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臓器移植・脳死 2009

organ tranpslantation / brain death 2009

臓器移植・脳死 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2009
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□目次
できごと
メディア報道
諸団体・各界の意見・声明・要望・学習会等
   
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■できごと
・2009/04/21 衆議員厚生労働委員会臓器移植法改正審査小委員会 6名の参考人から意見聴取
・2009/05/27 衆議院厚生労働委員会で審議開始
・2009/06/05 衆議院厚生労働委員会で審議2回め
・2009/06/09 衆議院本会議にて厚生労働委員会より中間報告
・2009/06/16 衆議院本会議にて審議
・2009/06/18 衆議院本会議にてA案より採決 賛成263、反対167、無投票(欠席、棄権)47
・2009/06/26 参議院本会議にて臓器の移植に関連する2法律案の趣旨説明
・2009/06/30 参議院厚生労働委員会で審議開始
・2009/07/02 参議院厚生労働委員会で審議
・2009/07/06 参議院厚生労働委員会で審議
・2009/07/07 参議院厚生労働委員会で審議
・2009/07/09 参議院厚生労働委員会で審議
・2009/07/10 参議院本会議にて中間報告及び審議
・2009/07/13 参議院本会議にて採決
         A'案(総数207, 賛成72, 反対135)否決ののち、A案可決(総数220, 賛成138, 反対82)
   
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■メディア報道
臓器移植・脳死 メディア報道等 2009年4月
臓器移植・脳死 メディア報道等 2009年5月
臓器移植・脳死 メディア報道等 2009年6月上旬
臓器移植・脳死 メディア報道等 2009年6月下旬
臓器移植・脳死 メディア報道等 2009年7月
臓器移植・脳死 メディア報道等 2009年8月9月10月
臓器移植・脳死 メディア報道等 2009年11月12月
2009/11/08 新聞記事「自分なら、どうする:子どもからの臓器移植可能に――法改正で、来年から日本でも」 『京都新聞』
   
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■諸団体・各界の意見・声明・要望・学習会等
◆2009/05/12 生命倫理会議「臓器移植法改定に関する緊急声明」
 生命倫理会議 http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/
 記者会見 http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/2009/05/blog-post_9443.html
◆2009/05/17 人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>
 「臓器移植法の改定にあたっては、慎重かつ十分な議論をお願いします。」
◆2009/05/17 人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>
 「臓器移植法改定に対する緊急アピールについて(お知らせとお願い)」
 http://www.bakubaku.org/wataiki-apeal-media-oshirase.html
◇2009/05/27 第171回通常国会衆議院厚生労働委員会で審議開始
◆2009/05/28 難病をもつ人の地域自立生活を確立する会
 「脳死基準や判定、第三者の指示により、意思表示できない人の生きる権利を脅かさないで下さい」
◆2009/05/28 (NPO)DPI日本会議「臓器移植法「改正」に反対する緊急声明」
◆2009/05/29 (NPO)ALS/MNDサポートセンターさくら会「臓器移殖法「改正」に反対する緊急声明」
◆2009/06/03 (NPO)自立生活センターくれぱす「臓器移殖法「改正」に反対する緊急声明」
◆2009/06/03 全国「精神病」者集団「声明 命に甲乙をつける臓器移植法改「正」に反対する」
◆2009/06/04 茨城青い芝の会「障害者の生きる権利を脅かされる臓器移植法改訂に反対しよう!」
◆2009/06/11 生命倫理会議 「臓器移植法改定に関する徹底審議の要望」
◆2009/06/14 天田城介 「十分な医療の議論を」(『京都新聞』「臓器移植どう変える 法改定案採決へ」)
◆2009/06/16 小松美彦 「おざなりの国会審議」(『高知新聞』「揺れる臓器移植法(上)」)
◆2009/06/17 田中智彦 「命の線引きの残酷さ」(『高知新聞』「揺れる臓器移植法(中)」)
◆2009/06/18 倉持 武 「採決する前に熟考を」(『高知新聞』「揺れる臓器移植法(下)」)
◇2009/06/18 衆議院本会議にてA案より採決 賛成263、反対167、無投票(欠席、棄権)47
◆2009/06/18 生命倫理会議 「衆議院A案可決に対する緊急声明」
◆2009/06/21 「脳死」・臓器移植を問うれんぞく市民講座
◆2009/06/21 難病をもつ人の地域自立生活を確立する会
 「意思表示をしていない、できない人への脳死判定拡大をする臓器移植法A案に対する緊急声明」
◆2009/06/24 『臓器移植法』改悪を考える緊急院内集会(第14回)
 採決を急がせた「WHO新指針=渡航移植制限」はうそ! 参議院では慎重審議を!
◆2009/06/25 荻野美穂 「臓器移植法改正案の衆院通過によせて」(WAN 視点論点)
◆2009/06/25 優生思想に基づく「産科医療補償制度」に抗議する障害当事者全国連合
 「臓器移植法「改正」に反対する要望書」
◇2009/06/26 第171回通常国会参議院本会議にて審議開始
◆2009/06/26 鷲田清一 「臓器移植法「改正」をめぐって」(あらたにす 新聞案内人)
◆2009/06/27 森岡正博 「臓器移植法改正A案可決 先進米国にみる荒涼」(『朝日新聞』)
◆2009/06/29 全国障害者解放運動連絡会議(全障連) 「脳死―臓器移植法」改悪に反対する声明」
◆2009/06/30 高草木光一 「「脳死」のパラドックス」(PP研究所 論説)
◆2009/06/30 DPI日本会議
 「参議院議員に向けて臓器移植法「改正」に反対と慎重審議を求める緊急声明」
◆2009/07/01 日本宗教連盟 臓器移植法改正案の参議院審議に対する意見書
◆2009/07/03 波平恵美子 「複雑な現実 見据え議論を」(『朝日新聞』 生と死を考える)
◆2009/07/03 島薗 進 「生命倫理の基礎を崩すな」(『朝日新聞』生と死を考える)
◆2009/07/03 全国「精神病」者集団 臓器移植法改正に伴う要望書
◆2009/07/05 額田 勲 「臓器移植法 修正、医療全体と整合性図れ」(『朝日新聞』 私の視点)
◆2009/07/07 森岡正博 「参考人意見陳述」(第171回国会・参議院厚生労働委員会)
◆2009/07/08 『臓器移植法』改定を考える緊急院内集会(第15回)
 宗教界からの緊急提言―「脳死は人の死ではない」
◆2009/07/08 小松美彦 「臓器移植法改定 A案の本質とは何か――『脳死=人の死』から『尊厳死』へ」
 『世界』2009年8月号(岩波書店)、47-53頁。
◆2009/07/10 全国「精神病」者集団 「臓器移植法改正に関する慎重審議のお願い」
◆2009/07/12 「脳死」・臓器移植を問う市民連続講座
 テーマ:わたしたちは生きています!―人工呼吸器をつけた子と親からのメッセージ
◇2009/07/13 参議院本会議にて採決
◆2009/07/13 土井健司 「「愛」で片付けるのは危険」(『神戸新聞』「臓器移植法改正案きょう採決」)
◆2009/07/13 生命倫理会議 「参議院A案可決・成立に対する緊急声明」
◆2009/07/13 優生思想に基づく「産科医療補償制度」に抗議する障害当事者全国連合
 抗議声明 ―臓器移植法改正A案参議院可決成立に対して―
◆2009/07/27 森岡正博 「脳死・子どもの脳死」(NHK 視点・論点「臓器移植法の問題点(3)」)
◆2009/07/31 田中智彦 「改定臓器移植法の成立に寄せて」(WAN 視点論点)
◆2009/08/28 全国「精神病」者集団 「臓器移植法改正案成立に対して【抗議声明】」
◆2009/10/18 高橋 さきの 「脳死カフェ――脳死って移植の問題なの?」 於:品川区大井第二区民集会所 第2集会室 Word版(doc)

 
 
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■生命倫理会議 臓器移植法改定に関する緊急声明

  2009年5月12日
  生命倫理会議 代表 東京海洋大学教授 小松美彦


生命倫理会議は、生命倫理の教育・研究に携わっている大学教員の集まりです。私たちは、先端医療やバイオテクノロジーが単に医学・医療や科学技術の問題に留まらず、文化・文明・社会の今後を決定づけかねないとの認識のもとに、教育・研究を行ってまいりました。しかるに、マスメディア報道によると、臓器移植法の改定が今国会での重要案件となり、しかも改定法案を厚生労働委員会で審議もせぬまま、本会議で採決する蓋然性が高い、とのことです。そこで、私たちは臓器移植法改定に関しても社会的責任を負った生命倫理に係わる研究者として、象牙の塔にこもることなく、広く社会に対して以下の見解を表明いたします。

1)脳死・臓器移植は、脳死者という他の患者からの臓器提供によってしか成立しないため、十全な医療とは言えない。医療が患者本人で完結せずに、脳死者という他の患者の“死”を前提とする以上、さまざまな問題が生じることは避けられない。

2)その一環として臓器不足が叫ばれて久しいが、「臓器不足」とは「脳死者不足」に他ならない。一体、臓器移植の必要数に見合った脳死者が生じる社会とはいかなる社会なのか。例えば現今の日本の人工透析患者26万人を、仮に脳死・臓器移植で救おうとするなら、最低13万人もの交通事故などによる脳死者が必要になる。

3)臓器不足を解消するのに最善の策とされるA案は、脳死の扱いと臓器の提供条件に関して、米国ですでに22年前から施行されている法律と基本的に同様である。にもかかわらず、米国でも“臓器不足”の解消は果たせず、そのため日本とは逆に、従来は禁忌の対象であった生体移植が増えている。それゆえ、A案に限らずいかなる法規定であっても、“臓器不足”を解消しがたい。

4)またA案もD案も、臓器提供をめぐる「本人同意」さえ不要としているが、それは現行法の基本的理念を改廃することであり、もはや「見直し」ではなく「新法制定」と言っても過言ではない。だが両案では、現行法制定までの議論すら顧みないまま、臓器提供の条件緩和に主眼が置かれている。この点で両案には、人の生死の問題を扱うのに必須の慎重さが欠けていると言わざるをえない。

5)そもそも臓器移植の成績は生着率・生存率で示されるだけで、肝腎な延命効果は、統計分析されていないため、明らかではない。心臓移植をしない方が1年生存率は高い、という米国の研究論文すらある。したがって、まず臓器移植をした場合としなかった場合の生存率を比較調査し、さらに臓器移植の予後について、良好な場合も、そうでない場合も明らかにし、科学的な検証がなされるべきである。

6)近年の米国では多臓器移植に代わる体外腫瘍切除が行われ、日本でも移植適応の拡張型心筋症の乳幼児へのペースメーカー治療が始まっている。政府・国会は本来、臓器移植を待つ患者のためにはそのような代替医療の援助にこそ尽力し、また国民すべてのために、交通事故対策と救急医療体制の再建を通じて、脳死者の数が増えないように努めるべきである。

7)翻って、最も重大なこととして、「脳死=死」が科学的に立証されていない。体温を保ち、脈を打ち、出産も可能で、滑らかな動き(ラザロ徴候)を見せる脳死者が、なぜ死人といえるのか。また、死人ならなぜ臓器摘出時に麻酔や筋弛緩剤を投与するのか。世界的に唯一公認されてきた有機的統合性を核とする科学的論理も、最高21年生存した長期脳死者の存在により破綻したと言える。仮に子供の完璧な脳死判定方法が実現しても、それは「脳死状態」を確定できるだけで、「死」を規定できるわけではない。

8)さらに、臓器移植法が存在しても、「ドナー=脳死者」の人権蹂躙が問題となる。例えば現行法下で行われた81人の脳死判定と臓器摘出では、法律・ガイドラインの違反が多々なされてきた疑いがぬぐいきれない。政府・国会はまずこれらを精査すべきである。精査しない限り、「ドナー=脳死者」の人権が守られる見込みはなく、人権蹂躙は子供にまで拡大しかねない。またD案のように、「ドナー=脳死者」の保護のための「第三者機関」を設けたとしても、その実効性は乏しいことが予想される。

9)そして、「脳死=死」を規定したと読めるA案が成立した場合、少なからず存在する長期脳死者は命を断たれうる。しかしながら、長期脳死者とその家族が必死に生きている姿についてほとんど知られないまま、いかに臓器提供を増やすかの議論ばかりがなされている。臓器移植を人間同士の連帯と見るなら、(長期)脳死者との連帯も考えなければならない。

10)政府・国会およびA?D案などの各法案の提出者・賛同者は、少なくとも以上について徹底的に審議し、まず国民に納得のゆく見解を提示する責務がある。また、そもそも、人の生死の問題を多数決に委ねたり、法律の問題にすり替えたりするべきではない。

「生命倫理会議緊急声明」連名者(68名+追加3名)

旭 洋一郎(長野大学教授・障害者福祉論)
天田城介(立命館大学大学院准教授・社会学)
綾部広則(早稲田大学准教授・科学技術論)
安藤泰至(鳥取大学准教授・宗教学)
伊古田 理(千葉工業大学准教授・哲学)
石田秀実(元九州国際大学教授・哲学)
石塚正英(東京電機大学教授・史的情報社会論)
市野川容孝(東京大学大学院教授・社会学)
宇城輝人(福井県立大学准教授・社会学)
大澤真幸(京都大学大学院教授・社会学)
大庭 健(専修大学教授・倫理学)
大林雅之(東洋英和女学院大学教授・バイオエシックス)
冲永隆子(帝京大学専任講師・生命倫理学)
荻野美穂(同志社大学大学院教授・歴史学)
重田園江(明治大学准教授・現代思想)
香川知晶(山梨大学大学院教授・哲学)
柿原 泰(東京海洋大学准教授・科学技術史)
加藤茂生(早稲田大学専任講師・科学史科学論)
加藤秀一(明治学院大学教授・社会学)
金森 修(東京大学大学院教授・フランス哲学)
川本隆史(東京大学大学院教授・倫理学)
鬼頭秀一(東京大学大学院教授・科学技術社会論)
木名瀬高嗣(東京理科大学専任講師・文化人類学)
木原英逸(国士舘大学教授・科学技術論)
木村 敏(京都大学名誉教授・精神医学)
空閑厚樹(立教大学准教授・生命倫理学)
蔵田伸雄(北海道大学大学院教授・応用倫理学)
倉持 武(松本歯科大学教授・哲学)
栗原 彬(立命館大学特別招聘教授・政治社会学)
小泉義之(立命館大学教授・哲学)
小松奈美子(武蔵野大学教授・生命倫理学)
小松真理子(帝京大学准教授・科学史科学論)
小松美彦(東京海洋大学教授・科学史科学論)
小柳正弘(琉球大学教授・社会哲学)
最首 悟(和光大学名誉教授・〈いのち〉学)
齋藤純一(早稲田大学学術院教授・政治理論)
斎藤 光(京都精華大学教授・性科学史)
坂野 徹(日本大学准教授・科学史科学論)
佐藤憲一(千葉工業大学准教授・基礎法学)
篠田真理子(恵泉女学園大学准教授・環境思想史)
篠原睦治(和光大学名誉教授・臨床心理学)
清水哲郎(東京大学大学院特任教授・死生学)
愼 蒼健(東京理科大学准教授・科学史科学論)
鈴木晃仁(慶應義塾大学教授・医学史)
高草木光一(慶應義塾大学経済学部教授・社会思想史)
高田文英(龍谷大学専任講師・真宗学)
竹内章郎(岐阜大学教授・社会哲学)
竹内整一(東京大学大学院教授・倫理学)
武田 徹(恵泉女学園大学教授・メディア論)
高橋文彦(明治学院大学教授・法哲学)
田中智彦(東京医科歯科大学准教授・政治思想)
田村公江(龍谷大学教授・倫理学)
塚原東吾(神戸大学大学院教授・テクノ文明論)
柘植あづみ(明治学院大学教授・医療人類学)
土屋貴志(大阪市立大学大学院准教授・倫理学)
爪田一壽(武蔵野大学専任講師・仏教学)
土井健司(関西学院大学教授・キリスト教神学)
堂前雅史(和光大学教授・科学技術社会論)
徳永哲也(長野大学教授・哲学)
戸田 清(長崎大学教授・環境社会学)
直江清隆(東北大学大学院准教授・哲学)
永澤 哲(京都文教大学准教授・宗教学)
中島隆博(東京大学大学院准教授・中国哲学)
林 真理(工学院大学教授・科学史科学論)
原 塑(東北大学大学院准教授・科学哲学)
廣野喜幸(東京大学大学院准教授・科学史科学論)
細見和之(大阪府立大学教授・ドイツ思想)
村岡 潔(佛教大学教授・医学概論)
森 幸也(山梨学院大学准教授・科学史)
森岡正博(大阪府立大学教授・生命倫理学)
吉本秀之(東京外国語大学教授・科学思想史)


 
 
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■2009/05/17 人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>「臓器移植法の改定にあたっては、慎重かつ十分な議論をお願いします。」

・緊急アピール 1ページ目 「わたしたちは生きています!」
 http://www.bakubaku.org/watashiatchi-ha-ikiteimasu.pdf
・緊急アピール 2〜3ページ(本文)↓
 「臓器移植法の改定にあたっては、慎重かつ十分な議論をお願いします。」

