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鈴木國男虐殺糾弾闘争(S闘争/S支闘)


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last update: 20170228


■概要

 全国「精神病」者集団・大阪事務局(通称、大阪患者会事務局)において鈴木國男氏がN氏を殴打し刃物で刺す殺傷事件が発生した。鈴木國男氏は勾留先の大阪拘置所内で不適切な処遇によって死亡した。死因は、あえて体温を奪うような状態で勾留した上で体温低下を招く副作用をもつ向精神薬(コントミン)の投与により凍死したものとされた。その後、鈴木國男虐殺糾弾国家賠償訴訟が行なわれ、1983年5月20日に国の過失を認め2060万円の賠償を命ずる判決が出された。しかし、問題の原初であるはずの大阪患者会事務局での事件の総括は、何度か試みられたものの困難を極め、活動家ごとの見解が併記されるかたちで今日に至っている。

S闘争(ウィキペディアWikipedia)
※ウィキペディアでは「精神病」者運動の視点から記録されたものではない。

■裁判の経緯

1976/02/16 死亡事件後、即座に全国「精神病」者集団及び関西救援連絡センターを中心として大阪拘置所、及び、精神科医臼井節哉に対する調査活動と、証拠差し押さえの行動がとられた。
1976/06/13 有志による追悼集会をおこなった。
1976/07/28 全国「精神病」者集団は、鈴木國男君虐殺糾弾の講演学習会を開催した。
1976/11/12〜13 全国「精神病」者集団を中心として、大阪拘置所と法務省への抗議行動をおこなった。
1977/02/16 全国「精神病」者集団は、鈴木君虐殺糾弾一周年闘争として集会をもった。
1977/04/** 鈴木君虐殺糾弾実行委員会が発足した。
1977/05/** 月大阪医科大学において大阪拘置所非常勤の精神科医、臼井節哉を糾弾するビラまきをした。
1978/02/16 鈴木君虐殺糾弾二周年闘争として集会をもった。
1979/02/05 鈴木の母を原告に立てて国家賠償裁判に踏み切った。
1979/04/24 第5回公判(橋本和子・鈴木國男の友人)
1980/08/14 第6回公判(木村政紘・精神科医、鈴木國男の主治医、七山病院勤務)
1980/11/13 第7回公判(臼井節哉・精神科医、大阪拘置所非常勤、小曾根病院勤務)
1981/02/20 第8回公判(臼井節哉・精神科医、大阪拘置所非常勤、小曾根病院勤務)
1981/06/19 第9回公判(河合仁・京都大学精神科助手)
1981/10/16 第10回公判(鈴木花子・原告)
1982/02/02 第11回公判(城哲男・元鹿児島大学法医学教授)
1982/03/09 第12回公判(城哲男・元鹿児島大学法医学教授)
1982/02/18 保護房現場検証
1983/05/20 結審

■刊行物

◆鈴木君虐殺糾弾闘争実行委員会,1982,「大阪拘置所による鈴木君虐殺糾弾国賠訴訟の全記録」鈴木君虐殺糾弾闘争実行委員会.
◆鈴木君虐殺糾弾闘争実行委員会,1987,「”狂人”解放への叫び――鈴木國男氏遺稿・追悼集」鈴木君虐殺糾弾闘争実行委員会.

■言及

◆桐原尚之,2014,「アイデンティティ政治における〈他者〉との連帯の意味付与――鈴木國男君虐殺糾弾闘争の歴史から」『現代思想』42(8):224-237.

