HOME >

和田心臓移植事件



■関連HP



和田寿郎 Wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/和田寿郎


和田心臓移植事件 Wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/和田心臓移植事件


和田心臓移植「事件」 (昭和大学教員)
 http://wwwedu.showa-u.ac.jp/~noushi/c_ethics/wada.html


和田心臓移植事件に対する日弁連の警告
 http://fps01.plala.or.jp/~brainx/wada_case.htm



■文献



◆和田寿郎・池田敏夫・田代豊一・富田房芳・須田儀夫, 19610515, 「北海道における心臓大血管外科の発達と将来の課題 : 第25回日本循環器学会総会」『Japanese Circulation Journal』25(5):543.
◆和田寿郎, 1964, 『心臓疾患の診断と治療』金原出版. 199p ASIN: B000JAF44S 〔amazon〕
◆和田寿郎, 196810, 「心臓移植に挑戦して」『文芸春秋』46(10):242-252.
◆北海タイムス社, 196810, 『心臓移植――和田グループの記録』誠文堂新光社. 231p ASIN: B000JA4P6Q 〔amazon〕
◆和田寿郎 ほか, 1968, 「心臓手術の臨床」『日本医事新報』No.2325(11月16日号):3-6.
◆徹尾純, 196812, 「和田寿郎=宮崎君の死の意味するもの(特集・1968年を動かした人々)」『潮』(通号 103):124-129.
◆和田寿郎, 1968, 『ゆるぎなき生命の塔を――信夫君の勇気の遺産を継ぐ』青河書房. 254p ASIN: B000JA0XU8 〔amazon〕
岡本 正 196909 「心臓移植とジャーナリズム」『新聞通信調査会報』所載.
◆吉村昭, 1969, 『神々の沈黙――心臓移植を追って』朝日新聞社. 358p ASIN: B000J95PA2 〔amazon〕
 →吉村昭, 198412, 『神々の沈黙――心臓移植を追って (文春文庫 169‐9)』文芸春秋. 322p ISBN-10: 4167169096 ISBN-13: 978-4167169091 〔amazon〕
◆上戸敏男・藤堂景茂・近沢良・長谷川恒彦・富田房芳・和田寿郎, 19700920, 「提供心の保存に関する研究 (第21回 日本循環器学会北海道地方会)」『Japanese Circulation Journal』34(6):570.
◆尾畑曙生, 197010, 「和田・心臓移植が投げかけたもの(現代の視角 社会)」『月刊社会党』(通号 164):151-153.
◆渡辺淳一, 197010, 「心臓移植・和田外科の内幕」『文芸春秋』48(11):120-130.
◆和田心臓移植を告発する会, 1970, 『和田心臓移植を告発する――医学の進歩と病者の人権』保健同人社. 287p ASIN: B000JA008I 〔amazon〕
◆武田熈, 197109, 「和田心臓移植の実体と責任 (医療と人権(特集)) ―― (第2分科会 心臓移植と人権)」『自由と正義』22(9):77-81.
◆吉村昭, 1971, 『消えた鼓動――心臓移植を追って』筑摩書房. 254p ASIN: B000J93YIM 〔amazon〕
 →吉村昭, 198606, 『消えた鼓動――心臓移植を追って (ちくま文庫)』筑摩書房. 263p ISBN-10: 4480020578 ISBN-13: 978-4480020574 〔amazon〕
 →吉村昭, 199804, 『消えた鼓動 (ちくま文庫)』筑摩書房. 274p ISBN-10: 4480034013 ISBN-13: 978-4480034014 〔amazon〕
◆石垣純二, 197207, 「和田心臓移植は二重殺人である」『中央公論』87(7):209-218.
◆上石一男, 1974, 『心臓移植は人体実験か――和田心臓移植の課題』全国医療問題懇談会. 303p ASIN: B000J9ZZA2 〔amazon〕
◆渡辺淳一, 197601, 『白い宴 (角川文庫 緑 307ー4)』角川書店. 258p ISBN-10: 404130704X ISBN-13: 978-4041307045 〔amazon〕
◆和田寿郎, 197705, 「北海道における胸部外科のあゆみ(巻頭言)」『北海道外科雑誌』22(1):1-2.
◆大熊房太郎, 197912, 「心臓移植和田寿郎が火をつけた「医の倫理」 (70年代を創った34人)」『文芸春秋』57(13):115-116.
◆渡辺淳一, 198009, 『富士に射つ.小説心臓移植(渡辺淳一作品集第2巻)』文芸春秋. 309p ASIN: B000J84T8C 〔amazon〕
和田努, 198405, 「大学の全国有名病院支配図〔首都圏・東日本編〕(医大植民地・もうひとつの腐蝕構造〔4〕)」『宝石』12(5):180-91.
◆後藤正治, 198408, 「日本でもいますぐ心臓移植はできるんや?(医療最前線・緊急ドキュメント)」『宝石』12(8):130-47.
和田努, 19841214, 「厚生省基準をめぐる医学界、法曹界論争の問題点――日本人は『脳死』をいかに考えるべきか(問題提起)」『週刊ポスト』16(49):234-7.
阿部知子, 19850301, 「患者の人権を切り捨てた筑波大の臓器移植手術(News Interface 医療)」『朝日ジャーナル』27(8):22-4.
◆和田寿郎・三輪和雄, 198505, 「臓器移植/人工臓器時代の生と死――脳死か心臓死か」『潮』(通号 313):84-95.
立花隆, 198511, 「脳死(大型ノンフィクション)」『中央公論』100(12):464-98.
◆徳丸壮也, 198607, 「心臓移植が「再開」される日――「循環器の最高峰」を支える阪大医学部第一外科「人脈」(特集・いま「大阪」が面白い)」『プレジデント』24(7):276-87.
◆19870327, 「「二例目の心臓移植をやるときは、喜んで助手をする」。定年退任する和田寿郎教授の自負。(グラビア)」『週刊朝日』92(13):
◆19870418, 「あの和田寿郎名誉教授も"再挑戦宣言"19年ぶり「心臓移植」はこの病院と名医がいどむ」『週刊現代』29(16):183-5.
◆和田寿郎, 198706, 「脳死問題の是非を問う――今こそ明かすわが心臓移植手術の真実」『現代』21(6):128-142.
米本昌平, 198802, 「科学者をめぐる事件ノート-14-和田寿郎――心臓移植事件」『科学朝日』48(2):99-103.
◆和田寿郎・三輪和雄, 198804, 「心臓移植 私の立場――激白3時間・臓器移植の明日」『潮』(通号 348):92-113.
◆19880714, 「特集・フィリピンで「腎臓」を買った日本人と売った男」『週刊新潮』33(28):38-41.
大熊由紀子・工藤宜, 19880830, 「初めから疑念はあったが、逆らえぬ礼賛の空気――日本初の心臓移植 1968年8月(時代の私)(インタビュー)」『AERA』1(15):70.
和田努, 198809, 「海外渡航臓器移植はこれでいいのか(ルポ)」『婦人公論』73(10):300-7.
◆早瀬圭一, 19890101, 「日本初の心臓移植から二十年、和田寿郎(人物一品料理〔98〕)」『サンデー毎日』68(1):137.
◆19890209, 「「和田心臓移植」功罪の彼岸(ワイド特集・昭和史あらしの果て)」『週刊新潮』34(6):132-4.
◆和田寿郎, 198904, 「一外科医のあゆみ50年〔2〕」『バンガード』10(4):20-23.
◆和田寿郎, 198905, 「一外科医のあゆみ50年〔3〕」『バンガード』10(5):42-46.
◆19890518, 「和田「心臓移植」囃し方の乱調子(昭和の真相〔9〕)」『週刊新潮』34(19):46-50.
◆和田寿郎, 198906, 「一外科医のあゆみ50年〔4〕」『バンガード』10(6):38-42.
森岡恭彦加賀乙彦, 198907, 「脳死の"基準"とは何か(対談)(脳死を考える〔1〕)」『世界』529:172-187.
◆和田寿郎, 198907, 「一外科医のあゆみ50年〔5〕」『バンガード』10(7):37-41.
◆岩崎洋治・加賀乙彦, 198909, 「「合わせ鏡の接点で」(対談)(脳死を考える〔3〕)」『世界』532:315-331.
◆19891007, 「心臓移植再開に適した施設、病院の「選定作業」大詰めへ(TREND)」『週刊時事』31(38):16-17.
◆太田 和夫, 198911, 『臓器移植はなぜ必要か』講談社.
◆曲直部寿夫・加賀乙彦, 198912, 「心臓移植の虚と実(対談)(脳死を考える〔5〕)」『世界』535:241-255.
◆和田寿郎, 198912, 「一外科医のあゆみ50年〔9〕」『バンガード』10(12):36-42.
◆和田寿郎, 199001, 「1外科医のあゆみ50年〔11〕」『バンガード』11(1):44-48.
◆柴田鉄治, 199001, 「心臓移植〔1〕暴走(コラム「科学と報道」〔13〕)」『科学朝日』50(1):116-117.
◆柴田鉄治, 199002, 「心臓移植〔2〕先陣争い(コラム「科学と報道」〔14〕)」『科学朝日』50(2):116-117.
◆斎藤竜太, 199002, 「検証・西日本臓器移植ネットワークシステム――本誌昨年9月号、真弓・井形文書への反論」『技術と人間』19(2):80-90.
◆和田寿郎, 199003, 「1外科医のあゆみ50年〔13〕」『バンガード』11(3):56-61.
◆和田寿郎, 199004, 「一外科医のあゆみ50年〔14〕」『バンガード』11(4)58-64.
◆和田寿郎, 199005, 「一外科医のあゆみ50年〔15〕」『バンガード』11(5)56-63.
◆小柳仁・渡辺淳一, 199008, 「生体肝移植より脳死容認を!「心臓移植をわが手で」――小柳仁(東京女子医大教授)(対談)(渡辺淳一のにんげん透視図〔32〕)」『現代』24(8):222-231.
加賀乙彦, 199008, 「脳死と臓器移植――連載対談「脳死を考える」を終えて」『世界』544:189-200.
和田努, 199010, 「生体肝移植に異議あり!――海外手術に"外圧"、世界の趨勢から逆行(秒読み、臓器移植の光と影)」『宝石』18(10):164-171.
中山研一, 19910420, 「社会的合意の形成とその条件」『生命倫理』1:88-95.
◆19910502・09, 「23年目に和田「心臓移植」の証言(ワイド特集・風の中の実像)」『週刊新潮』36(17):159-161.
芹沢俊介, 19910504・11, 「和田心臓移植への疑惑はいまも徹底した議論が必要だ――23年目に明らかとなった"大動脈弁すり替え"(ずばり一言)」『週刊時事』33(17):54-55.
◆後藤正治, 199112, 「心臓移植の封印者「和田寿郎」かくて沈黙す(魅惑の人生、苦難の人生、私の心を動かし彼らは走り抜けた 激動の25年史――「時代の証言者たち」の軌跡 講談社ノンフィクション賞作家「競作評伝」)」『現代』25(13):254-257.
太田和夫・西岡芳樹, 199203, 「臓器移植にGOサインは出たか――推進派V.S.慎重派激突対談(特集・日本人と脳死)」『月刊Asahi』4(3):26-33.
三輪和雄, 199203, 「脳死神話を剥ぐ――かつて医師たちは停まった心臓を移植していた」『諸君!』24(3):82-96.
宮野彬, 199204, 「脳死と日本の社会――求められる「開かれた医療」(脳死論議のなかで)」『公明』363:140-147.
◆和田寿郎・三輪和雄, 199206, 「心臓移植問題も,湾岸戦争への態度もこの国の出来事は全て繋がっている!――民主主義という名の怯懦」『諸君』24(6):62-73.
◆和田寿郎, 19920928, 『「脳死」と「心臓移植」――あれから25年』かんき出版. 222p ISBN-10: 4761253657 ISBN-13: 978-4761253653 〔amazon〕
三輪和雄, 199501, 「「戦後50年」を創った日本人-5-「和田心臓移植」は何を問いかけているか」『潮』(通号 430):342-354.
◆渡辺淳一, 199501, 「心臓移植手術――尾を引く後遺症(戦後50大事件の目撃者)」『文芸春秋』73(1):164-166.
◆和田秀樹, 199708, 「臓器移植法はバラ色か?――最後に問われる医師の倫理」『THIS IS 読売』8(6):264-271.
◆共同通信社社会部移植取材班, 199804, 『凍れる心臓』共同通信社. 301p ISBN-10: 4764104067 ISBN-13: 978-4764104068 〔amazon〕
◆猪瀬直樹, 19980430・0507, 「施行半年で移植ゼロ――「和田心臓移植の呪縛」(ニュースの考古学〔331〕)」『週刊文春』40(17):80-81.
◆19980430・0507, 「「和田心臓移植」の全貌を追ったルポ(TEMPO)」『週刊新潮』43(17):158.
立花隆, 19980625, 「私の読書日記――太陽 和田移植 イロコイ族の知恵(文春図書館)」『週刊文春』40(24):166-167.
◆和田寿郎・三輪和雄・宮田親平, 199810, 「和田心臓移植30年目の真実」『諸君』30(10):104-112.
本田勝紀, 199811, 「"脳死"からの臓器移植の8例 困難な事後の倫理的検証が提起する問題点 1984年以降の報道例についての検討」『今日の移植』11(6):755-758.
山口研一郎, 199905, 「法施行後初の「脳死移植」を検証する――和田移植の「負の遺産」は克服されたか」『ばんぶう』(通号 215):70-73.
◆19990408, 「心臓移植第1号失敗「和田教授」の不名誉人生(ワイド特集・人生「禍福」の歳月)」『週刊新潮』44(14):136.
◆小黒純, 199905, 「情報閉ざす医療側と、迫れないメディア――何が和田心臓移植と変わったのか (脳死臓器移植報道をめぐって)」『新聞研究』(通号 574):38-41.
◆薩摩耕太, 199910, 「テレビ――自民党政権と御用学者の陰謀あばく力作(メディア時評)」『前衛』717:161-163.
倉持武, 1999, 「1968年 札幌 ドナー」『松本歯科大学紀要』28:1-27.
◆和田寿郎, 20000210, 『ふたつの死からひとつの生命(いのち)を』道出版. 263p ISBN-10: 4944154119 ISBN-13: 978-4944154111 〔amazon〕
◆清水健・和田壽郎, 200004, 「BIG SPECIAL TALK TALK<2000――特別対談> 残念な移植空白の32年間――広い視野でアジアのリーダーに 清水健氏(医療法人コスモス理事長)(金沢医科大名誉教授)VS和田壽郎氏(和田壽郎記念心臓肺研究所長)」『月刊公論』33(4):18-25.
◆阿久津哲造・和田壽郎, 200006, 「2000-特別対談 明日の医療のためいま何を――臓器移植の究極は心と哲学だ! 阿久津哲造氏(日本人工臓器学会名誉会長)VS和田壽郎氏(世界心臓胸部外科学会会頭)」『月刊公論』33(6):16-23.
◆ウェスタビー,ステファン・和田壽郎, 200007, 「KORON特別対談 人工心臓開発に期待……21世紀は世界が手をたずさえて」『月刊公論』33(7):52-56.
◆瀬在幸安・和田壽郎, 200010, 「2000-特別対談 誤った慣習伝統が心臓移植の障害に――意識の低さで遅れる日本 瀬在幸安(日本大学総長)vs和田壽郎(世界心臓胸部外科学会会頭)」『月刊公論』33(10):46-53.
◆和田貴子・田中秀治・島崎修次, 200012, 「臓器移植と組織移植の違い(特集 脳死下臓器提供をめぐる諸問題――提供施設におけるスムーズな対応のために――脳死患者家族への対応とその周囲の問題)」『救急医学』24(13):1837-1839.
◆和田貴子・田中秀治・島崎修次, 200012, 「臓器提供施設における脳死患者への対応――提供病院における問題とその対応はどうあるべきか(特集 脳死下臓器提供をめぐる諸問題――提供施設におけるスムーズな対応のために――提供施設の問題点)」『救急医学』24(13):1797-1801.
◆和田寿郎, 200101, 『神から与えられたメス――心臓外科医56年の足跡』メディカルトリビューン. 242p ISBN-10: 4895892115 ISBN-13: 978-4895892117 〔amazon〕
◆フェリックス,ウンガー・和田壽郎, 200102, 「2001特別対談 BIG SPECIAL TALK TALK 国は患者をいつまで待たすのか――21世紀に持ち越した生と死の問題 フェリックス・ウンガー(欧州心臓外科世界大会会頭)vs和田壽郎(世界心臓胸部外科学会会頭)」『月刊公論』34(2):58-63.
◆祝康成, 20010215, 「置き去り20世紀の奇談 疑惑の「和田心臓移植」33年目の新証言(上)」『週刊新潮』46(6) (通号 2288):54-57.
◆祝康成, 20010222, 「置き去り20世紀の奇談(3)疑惑の「和田心臓移植」33年目の新証言(中)」『週刊新潮』46(7) (通号 2289):56-59.
◆祝康成, 20010301, 「置き去り20世紀の奇談(3)疑惑の「和田心臓移植」33年目の新証言(下)」『週刊新潮』46(8) (通号 2290):56-59.
◆田中秀治・和田貴子・島崎修次, 20010331, 「臓器提供施設における脳死患者への対応――提供病院における問題点(〔2001年〕3月第5土曜特集 臓器移植の最前線――社会編――臓器移植の社会資源の整備に向けて)」『医学のあゆみ』196(13):1115-1120.
◆和田壽郎・Benfield,John R., 200106, 「特別対談 21世紀は尊敬と自由と調和ともに心から笑えるのは信頼が基礎 和田壽郎(世界心臓胸部外科学会会頭)vs J・R・ベンフィールド氏(米国胸部外科学会会頭)」『月刊公論』34(6):80-86.
◆和田繁明, 20010602, 「インタビュー 十合社長 和田繁明 科学的なマネジメント手法 本格的な″移植″がスタート」『週刊ダイヤモンド』89(21):154-155.
◆和田壽郎, 200108, 「シスターの言葉で堪えた「心臓移植」告発 (特集 「人生の逆境」で出遭った一言)」『新潮45』20(8) (通号 232):67-70.
◆南和友・和田壽郎・大中吉一, 200108, 「特別対談 移植の遅れは医療界の体質・まかり通る学閥旧体制の弊害」『月刊公論』34(8):74-82.
◆小竹英夫, 200203, 「歴史の足跡 北海道の医学教育 和田心臓移植とその反応(1)」『北海道医報』91:28-29.
◆小竹英夫, 200204, 「歴史の足跡 北海道の医学教育 和田心臓移植とその反応 札幌医大の学園紛争(1)」『北海道医報』993:38-39.
◆小竹英夫, 200204, 「歴史の足跡 北海道の医学教育 和田心臓移植とその反応(2)」『北海道医報』992:38-39.
◆木村 良一, 200208, 『移植医療を築いた二人の男―その光と影―』産経新聞社.
◆山崎亮, 200402, 「死をどうとらえるかII 脳死・臓器移植問題の始点――和田移植前後の新聞記事を手がかりに」『福祉文化』3:11-25.
田中智彦, 20040708, 「日本の生命倫理における「六八年」問題――東大医学部闘争と和田移植」中岡成文編『岩波 応用倫理学講義1 生命』岩波書店:147-168.
◆20050609, 「「和田心臓移植」医師が「コンスタンチン君」治療 (ワイド 〔週刊新潮〕2500号が刻んだ「人と事件」)」『週刊新潮』50(22) (通号 2500):48-49.
◆奥谷浩一, 20051118, 「我が国における脳死・臓器移植の現在とその新たな法改正案の問題点(及川英子教授 奥平洋子教授 中川文夫教授 退職記念号)」『札幌学院大学人文学会紀要』78:101-167.
◆中島康子, 2007, 「和田心臓移植から考察する日本医学界の基本構造――医療における専門職支配」『応用社会学研究』17:49-73.
◆和田壽郎, 20000715, 「心臓肺同時移植への夢」『日本呼吸器外科学会雑誌』14(5):589-590.


■言及



◆高橋 晄正 197103 『くすり公害』,東京大学出版会.
(pp215-216)
「良心的」学者の犯罪
 だが、一見しては良心的に見える学者たちの誤った論理も指摘されなければならないだろう。それは、体制のなかや資本のなかに入り込むことによって行政や企業の在りかたを善導するのだという態度である。それはそれなりの効果はあげられるだろうけれども、いまの医療行政や薬務行政の在りかたをよく考えるなら、ほんとうに民衆の健康を守ろうとするかぎり、権力の権威性と資本の利潤を完膚なきまで否定せずには、それは可能ではないことに思いいたらなければならないはずである。そのような学者たちは、よく目を見開いてみるといつのまにか権力の手先として現状のなかのもっとも大きな矛盾を隠蔽する役割を担わせられている自分自身、あるいは資本のなかでの合理化のためにその知識と技術を奉仕させられている自分自身を見いだすだろう。
 そうしたことは、製薬企業がある新薬を発売しようとするときに、その方面の専門の学者(教授たち)を集めてつくる「○○研究会」のなかで起こっている、次のような事実に気づくなら明白であろう。そうした企業体の研究班に結集された学者たちは、研究費の分配をうけて研究をおこなうのだが、その研究成績は班長(たいていその方面のボス学者がなる)のもとに集められる。しかし、班の事務部を担当する製薬会社の学術課で編集したその研究報告書をよく見ると、その薬にとってマイナスになるような報告は削除されているか、あるいは、「紙面の都合で」という[p216>理由で表題だけしか載せられていないことに気づくだろう。そうした企業体がスポンサーである研究班は、企業体の巧妙な情報管理の手段として作用しているのである。
 また、わが国には、たとえば緒方洪庵の例に見られるように、その親類縁者のなかから多数の医学者を輩出している例がいくつかある。大製薬企業が医学のある部門を制圧しようとする場合に、閨閥を利用しようとする「賭け」のおこなわれる可能性がここに生じる。そのようにしてある学者たちは、当然発言しなければならないときに発言を封じられ、企業の反人民的な横暴さを見のがすことによって共犯者となるのである。
 学者の反人民的な行為としてわが国の社会を震駭させたものに札幌医大の和田教授による心臓切り取り移植事件がある。この事件は、巧みに刑法上の罪は免れたかに見えるけれども、兇悪犯による殺人事件とは違って、医療の名においておこなわれた行為であってみれば、自分に不利益な証拠の自由な隠滅(山口君の心電図や脳波、宮崎君の大動脈弁など)を認めての上の結論であることは、法理論の上からしても誤りであろう。和田教授をしてこのような国民のひとしく認めがたい二青年の前途を破壊した人権侵害行為も、実はゆがんだ資本主義社会のなかで医学界がゆがんだ業績主義(利潤の変形したもの)に陥っていることの反映としておこなわれたものである。それは学者の飼育構造としてではなく、だれにも罪をなすりつけえない学者みずからの堕落構造なのである。


◆高橋 晄正・藤木 英雄・森島 昭夫・柳沢 文徳 19730410 『食品・薬品公害――消費者主権確立への闘いのすすめ』,有斐閣.
(pp256-259)
□ 因果関係、予見可能性の不明確性
 被害の事実がはっきり立証できたとき、つぎに責任追及の障害となるのは、その物質の有害性についての科学論争です。サリドマイド裁判やスモン病訴訟が長びいている何よりの原因は、製薬会社が、サリドマイドが奇形を生ずる性質をもっている、ということ、スモン病が、キノホルムの大量投与によって起こる、ということそのものが科学的にはっきり確証されていない、と主張し、会社が責任を負わなければならない根拠はないと徹底的に争っているからです。そのうえ、かりにその薬品の有害性[p257>が確証されたとしても、少なくとも薬品を製造・販売した時点では、そのような有害性があるとは夢にも思わず、人体に摂取しても安全だと思ったのは、当時の科学的知識の水準からみて当然であるから、被害の予見可能性がなく、売り出したことに過失はない、という主張が、第二の障害として待ちうけています。
 刑事裁判には、"疑わしきは罰せず"の原則があり、また、民事裁判でも、裁判官にほぼその事実の存在は間違いない、と確信させる程度の立証を原告つまり被害者がおこなう必要があります。
 国が検察庁や警察の組織を動員して、かつ専門家の鑑定などの協力を幅ひろくあおいで犯罪事実を立証しようとしても、医療事故・薬害事故の追及には大変な困難をともないます。根本的には、裁判官も、検察官も、それに弁護士も、薬品や化学物質の生体に対する有害作用についての科学的知識に乏しいことに問題があります。そこで、薬品の有害性自体について専門家のあいだで積極・消極の意見が対立しているところでは、素人である裁判官は、どうしても積極認定、つまり有害性の断定を躊躇する傾向をもちやすい面があります。サリドマイド事件など、本家の西ドイツでは、検察庁は、製薬会社の役員ら幹部の起訴にふみ切りました。しかし、日本では、検察庁は、サリドマイドが奇形の原因となることについて現在の科学知識のもとでは、有罪判決を得られる見込みが確かでない、という理由で、起訴せずにおわりました。
□ 証拠がかくされやすく立証に大きな壁がある
 さらに、医師の過剰な投薬による副作用の被害など、医療過誤とからむ事故については、いっそう、立証が困難となります。すこし例が薬害事故からはなれるかもしれませんが、たとえば、和田寿郎教授[p258>(札幌医科大学)の心臓移植事件(昭和四三年)では、心臓提供者山口さんの死の判定がどのようにおこなわれたかについて、はっきりした証拠がなく、関係者も事情をあかそうとしない、ということから、事実を確認することに大変な困難があったと報ぜられています。医療事故は、医師と患者以外に客観的に第三者の立場に立って事実を目撃している者がいませんから、一種の密室内の出来事だといえます。その気になりさえすれば証拠をかくしてしまうことは容易です。
 また、現場に立ち会った医師、看護婦が証言を渋る傾向にあることはもちろんですが、診断、処置の適否などについて他の医師に鑑定を求める場合にも、医師が鑑定人として他の医師の失策について証言することには、大変な勇気が要ることだとされているようで、ここにも立証に大きな壁があります。
 このようなことから、強力な国の組織を動員しておこなう刑事事件でさえ、なかなか証明が成り立ちにくいのですから、被害者が民事訴訟で製薬会社などを訴えるのは、さらに困難が大きくなります。
□ 当事者の力が対等でない
 民事裁判は、たて前として、対等な私人同士の争いということを予定し、そのうえで、訴訟のルールをつくりあげています。争いのある事実については、まずその事実を主張する者が一応裁判官を納得させるだけの証拠を示さなければいけない、というのが原則です。被害者は、自分の症状が有害な食品や薬品によるものであること、すなわち、食品の有害性と、その食品を摂取したこと、他の原因でそのような症状になったのではないといえる事情などを証拠によって立証しなければなりません。また、そのうえに、企業側に過失があることを証明しなければなりません。検察官でさえこの種の立証には大変難渋します。それを資産もない一介の市民がおこなうことの困難さは、想像にあまるもの[p259>があります。そのため、この種の事件では、被害者側は、よほどの覚悟がなければ訴訟にふみ切れず、あいまいな見舞金を少額受けとっていっさいの請求権をその引きかえに放棄するような結果となりがちです。
 このような不都合をなくすには、いろいろな対策が必要です。そこでは被害者がむずかしい裁判への出訴にふみ切ることができやすい方策を考えなければなりません。いまでも、訴訟救助といって、裁判所に原告がおさめなければいけない印紙代などを猶予する制度や、法律扶助といって、一時訴訟費用をたてかえる民間の制度が利用されています(くわしくは、→47)。しかし、資力の不十分な原告が、弁護士費用などの負担に耐えかねて"兵糧攻め"にあい不本意な妥協を強いられないようにするためには、勝つ見込みのある事件について企業集団の拠出などによる一定の基金から損害賠償額の一部を前払いさせる制度なども考えられてしかるべきでしょう。


川上武, 19790615, 「生と死」川上武ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:3-35.
(pp26-27)
 以上の出生をめぐる問題と同様に、死亡をめぐっても現在では大きな変化が起きている。明治維新の近代化いらい、医師が死亡診断書を書かないかぎり死体を埋葬できなくなったが、その場合の死期判定の基準は心臓死である。呼吸停止、瞳孔の対光反射の消失→瞳孔散大、心音の停止(いわゆる心臓死)をまって、医師は死亡と判定し、死亡診断書を書いてきたわけである。
 ところが、一九六七年末の南アでの心臓移植の実施を契機として、改めて死期判定の問題がクローズアップされてきた。心臓移植を成功させるためには、"まだ生きている心臓"を移植することが必須条件だが、それは死期判定として心臓死を基準としているかぎり理諭的にも不可能なことである。
 南アの心臓移植のときには、日本の医学者もまだはっきりした判断・姿勢は持っていなかったが、そのご最初にして最後となった札幌医大の和田心臓移植では、身近でその経過を分析することができたので、心臓移植が成功するためにはどこかで人権侵害をしなければならないことがはっきりした。
 いちばん問題なのは、医学者が功名をあせるあまり、心臓提供者の死期判定をはやめる危険性がはっきりしたことである。完全に死亡し、心臓死で死期判定を確認してしまった段階では誰の目にも心臓移植はまったく成立しないことがはっきりしてきた。少なくとも個体の全体は死んだが、心臓は生きている(部分的な生)の状況で心臓を取り出さないと心臓移植はだめなことがはっきりしている以上、実際に移植を成功させるためには死期を早める以外にないことになる。人によっては、どうせ死ぬとわかっており、たかが二時間や三時間の違いではないかと主張するが、現実には心臓死より死期判定を早めなければならないことの、医学ひいては社会への波及効果を考えないわけにはいかない。


