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>HOME 和田寿郎 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/和田寿郎 和田心臓移植事件 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/和田心臓移植事件 和田心臓移植「事件」 (昭和大学教員) http://wwwedu.showa-u.ac.jp/~noushi/c_ethics/wada.html 和田心臓移植事件に対する日弁連の警告 http://fps01.plala.or.jp/~brainx/wada_case.htm ■文献 ◆和田寿郎, 1964, 『心臓疾患の診断と治療』金原出版. 199p ASIN: B000JAF44S 〔amazon〕 ◆和田寿郎, 1968, 『ゆるぎなき生命の塔を――信夫君の勇気の遺...』青河書房. 254p ASIN: B000JA0XU8 〔amazon〕 ◆北海タイムス社, 1968, 『心臓移植――和田グループの記録』誠文堂新光社. 231p ASIN: B000JA4P6Q 〔amazon〕 ◆和田心臓移植を告発する会, 1970, 『和田心臓移植を告発する――医学の進歩と病者の人権』保健同人社. 287p ASIN: B000JA008I 〔amazon〕 ◆上石一男, 1974, 『心臓移植は人体実験か――和田心臓移植の課題』全国医療問題懇談会. 303p ASIN: B000J9ZZA2 〔amazon〕 ◆和田寿郎, 19920928, 『「脳死」と「心臓移植」――あれから25年』かんき出版. 222p ISBN-10: 4761253657 ISBN-13: 978-4761253653 〔amazon〕 ◆共同通信社社会部移植取材班, 199804, 『凍れる心臓』共同通信社. 301p ISBN-10: 4764104067 ISBN-13: 978-4764104068 〔amazon〕 ◆和田寿郎, 20000210, 『ふたつの死からひとつの生命(いのち)を』道出版. 263p ISBN-10: 4944154119 ISBN-13: 978-4944154111 〔amazon〕 ◆和田寿郎, 200101, 『神から与えられたメス――心臓外科医56年の足跡』メディカルトリビューン. 242p ISBN-10: 4895892115 ISBN-13: 978-4895892117 〔amazon〕 ■言及 ◆川上武, 19790615, 「生と死」川上武ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:3-35. (pp26-27) 以上の出生をめぐる問題と同様に、死亡をめぐっても現在では大きな変化が起きている。明治維新の近代化いらい、医師が死亡診断書を書かないかぎり死体を埋葬できなくなったが、その場合の死期判定の基準は心臓死である。呼吸停止、瞳孔の対光反射の消失→瞳孔散大、心音の停止(いわゆる心臓死)をまって、医師は死亡と判定し、死亡診断書を書いてきたわけである。 ところが、一九六七年末の南アでの心臓移植の実施を契機として、改めて死期判定の問題がクローズアップされてきた。心臓移植を成功させるためには、"まだ生きている心臓"を移植することが必須条件だが、それは死期判定として心臓死を基準としているかぎり理諭的にも不可能なことである。 南アの心臓移植のときには、日本の医学者もまだはっきりした判断・姿勢は持っていなかったが、そのご最初にして最後となった札幌医大の和田心臓移植では、身近でその経過を分析することができたので、心臓移植が成功するためにはどこかで人権侵害をしなければならないことがはっきりした。 いちばん問題なのは、医学者が功名をあせるあまり、心臓提供者の死期判定をはやめる危険性がはっきりしたことである。完全に死亡し、心臓死で死期判定を確認してしまった段階では誰の目にも心臓移植はまったく成立しないことがはっきりしてきた。