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arsvi.com HOME>重度訪問介護(重訪)>人工呼吸器利用者の24時間介護と自立生活の事例

こんにちは。筋ジス当事者の植田健夫(たけお)です。よろしくお願いします。

2000年、宇多野病院入院。2018年11月19日、宇多野病院を退院。退院して今日で、「1か月と5日」になります。

いまの暮らし。これは僕の部屋です。思ったよりも大変なことが多かったです。大変なことばかりだったので戸惑いました。宇多野病院の中では気がつくと、冷蔵庫のことばかり考えてました。

買い物が多くて、ヨドバシカメラで冷蔵庫を見ている写真です。ヨドバシカメラに、ハマってしまいました。ヨドバシの入り口です。

食事のメニューは、考えたことがなかった。最初の一週間はインターネットがつながらなくて、レシピを調べられなかったです。いまはインターネットを使ってレシピ検索をすることができます中華料理が好きなので、料理ができるヘルパーさんが多くて助かっています。

人工呼吸器のマスク交換にむずかしさを感じて研修をたくさんしました。かなり頑張りました。この写真は自分の部屋で呼吸器を使っている写真です。

これからのこと。京都探索をしたいです。旅行もたくさん行きたいです。これは京都タワーの写真です。こないだは桐原さんの「へんな飲み物を飲む会」に参加しました。☆01そこではなぜか、スッポンをさばいてスッポン鍋やスッポンの生き血を飲んだり振る舞われたりしてましたが、僕は食べませんでした。

いまは外出しても生活のための買い物ばかりだけど、カフェや喫茶店をめぐりたいと思っています。写真はスターバックスで珈琲を飲んだときの写真です。

どうやって退院したかここからはヘルパーさんに代読をしてもらいます。

ヘルパーさんによる代読

ぼくは、1975年に京都府舞鶴市で生まれ、1978年3歳の頃に筋ジストロフィーの診断をうけました。南丹市の特別支援学校で寮生活をおくった時以外は、ほとんど自宅で父母と一緒に暮らしました。25歳の頃に父が亡くなったことをきっかけに宇多野病院に入院することになりました。一人暮らしをしたいと思ったのは今年の4月。退院は11月でした。

ぼくは一人暮らしがしたいと考えてからわずか7カ月で退院しました。多くの人が退院に苦労するなか、ぼくはなぜこんなに早く出ることができたのでしょうか。簡単にぼくが出るまでの経緯を話します。

4月に重度訪問介護のことを知りました。6月には病院の相談員さんがつくってくれていたサービスプランを自分で計画を立てるセルフプランに変えました。重度訪問介護を住民票があった亀岡市に申請しました。宇多野病院では重度訪問介護をつかったのはぼくが1人目でした。

初めての外出をしたのは6月7日。8月21日、22日にはJCILの自立生活体験室で外泊をしました。車いすの人も住んでいて、入居の条件も厳しくない公団住宅に住むことにして、10月27日には内覧、11月6日には契約。11月16日に京都市担当ケースワーカーと面談、11月19日に退院しました。退院まで、外出7回、外泊7回、カンファレンス3回をもちました。

この写真はJCILからもらった、重度訪問介護のチラシです

ぼくの退院には病棟が全面的に協力してくれました。主治医の先生は「今年の春頃にテレビで地域生活を送る人工呼吸器の人の番組を見て、こんなことができるんだと思った。植田さんもきっと地域で暮らしたいタイプと思った」と言って、後押ししてくれました。病棟の看護師長さんはバリバラという障害者のテレビ番組を見ていて、障害者がいろんな困難はありながらも自分らしく地域で生きていく選択肢があることを理解してくれていました。相談員さんも重度訪問介護のことを教えてくれました。ぼくの場合は、心臓が弱かったり、鼻マスクで自発呼吸がなかったりとはじめは危険という雰囲気もありました。でも主治医の先生が「全身状態は安定しているから大丈夫」と言ってくれました。在宅の主治医の先生も宇多野病院のことをよく知っておられたので、やりとりはスムーズでした。

病棟の看護師さんたちも、ヘルパーさんたちに移乗の研修をしてくれたり、毎回の外出でもちものチェックを丁寧にしてくれたりしました。外出や外泊を重ねて、最終的には16名のヘルパーさんの研修をしました。