・報道関係者のみなさまへ↓
 http://www.bakubaku.org/zouki-ishokuhou-kaitei-kinkyu-apeal.html#wata-iki-apeal-hombun

2009年5月17日

国会議員のみなさま

人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>
会長 大塚 孝司

臓器移植法の改定にあたっては、慎重かつ十分な議論をお願いします。

  私たち人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>の子どもたちの多くは、病気や事故など理由は様々ですが、長期に渡って常に人工呼吸器を使いながら生活しています。子どもたちの中には、医師から「脳死」「脳死に近い状態」と宣告されながらも、専門家の予測を覆し、その子なりのペースで成長を続け、毎日を精一杯生きている子どもたちが大勢います。人工呼吸器をつけていても、重度の障害があっても、どの子どもたちも、それぞれの家庭で、学校で、地域社会で、絶対的な存在感で、ほかの子どもたちと同様にかけがえのない“ひとりの人間、ひとりの子ども”として認められながら、日々、生き抜いています。
  2006年に起きた富山県の射水市民病院での呼吸器外し事件以後、さまざまなところで終末期医療のガイドラインや倫理委員会が創られる中、重度障害や進行性の難病をもつ子どもたちについても、“選択的医療”と称し、治療の打ち切りや差し控えについて堂々と公表され議論されるようになりました。私たちは、重度障害等の子どもたちの生きる権利が脅かされていくことを危惧し、命の切り捨てではなく、どんな病気や障害を持っていても安心して暮らしていけるような社会を作っていくことが大切だと訴えています。
  今回は、臓器移植法の改定への動きが急に高まってきていると、頻繁に報道されています。改定の大きな目的は、子どもの国内移植に門戸を広げることだと言われています。そのために「脳死」は一律に「人の死」とし、子どもの場合は家族の同意だけで臓器提供可能という案も検討されているようです。このことは、重度の子どもたちの生きる権利がより脅かされることになるのではないかと、いっそうの懸念を抱かざるを得ません。
  私たちは、「脳死」「脳死に近い状態」と言われながらも、日々成長しながら生き抜こうとしている目の前の子どもたちに対し、「あなたたちは死んでいるんだよ。」と語りかけることはできません。機器の助けを借りてはいても、そこには、確かに、生きているという事実が実感として感じられ、生きたいという子ども自身の意思をも感じられるからです。「脳死判定」についても、いくら厳密な方法で実施しようと、方法そのものが、重篤な状態の子どもの命を縮めかねない無茶な方法である以上、臓器移植を前提として、むやみに判定を実施すべきではありません。「脳死判定」は拒否できるようにしたらいいというむきもありますが、法律で「脳死」を一律に「人の死」とされてしまった場合、判定を拒否した場合には、「無駄な延命をさせている。」「なぜ、臓器提供してあげないんだ。」という社会の無言の圧力が働かないと言えるでしょうか。
  もうひとつ、本人の拒否がなければ家族(親)の同意だけでよいという点について一言申し上げます。私たちは、どんなに重度の障害をもっていても人工呼吸器をつけていても、ひとりひとりかけがえのない子どもであると世間に訴えています。しかし、この考え方は、実際に子どもたちと共に生きてきた中で、子どもたちによって価値観をひっくり返され、気付かされたことなのです。病気や障害に対する予断や偏見や差別的な考え方は、世の中にまだまだ多く見られます。私たち親が、子どもたちから学ぶ機会もなしに、差し迫った中で、限られた情報だけで下す判断が、子どもたちにとって最大の利益となるとは限りません。被虐待児の場合だけでなく、どんな場合でも、私たち親が子どもにとっての必ずしも最良の代諾者にはなりえないのです。(もちろん、専門家についても同様です。)子どもの命は、親のものではなく、子ども自身のものです。
  全国には、国内での臓器移植の拡大を切望されているたくさんのご家族がいらっしゃると思います。子どもたちが一日でも長く健やかに生きてほしい、子どもらしく豊かに生きてほしいという気持ちは、痛いほどよくわかります。重度障害といわれる子どもの親であるわたしたちの願いも同じだからです。どちらも大事な命です。
  だからこそ、臓器移植法の改定にあたっては、国会議員のみなさまには、移植を待っておられる側だけではなく、ドナーとされる子どもたちの命と人権にもきちんと向き合い、慎重に議論を尽くして下さいますように、お願いいたします。
  私たちは、どんな命も大切にされる社会、ひとりひとりの人間がその与えられた命を精一杯生きられるような社会を望んでいます。


 
 
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■2009/05/17 人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>「臓器移植法改定に対する緊急アピールについて(お知らせとお願い)」
 http://www.bakubaku.org/wataiki-apeal-media-oshirase.html

臓器移植法改定に対する緊急アピールについて(お知らせとお願い)

2009年5月17日

報道関係者のみなさま

人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>
会長 大塚 孝司

お知らせとお願い

  私ども、人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>は、臓器移植法の改定が活発化していることを受けまして、別紙文書「臓器移植法の改定にあたっては、慎重かつ十分な議論をお願いします。」を国会議員のみなさまに送付させていただきましたので、お知らせいたします。
  つきましては、報道関係者のみなさまにおかれましても、かけがえのない命を救い守り育むとはどういうことか、移植を待つ側の視点だけでなく、脳死を一律に「人の死」と定義づけられることによって生きることを否定されかねない側の視点からも光を当てていただき、国民ひとりひとりが自分の問題として捉え、社会全体で議論されるように、客観的な報道をして下さいますよう、お願いいたします。
  私たちは、どんな命も大切にされる社会、ひとりの人間がその与えられた命を精一杯生きられるような社会を望んでいます。


 
 
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■2009/05/28

2009年5月28日
脳死基準や判定、第三者の指示により、意思表示できない人の生きる権利を脅かさないで下さい

難病をもつ人の地域自立生活を確立する会
代表  山本 創 
〒101‐0054
東京都千代田区神田錦町3-11-8 武蔵野ビル5F
TEL 03-3296-7137 FAX 03-5282-0017

  私達はどんな難病、どんな重度の障害があっても自分の望む地域で生活ができ、生きていくことができるように当事者同士が集まり、活動している団体です。難病の中には、呼吸器障害、筋肉や神経などの病気の進行が早く、人工呼吸器をつけながら地域生活する人、目のかすかな動き、体のわずかな微動等でコミュニケーションをとる仲間がいます。進行がすすめば、トータル・ロックトインといった、本人からコミュニケーションをするすべを失ってしまう人もいます。しかし、本人は生きています。周りの人が本人の意思を汲み取ることができなくても、意思のある生きている人間です 死体ではありません。
  このような状態にある仲間達(事前の意思表示なく、突然そういった状態になった人も含め)に、第三者の指示や、脳死の基準、死体であるかどうかの判定を行い、生きる権利を脅かすことがないようにしてください。介護や生活の過酷さから、家族と本人(子供も含む)の意思が相反すことはよくあり、無理心中などの事件も後を絶ちません。障害者権利条約の趣旨にそった、本人の立場にたった権利擁護は日本でも急務です。その瞬間に本当は生きたいと思っている人が、生きている状態であるにもかかわらず、命を救うべき医療の現場で、医師の手によって命を奪われることは、たとえ数%の確立でもあってはなりません。つきましては、下記の要望いたします。

1 お互いが生きる道からの議論、対策を
  医療機器や再生医療等の開発に国の予算を大幅にとり、治療研究、対策を積極的に進めるといった、まずは他人の死を前提としない、お互いが生きる道から議論し、進めてください。厳しい立場に置かれている両当事者の対立構造を解消すべきです。論議すべき順序を逆転し、安易な結論を国会がせまることがないように、丁寧に、慎重に議論してください。

2 意思表示できない(していない人)の生きる権利を侵害しないでください
  意思表示のできない人(事前に臓器提供等の意思表示をしていなかった人も含む)に、脳死基準や判定、第三者の指示をおしつけ、生きる権利を脅かすような法改正はしないでください。

3 子どもや意思表示の難しい人の「生死」を親や家族が決めないでください
 親や家族であっても、本人にかわって「生死」は決められません。介護や生活の困難さから、本人の意思と異なる選択をした例は後を絶ちません。選択は、その時々の社会の環境整備しだいで変わってきます。

4 生きたい人の命が奪われることがあってはなりません
 本人の意思もその時々、環境により変遷します。事前に臓器提供するとしていても、その場になり意思が変わる人もいます。本人からのコミュニケーション手段を失った場合であっても、本当は生きたいと思っている等の意思確認を、死の瞬間まで丁寧に模索すべきです。起こりうる事件等の検証もないまま結論を急ぐことがないように、丁寧に、慎重に審議してください。


 
 
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■2009/05/28 http://dpi.cocolog-nifty.com/vooo/2009/05/528-2f90.html

2009年5月28日
臓器移植法「改正」に反対する緊急声明

特定非営利活動法人 DPI日本会議
議長 三 澤  了

 DPI(障害者インターナショナル)は、「われら自身の声」を掲げて、障害当事者主体の活動を進めている国際組織として、国連にも認められているNGO組織である。私たちDPI日本会議は、その国内組織として、1986年の結成以降、障害者の人権と地域での自立生活の確立を目指して活動を続けてきた。この間、国際的には国連・障害者権利条約の策定には力を注ぎ、国内的には「障害者自立支援法」やバリアフリー法等への取り組みを進めてきた。
 DPI日本会議には、身体・知的・精神障害や難病等、障害種別を超えた当事者団体が結集している。特に、脳性マヒ等の全身性障害やALSなどの難病など、どんなに重い障害があっても地域で暮らせる社会を目指している。また、「障害者=あってはならない存在」とする優生思想に反対し、「優生保護法」撤廃等の動きをつくりだしてきた。
 いうまでもなく、どんな障害があっても地域で暮らせる社会をつくる前提は、その生命の価値が等しく認められることである。
 臓器移植法の「改正」案について、昨日(5月27日)、衆議院・厚生労働委員会で審議が開始された。以下、DPI日本会議として反対の緊急声明を行うものである。

@「脳死」については世界の色々な実例から見ても明らかなように脳死と診断をされながら十何年も生き続けた事例や、時間が経って意識が戻り周りの人たちの声が聞こえていた等という症例まである。心臓が動き、まだ暖かい体温のある人間を「死」と決めつけ臓器を取り出すことはどうしても納得が出来ない。
 「脳死」状態にある人を「人の死」と定義する時、「回復しても障害が残る」等の障害者の命を軽視する価値観が潜んでいるのではないかとの疑念が生じる。 生きる可能性を尊重される命と、生きる可能性を全否定される命を選別することは、紛れもない優生思想であり、障害者の人権尊重の立場からは到底認められない。

A特に今回の改正の動きは、WHOでの外国渡航による臓器移植制限の動きを背景にして、ドナーの年齢引き下げや「脳死」の定義拡大を図るためのものであり、私たちとしては容認できない。
 これまで障害者は「自らの意志をもたない」との偏見のもとに長い間おかれ、その主体的な意志を無視され続けてきた歴史がある。また、重度障害があるために、時には自らの意志を伝達することが、障害のない者の「通常」の方法では困難な状況になることもありうる、そうした立場から、私たちは大きな恐怖すら感じざるを得ない。
 特に、最近の福祉・医療の財政抑制が続いてきている日本の社会状況を前にする時、私たちの命が軽く見られ、何時、治療停止や一方的に「ドナー」にされるか分からない時代が到来する、その予兆として懸念するものである。

B今求められているのは、「他人の死」を前提にするのではなく、どんなに重度の障害や難病等があっても生き抜いていけるための適切な医療を確保することである。また、「障害=不幸」との差別意識の根深さの背景には、社会的な支援体制の欠如がある。どんな障害があっても、一人の人間として自立して当たり前に地域で暮らせる介護等福祉サービスの充実を進めていくことが必要である。

C国連では2006年12月に障害者権利条約が採択され、2008年5月に正式発効している。わが国においても、その批准に向けた国内法の整備が火急の課題となってきている。障害者権利条約の基本精神は、「私たち抜きに、私たちのことを決めないで!(Nothing About Us, Without Us!)」である。
 そうした点からも、私たち障害当事者の人間の命の平等性を守る立場からの意見を十分ふまえた上での対応を強く求めるものである。

【連絡先】
〒101-0054 千代田区神田錦町3-11-8 武蔵野ビル5階
特定非営利活動法人 DPI日本会議
office@dpi-japan.org(@→@)
TEL03-5282-3730、FAX03-5282-0017


 
 
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■2009/05/29

2009年5月29日
臓器移殖法「改正」に反対する緊急声明

特定非営利活動法人 ALS/MNDサポートセンターさくら会
理事長 橋本 みさお

  特定非営利活動法人 ALS/MNDサポートセンターさくら会は、重度神経筋疾患を持つ全身性障害者(児)の地域生活を支援している団体です。
  私達は、臓器移殖法「改正」に反対します。なぜ、今「改正」なのでしょう。単純に需要と供給の問題でしょうか。
  たしかに目の前に、臓器移殖を待つ子供がいたら助ける社会を作る事は、大人の責務であります。しかしながら「脳死」によって、新たな「子供の死」を作る事、その死によって救われる命に、子供たちは感謝するのでしょうか。法律で「脳死」を一律に「人の死」と定義づけることは、障害をもつ子供たちの生きる権利を奪いかねません。
  意思表示できない人(していない人)、意思表示の難しい人や子どもの「生死」を、親や家族や国が決めないでください。生きる権利を侵害しないでください。
  今、求められているのは、「他人の死」を前提にするのではなく、どんなに重度の障害や難病等があっても生き抜いていけるための適切な医療を確保することです。私たちは、難病や重度障害者(児)の生命を脅かす法案を拙速に採択する事に反対です。

連絡先:〒164-0011 東京都中野区中央3−39−3
特定非営利活動法人ALS/MNDサポートセンターさくら会
aji-sun@nifty.com(@→@) 臓器移殖法「改正」反対係:橋本・川口
TEL/FAX 03-3380-2310


 
 
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■2009/06/03

                     特定非営利活動法人 自立生活センターくれぱす

2009年6月3日

臓器移殖法「改正」に反対する緊急声明

                     特定非営利活動法人 自立生活センターくれぱす

代表 上野 美佐穂

 特定非営利活動法人 自立生活センターくれぱすは、さいたま市を拠点とし、重度な障がいのある人たちが「人」として尊重され、自分らしく、誰もがこころ豊かに暮らせる地域生活の実現をめざして活動している障がい当事者団体です。
臓器移植法の「改正」案について、5月27日、衆議院・厚生労働委員会で審議が開始されたことを受け、私たちは、現段階での臓器移殖法「改正」に反対を表明します。
 なぜ今改正をしなければならないのでしょうか?
 単純に需要と供給の問題とすれば、大きな誤ちです。
 私たちは「人」であり、臓器を提供すべき部品ではありません。
 しかしながら「脳死」によって、救われる命が新たな「人の死」を作る事実をどれだけの人が理解し、真摯に受け止めているのでしょうか?
 この改正案が通過すると、私たちは、障がいのある人の命には価値が薄いというように軽んじられていくのではなないかと危惧しています。
 それが命の選別になるということに、恐怖を感じます。
 法律で「脳死」を一律に「人の死」と定義づけることは、障がいをもつ私たちの生きる権利を奪いかねません。
 障がいのある人がまだまだ生きにくさを感じるこの社会の中で、障がいのある人の中には、自分の意思を表現することが難しい人がたくさんいます。それでも生きているし、成長しているのです。意思表示できない人(していない人)、意思表示の難しいとみなされる人や子どもの「生死」を、親や家族・国の価値観で簡単に決めてはなりません。障がいがあっても「人」として社会に力強く生きていける存在です。私たちの生きる権利を奪わないでください。
 目の前に、臓器移殖を待つ人がいたら助ける社会を作る事は、社会の責務であります。
 しかし今、求められているのは、「他人の死」を前提にするのではなく、どんなに重度の障がいや難病等があっても、生きられるための適切な医療を確保し、安心して暮らせる社会を作っていく事ではないでしょうか?
 私たちは、難病や重度な障がいのある人(児)の生命を脅かす法案に対し、勇み足での採択に断固反対です。

【連絡先】
特定非営利活動法人 自立生活センターくれぱす
担当:見形・小林
〒338‐0002
埼玉県さいたま市中央区下落合6−15−18
TEL 048−840-0318
FAX 048−857-5161


 
 
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■2009/06/03

【声明】命に甲乙をつける臓器移植法改「正」に反対する

 我々は、今年で結成35周年を向かえる、「精神病」者個人・団体による、「精神病」者の全国組織です。国会で臓器移植法改正案が4つ提出され、5月27日には、衆院厚生労働委員会で臓器移植法改正案についての一括審議が行われました。これは、臓器移植法改正の実質的な審議入りを意味しているのだと思います。
 臓器移植法は、人の命に甲乙を付け、甲は生きる権利を持ち、乙は死んでも構わない命として、体温があり脈拍がある体から、医師の診断による「死」を根拠に臓器を摘出するというものです。いわゆるA案であれば、半強制的に上記の摘出が行われるわけであり、D案であっても、結果的には充分に考える猶予もなく、家族同意などによって半強制的に摘出手術が行われる危険性があります。
 多くの場合、甲の側に立って議論され、医師の職域開拓としても役立てられます。但し、我々「精神病」者のような、乙側の生命は、甲と医師の職域のために、生きる可能性を失うことになるのです。
 自由権規約第1条第2項、第6条第1項には、生命の固有の権利と生存について規定され、第7条には、自由な同意のない医学的実験を禁止しています。障害者権利条約には、第10条に生命固有の権利を位置づけ、障害者の命が、優生思想に基づき、いらない命として、必要とされる者のために命を奪われることを禁止しています。現在、各省庁は障害者権利条約批准に向けて国内法整備をしております。今回の臓器移植法改正案は確立した人権法規を後退させるものであり、完全に批准を遅らせるものです。今後は、障害者権利条約第4条第3項に基づき、殺される側の生命の意見を充分反映させた法制度体系にパラダイムシフトしていくことが求められます。
 我々は生きることを選択し、意識が極限の状態にあっても、医療と支援(支援された意思決定を含む)をうけて、自立生活をする権利を求めます。これら権利を侵害する、臓器移植法改正案には、真っ向から反対します。

