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ボイタ法


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■新着

児玉 真美 2016/03/07 「『どんぐりの会物語』から興味深い箇所と、1970年代のボイタ法体験をメモ」
 http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/65072328.html

■NPO法人日本ボイタ協会
 http://www.vojta.jp/index.html

■言及

◆上田 敏 19830615 『リハビリテーションを考える――障害者の全人間的復権』,青木書店,障害者問題双書,327p. ISBN-10: 4250830187 ISBN-13: 978-4250830181 2000 [amazon][kinokuniya] ※ r02.

 「たとえばライトらは四七例の六歳以下の痙直型脳性麻痺児を二群に分け、一方にボバス法を実施し、他はまったく訓練をおこなわず経過だけ を追って、一年半の期間の前後で二群を比較した。しかし結果は両群で運動発達に差はなく、どのようなサブグループ(病型、程度、付随型症状別)に層別化して検討してみてもほとんど差はなく、わずかに、運動年齢が六〜一二月の間にあった四肢麻痺型のみが、訓練群のほうが対照群より発達がよい傾向を示したにとどまったのである。注意すべきことは、これはこれまで例にあげてきたようなボバス法と一般的運動療法との比較(図のEとDの比較)ではなく、まったく訓練を行なわなかったのであり、BとEの比較、あるいはもっと極端にいえばAとEの比較でさえあったかもしれないのであるから、きわめて不十分な結果といわなければならないものである。もちろんこれをもってボバス<0297<法の価値をただちに否定してよわけではない。ただ、このような対照試験をもっと本格的に、多数行なう努力をしないで、自己の臨床経験(それは先にのべたようにしばしば論理的でないものである)だけにもとづく「信念」にとじこもりあるいは権威者の言のみにたよって、「適応」と「禁忌」を定める努力もしないで、いぜんとしてすべてのの脳性麻痺児にボバス法を適用していくのでよいとしたら、それはその人の主観的善意がどんなに大きかろうと客観的には反倫理的なことであるという他はない。もちろんここでボバス法というのは単なる一例であって、この点についてはボイタ法も動作訓練法も、あるいは成人脳性麻痺その他についての、さまざまな「特異的」技法もまったく同じことである。論理的でないものは倫理的でありえないのである。このように治療の専門家である以上、自分たちの治療の有効性について論理的・科学的にたえず反省し、常に客観的により確実な治療の有効性を求めていこうとする姿勢こそ、専門職に要求される最低限の職業倫理だと言ってもよいであろう。」(上田[1983:297-298]、下線部は本では傍点)

◆上田 敏・大川 嗣雄・明石 謙 編/津山 直一 監修 19861101 『標準リハビリテーション医学』,医学書院,339p. ISBN-10: 4260243136 ISBN-13: 978-4260243131 5900+ [amazon][kinokuniya] ※ r02.

 4 リハビリテーション医学の臨床(各論)  D. 脳性麻痺のリハビリテーション 穐山富太郎 233-251
 「Bobathは治療中や家庭での母親の態度の重要性にふれ、「母親は子どもをかわいそうに思うあまり、その子を泣かす療法士に敵対心を持つことさえある。もし、母親がそのような気持をあらわすと、子どもは敏感に感じとり、すべての子どもがそうであるように、子どもは自分自身を可哀そうと思う以上に母親にあわれみを感じるものである。そして母親と一緒になって、療法士や治療に対抗していこうとするのである。母親と療法士は協力して合わなければならない。子どもに対してはやさしくそして厳しく接し、治療をするかしないかを子どもにまかせるようであってはならない」と述べている。」(穐山[1986:242]
 3)理学療法
  a)Bobathのアプローチ
 「Bobath法は乳幼児発達学を基盤にした最も普遍的で、すぐれた神経生理学的アプローチである。全人間的発達促進を目標に理学療法のみでなく、作業療法、言語療法的アプローチも同時に実施する総合的な脳性麻痺療育アプローチでもある。」(穐山[1986:242])
  d)Vojtaのアプローチ
 「Vojtaの治療テクニックで気づかれる点は、触刺激、圧刺激に敏感な乳幼児において、生理的な反応として、正常運動パターンの促通が容易であるが、一方では、強すぎる刺激や異常な対抗により筋緊張の亢進をもらたすことである。全身的な姿勢緊張の変化を掌握できることと、治療手技を十分身につけておくことがセラピストに望まれる。」(穐山[1986:244])

 ※上田敏[1983]のようなことを書いている人が、この本の編者になっている、ということが成立している。

◆石川 憲彦 19880225 『治療という幻想――障害の治療からみえること』,現代書館,269p. ISBN-10: 4768433618 ISBN-13: 978-4768433614 2060 [amazon] ※ ms. e19.