少なくとも個体の全体は死んだが、心臓は生きている(部分的な生)の状況で心臓を取り出さないと心臓移植はだめなことがはっきりしている以上、実際に移植を成功させるためには死期を早める以外にないことになる。人によっては、どうせ死ぬとわかっており、たかが二時間や三時間の違いではないかと主張するが、現実には心臓死より死期判定を早めなければならないことの、医学ひいては社会への波及効果を考えないわけにはいかない。 ◆川上武, 19790615, 「医学的真実と法律的真実――誤診と誤判決」川上武ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:101-126. (pp109-110) ところで、安楽死が患者の末期をめぐる問題なのにたいし、医学研究・医療技術の開発にかかわるのが、"人体実験"の問題である。医学の歴史をふりかえってみると、医療技術の進歩の背後に開発実験の犠牲者の多いのにおどろくことがある。だが、第二次大戦中のナチスドイツ、日本軍の生体実験へのきびしい反省から、ニュールンベルグ宣言に集約されるような医学研究・開発実験の際の人権尊重の姿勢が打ち出されるようになった。 だが、その後わが国でも"人体実験"が告発される機会が再三おきている。和田心臓移植の告発(一九六八年)に代表されるように"人体実験"へのマスコミ・市民の批判はきびしいが、狭義の医療訴訟とちがい、多くの場合に告訴されても証拠不十分で不起訴に終わっている。これは、当事者個人の人権意識が告発されると同時に、医学研究・開発実験のあり方自体が裁かれているところに問題を複雑にするものがある。"人体実験"といわれる事例では、その背後に医師の野心(名声・権力などへの)がうごめいているのは事実だが、それのみで割り切れないところに複雑な問題が起きてくる。そこで裁かれるのは医学であり、人権裁判であるという面がある。そのときに、医学と法律の分野での人権の理解が必ずしも一致していないことが、問題解決・判決をすっきりしたものにしない憾みがある。こんごに残された課題である。 そして以上みてきたように、医療訴訟も狭義の場合には従来の裁判の枠組みのなかで処理できるはずだが、医学研究・医療技術・医療システムのあり方にかかわる広義の事例の場合には、訴訟の形をとらざるをえないにしろ、そこでは従来の裁判の論理のみでは割り切りにくい局面がでてくるように思う。それはまた医学と法律の論理のちがいにねざしているともいえよう。 ◆上林茂暢, 19790615, 「人間機械論の現在」川上武ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:127-156. (pp136-137) また、拒否反応のため臓器を剔出、次の提供者を待つあいだ、人工臓器のサポートが臓器移植に必要になる。心臓移植は、人工心臓の実用化のメドもないまま強行されており、人体実験的性格がつよいといわざるをえない。 さらに、臓器移植は、以上の技術的難関にもまして、その前提に提供者の人権の点で重大な問題をかかえている。臓器移植は、生体の死(全体の死)と臓器の部分死の時間的ズレを利用することにより成り立つ。従来、生体の死は、心死(心停止、呼吸停止、瞳孔対光反応の消失)により判定されてきた。ところが、臓器移植を成功させる側からはすこしでも新鮮な臓器が必要なのはいうまでもない。とくに心臓移植では主体の死を待ったのでは成果はむつかしく、脳死による死の判定が提唱されるにいたった。これは脳波を死の判定に用い、心臓の部分死以前にとり出し移植に用いようとするものだが、心死→脳死の死期判定の変更は、死にたいする考え方の転換にほかならない。従来、死をすこしでも遠くへ追いやる生命尊重の立場から死の判定は明らかに非可逆的と思われる心死におかれてきた。すこしでも個体に生の徴候のあるかぎり救命に最大限の努力がはらわれた。救急・重症学(蘇生.延命技術)の進歩もこのなかでうまれてきたといえよう。 