全国「精神病」者集団
〒164-0011 東京都中野区中央2―39―3 絆社気付
tel 03-5330-4170/fax 03-5942-7626
(留守電の場合は以下携帯へ)
電話 080-1036-3685
(土日を除く14時から17時まで)


 
 
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■2009/06/04

 茨城青い芝の会「障害者の生きる権利を脅かされる臓器移植法改訂に反対しよう!」

 私たちは、脳性マヒという障害者で構成している茨城青い芝です。
 私たちは今、国会に提案されている臓器移植法の改正案に、私たちの命がおびやかされているという危機感をもって見ています。
 私たちは、脳になんらかの原因があって、脳性マヒという障害になりました。脳力に価値がある現代社会では、知的障害者や精神障害者も含めて、誤解や偏見が多くあります。
 よくあることですが、将来を悲観して親が障害をもった子供を殺す事件が起きるたび、世論は殺した親にスポットライトをあびせ、殺された子供は無視します。あるいは水戸の知的障害者虐待事件のような事件は山ほど起きています。それは何を意味しているでしょうか。それは障害者の命が軽んじられている証明です。
 その状況では臓器移植を推進している医者や政治家に、「脳死は脳障害ではない」と説得されても、「脳死は脳障害」というイメージが残ります。
 現に臓器移植法が施行される以前に、筑波大学病院で精神障害者がドナーにされて、膵腎臓同時に移植された事件があります。移植した医者は臓器移植法がないのにかかわらず不起訴になり、茨城県立医療大学の学長という社会的な位置につきました。
 この臓器移植法の改定案は、C案を除いて、脳死を人の死を認めてドナーを拡大するものです。
 特にA案は脳死者から無条件摘出の道を切り開き、生存権が明記されている憲法第25条に反しています。
 臓器移植という治療法は、価値がある命、価値無き命と分け、価値無き命を殺すという価値観から成り立っています。価値無き命をもった人間が不幸とされ・不幸にされているものを死に導く尊厳死、安楽死の法制化につながります。
 それは第二次世界大戦のもと、ナチスドイツが行った障害者やユダヤ人はガス室へという思想につながらないでしょうか。
 脳死は人の死と認め、ドナー拡大する臓器移植法改定案に絶対反対します。

茨城青い芝
TEL 029−831−3169
茨城県土浦市神立中央 2−18−9

 
 
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■2009/06/09 衆議院本会議にて厚生労働委員会より中間報告

 中間報告に関連して中山太郎議員(A案提出者)の発言
 「尊厳死を求める人たちにとって、脳死判定はその意思の具現化の手段でもある。したがって、脳死は人の死であるとすることによって、脳死を人の死と認める人たちにとっても、認めない人たちにとっても、リビングウイルを尊重できるシステムをつくることができると考える」

 
 
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■2009/06/11

生命倫理会議 臓器移植法改定に関する徹底審議の要望
http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

 2009年6月11日

 生命倫理会議 代表 東京海洋大学教授
 小松美彦


 生命倫理会議は、生命倫理の教育・研究に携わっている大学教員の集まりです。去る5月12日には71名(68名+追加3名)の連名を以て「臓器移植法改定に関する緊急声明」を公表し、厚生労働省記者クラブにおいて記者会見を行いました(詳細は http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/ をご覧ください)。
 その際、生命倫理に係わる専門家の立場から、法改定に関して審議が尽くされるべき諸問題を指摘しましたが、現行法制定時にも及ばない短時間の議論が行われただけで、主に国会議員諸氏の死生観に委ねるという形で本会議での採決がされようとしています。しかるに、これらの問題は国民一人ひとりの生死に関わるのみならず、日本の文化・社会の未来をも大きく左右するものでもあり、このままでは日本の将来に多大な禍根を残すことが深く憂慮されます。そこで今回、あらためて以下の見解を表明し、徹底審議がなされることを再度要望いたします。

1) WHOの新指針に何が書かれているかが確認され、事実に基づく議論がなされるべきである。
巷間で喧伝されているのとは異なり、WHOの新指針には「海外渡航移植の制限」や「移植臓器の自給自足」の方針は謳われていない。それどころかA案およびD案は、WHOが求めている「未成年の保護」や「法的に無能力な人の保護」に反する恐れがある。またD案のように「第三者機関」を設けたとしても、実効性は乏しいと予想される。そのうえA案およびD案は、臓器提供の際の「本人同意」さえ不要としている。これは現行法の基本理念の改廃であり、もはや「見直し」ではなく「新法制定」と言わざるをえない。

2) 移植に代わる医療の存在が患者・国民に周知され、また国によって援助されるべきである。
現在、移植適応とされる拡張型心筋症の乳幼児にペースメーカー治療が始められているという。移植をしなくても助かる道が開かれつつある以上、第一により多くの患者・国民がその恩恵に与れるような施策が講じられるべきであり、また「臓器不足の解消」という目標自体が再考される必要がある。

3) ドナーを増やすことが国民全体への責務に反することにはならないか、熟慮されたい。
「臓器不足」とは「脳死者不足」にほかならない。しかも交通事故が減り、救急医療体制が再建・整備されれば、「脳死者」もまた減ることが予想される。国民が安全に、安心して暮らせる社会を実現することは、政府および国会が果たすべき本来の務めであるはずだが、それは「脳死者=ドナー」を増やすこととは両立し難い。

4) 「脳死=人の死」であるとは科学的に立証できていない、という事実を直視されたい。
近年ではアメリカにおいてすら、「脳死=人の死」ではないと認めざるをえなくなってきている。この点で、体温を保ち、脈を打ち、滑らかな動き(ラザロ徴候)を見せ、成長し続ける脳死者を「死人」とすることに、少なからぬ人々が違和感を覚えるのは、単なる感情の問題ではなく、非科学的なことでもない。

5) 「ドナー=脳死者」の人権が守られない可能性がある以上、多数決は控えるべきである。
現行の「臓器移植法」では、「法律の施行状況を勘案し、その全般について検討が加えられ」ることが法改定の大前提である(附則第二条、下線部引用者)。しかし、これまでの81人の脳死判定と臓器摘出には、法律・ガイドラインに対する違反のあった疑いが残る。この点を精査・検討しないまま法改定を行うなら、今後も「脳死者=ドナー」の人権が守られる見込みはなく、またA案およびD案の場合には、幼い子供の人権までもが著しく侵害されることになる可能性が高い。

 そもそも人の生死の問題は、多数決に委ねたり、法律問題にすり替えたりするべきものではありません。しかし今般の法改定をめぐっては、なおそのうえに、WHOの新指針に関する誤った情報に基づいて、また臓器移植の延命効果等に関する科学的なデータもないままに、そして長期脳死者とその家族の真の姿を知ることもないままに、いかにしてドナーを増やすかということばかりが焦点にされています。このまま法改定が行われるならば、上に述べたように、倫理的にはもとより法的・政治的にも、社会的にも、やがて深刻な諸問題が生じるであろうと危惧されます。
 国会議員諸氏には、国民全体への責務と日本の文化・社会の未来とを見すえ、立法者としての熟慮と、そして徹底的な審議とをなされるよう、重ねて要望する次第です。

「生命倫理会議緊急声明」連名者(68名+追加3名)
 略

 
 
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■20090614

「十分な医療の議論を」(『京都新聞』「臓器移植どう変える 法改定案採決へ」)
天田城介 立命館大先端総合学術研究科准教授
 『京都新聞』 2009年6月14日朝刊 3面
English Page

 私は臓器移植の専門家ではないが、何を「政治」が行うべきかは明確に言える。
 4つの改定案は、「脳死=人の死」とするかでAとBCD、脳死判定の厳格化でABDとC、未成年の本人意思の有無を条件とするかでADとBCに区分けできるが、政治で議論すべきは、こうした脳死をめぐる技術論や死生観ではない。
 脳死を人の死とするかどうか、臓器提供するかどうか二者択一を突きつけ、「生きられる子どもを助けないのか」と感情論で見えなくなっている本質的な問題がある。
 第1に、最も重要な「分かち合いの問題」が議論されていない。政治がなすべきは、全ての人に十分な医療と、移植に代わる医療なども適切に提供し、交通事故を減らし救急医療体制をきちんと整備することだ。臓器移植を必要とする人にも「脳死者」にも十分な対策が講じられないまま、二者択一をせまる問題の立て方は間違っている。「12年の空白」で議論されなかったのは、医療・福祉・介護・所得・その他を通じての分配の問題なのだ。
 第2に、なぜ生体移植を同時に議論しないのか。誰がどのように臓器提供するか、提供者にのみ犠牲を強いて、肉体的精神的な負担を負わせる社会のあり方を見直すべきだ。家族の中でも弱い立場の人に「愛」や「自発性」の名の下に苦悩と負担を強いることもある現実を考えてきたのか。
 「臓器移植」はある個人の臓器提供によってしか成立せず、臓器提供に限っては「分かち合えない」が、「分かち合えない問題」も最大限「分かち合い」が可能となる社会を作ることが政治の仕事であるはずだ。

 
 
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■20090616

「おざなりの国会審議」(『高知新聞』揺れる臓器移植法(上))
 小松美彦 生命倫理会議代表 東京海洋大学教授
 『高知新聞』 2009年6月16日 朝刊
 http://203.139.202.230/rensai99/zouki01.htm

 【写真】略
  緊急声明を発表する生命倫理会議メンバー。前列左から4人目が筆者(5月12日、厚労省記者クラブ)

 今国会において「臓器移植法」の改定の動きが急転回し、衆議院では今週中にも採決される勢いにある。臓器移植法とは脳死者からの臓器摘出を認めた法律であり、1997年に成立した。この現行法下での最初の移植は、99年2月末に高知赤十字病院を起点としてセンセーショナルに行われた。特に高知では記憶に鮮明な方も多いことだろう。
 だが、臓器移植法施行から本年6月に至るまでの11年半あまりの間に、臓器提供した脳死者(ドナー)は81名と大方の予想をはるかに下回っている。また「WHO(世界保健機関)の臓器移植新指針には、海外に渡って移植を行うことの制限と、移植臓器を国ごとに『自給自足』する方針が謳(うた)われている」といわれ、そのため国内でドナーを増やすべく、法律を改定しようというのである。しかしながら、法改定をめぐって、少なくとも以下のような熟考すべき大問題が横たわっているのだ。
 
■新指針は虚報
 第1に、WHOの新指針なるものの内容は、全くの虚報である。実際に書かれているのは、生体移植のドナーの保護と移植ツーリズム(第三世界への臓器売買旅行)の対策に他(ほか)ならず、渡航移植の制限も臓器移植の「自給自足」の方針も、一言も述べられていない。しかし、日本移植学会や日本移植者協議会などは虚報を喧伝(けんでん)し、マスメディアの多くも盛んに報道し、法改定に向けた社会と国会の気運をつくった。もし、かかる団体やマスメディアの多くが、新指針をきちんと読まずに誤報を流していたのなら、その怠慢には社会的責任が問われるべきであろうし、意図的に情報操作をしていたのなら、倫理的責任が糾(ただ)されるべきだろう。
 
■保険打ち切り?
 第2に、そもそも「脳死=死」が科学的に立証されていない。たしかに、脳死状態とは重度の脳不全状態であるが、脳死状態になったことと、その状態をもって死亡とすることとは次元を異にし、両者をつなぐ旧来の論理も科学的に破綻した。例えば、人工透析機や心臓ペースメーカーの力を借りて生活している腎不全や心不全の患者を、死者と強弁することができないことを考えれば、脳死者=脳不全患者に対しても同様であることがわかるだろう。
 しかも、脳死状態のまま生きつづける長期脳死者が日本にも少なからず存在し、世界の最長記録は21年間に及ぶ。4歳の時に脳死と診断された幼児が、身長150センチ・体重60キロにまで成長し、第二次性徴も現れ大人になったのである。さらに、私自身も面会したが、脳死者には確かな脈拍があり、触れると暖かく、汗や涙を流す。妊娠していれば出産も可能で、ラザロ徴候という四肢の滑らかな動きを見せることもある。脳死者はこのような生理状態にあるため、臓器摘出手術でメスを入れると血圧や脈拍が急上昇し、暴れ出すゆえ、麻酔や筋肉弛緩剤を投与している。08年の米国では、脳死判定後に意識を回復した者まで存在する。脳死を一律に人の死と規定したA案という法案が成立すれば、脳死判定後の保険は打ち切られる可能性が高いため、脳死者は治療を断たれ、確実に死に至る。脳死者と周囲の者は法律によって引き裂かれるのである。
 
■代替医療拡充を
 第3に、法改定しても臓器不足(脳死者不足)は解消されず、「移植でしか助からない」という声の陰で、臓器移植に代わる医療の開発普及がなおざりにされている。例えば、日本には人工透析を受けている患者が26万人存在するが、そのすべてを腎臓移植で救おうとするなら、13万人(腎臓は2個ある)の交通事故などによる脳死者が必要になる。一体、かような数の脳死者を生み出す社会とはいかなるものか。また近年の日本では、救急医療体制の崩壊が大問題となっているが、政府・国会はまず救急医療体制を再建し、脳死者を少しでも出さぬよう尽力すべきではないか。逆に、ながの県立こども病院では、拡張型心筋症という疾患で心臓移植が必要とされる乳幼児へのペースメーカー治療の成功例を出しているが、政府・国会はこうした代替医療の拡充にこそ援助の手を尽くすべきだろう。
 「国会での審議は煮詰まった」との報道がなされている。だが、衆議院厚生労働委員会での審議はわずか計8時間で打ち切られた。人の生死を国会議員だけが多数決で決めることに根本的な疑義があるが、少なくとも国会は採決の前に最低限、以上の点を徹底審議しなければなるまい。

 
 
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■20090617

「命の線引きの残酷さ」(『高知新聞』「揺れる臓器移植法(中)」)
 田中智彦 生命倫理会議 東京医科歯科大学准教授
 『高知新聞』 2009年6月17日 朝刊
 http://203.139.202.230/rensai99/zouki02.htm
 【写真】略
  改定に揺れる臓器移植法。施行後初の脳死判定は、ちょうど10年前だった(1999年2月、高知赤十字病院)

 臓器移植法の改定案が採決される。脳死を一律に人の死とするA案や、親の承諾で乳幼児からの臓器摘出を可能にするD案が選ばれるとしたら、私たちの社会は今後どうなってゆくのだろうか。

 ■冷たい日本人?
 A案ないしD案でなければ「臓器不足の解消」はできないと言われてきた。また多くのマスメディアもそう伝えてきた。だがA案やD案が選ばれても、脳死患者が増えないなら「臓器不足の解消」は難しい。脳死患者の多くは交通事故の被害者や、いわゆる脳卒中の患者である。それゆえ交通事故が減るほどに、また救命救急医療が再建・整備されるほどに、脳死患者も減ってゆくと予想される。
 実際「移植先進国」ベルギーでは10年前、交通事故対策が奏功した結果、かえってドナーが減少し、犯罪被害者からの利用可能な臓器の摘出まで提案されるに至った。今も年間5千人を超える交通事故死者数の減少、今や「崩壊寸前」とまで言われる救命救急医療の再建・整備は、私たちの誰もが望むことだろうし、国・政府の重要な責務のはずである。国・政府がその責務を果たせば、脳死患者もドナーも減らざるをえないというこの根本的矛盾を、国会議員やマスメディアはどこまで真剣に考えたのか。
 この矛盾はまた、「日本人は冷たい」からドナーが少ないのではないことも示唆する。例えば米国の場合、交通事故死者数は年間4万人前後で、しかも皆保険ではないために、富裕層以外は徹底した救命救急医療を受けられないとも指摘される。銃による死者も夥(おびただ)しい。すると日本でドナーが少ないのは、むしろ米国ほど危険な社会ではないからだと言えよう。そしてその米国でさえ、「臓器不足の解消」はできずにいる。

