経験を含む個人的で個別的な経験がディスアビリティとどのように関係しうるのかについて、踏み込んで論じるものはない。両者の関係が主題化される場合であっても、たとえば以下のように、相互の独立性を強調するに留まっていると言っていいだろう。

 もし社会モデルがインペアメントの文化への変換――障害全体のではない――を認め、文化モデルがディスアビリティという概念を認め、文化に変換する対象をインペアメント――ディスア<0066<ビリティも含めた障害全体ではない――に限定するなら、社会モデルと文化モデルとは両立しうる。同時に主張することもできるだろうし、一方に特化することもできる。(石川 2002b: 34)

 つまり、ディスアビリティとインペアメントとは相互に独立の問題系だから、一方を捨象して(あるいは取り扱いを留保して)他方を論じることは可能だ、というわけだ。これに対して、たとえばクロウは、ディスアビリティとインペアメントの相互作用を指摘して、インペアメントはディスアビリティの原因ではないが、「特定の抑圧の生物学的前提条件precondition」であると主張している(Crow 1992)。しかし、この議論自体十分に展開されてはおらず、「社会モデル」の側からも有効な回答は提示されていない。
 結局、インペアメントの位置付けに関してなされた「社会モデル」をめぐる論争は、議論の射程の問題に回収され、実りあるものとはなっていない。そのため、インペアメントとディスアビリティとの関連の仕方についての議論は十分に展開されておらず、インペアメントの固有性・多様性に起因するディスアビリティの多様性をどのように把握するかという論点も、放置されたままになっていると言える。

4 ディスアビリティ理解の基本的前提

 本節を通じて、現行のディスアビリティ理論の到達点が概観された。それは「社会モデル」と概括されるディスアビリティの認識枠組みを基礎に展開してきたもので、社会的不利益を障害問題の核心に位置付けるものである。本項では、この「社会モデル」的ディスアビリティ理解が基本的に共有している前提について、確認しておくことにしたい。
 第一に、ディスアビリティの非文脈的特定、という前提がある。ディスアビリティを構成する不利益は、それが当該個人の生においてどのような位置を占めているのかという文脈とは独立に、個々の社会的場面に照準することによって特定可能であると理解されているのだ。食事など日々の生活に欠かせない行為の遂行が困難な状態にあること、外出時の駅利用などに際して困難を経験すること、雇用に際して不利な取り扱われ方をすること等、それぞれの社会的場面において経験される不利益の一つひとつがディスアビリティであると捉えられているのである。したがって、ディスアビリティの解消を目指す場合には、個々の社会的場面が置かれている文脈とは関係なく、そうした社会的場面における一つひとつの不利益の不当性を告発したりそれらの克服が要求されたりすることになり、そうした個々の不利益の解消は無前提に「ディスアビリティの削減」(石川 2002b)として理解される。
 第二に、ディスアビリティの記述的特定、という前提がある。これは、原因帰属や解消可能性に基づくディスアビリティ理解において顕著なのだが、何がディスアビリティであるのかは一定の手続きを経た「記述的」な分析によって同定されるものであると捉えられているのである。こうした前提に基づくディスアビリティ理論は、一見「価値中立的」に「不当」なディスアビリティ現象を特定することができるように見える。すなわち、誰が見ても「不当」であるような現象としてディスアビリティを記述することが可能なように見えるのだ。ただし、第2章で論じるように、その背後には規範的な判断が潜在しており、実はそのことが重要な意味を持っているのだが、従来の「社会モデル」理解は少なくとも表面的にはディスアビリティの記述的特定という前提を維持していると考えていいだろう。さらに、若干議論を先取りしておけば、こうした「記述的」なディスアビリティの同定を可能にしているのは、ある現象を不利益として定義するための暗黙の基準をアプリオリに設定する認識であると考えられる。たとえば、個人Aが「働けない」という不利益を経験していると言うとき、そうした不利益は個人Aが本来発揮しうるはずの能力からの偏差という意味での「制約」として捉えられているのであり、その観点から不利益として特定されると考えられる。つまり、社会のあり方やそれを記述し評価する認識枠組みのあり方とは独立に想定可能な、「個人のニーズ」の充足が、何らかの要因によって妨げられているというのが「社会モデル」の基本的な構図なのである。オリバーやバーンズの「社会による障害者のニーズへの対応の失敗」といった表現に、この認識が現れている。このとき、不利益の同定に当たって社会という契機は基本的に現れない【注18】。
 第三に、ディスアビリティについての二元論的解釈図式、という前提がある。これは、原因帰属による「社会モデル」理解において端的に現れている。ディスアビリティの原因は個人に内在的なものなのか外在的なものなのか、ということが、ディスアビリティの認識論にとって最大のテーマとされ、それを社会の側に帰属した点が「社会モデル」の重要な成果であるとされる。このように、相互排他的なものとして個人と社会を位置付けた上で、そのいずれかに原因を帰属しようとする認識の構図が、「個人モデル」から「社会モデル」へのパラダイムシフトの前提をなしていたのであり、「社会モデル」的なディスアビリティ認識においてこの問いへの一定の回答が示されて以降も、その枠組みを超える議論は生まれてきていない【注19】。また、責任帰属による「社会モデル」の解釈にも、こうした二元論的な解釈図式が引き継がれているといえよう。
 第四に、ディスアビリティ理論の制度的位相【注20】への限定、という前提がある。ディスアビリティは基本的に現実の社会制度や固定化した社会意識との関連において、マクロな構造の中で生成される現象として捉えられ、個人的経験としてのインペアメントとの連続性は認識的に切断されている。「社会モデル」は、「個人モデル」によるインペアメントとディスアビリティとの因果的連関を理論的に拒絶するとともに、インペアメントとディスアビリティとの関連の仕方を問うこと自体を戦略的に回避してきた(Shakespeare 1992; Oliver 1996a)。そのため、インペアメント経験の位置付けをめぐる障害学第二世代との論争においても、「社会モデル」がインペアメントを理論の射程外に置くことを確認するに留まり、実りのある成果は得られていない(夏目 2000)。このことを通じて、ディスアビリティは個人的なpersonal経験や主体間の個別的な相互行為の位相を捨象した、制度的位相のみにおいて把握されている。
 以上が本節を通じて明らかになった、「社会モデル」的ディスアビリティ理論の基本的前提である。これらの諸前提は、明示化されない場合でもディスアビリティ理論の射程や内容に関して、特有の色彩や性格を与えることになる。次節では、主にこれらの諸前提が画する限界について確認することにしたい。

