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パターナリズム paternalism


last update: 20160526

 製作:樋澤吉彦立岩真也


◆Feinberg, Joel 1971 "Legal Paternalism", Canadian Jouranl of Philosophy 1-1→1980 Feinberg [1980a:110-129] →1983 Sartorius ed. [1983] <178>
◆Dworkin, Gerald 1971 "Paternalism", Wasserstrom ed. [1971:107-126] →1975 Feinberg & Gross eds. [1975] →1983 Sartorius ed. [1983] <178>

◆Nakamura, Naomi(中村 直美) 1982a "The Theory on Paternalism of Gerald Dworkin"(「ジェラルド・ドゥオーキンのパターナリズム論」), Kumamoto Law Review(『熊本法学』) 32:134-161 <178>

◆Nakamura, Naomi(中村 直美) 1982b "Law and Paternalism"(「法とパターナリズム」), The Annals of Legal Philosophy(『法哲学年報』) 1982, Yuhikaku (有斐閣):37-60 <178>

◆Sartorius, Rolf ed. 1983 Paternalism, Univ. of Minnesota <178>

◆Dworkin, Gerald 1983 "Paternalism : Some Second Thoughts", Sartorius ed. [1983] <178>

◆Buchanan, Allen E. 1983 "Medical Paternailism", Sartorius ed. [1983] <178>

◆Dworkin, Gerald 1988 The Theory and Practice of Autonomy, Cambridge Univ. Press <178>

◆Dworkin, Gerald 1994 "Markets and Morals: The Case for Organ Sale",in his Morality, Harm, and the Law, Westview :155-161 <53>

◆Aoki, Shigeru (青木 茂) 1994 "Criticism of Paternalism in Medicine" 「医療におけるパターナリズムへの批判」, Sugita ; Hirayama eds. [1994:169-179] <178>
◇Sugita, Isamu (杉田 勇) ; Hirayama, Masami (平山 正実) eds. 1994 Informed Consent: From Sympathy to Consent(『インフォームド・コンセント――共感から合意へ』), Hokuju Publishing(北樹出版), 246p. <447> ◆水野 俊誠 (Mizuno, Toshinori) 1994 "Feinberg's Theory of Paternalism"(「ファインバーグのパターナリズム論」), Iida ed.[1994:64-63] <178>

◆Tanimoto, Mitsuo (谷本 光男) 1994 "Paternalism in Medicine"(「医療におけるパターナリズム」), Takashima ed. [1994:154-185] <178>

◆Sawanobori, Toshio (澤登 俊雄) ed. 1997 Contemporary Society and Paternalism(『現代社会とパターナリズム』), Yumiru Publishing(ゆみる出版), 253p. <179>

Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 1999b "Paternalism Can be the Same as Self-Determination, but"(「パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」), Goto ed. [1999:21-44] <179>

Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2002/03/30 「パターナリズムについて――覚え書き」,『法社会学誌』56(日本法社会学会)

Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2003a "On Paternalism: Memo"(「パターナリズムについて――覚え書き」), Noe, Keiichi (野家 啓一) ed. Possibilities of Clinical Philosophy(『臨床哲学の可能性』), International Institute for Advanced Studies (国際高等研究所) <179>

Hizawa, Yoshihiko (樋澤 吉彦) 2005 "Focusing on 'Paternalism'"(「介入の根拠についての予備的考察:『パターナリズム』を中心に」), Preparatory Doctoral Thesis of the Graduate School of Core Ethics and Frontier Sciences of Ritsumeikan University(立命館大学大学院先端総合学術研究科2004年度博士予備論文) <178>

◆立岩 真也 2008/01/15 「パターナリズム」,加藤尚武他編『応用倫理学事典』,pp.658-659,丸善


◆立岩 真也 2000/10/23 『弱くある自由へ』
 第7章 遠離・遭遇――介助について
  5 口を挟むこと、迎えること、他
   1 パターナリズム
 「まとわりつく様々な利害を無害化し、少なくとも世間で行なわれている様々なことと同じくらいには本人に決めさせればよいと――言うだけなら簡単なことだが――述べてきた。にもかかわらず、代行は避けられず、パターナリズムを否定できない。
 パターナリズムという語は通常否定的な言葉であり、それは当然のことである。その人を先取りし、その人を侵害する様々なことが行なわれてきたからである。だから自分で決めること、選ぶことが執拗に言われてきた。自分がすべて行なうのが面倒なので他の人にまかせることもあるにせよ、その結果が気にいらなければ、別のところに頼めばよい、あるいは自分ですることにすればよい。しかし、そうはいかない場合がある。
 ……」(p.302)

立岩 真也 1999/08/31 「パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」,後藤編[1999:21-44]* 【了:19990205】 35枚
*後藤 弘子 編 19990831 『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書5,264p. ISBN:4-7503-1178-2 1890 [amazon][kinokuniya] ※

■HP(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/)上に全文のある文章

◆樋澤 吉彦 200303 「「自己決定」を支える「パターナリズム」についての一考察――「倫理綱領」改訂議論に対する「違和感」から」,『精神保健福祉』34-1:62−69

■HP(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/)上に紹介のある文章

◆パターナリズム研究会 1987-1988 「紹介 J・クライニッヒ著『パターナリズム』(一九八三年)」,『国学院法学』25-1,25-2,25-3
◆瀬戸山 晃一 199706 「現代法におけるパターナリズムの概念――その現代的変遷と法理論的含意」,『阪大法学』47-2:233-261
◆千葉 華月 20000913 「「最善の利益」を考える規準を考える――イギリスにおける成人の精神無能力者に対する医療上の処置と同意」,『生命倫理』11:167-175 *
◆千葉 華月 2001 「意思決定能力がない患者の輸血拒否と最善の利益――イギリスの判例の検討」,『横浜国際社会科学研究』7
◆瀬戸山 晃一 20010930 「法的パターナリズムと人間の合理性(T)――行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」,『阪大法学』51-3(213):589-613 ※
◆瀬戸山 晃一 2001130 「法的パターナリズムと人間の合理性(二・完)――行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」,『阪大法学』51-4(214):753-775 ※
◆仲正 昌樹 200309 『「不自由」論――「何でも自己決定」の限界』,筑摩書房,ちくま新書432,215p. ISBN:4-480-06132-0 735 [amazon]

■立岩の文章

◆立岩 真也 2008/01/15 「パターナリズム」,加藤尚武他編『応用倫理学事典』,pp.658-659,丸善

◆立岩 真也 2003/00/00 「パターナリズムについて――覚え書き」,野家啓一(研究代表者)『臨床哲学の可能性』,国際高等研究所報告書
 http://copymart.mediagalaxy.ne.jp/iiasap/itiran_17.html
 (下記『法社会学誌』に書いた文章にいくらか手を加えたもの)

◆立岩 真也 2002/03/30 「パターナリズムについて――覚え書き」,『法社会学誌』56(日本法社会学会)

◆立岩 真也 2000/10/23 『弱くある自由へ』
 第7章 遠離・遭遇――介助について
  5 口を挟むこと、迎えること、他
   1 パターナリズム
 「まとわりつく様々な利害を無害化し、少なくとも世間で行なわれている様々なことと同じくらいには本人に決めさせればよいと――言うだけなら簡単なことだが――述べてきた。にもかかわらず、代行は避けられず、パターナリズムを否定できない。
 パターナリズムという語は通常否定的な言葉であり、それは当然のことである。その人を先取りし、その人を侵害する様々なことが行なわれてきたからである。だから自分で決めること、選ぶことが執拗に言われてきた。自分がすべて行なうのが面倒なので他の人にまかせることもあるにせよ、その結果が気にいらなければ、別のところに頼めばよい、あるいは自分ですることにすればよい。しかし、そうはいかない場合がある。
 ……」(p.302)

立岩 真也 1999/08/31 「パターナリズムも自己決定と同郷でありうる、けれども」,後藤編[1999:21-44]* 【了:19990205】 35枚
*後藤 弘子 編 19990831 『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書5,264p. ISBN:4-7503-1178-2 1890 [amazon][kinokuniya] ※


■文献(アルファベット順)

