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秩序問題 (The Problem of Order)


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social contract|社会契約|contrat social

◆盛山 和夫・海野 道郎 編 1991 『秩序問題と社会的ジレンマ』,ハーベスト社,280+29p. <57,126>
◇Seiyama, Kazuo (盛山 和夫) ; Unno, Michio (海野 道郎) eds. 1991 The Problem of Order and Social Dilemma(『秩序問題と社会的ジレンマ』), Harvest Sha(ハーベスト社), 280+29p. <57,126>

◆盛山 和夫  1995 『制度論の構図』,創文社
◇Seiyama, Kazuo(盛山 和夫) 1995 The Structure of Systems(『制度論の構図』), Sobun Sha(創文社), 287+22p. <57>

◆立岩 真也 19970905 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆――――― 20130520 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2016 On Private Property, English Version, Kyoto Books

 第1章2−2
 「社会科学は何をしてきたのか。(私が「専攻」している)社会学は何をしてきたのか。もちろん現実を記してきた。関係、関係の変化、意識、意識の変化等々を記述してきた。その要因の分析も怠ってきたわけではない。しかし、ごく基本的なものの成り立ちについて、また何を価値としているのかについて、十分に考えられることがなかった。そんなことはないだろうと言われるかもしれない。だがそうなのである。なぜ社会が可能かといった問いの立て方はあり、社会秩序成立の条件、「秩序問題」が考察されることもある☆08。[…]しかし[…]」(立岩[1997→2013:39-40])

 Chap.1-2-2
 "What have the social sciences done regarding these issues? What has sociology (my own field of expertise) done? There has been, of course, the recording and description of reality. Relationships and changes in relationships, consciousness and changes in consciousness have all been recorded and reported on. The analysis of underlying factors, too, has not been ignored. There has not, however, been enough thought about the composition of the most fundamental elements of society and the assignation of value. Some may say that surely this is not the case. But it is. There have been formulations of the question of why human society is possible, and consideration of the conditions required for the formation of social structures, sometimes referred to as "the problem of (social) order" 8. But once we enter slightly more concrete territory the discourse becomes full of immediately verifiable descriptions of phenomena, and there have not been many studies that touch on the composition of the various components (large, fundamental components) of society and the relationships and lines of demarcation between them. There has not been enough examination of the questions I raised in Section 1 of this chapter. I want to investigate what kinds of rights and duties are assigned (and to whom) in various areas by our modern society, composed as it is by the numerous relationships that arise spontaneously between the market, politics, the family, and other social elements, and then consider how these rights and duties might be evaluated. This book is both a part of this endeavor and one of its premises."

 第1章註8
 「◆08 「秩序問題」について盛山和夫[1995]、盛山他編[1991]。大澤真幸[1996b]では社会学者達の業績がこの視点から整理される。
 【むろん多くの論者はわかっていることではあるが、そもそもこれがどんな「問題」かかが問題である。現実――むろん秩序の定義によるが、そこにはいくらかの秩序といくらかの無秩序・非秩序があるとしか言え▽058 ないはずだ(だがある論者たちはそこに秩序を予め見込んでしまう)――を説明しようとしているのか。しかしその問いに対しては、ごく簡単にいえば、様々な諸力が存在し、交錯してこの現実があるのだとしか答えようがないだろう。(そしてたしかに、その一部として、「社会化」といったものがある秩序の維持・継続に役割を果たしていることは、事実ではあるだろう。)
 それとも、それはより規範的な議論であって、あるべきものとしての秩序をいかようにか定義し、なんらかの条件――例えば全員一致――が満たされるべきとし、次にその実現可能性等について考えるのか。その場合にはその条件そのものが検討されるべきであり、ある条件(群)を置いた場合に秩序形成が不可能であることは、多くの場合、考え始める前に、既に明らかである。幾種かの「社会契約論」で契約が成立するかに見えるのは、そこでは人は同質の人として想定されているから、「契約」を言うことの意義自体が問われる。このことは(ごく普通の意味における)功利主義の言説についても言える。そこに想定される人間に特定の仮定が置かれているから、その「利」の総計や平均の結果が算出される。
 このような問題があることを承知しつつ、稲葉振一郎[1999]北田暁大[2003]で自由・秩序を巡るときにかなり難しいところに立ち入った考察がなされている。北田の本については私のメモがhpにある。】(立岩[1997→2013:57-58]、【 】内は第2版で加えられた部分)

大澤 真幸 1996b 「社会学を駆動する問い」,大澤編[1996:171-188] <57>*
*大澤 真幸 編 1996 『社会学のすすめ』,筑摩書房,198p.

◆数土 直紀  2000 『自由の社会理論』,多賀出版 <299>

◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p. ISBN:4000233874 3255 [amazon][kinokuniya] ※
 *第2版を準備中です。ご指摘・ご質問ありましたら、また文献の御教示、立岩(TAE01303@nifty.ne.jpまでお願いいたします。

