HOME >

労働の義務/働かない権利

労働


 *以下は立岩真也『希望について』(2006,青土社)に「ニートを生み出す社会構造は」(与えられた題,初出は2005,収録頁はpp.162-170)を再録するにあたり、新たにつけた注。


◆01 このインタビューが掲載された『Fonte』はNPO法人全国不登校新聞社の発行。以前は『不登校新聞』という名称の新聞だった。書籍として全国不登校新聞社編[2002]。このインタビューの聞き手は石井志昂さん。見出しには「若者の心の問題ではない」「訓練では解決しない」。
◆02 まず、生存・生活のために消費は必要であり、そのために生産は必要であり、労働は必要である。このことは動かせない。生存が権利であるなら、その手段としての労働は義務だと言えるのではないかということだ。
 AとBの二人がいたとして、生活・生存(自由と言いたい人にとっては自由…)が権利であるとしよう。そしてBだけが働けるとしよう。するとA(の生存・生活、自由…)のために働くことは義務だとなる。このような意味においては、労働が義務であることは否定されない。権利と義務は一般的・基本的に相即する。だから、権<0166<利が先か義務が先かといった議論は、むろん文脈によって有意味であり有意義である場合もあるのだが、しばしば、まちがっている。人の権利を認めることは、その権利を認める義務が人々に課されるということである。人が生きる権利があることは、人々にその人を殺さない義務、生きることを可能にする義務があるということである。
 ただ労働の場合には少し異なると思われるかもしれない。つまり、しばしば人は自分の分かそれ以上を自分で働き出すことができる。先の例ではBは働けないのだったが、それは一般的な事態ではない。自分で働いた分を消費して生きている限りにおいては、他人を働かせる必要は必ずしもない。とすれば、その人の権利を実現するために、他の人に義務を課す必要はないことになるのではないか。
 たしかに実際にそうして生きていくことは可能であろう。しかし第一に、だから他の人たちに義務がないとするのは、その人自身の生について、その人だけが義務を負うということでもある。私たちは、最も基本的な水準においては、自らの生産物(とそれを交換して得たもの)によって自らの生を成り立たせていくべきだという規範を採用しないのだった。第二に、その人自身が自らの生産物でやっていけるという事態は、その人の生産物をその人が独占的に取得する権利を認めることによって成り立つ。しかしこのことも、やはり基本的には、肯定されないのだった。
 自らの生産物を独占的に取得する権利ではなく、一人ひとりが生きる権利が認められるのだとしよう。するとそのことに関わる義務は誰にあることになるのか。それを誰か特定の人とする根拠はない。自分が生きるために自分だけが働く義務があるとも言えない。とくに限定されない人々全般に義務はある、となる。
 もうすこし言えば、働くことは、少なくとも一面で、労苦ではある。同じぐらいの暮らしができて、その限りではおおむね同じくらいの便益を受け取れるのであれば、おおむね同じぐらい働いてもよいではないか。(これに対しては、得るものが少なくていいから少なくだけしか働かなくてもよいようにしてくれという要求を受け入れることになると指摘されるかもしれない。しかしこれは受け入れてかまわないと私は考える。)
 ただし以上は、義務を課す規則を置くべきことを意味しない。義務はあると言うことと、「働かない権利を」<0167<という主張――例えば「病」者の本出版委員会編[1995]の表紙写真には「働かない権利を!」という垂れ幕が写っている――の肩を持つこととは両立すると考えている。その理由はいくつかある。
 1)まずそのように言われる人にとっての負担、その人に対する負荷。
 第一に、「働かない」と「働けない」との区別が難しい。「働かない」のでなく「働けない」のだということを本人の側が立証することは困難である。そのような無理なことを押し付けて困られるよりも、それをいちいち見ない方がよいと言いうる。このことは本文でも述べている。
 第二に、なにか働くことはできるとして、働くため、働けるようになるために本人が要するコスト、あるいは働いた結果がどれほどのものになるか、そしてこの両方を見た場合に、働くことを強いられることは、やはり本人に対して害が大きいこと、そのわりにそうよいこともないことがある。
 2)次に、働いてもらう必要はあるとして、労働にし向けるための強制(しない場合の制裁)を課さなくてもかまわないと言える条件がいくつかある。
 第一に、働く理由・誘引が他にあればよい。強制――これはそもそも人をよく働かせる手段としてはあまり有効な手段ではない――でない方法として、三つあげられる。まず一つ、人は、仕事をすること自体が楽しい、自ら働きたくてけっこう働くものだということになれば、話は変わってくる。一つ、人から誉められたり、ねぎらわれたりすると、また人のために役に立っていると思うと、その気になってしまうところがある。そして一つ、いくらかの報酬(の差)があることによって(より)働こうとするなら、それで足りる可能性がある。多くの人が就きたがらない厳しい仕事についてはそれだけよけいによいこともあるようにすればよいかもしれない。(ただそれでも、辛い仕事がある特定の人たちに委ねられることにはなる。これはよくないという捉え方もある。cf.Walzer[1983=1999]。)(ちなみに、通常なされる議論はこの段落にあげた二つ三つの間でなされる。つまり、人に働いてもらうためには、やはり報酬を、それも差異化された報酬を提供せねばならないのか、それともその以外の労働への誘因を重くみてよいのかといった議論である。)
