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出生前診断について・日本

[English]出生前診断

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■目次



 作成:立岩 最終更新:19980930

□1 出生前診断について:障害者(別頁)
■2 出生前診断について:医師・(遺伝)学者
■3 出生前診断について:女性
■4 出生前診断について:その他


■発言集 出生前診断について:医師・(遺伝)学者

◇田島弥太郎・松永英 1976
飯塚理八・河上[1984:44-45]
石川憲彦[1988:121-126]
松田道雄[1985:200],大谷實[1985:25-26]に引用
小沢牧子[1987:349-351] 山尾[1985][1986]に言及
向井承子[1990:135-137]

★「……これまでの経験からいうと,羊水検査の適用を受けた家庭では,親は健康な子どもを人一倍切望しているにもかかわらず,次回妊娠で同じ異常の再発を恐れる余り,出産を止むなくあきらめたり,たとえ妊娠しても(正常な胎児を含めて)中絶していたものが少なくない。羊水検査の結果,もし「異常なし」とい(p.153)う所見が得られれば,こうした不幸が取り除かれ,親は安心して子どもを産むことができるから,その効用は大きいものがある。一方,もし「異常あり」となれば,中絶によって不幸な子どもがふたり以上も出生するのを防げることになる。この点の是非については意見の分かれるところであるが,大阪市立大学の多田啓教授の行なったアンケート調査の結果によると,胎児に重大な欠陥が発見された場合は,九〇パーセント以上の母親が「中絶を希望する」と答えている。出生前診断に対する第三者の批判も,こうした実情を無視するわけにはいかないだろう。」
(田島弥太郎・松永英 19760220(19781101:第6刷)『人類の遺伝 改訂版』,NHKブックス247,pp.153-154)
  ※同書の優生学についての記述を別のところに引用

★「……妊娠の初期に胎児の染色体異常が発見されれば優生学上の対策をとるとか,卵子や精子の段階でそれがわかれば未然に奇形児の誕生を防ぐとか,男女を自由に産み分けられることまで可能になるのです。
 先天異常児の生誕は人類優生学上の由々しい問題だけにはとどまりません。生まれた当の子どもの一生も悲惨なら,生んだ親も悲惨なものです。
 染色体の問題とはちょっとはなれますが,社会問題となったサリドマイド奇形児も風疹などのビールス感染から起こる先天異常児の心配も,現実の問題としては医学的にこれからは未然に解決されるようになるでしょう。
 それにまた,いま妊娠している胎児が男か女かを調べ,染色体が正常か否かが明快に認定できれば分娩後の処置も十分に準備できるでしょう。
 しかも,そればかりでなく,遺伝疾患のある夫婦の妊娠相談まで不可能ではなくなっているのです。
 なお,医学が進歩して,現在よりさらに妊娠の初期に,その染色体異常を明らかにでき,その原因を解ければ,いま以上の予防と治療法の確立できる日も夢ではなくなることでしょう。
 「奇形児よ永遠にさらば」と言える日が来るのを期待したいものです。」(飯塚・河上[1984:44-45])

★白井他の,産婦人科医・小児科医・内科医を対象にした調査([1981])では,障害の可能性のある胎児(4ケ月未満)に「生きる権利なし」とした者(44.4・43.7・51.1%,「あり」とした者は7.4・18.5・12.2%)にその理由を尋ねたところ(複数回答),「生まれてくるとかえって本人が不幸になる」61・70・87%,「人間として価値が低い」0・6・5%,「精神的・経済的負担がまして家族が不幸になる」75・79・76%,「社会の負担になる」14・23・25%,「社会的にみて有用でない」11・12・11%といった結果が得られている。他に白井他[1985]も参照のこと。

★「出生当時の医学の技術と知識においては,出生前診断を待つまでもなく,確率的に体内の児(タクちゃん)の生存可能性は少なく,また仮に稀な生存可能性をもっていたとしても,「健常」である可能性はほとんど無に等しかった。ある,意味では,妊娠以前に出生前診断が可能であった。
 しかし,両親は,科学が予想する遺伝的運命としての天の確率計算を意に介さなかった。それは,胎内で生きている子どもの声を実感として聞く耳と,人類に生命を賦与した天への信頼感によってはじめて可能であったのだろう。
 この天への信頼感は,決して,御利益宗教的な信仰と同じではない。天を信じれば「病気が直る」とか,「障害児が生まれない」といった道筋とはまったく異なっている。子どもがどういっ(p.121)た条件を生まれてこようと,それが天によってもたらされた生命である限り,天が生み出した他の生命(人間)とともに生き合うことが約束されているといった意味で,天が全面的に信頼されていたのであろうと思う。
 一方,この天は,カトリックなどに認められる天とも異なっている。カトリック世界では,障害者を「聖なる患者」として美化し,人間の高みにおいて,逆に差別を生じさせる。神に祝福されているが故に,「障害」が下ったのだとみる見方である。これとの違いは,手術をするか否かという決断の時に,具体的になってゆく。
 神の祝福であるなら,手術は,行なう必要がない。
 ……(p.122)
 …医師の側が,「天の祝福」をとく人々と同じように手術を拒んだ時,「苦しみ」「痛み」という生活のことばから手術を求めた。
 つまり,医学が科学を正当化する時に,社会的効率によって考えているにもかかわらず,
表面的には「自然にまかす」と天をもち出すのに対し,両親は,身体のことばを含んだ生活そのものを基軸にすえた天を主張したのである。
 ……(p.123)
 このことから,私たちが結論として引き出せる答えがあるとすれば,天を信じて,あらゆる中絶を国家が管理すべきではないということではないだろうか。産まない権利とか,胎児を殺してもよい権利といったものを,人がもっているわけではない。しかし,あくまで産む,産まない権利が天にある以上,法がこのことを規定すること自体が誤っているのである。
 産む,産まないは,国家と個人の関係において成立するのではなく,大人と胎児の関係において成立することがらである。極めて純粋に,個人倫理の範ちゅうに属することがらである。強姦による妊娠をどう考えればよいのだろうか。命である以上,産まねばならないのか。それとも,祝福されない子であるから,殺すのか。私たちは,この二者択一の論理に乗りたくはない。子どもが祝福されるか否かでもなく,命である以上でもなく,「当事者にとって解決し得ない関係の帰結の結果」として産むことも,産まないこともはじめて一つの文脈を与えられるのではなかろうか。
 私的な体験からすれば,人が人を殺すことによってしか生きられないありようというのは,どうしようもなく私達の生き方のなかにへばりついている。…それは人間の業とか罪とかしかいいようのない状況である。一方,(p.125)戦争のように,相手を殺さねば自分が殺されるといった,社会によって作り出された状況もある。
 しかし,この状況を殺される側の状況によって社会的に正当化してしまうなら,個人の生活に根ざした天は消失する。
 権力は,子産み子育てに介入してはならない。それは”すべての中絶を認めない”方向であれ,”条件的においてのみ中絶を認める方向”であれ,同じである。この点において,前述した医学とカトリシズムが一見反対の議論を展開しつつ,生命管理の方向において一致してしまうところが見えてくる。どちらも,個人の生活とそれに根ざした天を,遠いドグマによって形成する件と現実との妥協において押しつぶそうとする力なのである。この力は,性道徳の乱れや社会秩序右の崩壊を恐れる。基本的に,人間を信じない立場から発想する。
 しかし,人間を信じる天は,天を信じる人間に,間引きが意味をもたないことを知らせている。この文脈のなかでタクちゃんは生まれ,治療を受けている。」(石川憲彦[1988:121-126]…彼が医師であるというだけの理由でここに持ってきている)

★「一人の子供がいて,それが先天的な異常があって夫婦で非常に苦労をして育てている。もう一人こういう子ができたら自分たちは家庭をやって行くことができないという場合に,次の子が正常の子か,あるいは異常の子であるかを選ぶ権利というものは,その親たちの人権として当然あると思うんです。だから羊水診断そのものがいけない,あるいはそれを差別であるというふうにはいえませんね。ある特徴を持った人間を差別することと,自分たちが起こり得る不幸から身を守ることとは,直接つながらないというふうに思うんです。…羊水診断は,いままでに達している医学の水準で,十分安全にできることです。人工流産ということも他の理由,いろいろ経済的理由でも認められているから,羊水診断をやって次の異常の子を産むまいというのは,それこそ患者というか,その人の基本的人権だろうと思うんです。」(松田道雄[1985:200],大谷實[1985:25-26]に引用)

★「「障害」という言葉は,暮らしの現実のなかでは,家族や身近な者になじまない。私の家族の場合で考えてみると,「障害」や「障害者」が本人や周囲に自覚されることがあるとしてたら,それは父の聞こえなさを「欠けたもの=治すべきもの」とする圧力が,医療の専門性や行政から加えられたときである。その認識のしかたは,生活する当事者のそれとはおおきくずれている。……(p.349)
 …この体験から推して,「ダウン症児」サツキ君の父親である山尾謙二の「『障害児』は不幸な存在なのか」という主張を,私は理解することができる。「ダウン症」研究の権威者が「ダウン症」を「重度,超重症の奇形人間であり,……人種を超えた一つの亜人間」であるといおうが,担当医がマイナスのことばかりを並べてひどく絶望的に語ろうが,血親である山尾の側からは,「この三月に中学校を卒業した次男は……友人たちとの楽しい中学校生活を送ることができた」という表現が自然になるのである。…
 生活者の現実と専門家のきめつけは,こうしてまったくくい違う。生活者にとって生身の人間であるものが,専門家にとっては病気・障害という抽象的概念でしかないからだ。しかし,「気の毒な障害者」「撲滅すべき障害」「早くみつけて早く治す」「予防こそ最大の目標」という専門家の独断と一方的使命感は,生活者の現実を無視し,「世論」をつくりだし,産む者,育てる者と子どもたちとを隘路(p.350)に追い込みつつ,ひたすら障害者狩りをしていこうとするのである。」(小沢牧子[1987:349-351] 山尾[1985][1986]に言及)

★「…状況はケースごとに異なるので、画一的な基準を求めることは不可能であり、適切ではない。また、最終決定は母親の意志(自己決定権)によるべきであるのは当然である。/患者・家族の選択が正しそうな場合はそれでよいとして、もしも医療スタッフの常識からして、眉をひそませられるような選択をしたら、医療側はそのサービスを与えなければならないのだろうか。このようなコンセンサスは、わが国ではいまだ形成される気配もない。社会的常識に照して妥当な範囲であればよいが、その妥当な範囲というものをどうやって決めてゆくのか。これは、じつは脳死の問題と同じくらいにむずかしいことである。」(飯田・大泉・塩田[1991:214-215])

