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愛 love/帰属 belonging/承認 recognition


 *以下しばらくの立岩の文章からの引用は、「承認の政治」とか「承認と再分配のパラドックス」といった議論において語られる「承認」の語られ方とは異なります。ただ、その違いのようなことも含めて考えてみるのもよいかもしれません。

cf. 立岩 真也 200312- 「再分配と承認のジレンマ?――アイリス・ヤングの勉強会のためのメモ・2」
 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2003079.htm

◆立岩 真也 2000 『弱くある自由へ』,青土社

◇第1章「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」の最後の部分

 「もっと積極的には、その人が条件をつけずに肯定されること、少なくとも許容されること、ということになるだろうか。けれど、それがどのような意味で可能なのか、私にはよくわからない。少なくとも、肯定し続けることができるようには思えない。ただ、肯定されることへの欲望もまた一つの症状であると言えるかもしれない。否定が肯定への衝動を形作っているのだとすれば、ともかく肯定される時、肯定への衝動もまた終わっている。その意味で、肯定の過程とは、構築されるとともに解体されていくような過程であるのかもしれない。☆23」
 「☆23 芹沢[1994]に書かれていることについて考えてみたいと思う。〔本書第7章5節に述べることが関わる。〕」

芹沢 俊介  1994 『現代<子ども>暴力論 新版』,春秋社

◇第7章5節「口を挟むこと、迎えること、他」の2「承認」

 「手段でよいものは手段でよいのだと言った。しかしこのことはそれだけがあればよいことを意味しない。求められるものはほかにもあって、しかもそれは受け取ることも与えることもそう簡単でなさそうなのだ。
 そのある部分が承認といった言葉で呼ばれるのだろうか。この言葉は、近ごろ「属性」や「帰属」に関わって使われることが多いかもしれない。様々な人にある様々な属性をどう捉えるか、帰属という事態をどう考えるか、またそれと存在との関わりをどう考えるかという重要な主題は別の機会に残す☆63。ただ、属性を承認してほしいという時にも、その属性を有している私を認めてほしい、あるいはそれが私にとって大切であるということを大切にしてほしいと言い換えられることはあるだろう。介助を要する私を認めてほしいという時にも、そう捉えることはできると思う。ここではまずこの水準、存在の承認という水準を考える。
 一方に、ただ単にこれからはそういうことが大切ですとか、「キュア」から「ケア」への時代なのですといったことを言う人がいる。もう一方、もう少し普通に考える人は、そのことの困難を考えてしまう。それはたしかに大切なものではあるのだろう。だが問題はその先にある。それは困難なことではないか。とくに福祉国家においては、政策の中では、それは困難ではないか。

 「政治におけるユートピア的伝統は、諸々のニーズは相互に矛盾し合うものではないと主張するだけではなく、おそらく、社会的な集合財によって充足されえないような人間のニーズなどおよそ存在しないとも主張するだろう。本書の目的のひとつは、このことが原理上、真であるかどうかを探究することなのだ。たとえば愛情は、人間のあらゆるニーズのなかでも最もやみがたく執拗なニーズである。けれどもわたしたちは、誰かを強制して無理やりに自分を愛させることなどできはしない。要するに、わたしたちは愛情を人権として要求することなどできないのだ。」(Ignatieff[1984=1999:29])