◆青木 茂   1994 「医療におけるパターナリズムへの批判」,杉田・平山編[1994:169-179]
◆Beauchamp, Tom L. ; McCullough, Laurence B. 1984 Medical Ethics : The Moral Resposibilities of Physicians, Prentice-Hall=1992 宗像恒次・山崎久美子訳,『医療倫理学――医師の倫理的責任』,医歯薬出版,222p. 3800
◆Buchanan, Allen E. 1983 "Medical Paternailism", Sartorius ed.[1983]
 (加藤・飯田編[1993:256-262]に谷本光男の紹介
 「医療におけるパターナリズム」)
◆千葉 華月 20000913 「「最善の利益」を考える規準を考える――イギリスにおける成人の精神無能力者に対する医療上の処置と同意」,『生命倫理』11:167-175 *
◆――――― 2001 「意思決定能力がない患者の輸血拒否と最善の利益――イギリスの判例の検討」,『横浜国際社会科学研究』7
◆Culver, Charles M. ; Gert, Bernard 1982 Philosophy in Medicine: Conceptual and Ethical Issues in Medicine and Psychiatry
 Oxford University Press.
 =1984 岡田雅勝監訳,『医学における哲学の効用――医学と精神医学の哲学・倫理問題』,
 北樹出版,299p. 3600
◆Dworkin, Gerald 1971 "Paternalism", Wasserstrom ed.[1971:107-126]
 →1975 Feinberg & Gross eds.[1975]→1983 Sartorius ed.[1983]
◆―――――  1983 "Paternalism: Some Second Thoughts",
 Sartorius ed.[1983]
◆Feinberg, Joel 1983 "Legal Paternalism",
 Sartorius ed.[1983](Feinberg[1971]他について)
◆福田 雅章  1990 「刑事法における強制の根拠としてのパターナリズム――ミルの「自由原理」に内在するパターナリズム」,『一橋論叢』103-1(一橋大学一橋学会)
◆Hart, Herbert Lionel Adolphus 1962 Law, Liberty and Morality, <97>
 (Hart[1962:7])
◆Hendin, Herbert 1997 Seduced by Death: Doctors, Patients, and Assisted Suicide Georges Borchardt, Inc.=2000 大沼安史・小笠原信之訳,『操られる死――<安楽死>がもたらすもの』,時事通信社,323頁,2800円 ※
◆市川 和彦 2002 「支援者が有するパターナリズムの活用と支援者に期待される変容過程――A.M.サリバンによるH.ケラーへのかかわりから」,『キリスト教社会福祉研究』34
小松 美彦 19960620 『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』
 勁草書房,296+18p. 3000 ※
◆―――――  19980320 「「死の自己決定権」を考える」,山口研一郎編[1998:109-152] ※
 =山口研一郎編『操られる生と死――生命の誕生から終焉まで』
◆―――――  20000205 「「自己決定権」の道ゆき−「死の義務」の登場(上)――生命倫理学の転成のために」
 『思想』908(2000-02):124-153 
◆―――――  20000305 「「自己決定権」の道ゆき−「死の義務」の登場(下)――生命倫理学の転成のために」
 『思想』909(2000-03):154-170 
小西 知世 199703 「医療過誤における医師の裁量権の存在根拠の検討」
 明治大学大学院法学研究科修士論文 ※
◆―――――  200009 「癌患者本人への医師の病名告知義務・1」
 『明治大学大学院法学研究論集』13:69-86 ※
◆―――――  200102 「癌患者本人への医師の病名告知義務・2」
 『明治大学大学院法学研究論集』14:111-126 ※
◆―――――  200109 「癌患者本人への医師の病名告知義務・3」
 『明治大学大学院法学研究論集』15 ※
◆―――――  200202 「癌患者本人への医師の病名告知義務・4完」
 『明治大学大学院法学研究論集』16 ※
◆Mill, John Stuart 1855 On Liberty
 =1967 早坂忠訳,「自由論」,関嘉彦編[1967:211-348] <27,97,317-318>
◆三島 亜紀子 1999 「社会福祉の学問と専門職」
 大阪市立大学大学院修士論文
◆水野 俊誠  1994 「ファインバーグのパターナリズム論」,
 飯田編[1994:64-63] <97>
◆中村 直美  1982 「ジェラルド・ドゥオーキンのパターナリズム論」,
 『熊本法学』32(Dworkin[1971]について)
◆―――――  1982 「法とパターナリズム」,
 『法哲学年報』(法と強制)
◆岡田 雅勝  1987 「功利主義の原理とパターナリズム」,
 飯田編[1987:53-68]
◆奥田 純一郎 1996 「死における自己決定――自由論の再検討のために」
 『本郷法政紀要』5:109-143
◆―――――  2000 「死における自己決定――自由論の再検討のために」
 『国家学会雑誌』113-9・10
◆Sartorius, Rolf ed. 1983 Paternalism,
 University of Minnesota
◆澤登 俊雄 編 19970410 『現代社会とパターナリズム』
 ゆみる出版,253p. 2000 ※ 目次↓
瀬戸山 晃一 1996  「医療倫理におけるパターナリズムの射程」
 文部省平成7年度科学研究費助成金・総合研究(A)『応用倫理学の新たな展開−倫理学におけるマクロ的視点とミクロ的視点の総合をめざして』132頁以下。(課題番号06301005、研究成果報告書1996年)所収、研究代表者:佐藤康邦教授 ※
◆瀬戸山 晃一 1996  「法介入の正統化諸原理」
 松村和徳・住吉雅美編『法学最前線』窓社1996年,59頁以下 ※
◆瀬戸山 晃一 19970600 「現代法におけるパターナリズムの概念――その現代的変遷と法理論的含意」
 『阪大法学』*(大阪大学法学会)47(2):233-261 ※
 *目次 http://www.nacsis.ac.jp/sokuho/articles/AN00206353.html
◆瀬戸山 晃一 1998   「自己決定権とパターナリズム――インフォームド・コンセントと「癌の告知」問題を中心に」
 竹下賢・角田猛之編著『マルチ・リーガル・カルチャー――法文化へのアプローチ』晃洋書房、72頁以下 ※
◆瀬戸山 晃一 20010930 「法的パターナリズムと人間の合理性(一)――行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」
 『阪大法学』51-3(213):589-613 ※
◆瀬戸山 晃一 2001130 「法的パターナリズムと人間の合理性(二・完)――行動心理学的「法と経済学」の反−反パターナリズム論」
 『阪大法学』51-4(214):753-775 ※
◆谷本 光男  1994 「医療におけるパターナリズム」,高島編[1994:154-185]
 (Dworkin[1971][1983]、Feinberg[1971]等の定義が列挙されている)
立岩 真也 1999/08/31 「パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」
 後藤弘子編『少年非行と子どもたち』*,明石書店,子どもの人権双書5
◆―――――  2000 「死の決定について」,大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版:149-171
◆―――――  2000 『弱くある自由へ』,青土社
◆―――――  2002/**/** 「パターナリズムについて――覚え書き」
 『法社会学誌』(日本法社会学会)
◆寺本 晃久  2000 「自己決定と支援の境界」,『Sociology Today』10:28-41(お茶の水社会学研究会)
◆Wasserstrom, Richard ed. 1971 Morality and the Law, Wadworth


●澤登 俊雄 編 19970410 『現代社会とパターナリズム』
 ゆみる出版,253p. 2000 ※
◆花岡 明正 19970410 「パターナリズムとは何か」
 澤登俊雄編[1997:012-050] ※
◆植村 勝慶 19970410 「性表現が規制される理由――憲法・「リベラリズム」・「パターナリズム」」 澤登俊雄編[1997:051-085] ※
◆許 末恵 19970410 「子ども・家族・パターナリズム」
 澤登俊雄編[1997:087-122] ※
◆澤登 俊雄 19970410 「犯罪・非行対策とパターナリズム」
 澤登俊雄編[1997:123-160] ※
◆横山 謙一 19970410 「パターナリズムの政治理論――その歴史的考察(西洋政治史)」
 澤登俊雄編[1997:161-198] ※
◆花岡 明正 19970410 「パターナリズムの正当化規準」
 澤登俊雄編[1997:199-229] ※
◆花岡 明正・横山 謙一・平林 勝政・植村 勝慶・澤登 俊雄 19970410 「座談会 パターナリズム論の現在」
 澤登俊雄編[1997:231-253] ※


◇『政治学事典』(弘文堂)項目なし
◆『imidas2000』(集英社)
 「パターナリズム[paternalism]父親的温情主義。父親的干渉。親が子に温情をかける行為。」(p.1354)

 
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「パターナリズム」メモ 樋澤吉彦

【パターナリズムの種類】

◆中村直美「法とパターナリズム」、『法哲学年報』、有斐閣(1982)(pp.44―46)

@純粋型― と 非純粋型―(ドゥオーキン)
「前者では、(中略)干渉・介入を受ける人と保護(利益)を受ける人とが同一であるのに対し、後者では、(中略)干渉・介入を受ける人と保護(利益)を受ける人とが別人である。」
 →前者の例:自動車のシートベルト、自殺を犯罪とすること等
  後者の例:煙草の製造・販売禁止、被害者の同意を犯罪阻却事由として認めない

A積極的― と 消極的―(ベイレス)
「前者は、(中略)干渉・介入を受ける者の福祉をより増大させるパターナリズムであり、後者は、(中略)干渉・介入を受ける者の自己自身への侵害を防止する(換言すれば福祉の減少の阻止)ようなパターナリズムである。」
 →前者の例:退職年金の積み立てをさせる、患者に輸血する(これは「積極的」か?)
  後者の例:自殺の防止、薬物中毒防止

B強い― と 弱い―(ファインバーグ、ベイレス)
「前者は、干渉・介入を受ける者の行為が(完全に)任意的voluntaryであっても干渉・介入を行うものであり、後者は、干渉・介入を受ける者の行為が非任意的non−voluntaryである(かそう推定できる)場合に干渉・介入を行うパターナリズムである。(中略)ミルがパターナリズムに反対するのは、当該干渉・介入が、被介入者の意思に反するが故なのである(傍点著者)。だからミル原理によっても弱いパターナリズムは排除されてはいないと言うことができよう。ただ問題は、被介入者の意思あるいは任意性voluntarinessの有無をどのように認定するかということである。その判定の基準に、@明示された(現在の)意思、A先行する(過去に表明された)意思(成年後見制度など?―樋澤注―)、B黙示的ないし推定的意思、C将来(先取り)の意思、D真の意思ないし合理的意思(両者は必ずしも同じではない)のうちどれを据えるかによりこの二種のパターナリズムの限界線は大幅に流動することになろう。」

C強制的― と 非強制的―(フォーション)
「フォーションは、パターナリズムの概念要素としての干渉・介入が強制(という意味での自由への干渉)というかたちをとるとする考え方を強制的パターナリズムと称してこの考え方を批判し、強制を含まない場合をも含めたパターナリズムを考えるべきだと主張した。」
 →例:補助金(生活保護)を支給するのに受領者が本当に必要としているもの以外を買ったりしないですむように現金でなく、現物を交付するような場合。

D身体的・物質的― と 精神的・道徳的―
「この区別は、被介入者が自分自身に対して惹起しようとしている害harmにつき、身体的・物質的害physical harmと精神的・道徳的害moral harmというものが区別されることを前提にしてなされるものである。」


◆花岡明正「パターナリズムとは何か」、澤登俊雄編『現代社会とパターナリズム』(ゆみる出版、1997)

強いパターナリズムと弱いパターナリズム
「干渉(あるいは介入)される本人に判断能力がない、あるいは十分な判断能力がない場合に、干渉(介入)することを「弱いパターナリズム」という。本人に十分な判断能力のある場合でも、干渉(介入)することを「強いパターナリズム」という。」(p.34)
→「だがしかし、十分な判断能力を有する、あるいは十分な判断能力を有していないという基準は何であろうか。(中略)また、弱いパターナリズムの場合では、不十分である範囲や程度の見極めをどのように行うのか、また、不十分である範囲や程度に対応した干渉の仕方について検討が必要であろう。」(p.35)

直接的パターナリズムと間接的パターナリズム
「規制される者とそのためであるとされる本人とが同じ者の場合を直接的パターナリズムと言う。規制される者とその人のためであるされる本人とが異なる場合を間接的パターナリズムと言う。」
 →例として、座席ベルト、たばこの有害表示、ストリップ劇場などでのわいせつ行為に対して等々。

積極的パターナリズムと消極的パターナリズム
「その人のためであるとされる本人の現状よりも、より良くするためになされる干渉(介入)を積極的パターナリズムという。現状よりも悪くなることを防ぐためになされる干渉(介入)を消極的パターナリズムと言う。/積極的パターナリズムを認めると、侵害原理を他者への侵害を防ぐこと、パターナリズムを自己への侵害を防ぐこと、といった理解は、不適切だということになる。」(p.37)

フィジカル・パターナリズムとモラル・パターナリズム
「その人のためであるとされる本人の身体的・物質的利益または損失に関するパターナリズムをフィジカル・パターナリズム、精神的・道徳的善または悪に関するパターナリズムをモラル・パターナリズムと言う。」
 →しかし、「道徳的向上や、道徳的堕落防止のための干渉は、パターナリズムの射程外とされる(中略)」
 →「モラリズム」(p.38)