第2節 ディスアビリティ理論の行きづまる地点

 本節ではディスアビリティ理論に含まれる難点を、現実にそれが行きづまる地点を、幾つかの具体的な問題に着目しながら示すことによって照射したいと思う。具体的には、障害者の就労問題、障害者福祉の位置付けをめぐる問題、「自立」と「自己決定」をめぐる問題を取り上げ、前節で確認したディスアビリティ理論の諸前提とも関連して、「同定可能性要求」、「多様性要求」、「解消可能性要求」、「妥当性要求」からの逸脱を確認することになる。

1 障害者の就労と「理に適った配慮」[…]
2 「統合問題」の投げかけるもの […]
3 「自己決定」の価値化 […]

註13 この点については後でやや詳しく論じるが、若干議論を先取りしておけば、原因帰属や解消可能性によるディスアビリティの特定化というアプローチは、ディスアビリティを構成する不利益を「記述的」に表現しようとする性格を帯びているのだが、これは必然的に失敗することになる(本書第2章)。そこで規範的な含意のあるディスアビリティの特定化が求められることになるのだが、その点で責任帰属による解釈は重要な示唆を含んでいる。第3章で見るように、実際立岩(1997; 2004a)は、解消責任の帰属先の特定を超える規範的問題について本格的に取り組んでいる。

第2章 ディスアビリティ理論の再検討T

第1節 「社会モデル」の論理構造とその限界

 本節では、「社会モデル」によるディスアビリティの概念化が、障害者の経験する不利益をどのように特徴付けたことになるのかを検討する。まず、社会に起因する不利益としてディスアビリティを特徴付けようとする、「社会モデル」のディスアビリティ理論の不可能性を指摘する。次に、明示的にせよ暗黙にせよ、インペアメントの存在を根拠にディスアビリティ現象の固有性を示そうとする議論が、成功していないことを確認する。これらの議論を踏まえて、多くのディスアビリティ理論や「社会モデル」的な言説には、ディスアビリティの問題を「不利益をめぐる政治」に無防備なまま巻き込んでしまう危険性が孕まれていることについて問題提起し、そうした課題を見すえた理論構築の必要性を主張する。