日本では、札幌医大和田教授の心臓移植(一九六八年)を契機に、医学的にも社会的にも大問題となり、日本脳波筋電図学会"脳波と脳死に関する委員会"でこの点について検討が加えられた。その最終案(一九七三年)では、頭部外傷、脳腫瘍、脳血管障害の三疾患の脳死判定に六つの基準をみたすことが必要とされている。たんに脳波の消失にとどまらず、呼吸・血圧などの中枢としての延髄をはじめ脳幹機能停止が最低六時間以上つづいた場合といった制限が加えられた。このような基準を守ろうとするかぎり、心臓移植はわが国では不可能になった。 ◆米本昌平, 19850120, 『バイオエシックス』講談社. (pp179-180) 日本で最初の体外受精児が生まれたのは八三年十月十四日である。イギリスのルイーズ・ブラウンの誕生と五年以上の差があり、出生児の名前すら明らかにされていない。この差異、とくにこの五年間の遅れは、日本の医学全体の水準を意味するのではない以上、社会学的な比較研究の対象に十分値する。 医学関係者はしばしば、この遅れは、六八年の和田心臓移植事件以来、世間の批判を恐れ医学界が慎重になりすぎたためだ、と説明する。たしかに、日本の医学界にとってこの事件は、遺伝子治療におけるクラインの事件 しかしこの説明は半分くらいしか正しくない。十五年も前の心臓移植事件を、体外受精の遅れの理由とするのはやはり無理である。この説明の正しいのはむしろ「世間の批判を恐れて」という部分であろう。 実際、日本の医学ほど世間の評判、とくに新聞にどう書かれるのかを気にし、世間体や世俗的名誉を重んずる分野も少ないのである。 日本の社会にとって、ルイーズ誕生以後八二年半ばまでの体外受精児問題とは、まれにニュースの間に外電としてはさみこまれてくる「○○人目誕生」という程度のものであった。日本にも卵管閉塞患者は多数いたはずであるが、海外での本格的な実用化を理由にこれを日本でも行なうよう医学界に働きかけたという形跡は、もちろんない。アメリカのようにはっきりとしたモラトリアムがあったわけではなく、とりあえずここでは、日本には出生過程に直接介入する技術(体外受精・胎児診断・胎児治療など)には強い心理的抵抗があり、体外受精に関しても医学界自身が心の折り合いをつけるのに五年間を必要とした、と擬人的に表現しておこう。 ◆米本昌平, 19870630, 「科学技術社会における死」長尾龍一・米本昌平編『メタ・バイオエシックス――生命科学と法哲学の対話』日本評論社:161-183. (pp166-171) 脳死が問題になるのは、脳神経外科の発達やICUの成立とその普及に関連しており、本格的な議論がはじまったのは、ここ二〇年間のことといってよい。その一つのきっかけになったのは、一九五七年にローマ法王ピウス一二世が行なった「延命について」という演説であった。ここでピウス一二世は、脳機能が失なわれた肉体を"生きた状態"に保つことの是非という問題をとりあげ、二つの点に関する見解を明らかにした。第一に、死の宣言は教会の範疇ではなく医師の責任で行なうべきものであること。第二に、回復の望みのない患者については尋常でない手段を用いて死を押し止めるべきではないと考えた方がよい時代に入ってきた、と指摘したのである。 この法王の発言に刺激されて、いく人かのフランスの神経生理学者が、重い昏睡状態にある患者の研究を開始し、一九五九年の論文の中で"超昏睡coma depasse”という言葉を提出した。彼らが調べた患者のほとんどは、自発呼吸がなく、反射も失なわれ、脳波も平坦であった。ただし、研究が本格化するのは、さまざまな臓器移植が試みられはじめた六〇年代に入ってからであり、特に六七年一二月に南アフリカで行なわれた世界最初の心臓移植手術は強い刺激となった。翌六八年には、有名なシドニー宣言とハーバード大学脳死基準が出ることになったのである。 第二二回世界医師会総会で採択されたシドニー宣言は、脳死と臓器移植に関して、二つの重要な指摘を行なっている。