強制的パターナリズムと非強制的パターナリズム
「干渉・介入の形態に、自由への介入として強制的なものと、自由への介入を含まないものとがあり、前者を強制的、後者を非強制的と区分する。」(p.38)

複合的パターナリズム
「干渉の理由としてのパターナリズムは、その他の干渉の理由とも合わさって、干渉の理由を構成することも可能である。その他の理由と結びついて提示されるパターナリズムを、複合的パターナリズムと呼ぶことにしよう。」(p.39)

◆パターナリズム研究会「紹介 J・クライニッヒ著『パターナリズム』(一九八三年)(一)」、『国学院法学』25(1)、1983

能動的activeパターナリズムと受動的passiveパターナリズム
「能動的パターナリズム…]がYにYの善の保全のために特定の事柄を行うことを要求する場合。
 受動的パターナリズム…Yが特定の事柄を行うことではなく、特定の事柄を止めることを要求される場合。」(p.120)

◆福田雅章「刑事法における強制の根拠としてのパターナリズム:ミルの「自由原理」に内在するパターナリズム」、『一橋論叢』、103(1)、1990

※「リベラル・パターナリズム」と「モラリスティック−」あるいは「ディープ−」
「これは介入(干渉)が個人の尊厳を確保、実現するために行われるのか、それとも道徳の強制のために行われるのかによる分類である。」

※「形式的パターナリズム」と「実体的パターナリズム」
「「自由原理」の核心である自己決定の構成要素を、それを実現するために不可欠な形式的要素と、それに由来する自己決定の実現結果としての実体的要素とに分類し、ここでは仮に、前者との関連で加えられる介入(干渉)を「形式的―」、後者との関連で加えられるそれを「実体的―」と呼ぶことにしよう。」
「「形式的−」は、個人の尊厳を確保・実現するために欠くことのできない生物学的・社会的必須条件の保障を目的とするものとして、「自由原理」が存立するための不可欠の制約(中略)であり、この場合にはもっとも強度な介入(干渉)さえもが許容されることになる。他方、「実体的−」は、自己決定の実現結果としての実体を本人自身の利益のために否定する場合であり、通常かかる介入(干渉)は許容されないということになる。なぜなら、「自由原理」は右の自己決定のための形式的要素に欠けるところがない限り、いかなる価値を実現するかは本人の自己決定に委ねているからである。したがって、「実体的−」が許容されるのは、自己決定を可能ならしめる形式的要素を欠く場合ないしはそれを確保するために必要な場合にのみ認められるということになる。」
→「いいかえると、「実体的―」は「形式的―」から別個独立したものとしては存在しえないのであって、その意味で「形式的―」がパターナリスティックな介入(干渉)の限界を画するということになる。」(以上、pp.4−5)

【パターナリズムの正当化要件】

◆中村直美「法とパターナリズム」、『法哲学年報』、有斐閣(1982)

「正当なパターナリズムが本人の意思の方向に沿って本人の利益を護るための措置であるとするなら、これはこれは、自由を抑圧するのでなくむしろ促進するものとしての法の作用の一例であるということになるであろう。」(p.38)

「ジェラルド・ドゥオーキン…(中略)パターナリズムを「その強制を受ける人の福祉、幸福、必要、利益または価値ともっぱら関係する理由によって正当化されるようなある人の行為の自由への干渉」」(p.42、Gerald Dworkin,Paternalism,R.A.Wasserstorm ed.,Morality and the Law,1971.(中村直美「ジェラルド・ドゥオーキンのパターナリズム論」、『熊本法学』、32、1982))

※問題点
「パターナリズムでは、個人の自由あるいは自律ということに価値が認められることを前提に、その自由ないし自律に対する他者(個人もしくは国家を含めた集団)からの干渉・介入(広義)がそれ自体正当化されるべき事柄として問題となっているのである。」(p.47)

「単なる干渉・介入が問題とされるのではなく、本人(被介入者)自身のためになされる干渉・介入が問題とされている。」(p.48)
→「実際問題としては、防止しようとする(本人の惹起せんとする)害、あるいは、増大させようとする(本人の)利益と比べて干渉・介入そのものの持つ害(無価値)及びそれに随伴する害がより大きい場合には、一般的には(他の介在条件がなければ)もうそれだけで当該介入は正当化できなくなるだろう。」(p.48)

※正当化されるパターナリズムの要件
@自由最大化モデル(被介入者のより広い範囲の自由を護るための介入は正当化される)
A任意性モデル(被介入者の自己に関わる有害行為が、実質的に任意性を欠いている場合、又は任意的か否かを確認するために当面の介入が必要である場合にのみ、介入が正当化される)
B被介入者の将来の同意モデル(被介入者が、将来当該介入を承認することになるとされる場合に介入が正当化される)
C合理的人間の同意モデル((十分に)合理的である人間ならば当該介入に同意するであろうと言える場合には、介入が正当化される)
D阻害されていなければ有すべき意思モデル(現に阻害されている被介入者の意思・決定が仮に阻害されていないとすれば被介入者が有したはずの意思に当該介入が適う場合には正当化される)
→「ミルの『自由論』での基本的な主張にも即している」(John Stuart Mill,On Liberty)(p.53)

「死ぬことが確実であるようなある行為の選択は、当人にとってその害を凌駕する程の利益(価値)をその選択が含むのでなければ抑止する(その限りでの自由抑圧をする)のが妥当であろう。その場合、彼の意思は、事実誤認を誤ったか(例、空を飛べると誤信した)、行為にかかわる評価を誤ったか(例、一瞬の快楽の為に生命を犠牲にしてもよいと考えた)、あるいは、事実認識も評価も誤っていないが内的・外的な要因によって意志の力に瑕疵が生じていたか等々、何らかの理由によって阻害されていたと言えよう。あるいは少なくともそう推定できよう。」(p.54)

「しかし、同時に、その誤りが当該個人の意思が阻害されているために生じる場合には、阻害されなかったらその個人が有したであろう意思に適うような介入であれば、正当と認めるとするものである。ここで、「正当」とか「正当化」という場合、その意味は、あいまいだが、この基準は、必要な条件と限定を付して行えば、おそらく倫理的な意味でも法的な意味でも妥当するものになるのではないかと思う。」(p.56)

◆中村直美「ジェラルド・ドゥオーキンのパターナリズム論」、『熊本法学』、32号(1982)

「ドゥオーキンのこの論文は、パターナリズムに関する最近の論議の中では、おそらくは、この問題をはじめて本格的に正面から論じたという意味で先駆的な位置を占めると思われるからである。」(p.135)

※「パターナリズム」正当化の例としてドゥオーキンが挙げている例(原書pp.20〜21)

「つまり、ドゥオーキンは、パターナリズムの概念を、フォーションのいうところの「強制的パターナリズム」coercive paternalismに限定して理解しようとしているわけである・・・(中略)・・・
@パターナリスティックな介入行為がその行為の向けられる人の利益のためになされること、Aそれが自由への干渉を含むこと、(その場合、自由への干渉即ち強制と捉えられている)、B自由への干渉が@の要素によって正当化されるということ、以上三つの要素から(ドゥオーキンのパターナリズム概念は −樋澤注)成り立っているといえる。」(p.140)

「ドゥオーキンのパターナリズムの概念論のさらに別の特色は、「純粋なパターナリズム」pure paternalismと「純粋でないパターナリズム」impure paternalismとを区別している点である。前者は(中略)干渉を受ける人と、保護を受ける人とが同一である場合であり、後者は(中略)干渉を受ける人と、保護を受ける人とが別人の場合である。」(p.141)

※パターナリズムの正当化 
 −ミルのパターナリズム批判その1−
「パターナリズムに限って何故にミルは強い調子でこれを禁じるのかその理由をドゥオーキンは次のように分析する。(中略)
@抑制は一つの悪evilである。抑制を企ろむ側は(その正当性を証明する)挙証責任を負う。
A純粋に自己に関わるself−regarding行為は、他者の利益の保護(いわゆる侵害原理)を理由にして抑制できない。
Bそれ故、その人自身の利益good,happiness,welfare,etc.になるということが当該抑制を正当化するのに十分かどうかが問われなければならない。
C個人の利益を強制によって高めるadvanceことはできない。行われる善よりも強制による悪の方が大きいからである。
Dそれ故、個人自身の利益の推進は、強制(力)使用に対する十分な根拠とはならない。
(中略)
 個人(最も普通の男女)は、自らの利益、幸福に関しては、自分が何を感じ、自分の置かれている状況がどのようなものか、
自らの利益への関心の強さ当につき(ベンサムのいうように)最良の判断者best judgeなのであり、逆に社会は、そのような
純粋に個人的な行為に干渉する場合に、しばしば間違いをおかす。仮に個人が自らの利益に関する行為につき判断を誤るとし
ても、自らの思い通りに生き(また、互いにそのことを認め合う)方が、他人の意見を押し付けられて生き方を強制されるよ
りは、はるかにまさっている。(pp.144−145)

―ミルのパターナリズム批判その2―
「 自己自身を奴隷として売る契約が無効とされる理由は、それによって彼が自由を放棄しているからである。この場合、自己を奴隷として売る行為そのものは自由になされていても、それによって将来の自由の全てを失うことになる。「自由でなくなるための自由」は自由の原理からはみ出すものだ。
 このようなミルの主張の一部は正しくないとドゥオーキンはいう。(中略)奴隷制度を非とする主たる理由は、将来の選択の
自由を保持する必要があるという点にあり、このことは、実は、より広い範囲の自由を守るためであれば、パターナリスティ
ックな干渉が正当化されるという一つの(パターナリズムの正当化)原理を(ミル自身が −樋澤注)認めることになる。こ
のようにドゥオーキンは、ミルの主張から逆説的とも思われる解釈を導き出すのである。」(pp.146−147)

※パターナリズム正当化原理(ドゥオーキンの場合)
「そこで、結局のところ、パターナリズムの一般的正当化原理として最も基本的な観念は同意consentであるとドゥオーキンは主張する。つまり「十分に合理的な人であれば、保護の形態として承認する」かどうかによって当該パターナリスティックな措置の正当化の可否が判定されることになる。ドゥオーキンは、かような意味合いをこめて、この措置は我々の情動的・認識的能力における欠陥(従ってそこから出てくる自己に不利益な決定)に対して「社会保険」social insurance policiesをかけるようなものだとも言う。」(p.148)

