作成:橋口 昌治(立命館大学大学院先端総合
学術研究科)
■文献表
◇Sugrue, T. J., 1996 “THE ORIGINS OF THE URBAN CRISIS”, Princeton
University Press
=川島正樹訳20020208『アメリカの
都市危機と「アンダークラス」 ――自動車都
市
デトロイトの戦後史』明石書店,p.576,¥6800+税,
ISBN:4-7503-1522-2
◇Wilson, W.J., 1996, “WHEN WORK DISAPPERS: The World of the New Urban
Poor”, Alfred A. Knopf
=川島正樹・竹本友子訳19990331『アメリカ大都市
の貧困と差別 ――仕事がなく
な
るとき』明石書店
◇Bauman, Z., 1997 ‘The strangers of the consumer era’ in Bauman, “
Postmodernity and its Discontents” New York University Press.
=入江公康「消費時代のよそもの 福祉国家から監獄へ」『現代思想』1999年10月号,27-11,p.149~159
◇青木秀男20001115『現代日本の都市下層――寄せ場と野宿者と外国人労働者』明
石書店,p.305,¥5,040(税込),ISBN-10:
4750313475 ISBN-13: 978-4750313474 [amazon]/[boople]
◇酒井隆史20010723『自由論――現在
性の系譜学』青土社
◇伊藤大一20030600「イギリスにおける「アンダークラス」の形成 ブレア政権の雇用政策の背景」『立命館経済学』52-2
http://ritsumeikeizai.koj.jp/all/all_frame.html?stage=2&file=
52204.pdf
◇渋谷望20031025『魂の労
働──ネオリベラリズムの権力論』青土社
◇Bhalla, A.S., Lapeyre, F., 2004 “POVERTY AND EXCLUSION IN A GLOBAL
WORLD, 2nd edition”, Macmillan Publishers Limited
=福原宏幸・中村健吾監訳20050420『グローバル化と社
会的排除 ――貧困
と
社会
問題への新しいアプローチ――』昭和堂
◇(社)部落解放・人権研究所編20050425『排除される若者
たち フリーターと
不
平等の再生産』解放出版社
■ウィリアム・J・ウィルソン1996→1999『アメリカ大都市の貧困と差別』明石書店
◆「たとえばハーンスタインとマレーは「アンダークラス」の子どもたちのための早期の介入プログラムはほとんど見込みがないと主張する。なぜだろうか?
就学前教育プログラム期間中に統一テストの点数が相当な伸びを示しても、子どもたちがそれを離れると急速に低下してしまうからである。(…)ヘッドスター
トのような外部からの介入プログラムは、それが認知能力の低さに関連する諸問題に取り組んでいないために当面は効果がないであろう、と著者たちは主張して
いる。
都市中心部のゲットーの過酷な環境をよく知っている人なら、ヘッドスタートのフェードアウトに関する調査結果に驚くことはないであろう。ヘッドスター
ト・プログラムによって得られた進歩がそのような環境でも維持されるとすれば、その方が驚嘆に値するだろう。都市中心部のゲットーの子どもたちは、想像力
に欠けるカリキュラム、すしづめの教室、不十分な施設や設備、そして生徒を信頼し、彼らが学ぶことに期待しているのは一握りの教師にすぎないという状況が
蔓延する公立学校と闘わなければならないのだ。都市中心部のゲットーの子どもたちはまた、職なし率が圧倒的に高い居住区で成長するのだが、そのことは子ど
もの健全な成長や知的発達の助けとならないその他の一連の問題を引き起こすのである。その中には、家庭の崩壊、反社会的行動、社会的ネットワークがゲッ
トーの境界を越えて広がらないこと、そしてその地区の子どもやおとなの振る舞いや行動に対する、法律や規則によらない社会的統制が欠けていることが含まれ
る。」(p.16)