 「戦後四十年。脳性麻痺の治療学は、古典的医学の治療という発想の下では、まったく進歩がなかったといってよい。なぜなら「一度破壊された脳細胞は再生しない」という、医学の命題はまだ解決されていないからである。
 にもかかわらず、映画「さようならCP」がその内容をよそに表題のみが社会的に利用されたように、相次いで日本に上陸した早期療法(2)の宣伝によって、一九七〇年代は「脳性麻痺は直る」「紀元二千年に脳性マヒ故に歩けない人は存在しなくなるであろう」といった宣伝が公然と登場してきた。これは、…(p.140)…”戦後の人権意識”に強く支えられた”療育”の立場から語られ始めた。筆者もボイタ法の講習会に参加して、何カ月かこの熱狂的叫びにとらわれ、心揺さぶられた体験がある。
 しかし、この数年、次第にその熱気は冷めつつある。日本脳性麻痺研究会のこの二年の記録は、それを物語っている。同記録『脳性麻痺研究』のNo.3(一九八三年)及びNo.4(一九八四年)は各々、「早期療育」「脳性麻痺は減ったか」のテーマにおいて、リハビリテーションへの基本的な疑問を投げかけている。一言でいえば、「脳性麻痺は減ったが、その主役は胎児新生児病学における治療技術の進歩であり、療育によって減ったといえるのだろうか」という内容の疑問である。(p.141)」(石川[1988:139-141])

児玉 真美 20020902 『海のいる風景――障害のある子と親の座標』,三輪書店,231p. ISBN-10: 4895901793 ISBN-13: 978-4895901796 1890 [amazon][kinokuniya] ※ cp.

児玉 真美 20120920 『海のいる風景――重症心身障害のある子どもの親であるということ 新版』,生活書院,278p. ISBN-10: 4903690970 ISBN-13: 978-4903690971 1600+ [amazon][kinokuniya] ※ cp.

 「入園中、赤ん坊の頭を苦しい位置に押さえつけて本能的に暴れさせ、その試行錯誤の あがきの中から正しい寝返り動作を身につけさせるというボイタ法の訓練には、私は精神的な影響の方が気になって、正直なところ、あまり信頼を持てなかった。母親との信頼関係を形づくるうえで一番大切な時期にこんな訓練をさせで、取り返<0105<しのつかない傷を心に負わせてしまったら、いったい誰が責任をとってくれるんだ……?
 けれど、母親のそんな懸念をよそに、むしろ、ふんが、ふんが、と鼻膨らませてがんばってみせたのは、当の本人だった。これには内心、度肝を抜かれた。最初の数回こそパニックしたものの、すぐに泣かなくなった海は、一歳足らずの分際で、ちゃんと意欲的にリハビリに取り組もうとしていた。人間が何かを本能的に察知するということはきっと、頭で納得する以上にすごいことなのだ。
 母子入園から帰った日に一度成功すると、海は「できるはず」という手応えを確かにし、 放っておいても一人でせっせと寝返りにチャレンジしていた。そして、寝返りが成功して、きわどいところに置いてあるオモチャをゲットした暁には、「どーだぁ!」とエベレストでも征服したような自慢げな顔で親を振り向き、手にしたオモチャを見せびらかす。そんなふうにして両側ともマスターした海は、そのうちティッシュの箱の誘惑に引きづられて、 少しずつ肘這いもできるようになっていった。」(児玉[2002→2012:105-106])

◆2010/03/01 杉本健郎/立岩真也(聞き手)「「医療的ケア」が繋ぐもの」(インタビュー), 『現代思想』38-3(2010-3):52-81
 * この号まだ購入できるようです(2016.3.9)→[amazon][kinokuniya]