※合理的な人間ならば当該パターナリスティックな制約に同意するといえる場合の条件について,つぎのような「不合理な判断」が行われた場合について検討している.
@認識が不合理である場合。
A価値の衡量そのものは正しく行われているのに、意思の弱さ故に、合理的に行為できない場合。
B価値の衡量そのものが不合理な場合。(p.149)
※「合理的な判断」即ち「パターナリスティックな干渉への同意の可否に影響を与えるほかの要因」として・・・(pp.150−)
@「先ず、常用癖を伴いかつ精神や団体の諸能力を破壊するような薬物の服用を行う決定のように、その決定から生ずる変化が何らかの意味で「不可逆的」irreversibleであるような(創り出された状態から最初の決定がなされた段階の状態に立ち戻ることができない)場合・・・」
A「次に挙げられるのは、「極端な心理的・社会的圧力の下で」決定がなされる場合・・・」(例:「自殺」の決定)
B「三番目に挙げられるのは、その決定の含む危険が当人によっては、十分理解されていないか正しく評価されていないnot sufficiently understood or appreciated correctlyような場合・・・」
(「喫煙」を例にして)
「@喫煙によって生じる害を知らない」
「A事実は知っており、禁煙したいと思っているが意志薄弱でできない」
「B事実は知っているが、「計算」calculationの中で十分その知識に役割を果たせていない」
(pp.151−152)

「さらに関連した困難な問題として、ドゥオーキンは、危険が甚だしく大きい活動ultra−hazardous activitiesであるからといってそれらが全て排除されないようにするために限界線を引く必要があることを指摘している。」(例:カーレース、登山、闘牛etc)(p.152)

※ドゥオーキンのパターナリズム正当化の議論の展開の大筋として・・・
「ドゥオーキンが、パターナリズム正当化の原理として<合理妬な人間ならばそのパターナリベテッッハな干渉に同意できるか>を用いようとしていることは明瞭である。この正当化原理の構造は、次のようなものだ。先ず、想定された価値的前提として@<自羊という価値は刃赫されてはならない>を基礎にする。次に、A<大人であっても‖子供と同様に‖知識‘思考能力‖(己の欲するところを)遂行する能力において欠陥を様する>という事実認識を前提とする。そして、B<そのような大人へのパターナリベテッッハな干渉は‖実は‖彼らが十分に合理妬であれば為したであろうことを行うものである>とし、それ故に、C<このような干渉は彼らの(真の)意思には反しない>それ故にまた、D<このような干渉は実際は‖自羊への干渉とはならない>とする。このうち、BCの命題が「合理的人間」の「同意」を言い換えたものであることは明らかであろう。このようにして、自由を価値原理として認めつつ、あるパターナリズムが以上の論理手続きをパスすれば、この価値原理に反しないことになる。否、実際のところ、真の自由を保持しあるいは促進するものと捉えられることになるであろう。」(p.153)(傍点樋澤)

「<合理妬人間ならば・・・同意できるか>といった抽象的原理をいわば直感的に適用するよりは、我々の最終的判断に至るまでの筋路を可能な限り自覚的に明示することの方が判断の誤りをより少くし、仮に誤った場合にどこで誤ったのかを再吟味することを容易にすることができると思われる。」(p.156)

「確かに、ミルは、「自由でなくなる自由」というものはもはや自由原理をはみ出すものだと考えた。しかし、個人のいわば、<誤る自羊>は、自由原理のいわば中核に位置するものと言ってよいのではあるまいか。ミルは「人類は無誤謬なものではない」、人類が真理だと考えていることは「大部分は半真理にすぎぬ」とし、意見の多様性と同様行動の多様性は悪ではなくて善であると考える。異なった生活実験、異なった生活様式を試みること、言い換えれば、「知覚、判断、識別感情、精神活動、倫理的好悪さえも含めた人間の諸能力」を自由な「選択」という行為を通して訓練して行くことによって、「最良のもの」へと近付いて行くと考える。(中略)・・・国家が(法律によって)全て「合理的なもの」へと足並みを揃えてしまうことには一般的には否定的にならざるを得ないと思う。」(pp.156−157)

「彼の議論がミルの論評から始まっていることは、まさしく正当であった。彼のミル解釈が正しいか否かは別として、パターナリズムの議論においてミルを避けて通ることはできない。すでに、パターナリズムを論じた多くの人々がミルに依拠し、あるいはミルを議論の出発点に捉えて来た。しかし、すでにふれたように、ミルの解釈については、なお周到な検討が必要であると思う。」(p.160)

◆澤登俊雄編『現代社会とパターナリズム』(ゆみる出版、1997)
 第6章 パターナリズムの正当化基準

※理由としてのパターナリズム
・問いとして
「AがBに干渉するとして、その理由を尋ねられてAは「Bのために干渉したのだ」と理由を示した、あるいは、そのように示す可能性がある、としよう。では、「Bのためである」という理由は、正当なものとして認めることができるだろうか?」(p.201)

「(旧来の―樋澤注―)パターナリズムを批判したもの、それは倫理的リベラリズムであった。」(p.202)

※パターナリズム批判
 倫理的リベラリズムによるパターナリズム批判として→
「まず、干渉される人のためという理由で干渉することは、自己決定を侵害する。人は誤ることもあるが、誤ることにより経験を学ぶのである。パターナリズムはその機会をも奪う。〔自己決定の侵害〕
成功したり失敗したりしながら、自己の価値観に基づき人格が形成されていく。パターナリズムは、個性の形成、自己形成を妨害する。〔自己形成の妨害〕
また、人は自己の価値観に基づいて判断し行為する、このような自律的個人の形成が、パターナリズムにより妨害される。〔自律の侵害〕
そして社会は、自律的な、個性ある個人から構成される。そのような個人から成る社会の形成が、パターナリズムにより妨害される。〔リベラルな社会の侵害〕」(傍点樋澤)
 →「このようなリベラリズムからの批判を受けて、リベラリズムと調和するパターナリズムが模索されてきたのである。」(以上、pp.203−204)

※対概念として・・・
「リベラリズムと対をなすのは、パーフェクショニズム(perfectionism)と呼ばれるものである。」(p.204)

※正当化の要件(再掲)
 →中村直美論文における正当なパターナリズムの要件についての五つの類型について
「@ 自由最大化モデル 介入という自由への侵害が、それよりも大きな被介入者の自由の擁護のために正当化される。
A 任意性モデル 被介入者の自己に関わる有害行為が、実質的に任意性を欠いている場合、または任意的か否かを認識するために当面の介入が必要な場合にのみ、介入が正当化される。
B 被介入者の将来の同意モデル 被介入者が、将来当該介入を承認することになるとされる場合に介入が正当化される。
C 合理的人間の同意モデル 十分に合理的である人間ならば当該介入に同意するであろうと言える場合には、介入は正当化される。
D 阻害されていなければ有すべき意思モデル 現に阻害されている被介入者の意思・決定が仮に阻害されていないとすれば被介入者が有したはずの意思に当該介入が適う場合には正当化される。」(pp.206―207)
 →そして各モデルの難点として・・・(中村論文より)

「@には自由は計量可能かという問題がある。この自由とあの自由の量の違いを量るというのはほとんど無理なことである。しかも、自由であるための条件についても介入が検討されるということになると、基準としては受け入れ難い。
Aでは、「その行為は任意でなされたと言えるのか」の判断が求められる場面で、任意といえる基準が問題となる。「任意」と言える基準を厳格にしていけば、実質的に「任意性」が「合理性」に置き換えられていく可能性がある。(中略→「取引」の場面、取引とは関係のない余計なことを考えていて集中していなかったり、ぼんやりしていた場合それは完全に「任意」と言えるか)任意であるか、ないかの基準は、その判断が合理的なものといえるのか、どうかということにならないだろうか。(中略→Cのモデルに近い)
Bは、将来の同意というのが何なのかが、わからない。結局は、より一般的な基準として修正していくと、Cのモデルに近づくことになると思われる。
Cには難点が三つもある。先ず第一に、「十分に合理的な人間の意思」をどのようにして知ることができるのか。そして次に、個人に特有で、具体的な、意思が、抽象的・普遍的・合理的な人の意思に置き換えられてしまうという決定的な難点がある。人間の個性とその自由は発展を重視する立場からは、支持し難いものである。三つめの難点は、仮に何が合理的なのかということが明らかにされるとしても、だからといって、非合理・不合理なものを選択することを否定する理由にはならない、ということである。個人を個性ある人格として認めるということは、合理的でない選択をすることも認めるということである。別の人からするなら、不合理と思われるような生き方をすることは、その人の個性、人格でもある。それを合理的な人間の意思に置き換えることは、受け入れられない。
Dには、三つの難点が指摘される。第一に、「阻害されていなければ(中略)意思」を正確に確認するのが困難な場合が多々あるということが指摘される。そして「(中略)・・・意思」が不明な場合には、合理的な意思を考慮して、それを基準に判断することになると思われる。・・・(中略 →Cのモデルの難点)第二に、このモデルでは、意思が全く阻害されていない場合には、その人が、著しく不合理なことを行っても、介入してはならないということになる。(中略)個人が、必ずしも自己に関わることの最適な判断者たりえないのである。それなのに放っておいて構わないのだろうか。そして第三に、意思が阻害されているのかどうかの判断が、困難な場合も多々あるということも指摘される。その場合、意思が阻害されているのかどうかは、合理的と言えるかどうかを基準として判断することになる可能性があると思われる。・・・(中略 →Cのモデルの難点)」(pp.207―209)

「中村論文では、その人の意思が阻害されていない場合には、その人が著しく不合理なことを行っても、介入してはならない、それが自律ということだとしている。しかし、著しく不合理なことをすると、それが合理的な意思の基準から離れていることが、はっきりしている場合には、それを止めることは正当化される、ということのようである。」(p.211)

「(もし干渉される人が、判断ができないような状態に陥っている場合は、その人の意思が事前に明確に示されているか、あるいはその人の考え方・価値観などが分かっているのであればその人の意思は推定されるし、それを尊重した決定を行うことは自由を侵害することにはならないだろうが ―樋澤注―)しかし、その人の意思が、確固とした推定ができるほどに明確でないような場合、「合理人」「合理的判断」といった一般的基準に従って本人のための判断を行うことになろう。それは、中村論文では「次善の策」として受け入れざるをえない、ということになる。」(p.211―212)

 →J・クライニッヒの正当化の要件
※パーソナル・インテグリティ
「J・クライニッヒも、パターナリズムへの批判にもかかわらず、リベラリズムの立場でパターナリズムを擁護する議論について検討している(John Klleinig,Paternalism,1983.pp.38−78)。五つのタイプの議論が検討されているが、パーソナル・インテグリティ(personal integrity)に基づくものが、最も見込みがあるとされている。」(pp.212−213)