 「第二文がなぜ成立するかが本文で問題にしたことである。しかし、それ以外に、この短い引用部分の中には、互いに矛盾してしまう文がある。」(立岩[1997]注)

★「生殖への介入のもう一つの分野として浮かびあがってきたのが胎児診断(羊水診断)である。…ダウン症を例にとってみよう。…もしダウン症と診断された時、母親に知らせるかどうか、知らされたあとで妊娠中絶すか、分娩するまで妊娠を継続する。そのいずれの答も難しい問題である。もし中絶するとしたら、障害児の「生きる権利」を無視することになる。果たして、こうした場合に両親は胎児を「死なせてもよい権利」をもちうるのであろうか。こうした問題が起こってきたために生命の始期、人間の始期がどの時点かということが重大な問題となってくるのである。胎児診断はフェニールケトヌリ(p.214)ア、メイシロップ尿症、ガラクトース血症、ゴーシュ病、アイセル病などの発見を可能にした。」(黒柳弥寿雄 1994 『尊厳死を考える』,岩波書店,シリーズ生きる,250p. 2200 pp.214-215)

★「遺伝相談は人権を扱っている。人権の侵害につながる医師の独善的な指示的相談はじわじわと医療不信を育む。倫理的な面の管理はいくら厳しくしてもやり過ぎとならない。わが国では指示的相談を行っている研究者が遺伝相談システムに主導的な役割を果たしているので、われわれは一線を画して遺伝相談を行っている。…」(飯沼和三[1994:671](「遺伝相談の実際」,『産科と婦人科』61-5:668-672(84-88)))

★「胎児診断の目的を、「予後不良な先天異常や遺伝性疾患」といった「重大な障害をもつ子どもの出生を未然に防ぐ対策のひとつ」と定義するのは、まったく倫理から外れた考え方で、胎児診断に基づいて、どんな医療上の選択肢があるかを提示し、最善の選択をしてもらうのが本来の目的であると筆者は主張するものである。」(飯沼和三・北川道弘 [1994:540](「出生前診断に関する告知とインフォームド・コンセント」,『小児内科』26-4:539-543

★カリルフォルニア州では検査について厳しい精度管理をしている。飯沼「私はそれを聞くと、胎児は患者である(フィータス・イズ・ア・ペイシェント)、という言葉を思い出します。これまでは妊婦だけが非常に大切な価値をもって遇されてきましたけれども、今は胎児もその女性と同じぐらいに大切であると。
恩田 日本では、胎児はまだ人格が認められていないために保険の適用から外れていますよね。
飯沼 妊婦に対する診断と同じぐらいに重大なものとして胎児診断が位置づけられていることを表わしていると思います。今後、日本における胎児診断が広まっていく中で、ほんとうに胎児が生きている母親と同じぐらいの価値づけで患者としてみるならば、誤診のない羊水検査、あるいは胎児診断を展開しないと、1件のエラーが大きな負担となって医療界にはね返ってくると思います。」(飯沼和三・恩田威一[1994:5](「日本における出生前特殊スクリーニングの現状――トリプルマーカーによるダウン症検査について」(対談),『The Medical & Test Journal』433:4-5

※このようにもし言うのだとすると、どうしてスクリーニングなり胎児診断なりが正当化されうることになるのか。わからない。

★「Q:出生前スクリーニング・テストでダウン症侯群や神経管奇形を見つけだす確率は、どれくらいあるのですか?
A:いちばん大切な質問です。もしもダウン症侯群の胎児が100人いたら、およそ60〜70人の胎児については、この出生前スクリーニング・テストにより「確率が高いです」という報告がされます。しかし、あくまでも胎児についての間接的な検査のため、30人から40人の胎児については「確率が高くありません」という報告がされて、見つけることができません。
Q:そんな精度では、受けないほうがよいという考えもありますよね。
A:ええ。その人その人の心配のあり方によって、この出生前スクリーニング・テストは意味が違ってきます。もしもこの検査を受けて、胎児の状態を早く知り、精神的・物質的準備を早くしたいと思われたら、受けられるとよいでしょう。生まれてくる子どもはどんな状態でも自分の子どもであり、あらゆるケースに対して心の準備ができているという方は、受ける必要がありません。」(ジェンザイム・ジャパン株式会社[1995]中の」インフォームド・コンセント資料」(監修は飯沼和三)より)

★「着床前診断…(p.3)妊娠成立前とはいえ、”差別”という問題は残るかもしれないが、正常児を選択することが可能になる意義は大きい。
 妊娠初期の出生前診断は、…胎児の危険のため妊娠を差し控えていた夫婦が妊娠できることが目的で健児と診断できれば妊娠中の不安も払拭される。不幸にして罹患児であった場合は児の出生前の予後などについて正確な情報を提供する。治療が困難で予後が不良な疾患の場合、治療的妊娠中絶(人工流産)がありえるので、倫理的な問題も生じうる。現状では正確な情報のもとに当該夫婦の決断に委ね、医師はもちろん診断に関与するスタッフもその判断に介入すべきではないと考える。
 妊娠中期以降の出生前診断は…
 出生前診断は究極的には健児を得たい夫婦の希望にさまざまな手段で情報の提供目的を果たす助力をすることといえるが,広い領域のスタッフの協力により運営されることが特徴である。…とくに倫理やクライアントの精神面でのケアが問題になる妊娠初期の両親に遺伝学的情報を提供する立場としての出生前診断を中心に話を進める。」(堤治・飯田卓・武谷雄二[1995:4](「出生前診断の現況」,武谷編[1995:2-7])

★「胎児診断の将来はどうあるべきか
 胎児診断の実際について述べてきたが、診断手技の安全性の確立、診断精度の向上につれて近年、診断件数は激増し、胎児診断という特殊な医療技術が妊婦や家族に受容され、社会に定着していることを示している。この医療技術が登場した当初は胎児診断は直接人工妊娠中絶につながる行為であるとの批判を受けてきたが、”胎児が遺伝性疾患に罹患しているかもしれない”との家族の不安から生じる無意味な人工妊娠中絶を回避し、健常児の出生に貢献していることが明白になったことから、現在はその批判の根拠は失ったものと考えられる。また、胎児に異常が発見された場合にも、中絶するというネガティブな量ではなく、胎内で医療を開始し、症状の発現をできるだけ軽くして正常に近い形で出生できるように支援するポジティブな医療技術と位置づけるような方向性も現実味を帯びつつある現況にある。
 一方、診断件数の激増は限られた胎児診断可能施設にさらに負担を加重する結果となって表れてきている。効率よく限られた施設で運用していくためには、客観的かつ効果的な胎児異常スクリーニングの導入が必要となってくる。欧米では胎児染色体異常の出生前スクリーニングとして母体血清中の科学物質(α-fetoprotein, hCG, estriolなど)の測定が広く用いられている。わが国でも現在、数施設で導入の是非について検討されているが、このようなマススクリーニングの確立が今後必要であろうと考えられる。」(鈴森薫[1995:17](「胎児診断の実際と展望」,武谷編[1995:10-18]))

★「このトリプルマーカーテストは、欧米、とくにアメリカでは近年急速に普及しており、染色体異常の出生前スクリーニングテストとして行われている。わが国においても今後行われることが予測されるが、つぎの点について注意が必要である。
 1)このテストは染色体異常を直接検出するものではなく、リスクを判定するためのものであり、このテストの異常が即、染色体異常を意味しない。あくまでも羊水染色体検査を行う必要性があるかどうかを判断するための検査である。(p.48)
 2)測定値は、測定方法、妊娠週数、母親年齢、人種などによって変化している可能性があり、わが国においては日本人を対象としたそれぞれの施設での正常値を求めておく必要がある。
 3)このテストを行う場合には上記の事例を事前に妊婦に伝え、了解を得ておかなければならない。このプロセス抜きに検査(p.49)を行い、リスクが高いことを知らされると多くの妊婦はパニックに陥ることが予想される。
 このテストを用いた出生前スクリーニングプログラムを日本に導入するさいには、遺伝カウンセリングのシステムが確立されてなければならない。」(福嶋義光・大橋博文[1995:48-50](「細胞遺伝学的診断法」,武谷編[1995:42-50]))

★「ある種の遺伝性疾患をもつ夫婦にとって妊娠、出産は大き問題である。また、現在の出生前診断は妊娠成立後に行われることから、遺伝性疾患の診断には大きな問題を含んでいる。もし妊娠が成立する前に遺伝子疾患が可能になれば、倫理的な点も含み解決される可能性がある。」(竹内一浩・永田行博[1995:67](「着床前遺伝子診断の現況と将来」,武谷編[1995:67-73]))

★「出生前診断については、pro-lifeとpro-choiceの立場で、それぞれ異なった見解があることは広く知られている。著者自身は、被験者とカウンセラーとの間に、これまで述べてきたような配慮のもとで論議が重ねられ、インフォームドコンセントが得られているのなら行ってよいという立場に立っている。しかし、出生前診断の対象疾患については十分に配慮すべきである。これについては、もしも重篤でない遺伝病で、出生前診断することを自己の信条として肯定できない場合は前述のように拒否することも可能であると判断している。
 出生前診断に反対する意見のなかには”正常の子どもなら生むが、罹患児なら生まないというのは差別と優生学の発生につながるので、一般の妊娠中絶とは同格に論じられない”とする考えがある。これはpro-lifeとはまた別の視点である。ここで,この論議を発展差せるのには誌面が十分でないが、遺伝子診断を行う者はこうした発言についても自分の考えをもって対応すべきであろう(著者個人の考えは他誌に述べている。)」(松田一郎[1995:115](「遺伝子診断とインフォームドコンセント」,武谷編[1995:108-116]))