1 社会原因論の錯誤

 前章で確認した「個人モデル」から「社会モデル」へのディスアビリティ認識の転換は、障害者に対する理解のあり方を「彼等は無力であるThey are disable」というものから「彼等は無力化されているThey are disabled」というものへとシフトさせた。当然後者の認識には「社会によってby society」という、原因となる主体を名指す認識が連動しており、これが「ディスアビリティの社会モデル」の要点である。このように「社会モデル」は、個人の外部としての社会に内属する障壁をディスアビリティの原因と捉える考え方として、理解され受け入れられている。では、こうした社会原因論の認識は妥当なのだろうか。ここではこの点を検討する。
 まず、個人とは無関係な社会にディスアビリティの原因を求めるということの意味を、もう少し考えてみよう。
 たとえば、「社会モデル」の意義を説明する際に用いられる「障害者の村」の寓話について考えてみる【注1】。この村の住民の多くは車椅子を使用する身体障害者であり、建物は彼らに適した仕方で設計されている。そこでは少数派に過ぎない「健常者」は不便な生活を強いられることになり、車椅子使用者によって排除されたり保護の対象とされたりする「障害者」になってしまう。さて、ここで示唆されているのは、ディスアビリティの原因は個人の側にはないということだ。社会を車椅子使用者用に設計してしまえばもはや車椅子使用者が不利益を経験することはなく、むしろ不利益を経験するのは健常者の側ということになるのだから、現行のディスアビリティを生み出しているのはとりもなおさず現行の社会であるというのである。これが「社会モデル」の主張を補強する論拠として用いられる。
 ここまでは正しいとしよう。しかし、これと同型の論理は、「個人モデル」を支持する立場からも主張しうるのではないか。現行の社会は健常者にとっては不利益のない社会であり、「障害者の村」は車椅子使用者にとっては不利益のない社会である。つまり、不利益が存在するか否かは、その社会の成員がどのような個人であるかに依存しているのであり、ディスアビリティの原因は個人の側にあるというわけだ。
 これらの論理はいずれも、「個人」と「社会」という二つの要素のうち、いずれかを所与のものとして固定した場合に、可変的である他方の要素を変化させることによって、個人の置かれている状況が変化するということを表現しているに過ぎない。すなわち、「個人」の条件を変えても「社会」の条件を変えても、「個人」による「社会」の経験として現れる不利益のあり様は変わるということである。しかし当然のことながら、そうであるからといって、不利益の原因が「個人」であるとか「社会」であるとかいうことを、文字どおりの意味において含意することにはならない。
 以上のことから分かるのは、「個人モデル」も「社会モデル」も現象の一面をデフォルメして、まさに「モデル化」しているということである。「個人モデル」の場合それは無自覚的な「見落とし」ないし抑圧的な関係性を維持・固定化するための「隠蔽」であったかもしれないし、「社会モデル」の場合「個人モデル」のヘゲモニーを転換させるための戦略的な「強調」であったかもしれない。しかしいずれにせよ、「社会モデル」もまた、ディスアビリティを個人の属性とは無関係な社会の問題だとすることで、それが置かれた文脈に焦点を当てることができなくなっているのである。実際には、不利益は社会の障壁(のみ)によって生じるのでも個人の機能不全(のみ)によって生じるのでもないはずだ。駅の階段がディスアビリティとして経験されるのは、車椅子使用者がいるからでもそこに階段しかないからでもなく、車椅子使用者と階段との関係、車椅子使用者と階段を上って移動することに意味があり価値があるような社会との関係、そしてその階段を自力で上れる人とそうでない人との関係において、その階段を上れないことが不利益として感じられるからである。このように考えると、不利益の原因を二元論的な図式において把握しようとするアプローチは、認識論としての妥当性を欠くものであることが分かる。
 また、ディスアビリティの原因を社会に求めることによっては、ディスアビリティとは何なのか、それは解決すべきものなのか、といった問いへの回答は得られない、ということも指摘しておくべきだろう。すなわち、社会原因論に代表されるようなディスアビリティの記述的特定を志向するアプローチは、論理的に成功し得ないのである。ディスアビリティが社会において生じる現象である以上、それは何らかの意味で社会的要因によって影響を受けており、その限りで原因帰属を記述的に行うことは可能である。しかし、そのことはディスアビリティ現象が社会現象であると言っているに等しい。もちろん、このような認識の転換そのものが「社会モデル」の貢献であるとは言えるのだが、それはディスアビリティの同定という課題に対して何ら回答を与えるものではない。
 確かに、障害学の理論家たちは、ディスアビリティの生成に社会がどのように関与しているのかについて、記述的な説明を与えてきた。たとえば、労働に基づく分配とニーズに基づく分配との間のディレンマの解決のために、行政上の必要からディスアビリティというカテゴリーが出現したというストーンの議論(Stone 1984)や、資本主義的生産の必要から「障害者」というカテゴリーが発明され、さらに個々の障害が医学的に分類されていったことを指摘するフィンケルシュタインの議論(Finkelstein 1980)等は、それぞれ社会史的な分析として一定の説得力を持つ。ただし、これらは現行の資本主義的な社会体制におけるディスアビリティの特質に関する説明を与えるものであって、ディスアビリティという社会現象の輪郭を示すものではない。
 一方で、ディスアビリティの産出という主題についてオリバーは、ディスアビリティが特定の社会において特定の形式で構築される点を強調する(Oliver 1996a)。ディスアビリティの生産とは、「ディスアビリティ・カテゴリーという財a goodの生産に向けて特に駆動される活動のセットそのものであり、それはそうした生産活動の展開を可能にする諸条件を創出するような一連の政治的行為によって支えられ、その事業全体に正統性を付与するような言説によって裏打ちされるようなもの」(ibid.: 127)であって、現行の社会のディスアビリティは「資本主義社会によって特定の形式で生産されている」(ibid.: 127)のだと主張される。また、ストーンは、国による労働力供給の管理の手段として、ディスアビリティ・カテゴリーの創出が必要であった側面があることを認めている(Stone 1984)。言い換えれば、ディスアビリティが社会的に構築されているという「社会モデル」の主張は、本来そのように構築された不利益を解消すべきディスアビリティとして特定するものであるというよりも、現行の社会がある種の特定の形式においてディスアビリティを作り出していることについて記述・分析するものであるといえる。すなわち、「社会モデル」の理論そのものから直接的に導かれる認識は、ディスアビリティに対する社会の関与の仕方についてのものであって、社会に原因を持つという事実によってディスアビリティが記述的に特定可能であるということではない。この点は「社会モデル」の論者たちにおいても明確に自覚されておらず、ディスアビリティ現象を原因帰属の議論によって特徴付けることが可能であると想定されていることが多いのだが、これは誤りである。

2 当事者の利益と当事者性をめぐる問い

 そこで、別の基準によってディスアビリティを他の不利益と区別して把握する必要が生じるのだが、その種の議論の典型的なものは、ディスアビリティをインペアメントとの関連で捉える見方である。端的にいえば、「ディスアビリティとはインペアメントのある人の問題だ」ということだ。[…]
 しかし、本書ではこの見方を採らない。それは、インペアメントはディスアビリティの存在から遡及的に措定されるものであると考えるからだ。[…]
 では、現にインペアメントが否定的な価値付けを伴って措定された社会に生きる人々のリアリティに定位した場合にはどうか。この場合、発生論としてインペアメントがディスアビリティに後続しているとしても、社会的現実においては両者は並存しているのだから、インペアメントとの関連でディスアビリティを同定する可能性も残されていると言えるだろう。このような意味でディスアビリティ同定の論理を再解釈することは可能だろうか。
 まず、このときインペアメントの存在を要件とすること自体は可能だが、それが不利益を生む他の可能的要件を措定した場合とどのように異なるのかについては何も言えていない。[…]
 ディスアビリティは、インペアメントが当事者にとって両義的なものでありうるのとは対照的に、端的に不利益の経験である点で否定的なものである(星加 2002)。したがって、その解消の当事者にとっての望ましさはひとまず疑うべくもない。ただし、その解消の主張の妥当性を示す論理が構築されていない場合には、それは当事者にとって否定的な契機を含むことになる。ある種の「問題」だけが、妥当性を問われることのない領域として「特権化」【注3】されるとき、そこには暗黙の否定的な価値付与が生じやすい。現状では、なぜ障害について我々が特に関心を払わなければならないのかについて、十分な議論がなされておらず、それは同時に、障害を「特別」な「弱者」の問題として捉えようとする社会通念と容易に結び付くことにもなるのである。こうした障害の問題の「特権化」は、「福祉のスティグマ」という周知の問題状況をも生み出しかねない(Spicker 1984=1987)。