→「その人の行為が、その人の人生や生活設計を危険にさらすような場合、あるいは、その行為が、その人の低次のランクの欲求からのものであるような場合、善意による介入は、その人のパーソナル・インテグリティ(「人格」とでも訳すのか? ―樋澤注―)を侵害するものではない。」(pp.213―214)

→「パターナリズム論での人間像は、リベラリズムの人間像よりも、個別的・具体的な人間像を想定している。(中略)人の具体的な選択は(中略)必ずしも、その人にとって価値や関心の高いものを正しく反映しているとは限らない。(中略)その人にとって、より重要なものが、ささいなものによって、あるいはより中心的なものが、周辺的なものによって、あるいは価値のあるものが価値のないものによって、つまりその人にとって低次の価値のランクのものによって、高次の価値のランクのものが危うくされる場合に干渉するパターナリズムは正当化されるであろう。」(p.214)

→このクライニッヒのパーソナル・インテグリティに基づく正当化論に対する批判とそれに対する反論
〔1〕 個性を抑圧することを理由とする批判
一つめ→「パターナリズムは、干渉する人の判断を干渉される人の判断に置き換えるものであり、干渉される人の個性を抑圧するものだ、と言う。そしてパターナリズムは、干渉する人の利他主義の道具として相手を扱うものだ、と言う。」
   →「パターナリズムは、干渉される人の中心的な、より高い次元の価値によって、干渉される人のためになされている。干渉する人は、何が干渉される人のためになるかについて、自分の意見を干渉される人に押しつけるものではない。そして、パターナリズムは、自分の主義のために行われるものでもない。」
二つめ→「パターナリズムの干渉によって干渉された人の一つの選択が妨げられたとして、さらに波及的に、その人の他の選択肢も影響されてその人のパーソナル・インテグリティが侵害される、という批判。」
   →「たしかに、一つの選択に干渉することによって、他の選択をも妨げることになるかもしれない。しかし、ある一つを選択することによって、他の選択が影響されるにしても、パターナリズムの干渉は、もともとの干渉されている人の選択肢の条件を反映するだけのことなのである。また、実際に被干渉者によってなされた選択とは違うにしても、パターナリズムの干渉の方向は、干渉されている人の選択の順位と一致しているのである。したがって、その人のパーソナル・インテグリティへの侵害とはならない。(中略)パターナリズムは、干渉される人の価値意外のいかなる価値も持ち込まない。この点でパターナリズムは、モラリズムと異なる。モラリズムは、干渉される人の価値ではなく、干渉される人の外にある公共の道徳を干渉に導入する。それは干渉される人に、その人のものではない価値を押し付けるものである。」(pp.214−216)

〔2〕 強いパターナリズムを否定する立場からの批判
「強いパターナリズムを認めないという立場の人は、パーソナル・インテグリティに基づくパターナリズムに反対する。パーソナル・インテグリティに基づく正当化論は、強いパターナリズムを弱いパターナリズムと言って正当化するものだと批判する。」
 →「この批判は、相対的任意と絶対的任意を区別しないことから生じるものである。絶対的任意の選択や決定は(中略)一つの理念型であり、このような完全に任意な選択や決定などは、現実にはほとんどありえない。絶対的任意が認められない選択や決定だからといって、直ちにそれを弱いパターナリズムの対象とすることは妥当ではない。弱いパターナリズムは、そのような絶対的任意を基準として判断されるものではない。」(pp.216−217)

〔3〕パターナリズムを否定する立場からの批判
一つめ→「たとえ、その人が人生を失敗するにしても、それを気の毒に思ってパターナリズムによる干渉を行って自由を減ずるよりも、その人の自由を認め、あるがままのその人を受け入れてあげるべきなのではないか。あるいはまた、パーソナル・インテグリティに基づくパターナリズムの干渉が、干渉される人の個性のある部分だけを認めるのだとするなら、それは本当に、その人のパーソナル・インテグリティを尊重していることになるのだろうか。」
   →「パターナリズムの干渉が、(中略)干渉される人の中心的な目的や価値に合致したものであるなら、(中略)正当化できる。」
「また、パターナリズムは、必要とされるよりも、無くて済むのなら無い方がよいものである。(中略)パターナリズムは、干渉される人のパーソナル・インテグリティの欠損の場合に限定されるならば、その干渉は正当化できる。」

二つめ→「パーソナル・インテグリティに基づくパターナリズムが、干渉される人の長期的な、中心的なライフ・プランや価値に合致し、またその人の個性を傷つけないとしても、それでも、他人から干渉されるということを不愉快に思う人はいる、という批判。」
弱いバージョンの批判として→「干渉する人と干渉される人の関係が問題とされる。つまり、その干渉が親切からのものであることが、干渉される人によく分かり、また、干渉する人も、干渉される人の関心やその中心的な価値についてよく理解しているような関係にある人々の間でしか、パターナリズムの干渉を認めないというもの。」

強いバージョンの批判として→「強いバージョンでは、干渉は、干渉される人の同意なしには認められないと言う。強いパターナリズムは、個人の権利に対する侵害である。(中略)他人の選択に干渉するには、その同意が必要なのである、と言う。」
   →特に強いバージョンへの反論として「パターナリズムの正当化論が問題にしているのは、選択の結果が愚かしいものとならないように、他人の選択に干渉することが、認められるのか否か、ということなのである。/個性が尊重されなければならないというとき、それは、あらゆる選択を尊重するということではない。その人のパーソナル・インテグリティを表明しているような選択が、尊重されるべきものなのである。」(pp.218−219)

「パーソナル・インテグリティの尊重という立場からクライニッヒは、パターナリズム反対論者に一つの対応を示している。それは、パターナリズム反対論者は、パターナリズムの干渉を受けることは無いというものである。つまり、自由を最高の価値とする人にとって、その中心的価値に反するパターナリズムの干渉は、その人のパーソナル・インテグリティに対する侵害となり、正当化できないのである。」(p.219)


※クライニッヒによるパターナリズムの制約の原則として…
「@ 自由を制限することの最も少ない選択肢が優先されるべきである。
 A 干渉される人の価値の順位付けの考え方と一致している干渉には有利な推定が働く。
   @ 一般的に、消極的パターナリズムが優先されるべきである。
   A 一般的に、弱いパターナリズムであればあるほど正当化されやすい。
   B 一般的に、福祉に損害を与える虞が重大であればあるほど正当化されやすい。
   C 一般的に、高度の危険が含まれれば含まれるほど介入せざるをえないことになる。
   D 一般的に、害悪や損害を修復することが困難であればあるほど正当化されやすい。
 B より効果的な干渉が優先されるべきである。
 C 社会的副産物が考慮されるべきである。」(pp.221−222)


【パターナリズムの見解】

◆中村直美「パターナリズムの概念」、西山富夫他編『刑事法学の諸相:井上正治博士還暦祝賀』、有斐閣、(1981)

「刑法の領域では、とくに今世紀の半ばを過ぎてより、刑法改正の動きを関連して、(刑)法の役割・機能の問題、刑法による道徳の強制の問題、あるいは、一言で言えば、(刑)法の限界の問題に関する議論が活発になって来たことは周知の通りである。」(p.151)

※ハート対デヴリン
デヴリン→「被害者の同意を刑法が(中略)犯罪阻却事由として認めない場合のように、本人が望まなくても保護を与えることの説明がつかないと論じた」→リーガル・モラリズムの立場(p.152)

ハート→「ハートは、パターナリズムを「人々を彼等自身から護ること」protection of people against themselvesとして説明するのみである。」→パターナリズムの立場(p.152)

「ハートはこのことを認めつつ、ミルは欲望が比較的安定し、外部からの刺激によって余り惑わされることのない中年者middle−aged manの心理を標準にして考え過ぎているとし、個人が自分自身の利益について最もよく認識しているとの信念は(レッセ・フェールが衰退した現代においては)一般に揺いで来ていると共に、自由な選択・同意の持つ意義を減じるような要因が益々認識されて来たとする。それ故、個人の選択や同意が妥当な考慮や評価に基いて行われていないような場合には、法的干渉が許されるとしてその限りでミルの主張を修正する必要があると説いたのであった。(中略)パターナリズムは、ミルの侵害原理とデヴリン流の道徳原理の強制のいわば中間領域と捉えるべきだとも強調している。」(p.152)

※パターナリズムの概念(その他)
・ハート
「ハート自身は、パターナリズムを簡単に、「人々(個々人を)彼ら自身から護ること」とのみ説明している。(中略)パターナリズムと、道徳を強制するために(刑)法を使用するという意味でのモラリズムを区別することを非常に重視しており、それがデヴリン流のリーガル・モラリズム批判の最も基本的な根拠となっているといってもよいように思う。」(p.156)

・ドゥオーキン
「この定義の中には、パターナリスティックな行為がその行為の向けられる人の利益のためになされること、それが自由への干渉を含むこと(自由への干渉=強制と考えられている)のほか「正当化される」という要素が含まれているのが特色である。」(p.157)

・ファインバーグ
「リーガル・パターナリズム(彼は、リーガルという形容詞を付してパターナリズムという語を用いているが、とくにそのことについて説明をしていない)の原理は、「個人が自ら招来した害から当人自身を護るための国家の強制あるいは、その極端な形態では、その個人が望むと否とにかかわらず、当人自身の利益(good)の方向に当人を導くための国家の強制を正当化する」ものとされる」(p.157)
→背景として「大人」は「子ども」よりも多くのこと知っている。
→「強い−」と「弱い−」

・ベイレス
「その行為が、行為者自身の福祉を保全し、促進する限りでなされるところに特色がある」(p.158)
 →「積極的−」と「消極的−」

・フォーション
「パターナリズム概念の殆どが、自由への干渉=強制を概念要素として含むものと言えようが、このような考え方を強制的パターナリズムcoercive p.として批判し、自由への干渉(強制)を含まない場合にもパターナリズム(の概念)を及ぼさせようとする見解がフォーションによって主張されている。」

・ジャートとカルヴァー
「彼等によれば、AがSに対してパターナリスティックに行動したといえるのは、Aが以下のことを信じているということをAの行動が(正しく)示している場合のみであるとし、以下の五項目があげられる。@Aの行為はSの利益のためである。AAはSのために行為する資格がある。BAの行為はSに対するある道徳的ルール違反を含む。CSの利益がSの過去、現在または現在と直結する将来の自由な(事情を了知した上での)同意に依拠することなくSのために(Aが)行動することを正当化している。DSは(おそらくは誤って)何が自分自身にとっての利益かを一般的に知っていると信じている。」(p.160)

・リーガン→論文参照(p.161)

◆花岡明正「パターナリズムとは何か」、澤登俊雄編『現代社会とパターナリズム』(ゆみる出版、1997)