★「一般に”遺伝病に対する出生前診断については社会的合意が必須であり、日本では期が熟していないから、まだ診断をすべきでない”という議論がある。しかし、著者は、まったく逆説的なのであるが、あえて”一方的な社会的合意”はなされないほうがbetterなのではないかと考えている。重症な遺伝病患者をもつ家族の悩みは想像を絶し、複数の重症な遺伝病患者をもつ家族は悲惨そのものである。著者も遺伝カウンセラーの立場から、このような家族を多数みてきた。遺伝カウンセラーは、日常多数の家族から出生前診断の有無について相談を受け、その要望は非常に多いのである。
 一方、胎児の生命を尊重する立場から、この種の出生前への反対も多いのは周知のことである。社会的合意の極限は、Yes かNoで、具体的には行政的・法的認知または禁止であると思われるがいかがであろうか。もしYes なら妊娠中絶数は非常に増加するであろうし、小数(ママ)ではあろうがこれを利用した医師の暴走も予想される。もしNoなら悩みをもつ家族はどうしたらよいのであろうか。条例や首長の判断でNoとした某県では多数の患者家族が隣県の施設へ移動している事実がある。わが国全体でNoだったら外国へ出ていき相談する家族が現われるのではないだろうか。すなわち、Yes/No いずれにしても矛盾が生ずるような気がする。ポイントは、極限(ママ)すると”個人”か”全体”かに還元されるかもしれない。したがって、この問題も日本人が得意とするYes/No の中間にならざるをえないであろう。診断施行自体は、患者個人と主治医の間の信頼関係から成り立つが、一方、マスコミを含め”社会”は医師や関連施設の暴走を監視するために、あらゆる機会をとらえて議論することが必要であろう。本意見は著者の独断であるので、批判を乞いたいと思う。」(新川詔夫[1995:127](「出生前診断と遺伝カウンセリングにおける倫理的諸問題」,武谷編[1995:125-129]))

★「1.受精卵の着床前遺伝子診断は障害者の差別になるのか
日本産科婦人学会では、昭和61年11月の会告「パーコールを用いてのXY精子選別法の臨床応用に対する見解」において、本法の臨床応用は重篤な伴性劣性遺伝性疾患を有する児を妊娠することを回避するためにのみ行われるべきであるとしている。また、昭和63年1月の会告「先天異常の胎児診断、特に妊娠初期絨毛検査に関する見解」では、夫婦のいずれかが染色体異常の保因者、高齢妊娠、重篤な伴性(X連鎖)劣性遺伝性疾患の保因者などを検査の対象とし、検査の意義について十分な理解が得られた場合に行うとしている。
 これらのことから、重篤な伴性劣性遺伝性疾患などを有する夫婦が異常児を妊娠することを回避したり、遺伝子診断を行うことを行うことを日本産科婦人科学会はすでに許可しており、さらに、現実に臨床応用されていることから、遺伝子診断そのものは障害者の差別にならないと日本産科婦人科学会は判断しているといえる。したがって、受精卵の着床前診断も障害者の差別に繋がるものではないと考えてよいであろう。」(永田行博・堂地勉・竹内一浩[1996:167](「胚生検−受精卵の着床前遺伝子診断」,日本不妊学会編[1996:163-171])

★「わが国における母体血清マーカー試験の実情に関しては、少なからず危惧を感じている。
 第1には、出生前診断のもつ意義や社会的なインパクト、母体血清マーカー試験のもつ意味などが十分に理解されないままに母体血清マーカー試験が普及されようとしている。この検査が円滑に施行されるためには、妊婦やその家族への適切なカウンセリングが必要不可欠である。適切なカウンセリングのない、流れ作業としての母体血清マーカー試験は、「優秀な人間と劣る人間を選別しようとする」単なる”優生思想”となんら区別はできない。妊婦とその家族が自発的で適切な判断ができるように、必要な情報を提供し”非指示的カウンセリング”を行うことは、母体血清マーカー試験に不可欠のプロセスなのである。
 第2には、日本人の正確なデータベースが不十分なままに、本試験が実施されようとしている。…
 第3には、この検査はある意味で「結果の解釈」までが報告されてくる特殊な検査である。…
 第4には、残念ながら、こうした複雑な問題に関して、真剣に討論ができる土壌がわが国にはない。…」(佐藤孝道編[1996:85](『染色体以上の出生前診断と母体血清マーカー試験』,新興医学出版社,124p. 4429))


★「1.わが国における出生前診断をめぐる倫理問題の経緯をみると、「選択的中絶」の可否をめぐっての議論からなお抜け出ていないようにもみえる。選択的中絶の可否は、生命の本質にかかわる問題であり、宗教や立場によってさまざまの意見があり、ある意味では無限に尽きることがない議論が予想される。さらに、この問題は、幾多の問題を抱えつつ、しかしいわば「運用の妙」を得てなんとか運用されている優生保護法の問題(石井美智子[1994])とも絡み、一層複雑さを呈している。
 「選択的中絶の問題」は、いつになっても回避できない問題である。しかしこの問題だけにとどまっていたのでは、現実に広く社会に受け入られるようになった出生前診断の現実に対応できないばかりではなく、DNAにかかわる問題など新たな医学の進歩にも対応できない。…(p.89)
 2.WHOの報告書には、遺伝学の目的に関係して次のようなことが書かれている。1.遺伝医学の目的を達するには選択の自由が重要である。2.個人の健康や幸福に関することは、個人(の選択の自由)に属することである。3.妊娠や出産に関しては関係する人たちで合意が得られることが望ましいが、合意が得られない場合は母親の希望が優先される。4.遺伝医学は個人や家庭の幸福を目標としたもので、どのようなものであれ自主的な判断が最も重要で、それができるように助けるのが今日の遺伝医学である。この点か優生思想とは決定的に異なる点である。これらの点も、出生前診断の倫理を考えるうえで重要である。」(佐藤孝道編[1996:89-97](『染色体以上の出生前診断と母体血清マーカー試験』,新興医学出版社,124p. 4429))

★「d.出生前診断を行う際の留意点

4.わが国では一部の障害者団体から「出生前診断は胎児に異常があった場合、胎児の抹殺につながるので、障害者の人権をふみにじるものである」という指摘がなされ、出生前診断に反対する声も少なくない。出生前診断に関与する医師はこのような意見に留意し、実施にあたり原則的に日本産科婦人科学会や日本人類遺伝学会からの会告(付表1)および人権に関するヘルシンキ宣言(東京宣言)に従い、さらには障害者福祉にも積極的にかかわっていくことが望まれる。」(新川詔夫・福嶋義光編[1996:16](『遺伝カウンセリングマニュアル』,南江堂,275p. 3605))

……cf.

★ダウン症について「以前は短命と考えられていたが、現在では平均寿命は50歳以上に達しており、就職や芸術活動を行っている者も少なくない。」(新川・福嶋編[1996:212])

★「Q:ダウン症群とは?
A:細胞の核内部にある遺伝子の塊(かたまり)を染色体と呼びますが、ダウン症候群の人には細胞核内に21番染色体が1本分余分に存在します。そのため身体ができあがる過程で、都合が悪いことが起こりやすくなり、生まれた後に知的発達障害、運動発達の遅れを示したり、多種類の合併症を示します。
Q:そのダウン症候群の障害の程度は、常に共通しているのですか?
A:いいえ。ダウン症候群の体質をもっていても、一人ひとり障害の様子は異なります。少数ではありますが、ほとんど健常者と差がなく、社会的に活躍している人もいます。しかし、大半の方たちは、ある程度のハンディキャップを負っています。」

ジェンザイム・ジャパン株式会社 1995?『AFP3スクリーニングテスト・羊水染色体          検査 検査案内』
飯沼 和三  1994 「遺伝相談の実際」,『産科と婦人科』61-5:668-672(84-88)
飯沼 和三・北川 道弘 1994 「出生前診断に関する告知とインフォームド・コンセント」,『小児内科』26-4:539-543◆
飯沼 和三・恩田 威一 1994 「日本における出生前特殊スクリーニングの現状――トリプルマーカーによるダウン症検査について」(対談),『The
Medical & Test Journal』433:4-5
黒柳 弥寿雄 1994 『尊厳死を考える』,岩波書店,シリーズ生きる,250p. 2200◆
永田 行博・堂地 勉・竹内 一浩 1996 「胚生検−受精卵の着床前遺伝子診断」,日本不妊学会編[1996:163-171]◆
松田 一郎  1995 「遺伝子診断とインフォームドコンセント」,武谷編[1995:108-116]◆
日本不妊学会 編 1996 『新しい生殖医療技術のガイドライン』,金原出版,241p.
6500
日本人類遺伝学会 1994 「遺伝カウンセリング・出生前診断に関するガイドライン」,
(日本人類遺伝学会「遺伝相談・出生前診断に関する委員会(松田一郎委員長会告,1994年12月5日承認)→武谷編[1995:10-18],
新川・福嶋編[1996:139-141]
―――――  1995 「遺伝性疾患の遺伝子診断に関するガイドライン」(1995年9月),
→新川・福嶋編[1996:246-247]
新川 詔夫  1995 「出生前診断と遺伝カウンセリングにおける倫理的諸問題」,武谷編[1995:125-129]◆
新川 詔夫・福嶋 義光 編 1996 『遺伝カウンセリングマニュアル』,南江堂,
275p. 3605
佐藤 孝道 編 1996 『染色体以上の出生前診断と母体血清マーカー試験』,新興医学出版社,124p. 4429◆
新川 詔夫・福嶋 義光 編 1996 『遺伝カウンセリングマニュアル』,南江堂,
275p. 3605
鈴森 薫   1995 「胎児診断の実際と展望」,武谷編[1995:10-18]◆
武谷 雄二 編 1995 『出生前診断をめぐって』,医歯薬出版,別冊・医学のあゆみ,141p.
堤 治・飯田 卓・武谷 雄二 1995 「出生前診断の現況」,武谷編[1995:2-7]◆



■その他

★「 日本の貧弱な社会福祉体制を考えると,個人的に多大な労苦を背負い込むことになる障害児の出産を,親があらかじめ回避してしまうこと自体を,単純に責めるわけにはいかない。[46]しかし,きわめて身近にダウン症の子供がいて,その子との交流を楽しんでいる身としては,見過ごすことのできない問題である。そこには別の問題もからんでくる。「生む生まないは女の決定事項」だとするフェミニズムの主張に私は賛成している。だからといって障害児を胎児の段階で排除するという決定まで,母親の自己決定権だけに委ねてよいのであろう。この問題をきちんと考えるだけの余裕がいまはないのだが,とりあえず少なくとも優生的な観点から「生殖質選抜」とは別個の立場に立った理由づけが存在しないと,話が進まないと思われる。」(山崎カヲル[1996:46-47])

★「…出生前の診断は,病気や障害を持っている胎児の中絶を前提に行われる。すなわち,出生前淘汰であり,障害や病気をもって生きることを否定する考え方であり,あらかじめさまざまな可能性をもっている人を,障害や病気を理由に産まれないようにすることである。また出生前淘汰の広がりは,障害や病気を否定し,いま障害や病気をもって生きている人達への差別を広げていくことになる。この出生前診断が,着床前に行われるようになれば,抵抗感は少なくなり,スムーズに優生学の目的は達成される。」(天笠啓祐[1996:57])

