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社会化



■2009〜

◆市野川容孝・杉田俊介・堀田 義太郎 20090201 「鼎談:ケアの社会化の此/彼岸――障害者と介助者の敵対的自立に向けて」,『現代思想』37-2(2008-2): 119-179

◆天田城介・立岩真也・大谷いづみ・小泉義之・堀田義太郎 2009/02/25 「生存の臨界・V」(座談会),『生存学』1:236-264,

 「小泉:そう思ってます。以前にも、もちろん必要があって、それなりにそこそこ満たされたり無視されたりしてきた。私事であったし、それなりの社会的制度も商品化もあった。それが、ここに来て、急に必要が昂じてきたから社会化が、などというお話を素朴に受け売りすることなんてできないでしょ。どうして、これほど孤独死が恐れられるようになってきたのか程度のことすら問われていないんですから、孤独死でもいいじゃん、とでも言ってやらないとどうしようもない。[…]
 立岩:小泉さんのさっきの提起は、例によって、他の人はあまりしない提起なので、僕は面白いなと思っているわけですが、もうすこし言ってほしいんだよね。でないと、いい思いつきか、そうでないか、わからない。  一つに、ケアなどと呼ばれているものを、もっと即物的にというか、政治経済の問題として見るべきだということであれば、それについては僕は賛成です。そういう仕事が足りない。それはその通りだと思う。  そしてその上で、たいていの人が、足りない足りないと言っている状況において、「過剰」という線を入れてみようということなのかな。医療については過剰がずいぶん言われてきた。ただ介護についてはそれは言われないですよね。それを言おうということなのだろうか。」

堀田 義太郎 20090225 「介護の社会化と公共性の周辺化」,『生存学』vol. 1: 265-278

川口 有美子 2009/03/14-15 「ALS 家族介護の限界から介護の社会化へ」 第13回日本在宅ケア学会学術集会抄録 於:大阪府立大学中百舌鳥キャンパス

◆小泉 義之 2009/08/05 「余剰と余白の生政治」,『思想』1024(2009-8):20-37

安部 彰堀田 義太郎 編 2010/02/26 『ケアと/の倫理』,立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告11, 258p. ISSN 1882-6539 ※
小泉 義之・安部 彰・堀田 義太郎 2010/02/26 「ケアと生存の哲学」(鼎談),安部・堀田編[]

 「安部:[…]まずは、『思想』論文を手がかりに僕からいくつか先生に質問させていただくことからはじめさせてください。ちなみにその前に一言いいそえておけば、この論文は『生存学』第一号(生活書院、2009年)で、小泉先生が天田(城介)先生に問いかけ、その後しばらく――いまも?――天田先生がわりとオブセッシブにその応答にとりつかれていたように僕には思われる問い、すなわち「どうして介護は社会化されてきたのか?」(同p246)という問いにたいする小泉先生じしんによるレスとしても読むことができます。」

