◆Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2003a "On Paternalism: Memo"(「パターナリズムについて――覚え書き」), Noe, Keiichi (野家 啓一) ed. Possibilities of Clinical Philosophy(『臨床哲学の可能性』), International Institute for Advanced Studies (国際高等研究所) <179>
◆Hizawa, Yoshihiko (樋澤 吉彦) 2005 "Focusing on 'Paternalism'"(「介入の根拠についての予備的考察:『パターナリズム』を中心に」), Preparatory Doctoral Thesis of the Graduate School of Core Ethics and Frontier Sciences of Ritsumeikan University(立命館大学大学院先端総合学術研究科2004年度博士予備論文) <178>
「ジェラルド・ドゥオーキン…(中略)パターナリズムを「その強制を受ける人の福祉、幸福、必要、利益または価値ともっぱら関係する理由によって正当化されるようなある人の行為の自由への干渉」」(p.42、Gerald Dworkin,Paternalism,R.A.Wasserstorm ed.,Morality and the Law,1971.(中村直美「ジェラルド・ドゥオーキンのパターナリズム論」、『熊本法学』、32、1982))
※正当化の要件(再掲)
→中村直美論文における正当なパターナリズムの要件についての五つの類型について
「@ 自由最大化モデル 介入という自由への侵害が、それよりも大きな被介入者の自由の擁護のために正当化される。
A 任意性モデル 被介入者の自己に関わる有害行為が、実質的に任意性を欠いている場合、または任意的か否かを認識するために当面の介入が必要な場合にのみ、介入が正当化される。
B 被介入者の将来の同意モデル 被介入者が、将来当該介入を承認することになるとされる場合に介入が正当化される。
C 合理的人間の同意モデル 十分に合理的である人間ならば当該介入に同意するであろうと言える場合には、介入は正当化される。
D 阻害されていなければ有すべき意思モデル 現に阻害されている被介入者の意思・決定が仮に阻害されていないとすれば被介入者が有したはずの意思に当該介入が適う場合には正当化される。」(pp.206―207)
→そして各モデルの難点として・・・(中村論文より)
※クライニッヒによるパターナリズムの制約の原則として…
「@ 自由を制限することの最も少ない選択肢が優先されるべきである。
A 干渉される人の価値の順位付けの考え方と一致している干渉には有利な推定が働く。
@ 一般的に、消極的パターナリズムが優先されるべきである。
A 一般的に、弱いパターナリズムであればあるほど正当化されやすい。
B 一般的に、福祉に損害を与える虞が重大であればあるほど正当化されやすい。
C 一般的に、高度の危険が含まれれば含まれるほど介入せざるをえないことになる。
D 一般的に、害悪や損害を修復することが困難であればあるほど正当化されやすい。
B より効果的な干渉が優先されるべきである。
C 社会的副産物が考慮されるべきである。」(pp.221−222)
※新しい概念としてのパターナリズム(再掲になるかもしれないけど)
・ハート(Hart)
「ハート(Hart)はパターナリズムとモラリズムを峻別しリベラリズムと両立しうるのは前者だけだとした。一九六三年に出版した『法・自由・道徳』は成人間の合意による同性愛や売春行為は刑事上の犯罪にするべきではないとした一九五七年のウェルフェンドン委員会報告を擁護し、多数者の道徳的見解に反しているから刑法で処罰できるとした大法官デヴリン卿(Lord Patrick Devlin)のリーガル・モラリズムを批判した。」
「ハートは例えば嘱託殺人罪について被害者の同意が殺人を免責しないというルールはモラリズムによって説明されるのではなく、個人を自分により自分に対する危害から保護するというパターナリズムによって説明されると主張した。またデヴリンの言う「社会は道徳的生活のための手段とされてはおらず、むしろ道徳は社会を統合する手段、それなしでは人々が社会において結合することが不可能となる接着剤」と評価する「解体のテーゼ」あるいは社会的多数派の道徳的信念を法によって社会に強制できるとする「保守的テーゼ」を批判し、これらのテーゼは歴史的に検証することも難しいし、社会心理学的にも共通道徳に替わる許容性や道徳的多元性を否定し前記のテーゼを擁護することは困難であると見る。」
「・・・ハートはパターナリズムを侵害から保護する原理としてしか見ていなかった。それが善や利益を増進する場合を考えていないか、除外していた。」(以上、pp.172−173)
・ジェラルド・ドゥオーキン
「次にジェラルド・ドゥウォーキンの定義を見てみよう。/「ある人物の行動の自由への干渉であるが、強制を受けたその人の福利・善・幸福・欲求・利益あるいは価値に専ら関係する理由によって正当化できるものである。 the interference with a person's liberty of action justified by reason referring exclusively to the welfare, good, happiness, needs, interests or values of the person being coerced.」」(p.175)
→定義として…
「] acts paternalistically in regard to Y to the extent that ], in order to secure Y's good, as an end, imposes upon Y.
「]が、目的の一つとして、Yの善の確保のために、Yに干渉する範囲では、]はYに関してパターナリスティックに行為している。」
この定義は、正当化を要件とせず、道徳的判断を含むものではない。そしてパターナリズムを行動
の形式としてではなく、その背後にある理由付けにおいて捉えるものである。」(pp.119-120)