★「胎児診断への批判に対して,産むか産まないかは母親が決めることだから,ナチズムにはならないというのは,これまでも批判を受けるほうの方々から何度も聞かされてきたこだから,今さら驚きはしません。でもこれをおっしゃる時は,どなたもいいわけめいてウジウジとしておいでになった。…それはご自分がいっているのが屁理屈だとわかっているのと,選択的中絶が日本では非合法だということによっているんだと思う。けれどもあの方は「自己決定権」などという,”体制側”に身を寄せる人には口にもしたくなかったはずのものを正面にかかげて,マスメディアで,堂々とにこにことそれをお話なさった。こんなことは日本ではおそらく松田一郎さんが初めてです。NHKはその歴史的瞬間を映像におさめたわけだと,私はへんに関心しちゃったりしているのだけれども,きっとなにかあるんですね。この人・選別学研究の大御所をして,非合法屁理屈をあたかも倫理を語るがの如くに語らしめるなにか大きな変化が。その直接のものが何なのかについては,もう少し調べてみるつもりですが,背景にある技術的状況は,屁理屈が正義になってもおかしくないほど激しく動いてしまっている。そのことを松田先生のにこやかなお顔から読みとるべきなんでしょう。」(福本英子[1996:60])

★「…最近ことに伴性劣性遺伝病、例えば血友病や筋ジストロフィー症の直接的なDNA診断法の進歩によって、性別判断による正常男子を中絶することなく、患児のみの中絶に踏み切ることができた。このような先天異常に対する医者、個人の信念が問われるところであり、結果としての妊婦の希望がいずれにしても、できる限りフォローして対応することが肝要である。」(藤木典生[1996:73])

 第一文は出生前診断に対する肯定的な評価を導こうということだろう。第二文は、全体として意味不明…(立岩[1997]注)

★「筋ジスは、身体的苦痛と生活上の不便をもたらし、将来に対する不安を引き起こしている。それゆえ、現時点では治せない「障害」なのは致し方ないにしても、やがて治せる「病気」になっていくほうがよいと考えることはできる。…だが現時点では、筋ジスは治すことができない」A「生まれてきた罹患者を治せないがゆえに「筋ジスをなくす」医療は、筋ジスにかかった人から筋ジスという偶然的属性を取り除くのではなく、筋ジスをもつ人を根こそぎ存在させないという「予防」の形をしばしば取ってしまう。…出生前診断、…受精卵診断、…女児生み分け、…「優生手術」などがそれに当たる。」B「遺伝子診断は「筋ジスをもった人を存在させない」ために用いられる限り、筋ジス者を貶める眼差しに基づき、その眼差しの再生産に加担することになり、倫理的にみて望ましくない医療となる。」C「しかし、このような遺伝子診断は倫理的に望ましくない医療であるが、かといって禁止すべきでもない。…倫理的にみて望ましくない行為であっても、その行為を社会的に禁じるべきではない場合がある…。」(白井・丸山・土屋・大澤[1994:201-202])

 BからCに移っていくところに論証がないといった点も指摘されようが、ここではBのように言いうるかどうかである。(立岩[1997]注)

 「そもそも、個人に命の質を選ばせない、というのは恐ろしいことだ。それを優生学だといって批判するなら、まずは自由恋愛を禁止すべきだということになるからだ。/われわれは日常的に命の質を選んでいる。才能があるからといって仕事を依頼する。性格がよいからといって友だちに選ぶ。そして配偶者選択においては、この社会で評価されている特性をもつ人を選ぼうとする。…そして自由恋愛を通じて、結果的に個人は自分の未来の子供の質を選んでいる。例えば頭のよい子が欲しいから頭のよい人と結婚しよう、などというのがそれだ。/われわれはどうしようもなく社会から影響を受けている。そもそもどんな人に性的魅力を感じるかということでさえ、社会の影響を無視しては語れない。被差別者の結婚難問題はそもそもここに起因する。/だが、だからといって個人の自由恋愛を禁止すべきだろうか。特定の人を愛することは差別であり偏見であるからやめることにして、例えば配偶者選択は無作為抽出によって「かけあわせる」ことにする、といったことが可能だろうか。/遠い将来にはそうした「かけあわせ」が正しい、とみんなが考える社会も到来するかもしれない。だが現時点では無理である。自由は大切であり、とくに恋愛や生殖が、個人の自由の中でもっとも守られるべきプライベートな領域であるとわれわれが考えている以上は、恋愛や生殖を通じて個々人が「命の質を選んで」ゆくことは避けられないであろうし、また避けるべきでない。」(永田えり子[1995a:140-141])

このような主張についても、第8章および本章で答えた。


……
 意識調査もいくつかある。白井泰子らの調査(白井他[1977][1978][1979a][1979b][1980][1981][1982][1985][1986])は、毎回異なる対象をとり、数年に渡って行われ属性別に集計されたもので充実している。詳しく紹介できないが、例えば、第一子にダウン症の子を持つ若い母親の第二子妊娠の場合を想定し羊水診断の受診を希望するとした者が八〜九割を占め、さらにその中でやはり九割以上が、胎児に異常があると診断された場合人工妊娠中絶を受けたいとしていることが知られる。他に毎日新聞社人口問題調査会や総理府広報室による調査がある(これらの概要を記したものとして白井[1990])。また高瀬悦子らの羊水診断を受けた母親に対する意識調査の報告(高瀬他[1987a][1987b][1988])、安藤広子の妊婦に対する羊水穿刺についての意識調査(安藤[1994a][1994b])がある。
 この技術に関連し、何らかの主張がなされているものとして、横塚晃一[1975→1981]、横田弘[1979]、福本英子[1982:210-231]、荒木義昭[1983]・横田弘[1983]・西山昭子[1983]等を掲載している『季刊福祉労働』二一号、江原由美子[1985:126-137]、大橋由香子[1986]、棚沢直子[1987]、木村資生[1988:268-278](→注■)、金井淑子[1989:54-91]、やぎみね[1986:]、日本臨床心理学会編[1987](石神亙[1987]、篠原睦治[1987b])、石川憲彦[1988]、上埜さと子・青海恵子[1988:56-57]・山田真[1988:156-165]を掲載する古川・山田・福本編[1988]、川島ひろ子[1988:70-71]、長沖暁子[1988:87-88,92-93]、向井承子[1990:135-147]、稲垣貴彦[1990]、加藤秀一[1991a]、飯沼・大泉・塩田[1991:213-215]、加部一彦・玉井真理子[1994]、DNA研究会編[1994:41-43]、石井美智子[1994:192-193]、黒柳弥寿雄[1994:214-215]、飯沼和三[1994:671-672]、飯沼和三・北川道弘[1994:50-52]、永田えり子[1995a:136-141]、堤治・飯田卓・武谷雄二[1995:4]、鈴森薫[1995:17]、竹内一浩・永田行博[1995:67]、松田一郎[1995:115]、白井・丸山・土屋・大澤[1996](関係部分の執筆は土屋貴志)、青海[1996]・山崎カヲル[1996:56-57]・天笠啓祐[1996:57]・福本英子[1996]◇等を含む『インパクション』97、佐藤孝道編[1996:87-97]、藤木典生[1996:73]、新川詔夫・福嶋義光編[1996:16]。

 
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■出生前診断について:女性

◇平塚らいてう「避妊の可否を論ず」「再び母性保護問題について」
 『むしろ女人の性を礼拝せよ」,人文書院,1979
 (池田祥子『[女][母]それぞれの神話──子産み・子育て・家族の場から』,
 明石書店,199004,p.133に引用)
◇田中美津「ああ,もうやんなんちゃった〜 デモ夏負けはしても負けちゃいられ
 ない『優生保護法阻止』なのダ! <テーマ>堕胎の権利」
 『リブニュースこの道ひとすじミニ版』2(19730710):8-9,12-13)
◇『リブニュースこの道ひとすじ』10(19740420):2-3
◇「女の視点から闘い抜け!優生保護法(=中禁法)改悪を許すな!
 「中絶は女の権利」は障害者差別ではない!」
 『ネオリブ』28号(19730831):1-2)
◇小沢牧子[1987:338] 斉藤千代[1983]を引用
◇やぎ[1986:232]
江原由美子「リブ運動の軌跡──乱れた振り子」
 『日本読書新聞』8401-05連載→江原[1985:133-134]
金井淑子[1985:113-115]
◇金井淑子[1989:59-63]
駒野陽子[1989:125-126]
◇金住典子[1989:203-205]
◇米津知子 19730422「青い芝」神奈川県連合会主催の優生保護法改悪反対集会で
 の「新宿リブセンター」からの発言として→『あゆみ』
◇西山昭子[1983:28-29]…CPの女性
◇上埜さと子・青海恵子[1988:66-69]…青海の執筆部分

★「優生学的立場から,法律によってある種の個人に対し結婚を禁止したり,断種法の施行を命じたりする事は我国でも今すぐにでも望ましいことです。」「もしまた不真面目で,怠惰で母の職能を尽くさないような婦人があった場合には,その時こそ国家は適当な方法で,たとえば報酬を与えないとか,その上子供も取り上げてしまうとかいうようなことで,処罰したらいいでしょう。」(平塚らいてう「避妊の可否を論ず」「再び母性保護問題について」『むしろ女人の性を礼拝せよ」,人文書院,1979(池田祥子『[女][母]それぞれの神話──子産み・子育て・家族の場から』,明石書店,199004,p.133に引用)

手元に江原由美子氏から貸して頂いた70年代初期の「リブ新宿センター」の機関紙『リブニュースこの道ひとすじ』と「中絶禁止法に反対しピル解禁を要する女性解放連合(中ピ連)」の機関紙『ネオリブ』,等がある。これについての本格的な検討はまた別の機会に行うが,大雑把な印象をとりあえず記しておく。
 「リブ新宿センター」は,自身障害者である米津知子などもいて,障害者との関係についてかなり議論もし,障害者とともに闘うという姿勢をもっている(「産める社会を産みたい社会を」)。それに対して,「中ピ連」はあくまで,運動の主眼を妊娠・出産に関する女性の自己決定権においた(「中絶の女の権利」)。Firestone などの思想に近いものをもっていたようでもあり(彼女の本も機関紙で紹介されている),妊娠・出産・育児を女性に課せられた負担と捉える。障害者についての言及は機関紙の中では少ない。とはいえ,両者の差は時によりきわめて微妙で,同じだと言っていいところも多い。けれども両者は対立しつつ,70年代初頭の女性解放運動を担った。
 他にいくつか書かれたものを取り上げるが,その論理を検討しつくすことはここではしない。やはりいくつかの引用を行うにとどめる。特にこの項にもってくる必要のないものもあるが,まあそれはいいだろう。