 ■生の価値を決める
 だがこうした指摘にはたいてい、「では移植を待つ日本の子どもたちが死んでもいいのか」という問いが返される。しかし、それがどれほど善意に見えようとも、実は残酷極まりない問いであることは気づかれない。
 移植のための臓器とは、脳死状態になった別の子どもの臓器である。子どもの脳死判定は特に難しいとされるが、問題はそれだけではない。その子どもがいわゆる「長期脳死」の状態なら、人工呼吸器の助けを借りながらも心臓は脈打ち、息をし、肌には温(ぬく)もりがあり、汗もかけば排泄(はいせつ)もし、体を動かしもすれば成長もする。親がそこに「命」を見出すのは当然のことだろう。しかるにA案もD案も、「親の承諾」で臓器の摘出を可能にするという。だがそれは、その子どもに麻酔や筋弛緩(しかん)剤を打ち、メスで体を切り開き、脈打つ心臓を切り取ることであり、そして親に向かい、我が子がそうして最期を迎えるのを「承諾」するよう求めることにほかならない。
 にもかかわらず、ドナーが子どもであれ大人であれ、「もっと臓器を」という声は止(や)まない。しかしそうなると、その声は実はこう語っているのに等しいだろう――脳死患者は「人格」がないのだから、もはや生きるには値しない。だからせめてその臓器を、まだ「人格」のある者のために提供すべきだ、と。そしてそうであるならば、法改定が目指しているのは、ありえない「臓器不足の解消」よりも、誰が生きるに値して誰が値しないかを決めること、すなわち新たな「命の線引き」であることになる。

 ■岐路に立つ社会
 一人一人の命の環が連なり、そうして社会が成り立っている。脳死患者の命はその中で最も弱い環の一つである。その環が今、断ち切られようとしている。最も弱い環であるために、他人事にも思われる。だが一度それを認めてしまえば、新たな「命の線引き」がやがて植物状態や末期医療の患者に、さらには精神障害者や認知症の人々にまで適用されるのを阻むものはなくなる。そしてその時には、愛する者がただ生きていること・生きていてくれることの有り難さを感じる心も、この社会から失われてゆくことになるのだろう。すでに健康保険証には臓器提供の意思を書く欄が設けられた。私たちの社会がどこへ向かいつつあるのか、見定めなければならない。
 私たちは今、岐路に立っている。だがそもそも私たちは、以上のような臓器移植の根本的矛盾を直視しているだろうか。臓器不足を嘆く声の残酷さに気づいているだろうか。日本は民主国家である。それゆえ、もし新たな「命の線引き」がなされるとすれば、その責任は私たち自身にもあることを忘れてはならない。

 
 
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■20090618

「採決する前に熟考を」(『高知新聞』「揺れる臓器移植法(下)」)
 倉持 武 生命倫理会議 松本歯科大教授
 『高知新聞』 2009年6月18日 朝刊
 http://203.139.202.230/rensai99/zouki03.htm

 【写真】略
  臓器移植法の4改正案について審議する衆院厚労委(5月27日)

 現在の臓器移植法が施行されて10年以上たつが、これまでのところ臓器を提供したのは81人、行われた移植手術の数は345件である。また移植を受けたけれどもお亡くなりになった方が40人いる。
 現行法のもとでは、本人の提供の意思が示されていて、家族がそれを拒否しなければ死亡判定としての「法的脳死判定」に進み、脳死と判定された方から臓器を摘出することができるが、有効な意思表示ができるのは15歳以上に限られているので、小さな子どもの心臓移植は1例もない。
 子どもにも移植医療を! 提供臓器の数の増大を! の大合唱が巻き起こり、国会で移植法改正を目指す四つの法案が今日にも採決されようとしているのだが、大合唱に加わる前に少し立ち止まって考えてみよう。

 ■ドナーが費用負担
 脳死の診断には大きく分けて二つある。一つは治療方針を決めるために行われる「臨床的脳死診断」で、たとえ脳死と診断されても患者は生きており、健康保険の適用を受ける治療が継続され、憲法第25条に定められている生存権が保障される。もう一つは臓器を摘出するための死亡判定として行われる「法的脳死判定」であり、脳死と判定されれば死亡が宣告され、その時点で本人のための治療は一切打ち切られる。その後はレシピエントのための臓器保護処置に切り替わり、臓器が摘出されるまで続くことになる。ただ奇妙なのだが、ドナーに対する保険適用だけは継続されるので、臓器保護処置はドナー本人が費用を負担する形で行われる(現行法付則11条)。
 また、今月5日の厚労委員会の審議で明らかにされたことだが、2002年度のある厚生労働科学研究によれば、救急救命センターで外傷が原因で亡くなった患者のうちのおよそ4割は、適切な治療が受けられたなら救命された可能性があり、その割合が6割に達する救急施設もあるという。新生児死亡率世界最低を誇るわが国の幼児死亡率は、残念ながら世界21位なのだけれど、その原因の一つが「不慮の事故への対応のまずさ」であるという。幼児虐待やDVの被害者がドナーになってしまうことを防ぐのも簡単なことではないし、そもそも小児の脳死判定を正式に行える提供施設は日本全体で1カ所しかない。

 ■移植後の消息
 先に、移植を受けたがお亡くなりになった方は40人だと書いた。この数字は今年2月現在での日本臓器移植ネットワーク調べの数である。ところが同ネットワーク昨年5月15日の発表では45人がお亡くなりになったことになっていた。また07年発表の日本臨床腎移植学会と日本移植学会の合同調査によれば、04年までに実施された腎移植1万7744件のうち、レシピエントの消息判明率はおよそ5割に過ぎない。厚労省、移植ネットワーク、日本移植学会はいずれも、責任を持つべきレシピエントの術後の状態を把握しているのかどうかきわめて疑わしいのである。
 逆に昨年、米NBCテレビを通して全世界に報道されたザック・ダンラップさんのような例もある。ダンラップさんは臓器を摘出される寸前までいったが、脳死に対する家族の疑いによって命を救われ、完全に回復して釣りをたのしむこともできるようになっているのである。彼は血流検査を含む脳死判定で脳死と判定されたときの様子を、医師の「彼は死んだ」といった声が聞こえ、「それで心の中が狂わんばかりになった」と話している。

 ■放棄された説
 ちなみに、ダンラップさんの住むアメリカで昨年12月に公表された大統領生命倫理評議会報告「死亡判定論争」では、脳は身体の諸機能を統合する器官であり、脳が機能を失えばそれは死亡であるとする有機的統合体論に基づいた全脳死説は矛盾が多すぎてこれ以上支持することができないと判断されて、放棄されてしまっている。しかし、脳死移植自体は放棄されたわけではなく、「ドライヴ」という新たな医学的論拠を創出・導入することによって、やはり脳死移植を推進しようとしていることには変わりない。
 脳死移植ということは、このように脳死判定の不完全性や救命救急医療の不備に目をつぶって、レシピエントの回復可能性にかける決断を下すことなのだということを忘れてはならない。また、脳死の人に死亡を宣告するのは、臓器を摘出するのは死者からでなければならないとする移植医療の不文律、デッド・ドナー・ルールを犯さないという形式を整えるため、あるいは殺人罪での告訴を避けるためであることを忘れてはならない。

 
 
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■20090618
生命倫理会議 衆議院A案可決に対する緊急声明
http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/2009/06/blog-post_19.html

 2009年6月18日
 生命倫理会議 代表 東京海洋大学教授 小松美彦


 生命倫理会議は、生命倫理の教育・研究に携わっている大学教員の集まりです。去る5月12日に71名(68名+追加3名)の連名を以て「臓器移植法改定に関する緊急声明」を公表し、厚生労働記者クラブにおいて記者会見を行いました。また、6月11日付で「臓器移植法改定に関する徹底審議の要望」(連名者71名)を公表し、基本的に全衆議院議員に送付いたしました。このようにしてこの間、私たちは生命倫理に係わる専門家の立場から、法改定に関して討究すべきと考える諸問題を指摘し、審議の徹底を求めてまいりました(詳細はhttp://seimeirinrikaigi.blogspot.com/ )。
 しかるに、衆議院では現行法制定時にも及ばない短時間の議論が行われただけで、主に国会議員諸氏の死生観に委ねるという形で採決がなされ、しかも、A案という最も危険な法案が可決されました。この事態は国民一人ひとりの生死に関わるのみならず、日本の文化・社会の未来をも大きく左右するものでもあり、このままでは日本の将来に多大な禍根を残すことが深く憂慮されます。そこで、満腔の抗議の意を込めて以下の見解を表明し、参議院においてはそれらを踏まえた良識ある徹底審議がなされることを要望いたします。

1) 今回の採決は現行「臓器移植法」の法改定条件を遵守しなかった可能性がある。
現行の「臓器移植法」では、「法律の施行状況を勘案し、その全般について検討が加えられ」ることが法改定の大前提である(附則第二条、下線部引用者)。しかも、これまでの81人の脳死判定と臓器摘出には、法律・ガイドラインなどに対する違反のあった疑いが残る。衆議院はこの点を精査・検討しないまま採決を行った。あまつさえA案では、法的脳死判定後の脳死者は死者となる以上、脳死者の生存権が守られる見込みはなく、そのことは、幼い子供にまで及ぶことになる。

2) WHOの新指針に何が書かれているかが確認されず、虚報を背景にA案が可決された。
巷間で喧伝されているのとは異なり、WHOの新指針には「海外渡航移植の制限」や「移植臓器の自給自足」の方針は謳われていない。それどころかA案は、WHOが求めている「未成年の保護」や「法的に無能力な人の保護」に反する恐れがある。そのうえA案は、臓器提供の際の「本人同意」さえ不要としている。これは現行法の基本理念の改廃であり、もはや「見直し」ではなく「新法制定」と言わざるをえない。

3) そもそも「脳死=人の死」であるとは科学的に立証できていない、という事実が直視されなかった。
近年では移植大国のアメリカにおいてすら、有機的統合性を核とする「脳死=人の死」という論理は破綻したと認めざるをえなくなってきている。この点で、体温を保ち、脈を打ち、滑らかな動き(ラザロ徴候)を見せ、成長し続ける脳死者を「死人」とすることに、少なからぬ人々が違和感を覚えるのは、単なる感情の問題ではなく、非科学的なことでもない。A案を支持された国会議員諸氏は、この事実をいかほどに直視されたのか。

4) このままでは、「人の死」が国会議員だけで多数決で決定されることになる。
従来の日本には、人の死を規定した法律は一切ない。しかも、長期脳死者とその家族の真の姿を知ることもないままに、また臓器移植の延命効果等に関する科学的なデータもないままに、いかにしてドナーを増やすかということばかりを考え、衆議院は「脳死=人の死」と規定したA案を可決した。参議院もこの姿勢を踏襲するなら、全国民の生死が国会議員だけで、多数決で決定されることになる。これは暴挙といわざるをえない。

5) ドナーを増やすことが国民全体への責務に反することにはならないか、という問題を熟慮されたのか。
「臓器不足」とは「脳死者不足」にほかならない。しかも交通事故が減り、救急医療体制が再建・整備されれば、「脳死者」もまた減ることが予想される。国民が安全に、安心して暮らせる社会を実現することは、政府および国会が果たすべき本来の務めであるはずだが、それは「脳死者=ドナー」を増やすこととは両立し難い。だがA案とはまさに、この矛盾を最も露呈したものに他ならない。
6) 移植に代わる医療の存在が調査されず、国によるその援助が審議されなかった。
現在、移植適応とされる拡張型心筋症の乳幼児にペースメーカー治療が始められているという。移植をしなくても助かる道が開かれつつある以上、第一により多くの患者・国民がその恩恵に与れるような施策が講じられるべきであり、この点でも「臓器不足の解消」という目標自体が再考される必要があった。
 そもそも人の生死の問題は、多数決に委ねたり、法律問題にすり替えたりするべきものではありません。このまま参議院でもA案が可決されるなら、上に述べたように、倫理的にはもとより法的・政治的にも、社会的にも、やがて深刻な諸問題が生じるであろうと危惧されます。
 参議院議員諸氏には、国民全体への責務と日本の文化・社会の未来とを見すえ、立法者としての熟慮と、そして徹底的な審議とをなされるよう、重ねて要望する次第です。


「生命倫理会議緊急声明」連名者(68名+追加3名)
 略

 
 
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■20090621 「脳死」・臓器移植を問うれんぞく市民講座のご案内

 皆様いよいよ移植法見直しの国会審議が5月27日に行われました。提案されている4案についての提案説明と質疑討論が行われて、河野案と言われるA案は「脳死は人の死である」が前提になっている事が浮き彫りになりました。大変危険です。もっともっと審議して、隠されようとしている危険な事実を明らかにし、国民的な議論の上で結論を出すべきですが、後一回審議があるかどうかも分かりません。拙速に衆議院の本会議で可決される場合もあります。その場合は参議院での審議に期待するしかありません。
 いま私たちにできる事は、ほんとに子供の脳死判定が可能かどうかを近藤先生にお話しして頂き、また前回の講師中村さんと同じように子供の命に寄り添ってきたバクバクの会の藤井さんにお話も聞き、大阪から反対の輪を広げて行く事ではと思います。その為の数少ない機会です。ご参加ください。

講師:近藤 孝脳外科医師(病院長)、藤井かおるさん(バクバクの会)
日時:6月21日(日曜日)午後2時〜5時
会場:大阪府社会福祉会館5階第7会議室
交通:地下鉄谷町6丁目駅下車4番出口から南へ徒歩10分

主催:「脳死」臓器移植に反対する関西市民の会

 
 
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■20090621

2009年6月21日

意思表示をしていない、できない人への脳死判定拡大をする臓器移植法A案に対する緊急声明

難病をもつ人の地域自立生活を確立する会
代表  山本 創 
〒101‐0054
東京都千代田区神田錦町3-11-8 武蔵野ビル5F
TEL 03-3296-7137 FAX 03-5282-0017

私達はどんな種別の疾患、障害があっても、お互いの命を尊重し生活できるように、当事者同志が集まり、活動している団体です。今回衆議院で通過した臓器移植法A案は、意思表示をしていない人、意思表示できなかった人への脳死判定拡大という重大な問題があるにもかかわらず、衆議院で成立したことに強い危機感をもっております。他者の命の尊重が軽んじられ、命に格差が生じていないでしょうか。以下の疑問点、要望等様々な声に答えず、あいまいなまま結論を急げば、両者に大きな禍根を残します。参議院での慎重な取り扱いを求めます。

【疑問点 1】
臓器提供の意思表示をしていない人、意思表示をできなかった人の中で、本当は臓器提供をしたくない人が含まれているのか、いないのか明確にすること。もし仮に数%でも含まれるなら、本人意思に反して脳死が強制され、生きる権利が奪われる可能性があります。臓器提供を待つ人も、臓器提供したくない本人の意思に反してまで、臓器摘出を望んでいません。家族や移植された人が後々まで悩み続ける、大きな禍根を残すA案となっていないでしょうか。

【疑問点 2】
 事前に臓器提供にかんする意思表示ができない可能性のある人には、難病をもつ人、知的障害 者や精神障害者、重度心身障害者等も含まれるのか、含まれないのか。意思表示できない方たちは、自動的に第3者の判断で、脳死判定をするかどうか決められ、「生死」の線引きがされれば、意思表示できる人とのあいだに、命の格差を生じさせることにならないでしょうか。

【疑問点 3】
 子供においても、「脳死」の選択や臓器提供は思い悩みます。思い悩み、決断しにくいからこそ、子どもの悩む権利、生きる権利は慎重に、慎重をきして保護される必要があります。子供本人がどう思っているか解らないまま、家族が子供の「生死」を決め、臓器を摘出することがあれば、子どもの人権上も大きな問題があり、後々まで禍根を残すことにならないでしょうか。

【疑問点 4】
 世論調査でも、まだ迷っている人、意思表示をしていない人も多くいます。迷っている、意思表示していない方達に関わる「生死」の問題まで拡大し、第3者の判定で一律に脳死とし、「生死」の線引きをする法律を、国会の多数決で決めていいのでしょうか。

<要望項目>
1 臓器提供の意思表示のない方、意思表示できない方も明確に臓器移植法の適用外とし、本人意思が不明な場合において、家族が代わって「生死」の選択を行わないこと。
2 脳死を人の死とすることの議論、国民的合意は不十分です。反対、賛成の両論の有識者、法令学者、関係当事者等が公平に参加できる脳死臨調等の審議会を早急に設置すること。議論の透明性ある公開、データ検証等がないままに結論を急がないこと。

 
 
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『臓器移植法』改悪を考える緊急院内集会(第14回)

■20090624 採決を急がせた「WHO新指針=渡航移植制限」はうそ!
 参議院では慎重審議を!〜

日時:2009年6月24日(水)午後3時〜5時
会場:参議院議員会館・第1会議室

◆講演 「脳死判定は非科学的であり、危険である」
近藤孝さん(医療法人・南労会 紀和病院・院長 日本脳神経外科学会・専門医 日本救急医学会・専門医)

 近藤孝医師は脳神経外科医として、アメリカ・ビッツバーグ大学病院でも脳死移植の最前線を見てこられました。その経験から、「脳死判定」は非科学的であり、さらに患者本人への治療とは相反し、むしろ危険であると主張されます。長期に生存する「脳死」患者は多数報告され、無呼吸テストを含む脳死判定を行った後に自発呼吸や脳波が復活したケースも報告されています。「脳死」=人の死とする法改定の問題点・矛盾点をお話しいただきます。

◆宗教界からの提案 「改定の前に第二次脳死臨調の設置を!」

◆メッセージ
・『闇の子供たち』作者 梁石日(ヤン・ソギル)さんから(予定)
・「脳死」の子を看護した看護師さんから
・バクバクの会(人工呼吸器をつけた子の親の会)他 参加者から挨拶と報告

 6月18日の衆議院本会議で臓器移植法「改正A案」が可決されました。審議を尽くすことより、結論を出すことを優先させた拙速な採決でした。私たちの生死に関わる重要な法律の改定です。このままでは将来に大きな禍根を残します。各界からの参考人質疑をはじめ、参議院では徹底した審議を行うべきです。

 日本宗教連盟はかねてから、「改定の前に第二次脳死臨調を設置し、92年の脳死臨調答申で示された脳死概念の見直しや小児への脳死移植の問題点などを議論すること」を提唱しています。

 WHO新指針案が求めることは「渡航移植禁止」ではなく、国際的な人権問題となっている人身売買・臓器売買・商業的な移植ツーリズムの規制、生体移植のルール確立、「未成年の保護」「法的に無能力な人の保護」です。「日本国内で臓器の自給自足を」と叫ぶ改定案でこれらの問題が解決するでしょうか?