◆「一九七〇年代の初期にゲットーに関する本格的な研究が突然停止した後、かつてダニエル・パトリック・モイニハンを憂慮させたいくつかの傾向がはるかに
顕著なものとなってきた。第一に貧困がより都市的になり、地域的に集中し、大都市、とりわけ隔離の程度がきわめて高い黒人とヒスパニック系の膨大な人口を
もつ古い工業都市により深く根ざしたものとなっていた。
この時期にはゲットーの生活についての本格的な研究はほとんど行われなかったとはいえ、時折メディアで報じられるように、事態がだんだん悪化しつつある
という一般的な認識は存在した。たとえば広範囲に及ぶ略奪を引き起こした有名なニューヨーク市の電力不足の後、『タイム』誌は一九七七年の八月にシカゴと
ニューヨークのゲットーの状況を劇的に描いた特集記事を掲載した。「アメリカのアンダークラス――マイノリティの中のマイノリティ――」と題したこの記事
が流行の仕掛け人となったのは、「アンダークラス」という用語を初めて大々的にとりあげた大手の大衆誌であったというだけでなく、それがアンダークラスの
世界についての以後のメディアの報道の傾向を決定したからである。「豊かな人々はこの世界についてほとんど知らない」と『タイム』誌の報告は述べている。
「絶望がどっと噴き出して新聞の一面や七時のテレビニュースに表れる時以外には。ぼろぼろに崩れた壁の向こう側にほとんどの人々が想像するよりも扱いにく
く、社会的に異質で敵意にみちた人々の大集団が住んでいる。彼らは手の届かない人々、アメリカのアンダークラスである。」(…)」(p.258-259)
◆「メディアによる「アンダークラス」の価値観や態度の捉え方が都市中心部のゲットーの住民によって実際に表明された見解とどれほどくっきりと対照的であ
るかということに注目するのは興味深い。たとえばシカゴの大規模な公営住宅に住む、非婚で二八歳の生活保護を受給している二児の母親は、彼女の公営住宅に
住む人々がみな不道徳であったり悪漢や殺し屋であるという印象をメディアがどのようにしてつくりだすかということについて、UPFLSのインタビュアーの
一人に語っている。」(p.264)
◆「繰り返しになるが、ウィルソン教授の前著は、リベラル派やコミュニティ重視派から、歴史的な人種差別の持続力を重視している点が批判され、一般社会と
異質な都市中心部の黒人コミュニティの「病理」にさいなまれた特異性を強調する風潮に拍車をかけかねないと懸念される向きが目立った。本書では一九九二年
のロサンゼルス暴動の原因となった警察の横暴やその三年後に問題化したO.J.シンプソン事件への反応におけるアフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリ
カ人の間で顕著な相違、さらには『ベル曲線』のベストセラーが示したアフリカ系アメリカ人への劣等視が依然として根強い現状を踏まえた上で、もっぱら歴史
的な人種差別の糾弾に集中したり「ゲットーの自律性」のレトリックを称揚する傾向を踏み越えて都心部の破壊的窮状を直視するように訴え、より根本的な原因
として、製造業から情報・サービス業への産業構造の変化と経済のグローバル化といったアメリカ合衆国民全体にも関わる構造転換の影響が重視され、それが
もっとも先鋭的に表れた結果が都心部の「アンダークラス」であるとする、従来の立場が貫かれている。日本やヨーロッパの公共政策が参照されるなど、都心部
の問題解決のために合衆国政府がとるべき公共政策の提言に向けてその立場はいっそう補強されている。」(p.367,「訳者あとがき」)
◆「これはウィルソン教授が主張する「アンダークラス」状況の構造的原因説を補強すると同時に、一〇%を推移し続けたままのアフリカ系アメリカ人の失業率
が依然として白人よりもはるかに高い値を示している事実は、ウィルソン教授が長年訴え続けてきたように労働市場の好転のみでは都心部の集中した貧困が解決
し難いこと、すなわち中央政府たる連邦政府の責任には好景気の維持だけでなく、都心部の職なしの人々に労働市場へのアクセスを保障するより積極的政策が含
まれねばならないことも示している。」(p.368,「訳者あとがき」)
■ジグムント・バウマン1997→1999「消費時代のよそもの」