川上武, 19790615, 「医学的真実と法律的真実――誤診と誤判決」川上武ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:101-126.
(pp109-110)
 ところで、安楽死が患者の末期をめぐる問題なのにたいし、医学研究・医療技術の開発にかかわるのが、"人体実験"の問題である。医学の歴史をふりかえってみると、医療技術の進歩の背後に開発実験の犠牲者の多いのにおどろくことがある。だが、第二次大戦中のナチスドイツ、日本軍の生体実験へのきびしい反省から、ニュールンベルグ宣言に集約されるような医学研究・開発実験の際の人権尊重の姿勢が打ち出されるようになった。
 だが、その後わが国でも"人体実験"が告発される機会が再三おきている。和田心臓移植の告発(一九六八年)に代表されるように"人体実験"へのマスコミ・市民の批判はきびしいが、狭義の医療訴訟とちがい、多くの場合に告訴されても証拠不十分で不起訴に終わっている。これは、当事者個人の人権意識が告発されると同時に、医学研究・開発実験のあり方自体が裁かれているところに問題を複雑にするものがある。"人体実験"といわれる事例では、その背後に医師の野心(名声・権力などへの)がうごめいているのは事実だが、それのみで割り切れないところに複雑な問題が起きてくる。そこで裁かれるのは医学であり、人権裁判であるという面がある。そのときに、医学と法律の分野での人権の理解が必ずしも一致していないことが、問題解決・判決をすっきりしたものにしない憾みがある。こんごに残された課題である。
 そして以上みてきたように、医療訴訟も狭義の場合には従来の裁判の枠組みのなかで処理できるはずだが、医学研究・医療技術・医療システムのあり方にかかわる広義の事例の場合には、訴訟の形をとらざるをえないにしろ、そこでは従来の裁判の論理のみでは割り切りにくい局面がでてくるように思う。それはまた医学と法律の論理のちがいにねざしているともいえよう。


◆上林茂暢, 19790615, 「人間機械論の現在」,川上武ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:127-156.
(pp136-137)
 また、拒否反応のため臓器を剔出、次の提供者を待つあいだ、人工臓器のサポートが臓器移植に必要になる。心臓移植は、人工心臓の実用化のメドもないまま強行されており、人体実験的性格がつよいといわざるをえない。
 さらに、臓器移植は、以上の技術的難関にもまして、その前提に提供者の人権の点で重大な問題をかかえている。臓器移植は、生体の死(全体の死)と臓器の部分死の時間的ズレを利用することにより成り立つ。従来、生体の死は、心死(心停止、呼吸停止、瞳孔対光反応の消失)により判定されてきた。ところが、臓器移植を成功させる側からはすこしでも新鮮な臓器が必要なのはいうまでもない。とくに心臓移植では主体の死を待ったのでは成果はむつかしく、脳死による死の判定が提唱されるにいたった。これは脳波を死の判定に用い、心臓の部分死以前にとり出し移植に用いようとするものだが、心死→脳死の死期判定の変更は、死にたいする考え方の転換にほかならない。従来、死をすこしでも遠くへ追いやる生命尊重の立場から死の判定は明らかに非可逆的と思われる心死におかれてきた。すこしでも個体に生の徴候のあるかぎり救命に最大限の努力がはらわれた。救急・重症学(蘇生.延命技術)の進歩もこのなかでうまれてきたといえよう。
 日本では、札幌医大和田教授の心臓移植(一九六八年)を契機に、医学的にも社会的にも大問題となり、日本脳波筋電図学会"脳波と脳死に関する委員会"でこの点について検討が加えられた。その最終案(一九七三年)では、頭部外傷、脳腫瘍、脳血管障害の三疾患の脳死判定に六つの基準をみたすことが必要とされている。たんに脳波の消失にとどまらず、呼吸・血圧などの中枢としての延髄をはじめ脳幹機能停止が最低六時間以上つづいた場合といった制限が加えられた。このような基準を守ろうとするかぎり、心臓移植はわが国では不可能になった。


米本昌平, 19850120, 『バイオエシックス』講談社.
(pp179-180)
 日本で最初の体外受精児が生まれたのは八三年十月十四日である。イギリスのルイーズ・ブラウンの誕生と五年以上の差があり、出生児の名前すら明らかにされていない。この差異、とくにこの五年間の遅れは、日本の医学全体の水準を意味するのではない以上、社会学的な比較研究の対象に十分値する。
 医学関係者はしばしば、この遅れは、六八年の和田心臓移植事件以来、世間の批判を恐れ医学界が慎重になりすぎたためだ、と説明する。たしかに、日本の医学界にとってこの事件は、遺伝子治療におけるクラインの事件[p180>に似た効果があった。
 しかしこの説明は半分くらいしか正しくない。十五年も前の心臓移植事件を、体外受精の遅れの理由とするのはやはり無理である。この説明の正しいのはむしろ「世間の批判を恐れて」という部分であろう。
 実際、日本の医学ほど世間の評判、とくに新聞にどう書かれるのかを気にし、世間体や世俗的名誉を重んずる分野も少ないのである。
 日本の社会にとって、ルイーズ誕生以後八二年半ばまでの体外受精児問題とは、まれにニュースの間に外電としてはさみこまれてくる「○○人目誕生」という程度のものであった。日本にも卵管閉塞患者は多数いたはずであるが、海外での本格的な実用化を理由にこれを日本でも行なうよう医学界に働きかけたという形跡は、もちろんない。アメリカのようにはっきりとしたモラトリアムがあったわけではなく、とりあえずここでは、日本には出生過程に直接介入する技術(体外受精・胎児診断・胎児治療など)には強い心理的抵抗があり、体外受精に関しても医学界自身が心の折り合いをつけるのに五年間を必要とした、と擬人的に表現しておこう。


加藤 尚武 19861215 『バイオエシックスとは何か』,未來社.
(pp63-66)
 測定方法についての議論を別にして、上に述べた合意からどの程度の結論が引き出せるかを考える上で、ハンス・ヨーナスの意見、「人体実験論」と「流れに抗して(3)」は、今日なお重要である。彼の立場をテーゼ風にまとめて見よう。第一デーゼ[p64>延命手段の停止という消極的な態度が許される限界は正確に決定されなくてもよいが、臓器の摘出という積極的な行為が許される限界は絶対的な確実性をもって知らなければならない。」第ニテーゼ「延命手段の停止限界として脳死を用いてよいが、臓器摘出に関しては最大限の定義(たとえば三点死)が用いられなければならない。」第三テーゼ「脳死は臓器摘出を正当化しない。」これは臓器摘出を正当化するという功利的な動機によって脳死という基準を設定してはならないという主張である。ヨーナスの意見には医学的知識の間違いが含まれないではない。(新しい方の論文が一九七〇年に発表されている。)だが、その哲学的な意味は決して古くなってはいないのである。
 ヨーナスは「何が正当化されるか」という観点から見て、脳死の限界と臓器摘出の限界を別概念と見なしている。死の一義性という暗黙の前提は、「脳死が死の判定基準であるとすれば、同時に臓器摘出の許される限界になる」という前提をも含意することになってしまっているが、これはなんら自明な前提ではない。この隠れ[p65>た前提が同時に死の定義に含まれる功利性をも覆い隠している。脳死という新しい概念が死の定義として認められたとたんに、古い意味での死のもとに承認されていた全ての法律的な処理が許されるかのように考えられている。功利性が生命概念に先行するという本末転倒は避けなければならない。
 中島みち『見えない死』によれば、筑波大学臓器移植事件(一九八四年)と和田心臓移植事件(一九六八年)には、事件としての共通の特徴がある。どちらの場合でも臓器の提供者となった患者が移植手術の行われた病院に移転させられている。筑波大学事件では、患者の夫が危険ではないかとダメを押したにもかかわらず千葉県柏市の病院から筑波に移されて、その直後に患者は重体になり脳死の段階を迎える。和田移植事件では小樽から札幌に「高圧酸素治療が必要だ」という理由で運ばれているが、その治療の必要性については重大な疑惑がもたれている。つまり、初めから移植の狙いで移されたという疑いが消えないのである。移植の功利性が生命概念に先行していたかもしれない。[p66>
 ヨーナスは脳死の段階にある人体を「ホルモンや血液の製造工場として利用する可能性」を警告している。イギリスでは現に脳死人体を学生の実験用に用いたいという要求がでている。パリスのように「脳幹死に至れば物体と同じ」という観点からすれば当然の要求であろう。このような話を聴くとわれわれは内なるアニミズムを呼び覚まされて、そうした功利主義的な提案にぞっとする。はたして人体とは人間の人格にとって、「精神の墓場」にすぎないのだろうか。プラトンの思想の現代版がここで吟味されなければならない。


米本昌平, 19870630, 「科学技術社会における死」長尾龍一・米本昌平編『メタ・バイオエシックス――生命科学と法哲学の対話』日本評論社:161-183.
(pp166-171)
 脳死が問題になるのは、脳神経外科の発達やICUの成立とその普及に関連しており、本格的な議論がはじまったのは、ここ二〇年間のことといってよい。その一つのきっかけになったのは、一九五七年にローマ法王ピウス一二世が行なった「延命について」という演説であった。ここでピウス一二世は、脳機能が失なわれた肉体を"生きた状態"に保つことの是非という問題をとりあげ、二つの点に関する見解を明らかにした。第一に、死の宣言は教会の範疇ではなく医師の責任で行なうべきものであること。第二に、回復の望みのない患者については尋常でない手段を用いて死を押し止めるべきではないと考えた方がよい時代に入ってきた、と指摘したのである。
 この法王の発言に刺激されて、いく人かのフランスの神経生理学者が、重い昏睡状態にある患者の研究を開始し、一九五九年の論文の中で"超昏睡coma depasse”という言葉を提出した。彼らが調べた患者のほとんどは、自発呼吸がなく、反射も失なわれ、脳波も平坦であった。ただし、研究が本格化するのは、さまざまな臓器移植が試みられはじめた六〇年代に入ってからであり、特に六七年一二月に南アフリカで行なわれた世界最初の心臓移植手術は強い刺激となった。翌六八年には、有名なシドニー宣言とハーバード大学脳死基準が出ることになったのである。
 第二二回世界医師会総会で採択されたシドニー宣言は、脳死と臓器移植に関して、二つの重要な指摘を行なっている。第一に、死はプロセスであって事件(イベント)ではないこと、そして高等動物にあっては細胞の多くが生きていることが必ずしもその個体が生きていることを[p167>意味しないこと、を再確認したこと。第二に、臓器移植を目的とした死の判定は、移植手術に関係のない第三者的位置にある二人の医師によって行なわれるべきである旨、言明したことである。死が短時間に生ずる事件ではなく、一連のプロセス(英語のdyingに最も近い)であることを認めることは、脳死の社会的承認にとってきわめて重要であり、また死を瞬間的なものとみなす法律的立場とは齟齬をきたすはずであるが、この時点ではまだ大きな論争とはならなかった。
 同じ六八年にハーバード大学医学部の脳死問題特別委員会が提出した脳死の基準は、脳の不反応、いっさいの運動の停止、自発呼吸の停止、反射の停止、薬物中毒や低体温によるものではないこと、脳波の平坦、以上の状態が二四時間続くこと、というものであった。今日の脳死の基準からみると、脳全体の機能が停止しても脊髄反射は存在しうるし、二四時間にわたるチェックはやや長すぎるものであり、慎重すぎる基準であることになる。象徴的なのは、この特別委員会の報告のタイトルが「不可逆的昏睡の定義 A definition of irreversible coma」となっている点である(JAMA, Vol.205,85,1968)。つまり、この特別委員会は、現象論的基準を提示し、対象についても現象論的命名を与えるにとどまることで、その対象を死と断じることに留保をつけようとしているようにみえる。今日の議論では、このハーバード大学の言葉使いは植物状態とまぎらわしいという理由で非難されることが多いが、実情はそうではなくて、特別委員会のメンバーが、不可逆的昏睡という現象論的命名から脳死brain deathという実体論的命名への変更が、たんに言葉使いの問題ではなく、この選択が哲学的かつ政治的に重要な意味をもつことを、十分わきまえていた[p168>からだと考えられる。
  【"植物状態"の認知まで】
 さらにもっと重大なことは、植物状態という概念の提案がこれよりも四年も後だったことである。科学史の分野でかなり以前から常識となっていることは、研究者は、それまでの研究の歴史が現在の成果を目指して一直線に進んできたかのように、過去をやすやすと捏造するということである。今日、医学者はしばしば、現代医学ははるか以前から脳死と植物状態を厳格に区別してきており、この二者の区別ができない人間は医学的素養が欠けているとでもいわんばかりの説明をすることがあるが、じつは現代医学自体が、七〇年代前半に、さまざまな混乱に直面してきているのである。
 一九七二年に発表された「脳傷害後の植物状態(遷延性植物状態)―命名を必要とする一症候群」という論文で、ジェネットとプラムは、延命技術の発達で、最近、意識喪失とも昏睡とも違う臨床例が出現してきており、新しい命名が必要になってきているとして、この症状を詳しく記載している(Lancet, I, 734, 1 April 1972)。これによると、傷害をうけた後、一週間程度、昏睡状態にあるが、やがて外からの刺激に応じて四肢を少し動かすようになる。二〜三週間で眼をあくようになり、不定期的に眼をあいたり閉じたりするようになる。まばたきをしたり眼をキョロキョロ動かすこともあるが、その動きはまるで当を得ておらず、ちょうど意識なく起きているような状態である。脳を除去された動物のように四肢をぎこちなく動かすが、だんだんこのような動きも少なくなってゆく。シーツが手にふれると握る動きをすることがある。噛む動作や物を飲みこんだりはできる。うめき[p169>声をあげることがあるが、意味ある言葉はしゃべれない。つまり、ちょうど大脳皮質の部分がまったく働いていないようにみえるのである。そしてジェネットとプラムは、既存のさまざまな医学用語を検討していずれにも該当しないことを確認し、オックスフォード英語辞典を参照して、植物的(vegetative)という意味が、成長と発生の能力はあるが知覚と思考能力を欠いた状態であることを確認し、この現象論的命名を提案する、としたのである。結局、この記載と命名が広く承認されることになった。

  ◎―先端医療と文化との衝突
  【和田心臓移植事件】
 このように、七〇年代初めまでは、脳死概念の確立も移植手術のための手続も、まったく手さぐりの状態にあったのであり、六八年八月に行なわれた和田心臓移植事件(※)も、この当時の文脈に引き戻して解釈してみる必要がある。この事件が告発されたのは、心臓提供者の死亡判定の方法に疑問があり、特に脳波の記録がなかったことが問題とされたためである。たしかに、提案されたばかりのシドニー宣言やハーバード大学の脳死(不可逆的昏睡)基準に照らし合わせると、脳死の判定基準、死亡診断をした医師の資格問題、提供者の承諾問題など、ほとんどが問題になってくる。しかし、六八年段階では、アメリカも同じような状態にあった。たとえば、六八年五月に、バージニア医科大学附属病院で、脳挫[p170>傷を被った五六歳の黒人労働者が、脳波の平坦を確認されただけで、まだ生活反応の兆候があったにもかかわらず、関係者の承諾を得る努力もまともにされないまま、臓器移植の目的で心臓と腎臓を取り出されるという事件があった(Hastings Center Report,Vol.2,No.5,9,Nov.1972)。この事件では、この黒人の兄弟が一〇万ドルの損害賠償の訴えを起こしている。
 今日からみてひどく疑問に思われるのは、なぜ一医科大学の一医局の主任教授の判断で、脳死を前提とした先鋭的な医学的手術が行ないえたのか、また、当時の実情は日本もアメリカも大差はなかったにもかかわらず、なぜ日本ではこの一件以降、臓器移植がほとんど行なわれようとしなかったのか、の二点であろう。これらの問題に本格的な解答を与えるためには、複雑な社会学的脈絡を明らかにしなくてはならないのであろうが、あえてここで答らしきものを求めるとすれば、前者の疑問は、当時の、医学を含めた自然科学一般のきわめて高い社会的地位をあげておかなくてはなるまい。大学紛争以降の科学批判を経験する以前は、自然科学は常に社会に進歩をもたらすものであり、特に医学の成果と医師の行なうことは無前提に善だと信じられていた。それゆえ、世界で八番目に試みられた心臓移植を少なくともマスコミは当初、手放しで明るいニュースとして報道したのであり、和田教授への批判は手術を受けた患者の死亡によって突然ふき出したようにみえる。もし、マスコミがフォローするのにあきるほど患者が生存したり、最初の南アフリカの例が手術後二〇日間の生存であり、日本の場合は八三日間も生存し、これだけでも成功だという点をもっとマスコミに売り込んでいたなら、事態はもう少し変わっていたかもしれない。し[p171>かし日本では、いずれ何らかのゆり返しが起こるのは不可避であったのだろう。
 第二の疑問に対しては、和田心臓移植事件がマスコミによって徹底的にたたかれたため、それ以降医学界では臓器移植がタブーになったという説明がよくされる。しかし、これを少し意地悪くとれば、先進国の中でも日本の医学者はことさら世間的体面を重んじる集団である、と公言していることになる。私的な印象からいえば、この説明も部分的には当たっていなくはないと思うが、現在に至る一九年間の巨大な空白をこれで説明しきるのは明らかに無理である。他の先進国との比較ではっきりと浮かびあがってくる日本社会のこの拒絶を、とりあえずは私流に、先端医療と文化との衝突とよんでおく。
 今日、脳死や臓器移植が行なわれるためには、社会的コンセンサスが不可欠だと多くの人は信じている。しかし、どのような状態になれば社会的コンセンサスが得られたといいうるのか、またそのような状態を実現させるためにはこの日本ではどのような行動をとればよいのかが、なんら明らかにされないままでいる。そのため一部の医学者のあせりは臨界点に近づきつつあり、他に治療方法がない患者を救うためという狭い脈絡のみが異常に大きくみえている、主観的には善意の固まりの医師の集団によって脳死を前提にした移植手術が確信犯的に行なわれる可能性は高まっているといっておかなくてはならない。


米本昌平, 19880425, 『先端医療革命――その技術・思想・制度』中公新書.
(pp40-49)
このような助言をまとめたアメリカ医学会としての対応の誠実さに敬意をおぼえる一方で、六八年夏の時点のアメリカが、心臓移植手術をめぐっていかにすさまじい業績競争のただ中にあったか、またこれによって患者の人権がいかに簡単に躁躍され犠牲者が続出したかが、生々しく伝わってくる。
 そこでここで目を転じて、この第一次の心臓移植ブームのさなかに行われた和田心臓移植事件を振り返ってみよう。少なくともこの時点では、日本もアメリカも事態は酷似していたこと、そして、これに続く医学界および社会の側双方の対応が決定的に異なっていく様子が、鮮明になるからである。

 二、和田心臓移植事件
 概要
 さて問題は日本である。六八年八月八日の夕刊各紙は、北海道立札幌医科大学付属病院で、日本初の心臓移植手術が行われたことを大々的に報じた。国民的な称賛の高みから、ごうごうたる非難の奈落へと連なる、いわゆる和田心臓移植事件の始まりである。手術を行ったのは和田寿郎胸部外科主任教授、受けたのは石狩支庁恵庭町に住む宮崎信夫君、十八歳。心臓の提供者は水死した札幌に住む二十一歳の大学生、とだけ書かれてあった。だが二日後には、札幌市に住む駒沢大学経済学部四年、山口義政さんであることが明らかにされた。
 最初の一般の反応は、あまりにも唐突な、というものであった。しかしすぐそれは、宮崎少年が手術から早く回復し、いつ襲ってくるかわからない拒絶反応をもうまくすり抜けて生きぬいてほしいという、祈りに似た声援に代わった。日本でも心臓移植はいつ行われてもおかしくないという声は、よく聞かれるようになってはいたが、実際に行われるのはもう少し先だと考えられていた。なぜなら、前年末の南アフリカで行われた世界最初の心臓移植以来、これに対して日本の医学界の主流がみせた態度は、死の判定法や拒絶反応の問題がまだ未解決とする慎重なものであったし、その年の五月、日本移植学会、厚生省、法務省の専門家による「臓器移植法案制定準備委員会」ができ、三年以内をめどに法案を考えようとしていた矢先であったからである。
 大学医学部としては異例の、連続的な記者会見を通して和田教授から明らかにされた概要は、ほぼ以下のようであった。
 七月五日、同学部宮原内科から転科してきた宮崎君を診断してみると、僧帽弁閉鎖不全症、三尖弁閉鎖不全症、大動脈弁狭窄症、つまり「心臓の弁は三つが三つとも、箸にも棒にもかからない絶望的な状態」(和田寿郎著『ゆるぎなき生命の塔を』)とわかり、残る道は心臓移植しかないと判断、本人と家族を説得。八月七日、小樽市の海岸でおぼれ、野口病院に収容されていた山口義政さんの容態が急変し、同大胸部外科に高圧酸素室での治療を要請してきた。救急車は、夜八時過ぎに同大付属病院に到着。しかし十時十分、瞳孔散大、脳波停止などで死亡と認定。両親に心臓提供を申し出る。八日午前二時過ぎから世界では三〇例目にあたる心臓手術を開始、手術は三時間半後に終了した。
 手術後の宮崎君はゆっくりと回復し、二十九日目の九月五日には車イスで病院の屋上を散歩するまでになった。ところが手術時の大量輸血によると思われる血清肝炎が表面化し容態は悪化。これをのりきったものの、手術後八十三日目の十月二十九日、「気管支炎のためノドにタンがつまり、急性呼吸不全で死亡」した。解劇の結果、心臓の縫い合わせは完全で、拒絶反応はみられなかった、とされた。
 南アフリカのバーナードが行った最初の患者は、手術後十八日で死亡したが、彼の手による二例目のフレイバーグ氏は順調な回復ぶりをみせていた。その中で宮崎君の死後も、わが国最初としてはよくやったという満足感が、一般には漂っていた。しかし、医学界内部にはしだいに批判的な空気が充満してきていた。そして、手術の結果が論文として発表されるのにあわせて、これに疑問を投げかける見解がつぎつぎ文字にされはじめた。

 批判
 なかでも、臨床の専門誌『内科』は、翌六九年五月号で〈臨床家のための生死判定〉という特集を組んだのであるが、そこに掲載された、宮崎君の最初の主治医、宮原光夫教授が書いた「心臓移植時における生死の判定」という論文は、和田教授の診断とその上でなされた心臓移植手術の妥当性そのものを正面から批判するものであった。宮原教授はこう言い切る、「今回の心臓移植が真の適応であったか否かにも疑問が残る、というよりは術前診療にあたった著者には少なくとも臨床所見からは適応であったとは考えられない」。全体の要旨は、自分の診断では宮崎君は僧帽弁が悪かったのであり、そこで人工弁手術ではわが国の第一人者である和田教授に回したのであるが、なぜか和田教授は弁が三つともダメと診断し、心臓移植を行ってしまった、というものである。
 さらに宮崎君の遺体を解剖した同大学病理学教室の藤本輝夫教授は『最新医学』六九年三月号に掲載された論文「剖検所見からみた心移植」などの中で、心臓に関しては宮原教授の診断に近い見解を示しただけではなく、遺体はかなり痩せこけたもので、腹部には免疫抑制剤の副作用と思われる緑膿菌感染による膿がたまっており、心臓は肥大し、心臓をおおう膜が癒着していたこと、またこれは拒絶反応によるものと考えられ、患者はもともと肺が弱かったため、肥大した心臓で肺循環が圧迫されていたことなどを明らかにした。しかも、切り離された大動脈弁は不思議なことに、宮崎君の心臓とはぴたりとは合わなかった。こうして、それまでの記者会見を通しての和田教授の発言は、手術前の患者の状態を異常に重く、手術後の状態を異常に楽観的に伝えていたことが明らかになってきたのである。
 さらに宮原教授の一文は、実に重要な洞察を含んでいた。「現在までに世界でおよそ百例に及ぶと報道される心臓移植手術において、果たして真の提供者がどれだけあったのであろうか。……患者やその家族は医師に対して、心理的に常に弱い立場におかれている。臓器移植に関していえば、医.師の強力な説得や、意図せる行為によっては、親族が強制的に納得せしめられ、あるいは一部の親族には事後承諾のかたちで臓器が摘出されることもありえよう。……可能なかぎり生存期間の延長を図ることが医師の義務であり、人間のモラルにのっとった行為であるのは論をまたない。ましてや急性疾患、容態の急変、事故などにさいしては、医師の最大の努力が要求され、これによって、きわめて重篤で絶望的とみなされた患者が救われることもまれではない」

 告発
 ごく一般的な表現をとってはいるが、ここで宮原教授は、心臓の提供者が本来受けるべき徹底的な救命治療を受けたのか、臓器提供の承諾のとりつけ方が一方的なものではなかったのかと、鋭く問うているのである。そしてその後、伝えられてくる事実は、奇怪なことばかりであった。山口君の脳波はブラウン管で見たとされていたが、手術を行った部屋には脳波計はなかったし、心電図の記録も肝腎なところが欠落し、手術直前まで心臓はまがりなりにも動いていたという意味で、山口君は生きていたと推定された。また、家族の同意をえる以前にすでに胸は開かれていた。死後切り出された宮崎君の心臓は、何ヵ月も和田研究室にしまい込まれたままであった。
 ただし、ここまでの論争は、あくまで医学界の内部で当然行われるべき、事実確認と評価としてのものであった。確かに、危険だとか犯罪につながりかねないという表現は医学者の議論のなかで出てきてはいたが、それは将来への警句としてであり、和田教授の心臓移植手術を実際の犯罪と認定することなど、思いもかけないことであった。だが、それは行われていたのである。六八年十二月、大阪在住の漢方医ら六人が、和田教授を殺人罪で告発していた。それは翌年、札幌地検に移送され、同地検は春から捜査を行っていた。とつぜん報道されたこの事実に、医学界は大きな衝撃をうけた。
 検察は、刑法上の殺人罪は構成しないとしながらも、山口さんの死の判定、心臓提供の同意のとり方、宮崎君に対する心臓手術の妥当性、術後の措置について、業務上過失致死罪があてはまるかの検討を行った。七〇年一月には医学鑑定に踏み切り、榊原仟(しげる)東京女子医大教授、太田邦夫東大医学部教授、時実利彦京大医学部教授という大権威に鑑定を依頼した。数ヵ月後にはすべての鑑定書が提出されたが、ニュアンスは違うものの、どれもが決定的な結論には至らなかった。結局、七〇年八月末、心証はクロだが証言ばかりで物証不足だとして、不起訴処分が決まった。
 この間七月二十七日には、「和田心臓移植を告発する会」が発足した。メンバーは、二人の元厚生大臣(坊秀男、古井喜実)をはじめ、石垣純二(評論家)、松田道雄(同)、川上武(同)、若月俊一(佐久病院長)、中川米造(阪大助教授)など十三氏であった。とくにこの会は、無力な患者の人権を尊重するようにと〈病者のための人権宣言〉を行ったうえで、衆参両議院の法務委員会、厚生省医道審議会、日弁連人権擁護委員会に対して、和田心臓移植手術を調査し、結果を公表し、善処してほしいと申し入れた。その後、札幌検察審査会、日弁連などが検察に対して再捜査を要請したが、新しい証拠が出てこないかぎり、不起訴の決定をくつがえすのはむずかしい情勢になり、最後は日弁連人権擁護委員会が和田教授に警告書を送ることで、この長い長い事件はいちおう落着した。

 問題点
 この和田心臓移植に、同時期にアメリカ医学会がまとめた臓器移植のガイドラインを重ねてみると、問題点の細部がいちだんと明瞭になる。
 海外の例と比較してみて、とくに異様に映るのは、和田教授の一連の〈虚言〉である。和田教授の場合、たぶん〈最初に決断ありき〉だったのであろう。是が非でも心臓移植は成功せねばならず、そのためには言葉によって目の前の現実をどんどん歪め、事実とはかけはなれた虚構を描きあげて、自らそちらの方を真実だと信じきってしまったようなのである。実は、程度の差こそあれ科学者はこういう悪魔のささやきを聞くことがある。しかし、まさか医学部の主任教授が、患者の命よりも日本最初の心臓移植を行うことへの誘惑にかられ、いずれ学会で問題にされるに違いないのに、あと先も考えず虚言を重ねるとは、当初は誰も考えてはいなかった。ただ、当時における医師の権限は想像もできないほど強く、とりわけ医局における主任教授の権威は絶対であった。だからこそ、検察がネをあげるほど、あたかも医局全体が和田教授の人格そのものであるかのように、全医局員が完壁に口裏を合わせ、最後まで押し切ってしまったのである。
 不起訴処分という検察の決定には、いくつか批判があがった。だがこの時点では、世界を見渡してみても、事情はどこも似たようなものであった。最先進国のアメリカですら、ハーバード大学の脳死基準も、臓器移植に関するシドニー宣言も成立したばかりであり、南アフリカのバーナードをはじめ移植医の多くは、あいかわらず自分で臓器提供者の死を宣言して心臓移植手術を行っていた。
 一時は水泳までやってみせた、バーナードの二番目の手術患者フレイバーグ氏は、手術後五九四日目の六九年八月十八日に死亡した。手術件数も、六八年の一〇一件を頂点に、六九年四七件、七〇年一七件と急減した。最大の理由はもちろん手術患者の生存率が悪かったからであるが、一方で、赤血球のAB型だけではなく、日系のポール・テラサキなどが研究する白血球の抗原型が組織免疫と関係あるらしいと注目されはじめていた。
 問題は山のように残った。和田心臓移植事件のあと、日本のある医学者は、「外国の心臓移植は、患者の死という医学的な疑問から反省期にはいった。一例だけの日本では、メスをにぎった和田教授に対する人道上の疑惑から反省期がスタートした」(『朝日新聞』七〇年九月三日付)とつぶやいたが、その反省期の内容はまるで違っていた。アメリカでは、学会や政府がガイドライン作りに乗り出し、臓器移植一般を実験的医療と位置づけ、人体実験の制度と手続きの網をかけはじめた。インフォームド・コンセントをとることがとくに強調されるようになり、結果的にこれが医療行為一般にも浸透してゆくことになった。そして、これを監視するための組織である、倫理委員会のネットワークもしだいに完成していった(第四章参照)。
 これに対して和田心臓移植は、日本の医学界をただ萎縮させただけに終わった。医学界のゴッドファーザー武見太郎日本医師会会長は、厚生省医道審議会で和田心臓移植を問題にして以降、〈臓器移植は医療として邪道〉とする内科医的意見を口にするようになった。六八年に勃発した大学紛争も、大学医学部の萎縮に拍車をかけた。七〇年代を通して日本の大学医学部は何も変わらず、何も変えようとしなかった。そして八○年代、先端医療がつぎつぎと実用化され始めると、日本の医学界は、何が欠けているかを自覚しないまま、おずおずとさまざまなアドバルーンを上げ始めているのである。
(p108)
 さて、製薬会社の依頼による薬効の臨床試験を管理する臨床実験委員会を別にすれば、わが国の大学医学部における倫理委員会は、実質上、八二年十二月の徳島大学医学部のそれをもって嚆矢とする(和田心臓移植事件からかなり後になって、札幌医科大学に倫理委員会が設置されたことがある)。アメリカより約十年遅れたこの時点で倫理委員会が設けられたのは、体外受精の是非という問題がもちあがったからである。なぜ最初に徳島大学に設けられたのか、という点については、斎藤隆雄(麻酔学教授、以下敬称は省略)の存在が大きい。彼は、IRB制度がまさに整備されつつあった七三年にアメリカに留学しており、大学で毎週開かれていた人体実験委員会にも出席した経験があったため(斎藤「カリフォルニア大学サンフランシスコキャンパスにおける臨床研究事前審査の現況」『麻酔』一九七四年十一月号)、付属病院長の職にあった斎藤に対して産婦人科教室から体外受精についての打診があると、医学部内部をまとめあげ、ほぼIRBに相当する倫理委員会を発足させた。