※干渉の「理由」として
「@ 個人に危害を及ぼす行為を防ぐためという理由。危害というのは、人の生活に対する実害のことである。(中略)この侵害を防ぐために他者の行為に干渉するという理由は「侵害原理」と呼ばれている。
A 人々に著しい不快感を与える行為を防ぐためという理由。(中略、「侵害原理」とはいえないにしても)人々に著しい不快感を与えるような行為に対しては、それを防ぐための干渉は許されると考えられる。この理由を「不快原理」と呼んでおこう。
B公共の道徳を保持するために干渉するという理由。(中略)この理由は「モラリズム」と呼ばれている。
C公益のためという理由。
D干渉される人のために干渉するという理由。他人を侵害するのではないし、他人に著しい不快を与えるのでもない。公益にも関わらない。不道徳であるという理由でもない。干渉されるその人のためという理由で干渉する。これは、パターナリズムと呼ばれている。」(p.13−14)

「干渉の理由について、右に見たように、いろいろと言われているというのは、それが私たちの自由と密接に関わるからである。」(p.15)

「パターナリズムは、一般的には、干渉されるその人のためになるという理由でなされる干渉である。「他人のために」という親切、思いやり、善意、時には義務感が、パターナリズムの源である。」

「ミルは侵害原理のみが他者に対する干渉の正当な理由であると記している。」(p.18)

「ミルは、侵害原理の承認とパターナリズムに対する原則的な拒否を述べている。しかしそれに続けて、次のように書いている。「われわれは子供たちや、法が定める男女の成人年齢以下の若い人々を問題にしているのではない。まだ他人の保護を必要とする状態にある者たちは、外からの危害と同様、彼ら自身の行為からも保護されなければならない」(中略)。ミルは、子供については別としているのである。ただ、ミルは「パターナリズム」について、少なくとも正面からは、語ってはいない。」(p.18−19)

※G・ドゥオーキンによる説明
「ドゥオーキンによれば、パターナリズムとは、「もっぱら強制される人の福祉、幸福、必要、利益、または価値と関係する理由によって正当化されるような、ある人の行動の自由への干渉」であるとされる。/この定義では、干渉は「強制」と捉えられている。干渉の根拠は、その干渉される人の「福祉・幸福・必要・利益・価値と関係する理由」網羅される。干渉される対象は、「行動の自由」である。そして、パターナリズムは「正当化される」干渉に限られ、正当化されない干渉はパターナリズムではないとされる。」(p.27)

※J・クライニッヒ(John Kleinig)による説明
「J・クライニッヒは、その著書『パターナリズム』(John Kleinig,Paternalism.1983)で,ドゥオーキンの定義を検討して、自分の見解を示している(解説論文 中略)。/既に見たように、ドゥオーキンの定義には、「行動の自由」に対する「強制」が要件とされていた。クライニッヒは、そのような強制がなくても、パターナリズムは成立するとして次のような例を挙げる。」(p.28)
 →貧しい市民に現金ではなく現物給付する例

「ドゥオーキンの定義では、「正当化される」ことが要件とされていたが、それに対してもクライニッヒは、正当化はパターナリズムの要件ではない言う。干渉する正当な資格や権利等がない場合であっても、他者に干渉する場合はある。/(中略)クライニッヒは、パターナリズムについて次のように言う。「Xが、目的の一つとして、Yの善の確保のために、Yに干渉する範囲ではXはYに関してパターナリスティックに行為している。」」(p.29)

「クライニッヒの定義ではパターナリズムとされるものについて、正当と認められるパターナリズムとはどのようなものなのか、その基準を別に論じることになる。」(p.30)

※中村直美による説明
(「パターナリズムの概念」、井上正治博士還暦祝賀『刑事法学の諸相・上』1981所収)「「パターナリズムについての議論において何が問題となるかを明らかにすること、換言すれば、パターナリスティックな=パターナリズムを根拠とする、個人への介入行為の正当化が問題となるのはどのような場合かを明らかにすることがここでの課題である」(中略)として、「パターナリズムの問題」を次のように定式化する。/「ある人(S)が、他者(A)に対して侵害を惹起する場合でなくても、S自身の利益のためになるという理由から、個人もしくは団体―例えば国家―が、Sに対して何らかの介入行為を行うことが正当化できるか、できるとすれば、いかなる条件の下でか」(中略)/この説明から「パターナリズム」とは、「被介入者自身の利益のためになるという理由による介入行為」ということになろう。」(p.30−31)
 →クライニッヒと同じく正当性についてはさらに論じられる。

※田中成明による説明
(『法理学教室』1994、第5章第3節)「「『本人自身の保護のために』と総括的にとらえて、本人自身の保護のためにその自由に干渉するという形態をパターナリズムに共通の基本的特質とみるのが一般的である」と述べる(中略)。」(p.32)

「干渉理由としては、パターナリズムの他に、侵害原理・不快原理・モラリズム・公益が挙げられる(中略)。」(p.39)

※支配の形態(としてのパターナリズム)
「パターナリズムは、権力を行使する側と権力を行使される側との間に特別の関係、つまり、「保護の関係」がある場合に成立する。そして、保護について権力を行使する側が、専断的に決することが可能である場合、それをパターナリズムと呼ぶことができるであろう。パターナリズムは、専断的な保護として現れる支配の形態である。」pp.41−42

専断的保護
「その個人または集団にとって、必須ないし必要度の高い財(物品・サービス・情報)の環境を、ほぼ一方的に、操作(供給ないし剥奪)することのできる立場にある者=財の提供者と、操作される者=提供される財に依存する者との間の関係で成立する。ここで財とは、物品に限らない。むしろ様々なサービスの方が重要かもしれない。また、情報も重要な財である。患者には、医療サービスが必要だが、その適切な提供には、情報も含まれる。もちろん医薬品や介護機器なども必要である。学校での生徒についても、刑務所での受刑者についても、物品・サービス・情報は、いずれも必要なものである。」(pp.42−43)
 →医師と患者、子どもと大人、教師と生徒、看守と受刑者etc・・・ 排他的に、代替困難で

※歴史上のパターナリズム
「「パターナリズム」の語は、十九世紀半ばに登場したものである。その意味は、父親がその子に対するように行為することといったものであった。行政や企業経営について使われたものである。」(p.47)

※憲法とリベラリズム
「社会契約論では、人類は最初に自然状態にあったと考える。自然状態では、人間が、各自の理性にしたがい、自由と平等な生活を送り、争いごとが起ったときには、一人ひとりが判断し正しいと思う結論に従って行動することになる。しかし、それでは、一人ひとりの権利の保護が不安定になる。自然状態では、法とは何であるかを明らかにした実定法、それを適用する公平な裁判官、そして、その結果導かれた法を執行する力が欠けているために、一人ひとりの権利が不確かになり、絶えず他の者の侵害にさらされているからである。それゆえ、人々は政府=国家をつくるとされる。」(pp.53−54)

「政府をつくる手段は、一人ひとりの同意と自然権の一部の放棄である。つまり、人々が市民社会をつくるのは、他人と結んで共同体を作ることに同意し、さらに、人々が各自の権利を自分で実現することをやめて、これを公共の手に委ねることによってである。」(p.54)

「市民革命当初は、個人の幸福追求のための国家が存在するということが強調された。といっても、国家が直接個人の幸福を追求することを助けると考えるのではなく、各人が幸福を追求することを邪魔しない、という点に力点があり・・・(中略)」(p.54)

「その後、産業革命が起こり、資本主義が発達し、いわゆる「レッセ・フェール」=自由放任主義が語られることになり、国家はできるだけ社会に介入しないようにすべきであるとの議論が優位を占めるようになったのである。つまり、「リベラリズム」=自由主義が語られるのである。」(pp.54−55)

※「リベラリズム」も道徳的強制か?
「「リベラリズム」も一つの考え方であり、それに基づいて、国家は成り立っていると言える。だとすれば、国家は、一定の思想ないし考え方を国民に強いているのであろうか?これもまた、道徳的な強制なのであろうか?しかしながら、これを通常は、道徳的強制とは言わない。(中略)たしかに、一定の行為については国家は規制する。しかし、国家が規制するのは、その行為が他者や公共の利益を害するからであり、その行為によってもたらされる現実的侵害を防ぐためになされるのである(「侵害原理」)。その行為の背景にある考え方を強制すること自体を目的としておこなわれるのではない。これを、国家の倫理的・道徳的中立性という。」(p.55)→「モラリズム」ではない。

「独占禁止、労働者の権利の承認、社会的弱者救済の主張が行なわれ、国家が、これらの役割を果たすべきであるとされることになってきた。そのことを端的に表明したのが、ドイツで一九一九年に制定されたワイマール憲法の社会化条項(第一五一条及び第一五九条)である。これらの理念は、イギリス流に言えば、「福祉国家」とされ、ドイツ流に言えば、「社会国家」と表現されるが、人権論としては、「社会権」の保障と観念されるようになった。」(pp.56−57)
 →「社会権」の「保障」のための私生活への介入、しかし「パターナリズム」とは呼ばない。

※第4章 犯罪・非行対策とパターナリズム
「・・・特に刑罰と保護処分は、強制的に個人の自由に介入するという意味でもっとも強力な手段である。他方、個人の自由は、基本的人権として最大限に尊重されることが憲法上の要求である。そこで、対象者が犯罪や非行を犯した者であっても、強制的にその自由を制限する(介入する)については、その正当化理由が説明されなければならない。」(p.124)
 →「パターナリズム」に基づく干渉・介入の許される範囲について、ひとつの例として
 →行刑の3原則として「保安」「教育」「人権保障」→「応酬刑を執行するに際して「教育」がなぜ行刑原則として不可欠なのか、その理由が改めて考究されるべきではないだろうか。」
  →行刑における「教育」という「パターナリズム」介入の正当化理由についての問題提起

※行政的介入の拡大と正当化根拠
「公権力機関が市民的自由に干渉・介入する種々の場面を想定すると、その理由にはおよそ三つのものがあるように思われる。その一は、ある市民の行動が他者の利益を現に侵害したか、もしくは侵害するおそれがあるので、その侵害もしくは侵害の危険に対処するため、その市民の行動に一定の制約を加えるというものである(「侵害原理 ―樋澤注―」)。その二は、ある市民の行動が他者の利益を侵害することがなくても、そのまま放置することによってその市民自身の利益が侵害されるという理由で、その市民の行動に干渉するというものである(「パターナリズム ―樋澤注―」)。その三は、ある市民の行動によって他者の生活利益がとくに害されるわけでもなく、また放置することによってその市民自身が害されるわけでもないが、その行動を許容することによって社会全体の道徳秩序が乱されるという理由で、その行動を禁止するというものである(「リーガル・モラリズム ―樋澤注―」)。」(pp.140−141)