「脳性麻痺の療法
立岩 […]
杉本 僕らは医学から入って、教育からは入△056 っていないでしょう。しかし学生時代のサークルも含めて、その頃にはボイタ・ボバースという脳性麻痺の早期療育は出てきていないのですが、ハンディキャップを診る医者はほとんどいなかった。NICUができ出したのが七〇年代の後半で、それまでは全て産科管理だったのです。小児科はお客さんとして診にいくだけだったのですが、それを小児科のエリアに別建てで一つ区画を持ってきた。そこにはハンディキャップを持った子がいて、それまでは病棟ではほとんどが生きるか死ぬかだけの小児であったり、腎炎だったりしたのが、疾患の単位が全然違ってくるわけです。神経というのはほとんどそういったハンディキャップを持っていて、痙攣を起こしたら止めるくらい。それから発達ですよね。発達という言葉をどう見るかというのは、学生時代のわれわれにとっては大きな問題でした。発達を後押しするのか、それともそのままでいいのか、それこそヘルメットの色の違いによる討論が医学部の中にもあったんですよね。
立岩 その頃でしょうが、例えば農村医学での若月さんの系列というのは、僕らのイメージとしては共産党の流れなのですが、その見方でよいのでしょうか。
杉本 当たっていますね。というか、何かそのままでいいという見方には非常に抵抗があったのです。
立岩 「発達保障」を前面に出すサイドというのも、共産党系の思想の系列だと了解しているのですが。
杉本 当時はそうでしたね。
立岩 […]前者が「全面発達」「発達保障」を言う。それに対して、「そのままでいい」という言い方を対置するという……。
杉本 「青い芝の会」の話が、ちょうどそのすぐ後で出てきますよね。
立岩 その人たちが脳性麻痺の子を殺した母親への減刑嘆願運動に抗議するのが一九七〇年ですが、その後すぐに養護学校義務化に反対していくことになります。そのことと小児医療と関わられて、脳性麻痺の育ちを見ている杉本さんというのは、接触があったのでしょうか。
杉本 凄く難しい質問ですね。しかも凄く古い皮質に溜まったような質問です。医師というのは、非常に横柄だと思うのですが、原則としてキュアじゃないですか。ケアなんて言葉は九〇年代以降の言葉でしょう。だからキュアしないものに対する視点など元々はなかったわけです。ところが何度も言うように、養護学校をどのように分けるかという討論自体には僕らは入りきりませんでしたが、ハンディを持った子たちをどのように家に帰し、NICUに置かないかというところで医者に何ができるのか。少しでもよくしていく……これは後々になって、治るのか治らないのかという討論がドーっと出てきますが、何かをプラスにしたいという思いが当時はありましたね。だからそのまま受け入れられる話では△058 なか。った。
立岩 二〇〇二年にNHKスペシャルで「奇跡の詩人」という番組が放映され、そこに登場した子どもがドーマン法の訓練を受けた天才児で……といった筋で、虚偽がある、訓練法について誤った理解をさせるということで批判されるといったことがありました。杉本さんの見解も、批判する側に援用されたりもしますね。
杉本 しかし一時はまさに革命かなと思うような理屈だったんですよ。特にボイタですね。
立岩 あれはいつ頃が始まり、あるいはピークだったでしょうか。
杉本 僕らもボイタが来たときに、聖ヨゼフ病院でトレーニングを受けましたからね。ボイタ法が出たのは八〇年の前半辺りかなと記憶していますが、定かではありません。思想的にはボバースよりもボイタのほうが重要です。あの過酷な――今から見ればいじめですよ――ボイタによって治ったという人が出てきていることを次々と報告される。
立岩 それはどういう報告として上がってくるわけですか。
杉本 そこなんですよ。それは学会レヴェルの発表ではなくて、親のレヴェルじゃないですか。それにボイタそのものに関するドイツでの情報を求めて現地へみんなが出向いていったわけです。ボイタのところで学んで、次にはボイタを呼び寄せて、ヨゼフが拠点になったのです。そんなわけで僕らも、早期療育をすれば脳性麻痺にはならないのだと思った。促通といって、末端から刺激を与えていけば脳は麻痺にならないという、今から思えば難しい理屈だったのですが、当時の思想にとっては飛びつくような内容だったのです。
