HOME >

犠牲




◆小泉 義之 20060410 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756  [boople][amazon] ※,

「私も、主体の哲学に抗して、主体の哲学は別にして、献身の構造には肯定すべきものがあると考えている。ただし、それが可能であるとして、また、それが可能であるのを願いながら、献身の構造から生命の犠牲を引き算すべきだと考えているのである。」(p.141)

「加療と死の贈与以外に、善をなす仕方がないと決まったわけではない。脳死状態・植物状態・末期状態が、そのままで意味を持たないと決まったわけでもない。とはいえ、犠牲の構造において死ぬことに意味を見出すことは、死まで及ぶ安心立命の幻想を与えるので、必ずしも悪いことではないと言えるかもしれない。しかし、犠牲の構造は、死へ向かうこと、死なないで生きていることを無意味と決め付け、あっさりと、ある種の人<0152<間を死へと廃棄してしまう。その残酷な過程は、様々な幻想や言動によって駆り立てられている。」(pp.152-153)

◆立岩 真也 2000 『弱くある自由へ』p.49)

「★19 迷惑をかけないことは、翻って他者を尊重することでもあると言いうる。だから、これは「自己犠牲」という社会が美徳としているものを否定する行ないだと言えるかもしれない。犠牲になることはたぶんうるわしいことである。ただ言えるのは、犠牲にさせることは、犠牲を肯定するその価値自体を裏切ることでもあるということである。犠牲を教えた者は生き残るだろう。ならば、犠牲になることを教えてはならない。少なくともここで犠牲となるとは、いずれかが倒れるという状況ではないのに、少なくともそのような現実を構築することが不可能でないのにもかかわらず、私達にとって好都合(でしかない)こと、このことを教えるべきだということである。〔cf.本書第5章注4・195頁〕」 (立岩『弱くある自由へ』p.49)

◆立岩 真也 2003/06/08 「ただいきるだけではいけないはよくない(下)」
 『中日新聞』2003-06-08:06/『東京新聞』2003-07-22

 「犠牲という行いにも同じことが言える。誰かのために犠牲になることは立派なことだ。だが、その人に犠牲になることを教えるのは、その人の存在を否定することになり、その価値自体を裏切る。そして犠牲になることを教える側はそのまま居残るのだから、ずいぶん都合のよいことだ。
 だから、正しさ、美しさの語られ方には注意深くならざるをえない。実際に何が何より大切にされているのか。」

◆立岩 真也 2006/02/05 「他者を思う自然で私の一存の死・3」,『思想』982(2006-02):096-122 目次・文献表 [了:20060106]

 「一つ、このたびは主題的に論ずることをしなかったが、犠牲=利他という契機があると述べた。実際、安楽死・尊厳死は利他的な行ないとしてなされる。利他的な行ないは肯定すればよい。しかし、他人のために、次世代のために死ぬというその善意を受け取り肯定しながら、その人の言うことをそのままに受けて、その通りに行なってもらってはならないということである。その心意気を賞賛しながら、あなたはそんなことはしなくてよい、それはあなたにはさせない、と応じるのである。おそらく多くの社会にあって、こうしたやりとりの方がまっとうなやりとりだとされているはずである。そのままに相手の言うことを受け取り、相手を死なせることはさせないはずである。他人のために自らの命を投げ出したりした人におおいに感動しながら、しかし、それをここですることはない、と言えばよいのだ。あなたが死なければならないほどには誰も困ってはいない、すくなくともそれほど困らないようにこの社会をやっていくことはできると言えばよいのである。」


UP:20060413
TOP HOME (http://www.arsvi.com)