★「(A)「産みたかったら自由に産める社会になっても,どうしても産みたくない女っていると思うの。それが例えば自分に似た顔の子は産みたくない,という理由であっても,中絶は認められてしかるべきもの。そう考えていくと,中絶はどこまでも女の権利だと思うんだけど,そう主張することと「障害者」問題との矛盾をどう考えたらいいのか…」/(B)「「障害者」問題を前面に押し出して,堕胎の権利に異義をとなえる人々は,もし自分が「障害児」を孕んだら,絶対に中絶せずに産むつもりなのかな。また,「障害者」が子供を持とうとした時,もし「障害児」が産まれたら,という不安を果たして,持たなかっただろうか。もし「障害児」だったら,子供を殺して自分も死のうと思った,とある「障害者」のヒトがいっていたけれど,この重いことばの底に,女と「障害者」を結んでいく接点があると思うのだけれど…」/(A)「「障害者」運動総体,女性解放運動総体として問題をたてるのではなく,自分はどうなんだ,という本音のところから出発しないと,女と「障害者」は相互に接点を見い出しえない。もろもろの差別問題がいつまでも<糾弾はやり易し,接点は見い出し難し>じゃ困る。闘う内部で問いつめあってエネルギーを消耗し,社会に向けて攻撃力を持ちえなかったり,持ちえても,自分たちがやった,あついらはやらなかった,という新たな糾弾の道具にしたり。(「障害者」問題そのものが糾弾の道具化する。)とにかくも自分との関わりにおいて論じれば,そうそうキレイごとは云っておられないし,個のエゴから発して普遍にせまるプロセスを個々がモノにしていくこと,これが大切だ」……」
「堕胎は女の権利であり,産み育てる権利に他ならない。すなわち,未婚\既婚を問わず産みたければ自由に産み育てられる社会的条件の獲得……に向けて闘っていく中でこと、<産む\産まぬ>の主体的選択の権利,即ち堕胎を真に権利化していけるのだ。/……抽象的だが,今云えることは,産み育てる権利(=堕胎の権利)の獲得とは,たとえ子供が「障害児」であっても,産みたければ産める社会的条件の獲得を根底にしたものでなければならないということだ。つまり女な産む\産まぬの選択を真に主体化していくための権利の獲得は,本来「障害者」解放と敵対するものでは決してない。/あたしたちは,産み育てる権利(=堕胎の権利)を社会に向けて要求すると共に,こんな社会だから・・・,と己れを正当化することなく,産みたかったら自由に産める状況づくり──それはまず,仲間づくりから始まるだろう──を生活の「かたち」を新しく創りあげる闘いとしてやっていこうではないか。そうなのだ。後者の試み抜きに,権利だから堕胎できる,というんじゃダメなんです。」(田中美津「ああ,もうやんなんちゃった〜 デモ夏負けはしても負けちゃいられない『優生保護法阻止』なのダ! <テーマ>堕胎の権利」『リブニュースこの道ひとすじミニ版』2(19730710):8-9,12-13)

★「……他人の目がナゼか気になる。いつも自分以外のもののために生かされている,自分で自分の人生を選んでいない人は,例え人がいようと車があろうと一児の母だろうと,わたしたちは個々の飢ガから,その存在の不安から逃れられない。そしてなお悪いことに,人間,己れを満していないと,他人にもやさしくなれないものなのですョ。/そして又,つまらない生活の重圧に,ただ耐えているような日常を送っていると,それだけでもう重くって,それ以上にかかってくる肩の荷があれば,是が非でも,軽くしたいと願うものだ。面倒なもの,足手まといなものを切り捨てて,身軽るになろうと──。/兵庫県や岡山,福岡,神奈川県等の行政レベルですでに実施されている羊水チェック(妊婦の羊水をチェックして,胎内にいる胎児の,その遺伝性の障害の有無を調べる検査。)。/すでに「障害児」をもってる女や,持つやもしれぬ不安に怯える女を対象としているそれは羊水チェックに無関心でいられる(つもりの)女たちの,愚民政策にドップリはまり込んだその日常,そのむなしさ故に己れをも他人をも傷つかせ,とにかくお荷物はしょい込みたくない想いの,その価値観を通じて支えられていくのだ。「障害者」差別を深めていくのだ。/誰しも,「差別」しようとして差別する者はいない,とあたしは思う。にも関わらず,我が身を差別者にしてしまう,その構造をこそ女は知ろう!「健全者」の女は「健全者」の女の日常の立場から羊水チェックを粉砕していこう!」
(『リブニュースこの道ひとすじ』10(19740420):2-3)

★我々(中ピ連)は,優生保護法・堕胎法を中絶禁止法ととらえ,今回の(73年)改悪はそれをより強化するものととらえ,「中絶は女の権利」であることを主張してきた。「ところが我々の主張に対し,「『生む生まないは女が決める』となると,実際には胎児が障害者だとわかった場合おそらく誰も生まないだろう。つまりそれは政府の肩がわりに過ぎず,それは障害者差別である。」という論理でもって反対し我々の運動の足を引っぱってきた部分がかなりいる。/おそらく障害者にとっては,”障害者だから中絶する”ということは自分達が抹殺されるような気がしたに違いない。しかし,今の社会で,女に対し”障害者でも生め”ということはいったいどの様な事態を意味するのか!それはまさに生んだ女に対する死の宣告であろう。(障害児を生んだ場合に限らないが)ほとんどの生んだ女にとって育児が強制されることは明白なことであり,そのことによって女は殺されていくのである。障害者を生むか生まないかは,女にとっては自分が生きるか死ぬかのぎりぎりの選択であり,それは女自身にしか選択できない問題である。このことは胎児が健丈者である場合であっても,多くの女にとっては同じである。育児を強制された女がどれだけ死んでいるかは商業新聞の心中,自殺の欄を見ただけでも少しはわかるであろう。/現社会において,女に対し「障害者でも生め」というのは,障害者が生きようとするエゴであり,女が「障害者だから生まない」というのは自分が生きるためのギリギリの譲れないエゴであり,これは生きようとする者のギリギリのエゴとエゴのぶつかり合いにほかならない。そのことを「差別」と称し,だから「中絶は女の権利」といえないといのは,我々の運動の足を引っぱる以外の何ものでもないだろう。我々は胎児が障害者だろうと健丈者であろうと生む生まないは女が決めることであり,「中絶は女の権利」であることをこれからもはっきりと主張していく。障害者の問題,子供を育てられない状況を変える問題は社会福祉・社会変革の問題であり,それぞれの立場からの闘いが必要なのであって女が中絶の権利を要求する運動は,障害者の運動に何ら敵対するものではない。/……/現在の資本主義社会においてはあらゆる人間関係にある区別がすべて差別ほママなりうる。意識するしないにかかわらずこの体制内に生きていること事体ママが差別をささえているのである。
/たとえは,女に対する男。障害者に即ママする,健丈者。在日朝鮮人に対する日本人等々。
このような差別の重層構造を根底とした社会に存在している限り,いくら「私は…を差別していない」と言おうが言うまいが,差別の関係から抜け出ることは決してできない。/
それゆえ,それぞれが,それぞれのおかれた状況から差別と闘っていくことこそが,一番強固な運動となり得るであろう。/……」(「女の視点から闘い抜け!優生保護法(=中禁法)改悪を許すな! 「中絶は女の権利」は障害者差別ではない!」『ネオリブ』28号(19730831):1-2)

★1983年の全国障害者解放運動連絡会議全国交流会の医療分科会において「”産む産まないは女の権利”というジョカイ(女性解放運動)側の主張の傲慢さを口々に訴えるはらわかたらしぼり出すような声を聞きながら,私は自分の中のことばが凍っていくのを感じた。
 私が衝き動かされたのは,彼女ら彼らをしてそこまで言わせた怨念の深さだった。母親に首を絞められかけた,と一人ならず二人もの口からなまなましく告発されたとき,私はことばを失った。
 そのとき父親はどこにいたのか,殺そうとした母もまたあわれではなかったか,という問いかけは,見事に野次り倒された。妊娠を「おめでた」として迎えられる健常者に,「いかがわしい」とさげすまれ「処置」される側の痛みがわかるか,自らの優生思想を洗い直して出直せ!……障害者と女の問題はひと続き,と考え続けてきたつもりではあったが,これほどに心ふるえる思いで声を聞いたことはあったろうか──。

 斉藤はしかし,つづけて,結婚の翌年,脳性マヒの子を産んだために「母方の悪い血統」を理由に子とともに家を追われた友人の苦難を語り,「自分の人生は自分で選ぶ」という主張は女にも障害者にも共通のものであるはずであること,沖縄の言葉で,はらわたがふるえるという言葉があるが,両者がそのような体験を交わし合うことで,分断を連帯に変えていきたいと結んでいる。」(小沢牧子[1987:338] 斉藤千代[1983]を引用)

★「…子どもを産まないは生き方の選択は「生活力も体力も気力も乏しい女」であろうとなかろうと誰にでも自由なのだ。ただ子どもを産み育てることが,そして障害者を産み育てることが,仮に「重荷」であり,束縛であるとしても,そこから解放されて得る「自由」の中身とは何だろうと思う。女も男も含めて,生き方の自由な選択というのは果たして本当にあるのだろうか。実は狭い枠組みのなかで選択させられた結果を生きているような気もする。
 確かに,産むかどうかの最終的な選択の決定は女が決めなければならない。だからこそ,女にとっての緊急避難の場としての中絶は保障されるべきだと思っている。…女もまた「産む・産まない」決定する女自身の意識のなかに,国の生命操作を肯定する論理に同調してしまうあやうさをもたされているのではないかと思う。そこで,今こそ,障害者の主張と女の論理を対立させるのではなく,両者を抑圧し,分断しているものを明らかにし「個別に撃ち,共に撃つ」闘いが必要とされるのだ。」(やぎ[1986:232] この後江原[1985:133-134]金井淑子[1985:113]を(いずれも下に引用)引いている。)

★女自身が国家に加担して障害者抹殺を自発的に行っていくという危険性をはらんでいるとしても「生命に関する技術が進歩し,生死が「自然」の問題ではなく人間の意思決定の問題となってきつつある現在において,医療の論理や国家の論理による強制的決定に人間の生命をゆだねるのではなく,たとえどんなにあやうくとも,各個人の意思決定にゆだね,それを信頼するしか方法はないのではあるまいか」(江原由美子「リブ運動の軌跡──乱れた振り子」『日本読書新聞』8401-05連載→江原[1985:133-134])