◆廣瀬 輝夫 19920715 『近代医療への警告――いま医療倫理の最前線で何が起きているのか』,金原出版
(pp104-106)
〔心臓移植〕
 世界初の心臓移植に成功したのは、南アフリカのバーナード博士で一九六七年のこととされている。実は、その三年前の一九六四年、バーディ博士がチンパンジーの心臓を人間に移植したのが第一号である。もちろん不成功に終ったのでこの話はあまり知られていない。その後もクーリー博士[p105>が山羊の心臓を移植するという試みもされている。しかし、これらの移植が患者の絶望的な状況で行われたにしても、拒絶反応が起こることは予測がついたであろうから、倫理面からは問題を残す事例であった。
 日本では一九六八年の和田心臓移植が第一号であるが、臓器提供者の脳死確認が曖昧であった点、患者に対し移植が絶対に必要だったかなど、多くの疑惑に包まれており、その後の日本の臓器移植の軌道を大きく逸らしてしまった感が強い。
 一九七九年にシクロスポリンAの開発によって、これをプレドニゾンと併用投与することで、拒絶反応を防ぐことが可能になり、それまでの惨めな成績が飛躍的に向上した。米国では術後一年の生着率は九〇%、五年生存率も約五〇%に改善され、さらに末期心疾患の患者に対する移植の死亡率も五%をきったことで評価が高まり、移植は激増した。九一年には二〇〇カ所のセンターで年間三〇〇〇例以上の心臓移植が行われている。
 移植に要する費用は、一年目で平均一五万ドルと腎移植の二倍に相当している。心臓移植はメディケアの医療費高騰の原因にもなっており、保険の適用は五五歳までと年齢制限を設けている。それ以上の年齢では合併症が多く死亡率も高いというのが政府の見解だ。
 提供される心臓が需要に追いつかず、待機患者は二五〇〇人を超え、この間に死亡する患者も年間七〇〇人に上る。また移植待機の間に人工心臓、または補助循環装置の使用を余儀なくされる[p106>症例は一〇〇例以上ある。しかし補助循環装置は二万ドル、移植後は一日二五〇〇ドル以上の療養費が必要となる。保険の支払いはほとんど期待できず、自己負担か病院、研究所の負担になるため、経済的な問題が生じている。最近HMO(米国の集団保険)では、医療機関に一括払い方式で心臓移植の支払いを認めたものもあるが、その支払い額では不十分である。

(pp335-336)
(3)臓器移植とインフォームド・コンセント(説明と同意)
 インフォームド・コンセントという考え方は、その邦訳が一般に「説明と同意」とされていることからもわかるように、これまで医師の専属と考えられてきた治療方針の意思決定に、治療を受ける患者の意思をも参加させようということがその考え方の基本となっているが、その際、患者の意思決定が正確になされるよう、医師側から患者に対し十分な説明を行うべきことが併せて含意されている。また、このような考え方の背景には、患者側の権利意識の拡大のほかに、医療内容の複雑化等客観的な状況の変化という側面もある。
 こうしたインフォームド・コンセントの考え方は、今後わが国で臓器移植を進めていくに当っても、重要な意義を有するものと考えられる。なぜならば、移植手術の安全性は近年急速に向上しつつあるとはいえ、常に危険を伴うものであり、移植後も拒絶反応等のリスクがいまだ少なくなく、また、手術が成功し、[p336>予後が順調であっても、免疫抑制剤の服用等その後の日常生活における負担も少なくないこと等から、移植医療を受けようとする患者・家族の間にも移植手術を受けるべきか否かについて迷いが見られるのが普通だからである。とくにわが国では、初めて行われた「和田心臓移植」の例において、レシピエントが移植を必要としたのかについて社会的に大きな疑惑を呼び、その影響が今日なお社会の中に残っているというやや特殊な事情もある。
 こうしたインフォームド・コンセントは、すでにわが国の腎臓移植の現場でも慣例化されたものとなっているが、今後、心臓等にまで移植の範囲を拡大していく場合には、単に形式的なものに流れない実質的なインフォームド・コンセントが十分得られるように、慎重な配慮がなされるべきものと考える。そのためには、現行の腎移植の経験をも参考としつつ、標準的なインフォームド・コンセントの様式、手順を策定し、その普及を図るよう関係者の合意を作る必要がある。
 なお、患者の不安を解消し、心理的な支えを与えていくためにも、移植手術後引き続き治療内容等について医師側より十分な説明がなされることは当然である。また、その際には移植後の経過について、求めに応じて本人または家族に十分な情報の開示を行うようにすべきである。

(pp344-346)
(2)移植医療を適正に実施していくための仕組み
 「中間意見」でも詳しく述べたように、いわゆる「和田心臓移植」事件では、レシピエントの適応が医学一的に見て正しかったかどうかが大きな論議となりながら、結局ことの真相が不明のままに終わったことが、人々に移植医療に対する不信感を与える大きな源となったと言えよう。
 こうした事態を事前に防止し、また、問題が起こった場合に事態の正確な把握と解決を図っていくためには、まず、各移植施設において、移植の適応、インフォームド・コンセントの有無を事前に十分チェツクできるようにするとともに、万一問題が生じたときには、施設として事実関係等につき直ちに調査し、必要に応じて患者等に説明し得る体制を整備することが必要であろう。
 すでに、大学医学部等では、「倫理委員会」が設置されている例が多いが、これらの多くは、その任務がやや限定されており、以上のような要請には十分応じられないことも予想される。今後はその拡充を図るなり、別途の委員会を設けるなどの対策が必要と思われる。
 しかし、各施設毎にこのようなチェックシステムを設けるだけでは必ずしも十分でないケースも予想される。とくに、いったん問題が生じたときのチェックは、当該施設外の人々、すなわち第三者によるものが最も好ましいものと思われる。そのためには、臓器移植ネットワーク内に、一つまたは複数の独立かつ公正な「審査委員会」を設け、問題事例については、必要な調査を行うとともに調査結果を社会に対し公表すべきであるという意見も検討に値するものと考えられる。
 なお、以上の仕組みを実効あるものとするためには、各施設において臓器移植に関する記録を完備し、必要があればそれを外部の「審査委員会」に開示したり、「審査委員会」の調査に対し協力することを義務づけることが不可欠であろう。こうした義務づけは、移植ネットワークに登録する際の条件の一つと[p345>するべきであろう。
 以上のような仕組みについては、現在直ちに完備することは困難であるかもしれないが、今後、具体的に心臓移植や肝臓移植等を実施するに当たっては、当面、関係学会等における自主的な「審査委員会」を設け、必要が生じた場合には実施施設から必要な事項を報告させるなど、何らかのチェックシステムを用意しておくことが、国民の移植医療に対する信頼確保の上で肝要なことと思われる。

5 関連した法制の整備
 臓器移植は、法律がなければ実施できない性質のものではないが、腎臓に加えて心臓、肝臓等の移植を行っていくためには、包括的な臓器移植法(仮称)を制定することにより、臓器移植関係の法制の整備を図ることが望ましい。その場合には、脳死を含む死亡(時刻)の確定、臓器売買の禁止、本人の意思を尊重した臓器提供の承諾、変死体の取扱い等の規定についてその要否も含めて検討されるべきであろう。

III 脳死・臓器移植問題と医療に対する信頼の確保
1 脳死・臓器移植をめぐる「不安」と「不信」
 いわゆる「和田心臓移植」が脳死・臓器移植ひいては医療のあり方そのものについて、人々に少なからぬ「不安」、「不信」を植えつける結果となったことは、すでに「中間意見」でもつとに指摘したところである。こうした脳死・臓器移植をめぐる不安感・不信感に応えるために、本答申の中でも確実な脳死判定の方法、適正な移植適応基準の確立、必要な記録の保持と開示、インフォームド・コンセント、適正な外部のチェックシステムの構築等、いくつかの具体的な提案を行った。[p346>
 しかし一方、こうした制度的な対応だけで人々の心の中にある医療に対する「不安」や「不信」に十分に応えられるかどうかとなると、いまだそこに問題が残ることを認めざるを得ない。
 というのは、すでに、「中間意見」でも触れたように、こうした人々の「不安」・「不信」の背景には、単に脳死・臓器移植という特定の問題領域だけでなく、近年ますます人々の理解を超え、急速に発展を遂げつつある科学技術一般に対する漠然とした「不安」が垣間見られるからである。脳死・臓器移植以外にも、体外受精、遺伝子治療、末期医療等を含む先端医療の分野は、直接に人間の生命・身体に関わっているだけに、人々のこれまでの価値観に対して少なからぬ緊張感を与えるものが少なくない。こうした科学技術一般あるいは先端医療に対する漠とした「不安」・「不信」が脳死や臓器移植に対しても、大きな影響を与えていると考えられよう。
 また一方、近年、医療が徐々に高度化・システム化し、これまでの開業医中心の医療から、病院中心の医療に一層傾斜しつつある中で、医療の最大の当事者である患者本人の目から見ると、医療がますます不透明で密室性の高いものに映ってきている点も指摘できよう。また、疾病構造が次第に慢性病を中心としたものに変化する中で、治療と治療効果の関係がかつての感染症中心の時代と較べ不鮮明になってきたことも、こうした医療の不透明感の増大に寄与していることも考えられる。人々の権利意識の向上を背景に、こうした医療の「不透明性」が人々の医療に対する不安感、不信感につながってきていることも十分想像されるところである。


◆中村 雄二郎 19920121 『臨床の知とは何か』,岩波書店.
(pp184-185)
 ひるがえって、日本の場合を考えてみると、一方では、科学的医学と医療技術の急速な進歩によって、技術的実用主義がひとり歩きをしている反面、他方では、それと対極に位置する伝統的な死の観念が習俗のなかにもち続けられ、その両者が並存してきた。(ここで、伝統的な死の観念について一言しておくと、とくに重要な意味をもつのは、外地で戦死した肉親の遺骨収集や飛行機事故の際の遺体・遺品の重視に見られる、遺族の執着の強さである。そこにあるのは、むしろ、霊肉二元論ならぬ霊肉一元論あるいは鈴木大拙のいう〈日本的霊性〉の立場であろう。)またわが国では、人格性の原理にもとづく権利・義務関係が、建て前として存在すると同時に、共同性の原理にもとづく実感的な相互性が、本音として根強く生きてきたという事情がある。
 日本社会は、これらの諸価値あるいは諸原理を違ったレヴェルでソフトに共存させることは巧みである。しかし、性質上あいまいな部分を残さざるをえない実践的な問題に際して理論的な詰めを必要とする場合には、それらの諸価値があまりにかけ離れ、食い違うために、一向に議論が進展せず、コンセンサス不成立や、慎重論の名のもとに、問題がいたずらに先送りされることになってしまう。脳死問題をめぐる議論の帰趨としてわれわれが見てきたものは、まさにそのようなものではなかったか。
 日本で心臓移植の問題がいっそう紛糾するようになった原因に、一つの不幸な出発があった。すなわち、一九六八年という時点で、札幌医大教授の和田寿郎は心臓移植をおこなったが、最初彼は、世界的な先駆者の一人として脚光と称賛を浴びたのち、間もなく移植に際して人権的、医学的にとるべき手続きを欠いていたとして、糾弾され、告訴されるようになったのである。しかもこの問題は、事実としても法的にも十分真相が究明されないままに、うやむやになってしまい、あとにはただ、〈医者への不信〉という漠然とした、しかし拭いがたい感情だけが残ることになった。
 その結果、関係医学諸学会でも心臓移植問題に関しては極度に慎重になり、ようやく七四年になって、日本脳波学会の「脳死と脳波に関する委員会」が脳死判定基準をうち出した。さらに八五年になって、それへの再調査のかたちで厚生省「脳死に関する研究班」によって脳死の判定基準がまとめられた。両者とも全脳死の立場を採り、慎重な基準を設けてはいるが、アメリカの場合とちがって、脳死を以て人の死とするかどうかについては触れられていない。(厚生省基準では(1)深い昏睡、(2)自発的呼吸の消失、(3)瞳孔の固定、(4)脳幹反射の消失、(5)脳波の平坦化、(6)以上の条件を充たした上で六時間経過すること、が挙げられている。)
(p191)
 スウェーデン保健社会省の「死の定義委員会」が八四年に出した報告『死の概念』のなかに、「宗教における死の概念」という一章がある。短いものだが、われわれが日本で議論する際に、適切な仕方で考慮されてこなかった、この問題の要点をなかなかよく押さえているので、これを手がかりにして考えていこう。
(pp193-194)
 個々の宗教の〈死の概念〉に関する、このような報告書の捉え方は、あくまで概括的なものなので、こまかいところでは問題があるだろう。しかしそれでも、一般的に、世界の主要な諸宗教が〈死の判定〉についてさほど問題にしていたいということは、言えそうである。これは、一見、意外なことのようにみえるが、よく考えてみると、宗教の観点では、重要なのは〈死の意味〉であり、また〈死者の身体の保全〉ではあっても、科学や技術の進歩とともに変わりうる〈死の判定〉ではなかったのである。
 ところで私はいま、〈世界の主要な諸宗教〉と言いながら、仏教について言わなかった。なぜなら、スウェーデン報告書では、仏教はヒンドゥ教とともに、死の判定に関してなんらの見解も示さず、死体解剖や臓器移植に反対していない、とだけ言われているに過ぎないからである。(事実、スリランカ、タイ、台湾などの仏教国には、臓器移植についてもつよい反対はない。)
 スウェーデン報告書のなかで仏教国と言われている国々のなかには、日本も入れて考えられているはずである。もしも、日本についてまで、こういうことが言われているのだとしたら、どうしてだろうか。情報の不足ということもあるかもしれない。しかしそれよりも、早々と一九六八年におこなわれて一時絶賛を浴びた〈和田移植〉の例もある上に、〈人工妊娠中絶〉が倫理的にほとんどなんの疑問も抱かれずに罷り通っている日本は、外から見ると、脳死を肯定しているようにしか見えないのではなかろうか。
 それはともかく、日本人の場合でも、広い意味での宗教意識と深く関わるのは、実は〈死の判定〉の基準そのものではなくて、死者あるいは死に行く者の、肉体への特別な感情であろう。ここで、とくに重要な意味をもつのは、前にも指摘したように、外地で戦死した肉親の遺骨収集や飛行機事故の際の遺体・遺品の重視に見られる、遺族の執着の強さである。そして、そこにあるのは、仏教渡来以前から存在した基層的な霊肉一元論の宗教意識であろう。つまり、鈴木大拙がその積極面を〈日本的霊性〉として主張した宗教意識である。この立場に立つとき、霊と肉、精神と身体とは、それぞれ別個なものではなく、心身は合一している、と見なされる。しかもその霊は、祖霊として追慕の対象であると同時に、怨霊としておそれの対象でもあった。


土屋貴志, 199303, 「「シンガー事件」の問いかけるもの」加藤尚武・飯田亘之編『応用倫理学研究・』千葉大学教養部倫理学教室:324-348.
 では、積極的安楽死の容認がナチスの「安楽死」のような障害者抹殺につながる、という議論についてはどうか。仮にシンガーの主張を実行に移すなら、殺すことに対する歯止めがなくなっていき、果てはユダヤ人虐殺のような事態に至る可能性が、現実にあるだろうか。
 この問いに対する答は、社会の状況によって違う。ナチス政権下のドイツのように総統の命令がそのまま実行に移されてしまう社会と、民主的な決定がなされ、公の討議や正当な法的手続きが確保されている社会とでは、この種の「滑りやすい坂」の議論の妥当性は全く異なる。ただし、医療専門職の責任において、補佐の医師の同意を得て安楽死を行うという、シンガーの主張する手続きだけで十分とは思われない。とりわけ、和田心臓移植事件にみられたような医学界の密室性がなお問題とされる日本では、決定手続きをさらに公開すべきであろう。脳死判定と同様に、「生きるに値しない」という診断には決して誤診があってはならない。仮にシンガーの主張を現実化するつもりがあるなら、その診断の基準と手続き、決定を下す際の手続き、および安楽死実行の手続きについて、正確な情報に基づいた公開の討議を十分に積み重ねる必要がある。


村岡潔, 19950425, 「先端医療」黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』世界思想社:225-244.
(pp235-236)
 臓器移植は、患者の臓器を他の人間や動物の対応する臓器と交換する医療技術で、一九世紀後半の皮膚移植、二〇世紀初頭の血管吻合術の確立、腎臓移植や心臓移植の動物実験に端を発している。人に対する臓器移植の本格的な臨床実験は、一九五〇年代に腎臓移植から始められた。六〇年代には、肝臓、膵臓の移植やサルからの心臓移植まで試みられた。
 しかし、臓器移植が、先端医療として世界に衝撃的に登場するのは、一九六七年暮れに南アや米国で行われた人から人への心臓移植によってであった(日本でも半年後、札幌医大で初の心臓移植が行われた)。移植医の側も、病院にテレビカメラを入れるなど、マスメディアを通じて移植医療を積極的にプロパガンダした。つまり心臓移植を有名にしたのは、その成績(初期は手術後の数時間から数カ月でほとんどが死亡)ではなく、科学はついに心臓までも交換可能にしたという人々に与えた驚きであった。
 一方、心臓移植の開始は、従来の死の定義に抵触する問題を提起した。それが「移植は他者の死という犠牲のうえに成立する」という関係を明示したからだ。こうして死の判定に対する疑問や移植後の治療成績の不振から、移植に対する反対意見も活発になり、日本でも最初の心臓移植が殺人罪で告発された(証拠不十分で不起訴)。その後、日本では現在(一九九四年一二月)まで心臓移植は行われていないが、腎臓・肝臓の移植はかなり行われている。
 また、臓器移植は、拒絶反応を防ぐ目的で、病気の治癒過程に不可欠な免疫機能を人為的に抑える免疫抑制剤を生み出した。七〇年代には、成績不振で移植の熱狂は冷めるが、その後、強力な免疫抑制剤シクロスポリンAが開発され、八○年代以降は、心臓や肝臓などの移植件数は増加し、米英を中心に日常的に行われるようになった。


見田 宗介 1995 『現代日本の感覚と思想』,講談社.
(pp119-123)
 『中央公論』十一月号で立花隆が、「脳死」という問題をとりあげていることは昨日もふれた。『技術と人間』九月号もこの問題の小特集を組み、また同誌は三月臨時増刊号として、「脳死」の全冊特集を出した。
 脳死の問題とは、人間はいつ死ぬのかという問題である。これまでは常識的に「心臓死」、つまり心臓が止まったときに人は死ぬものとされていた。けれども人工呼吸[p120>器などの発達によって、脳が死んでも、心臓は生かしつづけておくことができるようになった。そこで心臓死よりも以前の、脳死の段階でも人間を「死体」と扱ってよいかという議論がおこる。このような主張が積極的にでてくる背景は、心臓などの移植のために、生きている臓器を医師が早くとりだしたいからである。
 今年に入って日本でこの問題が、「政治的」にも急速に熱い問題となった理由は、このような医師団体と一部議員のつきあげをうけて、「厚生省が積極的に音頭を取って、脳死をもって人間の個体死を認める方向に社会の合意を取りつけようと動きを開始しているから」である(立花論文)。(政治的な内幕の一部は竹村泰子が報告している〔『技術と人間』九月号〕)。
 心臓移植の世界的な「先進国」は、南ア共和国である。そこでは人種差別のために、有色人種の「新鮮な心臓」が、とりだされやすいためであった(心臓の凍る話だ)。
 一九六八年に和田寿郎教授が日本で初の心臓移植をおこなったとき、生きた心臓をとりだすことは殺人であるとして、告発がなされた。検察庁は長期の慎重な取り調べの結果、不起訴とした。その理由は、心臓にメスを入れた段階でドナー(提供者)[p121>が、生存していたことを証明する「証拠がない」ということである。この種の手術で、医師は「証拠」を、相当左右してしまえるという疑問も残る。
 けれども問題の一番奥は、医師の名誉心というような事柄ではない。心臓の供与によって、その長短は別として、生命を永らえることのできる患者の、切実な欲望が他方にはある。
 大森曹玄老師がズバリというように、「人の心臓をとってまで生きたがる」のは、見苦しい(『技術と人間』同号)。執着である。我執である。けれども人間の九割位は、自分が実際に死にそうになれば、他人の心臓を移植してでも生きのびようと望む心を、どこか一隅にはもっている。
 生きたい欲望と欲望とがせめぎ合っている。
 「富士見産婦人科病院」の内臓摘出の被害者のひとり、小西熱子は、脳死という問題にふれてこう話している。自分は患者として、生きている心臓をとりだすための理屈として「脳死」を立法化する仕方には、反対です。けれどもこう言えば言うほど、なんだか自分が冷たいのではないか、利己主義ではないかと、何度も自分に問い返しています。同じ患者として、臓器移植をひたすら待っている人がいる――ということ[p122>が、とてもつらいのです(同誌)。
 たくさんのことを考えてきた人のことばだと思う。「脳死」という、この一見抽象的な、高度に「専門的」な問題の、血なまぐさい現場に、わたしたちを、それは一挙につれ戻す。
 他者の死を待つ動物たち、それは、わたしたちであるかもしれない。死を待たれている身体も、またわたしたちであるかもしれない。
 この血なまぐさい問題を抽象的に片付けるために、脳が死んだらその人間は「死んだ」と定義することにきめてしまおうと、オペレーショナルな理性はしている。(オペレーショナル。操作的/手術的。近代理性のいちばんスマートな手法は、現実の生々しい問題を、言葉の「オペレーショナルな」定義によってすりぬけてしまう仕方である。)
 インド哲学の金岡秀友は、仏教の「供養」(自己を提供して他者を養う)という精神について、そのいちばん大切な核心は、それが自由な意思によること、この「自発性」がないかぎり、それは悪魔の知恵となると指摘している(同誌)。
 脳死の状態の人間を「死体」として定義してしまおうという、立法化による解決[p123>は、この究極の倫理というべき〈自己提供〉の思想をさえ、悪魔の論理に転化するだろう。
 脳は死んでも、身体としてのわたしは生きている。その生きている心臓をどうぞお使い下さいということであればこそ貴いのではないだろうか。
 生命を欲望する動物が、その欲望をもつままで、意識のあるうちの自由な意思による登録で、その生きている身体を提供することであればこそ、行為は生きるのではないか。
 そのような「生きた」心臓をいただいた者であればこそ、余分に生きられる幾日間か、幾年間か、幾十年間かを、一層深く生きられるのではないだろうか。その人はあるいはまたその自由な意思で、「脳死後の自己身体を提供する者」に自分を登録するかもしれない。執着から解き放たれた行動だけが、他者を執着から解き放つ力をもつからである。


太田和夫, 19990601, 『臓器移植の現場から――移植免疫のしくみから脳死移植の実際まで』,羊土社.
(pp144-147)
 わが国の移植はなぜ進まないのか、欧米ではすっかり日常の医療として定着し、毎年三万件を超える症例が報告されている。アジアでも台湾は法律をつくり、すでに三百例を超える心臓移植を実施している。また韓国は法律はないが医師会の承認のもとに百例以上の心、肝の移植を行っており、腎臓移植についても人口比でみるとわが国の四・六倍の症例がある。なぜわが国で進まないのか、この問題に関してはいろいろな理由があげられてる。(校正者註:原文まま)

  和田移植に対する不信感
 脳死や臓器移植の論議が始まるとすぐ話題にでてくるのが一九六八年八月八日に札幌医大の和田寿郎が行ったわが国における心臓移植第一例をめぐる問題だ。この手術は心臓弁膜症で心不全となった一八歳の少年に、海で溺れ、脳死になったとされる二一歳の青年の心臓を移植したものであった。レシピエントは一時的には車椅子で散歩できるくらいになったが、感染症のため移植後八三日で死亡している。この移植手術は世界的にみても早期に行われたもので、術後順調に経過しているうちはマスメディアもはやしたて[p145>[p146>たが、患者が死亡した後で多くの問題が噴出し、提供者の死の判定をめぐって「殺人」の嫌疑がかかり、最終的には不起訴となったものの、わが国の臓器移植医療に大きな汚点を残す結果となってしまった。
 この和田移植に多くの問題があることは誰しも認めるところだろう。医師としてもつべき基本的な認識の欠如があったといわざるをえない。この手術については一九六八年秋の日本胸部外科学会総会に報告されている。その後この件に関して漢方医からの告発によって翌年五月より札幌地検の捜査が開始された。当該学会は一九八八年一二月に臓器移植問題特別委員会を組織し、一九八九年に最初のレポートを、さらに一九九一年には心臓移植・肺移植-技術評価と生命倫理に関する総括レポート-(金芳堂、一九九一)を出し検討している。当時はまだ脳死判定の基準がなく、また救急医療は外科と分離してはおらず、また心臓外科における弁置換の成績が悪かったなどの問題があり、現在の基準をそのまま押しつけることはできないが、そのような状態であったからこそ、@ドナー脳死判定は正しく行われたのか、Aレシピエントの医学的適応は正しかったのか、B患者、家族や紹介医に事実に基づいて説明し同意がえられたのかなどについて記録を公開すべきであったろう。これに加えてC提出された標本についての疑問や資料の欠如などについても納得のいく説明をするなど、慎重に対応し、実施したことについて十分批判に耐えるだけの資料を残しておくべきであった。こ[p147>の手術の影響が三〇年を経た今日でもなお移植医療の信頼をうるための大きな障害となっていることを考えると残念でならない。
 このような世間から疑惑をもたれるような手術を二度とやらないということが和田移植以後に育ってきた移植医たちの決意である。


◆山内 一也 19990924 『異種移植――21世紀の驚異の医療』,河出書房新社.
(pp48-50)
 人の心臓移植が世界ではじめて行なわれたのは、その約四年後である。一九六七年一二月二日、南アフリカ・ケープタウンのフローテ・スキュール病院でクリスチャン・バーナードが執刀した。レシピエントは五七歳の患者ルイス・ワシュカンスキイで、彼は過去七年間に心臓発作を何度も繰り返しており、あと二、三週間の命とされていた。ドナーとなったのは、自動車の衝突事故によって脳死と診断された若い女性だった。
 最初の心臓移植が南アフリカで行なわれたのは、偶然ではないといわれている。当時の南アはアパルトヘイトの国であり、医師に対する倫理的規制は少なかった。バーナードは黒人男性での手術も考えていたが、その場合、非白人で実験を行なったという海外からの批判が予想され、手術の成功に汚点を残すと考えたといわれている。
 世界初の心臓移植成功のニュースは全世界をかけめぐった。バーナード自身もジェット機で世界を巡った。患者の容態が悪化したとき、彼は米国を訪問中でジョンソン大統領やリンゼイ・ニ[p49>ューヨーク市長からの歓迎を受けていた。このときの歓迎ぶりは、大西洋横断飛行に成功したリンドバーグなみであったと伝えられている。患者のワシュカンスキイは手術の一八日後に肺炎で死亡した。
 翌六八年一月二日、バーナードはふたり目の患者として、六〇歳の歯科医フィリップ・ブレイバーグに心臓移植をふたたび行なった。彼は一九ヵ月間生存した後、慢性拒絶反応で死亡した。
 この時期は、前に述べたように免疫抑制剤としてアザチオプリンがおもに用いられていたが、腎臓移植のほとんどが失敗していた。当時、米国スタンフォード大学のリチャード・ローアーとノーマン・シャムウェイは、犬での心臓移植の実験を行なって移植された心臓が機能することを確認していた。しかし、犬はすべて数週間以内に拒絶反応で死亡したため、彼らは拒絶反応の回避の研究を続けていた。バーナードはこのシャムウェイの研究室で心臓移植を学び、その術式にもとづいて移植手術を行なったのであった。
 バーナードの心臓移植のニュースは、同時に連鎖反応をも引き起こした。三日後にはニューヨークの外科医が生後一七日の男児に心臓移植を行ない、この子供は数時間後に死亡した。一ヵ月後の六八年一月には、それまで慎重であったスタンフォード大学のノーマン・シャムウェイが初の心臓移植を行ない、患者は一五日後に死亡した。五月にはヒューストンのデントン・クーリイが心臓移植を行なった。
 ルイス・ワシュカンスキイの手術から一五ヵ月の間に、一八カ国で一一八件の心臓移植手術が行なわれ、その三分の二が三ヵ月以内に患者の死で終わっている。日本では札幌医科大学のいわ[p50>ゆる和田移植もこの時期で、六八年八月に実施された。同様に患者は死亡している。
 その後、心臓移植はシャムウェイのグループによって地道な研究が続けられ、一九八〇年代、免疫抑制剤シクロスポリンの時代に入ってから医療として確立したのである。


