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東京大学やその周りでの


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東大闘争:おもに医学部周辺
 http://www.arsvi.com/d/tu1968.htm
解放連続シンポジウム『闘争と学問』
 http://www.arsvi.com/d/tu1969ss.htm

■人

高橋 晄正(1918/06/20〜2004/11/03)
西村 秀夫(1918/12/20〜2005/08/24・86歳)
山本 俊一(1922/10/24〜2008/12/13)
島 成郎(1931〜2000)
岡田 靖雄(1931〜)
宇井 純(1932/06/25〜2006/11/11)
廣松 渉(1933/08/11〜1994/05/22)
大江 健三郎(1935/01/31〜2023/03/03),
折原 浩(1935/09/06〜)
最首 悟(1936〜)
最首 悟 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
最首 悟 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
最首 悟 i2022c インタビュー・3 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
栗原 彬(1936〜,社会学) English/Korean
見田 宗介/真木 悠介(1937〜20220401)
山田 真(1941/06/22〜,小児科医) 1967卒業
・山田 真 2007/12/23 「山田真に聞く」,聞き手:立岩 真也,於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜 主催:生存学創成拠点
・―――― i2019 インタビュー 2019/05/03 聞き手:立岩 真也 於:東京・山田氏宅
本田 勝紀(?〜)
石川 清(精神科医,1942〜)
富田 三樹生(1943〜)
大庭 健(哲学・倫理学,1946/05/18〜2018/10/12),
石川 憲彦(1946〜、1973医学部卒業)
福岡 安則(1947/11/13〜,社会学)
渡辺 公三(1949/05/15〜2017/12/16) English/Korean.
熊本 一規(1949〜) http://www.kumamoto84.sakura.ne.jp/
・インタビュー
川本 隆史(1951〜,1970入学、75文学部卒業 80博士課程修了,倫理学,2004/04〜東京大学 大学院教育学研究科教授)
久保田 好生(1951〜)
矢作 正(1951〜)
会津 泉(1952〜)
会津 泉 i2022a インタビュー・1 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
会津 泉 i2022b インタビュー・2 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
会津 泉 i2022c インタビュー・3 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
会津 泉 i2022d インタビュー・4 2022/10/21 +最首 悟川本 隆史 聞き手:丹波 博紀立岩真也 Zoom
江原 由美子(1952/10/29〜,社会学・フェミニズム) 1975卒業
森田 暁(1952〜)
灰庭 久博(19530322〜19780418、1971理科一類入学、1976文学部社会学科卒業、19780418逝去)
吉岡 斉(1953/08/13〜2018/01/14),
小泉 義之(1954〜)
◇鈴木 宏昌(ひろあき)
 1973か4入学 仙台?の高専卒業後、文V入学。東大闘争被告団支援。
斉藤 龍一郎(1955〜2020/12/19) 1974入学
・斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所
小松 美彦(1955〜)
高橋 さきの(1957〜)
佐藤 真(1957〜2007/09/04,49歳) 文学部哲学科卒業
合原 亮一(1858/01/31〜)
・合原 亮一 i2022 インタビュー 2022/12/11 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町・学士会館
◇星埜 守之(1958〜)
熊野 純彦(1958/11/10〜,哲学・倫理学)
○川俣:長野の上田高校卒 高校3年の時に1年休学して半年北海道、半年寿町とか。1973か4入学。理U→文学部 ダンサー 81年に伊豆大島で溺れて亡くなる。
○篠田:
○和久田:弁護士。斉藤と同じ歳。
○佐藤じゅんいち:テレビマンユニオン
○篠田:故人
○ 俊男:法政の国際文化学部で朝鮮史 1981/03文学部卒業
 https://kenkyu-web.hosei.ac.jp/Profiles/18/0001798/profile.html
○平田 鹿児島で教員
○徳永 哲也 長野大学教員・哲学
○狩野
◇堂前 雅史  1959生 1983年3月東京大学教養学部基礎科学科卒業 現在和光大学教員
 https://noah.wako.ac.jp/fdb/detail2.php?id=7
 https://researchmap.jp/DM000086
 https://twitter.com/daumae
 http://www.waseda-j.jp/archives/742
青木 健(1960?〜20090112),
高橋 秀年(1960?〜1984) 1979入学
立岩 真也(1960/08/16〜) 1979入学
◆塩田 純 https://www.nhk.or.jp/jp-prize/2014/2014panelists/panelists008.html
市野川 容孝(1964〜)
森 泰一郎(〜2008/03)
稲場 雅紀(1969〜) English
 インタビュー→稲場 雅紀・山田 真立岩 真也 20081130 『流儀――アフリカと世界に向かい我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya]

文理研

■文献(発行年順)