3 「不利益をめぐる政治」

 さて、このように当事者にとっての望ましさに依拠してディスアビリティ解消を主張するならば、その主張は「不利益をめぐる政治」に無防備なまま巻き込まれることになる。ここでいう「不利益をめぐる政治」とは、様々な主体が自らの経験する不利益についてその解消を求めて行う闘争のことである。この「不利益をめぐる政治」は、次の二点においてディスアビリティ解消の主張に対して否定的に機能しうる。第一に、この闘争に無防備なまま巻き込まれると、ディスアビリティ解消の主張は他の可能的主張と等価的なものとして理解され得てしまう。不利益は社会のいたるところに存在しその解消を目指す主張をする「当事者」は常に想定可能だから、障害の文脈におけるディスアビリティ解消の主張もその一部として相対化されうるのだ。その際、ディスアビリティ解消の必要性についての十分な論拠を準備していなければ、異なる立場からの反駁を容易に招き入れる可能性を開くことになる。第二に、不利益の質的な差異を問題にしなければ、ディスアビリティ解消の優先順位について論及することができず、結果としてより「重度」なディスアビリティ【注4】が取り残されるということにもなりかねない。以下でこれらについて詳述する。
 […]

4 普遍的利益論――再び「不利益をめぐる政治」へ

 また、特定の当事者にとっての望ましさを超えて、ディスアビリティ解消の普遍的な望ましさを語る言説も流布している。

〔引用開始〕それなら「障害者」に「問題」や「障害」を抱えこませた原因は、社会のしくみの側にあるのだから、それを補填する責任が社会の側にあって当然だろう。そのように社会の設計を変えるということは、障害を持った(持たされた)人がハンディを感じずにすむだけでなく、障害のない(と見なされる)人々にとっても、住みやすい社会となるはずだ。(中西・上野 2003: 10)〔引用終了〕

 そこでは、「障害者にとって住みやすい社会は誰にとっても住みやすい社会だ」として、ディスアビリティは社会の変革によって解消可能であり、それはすべての人にとって望ましいと主張される。この種の主張は一見強力なものに見える。なぜなら、ディスアビリティ解消が可能であり、しかもそれがすべての人にとって望ましい結果を生むのなら、それに反対する合理的な理由は何もないからだ【注5】。
 しかし、この種の議論には単純な錯誤がある。それは諸主体の利害の対立という基本的な事実を見落としていることである。[…]

第2節 ディスアビリティ理解の再編・――不利益の意味をめぐって

 本節では、第1章および第2章第1節の検討を受けて、障害者が経験する不利益についての新たな視角を提示する。それは不利益についての認識論の転換を要請するものであると同時に、ディスアビリティ理解を深めるための認識的基礎を準備する作業としても位置付けられる。

1 不利益概念の再定式化

 前節の議論を踏まえて、本書では、不利益についての次のような捉え方を提示したい。

〈不利益とは、ある基準点に照らして主観的・社会的に否定的な評価が与えられるような、特定の社会的状態である〉

 ここで言っているのは、ある社会的状態(α)が評価の際の基準点(P)に照らして否定的に評価される場合、すなわちα>Pという評価【注6】がなされる場合に、不利益が生じているものと把握するということである。ただ、このような表現ではまだ何も言ったことにならないから、以下でその含意について順に説明していこう。
 […]

 ここで注意しておきたいのは、この基準点Pがどのように設定されるのかをめぐって、従来の「社会モデル」理解は欠陥を持っていたということだ。ディスアビリティを「記述的」に特定しようとするアプローチにおいては、基準点Pが現実の社会的過程において生成され、流動化するものであることが看過される傾向にあり、基準点Pは社会的文脈と独立にアプリオリに存在するものであるかのように扱われるか、さもなければ個々の不利益の解消の主張に応じてその都度アドホックに設定可能であるかのように扱われているのである。[…]  さて、こうした理解を踏まえて、α>Pという評価がなされることを不利益の経験として把握する。この評価の主体は、第一義的には社会的状態αの焦点となっている当事者である。すなわち、当事者の主観的評価として「できない」という感覚が生じることを意味するのだ。その際、基本的には「社会的価値」によって要求される社会的活動に当たっての困難経験が問題になるが、それに加えて、あるいはその背後には、準拠枠としての他者との比較において不利を受けているという感覚も含まれる。
 ここで、評価の主体が誰であるかは決定的に重要だ。
 […]
 以上のように、不利益の特定のための評価を可能にするαとPに対して、「社会的価値」、「個体的条件」、「利用可能な社会資源」、「個人的働きかけ」といった諸要素が、互いに関連し合いながら影響を与えており、そうしたダイナミクスの所産として得られるαとPとの間の関係性が問題となるのである。このように考えると、ディスアビリティを構成する不利益は、個人の外部としての社会に内属する障壁に起因するものではなく、個々の主体と社会との間の、あるいは複数の主体間の特定の関係性に関する概念として把握されることになる。そもそも、不利益の原因を個人にとって外在的な社会に内属するものとして捉える見方は、それが批判の的とした「個人モデル」の抱える認識的錯誤と同型の難点を含んでいたのである。本来「個人モデル」から「社会モデル」へというパラダイムシフトの意義は、問題の原因を個別のindividual主体に内属するものとする理解を超克した点にこそあったはずであって、その意味で「社会モデル」とは問題を主体間の相互関係的なsocial文脈に位置付けるものだったはずなのだ【注13】。したがって、本書の採用する立場はある意味で「社会モデル」の理論的枠組みに忠実なものであるとも言えよう。