第一に、死はプロセスであって事件(イベント)ではないこと、そして高等動物にあっては細胞の多くが生きていることが必ずしもその個体が生きていることを 同じ六八年にハーバード大学医学部の脳死問題特別委員会が提出した脳死の基準は、脳の不反応、いっさいの運動の停止、自発呼吸の停止、反射の停止、薬物中毒や低体温によるものではないこと、脳波の平坦、以上の状態が二四時間続くこと、というものであった。今日の脳死の基準からみると、脳全体の機能が停止しても脊髄反射は存在しうるし、二四時間にわたるチェックはやや長すぎるものであり、慎重すぎる基準であることになる。象徴的なのは、この特別委員会の報告のタイトルが「不可逆的昏睡の定義 A definition of irreversible coma」となっている点である(JAMA, Vol.205,85,1968)。つまり、この特別委員会は、現象論的基準を提示し、対象についても現象論的命名を与えるにとどまることで、その対象を死と断じることに留保をつけようとしているようにみえる。今日の議論では、このハーバード大学の言葉使いは植物状態とまぎらわしいという理由で非難されることが多いが、実情はそうではなくて、特別委員会のメンバーが、不可逆的昏睡という現象論的命名から脳死brain deathという実体論的命名への変更が、たんに言葉使いの問題ではなく、この選択が哲学的かつ政治的に重要な意味をもつことを、十分わきまえていた 【"植物状態"の認知まで】 さらにもっと重大なことは、植物状態という概念の提案がこれよりも四年も後だったことである。科学史の分野でかなり以前から常識となっていることは、研究者は、それまでの研究の歴史が現在の成果を目指して一直線に進んできたかのように、過去をやすやすと捏造するということである。今日、医学者はしばしば、現代医学ははるか以前から脳死と植物状態を厳格に区別してきており、この二者の区別ができない人間は医学的素養が欠けているとでもいわんばかりの説明をすることがあるが、じつは現代医学自体が、七〇年代前半に、さまざまな混乱に直面してきているのである。 一九七二年に発表された「脳傷害後の植物状態(遷延性植物状態)―命名を必要とする一症候群」という論文で、ジェネットとプラムは、延命技術の発達で、最近、意識喪失とも昏睡とも違う臨床例が出現してきており、新しい命名が必要になってきているとして、この症状を詳しく記載している(Lancet, I, 734, 1 April 1972)。これによると、傷害をうけた後、一週間程度、昏睡状態にあるが、やがて外からの刺激に応じて四肢を少し動かすようになる。二〜三週間で眼をあくようになり、不定期的に眼をあいたり閉じたりするようになる。まばたきをしたり眼をキョロキョロ動かすこともあるが、その動きはまるで当を得ておらず、ちょうど意識なく起きているような状態である。脳を除去された動物のように四肢をぎこちなく動かすが、だんだんこのような動きも少なくなってゆく。シーツが手にふれると握る動きをすることがある。噛む動作や物を飲みこんだりはできる。うめき ◎―先端医療と文化との衝突 【和田心臓移植事件】 このように、七〇年代初めまでは、脳死概念の確立も移植手術のための手続も、まったく手さぐりの状態にあったのであり、六八年八月に行なわれた和田心臓移植事件(※)も、この当時の文脈に引き戻して解釈してみる必要がある。この事件が告発されたのは、心臓提供者の死亡判定の方法に疑問があり、特に脳波の記録がなかったことが問題とされたためである。たしかに、提案されたばかりのシドニー宣言やハーバード大学の脳死(不可逆的昏睡)基準に照らし合わせると、脳死の判定基準、死亡診断をした医師の資格問題、提供者の承諾問題など、ほとんどが問題になってくる。しかし、六八年段階では、アメリカも同じような状態にあった。たとえば、六八年五月に、バージニア医科大学附属病院で、脳挫 今日からみてひどく疑問に思われるのは、なぜ一医科大学の一医局の主任教授の判断で、脳死を前提とした先鋭的な医学的手術が行ないえたのか、また、当時の実情は日本もアメリカも大差はなかったにもかかわらず、なぜ日本ではこの一件以降、臓器移植がほとんど行なわれようとしなかったのか、の二点であろう。