◆田畑書店編集部 編 19690625 『私はこう考える――東大闘争・教官の発言』,田畑書店,316p. ASIN: B000J9N2RA 540 [amazon] ※ tu1968.
◆折原 浩 1969 『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』,未来社,452p. 1200 ※
◆解放連続シンポジウム「闘争と学問」実行委員会 編 1972 『れんぞくシンポとは――解放連続シンポジウム《闘争と学問》』,解放連続シンポジウム「闘争と学問」実行委員会,19p.
◆折原 浩 19770221 『反東大・反百年祭――一教員の視点から』,大学論第五学期;公開自主講座「大学論」実行委員会・東大工学部助手,50p. 300 ※r
◆東大全学共闘会議 編  19910930 『果てしなき進撃 東大闘争反撃宣言』,三一書房,213p. ISBN-10:4380912310 ISBN-13:9784380912313 1800 [amazon][kinokuniya] ※
◆三浦 聡雄・増子 忠道 19950715 『東大闘争から地域医療へ――志の持続を求めて』,勁草書房,医療・福祉シリーズ,201p. ISBN-10: 4326798963 ISBN-13: 978-4326798964 2205 [amazon][kinokuniya] ※ tu1968.
◆富田 三樹生 20000130 『東大病院精神科病棟の30年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』,青弓社,295p. ISBN-10: 4787231685 ISBN-13: 978-4787231680 3000 [amazon][kinokuniya] ※ m. ut1968.
◆山本 俊一 20030720 『東京大学医学部紛争私観』,本の泉社,212p. ISBN-10: 4880238090 ISBN-13: 978-4880238098 [amazon] ※ tu1968.
◆山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon][kinokuniya] ※ ms. h01. tu1968.
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※,
◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※
高草木 光一 編/吉川 勇一原田 正純最首 悟・山口 幸夫 20110225 『連続講義 一九六〇年代未来へつづく思想』,岩波書店,287p. ISBN-10:4000236997 ISBN-13:978-4000236997 2500+ [amazon][kinokuniya] ※ sm02 〔更新〕
◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆折原 浩・熊本 一規・三宅 弘・清水 靖久 20130815 『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』,緑風出版,304p. ISBN-10:4846113167 ISBN-13:978-4846113162 [amazon][kinokuniya] ※
◆小杉 亮子 20180515 『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』,新曜社
森田 暁 2018 「書評 小杉亮子著『東大闘争の語り : 社会運動の余示と戦略』」,『ピープルズ・プラン = People's plan』82:169-171
 https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I029394427-00
◆立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※
◆折原 浩 20190118 『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』,未来社,335p.ISBN-10: 4624400682 ISBN-13: 978-4624400682 2800+ [amazon][kinokuniya] ※
森田 暁 2019 「もうひとつの東大闘争――「東大闘争」の当事者・森田暁氏に聞く」,『週刊読書人』

流儀 (Ways)   立岩真也『造反有理――精神医療現代史へ』表紙   立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

■1969〜 解放連続シンボジウム「闘争と学問」

19690223 解放連続シンボジウム「闘争と学問」 始まる
……

解放連続シンボジウム《闘争と学問》実行委員会 1972 『れんぞくシンポとは――解放連続シンボジウム《闘争と学問》』,19p.

■1972 教養学部

197202〜 教養学部自治会、国立大学学費値上げ反対無期限ストライキ
 代議員大会議長選挙で久保田好生、僅差で選出


◇斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所
 「立岩:[…]今日の朝思ったんだけどさ、日本だと68、9年っていうのは派手だったわけさ。塔の上に学生が登って、ヘルメットみんな被って、石投げたりとかして、それで警察が水放水したりとか催涙ガス撒いたりとか、なんていうかな、ビジュアルに見栄えがするわけよ。そういうこともあって、けっこう映画とかそれから本とかそういうのいっぱい出てるんですよ。僕あんまり読まないんだけど。だけど僕が思うのは、75年とかね、77年、反100年とか、70年超えた80年の学生運動っていうのかな、あれって意外と誰もちゃんと書いてないんだよなと思って。それは、いや僕らもね、そこの中にいて、そんなに大したことしたっていう気持ちはないけれども、とは言ってもまあなんかしてたわけだよね。」

■地震研闘争:石川良宣

◇判決
 https://daihanrei.com/l/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%20%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%94%EF%BC%95%E5%B9%B4%EF%BC%88%E5%88%91%E3%82%8F%EF%BC%89%EF%BC%97%EF%BC%95%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA

◇1971 『東大地震研闘争の記録 第2集』
 https://aucview.com/yahoo/m225701582/ 落札済

◇石川良宣 論文
 https://acaddb.com/articles/authors/689620

◇石川良宣 「38年間?の思い出」
 https://www.eri.u-tokyo.ac.jp/GIHOU/archive/08_083-085.pdf

◇石川良宣 2019 講演「ゼロから知ろう被ばく問題」
 https://acaddb.com/articles/authors/689620

http://chikyuza.net/archives/45765

 「[…]
 70年11月には石川氏の闘争を自らの闘争として受け止める地震研職員(教官を含む)震闘蓮(地震研闘争連合)を主体に東大全学の職員(教官を含む)学生、院生が結集し「石川君と連帯する全学闘争委員会」が結成され震研所長との交渉を要求して震研所長室解放闘争を行うが、東大当局は地震研の建物を金網バリケードでロックアウトし特別機動隊を導入した。国家権力の暴力装置による闘争弾圧を撥ね退けるべくデモで抗議し地震研のロックアウトを突破せんとする職員、学生に対して当局は機動隊で排除すると共に44名を不当逮捕すると言う事態に至る。また、当局はその後もロックアウトを行う。間もなくロックアウトは解除されたが、逆に教授会の入所を拒否闘争として行い、その闘争は74年までの4年間震研所長室解放闘争として継続した。
 1974年、国会の予算委員会で地震研は機能不全と断定され、地震研『御取り潰し』の噂がマスコミに流れ職員は混乱、やむなく震研所長室解放闘争を解き当局は臨時職員を超法規的に全員正職員し以後20年間、臨時職員を雇用しなかった。」

