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Species / Speciesism

種/種差別/種差別主義

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◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books

第2章★12 生存学研究所のサイトに「種/種差別主義」という頁を作った。以下はそこに引用した文章の一部。
 「種差別主義(speciesism)」[…]――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解」(Kuhse[1987=2006:19-20])
 「〔『動物の解放』等の〕著作の特徴は、動実験施設や工場畜産と呼ばれる現代の畜産のやりかたにおいてどれだけ動物が苦しめられているかを細かく描写した上に、動物の扱いを考える上での枠組みと、「種差別」(speciecism)という概念を紹介したことであった。」(伊勢田[2008:18])
 ここに付された注が「正確に言うと、「種差別」そのものはイギリスの動物愛護活動家リチャード・ライダーの造語だが、有名にしたのがシンガーであったためにしばしばシンガーが造語したと思われている。」(伊勢田[2008:18])
 「多くのベジタリアンは、動物を殺さない意志を正当化するのに反=種差別の主張をふりかざす。反=種差別主義者にとって、彼ら自身の種、すなわちヒトを別種の生物の犠牲のもとに優遇するのは受け容れがたいものだ。種差別という語は一九七〇年、英国のリチャード・ライダーが導入し、一九七五年、オーストラリアのピーター・シンガーにより再度取り上げられ、人種差別という語と重なりながら練り上げられてきた。だが種差別と人種差別は同じ意味をもっているのか? そこには疑問の余地がある。またカニバリズムは動物には稀であり、大型の肉食動物には存在しない。豹が同類を食うのを拒むからといって種差別主義者と言えろうか? そしてもし栄養を摂るのにヒト以外の動物を殺すことに同意するとしたら、ヒトは種差別主義者でありうるのだろうか? あるいはより正確に言えば、ヒトは豹よりも種差別主義者でありうるのだろうか? 他の種より優位に立とうとは考えず、自身を動物コミュニティのひとりだと認識している私からすると、あらゆる捕食動物と同じ行動を受け容れることが、唯一真の反=種差別的位置を築くことに繋がるように思える。つまりある種の種差別のかたち――「他の動物がそうであるように種差別主義者である」ことは、逆説的にも種差別主義者にならない唯一の方法なのだ。」(Lestel[2011=2020:52-53])



https://en.wikipedia.org/wiki/Speciesism

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%B7%AE%E5%88%A5

Singer, Peter
Kuhse, Helga
加藤 秀一

◆立岩 真也 20090325 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360 [amazon][kinokuniya]



立岩[2022]で引用

 ▽人の生命は神聖である、あるいは(無限に)価値があるが故に、それを奪うことは悪であるという答えは、一見もっともらしいが、同語反復に近いので納得のいくものではないだろう。その答えは、単に、生命を奪うことによって失われるものに価値があると断言しているのに過ぎない。人の生命を奪うことがなぜ悪であるかに関するいっそうもっともな答えは、こうであろう。すなわち、人の生命は非常に特別な種類の生命であるが故に、それを奪うことは悪である。このように、生命を奪うことが悪であるのは、《人》の生命には絶対的な価値があるということが事実だとして、その事実のせいである。  しかしまた、この答えは、人の生命に特別な意義を与えるのは何かと問うことができるが故に、納得のいくものではない。ここで、人の生命が神聖なのは、それが羽根のない二足動物の形態をとるからだとか、あるいは、それが《ホモ・サピエンス》に属すると認定できるからだとか答えても、十分ではないだろう。言い換えれば、人の生命を奪うことが悪いということが、「種差別主義(speciesism)」[…]――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解――に基づくものであってはならない。  あるいは、その答えは、人は理性的に目的を持つ道徳的存在者であり、希望、野心、選好、人生の目的、理想等を持つが故に、人の生命は神聖性を持つということになるかもしれない。[…]人の生命は、人の生命《であるが故に》、神聖性を持つと言っているわけではなく、むしろ、理性的であること、選好を満足させること、理想を抱くことなどが神聖性を持つといっているということである。(Kuhse[1987=2006:19-20])△

Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2009 Sole Life (『唯の生』), Chikuma Shobo (筑摩書房), 424p. <55,290,355,360,782,799,800>
◇立岩 真也 20090325 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360 [amazon][kinokuniya] ※ et.