 「小泉:[…]まず、介護の社会化ということについて。ここ10年以上、みながこぞって肯定的に語ってきているんですが、じゃあその社会化っていうのは何なのかということについては誰も何も考えてないわけですよ。これはあきれるね。唖然とする。研究者は、全く放り投げている。それもあって、「いったい何をやってるんだ、社会科学関係者は」と、なんどか吹き上げて挑発してきたわけです。
 社会的なものが人々の平等な生の保障という価値理念に重なるというお話ですが、何それって感じですね。そんな念を込めるのは勝手ですが、そんなことじゃ、過去も現在も分析できないでしょ。社会化についてなら、ざっと振り返っても、19世紀半ばくらいから考え直さなければならないし、20世紀前半の社会化といえば、主として石炭とか電気とか水力とか、つまりエネルギー部門にかかわっていた。社会事業や社会保障にしても、よく知られた変遷がある。そして、社会化と国有化の関係、国家社会主義、社会民主主義の評価をめぐってホットな議論があった。その議論は、現在にもつながっている。あと、civicやbourgeoisやcivil society、社会的連帯、生政治の概念史ひとつとったって、脳天気に特定の価値理念に還元するわけにはいかないのではありませんか?
 私としては、通例の社会化論の筋とは多少違うことを考えています。20世紀後半の医療の社会化は、20世紀前半からの社会化の筋とは決定的に違うと思っているんです。産業技術の中でも医療技術がきわめて特殊であるという言い方をしてもいいし、医療が社会福祉や公事に繰り込まれるのが異例であるという言い方をしてもいいのですが、そこはともかく、第二次世界大戦前の「上から」と「下から」の医療の社会化が、とりわけべヴァレッジ報告に象徴されるようなかたちで医療の国家化と絡んで戦後に進行した。そこを見ずして、現在の社会化論は成り立たないと思っています。その上で、医療の社会化はいま崩壊しつつあって、それに代わるものとして介護の社会化が出てきた、といった大まかな図式で私は見ている。
 社会化について考えるなら、私ならそんな補助線を引くわけですが、それで言いたいのは、じゃあみなさんは何か補助線を引いているんですかってことです。口移しや書き移しのゲームをしているとしか見えない。社会的なものについてだって、サッチャーが「社会的なるものなんてない」と、もう圧倒的な強度に満ちた捨て台詞をはいたわけですが、これにたいしても誰かまともな答えを返したでしょうか。」
 […]介護の社会化と言っておきさえすれば、合意や正統性を調達できると思っている空気、これが気味わるいってことです。社会化は無条件に論証抜きによいことだと思われている。家事の社会化についても同じ。でも、そうなのでしょうか。本当に、そうなのでしょうか。そんな問いを立てないにしても、まずは社会化ということをどう認識しているのかを問いたい。少なくとも私は、口移しや書き移し以外のものを見たことがありません。もちろん、こんなことを言うからには、私自身は、社会的なるものについて違和感をもってますよ。何かよくない、何所かうまくない、という感じをもってる。
安部:それは国家っていうのが何かよくない感じがするっていうのとはまた違うんですよね?
小泉:違いますね。決定的に違う。国家や行政や統治に対する価値評価をきちんと言わなければならないんでしょうが、単なる感覚で言わせていただくなら、社会的なるものがいちばん嫌いですね。これはそれを語る奴が嫌いだっていうのと重なっているかもしれないけれど(笑)。国家や国家的なるものの方がまだしも信が置ける気がする。なんか変な言い方ですけど。」

「小泉:ネグリが社会的労働をなんとか価値づけようとしているところですが、これは現在の介護の社会化論者、ケアの社会化論者に共通したやり方です。そこはまず確認しておきたい。つまり、ケアは苦痛に満ちているけれども、実ははこういう価値を生産していると語り出す。その価値としていろんなものがあげられるわけです。愛や優しさやコミュニケーションや人間関係を生産しているというわけです。では、なぜそんなことをやりたがっているのか。どうして、そんなにまでしてケアや介護を価値づけて水ぶくれさせたいのか。現状では、介護(ケア)にはそういう価値がある、だから資金や権益をちょうだいっていう話にしたいからです。道徳や倫理の語りでもって政治経済的な分け前を得るためです。誰だってわかってやっているわけですが、愛や優しさのために語っているのじゃない。商人の正直さと同じで、それぞれの自己保身のために語っている。仕分けに抵抗する研究者と同じです(笑)。
 問題は次のステップです。そのことでもって、つまりケアや介護の「社会的」価値を国家に向かって言い立てることを通して、今度は、国家の力を借りて、その価値が価格・貨幣・資本に転化・転形するという構図になっているわけです。ところが、ネグリは、マルクス主義者を名乗るにもかかわらず、国家による転形問題のこの解決方式に全く気づいていない。むしろ、その枠内で、世の人々と同じように社会的価値の生産を言祝いでいるのです。だから、ネグリの社会的労働論はとりたてて革命的でもなんでもない。ネグリもネグリ派も誤認しているとしか言いようがない。まあ、これは小さな範囲での話ですが、ネグリですら、現在のモラル・コンセンサスに絡めとられていると指摘したかったわけです。それくらい、社会化のコンセンサスは強力ですね。」

 *続きは『ケアと/の倫理』をどうぞ。

天田城介  2010/03/31 「〈老い〉をめぐる政策と歴史」,『福祉社会学研究』7(福祉社会学会,発売:東信堂)