◇斉藤 龍一郎 i2017 インタビュー 2017/10/13 聞き手:末岡尚文他 於:東京

 「斉藤:[…]今だってもう時間限定だけど、当時は、当時でも週3日とか4日とか契約だよね。そういう感じの人たち、でもそれ以外にもたくさんいたわけね。ちょうど76年、僕は全然関わってない時76年から70…、76年、5年だったか6年だったかから2年、地震研、弥生の一番向こうにある地震研で臨職闘争というか、当時、松代群発地震に関わって研究費がついて、で、地震計をずっとこう当時はね、手作業でロールを取っ換えたりそれを数字化したり、で、そういうのにアルバイトっていうか。で、理科大の二部に行きながら来てた、その人はなんかポリオなのかな? 足の悪い人が、このまんまずっとね、だからここで仕事できたらいいなっていうんで、研究費で雇われてるアルバイトなんだけど、研究室の助教授になんかまあ直訴だよな、「なんとかなりませんか?」って言ったら、「何ふざけたこと言ってんだ」みたいなこと言われて。で、一人で座りこんだらまだゾロゾロいたんだね、なんか「火の種はないか」って。で、地震研で2年闘争やって、最終的には和解っていうかいろんな枠組み使って採用したわけですね。で、それ前例ができたから、試験を受けるのは前提だけど、高卒程度の試験ってあるじゃない、国家公務員の。そういうのを受けてなんとかなるんだったらまず優先採用しましょうみたいな、そういうのが臨職闘争の一つの柱だったの。
聞き手:そういう前例があったから、いろいろな部局でそういう闘いが広がった?
斉藤:まあどっちが先かわかんないとこあるよね。地震研の場合はわりとわかりやすいっていうか。でも表に出ないけど、「あそこまでになったら困るでしょ」みたいなのはそれなりにあったんじゃないの、やるからには。で、最後、ちょっとそのへんは関わった人に聞かないとわかんないよね。」

◇斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

斉藤:地震研闘争って聞いたことあったっけ?
立岩:それはインタビューの中で、17年の斉藤さんのインタビューの中に出てきたわ。それはまあまあ喋ってるよね、斉藤さんね。
斉藤:あれはやっぱすごく印象に残ってるのね。しょっぱながあの人もポリオだしね。地震研究所って所がたくさんアルバイト入れて、データ、当時は人間が検査機に紙をかけたり、それを回収したりしてたわけね。今だと、
立岩:今だとコンピュータ使ってオートでだろうけと、前は地震計って、地震起こるとこう針がこうビーってなって、それを紙にこう、こういう、
斉藤:今の心電図みたいな、あれの大きいやつを取っ換えたりするそういうのでアルバイト、で、あとやっぱ数字にしなきゃいけないからね、そういうアルバイトをたくさん入れてたわけね。そん中に東京理科大の二部の学生でポリオの人がいて、このまんま地震研究所で仕事ができないかなって、アルバイトじゃなくて仕事ができないかなっていうふうにそのチームっていうか、雇用してる研究チームのなんていうか実務を仕切ってる助教授のところにお願いしに行ったら、柔道二段だか三段とかの助教授が「ばかやろー」とか言って投げて、「明日から来なくていい」みたいなこと言ったってわけね。
立岩:投げ飛ばしたっていうのは、その2017年のインタビューでは言ってなかった。
斉藤:いやまあなんか、っていうふうには聞いたけど。でも暴力をふるわれたってその助教授は言うわけ。だから「お前来るな」って言うわけだね。
立岩:あ、そうか、先生のほうは「自分がふるわれた」つって。
斉藤:そうそう。でもそれはもう逆なんだな。だからそこまで言うからにはやっぱ逆なんだよ。で、本人はしょうがないから翌日から一人で地震研究所の入り口に座り込んでたら、「何してんの?」って職員とかあるいはなんかそういう噂を聞いた、まだあっちこっちにいた、なんていうか変な連中がやってきて、で、地震研究所で「おかしいじゃないか」って闘争やって、2年間赤旗が立ってたって。で、最後は解決するために雇用したわけだね。だからなかなか大した闘争だよね。
立岩:今だったらただの、ただのっつったらなんだけどアルバイトじゃない。そのアルバイトを職員にしろっていう要求だからさ、あまり今だと思いつかないよね。もう諦めるっていうか。だけどそういう事故があって暴言があったり、そういうのをきっかけにして、当時やっぱり臨時職員っていうのはやっぱり、今もそう、今はもっとそうかもしんないけど、地位とか待遇が悪いじゃない。それを「臨時職員の待遇を上げろ」とか、「正規の職員にしろ」とか、そういう運動が70年代、僕らなんかもいくつか関わった少数、組合も共産党系じゃない少数派の組合だよね。えっと演習林か。

■〜1975 白木博次府中療育センター闘争

◇1973.12.25 白木教授との公開討論会を 府中センターの療養者 (朝日新聞 735)

◇1973.12.28 身障者ら越年座り込み 都庁前 白木元院長の退任要求 (朝日新聞 807)

◇197512 白木博次辞職



◇斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

○鈴木(H・S?):1973か4入学 仙台?の高専卒業後、文V入学。東大闘争被告団支援。
○川俣:長野の上田高校卒 高校3年の時に1年休学して半年北海道、半年寿町とか。1973か4入学。理U→文学部 ダンサー 81年に伊豆大島で溺れて亡くなる。
○篠田:
○和久田:弁護士。斉藤と同じ歳。
○佐藤じゅんいち:テレビマンユニオン
○篠田:故人
○蜿r男:法政の国際文化学部で朝鮮史 1981/03文学部卒業
 https://kenkyu-web.hosei.ac.jp/Profiles/18/0001798/profile.html
○斉藤 龍一郎:
○堂前雅史  1959生 1983年3月東京大学教養学部基礎科学科卒業 現在和光大学教員
 https://noah.wako.ac.jp/fdb/detail2.php?id=7
 https://researchmap.jp/DM000086
 https://twitter.com/daumae
 http://www.waseda-j.jp/archives/742
○平田 鹿児島で教員
○徳永 哲也 長野大学教員・哲学
○狩野

