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個人モデル(individual model)

社会モデル 個人モデルkorean page

last update:20100707


◆Barnes, Colin; Mercer, Geoffrey; Shakespeare, Tom 1999 Exploring Disability : A Sociological Introduction, Polity Press [amazon][kinokuniya]=20040331 杉野 昭博松波 めぐみ山下 幸子 訳,『ディスアビリティ・スタディーズ――イギリス障害学概論』,明石書店,349p. ISBN:4-7503-1882-5 3800+ [amazon][kinokuniya] ※

第2章 ディスアビリティの理解
4. 二つのモデル
 本節では、より詳細に、支配的な障害の個人モデルを探求する。そして個人モデルと、もともとは障害者活動家の小さな集団から進められていった障害の社会モデルとを対比する。この社会モデルは、社会学的パースペクティブからの着想を直接的には採用していないが、社会学的想像力に基づく批判的アプローチを援用している。

障害の個人モデル

 20世紀の初めまでに、医学的知識によって障害の診断や解決策を考えるといった障害の個人アプローチが確立されてきた。その焦点は、身体的な“異常”、不調または欠陥、“障害”あるいは機能的制約の“原因”を探求することである。例えば、四肢麻痺の人々は腕を動かすことができないために、自分で身体を洗ったり、服を着ることができない。しかしこの機能的な“能力不足”が拡大解釈されて、個人を“傷病者”として分類する根拠として用いられるのである。いったんそのように分類されてしまうと、“障害”がその人を特徴づける個性となり、その人の能力不足はすべて障害のせいにされてしまう。このことは“個人的悲劇”アプローチの基礎となる。つまり、個人は犠牲者と考えられ、“介護や配慮”を必要とし、他者に依存するものとみなされる。こうした見方は、障害者が“自分の障害”と折り合いをつけるよう支援することを目的とする、現代の社会福祉施策の基本理念となっているのである(Oliver, 1983, 1990; Finkelstein, 1993a)。
 保健医療や心理や教育関係の専門家たちが障害に関わることが増えるに伴い、治療やリハビリテーションといった医学的介入が障害の対処法として推奨されるようになった。インペアメントがあることは専門家の関心の対象となる。このような“専門家”は個人のニーズを定義し、どのようにこれらのニーズを満たしていくかということを定義する。ねらいは、個人の“障害”がもたらす困難を克服すること、あるいはそれを最小限にすることである。こうして障害者の“特別なニーズ”や“個人的な困難”に対処するために、さまざまな“専門家”たちによってあらゆる施策が導入されていくが、それらの施策の根底には常にリハビリテーションの理念が置かれていた。
 ところで、医学的関心の中心は身体的または知的な“異常”を診断し適切な治療について助言することだが、行政的・政策的関心は個人の“障害”を福祉給付やサービス給付のための特定のニーズに変えることにある(Albrecht, 1976)。イギリスにおいては、このような行政的・政策的関心によって、“障害”の最も適切な定義や測定についての議論がおこなわれている。
 当初、イギリスでは個人の“異常または損失”によって能力不足のレベルが判定されていた。例えば、1960年代のイギリスの国民保険給付規則では、3本の指の欠損、くるぶし以下の片足の切断、片目の失明はそれぞれ30%の障害とされており、すべての指の欠損あるいは膝下からの片足の切断は50%の障害と判定されていた(Sainsbury, 1973: 26-7)。このような機械的なアプローチは、いまだに重度障害者手当の査定において採用されているが、政策立案者や研究者から批判されることが多くなっている。また、“障害”の定義が拡大する傾向もあり、以下のような慢性疾患も障害に含められるようになった。
腕や足の欠損、または“盲またはろうまたは麻痺”のような、「解剖学・生理学上の、あるいは心理学上の異常、または喪失」および、関節炎やてんかんや精神分裂病のような、生理的あるいは心理的作用を妨げるような慢性疾患(Townsend, 1979: 686-7)
 さらに、身体能力の定義についても変化がみられ、基本的な日常生活動作を遂行する能力があるかどうかという点から、身体的な能力不足が定義されるようになった。この日常生活動作における能力判定を基盤として障害を測定する考え方は、イギリスの国勢調査局Office of Population Censuses and Surveys(OPCS)(1997年に国民統計局Office for National Statisticsに改名)によって、1968年から1969年(Harris et al., 1971)に、そして1980年代(Martin et al., 1988)におこなわれた“障害”についての調査で用いられた。
 こうした障害の定義や測定についての議論の焦点は、個々の障害者のサービス・ニーズを最も適切に示す因子をいかにして測定するかという技術的問題にあった。例えば、どのような測定項目を入れるべきか、すべての測定項目に同一の重みづけをすべきかどうか、また時間の経過や状況によって障害が変化する場合も給付をおこなうべきか、またすべての社会階層に給付すべきかといったことが議論されたのである(Sainsbury, 1973; Townsend, 1979)。
 こうして活動制約を測定する項目は、洗面やトイレのような直接的な身辺ケアから、その他の“日常生活”動作全般をも含めるまでに広がっている(Charlton et al., 1983)。同様の障害測定の指標は、知的障害や精神障害についてもつくられており、例えば精神科臨床一覧Psychiatric Status Schedule(Hertz et al., 1977)などがある。
 ところで、世界保健機構(WHO)が国際疾病分類International Classification of Disease(ICD)(WHO, 1976)の補足として、疾病がもたらす帰結についても分類しようと決めたことにより、障害の定義や測定をめぐる議論はさらに大きな関心を呼ぶことになった。こうしてさまざまな議論を経て1981年に国際障害分類International Classification of Impairments, Disabilities and Handicaps(ICIDH)が導入され、そのなかでインペアメント、ディスアビリティ、ハンディキャップという障害の三区分が用いられた。ICIDHの解説書(WHO, 1980)では、これらの概念を次のように定義した。