森岡正博, 199909, 「脳死の意味論――「脳死臓器移植」研究の可能性」『生命倫理』9(1):4-10.
(pp4-5)
 1999年に脳死の人からの心臓・肝臓等の移植が再開された。1968年の和田移植から31年ぶりの脳死移植である。1980年代半ばから日本中を巻き込んで繰り広げられた脳死論議のひとつの決着が、このような形でなされたということになる。2月に高知赤十字病院で行なわれた脳死判定と、その後大阪大学病院等で行なわれた複数の臓器移植について、新聞やテレビなどのマスメディアは、激烈な報道合戦を繰り広げた。脳死患者の家族とメディアのあいだに対立と不信感が生まれた。慶応大学病院で行なわれた第2例目の脳死判定とその後の移植については、その反省もあってか、比較的落ち着いた報道であった。
 1999年のこれらの出来事によって、日本における脳死移植の「事件性」は消滅したと言ってよい。これから継続されてゆくであろう脳死移植は、メディアにとってはもはや新奇性に乏しい単なる出来事にしかすぎないであろう。脳死移植は、新聞やテレビのトップページから徐々に消え去ってゆき、やがては現在の生体肝移植の報道と同じくらいの位置を占めることになるにちがいない。メディアの関心が薄れるにつれて、一般市民の関心もまた薄れていくと思われる。
(pp8-9)
 即物的な政治プロセスの研究もまた必須である。臓器移植法が制定され、脳死移植が再開されたいまこそ、ここ30年の脳死臓器移植を巡る政治とは何であったのかを、学際的に研究する必要がある。たとえば、「脳死と臓器移植は本来別物であり、脳死と判定された身体を、いかに有効利用するかというときに、移植が選択肢として登場したのだ」という「説明」がなされることがある。しかしながら、脳死と移植の実際の歴史を見てみれば、この説明がまったくの欺瞞であることが判明する。脳死のような病態は1960年代から専門家のあいだで話題にはなっていたが、60年代には脳死という概念すらなかった。そのなかで、1967年に南アフリカで世界初の心臓移植が行なわれる。生きている心臓を取り出したのだから、その人間はほんとうに死んでいたのかという疑問が世界中でわき起こる。それに答えるようにして、翌68年にハーバード大学で、世界初の「深昏睡判定基準」が作成される。しかしこのときでも、まだ「脳死」ということばは使われていない。すなわち、まず最初に「心臓移植」が行なわれ、それを正当化するかのように、その翌年に「深昏睡判定基準」が作り上げられるのである。順序は、心臓移植→脳死なのであって、けっしてその逆ではない。
 日本においても事情はまったく同じである。1968年に札幌医大でいわゆる和田移植が実施される。そのあと、1974年に、日本初の脳死判定基準が日本脳波学会によって発表されるのである。ここでもまた、心臓移植→脳死という順序は維持されている。歴史が教えるところに従えば、脳死の概念は、心臓移植を行なうために作り出されたものである、という見方しか導けない。日本の臓器移植法もまた、臓器移植のために法的な脳死判定を行なうという筋立てになっている。
 このことは、ふたつの興味深い論点を提供する。ひとつは、心臓移植という「行為」を遂行するために、脳死という「新概念」が要請されたということである。新概念が登場してあらたな行為が登場したのではなく、あらたな行為を根付かせるために、あるいは正当化するために、あらたな概念が導入されたということである。これは、他の分野においても見られる構図なのだろうか。このことは、いったい何を意味しているのだろうか。
 もうひとつは、事実はそのようであるのにもかかわらず、国民を説得したり「啓蒙」する場合には、事実とは逆の構図の説明がなされてきたということを、どう考えればいいのかということである。つまり、脳死と臓器移植は切り離して考えるべきであり、不幸にも脳死になった人から、臓器を取り出して他人の役に立てることができるのだという説明がなされるのはなぜなのか。もちろん、「脳死」という病態と、「臓器移植」という施術それ自体はまったくの別物であるのだが、そのふたつは、歴史的には移植を船頭とする共生関係で動いてきた。このあたりの力学を、どのように考えればいいのか。
 さらには、日本の臓器移植法制定に至る10余年間の紆余曲折のなかに反映している政治力学と、その背景にあるように見える「生命観」の政治的戦いのプロセスをあぶり出す研究がぜひとも必要である。これは近過去政治史研究の巨大で意義深い素材であると確信する。数百冊を超えるといわれる日本の脳死関連書籍をはじめとした文献の海は、まだほとんど研究されていない(小松美彦の研究はこの点でも注目に値する)。


◆坪田一男, 200001, 『移植医療の最新科学――見えてきた可能性と限界』講談社.
(pp16-18)
遅れた日本の移植医療
 日本での臓器移植は、一九五六年に新潟大学で、急性腎不全の患者さんに一時的に、心臓死したドナー(臓器提供者)の腎臓を移植したのが最初といわれる。その後一九六二年に東京大学で、根本的な治療として、慢性腎不全の患者さんに生体腎移植が行われた。
 もっとも有名なのは、一九六八年八月八日に札幌医科大学で、日本で初めて行われた心臓移植である(写真1-1:和田寿郎教授と移植手術を受けた宮崎信夫さん)。執刀者は和田寿郎教授。ドナーは海水浴で溺れて脳死状態だったとされるが、本当に脳死だったかが疑問視された。
 僕は最近、和田先生にお会いする機会があったが、医療に対する情熱的な取り組みと、患者さん本位の考え方に感銘した。当時の報道には偏見があったのではないかと思うほどだった。
 ともかくその結果、日本では脳死からの移植が大前提となる心臓、ひいては肺などのメジャーな臓器の移植はタブーになってしまった。このため、技術的にも倫理的にも研究が滞る状態になって、欧米に比して数十年分も遅れたといわれている。
 大阪大学の松田暉教授らの調査では、一九九三年から九八年までの五年間に、心臓や肺の移植でしか治療法がないとみられた一五歳未満の子どもの患者さんは一三九人いたが、このうち海外で移植できたのは一〇人にすぎず、半数以上の七七人が空しく亡くなっている。
 またその他の推計によれば、年間一〇九〜三五五人の患者さんが、心臓移植の適用がありながら亡くなっているとみられる。
 こうした状況にあった日本に対して欧米の医療先進国では、脳死基準の制定や免疫抑制剤による拒絶反応の克服など、移植医療の環境整備を着実に進め、あとで述べるようにかなりの移植件数が行われている。
 ただし脳死を前提としない臓器の移植については、数こそ少ないが、技術的には世界のトップレベルにあることを、日本の移植医たちの名誉のために言っておきたい。
 たとえば腎臓移植は、肉親などから二つある腎臓の一つをもらう生体腎移植と、心臓停止したドナーからの死体腎移植がある。日本だけで生体腎移植はこれまでに九〇〇〇例を超え、死体腎移植も四〇〇〇例近い。年間一五〇〇例行われている角膜移植とならんで、日本でも定着した移植医療になっている。


森岡 正博 20000720 『脳死の人――生命学の視点から(増補決定版)』,法蔵館.
●対談 脳死と臓器移植の本当の問題    杉本健郎・森岡正博
(pp181-185)
 ドナーとレシピエントの家族の関係
森岡 臓器移植は業績主義がむしろ原動力で動いているという話があります。しかし、一般市民としては、何か雲の上の話で、「業績」といってもなんのことだかわからない人がほとんどだろうと思います。
 医師は家族に、移植をすれば業績になるからという説得のしかたは絶対やらないでしょう。こちらに死にそうな人がいるから、心臓がこちらへ行けばこの人は助かると説得する。すると、やっぱり家族は動かされる。あなたのご家族の心臓を一[p182>個こちらへあげれば、こちらの一つのいのちが助かるんです。あなたのご家族のかたの臓器が生き続けるんですというところで、ドナーの家族は納得し、ある場合にはいいことをした気持ちになって、臓器をあげるのです。そこにはいわゆる「善意の提供」というストーリー以外のものは入ってこないわけです。そういうストーリーの流れにのってドナーの家族は納得するし、もらった人も「ありがとうございました」ということになるのだろうと思うんです。じつはそのような議論ともうひとつレベルの違うところで業績主義が動いていたり、もっと別の政策の次元では医療資源の問題、経済の問題が動いたりしているわけです。構造は何重にもなっていると思います。
杉本 だから、いまの医療政策の中身を考えるとき、「脳死と臓器移植」は非常に面白いマテリアルだと思うんです。
 移植という問題に限れば、そこで引っ掛かっているのはやっぱり和田事件でしょう。まだやっと地検の資料が公表された程度です。明らかに脳波もとってないし、はたして脳死であったのか、また本当に心臓移植が必要であったのかなどいろいろな問題をふくんでいるでしょう。
 和田問題というのが、結局あのような曖昧なかたちで終わってしまうこと自体が、医療の不信に拍車をかけているわけです。あれを曖昧でなくしてしまうと、非常に困ることになるんでしょう。
森岡 それに、和田教授はずっと胸部外科学会のリーダーとしてやってきたし、いまでも退官されてまだリーダーとしてやっていると聞きました。このようなことを許すいまの医学界の雰囲気といいますか、体質に、はたして国民が納得するかですね。
 アメリカの生命倫理の研究誌(Hastings Center Report,October,1985)に、一九八五年に日本で起きた事件が紹介されていました。医師が誤って一〇歳の少女に抗がん剤を注入して殺してしまった事件ですが、その医師は自分の誤りを認めて謝[p183>罪したのち、医療過誤を追及されることもなくカナダで研究を続けているとのことです。医師の明らかな過失が、きっちりと追及されない日本の医学界の体質は、外国からも奇異な目で見られています。
杉本 個々の移植についていえば、ドナーを不明確にし、レシピエントも不明確にします。医者だけが両者を知っている。医者はつけ替えをして、そのあとの生存率とその期間に興味をもつわけです。ところがドナー側というのはやっぱりなけなしのものをあげたわけで、その代わりに金をくれというのではなくて、そのあげたものがどういうふうに働いているかということを知りたいし、その権利があるのです。もう言ってほしくないという人もあるかもしれないけれども、われわれにしたら知る権利がある。どこへ行ったか分からない。ぼくらの場合はあげたものがどこへ行って、どうなったかということは分からないのですよ。やっぱり生きているか、死んでいるのか、動いているか、動いてないかということを知りたいのです。ドナー側としては、移植臓器はすべてをかけた生命の継承でしょう。
森岡 そうですね。
杉本 だから、ポンコツ屋でタイヤ取ってきたり、ハンドル取ってきたりして自分のいいようにリフレッシュするという同じ感覚で臓器も扱われているような気がします。しかも、レシピエントの選択の問題が一般には全然わからないでしょう。
 今度の本(『剛亮の残したもの』)にも書いてますけれども、レシピエントの母親からNHKテレビ(NHK特集「剛亮生きてや」一九八七・三・一六放映)を見てNHKに手紙がきた。二十歳になる子の腎臓が死んだうちの子のあげたものだということがテレビを見て分かった。ぼくらはテレビに顔が出ているし、どこの誰かということが相手には分かっているわけです。その母親はそのとき移植をした医師に、「線香を上げにいきたいから」と言った。ところがその医師に、そのようなこと[p184>はしないほうがいいと断られた。それではせめてお花だけでも供えたいと言ったがそれも断られたというのです。そうではない、やっぱり向こうにしたらもらって本当にありがたいし、その人が透析から抜け出して非常に元気にやっているという感謝の気持ちで、うちの子供に線香を上げることは、なんら問題のないことです。
 ぼくらもまさかそこで札束をもらいたいとか、ゆすろうなどと言っているわけではない。ただレシピエントとして腎臓を受け継いだ人は、それだけの貴重ないのちをもらっているのだから、たとえ人から注目を浴びてもぼくはいいと思います。それだけ問題なくあとの人生をきちっと生きなければいけないと思います。自分の人生を人からもらっているわけです。だから、隠す必要は全然ないと思います。もらったんだという気概をもって後の人生を生き抜く必要があると思います。それだけの背負うべき役目があるのではないかと思います。単に部品のつけ替え、オペをして、がんの部分を取ったという問題と全然違うと思います。
森岡 強く生きられる人もいるでしょうけれども、自分の中にはかのものが入っているというだけでかなり心理的なストレスがたまる人もいると思います。
杉本 自分で望んだことなのでしょう。
森岡 そうです。
杉本 単に人工の機械のペースメーカーが入っているのとは違うと思います。それだけの重さというものは「部品」であっても感じるべきだと思います。いまはぼくはそのように思います。クローズにする必要はないのではないかと思います。それから、レシピエントの選択のプロセスで、腎臓でも、有名なというか、いわゆる力のある人のほうに先に行ってしまうような気がしてならないのです。それから、心臓などになってくると何千万近い費用が要るわけです。そうすると当然、人が限られてしまうでしょう。アメリカなどは最初は財団をつくって金を出していたけれども、それは[p185>すぐにパンクしてしまって、結局いまは金のある人だけしかやれない。金のない人はだとえば明美ちゃん基金というのをやっているけれども、一人、二人やったらそれで終わりですよ。


●決定版の増補
(pp239-243)
 医師への不信感について語ってまいりました。お聞きになったみなさまは、そんな根拠のないこと、事実に反することを言ってもらっては困ると思っておられるかもしれません。しかしながら、かなり多くの日本人が、このような不信感をもっていることそれ自体は、事実なのであります。あるいは、こう思われる方もおられるでしょう「そういう誤った情報をみんなが信じているのは、マスコミに踊らされているからだ。だから、これからは、医師はそんなひどいことなんかしていないという事実を、正しく市民に啓蒙していく必要がある」。
 しかしながら、そういう戦略は、もはやこの成熟した情報社会である日本においては通用しないでしょう。市民は、そういう言い方で「啓蒙」されるほど真っ直ぐなこころはもっておりません。「君たちの考え方は間違っているから、我々が啓蒙してあげよう」という言い方が、実はいちばん反感を買うというような段階の成熟社会に、いまの日本は到達しています。これはぜひみなさんの肝に銘じていただきたいのですが、若い世代は、情報はつねに操作され作られているという実感をふつうにもっています。私の世代以下の人間は、もう物心ついたときからテレビがあります。テレビで流される情報が、いかに作られたものでしかないか、やらせがどのくらいあるのか、そういう[p240>ことを知り抜いています。国会答弁でいくら議員が頭を下げて説明したとしても、それが建前だけでしかないということは大前提です。学校に行ったとしても、学校の校長がしゃべることなどは、建前だけでしかない、本音は全然別のところにあるということを、すでに知り抜いている。いじめで自殺者がでたときに、「うちの学校にはいじめはなかった」と記者会見する校長の姿というのを、いやというほど見ているわけです。
 そういう人たちに向かって、「医師はいつも患者のことだけを考えて、人類愛で医療をしている」などという建前や、単なる理念だけを繰り返しても、彼らのこころにはまったく届きません。彼らは、そのようなことばを、テレビの国会答弁と二重写しにして聞くことでしょう。そういう意味で、日本がすでに成熟した情報社会に入っているということを、肝に銘じておかなくてはならない。建前を繰り返しただけでは、もう信頼回復はできないというところにまで追い込まれているのだという自覚が、どうしても必要なのです。
 一九九七年一一月に関西の読売テレビのニューススクランブルで、臓器移植についての特集を一週間続けてやりました。その初日に私もスタジオ出演して意見を述べましたが、そのときに、六八年の和田移植の和田寿郎元札幌医科大学教授のインタビュー映像がありました。これは、読売系列の北海道のテレビ局が九七年夏に取材したもののようですが、なかなかすごかったですよ。和田さんは、そのビデオのなかで、「こんないい手術はしたことがない。役に立ってよかったし、両方に喜んでもらってよかった」「わしは死ということを決めて、みんなも同意した。ぜんぶクリアーです」と断言していました。みなさんご存じのように、和田移植は、脳死判定への疑問や、移植患者[p241>の適応など、様々な疑惑が出されて大きな社会問題となり、そこをうやむやにしたまま放置したので、その後の移植がずっとストップしたままになったという大事件でした。もし、和田移植に対してクリアーな対処を医学界がしていたら、臓器移植がこれほどまでに遅れることはなかっただろうと言われているわけです。そのくらい大きなトラウマを、和田移植は日本の医療の歴史に残してきたわけです。その当事者が、脳死臓器移植が再開されるであろう九七年という年に、このようなことを平然とテレビの前で言うとはどういうことか。
 和田教授は、その後も胸部外科学会の大物でしたし、国際的にも活躍していましたね。みなさんのいわばボスに当たる人ですよ。でも、私も、そしてテレビを見ていた多くの人も、医療の学界にはなんの利害関係もないのです。私は、ここでいくら和田先生のことを批判しても、痛くもかゆくもないのですよ。同じように、テレビを見ている人たちも、和田先生について何を言っても、何を感じても、痛くもかゆくもありません。そういう部外者の一般人があの映像を見たときに何を感じるかというと、「あの人は、いまだに自己正当化ばっかりしている」と思うわけですよ。自分のやったことは、正しく、すばらしく、何の問題もなかったと、そればかりを繰り返している。夜のニュース番組でしたから、視聴率は高かったと思いますが、視聴者はそういう印象をもったでしょう。テレビというのは怖いメディアで、あの映像を見ると、和田さんが本気でそういうことを言っているのが、手に取るように分かります。いまだに、自分が正しかったと、そればかりを言っている。その言い方も、とても傲慢です。
 テレビで見ていると、ああ、この人、本気でこういうことを言ってるんだと分かってしまう。こ[p242>のあたりのことが、とても大きいわけです。これを見た視聴者の多くは、また医師への不信感をつのらせたかもしれません。「やっぱり、医者というのは……」と思ったかもしれません。こういうところで、医師への不信感というのは、たえず再生産されているからなのです。
 たとえば、そのテレビで、私は和田先生のお話はおかしいと言い、そして医師にはもっと謙虚になってほしいと言いました。その番組は生放送だったわけですが、終わった直後に電話がかかってきて、ディレクターが受けました。その方は、大阪在住の医師だと名乗ったうえで、「ようするにあんたのところの局は、移植反対なのか」と問いつめたそうです。思うんですが、どうしてそういう言い方しかできないんでしょうか。たしかにいろんな問題があるかもしれないが、でも、移植によってこのようなメリットがあるではないか、そこをきちんと検討してほしいというような言い方だったら、喜んでお聞きするわけです。そういう建設的な問いかけならば、大歓迎なのです。でも、そうではなくて、「私は医師だが、ようするにあんたのところは移植反対なのか」と言ってくるという、そのなかに傲慢さを感じます。庶民というのは、そういう傲慢さにはとても敏感です。すごく敏感です。もちろん、そういう傲慢さを感じたとしても、その場では何も言いません。だって、反論したって、押さえつけられるだけだから、力のある人に向かってはその場では何も言いません。だから、そういう傲慢さを身につけた人たちは、傲慢な言い方をすれば一般人は黙るというふうに思っているんでしょうね。こういうのを日本語では恫喝と言いますが。でも言われた方[p243>は、どういう感じをもちますか。その傲慢さのなかに、そして傲慢さで押し切られたことに対して、大きな不信感をもつでしょうし、以前からある不信感をさらに増幅させてしまうことになるでしょう。ここでもまた不信感は再生産されてゆくのです。


◆香川 知晶 20000905 『生命倫理の成立――人体実験・臓器移植・治療停止』,勁草書房.
(pp120-122)
2 心臓移植の登場
 臓器移植をめぐる新たな責任の問題について、その後も専門家の間での議論は続いていく。たとえば一九六六年に開かれた「医学の進歩における倫理、特に移植との関連で」という医学会議である。これはエルキントンの論説にもコメントを寄せた英国の代表的な移植医ウドラフがチバ財団に働きかけ、その後援のもとに実現した。ウドラフはそれ以前から移植医療の倫理問題、特に臓器提供者に関心をもっており、ドナーが危険性を理解した上で自由意思によって提供することの重要性を強調して[p121>いた(LETTERS & COMMETNTS 1964, 356)。移植をめぐる問題は医師による意思決定だけでは対処しきれない。その意味ではウドラフにも、伝統的な医療的パターナリズムを超える問題の出現という自覚を認めることができる。会議には当時を代表する国際的な移植医たちが参加し、ウドラフの問題意識を受ける形で議論が進められた。中心議題はドナーへの強制の問題とその死をめぐる問題におかれた。ただ、この会議では問題点が確認されたにとどまり、積極的な結論が打ち出されるまでには至らなかった。
 こうした中、「医学の進歩における倫理、特に移植との関連で」の開かれた翌年に、臓器移植は一躍世間の注目を集めることになる。いうまでもなく、世界最初の心臓移植の報が南アフリカからもたらされたからである。一九六七年年一二月のことであった。執刀したのはケープタウンのフローテ・シュール病院のクリスチアーン・バーナード。ドナーは自動車事故で重傷を負った二二歳の女性で、レシピエントは重い心臓病を患っていた五五歳の男性患者であった(63)。レシピエントは一八日後に死亡する。だが、その数週間後に行われた第二例目の患者は五九四日間生存し、退院後、報道陣の前で水泳をしてみせるまでに回復した。その後、世界中で堰を切ったように心臓移植が行われ、日本の三〇例目(和田事件と呼ばれることになるもの)も含め、六八年には一〇八例を数えるまでに至る。
 最初の心臓移植以降、臓器移植をめぐる関心は大きく変化することになる。それまでは移植の中心は腎移植にあり、議論の中心の一つは生者からの移植に置かれてきた。それが、心臓移植の報とともに、焦点が一挙に死の問題へと集中していく。その口火を切ったのは、いうまでもなく、ハーヴァー[p122>ド大学医学部の「脳死の定義を検討するための臨時委員会」の報告「不可逆的昏睡の定義」である。


◆澤田愛子 20010430 「脳死と臓器移植」今井 道夫・香川 知晶『バイオエシックス入門――生命倫理入門(第三版)』,東信堂:88-111.
(pp98-102)
 わが国の場合、死者からの腎臓と角膜の移植に関しては、すでに1950年代の中頃より試みられていた。初期には成功例が少なかったものの、免疫抑制剤の進歩によって、最近、この両者の移植件数は急速に伸びている。これらの移植に関しては、ほとんど倫理的な論議もされぬまま事実のみが先行していった。「角膜及び腎臓の移植に関する法律」ができたのは、1979年になってからであった。
 けれども、わが国で脳死・臓器移植問題の原点に位置づけられるのは、なんといっても、1968年の和田心臓移植事件であろう。この事件は当初こそ美談として報道されたのであったが、後で次々と疑問点が発覚し、ついに大阪の漢方医達による告訴事件に発展していったのである。ドナー(臓器提供者)側にもレシピエント(臓器受容者)側にも多く[p99>の不明点が残り、これらに対する当事者からの明確な回答も得られぬまま、証拠隠滅等も行われ、結局はうやむやのうちに終わったのである。患者は83日間生きて死亡した。移植医の和田寿郎札幌医大教授は、その後不起訴処分になったが、本事件はわが国の医療や医師に対する大きな不信感を残し、移植医療停滞の最大の原因となった。だから、脳死臓器移植の再開には、この不信感の払拭が最大の鍵となったのである。
 80年代に入ると、わが国も世界の潮流に押されるように、再び脳死問題に取り組まざるを得なくなった。1984年には筑波大でわが国初のすい腎同時移植が実施されたが、脳死への疑念の強い中での実施は、後に市民グループによる告発事件へと発展していった。その後、脳死、臓器移植論議が活発化するにつれ、各種の検討委員会も設置されていった。88年には、日本医師会生命倫理懇談会が「脳死及び臓器移植についての最終報告」を行い、条件付きで脳死移植を容認した。92年1月には脳死臨調の多数意見がこれまた、条件付きで脳死移植を容認した。(略)[p100>
 移植法はこうして施行されたが、1年と4ヵ月の間、脳死者からの移植が実施されることはなかった。諸外国と比べても、きわめて厳しいその内容に、「これは臓器移植禁止法だ」という人まで現われた。新法では死の定義を明確にせず、臓器を提供する場合にだけ、脳死で死を診断する妥協案が盛り込まれたが、これは脳死移植推進派と慎重派の双方をある程度納得させるために取られた苦肉の策で、諸外国に例[p101>をみないものであった。いかにも日本的な決着の仕方であったかもしれない。
 法律施行後1年と4ヵ月が過ぎた99年の2月、高知で初めて合法的なドナーが出現し移植が行われたが、それ以降2000年5月15日まで、7件の脳死臓器提供があった。その結果、各臓器は日本臓器移植ネットワーク(それまでの腎移植ネットワークが法律施行後にこのように組織改変を行った)の選定した患者に配分され、これまでのところ、5例の心臓移植、6例の肝移植、2例の肺移植、1例のすい腎同時移植、11例の腎移植が実施されている。2000年5月15日現在、レシピエントに重大な障害が生じたとの報道はない。しかし、5例目の事例で、20代のドナーの心臓が10才未満の子供に移植され、サイズが違い過ぎたためか、一時的に移植心臓の機能が悪化し、人工心肺を付ける事態になったそうである。しかし、その後の経過は移植施設から発表がないために不明である(2000年の5月から2001年の3月までに脳死者からの臓器提供はさらに7例あったが、実質的に臓器移植が実施されたのは、そのうち6例であった)。
 これら一連の合法的脳死移植を終えて、新たに浮上した問題もあった。それはプライバシーの保護と情報開示に関する問題である。ことに第1例目においては、脳死確定前から報道陣が病院に殺到して、リアルタイムの大がかりな報道が展開された。しかし、そのことにドナーの家族が怒ってからというもの、急に情報開示は後退し、以後の事例では、開示の範囲が家族の意向に委ねられる傾向となり、その時期も大幅に後退し、心ある人達に大きな不安を与えることになった。和田移植の教訓から、移植医療の透明性はこの国の脳死移植再開の必須条件でもあったはずだ。それが最初から大きな壁にぶつかってしまったのである。だが一方で、個人が特定されぬよう、ドナー、レシピエント双方のプライバシーの保持も移植医療には重要である。個人が特定されれば、後にやっかいな問題も出現しかねない。ただ、残念ながら、この問題に関して現在十分な議論が交されているとはいいがたい。移植の件数が増加するにつれ、報道量も減少してゆくのはある意味で必[p102>然の成り行きかもしれないが、うやむやのまま終わらせてよい問題ではないだろう。厚生省は移植の事後検証のために、第3者機関を設置し、第5例目から検証を始めたが、十分機能を果たし得るものか、監視が必要である。


◆内田宏美, 200109, 「ネット上討論から見た脳死・臓器移植の価値構造――近代化・グローバル化の視点から」『生命倫理』11(1):9-16.
(p10)
 臓器移植法成立後1年4ヶ月が経過した1999年2月、我が国初の脳死状態のドナーからの臓器移植が実施された。我が国の移植医療に長く影を落とすことになった、1968年の和田(わだ)心臓移植以来、実に31年ぶりのことである。以後、現在までに10件の脳死移植が実施された。しかしながら、臓器移植法制定までの紆余曲折のプロセスといい、法制定後の沈黙期間といい、医療化の進行した先進国としては、特異な経過を辿っていることには違いない。