2 再定式化の意義

 この不利益の読み替えのポイントは、二点に大別できる。第一に、不利益の原因帰属をめぐる二元論的理解を排して、社会的状態を複数の要素間の関係性として把握しようとする点である。[…]
 第二のポイントは、不利益を本来あるべき(あるはずの)「標準」からのマイナス方向への偏差(「制約」、「阻害」等)として把握するのではなく、評価に当たっての基準点そのものが社会的過程において編成されてくることを踏まえた、社会内的な主題として提示しようとする点である。[…]

第3節 更新される不利益

1 労働をめぐる「不利益の更新」 […]

2 「自己決定」をめぐる「不利益の更新」 […]

3 「不利益の更新」のメカニズム

 以上の議論から、特定の不利益の解消を目指すことが、ある意味で不利益を生み出す線引きを書き換え、ある人にとっての不利益の否定的な意味を増幅させるという現象を帰結する、という事態が生じることが分かる。本書ではこれを「不利益の更新」として捉えたい。[…]
 しかし、「社会モデル」的な立場を共有する従来の議論においては、そうした問題を生む構造について自覚的に検討されてこなかった。[…]

第3章 ディスアビリティ理論の再検討U

 前章では、ディスアビリティを構成する不利益を特定の関係性に対する評価として捉え、その上でそうした不利益の理解において「不利益の更新」という現象を生じさせる原理的構造の存在が明確に浮かび上がってくることを確認した。このとき、不利益は更新されつつ常に存在し続けることが前提となるから、ある不利益の解消は、諸不利益の解消をめぐって展開される「不利益をめぐる政治」の中で規範的に争点化されることになる。では、そのような「不利益をめぐる政治」において、特定の不利益の解消を正当化する規範はいかに主張されうるのか、またそうした闘争はいかにして調停されうるのか。本章の課題はこの点にある。

第1節 不利益の規範的特定の試み

 ディスアビリティの解消を目指す主張は、「規範的」であらざるを得ない。そのことは従来の議論においても自覚されていたし、前章の議論においても確認された。では、ディスアビリティ理論はどのような意味で「規範的」であり、従来の理論はどのようにそれを扱ってきたのだろうか。

1 規範的社会理論の役割

 議論に入る前に、「規範」という主題ないし対象をいかに扱うかについて若干説明しておこう。[…]
 まず、ディスアビリティを概念化しようとする本書の議論において、なぜ規範が問題化されるのかについて、改めて論及しておこう。第一に、ディスアビリティ現象の同定という基礎的な課題に取り組むに当たって、規範への言及は不可避である。[…]
 第二に、ディスアビリティの解消という主題に取り組むためには、個々の特定の不利益について、どのような不利益をどのように解消していくのかという戦略に関わる規範的問題が浮上する。[…]

2 「障害者差別」という視角

 では、ディスアビリティに関する従来の議論において、どのような規範が参照点とされてきたのか。次にこのことを見てみよう。ここでは、障害者の置かれた状況を「差別」あるいは「不当」な「排除」と捉える議論を検討し、不当性の判断の根拠となっている規範について確認する。[…]
 結局「不当」な状況を特定するための定義の中に、「平等」、「得られるべき」、「不当な」といった規範的なコンセプトが無前提に用いられているために、この議論も不当性の基準としての規範の提示に成功しているとは言えない。

3 「責任モデル」の射程

 これに対して、障害者差別における不当性の基準を提出しようとする試みもある。遠山は、障害者に対する処遇の正当性を判断しようとする際には、それを「何を解決すべき課題として重視するのか、いかなる状態を望ましいものとするのか」(遠山 2004a: 164)といった「規範レベル」の問題として位置付けることが重要であると主張している。[…]
 「障害があることは本人の責任ではなく、ゆえにそれによって不利を受けることは不当である」といった言い方は日常的にも頻繁になされるし、我々の素朴な感覚に届き易い表現ではある。しかし、こうした「責任モデル」は、ディスアビリティ解消の規範をめぐる理論的枠組みとしては不十分である。
 まず、「責任の有無」を基準にするとすれば、インペアメントの解消可能性がある場合に、それを解消しようとしない「責任」はどのように扱われるのか。[…]
 また、「責任」というコンセプトは、過去への遡及範囲によっては、インペアメントを負うことになった原因についても適用可能である。[…]
 別の角度からは、障害に関してインペアメントを「責任」の領域から除外することが正当であるとして、それならば「資質」と呼ばれるようなその他の生来的な特性や外的環境といった要因についても「責任」の領域から除外することを、理論内在的に要請するのか、という論点も残る。[…]
 さらに、そもそも「責任の有無」によって公的な保障を正当化するような議論が、多くの公共政策を支持するものとして過少または過剰であることについては、因果的関連の起点に権利と責任を付与しようとするこの種のアプローチの問題性を論じた立岩の議論(立岩 1997)においても、既に指摘されている。[…]
第2節 立岩のプロジェクト […]

第3節 ディスアビリティ理解の再編・――不利益の位置をめぐって

 ここまでの議論を通じて、ディスアビリティを構成する個別の不利益について規範的な不当性を確認しようとする試みの意義と限界が確認された。これを受けて本節では、ディスアビリティの同定のための新たな枠組みを用意する。まず、ディスアビリティ概念における不利益の位置付けについての新たな見方を提示する。その上で、「不利益の集中」の形式として、「複合化」および「複層化」という観点から整理する。

1 「不利益の集中」という問題

2 「重度障害」とはどのような現象か――不利益の複合化

杉野 昭博 20070620 『障害学――理論形成と射程』,東京大学出版会,294p. ISBN-10: 4130511270 ISBN-13: 978-4130511278 3990 [amazon][kinokuniya] ※ ds