 その流れが何年間かあって、そこにドーマンと同じ流れからボバースという方法が入ってきた。ボバースは大阪が拠点になって、大阪のボバース記念病院対京都の聖ヨゼフ整肢園という脳性麻痺を早期療育して治すという二大教祖が並び立ったわけです。それで数年間はこの両方へ各地からみんなが流れ込んだ。だいたいみんなボイタに行ったんですよ。ボバースはそのおこぼれを拾ったような形でした。
立岩 それは、その当時の風説としてはボイタのほうが効くと。
杉本 そう。それにあの押さえつけ方からすると、手が動くだとかいう効果は一部では確かにあるんですよ。物凄く虐待的な押さえ方なのですが、泣き叫ばせながら、「三歳まで頑張れ」というのを旗頭に、僕らもずっと送っていましたよ。
立岩 それは杉本さんの記憶では、数年間の流行だったと。
杉本 もちろんまだやっていますよ。
立岩 ただ、その絶頂期というのはどれくらいだったのでしょう。
杉本 四〜五年あったでしょうかね。ボイタのもう一つのよさは、治療法(ハンドリング)の問題に加えて、診断法にもあったのです。発達の中で脳性麻痺を早期に発見するための七つの姿勢反射を持ち込んだところです。小児の三カ月、四カ月、六カ月検診あたりにボイタ法という診断法を持ち込んだ。それが僕らにとっては、生理学的なところも含めての、原始反射から能動的なものに変わっていくところでの見方をバックアップしたのだと思います。
立岩 体の状態を測る、診断する基準を、療法とともにボイタが与えてくれたと。それが使えるという感じが少なくともその頃はあったということですね。△058
杉本 そうです。その頃もですし、診断法の中には今でも一部残っています。
立岩 診断法としては今でも使える部分があるわけですね。
杉本 それが新しく入ってきたので、僕らも発達をやっていて、フォローアップ外来で使えるということになった。脳生理学的にも非常に面白い、理屈にかなっている、というわけです。それでもって、学会レヴェルでも浸透していきましたね。
立岩 「これは効くぞ」という話自体は、学会のレヴェルではなかったんですよね。
杉本 半信半疑のような感じでしたね。
立岩 その成功例はボイタに関わっていた人たちから流れてきていて、それを見る限りではどうもうまくいっているらしいという話が一方にあり、それから診断法としては医者から見ても使えるものだということがあり、もう一つには脳生理学的にもある意味理に適っている。この三点かと思いますが、その三つ目の脳生理学的なメカニズムに関する理解というのはどういうものだったのでしょうか。
杉本 ボイタの場合は姿勢反射というのが重要でしたね。その反射が七つに分かれていたのですが、その中で原始反射が消えていくプロセスと、随意運動が始まってくるプロセスの中で、われわれが外から状況をアブノーマルな位置に置くことによって、それがどのように出るのかという姿勢によって、その子のアブノーマル度と発達度をスケールとして描き出したわけです。それが三カ月までならここで、四カ月までならここまで変わる、というように全部シェーマで示されていて、そこに当てはめていくという、当時としては斬新な方法でした。しかもそれが当たるといいますか、例えば頸定(首がすわる)・寝返り・匍匐(はいはい)・立位化というところの運動体と、うまく合わさってきたんですよね。それが僕ら、小児神経をやっている者にとっては学ぶことが必須になった理由です。
立岩 そのレヴェルでは学会的にも受けた時期があったと。それが今でも続いているにしても、療法としての隆盛は一時期で終わるわけですよね。その契機はどこにあったのでしょうか。
杉本 治療法が崩れていったのには、自分たちが見ていた脳性麻痺の子たちをボイタ法のところに送り込んで、二〜三年やってみても治らないということがあります。それに加えて、親が毎日三回以上押さえつけるわけですが、子どもは泣き叫びますし、見ておれないような悲劇的な行いを強制するわけです。それは発育にとってナチュラルではないと。こうしたことが、二〜三年やる中で見えてきて、結果的にも脳性麻痺になってるじゃないかというのが見えてきたところで、紹介しなくなってきたし、否定的にもなってきたのです。
 それと前後して、今度はボバース法が出てきました。元々似たようなものとしてあったのですが、こちらのほうが脳生理学的な理屈があるということになった。それはもっとジェントルというか、ボールを使ったり形をしたり、とにかく強制的な姿勢を取らせたりはしないということがバックグラウンドにはありましたから、多くの人はボバースへ移っていきましたね。