 むしろ交通事故や自殺を減らし救急医療体制を整備する、犯罪のない安全な社会=「脳死」者を出さない社会の実現をめざすべきです。参議院ではこうした問題を論議すべきです。院内集会にご参加ください。

◆主催:「臓器移植法」改悪に反対する市民ネットワーク
◆連絡先
・日本消費者連盟・富山03(5155)4765
・院内連絡先:阿部知子事務所・栗原(3508)7303 ・川田龍平事務所・八木(3508)8202


 
 
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■20090625

「臓器移植法改正案の衆院通過によせて」
 荻野美穂 同志社大学大学院教授
 ウィメンズアクションネットワーク 視点論点 6月25日
 http://wan.or.jp/modules/articles0/index.php?page=article&storyid=23

 6月18日、臓器移植法(1997年成立)の4つの改正案が衆議院で採決にかけられ、その結果、「脳死は人の死」とし、家族の同意の下に0歳からの臓器提供を認めるA案が、過半数の賛成を得て可決された。法案成立のためにはこの後参議院を通過する必要があり、参院では慎重論が強いといわれているから、実際に今回改定まで行くかどうかはまだわからない。もし政局がらみで衆院解散にでもなれば、廃案となる可能性もある。
 だが、もしそうなったとしても(私はそれを期待しているのだが)、今回の採決でA案を支持した議員たちのうち一体どれだけの人が、脳死臓器移植の問題点について認識し、自分の票のもたらす結果について考えたうえで1票を投じたのだろうかという、疑念と違和感は残る。
 脳死臓器移植というのは、そもそも「脳死」と宣告された他の患者から臓器を摘出することによってしか成立しえない医療である。つまりこの「治療」が可能となるためには、交通事故であれ、病気や犯罪や虐待の結果としてであれ、誰か他の人間が「脳死」とみなされる状態に陥ってくれることが前提になる。テレビなどのメディアでは「国内で移植が受けられるようになれば、この子の命が助けられるのに」といった、視聴者の情緒に訴える報道がなされることが多いが、移植に使われる臓器は何もないところから降ってくるわけではない。
 「臓器不足」とは、言い換えれば「脳死者不足」なのだ。仮に日本の人工透析患者26万人全員を脳死臓器移植によって治療しようとするなら、13万人もの人が交通事故その他の理由で「脳死」と判定されることが必要な計算になる。わたしたちは、はたしてそのように脳死者の頻発する社会を望んでいるのだろうか。
 移植大国であるアメリカ合州国では、交通事故や銃犯罪の多さがドナーの多さにつながっていると言われるが、そのアメリカでも慢性的な「臓器不足」は続いている。そのため日本とは逆に、これまでは禁忌の対象であった生体移植が増えつつあるとされる。「必要な人に臓器が行きわたる社会」とは、考えてみれば実は恐ろしい社会なのではないだろうか。
 今回の改定案提出にあたっては、とくに日本では小児を臓器ドナーとして扱えず、そのため海外移植に頼らざるをえないことが問題視された。だが、「脳死」ははたして「人の死」なのかをめぐってさまざまな疑問がある中でも、とくに子どもの脳死判定に関しては、大人の場合以上に慎重な対処が求められている。交通事故や虐待の結果、「脳死」状態と宣告された子どもが、万が一にも移植用の資源とみなされて死を早められるような事態が生じることになってはならない。
 政府や国会議員、そして医師が真剣に考えねばならないのは、どのようにしてより多くの脳死ドナーを確保するかということではなく、臓器移植をしなくてもすむような代替医療として何が可能かについてであり、その開発に力を注ぐことだろう。
 なお私もその一員である、全国の大学教員でつくる「生命倫理会議」(代表 小松美彦)は、今国会での拙速な臓器移植法案採決に対して緊急声明を発表し、批判と提言をおこなってきた。詳細は、以下のサイトをご参照いただきたい。


 
 
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■20090625

 いま参議院で臓器移植法「改正」案が審議されていますが、優生思想に基づく産科医療補償制度に抗議する障害当事者全国連合として、他の関係団体と共に参議院全議員に対して、以下の通り強く働きかけています。

2009年6月25日

参議院議員各位

     臓器移植法「改正」に反対する要望書
     優生思想に基づく「産科医療補償制度」に抗議する障害当事者全国連合

私たち「優生思想に基づく「産科医療補償制度」に抗議する障害者当事者全国連合」は、臓器移植法「改正」の反対の立場で下記のことを強くご要望申し上げます。




1.脳死を「人の死」と一律に定義し、家族の同意で臓器移植を可能とさせる臓器移植法改正案に反対して下さい。
2.救急医療の問題を含め、医療技術の向上など、日本の医療を巡る状況の抜本的な改善に向けた議論を徹底的に行ってください。
3.臓器移植法改正案については、厚生労働委員会で十分に時間を確保し、慎重かつ徹底的な議論を行なって下さい。

 私たちは全国の脳性マヒ者を中心とする全身性障害者の有志のグループです。今年から施行された「産科医療補償制度」に対し、脳性マヒの子どもだけを対象にしていることなど、優生思想の見地から反対の運動を国会や厚生労働省に対し繰り広げてきました。
 さて、臓器移植法の4つの「改正」案がこの国会に提出され、去る6月18日「改正」A案が、十分な審議を経ないまま、衆議院本題で可決され、参議院に送られてしまいました。
 臓器移植の問題は一言で語りつくせない深刻で複雑な問題であると私たちは理解しています。人の生命をどういう価値観でとらえ、認識し、わかり合えるか、という根源的な問題であることも十分承知しています。
 しかし、改正A案は脳死を「人の死」と一律に「脳死」と定義してしまっています。はたして100%そういいきれるのでしょうか。また15歳未満の子どもからの臓器移植については家族の同意があればできてしまう、とする考え方が打ち出されています。脳死と判定された子どもたちが回復したという症例がいくつも報告されています。死の宣告は、その人の可能性を閉ざすものであり、もう後戻りできないことを意味し、だからこそ慎重には慎重を重ねてなされなければなりません。
 私たち脳性マヒ者など全身性障害者は、親や社会から「迷惑者」「あってはならない存在」として殺されてきた歴史があります。実際に殺されてきましたし、社会的な無視と抑圧という形という意味での抹殺は、いまだに日常のこととして繰り返されています。
 だからこそ、脳性マヒ者や難病の人など障害の重い人たちは、死の定義、あるいは生の価値観に敏感にならざるを得ません。自分の明日の問題、いや今日の問題につながってくるからです。
 みんな実は生きたいのです。脳性マヒ者や難病の人の多くは生きたいのです。もし尊厳死を選択したいと言っている人が居たとしたら、それはもしかしたら、自分の身体からくる苦痛からきている場合もあるかもしれませんが、むしろ周囲に気を使うという意識が強く働き、そういう周囲との葛藤から逃れたいという気持ちが現われてしまっていると認識すべきだと思います。
 私たちは、脳死を一律に人の死とする改正及び本人の自己決定を否定し、15歳未満の子どもの脳死につき家族の同意と倫理委員会等の判断をもって臓器摘出を認める改正を行なうことを絶対認めることはできません。家族の同意があれば“死”の宣告がされてしまう、つまり生命が絶たれてしまうという状況を可能とさせてしまうことは、私たち全身性障害者が長年、子は親と別人格であることを強く訴え闘ってきた事と、真っ向から反することです。
 この問題は本当に複雑な問題です。国会において、障害のある人や、難病の人など、当事者の声に十分耳を傾けて行われるべき重要な問題だと私たちは考えます。


 
 
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■20090626

 「臓器移植法「改正」をめぐって」
 鷲田清一 大阪大学総長 哲学者
  あらたにす 新聞案内人 6月26日
  http://allatanys.jp/B001/UGC020005320090626COK00327.html


 
 
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■20090627

 森岡正博 「臓器移植法改正A案可決 先進米国にみる荒涼」(『朝日新聞』6月27日朝刊)
  http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho06.htm
  生命学 臓器移植法改正を考える
  http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm

 6月18日の衆議院本会議で臓器移植法改正A案が可決された。だがこの改正A案は大きな問題をはらんでいる。
 現行の臓器移植法は、書面による本人の意思表示と家族の承諾があったときにのみ、脳死判定と移植を行うとしている。昨年の内閣府の世論調査でも、約52%の国民がこの考え方に賛同している。しかしながら、A案は、たとえ本人の事前の意思表示がなくても、家族の承諾だけで脳死移植ができるとする。これは過半数の国民の意見をないがしろにするものだ。
 さらに深刻なのは、幼い脳死の子どもからの移植を可能としている点である。最近の調査研究によって、子どもの場合、脳死になっても身長が伸び続け、歯が生え替わり、顔つきも変わり、うんちをするときにいきむ、「長期脳死」の例があることが分かってきた。A案は、成長する潜在的可能性をもった脳死の子どもを含めて「死体」と断じ(第6条第1項)、その身体から臓器を摘出することを許すものである。
 参議院の審議では、「本人の事前の意思表示」の前提を再確認したうえで、脳死の子どもの生命の保護について慎重な議論をしなくてはならない。
 ここで米国に目を向けてみよう。A案は、日本でも米国のような脳死移植が可能になることを目指して提案された。その米国では昨年12月に、大統領生命倫理評議会が、『死の決定をめぐる論争』というリポートを大統領に答申した。
 リポートは脳死を肯定しながらも、長期脳死の登場などで脳死の概念が揺らいでいることを率直に認める。米国でも脳死を死と認めない家族がいるため、臓器の不足に陥っている。それを解決するためにリポートが注目するのが、人工的心停止後移植(人工的に引き起こされた心臓死後の臓器提供=controlled DCD)と呼ばれる方式である。
 すなわち、脳に重大な損傷があるのだが、まだ若干の脳の機能が残っている患者の人工呼吸器を、本人あるいは家族の希望にもとづいて取り外し、心臓の停止を確認し、そのまま2分から5分のあいだ待つ。脳への血流が止まるので、脳細胞は死滅すると考えられる。そして即座に、待機していた移植チームが臓器を取り出すのである。
 要するに、まだ脳死になっていない患者を、人工的に心停止に至らしめ、即座に臓器を取り出すというわけである。これはピッツバーグ方式と呼ばれ、92年に確立したもので、07年には793例が実施された。
 想定される患者は、人工呼吸器を付けられているが、まだ脳死になっていない人間である。具体的には、重大な全脳損傷のある患者に加え、高位脊髄損傷患者や、末期の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者らである。
 脳死概念は信頼できるから、この方式は必須ではないと断りつつも、リポートは、この方式は脳死を死とみなさない人々にも支持されるだろうから、すべての移植を心停止後の移植に切り替えるのも一案かもしれないと示唆する。
 人工的心停止後移植に対しては、専門家からも批判の声が上がっている。生きている人を意図的に死に導くのは倫理的に許されるのか、心停止後も蘇生を施せば回復するのではないかなどの疑問である。
安楽死や尊厳死と結びついたら非常に危険だと思う人も多いはずだ。
それにもかかわらず、人工的心停止後移植は、全米臓器分配ネットワーク(UNOS)の支援を受けて、いま全米で急拡大している。
 日本でも、臓器不足の解消を第一命題として走ってしまったら、その先に待っているのは、まだ生きている人を死なせて臓器を取り出す、荒涼とした風景であるに違いない。


 
 
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■20090629

「脳死―臓器移植法」改悪に反対する声明

 2009年6月29日
 全国障害者解放運動連絡会議(全障連)
 代表幹事 平井 誠一
 
 私たち全障連は1976年に結成し、自立と解放を掲げ、あらゆる障害者差別を許さず、障害者の解放と人権確立を求める運動を進めてきました。結成以来、運動として掲げてきた養護学校義務化阻止闘争、反差別・糾弾闘争、優生思想との闘いは障害者の生存権を問う運動として行ってきました。

 去る6月18日、「脳死―臓器移植法」改悪案が衆院本会議で可決され、6月26日には、参院本会議で趣旨説明が行なわれ、通常国会での成立が行われようとしています。この事態について、全障連の態度を明らかにする。

1.「脳死」は「人の死」ではない。「脳死」と判定されながら、10何年も生き続けた事例や、時間が経って意識が戻り周りの人たちの声が聞こえていたという事例等がある。特に子供の「脳死」判定は非常に難しいと指摘されており、「脳死」と判定されても生き続ける子供の事例が複数報告されており、脳死は人の死とは言い難い。

2.「脳死―臓器移植法」改悪が推し進めるものは、「価値ある命」と「価値なき命」を選別し、「価値なき命」を抹殺してもいいとする死生観を社会的に確立しようとするものである。すなわち、優生思想の強化であり、「安楽死・尊厳死」の法制化へと道を開くものである。様々な病院で人工呼吸器の取り外し等によって患者を死に至らしめる等の行為は裁判等で争われていることもあり、こうした中「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」が策定されているが、「脳死―臓器移植法」改悪によって、こうした人工呼吸器の取り外し等の問題が増加するものとして危惧される。

3.さらに同法改悪が障害者に及ぼす影響として、重度障害のため、自分の意思を伝達することが、健常者が行なう「通常の方法」では困難な障害者の意思が無視されていくことが想定される。また、自発呼吸などを行なう「遷延性意識障害」の人と、「脳死」とされた人の区別をあいまいにし、臓器移植の対象に「遷延性意識障害」などの人を含めるなど、「脳死」の定義を変更し、対象者の拡大につながっていくことも危惧される。

4.「脳死―臓器移植法」改悪が推進するものは、「他者の死を待つ医療」であり、「他者の死の上に生を確立する医療」である。死と隣り合わせの人から人工呼吸器を数分から10分間にわたって外す「無呼吸テスト」など、「脳死」判定を行なうこと自体が死を早めることに直結しており、「はじめに死ありき」の医療なのである。今回の改正の動きは、WHOでの外国渡航による臓器移植制限の動きを背景にして、ドナーの年齢引き下げや「脳死」の定義拡大を図るためのものである。

5.「脳死―臓器移植法」改悪は、福祉・医療の財政抑制が続いてきている現在、人の命が軽く見られ、何時、治療停止や一方的に「ドナー」にされるか分からない時代を切り開くものとして懸念するものである。とりわけA案で「脳死を一律に人の死とする」ことは、切り捨てを確実に加速させていく。A案は、「臓器移植を行なう場合のみ法的脳死判定を受ける」とした現行法の文言を削除しており、臓器提供を行なわない場合でも、「脳死」と判定され医療を切り捨てられていく可能性がある。また、医療費の自己負担がある限り、低所得者の家族がまっさきに「脳死―臓器移植」への「承諾」を「自己決定」「意思表示」の名のもとに強いられていくことになる。さらに救急医療の切り捨てを進めるものであることは明らかだ。

私たち全障連は「脳死―臓器移植法」の改悪に強く反対するものである。

 以上

【連絡先】
大阪市中央区谷町1 丁目3‐17 エルフ大手前502号
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)
電話 06‐6946‐1712
連絡先 076‐421‐9389 平井(代表幹事)
078‐452‐0717 石橋(事務局長)
メール zensyouren(@→半角に)cameo.plala.or.jp


 
 
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■20090630

「「脳死」のパラドックス」
 高草木光一 慶應義塾大学教員
 ピープルズ・プラン研究所 論説 6月30日
 http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=14

「[……]
 そして、その「脳死」の目的である「臓器移植」という技術は、おそらくは時代の徒花でしかない。現在、国が過剰とも言える支援を行なっているのが山中伸弥京都大学教授らのiPS細胞研究をはじめとする、再生医療の基礎研究である。再生医療の見通しは不透明ではあるものの、仮にこれが実現すれば、自己と同じ遺伝子をもつ臓器の生成が可能となり、他人からの臓器移植は不要となる。その瞬間から、「脳死」について議論する必要はまったくなくなってしまうだろう。また、再生医療という「夢」を語らずとも、臓器移植に代わる代替医療は進歩している。「臓器移植でしか助からない」というケースは日々失われていくはずである。つまり、「脳死=人の死」とするA案は、人間にとってもっとも根源的な「生死」の問題を、過渡的な技術であるはずの「臓器移植」のために無理やり捩じ曲げようとしているものだと言える。
 [……]
 銘記すべきは、「死の前倒し」である「脳死」が人の死としていったん法的に認められれば、それは「尊厳死」法の基礎になりうるということである。「尊厳死法制化を考える議員連盟」は、既に法案要綱案を公表している。その議員連盟の会長は、臓器移植法改正A案の提案者、中山太郎前外相である。2008年4月にスタートして国民から大顰蹙をかった後期高齢者医療制度に明らかなように、医療給付制限の方向は明確に打ち出されている。「尊厳死」という美名の下に高齢者等の医療給付を打ち切ることができれば、国家財政にこれほど好都合なことはないだろう。そう考えれば、「脳死=人の死」とするA案は「臓器移植」の先まで見据えて考え出されたものであるとも看做しうる。ともかく、今回の臓器移植法改正が今後の医療政策のターニングポイントになりうることは指摘しておかなければならない。
 [……]」