◆「死刑囚監房の収容者の圧倒的大多数は、いわゆる“アンダークラス”出身であり、それは巨大な成長する、貯蔵庫――消費社会の落伍者や拒絶者が貯えられ
る――となっている。リーネバウが示唆するように、処刑のスペクタクルは「シニカルに、政治家らによって、成長するアンダークラスを威嚇するのに利用され
る」。だが、アンダークラスの威嚇を強く要求することで、アメリカのサイレント・マジョリティは、自身の内なる恐怖を鎮圧しようとするのだ……。」
(p.156)
◆「死刑の復活は、おそらく最もドラスティックな事態であるが、しかし、犯罪の役割が変化していることの唯一の兆候なのではない。それは、それが運ぶシン
ボリックなメッセージが変化したということでもあるのだ。汗ではなく、血が、“アンダークラス”の監禁された部分から抜き取られる傾向にある。“デッドマ
ン・ウォーキング”で、死刑制度反対委員会の委員長、シスター・ヘレン・プレジャンは、アンゴラ刑務所により運営される“血漿工場(プラズマ・プラン
ト)”を描写するのだが、そこでは血の“寄付”が集められ、一九九四年三月までは、寄付ごとに現物で一二ドルであったものを四ドルにまで支払いを引き下げ
たのだった。そのあいだにも、Dr.ジャック・キヴォーキアン――安楽死を主張する最前線――が、執行手続きにおける臓器“寄付”の強制を含むキャンペー
ンを展開する。これら事実は、貧困者の新訂版たる“アンダークラス”、あるいは“諸階級を越えた階級”にあって、その新たな配役を予告することはほとんど
ない。すでにそれは“労働予備軍”ではなく、十全かつ真の意味で“余剰(余った)人口”である。それは何に役に立つというのか? 他の人間の身体を修理す
る部品(スペア)の供給者だとでもいうのだろうか?」(p.156~157)
■酒井隆史20010723『自由論――現在性の系譜学』青土社
◆「「アンダークラス」――この現在ではジャーナリズムからアカデミズム、政治の場にいたるまで、非常によく用いられるようになった、複雑な含意をはらん
だ
曖昧かつフレキシブルなタームの趨勢をフォローしてみると、この言葉を流行させる知覚の変容が〈隔離〉を支える新しい「問題化」の様式に負っていることが
わかる。
この概念はもともとはグンナー・ミュルダールによって一九六三年にはじめて用いられたものである。それは脱工業化の黎明期において、それがもたらすイン
パクトを警告する意図で用いられた。ミュルダールはきわめて鋭敏かつ先駆的に,脱工業化が人口のかなりの部分を永続的な失業状態に追いやる可能性を指摘し
ていたのだった。だがアンダークラス概念が人びとの関心を集めるようになったのは、ずっとあとの話であり、ジャーナリストによる、著名な七七年、Time
誌のカヴァーストーリーによってである。その時代を前後して、その言葉が被った意味の変更はきわめて意義深いものであり、そこには問題化の様式と知覚の変
容が認められるはずだ。もともとミュルダールがアンダークラス概念をはじめて用いたとき、そこでイメージされた失業者は、職を必要としており、また就業を
望んでいながらはからずも職を得ることのできない人というきわめて「ノーマル」なものであった。ハーバート・ギャンズは、アンダークラス概念がはらむ意味
の揺れを、経済的観点からの定義と行動的観点からの定義のあいだのブレとして分類しているが、この分類軸を用いるならばミュルダールの概念は経済的観点か
らのものだったわけだ(Gans p.34)。」(p.285)
◆「ジグムント・バウマンは次のように自問する。シングル・マザーとアルコール中毒者、あるいは不法移民と学校中退者といったような、はなはだしく異質で
多
様な人びとの集合をひと括りにして捉えるということはどういうことなのか? と。この多様な人びとを眺めてみるとそこに含意された一つの特性が浮上する。
それは彼らが「完全に無用(totally
useless)」ということである。つまり、彼らは「その存在がなければ麗しい風景のシミ」であり、「彼らがいなくても誰も損をしない」というニュアン
スである。しかしその危険はかつてのように、〈社会〉が負担を負うべきリスク・ファクターなのではない。述べたように、資本の観点から捉えるならば、それ