森岡正博, 20011110, 『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房.
(pp26-28)
 ドイツは最近まで脳死法を持っていなかったが、すでに1980年代から脳死の人からの移植を行なっていた。ところが、1992年に妊娠4ヶ月の女性が脳死となり、この女性の体内で胎児は生き続けた。だが、約1ヶ月後に流産となり、女性の生命維持装置ははずされた(エアランゲン妊婦のケース)。この事件をきっかけにして、妊娠を継続できる人間が果たして死んでいると言えるのか、女性の身体が保育器代わりに用いられたのではないかなどの国民的な大議論が起きた。その後、1997年にドイツの連邦議会で、脳死を人の死とする法律が制定された。その際に同時提出された「脳死を前提としない移植法案」に対して、626票中202票の賛成があった。国会議員の約3割が、脳死を人の死としない案に賛成したという事実は、ドイツにおいても根強い脳死反対論が存在することを意味している(6)。
 日本では、1968年の和田寿郎による心臓移植が告発されてから、1983年までのあいだ、脳死はタブーになっていた。1985年に脳死判定基準(竹内基準)が発表されると、「脳死は人の死か」どうかをめぐって国民的な大議論が起きた。中島みち『見えない死』(1985年)、立花隆『脳死』(1986年)がベストセラーとなり、メディアの関心が集中した。1992年、脳死臨調が脳死を人の死とする最終答申を作成したが、同時に、脳死を人の死としない少数意見を併記して注目を浴びた。1997年、脳死を人の死とする法案と、脳死を人の死としない法案が衆議院に同時提出され、紆余曲折を経て、現行の臓器移植法が制定された。これは、脳死判定と臓器摘出について本人の意思表示があり、家族がそれを拒まないときに限って、脳死判定を行なって人の死とし、臓器を摘出できるとしたものである。臓器移植の意思表示があるときに限って、脳死を人の死とするという、世界的にもユニークな法律となった(7)。2000年に、現行の臓器移植法の見直しが始まった。臓器移植法が改正される可能性もある(8)。
 ここで、以下の3点を確認しておきたい。
 第一に、ほとんどの国において、脳死に関する一般市民を巻き込んだ国民的議論は行なわれていないということ。また、大きな国民的議論が行なわれた三つの国では、脳死を一律に人の死とみなすことへの根強い疑義が表明されたこと。
 第二に、それにもかかわらず、脳死を人の死とみなして臓器移植を可能にする法律あるいはそれに準ずる規約が、これらの3国をも含む多くの国で制定されたということ(例外はイスラム諸国や第3世界諸国)。
 第三に、1983年から1997年までのあいだ、日本は多様な一般市民を巻き込んで、世界でもっとも濃密な脳死論議を行なった国であるということ。150冊を超える脳死本が刊行されており、そのほとんどが一般読者を対象としたものである。英語で出版された脳死本の数ははるかに少なく、かつそのほとんどは専門書である。2001年3月時点で検索したところ、タイトルに「脳死」を含む日本語の書籍は171冊、そのうち現在書店で購入できるものは142冊である。これに対して、タイトルに「brain death」を含む英語の書籍は17冊、そのうち現在書店で購入できるものは9冊である。日本の脳死論議は、世界でも最先端の議論をしてきた(9)。言語の壁があるので、海外にはほとんど紹介されていない。その一部は、第2節で紹介する。
 世界的に見たとき、ほとんどの国では「脳死問題」はすでに「終わった」問題として処理されている。そのなかで、デンマーク、ドイツ、日本で執拗な脳死論議がなされた。なかでも、この問題に対する日本のこだわりは一種異様であり、突出した議論の深まりを達成している。議論が低調だったアメリカ合衆国において、1990年代の半ばから、生命倫理の専門家のサークル内部で脳死論議が再燃し始めてきた。1980年代から90年代にかけての、日本の脳死論議を振り返って再検討することによって、われわれは新たな生命倫理の扉を開くことができるであろう。また、この作業は、世界の生命倫理の議論に対しても、重要な貢献をなすことになるはずである。
(pp46-47)
 日本の、脳死についての議論は、1968年の和田心臓移植直後に始まった。しかし、和田寿郎が告発され、心臓移植がタブー化してゆくなかで、脳死についての議論もまた下火になっていった。1983年、厚生省が「脳死に関する研究班」を設置して、脳死判定基準の作成に着手したのをきっかけとして、脳死についての議論が再燃した。脳死の人からの移植を日本でも可能にしようとする「推進派」の言説が、新聞記事や書籍の形で、多数刊行された。1984年、筑波大学病院で、脳死状態の患者から膵臓・腎臓などが移植のために取り出された。脳死を人の死と考えないグループが、医師たちを殺人罪で告発した。これ以降、脳死移植「賛成派」と「反対派」のきびしい対立が続いた。
 すでに述べたように、1983年から現在に至るまで、150冊を超える脳死論の書物が刊行されてきた。これは、世界でも例を見ない現象である。このような突出した議論がこの15年間の日本でなぜ起きたのかについては、様々な推測があるが、定説はない(43)。海外の脳死論と比較したときの、日本の脳死論の特徴のひとつは、脳死患者を看取る家族の心情というものに、その当初から強い焦点が当てられたことである。脳死患者と家族との関わり合いが注目され、「見えない死」「脳死の人」「二人称の死」「共鳴する死」などの概念が生み出された。これらの概念は、一連の系譜を形成する。それは、私が、「脳死への関係性指向アプローチhumanrelationship oriented approaches to brain death」のパラダイムと呼ぶものである(44)。このパラダイムがどのようにして形成され、深化していったのかを、以下に検討してみたい。それによって、新たな生命倫理の視座が切り開かれるはずだからである。


川上武, 20020325, 「脳死・臓器移植の軌跡――心臓移植の提起した問題」川上武編『戦後日本病人史』農村漁村文化協会:611-639.
(pp615-620)
 その後約30年間で、心臓移植は約4万例を数え、現在では欧米を中心に世界で年間約5000例が実施されており、5年後の生存率も65%を超えているという(2)。現在では心臓移植が技術的問題(死期判定、救命技術との相剋、免疫抑制剤による生涯管理の問題など)を残しながらも、先進技術の一翼として定着してきているのが、世界的傾向とみてよいであろう。
 ところが、医療先進国の1つである日本では、この動きと少し違った経緯をたどっている。
  2 日本の心臓移植で明確になった問題
  (1)和田心臓移植への不信
 日本の心臓移植第1号は、1968年8月6日に札幌医大で和田寿郎教授によって行われた。ドナー(臓器提供者)は海水浴で溺れて脳死状態になったとされた青年であり、レシピエント(臓器受給者)は心臓の弁に異常のある少年であった。和田教授はその発表に際して、「2つの死より1つの生を」という説明をしたために、テレビ、新聞の連日の報道は礼賛調が目立ち、レシピエントへの激励調の報道が続いた(3)。
 ところが、患者が83日後に死亡すると、和田心臓移植についての不信が、医学界、世論から起きてきた。この心臓移植に医学面から疑問の声を発したのは、札幌医大の内部からであった。レシピエントの心臓を手術前に診断した内科教授は、僧帽弁を人工弁に置換することが可能との判断で和田外科に送った前後事情を、医学雑誌に発表した。また、病理解剖をした教授もその所見をめぐって、和田教授の手術に不信を提起した。和田移植は南アの世界第1例から数えて30例目といわれるが、ここにいたって報道のトーンはその技術、人間性の評価から技術不信、外科医の功名心・ウソへの批判に変わっていった(4)。
 社会的にも、南アの心臓移植いらいその技術的問題に関心をもっていた有志の医学者(松田道雄・石垣純二・中川米造・川上など)は「和田心臓移植を告発する会」を結成し、世論に訴えた。このあと同年12月には大阪府の漢方医ら6人が和田教授を殺人罪で告発した(5)。しかし、これらの1部の医学者、マスコミ、世論の動きを、医学界の大勢も検察当局も黙殺し、問題の所在をあいまいにしてしまった。
  (2)その後日本では心臓移植がなぜ行われなかったか
 和田心臓移植(1968年)いらい31年間、日本の心臓移植は空白時代に入る。世界的にはその間、何万例もの心臓移植が行われていた事実と比較すると、従来の医療技術導入の常識からみて確かに奇妙な現象である。しかし、この歴史的事実は必ずしもマイナスとは思えない。移植についての技術レベルは世界並みといわれながら、実施しなかった意味について検討する必要がある。「外科医に勇気がなかった」(和田)というレベルの発想ではすまされない。その根柢には、従来の医療観では了解できない"医療と文化"の問題があり、医学・医療のパラダイム転換にまで及ぶ近代医学史いらいの転換があった。そして、日本の医学者・思想家の中には、この問題に最初から最後まで慎重な姿勢を崩さなかった人々がいたからである。
 この問題に入る前に、なぜ心臓移植の空白時代が発生したかについてのいくつかの要因にふれておきたい。
 第1は、「2つの死より1つの生を」(和田)が、結果として「2つの生より2つの死に」に終わったのではないかという声なき世論が予想外に強かったことである。ドナーとなった溺死青年の救命・救急技術とレシピエントの少年の手術適応への不信に対して、検察も医学界もはっきりした姿勢をとらなかった。この検察と医学界の姿勢が日本の心臓移植実施の大きな障害となったのは事実である。
 第2は、「東大PRC(患者の権利検討会)」などの批判団体がその後の筑波大移植にかかわった3人の移植医を殺人罪で告発し(85年1月11日)、その後も批判活動を続けていたことである。これは、移植医療が前進するには、何か日本には大きな壁があることを痛感させていった(6)。
 さらに、第3の決定的な要因として、日本人の生死観がこの問題に深くかかわっていることがはっきりしてきた。
 日本人の生死観は「死はこれを精神と肉体とにわけることはできない」(吉本隆明)がその核心をついており、精神身体1元論であるといってもよい(7)。
 これに対し、欧米の生死観は、デカルト哲学的な精神身体2元論である。それもアメリカとヨーロッパではちがい、アメリカでは個人が承諾すればよく、ドイツはプロテスタント、フランスはカトリック、イギリスは国教会派が強いので、死期判定―臓器移植についてある種の価値判断が求められる。やはり教会を横目でみるといわれるという(米本昌平)。この場合、日本が臓器移植の推進・具体化にあたって、ヨーロッパの研究が必要であるという発想が根柢にある。これは適切な発言だと思う(8)。
  3 医師が死期判定
  (1)心臓死の時代
 脳死→臓器移植が技術的・社会的問題として登場する以前は、人間の死は心臓死(心死)が、明治期の医療の近代化いらい当然のことと医学でも一般でも受けとめられてきた。心死は"呼吸停止、心拍停止、瞳孔拡大・対光反応消失"の3特徴で長いこと判定されてきた。現実の問題として、臨床医が若い頃に「ご臨終です」と2回も言うという失敗をおかすことがあった。たしかに、患者が死の過程に陥ってから、短いが一定の時間が存在しているのは事実である。しかし、心死は素人でも納得できるぐらい明白なものである。
 しかし、人間が出産・誕生によって社会に入り、死亡によって社会を去るにあたっては、その判定は法的には医師の判定イコール決定に委任されてきた。誕生―出産届も産婆・助産婦→産科医の届出が必要だが、死亡については、死亡診断書・死体検案書・死亡証明書、死体検案書の記載・内容・書式については、医制いらい医療法の関係法規の中で、きびしく規定されていた(9)。この死亡診断書を書けるのは社会から委託された医師だけの権利義務である。他の何人もこれを代行することはできない。医師は個人的には医療技術者としての責任を負うと同時に、社会的には生死、とくに死期判定を委託されていたわけである。この後者は重要な役割だけに、医師がプロフェッショナルとして、特別な処遇を受けてきた歴史的根拠はここにあるといってもよい。
 昭和恐慌の頃、東北農村では死亡診断書が必要なだけに、生の最後に医師にかかるという儀礼が少なくなかった。さらに、死体の埋葬にあたっては、「埋火葬は死後24時間経過後行いうるものとし、市町村長の認可を受けること」(10)という取締規則があった。この24時間という時間は、死をめぐる犯罪、誤診などの不祥事の予防を意図していたものである。
 ただ、不思議なことに、明治近代化いらいの医事法制をみると、医師や関係者の資格、出生・死亡診断書などについては、詳細な規則が定められているのに、現代医療の重大事となっている死期判定については、心死を当然として何の規定もない。これが日本近代・現代医療史の事実であり、死(心死)は誰の眼にみても了承できることだったからである。このパラダイム転換を迫ったのが、脳死―心臓移植である。
  (2)脳死の登場
 現在でこそ脳死による死期判定が医療・社会の生命観を一変させるものとして、その歴史的意義が一般にも徐々に了解されつつある。しかし、"脳死"と呼ばれる状態それ自体が医療の場で問題になってきたのは、敗戦後、いま一般が考えているより早い時期(1950年代後半)からである。
 この間の事情について、斎藤隆雄は「脳死を人の死としてよいか」の中で、次のごとく述べている。「昭和20年代の終わりころから徐々にではあるが、現在の方式に近い人工呼吸器(レスピレーター)が臨床に導入され、名称はさまざまだったが、集中治療室(ICU)に相当するものが動き始めた。脳死と呼ばれる状態、つまり脳の機能を不可逆的に(後戻りがきかないところまで)喪失しながらなお人工呼吸器によって呼吸が維持され、心臓が拍動を続けている状態が登場した」(11)。
 ところが、1967年に南アでバーナード博士が、「脳死」と呼ばれる状態を利用して、心臓移植第1号を実施するにおよび、脳死と人工呼吸器の関係が明確となり、人工呼吸器を切るかどうかが、その後の重大な決断をうながす契機となってきた。「脳死」状態になると、実際には数日中に心拍停止になる人も多く、長く人工呼吸器を続けていると、脳がどろどろにとける「レスピレーターブレイン」になるという報告もすでになされるようになった。しかし、脳死論議が始まるまで、その現場にいた数少ない医師でもこの状態を"患者がすでに死んだ状態"と考える人は少なかった。まして、付添っている患者家族や見舞いの一般人にとっては、従来の心死の概念からみて、とても「死んだと実感する」のは困難であった(12)。
 しかし、南ア→アメリカ→和田心臓移植とつづく心臓移植→臓器移植の流れは、「脳死」状態の医学的意義(判定)を明確にすることを要請してきた。とくに、日本ではこれをあいまいにしたままでの臓器移植は、移植医が殺人罪で訴えられるという事件もあり、その判定に慎重にならざるをえなかった。
  4 臓器移植法の制定
  (1)日本人の海外での臓器移植の流れ
 和田心臓移植への不信、医学者の慎重論もあり、日本では「脳死」状態からの臓器移植は行われなかったが、この間、アメリカを中心に臓器移植が医療技術の前面に登場してきていた。この動きをみて、日本の移植学者は条件の許す者には海外移植の道をすすめ、心臓移植適応の患者の家族の中には、一般からのカンパによって海外移植の道を選ぶようになった人もある。


小松美彦, 20020822, 「臓器移植」市野川容孝 編『生命倫理とは何か』平凡社:95-101.
(pp97-98)
 臓器移植が盛んに試みられるようになったのは,血管吻合技術が開発された20世紀初頭からである。だが,約50年間にわたって成功例といえるものはなかった。拒絶反応を克服できなかったからである。1950年代になると,拒絶反応の正体が免疫反応であることが解明され,遺伝子型が同一の一卵性双生児間での生体腎移植に成功例が出る。
 さらに1967年12月,臓器移植は新たな段階に突入する。南アフリカのC・バーナードが,人間の同種間心臓移植を試みた。この移植は世紀の快挙として世界の人びとの耳目を驚かせたが,術後18日目にレシピエントは拒絶反応のため死亡した。しかし,これを機に心臓移植は次々となされ,その数は1年間でおよそ100件にのぼった。札幌医大で68年8月におこなわれたいわゆる和田移植は,世界で30例目の心臓移植に当たる。
 また,バーナードの移植以降,脳死を人の死とせんとする議論が全面浮上する。すなわち,心臓移植は拍動停止後の心臓では成功しがたいが,拍動中のものを摘出すれば移植医は殺人罪に問われかねないため,脳は機能停止しているもののいまだ心臓が動いている状態が着目されたのである。そして,従来は不可逆昏睡などと呼ばれたこの状態に脳死と改名され,人の死とする世界的な動向が生まれる。しかしながら,効果的で安全な免疫抑制剤が未開発であったため,心臓移植の長期生存者は存在しなかった。


◆林真理, 20020915, 『操作される生命――科学的言説の政治学』NTT出版.
(pp26-28)
 実際に八〇年代前半に脳死移植問題がクローズアップされるようになっていくとき、その進み方を方向づけた歴史的、具体的状況が存在する。本節の以下ではそれらを問題にする。まず技術的な水準についてみてみよう。
 通常、脳死と臓器移植に関する問題のはじまりは、人工呼吸器が使用されることになる一九五〇年代にさかのぼるといわれる(ただし人工呼吸器の原型の開発はさらにさかのぼることができる)。しかし、その当時は脳死の患者の扱いそれ自体も、移植との関連も、必ずしも社会的関心を集める問[p27>題にはなっていなかった。それは医学界内部でも同じであった。
 しかし、日本でも六八年に札幌医大で行われた心臓移植によって、すでに脳死(と当時は必ずしも呼ばれていたわけではないが)状態の人から臓器を移植すること(すなわち「臓器提供者=ドナー」として脳死状態の人を用いること)が社会的な話題に登場するようになる。執刀医に関する新聞報道は、最初の賞賛とその後の問題点追及との激しい落差という点が目を引く(*12)、いずれもセンセーショナルな報道が行われた。したがって、このときに問題の本質を人々がどう理解していたかということは別にして、心臓移植という当時の先端医療が新聞紙上で大きな話題にのぼる程度の知名度と関心を集めていたことは確かである(*13)。
 医学そのものの世界に目を向けると、この心臓移植が行われた前年の六七年に南アフリカの医師が世界初の心臓移植を行っており、それ以降、先進各国の医学会はにわかに移植をめぐって活気づいていた。アメリカ合衆国では、脳死を人の死であると認めるハーバード大学の「不可逆的昏睡の定義」など脳死移植を正当な医療行為として認知し実行するための手筈が整えられようとしていた。日本で六八年にたった一件行われた心臓移植(そしてその後三〇年にわたって日本では心臓移植は行われなくなるのであるが)もまた、そういった潮流の一つであり、世界で三〇例目に数えられる移植であった。
 しかし、脳死移植技術は、必ずしも研究者の期待したとおりには進展しない。七〇年代はじめに行われた移植手術の成績はあまり良好とはいえなかったからである。多くの患者が、移植臓器に対[p28>する拒絶反応などで、移植手術からさほど時を経ずして命を落とすことになった。こうして、心臓移植に対する初期の熱狂には少しずつ翳りがみられるようになっていく。
 ところが、免疫学的な知識が進歩すると同時に、拒絶反応を抑制するための薬品の研究が進むと事態は急転する。
(p84)
 (*12)朝日新聞一九六八年八月八日付「日本初の心臓移植手術後経過は順調」。同紙六九年二月一五日付「心臓移植は殺人罪に該当 和田教授告発される」。同紙六九年四月二六日付「移植の必要なかった宮崎君の心臓 札幌医大教授が見解」。
 (*13)日本初のこの心臓移植(いわゆる和田移植)については、共同通信社社会部移植取材班[一九九八]を参照。


◆安藤泰至, 200209, 「臓器提供とはいかなる行為か?――その本当のコスト」『生命倫理』12(1):161-167.
(p164)
 まず、臓器提供カードを持っていたために、救命のための医療がおろそかになる、という可能性を無視することはできない。現にこれまで日本で行われた脳死移植の検証例からも、その疑いをもたれているものが存在する。従来、こうした疑念は国民の医療不信(とりわけ日本では、和田移植の後遺症と関係づけられて)の問題としてとりあげられることが多かった。もちろん脳死移植に関してはそうした疑念を払拭すべく、その過程を厳重にチェック、検証するシステムが必要である。しかし、この問題が単なる医療者集団への信頼・不信のそれでなく、臓器移植というシステムの構造そのものから発していることを認識しなければならない。村上(1993)が述べる通り、臓器移植という事態は、「医師こそ、人間の死を最後に絶対確実になるまでは宣言しない職業である」という前提を侵害してしまう。先に述べたように、ある時点から、患者の身体に「その患者の治療をする」ためのまなざしではなく、「別の患者の治療のための資源として役立てようとする」まなざしが向けられるようになることこそが本質的な問題であり、こうした構造自体は、いかに移植医療の信頼性を高めようとも、変えられるものではない。移植医療に対して人々が抱く「なんとなくうさんくさい」という感情はこうした所に起因するものであろう。


倉持武, 20030205, 「序章 脳死移植のあとさき」倉持武・長島隆編『臓器移植と生命倫理』(生命倫理コロッキウム)太陽出版:7-16.
(pp12-13)
 移植医療はドナーという第三者を必要とする医療であるが、現行法はドナーについて、もっぱら臓器の摘出要件に関心を集中している。このため脳死判定費、臓器保護技術費、組織適合性検査費、提供病院必要経費、臓器搬送費等、ドナーに関わる経済的側面の処理法については何の法的規定も置かれぬままとなってしまっている。事務職員全員に休日出勤を命じ五〇〇万円以上の経費がかかった提供病院もある。搬送費に二五〇万円かかった心臓もある。提供病院にはさらに検証会議への出席と報告という負担がかかる。この負担が思いのほか重く、検証会議は廃止寸前にまで追い込まれた。「臓器の移植に関する法律」が移植医療の経済的側面に関して何の関心も払っていないという事態は、移植医療のインフラに不安定と曖昧性を引き起こしている。臓器提供意思表示カードの配布やドナーとレシピエントとをコーディネイトするネットワークの経済的基盤に、何ら法的基礎付けが与えられていないのである。「臓器の移植に関する法律」についてはこの方面からの検討も必要であると考える。
 七十七名のレシピエントのうち七名の方が亡くなられているのだが、そのほかの方々はお元気なのだろうか。二〇〇一年十月三十一日の毎日新聞には「〈心臓移植〉四例ともに問題なし国循センター評価委」の記事が載っている。国立循環器病センターで二〇〇〇年七月から二〇〇一年三月の間に実施した四例の心臓移植に対する、外部のメンバーも入った移植医療評価委員会の結論を伝える記事である。委員会は移植の「技術面、倫理面、患者への精神的ケア」について検討し、「技術は国際水準に達している」と評価したそうである。この四人の方はお元気なのだろうと思う。ほかの方々はいかがお過ごしなのだろうか。ところで、循環器病センターは委員に対してどのような資料を提出した上で評価を求めたのだろうか。他の移植施設でも評価委員会を置いているのだろうか。それぞれの施設での評価を一カ所に集めての、全国[p13>的観点に立った移植医療に対する評価、レシピエント全員の予後についての生涯記録の観点からの評価、そしてこれに基づくデータベースの構築は行われているのだろうか。一九六八年の和田移植に対する日本弁護士連合会心臓移植事件調査特別委員会が、すでに、移植医療の客観的評価のためにはレシピエントについての生涯記録観察が必要であるとの勧告を出しているのであるが。


◆趙炳宣, 20030205, 「日本と韓国の臓器移植法に関する比較法的考察――新しい臓器移植術の発展に伴う医療倫理的・法哲学的アプローチを中心に」倉持武・長島隆編『臓器移植と生命倫理』(生命倫理コロッキウム)太陽出版:46-83.
(pp46-47)
 日本の臓器移植法(一九九七年)と韓国の臓器移植法(一九九九年)には、日本および韓国の社会が、まだ西欧社会に比べて脳死に対する大衆の拒否反応が強くて脳死者からの臓器移植がアクティブとはならないという社会的背景(*3)をもとにして、一九九〇年代後半期に二年をおいて次々に立法されたという類似点がある。さらに、両国の家族の伝統的価値観によって、臓器移植で家族が支配的な役割を果たすという形での法制は、西欧の臓器移植法制とは際立った相異点を見せている。日本の臓器移植法によれば、臓器移植に限り、本人が生前に同意した場合に脳死を人の死と認める(条件付き脳死)。しかし韓国では、脳死と関連して、脳死者を死亡した者と別途に規定して、生きている者、死亡した者、脳死者の三段階の構造を採用し、脳死を人の死と見るという規定がない。脳死判定に従うことについて本人ないし家族の同意を求める手続きも持たない。日本、韓国ともに、臓器移植につき本人の同意の他に家族の同意を要件としている。しかし韓国では、本人の生前の意思を確認することができない場合に、家族に決定権を与えて臓器移植について家族の意思を優先している。また韓国では、脳死を死亡と見なす規定がないために、脳死者[p47>の臓器摘出による死亡は刑法上の殺人罪を構成することになるので、死亡の原因を臓器摘出ではなく、脳死の原因になった疾病または行為と見なす特別規定を置いている。さらに、日本の臓器移植法は、生体移植に関して沈黙しているが、韓国の臓器移植法は生体移植に関する明文規定を置いている。日本と韓国に共通する臓器の摘出要件は、本人の承諾意思があること、そして臓器摘出に対する家族の反対がないことである。脳死体や死体に対する本人と家族の自己決定権を認める形態と強度は、日本と韓国の臓器移植法制の明確な特徴を示している。とくに本人の承諾意思の他に家族の意思を尊重することは、日本と韓国の社会文化規範の要請と見ることができる。
(pp74-75)
 (*3)石原明「臓器移植法の性格と特色」(中山研一・福間誠之編『臓器移植法ハンドブック』日本評論社、一九八八年)三三頁。日本最初の脳死者からの臓器移植は一九六八年に行われた心臓移植手術であった。当時その手術をした医師は殺人罪で告発され(和田心臓移植事件)、これを契機にそれ以後脳死者からの臓器移植は公式には施行されていない。その後一九九七年に臓器移植法が立法されてはじめて、脳死者からの公式な臓器移植が許容されることとなった。それ[p75>以後八件の脳死者からの臓器移植手術について人権救済申立てが行われたという報告がある。これに対し韓国最初の脳死者からの臓器移植は一九八八年二月の心臓移植手術と一九八八年三月の肝臓移植手術だった。しかし、日本とは違い、韓国では当時論争はあったものの刑事問題になることはなかった。保健福祉部「臓器等移植に関する法律」制定のための公聴会、公聴会資料九六・一〇、一〇。


澤田愛子, 20030205, 「臓器移植法施行後四年を過ぎて――脳死移植実施の経過と新たに浮上した倫理的問題」倉持武・長島隆編『臓器移植と生命倫理』(生命倫理コロッキウム)太陽出版:84-114.
(p85)
 これまでの脳死移植実施例において、第十例目までは一応検証作業がなされてきた。わが国の移植史において、六八年の和田移植事件が一大汚点を残したことを考えれば、疑問を残さぬ脳死移植の実施は社会的な要請でもあったからである。第一例目から第四例目までは厚生省の公衆衛生審議会臓器移植専門委員会(黒川清委員長)が検証し、第五例目からは厚生大臣(現厚生労働大臣)の私的懇談会である「脳死下での臓器提供事例に係わる検証会議」(藤原研司座長)が行っている。しかし、第十一例目からは、会議のあり方をめぐって紛糾し、検証は中断したままになっている。だが、その後、会議自体は存続させる方向になった(二〇〇一年十一月末現在)。
(pp101-103)
 情報開示とプライバシーの保護に関する問題は、移植法施行前にはほとんど議論されることがなかった。しかし、第一例目で、大がかりなリアルタイムでの報道が家族の怒りをかって以来、情報開示の時期は後退し、またその内容も大幅に縮小し、開示の範囲も家族の意向に委ねられるようになった。また、後日誕生した検証会議による情報公開もはなはだ不十分な現状となっている。だが、本当にこの状態のまま事態を推移させてよいのだろうか。和田心臓移植事件の苦い教訓から、透明性の保持はこの国の脳死移植再開の必須条件でもあったはずである。しかし、一方では、ドナーやレシピエント側のプライバシーも侵犯されてはならないだろう。では、この問題をどのように考えてみたらよいのか。ここで、少し順を追って考[p102>えてみたい。

 (一)脳死移植で求められる透明性
 脳死者からの臓器提供による移植は、他の医療にも増して社会性を伴う医療である。したがって、この医療の実施には社会の理解が前提条件であると考えられる。その理由として三点ほどがあげられよう。
 (1)まず、移植は善意の提供者がいて初めて成立する医療である。個人だけで済ませられる事柄ではない。そのため、広く社会に意思表示カードの所持を呼びかけているのであり、前提として社会の理解がなければ、カードの所持を呼びかけるキャンペーンは矛盾することになる。
 (2)また、何よりもここでは脳死問題が横たわっている。この問題には今なおさまざまな見解が存在しており、一部に脳死を人の死と見なすことに強い抵抗感を抱く人たちもいる。さらに、その密室での判定に不信感や不安感も寄せられている。そのため、たとえドナーの意思があるにせよ、その人を脳死と断定し、臓器を摘出するためには、世間を納得させるような手続きを踏み、社会の理解を求める努力が不可欠となる。
 (3)脳死移植は高額経費を必要とする医療であり、これを誰が負担するかについては今も議論が続いている。現在、一部の臓器移植に関しては健康保険からの拠出が許されるようになったが、これを広げていくためには、今以上に社会の理解が求められるであろう。人は理解を超える医療に自分の金を支払うことはしたくないからである。
 以上によって、社会の理解がとくに脳死移植実施の不可欠な条件であるとしたら、その理解を得るため[p103>には、脳死判定から移植終了までのプロセスを可能な限り透明なものにして、倫理的にやましい点のないことを示していく必要がある。そのために求められることは何よりも情報の開示である。とりわけ、繰り返しになるが、この国には和田心臓移植事件の苦い歴史があり、その後も、日本的な医療風土の閉鎖的な体質が解消されているとはいい難い。移植を除いても、わが国ではさまざまな分野でほとんど情報開示が進んでいない。こうした風土がよけいに脳死移植の透明性を求めさせているのである。
(pp112-113)
 以上、臓器移植法施行後の主な経過とそこから新たに見えた問題点について、倫理的視点、とりわけ透明性という問題意識から概観してみた。新たに浮上した倫理問題に関しては、ここで触れた問題以外に、臓器提供にドナーや家族の意向を反映してよいのか否かという問題や、臓器提供施設の物理的・精神的負担の問題等々もある。しかし、これらについては、紙数の制限から後日の機会に譲ることにしよう。[p113>
 移植法施行後の主な動きを透明な移植医療という観点から眺め直すと、残念ながら年々後退しているようにしか思われない。現在、あの和田移植事件の苦い教訓はすっかり忘れ去られているようだ。ようやく軌道に乗ってきたかに見えるわが国の脳死移植であるが、プライバシーの保護を強調するあまりに透明性をないがしろにすると、必ずしっぺ返しを喰うことになるだろう。医療の密室性に関するわが国の医療不信は依然として根強いものがあるからである。今後、移植医療を本当に推進していこうとするのであれば、社会はこの透明性の問題に真剣に取り組んでいく必要があるだろう。それは、ひょっとしたら日本人の精神風土そのものとの戦いであるかもしれない。移植法の改正を論議するのであれば、もう一度、移植医療の原点に立ち返る必要があるのではないか。


◆長島隆, 20030205, 「あとがき」倉持武・長島隆編『臓器移植と生命倫理』(生命倫理コロッキウム)太陽出版:336-338.
(pp337-338)
 臓器移植法そのものにも問題があり、しかもその改正に関しても問題がある。この臓器移植法の成立そのものが三十年以上前に問題を起こした「和田心臓移植事件」以来、生命倫理に関する国民的な議論が起こってきた象徴的な問題であるが故に、私たちはこの問題に関しては引き続き注目し、監視していかなければならないと考えている。
 それと同時に、「臓器移植」という技術そのものの見直しもまた必要な時期に入ってきているのではないかと考えている。その一つは「異種移植」問題である。ドナー不足を解消するために検討・研究されてきている問題である。(略)
 そして今回の論集では取り上げることができなかったが、極めて大きく宣伝されはじめている「再生医学」問題がある。最近では「臓器」の再生などは宣伝されなくなっているけれども、神経など一部の再生[p338>について成功例が新聞紙上でも報告されるような状況にある。この「再生医学」の問題もまた私たちは「臓器移植」について考察する際には考慮に入れるべきであろう。もちろん、この場合は、「科学ジャーナリズム」の問題としても取り上げることが重要なのではないかと考えている。そしてマスコミおよび専門家の社会的責任問題としても取り上げられるべきものだろうと思われる。和田心臓移植事件以来、マスコミ報道の変化そして専門家の折々の対応とその変化はまだ検証されていない。
 生命倫理の議論そのものが、専門家による専門家内部での議論ではなく、そのような議論を踏まえた公共政策そのものをめぐる議論であるが故に、専門家の責任も強く問われなければならないと考えている。