 
 
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■20090630

 DPI日本会議

 「参議院議員に向けて臓器移植法「改正」に反対と慎重審議を求める緊急声明」(6/30)
 http://dpi.cocolog-nifty.com/vooo/2009/07/post-df08.html

 DPI日本会議では、衆議院の審議の際に発表した緊急声明に引き続き、6月30日、参議院議員に向けて声明を発表しました。
 (参考)5月28日の緊急声明
  http://dpi.cocolog-nifty.com/vooo/2009/05/528-2f90.html

 2009年6月30日
 「臓器移植法「改正」に反対し、参議院での慎重審議を求める緊急声明」

特定非営利活動法人 DPI日本会議

議長 三 澤  了

 DPI(障害者インターナショナル)は、「われら自身の声」を掲げて、障害当事者主体の活動を進めている国際組織として、国連にも認められているNGO組織である。
 私たちDPI日本会議は、その国内組織として、1986年の結成以降、障害者の人権と地域での自立生活の確立を目指して活動を続けてきた。この間、国際的には国連・障害者権利条約の策定に力を注ぎ、国内的には「障害者自立支援法」やバリアフリー法等への取り組みを進めてきた。
 DPI日本会議には、身体・知的・精神障害や難病等、障害種別を超えた当事者団体が結集している。特に、脳性マヒ等の全身性障害やALSなどの難病など、どんなに重い障害があっても地域で暮らせる社会を目指している。また、「障害者=あっては> ならない存在」とする優生思想に反対し、「優生保護法」撤廃等の動きをつくりだしてきた。
 いうまでもなく、どんな障害があっても地域で暮らせる社会をつくる前提は、その生命の価値が等しく認められることである。

 臓器移植法の「改正」案について、去る5月28日付けで、DPI日本会議として反対の緊急声明を発表した。しかしながら、私たちの声は受け止められることなく、6月18日衆議院・本会議での採決が行われ、「脳死は人の死」とすることを前提としたA案が可決された。多くの反対、批判、危惧があるにもかかわらず、慎重な検討が行われず、あっけなく可決した経過自体に、私たちは大きな憤りと危機感を感じざるを得ない。
 「私たち抜きに、私たちのことを決めてはならない」
 将来に禍根を残さないためにも、今、一度立ち止まり、落ち着いて考えることが何としても必要である。あらためて、私たちの見解を記すとともに、参議院の審議においては、「良識の府」としての機能を発揮され、私たちの見解をふまえた検討をお願いするものである。

(1)「脳死」については世界の色々な実例から見ても明らかなように脳死と診断をされながら十何年も生き続けた事例や、時間が経って意識が戻り周りの人たちの声が聞こえていた等という症例まである。心臓が動き、まだ暖かい体温のある人間を「死」と決めつけ臓器を取り出すことはどうしても納得が出来ない。「脳死」状態にある人を「人の死」と定義する時、「回復しても障害が残る」等の障害者の命を軽視する価値観が潜んでいるのではないかとの疑念が生じる。生きる可能性を尊重される命と、生きる可能性を全否定される命を選別することは、紛れもない優生思想であり、障害者の人権尊重の立場からは到底認められない。

(2)特に今回の改正の動きは、WHOでの外国渡航による臓器移植制限の動きを背景にして、ドナーの年齢引き下げや「脳死」の定義拡大を図るためのものであり、私たちとしては容認できない。これまで障害者は「自らの意志をもたない」との偏見のもとに長い間おかれ、その主体的な意志を無視され続けてきた歴史がある。また、重度障害があるために、時には自らの意志を伝達することが、障害のない者の「通常」の方法では困難な状況になることもありうる、そうした立場から、私たちは大きな恐怖すら感じざるを得ない。特に、最近の福祉・医療の財政抑制が続いてきている日本の社会状況を前にする時、私たちの命が軽く見られ、何時、治療停止や一方的に「ドナー」にされるか分からない時代が到来する、その予兆として懸念するものである。

(3)今求められているのは、「他人の死」を前提にするのではなく、どんなに重度の障害や難病等があっても生き抜いていけるための適切な医療を確保することである。また、「障害=不幸」との差別意識の根深さの背景には、社会的な支援体制の欠如がある。どんな障害があっても、一人の人間として自立して当たり前に地域で暮らせる介護等福祉サービスの充実を進めていくことが必要である。

(4)国連では2006年12月に障害者権利条約が採択され、2008年5月に正式発効している。わが国においても、その批准に向けた国内法の整備が火急の課題となってきている。障害者権利条約の基本精神は、「私たち抜きに、私たちのことを決めないで!(Nothing About Us, Without Us!)」である。そうした点からも、私たち障害当事者の人間の命の平等性を守る立場からの意見を十分ふまえた上での対応を強く求めるものである。

【連絡先】
〒101-0054 千代田区神田錦町3-11-8 武蔵野ビル5階
特定非営利活動法人 DPI日本会議
office@dpi-japan.org(@→@)
TEL03-5282-3730、FAX03-5282-0017


 
 
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■20090701

 日本宗教連盟 「臓器移植法改正案の参議院審議に対する意見書
 http://www.jaoro.or.jp/activity/state_zouki_210701.html

 日本宗教連盟は、臓器移植法改正案の参議院での審議に際し、宗教者の立場から以下のとおり意見を表明いたします。
 私たち宗教者は、この世に生を享けた一人ひとりのいのちは、どの宗教においても、すべて等しく、かけがえのないものと受けとめています。一方、脳死・臓器移植は、生きている他者の重要臓器の摘出を前提としている限り、普遍的な医療行為にはなり難いと思料いたします。こうしたことから、参議院での審議にあたっては、ドナーとレシピエント双方の「いのちの尊厳」が侵害されることがないよう、下記の点を踏まえ、慎重に審議を重ねられますよう、お願い申し上げます。

 脳死と診断された後、身長が伸び、体重も増え、いのちを刻み続けている子どもたちが数多く紹介されている。また、多くの日本人が、今なお「死の三徴候」をもって、「人の死」を受け入れていることから、「臓器移植の場合にのみに脳死を人の死」と規定すべきである。(現行法の尊重)
臓器移植後、手紙や日記などで本人が移植を望んでいなかったことが判明する場合が想定される。ドナーの「いのちの尊厳」を守るためにも、「本人の書面による意思表示」を規定すべきである。(現行法の尊重)
脳死段階での小児からの臓器移植については、大人と異なり子どもが蘇生力に富んでいることから、より厳格な脳死判定の基準の導入、被虐待児を対象としないなど、脳死判定基準の検証をはじめ子どもを保護するシステムを検討すべきである。
以上3点を踏まえ、わが国の脳死・臓器移植が直面している諸問題を解決していくために、「第2次脳死臨調」を早急に設置し、集中的な検討を始めるべきである。
 臓器移植法の改正は、国民一人ひとりの死生観、とりわけ次の世代を担う子どもたちへの影響が大きいことから、問題点を残したままでの採決は、将来にわたり日本の文化・社会に大きな禍根を残すものとの危惧の念を禁じえません。良識の府・参議院において、ひとえに秀抜なるご見識をもって慎重にご判断されることを、強く要望いたします。

平成21年7月1日
財団法人  日本宗教連盟
理事長   岡 野 聖 法


 
 
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■20090703

 波平恵美子 「複雑な現実 見据え議論を」(生と死を考える 臓器移植法改正をめぐって 上)
 お茶の水女子大学名誉教授 医療人類学
 『朝日新聞』7月3日朝刊3面
 
「[……]
 議論のプロセスが大事な問題なのに、年齢制限だけに問題が集約された。[……]
 社会全体を覆う、リアリティーの欠如が根幹にあるのだろう。がん体験をつづった本が多く出版される一方で、自殺者3万人の現実にさほど関心が広がらない。奇妙な乖離が象徴的だ。自分の親の延命問題から隣人の事情へ、医療制度全体などのもっと大きな社会の課題へと関連づけて考える習慣が失われている。
 文化人類学的にいえば、ギフト(贈与)とは社会関係の積み重ねの上に成り立つ。臓器移植の課題は社会すべての問題とつながっている。政治の世界に蔓延する、わかりやすいことだけをねらった風潮に引きずられることなく、複雑な現実を見据えた多方向からのていねいな議論が、改めて求められている。」
 (聞き手・藤生京子)
   
 
 
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■20090703

 島薗 進 「生命倫理の基礎を崩すな」(生と死を考える 臓器移植法改正をめぐって 上)
 東京大学教授 宗教学
 『朝日新聞』』7月3日朝刊3面


 脳死はそもそも、移植用の臓器を取り出すためにつくられた概念で、人類の死生観や死別の経験に即して構成されたものではない。血液が流れ、肌は温かい。子どもを産める。それを一律に死者とするのは、人類が培ってきた死の文化にむりやり異質な基準を持ち込むものだ。脳重視の生命観には科学的にも疑念があるし、死者との別れを尊ぶ態度とも齟齬をきたす。
 今回の場当たり的対応による混乱は、政府直轄の委員会により、重要な問題について国民的合意を育てる努力を怠ってきたツケが回ってきたもの。欧米諸国では、キリスト教の立場からの主張とそれに対抗する論理が拮抗する中で、生命倫理の基礎づけが続けられてきた。日本では、特定の強い宗教的伝統がないため、倫理観についての議論がおろそかにされ、欧米追随でお茶を濁す傾向がある。
 衆院を通過したA案は生命・医療倫理の前提をいとも容易に崩している。脳死を人の死としてよいか、本人の意思に基づくものかどうかの2点だ。臓器移植を求めている人、貢献の意思をもつ人のために脳死からの臓器移植には道を開いておくべきだが、生命倫理の基礎を掘り崩してよいのか。現場では脳死判定を急ぎ、回復可能な人を見切ることも起こりかねない。医療現場が自信をもって死の臨床に携われるよう、堅固な基礎に立脚した結論を出すべきだ。
 (聞き手・磯村健太郎)

 
 
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臓器移植法改正に伴う要望書


日頃より、国民生活と医療に尽力くださること、心より敬意を表し、感謝を申し上げます。さて、全国「精神病」者集団は、障害者団体として、臓器移植法改正に伴い、以下のことを要望いたします。

1.「脳死」を一律「人の死」と定義付けることに反対します。脳死状態の患者とは、一種の重度障害者であり、障害者の生きる権利を奪うものと強く批判します。これらは、障害者の命は他の者と比較して劣っているという優生思想に基づくものです。既に導入している米国では、医療現場で安易な治療の差し控えや命の選別が促進されています。

2.臓器摘出という極めて侵襲性の高い医学的介入を、「予め拒否をしていること」「家族の同意がないこと」のみを要件としてしか拒否とされないでは、人の死後の人格権の侵害になります。また、子どもなど一定の割合で拒否できない層が存在します。

3.国民の命に関わる問題です。廃案になることを恐れず、徹底的に審議して下さい。先に採決日を決めて、拙速な審議で結論を出さないで下さい。また、参考人が賛成派に偏っているのは問題です。「長期脳死」の子どもの家族や「脳死判定は非科学的」とする医師、これまでの「脳死」臓器提供事例に対して人権侵害があったことを問題にしている弁護士、
それから、我々臓器移植法の改悪に反対の声明を出している障害者団体を入れることを要求します。

  2009年7月3日


全国「精神病」者集団
                     〒164-0011
東京都中野区中央2―39―3 絆社気付
tel 03-5330-4170/fax 03-5942-7626  
(留守電の場合は以下携帯へ)
電話 080-1036-3685
(土日を除く14時から17時まで)

 
 
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■20090705

 額田 勲 「臓器移植法 修正、医療全体と整合性図れ」
 医師、神戸生命倫理研究会代表
 『朝日新聞』7月5日朝刊 私の視点

「[……]  医療費政策の下で限られた医療資源を効率的に配分しなければならない厳しい現実を前にし、脳死・臓器移植と医療全体の整合性を図る本質的な論議は最優先のはずである。しかし、衆議院で可決された改正法案は提供臓器の増加だけを自己目的とした「臓器獲得強化法」というべき性格だ。臓器獲得促進のためには「脳死を人の死とせねばならない」との論拠だが、「脳死=人の死」が及ぼす脳死者への医療行為打ち切りや医療費負担、相続など民法上の問題等々をもっと考えるべきである。
 [……]」


 
 
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■20090707

 参議院厚生労働委員会で審議。午前、参考人より意見聴取、午後、A案提出者への質疑

◆午前、参考人森岡正博氏より意見陳述

森岡正博参考人:
2000年に、日本医師会雑誌に発表された、旧厚生省研究班の論文
「小児における脳死判定基準」というものがあります。
これは日本の小児脳死判定基準を定めた、決定版の論文でございます。
寺岡さんが発言で引用されていたものであります。
論文には次のように明記されています。
まず、脳死とされる、6歳未満のこどもについて、厳密に、無呼吸テストを2回以上実施して、無呼吸が確認されたケースが、20例あった。
これは、小児脳死判定基準を厳密に満たしております。
そして、その20例のうちの、
7例、
が長期脳死になっています。
すなわち、無呼吸テストをおこなった、6歳未満の脳死のこどものうち、なんと、35%が長期脳死になっています。
さらに驚くべきことに、そのうちの4例、すなわち、20%が、100日以上、心臓が動き続けております。
これが、論文で発表されている事実です。
無呼吸テストを厳密に実施した脳死判定で、脳死のこどもの3割以上が長期脳死になっており、2割は100日以上、心臓が動いている。
我々は、まず、この厳粛たる事実を、胸にきざまなくてはなりません。
どうして、このような重大な事実が、国民に広く知らされてこなかったのでしょうか。[……]

この論文の注に引用されている論文の一つが、日本救急医学会雑誌2000年のもので、
「300日以上脳死状態が持続した幼児の一例」
というものであります。[……]
再度確認しますが、この兵庫医科大学のケースでは、無呼吸テストは、24時間あけて、2回、おこなわれています。
ここにもマスメディアの皆さんがおられますが、脳死についての正しい情報を是非とも国民に知らせてください。

心臓が100日以上動き続け、成長し、身長も伸びる脳死のこどもが、死体である、とする、国民のコンセンサスはありません。
また、長期脳死になるかならないかを見分ける、医学的な基準も発見されていません。

※意見陳述全文は以下に掲載
  「まるごと成長し、まるごと死んでいく「自然の権利」」(1)
  http://www.lifestudies.org/jp/marugoto.htm
  生命学 臓器移植法改正を考える
  http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm

◆午後、A案提出者の発言

○石井みどり参議院議員
たびたび問題になっております、小児には、長期脳死という問題が指摘されております。
脳死状態であっても、髪の毛が伸びる、爪が伸びる、歯が生え変わる、そして成長を続けていくと、いわれています。
私はこのような状態は脳死ではなくて、重症の脳障害ではないかというふうに思っておりますが、どうも正確なところが、無呼吸テストをしたうえでも、多少、体重の増加があったとか、 そういう例も一例あるようには、聞いておりますが、種々言われていることは、メディアを見てましても、非常に混同されて報道されているような気が致します。
正確な御説明を御願いいたします。

○富岡勉衆議院議員
委員の御指摘のとおりだと思います。
すなわち、小児について、脳死状態であっても、髪や爪が伸び、また、歯が生え変わる、そして成長を続けていくという、いわゆる長期脳死の事例が報告されていることは、わたし自身も承知しております。
しかしながら、これらの事例はいわゆる臨床的脳死と診断されているに過ぎず、
臓器移植法において求められる厳格な法的脳死判定に係る検査、すなわち、
無呼吸テストや、時間をおいての二回の検査が実施されているわけではございません。
こういうった意味におきまして、このような状態にあるものは、法的に死とされているわけではございません。
小児の脳死判定に慎重さが必要であることはもちろんのことでありますが、
単なる臨床的脳死と法的脳死判定により、脳死とされていることは、区別して議論する必要があると思います。


 
 
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■20090708

 第15回臓器移植法改定を考える緊急院内集会

 日時:7月8日(水)午前11時〜13時
 会場:参議院議員会館第6会議室

 ―宗教界からの緊急提言―「脳死は人の死ではない」
 (1)見解発表(五十音順)
 「大本」「浄土宗」「浄土真宗本願寺派(西本願寺)」「真宗大谷派(東本願寺)」「天台宗」「日蓮宗」「立正佼成会」
  *その他、「キリスト教」からの発表も調整中。
 (2)見解紹介
 「曹洞宗」「日本宗教連盟」
 (3)出席議員からの挨拶、参加者からの発言
 7月10日参議院本会議での「臓器移植法改定案」の採決が取りざたされています。参議院での審議はまだ始まったばかりです。衆議院ではたった8時間でした。区切られた期間で、いったいどれだけの審議ができるというのでしょうか?人の生と死に関わる重要な問題を解散総選挙と絡めて政治的に扱ってはなりません。じっくり腰を落ち着けて審議するべきです。
 この事態に、宗教界の7団体が一同に会し「脳死は人の死ではない」と緊急提言を行います。 直前のお知らせではございますが、7月8日の院内集会にぜひご参集ください。