★「「産む産まないは女の自由」とする論理は紙一重の差で生命操作を是とする論理に陥る危険性がある。(中略)。その(障害者と女性の)対立を止揚しうる方向こそがフェミニズムに問われている。それはおそらく女性が自らの女性性を抑圧することにおいてしか自己実現をはかりえない現実の社会のありようと,障害者を社会の不生産要素として排除することにおいて成り立つ社会のありようとの,その双方から社会の「質」を問う思想性の中からしか出てこないであろうと思われる。この観点から注目されるのが,今日ヨーロッパの女性解放運動の中に「リプロダクティブ・フリーダム(人類再生産の自由)をめざす運動が登場していることである。」「女性が自らの身体を自主管理し,性と生殖が個々ひとの人生の選択に委ねられるべきとするのが,リプロダクティブ・フリーダムの運動を推進するフェミニストたちの基本的な要求である。」(金井淑子[1985:113-115])

★「産む産まないは女の自由」 この時点での「自己決定権」の主張には,「母性からの逃走」のニュアンスも色濃く…(p.59) 「妊娠したとき障害がわかっても産めるか」 個々の女への踏絵として 非和解的対立(p.60) →「障害からの解放」ではなく「差別からの解放」(p.62)障害者の「障害」が重荷にならない関係を作る 女性運動,障害者運動どちらにも内在する近代的人間観のフィクション,すなわち「男並み」「健常者並み」という「平等」のフィクションが問いかえされる(p.63)(金井淑子[1989:59-63]
p.63にやぎ[1986]からの引用(『ポストモダン・フェミニズム』第二章「「障害者」問題と女性解放運動」p.54-91))

★「戦後日本では,優生保護法の中で中絶が認められてきた。女性の権利としてではなく,優生学的に問題のある胎児は中絶してもよい,という考え方が法律の根底にあるのだ。だから障害者グループは,優生保護法にずっと反対してきたし,胎児診断にも激しい反発の姿勢をとっている。障害者や,難病を抱えた人たちは,障害や,難病を持った胎児を中絶する女の選択を優生思想による障害者差別,だと鋭く告発する。
 確かに,健康な子どもを産みたい,という素朴な願いも,うらがえせば障害や病気を持った子はいらない,ということになり,差別につながるのかもしれない。だがいまの日本で障害や難病を持った子どもを産むことは,女性,とくに働く女性の人生に決定的な打撃を与える。胎児診断の結果,中絶を決意した女性をどうして責めることができよう。胎児診断の技術が開発されるとともに,女性たちは,自分の中の優生思想と向き合いつつ,自らの責任で,この重い選択をしなければならなくなったのだ。
 障害者の多くは,胎児診断の結果,障害のある胎児の中絶に踏み切った女性たちを許さない。だがそうした女性たちがすべて,優生思想の持ち主であり,障害者を差別する人たちだ,きめつけるのは当たっていない。そうした経験をしたからこそ,障害者の痛みを鋭く感じて,障害のある人への差別なくしたいと,強く願うようになる人たちもいるはずだ。詭弁だと言われるかもしれない。矛盾している,と言われてもしかたがない。
 しかし,現在の社会が,障害者にとって,また,障害者を抱えた家族にとって,生きにくい社会だからこそ,女性がやむをえず障害のある胎児の中絶に追いこまれるのだ。その意味では女性もこの社会の被害者である。働きながら出産しようとして,障害のある胎児を中絶しなければならなかった女性が,同じ痛みを抱えたもの同士として,障害者や,その家族を差別する社会をなくしたいと思うのはきわめて自然なことだ。障害を持った女性が出産したいと思ったとき,胎児にもまた障害がある,とわかったら,やはり中絶を決意せざるをえないのではなかろうか。この社会の同じ被害者同士である障害者と女性が,連帯することはできないのだろうか。」(駒野陽子[1989:125-126])

★「……受胎後,胎児診断によって胎児に障害が発見されたときは,自然妊娠の場合と同様に考えて,妊婦の産む・産まないの自己決定に委ねるべきである。
 医師が,障害を理由に中絶をすすめるのは,患者の自己決定権を侵害する違法な医療行為というべきである。また,胎児診断の技術の進歩によって,人々の子産みについての生命の質の選択意欲をあおるような傾向を医師がつくりだすことは戒められなければならない。
 あらゆる胎児診断の技術を導入して胎児の障害の有無の発見につとめるようなことは,誤った医療行為といわなければならない。また,このような患者の要求を医師が無条件に受け入れる態度も誤りである。
 日本でも,風疹により障害のある子どもが産まれたことを理由に,親が医師に対して損害賠償請求をする裁判例がいくつかあるが,このような場合でも医師は患者の自己決定権と中絶の自己決定権を侵害するような情報の提供や説明をしてはならないと考えるべきである。日本の裁判例は,法理論としては混乱をきわめているが,妊婦が風疹にかかったことを知った場合,医師は,障害児の産まれる可能性と確率について医学的に正しい情報を提供すれば,説明義務を尽くしたことになり,中絶をすすめるようなことがあってはならない。
 また,一般には実施できないような方法でしか発見できないような特別の医療技術の方法についての情報や機会を医師が患者に与えなかったからといって,医師の責任を問うことはできないというべきである。……
 生殖技術の本質は,たんに”不妊の治療”のためにあるのではなく,むしろ”良い子を産む=生命の質の操作”にこそあるといえる。障害胎児条項による出生管理や生殖技術等の合法化は,どこの国でも国民のニーズ,総意があるとして行われている。その意味では,生殖技術の問題は,国民一人ひとりが,人間の尊厳の価値を尊ぶか,子産みの自己決定権を確立するかという,人類としての価値選択を突きつけられている問題だということができる。
 したがって,日本の生殖技術の現状が,欧米に比較し,控え目であるからといって安心していい問題ではないことを強調しておきたい。」(金住典子[1989:203-205])

■障害を持つ女性

★「リブでは昨年の六月から,ずっと優生保護法改悪反対の集会デモを続けてきた訳ですけれども,そしてその中で一番最初に改悪の条文を見た時に一番怒りが沸いたのは,胎児チェックのところでした。
 これから生まれて来る障害者を抹殺しようと言うんだったならば「現に生きている障害者の私はじゃあどうすりゃいいんだ」と言う。そこが一番恐ろしかったし,そこが一番怒りの原点でした。だけれども運動を続けていく中で,私は重症の障害者については全くわからないんだと言う事を今痛感しています。
 ……
 私も保安処分だとか胎児チェックの出て来るずっと以前から,私はもう自分の中の そういった正常になろう,軽度障害って言うのは非常に微妙で,障害者の中にもなかなか入りきれず,かと言って五体満足にも入り切れずと言う,中間あたりをうろつくと言う,非常に惨ったらしい存在でもある訳なんですけれども。それじゃ,私がなんとかして正常な人間に紛れ込もうとする,そう言った志向性が既に胎児チェックそして保安処分の質を含んでいたんだのだと言う事をしみじみ考えます。
 ……五体満足な人間にとってはたかだか生産性をあげられる体を持ってしまった程度の事で,この体制の中で生きる事を許されたしまった,たかがその位の事じゃないかと言う,そういった惨ったらしさを自分の中で確認する事でしか。
 障害者が労働力とは成り得ない,あるいは私はもっと深いものがあるんだろうと思うけれども,その中でいちばん大きいと思う労働力とは成り得ないんだというところで切り捨てられた障害者の苦痛と連帯すると言う事は,多分,どこに居ようとも,どういう体を持っていようとも,この中で生きて行くと言うのは非常に惨ったらしくされるんだと言う,そういう事を確信するところからしか,連帯と言うのはありえないんだと思うんです。
 先程から,女と障害者その子供を,胎児チェックの事でいくつかの批判がありましたけど,このものすごい抑圧された世の中で,ここの中に生きている人間と言うのはとにかく,自分より強い者にはいつもいじめられて,ようやっと自分より弱い者に対してハケ口を見い出していくと言う,そういう,非常に惨ったらしいと言う言葉を使うんだけども,そういう惨ったらしい構造の中に置かれていると思うんです。そうしたと時に,私は軽度であり,そして子供を多分,私は妊娠した事はないけれども,多分子供を産む事が出来るだろうという予測の下で,もし私が胎んだ子供が障害者だったらどうしようかと言う事を時々考えるんだけれども,私は全くこう,革命的に障害児でも産むんだという事は,私はやはり非常に出来ないと言う気がするんです。それはとても,あまりに難しくて……。
 ……あの何んて言うか女が殺したんだと言うところで女が糾弾されると言うのは,一面では正当だけれども,でもやっぱり何故女に障害児殺しをさせたのだと言うところで権力に対する怨みとして怒りとしてそれを向けて行って欲しいという気がします。私はそうしていきたいと思っています。
 ……労働力を体制に対して売ると言う事ではなくして,ものを創り出して,こう,自分の体を動かして物を創ったんだという言う喜びを得る為に労働と言うか,一般に言われている金銭に計られる労働としての価値ではなくして,自分の何んて言うかしら,生きたっていう実感をこう,持てる様な意味での労働と言う事を言っているんですけれども。そう言った労働の場所を設ける事,そして勿論政府からタンマリと福祉の金をブン取る,福祉と言う言葉もいやらしいけれども,金をブン取らなくてはならないし,そう言った運動を繰り広げる事によって,ともかく障害者でも生きられると言う社会を実現して行く事でしか,やはり胎児チェックの粉砕と言う事は実質的にかちえられないんだろうと思います。」(米津知子:リブ新宿センター 3歳の時,小児マヒで右足が細い モナリザ展への車椅子での入場禁止に抗議した所謂「モナリザ・スプレー事件」の「主犯」でもある(この「事件」に関するパンフレットもある)。19730422「青い芝」神奈川県連合会主催の優生保護法改悪反対集会での「新宿リブセンター」からの発言として→『あゆみ』)

★「…産む権利ですが,果たして生まれてくる子どもは,女の権利で生まれ,またそういう意味で産んだとすれば,女の義務で育てていくというふうにならないか,それにいくつかの疑問にかられます。子どもは権利や義務で生まれ,育つものかということが,ひとつあります。
 もうひとつには,女性が産むことのすべてを一手に引き受けてしまっては,男の入るすきがなくなり,非常に数的に少ないが,女性のことや,生まれる子どもことを理解しようとしている男をも,敵にまわすことになりかねない危機があるのではないでしょうか。」)(西山昭子[1983:28-29]…CPの女性)