立岩 ボバースというのはその後の流れになったのですか。
杉本 基本的には今にまで流れていますね。ボバースは治すとかラディカルな話にはならなかったと思います。
立岩 ボバースの目標というのは、より重度になることを防ぐということですか。
杉本 そうですね。過ごし易さや、量的なものから質的なものへの転換を目指していたの△059 だろうと思います。それは今の発達のマイルストーンを追いかけるところにうまく符合していったのでしょうね。
立岩 そういうのが一波終わってからだと思うのですが、まず一つにはボイタならボイタに対して批判的な人はいて、その人たちがある程度のことを書き、僕らも後追い的ではあれ読みはしました(石川憲彦『治療という幻想――障害の治療からみえること』、現代書館、一九八八年等)。そういった批判的な言説は一定あったのだけれども、一時凄く流行り、その後効かないことがわかって廃れたという推移は、今のような形でお話を伺わなければわからない、知られていないということがあると思います。そういうことは今までの間にもたくさん起こってきたのかなと。
杉本 それは今でも起こっていると思いますよ。先ほどおっしゃったNHKのドキュメンタリー(「奇跡の詩人」)に僕らは反対したわけですが、親というのはとにかく何かに縋る。フィアデルフィアのドーマンのところへ行って、頭に袋を被って無酸素にして脳を不活するとかね。いまだに時々そんなことをする人がいるけれども、ボイタはブームでしたね。東京方面で率先していたのは、それこそ東大の児玉和夫先生じゃないですか。でも彼は真っ先に撤退をしたよね。
立岩 はい、ある意味での自己批判というか、やってみたけれどもうまくいかなかったからこれは駄目だということになりました、終わり、みたいなことがあったと。
杉本 でも彼がドイツに行って、ボイタの教えを東で振り、西ではヨゼフの家森先生が振りということをしたわけです。それに向こうは東大整形外科の息子のこともあったし、弟が脳性麻痺だという話も伝わり迫力もありましたから、「児玉」という名前にはいまだに影響力があります。ボイタの一つの象徴でしたね。
立岩 そういうふうに杉本さんに見えていたリアリティと、その歴史と、そこに子どもとしていた人たちのリアリティが、同じ場にいながら、そしてその後も、交わらないというか、双方が双方を知らないということがあるのだろうと。僕の同世代か少し上の人たちがちょうどその頃に小さい子どもで、僕は八〇年代の半ばくらいに聞き取り調査を始めるのですが、当時その人たちは三〇代くらいでしたか、子どものころに親に連れられてどこかのボイタ法のところに行かされて、それで痛い思いをしてひどかったといったことを聞いたことがあります。
杉本 だから何というのか、「偽性」(過剰診断)脳性麻痺が多すぎた。つまり、やらなくてもいい人にそういうボイタ法を随分とやったという歴史がある。「早期発見、早期治療、早期療育」という言葉のごとく、ちょっとでもおかしかったら念のためにやりましょうということで、ボイタ法の大パニックがあったわけです。その中では普通になった人でも、ちょっと形がおかしいからということで、一時期親に押さえつけられたり、通ったりした人も、本当の脳性麻痺の人の倍以上いるのではないかと思います。
立岩 でも、早期発見・早期治療というのは、基本的に発見の精度を高めて、ちゃんと本物を探してきちんとしたことをやればうまくいく、という話ですよね。
杉本 僕は未熟児室にまで入ったもの。NICUの中にまでボイタ法を持ち込めば脳性麻痺にならないのではないかという論文も書いたことがあるしね。つまり、ボイタが言っているレヴェルの一つ前の絵を描こうと。姿勢反射が四〇週になってからしかボイタは書いてないわけじゃないですか。それからアブ△060 ノーマルな姿勢もあるのだけれど、そこに至る前に早産した人たちの姿勢というのはどうあるべきか、そのときにアブノーマルというのは何なのかというところまで一時期考えていたことがる。
立岩 大勢としては、そうやって二〜三年やったけどうまくいかなかったし、やることもあまりに乱暴で痛そうだから、段々と低調になっていく。
杉本 五〜一〇年くらいかかったね。
立岩 そういう子ども時代を過ごした人にとってはある意味で忌まわしい、痛かった記憶として残っていて、それは脳性麻痺の障害を持っている人たちの医療に対する不信や反感の根っこになっていった。それが一方にあるのだけれど、そういった嵐のような一時期に杉本さんが医者として入っていたという出来事は、杉本さん自身にとっては何であり、あるいは現在に医療的ケアということでやられていることに、何らかの形で関係しているのでしょうか。