※パターナリズムの問題性
「・・・たとえば、本人の要求がないといっても、ただないにすぎないときと、干渉を拒否しているときとがある。また、放置することによって本人にもたらされる不利益が生命や人格そのものにかかわる重大なものであることもあれば、それ程のものでないこともある。さらに、干渉を加えることにより本人の利益を一層伸長させることが狙いとされるときもあるし、本人がすでに重大な不利益をこうむりつつあるのを救済することを目的とするときもある。さらに、本人にとって不利益であることを誰が判断するのか(家族・学校・住民・ボランティア・行政機関等)、判断が正しく行われる保障はどうするのか(手順・公的手続等)、干渉や介入の方法はどのようであるべきか(非強制的・強制的)等々、観察の視点は慎重に設定されなければならない。このように、現代におけるパターナリズムの問題は、かつて家父長制の理念とされたものとは本質的に性格を異にしている。」(pp.143−144)
 →パターナリズムの種類(ドゥオーキン、中村)

※侵害原理と他の原理との関係
※「侵害原理」と「リーガル・モラリズム」の関係
「侵害原理とリーガル・モラリズムとは排斥し合う関係にある。侵害原理では、「個人の他者に対する侵害」、すなわち、市民の個人的生活利益(生命・身体・自由・財産の安全)の侵害を防止するという目的だけが介入を正当化する。これに反し、リーガル・モラリズムでは、倫理(社会道徳)の維持という目的が介入を正当化するのであるから、「個人の他者に対する侵害」がなくても、その個人の行為が反倫理的だという理由だけで、介入(たとえば、その個人に対する刑罰権の行使)が正当化されることになる。」(pp.147−148)

※「侵害原理」と「パターナリズム」の関係
「その一は、ミルの主張に現れているように、侵害原理を純粋に貫いてパターナリズムを否定する考え方である。しかし現代福祉国家のもとでは、パターナリズムを全面的に排斥することは非現実的であり、むしろその限界を明らかにすること、すなわちパターナリズムの現代的意義を究明することが必要である。ただその場合にあっても侵害原理があくまで基本にあることを忘れてはならない。そのニは、侵害原理とパターナリズムとを相互に独立した原理として、一つの法体系の中に並列的に置く考え方である。たとえば、侵害原理に基づいて犯罪・非行の法的概念を形成し、それらの行為に対して刑罰・保護処分などの社会的制裁を加えることの正当化根拠を侵害原理に求める一方で、それらの社会的制裁の内容を、パターナリズムの要素(「本人のために」という要素? ―樋澤注―)を多分に含んだ「社会復帰」「健全育成」という目標にできるだけ適合したものにしていくことが要求されている。その三は、パターナリズムが侵害原理の中に完全に組み込まれた型を考えることができる。すなわち、パターナリズムに基づく国家の行政作用(福祉活動)を妨害することによって市民の生活利益を間接的に侵害する行為を犯罪としてとらえ、侵害原理に基づいてそれらの行為に刑罰の制裁を加えるという介入の仕方が認められるとすれば、これは右の型に当てはまる。ここでは、侵害原理でいう侵害に、直接的侵害と間接的侵害とが観念されることになる。」(pp.148−149)

※介入に用いられる手段について
「介入の目的が正当であっても、その目的のために用いられる手段のすべてが正当化されるわけではない。手段が正当と言えるためには、まず、目的に照らしてその手段が必要であり、かつ有効であることが要求される。」(p.154)

第5章 パターナリズムの政治倫理
※歴史
「パターナリズム(paternalism)という言葉そのものは一八八一年に英語に登場したが、既にそれよりもずっと先から「父権的権威(paternal authority)」という言葉は存在した。十六世紀に誕生した「父権的(パターナル)」という語は、十九世紀後半にパターナリズムという言葉になった。共同体秩序が支配的な中世的世界観から個人中心の自由社会的世界観へと変貌してきた近代化への思想的推移は、「パトリアーカリズムPatriarchalism(家父長制、族父長制)《ギリシャ語のPater(父)とarkhos(指導者)に由来する》」すなわち「父権的権利」の衰退をもたらした。こうした「族父長的(パトリアーカル)」で「父権的(パターナル)」な権威はジョン・ロックの社会契約説とも、ジェレミー・ベンサムの功利主義的学説ともおそらくは対極をなす信条・思想体系である。また自由主義的功利主義者J・S・ミルが「自由論」で真っ向から否定しようとしたのはまさにこうした信条・思想体系であった。古い概念としての「パターナリズム」批判はむしろミルの「自由論」の思想的立脚点の一つといってもよい。しかるにハートはミルの「自由論」を理論的源泉として「新しいパターナリズム」の概念を作り上げ、「古いパターナリズム」と多くの共有点―伝統的社会紐帯が秩序の社会的枠組の保守に役立つ等―を持つ「リーガル・モラリズム」を批判した。ここにわが国における新しい概念と古い概念の「パターナリズム」の差異理解の混迷の主要原因を見出すことが可能である。」(p.166)

「・・・復古的価値体系に敢然として一矢を報いたミルの「自由論」が、奇しくも新しい概念としての「パターナリズム」の出発点となった。」(p.171)

※新しい概念としてのパターナリズム(再掲になるかもしれないけど)
・ハート(Hart)
「ハート(Hart)はパターナリズムとモラリズムを峻別しリベラリズムと両立しうるのは前者だけだとした。一九六三年に出版した『法・自由・道徳』は成人間の合意による同性愛や売春行為は刑事上の犯罪にするべきではないとした一九五七年のウェルフェンドン委員会報告を擁護し、多数者の道徳的見解に反しているから刑法で処罰できるとした大法官デヴリン卿(Lord Patrick Devlin)のリーガル・モラリズムを批判した。」
「ハートは例えば嘱託殺人罪について被害者の同意が殺人を免責しないというルールはモラリズムによって説明されるのではなく、個人を自分により自分に対する危害から保護するというパターナリズムによって説明されると主張した。またデヴリンの言う「社会は道徳的生活のための手段とされてはおらず、むしろ道徳は社会を統合する手段、それなしでは人々が社会において結合することが不可能となる接着剤」と評価する「解体のテーゼ」あるいは社会的多数派の道徳的信念を法によって社会に強制できるとする「保守的テーゼ」を批判し、これらのテーゼは歴史的に検証することも難しいし、社会心理学的にも共通道徳に替わる許容性や道徳的多元性を否定し前記のテーゼを擁護することは困難であると見る。」
「・・・ハートはパターナリズムを侵害から保護する原理としてしか見ていなかった。それが善や利益を増進する場合を考えていないか、除外していた。」(以上、pp.172−173)

・ジェラルド・ドゥオーキン
「次にジェラルド・ドゥウォーキンの定義を見てみよう。/「ある人物の行動の自由への干渉であるが、強制を受けたその人の福利・善・幸福・欲求・利益あるいは価値に専ら関係する理由によって正当化できるものである。 the interference with a person's liberty of action justified by reason referring exclusively to the welfare, good, happiness, needs, interests or values of the person being coerced.」」(p.175)

・ジョン・クライニッヒ
「オーストラリアの哲学者ジョン・クライニッヒは彼の著書「パターナリズム」の中で、ジェラルド・ドゥウォーキンの定義の修正をいくつかの点でこころみる。パターナリズムはドゥウォーキンが言うのと違って、強制や脅しだけで行われるわけではないとみる。またドゥウォーキンのようにパターナリスティックな介入は「人物person」に限定するべきではなく動物にも、また「責任能力がある成人」に限られるべきではなく、子供や精神遅滞者、精神障害者、昏睡等者へも考慮の範囲に入れられなければならないと見る。そしてハートが考えていたような受動的なパターナリズムだけではなく、能動的なパターナリズムも存在すると認める。」
「さらにパターナリズム概念は正当化のそれではなく、行動形態というよりは事実を記述するための価値自由的な解釈理論(rationale)であり、それが正当であるかはそのモラル上の立脚点の問題であるとされる。」(以上、p.174)

「自分が自己に危害を加えることを他者が禁ずる事が出来ると考えることを核心的理論とするパターナリズム理論は、果たして積極的パターナリズムの場合はどうこれを説明できるのであろうか?自己危害防止のための他者の介入がパターナリズムの本質的位置付けであるとしたら、積極的パターナリズムはどう位置付けられるのか?本人の利益増進のための介入であるとだけしか定義できないのであるならば、旧来の古典的パターナリズム=パトリアーカリズムと―その基底となる社会観を除けば―どこが違うといえるのであろうか?」(pp.178−179)


※支配形態としてのパターナリズム(再掲)
「パターナリズムには、理由としてのパターナリズムの他に、支配形態としてのパターナリズムという意味もある。支配の形態として、専断的保護を与える支配を、パターナリズムと呼ぶことができる。」(p.223、本資料p.8)

※その正当性の根拠として
「パターナリズムであっても、その正当性の根拠は、権力の正当性の根拠一般を離れるものではない。/法規範の議論は、権力の正当性に関して「人権」を論じている。」(p.224)

「今日の議論では、権力は、人権保障を存在根拠とする場合にだけ、正当性を主張できる。」(p.223)

「保護を「本人のため」と捉え、その基準は「人権」であるとするなら、パターナリズムの専断的「保護」が、人権の観点から検討しても承認可能な「保護」でありえるということは、ないであろう。保護の必要な人に対する保護の提供を、その人のためという観点から見つめ直すとき、その保護は専断的な保護ではないはずである。(中略)それでも、なお、パターナリズムの中に存続可能な要素があるとするなら、それは、保護の提供であろう。だが、その保護は、人権上、当然の権利としてされるべきなのであって、専断的に与えられるものではない。」(p.225)

◆花岡明正「正当性とパターナリズムについて:最近のパターナリズム論に触発されて」、『国学院法研論叢』、13、1985

 →「パターナリズム」の語について
「しかし、ここで扱う「パターナリズム」は「父親的温情主義」とは無縁である。むしろ、これらの訳語のもつニュアンスから「パターナリズム」は切断されなければならない。従って、ここでの術語としての「パターナリズム」は、そのままカナ書きにされている。」(p.150)

 →また…
「パターナリズムを父親と子供の関係を原型として理解することは妥当とは思われない。(中略)父親(父性)的というより母親(母性)的だという意見もあるが、近代社会が血縁関係による人間関係の構成を縮減してきたことを想起すべきであろう。また、家族、家庭の変化、社会、家庭での父親、母親の役割、地位の変化に直面する今日、比喩的な説明としてすら成立が困難であろう。パターナリズムは、その語源paterから今日では切断して考えるべきであろう。」(前掲、p.150)