は〈社会的〉装置を通してふたたび労働力商品化すべき「労働予備軍」として自らの運動のうちに包摂しうるような人口の一部門なのではない。彼らは労働力商
品としてはムダなのである(Bauman 1998)。バウマンはいう。人間の歴史上はじめて、「貧民は社会的な有用性を喪失した」。
だがそれは資本主義のはらむ欠陥・困難としては把握されない。それは彼ら自身の問題なのだから。それゆえ彼らには規律であろうとなんであろうと「手が届
かない」。それは真空に手を伸ばすような無駄な営みなのであり、いずれにせよこれらの人びとは治療不可能なのである。なぜだろう? 彼らは病に犯された生
活を自ら好んで選択しているから、である。つまりこれは人の生き方、モラルの問題なのだ。このアンダークラスが個人による選択の帰結として把握されている
ことが重要である。行動の観点から捉えるという背景には、このような個人化・責任主体化の動きがあるのだ。」(p.286~287)
■トマス・J・スグルー1996→2002『アメリカの都市危機と「アンダークラス」』
◆「(…)「アンダークラス」論争は次の三つの――ときとして重なり合う――方向で進展してきた。第一の、そしてもっとも影響力があるものは、貧困者の態
度や価値観、そして大都市中心部の職なし文化と依存性を助長してきた、連邦政府の社会的プログラムに焦点を当てる。ダニエル・パトリック・モイニハンとフ
ランクリン・フレイジアの業績にまで遡るその変種として、不平等を持続させるうえでの家族構造の役割や非婚者の妊娠を強調するものもある。第二のものは、
不平等と都市の貧困を構造的に説明する。構造的説明の擁護者たちは、経済的構造改革(リストラクチャリング)の影響を指摘する人々(ウィリアム・ジュリア
ス・ウィルソンをはじめとする)と、継続する人種差別を強調する人々(ゲイリー・オーフィールドやダグラス・マッシーをはじめとする)とに二分される傾向
がある。第三の説明は政治に焦点を当て、アメリカの社会政策における都市の周縁化、とりわけ一九六〇年代における都市の動揺と人種紛争の後のそれを強調す
る。ブラック・パワーの「行きすぎ」とアファーマティブ・アクションの拡充が白人の郊外化を煽り、都市の貧困者に対する新手の白人の巻き返しを正当化し
た。このような分析に内在するのは、好景気に沸いた戦後の時期と騒乱にみちた一九六〇年代の後の年月の対照、すなわち都市の絶頂期と都市の危機の対比であ
る。
近年、学問界は現在の都市の危機という重要な要素を認識してきた。しかし「アンダークラス」論争でほとんど抜け落ちているのは歴史的展望である。私が
行っ
た第二次世界大戦後の四半世紀におけるデトロイトについての検討の結果が示唆するのは、都市の危機の起源は社会科学者が認識してきたよりもずっと以前にあ
り、その根は深く、複雑で、おそらく改善し難いだろう、ということである。(…)ただ戦後の人種と住宅、そして労働をめぐる問題が複雑に絡み合った歴史を
明らかにすることを通じてのみ、今日の都市とその貧窮化した住民のおかれた状況を完全に理解しそれに立ち向かうことができる。」(p.18~19)
■伊藤大一20030600「イギリスにおける「アンダークラス」の形成」
◆「「アンダークラス」に関する議論の整理の前に,「アンダークラス」の表象を新聞記事より述べておく。もちろんこの表象は「アンダークラス」に関して一
側面しか述べていないが,この「アンダークラス」はこれまで議論されてきた労働者像から大きく乖離しているので今後の議論の整理のためにも有用であると思
われる。「失業者に対する政府のニューディール政策は,当初安易に成功した。このスキームから利益を得た当初の若年層は,簡単に就労へと転化していった。
しかし今や,新生労働党の中核政策を実施している人々は,就労を望まず,またどうして働いたらよいのかわからない,ないしはすでに地下経済(the
black
economy)に従事している,最も困難な対象に直面している。…(中略)…「求職者」の中には,単に求職活動をどのようにスタートしたらよいかわから
ないものもいる。しかし一度も就労したことのない両親の元で育てられては,就労の基本的な規律を理解できないかもしれない。彼らは朝の起き方や,見苦しく