★「障害児とわかったら,産まない,産みたくない,産めない,というのでは,産むと決めていたはずの女の人の意識のなかに,やはり,障害者の存在を否定するものがあるといえるだろうし,障害者とは無縁でありたいという意識の反映でもあろう。
 しかし,障害者側からのこうしたつきつけには女の側にも言い分があるだろう。障害児を産めない社会が問題なのであって,まず,社会が障害児を産めるような社会に変わらなければならない,そっちの方が先なのだ,と。そして,社会の状況も整っていないなかで,障害児を育てる苦労を一身に背負いこまされてきたのも女ではなかったか,と。それはそもで一理ある。社会の現状を撃つという意味では。だが,社会の条件が整えば,障害児だとわかっても安心して産めるものだろうか? 障害児を安心して産める社会と言った時に,それはどういう社会を想定しているのであろう。どれほど制度的に社会福祉が充実しても,ここまでくれば大丈夫という基準はどこにもない。さらに,人々の意識のひだに優生思想がしみついているかぎり,そして,福祉というものが,強い立場にある者が弱い立場にある者を助けてやっているのだという思いあがりが残っているかぎり,障害(児)者は常に劣った存在であり,障害をもつことは恥ずべきことであり続けるだろう。
 障害者を排除する意識の裏には,永々として築かれてきた文化によってつくられた美意識が作用しているのではないだろうか。…美しいものを美しいと認めることと美しくないものを美しくないことによって乏めることは同義ではない。美しいものを美しいもの(p.66)として認識してきたのも文化なら,姿形だけの美しさを基準にして,それを排除しない思想をつくりあげていくのもまた文化ではないだろうか。
 もう一つ,中絶に対する障害者側の反論として,胎児と障害者を重ね合わせてイメージし,胎児が中絶されていくのは,障害者が殺されていくようだ,という言い方がされている。これは両者とも「自らの力では生きられないもの」として同列視する見方である。しかし,こうした見方は二つの点で矛盾している。一つには,胎児はいづれ母親の胎内を出て,子供から大人へと成長していくもので,自分の力で生きられない胎児の間だけ母親の胎内で保護されるべき対象だが,障害者が自分で自分を「自らの力では生きられないもの」として捉えたなら,障害を負ったその時から障害がなくなる時,つまり死ぬまで保護されるべき対象だということになる。…二つには,胎児はまだ生まれていない,それに対して,死は全てに生まれている,したがって,これはまた存在の次元が違うのだ。
 障害者が自分で自分を「自らの力では生きられない者」として規定すること自体が明確に誤りだといえよう。…(p.67)
 ここで明らかにしておかなければならないのは,中絶の権利と障害児の生きる権利は別の次元の問題だという点である。…,現在,産む,産まないの選択は,実質上,二度,行われている。最初の産む,産まないの選択は女の生き方の選択であり,女の主体性の確立の問題である。これは健常者,障害者を問わず,すべての女の問題である。…
 そして,二度目の産む,産まないの選択は,障害者差別の問題である。社会は健常者となる子供だけを欲している。健常者の女が健常児を産むことだけを期待している。その期待をうのみにするのか,それとも,障害児は人間という類のなかに生まれるべくして生まれてくる自然の摂理として迎え入れるのかどうか,である。これは,男,女を問わず,すべての人間の問題である。胎児の段階から,障害の発生予防という形で人間の選別を行う社会は,勢い,生まれてからの人間をも選別していく社会である。優生思想と生殖技術が補完し合う形でこのまま進んでいき,もし,仮に,障害者という存在が消滅したとして,そうした社会は次に何を選別するか?」(上埜さと子・青海恵子[1988:66-69]…青海の執筆部分)

■その他

「 日本の貧弱な社会福祉体制を考えると,個人的に多大な労苦を背負い込むことになる障害児の出産を,親があらかじめ回避してしまうこと自体を,単純に責めるわけにはいかない。[46]しかし,きわめて身近にダウン症の子供がいて,その子との交流を楽しんでいる身としては,見過ごすことのできない問題である。そこには別の問題もからんでくる。「生む生まないは女の決定事項」だとするフェミニズムの主張に私は賛成している。だからといって障害児を胎児の段階で排除するという決定まで,母親の自己決定権だけに委ねてよいのであろう。この問題をきちんと考えるだけの余裕がいまはないのだが,とりあえず少なくとも優生的な観点から「生殖質選抜」とは別個の立場に立った理由づけが存在しないと,話が進まないと思われる。」(山崎カヲル[1996:46-47])

「…出生前の診断は,病気や障害を持っている胎児の中絶を前提に行われる。すなわち,出生前淘汰であり,障害や病気をもって生きることを否定する考え方であり,あらかじめさまざまな可能性をもっている人を,障害や病気を理由に産まれないようにすることである。また出生前淘汰の広がりは,障害や病気を否定し,いま障害や病気をもって生きている人達への差別を広げていくことになる。この出生前診断が,着床前に行われるようになれば,抵抗感は少なくなり,スムーズに優生学の目的は達成される。」(天笠啓祐[1996:57])

「胎児診断への批判に対して,産むか産まないかは母親が決めることだから,ナチズムにはならないというのは,これまでも批判を受けるほうの方々から何度も聞かされてきたこだから,今さら驚きはしません。でもこれをおっしゃる時は,どなたもいいわけめいてウジウジとしておいでになった。…それはご自分がいっているのが屁理屈だとわかっているのと,選択的中絶が日本では非合法だということによっているんだと思う。けれどもあの方は「自己決定権」などという,”体制側”に身を寄せる人には口にもしたくなかったはずのものを正面にかかげて,マスメディアで,堂々とにこにことそれをお話なさった。こんなことは日本ではおそらく松田一郎さんが初めてです。NHKはその歴史的瞬間を映像におさめたわけだと,私はへんに関心しちゃったりしているのだけれども,きっとなにかあるんですね。この人・選別学研究の大御所をして,非合法屁理屈をあたかも倫理を語るがの如くに語らしめるなにか大きな変化が。その直接のものが何なのかについては,もう少し調べてみるつもりですが,背景にある技術的状況は,屁理屈が正義になってもおかしくないほど激しく動いてしまっている。そのことを松田先生のにこやかなお顔から読みとるべきなんでしょう。」(福本英子[1996:60])


 
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■出生前診断についての言説:その他

最首悟[1980→1984:80]
山崎カヲル[1996:46-47]
天笠啓祐[1996:57]
福本英子[1996:60]
藤木典生[1996:73]
白井・丸山・土屋・大澤[1994:201-202]
永田えり子[1995a:140-141]
石井美智子[1994:192-193]

★「わたしは心身共に健康な子を生みたいという願いを自然なものとして肯定します。しかし、そうは思わない不自然さも、人間的自然として認める余地はないのだろうか。」(最首悟[1980→1984:80],立岩[1997]第9章冒頭(p.273)に引用)

★「 日本の貧弱な社会福祉体制を考えると,個人的に多大な労苦を背負い込むことになる障害児の出産を,親があらかじめ回避してしまうこと自体を,単純に責めるわけにはいかない。[46]しかし,きわめて身近にダウン症の子供がいて,その子との交流を楽しんでいる身としては,見過ごすことのできない問題である。そこには別の問題もからんでくる。「生む生まないは女の決定事項」だとするフェミニズムの主張に私は賛成している。だからといって障害児を胎児の段階で排除するという決定まで,母親の自己決定権だけに委ねてよいのであろう。この問題をきちんと考えるだけの余裕がいまはないのだが,とりあえず少なくとも優生的な観点から「生殖質選抜」とは別個の立場に立った理由づけが存在しないと,話が進まないと思われる。」(山崎カヲル[1996:46-47])

★「…出生前の診断は,病気や障害を持っている胎児の中絶を前提に行われる。すなわち,出生前淘汰であり,障害や病気をもって生きることを否定する考え方であり,あらかじめさまざまな可能性をもっている人を,障害や病気を理由に産まれないようにすることである。また出生前淘汰の広がりは,障害や病気を否定し,いま障害や病気をもって生きている人達への差別を広げていくことになる。この出生前診断が,着床前に行われるようになれば,抵抗感は少なくなり,スムーズに優生学の目的は達成される。」(天笠啓祐[1996:57])

★「胎児診断への批判に対して,産むか産まないかは母親が決めることだから,ナチズムにはならないというのは,これまでも批判を受けるほうの方々から何度も聞かされてきたこだから,今さら驚きはしません。でもこれをおっしゃる時は,どなたもいいわけめいてウジウジとしておいでになった。…それはご自分がいっているのが屁理屈だとわかっているのと,選択的中絶が日本では非合法だということによっているんだと思う。けれどもあの方は「自己決定権」などという,”体制側”に身を寄せる人には口にもしたくなかったはずのものを正面にかかげて,マスメディアで,堂々とにこにことそれをお話なさった。こんなことは日本ではおそらく松田一郎さんが初めてです。NHKはその歴史的瞬間を映像におさめたわけだと,私はへんに関心しちゃったりしているのだけれども,きっとなにかあるんですね。この人・選別学研究の大御所をして,非合法屁理屈をあたかも倫理を語るがの如くに語らしめるなにか大きな変化が。その直接のものが何なのかについては,もう少し調べてみるつもりですが,背景にある技術的状況は,屁理屈が正義になってもおかしくないほど激しく動いてしまっている。そのことを松田先生のにこやかなお顔から読みとるべきなんでしょう。」(福本英子[1996:60])

福本 英子  1996 「生命倫理について」,『インパクション』97:58-65 <432>

★「…最近ことに伴性劣性遺伝病、例えば血友病や筋ジストロフィー症の直接的なDNA診断法の進歩によって、性別判断による正常男子を中絶することなく、患児のみの中絶に踏み切ることができた。このような先天異常に対する医者、個人の信念が問われるところであり、結果としての妊婦の希望がいずれにしても、できる限りフォローして対応することが肝要である。」(藤木典生[1996:73])

 第一文は出生前診断に対する肯定的な評価を導こうということだろう。
 第二文は、全体として意味不明…(立岩[1997]注)