 誰だって考えつきそうなことではある。というより実は多くの人が日頃思っていることなのだと思う。しかしそんなことがなかなか論じられない☆64。それを「リア王」だとか(たしかに言われてみれば、あれはそういう物語ではある)を持ち出して真面目に、いくらかはおおぎょうに論じられると、少し驚く。
 このような問いを出した時には問いは既に行き詰まっているとも言える。少しまじめな人は不可能だと思う。誰もが確実に受け入れられることが可能だという答えはなんだか調子がよすぎるように思える。だが、ただ不可能であると言ってすますこともない。単純な悲観もまた少し安直であるように思う。
 たしかにいつも、基底的なところから、人を承認し、肯定すること、肯定し続けることなどできるようには思われない。だがまず、一方での承認が求められるその強度について。肯定とは、そうたくさん常に供給されていないとならないというものでもないのではないか。肯定されるとかされないとか考えたことのない人もいくらもいる。こう言うと、その人たちはすでに与えられた幸福な人たちだから気がつかないのだと返されるかもしれないのだが、だとしても、その肯定は気づかれないほどのものであったのだとは言えよう。
 そして否定がある時に肯定されることへの希求は強くなると考えることができる。その否定はその人の存在の絶対的な拒絶・否定であることもあるだろうし、また、なにかしらの尺度によって評価される時に現われるものであることもあるだろうし、また、そのような尺度によってしか評価されないこと自体によることもあるだろう。このような時に、無根拠に肯定されること、承認されることが望まれる。そしてともかく肯定された時には、肯定への衝動もまた終わっている。だから、肯定とは構築されるとともに解体されていく過程であるのかもしれず、常に供給されていなければならないというようなものではないらしい。
 そしてこのことは、存在を肯定することというより、何が存在を否定しているのかが重要であることを示している。肯定はいつも要請されているのではなく、否定されるその度合いに応じて求められるものなのだろう。だから肯定は否定を否定することであり、肯定は引き算の過程である☆65。
 次にもう一方の側、承認する側について。誰かを気にいることや他の誰かは気にいらないことはなくならないだろう。ただ、それと少し異なる位置にある肯定、具体的でありながら、しかし、好悪といったものとは異なる承認の位相もまたあるのだろうと思う。無規定な存在としての他者、属性をもたない他者、そんな幽霊のようなものが肯定されると言いたのではない。もちろん他者は常に、いつまでも具体的な存在であるのだが、しかし、私の側の恣意に関わらないような承認、そういうことがあるだろうと言うのである。他人はまずは好悪の対象であって、それが他人と生きていることのほとんどすべてであったりするのではあるが、しかしそうした好悪を含めた具体的な接触を通して、その人は私とは別の存在であることを知っており、そのことが肯定されるべきことであると思い、そして好悪は私の側にあるものであって、その人が私と別の存在であることはそれとはまた違うところにあると思い、その時にはその一人一人の、その時々の好悪を控えることがよいのだと思うことはある。好きではないあるいは憎悪したり軽蔑しているけれども認めてしまうといった位相、水準があるだろうということである。本当にそう思っているのか、わからないといえばわからないのだが、しかしどこかでそうであったらよいとは思ってはいて、そのように思うことの中に既に承認は訪れている。そのような、作為と非作為との間に現われるようなものとしてあるのだと思う。
 おそらく権利は、このように具体的・個別的でありながら、その具体性のうちに普遍性へと向かう契機を含んでいる。[…]
 恣意はなくならない。個別性もなくならない。しかしそれに近いがそれと同じではないものとしてここに述べた承認はある。普遍は予め与えられていないが、しかしその方向に行こうとする契機はある。例えば「距離」について。ある人との距離の近さは、その人の存在を感じる時の大きな要因ではあるだろう。しかし、近いところにいる人を知っている時に、すでに、遠くにいる人たちもまた一人一人いることを知っており、その一人一人に関係する一人一人がいることをまったく現実的に想起することは可能なのである。
 少なくとも基底的なものとしての承認は、このように普遍性に向かう。そしてそれは、その人の個々のあり方や行為の全部を認めるものではない。肯定や承認といった言葉がいかにもあやしいのはそこに無理があるからだ。例えばある種のカウンセリングはなにもかも受け入れるという。あるいは聴くことに徹するという。しかしすべてを肯定すること、受け入れることなどできないし、するべきでもない。むしろ抗弁したり、批判したり、軽蔑したりすればよいのだし、それを控えるのは礼を失しているのかもしれない。あらかじめその場が区画され他から隔離された特別な場があって、あらかじめの了解と規則があるから、その特別な関係が成立しうる。存在が傷んだ時に、肯定されることが求められ、その人にある様々なものをそのまま受け止めたりすることが求められたりしてしまう。そこでは肯定が、それだけ強い全面的なものとして求められることにもなる。そういう場があってならないと言うのではない。たしかに求められ需要があるからそれは存在している。ただ、そうした場は、存在の承認の失敗を繕うものとして必要とされるのではないか。そして、特別の場にあるから機能し、局所にあるから存在しうるものをそのまま社会の全域にもってくるなら、それは不当な拡張である。そこでは、かつて、例えば子どもの時にあったとされる(あるべきだったとされる)包容、肯定が祀り上げられることにもなる。「私」が探し求められたことがしばらく前の時代にあったとして、今度は私を承認してくれる「他者」が探し求められ、例えばその役を十分に果たさなかったと名指される親がその責を負うことになる。それは、有責者として名指される側に、自然に湧出するとされるものを、求め、意志させ、さらにその不自然さを感じさせるという事態をもたらすものでもある。繰り返すが、存在の承認が位置する位置が持ち上げられすぎていないかと考えてみる必要がある☆67。
 さて、今記したこと、それはそれとしても、求められているものは、こんな一般的なものではなくて、中身のないものではなくて、もっと具体的で個別的なもの、手ごたえのあるものだと言われるだろう。「たとえば愛情は」と語る先の引用もそのような場面を見ているだろう。それで次項で考える。ただここで述べたことにしても、まず個別の人の個別の生活においてはまったく具体的なこととして実現されるほかなく、その限りでは今述べたこともまったく抽象的なことではない。社会は存在を否定することがあるのだが、その否定とは、例えば、必要な量の介助を供給しないこと、善意や人間関係が絡む不安定で恣意的な関係の中におくこと、これら自体のことであり、存在を承認するとはまずそれらのことをしないことである。」