ない格好の仕方,仲間に対して上品に振る舞い,共同の仕方を学ばなくてはならない」。現在イギリスで行われている「アンダークラス」をめぐる議論とは,こ
のような階層を対象とした議論なのである。」(p.4)
◆「この労働市場の二極化が進行する中で,これまで製造業に雇用されていた男性がまず失業者として企業外に排出され,代わって増大したサービス業に吸収さ
れたのは,かつて製造業種に雇用されていた男性ではなく,これまで非労働力化していた女性であった。ここからこれまで製造業に雇用されていた男性は,失業
の長期化を通して,「アンダークラス」へと転落していったのである。
しかし,仮に「アンダークラス」がこの1980年代に生じた製造業種から排出された男性失業者に限定されていたのならば,結局は一時的な問題であり,
20年たつ現在のイギリスにおいて,熱心に議論されることはなかったであろう。つまり一旦成立した「アンダークラス」は,20年たつ現在も,「アンダーク
ラス」として再生産されているのである。言葉を換えるならば,労働市場の分極化は,製造業種から失業者を生み出しただけではなく,景気循環に関わりなく,
「アンダークラス」を新規に,そして継続的に流入するルートを作り出したのである。この新規に「アンダークラス」へと流入するルートが,「ニート
(NEET : Not in Education, Employment or Training)」や「ステイタス・ゼロ(Status
Zer0)」とよばれる新規学卒無業者である。
この「ニート」や「ステイタス・ゼロ」と呼ばれる若年層は,16歳時の義務教育終了後に,「継続教育(Further
Education)」過程へ進学もせず,労働市場へ参加もせず,そして各種訓練制度へ参加しない若年層のことであり,現在では16―18歳の年齢層の約
一割を形成しているとされる。しかし,この「ニート」や「ステイタス・ゼロ」と呼ばれる若年層は,教育関連統計にも,労働関連統計にも補足されにくく,そ
の実態をめぐっては議論があり,またこの問題は,特定の地域や学校,エスニックマイノリティーなどの特定のグループに集中的に生じる問題であること,さら
に16―18歳時点で「ニート」や「ステイタス・ゼロ」を経験したものは,21歳時点でも失業状態になりやすいことが報告されており,深刻な問題とされて
いる。」(p.8~9)
◆「事実,1979年において,16歳時点で就労している男性の約40%が製造業関連職種に就いており,ここからも製造業種が,「学校から労働へ」の以降
過程のおいて主要なルートとなっていたことがわかる。しかし,その後の若年労働市場の崩壊により,低技能・低学歴者に安定的な雇用を提供し,また「労働者
階級の文化」を再生産していたこのルートは失われた。代わって彼らに与えられたルートは,はじめから失業者になるか,それとも,いわゆる「アンダーエンプ
ロイメント(underemployment)」と呼ばれる不安定雇用のなかで,短期的な就労と失業を繰り返すルートである。短期的な就労と失業を繰り返
すうちに就労意欲を失った層と恒常的な失業状態におかれた層が「アンダークラス」としての特徴を身につけるのである。」(p.10)
■渋谷望20031025『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』青土社
◆「一方の極で資本に要請されるまま、自己の生をくまなく開発し、絶え間ない生活の再編に対して自己の身体、精神、感情をフレキシブルに適応させ続けるこ
と
を定めとする階級が存在し、他方の極で貧困のうちに排除され、恐怖を喚起させる見せしめとしてしか使い道のない「アンダークラス」が存在する。そしてその
あいだの関係をかろうじて人道主義的な実践が切り結ぶというのであれば、われわれはいったいどんな時代に生きているというのだろうか。」(p.96)
◆「法の停止状態は「例外状態」として、法が維持されている通常状態と区別されている。都市のアンダークラス地域は、この意味でまさに例外状態にある――
しかも一時的なものではなく、日常化し、常態化した例外状態である。そこに生まれ、そこから外に出て行く手立てのない若者たちは、生きるために法を軽視