・インペアメント
「心理学的、生理学的または解剖学的な構造または機能の何らかの喪失または異常」(p.27)
・ディスアビリティ
「人間にとって通常と考えられている方法または範囲で活動する能力の、(インペアメントの結果起こった)何らかの制約または欠如」(p.28)
・ハンディキャップ
「インペアメントまたはディスアビリティの結果、個人に生じた不利のことであり、その個人にとっての役割(年齢、性、社会的・文化的要因に拠る)の遂行を制約し、または妨げるもの」(p.29)

 簡潔に述べると、“インペアメント”は、“適切”に機能しない身体の部分や組織のことであり、“ディスアビリティ”は日常生活で最も基本的な動作ができないということに集約される。このWHOの図式において最も目新しいのは、“ハンディキャップ”についての説明である。これは疾病の“帰結”を社会的役割の遂行の困難性にまで広げたものであり、そのうえ社会的役割は社会集団や文化の文脈によって変化するということを認めているものである。この無力化disablementの過程は、相互に連関しながらも独立している三つの局面によってあらわされる(WHO, 1980: 30)。(下図を参照。)

 このICIDHのアプローチと、以下に示す1985年と1988年におこなわれたOPCSによる障害についての調査とは密接な調和関係にある。OPCSの調査では、機能的制約の主要な範囲として次のようなものを挙げている。