ぼくの場合は病院が協力してくれたことがいちばん大きなことでした。

この写真は、重度訪問介護を使った初めての外出の写真です。

母と家の内覧をしたときの写真です。

次はJCILのスタッフの方のお宅を内覧させていただいたときの写真です。

先ほど病院の協力が大きかったという話をしましたが、何もなかったわけではありません。二つお話を紹介します。

◇エピソード1 加湿器と門限

この時ぼくは病院の壁をあらためて感じました。ぼくが外出の研修から帰ってくると、病棟の看護師さんたちが移乗やマスク交換、人工呼吸器の回路のとりつけをしてくれていました。ある時、この呼吸器の回路が加湿器につながっていないことがありました。それが問題になり、病院全体での話し合いになりました。日勤の看護師さんがまだ残っている17時までに帰ってほしいというお願いがありました。ぼくの側からすると、病院側のミスだったのに、外出時間が制限されるなんておかしい、そもそもぼくは加湿器をつかっていないのでそんなに騒ぐことではないと思って、くいさがったことを覚えています。病院側からすると、ぼくらの命を守るために、限られた人の数で、結果的に管理を強くすることがある、という現実をあらためて知りました。いまぼくの生活には門限はありません。いつ帰るかを決めるのはぼくです。

◇エピソード2 鼻をふきたい

二つ目です。前にぼくは、鼻マスクを付けているので鼻マスクを外したりズラしたりして鼻をしっかり拭いてほしいとお願いしました。でも、危険だからと鼻を拭いてもらうことはできませんでした。退院間際に支援者が呼ばれて、最初は「ご本人は鼻マスクを外して鼻を拭いてほしいと言われるけど病棟では外さない」と強めの口調で話があったそうです。でも、自分で計画を立てるセルフプランで今後もやっていくという話やぼくがヘルパーさんに介助方法を教えているという話を支援者がしたら、

「え ?植田くんが? わたしはそういう視点で植田くんのことを見たことがなかったので。。。そうなんですね。さっきの鼻マスクの話ですが、きっと在宅の先生やみなさんとで植田くんが決めてやっていかれますよね」 と話してくれたと聞きました。ずっと一緒に生活してきた看護師さんが理解してくれた瞬間と思いました。

病院の管理体制はぼくのいのちを守ってくれました。でも何かがかみあわなかったらこうはいかなかったかもしれません。先生が「出せません」と言ったらぼくはいまここにいません。看護師さんが協力してくれなかったら、いまぼくはここで話せなかったかもしれません。でもぼくはここにいます。ぼくが地域に出て生きる意味をみなさんが理解してれくれたから、ぼくはいまここにいます。そもそも在宅と病院の支援は文化がちがうと支援者が言っていました。それでも衝突する瞬間はあっても上手にまざりあうことでスムーズな地域移行ができると思います。

これからも全国の筋ジストロフィーの人たちが地域に出てくるかもしれません。病院はぼくたちを守るためにぼくたちの自由を制約することもあります。他の方の話のように、地域に出てくる時に、牢獄のようにぼくたちの前に立つこともあります。でも今回のぼくのように、病院は牢獄になるのではなく、ぼくたちの安全な出入り口になることもできます。これからもぼくは宇多野病院に通院します。

最後に一言

退院して一ヶ月と5日が経ちますが、退院して大変なこともありますが、充実して、自由に楽しく過ごせています。

入院していた病棟には2人、人工呼吸器を付けている筋ジスの人で、退院を目指している人がいます。その2人にはドクターストップがかかっていて、退院にすごく手間取っています。

ぼくの場合は主治医の先生が理解のある方で、すんなり退院できました。

ぼくの目から見ると、この2人の主治医の先生は「安全面」「安全面」ばっかり繰り返して、ぜんぜん退院を許可する(に協力する)気配がないように見えます。

ぼくの考えですが、「退院させて患者に何かがあったら」と考えているのだと思います。何かあったら主治医の責任、宇多野病院の責任になると考えている。と思えているぐらい、壁になっている気がします。

病院は一生入院するとこやないし、入院は、退院とかはもう、個人の自由だと思うんで、病院がそういう壁になっていることは理解できません。その辺を考えて頂きたい。

その2人を一日も早く退院させてあげてください。

以上で終わります。

今日は、ぼくにしては大一番だったので、メジャーリーグのイチロー選手は大舞台の試合の朝にカレーを食べるそうなので、ぼくもカレーを食べてきました。それだけです。

☆01 そのすっぽんは3匹いて、「しんや1」「しんや2」「しんや3」という名前でした。私は、その殺スッポン幇助をして(スッポンにかませたタオルをひっぱって断首しやすくした)、断首されたその3者の生き血(のオレンジジュース割り)を飲みました。あっさりして飲みやすかったでした。(立岩真也記)。

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