し、破ることを余儀なくされるだろう。また取締る側は、法の迂回を緊急事態の名において正当化しようとする。警察による法の軽視は警察暴力(ポリス・ブ
ルータリティ)の温床となる。
このような常態化した例外状態は、そこに生きる者の生に対する態度の根本的な変更を要請しているように見える。ギャングスタ・ラップとともに隆盛を見せ
た九〇年代前半のいわゆる「フッドもの」と呼ばれる一連のヒップホップ映画は、こうした社会情勢を背景に、強度の危険が渦巻く「アンダークラス」コミュニ
ティ、「(ハイ)リスク社会」での日常生活を描いていた。(…)」(p.112)
■アジット・S・バラ/フレデリック・ラペール2004→2005『グローバル化と社会的排除』昭和堂
◆「自由主義のパラダイムは,貧困の主要な原因を個人の欠点や行動上の欠陥に見いだすので,社会の責任というものを想定していない。にもかかわらず,その
規範的な見解にしたがえば,排除された人びとの2つの異なる集団が存在する。1つ目の集団は,差別に苦しむ人びと,もしくはなんらかの理由のせいで障がい
をもっていたり不利な立場に置かれたりしているので必要な能力をもたない人びとである。2つ目の集団は,公的扶助がもたらす負のインセンティブ効果のせい
で,社会的・経済的生活に活発に参加する機会を利用しないと選択する人びとである。一般的な観点から見れば,アングロサクソンにおける社会的排除の観念
は,フランスのそれに比べていくぶん物質主義的で個人主義的であるといえる。フランスの観念はより全体論的であり,社会的な結びつきに関する問題にかか
わっている。
この文脈においてマレーは,影響力に富むとともに物議をもかもし出したその著書の中で,アンダークラスは国家の介入の結果であり,公的扶助を仕事よりも
魅力的なものにすることで依存の文化を作りだすのだと示唆することによって,自由主義的な立場からの議論を引き起こした[Murray,1984]。アン
ダークラスは逸脱した諸個人からなっており,彼らは福祉国家の政策に対し合理的に応答して行動するとみなされている。したがって,政策は福祉国家の縮小を
とおして,社会保険システムが生みだす本来の効果とは相容れない歪んだ効果を克服することに関心を払わなければならない。国家は,個人の権利を保護した
り,差別を阻止したり,個人がみずからの潜在力を生かせるように支援したり,逸脱した価値観や行動によって特徴づけられる人びとではなく現実に支援を必要
としている人びとに対して有限な資源を集中的に提供したりするためにのみ,介入すべきなのである。」(p.13)
◆「「アンダークラス」という用語はミュルダールによって作られた[Myrdal,1963,p.10;
訳,24頁]。それは,構造的失業の発生と,「一般の国民からいよいよ絶望的に区別され,国民としての生活,願望,そして成果の分配にあずかっていない」
人びとの存在とを指し示すものであった。ミュルダールは,経済的な犠牲者を作りだすことにつながった構造的な要因を強調した。しかしながら,1980年代
において「アンダークラス」という用語は,同時代のアメリカにおける社会的な懸案問題を分析するための主流をなす枠組みとなった。今日まで,論争は保守主
義の見解によって支配されてきたのであって,それは個人の行動と文化的な障害――いわゆる「個人原因論」――に焦点をあてている[Aponte,
1990,pp.132-3]。この論争は,被救済窮民と危険な階級に関する19世紀ヴィクトリア朝時代の論争に著しく類似している。実際,それは,諦
め,消極性,低い向上心の意識をふくむ逸脱した行動や精神的欠陥をあげつらって犠牲者を非難し,そうすることで彼らを社会的価値や社会的目標の点から見て
マージナルな存在とみなすのである[Auletta,1982]。したがってアンダークラスは,「彼らの置かれている状況ではなく,その状況に対する彼ら
の嘆かわしい行動によって定義されるような,貧困者の一定の類型」と考えられている[Murray,1990,p.68]。その重要な特徴は,経済的窮乏
ではなくて行動の欠陥にある。この観点から見るなら,アメリカでアンダークラスが出現したことは,構造的な社会経済的変化の変化ではなくて,やる気を失っ
ている貧困者,路上の犯罪者,詐欺師,先進的外傷(トラウマ)を負った者たちによって共有される独特のアンダークラス文化の結果である[Auletta,
