■玉井真理子
以上、その概略について述べてきたように、このWHO倫理ガイドラインは、その
草案のファイナルバージョンにおいて優生学という用語を記述のなかから注意深く
排除している。そして、「個人の選択」と「社会の選択」の違いを強調し、「過去
の優生学」と「現代の遺伝学」をまったく異質なものとして対比させて描こうとし
ている。たしかに記述のしかたを表面的に変えることには成功したかもしれないが、
「個人の選択」と個人の集合体である「社会の選択」、ひいては「過去の優生学」
と「現代の遺伝学」との間に存在する分かちがたい関係性を変えることに果たして
成功しているのだろうか。
たしかに、社会全体としての、とりわけ政策としての選択が個人に対して強制力
を持つことと、あくまでも個人の自由な意志による選択が一定の方向性を有してお
り、それが社会の中で結果的に多数派を占めることとは、その経過においては確か
に事情は異なるかもしれない。前者を「社会から個人への拘束」とするなら、後者
は、「個人から社会への」ある意味での「拘束」と言えるかもしれない。すなわち、
マジョリティの選択という形で結果的にその社会全体がある程度拘束されるという
意味において一種の拘束である、という二重構造を見ることができる。WHOのガイ
ドラインが強調している「個人」の選択と、個人の集合体である「社会」の選択は、
不可分の関係にあるとも言える。そのような両者の不可分性について言及すること
で、「現代の遺伝学」が「過去の優生学」と簡単に決別できない宿命にあることを
論じたサブファイナルバージョンは、示唆に富むものであったと考える。
[資料集p.36]
「現代の遺伝学」は、「社会政策としての優生学」に積極的に荷担することを目
的にしているようなものでは決してない。したがって、優生学をあくまでも過去の
ものとしてのみ扱い、それとの決別を今ここであらためて宣言したい、という意図
は理解はできなくはない。しかし、果たして、単に優生学に言及することを避ける
ことで、「現代の遺伝学」が陥りやすい危険に対する批判をかわせるのだろうか。
「現代の遺伝学」のなかにも、「個人の選択」がどの程度の規模になれば「社会の
選択」と同様であると言い得るレベルになってしまうのかという量的な問題と、
「個人の選択」がいつどのような形で行われたときに「社会の選択」と区別できな
くなってしまうのかという質的な問題は常に存在する。それは、決して過去だけの
問題ではなく、過去の問題でもあり同時に現代の問題でもある。間違った「社会の
選択」を支えてしまった「過去の優生学」と、妥当な「個人の選択」を支えていこ
うとする「現代の遺伝学」という、単純な構造にはとうていなり得ないと思われる。
むしろ、「過去の優生学」との間に宿命的に存在する関係について事実をもって
明らかにし、同時に理論的接点を曖昧にせず、すなわち真摯に向き合う姿勢ことこ
そが、今求められているのではないだろうか。現代の遺伝学の名のもとにいかなる
誘惑が潜んでいるかを自覚していなければ、自律的な「個人の選択」を助けること
はできないと考える。