これらの問題に本格的な解答を与えるためには、複雑な社会学的脈絡を明らかにしなくてはならないのであろうが、あえてここで答らしきものを求めるとすれば、前者の疑問は、当時の、医学を含めた自然科学一般のきわめて高い社会的地位をあげておかなくてはなるまい。大学紛争以降の科学批判を経験する以前は、自然科学は常に社会に進歩をもたらすものであり、特に医学の成果と医師の行なうことは無前提に善だと信じられていた。それゆえ、世界で八番目に試みられた心臓移植を少なくともマスコミは当初、手放しで明るいニュースとして報道したのであり、和田教授への批判は手術を受けた患者の死亡によって突然ふき出したようにみえる。もし、マスコミがフォローするのにあきるほど患者が生存したり、最初の南アフリカの例が手術後二〇日間の生存であり、日本の場合は八三日間も生存し、これだけでも成功だという点をもっとマスコミに売り込んでいたなら、事態はもう少し変わっていたかもしれない。し 第二の疑問に対しては、和田心臓移植事件がマスコミによって徹底的にたたかれたため、それ以降医学界では臓器移植がタブーになったという説明がよくされる。しかし、これを少し意地悪くとれば、先進国の中でも日本の医学者はことさら世間的体面を重んじる集団である、と公言していることになる。私的な印象からいえば、この説明も部分的には当たっていなくはないと思うが、現在に至る一九年間の巨大な空白をこれで説明しきるのは明らかに無理である。他の先進国との比較ではっきりと浮かびあがってくる日本社会のこの拒絶を、とりあえずは私流に、先端医療と文化との衝突とよんでおく。 今日、脳死や臓器移植が行なわれるためには、社会的コンセンサスが不可欠だと多くの人は信じている。しかし、どのような状態になれば社会的コンセンサスが得られたといいうるのか、またそのような状態を実現させるためにはこの日本ではどのような行動をとればよいのかが、なんら明らかにされないままでいる。そのため一部の医学者のあせりは臨界点に近づきつつあり、他に治療方法がない患者を救うためという狭い脈絡のみが異常に大きくみえている、主観的には善意の固まりの医師の集団によって脳死を前提にした移植手術が確信犯的に行なわれる可能性は高まっているといっておかなくてはならない。 ◆米本昌平, 19880425, 『先端医療革命――その技術・思想・制度』中公新書. (pp40-49) このような助言をまとめたアメリカ医学会としての対応の誠実さに敬意をおぼえる一方で、六八年夏の時点のアメリカが、心臓移植手術をめぐっていかにすさまじい業績競争のただ中にあったか、またこれによって患者の人権がいかに簡単に躁躍され犠牲者が続出したかが、生々しく伝わってくる。 そこでここで目を転じて、この第一次の心臓移植ブームのさなかに行われた和田心臓移植事件を振り返ってみよう。少なくともこの時点では、日本もアメリカも事態は酷似していたこと、そして、これに続く医学界および社会の側双方の対応が決定的に異なっていく様子が、鮮明になるからである。 二、和田心臓移植事件 概要 さて問題は日本である。六八年八月八日の夕刊各紙は、北海道立札幌医科大学付属病院で、日本初の心臓移植手術が行われたことを大々的に報じた。国民的な称賛の高みから、ごうごうたる非難の奈落へと連なる、いわゆる和田心臓移植事件の始まりである。手術を行ったのは和田寿郎胸部外科主任教授、受けたのは石狩支庁恵庭町に住む宮崎信夫君、十八歳。心臓の提供者は水死した札幌に住む二十一歳の大学生、とだけ書かれてあった。だが二日後には、札幌市に住む駒沢大学経済学部四年、山口義政さんであることが明らかにされた。 最初の一般の反応は、あまりにも唐突な、というものであった。しかしすぐそれは、宮崎少年が手術から早く回復し、いつ襲ってくるかわからない拒絶反応をもうまくすり抜けて生きぬいてほしいという、祈りに似た声援に代わった。日本でも心臓移植はいつ行われてもおかしくないという声は、よく聞かれるようになってはいたが、実際に行われるのはもう少し先だと考えられていた。