4章 社会モデルの広がりと再編
イギリス社会モデルの展開

 1 混迷する論争と文脈依存性

 障害学の理論的核心は「障害の社会モデル」と呼ばれる認識枠組みである。この点については,英米の障害学をはじめ世界的なコンセンサスができている。ところが,「社会モデル」とは何かと問うと,たちまち議論は混迷を深めていく傾向にある。社会モデルにはアメリカ版とイギリス版の2種類があるという指摘がある。マイケル・オリバーに代表されるイギリス社会モデルは,障害を制度的障壁としてとらえ,障害問題を「機会と結果の不平等」問題として扱う。これに対しては,主として,インペアメントと障害者個人の経験を無視しているという批判がある。さらに,その批判にも,医療社会学による外在的批判と,フェミニスト障害学による内在的批判という2つがある。つまり,同じような批判でも,一方は,障害学そのものに対する懐疑的な批判だが,他方は障害学もしくは社会モデルの理論的発展をめざした建設的批判である。
 イギリスに対して,アーヴィング・ゾラに代表されるアメリカ社会モデルは,障害を社会の偏見的態度としてとらえ,障害問題を「(結果ではなく)機会の不平等」問題,すなわち「差別」問題として扱う。しかし,アメリカ社会モデルにも,司法的解決(社会モデル)と意識変革(文化モデル)のいずれを重視するか,あるいは,障害アイデンティティを強調すべきか(マイノリティ・モデル),健常者/障害者といった二項対立的カテゴリーの無効性を強調するべきか(普遍性/連続性/多様性モデル)といった点について,やはり内部論争と外在的批判の双方が存在する。
 一方,日本においても,社会モデルをめぐって,さまざまな反応や論争が障害学の内外にある1)。たとえば,「変わるべきは(障害者)個人ではなく社会である」という社会モデルの主張(Oliver 1996a:37)は目新しいものではなく,日本においてもすでに1970年代から言われていることであるという醒めた反応が,障害者運動の内外にある。社会モデルを既知のモデルとみなして,その革新性を否定することは,障害者運動内部においては,日本国内におけるこれまでの運動の正当性や,世界の障害者運動の中における日本の障害者運動の先進性を示唆することになるだろう。一方,リハビリテーションや障害者福祉の専門家や研究者にとっては,社会モデルが既知のものであるならば,個別援助アプローチに対する社会モデルの批判はすでに「解決済み」の問題として斥けることができる。また,障害者と健常者との違いを強調する「差異派=文化モデル」と,両者の同一性と共生を強調する「平等派=社会モデル」といった理論的立場をめぐる議論がある。しかし,この議論も,それが障害者運動内部のものか外部のものかによってその意味は大きく異なる。たとえば,障害当事者が,平等,すなわち,「障害者も健常者も同じである」と主張したとしても,それはけっして「すべて同じだ」と主張しているわけではない。むしろ,健常者と同じようにはできないという前提のもとに,同じようにできるようにしてほしい,あるいは,同じように扱ってほしいというのが平等派の主張である。一方,差異派による「健常者とは違う」という主張にも,その前提として「同じ人間だ」というメタ・メッセージが含まれているのは言うまでもない。にもかかわらず,障害者運動の外部において,ともすれば,障害者だけで暮らしたいのが差異派で,健常者と共生したいのが平等派であるというような極端に単純化された解釈がなされることがある2)。また,差異派・平等派論争は,フェミニズムの分析枠組みを障害問題にあてはめたものだが,生物的差異も文化的差異も含めてあらゆる性差を否定するというポストモダン・フェミニズムによる「基盤主義」foundationalism批判を障害にあてはめて,障害と健常のあらゆる差異を否定するといった議論もなされている(後藤吉彦 2005)。しかし,障害と健常という二項対立的カテゴリーを無効とする主張は,けっして,「反基盤主義」の専売特許ではなく,「基盤主義」に属するはずのリハビリテーション学においても主張されているし,ゾラに代表されるように障害学の内部にもそうした主張は古くから存在する。つまり,障害と健常というカテゴリーの無効性を同じように主張していても,それを誰が何のために主張しているのかという文脈によって,その意味は異なるのである。
 このように,英米においても,日本においても,障害学およびその理論的核心である社会モデルをめぐるあらゆる議論は,その主張の文脈抜きに理解することはできない。主張の内容だけではなく,その発話のポジションが明示されなければ,その意味を正確に受け取ることができないのである。誰が誰に向かって言うかによって,同じメッセージが異なる意味をもつために,議論が混迷するのである。[…]
 このように差別をめぐるあらゆる言説は,政治性を帯びることを免れられない。障害の社会モデルについて何かを語ることは,いやおうなく政治的言説空間に踏み込むことになる。[…]そうしたことに留意しながら,社会モデルがもたらしたもの,それが引き起こした論争,論争を通じての到達点について述べてみたい。