森岡 正博 20031005 『生命学をひらく――自分と向きあう「いのち」の思想』,トランスビュー.
(pp133-135)
 日本の場合、脳死の議論が本格的に始まったのが一九八四、五年だから、まだ十五年間しか考えていないし、経験を持っていないから、今のところ浅いものしかないのです。我々はあと百年くらい考えなければいけないでしょう。ただ、いま言ったような脳死の問題を、世界でいちばん深く議論したのは、じつは日本なんです。これは、最近いろんな国の文献を読んだり、世界の学者と話をしてわかってきたことです。
 これはなぜかというと、日本が、脳死からの臓器移植がいちばん遅れた国だったからです。日本では一九六八年に、いわゆる「和田移植」というのがありました。あのとき和田寿郎さんが脳死判定を精確にやっていなかったのではないかという疑惑が起きて、それで日本では心臓移植が三十一年間ストップしました。海外では、一九六七年に南アフリカで心臓移植をしたのが最初で、だいたい七〇年代に入ったら、続々と「脳死は人の死である」という法律が作られて、どんどん心臓移植をやりはじめました。
 その結果、海外でも最初はうまくいかなかったけれど、実績を積み重ねて、技術的な改良も加えて、脳死からの臓器移植はかなり成功するようになりました。件数も非常に多い。海外では根づいたのです。その代わり、日本の目から見ると、海外では議論を十分に尽くしていないように見える。[p134>日本はどうかというと、「和田移植」で失敗してから三十一年間、先進国はどんどん実績を積み上げているのに、日本ではできなかった。それで何をしていたかというと、議論ばかりしていました。脳死からの臓器移植が実際にできないので、専門家、文化人、学者、あるいは一般市民を交えて、議論ばかりしていたのです。
 その結果、皮肉なことに、日本は問題を先どりして、いろんなことを考えてしまったのです。脳死の倫理的側面、そして生命論的側面の議論では、日本は世界において最先端です。こういうことは、海外ではほとんど知られていません。日本の人もあまり気づいていません。
 アメリカではいま、臓器移植を阻む原因の一つにドナー家族の悩みがあることに、ようやく気づいてきました。つまり脳死を受け容れられない家族がいる。家族が反対すれば臓器移植はストップします。家族の心の問題をなんとかしなければいけないことに、ようやく気がついてきたのです。日本は八〇年代からそんな話ばかりしてきました。たぶんこれからヨーロッパやアメリカで、同じような問題を、彼らも本気で考えざるを得なくなります。二十一世紀にはもう一度、脳死の生命倫理が大きなテーマになると思います。
 皆さんもぜひ、自分の問題として考えていただきたいのです。日本は何でも欧米のものまねだと言われたりしますが、この問題に関しては違います。今では、日本に研究に来る学者も何人もいます。日本人はこういうことについてよく考えてきました。これは誉められていいと思います。
 ただ、それと引き換えに臓器移植を受けられなかった患者さんたちが、たくさんいるのです。これ[p135>は何とも言えない問題です。議論はいっぱいしたけれども、臓器移植を受けられずに死んでいった患者さんたちも、たくさんいるのです。この点は直視しなくてはなりません。では欧米はどうかというと、生命を救われた患者さんはたくさんいますが、議論を十分せずに突っ走ってきたために、今いろんな問題が起こっている。


◆春木 繁一 20031022 『腎移植をめぐる母と子,父――精神科医が語る生体腎移植の家族――』,日本医学館.
(p204)
 ・日本における腎移植の特殊な問題
 はじめに日本の腎移植における特殊な問題を念頭に入れておきたい.日本の腎移植は,2002年末までに(現在の時点で得られている統計では)15,700件余りが(生体,死体腎移植合わせて)行われている(図1)1〜3).
 が、そのうちの約84%は肉親,家族,親族からの生体腎移植である.献腎移植はわずかに17%に満たない3).最近では,脳死・臓器移植問題,ことに脳死からの臓器提供についての論議が起こってからは皮肉にも(臓器移植法が成立したことで)献腎移植は減少している(表1)4).脳死にしろ,心臓死にしろ,死後に臓器を他人に提供する意思形成やさらにはそれに基づく行為の問題は,日本人の死生観,ことに遺族が抱く肉親の死者に対する独特な揺れ動く感情,遠い“親戚効果”とよばれている周囲の親族からのさまざまな意見や干渉,宗教的背景,倫理感や,さらにたどってみるとものすごく古くから日本人の心に存在する国民的・民族的な感情(西洋とは異なる性質をもつ,いってみれば農耕民族であることからくる感情・思想),普段は隠れていて忘れ去られているのにこうしたことにかぎって顔を出す(宗教とはまた異なる)シャーマニズムや儒教を中心とした考え方など,実に複雑な要因が絡んでいることによると思われる.さらに,それらに輪をかけてのついこの間までのマスコミによる過熱した移植報道の影響も見逃せない5).
 一方で,国民一般が抱く医療・医学に対する不信感・否定的な感情も,ことに最近ではそれらを促すような医療ミス・事故の報告があいついでいるだけに,指摘されても致し方のない面もある.和田心臓移植のみが国民の移植医療への不信感を生んだとはいえない独特の医療状況がある.
 ということで,腎移植といえば,日本ではまだまだ生体腎移植が腎移植の中心にならざるをえない.


◆松本文六, 20040423, 「「脳死」移植問題を考える――医療現場の感覚と生命倫理との乖離」西日本生命倫理研究会編『生命倫理の再生に向けて――展望と課題』:275-312.
(pp276-277)
 私が「脳死」や臓器移植の問題に直接かかわりはじめたのは、一九八九年十一月におこなわれた西日本臓器移植協議会と東京大学PRC(患者の権利検討会)企画委員会共催による「移植と脳死」に関する公開討論会であった。このとき私は、敗戦間近に九州大学医学部で、アメリカ軍捕虜の生体解剖がおこなわれたという暗い過去を総括することなしに、臓器移植を語ることは許されないのではない[p277>かという主旨の質問をおこなった。また同様に、六八年に起きた札幌医科大学での和田心臓移植事件(これについては後述する)についての、総括の必要性についても質問した。しかし、協議会の幹部だった大学の「えらい」先生方からは、過去の事件の総括について積極的な意見を聞くことかできないどころか、それらの事件が現在の事情とは関係ないものであるという発言さえあった。
 これらの発言は、「脳死」問題や臓器移植問題、とくに、そのとき成立に向けて議論が進みつつあった臓器移植法案に対する疑念を、ますます深めるものだった。
(pp287-289)
 一九六八年七月末までに、全世界で心臓[p288>移植は合計二十九例に達し、この年の八月八日には札幌医大で、いわゆる和田心臓移植事件(以下、和田事件)が発生した(その詳細についてはさまざまなところで述べられているので、ここでは簡単にしかふれない)。この事件は、心臓外科の医師がまだ生きていたドナーから心臓を取り出し、別の患者――しかも前主治医に「内科的治療や心臓弁の置換によって三年はもつ」と考えられていた患者――に移植を強行したというものだった。移植手術を受けた患者から取り出された心臓は、その後六ヵ月にわたって行方不明となり、見つかったときには四つの心臓の弁が切り取られ、その一つは明らかにほかの人間のものだったという驚くべき事件である。この事件の本質とは、生体解剖による臓器摘出と人体への心臓移植の「実験」である。
 しかし日本の医学界で、和田事件に関しての総括は一切なされていない。一九八八年一月の日本医師会生命倫理懇談会での「脳死および臓器移植についての最終報告」および、九二年一月の「脳死及び臓器移植臨時調査会」(以下、脳死臨調)による最終答申である「脳死及び臓器移植に関する重要事項について」のいずれにおいても、和田事件の総括はないのである。後者で和田事件に関連する項を拾ってみると、レシピエント(移植を受けようとする人)の適応に関する議論が中心で、ドナーに対する救命措置がどの程度なされたのか、そして、脳死判定・臓器摘出は適正におこなわれたのかという疑問にはまったくふれられていない。他方で、和田事件が人びとに少なからぬ不安と不信を与えたので、「こうした脳死・臓器移植をめぐる不安感・不信感に応えるために、確実な脳死判定の方法、適正な移植適応基準の確立、必要な記録の保持と開示、インフォームド・コンセント、適正な外部のチェックシステムの指導等、いくつかの具体的な提案を行った」と述べている。しかし、その後の文章で[p289>は、「科学技術一般に対する漠然とした内不安』がありし、それは脳死や臓器移植にかかわる問題ではなく、「医療の『不透明性』」の問題であると議論を一般化し、和田事件の本質について 言及することを意図的に避けている。
 脳死臨調多数派の意図と、脳死臨調全体の真の目的は、この公式文書のなかにしっかりと表現されている。すなわち、脳死状態にある病者から新鮮な臓器をいかに摘出し、移植を成功させるのかという視点で一貫している。これに対して、脳死臨調内の少数派は、多くの人が脳死を人の死とすることに同意しているという論拠は、各種の世論調査とアンケート調査などを通しても成り立っていないと反論している。しかし、結局脳死臨調の最終答申で、和田事件の真相解明はなされることなく、医療の密室性や不透明性をえぐり出すことはついになされないままで終わってしまった。
 このようにして、「脳死」を前提とした心臓移植は、ハーバード大学特別委員会報告によって拍車がかけられ、一九六七年に実践された。八0年代には免疫抑制剤シクロスポリンの開発によって、さらに急速な広がりをみせている。このような過程をへて、「脳死は人の死」という言葉が日本の社会を闊歩しはじめたのである。


田中智彦, 20040708, 「日本の生命倫理における「六八年」問題――東大医学部闘争と和田移植」中岡成文編『岩波 応用倫理学講義1 生命』岩波書店:147-168.
(p147)
 生命倫理は一九六〇年代後半から七〇年代をつうじてアメリカで成立し、八〇年代前半になって日本に輸入された。したがって、東大医学部闘争が佳境に入り、他方で和田移植が事件となった「六八年」は、日本の生命倫理にとってはいわば「有史以前」にあたる。そのためであろうか、日本の生命倫理では東大医学部闘争も和田移植も、「いま」につながる問題として語られることはまずない。だが歴史をひもとくならば、この二つの出来事が提起した問いは、そのとき日本に生命倫理を誕生させうるだけの射程を秘めたものであったように思われる。しかしまた、そうであるとするならば、日本の生命倫理は「六八年」を視野の外におくことで、かえってみずから盲点をつくり出しているとも考えられよう。
 東大医学部闘争と和田移植はいかなる問いを提起したのか、そしてその視点に立つとき、日本の生命倫理に対してどのような課題が提示されるのか――ここではこうした論点を、「六八年」問題というテーマで検証してみたい。
(pp162-166)
 なぜ日本では生命倫理の「誕生」に至らなかったのか。いいかえれば、なぜ「六八年」は「医療思想革命」につながらなかったのか。その理由はおそらく、東大医学部闘争だけでなく、そこから発展した東大闘争がなぜ「安田砦落城」で終わらざるをえなかったのかということとも関係している。ここでその詳細を論じるゆとりはないが、それでも「六八年」の限界については、これまでのところからいくつかの示唆をすることはできよう。
 「六八年」が提起した問いは、日本の医療体制の根幹にかかわるものであったにもかかわらず、その後ひろく共有されるには至らなかった。その理由の一端は、東大医学部闘争が六八年二月以降、医学部教授会との争いという様相を強めていったことにある。むろん東大医学部の歴史に鑑みれば、また医局講座制の解体をめざすからには、教授会との争いは避けられなかったであろう。しかし、その争いが前景を占めるようになれば、医療体制の変革という本来ならすべての人びとが関心をよせる争点も、あるべきひろがりをもつことが難しくなる。くわえて、争点を明らかにする方法にも問題があったように思われる。象徴的なことに、当時の文献では「国家権力」や「大衆」といったことばが随所にみられる一方で、「患者の権利」や「個人の権利」といったことばはまずみつからない。この点はアメリカの場合と実に対照的であって、日本では医局講座制の解体が追求されながら「医者=患者関係を包んでいた政治的空間の組換え」にまで至らなかったことと無関係ではないだろう(注31)。
 もっともそこには、マルクス主義的な枠組みの問題だけでなく、日本の知識人層の問題もあったと考えられる。なぜならアメリカの場合、神学者や哲学者、法律家といった医学の非専門家たちが医学研究・医療の問題にとりくみ、それぞれの視点からパラフレーズすることによって、それらの問題が一般の人びとにも開かれた、公的な議論の対象となりえたからであり、またそのことが、生命倫理の成立に大きく寄与したからである(注32)。しかし日本の場合、東大医学部闘争なり和田移植なりをきっかけに、そうした学際的なとりくみがなされることはなかった。それがいわゆる学問の「タコツボ化」に起因するものなのかどうか、にわかには判断しがたい。だがいずれにせよ、医学とは別の領域の専門家によって――研修生・医学生の連帯がひろがりをえて、公的な議論を呼び起こすのに十分なほどに――医学の内と外とが架橋されることはなかった。そのような外部からの媒介がなかった以上、医学の内部における異議申し立てが社会的に孤立せざるをえなかったのは、むしろ必然であったとさえいえるかもしれない。
 では「六八年」のこうした意義と限界とをふまえるとき、そこから日本の生命倫理にとってどのような課題が立ち現れてくるだろうか。さきにみたように過去へと眼をひらくこと、また、そこで提起された問題が今日までにどれほど解決されてきたのかを検証することとあわせて、さらに将来に向けて、以下の三つの課題を提示することができよう。
 第一の課題は生命倫理の相対化である。生命倫理の「局地性」(locality)の認識といってもよい。日本に生命倫理が輸入された八〇年代前半は、アメリカではすでに生命倫理が理論的にも制度的にも一応の確立をみた時期であり、日本ではもっぱらそのような「完成品」が、新しい倫理として受容されてきた。しかし、生命倫理の成立に貢献した医療社会学者フォックスが指摘するように、生命倫理には「アメリカの社会と文化に深く影響されていながらそうした属性に目を向けない風潮(注33)」があるのだとすれば、それを一般化することは、受容した生命倫理の特殊性だけでなく、それが適用される文脈の固有性まで見失うことになる。だが日本の生命倫理においては、まさにそのような一般化がなされてきたのではないだろうか。さもなければ「六八年」は、もっと早くに、「いま」につながる問題として省みられていたはずである。むろん「局地性」といっても、いわゆる「日本的な生命倫理」が求められているわけではない。「局地性」が意味するのは問題の固有性であり、その問題を解く方法の固有性である。日本には、医局講座制と低医療費政策に象徴される固有の諸問題がある。それらの問題が、アメリカの生命倫理で解決できるならそれでよい。しかし、それで十分ではないならば、よりふさわしい解決法をみつけることこそ、ほかならぬ日本の生命倫理の責務であろう。
 これに関連して第二に、生命倫理を本来の学際的なあり方へと近づけてゆくことが要請されよう。さきのフォックスは、アメリカで「医療科学やテクノロジーに付随する多種多様な問題、それもおびただしい数にのぼる問題に、片っ端から「生命倫理」というラベルを貼りつける傾向が一般化した」ことをさして、「なんでも倫理症候群」(“everything is ethics” syndrome)と呼ぶ(注34)。その結果、他の人文科学・社会科学の視点は脇に追いやられ、ついにはすべてが個人の権利と手続的正義の問題に還元されてゆく。この種の倫理学的還元主義は、日本に輸入された八〇年代アメリカの生命倫理に特徴的なものであり、それゆえ日本の生命倫理にも受け継がれている可能性が高い。実際、日本における「深刻な臓器不足」の原因を戦後の倫理的退廃に求め、臓器移植法成立の遅れで移植待機者の医療アクセス権が侵害されたと憤る議論などは、そうした倫理学的還元主義の典型といえよう(注35)。そこには、ドナーの死と遺された者へのまなざしも、医局講座制への洞察も見いだすことはできない。なるほど、個人の権利や手続的正義の確立は、日本の場合はとくに重要である。しかし、たとえば「六八年」が提起した問いは、それで尽くされうるものではない。さらに「六八年」の限界を想起するならば、倫理学的還元主義はそうした問いの多くを、公的な議論から遠ざけることになるだろう。逆に、公的な議論を喚起するためには、生命倫理が「倫理」ではなく、さまざまな学問領域が交差し、協働する「場」となる以外にはないといえよう。
 第三に、軍産学複合体と医学・医療との関係――産学協同はその一形態にすぎない――をあらためて問うことがあげられる。軍産学複合体については「六八年」にも問われたが、ただしそこには、「生―権力」やそれに類する視点はみられなかった。だが今日、バイオテクノロジーとバイオ産業が諸個人の生命と身体の「資源化」「商品化」を加速することで、「生―権力」が以前にもまして貫徹されつつある。臓器移植法の制定が、移植待機患者のためだけでなく、バイオ産業のためでもあったのは、その好個の例であろう。実際、臓器移植法の成立に尽力した日本移植学会理事長・野本亀久雄は、成立後に手記のなかで、「脳死後の臓器提供を承諾された人は「自分の身体から離れたものはもはや自分のものではなく社会に帰属する」ことを認めてくれている、つまり合意されているわけで、いまはなばなしく離陸しようとしているバイオ産業も臓器移植が実現しないかぎりはむりだった(注36)」と述懐している。こうした言説にあっては、個人の自己決定権は否定されず、むしろ尊重されさえすることに注意すべきである。それゆえにまた、所有的個人主義もこの言説に回収されざるをえない。アメリカの生命倫理を相対化すべきもうひとつの理由がここに見いだされよう。しかし、だからといって連帯を説くことが解決になるわけではない。臓器移植を「もっとも厳粛な意味での人間の"助けあい運動(注37)"」と名づけたのは、ほかならぬ和田であった。人間の「資源化」「商品化」に抗する言説を、個人の自由と連帯のはざまからつむぎ出してゆくこと――それは日本の生命倫理にとっては、あらためて「無責任の体系」と対峙することをも意味するのである。
 「六八年」についてはまだ語るべき多くのことが残されている。とりわけ、なぜ日本では「医療思想革命」が起こらなかったのかについては、東大闘争の?末はもちろんのこと、戦後日本の社会、さらには日本における法意識・権利意識とも照らし合わせて検討する必要があるだろう(注38)。


小松美彦, 20041101, 「脳死者は生きている――管理社会の中の先端医療」『現代思想』(特集:生存の争い)32-14(2004-11):126-140.
(p138)
 ここで、臓器不足をめぐってほとんど知られていないことを見ておきたい。脳死の子供からの臓器提供がすでに多数行われてきたという事実である。
 法改定の議論では子供の移植を可能にするということが前面に出ているため、今までに脳死の子供からの臓器提供は一切なかったかのように思われている。だが、それは誤解や誤報に他ならない。あるいは、68年の札幌医大での和田移植から97年の「臓器移植法」施行まで、脳死・臓器提供は皆無だと認識されがちだが、そもそもその認識が事実に反する。殺人罪などで11件の脳死・臓器移植が告発されたことは一部では著名だが、それも氷山の一角にすぎない。すなわち、太田和夫日本移植学会会長(当時)自らが90年に公表したところによると、84年から89年までに行われた死体腎臓摘出429件のうちおよそ35パーセントに当たる152件は脳死状態からの摘出だったのだ(太田和夫「わが国における死体腎提供の現況と問題点」[『移植』25巻4号所収])。腎臓移植は現在までに万単位でなされており、35パーセントという数値をそのまま当てはめれぱ、脳死者からの腎臓摘出は相当数に及ぶ。その中にはかなりの数の子供も含まれていることになる。ちなみに、「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」の試算によれぱ、81年から00年の20年間で約200人の小児脳死ドナーがあったのだ。つまり、子供の移植をめぐる今回の法改定とは、今まで無法ないしは非合法でなされてきたことを初めて合法化することに他ならない。


◆山中浩司, 20050228, 「医療における「臨床」と「技術」――臨床文化のゆくえ(1)」山中浩司編『臨床文化の社会学――職業・技術・標準化』昭和堂.
 こうして臨床医学は、外科医たちの治療の世界、大学教授たちの図書館の世界、後に登場する研究医たちの実験室の世界から、一定の距離をとりながらそのアイデンティティを確立しようとしたのである。
 明治以降形成されてきた日本における医師のイメージというのは、やはり、この内科医が作ってきた臨床医学の産物ではないかと私は思う。医者は、単なる物知りではない。また単なる職人でもない。また人知れず試験管を操る秘教的な科学者でもない。患者に接しながら、患者に左右されない。診療費を受け取りながら、営利が目的ではない。本を読みながら、空論を論じない。こういうのが何となく臨床の現場に登場する医師の一般的イメージではないだろうか。このイメージにぴったりくる医師の活動は、具体的な治療や論文の執筆ではなく、「診断」という行為であろう。実際、内科医というのは、自分で薬を作るわけでもなく、また手術をするわけでもなく、整骨医のように患者の体に馬乗りになって骨を矯正するわけでもない。患者を診て、考えて、診断し、薬を処方するだけである。ふつうの医師が、薬の処方については製薬会社や大学の臨床試験のデータに大幅に依存していることを考えれば、内科医の特権的な領域は「診断」という行為に集中しているということは疑いを得ない。いわゆる「見立て」という言葉が、ここでは重要な響きを帯びている。したがって、内科医の「診断」こそが、ここで扱う医学的「臨床文化」の中核をなしているといってもいいように思われる。実際、治療の面においては外科医に対してある種の気後れを覚える内科医も、こと「診断」に関しては、外科医に対してしばしば批判的になる傾向がある。日本の心臓移植を何十年も押しとどめてきたあの和田心臓移植事件でも、内科医は移植に暴走する外科医の診断に辛辣な批判を加えていたのである。


宮坂道夫, 20050315, 『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ』医学書院.
 もう一つ重要なのは,患者の権利の確立で先行した米国においても,またその他の諸外国においても,重要事例landmark caseが生じ,その社会的インパクトの上に新しい医療倫理の考え方が生まれてきたという点である。その社会で生じる具体的な事例がどう理解され,それに応じてどのように法制度を含めた医療のあり方が変わっていくかが,特に重要である。こうした観点で日本の過去を振り返ると,わが国でも,医療倫理の考え方を変えるような重要事例が数多くある(表2-3)。
 しかし,表2-3を見ていて気がつくのは,日本には模範事例paradigmatic caseが少ないことである。日本の重要事例の多くが,「国民の共感を呼んだ,模範となるような事例」ではなく,「そのような事件は二度と起こしてはならない」という,いわば反面教師型の事例である。反面教師型の事例は,日本の近代医療史をみるかぎり,その事件の処理や関係者による反省,謝罪,あるいは賠償金の支払いのような形式で決着することが多く,新しい医療倫理の考え方を生みだす力をもちにくい。このことを「和田移植」,薬害エイズ事件,ハンセン病問題を例にみておこう。
 1968年の「和田移植」は,和田寿郎医師(当時札幌医科大学)による日本初の心臓移植であるが,ドナー(臓器を提供する人)が本当に脳死であったのか,またレシピエント(臓器移植を受ける人)が本当に心臓移植を必要とする病状だったのか,という移植治療におけるきわめて重要な点についての疑問が未解明のままになった(共同通信社社会部移植取材班編1998)。この事例は,臓器移植には,ドナーについての脳死判定や,レシピエントの選択についての明確な判断基準が必要であることを教訓として残した。また臓器移植のような有効性の確立されていない医療では,特に透明性─今日の言葉でいえば説明責任,アカウンタビリティであろう─が確保されていなければならないことを示した。


◆瀧井宏臣, 20051020, 『人体ビジネス――臓器製造・新薬開発の近未来(フォーラム 共通知をひらく)』岩波書店.
(pp86-87)(*中畑龍俊(京都大学医学部)へのインタビュー)
 「欧米ではひとつの新しい医療技術として受け入れられ、胎児の細胞を産業として扱っている。日本にもクスリと同じような形で、否応なく入ってくるという状況にあります。胎児の細胞を医療ではなく、産業として扱ってよいのか悪いのか。議論して日本の方向を決める必要があるのです」(中畑教授)[p87>
 ――指針が必要なのは、国際的な情勢からですか?
 中畑「それだけではありません。文部科学省、厚生労働省の予算が投下され、再生医療が爆発的に進み、あちこちの施設で再生医療と称して新しい医療をやろうとしている。どこの施設も億単位のお金をかけて、小さなセルプロセッシング(細胞培養)センターを作ろうとしていますが、税金のムダ遣いです」
 ――それで、指針が必要だと?
 中畑「なぜ今頃になって指針について論議するのか、奇異な感じがしないわけではありませんが、猫も杓子も再生医療研究に取り組むという異常事態を迎えて、どう考えても問題ある医療も行なわれようとしている。このままでは和田心臓移植(一九六八年に札幌医科大学の和田寿郎教授らが日本で初めて心臓移植手術を行なったが、脳死判定などが密室で行なわれたことが社会問題になり、和田教授は殺人罪で告発された)のようなことになりかねない。そういう国内での状況をふまえて、ガイドラインが必要なのです」
 ――今は各施設のIRB(倫理審査委員会)で審査していますね。
 中畑「一九九〇年代になって、各施設のIRBで審査し、承認を得た上で研究を進めるケースが出てきていますが、委員の審査能力に疑問符が付くようなIRBも見受けられます。医師への免罪符を与えているだけではないか、という声もあります」
 ――施設によってIRBのレベルが違う?
 中畑「IRBのレベルが、あまりにも違いすぎる。どこの病院でもどんな医療をしてもよいというのが国民皆保険の医療ですが、IRBがない病院で熟練が必要な移植医療が行なわれたりするのは問題です。
(pp175-177)
 日本で最初に臓器移植が行なわれたのは一九五六年。新潟大学で急性腎不全の患者に一時的に腎臓が移植されたのが一例目だ。続いて、一九六四年には千葉大学で肝臓移植、一九六八年には札幌医科大学で心臓移植が行なわれた。ちょうど臓器移植の研究と臨床への応用が世界的なブームとなった時期で、日本の[p176>移植医療も欧米諸国と肩を並べる位置に付けていた。
 ところが、札幌医科大学の和田寿郎教授のチームが行なった心臓移植で、ドナー(臓器提供者)の脳死判定や患者の選定が密室で行なわれたことが社会問題となり、和田教授は殺人罪で告発された。一九七〇年、札幌地方検察庁は容疑不十分で和田教授を不起訴処分としたが、脳死状態での臓器移植はストップ。以来、日本の移植医療はタブー視されて三〇年近くにわたって停滞したままだったが、一九九七年の臓器移植法施行をきっかけに、日本でも臓器を医療や研究の材料として本格的に利用する時代が始まったわけだ。
 法の施行から七年が経過した今、臓器はどのように使われているのか。そして、どのような問題が生じているのだろうか。
 日本臓器移植ネットワーク(以下、移植ネット)によると、二〇〇四年一年間に国内で実施された臓器移植(生体除く)は一九〇件。内訳は、腎臓が一七三件、心臓とすい臓がそれぞれ五件、肺が四件、肝臓が三件となっている。これらの臓器を提供したドナーは九五人で、脳死での摘出が五人、心臓停止後の摘出が九〇人である。
 腎臓移植がダントツに多いのは、心臓停止後の提供が可能だからだ。腎臓移植一七三件のうち、脳死移植は六件にすぎず、残りは心臓停止後の提供による移植なのだ。
 腎臓は心臓や肺と違って、移植可能なリミットが死後二四時間から四八時間と比較的に余裕があるため、心臓停止後でも提供を行なうことができる(心臓は死後四時間、肺は死後八時間)。また、脳死移植の場合、本人が生前に意思表示をしている上に家族の同意があって初めて行なわれるが、心臓停止後の移植(腎臓、眼球)の場合は、本人の意思表示がなくても家族の承諾だけでできるため、同意が得やすいのも数が多い[p177>理由のひとつである。このため、腎臓移植は脳死移植が長いあいだ認められなかった日本でずっと続けられてきており、実績があることも移植件数が多い理由になっている。
(pp184-185)
 なぜ、脳死による臓器移植は進まないのか。
 移植ネットによると、これまで七年間に亡くなった人で意思表示カードを携帯していたケースは八○○例を超えるが、このうち臓器提供に至ったのは全体の四%にすぎない。その理由としては、(一)記載に不備があって意思表示を認定できなかった、(二)大学病院や救命救急センターなど臓器の摘出を認められた医療施設の対象外だった、(三)連絡が心臓停止後であった、(四)脳死判定基準を満たさなかったことなどが挙げられる。
 これについて、移植ネットの雁瀬副部長は「和田心臓移植以来、日本では脳死や移植医療への不信感が強かったために脳死判定のシステム等がきわめて厳格になっていることも一因としてある」と言う。
 また、救命医療に従事している現場の医師や看護師たちが、患者の家族に臓器提供という選択肢をなかなか切り出せないという医療現場の事情もあるようだ。ある関係者は「現場の医療関係者が救命を使命とし、亡くなった場合は滞りなく死者のお見送りをすることを第一としているために、患者の意思表明や家族の申し出がない限り、医師側から臓器提供について話を持ち出すことはない」と説明する。
 脳死での臓器移植が進まない理由にはこうしたさまざまな要因が横たわっているが、それ以前の問題と[p185>して、意思表示カードを持っている国民が一割と少ない点を指摘する声もある。
(pp204-205)
 私はひとりの親として、臓器移植で助かる子供を何とか救ってやりたいと思う。と同時に、第三世界で臓器売買が蔓延するのを黙認するわけにもいかない。臓器の闇売買を誘発する海外渡航は原則としてすべきではないのである。とすれば、脳死での臓器移植を増やし、子供も国内で移植ができるようにするしか道はないが、医療サイドで肝心の脳死の判断がゆらいでいては話にならない。[p205>
 和田心臓移植が社会問題となって以来、三〇年の歳月を経て脳死での臓器移植はスタートしたが、まだ多くの問題が未解決のまま残っているのである。