・四肢の伸縮力^t・手先の器用さ^t・視覚^t^t・聴覚
・身辺ケア^t・自制^t^t・コミュニケーション
・運動^t^t・ふるまい^t^t・知的機能

 OPCSの調査で用いられた“障害”の程度に関する10段階の測定は、以上の活動項目によって測定されている。このように個人の機能的制約を重視する見方は、国際的にも普及している。1990年の「障害をもつアメリカ人法」Americans with Disabilities Actでも、障害を、「主要な生活動作の一部あるいは多くを実質的に制約するインペアメント」として定義しており、ここでも“通常”の機能というものが基準として用いられている。
 OPCSの調査では、“施設”や自宅で生活している障害児者をサンプルとしている。また、以前の調査(Harris et al., 1971)とは異なり、1980年代の調査では、“精神障害や知的障害”のある人々、および軽度障害者を含むように改訂されている(Martin et al., 1988)。表2−1で示されているように、イギリスでは620万人の成人障害者がいると推定されていた。これらの障害者の大部分が60歳を超えており、男性より女性の方が多かった。加齢はまた“障害の重度化”にも密接に関連していた。障害者人口のほぼ3分の1は、10段階の重度尺度(10が最重度)の1と2に位置していた。
 ICIDHやOPCSによる障害の定義や測定は、かなり重大な議論を引き起こしている。第一にこのアプローチは、主として医学的定義や、“正常”についての生物生理学的定義に拠っているということである。また、たとえそのような定義を認めたとしても、境界線の認定の問題が残る。例えば、血圧または体重や体形は、どこまでが“正常”でどこからが“病理”なのだろうか。実際に、例えば視覚または聴覚のインペアメントに対する見方や社会の対応は、機械的なものではなく状況によって、そして社会によって変わる。眼鏡は視覚にインペアメントのある多くの人々にとって、必要な補助具である。しかし、少なくとも欧米社会では、眼鏡は非常に“一般化”されているので、眼鏡の着用は障害者のしるしとしてみなされることはない。同様に、現代における“フィットネス”や“運動能力”に対する強い関心も、“正常”または“健常”とは何かということを決めるのは、文化的に生成された基準であることを示している。したがって、ICIDHのハンディキャップの定義にもあるように、“正常”の概念は、ひどく健常者の想定や偏見――とりわけ障害者はすべて健常者のように“正常”になるよう努めるべきであるというもの――に影響されている。こうして医学的治療の飛躍的発達こそが、その他のあらゆる社会的対処法に優先して、障害者の救済者とされ、“障害”の医学的治療が追求されることになる。
 第二に、ICIDHの図式やOPCSの研究の双方においては、“インペアメント”は“ディスアビリティ”や“ハンディキャップ”の原因として認定されるということが挙げられる。それゆえ、“ディスアビリティ”や社会的不利に打ち勝つ方法は、適切な医療や、それに関連したリハビリテーションの介入によることになる。対照的に、環境は“中立的”なものとしてあらわされる。つまりインペアメントのある人々が経験するあらゆる困難は、環境上のディスエイブリングな(障害者を無力化する)障壁としてではなく、不可避のもの、あるいは受け入れざるをえないものとしてみなされる。したがって、社会環境を人間によって変える可能性は無視されている。
 インペアメントを、ディスアビリティやハンディキャップの“原因”としてみなすことによって、医療やセラピーは最も重要な位置に立つ。しかし別の観点から考えると、障害者施策を改革するために法改正をしたり、障害者に完全な市民権を保障するための法改正をすることの方がより適切だとも言える。個人モデルにおいては、障害は医学的問題として定義されるばかりでなく、それによって障害への対処法が限定され、結果として障害者の人生を大勢の専門家たちが支配することになるのである。
 第三に、個人モデルはインペアメントがあると認定された人々を依存的な立場におくことが挙げられる。彼らはまず医療に依存させられることによって、治療や社会的支援を提供する専門家やその他の人々に依存させられることになる。専門家は障害者のニーズというものを十把一からげに定義して、障害者一人一人の事情にはほとんど耳を傾けない。