杉本 何と言ったらいいかなあ……。治るということで、早く診断をつけなければいけないということが、当時の小児科医や小児神経科医の責務であり、それを見逃すことが凄い罪悪であるという、一般的な認識があったわけです。というのは、三カ月検診、四カ月検診、そして新生児からのフォローアップも含めて、一カ月や二カ月診断が遅れ、ボイタ法に行くのが遅れるのであれば、それは極端に言えば訴訟的な要素もあるくらいの大変な脅威でした。だから余計に早く診断をつけようとしたし、受ける側にしたら念のため、もし違っていたらまずい――これは医療としてのまずさであって、その子にとってのまずさではありませんが――、ということで裾野を凄く広げた。それに加担したし、せざるを得ない風潮があったことは確かですね。
 しかしそのピークとしては数年だとしても、衰退するには一〇年かかる。そこで生まれたものは姿勢反射だとか発達のプロセスをどう追いかけ、どう見ていくのかといくことと、育ちをどう見ていくかということと、もう一つには子どもたち自身の目線に立つと、そういったトレーニングがどう見えるのかということです。親が治すということに必死になってしまい、私が産んだ子どもを責任を持って早く治してやらなければいけないという意識から、「どうしてあなたは診断できなかったのか」というやりとりは常に現場であったわけです。
 しかしそうではなく、先ほどの話にあった何もしないでおいておくことの逆ではありませんが、その間に立って、本人目線で、発達的に親との関係性を築くということが、子どもを育てていくということにおける大切さだと思います。言葉は悪いけれど、当時「受容」という言葉がありましたが、子どもを受け入れる中でできることをやっていこうということに収束していく。それを支援する、またはそういった見方をしてくという中で、先ほどから言われている医療的ケアが重なってきたわけです。
 つまり、チューブ栄養でないと帰れない子はチューブをつけて帰ろうじゃないかということで、呼吸ができない子にはオペ室ではなくて病棟の処置室で気管に穴を開けたわけです。このまま詰まってしまうくらいなら、穴を開けてチューブを放り込もうと。そういうところから医療的ケアは始まった。ですからできるだけ楽に呼吸し、楽に経管栄養をしていって、母も子どもも楽になるようにしていった。
 もう一方では、今でも批判されるように、ベッドを空ける、早く帰す、という視点もあ△061 ったと思う。ですから同じことで、治すということと同様に寄り添うということの中で、発達的にハンディキャップを持つ子どものフォローアップをしていく中で何が生まれてきたかといえば、最たるものはキュアからケアへ移っていったということです。八〇年代の後半のことでした。お年寄りの流れの少し後ろを追いかけるような形になるわけですが。
立岩 僕が八〇年代の後半に付き合いがあったのは、年寄りでも子どもでもなく、過去の療法に恨みを抱きつつも暮らしている人たちでした。知り合いには脳性麻痺の人が多かったので、成人に関しては医療は関係がないとまでは言わなくても、特に医者にしょっちょう行く必要があるわけではなかった。いわゆる「医療的ケア」が必要な人たちに会うのはもう少し後になります。
杉本 基本的に、七〇年代の脳性麻痺の人は医療ミス(医療の未熟さ)の結果が多いのです。特に血液型不適合を含めて、アテトーゼタイプの人たちというのは今ではほとんどいないのだけど、僕らが医者になった当時もそうですが、いわゆる交換輸血に至るまでのところとか、未熟児網膜症による弱視も含めて、放置されたところで起こった麻痺が結構あるのです。だからアテトーゼがあっても知的には高く、それほど努力や治療をしなくても、大人になっていったということがあると思う。」

児玉 真美 2011/10/08 「子と親と医師との「協力」で起こすことのできる“奇跡”:ボイタ法の想い出」
 http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/64126854.html


UP:20121022 REV:2013012, 20160309
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