なぜなら、前年末の南アフリカで行われた世界最初の心臓移植以来、これに対して日本の医学界の主流がみせた態度は、死の判定法や拒絶反応の問題がまだ未解決とする慎重なものであったし、その年の五月、日本移植学会、厚生省、法務省の専門家による「臓器移植法案制定準備委員会」ができ、三年以内をめどに法案を考えようとしていた矢先であったからである。 大学医学部としては異例の、連続的な記者会見を通して和田教授から明らかにされた概要は、ほぼ以下のようであった。 七月五日、同学部宮原内科から転科してきた宮崎君を診断してみると、僧帽弁閉鎖不全症、三尖弁閉鎖不全症、大動脈弁狭窄症、つまり「心臓の弁は三つが三つとも、箸にも棒にもかからない絶望的な状態」(和田寿郎著『ゆるぎなき生命の塔を』)とわかり、残る道は心臓移植しかないと判断、本人と家族を説得。八月七日、小樽市の海岸でおぼれ、野口病院に収容されていた山口義政さんの容態が急変し、同大胸部外科に高圧酸素室での治療を要請してきた。救急車は、夜八時過ぎに同大付属病院に到着。しかし十時十分、瞳孔散大、脳波停止などで死亡と認定。両親に心臓提供を申し出る。八日午前二時過ぎから世界では三〇例目にあたる心臓手術を開始、手術は三時間半後に終了した。 手術後の宮崎君はゆっくりと回復し、二十九日目の九月五日には車イスで病院の屋上を散歩するまでになった。ところが手術時の大量輸血によると思われる血清肝炎が表面化し容態は悪化。これをのりきったものの、手術後八十三日目の十月二十九日、「気管支炎のためノドにタンがつまり、急性呼吸不全で死亡」した。解劇の結果、心臓の縫い合わせは完全で、拒絶反応はみられなかった、とされた。 南アフリカのバーナードが行った最初の患者は、手術後十八日で死亡したが、彼の手による二例目のフレイバーグ氏は順調な回復ぶりをみせていた。その中で宮崎君の死後も、わが国最初としてはよくやったという満足感が、一般には漂っていた。しかし、医学界内部にはしだいに批判的な空気が充満してきていた。そして、手術の結果が論文として発表されるのにあわせて、これに疑問を投げかける見解がつぎつぎ文字にされはじめた。 批判 なかでも、臨床の専門誌『内科』は、翌六九年五月号で〈臨床家のための生死判定〉という特集を組んだのであるが、そこに掲載された、宮崎君の最初の主治医、宮原光夫教授が書いた「心臓移植時における生死の判定」という論文は、和田教授の診断とその上でなされた心臓移植手術の妥当性そのものを正面から批判するものであった。宮原教授はこう言い切る、「今回の心臓移植が真の適応であったか否かにも疑問が残る、というよりは術前診療にあたった著者には少なくとも臨床所見からは適応であったとは考えられない」。全体の要旨は、自分の診断では宮崎君は僧帽弁が悪かったのであり、そこで人工弁手術ではわが国の第一人者である和田教授に回したのであるが、なぜか和田教授は弁が三つともダメと診断し、心臓移植を行ってしまった、というものである。 さらに宮崎君の遺体を解剖した同大学病理学教室の藤本輝夫教授は『最新医学』六九年三月号に掲載された論文「剖検所見からみた心移植」などの中で、心臓に関しては宮原教授の診断に近い見解を示しただけではなく、遺体はかなり痩せこけたもので、腹部には免疫抑制剤の副作用と思われる緑膿菌感染による膿がたまっており、心臓は肥大し、心臓をおおう膜が癒着していたこと、またこれは拒絶反応によるものと考えられ、患者はもともと肺が弱かったため、肥大した心臓で肺循環が圧迫されていたことなどを明らかにした。しかも、切り離された大動脈弁は不思議なことに、宮崎君の心臓とはぴたりとは合わなかった。こうして、それまでの記者会見を通しての和田教授の発言は、手術前の患者の状態を異常に重く、手術後の状態を異常に楽観的に伝えていたことが明らかになってきたのである。 さらに宮原教授の一文は、実に重要な洞察を含んでいた。「現在までに世界でおよそ百例に及ぶと報道される心臓移植手術において、果たして真の提供者がどれだけあったのであろうか。……患者やその家族は医師に対して、心理的に常に弱い立場におかれている。臓器移植に関していえば、医.師の強力な説得や、意図せる行為によっては、親族が強制的に納得せしめられ、あるいは一部の親族には事後承諾のかたちで臓器が摘出されることもありえよう。