□篠田さん・高柳さん

「立岩:今回はそれで書いたんだけど、でも同時に白木っていう人が70何年の時にその学生なり大学、学生たちとの、あるいはレンガ、精医連とかも、どういうごちゃごちゃがあったのかっていうのは、それはまたそれとして同時に書かれるべきでさ、それをこの頃やっぱちょっと思うな。で、それで狩野は死んじゃったでしょう。なんかその精医連系のやつはあると思うんですよ、資料が。精医連、まめな人たぶんいるから。そっちはたぶんこれから探せば出てくると思うんだけど、そういう反100年とかさ、ああいうあたりのものを後生大事に持ってるような奴って誰かいないかな?
斉藤:ああ。どうだろうなあ。4年ぐらい前に、最初に学友会と78年のストやって、で、選挙やって勝って、それで委員長になった篠田っていうのが死んだんだけど。その時30人ぐらい東京でも偲ぶ会で集まって。まめそうなのは高柳。法政の国際文化学部で朝鮮史かなんかやってる。まめそうっていえばそうだな、あいつが一番まめそうだな。昔けっこう熱心にかき集めてた佐藤じゅんいちっていうのがいるんだけど、これは今テレビマンユニオンのけっこう偉いさんになったみたいで、会っても、顔はちょっと、久しぶりに顔見たけどけっこうバタバタして。
立岩:たぶん俺の同級生はあまりあてになんないんだよ。あてになんないっていうか時期的にもちょうどの時じゃないから、ちょっとあとだから。」
「斉藤:[…]医学部自治会自体はまだあったけど、医学連が解体しちゃった後だし、1回解体して。でも医学連委員長ってのはいたよね。ただ人体実験っていうかバイオキシ問題があって。まあ医学部自治会最後はあれだね、白木〔博次〕糾弾で1年白木が休校して逃亡して、最後は医学部長室半年座り込んで医学部団交、教授会の前に「みなさんと会います」っていちおうそういうかたちで団交をやって。で、依願免職、いわば辞表が出てたんだけど突き返して懲戒にするんだっていうふうな話になったっていうのは、僕はそれは新聞で読んだんだ。75年の2月か3月の当時叔母の家にいたから、叔母の家で取ってた新聞、だから朝日新聞。
立岩:それが75年か。白木っていうのは今度僕の本にもちょっと出てきますけど、東京大学の医学部長だった人なんですよね。それと全共闘っていう障害者運動にもそのうち関わっていくような人たちっていうのがかなりぶつかって、で、白木は辞めるわけなんですよ。
斉藤:でもまあ白木一番最後はやっぱり大きかったのは府中センターだよね。東京都府中センターのセンター長になって。で、入所条件で裸の写真撮るのと最後に解剖許可を、
立岩:「死んだときには解剖します」っていう誓約書みたいなものにサインしないと入れないっていうようなことです。
斉藤:それをやったのが白木の時にね。
立岩:その時に医学部での白木糾弾のなかに、府中療育センターの話ってのはかなり入ってたのかな?
斉藤:まあやっぱそこらへんでいろんなことが出たはずだから、ちょっとそこは僕は詳しくは知らないけれど、話の流れとしては、やっぱその、なんで白木そこまでやるのかっていったときに3千枚のプレパラートって言ったっけな、脳のプレパラート3千枚集めた、どうやって集めたんだって。その集め方のあれがさっきの解剖問題とかね、出てくるわけでね。
斉藤:鈴木は73年なのか4年なのかちょっとわかんないんだけど、僕よか2つか3つか上で、歳はね。仙台かなんかの高専の、高等専門学校3年修了か5年修了かはよくわかんないが、で、文Vに入ったって。それで、東大闘争被告団支援をやってたわけ。まあ言い出しっぺみたいな感じ、本郷では鈴木…文学部では鈴木が中心になって、鈴木、と川俣っていうのが僕の駒場のクラスメートで、これは僕の3つ上で。
 川俣は長野の上田高校出てなんだけど、上田の高校の3年の時に1年休学して半年北海道、半年寿町とか。で、やっぱり高校生の18、19でできることなんてしれてるからって大学行こうっていうんで入って。で、僕が100年闘争に関わると川俣とたまたま井の頭寮で久しぶりに会って。
立岩:え? ちょっと待てよ、鈴木さんってのは73年入学ぐらいだったの?
斉藤:そうそうそう。
立岩:川俣さんっていうのが?
斉藤:川俣も73年か4年かな。駒場で、でも語学のクラスで一緒になったんで、4年でも不思議はないんだが。
立岩:でもまあ同級ではないってこと?
斉藤:鈴木と川俣はね。僕は川俣と同級生で、駒場の。
立岩:あ、待てよ。あ、そうか、同級っていうか入学年齢。
斉藤:ではなくクラスが一緒だった、語学クラスが。
立岩:あ、だけどさ、えっとね、5組って言ったよね。
斉藤:違う、違う。僕はS2の。
立岩:あ、そうか、そうだよね。理Uにいたんだよね。そうかそうか、しゅうねんとかがLV3〔文V〕の5とかで、しゅうねんと、のちの市野川が5組で5組繋がりか。でも僕79でしょ、で、しゅうねんも79だよね。だと、その鈴木さんっていう方が73ぐらいだと。で、斉藤さんが75?
斉藤:4。
立岩:74ね。じゃあ川俣さんっていうのも74らしい、じゃないかと。
斉藤:うん、4だと思うね。
立岩:で、それで寿町やらなんやらでなんかこうこうあって、でも大学に入ることにはして、入って、文学部に来たんですか?
斉藤:まあ理U、理Uだけど文学部。
立岩:理Uから文学部に行った人なんだ、その人は。
斉藤:そんで、まあ【文】(00:13:40)で顔合したんだな、鈴木。寮だったのか学部なのかわかんないけど。だから当時鈴木も川俣も僕も井の頭寮に住んだわけね。で、井の頭寮で顔合わしたら、「100年祭糾弾実行委員っていうのをやんだけどお前もやんないか?」みたいな感じで。
立岩:鈴木さんが「やんないか」って言ったの?
斉藤:いやいや川俣に。
立岩:川俣さんが言った。
斉藤:川俣に声かけられたの。「鈴木と一緒にやるんだけど君もどうだ」みたいな。
立岩:それが70、
斉藤:6年、6年のことだな。
立岩:6年か。
斉藤:発端の鈴木…、それと並行して駒場で篠田だとか和久田だとか。和久田っていうのは今弁護士になってるけど。和久田は僕と同じ歳だね。
立岩:74。
斉藤:74、篠田も同じ歳だ。
立岩:篠田も74。じゃあその4人ぐらいはほぼ同じ学年ってことか。同じ入学ってこと?
斉藤:まあそうだね。
立岩:そのへんが74に入るでしょ。で、76年ぐらいに「そういうのやんないか」っていう話が、
斉藤:と、僕に声かかる前に彼らを。だから一つのきっかけはさっきの鈴木の被告団っていうか、東大闘争被告団、獄中被告支援。
立岩:被告支援を鈴木さんすでにやっていた、その時にね。
斉藤:で、そういうね、有象無象っていうか、まあまあ直接ねどのぐらい動くかは別にして、声かけられて知ってるとか。あと寮に…、なんだかんだって言っても寮にはそういう連中が集まる部屋がやっぱあったわけだな、文理研の前にも。なんか2つ3つぐらいあって、なんかそういう、だからやっぱ駒寮繋がりっていうのも大きいだろうね。クラスルームみたいなのからサークル部屋みたいなの。ちょっとそのへんのことはわかんないけどね。で、川俣は最後が、最後はちゅうか81年に伊豆大島で溺れて死んじゃったんだけど。で、これが金井康治も参加した障害児、だからあれはどういうグループで行ったんだろうな。けっこうやっぱ金井闘争繋がりで声かけ合って伊豆大島キャンプみたいなのやったのに川俣も参加したんだな。別に僕は自分で僕は声かけた覚えはないから、そういうのは声かかるような枠組みは当時あったってことだね。見てると見えるっていうか。
立岩:その人も溺れちゃったんだ。
斉藤:うん。で、川俣は当時、その直前かなんかに会った時、「これでしばらく会う機会がないからな」って言うから何かと思ったら、アメリカへ行くと。スターダンサーズっていうんで。ダンサーになるってわけ。
立岩:え? どういうダンスなの? なんだ、それは。
斉藤:普通にミュージカルのダンサーで。100年闘争の時も、76年、7年ぐらいまではけっこう顔見せてたけど、そのあとはもっぱらこう、はまったんだねダンスに。
立岩:そうなんだ。どこの学科にいた人なの?
斉藤:あいつはなんだっけな。あいつ美術史かな。まあちょっとよく…。
立岩:俺ね、大学出てから大学の同期だった奴とかと同窓会みたいなの1回もやったことないんだよ。ほとんどほぼ誰にも会ったことない。
斉藤:まあ普通だよな。[…]
立岩:僕79でしょ。その時に文学部、学友会やった奴らって、一人はわたなべまさゆきつって朝日に行ったんだよね、朝日新聞に行って、それで論説委員ぐらいになったんだけど、なんか、なんかあったんだな。で、今ちょっと埼玉支局とかなんかそんなとこ行ってるのが、そいつはまめだけど、どうだろうな。それとかあとNHKでディレクターやってて、けっこういい番組作ってる塩田っていう。それなりにみんな頑張ってはいる。持ち場、持ち場でね。だけど、その当時の大学の動きなんかをまめに持ってるとはあんまり思えないんだよね。まあもしなんか斉藤さん、そのうちどっかでそんなようなことでなんか持ってる人とか、
斉藤:そうだね、気が付いたら、
立岩:たまたま会ったら教えてください。
斉藤:はいはい。