◆梅津 光生 編 20051031 『人工臓器で幸せですか?』,コロナ社.
(pp75-77)
 梅津先生 ディスク弁の写真は外国製の弁ですが、これと類似型のもの一九六〇年代に日本でもSAM弁という名で造られ、患者さんにも使われました。S(榊原先生)A(新井先生)M[p76>(メラ社)の頭文字をとったもので、最初の二人は東京女子医科大学の教授(開発当時)、Mは会社名です。これまでのボール弁とディスク弁はどちらも流れの中心にボールや円板があって、その脇から血液が流れるような構造になっていましたのでどちらかといつと流れに対する抵抗が大きかったのです。
 インタビュア といいますと?
 岩ア先生 例えば、左心室の出口の大動脈弁という弁を人工図弁で置換したとします。流れに対する人工弁の抵抗が大きいと、生体本来の弁があったときと同じ血流量を心臓が送ろうとすると心臓にとってより大きな負担がかかります。そのような背景もあって、つぎにでてきたのが図2・6に示すような傾斜型一葉弁です。
 梅津先生 このアイデアは、日本の心臓移植第一例目を行った和田寿郎教授(札幌医科大学・当時)によって出されたもので、WADA・カッター弁として患者さんにも使われました。当時はデルリンと呼ばれる樹脂が使われていました。
 インタビュア ということはいまは違う材料なのですか?[p77>岩ア先生 はい。耐久性があり、より生体適合性に優れているパイロライトカーボンが主流です。


◆皆吉淳平 2005 「「社会的合意」とは何か――生命倫理における「社会」」『現代社会理論研究』15281-292.
 なかでも1980年代から1990年代の脳死臓器移植問題は、日本において最も広く議論がなされた生命倫理の問題であった。そして周知のとおり、「臓器の移植に関する法律」(平成9年法律第104号)(以下、「臓器移植法」と表記)が1997年に成立・施行されたことにより、脳死臓器移植問題は一つの区切りを迎えた。この脳死臓器移植論議では、安楽死や尊厳死、優生思想など多様な問題が脳死臓器移植と併せて論じられた。脳死臓器移植論議を通して、日本における生命倫理(バイオエシックス)という問題群あるいは領域が広く認知されたと言っても過言ではない。
 この脳死論議において、既に議論はし尽くしたという見方さえされている(1)。脳死論議は、それだけ多様な側面からのアプローチがなされたものだった。その中でも、「脳死は人の死である」という命題についての「社会的合意(コンセンサス)」の有無が繰り返し問われたことは、一つの特徴と考えることができるだろう。1968年8月に日本初の心臓移植(いわゆる和田心臓移植)が行われて以来、1999年に臓器移植法の下で実施されるまで、30年以上も日本国内では心臓移植が行われなかった。それは脳死問題が「解決」されなかったからであり、その理由として北米の研究者によって挙げられているのは、「社会的合意」の欠如であった(Lock & Honde[1990:104-5]; Feldman[1994:72])。この「社会的合意」へのこだわりこそ、日本の脳死論議を特徴付けるものだと言えよう。
 しかしながら、脳死についての「社会的合意」をめぐる議論は重要な問題であったと意味づけられているわけではない。
 生命科学・技術をめぐる現代史的視点から、日本における脳死臓器移植論議を取り上げている林真理は、脳死移植という医療テクノロジーの持つ「解釈の柔軟性」を基盤にして、1980年代半ば以降の論議をテクノロジーの解釈過程として描いている。


◆皆吉淳平 2005 「臓器移植における「公平性」の発見」『ソシオロゴス』29:52-71.
 既に述べたように(1節)、現行の臓器移植法においては、臓器の公平な配分が基本理念となっている。臓器移植法の基本的理念を定める第2条は、臓器移植法の逐条解説をする『臓器移植法ハンドブック』では、「移植医療がこれまでの医師‐患者の二面関係から、医師‐ドナー‐レシピエントの三面関係となり、かつ、ドナーの犠牲と善意に支えられて成り立つものであることに鑑みて、新法〔臓器移植法〕で新たに設けられたもの」であると解説されている(中山・福間編 1998: 24)。基本理念を定めた第2条の3項(特に後半)と4項では、レシピエントの公平な選択が挙げられている19。特に第4項は、「レシピエントの公平な選択が基本的に大切であり、そこには貧富の差や社会的地位や人種的な差別などが一切あってはならず、純粋に医学的見地から公平になされなければならないことが謳われている」と解される(中山・福間編 1998: 48f)。この「公平性」を保証するための方策として、「「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(ガイドライン)」(健医発第1329号・平成9年10月8日)では、「公平・公正な臓器移植の実施」という項目で、臓器の移植を実施するには臓器移植ネットワークを介さねばならないとされている20。つまり、ネットワークを介した臓器の配分が、正義の原則(移植機会の公平性の確保)と効用の原則(効率的な移植の実施)の双方を満たす必要から生みだされている。そして、このような移植を受ける機会の公平という理念および臓器移植ネットワークによる一元的な臓器の配分は、臓器移植法に先行して施行されていた角膜移植法(1958年成立)や角腎移植法(1979年成立)には見られないことだった21。
 「角膜移植に関する法律」(昭和33年法律第64号)は、角膜移植の為に眼球を死体から摘出することを認め、その手続きと要件を定めた法律であった。この法律において「臓器の配分」という問題は生じない。なぜならば、眼球の摘出に際して「レシピエントの特定」が必要とされていたからである(唄 1984:140)。つまり、予め臓器(眼球)の貰い手が決められた上で、臓器(眼球)の摘出が(合法的に)行われるということであったのだ。ここでは、摘出された臓器(眼球)を誰に配分すべきか、という問題が論理的には発生しないことになる。例えば、1968年8月に行われた日本初の心臓移植、いわゆる「和田心臓移植」においては、心臓移植のレシピエントとなる患者が予め認識された上で、ドナーとなる患者が出現したと報告されている(和田ほか 1968)。「その」レシピエントとなる患者が心臓移植を必要としているか、という問題はあったが、「どの」レシピエントに心臓を移植するべきか、という問題は生じていない22。
 それに対して「角膜及び腎臓の移植に関する法律」(昭和54年法律第63号)では、法の規定する臓器の範囲が角膜と腎臓に広げられ、臓器の摘出に際して「レシピエントの特定」を必要としなくなった(唄 1984: 140)。法律的に見れば、この角腎移植法によって、レシピエントが不特定のまま臓器を(合法的に)摘出することができるようになった。そして、摘出された臓器を誰に移植するのかを決定すること、つまり臓器の配分という問題が生まれることとなった。
(略)
 ここまで見てきたように、移植医による「公平性」の発見とその後の制度化によって、「社会」に提供された臓器の配分において「公平性」が重要視されるに至った。そしてそれは、移植医が「社会に対して」必要とした「公平性」の理念のあて先を変えることを意味していた。それではなぜ、「公平性」という理念の使われ方に変化が生じたのであろうか。また、なぜ「公平性」という言説は力を持ち得たのであろうか。
 「公平性」という理念の発見に際して留意すべきは、その発見がなされたのは社会に開かれた場であったということである。確かに、公開シンポジウムの講演者やシンポジストが社会の全構成員を代表しているわけではない。しかしながら、少なくとも移植関係者や医療関係者以外の当事者ではない人々にも開かれた場を設定し、そこで発見されたと位置づけられているのが「公平性」なのである。そして、この「公平性」という理念は、多くの人々が抱いていた臓器移植にまつわる不安や移植を行なう医療者への不信に対処するものであった。
 何よりも脳死臓器移植論議において繰り返し言及されてきたのは、和田心臓移植における数々の疑惑であった。ドナーの死の判定は適切だったのか、レシピエントには本当に心臓移植が必要だったのか、そして検察による調査の過程で提出された資料の真贋など、心臓移植が当時は実験的治療法であったことを差し引いても、この移植医が最善を尽くしたとは言い難いという印象を与えた。そして和田心臓移植以来、移植医への社会的不信34があった。例えば、日医生倫懇の最終報告においても「医師への信頼の回復」に言及されている。また脳死臨調の最終答申は、「脳死をめぐる諸問題」「臓器移植をめぐる諸問題」そしていわゆる「少数意見」と並んで、「脳死・臓器移植問題と医療に対する信頼の確保」という4章構成になっていた。つまり、それだけ「信頼の確保」に重きが置かれているのだった。信頼の回復や確保が重要視されていたのは、移植医療に対する信頼が失われていたことを意味している35。
 このような社会的不信を払拭するには、医学的(科学的)な論理や当事者同士の合意36という個人の論理では効果がなかった。「公平性」という理念の言説としての強さの所以は、それが移植関係者の外側である社会から生じたとされたところにある。
 そして「公平性」の発見以後、その制度化の段階においては、移植医は制度形成過程から外されていた。1995年春の腎臓移植ネットワーク設立時には、その設立準備委員会から「移植医を意図的に排除したために」、移植医とネットワーク側との間には険悪な雰囲気があったと言われている37(Lock 2002=2004: 291)。それは、「ネットワークは移植の当事者ではない第三者機関でなければ、公平・公正は保てない」という言葉(小紫 2002: 167)に集約されているように、移植医を除外することが「公平性」の確保につながると認識されていたからである38。

22 「和田心臓移植」は後に殺人罪等で刑事告発されたことが良く知られている。刑事告発された際の大きな論点としては、ドナーの死の判定は正確に行われたのか、そしてレシピエントが本当に心臓移植を必要としていたのか(レシピエントの適応)、という2つが挙げられる。これらの論点は現在の臓器移植においても通底するものである。しかしながら、先にレシピエントとなる患者がおり、その患者の為に臓器を摘出する、という手順自体に疑義が呈されたことはなかった。それには、当時の臓器保存技術の限界などもあったからだと考えられる。なお、和田心臓移植が刑事告発された際の論点に関しては、刑事告発したうちの一つでもある、和田心臓移植を告発する会編(1970)を参照。


美馬達哉, 20070530, 『〈病〉のスペクタクル――生権力の政治学』人文書院.
 さて、ここまでの分析を、日本における「脳死」と臓器移植をめぐる議論の流れに当てはめて解釈してみると、いくつかの論点がさらに浮かび上がってくる。簡単にたどってみよう。
 日本での「脳死」患者からの臓器移植が最初に登場したのは、一九六八年の札幌医大で行われた和田寿郎教授による心臓移植によってである(移植を受けた青年は術後八三日で死亡した)。この事例は、その後、マスメディアなどで強い批判を受け、臓器提供者(溺死事故だった)に対しての救命治療が十分であったのかという点やその「死の判定」に対しても疑問がもたれ、殺人罪として告発される事態にまで至った(ただし、不起訴処分)。
 だが、数少ない例外を除けば、当時の議論の中心は死生観や死の定義をめぐるものではなかったことに注意しておく必要がある。むしろ問題とされたのは、こうした事例の背景にあると考えられた医師の名誉欲や人命より研究を重視する姿勢(研究至上主義)だった。それ以後、移植した臓器に対する拒絶反応などの問題が当時の医学技術では解決できないため、心臓移植自体に治療としての意義が乏しいことが明確になった。その結果、心臓移植は米国の一部以外ではあまり行われなくなり、一九七〇年代に日本国内での議論はなされなかった。この歴史的経過は、「臓器移植は必要である」という意味素こそが、「脳死」と臓器移植が現実に議論されるための出発点であることを確証している。札幌医大での事例のように、臓器移植が治療として成り立たないという結論に落ち着けば、「脳死」をめぐる議論自体が存在し得なくなってしまう。あるいは、たとえ、議論されても、その力点は異なったところ(医師の名誉欲や人体実験の問題)におかれるのである。したがって、一九七〇年代までは、研究至上主義や人体実験という問題設定での議論はあっても、「脳死」問題は存在していない。
 「脳死」と臓器移植の問題が国内で再び議論されるのは、一九八〇年代に心臓などの臓器移植が、強力な免疫抑制剤の開発という援軍を得た結果、標準的な治療として米国を中心に受け入れられるようになって以降のことである。


◆青山 淳平 20070530 『腎臓移植最前線――いのちと向き合う男たち』,光人社.
(pp6-9)
 ふりかえってみると、昨年(二〇〇六)十一月、病腎移植問題で万波がマスコミや医学・医療界の権威から猛烈なバッシングをうけていたとき、最初に支援の声をあげたのは病理学者で広島大学名誉教授の難波紘二(なんば・こうじ)だった。難波は、「病腎移植はまったく新しい発想の移植医療であり、生命倫理的にも医学的にも許される。必要なのは、データの公表とその医学的評価である」と[p7>する論旨の論評を地元の中国新聞に発表した。
 するとその後、「病腎移植は原則容認する」という内容の有識者の談話や読者向けの論文が新聞各紙に掲載されるようになり、メディアの論調にも変化がみられるようになった。とりわけ移植医療の第一人者である太田和夫(おおた・かずお)や臓器移植法にくわしい作家の中島みちが公的機関において研究をすすめることを提言する「容認」の発言をしたころから、万波を「犯罪人」のようにあつかうスキャンダラスな報道は影をひそめ、メディアにもこの問題の本質に迫ろうとする姿勢がみえるようになった。
 万波医師から手術をうけた患者の話が新聞やテレビをとおして茶の間につたえられ、万波のまるで飾り気のない人柄や患者本位の職人肌の医療が紹介されるようになると多くの国民は、「現代の赤ひげ」だと万波の医療を支持し、「癒し(いやし)系」だという顔に親しみをもつようになった。
 もっとも万波には欠点も多い。ひとりよがりで組織になじまず、社会性にとぼしい。そしてなによりも手続きやインフォームドコンセントにおいて、移植医として問題が多いことは認めざるをえない。「積極的な治療をおこなわずに腎臓を摘出する発想は、医師の裁量権の逸脱」、「当初から移植目的で手術がおこなわれていた」、「移植が唯一の救いの道と患者に独特な認識や先入観を植え付けている」など手厳しい批判が医学界からつきつけられている現実は決して看過できない。しかし一方で、万波にはこうしたマイナス面を差し引いても、余りあるほどの医師のよき本分をみいだすことができる。万波に理解を示す国民の多くは、地域医療ひとすじに生きてきたこの初老の医師に、いまは失われてしまった日本人の美質を見つけ、そこに郷愁を[p8>感じているのではないだろうか。
 いま地元愛媛では、患者や家族たちが万波医師の医療活動を支える会を組織し、支援の輪をひろげつつある。私はそうした患者たちから話を聞いていると、この動きは現代の医療のなかに失われてしまったものを取り返すひとつの医療ルネサンスではないかと思うことがたびたびあった。
 万波医師から移植手術をうけたある銀行員は、数年たって急に体調が悪くなり、医師の携帯に電話をいれ不調を訴えると、すぐに病院へ来るようにいわれた。深夜、松山から二時間余りかけ車で宇和島の病院へ行くと、万波医師は玄関に立ち、銀行員が来るのをじっと待っていてくれた、という。万波は終始どの患者にたいしても、このような姿勢をとりつづけており、医師と患者のこうした人間関係が、万波の医療活動の根底にある。
 しかしいうまでもなく、医療は科学的で実証的でなけれぱならない。万波がてがけた病腎移植の適否を審査するため、移植関係学会から派遣された医師や学者たちで専門委員会が組織され、中間報告を発表したが、否定的な意見が大勢をしめた。
 これに対して、フロリダ大学移植外科医の藤田士朗(ふじた・しろう)は、直接患者を診たこともない医師や学者が何をいっても、ちょうどぺーパードライバーがF1ドライバーに文句をいっているようなもので、笑止千万なことだと酷評する。審査をする委員は、みずから携わった腎臓移植症例数、自家腎(じかじん)移植症例数、腎臓がんに対する部分切除症例数、腎臓摘出症例数をあきらかにした上で発言すべきで、経験のない者が集まりカルテだけをみて摘出や移植の是非を判断することはおよそ科学的ではなく、委員はみんな権威だけにすがる「裸の王様」ではないか。否定的な委員の[p9>意見は数十年も前の医学的常識に凝り固まっていて、今日の臨床の現場を知らず、勉強不足もはなはだしい、というのである。また一部のメディアの側にも、専門委員の否定的な意見をそっくりそのまま報道する事例があり、病腎移植を支援するグループから悪意のある世論操作ではないか、という抗議の声が大手新聞社や放送局にたいして向けられている。
 本書は日本の移植医療をきずいた医師と患者たちのドラマである。主役で移植医療の第一人者でもある元日本移植学会理事長の太田和夫は、臓器移植ネットワークをめぐる主導権争いの最中、メディアの誤った中傷報道が原因で、学会の第一線を退くことになる。私は第五章の「誤ったスクープ」で、スクープされたUS腎問題の報道の背景を検証し、ある特定の勢力からリークされた情報が、そのまま新聞紙面で活字になっている事実に戦慄を覚えた。この誤報道こそ和田心臓移植同様、移植医療の遅滞をまねくことになった元凶にほかならないからである。
 この誤報道から十二年たったいま、病腎移植問題の報道において同じ過ちがくりかえされてはいないだろうか。医学的な問題以外の思惑や政治的力学で、この問題の是非が報じられるということがあってはならない。煉獄の中で移植を切望する患者の立場にしっかり寄り添った報道や医学的検証が求められている。
 新しい時代を切り拓く人物は、名伯楽によって育てられる。本書のなかの太田和夫や万波誠をとりまく人間模様もおもしろく読んでいただければ幸いである。

(pp25-26)
 一九九七(平成九)年十月、臓器移植法の施行にともない日本臓器移植ネットワークが発足し、全国的なネットワークが整備されたのに、脳死や心臓死からの臓器提供はかえって減少傾向にある。多額の資金を工面して、移植のため外国へ飛び立つレシピエントはあとをたたない。死体腎の提供が少ないがゆえに、日本人を対象にした海外の臓器売買ビジネスが盛んである。万波医師のように、患者と向き合う現場の医師たちの努力で、日本の各地に地域間での移植ネットワークができあがっていた。ところがこうした草の根のネットワークを、日本臓器移植ネットワークと臓器移植法がつぶした、と発言する移植医療関係者も多い。
 別れ際、日本の移植医療をきずいてきた太田はさりげなく、私につぎのようなことを語ってくれた。
 「患者は病気を研究してもらいたくて病院へやってくるのではない。病気を治してもらいたいのだ。医療は医学者や医療行政、さらに病院経営者のためにあるのではなく、あくまでも患者のためにある。医療行為がそれ自体の目的からはなれ、何かの手段に堕することがあってはならないのである。移植医療の問題を考えるときも、この当たり前の視座をひとときも忘れることがあってはならない」

 日本の移植医療はいっこうにすすまない。[p26>
 臓器移植法施行から今日まで、脳死移植は日本で年平均五件にすぎず、アメリカの年間五千件以上とは、比較にもならない数である。
 翌日松山に帰ると、万波医師の移植医療を支援してきた市立宇和島病院名誉院長の近藤俊文からパソコンにメールがはいっていた。
 「万波は純粋であるがゆえに、日本の移植医療の矛盾が解消されないかぎり、いつか破滅するだろう。移植がすすまないのを、いつまでも和田心臓移植の後遺症と言い訳しているのは通らない。この事件で問われているのは、世論や民意の形成におおきな影響力をもつマスコミ報道のあり方をふくめた、日本人と日本の文化そのものではないか」
 私は思わずひざを打った。
 太田和夫を中心にすえて、日本の移植医療をきずいた男たちのことを、どのように書こうかとあれこれ迷っていた。メールを読み、前がすっと開けるのを感じた。

(pp86-99)
 《止まった時間》 
 一九六八(昭和四十三)年八月八日だった。
 この日、深夜から早朝にかけて、日本で初めての心臓移植手術がおこなわれた。手がけたのは、札幌医科大学胸部外科の和田寿郎(じゅろう)教授をはじめとする二十名の医療グループである。
 移植手術は午前五時に無事終了し、和田は教授室にもどると窓をあけはなし、ジャブジャブと音をたて顔を洗った。すっかり夜が明けて、外は雨がシトシトとふっていた。思いがけずにつかんだ壮挙で和田は気分が高揚しているのか、雨のふる朝をすがすがしく感じた。
 かれは自宅へ電話をいれ、妻に手術のスタッフのために軽い朝食をつくるように頼むと、自ら医局の台所へゆき、酒かすをたっぷりいれた味噌汁をつくった。半時間後、和田の自宅からもちこまれたサンドイッチとメロンが医局のテーブルにならんだ。
 「諸君、ありがとう」
 和田は何度もさけび、スタッフは味噌汁で乾杯し、朝食を分け合った。
 徹夜で医学史に残る大仕事を終えた朝だったが、午前中に二つ、定例の手術も控えていた。
 和田はみんなに念をおした。
 「心臓移植手術はあくまでも臨時の手術だから、定例の手術が終わるまでは一切口外しないようにしてくれ。発表はオレがやる」
 昼過ぎにやっと定例の手術がすみ、医局にもどった和田とスタッフはくたくたに疲れ、眠りこんだ。[p87>
 午後の一時すぎだった。
 ソファでぐっすり寝込んでいる和田の肩を、スタッフのひとりがゆすって起こすと進言した。
 「日本で初めての手術ですから、報道機関に早く知らせるべきです」
 「めんどうだ。明日にしよう」
 和田が再び眠りに落ちようとすると、相手は声を強めた。
 「おそくなると、おそくなったこと自体をかんぐられ、問題にされますよ」
 そういわれて、和田は目が覚めた。
 まだ夕刊に間に合う時刻だった。和田は学長と病院長へ学内電話で手術の報告をすると同時に、そばにいたスタッフに、道政記者クラブへ連絡するように命じた。
 どこまで発表するか。和田はその内容を思案しながら、ドナーの氏名は公表しない約束だったことを思い出した。
 昨日の昼過ぎ、海水浴場でおぼれた大学四年生の山口義政が小樽の野口病院から救急車で札幌医大へ転送されてきたのは、午後八時五分ころである。そして息子に付き添ってきた両親に、和田が心臓提供の申し出をしたのは、日にちが変わった今日の深夜の午前一時十分ごろだった。
 「一人の命が救えるのなら」
 と父親はすぐに承諾したが、母親は反対だったので、ふたりで十分ばかり話し合ったあと、母親は納得し賛成にまわった。ただこのとき、医大病院にかけつけてきた弟妹が反対しているので、氏名の公表はしないでくれ、と両親は和田に要請したのである。[p88>
 一方、レシピエントの宮崎信夫の氏名の公表はまったく支障がなかった。すでに以前から、
心臓移植手術についての了承は本人と両親にとってあった。ただ、念のためにということで、深夜であったが、恵庭(えにわ)に住む両親を電話で医大に呼びだし、直接ふたりから口頭で承諾をしてもらっていた。
 和田は記者会見で発表する内容を箇条書きにすると、
 〈ドナーの氏名は公表しない〉
 と書き足し、間違いがないように○で囲んだ。
 ところが、和田もスタッフも気づかなかったが、ドナーとなった山口義政のことが、この日の読売新聞朝刊北海道版十三面のトップを飾っていた。それは、
 〈一度は死んだ水難大学生、心臓が動き出した!〉
 という大見出しがついたスクープ記事である。
 リード文は次のように書いてあった。
 〈七日昼、小樽市蘭島海水浴場で、札幌の大学生がおぼれ、医師から『心臓もとまっているし、ドウコウも開いているからもうだめだ』と診断されたが、地元民、日赤奉仕団員、警察官たち二十数人が約四十分間かわるがわる必死になって人工呼吸をした結果、救急車で小樽市内の病院に運ばれる途中、奇跡的に息をふきかえした。意識がもどらず、再び救急車で札幌医大病院に運ばれたが、救護にあたった人たちはなんとか助かってほしいと祈っている〉
 この記事を書いた小樽支局の設楽(しだら)淳二は、支局で夕食をとっていた午後七時すぎ、救急車があわただしく札幌医大へ向かうサイレンの音を耳にした。それが山口を乗せた救急車であることを[p89>知ると、設楽はすぐ札幌支社へ電話をいれた。山口が札幌医大で死ねば、自分が昼間、蘭島の海水浴場で取材し、支社に送った原稿は誤報になる。朝刊に使うのであれば、医大で山口の生死をかならず確かめてからにして欲しい、と設楽は何度も念を押した。
 朝刊に載せるため、午後十時前に支社の記者が山口の容態を札幌医大に確認したところ、高圧酸素室で治療中とのことだった。そこで支社は設楽の送った原稿を北海道版のトップ記事に決めた。救助に協力した五人が砂浜に立っている写真で紙面をかざり、最初の救助者と巡査の談話でしめくくるという特段のあつかいである。
 しかし、〈動きだした心臓〉は、このスクープ記事が印刷されていたころ、すでに山口の身体から摘出されていた。心臓はふたたび動きだすが、それはレシピエントの宮崎信夫の身体の中でのことである。
 胸部外科の医局は医大付属病院の三階にある。
 記者会見のために使用することにしたへやでは、記者からみて右端に和田がすわり、幹部クラスの医局員たちがその横に五人、窓を背にしてならんだ。和田と記者たちは顔なじみなので、記者は「先生、今日のモノはなんですか」と気軽に尋ねるのだが、和田はいつもとちがって、
 「みなさんがお揃いになってから発表します」と口をつぐんだ。
 全社がそろったのは、午後二時半近くだった。
 襟のない白衣をきた和田が、手術帽をとって立ち上がり、一語一語区切りながら独特の口調で手術の模様を語りだした。
 「けさ明け方、心臓置換手術を行いました。置換手術を受けた患者は、十八歳の少年で、[p90>宮崎信夫君。心臓を提供したのは、事故で死んだ二十歳の青年です。患者の容態は現在のところ、順調であります」
 記者団は一瞬沈黙した。
 そして、発表内容を理解し、ニュースの重大さに気づくと、会見場はたちまち騒然とし、異様なふんいきに包まれた。夕刊の締め切りにぎりぎり間に合う時間である。何人かの記者が廊下にとびだすと、すみの公衆電話にかけより、第一報を本社へ送った。和田は記者とカメラマンに取り囲まれ、つぎつぎにフラッシュと質問をあびた。
 朝刊で山口義政の心臓が動き出した、と伝えた読売新聞北海道版は、この日の夕刊で〈日本初の心臓移植手術の成功〉を報じた。記事のなかで、ドナーについては、
 〈心臓を提供した人は、七日午後十一時すぎ(その後の和田教授の正式な発表では、山口義政は八月七日午後十時十分、心停止、瞳孔散大、対光反応なしという死の三徴候が確認された、となっている。筆者注)事故で死亡した二十歳の青年〉とだけ紹介し、
 〈たまたま、七日夜、死亡した青年の家族から『何かに役立てば』と申し出があったため手術を行ったもの〉
 と和田が発表したとおりの内容を記事にした。
 小樽支局の設楽はこの夕刊を読み、ドナーが山口であることにすぐ気づき、死亡時間が「七日午後十一時すぎ」となっていることに疑問を抱いた。山口は海水浴場から野口病院へむかう救急車のなかで心臓が動きだし、息を吹き返したはずだった。意識がもどらないので、札幌医大へ運んだが、それから数時間でふたたび心臓が停止したというのは意外であった。札幌支社では、[p91>設楽の記事が誤報にならないよう、山口の生存を確かめているはずなのだが……。
 記事の最後に和田教授の話があった。
 〈すでに世界でも二十九人の移植手術が行われているが、それらの技術をあらゆる方面から取り入れ、一番良い方法、一番良い薬を使って行った。詳しいデータなどについては学会において発表する〉
 設楽はなおすっきりしないものを感じた。しかし支社に電話をいれ、和田の発表内容についてウラを取るよう注意をうながすことまではしなかった。
 翌日、札幌医大教授和田寿郎の名前と風貌は全国に知れわたることになる。和田は「時の人」として、マスコミの寵児になった。
 医大病院近辺のホテルに泊まりこみ、常駐態勢をしく各新聞社の記者の前に和田は毎日あらわれ、宮崎信夫の容態をくわしく説明した。
 宮崎は順調に回復していた。
 八月十五日には意識がもどり、手術後三十二日目には歩いた。
 この間、新聞は逐次、和田が発表する宮崎の様子を、ときには和田と病床の宮崎のツーショットの写真で伝えた。
 太田和夫はのちに、このわが国初の心臓移植手術とマスコミとの関係について、和田心臓移植よりも四年半余り前に、東大で初めて行われた腎臓移植手術と対比させ、医学雑誌につぎのように書いている。
 〈(移植手術について)現在であれば、新聞社はもちろんのこと、テレビ局、雑誌社、果ては[p92>女性週刊誌まで派手に騒ぐことは間違いないだろう。ところが、当時の日本の医学界には自分たちのやった新しい手術などをマスコミに連絡するなんてとんでもない。ましてや自分を売り込む手段としてマスコミを利用するなんて恥ずかしいという感覚があった。
 この手術(東大の腎臓移植)のことは、その年の四月の日本外科学会に発表したがこれもあまり反響がない。また、同じ三月に千葉大学で日本初の死体肝移植を中山恒明教授が行っていたのだが、これも世間を騒がせるようなニュースにはならなかった。
 マスコミが移植について過剰に報道するようになったのは昭和四十三年八月、和田心臓移植以来だろう。当初、和田教授は米国仕込みのスタイルで毎日記者会見を行い、マスコミを喜ばせた〉
 和田とマスコミは互いに利用しあい、「生と死と愛」のドラマを演出し、和田は「栄光の医師」として脚光をあびつづけた。