……可能なかぎり生存期間の延長を図ることが医師の義務であり、人間のモラルにのっとった行為であるのは論をまたない。ましてや急性疾患、容態の急変、事故などにさいしては、医師の最大の努力が要求され、これによって、きわめて重篤で絶望的とみなされた患者が救われることもまれではない」 告発 ごく一般的な表現をとってはいるが、ここで宮原教授は、心臓の提供者が本来受けるべき徹底的な救命治療を受けたのか、臓器提供の承諾のとりつけ方が一方的なものではなかったのかと、鋭く問うているのである。そしてその後、伝えられてくる事実は、奇怪なことばかりであった。山口君の脳波はブラウン管で見たとされていたが、手術を行った部屋には脳波計はなかったし、心電図の記録も肝腎なところが欠落し、手術直前まで心臓はまがりなりにも動いていたという意味で、山口君は生きていたと推定された。また、家族の同意をえる以前にすでに胸は開かれていた。死後切り出された宮崎君の心臓は、何ヵ月も和田研究室にしまい込まれたままであった。 ただし、ここまでの論争は、あくまで医学界の内部で当然行われるべき、事実確認と評価としてのものであった。確かに、危険だとか犯罪につながりかねないという表現は医学者の議論のなかで出てきてはいたが、それは将来への警句としてであり、和田教授の心臓移植手術を実際の犯罪と認定することなど、思いもかけないことであった。だが、それは行われていたのである。六八年十二月、大阪在住の漢方医ら六人が、和田教授を殺人罪で告発していた。それは翌年、札幌地検に移送され、同地検は春から捜査を行っていた。とつぜん報道されたこの事実に、医学界は大きな衝撃をうけた。 検察は、刑法上の殺人罪は構成しないとしながらも、山口さんの死の判定、心臓提供の同意のとり方、宮崎君に対する心臓手術の妥当性、術後の措置について、業務上過失致死罪があてはまるかの検討を行った。七〇年一月には医学鑑定に踏み切り、榊原仟(しげる)東京女子医大教授、太田邦夫東大医学部教授、時実利彦京大医学部教授という大権威に鑑定を依頼した。数ヵ月後にはすべての鑑定書が提出されたが、ニュアンスは違うものの、どれもが決定的な結論には至らなかった。結局、七〇年八月末、心証はクロだが証言ばかりで物証不足だとして、不起訴処分が決まった。 この間七月二十七日には、「和田心臓移植を告発する会」が発足した。メンバーは、二人の元厚生大臣(坊秀男、古井喜実)をはじめ、石垣純二(評論家)、松田道雄(同)、川上武(同)、若月俊一(佐久病院長)、中川米造(阪大助教授)など十三氏であった。とくにこの会は、無力な患者の人権を尊重するようにと〈病者のための人権宣言〉を行ったうえで、衆参両議院の法務委員会、厚生省医道審議会、日弁連人権擁護委員会に対して、和田心臓移植手術を調査し、結果を公表し、善処してほしいと申し入れた。その後、札幌検察審査会、日弁連などが検察に対して再捜査を要請したが、新しい証拠が出てこないかぎり、不起訴の決定をくつがえすのはむずかしい情勢になり、最後は日弁連人権擁護委員会が和田教授に警告書を送ることで、この長い長い事件はいちおう落着した。 問題点 この和田心臓移植に、同時期にアメリカ医学会がまとめた臓器移植のガイドラインを重ねてみると、問題点の細部がいちだんと明瞭になる。 海外の例と比較してみて、とくに異様に映るのは、和田教授の一連の〈虚言〉である。和田教授の場合、たぶん〈最初に決断ありき〉だったのであろう。是が非でも心臓移植は成功せねばならず、そのためには言葉によって目の前の現実をどんどん歪め、事実とはかけはなれた虚構を描きあげて、自らそちらの方を真実だと信じきってしまったようなのである。実は、程度の差こそあれ科学者はこういう悪魔のささやきを聞くことがある。しかし、まさか医学部の主任教授が、患者の命よりも日本最初の心臓移植を行うことへの誘惑にかられ、いずれ学会で問題にされるに違いないのに、あと先も考えず虚言を重ねるとは、当初は誰も考えてはいなかった。ただ、当時における医師の権限は想像もできないほど強く、とりわけ医局における主任教授の権威は絶対であった。