Chapter 1. Saying / not saying the specialty of human life

Section 1. Theory that new things are same as old things, thus are accepted
1. The role as tradition destroyer
2. Some say it is OK because it has already done

Section 2. Alpha: Feeling and reason
1. Alpha: Feeling and reason
2. It is not the ethic of de-anthropocentrism or de-racism
3. It does not consider human life as special
4. Some say it is important, but they don't say why

Section 3. Relationships
1. Calling for "somebody"
2. Difficulty of relation-ism
3. As if there were not such things as "Parents"

Section 4. Another boundary Beta: The World / Internals
1. The World / Internals
2. Humans / Animals
3. Repetition

第1章 人命の特別を言わず/言う
1 新しいことは古いことと同じだから許されるという説
 1 伝統の破壊者という役
 2 既になされているからよいという話
2 α:意識・理性…
 1 α:意識・理性…
 2 それは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない
 3 それは人の生命の特別を言わない
 4 ただそれが大切だと言っているがその理由は不明である
3 関係から
 1 〈誰か〉への呼びかけ
 2 関係主義の困難
 3 かつて親などというものはなかったかのように
4 別の境界β:世界・内部
 1 世界・内部
 2 人間/動物
 3 復唱

Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2016 On Private Property, English Version, Kyoto Books
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※

・第2版・補章1
□ごく単純な基本・確かに不確かな境界――補章・1
1 単純な批判と基本的な位置
 1 いたって単純なことが書いてある
 2 根拠?
2 人に纏わる境界
 1 位置
 2 殺生について
 3 人間の特別扱いについて
 4 始まりについて

◆Regan, Tom 2003 Animal Rights, Human Wrongs : An Introduction to Moral Philosophy, Rowman & Littlefield Publishers=20220510 井上太一訳,『動物の権利・人間の不正――道徳哲学入門』,緑風出版,240p. ISBN-10:4846122069 ISBN-13:978-4846122065 [amazon][kinokuniya]