◆立岩 真也 2003/12/** 「書評:芹沢俊介『「新しい家族」のつくりかた』」
 『東京新聞』2003-12-

 「ただその反対側に「私は子どもを愛せない親だ」と自らを責める人がいる。追い込まれかえって子どもへの攻撃に向かう人がいる。その人には受け止めるのはそう難しいことでないと言いたいのだが、どう言えばよいだろう。否定しないことと別のこと、それ以上のものとしての肯定は必要か。母でなく<母>のであれともかく誰かの強い肯定がないとやっていけない現実が肯定を必要とさせていないか。」

◆立岩 真也 2004 『自由の平等』,岩波書店

 「[…]これは「承認の政治」(Taylor[1994=1998]等)、「差異の政治」(Young[1990]等)と呼ばれたりもする事態に関わり、フェミニストによっても多く論じられている。集団としての規定・同一性の肯定性が主張されるとともに、それが他の範疇の人々の排除やそこで規定される属性に回収されるものでない個人の抑圧につながりうることが問題にもされる。そしてそれに分配の問題が重ねられるという具合になっていて事態はなお複雑なのだが、しかしそれでも私は議論がおおまかすぎると感じる。例えばテイラーが持ち出すケベック州でのフランス語の問題についてどこまでのことが言えるのか、言語は他のものとどこが共通しておりどこが異なるのかを考えるといった仕事を一つずつ積んでいくことが必要だと思う。文献だけいくつかあげる。バトラーとその関連まで含めると膨大だから省く。それでも一部にすぎず、より詳しい情報はHP。Young[1989=1996][1990][1997]、Fraser[1993][1995][1997a][1997b][1998=2001]、Olson ed.[2002]。これらの論、論争に言及する文献に千葉[1995:130ff.]、山森[1998][2000a]、大川[1997-1998][1999:1-7]、Rorty[1999=2002:291-296]、金田[2000:155ff.]、向山[2001:129-143]、挽地[2001][2002]、竹村[2002:288ff.]、等々。またKelly[1998=2002:259-265]、Benhabib[1999=2000]、竹村[2000a]、等々。二〇〇四年にヤングが私の勤務する大学院で集中講義を行うこともあって、いくつかを大学院生と読んだ。何本かの論文の翻訳に論点の解説と考察を付して出版するとよいかもしれない。多文化主義、マイノリティ文化の権利についてはKymlicka[1995=1998]、Kymlicka ed.[1995]、工藤[2000]、西川[2002]、等々。また井上[2003a:171-211]では多文化主義とリベラリズムとの関係が検討されている。[…]」 (立岩[2004:294-295])