 2 社会モデルの功績

 社会モデルほど,日本において安易に消化され,使い捨てられようとしている障害理論はないだろう。2005年に至るまでゾラの著作もオリバーの著作もいずれも翻訳されていなかったし,その理論を紹介したものもけっして多くはない。にもかかわらず,誰もが社会モデルを知っているような前提で議論がなされている。その理由は,先に述べたように,「変わるべきは障害者ではなく社会である」という主張自体は,すでに日本においても1970年代から主張され始め,1980年代には共生やノーマライゼーション,あるいは「障害個性論」といった理念とともに広く普及していたからである。しかし,これら1980年代以降の「新しい障害者福祉理念」と,障害学の社会モデルとが決定的に異なる点は,それらが援助実践における目標理念にすぎず,その前提となる「障害」とは何かという認識論的課題に踏み込んでいなかった点である。すなわち「障害は個性だ」と主張した障害個性論にしても,ノーマライゼーションにしても,共生論にしても,「障害」を個人のインペアメントとしてとらえており,それを社会の差別や障壁といったディスアビリティとしてはとらえていない。このように,「障害」をインペアメントという個人レベルでとらえるだけで,その社会的次元をとらえなければ,「障害者をありのままで受け入れる」ことの社会的責任が曖昧となり,結果的に受け入れ努力は努力目標に終わってしまう。たしかに,障害者個人の適応努力のみを求めた旧来のリハビリテーションや障害者福祉に比べると,1980年代以降の「新しい障害者福祉理念」は,社会の側の受け入れ努力を謳っている点が「新しい」のかもしれないが,社会的責任の根拠が曖昧で,それを義務づける仕組みが担保されていなければ絵に描いた餅に終わってしまう。結局,「新しい障害者福祉理念」は,障害者が苦労しているのは社会のせいであり,悪いのは社会なのだということをはっきりと明言できなかったのであり,そこにこそ限界があった。これに対して,イギリス障害学の社会モデルは,「障害」をインペアメントという個人的次元とディスアビリティという社会的次元に切り離すことによって,社会的責任の範囲を明示した点にその真価がある。
 「障害」をインペアメントとディスアビリティという2つの次元に分けて考えて,社会的に形成されるディスアビリティについて社会的責任を追及していくというイギリス障害学の社会モデルの考え方は,もともと1970年代に「隔離に反対する身体障害者連盟」Union of the Physically Impaired Against Segregation (UPIAS)3)によって採用された障害の定義を基盤として発展したものである。その意味でイギリスの社会モデルは,障害者運動実践のなかで形成された概念であり,その主旨は,障害者個人に問題の責任を帰するのではなく,障害がもたらすさまざまな問題を社会の問題として社会的解決を模索する方向に,障害者の意識と健常者社会全体の意識を転換させていくことだった。

 […上に引用…]

 このように,障害問題の原因を障害者個人ではなく社会に求めていくことは,1970年代における障害者運動の特徴であり,それはイギリスだけでなく,日本でもアメリカでも,同様の主張を見つけることができる5)。
 ところで,障害の社会的責任を一方的に追及することは行き過ぎではないかという批判や,障害概念を二元論的に分解することは本来一体的なものを無理やりに分解しているといった批判が障害学の内外にある。しかし,これらの批判に対しては,以下のように答えることができる。まず,学術研究上の議論としては,障害概念を個人的次元と社会的次元に分割することには何ら問題はない。それを障害の社会的次元をとらえるための方法論上の操作的定義と考えれば,そのような概念操作はどのような学問分野でも広くおこなわれていることである。つまり,障害の社会的側面をとくに研究したい場合は,インペアメントに関するデータを捨象してディスアビリティに関するデータのみに注目するという研究方法は妥当なものである6)。一方,障害者運動や障害学内部における社会モデル批判は,障害学外部からの批判よりも複雑な問題を孕んでいる。障害者自身の「実感」として,インペアメントとディスアビリティは不可分のものであるという主張は,多くの障害者にとって説得力のあるものだった。しかし,そうしたことは承知の上で,一部の障害当事者たちは「社会が悪い」とこれまで主張してきたのである。なぜならば,障害者を受け入れない社会が悪いのだと声を大にして主張しないと,障害者自身の自殺や,障害胎児の選択的妊娠中絶や,障害児家族の無理心中を止めることはできないからである。
 私たちの社会は障害者が堂々と生きられる社会ではない。障害者も含めて一般の人々の多くは,障害をもった本人や,障害児を産んだ親が不運なのだと考えていて,障害者に仕事を与えない社会や企業が悪いとは考えていない。また,障害は個人の不幸や不運(個人モデル)なのだから,他人にその負担を背負ってもらうのはお門違いだと考えて,多くの障害児の親は子どもの面倒を自分だけで抱え込もうとする。しかし,もしも私たちがそうした親の姿勢を認めてしまえば,親が障害のある自分の子を殺すことは止められない。親に対してその子どもの障害は社会の負担なのだと説得できなければ,障害児殺しは止められないのである。そこに,障害原因を徹底的に社会に帰属させていく概念モデルの政治的重要性がある。障害の社会的責任を曖昧にしたままの「新しい障害者福祉」理念では,家族による障害児殺しは食い止められない。必要なのは,ノーマライゼーションや共生を謳うことではなく,はっきりと「あんたは悪くない,社会が悪いんや」と言明することなのである。そのためには,「障害」概念を個人と社会,インペアメントとディスアビリティとに二元的に分解することがどうしても必要になる。

 3 オリバー障害理論の真価――労働の近代化と障害 […]

 4 オリバー後の社会モデル論争――内在的批判と外在的批判

 オリバーの障害労働排除理論が正当に受けとめられなかったことにより,新しい研究領域が発展しなかったことは残念なことだし,その原因の一端は『無力化の政治』以降の社会モデル論争によるオリバー批判によってオリバー理論の真の強みがかき消されてしまったことにある。とはいうものの,社会モデル論争におけるオリバー批判が場違いなものだったわけではないし,その論点自体は障害学にとって見過ごせない重要な問題を孕んでいた。オリバー批判の論点は,オリバーの社会モデルが,インペアメントと,障害当事者個人の経験,とくに身体性に関わる経験をその射程に含んでいないという点である。したがって,社会モデルはインペアメントのある身体をどのようにとらえるのか,身体に関しては医学モデルによる解釈を是とするのか,そうでなければ身体は社会モデルにおいてどのように解釈されるのかといったことが論争の的になった。なぜ,これらの反問が,障害学にとって重要な論争点になるのかという点をまず確認しておこう。[…]