■1977 東大百年(祭)/文学部長室占拠/火災…

 ※1968 文学部処分問題

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/search/index.html?q=%E5%8F%8D%E7%99%BE%E5%B9%B4%E7%A5%AD&Submit=

◆折原 浩 19770221 『反東大・反百年祭――一教員の視点から』,大学論第五学期;公開自主講座「大学論」実行委員会・東大工学部助手,50p. 300 ※r
 http://www.arsvi.com/b1900/7702oh.htm
 https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/f9328b53-3e0b-4bdb-a0a0-a227bde38087

高橋 晄正 19770314 『反東大・反百年祭 医療矛盾の根源をつく』,大学論第五学期;公開自主講座「大学論」実行委員会・東大工学部助手,88p. 300 ※r. ms
http://www.arsvi.com/b1900/7703tk.htm

宇井 純 19770124 『反東大・反百年祭 医療矛盾の根源をつく』,大学論第五学期;公開自主講座「大学論」実行委員会・東大工学部助手,57p. 300 ※r. ee. m34

◆1977(昭和52)年4月11日 <あのころ>東大入学式が混乱 創立百年祭粉砕ビラ
 https://nordot.app/886023389418012672?c=302675738515047521

◆1978.01 文学部学生、大学院学生有志、創立百周年記念募金問題をめぐって文学部長室に座込みを開始
 https://nordot.app/886023389418012672?c=302675738515047521

◆1978.09 午前6時頃、文学部長室から出火、部長室など164uを焼失
 https://nordot.app/886023389418012672?c=302675738515047521

