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Personhood|パーソン/パーソン論



◆Takeuchi, Yoichiro (竹内 洋一郎) 1995 "The Personhood Argument and the problem of Discrimination" (「パーソン論と差別の問題」),Imai・Kagawa eds.[1995:208-224] <358>

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2016 On Private Property, English Version, Kyoto Books

 第5章注10(pp.209-210)より
 「◇10 1)ジョセフ・フレッチャーは「もし望むなら他の検査で詳しく調べてもよいが、ホモ・サピエンスの成員で、標準的なスタンフォード・ビネー検査でIQが四〇以下の者は人格(person)かどうか疑わしい。IQが二〇以下なら、人格ではない」(Fletcher[1972:1]、訳は土屋貴志[1995b:172])、等、二〇項目からなる「人間の基準」をあげる。(曽野綾子[1980:下31-33]で言及されており、Lygre[1979=1981:110]で肯定的に、古川清治[1988:189-190]、加藤尚武[1989a:79]、土屋[1995b:171-172]等で批判的に紹介されている。)さらに一九七四年の論文では、二〇項目を、@新皮質の機能、A自己意識、B関係をもつ能力、C幸福、の四つに絞りこみ、中でも@を最も重要視している(Fletcher[1974b]、土屋[1995b:173]に紹介)。
 2)トゥーリーは、自己意識をもったパーソンのみが生存権をもつ、自己意識に基づく利害関心の存在こそが生存権の源泉であるとする(Tooley[1972=1988])「ある個人は、少なくともどこかの時点において、持続的自己あるいは持続的な心的実体の概念を所有していなければ、生存し続ける権利を所有することはできない。」(Tooley[1984]、訳は森岡正博)
 3)エンゲルハートは、「自己意識をもった理性的存在者」を厳密な意味でのパーソンとし、例えば幼児や知恵遅れの人間、重度の精神障害者などは、厳密な意味でのパーソンではないが、「最小限の社会的行為に参加する能力」をもつ限りにおいて、あたかもパーソンのごとくに扱われる「社会的意味でのパーソン」とする。自己意識をもった存在のみを道徳的存在であると規定し、「道徳的に行為しうるものだけが道徳的に扱われる権利をもつ」と主張する。(Engelhardt[1982=1988][1986=1989])
 4)プチェッティは、パーソン(訳では<ひと>)の「生活史を当のこの<ひと>がこれまで有してきた意識経験の広がりの全幅」とする(Puccetti[1982=1988:33])。
 飯田亘之は一九八五年の論文で2)の議論の重要性を指摘し(飯田[1985])、さらに1)2)を検討して「身ごもった胎児への期待や配慮や悩みや悲しみ、そこで開示される胎児と共にある自己の生存の意味の場に、それとは無関係なもの、つまり、具体的に受け止められた生存の意味や自由な主体の具体的選択内容にとっては直接的には無関係な、外的な生存の権利などという法的概念をふりかざしたのは、そもそも間違いだったのである」(飯田[1989→1994:132])と言う。森岡正博は2)3)4)を紹介し批判している(森岡[1987→1988:209-238])。批判は三点だが、第一点目が中心的な批判である――「なぜ<パーソン>であることが<生存する権利>を持っていることと結び付くのか…。<パーソン>という概念がア・プリオリに<生存する権利>という概念を内包しているのでない限り、パーソン論が主張する論者たちは、この二つを同定する必然性について明確な説明を行わなければならない。」他に、1)2)を紹介し検討しているものとして、水谷雅彦[1989]。また、人工妊娠中絶についての考察の中で1)を批判するMolm[1989]、2)3)のパーソン論に言及する平石俊隆[1989]。また向井承子は、トゥーリーのパーソン論を紹介し、「だが、この発想は実に本質をついていて、表面で受けるショッキングな印象だけで断罪、抹殺しきれないものを感じさせられるのだった」(向井[1990:146])と記している。「パーソン論」、「生命の質」については、唄孝一[1984]、加藤尚武[1992:93-98][1994][1996b:31-35]、品川哲彦[1992:199-203]、村岡潔[1992:231-233]、竹内洋一郎[1995]、等でも論じられている。Solomon[1983]はパーソン論の主張が特定の文化的文脈下にあることを指摘している。「生命の始まり」という主題について他にLockwood[1985a=1990]等。


 「人間は理性に従って意欲し,行為する力をもっており,自由意志すなわち自由をもっている。理性的な存在は,自己の目的を定め,これを自発的に実現する能力(Fahigkeit)を持つ限りで人格(Person)と呼ばれる。」(Zeiller,Das naturliche Privatrecht,1802,村上[同:66])

 chap.4 note 7
 「Assertions like those made above do indeed seem in some sense "anti-western." In regard to the various thinkers we have looked at beginning in Chapter 2, putting aside issues related to the "economy," to the extent of my knowledge there is no one working in the field of bioethics in Japan who has thoroughly adopted, for example, the perspective of the "person theory" (see Chapter 5 Note 10). "Self-determination" is affirmed, but in most cases there is no clear assertion of "qualifications" or "criteria" required for an individual to be considered a person. Looking at this alone a difference can clearly be perceived. I would not attempt to deny this difference. Even in "the West," however, the assertions of radical (?) bioethicists are not generally accepted. And the current state of debate and regulation regarding these issues in Germany, for example, is quite different from what is happening in the United States (cf. Chapter 3 Note 6). Even within the U.S., it is not as though everyone advocates self-determination and/or utilitarianism. I do not think I am greatly overestimating these differences.

 「◆07 たしかに以上のような言明は何かしら「非西欧的」であるような気もする。実際、第2章から見てきたような人物がいくらでもいるのに対し、「経済」については別として、日本で生命倫理学を論ずる人達で例えば「パーソン論」(第5章注10・209頁)の立場を徹底してとっている人は、私の知る限りではいない。「自己決定」は肯定されるが、大抵の場合、人であることの「資格」までは明確に主張しない。これだけを見ても差異は明らかなように思われる。差異を否定しようとは思わない。けれども、まず「欧米」でも「ラディカル」?な生命倫理学者達の主張が一般的に受け入れられているのではない。例えばドイツにおける議論や実際の規制のあり方は、米国のそれとかなり性格の違うものである(cf.第3章注06・93頁)。また米国に▽288 おいても、自己決定の論理を、そして/あるいは、功利主義の論理を押し進めていく人達だけがいるわけでもない。違いを大きく見積りすぎることはないと思う。」


REV:..20160531, 0627
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