◆立岩 真也 2010/03/31 「この時代を見立てること」,『福祉社会学研究』7:7-23(福祉社会学会,発売:東信堂)

 「当日に報告された、また今回の論文に記されている歴史上の様々を繰り返し<0015<て紹介する必要はここではないだろう。そこには一つ、ある世代以降であれば誰もが読んできたはずのフーコーの著作への言及がある。加えると――論文の文献表の中には座談会(天田他 2009)の司会としてしか出てこないのだが――我々のもう一人の同僚でもある小泉義之がいて、その座談会での小泉の挑発に応じているところがあるようにも思える(cf.小泉 2009)――この論文の主題にひとまず対応する拙稿として立岩(2003)。
 「世話」だとか「ケア」だとかが作り出されている、もっと言えば捏造されている、もちろん同時に、その「対象」となる人たちが、その人たちの性質・性格が作り出されているという直感のようなものがある。そうした自らにもある感覚をどのように評定したらよいのか、どのようにしてそれはこの社会と関わっているのか、それをどう考えるのか。天田はそうした作業に着手しているのだろうと思う。(もちろん、ここで既に、基本的に「過少」を言う後藤と、その方向が分かれているように見える。そしてこれもまた、私が、今回、この二人に依頼した理由でもある。)
 「過剰」という把握は、「福祉社会学」にはあまりないにしても例えば「医療社会学」にはよくある。なぜその「傾向」が分かれるのか。まず、医療が身体に直接的に介入し、ときに侵害するのに対して、「福祉サービス」のすくなくともある部分かはさほどの直接的な害が少ないということもあるかもしれない。また、誰が担っているのかということがある。医療は医者や看護師など医療関係者がやっていて、社会学者はその仕事は普通はできないし、しない。学会の実態としては、医療等のや実務家や研究者も相当数いるのだが、免許を持たない人は外側にいざるをえず、その分、外側から好きなことを言う。「批判」に精を出そうとする。あるいは最初からそういう「問題意識」でやってくる。それに対して、福祉社会学者は、政策を主題にする人であれ、より現場に近いところを調査研究するであれ――私もそうだが――福祉が大切だと思ってそこにいる。基本的には福祉に対する共感があって研究をしているのだと思う。
 ただこの「福祉」の世界でも、やはり余計なことは多々なされるのであり、それはそれとして問題にされるべきであり、また問題とされてきた。私たちの最初の共著書である安積他(1990, 1995)にある基本的な音調もそんなものである。ただ、では例えば介助がいらないかと言えばそんなことはない。むしろ<0016<それを全力を傾けて求めてきた歴史・現実がその本に描かれている。必要を否定しているのではなく、その場合の不要な干渉等々を否定し批判しているということになる。そして、(医療に批判的な)医療社会学者も、よほどの人でない限りは、医療全般を否定しているのでないと言うだろう。
 それでいったん落着するようには思える。しかし実際の問題はむしろそこから始まる。何が過剰であり、何が過少であるのか、それはどうしてか、どのような機制のもとにあるのか。それを私は、ごく平凡に社会(科)学的に事態を見たらよいと思った。それでどう見えたかは、天田が要領よくまとめてくれた本の一部にも記してある。またまだ本にはなっていない幾つかの文章で述べたことでもある。次のようなことを言ってきた。」




◆立岩 真也 1995/05/15 1995/05/15「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」,安積他『生の技法 増補改訂版』第8章,pp.227-265

◆立岩 真也 1996/02/29 「無償/有償であることの意味」,千葉大学文学部社会学研究室『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書),千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会,第7章追記,pp.158-160 12枚

市野川 容孝 2000 「ケアの社会化をめぐって」(インタヴュー),『現代思想』28-4(2000-3,特集:介護――福祉国家のゆくえ):114-125

堀田 義太郎 20070810 「「ケアの社会化」を再考する――有償化/専業化の可能性と限界」
 研究会: 「公共」におけるケアについて考える

堀田 義太郎 20071013-14 「「ケアの社会化」を再考する――有償化=分業化の可能性と限界」
 社会思想史学会大会報告 於:立命館大学


UP:20100512 REV:
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