 5 社会モデルの拡張作業――インペアメントの社会学

 1990年代のイギリス障害学にとって,医療社会学など既存の障害研究からの批判については無視することもできたが,女性障害者からの批判については真摯に受けとめて,これを社会モデルに包摂することが不可欠だった。オリバー社会モデルに対する女性障害者たちの違和感の根本にあったのは,労働における障害の排除を重視する視点が,労働市場における稼得能力に社会的地位の源泉を見出す男性中心主義のように映るからである。これは,先述したように,経済要因を重視する反ウェーバー主義的な研究視点によるものであって,そこにオリバー自身のジェンダー・バイアスを見ようとするのはやや穿った見方のように思える。また,オリバーは,経済要因とともに,医療化や個人主義などのイデオロギー要因も重視しているし,まして,雇用差別がなくなれば障害問題が解決するなどとは主張していない。にもかかわらず,実際の障害者運動や障害者政策において,雇用機会の平等が優先されることには,女性障害者のほかにも,多くの障害者が不安を感じていたようだ13)。
 こうした女性障害者たちの批判に対して最初に反応したのはトム・シェイクスピア(Shakespeare 1994)である。彼は,フェミニスト障害学によるオリバー批判を真摯に受けとめた上で,とくにジェニー・モリスが指摘した障害者に対する偏見的イメージの問題について考察している。シェイクスピアはこの論文の冒頭でまず,「オリバーは方法論的個人主義や心理学主義を明確に拒絶して,社会構造に焦点を当てる‘唯物論’的アプローチを取った」が,一方で,それによって,インペアメントと文化や表象や意味などの問題が軽視されることになったと述べて,フェミニスト障害学に同意する(ibid.:283)。しかしまた,インペアメントの文化的表象は,社会的に意味づけられるものであって,障害イメージの問題を取り上げたからといって,必ずしもインペアメントを重視することにはならないし,まして生物学的還元主義に陥るものでもないと主張する。そして彼は,障害者に対する偏見的イメージが社会的な記号として,あるいは,社会的価値のメタファーとして用いられることを示した上で,障害イメージの社会分析に必要な理論モデルについて検討している。そのなかで彼は,オリバーもイデオロギーという概念によって社会の支配的価値をとらえようとはしているが,その経済決定論によって,文化や意味の分析に充分な力点が置かれていないと述べている。そして,「経済的諸関係を考察することは非常に重要」ではあるが,「すべてを経済的要因によって説明するのは誤り」であると述べる(Shakespeare 1994:289)。この言明は,オリバーの経済決定論に対して一定の留保を示すものであり,イギリスの社会モデル理論の展開を考える時,きわめて画期的な論述といえるだろう。さらにシェイクスピアは,1997年のワトソンとの共著論文においても,社会モデルは唯物論的世界観によって統一した見解を取るべきだというヴィク・フィンケルシュタインら主流派の意見に対して,多元主義を支持して,フェミニズムやポストモダン理論の描く世界観のなかでも障害の社会モデルを保持できるし,そうあることが望ましいと主張している(Shakespeare and Watson 1997:299)。
 このように,フェミニスト障害学によるオリバー社会モデル批判は,オリバーの経済要因還元主義を放棄するという反応をもたらした。[…]オリバーやフィンケルシュタインによる初期のイギリス社会モデルが有していた過度の経済決定論を見直させた点が,フェミニスト障害学による第1の功績と言えるだろう。
 フェミニスト障害学がイギリス社会モデルにもたらした第2の功績は,インペアメントや障害の個人的体験を「社会的抑圧」としてとらえる視点を提供したことである。[…]

 6 社会モデルの再編成――唯物論的モデルと観念論的モデル

 社会モデルの自己規定は,障害学の自己規定と同じである。イギリスにおいては,障害学はオリバーの経済決定論的社会モデルを自己規定として出発している。その意味で,社会モデルは障害学の「踏み絵」になっていると言ってよいだろう。一方,アメリカでは,社会モデルを踏み絵として障害学が成立したわけではないが,「障害学」という旗印のもとに集まった諸研究が,障害に与える社会環境要因を重視する「社会モデル」的なアプローチを共有していたという意味で,やはり障害学のアイデンティティであることには違いない。ただ,アメリカの社会モデルはイギリスよりも幅が広いだけである。英米ともに,社会モデルと個人モデルとの区別は,障害学と「障害学ではないもの」との区別になっている。したがって,それは障害学の学としての存立を握っていると言ってよい。社会モデルと個人モデルとの区別が曖昧になれば,障害学と既存のさまざまな障害研究との区別がつきにくくなる。そういう意味では,個人モデルと社会モデルの区別は,障害学にとっての「生命線」にもなっている。
 個人に内在する身体のインペアメントと,外在する社会のディスアビリティとを区別するオリバーの障害理論は,個人モデルと社会モデルをわかりやすく区別したものであり,「障害学」の定義もわかりやすいものだった。しかし,そのわかりやすさは,同時に,障害者自身の「障害」の実感を犠牲にして成立したものであることは否めなかった。学としての障害学が,インペアメントや障害者個人を捨象して,社会的障壁だけを研究対象として自己規定することは,それ自体,方法論的にはありえる選択である。しかし,それでは当事者視点を謳ったはずの障害学から当事者の姿が消えてしまうことになる。とはいうものの,身体と個人は障害学にとって危険な誘惑でもある。社会モデルの個人への拡張は,個人モデルの社会への拡張と重なり合い,国際生活機能分類ICFの「生物-心理-社会モデル」のような統合モデルに吸収されるのではないかという危惧を誰しもが感じるだろう。
 この隘路から障害学を救い出してくれるのは,アーヴィング・ゾラの障害研究だと思う。[…]

 7 「個人的経験」の社会性

Shakespeare, Tome 2010 "The Social Model of Disability", Davis ed.[2010:266-273]*
*Davis, Lennard J. ed. 2010 The Disability Studies Reader, Third Edition, Routledge, 672p. ISBN-10: 0415873762 ISBN-13: 978-0415873765 [amazon][kinokuniya] ※ ds.

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UP:20100707 REV:20100708, 12, 13, 0813, 0905, 20120509, 20161005, 20170717
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