 「第三の、より基本的な問題は正当性の問題である。仮にある状態に収束するとして、その状態が▽052正当な状態であるのは、その状態をもたらしたものに正当性が付与されているからだろう。ではなぜ、ここで設定された条件、起こる過程が是認、容認されるのか☆11。
 どのような状態とするにせよ、初期状態・初期条件がある。なぜそこから出発するのか。無規制の状態であること自体が支持されているのだろうか。だが、ならばその状態に留まっていてもよいではないか。そして、留まるにせよそこから出発するにせよ、どうしてそれは最初に置かれるのか。
 「自由」な状態だからだろうか。しかしこの状態において、少なくともある人々は、強くて恐い人がいる道は通れない等、したいことが妨げられており、この意味では自由ではない。この状態は好ましくない状態であって、これでは困るから、別の状態、次の状態が望まれるのだろう。この初期状態自体が正当なものとされているのではないということだ。
 とすると、この状態は、その状態自体がよいかわるいかとは別に、現実――それも歴史的な現実というより、想定される前提としての現実――の状態、条件だとされるのか。構築される状態もまた現実に現われるものである以上、現実的に想定されうる条件を前提として始めるしかないから、最初に置かれるのだろうか。とすると、置かれた最初の状態自体は正当な状態ではない。このことを確認した上で、現実の人々の条件、人々が置かれている条件はそれとして前提されつつ制度が構想され作られるという意味において、この状態から始めることをひとまず認めることにしよう。
 ではこの状態から始まる過程、初期状態を修正する手続きはどうか。それは一つには、闘争があり、淘汰があり、妥協もありといった過程である。その結果、収まるところに収まることがあるか▽053もしれない。その状態は、ある人々にとって最初の状態よりよい状態だろう。しかしそうでない人たちもいる。出現する状態は、それ自体が望ましいものだとされてはいない初期状態、初期条件のあり方に規定されて出現する。なぜその状態がそれでよいと言えるのか。その理由がわからない。
 もう一つ、契約論的な発想のもとでは、その経過、移行の条件は「合意」である。合意は、一人一人が自らそれに同意するのだから、それは自由な行いであり、ゆえに肯定され、ここに持って来られるのだろうか。強制力の行使を認めることになったとしても、それに同意している限り、それは自由な行いだから望ましいということだろうか。
 まず、全員の合意を条件とした場合、そんな合意が存在しうるか、どんな場合に存在するのか、存在するとしてそれはどのような合意なのか、こうした基本的な問題点があることを先に確認した。ここでは、誰もが同意すること、「パレート最適」的な条件☆12をつけること自体の意味を考える。」(立岩[2004:51-53])

 「☆11ゲームをしてみて役に立つのは、現実に存在するあるいは存在しうる前提を置いた上でその帰結を予測する場合であり、現実に存在する状態の要因を探る場合である。人はこのような手持ちでこのように動いている。とすると現実にはこうなるだろうと予測する。それが役に立つことはある。例えば、ゲームをしてみると意図しない結果が出てくることもあり、その結果は好ましくないとすればその回避方法が考え出される。ゲームの様々な条件設定によって結果は様々に変わってくる。いろいろ試してみてその意味を考えるのはたしかにおもしろいことではあるし、意義があるだろう。
 また社会学では、もっと大きな風呂敷を広げ、いかにして社会秩序は可能かという「秩序問題」「ホッブズ問題」が問題にされてきた(cf.盛山[1995:esp.37ff.]、数土[2000:esp.22ff.])。最初から答に至りやす▽300い条件を仕込んでおくと、それは問題を解いたのではなく最初から答を置いているのだと言われ、逆に難しい条件を最初に置いてなお到着点まで辿りつけたとすると、どこかに論理の飛躍があってのことだったりという、なかなか逃れがたい困難――第三章で述べる――はあるのだが、それでもやはりそれは基本的な主題ではあり、検討する意味・意義がある。だがこのような使用法を超え、規則、原理の導出、正当化に絡む場合には行うべきことは違ってくる。前提の置き方、ゲームの規則の正当性が問われることになるからである。だが、どのように秩序が可能か、あるいはどのような秩序が現われるかという問題と、その現われた秩序をよしとするかどうかという問いは別の問いなのに、しばしば両者が混同されてしまう。本文で述べることはこの混同による混乱と関係する。
 種々の社会契約論の紹介と批判としてBoucher & Kelly eds.[1994=1997]、Kelly[1998=2002]。ロールズの論を中心に検討した飯島[2001]。合意から道徳を導出する試みにGauthier[1986=1999](についてMoore[1994=1997])。なおロールズの場合には「無知のベール」(→第3章注4)により個人間の差異はなくなっているから「集計」の問題は実質的には存在しなくなる。このことの指摘としてWalzer[1987=1996:13-14]、Mouffe[1993=1998:101]、等。ゆえにこれを「契約」と言えるかという疑問があるのだが、この問題はロールズの論に限らず契約論を称する議論全般に存する。」(立岩[2004:299-300])

 「私たちの自然として利己主義――主義という言葉は多くの場合に適切でないのだが――があるとしよう。なぜそれを最初に置くのか。一つには、無秩序から秩序、利己的なものから利他的な性格のものを導き出すという理論構成上のおもしろみがあるから▽125でもあるだろう。それは困難だが、困難だから行おうとするのかもしれないし、その困難を巡って議論することがおもしろいので論じられるのかもしれない。例えば社会学で「秩序問題」が議論されるのにはそんなところがある。そしてむろん、もう一つは、その方が人間の実際に近いように思われるからだ。そこから出発してBまで行けたらBが実現可能なことがより説得的になる。
 単純なことを誤解している人から見たら意外なところまでは行けるが、そこで止まる。これが第一の到達点である。次に別の契機を組み込むと第二の到達点まで行ける。これはかなりのものだが、考えると、それに過大な期待を込めた人が思うところまでは行けないことがわかる。しかしそれで終わりではない。第三の地点までは行くことができる。」(立岩[2004:124-125])

cf.
パレート最適/パレート原理/パレート改善


UP: 20131226 REV:20160620
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