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共有地の悲劇

tragedy of the commons [English]


◆立岩『私的所有論』第2章より

 第2章第3節3「「共有地の悲劇」?
 次に、以上述べたことが、労働(とその結果)の私的所有の効率性に限られ、それ以外についてそのまま当てはまらないことを確認しておこう。以上で見た限りでは資源(能力)は各人の体内にあり、移動できなかった(@)のだが、この条件は他には当てはまらないのである。今述べたことを否定するかのように見える「共有地の悲劇」という論がある◆20から、検討しておこう。資源を管理する人がいないとその土地は荒れ放題になってしまう。そして、形式的に管理する人がいても、管理し、より生産性を高める努力をするその見返りとして対価を払わないならやはり人は管理をさぼってしまうから(C→B)、その土地を私有させ、その土地から収穫される生産物の売上げをその人のものにさせた方がよいと言う。
 第一に、確かに「私有」は有効である場合があることを認めよう。Cを前提するなら、農地であれ工場であれ、生産のための資源を誰か特定できる人(達)の管理下におくべきこと、単に管理者を任命するだけでなく、その資源を使って生産された生産物をその人(達)のものとした方が、管理がよくなされる場合もあるだろう。生産のためには生産の結果をその人に与えた方がよいことがあると先に述べた。資源・環境の保全が目標とされる場合も、まず保全が生産に結びつくなら生産の維持・拡大のために保全が行われることもある。また、直接生産に結びつかないにしても、自分の庭は自分の庭だから大切にするかもしれない。別の所有形態、別の規制のあり方をおく場合に比べて、これらをどの程度当てにできるかどうかはまったく場合による。(これを「外部不経済」の内部化と捉えることもできよう。ごみの有料化、ごみ袋に名前を書かせるというのも同類である。)
 だが第二に、以上で確認されたことは、誰に配分するのかという問いに答えるものではない。労働の成果を私有させることが効果的であるとしよう。しかし農地や工場は条件@を満たさない。これらについても、(頻繁に)所有権の変更を行うことは、意欲を低下させるから、(あまり)行うべきでないとは言えるかもしれない。変更が予期されることによって、所有物に対する配慮をせず、それを適切に管理しようとしない、生産財を増やそうとしないといった場合である。(仮に身体についての所有権を移動させることが可能になったとして、その場合にも)身体の所有を認めることによって人は自己の健康を管理し、自らの身体を丈夫に保つだろう、そのことによって、また社会も健康に維持されるだろう。こうした論理を次項で見ることになる。教育期間が過ぎた後で、頭脳を籤引きで入れ替えることになったら、みんな勉強しないだろうというのも同じである。
 けれども、以上は所有の割り当てそのものを指示しないし、現在の割り当てを正当化するものでもない。財が誰かのものであった方がよいということは言える(言える場合がある)としても、誰のものであった方がよいのかということは言わない。例えば土地のどの部分に各人が労働を加えてよいのかを言わない(別言すれば、土地をどのように私的に分割しても有効であるということだけが言える)。このことが見えにくいのは私的所有に共有を対置させるからである。実際にこの社会にあり、この章で検討してきたのは、正しくは特定の私的所有の体制、自己の生産物の自己所有の体制である。「共有地の悲劇」論は、各自の手持ちの資源でやりくりせよという主張、個々人について言うだけでなく、各国がその国の内部で資源の問題、環境の問題を処理するようにという主張につながった。しかしこの論は、国境による線引きと固定化、(移民を受け入れないこと、援助しないこと…)すなわち既得権益の固定化を正当化できるものではない。
 この節で見てきたことは、自らの生産物の私的所有について、その「効能」による正当化が、あるものをその人しか使えない、例えばその人しかその人自身の身体を働かせることができないという事実に依拠しているということであり、この条件を満たさない一切のものについては、仮に共有より私有が有効であると言えたとしても、それをどのように、誰に配分すべきかは一切指示しないということである。さらにここから議論を進めることができる。」

 註20
「Hardin[1968=1993]はLloyd[1833]を引いて共有(牧)地を各自が自分の利益を最大化しようとして使う結果、過度の放牧が起こり、破滅的な結果が起こるという筋の「共有地の悲劇」を自然環境を巡る問題の所在を言う論として用いた。これを回避する方法として私有化そして/あるいは規制があり、人口問題の後者の解決策として「出産の自由」の制限が主張される(批判としてCallahan[1972=1993])。また、人間を自然の支配者とする「フロンティア(カウボーイ)倫理」に環境の福利のために尽くす「救命ボート倫理」が対置される。豊かな国からの低開発国への援助(猛烈に込んでいる救命ボートから落ちて泳いできた人の別の豊かな救命ボートへの乗り移りを認めること)が否定される。その理由として「共有知の悲劇」の論理が用いられる。国境を閉鎖すること(これは国家を単位とした私有化の選択である)によって資源の使用が制限され、人口増加が抑制されるというのである。(Hardin[1972=1975][1974][1977=1983])紹介と批判としてCallahan[1974]、Schrader-Frechette[1991a=1993][1991b=1993]――後者ではこれに対置されるものとしての「宇宙船倫理」が検討されている。Hardin[1977=1983]の訳者でもある竹内靖雄[1989]等では肯定的に言及されている。
 また、「共有地の悲劇」は社会学等では「社会的ジレンマ」(「囚人のジレンマ」と呼ばれる二人間ゲームの一般化として定式化される)の一つとして考察の対象になる(長谷川計三[1991a][1991b:30-33]、小林久高[1995:261-271]、「社会的ジレンマ」について山岸俊男[1990]、海野道郎[1991]等を含む盛山・海野編[1991])。
 所有論との関わりでは次のような指摘。
 「勤労の果実を勤労者に確保する制度の経済的必要性は、やはり認められなければならない。そのような制度がまったくない時には、土地の耕作のように長期的な労働などの「投資」の結果はじめてひとつの財が生み出されるような場合には、個人にとって自分で耕作の労をとるより他人の労働の成果が実る頃にそれを奪うという戦略の方が合理的になるし、それがわかっているのに耕作する者もいなくなるからである。もちろん皆がこの戦略をとる場合には、土地は耕作されないから、略奪の対象もなくなるが、だからといって自分だけが耕作することも無意味となるから、囚人のジレンマが発生する。これを解決するために前もって「各人の」土地を決めておくことで、その土地上での労働の成果の享受をあらかじめその者に保障することに皆が同意するのだと論じるなら、これは所有権の中に含まれる排他性(およびその系としての果実取得権)の要素に着目して、それを効率または経済的機能の観点から正当化する議論となる。」(嶋津格[1992:61-62])。
 環境問題の解決策としての私有化の限界については山田高敏[1996]。環境的公平については戸田清[1994]で本格的に論じられている。cf.高橋久一郎[1995:288ff]。」

 文献→英語版頁

UP:  REV:20140918
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