p.188]。」(p.127~128)
◆「結論をいえば,新しい社会的論点について議論するうえでの「アンダークラス」という言葉の適切さに対しては,強い批判が寄せられている。この言葉はア
メリカにおいてこれまで広く用いられてきたが,学術的な議論からはしだいに姿を消しつつある。(…)これとは対照的に「社会的排除」という言葉は,社会的
な議論や研究プログラムへと導入されることで欧州において普及した。」(p.136~137)
◆「フランスについてのケース・スタディをふまえて,私たちは,仕事の増大が十分でない場合にはマージナル化された人びとの階級やアンダークラスを生みだ
しかねないことを明らかにした。仕事が実際に増えるとしても,それは概して貧困と結びついた「質の悪い」仕事である。実際,賃金を主な収入源にしている社
会の危機――長期失業や不安定な形態の仕事の増大――は,先進工業国において最も重要な社会的統合のあり方が危機に陥っていることを意味するのである。」
(p.152)
◆「ファシンは,貧困の発生が3つの現象を引き起こすと記している[Fassin,1996b,p.263]。すなわち,フランスの排除,アメリカのアン
ダークラス(いずれも第4章で議論された),そしてラテンアメリカのマージナル化である。彼は,これらの概念が社会的空間の3つの布置連関に対応している
ことに注意をうながしている。つまり,排除は「内/外」に,アンダークラスは「高/低」に,そしてマージナル化は「中心/周辺」に対応しているというので
ある。西欧における排除をめぐる議論を受けて,何人かの研究者たちは,排除とマージナル化との類似性を示唆しながら欧州のラテンアメリカ化について語り始
めた。〔排除とマージナル化という〕2つの現象は,労働市場のインフォーマル化と臨時雇用の増大によって特徴づけられる。しかしながら,2つの現象のあい
だには違いもある。たとえば、フランス、西欧、北米の場合には,「新しい貧困層」と呼ばれている人口の一部分は,優勢な資本主義のシステムにある時点では
その一部として組み込まれていた(彼らは「内側」にいた)が、いまではそこから排除されている(彼らは「外側」にいる)。他方で、ラテンアメリカや他の発
展途上国では,都市貧困層は都市の資本主義システムには最初から決して統合されてこなかった,農村からのかつての出稼ぎ労働者である。」(p.183)
■(社)部落解放・人権研究所編20050425『排除される若者たち』解放出版社
◆「「危機と言っても、それは本人や親の責任だ。」本書の内容について、こうした受け止め方をされてしまうのではないか、という危惧を我々は抱いている。
勉強しない、学校に行かない、遊んでばかり、仕事も長続きしない、早くにセックスをして妊娠してしまう。親もほったらかし。親の生活も問題がある…そうし
た見方とセットになるのが、彼/彼女たちの置かれた状況は「努力しないものの自業自得で、福祉給付や就労支援などは税金の無駄づかいだ」という非難であ
る。
欧米で80年代から広まった「アンダークラス論」は、そうした論調を極端な形で示したものである。「本人、親の責任」を強調し「福祉依存のライフスタイ
ル」を批判する。失業中の若者、若い未婚の母親などがその主たるターゲットであった。日本においても、「努力」の末に生活の安定を確保し維持している社会
のメインストリームにいる人々には、上記の考え方が根強く持たれているだろう。ホームレスについての見方にそうした傾向を読み取ることができる。「学校で
頑張った者が成功する」という考え方が多くの人に持たれていることを考慮すれば、先に示した一連の否定的な印象が抱かれていることも十分予想できるだろ
う。
本書で何度も指摘された論点を繰り返すことになるが、「個人責任論」が退けられるべきだということを改めて確認しておきたい。(…)」(p.203)
*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4~2008.3)の成果/の
ための資料の一部でもあります。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htme