◆会計検査院「昭和52年度決算検査報告」  https://report.jbaudit.go.jp/org/s52/1977-s52-0118-0.htm
「(7) 施設等の管理が適切でなく、かつ、国有財産及び物品が損害を受けたもの
会計名 国立学校特別会計
部局等の名称 東京大学
損害額 建物 4室等164m2 6,044,568円
工作物 照明設備一式ほか 1,042,917円
物品 両袖机等111点 1,681,546円
計 8,769,031円
 同大学の学生により長期にわたり、文学部長室等を占拠されるにまかせていたばかりでなく、同室付近から発生した火災により建物等が損害を受けたものである。
(説明)
 東京大学では、校舎のうち法文2号館の2階にある文学部長室、教官会議室等(6室等面積336m2 )を昭和53年1月以来、一部学生によって占拠されるにまかせていたため、部長の執務、教官の会議等に全く使用できなかったばかりでなく、室内の物品及び電気・ガス等がこれら学生によりほしいままに使用されていたなど、長期にわたり施設等が良好な状態において管理されていなかった。また、このため、9月22日に至り、部長室付近から火災が発生し、部長室、会議室等164m2 が被災したほか、工作物及び物品が焼損するに至ったもので、同大学で算定した損害額は8,769,031円に上っている。
 このように、国有財産及び物品が本来の目的に反してほしいままに使用されているのに、施設等の管理について責任を有する職員が適時、適切な措置を講じていなかったばかりでなく、その結果、火災が発生し損害を受けるに至ったのは、著しく適切でないと認められる。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/今道友信
 「1978年、文学部長。学生の占拠する学部長室の失火事件で学生を処分。1982年、定年退官し名誉教授。」

◆1979.01 文学部学友会・京都大学・同志社大学両学生自治会の呼びかけで「東大闘争10周年」記念の集会を本郷キャンパスで開催
 https://www.l.u-tokyo.ac.jp/schema/history.html?page=1&phpMyAdmin=oNfe8iIKovE07NDvuySfVA3WzB2

◆1979.02.13 文学部教授会、処分案を向坊学長に上申 (折原[1982:4])

◆向坊学長 「これにたいして、向坊氏は、その内容を「妥当」と認め、当該学生に「自主退学」を勧告しながら、処分は見合わせ、その代り処分制度の確定に向けて検討を開始するという趣旨の、奇妙な決定を下し、評議会もこれをあっさりと了承しました。」(折原[1982:4])

◆1979.09 評議会、文学部出火事件を契機に、東京大学処分検討委員会の設置を承認し、委員会の設置にあたり総長が談話を発表(10月12日発足)
 https://www.l.u-tokyo.ac.jp/schema/history.html?page=1&phpMyAdmin=oNfe8iIKovE07NDvuySfVA3WzB2

◆1980/09/16 処分制度検討委員会、「第二次中間報告」を発表。

◆「追憶の梅岡義貴先生」
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/psychono/25/1/25_KJ00004450624/_pdf
 「先生は,北海道大学在職中,大学紛争の最中に学部長を務められ,東京大学に移られてからも評議員として大学の管理運営に参画され,遺憾なくその力を発揮され,紛争の解決に尽力されました.思い出されますのは,東京大学百年記念反対運動に端を発する文学部学部長室占拠と火災に関わる東京大学の第二次大学紛争の際に,私は文学部長室付という役目で,評議員である梅岡先生の週番兵的な立場におりましたが,先生の活躍を身近でっぶさに拝見させて頂いたことでございます.先生は1961年に東京大学から「相互行動の分析法にっいて」と題する学位論文により文学博士の学位を授与されていますが,この学位論文の研究が紛争の交渉場面における先生のストラテジーに反映されていたのではないかと,密かに拝察しております.」

https://findsophia.jp/find-sophia/3513/
 「武蔵中・高を出て東大文三(文学部進学コース)に入学した1976年当時、駒場キャンパスにはまだ学園紛争の余燼が燻っていた。朝方、何台もの警察車両が来て何事かと訊ねたら「昨夜駒場寮で内ゲバあり、革マル派の学生が二人重傷」という事件もあった。土曜の午後には「造反教官」有志による「自主講座」も盛んだった。少なからぬつまらない授業には出ないかわりに、同級生で色々な読書会を企画した。古典語は、先生よりは先輩に教わった方が多い。勉強は自分でやるものだと思っていた。78年に本郷(文学部哲学科)に進学すると「百年記念募金反対運動」の学生が「団体交渉」を要求して紛糾。文学部長室を占拠した挙句、失火事件に発展し、毎週水曜は自治会の集会とストライキで、殺伐とした混乱が続いていた。」

◆折原 浩 20130815 「授業拒否とその前夜――東大闘争へのかかわり」,折原他[2013:17-94]
・折原 浩・熊本 一規・三宅 弘・清水 靖久 20130815 『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』,緑風出版,304p. ISBN-10:4846113167 ISBN-13:978-4846113162 [amazon][kinokuniya]

 「一九七七年の夏、全共闘運動の志を継いだ文学部学生有志が、「東大百年祭・百億円募金」に反対して文学部長室に泊り込んでいたところ、現場から小火が発生してしまった。学生は、「失火」の疑いで本富士警察署の取り調べを受けたが、署の実験では、タバコの火や蚊とリ線香では床面に火がつかなかった。ところが、文教授会は、床面の発火地点と灰皿との間に、フトンがあり、これが「着火物」となって火災にいたった、と主張し、「学生の失火」と断定して、処分を画策した。
 『学内広報』に発表された火災現場の図面を見ても、当のフトンは、発火点から約四〜五メートルは離れた位置にあり、火源と発火とを媒介することは不可能であった。だが、このときも、ある党派の学生が、「消火作業の放水で、フトンが離れた位置に飛ばされたまで」と主張し、処分をそそのかした。しかし、フトンは、窓ないし扉からの放水では飛ばされようのない方角にあった。
 なるほど、小火そのものは痛恨の不祥事で、筆者もまずは、若者の闘争規律の甘さないし弛緩を、原則的に批判した。しかし、そうだからといって、市民としては刑法の「軽失火」を問われることもない事案につき,文教授会が出火原因を捏造して処分することは、容認できない。一九六八〜六九年には、文処分の事実関係にかんする論証と発表が遅れ、これが機動隊導入を許す一△073 因ともなつたので、こんどは迅速にことを運び、当時本郷で開かれた討論集会で、加藤一郎著からの引用も交えた資料を添え、所見を発表した(注57)。この集会には、旧助手共闘とその周辺の批判的少数者が、数多く出席していて、筆者の所見に賛成し、その線でそれぞれの学部教授会メンバーを説得してくれたと聞く。処分案は、こんどは評議会で採択されず、葬られた。文教授会は「いつか来た道」の破局を、寸前で免れた。」(折原[2013]