 主催:「臓器移植法」改悪に反対する市民ネットワーク
 連絡先:日本消費者連盟・富山03(5155)4765
 院内連絡先:阿部知子事務所・栗原(3508)7303 川田龍平事務所・八木(3508)8202


 
 
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■20090708

 小松美彦 「臓器移植法改定 A案の本質とは何か――『脳死=人の死』から『尊厳死』へ」
 『世界』2009年8月号(岩波書店)、47-53頁。
 http://www.iwanami.co.jp/sekai/

 (以下、岩波書店HPより)
  6月18日、衆議院においてA案という「臓器移植法改定法案」が可決した。「臓器移植法」とは、脳死者からの臓器摘出を認めた法律である。施行から本年6月末に至るまでの11年半あまりの間に、臓器提供した脳死者 (ドナー) は81名、臓器移植総数も345件に留まっている。今回WHO (世界保健機関) の臓器移植新指針に、海外に渡って移植を行うことの制限と、移植臓器を国ごとに「自給自足」する方針が謳われている≠ニいわれ、そのため国内でドナーを増やすべく、法律の改定が今国会で急転回した。ところがWHOの新指針の実際の内容は、生体移植のドナーの保護と移植ツーリズム (臓器売買旅行) の対策であり、渡航移植の制限も臓器移植の「自給自足」の方針も、一言も述べられていないのだ。また、A案では「臓器提供する場合に限って、脳死を人の死とする」という主旨の文言が、第6条第2項から削除されている。なぜ法律として「脳死=人の死」と規定することにここまでこだわるのか――そこにこそA案の本質がある。

 (以下、本文小見出し)
 WHO新指針に関する虚報を喧伝
 長期脳死者――科学的に破綻した「脳死=人の死」の論理
 なぜA案なのか 公言された「尊厳死」との連関
 「移植でしか助からない」は真実か

 こまつ・よしひこ 東京海洋大学教授、生命倫理会議代表。1955年生まれ。専攻は生命倫理学。著書『脳死・臓器移植』の本当の話』(PHP新書) など。
 
 
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臓器移植法改正に関する慎重審議のお願い
【要望書】

 日頃より、国民生活と医療に尽力くださること、心より敬意を表し、感謝を申し上げます。さて、このたびの臓器移植法改正は、10日の審議のあとにA案修正案が提出され、そのあと自由審議、そして審議打ち切りとなると聞いております。
 私たち全国「精神病」者集団は、障害者の団体として、臓器移植法改正に反対しています。脳死状態の患者とは、一種の重度障害者であり、障害者の生きる権利を奪うものと強く批判します。既に導入している米国でも、医療現場で安易な治療の差し控えや命の選別が促進されています。
 また、臓器摘出という極めて侵襲性の高い医学的介入を、「予め拒否をしていること」「家族の同意がないこと」のみを要件としてしか「拒否」とされないでは、人の死後の人格権の問題が生じます。そして、子どもなど一定の割合で拒否できない層が存在します。
 これは、国民の命に関わる問題です。慎重な審議をお願いしたく、以下を要望します。

 参考人が賛成派に偏っている傾向があります。参考人に「長期脳死」の子どもの家族や「脳死判定は非科学的」とする医師、これまでの「脳死」臓器提供事例に対して人権侵害があったことを問題にしている弁護士、それから、我々臓器移植法の改悪に反対の声明を出している障害者団体を入れた上で、審議の継続を求めます。


  2009年7月10日


全国「精神病」者集団
                     〒164-0011
東京都中野区中央2―39―3 絆社気付
tel 03-5330-4170/fax 03-5942-7626  
(留守電の場合は以下携帯へ)
電話 080-1036-3685
(土日を除く14時から17時まで)

自民党国会対策委員  脇 雅史  03−3580−2701
           椎名一保  03−5512−2513
           西島英利  03−3508−8726

民主党国会菜策委員  池口修次  03−5512−2732
           芝 博一  03−5512−2230

議院運営委員会理事
   西岡武夫 03-5512-2542
   池口修次   03-5512-2732
   小川勝也   03-5512-2226
   水岡俊一 03-3591-0510
   秋元司    03-5512-2311
   世耕弘成    03-3519-4788
   魚住雄一郎  03-5512-2625

 
 
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■20090712

 「脳死」・臓器移植を問う市民連続講座
 テーマ:わたしたちは生きています!―人工呼吸器をつけた子と親からのメッセージ

 講師:人工呼吸器をつけた子の親の会〈バクバクの会〉
    大阪大学附属病院看護師(「脳死と臓器移植を考える会」)
 日時:7月12日(日)午後2時〜5時
 会場:大阪府社会福祉会館4階404 (TEL 06-6762-5681)
 地下鉄「谷町6丁目」下車4番出口から南へ徒歩10分
 参加費:500円(資料代)
 主催:「脳死」臓器移植に反対する関西市民の会
 連絡先:06-6392-4441

「脳死」を人の死とし、家族の同意だけで臓器の摘出を可能とする臓器移植法改定案(A案)が衆議院で可決され、参議院での審議が始まりました。
〈バクバクの会〉の子どもたちの中には、医師から「脳死」「脳死に近い状態」と宣告されながらも、人工呼吸器を用いて毎日を精いっぱい生き、その子なりのペースで成長している子どもたちが大勢います。もしもA案が成立するようなことになれば、このような子どもたちの生きる権利が脅かされるのではないかと懸念されます。
今回は、人工呼吸器をつけて暮らす子と親の立場からのお話に加えて、臓器移植実施医療機関で働く看護師さんからも問題提起していただきます。
今こそ、「脳死」臓器移植についての市民の意見を大きく発していきましょう。ご参加ください。

 
 
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■20090713

 土井健司 「「愛」で片付けるのは危険」(「改正臓器移植法きょう採決」)
 関西学院大学神学部教授 キリスト教神学
 『神戸新聞』』7月13日朝刊


 年齢制限の撒靡や提供条件の変更など、改正案などの審議は緩和に向けた条件整備ばかりが先行している。移植のための臓器を増やすという目的のために、人間という存在が役割や機能という側面でしか、とらえられていない。移植を待つ人をないがしろにするつもりはないが、死にゆく人間へのケアも忘れてはならない。両者を天秤にかけて、結論を急ぐような今の議論のあり方は問額があまりに多い。
 臓器提供は、一般に「愛の行為」や「命の贈り物」などと表現される。だが、こうした言葉を使うことで、「脳死は人の死か」という大問題を真っ正面から議論することを避けてしまうことにならないか。本来、私たちの死生観ともかかわることでありながら、提供者を募るために「愛」と片付けてしまうのは、非常に危険だ。
 私たちは、名も知らぬ、直接関係のない人を愛せるだろうか。摘出された膀器は臓器移植ネットワークを通して、レシピエントに配分される。その際は匿名性が重視される。博愛の精神とは、自分の人生でかかわりを持った人を分け隔てなく愛することだと私は考えている。一般に愛と臓器提供を結びつけることはできない。
 脳死を人の死とみることに、人びとの意見が分かれている。人間の体は徐々に消滅し、心臓が止まっても細胞は生きている。子どもの長期脳死では、背やつめが伸びるという現象もみられるこの生物としての個体が消滅する過程で、どの時点を人の死とするのか。医学的に決められるのか私には疑問だ。
 これまで、身近な人の死を目で見て直接的に経験できた。呼びかけても答えがなく何をしても反応が返ってこない。そう認識して、自分で納得する。人間の死の自然なとらえ方だ。
 脳死の状態では体も温かく、反射といえども触ると体が動くという。そんな人を「死者」とみなすことに違和感を覚える人がいるのは当然だ。人の死は医学だけでなく、文化や社会の問題でもあるのだから。

「人の死は文化、社会の問題でもある」と話す土井健司教授=西宮市上ヶ原一番町、関西学院大学
 写真 略

どい・けんじ 京都大学大学院文学研究科修士課程修了。同大学で文学博士、関西学院大学で神学博士を取得。専門はキリスト教神学。玉川大学文学部准教授を経て現職。日永生命倫理学会評議委員。宗教哲学学会理事。生命倫理の教育・研究に携わる大学教員らでつくる生命倫理会議は、臓器移植法改正の徹底審議を求めている。

 
 
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■20090713
生命倫理会議 参議院A案可決・成立に対する緊急声明
http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/2009/07/blog-post_8864.html

 2009年7月13日
 生命倫理会議 代表 東京海洋大学教授 小松美彦


 生命倫理会議は、生命倫理の教育・研究に携わっている大学教員の集まりです。去る5月12日に71名(68名+追加3名)の連名を以て「臓器移植法改定に関する緊急声明」を公表し、厚生労働記者クラブにおいて記者会見を行いました。またその後も、「臓器移植法改定に関する徹底審議の要望」(連名者71名)を公表し、ほぼ全ての衆議院議員および参議院議員に送付いたしました。このようにしてこの間、私たちは生命倫理に関わる専門家の立場から、臓器移植法改定に関して討究されるべき諸問題を指摘し、審議の徹底を求めてまいりました(詳細は http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/ )。
 しかるに衆議院では、現行法制定時にも及ばない短時間の議論が行われただけで、主に国会議員諸氏の死生観なるものに委ねるという形で採決がなされ、しかもA案という最も危険な法案が可決されました。私たちはこれに対して、同日6月18日に「緊急声明」(連名者71名)を公表するとともに再び記者会見を行い、参議院では徹底審議がなされることを要望いたしました。しかしながら本日、その最も危険なA案が参議院においても可決され、同案は成立を見ました。そのうえ、参議院は「良識の府」と言われるにもかかわらず、審議時間は衆議院と同じくわずか8時間にすぎず、仮にも徹底審議がなされたとは言い難い有様で、法改定に関して討究されるべき諸問題は依然として放置されたままでした。
 私たち「生命倫理会議」は臓器移植法改定を、脳死患者を初めとした人の生死に関わる問題として、また日本の文化・社会の未来を大きく左右する問題として考えてまいりました。そこでA案成立に対して、満腔の憤怒と抗議の意を込めて、以下の見解を表明いたします。

1)厳密な脳死判定後にも長期脳死の実例がある、という事実が直視されなかった。
 参議院の参考人質疑で森岡正博参考人が指摘したように、無呼吸テストを厳密に実施して脳死と判定された子供のうち、3割以上が長期脳死になっていること、2割は100日以上も心臓が動いていることが、ほかならぬ旧厚生省研究班の論文に明記されている。にもかかわらず、A案提出者はこの事実を長らく無視し、長期脳死は「法的脳死」ではないと主張してきた。これは脳死に関わる事実の重大な歪曲である。その後、参議院厚労委においてはA案提案者もこの事実を認めざるをえなくなったが、その修正が参議院本会議において徹底されないままA案が可決された。このことは国民を欺くものであると言わざるをえない。

2)ドナーとなる子供への虐待の有無を判別する難しさが認識されなかった。
 近年の日本では、子供の虐待が深刻な問題になっている。A案では、子供の脳死判定と臓器提供が親の代諾だけで認められる以上、それらは虐待の証拠隠滅になる可能性があり、子供の人権がさらに侵害される可能性がある。しかも日本小児科学会の調査によれば、大半の小児科医は虐待の判別に関して肯定的な見解を示していない。子供の脳死判定自体が困難であるうえに、虐待の有無を判別することが困難であるにもかかわらず、国会はA案を成立させた。それゆえ今後、実際に重大な人権侵害が起こる危険性が高いと考えられるが、その時には今日を振り返って、法改定の責任が問われるだろう。

3)「脳死=人の死」であるとは科学的に立証できていない、という最も重大な事実が省みられなかった。
 近年では移植大国のアメリカにおいてすら、有機的統合性を核とする「脳死=人の死」という論理は破綻したと認めざるをえなくなってきている。この点で、体温を保ち、脈を打ち、滑らかな動き(ラザロ徴候)を見せ、成長し続ける脳死者を「死人」とすることに、少なからぬ人々が違和感を覚えるのは、単なる感情の問題ではなく、非科学的なことでもない。このように科学的にも「人の死」とできない状態を、A案は政治と法によって「人の死」としてしまった。日本社会で今後、「命の尊さ」といった言葉はもはや説得力を失ってしまうだろう。

4) WHOの新指針の内容を十分に確認せずに、事実に基づいた議論がなされなかった。
 巷間で喧伝されてきたのとは異なり、WHOの新指針には「海外渡航移植の制限」や「移植臓器の自給自足」の方針は謳われていない。それどころかA案は、WHOが求めている「未成年の保護」や「法的に無能力な人の保護」に反する恐れがある。加えて、WHOがA案を推奨しているという事実も存在しない。A案可決・成立は、こうした事実の誤認や歪曲に基づいていた疑いがある。国会の議論に対する国民の信頼は、大きく損なわれざるをえないだろう。

5)ドナーを増やすことが国民全体への責務に反することにはならないか、熟慮されなかった。
 「臓器不足」とは「脳死者不足」にほかならない。しかも交通事故が減り、救急医療体制が再建・整備されれば、「脳死者」もまた減ることが予想される。国民が安全に、安心して暮らせる社会を実現することは、政府および国会が果たすべき本来の務めであるはずだが、それは「脳死者=ドナー」を増やすこととは両立し難い。その意味で、「臓器不足の解消」のために法改定したことは、国民全体の安全・安心は二の次であると宣言したことに等しいのではないか。

6)移植に代わる医療の存在が患者・国民に周知され、また国によって援助されるべきである。
 現在、心臓移植に限っても、移植適応とされる患者への心臓弁形成術・ペースメーカー治療・バチスタ手術などの成功例が出ている。移植をしなくても助かる道が開かれつつある以上、第一により多くの患者・国民がその恩恵に与れるような施策が講じられるべきであるし、それは移植適応とされる患者の治療と、国民全体の安全・安心とを両立させうる方法でもあるだろう。その可能性をさらに広げることこそが政府・国会の責務のはずである。「臓器不足の解消」という目標自体が再考され、新たな取り組みが模索されるべきである。この点は、法改定が確定した現在でも全く変わることはない。

7)現行「臓器移植法」に定められた法改定条件が遵守されなかった。
 現行の「臓器移植法」では、「法律の施行状況を勘案し、その全般について検討が加えられ」ることが法改定の大前提である(附則第二条、下線部引用者)。しかも、これまでの81人の脳死判定と臓器摘出には、法律・ガイドラインなどに対する違反のあった疑いが残る。ところが衆議院でも参議院でも、この点を精査・検討しないままに採決が行われた。さらにA案は、臓器提供の際の「本人同意」さえ不要としている点で現行法の基本理念まで改廃するものであるうえに、日本の法制史上初めて「人の死」を規定したものであると見なされうる。その意味でA案は、「見直し」の名の下に「新法制定」を行った蓋然性が高く、国民に対して著しく誠実さを欠いた行為と言わざるをえない。

 そもそも人の生死の問題は、多数決に委ねたり、法律問題にすり替えたりするべきものではありません。しかるに、今回のA案の可決・成立は、上に述べたように、倫理的にはもとより法的・政治的にも、社会的にも、深刻な諸問題を招くことが危惧されてなりません。特に一点だけ述べるなら、A案提案者は、「法的脳死判定によって脳死が確定しても、臓器提供の意思を撤回すれば脳死者への保険治療を継続する」旨を国会で明言されました。対して「現行法・附則十一条」には、保険適用の期間をめぐって「当分の間」なる言葉が挿入されていますが、A案提案者と国会はかかる言明を「当分の間」に終わらせることなく、永続墨守されることを強く要望いたします。なぜなら、保険適用がはずされ、人工呼吸器がはずされるときこそが、脳死者の息の根を止め、家族との絆を引き裂くときに他ならないからです。

「生命倫理会議緊急声明」連名者(71名)
 略

 
 
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■20090713

2009年7月13日

抗議声明 ―臓器移植法改正A案参議院可決成立に対して―
優生思想に基づく「産科医療補償制度」に抗議する障害当事者全国連合

 2009年7月13日(月)、私たちが生存をかけて反対し続けてきた臓器移植法「改正A案」は、予想外の差をもって参議院本会議で可決成立してしまった。この改正法は一年後に施行される。
 この改正法A案の大きな問題点は、脳死を一律に人の死と法的に定義してしまうこと、そしてそれに加えて、家族の同意さえあれば脳死からの移植手術を可能とさせてしまうことである。
 私たちの仲間には遷延性意識障害で人工呼吸器を付けて生活している人も多くいる。アメリカの一部では、臓器が足りず、脳死という定義をさらに変更し、脳不全の段階で臓器移植を可能とさせようとする動きがある。
 今後日本においても、脳死を人の死としたことによって、脳死段階での尊厳死を法制化させようとする動きがますます強まることが予想される。この動きの背景には、医療費抑制という、「弱者」切り捨ての発想があることは言うまでもない。合理主義が「いのち」のレベルにまで貫かれようとしている。
 私たちは移植医療を否定する立場ではない。このような合理主義的な動きに対して強い危機感を持つのである。
 今後法の施行において、知的障害や精神障害などによる意思表明困難な人たちの権利が守られるように、きちんと監視をし続けていく。
 改めて改正A案の参議院での可決成立に対して抗議の意思を表明するとともに、今後も優生思想との闘いをさらに強めていく決意である。