◆Ignatieff, Michael 1984 The Needs of Stranger, Chatto and Windus, 1984;Penguin Books, 1994;Vintage
 =19990201  添谷育志・金田耕一訳,『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』,風行社,263+ivp. 2900円

 「政治におけるユートピア的伝統は、諸々のニーズは相互に矛盾し合うものではないと主張するだけではなく、おそらく、社会的な集合財によって充足されえないような人間のニーズなどおよそ存在しないとも主張するだろう。本書の目的のひとつは、このことが原理上、真であるかどうかを探究することなのだ。たとえば愛情は、人間のあらゆるニーズのなかでも最もやみがたく執拗なニーズである。けれどもわたしたちは、誰かを強制して無理やりに自分を愛させることなどできはしない。要するに、わたしたちは愛情を人権として要求することなどできないのだ。ところが、人と人、男と女とのあいだでの疎外が克服されるであろうような社会のビジョン――おそらくこの世に存在する最も根強い政治的ビジョン――は、他者の愛情が請求しさえすれば無償で自分のものになるであろうような、そういう社会を思い描いているのだ。」(訳書p.29)

 「自分の権力について思い違いをしているリアは、まるで自分のニードは娘の愛情に対する法律だと信じ込んでいる。しかし、愛情とは贈与であって責務ではない。愛情が正義に反し恩知らずであるのは、それが命令にしたがって「口には出」されるようなものではないという点なのだ。これこそ、コーディリアが若者らしい独善でもって、そして幾分かは彼女自身の父親の片意地のせいで、かれに聞かせようとする真実なのだ。」(訳書p.57)
 「福祉国家が個人が担うべき家族への責務の遂行に対して与えたインパクトもまた両義的だった。たとえば、以前には家族のメンバーが遂行した介護(ルビ:ケア)機能をソーシャルワーカーの人びとが引き受ける場合、そこには利益と損失の双方が存在する。他人を頼りにしなければ生きていけない個々人は、もしかしたら公共施設においての方がよりよい介護を受けられるだろうし、家族のメンバーたち――とりわけ女性たち――は解放されて労働市場に参入するか、もしくはそれ以外のやり方で自分たちの時間を活用するようになるだろう。だが、公的介護を受けている身内の高齢者で、見舞いに訪れる人もないままに放置されている人びとの数がどれほどいるかを考えてみれば誰にでもわかるように、家族の責務感が損なわれるということもまた真実なのだ。より一般的に言えば、それは「役所の仕事」だと万人が信じるようになれば、見知らぬ他人たちのあいだの共同体の絆はおそらく弱体化することになるだろう。福祉国家が育んだ文化の逆説は、高齢者、病人、障害者の見舞いに訪れるのはソーシャルワーカーやそれに類した人たちだと、誰もが当然のことと決め込むようになった結果として、隣人たちは、ひとしく淋しく暮らしている者たちの世話をすることも自分たちの義務だとはおよそ思いもしなくなったということなのだ。福祉国家はつねに社会的結束と相互責任を強化してきたわけではない。それはさまざまな形の社会的孤立や無関心を促進してもきたのだ。「それは役所の仕事だ(It's the council's job)」という言い方は、新しいタイプの道徳的無関心を指(p.222)し示すものとして たしたちの用語集のなかに入り込んでいる。」(訳書p.222-223)

 「帰属することをめぐる不安は、実は、わたしたちには満たすことが望みえないような期待と相関しているように思われる。」(訳書p.225)