■1978 赤レンガ

◆1972年1月24日 赤レンガ病棟自主管理会議、開始。

◆19780624 六・二四政府、自民党の弾圧介入に抗議し、東大精神科病棟自主管理斗争を支援する市民集会

◆サンケイ新聞社会部東大取材班 19781030 『ドキュメント東大精神病棟――恐るべき東大のタブーを暴く』,光風社書店,208p. ASIN: B000J8LMO6 [amazon]

◇斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

「立岩:精医連はね、あるんだよな。精医連の関係の資料はそれとして、精医連はそれなりに続いてきたので探せばある。それはなんとかなる。
斉藤:だからそれの中に触れてると思うんだよね。そういう意味ではもうなんていうか、全部そういうのが来るわけじゃん、レンガに。で、ちょうど僕らが、あれが78年か、海部調査団ていうのが来たし。当時まだ自民党の議員だった海部が東大正常化とか言って。
立岩:サンケイがキャンペーンをはって、本作ってって。
斉藤:それで向坊の、
立岩:国会で問題になって的な出来事なんですよね。
斉藤:うん。それを当時のなんかの議事録かを基に誰だったか、向坊が国会に呼ばれたんだな。向坊隆が呼ばれて。
立岩:向坊が学長だった時にか。向坊が呼ばれて。
斉藤:うん、呼ばれて、「学内で鋭意努力中なんです」と。だからあまり余計なことしてくれるなみたいなニュアンスで。
立岩:ああ、うちでやるから何とかするから
斉藤:まあそれなりの経緯があってのことなんだからっていうようなことを。
立岩:あ、それは読んだな。国会の議事録までは今全部とれるんだよね、ウェブで。だから、俺はやんないけど、そこ、桐原とかかな。」

□1979 養護学校義務化

■1981 演習林

◇斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

立岩:[…]僕らなんかもいくつか関わった少数、組合も共産党系じゃない少数派の組合だよね。えっと演習林か。
斉藤:演習林と、演習林職組もあったし、病院がなんてったっけね?
立岩:演習林ってね、林、国が持ってるっていうか、国立大学が持っている農学部が研究したりするための林、森林、フォレスト。
斉藤:それ、そうそう。けっこう広い。千葉と、東京大学は千葉と北海道に、あと秩父にけっこう広いフォレスト持ってんだよ。で、その演習林闘争は、だからたぶん最後は視覚障害になった人が。なんかとにかく視力、組合員の中で視力失って、このままじゃあ今までの仕事はできない、でも雇用継続するためなんかできないかっていうんで、職組が呼びかけて取り組み、そこまでは僕もちょっとだけ関わったっていうかな。それが81、2年ぐらいかなあ。
立岩:そっか、それ記憶にないな。演習林の組合が集会とかでいろいろ状況を説明したり、それに「おー」とか言ったのは覚えてるけど、視覚障害の人がいてっていうのは覚えてないな。
斉藤:いやまあ、それまではどちらかというと、演習林職組は、場所的にも大学はそこにある、この坂の上にある。でも千葉県とか秩父とか埼玉県とか北海道とかにあるわけだから、大学の本部には事務系の人間が二人とかぐらいしかいない。だから活動拠点はみんな現場なわけね。だからあんまり大学のなかの他の組合とは接点がなかった、あんまりはなかったんだね。でも一つのきっかけは中核〔派〕が関係してたんで、動労千葉支援ていうのが一つ、もう一つは今の視覚障害、とにかく組合員の雇用確保のためにみんなで頑張ろうっていうんで、積極的に学内で動けるとこで動くようになったっていうふうに聞いた。
立岩:そうか、動労千葉、やってたよね。」