 
 
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■20090727

「脳死・子どもの脳死」(NHK 視点・論点「臓器移植法の問題点(3)」)
 森岡正博
  「まるごと成長し、まるごと死んでいく「自然の権利」」(2)
  http://www.lifestudies.org/jp/marugoto.htm
  生命学 臓器移植法改正を考える
  http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm

みなさん、こんにちは。

国会で、臓器移植法が改正されました。

大人については、本人がドナーカードを持っていなくても、家族が承諾すれば、脳死判定を行ない、臓器を取り出すことができるようになりました。
そして、小さな子どもの場合には、本人は意思表示できませんから、親が承諾するだけで、脳死判定を行ない、臓器を取り出すことができます。

脳死の子どもの運命が、親の手にゆだねられるのです。

今日は、脳死の子どもについて、詳しくお話ししたいと思います。

「脳死になれば、数日から一週間で心臓も止まる。だから脳死は人の死だ」と言われてきました。
ところが、最近の研究で、とくに「子ども」が脳死になった場合は、数ヶ月から1年、ときには数年以上も心臓が動き続けるケースがある、ということが分かってきました。
長いあいだ続く脳死という意味で、これを「長期脳死」と呼びます。
長期脳死のあいだに、脳死の子どもは、成長し、身長が伸び、歯が生え替わり、顔つきが変わります。

ところで、「長期脳死」の子どもは、脳死判定基準を厳密に満たしていないから、本当の脳死ではないという意見があります。
果たして、そうなのでしょうか。

フリップをご覧ください。(フリップは下記引用資料より作成)
これは、日本医師会雑誌に発表された、「小児における脳死判定基準」という論文です。
これは、脳死の子どもを判定する、日本で唯一の判定基準です。
この論文にはこう書いてあります。
「2回以上の無呼吸テストを含む、小児脳死判定基準を、厳密に満たして、脳死と判定された6歳未満の子どもが20人いた。」

次のフリップをご覧ください。
この20人のうち、7人が、脳死のままで30日以上も心臓が動き続けています。
これは全体の35%に当たります。
さらに驚くべきことに、そのうちの4人は、100日以上も心臓が動き続けたのです。
これは全体の20%に当たります。
子どもの場合、厳密な脳死判定をしたとしても、約2割は、100日以上心臓が動き続けるという厳粛な事実を、私たちは知っておく必要があります。

次のフリップをご覧ください。
これは、「日本救急医学会雑誌」に発表された論文です。
兵庫医科大学で、生後11ヶ月の男の子が脳死になり、無呼吸テストを含む、厳密な脳死判定を受けています。この子は、なんと326日間、心臓が動き続けました。約1年弱です。
それだけではありません。この間、脳死状態のままで、身長が74センチから82センチまで伸びています。脳死のまま、成長しているのです。

次のフリップをご覧ください。
この子は90日頃から手足を動かし始め、それは「あたかも踊るように見えた」と書かれています。
手足の動きは、心臓が止まるまで、200日以上も続いています。
この動きは、両親に心理的動揺を与えた、と書かれています。
再度言いますが、これは厳密に脳死判定がなされた男の子です。

みなさん、立ち止まって考えてみてください。
脳死の子どもからの心臓移植とは、体が温かく、おしっこも、うんちもして、身長が伸び、成長し、自分で手足を動かすことのできる体、血のめぐっている体に、メスを差し込み、ドクドクと動いている心臓を取り出すことなのです。
脳死の子どもからの心臓移植とは、そもそもそういうことなのです。

脳死になった子どもの心臓が数日で止まるのか、それとも長期脳死になるのかを、見極める方法は、いまのところ存在しません。
脳死になった我が子から、移植のために臓器を取り出せば、その子はすぐに冷たい遺体となります。
しかしながら、脳死になった我が子から、もし臓器を取り出さなければ、その子は脳死のまま何百日も成長を続けるかもしれないのです。

我が子が脳死になったときのことを考えてみてください。
新しい法律では、すべてが親の判断にゆだねられます。
「物言わぬこの子は、何をいちばん望んでいるのか。」
「脳死状態にあっても成長する体は、何を訴えているのか。」

日本社会とは、まわりの空気に逆らって、NOと言いにくい社会です。
みなさん、もしあなたのお子さんが脳死になったとき、あなたは愛するお子さんの脳死判定を拒んでもぜんぜんかまいません。移植を断わっても、ぜんぜんかまいません。
そのことは新しい法律で守られています。

脳死になった我が子を前にして、私たちには「迷う自由」が与えられています。
体の温かい脳死の子ども、脳死にもかかわらず必死で成長しようとしている我が子を前にして、親のみなさんが「迷う」のは、当たり前のことです。
私たちは「迷う自由」を持っています。
迷ったあげく、移植にYESと言えなくても、それを恥じることはありません。
そのことは新しい法律で守られています。

ここからは私個人の哲学、思想になりますが、みなさんのご参考になれば幸いです。

移植の議論で忘れ去られているのは、脳死になった小さな子どもたちです。
生まれてきて、事故や病気で脳死になり、本人は何も分からぬまま、臓器まで摘出されてしまうのです。
あまりにも不憫ではないでしょうか。

生まれた子どもたちには、自分の体の全体性を保ったまま、外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、まるごと成長し、まるごと死んでいく「自然の権利」があります。
そして、その「自然の権利」が退けられるのは、本人がその権利を放棄することを「意思表示したとき」だけなのです。
私たちは、その「自然の権利」を、親の介入からも、守らなければならないのです。
なぜなら、子どものいのちは、親の所有物ではないからです。

石川啄木に、我が子の死を歌った、次の歌があります。
「真白なる大根の根の肥ゆる頃、うまれてやがて死にし児のあり」
これが厳粛な感動を呼び起こすのは、死にゆく児が、親のはからいをも超えて、生まれたままの姿でまるごと、大自然へと帰っていくからではないでしょうか。
畑から引き抜かれたままの真っ白な大根の根のように、一片の欠けるところもなく、大自然へと帰っていくからではないでしょうか。

移植について、テレビでは様々な報道がなされています。

しかしその陰には、脳死状態になって、それでもなお、がんばって成長しようとしている小さな子どもたちがいるのです。

脳死になった彼らは、まだ幼いがゆえにドナーカードを持つこともできず、しゃべることもできず、その存在、そのいのちを、まわりにいる者たちが、感じ取るしかありません。

その小さな声を、私たちが感じ取ることができるかどうかが、いま問われているのだと、私は思うのです。

(終わり)

 
 
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■20090731

「改定臓器移植法の成立に寄せて」
 田中智彦 東京医科歯科大学準教授
 ウィメンズアクションネットワーク 視点論点 7月31日
 http://wan.or.jp/modules/articles0/index.php?page=article&storyid=62

 2009年7月13日、改定臓器移植法(A案)が可決・成立した。これで同法の枠内とはいえ「脳死」が一律に「人の死」となり、また基本的には家族(子供の場合は親)の承諾だけで臓器提供が可能となった。この間、「生命倫理会議」
http://seimeirinrikaigi.blogspot.com/
の一員として活動してきたが、もとよりこれで終わりではなく、また終わりにしてもならないと考えている。そこで以下、あらためて自身の見解の一端を記し、この問題が引き続き議論されてゆくための一助としたい。
 法改定が取り沙汰されて以来、A案でなければ「臓器不足の解消」はできないと言われてきた。また、多くのマスメディアもそう伝えてきた。だが、「臓器が足りない」のは「脳死患者が足りない」からである以上、脳死患者が増えなければ「臓器不足の解消」は難しい。そして脳死患者の多くは交通事故の被害者であり、またいわゆる脳卒中の患者である。それゆえ交通事故が減るほどに、また救命救急医療が再建・整備されるほどに、脳死患者も減ってゆくことが予想される。
 実際、「移植先進国」ベルギーでは10年前、国・政府による交通事故対策が奏功した結果、かえってドナーが減少したために、犯罪被害者からの利用可能な臓器の摘出までもが提案されるに至った(朝日新聞、1999年3月17日)。この日本で、今も年間5000人を超える交通事故死者数が減少すること、今や「崩壊寸前」とまで言われる救命救急医療が再建・整備されることは、私たちの誰もが望むことだろうし、国・政府にとっては重要な責務のはずである。そして国・政府がその責務を果たせば、脳死患者もドナーも減らざるをえない。臓器移植にとって不可避のこの根本的矛盾を、国会議員やマスメディアはどこまで真剣に考えたのか。
 この矛盾はまた、一部の生命倫理学者が指摘し、巷間でもしばしば語られてきたように、「日本人は冷たい」からドナーが少ないのではないことも示唆する。例えば米国の場合、交通事故死者数は年間4万人前後で、しかも皆保険ではないために、富裕層以外は徹底した救命救急医療を受けられないとも指摘される。銃による死者も夥しい。そうであるとすれば、日本でドナーが少ないのは「倫理」が欠落しているからでもなければ、「政治」が怠慢だったからでもなく、むしろ米国ほど危険な社会ではないからだと言えよう。そしてその米国でさえ、「臓器不足の解消」はできずにいる。
 だがこうした指摘にはたいてい、「では移植を待つ日本の子供たちが死んでもいいのか」という問いが返される。しかしどれほど善意に見えようとも、それが実は残酷極まりない問いであり、他者に死を迫る「恫喝」とかわるところがないことは気づかれない。
 移植のための臓器とは、脳死状態になった別の子供の臓器である。子供の脳死判定は特に難しいとされるが、問題はそれだけではない。その子供がいわゆる「長期脳死」の状態なら、人工呼吸器の助けを借りながらも心臓は脈打ち、息をしている。抱きしめれば温かい。汗をかけば排泄もする。体を動かしもすれば成長もする。「長期脳死」になったある子供の母親は、「うちの子は生きる姿を変えただけ」と語っていたが、そこに居合わせれば、私たちの多くもまたそう感じることだろう。子供だけではない。私たちの連れ合いや親にしても、交通事故に遭い、あるいは脳卒中で倒れ、「生きる姿を変える」ことはありうる。
 ところが今や私たちは、その我が子・連れ合い・親を、人工呼吸器につながれているただの「死体」とみなすよう求められる。そして、かつてなら「ドナー・カード」を所持している場合だけだったのが、私たちの誰もが臓器提供の意思を尋ねられることになる。欧米諸国ではすでに、「心のケア」の一環として臓器提供を家族に承諾させる方法がマニュアル化されているという。脳死患者の傍らで、家族のためにと施される、実際には臓器提供のための「グリーフ・ケア」――それを「ケア」と称することができるには、よほどの傲慢さと愚鈍さが必要だろう。
 しかもその「承諾」とは、物言えぬ我が子・連れ合い・親に代わって、たとえ自分一人だけでも彼らの「生」にイエスと言うことではなく、彼らに麻酔や筋弛緩剤を打ち、メスでその体を切り開き、脈打つ心臓を切り取ることの「承諾」である。その後、臓器を摘出され「冷たくなった」我が子と、連れ合いと、親と再会する時、私たちは何を思うのだろうか。我が子に、連れ合いに、親に、「生」ではなく「死」を与え、それでも「よいことをした」と、そう自分に言い聞かせずにはいられないとしたら、しかしその「よいこと」とは結局のところ、誰のためであったことになるのだろうか。
 「脳死=人の死」とする科学的根拠はない。「脳死になれば遠からず心臓は止まる、だから人の死なのだ」という論理は、「長期脳死」の子供がいることだけでもすでに破綻している。また先に見たように、「臓器不足の解消」は原理的に――それこそ国・政府がその存在理由に関わる重要な責務を放棄する以外には――不可能である。だがそれにもかかわらず、ドナーが子供であれ大人であれ、「もっと臓器を」という声は止まない。しかしそうなると、その声は実はこう語っているのに等しいだろう――脳死患者は「人格」がないのだから、もはや生きるには値しない。だからせめてその臓器を、まだ「人格」のある者のために提供すべきだ、と。そしてそうであるとするならば、法改定がもたらすであろうものは、ありえない「臓器不足の解消」よりも、誰が生きるに値して誰が値しないかを決めること、「まともに感じ考えられなくなれば生きているに値しない」とすること、すなわち新たな「命の線引き」であることになる。
 一人ひとりの命の環が連なり、そうして社会が成り立っている。脳死患者の命はその中で最も弱い環の一つである。その環が今、政治と法の力によって断ち切られようとしている。最も弱い環であるために、多くの人々には我がこととして考えるのが難しい。しかし、その環が断ち切られるのを黙認してしまえば、新たな「命の線引き」がやがて植物状態や末期の患者に、さらには精神障害者や認知症の人々にまで適用されるのを阻むものはなくなる。したがって近い将来、例えば「尊厳死」の名の下に、そうした人々が「死」へと追いやられる時代になっても不思議はない。そんなことは家族が承諾しないとしても、医療保険が打ち切られれば、私たちにはほとんどなす術はなくなる。そして脳死患者と家族たちはすでに今、その瀬戸際に立たされようとしているのである。
 たしかに移植待機患者と家族の思いも切実である。だが、そもそも「臓器不足」は誰かのせいなのか。脳死患者と家族のせいなのか。交通事故に遭い、脳卒中に倒れてなお、「生きる」ことまで責められるとしたら、私たちの社会は今、弱い者が弱い者を責め、周囲の無関心と無理解の中で、最も力の弱い者が死に追いやられる社会になりつつあると言わざるをえない。そしてそのような社会では、愛する者がただ生きていること・生きていてくれることの有り難さを感じる心も、「命の尊さ」といった言葉の意味も、やがて失われてゆくことになるのだろう。
 そもそも人の生死の問題は、多数決に委ねられたり、法律の問題にすり替えられたりしてはならないはずである。しかるに国会議員の中に、改定案の採決自体が自分たちの任ではないと弁えるだけの「見識」と「品位」とを持していた者が、どれだけいたのだろうか。その点からすると、今回の法改定に関して特に憂慮すべきは、それが「拙速」であったことだけでなく、あるいはそのことよりもむしろ、国会にはその議決によって誰かに「死を与える」のも許されているという前例が作られたことにある。
 これは、フランスの哲学者コント=スポンヴィルの言葉を借りるなら、「民主主義の野蛮」と表現するほかはない事態である。とはいえ、日本は曲がりなりにも民主国家である以上、その「野蛮」は私たち自身の同意署名なしには招来されなかったはずであり、またそれゆえに、この事態を転換できるのも私たち以外にはない。
 かつて治安維持法が可決・成立したのは大正デモクラシーの時代であった。加藤周一はそれを「時限爆弾」と評したが、今度のそれはもっと穏やかな形で、だがそれだけに確実な仕方で、私たちの「生」を蚕食し、私たちを「死」へと追いやることになるかもしれない。はたして「そんなことは杞憂にすぎない」のだろうか。しかし、歴史はむしろそのような時ほど、やがて「そう思えた頃が懐かしい」と言わずにはいられないような時代が来ることを、繰り返し教えているのではないだろうか。
 「民主主義の野蛮」に抗して、誰もが生まれてきたことを、そして生きていることを、無条件に肯定される社会へと一歩でも近づくこと――そのためには、1年後の法施行を待ってからではなく、今この時から、脳死と臓器移植に関する徹底した議論と検証とが再開されなければならない。

 
 
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臓器移植法改正案成立に対して
【抗議声明】

 2009年7月13日に臓器移植法改正案が国会で成立しました。私たち、全国「精神病」者集団は、この法案の成立を強く批判するとともに、反対声明を出します。

 この法律では、価値のある命と価値のない命に分けて、後者は前者のために臓器提供を絶対的にも相対的に強いられるものです。価値なき命とは、生きていてもしょうがない命、つまり、戦後数十年にわたって殺され続けた、我々「精神病」者こそがそれに該当してしまいます。そして、我々の命は、価値のある人間のために、法律に基づき奪われるのです。
 「精神病」者は、家族関係に亀裂があるものが多いです。それは、「精神病」とラベリングされた段階で、親族が混乱してしまうからです。「うちの家にはキチガイはいない」と、夫婦関係にも亀裂が入ります。そのような背景から、家族の同意に基づき臓器移植が可能な法律があれば、当然の如く、家族は臓器提供に同意するでしょう。また、本人が拒否していれば臓器提供はないとしていますが、法的能力の制限を受けている者は、それだって叶わないのではないでしょうか。
 法律が人の命を規定することは、すなわち、国民が国家に命を委ねることを意味します。その委ねられた命は、政治的に利用されることだってあります。障害者を減らすこと、高齢者を減らすことが、政策的に可能になるのです。
 これは、明らかに優生思想に基づき、命を選別する法律です。
 私たちは、国に殺され続けることを甘んじて受け入れはしません。

   2009年8月28日

全国「精神病」者集団     
                     〒164-0011
東京都中野区中央2―39―3 絆社気付
tel 03-5330-4170/fax 03-5942-7626  
(留守電の場合は以下携帯へ)
電話 080-1036-3685
(土日を除く14時から17時まで)


*このファイルは生存学創成拠点の活動の一環として作成されています(→計画:T)。

作成:大谷 いづみ
UP:20090528 REV:20090606, 16, 24, 28, 30, 0706, 08, 13, 0810, 0821, 0828, 0830, 1012(櫻井悟史), 20100506
臓器移植 ◇安楽死・尊厳死
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