 「わたしたちが個々人としてまた社会として感じる、自由の諸欲求と帰属の諸欲求とのあいだでの葛藤をいかにして調和させるかという問いに対しては、原理上、正解などありはしない。わたしたちはこの問いに対してそれぞれ異なった答えを与えるだろう。そして、支持するに足るどんな政治も、わたしたちが与えるさまざまな答えによって自分自身の人生をかたち作る権利を尊重すべきなのだ。近代性が可能にする帰属は、この人格やあの家族への帰属、人生の特定の時期でこの集落、あの場所に帰属するというように、局所的(ルビ:ローカル)で特定的かつ束の間のものであらざるをえない。ただし、このことはより大規模な対象への献身(ルビ:コミットメント)を排除するものではない。こうした偶然的で局所的な帰属を保障するより広範な枠組みをわたしたちの社会と政治とが提供するならば、そのかぎりでわたしたちは社会と国家に対してより広範な忠誠心を立ち上げることができる。その忠誠心はけっして全身全霊を捧げ尽くすといったものではないだろうし、その帰属はけっして疎外を含まないまじりけなしのものでもありえない。だが、これとは違う純粋な帰属のあり方をあくまでも願望するのは、いかなる分裂もまったく知らない心と完全に調和した精神をもとめるような夢想家たちだけなのだ。」(訳書p.226)

◆東 浩紀 加藤典洋の『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン)に言及して
 「加藤さんは、WTC崩壊の映像を見てアメリカに共感し、『カンダハール』を見てアフガンに共感するわけですが、これこそ広告代理店やCNNが提供するシミュラークルそのものです。[…]惑星大で展開するシミュラークルのネットワークが、現在の「グローバルな共感」なるものを支えている。つまり、私たちの社会は、個人の偶有性を奪い、身近な隣人への共感を縮減させつつも、他方でやたらと大きな共感を調達するよちうに作られている。僕はここでも、二つの層が乖離しているという感じがしています。」(p.80)
 東 浩紀・大澤 真幸 20030430 『自由を考える――9・11以降の現代思想』,日本放送出版協会,NHKブックス0967,262p. ISBN: 4140019670 1071 [amazon] ※


立岩

◆1991「愛について――近代家族論・1」
 『ソシオロゴス』15号、pp.035-052 (1991年7月) 70枚
◆1992「近代家族の境界 ―合意は私達の知っている家族を導かない― 」
 『社会学評論』42-2、pp.30-44、日本社会学会 (1992年10月) 55枚
◆1996「「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する」
 『信州大学医療技術短期大学部紀要』21、pp.115-126(19960229)

◆立岩『私的所有論』第8章から(pp.355-356)

 「例えば、贈与とは、自らによる相手の制御不可能性において初めて成立する行為である。反応は基本的に相手に委ねられている。しかもその他者の反応は、他者自身にとっても操作可能なものでないとされる。それがこの関係の条件になっている。それは最初から、他者による拒否の可能性を孕んでおり、そのことなしには成立しえないような行為である。この関係は、相手を、そして相手の私への関わりを私が制御しないことによって、初めて私の相手に対するあり方が成立しうるような関係である(もちろん私はいくらでもその者を制御したいのだが、それが可能になったとたんその関係の意味は失われる)。ゆえに、この場面で相手に拒絶されたとしても、その拒絶を拒絶することはことの本性上できない。この関係において、その相手のあり方、その相手のあり方の一部をなす相手における私への個別的なあり方を認めないということはありえないのである。
 ここでもAは、ゆえなく、Aの側になんらとがめられるべきことがないのに、Bに受け入れられない可能性がある。例えば理不尽にもAはBに愛されない。これはAにとって十分に不幸なことだ。これは世界に十分な量の不幸を生じさせる。そしてこれも差別だと言いうる。これは悪いことではないか。そう考えたってよい。ではそれは除去されなければならないのか。しかしこれはよい悪いの問題ではない。それが十分な、何によっても正当化されない(AがBに気にいられないことについてAは何の責任もない)不幸を生じさせる、だから悪い、だからそういうことを生じさせないようにしようと思い、そのような恣意的なAのあり方を禁じようとした瞬間に、BのAに対するあり方が消滅してしまうからである。他者がそのような存在であることを認めることは、自らの欲求・利害と離れて他者があることを承認することである。これは基本的な価値としたものである。ゆえに、このような関係の場面において(のみ)、Bに対するAの、Bの個別的なあり方に対する恣意が認められる、というより認めざるをえないことになる。
 だがここに、むしろこういう場所でこそ、排除は起こる。……」