「ここでは、アイデンティティ集団の団結の質が課題としてあげられている。このことは、鈴木の暴力が西山に向けられたことと、そもそも、こうした事態を引き起こさせてしまったことの2つの意味での反省を意味している。
 鈴木の暴力が西山に向けられたことについては、香川は鈴木の他者から共有されない独善性に問題があるとし、吉田は、排除、抹殺に抗する「精神病」者が「精神病」者の排除、抹殺に手を貸したことに問題があるとした。筆者は、香川、吉田の両者ともに一定程度支持する。確かに、愛を叫びながら同棲中の女性に暴力を振るったこと、「精神病」者を排除、抹殺する保安処分に反対しながら西山を排除、抹殺しようとしたことなど、鈴木の言動には一貫性がなく、それゆえに説得力がない。普通、説得力のない言動は、独善的にしか聞こえず、他者から共有されないものである。ただ、鈴木の場合、非定型精神病の症状によるところも大きく、すべて鈴木の思想に由来するものと考えるのは誤りである。「精神病」者運動は、精神病の症状をかかえた人たちによる運動であり、症状に対する相互理解も不可欠なのである。
 一方、鈴木が他者から理解されなかったことは、鈴木の言動のみに原因を求めるべきではない。周囲が同じアイデンティティである鈴木を理解しなかったことも問題である。このことは、大阪患者会事務局での事件を引き起こさせてしまったこととも関連する。大野は、鈴木のキチガイ解放闘争が誰からも理解されず放置状態となり、孤立していたと説明している。そして、西山への傷害行為について「西山さん個人が犠牲的にうけいれたことですが、患者会総体に刃物で告発したものと考えてください」(大野 1977: 8)と鈴木個人対西山を含む「精神病」者運動総体という図式で鈴木の行為理解を訴えかけた。加えて、「患者会メンバーは初期段階において少なくとも乱暴な治療を強制されているにがい経験者ですから即、治療は厳禁です」(大野 1977: 9)と対応の問題についても指摘している。同様のことを「岩倉病院患者自治会」(注釈5)の牧田篤は、「医者が患者を支配してはならないように、患者は医者になってはならない。なぜ仲間に薬を飲めなどというのか」(牧田 1977: 15)と問いかけている。このように大野と牧田は「精神病」者相互の理解が不十分であった点を大阪患者会事務局での事件を引き起こさせた原因の一つとして捉え、反省的に検討している。
 だが一方で、大阪患者会事務局での事件を引き起こさせた原因は、当時の時代背景も大きかったといえる。当時、全国「精神病」者集団大阪分会は、地域患者会による政治闘争と、行き場のない「精神病」者の共同生活とを同時的におこなっていた。加えて、全国「精神病」者集団大阪分会を構成する地域患者会及び病院患者会は、それぞれの個別の歴史をもつ中で、それぞれの問題意識、運動の展開の仕方に基づいて志向性を異にしていた。このような状況下にあって大阪患者会事務局での共同生活の中で政治闘争まで含めて展望することは、困難を極めたであろうことは想像に難くない。そして、最終的には病状に対する対応をめぐって、悪質な医療を受けた鈴木の意見と、西山の意見とが対立し、共同生活を通じてその対立が増大していったのである。こうした状況下では、必然的に事件が発生し得たのかもしれない。それでも「精神病」者同士が思想や立場を超えて連帯できてさえいれば暴力沙汰にまで発展することはなかっただろう。つまり、この問題は「精神病」者同士の立場を超えた連帯をいかにして可能にするのかという問題として再び提起されるに至ったのである。
 そういう意味でも、鈴木國男君虐殺糾弾闘争は、もう1人の被害者である西山の位置付けが不十分なままであった。鈴木國男君虐殺糾弾闘争は、鈴木を国家権力の被害者と位置付け、国に対して拘置所内での死亡の責任を問うたわけである。確かに、拘置所は被疑者を勾留する施設であり、刑が確定しないままに被疑者を死に至らしめたことは、明らかに拘置所の過失といえる。また、鈴木の死は、鈴木の友人らからすれば無念な出来事であり、その怒りを国に対する責任というかたちで追求するのもごく自然なことといえる。しかし、鈴木の友人らは、西山とも共通の友人のはずである。西山曰く、「ごかい」の藤原礼子を始め、「精神病」者は西山に寄り添う者がある程度いたという。だが、西山が「自分が糾弾されている思い」(西山 1995: 126)と語っていることからも、鈴木國男君虐殺糾弾闘争は、大阪患者会事務局で額に包丁を指された西山の気持ちを置き去りにしたまま進められた運動という側面があったことは指摘しておかなければならない。」


◆吉田おさみ,1983,「『精神障害者』の解放と連帯」新泉社.
「83年5月20日、大阪地裁は『鈴木の死は拘置所長、看守、それに拘置所の嘱託医らの過失にもとづく』とし、死因は凍死であるとして国の責任を認め、2060万円の賠償を命ずる判決を下しました。・・・」吉田おさみ65-68


■参考文献

◆大野萌子,1977,「ある私信(イ)」絆,1:8-12.
◆香川悟,1977a,「鈴木君問題の総括のためにT――主として患者会向けに」香川悟『“分裂病”の社会学――精神障害者解放への視座』(灰色文献).
◆香川悟,1977b,「鈴木君の思想の継承に関してU――吉田おさみ氏の反論に答えて」香川悟『“分裂病”の社会学――精神障害者解放への視座』(灰色文献).
◆桐原尚之,2014,「アイデンティティ政治における〈他者〉との連帯の意味付与――鈴木國男君虐殺糾弾闘争の歴史から」『現代思想』42(8):224-237.
◆桐原尚之・白田幸治・長谷川唯,2013,「『精神病』者運動家の個人史1巻」立命館大学生存学研究センター.
◆長野英子,2001,「全国「精神病」者集団の闘い」全国自立生活センター協議会『自立生活運動と障害文化』現代書館.
◆西山史郎,1980,「投書箱活動と灯会」絆,3(灰色文献):14-15.
◆西山史郎,1981,「これからの患者運動に望む」友の会(編)『精神障害者解放への歩み』新泉社.
◆西山史郎,1993,「共に生きることの大変さ大切さ」谷中輝夫(編)『旅立ち 障害を友として――精神障害者の生活の記録(精神衛生実践シリーズ12)』やどかり出版.
◆西山史郎,1995,「地を這う灯会」「病」者の本出版委員会(編)『天上天下「病」者反撃!――地を這う「精神病」者運動』社会評論社.
◆牧田篤,1977,「D君の死を悼んで」絆,1(灰色文献):15.
◆吉田おさみ,1977a,「鈴木君の思想の継承に関してT」香川悟(著)『“分裂病”の社会学――精神障害者解放への視座』(灰色文献).
◆吉田おさみ,1977b,「鈴木君の思想の継承に関してU――香川氏の反論にこたえて」香川悟『“分裂病”の社会学――精神障害者解放への視座』(灰色文献).
◆吉田おさみ,1981,「狂気からの反撃」新泉社.
◆吉田おさみ,1983,「『精神障害者』の解放と連帯」新泉社.



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