 「種差別
 ロールズはこの批判に答えないが、哲学者のカール・コーエンは答える。種差別主義者を自認する(「かつそのことを誇りにする」)コーエンは、人間の苦しみは動物たちの同様の苦しみよりも重要であり、それは人間が人間だからだと考える。コーエンいわく、「人間の民族集団には道徳に関係する違いがない」のに対し、人間と他の動物のあいだには「道徳に関係する大きな違いがある」。特に、人間は「道徳的な自律性を持つ」が他の動物はそうではなく、私たちは道徳的な選択を行ってそれに道徳的責任を負うが、他の動物は違う。
 この種差別擁護は全く擁護にならない。ここでは、かなりの割合を占める人間集団(例えば生後数年の子供など)が道徳的な自律性を持たないという事実が都合よく看過されている。が、そればかりでなく、道徳的な自律性はそもそも当面の問題に関わらない(ちなみに同じことはロールズの「正義の感覚」にもいえる)。一つ例を示せば理由が分かるだろう。
 ある人物が、ジャックはジルよりも賢い、なぜならジャックはシラキュースに住み、ジルはサンフランシスコに住んでいるからだ、と言ったとしよう。二人の住んでいる場所は確かに違う。そして人々の住んでいる場所は時に意味のある勘案事項となる(例えば人口調査を行なう時や税金を取る時など)。しかし住んでいる場所の違いが賢さの違いと論理的に繋がらないことは誰にでも分かるだ1ろう。これに異を唱えるのは関連性の誤謬といって、初等論理学の授業を受けた人にはおなじみの△093 誤りである。
 種差別主義者が、トートー〔動物でも人間でもよい〕の苦しみはドロシーの同等の苦しみよりも重要ではない、なぜならドロシーは道徳的な自律性を持ち、トートーは持たないからだ、あるいは、ドロシーは正義の感覚を持ち、トートーは持たないからだ、と論じれば、同じことになる。ジャックはジルよりも賢いか、が問題である場合、ジャックとジルは違う町に住んでいる、と言われても、どちらがどうと判断する有意味な根拠を得たことにはならない。同じく、トートーの痛みはド、どちらがどうと判断する有意味な根拠を得たことにはならない。同じく、トートーの痛みはドシーのそれと同等の重要さを持つか、が問題である場合、ドロシーは道徳的な自律性を持ちトートーは持たない、あるいは、ドロシーは正義の感覚を持ちトートーは持たない、と言われても。どらがどうと判断する有意味な根拠を得たことにほならない。
 こうしたことが有意味な根拠にならないのは、道徳的な自律性の能力なり何なりが、人間と他の動物の利益に関する道徳思考に全く関わらないからではない。時にそれは意味を持つ。もしもジャックとジルがこの能力を持つなら、両名はみずからの良心にしたがって自由に行動できることを利益とするだろう(が、トートーは違う)。その意味で、ジャックおよびジルとトートーとの違いは,確かに道徳に関わる。しかし道徳的自律性が一種の利益を評価・考量するに当たって道徳に関わるしても、それが一切の利益を評価・考量するに当たって道徳に関わるとはいえない。そしてこの乙ても、それが一切の利益を評価・考量するに当たって道徳に関わるとはいえない。そしてこの能力が関わらない利益の一つに、痛みの回避によるそれがある。論理的にみて、トートーが道徳的自律性を持たないとの理由でトートーの痛みを軽んじるのは、ジルがシラキュースに佳んでいないない△094 との理由でジルの知性を軽んじることと完全に重なる。
 したがって問題は、種差別的な判断を擁護できる有意味な根拠を示せるか、である。すなわち、人間の痛みと動物の痛みは、種以外の面で同等だつたとしても(これは同等な快楽・便益・被害・利益どにも当てはまるが)、常に人間の側が重要となるよう道徳的に評価すべきだと、正当な理由にもとづいて言うことができるのか。この問題に対して、ロールズもコーエンも論理的に有意味な回答を示せてはいない(その点は他のあらゆる哲学者も同様である)。人間の利益は人間の利益なのだから、他の動物の利益よりも重要である、とする判断への固執は理性的に擁護できない。種差別は道徳的偏見である。そして(コーエンが逆の確信を抱いていようと)それは不正であって正当ではない。」(Regan[2003=2022:93-95])

◆Pollan, Michael 2006 The Omnivore's Dilemma, Penguin Books, 450p.=20091105 ラッセル秀子訳,『雑食動物のジレンマ――ある4つの食事の自然史 (上・下)』,東洋経済新報社,302+302p.

 「仲間に特別な配慮をするのは当然なことではないか。
 あなたが種差別主義者なら当然なのだろうというのが、擁護派の答えだ。それはそう遠くない昔、多くの白人が自分たちの仲間である白人だけの面倒を見ようといっていたのと同じことなのだ、と。しかし私は、マージナルケースの人権を守ることには、論理的な理由があるのだと反駁する。彼らを道徳的な共同体の一員にしたいと考えるのは、私たちもかつてマージナルケースだったからであり、再びそうなる可能性もあるからだ。さらに、彼らには父親や母親、娘や息子がる。それは、彼らの幸福に対する私たちの利益を、最も利口な猿の幸福に対する利益よりも六きいものにするのだ。
 シンガーのような功利主義者なら、家族親戚への気持ちは人間の道徳計算に何らかの意味を持っていることに同意するだろう。しかし、利益への平等な配慮という原則は、苦痛を伴う医学実験を重度の精神障害の孤児に行うのか、それとも正常な猿に行うのかという選択肢において、孤児の方を選べと要求するのだ。それはなぜか。猿の方が、苦痛を感じる能力に優れているからだ。」([2006=2009:121])