◆2006/08/30『所有と国家のゆくえ』
 稲葉 振一郎・立岩 真也(対談) 日本放送出版協会,NHKブックス1064,ISBN:414091064X 1176 [boople][amazon] ※,

 「補足になりますけれども、最近の、間近の関係性から何かを立てていくとか、親密圏といったことを一生懸命言ってみるとか、あるいは承認っていうことをポジティヴに出していくっていう話はたいへんよくわかる部分がありながら、しかしそういったものと別にあるべきだろう、あることを欲しているという別の側面を見ていないんじゃないか、と思うところがある、というのが補足です*。

* 『自由の平等』の第三章三節1「普遍性・距離」でもそんなことを述べている。また『希望について』に収録された「信について争えることを信じる」に新たに付した註(二五四〜二五五頁)でも、関連する文献をいくつか挙げている。そこに挙げた文章の一つの見出しでもあるが、私たちは、「思いを超えてあるとよいという思いの実在」という位相を忘れたり、軽く見たりすべきでない。なにか具体的なものを共有したりしていることによって仲良くなれることは確かにあるだろう。しかし、そんなことが多々あることとまったく同時に、自分がどのような自分であれ、認められたらよいという感覚もまた、現に、具体的に、存在する。であるのに前者だけを強調するのは間違っている。私がこれまで、「他者」と「私」について述べてきたことは、基本的に、普遍性につながっていく。
 個別の特性や関係を越えてあろうとする思いは、自分がしかじかの特性を有することを認めてほしいとか、あるいは他人がしかじかであるがゆえに好きであったり嫌いであったりすることと同時に存在する。ただ、しばしば人生にとって大切であることは後者の契機であるから、前者において、抽象的・普遍的に私が認められたとしても、ふられた私は少しもうれしくない、なんのなぐさめにもならないというのはその通りである。だから世界から悲しみは決してなくならない。また、二つがあることを言ったとして、両者が並存・両立することを言えるとして、それは普遍的な権利が優先されることを意味しない。
 しかし、これらをみな認めた上でも、やはり依然として、どのようにであっても大丈夫な方がよい、とは言える。それは世の不幸を取り去ることはないが(それが取り去られるのなら、そのときには幸福の相当の部分もまた取り去られることになるだろう)、しかし、なくすことができ、なくすべきでもある不幸は減る。だから、どのようにあっても、という欲望の現実性、強さを知り、それを言うことは意味のないことではない。
 以上は、私の私についての欲望の側から言えることだった。このことを『自由の平等』の第三章二節1「私のために、から届く」で述べた。このことと、他者が自分の範囲にないことの袂とは、どのように同じなのか、あるいは違うのか。このことについては次の補記で。」



◆Rorty[1993=1998]