★「筋ジスは、身体的苦痛と生活上の不便をもたらし、将来に対する不安を引き起こしている。それゆえ、現時点では治せない「障害」なのは致し方ないにしても、やがて治せる「病気」になっていくほうがよいと考えることはできる。…だが現時点では、筋ジスは治すことができない」1.「生まれてきた罹患者を治せないがゆえに「筋ジスをなくす」医療は、筋ジスにかかった人から筋ジスという偶然的属性を取り除くのではなく、筋ジスをもつ人を根こそぎ存在させないという「予防」の形をしばしば取ってしまう。…出生前診断、…受精卵診断、…女児生み分け、…「優生手術」などがそれに当たる。」3.「遺伝子診断は「筋ジスをもった人を存在させない」ために用いられる限り、筋ジス者を貶める眼差しに基づき、その眼差しの再生産に加担することになり、倫理的にみて望ましくない医療となる。」4.「しかし、このような遺伝子診断は倫理的に望ましくない医療であるが、かといって禁止すべきでもない。…倫理的にみて望ましくない行為であっても、その行為を社会的に禁じるべきではない場合がある…。」(白井・丸山・土屋・大澤[1994:201-202])

 BからCに移っていくところに論証がないといった点も指摘されようが、ここではBのように言いうるかどうかである。(立岩[1997]第9章注)

★「そもそも、個人に命の質を選ばせない、というのは恐ろしいことだ。それを優生学だといって批判するなら、まずは自由恋愛を禁止すべきだということになるからだ。/われわれは日常的に命の質を選んでいる。才能があるからといって仕事を依頼する。性格がよいからといって友だちに選ぶ。そして配偶者選択においては、この社会で評価されている特性をもつ人を選ぼうとする。…そして自由恋愛を通じて、結果的に個人は自分の未来の子供の質を選んでいる。例えば頭のよい子が欲しいから頭のよい人と結婚しよう、などというのがそれだ。/われわれはどうしようもなく社会から影響を受けている。そもそもどんな人に性的魅力を感じるかということでさえ、社会の影響を無視しては語れない。被差別者の結婚難問題はそもそもここに起因する。/だが、だからといって個人の自由恋愛を禁止すべきだろうか。特定の人を愛することは差別であり偏見であるからやめることにして、例えば配偶者選択は無作為抽出によって「かけあわせる」ことにする、といったことが可能だろうか。/遠い将来にはそうした「かけあわせ」が正しい、とみんなが考える社会も到来するかもしれない。だが現時点では無理である。自由は大切であり、とくに恋愛や生殖が、個人の自由の中でもっとも守られるべきプライベートな領域であるとわれわれが考えている以上は、恋愛や生殖を通じて個々人が「命の質を選んで」ゆくことは避けられないであろうし、また避けるべきでない。」(永田えり子[1995a:140-141])
このような主張についても、第8章および本章で答えた。(立岩[1997]第9章注)

 法学者の見解としては次のようなものがある。
 「子どもが重度の障害を負って生まれる可能性が高い場合(胎児適応)が、合法的妊娠中絶理由として認められていない。この適応は諸外国においても、一九五〇年代の風疹の流行、一九六〇年代のサイドマイド禍による先天性障害児の出生、それに対する羊水検査等の出生前診断技術の急速な進展があった後、合法的な妊娠中絶理由の一つに加えられるようになった。したがって、いまだ先天性障害児出生の原因も明らかでなかった時代に成立した同法が胎児適応を含まないことは当然といえよう。しかしながら、優生保護を目的とする同法が障害児の出生が確実な場合を合法的な妊娠中絶理由としていないことは首尾一貫しないともいえる。
 そこで政府は胎児適応を新設しようとしたけれども、胎児適応を認めることは、障害児の生存権を否定する差別思想につながるという強い反対にあって、胎児条項を改正案から削除せざるをえなかった。確かに、障害を負って生まれる胎児は殺害してもよいという考え方は否定されなければならない。しかし、障害者に対する福祉が貧困な現状において、誰も親に障害児を産むことを強制しえないという意見にも否定できないものがある。現行法の下でも、障害が遺伝性のものの場合には十四条一項の一号または二号に該当することが多いであろうが、その他の場合には、障害児の妊娠または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害する虞れがあるものとして四号により人工妊娠中絶を行いうると解されているようである。」(石井美智子[1994:192-193])


 
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■親…

★意識調査がいくつかある。特に白井らの調査([1977]〜)は,毎回異なる対象
をとり,数年に渡って行われ属性別に集計されたもので充実している。詳しく紹介
できないが,例えば,第一子にダウン症の子を持つ若い母親の第二子妊娠の場合を
想定し羊水診断の受診を希望するとした者が8〜9割を占め,さらにその中でやは
り9割以上が,胎児に異常があると診断された場合人工妊娠中絶を受けたいとして
いることが知られる。
 この文書の末尾にそれをまとめた白井[1990]に掲載された表を付す。

★他に毎日新聞社人口問題調査会や総理府広報室による調査がある。
 毎日新聞社人口問題調査会[1984]:50歳以下の既婚女性を対象にし,条件つき
で中絶を認めるとした1180人の回答者のうち胎児の異常を理由とした場合は94.4%
が中絶を認めると回答している。
 また総理府広報室の調査:良いと思うと回答した者が六三・六%(男性六一・五
%,女性六五・三%),良いとは思わないと回答した者が二四・七%(男性二七・
二%,女性二二・七%)となっている。
 (これらの概要を記したものとして白井[1990])。

★高瀬悦子(金沢医大・人類遺伝研究所臨床部門)らによる,羊水検査を受けた母
親に検査を受けた理由や胎児に以上が認められた場合の態度を聞いた高瀬らの調査
報告:羊水検査を受けた理由は自分や夫が遺伝病の保因者であるものが12%,高齢
妊娠が32%,前の子が障害児であったもの36%,親戚に障害児がいるもの12%/胎
児に異常がみられた場合には「産むべきではない」とするものが52%,「程度によ
り出産する」43%/「程度による」とした母が受入れられる障害の程度を尋ねた項
目:「子供の背が低い」38%,「軽度の知恵遅れ」25%,「将来の不妊」25%,
「中度の知恵遅れ」5%,「重度の知恵遅れ」6%,「ケイレンが起きる」0%
(高瀬他[1987],向井承子[1990:141]に紹介)

★Rodman et.al.[1987]:胎児の重篤な障害を理由として妊娠中絶を許容するとし
た者85年79%

★198605 慶応大学産婦人科の飯塚理八教授を筆頭とする研究グループがパーコー
ル法による男女の産み分けの成功を発表して,それが大きくマスコミ報道 飯塚が
開業医にも指導の機会を持ったことで開業医の間から臨床応用が始まったいた 開
業医の杉山四郎が主催する研究会では母体にリン酸カルシウムを服用させて89%の
成功率で既に2500人の男児を出生させたと主張 報道はその方法が開業医の営利目
的で数万円もの手数料をとっていることを指摘 日本医師会,日本産婦人科学会,
慶応大学医学部倫理委員会 制限の方向に 
 19860612 杉山四郎 マスコミ(『読売新聞』0612)を通して「産み分け続行宣
言」:遺伝病の治療に限るなどの「生命倫理」だけでは割り切れない母たちの悩み
が殺到している。女児ばかりを生んだ母たちは夫や夫の実家から跡取りを期待され
ていること,筋ジストロフィーの子どもがいるのだが女の子なら遺伝しないと聞い
たため,どうしても女児が欲しい,血友病の子どもを生後二日で亡くしてしまった
私たちにも子どもがほしい…。と杉山氏は山積みの手紙を見せながら,「家族の事
情に応ずるのは町医者の努めだ」と言い切り,「医学倫理とは別に家族制度のプレ
ッシャーにあえぐ主婦,遺伝病の恐怖にうろたえる夫婦にも倫理がある。日本医師
会,日本産婦人科学会の勧告が出るまではパーコール法による産み分けを続行する」
 反応 「医学の倫理ではなく哲学の問題」(水野肇)「自然の摂理に反する」
(中川米造)「医療の枠から逸脱,金儲けと結びつく危険」(松永英一)「やむを
得ない病気治療に限るべき」(樋口恵子)「特殊な遺伝病には福音,だが末端の安
全性は?」(中島みち) (向井承子[1990:135-137])

■補記

 他に,キーボードから入力しようと思ったが,下手すると全文入れてしまうこと
になってこれは大変だと思ってやめた以下の文章がある。

★1つは野辺明子がインタヴューに答えて語っているもの(グループ・女の人権と
性[1989:129-134])。この本でいろいろと書かれていることの全てに私自身は納
得しているわけではないけれども,最初の方にも書いたように情報源としてもなか
なか役に立つ本だし,そう高くもない(1700円:消費税込み)。買ってください。

★1つは堤愛子の文章。1990年11月の生命倫理研究会で話をしていただいた時に,
持参してきてもらったものである。

★1つはダウン症児・者の親の集い「こやぎの会」の会誌『こやぎ』の特集「出生
前診断を考える」226(19911010):5-7,「出生前診断を考える・2」,「出生前診断
を考える・3」227(19911110):3-10, 228(19911210):6-16。その一部は著者の一人
が,パソコン通信のネットワークNIFTY-Serveのフォーラム(会議室)FHANDに転載
しており,B0311000.TXTに収録されている。

 最後にこの資料の作成者自身の書いた文章として

★199205 「出生前診断・選択的中絶をどう考えるか」
 江原由美子編『フェミニズムの主張』,勁草書房,pp.167-202 65枚

★199209 「出生前診断・選択的中絶に対する批判は何を批判するか」
 『出生前診断を考える──1991年度生殖技術研究チーム研究報告書』,
 生命倫理研究会,pp.95-112 55枚

 『フェミニズムの主張』                定価2781円→2300円
『出生前診断を考える』(B5×195p.)          定価2000円→1600円
 送料350円。2冊目以降,1冊につき+50円
 でお頒けすることができます。郵便振替にて御送金下さい。

■この文書の執筆・編集の履歴

900920 「選択的中絶・と・障害者/女性の運動 VER.1.00」の中の一部として
    生命倫理研究会(於:明治大学大学院)で配布
900926 「同 VER.1.10」
    BS研(於:東京大学先端科学技術研究センター)で配布
……
901204 「同 VER.1.20」
901205 BS研で配布・報告
901210 東洋大学で配布・報告
……
910420 「選択的中絶・と…」を幾つかのFAILに分離 この文書を独立させる
    約1000行 52行×20頁 生命倫理研究会(於:学士会館分館)で配布
920709 日本について と 外国について を分離 若干の加筆
921006 僅かの細かな訂正・加筆 [48行]
930218 平塚らいてう 加筆[49行×14頁]
…… 980930 加筆


UP: REV:.... 20140918, 20
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