◆Jordan, Bertrand 2008 L'Humanité au pluriel: La génétique et la question des races,Le Seuil=201303 林 昌宏訳/山本 敏充監修,『人種は存在しない――人種問題と遺伝学』,中央公論新社

◆伊勢田 哲治 2008 『動物からの倫理学入門』,名古屋大学出版会,364p.

 「この状況が一変するのが1970年代後半である。倫理学者のピーター・シンガーが1973年に『動物・人・道徳』という本の書評を『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』という有名な書評紙に発表し、さらにそこで展開した考えを1975年に『動物の解放』という本にまとめた。これらの著作の特徴は、動実験施設や工場畜産と呼ばれる現代の畜産のやりかたにおいてとれだけ動物が苦しめられているかを細かく描写した上に、動物の扱いを考える上での枠組みと、「種差別」(speciecism)という概念を紹介したことであつた4)。「種差別」という言葉は「人種差別」(racism)や「性差別」(sexism)という言葉と同じやりかたで作られており、種を理由とする差別が人種や性別を理由とする差別と同くらい無根拠なものだというメッセージを秘めている。こうしたアナロジーは60年代に公民権運動やウーマン・リブ運動を経験してきた世代に訴えかけるものがあったと思われ、シンガーの著作をきっかけとして本格的な動物の権利運動団体が世界各国(特に英語圏の諸国)に作られていった。シンガー自身は功札義をべースとしているために動物の権利という言葉をほとんど使っていない(このつながりについては後で説明する)。しかし面白いことに、シンガーに影響うけたはずの人々はむしろ「動物の解 4)正確に言うと、「種差別」そのものはイギリスの動物愛護活動家リチャード・ライダーの造語だが、有名にしたのがシンガーであったためにしばしばシンガーが造語したと思われている。」([2008:18])

◆Lestel, Dominique 2011 Apologie du carnivore, Fayard ISBN-10:4865282793 ISBN-13:978-4865282795=20200630 大辻都訳『肉食の哲学』,左右社,172p. ISBN-10:2213655820 ISBN-13:978-2213655826 2200+ [amazon][kinokuniya]

 「多くのベジタリアンは、動物を殺さない意志を正当化するのに反=種差別の主張をふりかざす。反=種差別主義者にとって、彼ら自身の種、すなわちヒトを別種の生物の犠牲のもとに優遇するのは受け容れがたいものだ。種差別という語は一九七〇年、英国のリチャード・ライターが導入し、一九七五年、オーストラリアのピーター・シンガーにより再度取り上げられ、人種差別という語と重なりながら練り上げられてきた。だが種差別と人種差別は同じ意味をもっているのか? そこには疑問の余地がある。またカニバリズムは動物には稀であり、大型の肉食動物には存在しない。豹が同類を食うのを拒むからといって種差別主義者と言えろうか? そしてもし栄養を摂るのにヒト以外の動物を殺すことに同意するとしたら、ヒトは種差別主義者でありうるのだろうか? あるいはより正確に言えば、ヒトは豹よりも種差別主義者でありうるのだろうか? 他の種より優位に立とうとは考えず、自身を動物コミュニティのひとりだと認識している私からすると、あらゆる捕食動物と同じ行動を受け容れることが、唯一真の反=種差別的位置を築くことに繋がるように思える。つまりある種の種差別のかたち――「他△052 の動物がそうであるように種差別主義者である」ことは、逆説的にも種差別主義者にならない唯一の方法なのだ。」(Lestel[2011=2020:52-53])


REV:20160509, 20220218
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