 「ベイヤーの忠告に従えば、道徳教育者の使命は「なぜ私は道徳的でなければならないのか」という道徳的利己主義者の問いに答えることではなく、「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣を持つ、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という、もっとしばしば発せられる問いに答えることだ、ということがわかるでしょう。後者の問いに対する伝統的な答えは、「親戚関係とか習慣とかいうものは道徳的に見て的はずれであり、同じ種の一員であるという認識から生ずる義務には関係ないことだから」というものでした。このような答えは説得力を持ったためしがありません。なぜなら、それは質問の論点を巧みにかわしているからです。単に同じ種の一員であるということが、本当により近しい親戚関係の代用になるのか、という疑問です。そのうえこの答えはニーチェの人の虚をつく反論に対してまったく無防御なのです。そのような普遍主義的な考えは奴隷の心にしか浮かばない、とニーチェ(p.163)は冷笑するでしょう。または、自分たちの自尊心と生活の糧が、神聖な、議論の余地のない、異論を受け付けないパラドックスを他人に受け入れさせることにかかっているインテリや聖職者の心をよぎるかもしれないと。
 より妥当な答え方は、次のように始まる長い、悲しい、感情を揺さぶる種類の物語を語ることです。すなわち「家から遠く離れて、見知らぬ人のあいだにいる彼女の立場になってみると、現状はこのようなものなのだから」あるいは「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだから」あるいは「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから。」」 (Rorty[1993=1998:163-164])

*Rorty, R. 1993 in Stephen Shute and Susan Hurley eds. On Human Rights: The Oxford Amnesty Lectures 1993, Basic Books. =1998 「人権、理性、感情」、『人権について――オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』、みすず書房、pp.137-165


■受容

◆田島 明子 200407- 「「障害受容」に関するファイル」
 http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/syougaizyuyou.htm
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/ta01.htm
 cf.障害についての言説


 
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■文献?

Fraser, Nancy 1993 "Recognition or Redistribution? : A Critical Reading of Iris Young's Justice and the Politics of Difference," Journal of Political Philosophy 3-2:166-180 <295>
◆―――――  1995 "From Redistribution to Recognition? Dilemmas of Justice in a 'Postsocialist' Age," New Left Review 212:68-93=2001 原田真美 訳「再分配から承認まで?――ポスト社会主義時代における公正のジレンマ」,『アソシエ』5:103-135(加筆修正の上Fraser[1997]に収録) <295>
◆―――――  1997a Justice Interruptus: Critical Reflections on the "Postsocialist" Condition, Routledge <295>
◆―――――  1997b "A Rejoinder to Iris Young", New Left Review 228:126-129 <295>
Taylor, Charles 1994 "The Politics of Recognition", Gutmann ed.[1994]=「承認をめぐる政治」,Gutmann ed.[1994=1996:37-110] <294>
◆―――――  1996 =2000 「なぜ民主主義は愛国主義を必要とするのか」,Nussbaum ed. [1996=2000:200-203] <323>


◆清水 幾太郎 19501021 『愛国心』 岩波新書青027、166p.
◆Duras,Margaurite 1984 L'amant Editions de Minuit=1985061 清水徹訳、『愛人 ラマン』、河出書房新社、229p.
上野 千鶴子 編 19901210 『ニュー・フェミニズム・レビュー1 恋愛テクノロジー――いま恋愛ってなに?』★ 学陽書房、276p. 1600 ※/千葉社5011-1共通
◆棚沢 直子・草野 いづみ 19951221 『フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか』,はまの出版,243p. 1500 ※
◆障害者の生活保障を要求する連絡会議 19960825 『知的障害者の恋愛と性に光を』 かもがわ出版、233p. 2200 ※
大澤 真幸 19980630 『恋愛の不可能性について』,春秋社、301p. 2000 ※
◆小倉 敏彦 19981122 「赤面する青年――明治・大正期における<恋愛>の一位相」 日本社会学会第71回大会報告 
◆葛山 恭央 20000405 「恋愛と他者」 大澤真幸編[2000:105](『社会学の知33』、新書館)
◆芥子川 ミカ 20060710 『妖怪セラピー――ナラティブ・セラピー入門』,明石書店,208p. 1890 ISBN: 4-7503-2374-8 [amazon][boople] ※, b e01 r05
◆武川 正吾 20071120 『連帯と承認――グローバル化と個人化のなかの福祉国家』,東京大学出版会,262p. ISBN-10:4130501690  ISBN-13: 978-4130501699 3990 [amazon] ※ r05.


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感情の社会学  ◇  ◇障害者と性 

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