■狩野

◇斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

立岩:[…]あんまり盛り上がらなくなった日本の学生たちの運動っていうのが、その70年代から80年代にかけて何してたのかっていうの、俺はやんないけど誰かね、もうちょっとまとめてほしいなって今日思ったのよ。で、僕らはたぶん共通に知ってるのって、僕より歳上の、狩野っていたんですよ。
斉藤:はいはい、狩野ね。
立岩:心理学科にいた奴。彼なんか生きてれば覚えてて、彼らが一番文学部では熱心にやってたから、学部によって自治会も違うわけよ。で、教養学部っていうのは東大の場合は1・2年生はみんな教養学部っていう同じとこに行って、で、3年生になる時にいろんな学部に学科に分かれていくわけだ。で、僕は文学部だったんだけど、斉藤さんは教育学部だけど、僕の記憶では僕らの学部生の時は文学部と医学部あたりが、あと駒場の大学院の小松〔美彦〕とかがいた科学史、科学哲学とかそういうのがあるとこ。
斉藤:基礎科ね。
立岩:基礎科あたりが、これも説明は今日はしませんけど、日本っていう国は変な国で、フランスもちょっとそういうとこあるけどね、共産党に対抗する左翼っていうのがいる国なわけですよ。
イヴァンカ:うん、いる。
立岩:ね、そういう人たちがいる国ってあんまりなくて、フランスはちょっとそうですけど、まあドイツもちょっとそういうとこある、そういうとこが一時期あった。今でもまあ、ちょっと緑の党とかちょっとそういうことに関係なくはないですよね。で、日本もそうで、で、そういう意味で大学の中で共産党系の学生たちと、そうじゃないレフトっていうか人たちっていうのがだいたい喧嘩してるわけ。
イヴァンカ:レフトと、
立岩:レフトとレフトが喧嘩してる。内輪揉めって、内輪だとは思ってないんだけど、してて。教養学部は共産党系が強かった、僕が学生の時はね。僕らは負けてた。で、文学部はその全共闘っていう過激派だな、の流れ。過激派っていうかセクトっていう党派ではないんだ。さっき言ったのは中核派っていうね、白いヘルメット被ったちょっと野蛮な、今でもちょっといますけど、かなり野蛮なやつらが、には別に牛耳らせないんだけど、そういう党派ではないんだけど、ノンセクトって僕ら言ってましたけど、そういう人たちが主導権持ってる自治会が文学部と医学部もそうだったと思うね。で、僕らは文学部で反100年の闘争の続きみたいな。で、そこの中に養護学校義務化のこともあったし、けっこうそこの中に医療・障害系のテーマっていうのがかなり入ってた記憶は、例えば精神障害の関係でいうと保安処分反対とかね、そういうのが入ってて。僕はその、そうだ、学友会、文学部の場合は文学部自治会とは言わなくて学友会、学ぶ友の会って書くんだけど、学友会って所で僕は社会学科だったんだけど、社会学科の場合、そこのなか二人ぐらい委員が出るわけね、学友会のね。で、それの委員っていうのをやったり、それから大会の議長という、チェアマンやったりとかそんなことはしてたんですけど、そこまでは言えるんだけど、どういうふうにその時々に誰がどういう主張で何を論点だったのかって具体的にあんまり覚えてなくて、僕ほんと頭悪いっていうか記憶力ないっていう、そういう話だよね。その文学部のずっと長いこと、僕らの上にいて僕なんかよりずっと一生懸命やってたのが、狩野さんっていう男の人だったんだよ。で、たぶん彼なんかはまだちゃんと生きてれば、彼に聞けばいろいろ教えてくれたかもしんないけど。彼は心理学科出たあと、医者を批判するためには医者になんなきゃいけないみたいなことを思ったんだろうね。
斉藤:先に陽和病院に9年ぐらい仕事をしてんだ。
立岩:陽和病院っていう精神病院があって、それは反体制派の共産党系ではない人たちが、の医者たちが関わってた病院が、太陽の陽に平和の和か。そういう病院があってそこに関わってた。
斉藤:病院の近くにこう、なんていうんだろう、ケアハウスみたいな感じで出れるような。
立岩:退院した人がね。
斉藤:だから病院の敷地外に、とにかく病院から遠くなくって住むスペースを、あれは病院で用意したんだな。だからそういう感じで地域へ戻るってそういうことをやってたんだな。

■198404 山中湖事件

◆「もうひとつの東大闘争――「東大闘争」の当事者・森田暁森田暁氏に聞く・13」,『週刊読書人』3303

 「森田 […]「山中湖事件」(註1)というのがあって、それはご存じですか?
 大雑把には……。いつの事件でしたか? 八〇年代半ばですよね。
 モリコ 八四年四月です。ぼくも葬式には行ったんですが、亡くなった一人であるS・T〔高橋 秀年〕というのはほんとに優秀な、希望あふれる活動家だったから……なんであんなことになっちゃったんだろうと思いますよ。しかしあれもオリエンテーション委員会の公式の行事だったはずです。
 戸山 駒場のノンセクト運動は、その方が亡くなってしまったあと、かなり弱体化したとも聞いています。」
 「(註1)山中湖での新入生歓迎のオリエンテーション合宿をやっていた東大生が、夜間に酒を飲んだ状態でボートを漕ぎ出し、転覆して五名が死亡した事件。」

https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/archives/1367312248/17

■200108 駒場寮廃寮

『泥ウソとテント村』
 http://www.arsvi.com/o/br.htm

■言及

◆立岩 真也 2018/07/05 「『社会が現れるとき』拾遺」,『UP』549(2018-7):26-31

 「当時駒場の教員であった人としては見田宗介(真木悠介)、廣松渉もすこし出てくる。当時、やはり指導教員にすることができた見田を選ばなかったのは…、といった辺りのことも書いている。実はもう三度めのことだが、廣松渉についてはその――その人に限らず前衛主義全般にある――革命論の困難について。私は、その革命論の、というより革命の困難という感じ、からものを考え始めたところがある。それとはあまり強い関連はないが、虚しいなあと思いながら、「反東大百年」といった運動にいくらか加担していた人でもある。だから、ものを考え始める場所が他の多くの人たちとは異なっていた。学生運動というのは既に当時十分マイナーで、その後はもっとそうだった。だからそのゼミで浮いていたということはない、と私としては思う。ただ、問い(が詰まっているところ)ははっきりしていたから、あとは自分でやるしかないと思って、学校の方はさぼり気味だった。それでも、あとはさぼってもかまわないという「信」を、山本ゼミその他は私に与えてくれた。そんなふうに思う。そして、山本さん自身もまた、聊か屈折したかたちではあるが、私たちのすこし前の七〇年代を生きてきて継いできて、それが皮肉なようで皮肉でない山本さんを作っていたように思う。それで私は、」


□西村

後で移動

◆西村 秀夫  19910110 「読書紹介:『生の技法』」,『いちご通信』087:30-31
◆西村 秀夫※ 19910301 「「自立生活」についての研究報告書――安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法』」(書評),『障害者の福祉』11-03(116):38
 ※社会福祉法人和泉会理事,在宅ケア研究会


UP:20220919 REV:20221102, 1114, 20230314
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