 個人モデルでは、障害者を総じて自力で活動できない者、つまり自ら働きかける者というよりもむしろ他者によって働きかけられる者として仮定している。障害者は他者の“世話”や慈善に頼るほかない存在とみなされる。障害者の状況に対するあらゆる介入は、政策立案者やサービス提供者次第であると考えられている。そのようななかで、障害者は個人で“障害”に適応し、順応するよう勧められる。障害者の不利益は社会的な問題ではなく、個人的な問題として認識される。個人モデルはさらに、専門的な知識がない素人のクライエントが専門家に従うことを仮定しており、権力の格差の存在や、クライエントと専門家の利害が一致しない可能性を無視している。個人モデルにおいて、障害者は自己主張できない者としてみなされ、まるで子どものように扱われているのである。
 第四に個人モデルでは、障害者は、個人がそれぞれの障害に適応するためのさまざまな工夫を用いることによって、自分たちの状況のなかで最善の努力をすることが期待されている。このように自らの状況に対して従順に適応することは、障害者にとっては単に意識の問題ではなく具体的な経験なのである。例えば個人モデルでは、“障害”は個人のアイデンティティにとって優勢なものとなり、“非現実的”な望みや野心を抑制するものだと考えられている。インペアメントがあると認知された人々は、“正常”ではない者として、そしてある意味で“欠陥”のある者として定義されることを受け入れてしまうのである。先天性の障害であろうと後天性の障害であろうと、誰もが伝統的な障害者としての役割やアイデンティティを身につけるように社会化され、自らの“個人的悲劇”への適応を促進するための専門家による指導に従うことが期待されている。これは障害に対する心理学的アプローチの典型的な特徴であり、保健や社会福祉の専門家によって提供される“援助”に大きな影響を与えている。
 このような個人モデル・アプローチは、人間の感情的・心理的な幸福にインペアメントが与える影響を探求する心理学研究でよく用いられる。例えばウェラーとミラーは、人が重度の脊髄損傷に適応していく過程を通して、個人の適応についての四段階を論じている(Weller & Miller, 1977)。ショックと恐怖という最初の反応は、回復の可能性に関する否認と絶望へと続き、そして怒りへと続き、最終的には障害によって制約された状況をあきらめて受容するための前段階としての憂鬱へと続く。それゆえ、五番目の段階を仮定するなら、“受容”または“順応”と名づけられるだろうし、それは一年後あるいは二年後でないと、その段階には行き着かないだろう。同様に重要なことは、このように定められた段階から外れた人々――憂鬱ではない人あるいは否認の状態にない人――は、異常だとみなされ、心理的指導が必要だとみなされる危険があるということである(J.Oliver, 1995)。また、障害による“喪失の心理的コンプレックス”に伴う悲嘆のプロセスを切り抜けるための援助の必要性は、よく強調される。しかし、障害者の悲嘆を和らげようとするなかで、障害者がよりよく“対処”したり自立することを支援するうえで重要な障害者施策などの社会的・物質的要因は無視されている。
 特に、障害者から批判が多かったICIDHは、現在、2000年の最終発表に向けて改訂作業中であり、フィールド・テストがおこなわれている。改訂案の“ICIDH−2”は、いわゆる“生物・心理・社会的”モデルを採用している。そのモデルは障害に対する医学的アプローチと社会的アプローチを統合しようとしている。“心身機能・構造”、“活動の制約”、“参加の制限”と分けることによって、社会的・環境的障壁が障害の主な要因となる領域から、医学的介入の対象となる障害の局面を区別する枠組みを確立しようと試みている。しかしICIDH−2は、たとえ障害が“正常”の反対というよりむしろ、人間の状態の本質的な部分として改訂されたとしても、依然として健康状態の帰結についての分類のままである。そのような分類システムに異議を唱える声はやみそうにない2)。
 要約すると、個人モデルの中心的な特徴は、障害を個人的な悲運とみなし、当人は他人の助けに依存せざるをえないと考える点である。「つまり、医学的観点からみれば、障害とは病理であり、福祉の観点からみれば、障害とは社会問題なのである」(Oliver, 1996b: 30)。」

障害の社会モデルに向けて

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