 →干渉の根拠としてのパターナリズムの困難さ
「だが、干渉の根拠としてパターナリズムを提案する場合、そのパターナリスティックな干渉の正当化されうる条件の構成は、侵害原理の構成とは、異なった困難を解かねばならない。/パターナリズム論の困難さの一つは、多様性にある。多様性は「本人のため」という表現の含む広範な解釈可能性に由来する。」(p.154)

「刑事法の分野では干渉する者が、国家機関であり、その干渉は強制的である点で、状況が限定されている。」
 →カルバー・ガート『医学における哲学の効用』(岡田他訳)における諸場面
  ウォルフェンドン報告(1975年、前掲、同姓愛は違法でない)
  ショウ事件判決(1961年、前掲、)
  デヴリン・ハート論争

◆パターナリズム研究会「紹介 J・クライニッヒ著『パターナリズム』(一九八三年)(一)」、『国学院法学』25(1)、1983

※以下、本論文の要約から
「そして家父長主義はリベラリズムの洗礼を受けて、パターナリズムとして表現されるようになったのである。パターナリズムは、それ以前の家父長主義をリベラリズムの立場から再概念化したものなのである。そしてパターナリズムは、社会全体の善から独立したものとしての諸個人の善を確保する一つの試みなのである。」(p.116)

→ドゥオーキンの定義に対して
「しかし強制がなくてもパターナリスティックな干渉による活動の自由の制限は可能である。パターナリズムに強制は必然的な要素ではない。」(p.116)

 →とは言っても
「しかしパターナリズムが自由に対する制約とかかわっていることを承知しておくことは必要なことである。」(p.117)

 →対象とされる人について
「パターナリスティックな干渉によって自由を減ぜられる「人」は、人間すべてであって、パターナリズムの対象には、十分な能力のある成人competent adultのみならず、幼児、遅滞者、精神異常者、昏睡状態の者も含まれる。狭く解する立場では、パターナリスティックな干渉の範囲は、十分な能力のある成人への干渉に限られる。しかし狭く解するなら、十分な能力のない人々the noncompetentへの干渉の正当性の問題をさけてしまうことになる。」(pp.117−118)

 →パターナリスティックな介入(干渉)の「正当化」について
「正当化はパターナリズムの要件であろうか。パターナリズムを正当化を要件として規定することは、疑わしい。(中略)パターナリスティックな干渉は、むしろ単純にその人の善のために干渉することだと考えたほうがよい。(中略)つまり正当化される干渉行為としてパターナリズムを考えるのではなく、その行為の背後にある「その人の善のために」という理由付けにおいてパターナリズムを捉えるのである。」(p.118)
 →それ以外にも…
 本人以外の者への干渉と結果の帰属
 本人の認めない善
 危害からの保護 etc

 →定義として…
「] acts paternalistically in regard to Y to the extent that ], in order to secure Y's good, as an end, imposes upon Y.
 「]が、目的の一つとして、Yの善の確保のために、Yに干渉する範囲では、]はYに関してパターナリスティックに行為している。」
この定義は、正当化を要件とせず、道徳的判断を含むものではない。そしてパターナリズムを行動
の形式としてではなく、その背後にある理由付けにおいて捉えるものである。」(pp.119-120)

◆福田雅章「刑事法における強制の根拠としてのパターナリズム:ミルの「自由原理」に内在するパターナリズム」、『一橋論叢』、103(1)、1990

 →はじめに
「なぜ自己決定権とパターナリズムの問題に関心が寄せられるようになったかということは、それ自体で、国家・社会(地域社会ないしは中間共同体)・個人の関係のあり方ないしは変遷を考察するための格好の研究テーマとなりえよう。なぜなら、そこには、国家・社会が個々人の自律性に対して、また諸次元での弱者(経済的・身体的・精神的・成育環境的)に対して、どのように対応すべきかという問題に関するパラダイムの変化が示唆されているからである。」(p.1)

 →沿革
「周知のごとく、現代刑事法の領域において、パターナリズムが一定の犯罪を処罰するための正当化根拠となりうることを最初に説いたのは、ハートである。」(前掲、p.2)

「パターナリズムという概念は、刑法による倫理の強制を否定するための補充原理として、いいかえると「侵害原理」では説明しえない犯罪の可罰性の根拠を、リーガル・モラリズム以外の方法で説明するための補充原理として登場したといえる」
「しかし、問題は、他者に実害を与えていないにもかかわらず、法によって社会倫理を人に強制し、個人の自由の領域を狭めるようなことをしてはならないとする、リーガル・モラリズム批判の核心が、個人に対する強制的な後見的保護機能を国家に許容するパターナリズム原理の導入によって、理論的にも、実際的にも、真に達成されるのかという点にある。」(以上、p.3)
→すなわち「ミルの「自由原理」の内在的補充原理となりうるのかという点にある。」(p.3)

 →定義
「ここにパターナリズムとは、さしあたって、本人の意思に反してでも、本人自身の利益になるという理由から、国家が一定の介入(干渉)を行うことをいうものとする。」

「@本人自身の自己決定があるにもかかわらず、あるいは自己決定をしていないにもかかわらず、A本人自身の利益になるという理由で、Bその自己決定の排除ないしは一定の価値選択を、C刑罰あるいはそれに準ずる強制力を用いて強制することが許されるのか、もし許されるとするならその根拠と限界は何かを概観してみることにある。」(pp.3−4)

 →分類(新たなもの)

 →ミルの「自由原理」とパターナリズム
「「自己決定できる」地位の絶対性が否定される場合とはどのような場合なのであろうか。(中略)第一の場合は、生物学的・心理学的基礎を欠くために自己決定の可能性が否定される場合であり、第二の場合は、自己決定に際してそれに必要な情報等を欠くために自己決定の可能性が否定される場合であり、第三の場合は、「自己決定できる」という地位を本人自身が否定する場合である。何故なら、もし「自己決定できる」という地位が自由原理を基礎づけている絶対的・無条件の価値だとするならば、本人自身によってもそれを否定することは許されないはずだからである。そうでない限り、それは相対的なものになってしまうはずである。」(p.9)

「もしこれが正しいとするならば、「侵害原理」は自由の実体面における内在的制約であり、「パターナリズム」は自由の形式面における「内在的制約」であるということがいえよう。」(p.9)

 →これをふまえて、実はミルは上述3点について例をあげて述べている。

第一 → 子供の例
第二 → 確実に危険な橋をわたろうとしている人を止める場合
第三 → 奴隷契約の無効の例

「かくして、ミルは「自己決定できる」という自由の絶対性を基礎づけている基盤が欠落する場合には、論理必然的に他人の介入(干渉)の可能性を是認していたといえる。」(p.12)

「リベラリズムの立場に立脚する限り、「侵害原理」は承認するけれども、「パターナリズム」は否定されるべきであるという主張は許されないことになろう。」(p.13)

 

立岩『私的所有論』のためのメモより

A「本人の決定を採用すべきとする原則」をあくまで貫けば(本人の決定が不在等の場合を除き)パターナリズムの余地はない。だがなぜAの立場をとるか。二つある。
 A1:A自体をよいものと考える。
 A2:(本人にとってよいものがよいと前提した上で)本人が本人にとってよいものを一番よく知っていると考える
 (ミル自身も以上二つの要素を挙げている)。
 第一の理由の場合、なんであれその時点の当人の決定がすなわち彼の決定であるとすればこれで終わりだが、そう考えないなら(未来には、正常な状態であれば…、別の決定をするはずで、それが本人の本来の決定だと考えるなら、その決定を先取り、肩代わりして行うというかたちでパターナリズムが正当化される。
 第二の理由の場合にはそうと限らない、つまり本人が今よいと思っていることが実際にはよくない場合があると反論の可能性がある。つまり、自己決定を擁護する理由を用いても、いくつかの条件を与えた場合にパターナリズムが正当化される。 これ以外に、B本人がどう思っているかと関係なく、この方が本人のためによいのだという理由でパターナリズムが正当化される。

 当人が、未来に、あるいは正常な状態(意思決定が阻害されてない状態、任意性を有する場合)においてよいと認めるならよい。3)2)5)――それをどうやって知るかという…
 次に「よい」ものは何か。述べる必要がないとも言える。ただ、「自由」「自律」(奴隷契約…は認められないといった主張になる)。この場合には「よい」ものを当人が決めているのではないとも言える。
 当人以外がよしあしを判断する場合/

 ミルによるパターナリズムの批判
 1:自分の利害
 2:聖域
「文明社会の成員に対し、本人の意見に反して正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人への危害の防止であり、『本人自身の幸福』は正当な理由とはなり得ない。」『自由論』

 全面的に否定していると言えるか。
 例外を認めている。また奴隷契約を認めていない。

 ドゥオーキンは「自律」に利益になる場合にパターナリズムが肯定されるとする。

 「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」を区別し、前者を否定するのはFeinbergである。ファインバーグは当人が実質的に自律的でないときのみその人の行為を制限しうるとする「弱いパターナリズム」を主張する。

 ブキャナンは権利からではなく「帰結主義」(患者や家族の幸福)から医療におけるパターナリズムを批判している。

中村直美[1982b]で整理されている。
1)「自由最大化」(被介入者のより広い範囲の自由を護るための介入は正当)――ミル、リーガン。
2)「任意性voluntariness」(被介入者の自己に関わる有害行為が、実質的に任意性を欠いている場合、または任意的か否かを確認するために当面の介入が必要である場合のみ、正当)――ファインバーグ※
3)「将来の同意」――ドゥオーキンに見られる。
4)「合理的人間の同意」((十分に)合理である人間ならば当該介入に同意するだろうと言える場合に正当)――ドゥオーキンの中核的な主張。
5)「阻害されていなければ有すべき意思」(被介入者の意思・決定が仮に阻害されていないとすれば被介入者が有したはずの意思に適う場合は正当)――ホッドソン

 当人が、未来に、あるいは正常な状態(意思決定が阻害されてない状態、任意性を有する場合)においてよいと認めるならよい。3)2)5)――それをどうやって知るかという…
 次に「よい」ものは何か。述べる必要がないとも言える。ただ、「自由」「自律」(奴隷契約…は認められないといった主張になる)。この場合には「よい」ものを当人が決めているのではないとも言える。
 当人以外がよしあしを判断する場合/
(以上、中村直美[1982b])

※彼はこれをミルも同意するだろう「弱い(弱くて無害な)パタータナリズム」として是認するが、自発性の有無の基準を介さない「強いパターナリズム」は、個人の判断が国家の判断より劣っているというに等しいとして退ける
(Feinberg[1971])。


製作:樋澤吉彦立岩真也
UP:20031215 REV:1216,22,20040109, 20100122, 20130707
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