 宮崎信夫の容態が急変したのは十月二十九日午前零時ごろである。宮崎はのどにタンがつまり、たちまち呼吸困難となった。
 このとき和田は、三十日に東京の教育会館で開催される第二十一回日本胸部外科学会において、手術後はじめての学術的な発表をおこなうため、医療チームの幹部医師たちと一緒に上京していた。
 容態の急変を知り、和田は早朝一番の飛行機で札幌に帰り、そのまま病院へかけつけた。当直の医師三人が気管内吸引をおこない、タンを除去するなどの手当をしていたが、酸素不足の[p93<ため宮崎の心臓はほとんど停止状態だった。和田が加わり、心臓マッサージなどあらゆる蘇生術をやってみたが回復せず、宮崎は午後一時二十分に死亡した。移植から八十三日目のことである。
 全国から集まった千六百人の外科医が、東京で和田の発表を待っていた。患者が直前に死亡し、和田は苦しい事態に追い込まれたが、学会に穴をあけることはできず、和田は札幌で原稿を手直しすると、翌三十日の午前中の飛行機で東京へもどり、「心臓置換手術の臨床」の演題で発表した。
 日本を代表する心臓外科医がふたり、和田に質問した。
 最初にマイクをにぎった大阪大学の曲直部寿夫(まなべ・ひさお)教授の質問は次の三点だった。
 一、患者に心臓移植の必要が本当にあったのかどうか。
 二、免疫抑制剤を少ししか使わなかったというのはなぜか。
 三、患者の死因とされる急性呼吸不全を招く医学的なバックグラウンドは何か。
 これに対して和田は、一の質問については、アメリカのスターツル教授が心臓の三つの弁に異常があれば心臓移植がよいといっている、という一般論を述べた。また二の免疫抑制剤は、拒絶反応の徴候が出ない間はつかわない方針であった、と応えた。三については、患者は術後に血清肝炎を患い、全身の活動力がいちじるしく低下していた、と説明した。
 次に東京女子医大の榊原仟(さかきばら・しげる)教授が同じく三点質問した。
 一、免疫抑制剤イムランを使用したのはなぜか。
 二、手術後に意識不明になったのはなぜか。[p94>
 三、血清肝炎と移植との関係はどうか。
 曲直部が質問に立ってから、すでに会場は緊迫と戸惑いに似た異様な雰囲気となっていた。
 和田は額に汗をうかべながら、多くの資料は札幌にあり、ここには用意してきたスライドしかないので、回答の詳細は後日発表したい、とくりかえし口にした。
 榊原の最初の質問について、和田がイムランは手術後、いろいろな方からご教示があったため使ってみたと応えると、会場からどよめきがあがった。和田はこれまでマスコミを通して、イムランの使用を否定していたのである。和田は質問二の意識不明は、脳内のうっ血、そして三についてはドナーが救急治療のときに大量の輸血を受けていたことが原因であると説明した。

 患者の死とこの学会発表をきっかけに、さまざまな疑問がいっせいに噴き出しはじめた。
 まず根本的なことが問われる。
 宮崎信夫の心臓の三つの弁は、和田がいうように「三つが三つとも箸にも棒にもかからない絶望的な状態」だったのか。つまり通常の人工弁置換手術で対応することができず、心臓移植しか救命方法はなかったのだろうか。
 宮崎は一九六八(昭和四十三)年五月二十八日、札幌医大第二内科へ入院している。担当は宮原光夫教授だった。宮原は患者を七月五日に胸部外科へ転科させる。このとき通常の僧帽弁置換手術の適応患者という診断に基づき和田のところへ送ったのであって、心臓置換手術を行うなど宮原には考えられないことだった。宮原の指摘にたいして、和田は三つの弁が決定的に悪化したのは、転科後のことだと訂正した。[p95>
 しかし宮崎の切除された心臓の解剖標本を調べた札幌医大病理学教授の藤本輝夫は、心筋はそれほど傷んではおらず、しかも弁がひどくやられていたのは僧帽弁だけであった、とする所見を公にした。
 さらに藤本は論文のなかで、宮崎の遺体を解剖すると、胸腔も腹腔も血液と膿がたまり、移植された心臓は成人男子の四倍の大きさにまで肥大していたことを指摘した。また右心室は前の心臓以上に厚くなり、移植心臓のいずれの部位においても特徴のある炎症性変化が認められ、拒絶反応があったと推察できることを明らかにした。患者の死因が呼吸困難という単純なものではなく、移植手術そのものに起因していることは否定しがたい、ということである。
 ドナーについても問題があった。
 和田によると、午後十時十分に死亡を確認した山口義政にたいして、両親の要望で三時間余りにわたってさまざまな蘇生術をおこなった。しかし翌午前零時三十分、患者が生き返る可能性がまったくなくなったので、和田は人工心肺のスイッチをきろうとし、その瞬間に、
 「ふと宮崎君への心臓移植を思い出した」
 というのであった。
 このひらめきから一時間三十分後の午前二時五分、心臓を摘出するために山口の胸にメスがはいる。しかし、それも深夜のわずか一時間足らずの間に、二十名のスタッフをそろえ、輸血を用意し、ドナーとレシピエント双方の家族の同意をとりつけることができるだろうか。こうした基本的なことだけでも、何時間という時間が必要になる。和田はもっと早い段階から心臓移植を想定しながら、山口の治療にあたっていたのではないか、と識者は疑いの目をむけた。[p96>
 札幌地検も重い腰をあげ、本格的な捜査にのりだした。
 もともと山口はなぜ、野口病院から札幌医大へ送られたのか。
 野口病院で山口を最初に診た医師の上野冬生(ふゆお)は、患者の意識はなかったが、自力呼吸をしており、心臓も動いていたことを確認している。患者の容体が安定していたので、北大医学部からアルバイトで野口病院へきていた上野はひきあげた。病院長の野口暁が高圧酸素室のある札幌医大へ治療を依頼したのは、上野医師が帰ってあとのことである。
 野口と和田は親しく、和田はこれまでもたびたび野口病院で手術をしていた。そこで、和田が野口院長にたいして、心臓移植の提供者となりそうな患者が出たら、医大へ送って欲しいと依頼していたのではないか、と憶測されたが、関係者はかたく口を閉ざし真相はわからなかった。
 医大の他の医師のなかからも当日の状況について、証言する者があらわれた。その内のひとりの麻酔科助手内藤裕史(ひろし)は七日の夕刻、自分の研究室から二階にある九番手術室へ行ったところ、手術室には意識不明の患者が横たわり、周りを胸部外科の医師たちが十人余りも取り巻いているのを目撃した。内藤は手術室にはいり、患者を診察した。患者は自力呼吸をしており、聴診器をあてると心音がした。
 一方、この日午後七時、札幌医大は日赤の血液銀行へ宮崎の血液型であるAB型の血液二〇〇〇CCを予約していた。また、宮崎の両親にたいして、午後十時三十分に心臓移植の承諾を求めていたことが判明した。
 和田とマスコミの蜜月は終わり、和田はマスコミ嫌いになって、記者の前に一切すがたを[p97>見せなくなった。
 札幌地検は慎重に捜査をすすめた。蘭島海岸で溺れた山口を海中からひきあげた見張り員の高校生をはじめ嫌疑をもたれた和田寿郎まで、事情を聴取した関係者は百四十人をこえ、押収した証拠品は五百三十点に達した。
 地検の和田寿郎にたいする主要な嫌疑は、ドナーである山口義政との関係においては次の二点である。
 一、和田とその医療グループが山口の死亡以前に同人の心臓を摘出したことはないか。
 二、またそうでないとしても、和田とその医療グループは山口にたいする必要かつ最善の治療行為を怠り、死に至らしめたのではないか。
 またレシピエントの宮崎信夫との関係では、和田が心臓移植による死の可能性を十分に認識し、死の結果を十分に容認したうえで手術にふみきったのではないか、という嫌疑である。
 地検は三人の医学者に心臓移植手術の鑑定を依頼した。
 三人は、東京女子医科大学心臓血圧研究所所長の榊原仟と東大医学部教授で脳神経外科の時実利彦(ときざね・としひこ)、それに東大医学部教授で病理学の太田邦夫である。
 榊原鑑定は和田心臓移植に肯定的であったのに対し、時実と太田邦夫はそれぞれ疑義ありとしたものの、決定的な判断をさけた鑑定を提出した。地検が起訴にふみきるかどうか、三人の鑑定結果は当然、大きな影響を与えたものと思われる。
 和田心臓移植から二年経った一九七〇(昭和四十五)年八月二十一日、最高検と協議を重ねてきた札幌地検は、和田寿郎を不起訴処分とする決定を下した。不起訴理由の結論は次のとおりである。[p98>
 〈資料の関係から幾多解明しえない点があり、疑惑の残ることは否定しえないが、結局和田教授につき同人を山口義政および宮崎信夫に対する殺人罪または業務上過失致死罪その他の刑法上の犯罪として起訴し公訴を維持するに足る証拠がないので嫌疑不十分で不起訴の裁定をした〉
 胸部外科学会で、和田に質問したことのある榊原は、個人的な見解はともあれ、和田が不起訴処分になり、胸をなでおろした。
 同じく曲直部はつねづね仲間内に、
 「日本の腎臓移植の成績が悪いのは、新鮮な腎臓が入手し難いためだが、和田さんが起訴されれば一層困難になる」
 と語っていた。この意味において、不起訴決定は移植医療の将来にただよう暗雲をはらうことにはなった。とはいえ和田心臓移植が社会一般へ与えた影響は大きかった。
 太田は自著『臓器移植はなぜ必要か』(一九八九年十一月発行)のなかで、このように総括している。
 〈脳死のみをめぐって議論がかわされているのなら、まだしもよい。しかし足元に視線を落とすと、暗いわだかまりが、とぐろを巻いているのがよく見える。移植医療に対する、ひいてはわたしたち移殖医に対する根深い社会の不信感である。さらにいうならば、その不信感は医者全体に広く向けられている。不本意ながら、こうした社会感情が厳然として存在するのは認めざるを得ない。[p99>
 なぜ、こうなってしまったかについて、原因らしきものははっきり名指しすることができる。一九六八年におこなわれた、わが国で最初の―そして唯一の―心臓移植「和田移植」である。少し年配の人は臓器移植と聞くと、“あっ、あれか”と眉をひそめる、そんな汚点を残した移植手術である。(中略)信じられないことに「和田移植」では、ドナーとされた山口君に、こういう所見によって脳死の診断を下したという、肝腎かなめの記録らしきものがなにも残されていない。脳死の診断に、移植チーム以外の第三者も参加していない。当時は脳死の扱いについて、まだ十分に議論がなされていなかったという事情はあるにせよ、また、そうした事情があるからこそ、常識で考えてみてもはっきりとした記録を残さねばならないし、脳死の判定も、脳神経の専門医に任せるべきだったと思う〉

(p219-222)
 大林は赤坂の『きくみ』に遅れてやってきた。[p220>
 この日、国会ではやっと臓器移植法案の審議がはじまっていた。
 大林を待つ間、席についていた四人は、国会ではじまった脳死をめぐる議論のことをしばらく話題にした。
 十五分ほどして、大林が顔をだし、懇親の会食がはじまった。
 献杯をかわし、互いに硬さがとれ、座が和やかになった。
 「今日、お二人にお集まりいただいたのは、他でもありません。ネットワークのことで詰めのお話がございます」
 谷局長がきりだすと、すぐ大林が口をきった。
 「移植医がネットワークにはいるのは、遠慮してもらいたい」
 突然の大林の言葉に太田は驚き、座に緊張が走った。厚生省の三人は息を詰め、太田の反応をうかがった。
 太田はすぐに反論した。
 「移植医がいなければ何もできませんよ。ドナー情報を得てレシピエントを選択し、臓器を配分するのは素人ではできません。移植医が間にはいらないと、ネットワークは機能しません。アメリカのUNOSの理事の半分は移植医で占められています」
 大林は杯を膳にかえすと、自説をおしつけた。
 「日本には日本の事情がある。和田移植以来、まずいことは身内で隠しあう移植医を国民は信用しとらん。日本の移植はアメリカにくらべると何十年も遅れているじゃないか。移植医がネットワークに入るのは、日本の移植がアメリカ並みになってからにしてもらいたい」[p221>
 大林は胸ポケットから小さなカードを二枚取り出し、谷の前においた。
 カードには「公平・公正」、「厳選・迅速」と書かれていた。
 それから小一時間、あとはとりとめのない話に終始し、座は白けきったまま散会した。
 社団法人腎臓移植普及会の最後の理事会は、一九九五(平成七年)二月二十五日、品川のホテルパシフィックでひらかれた。
 阪神・淡路大震災の混乱がつづき、日本中がまだ非常時の最中にあったが、厚生省から岩尾總一郎課長と薄井康紀臓器対策室長が出席した。
 岩尾は普及会を改組して、社団法人日本腎臓移植ネットワークとし、これまでの啓発活動のほかに、「腎臓のあっせん・分配」をつかさどる組織に変更することを提案し、理事全員が賛成した。
 それから人事問題にはいると、加藤一郎理事(元東京大学法学部教授)が自ら発言を求めた。
 「これまで大林さんの移植に対する情熱と実績に心をうたれ、理事としての末席を汚してきましたが、問題は今日の改組です。厚生省が新たな人選をおこなうというのでは、普及会の活動の趣旨に賛同し、いままでやってきたわれわれに対して、失礼じゃありませんか」
 会場はしんと静まり返った。
 加藤は声をつよめた。
 「腎臓移植普及会がやってきたことが、どこかに乗っ取られてしまう感じがしてまことに不愉快です」
 黙って聞いていた大林が居並ぶ理事を見渡し、おもむろにいった。[p222>
 「それでは、人事については、厚生省の話はなかったこととし、従来の理事はそのまま留任していただく。その上で厚生省が推薦する方を理事に加える。この案でどうでしょうか」
 ぱらぱらと拍手がおこり、大林の提案が満場一致で決議された。
 日本移植学会理事長の太田和夫は、ネットワークから完全にはずされたのである。
 「太田君は目立ちすぎる。しばらくベンチで休んでもらう」
 と大林は周辺にもらしていた。
 理事会のあと、太田を訪ねてきた岩尾は、
 「厚生省がこれほど無力だとは思わなかった」
 と泣き言のような愚痴をもらした。
 一九九五(平成七)年三月十四日、普及会の総会において定款が変更され同月三十一日、厚生大臣は普及会の定款変更を認可した。翌四月一日、社団法人日本腎臓移植ネットワークは正式に発足した。


◆町田宗鳳, 20070920, 「生命倫理の文明論的展望」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:17-54.
(pp17-18)
 「人間改造」の最初に登場したのが、臓器移植である。一九六八年、札幌医大付属病院の和田寿郎医師が十分な手続きを踏まえず、心臓移植手術を強行し、しかもその患者がまもなくして死亡したため、臓器移植に対して否定的な見方が一気に広がった。その波紋から日本医学界の移植技術は四十年の遅れをとったとも言われる。
 しかし今や世情は大きく移り変わり、免疫抑制剤の開発も相まって、諸々の内臓疾患に苦しむ人たちに回復の希望を与え、また実際にその恩恵に浴する人たちも増加の一途をたどっている。日本では臓器を提供するドナーや移植手術が行なえる病院が少ないため、その数は限定されているが、米国や中国ではさかんに行なわれ、わざわざ国外に足を運んで、移植を受ける日本人も少なくない。そのような場合、手術や移動のために高額の経費がかかるため、患者救済のために募金活動が展開されることも珍しくなく、そのようなことが美談として新聞記事に載るようになった。


◆島薗進, 20070920, 「先端科学技術による人間の手段化をとどめられるか?――ヒト胚利用の是非をめぐる生命倫理と宗教文化」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:168-197.
(pp172-173)
 では、日本の国民が人のいのちへの医療の介入について、もっぱら許容的かというとそうでもない。脳死・臓器移植問題については日本では世界のなかでも際だって力強く慎重論が主張され、結局、「脳死は人の死である」という、死の新たな法的定義は採用されなかった。医学が人の死を定める権威をもつということに対して、また脳死を人の死とすることの妥当性について多くの疑義が示され(森岡 二〇〇一、小松 一九九六)、長期にわたる論議の末に成立した「臓器の移植に関する法律」(一九九七年)においても、脳死を人の死とする死の定義は採用されていない。そしてその後も、日本では脳死による臓器移植が頻繁には行なわれていない。
 脳死への懐疑論の根拠の一つは、権威主義的な医師による患者の身体への暴力的な介入への懸念である。世界で初めての心臓移植が伝えられたすぐ後の一九六八年、札幌医科大学の和田寿郎教授らは水泳中に溺水した二一歳の男性の心臓を、心臓弁膜症の治療を受けていた別の患者に移植したが、このレシピアント男性は移植後、八三日目に死亡した。ところが、その後、和田教授は二一歳のドナーの男性がまだ生存している間にその心臓を摘出して死に至らしめたのではないかと疑われた。証拠不十分のため不起訴処分とされたが、和田が潔白であるかどうか、国民の多くは疑いをもち続けた。


池田 光穂 20071010 「医療人類学の可能性ーー健康の未来とは何か?」池田 光穂・奥野 克巳 編『医療人類学のレッスン――病をめぐる文化を探る』,学陽書房:1-30.
(pp19-22)
単純な事実と複雑な分析視点

 医療人類学は単純な命題から出発し豊かな民族誌事例に直面することをとおして、数々の理論装置を生み出してきたことを、ここまでで紹介してきた。これから述べることは、研究対象である健康と病気に関する社会現[p20>象というものの複雑さが、これからの医療人類学の研究をより複雑なものにすることを指摘するつもりである。
 あらゆる国家では1つないしはそれ以上の種類の医療が公的なものとして認められているが、ほとんどの国家が西洋近代医療を公的な医療制度として受容している。それゆえに、現地の民族医学は、近代医療と競合ないしは共存関係にあり、場合によっては緩やかに混ざり合って(=習合して)いることもある。このような状況は、現地の医療を含めた複数の医療の共存(=医療的多元論)のあり方を極めて複雑なものにしている【表1-1】。
 次の心臓移植のエピソードにおいて、現象としては「人の臓器を別の人の臓器に置きかえる」という単純な事実なのだが、それが生んだ社会的影響は極めて複雑であることをわたしは指摘したい。その理由は、心臓は脳とならんで最も重要な臓器と考えられており、その活動が生きていることの証しと長く考えられてきたことに由来する。心臓移植手術は、単純な事実であったが、それが後の社会にもたらした社会的効果は極めて多岐にわたることを以下に解説してみよう。
-----
 【世界初の臓器移植についての単純な事実】
 1967年12月3日にクリスチャン・バーナードにより南アフリカで世界初の心臓移植が行なわれた。臓器提供者(ドナー)は黒人女性であり、移植された患者(レシピエント)は白人の男性であった。翌1968年8月8日札幌医科大学教授(当時)の和田寿郎は世界30例目、日本初の心臓移植手術を行なった。
-----
 ここからどのようなことが指摘することができるだろうか。当時はまだ脳死の概念はなかったので、死ぬことが確実視されている人体からの臓器摘出が行なわれたことが推察される。臓器移植は臨床医学の技術という観点からみると、それほど高度ではない外科手術であり、古くからそのアイディアはあった。しかし、死の定義は心臓死に代表されるような「三兆候死」ーー心拍と自発呼吸の停止および瞳孔散大という3つの兆候が揃った時に死んだと診断される死ーーであったために、実践家の間でも倫理的抵抗あるいは<社会的タブー>(=死ぬことが確実視されていても人体から[p21>の動いている臓器摘出を行なうこと)があった。したがって、最初にクリアしなければならなかった重要な課題は動いている心臓の摘出である。これには心臓が動いていても人間の死はあり得るという、死の定義の変更が必要であった。
 脳外科領域において知られていた「不可逆性昏睡」ーー二度と回復しない重症の昏睡状態ーーという現象は、最終的に心臓の停止(=死)を引き起こすゆえに、移植のための死の定義の変更にとって重要な要因となった。脳波が平坦であれば、それを人間の死として判断する<脳死の概念>が登場し、その判定基準が定式化され洗練してゆく。他方で、自己免疫疾患への治療のために使われていた免疫抑制剤が臓器移植後のレシピエントの管理に使われるようになる。この転用は、移植臓器の定着安定化ーー拒絶反応の低減ーーに大きく貢献する。それはまさに<思いがけない刷新>のひとつであった。免疫抑制剤への市場的ニーズが高まれば、強力な免疫抑制剤の発見と開発は製薬企業にとっては大きな魅力になる。新しい薬剤の開発が臓器移植後のレシピエントの生存率の改善に貢献することで、臓器移植が医療技術としていよいよ定着してゆく。
 すなわち、ここにみられるのは革新的な治療技術が考案され、それらが均質にゆっくり社会に定着してゆく過程をたどることではない。<社会的なタブー>があり効果が期待できないとされていた非正統的な「冶療」の導入が、それを支持し効率を高めてゆく補助的な技術と節合し、<思いがけない刷新>により、配列しなおされることで、それまで結びつかなかった要素が相互に強固に関連をもつ事態が新たに生じたのである。それは最終的には、道徳や法の領域への議論に飛び火し、法の整備、生命倫理学の誕生などのきっかけになった。
 西洋では伝統的な死の考え方つまり三兆候死を変更し、脳死判定の基準をより明確化する方向に進んでいった。その判定を倫理的に正当化する論理であるパーソン(人格)論が登場し、専門家の間で合意形成がなされる。パーソン論とは、人間の尊厳は人格にあるので人格の座である大脳が不可逆的に損傷を受けた場合は人間の死とみなしてよいという議論である。この議論が優勢になると利害関係のある議員や法曹関係者たちによって、死[p22>の判定基準に関する法体系の整備が加速化する。また脳死判定以降の治療は無意味な延命(=「治療費の浪費」)に繋がるという考えを生み出し、脳死患者は治療の対象ではなく、臓器資源とみなされてゆく。臓器提供の可能性があれば家族(遺族)への医療費の負担はなく、可能性がなければ医療費は家族が負わされるということになる。


◆小林 公夫 20071011 『治療行為の正当化原理』,日本評論社.
(pp557-559)
 バチスタ手術とは、重症になれば心臓移植が必要になる拡張型心筋症の患者の心臓の一部を切り取り、縮小す[p558>る手術である。いわゆる、心臓縮小手術のことで、移植のための臓器不足に悩む欧米で注目を集め、実施例を憎やしてきた手術である(1)。
 バチスタ手術は、現在でこそ、日本での手術施行として稀なものではなくなったが、その第一例目施行の際には、和田心臓移植以来、日本に根づいた先駆的医療に対する疑念の視点が支配的だったと思われる(2)。それは、第一例目が、湘南鎌倉総合病院で須磨久善心臓外科医の手により施行されるまでのバチスタ手術の実績によるところも大きかったであろう。第一例目が施行された平成八年(一九九六年)一二月の時点で、世界のバチスタ手術の施行例は、四五〇例にのぼるといわれ、術後の一年生存率は、六〇%程度と、心臓移植の実績である八〇%を下回っていたからである(3)。
 そのような状況の中で、都内の医学部附属病院から転院し、湘南鎌倉総合病院に入院中であった、末期の拡張型心筋症の男性(当時五三歳)に、バチスタ手術は施行された。しかし、日本初のバチスタ手術は、手術そのものはうまくいったが、肥大した心臓に圧迫されて患者の肺が弱っていたため、患者は肺炎を起こし、呼吸不全に陥り、術後一二日目に患者は息を引きとった(4)。当時の朝日新聞(一二月一五日朝刊第二社会面)は、それを以下のように報じた。
 「神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院(鈴木隆夫院長)で、国内で初めての心臓縮小手術を受けた拡張型心筋症の男性(53)が、一四日肺炎による呼吸不全で死亡した。今月二日の手術後、一二日目だった。心臓移植以外の新しい救命手術として注目されたが、成果をあげることができなかった。」
 医学界、マスコミからも、「確立されていない手術を先走って行った(5)」と批判的なコメントが出された。この新しい外科手術に対する医学界、マスコミの視点は厳しいものがあった。しかし、それがどうであろうと、法的側面から、この手術の施行第一例目の適法性を探るには、実験的治療行為(極限的治験水準)の適法化要件から{p559>客観的に過失判断がなされるべきである。


◆田中 丹史 20080201 「生命倫理」 の三重の不在――日本の「生命倫理」政策の歴史的現在」『現代思想』)特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー)36-2(2008-2)青土社:231-245.
(p235)
 一九八〇年代に入り、後に質と量の双方の点から世界最高水準とも評される[小松2002]、日本の脳死・臓器移植論争は、重大な分岐点に差し掛かっていた。
 当時、脳死者からの臓器移植は、一九六八年の「和田移植」以降、医療不信のため、実施困難な状態が続いていた。しかし、一九八四年、筑波大学での膵臓・腎臓同時移植により、再度、脳死と臓器移植が接点を持つに到ったからである。これに対しては刑事告発がなされ、以降、移植の度に刑事告発が行われることとなる。
 脳死・臓器移植が社会問題化する中で、日本医師会生命倫理懇談会(第1次、一九八六〜八年)、臨時脳死及び臓器移植調査会(一九九〇〜二年、以下、脳死臨調)など意見の調整機関が設置され、やがて法整備へと向かう政治過程が出現した。
 当時の論争を主要な論点から要約すると、刑法学者の中山研一の視角[中山1992]に従えば、脳死判定の医学的妥当性及び脳死・臓器移植への「社会的合意」の二点を指摘できるだろう(4)。


◆木村 良一 20080512 『臓器漂流――移植医療の死角』,ポプラ社.
(pp158-160)
和田心臓移植
 日本の移植医療は、臓器提供者の死の判定をめぐり、密室性や閉鎖性が問題となった和田心臓移植によって大幅に遅れた。世界の流れから大きく取り残されてしまった[p159>のである。この和田心臓移植とは、一九六八(昭和四十三)年八月、札幌医大胸部外科の和田寿郎教授(当時)によって行われた日本初の心臓移植のことである。
 臓器移植法が施行されたのをきっかけに和田心臓移植を検証し直した『凍れる心臓』(共同通信社)などによると、和田教授の口癖は「地方の医学校では何かしないと注目してもらえない」「論文を機関銃のように撃ちまくる」だった。当時、札幌の記者クラブには、和田教授から「日本初」「世界に先駆け」と新しい手術や実験について「記者会見したい」という電話がよくかかってきた。その延長線上に心臓移植があった。和田教授はきちんと準備が整う前に突っ走ってしまうところがあったという。
 この和田心臓移植を強く反省し、日本移植学会は「フェア・ベスト・オープン」を掲げ、移植医療に対する社会的信用を取り戻す努力を重ねた。その結果、一九九七(平成九)年六月に臓器移植法が成立し、法の下で脳死を人の死とし、殺人罪に問われることなく、脳死移植が実施できるようになった。
 人の命を預かる医療は、その問題が重ければ重いほど、多ければ多いほど、オープンにして第三者による検証や評価を求めなくてはならない。これが医療の鉄則だろう。[p160>
 ここで病腎移植の万波医師に話を戻すが、万波医師は地元では「宇和島のブラックジャック」「赤ひげ先生」と呼ばれ、患者の評判が良く、病腎移植の問題では患者らが「移植への理解を求める会」も結成した。患者の利益をまず先に考える医師なのだろう。ただし、患者の評判がどんなに良くても、その医師の行う医療が透明性に欠けていては真の医療とはいえないのではないか。

(pp182-185)
 臓器移植法が施行(一九九七年十月十六日)されても脳死移植が実現されず、「もう待てない」と力尽きて四十四歳で他界した男性を私は知っている。[p183>
 この男性は、十万人に数人の割合で発病する特発性肺線維症と診断され、九七年三月に東京医大病院に入院。東京医大の審査委員会で脳死移植のレシピエントと承認され、「法律が施行されれば、国内でも移植ができる」と固く信じ、脳死者からの肺移植手術を待っていた。しかし、現実は法が施行されても心臓と肝臓以外の移植施設(病院)がなかなか決まらず、ドナーも現れない状態が続き、九七年の十一月に死亡した。
 臓器移植法が成立するようにと、小学二年生だった男性の二女が橋本龍太郎首相(当時)に「お父さんは移植でしか助かりません。どうか、助けてください」と手紙を出したことを知り、何とかしてあげたいと思ったことを覚えている。
 昭和四十三年八月に札幌医大の和田寿郎教授(当時)が行った日本初の心臓移植は、@遊泳中におぼれたドナーに対する蘇生措置は十分だったのかA脳波をきちんと測定して脳死判定を行ったのかBレシピエントに移植は必要だったのかと疑問や批判の声が上がり、殺人容疑で刑事告発(嫌疑不十分で不起訴処分)された。それ以来、日本の移植医療はその発展の道を閉ざされ、医療不信の代名詞のように言われてきた。
 しかし、私と同世代の四十歳代の移植医は「移植手術で患者は信じられないほど元[p184>気になる。アメリカでそれを見て移植医になる決心をした」と情熱を燃やし、日本移植学会も和田移植の不透明さや密室性を反省し、「フェア、ベスト、オープン」の三原則で移植医療を実現していくことを社会に訴え、理解を求めてきた〉

 〈立場が違えば、考え方も違うのは当然だろうが、脳死移植は対立構造の医療なのである。私や私の家族が移植でしか助からないと診断されたら、何千万という資金をかき集め、ドナーの多い海外に渡ってでも移植手術を受けるだろうし、日本で脳死移植が盛んになるのを願うであろう。反対に家族や私が脳死になったら、どうするのか。迷わず、ドナーになろうという人は、崇高な人だと思う。臓器提供はしないという人もそれでよいと思う。私はドナーカードを何度も書き換え、迷い続けている。まだ保険証にシールも張っていない。私の中にも対立構造が存在するからだ。しかし、いま、家族みんなで時間をかけて話し合い、結論を出すときがきている〉

 コラムは最後にこう結んでいるが、このコラムが産経新聞の紙面に掲載されてから[p185>十年近い歳月が流れた。その間、どれだけの人がドナーになる意味を真剣に考えただろうか。人はその境遇にならないと、現実を認識しないものである。自分の親兄弟や友人が臓器移植を受けないと生きていけない体でもない限り、ドナーについて家族で話し合うこともしないのかもしれない。


*作成:植村 要
UP:20080626 REV:20080727, 0818, 0907, 1019, 1123, 20090127, 0318, 20111023
臓器移植  ◇生命倫理[学]
TOP HOME (http://www.arsvi.com)