 第二に、第一点と相関するのだが、この社会で総量としていったいどれだけの人がどれだけ働かねばならない<0168<かということ。それがだいたい総量としては足りているのであれば、人を労働に仕向ける必要は少なくなる。
 3)さらに、以上に関連して、義務を課して実際に就労させることが不可能あるいは困難である場合に、実際に就労の義務を課すことは不当・不正な行ないになる。就職の数が限られており、すでにそこには人がいる場合、義務を課されても、働きようがない。自分は入れても、こんどは別の人が働けない。(ワークフェアと呼ばれる政策の一つの問題は、現実の事態はこのようであるのに就労義務を課し、さらにその無理な仕組みに適応しない人には福祉の受給権を奪ってしまうところにある。)
 こうして、労働の義務を基本的には肯定しつつ、労働を(実際に)押しつけることの加害性をふまえるなら、人を労働の方にもっていかなくてはならないことはあまりない。
◆03 フリーター、ニートといった語を冠したたいへん多くの本が出されていることは聞いているが、その多くはよく知られているようだから、ここでは書名をあげるのを略す。『現代思想』二〇〇五年一月号・特集:フリーター(『現代思想』[2005])、杉田[2005]だけあげておく。フリーターと「やりたいこと」志向についての言説分析として橋口[2005][2006a]、企業が求める「人柄」の変遷について橋口[2006b]。
◆04 ワークフェアについては宮本[2002]等。英国のブレア政権の下での政策として紹介されることが多いが、より早くに始まった米国での政策の推移をPeck[2001]等に依拠しつつ記しているものとして小林[2005][2006a][2006b]。また文献表として小林[2004-]。
◆05 ベーシックインカムについての代表的な著作としてよくあげられるのはParijs[1997](近く齊藤拓による訳書が刊行される予定)、翻訳が出ているものとしてFitzpatrick[1999=2005]。日本では、書籍として小沢[2002]、論文では宮本[2002]、山森[2002][2003]、小沢[2004]、宮本[2004]、齊藤[2005]。他に例えばCallinicos[2003=2004:181-182]に「過渡期のプログラム」の一つとしてあげられている。南アフリカ共和国での試みについて牧野[2002]、フランスについて都留[2004]。一国単位の制度からの拡張の可能性についての議論の紹介として齊藤[2004]。また一括給付金を与えようという資産ベース政策、それとベーシックインカム政策との異同について齊藤[2006a][2006b]。<0169<
 注◆03との関連では、ベーシックインカムを主張する人たち(のある部分)は、「働かない権利」を主張するという。Parijs[1997]の表紙にはサーフィンをする人の写真があって、働かず(金を稼がず)一日サーフィンをしている人であってもベーシックインカムは受け取れるのだというメッセージだともいう。そしてそれが批判の論点になってもいるようだ。どのような意味で「働かない権利」が言われているのか。前の注に私が記したことにどのように対しているのか、あるいは対していないのか。検討してみたいと思う。
 さらに、こうしたアイディアはとくに最近現われたのでないことも、当たり前のことなのだが、確認しておく必要はある。つまり、どれほどの理屈が上乗せされていたかは別として、みなが暮らせるだけの所得保障をという主張はずっとあったのであり、それをことさらに新しいものとして取り上げることは恥ずかしいことだと言うべきだろう。例えばフェミニズムとの関連では小倉・大橋編[1991]における小倉の提起。またここでは、人間の活動はすべて労働だと言ってしまうという方向と労働に重みを置くことをやめようという方向と、実際にはあまり変わらないところもあり、また同時に差異もある二つの言い方がなされたのでもある。このことについても過去の議論を検証し、考えておく必要がある。(家事労働、性別分業については[2005-b]で考えてみている。「主婦論争」を再考しようとする試みとして村上[2006a][2006a]。)<0170<

◆cf.
 立岩 真也 2006/07/07 「質問(?)」
 Workshop with Professor Philippe Van Parijs 於:立命館大学


*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)の成果/のための資料の一部でもあります。
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm

UP:20060704 REV:0805
労働  ◇生存・生活
TOP HOME (http://www.arsvi.com)