だからこそ、検察がネをあげるほど、あたかも医局全体が和田教授の人格そのものであるかのように、全医局員が完壁に口裏を合わせ、最後まで押し切ってしまったのである。 不起訴処分という検察の決定には、いくつか批判があがった。だがこの時点では、世界を見渡してみても、事情はどこも似たようなものであった。最先進国のアメリカですら、ハーバード大学の脳死基準も、臓器移植に関するシドニー宣言も成立したばかりであり、南アフリカのバーナードをはじめ移植医の多くは、あいかわらず自分で臓器提供者の死を宣言して心臓移植手術を行っていた。 一時は水泳までやってみせた、バーナードの二番目の手術患者フレイバーグ氏は、手術後五九四日目の六九年八月十八日に死亡した。手術件数も、六八年の一〇一件を頂点に、六九年四七件、七〇年一七件と急減した。最大の理由はもちろん手術患者の生存率が悪かったからであるが、一方で、赤血球のAB型だけではなく、日系のポール・テラサキなどが研究する白血球の抗原型が組織免疫と関係あるらしいと注目されはじめていた。 問題は山のように残った。和田心臓移植事件のあと、日本のある医学者は、「外国の心臓移植は、患者の死という医学的な疑問から反省期にはいった。一例だけの日本では、メスをにぎった和田教授に対する人道上の疑惑から反省期がスタートした」(『朝日新聞』七〇年九月三日付)とつぶやいたが、その反省期の内容はまるで違っていた。アメリカでは、学会や政府がガイドライン作りに乗り出し、臓器移植一般を実験的医療と位置づけ、人体実験の制度と手続きの網をかけはじめた。インフォームド・コンセントをとることがとくに強調されるようになり、結果的にこれが医療行為一般にも浸透してゆくことになった。そして、これを監視するための組織である、倫理委員会のネットワークもしだいに完成していった(第四章参照)。 これに対して和田心臓移植は、日本の医学界をただ萎縮させただけに終わった。医学界のゴッドファーザー武見太郎日本医師会会長は、厚生省医道審議会で和田心臓移植を問題にして以降、〈臓器移植は医療として邪道〉とする内科医的意見を口にするようになった。六八年に勃発した大学紛争も、大学医学部の萎縮に拍車をかけた。七〇年代を通して日本の大学医学部は何も変わらず、何も変えようとしなかった。そして八○年代、先端医療がつぎつぎと実用化され始めると、日本の医学界は、何が欠けているかを自覚しないまま、おずおずとさまざまなアドバルーンを上げ始めているのである。 (p108) さて、製薬会社の依頼による薬効の臨床試験を管理する臨床実験委員会を別にすれば、わが国の大学医学部における倫理委員会は、実質上、八二年十二月の徳島大学医学部のそれをもって嚆矢とする(和田心臓移植事件からかなり後になって、札幌医科大学に倫理委員会が設置されたことがある)。アメリカより約十年遅れたこの時点で倫理委員会が設けられたのは、体外受精の是非という問題がもちあがったからである。なぜ最初に徳島大学に設けられたのか、という点については、斎藤隆雄(麻酔学教授、以下敬称は省略)の存在が大きい。彼は、IRB制度がまさに整備されつつあった七三年にアメリカに留学しており、大学で毎週開かれていた人体実験委員会にも出席した経験があったため(斎藤「カリフォルニア大学サンフランシスコキャンパスにおける臨床研究事前審査の現況」『麻酔』一九七四年十一月号)、付属病院長の職にあった斎藤に対して産婦人科教室から体外受精についての打診があると、医学部内部をまとめあげ、ほぼIRBに相当する倫理委員会を発足させた。 ◆中村雄二郎, 1992, 『臨床の知とは何か』岩波新書. (pp184-185) ひるがえって、日本の場合を考えてみると、一方では、科学的医学と医療技術の急速な進歩によって、技術的実用主義がひとり歩きをしている反面、他方では、それと対極に位置する伝統的な死の観念が習俗のなかにもち続けられ、その両者が並存してきた。(ここで、伝統的な死の観念について一言しておくと、とくに重要な意味をもつのは、外地で戦死した肉親の遺骨収集や飛行機事故の際の遺体・遺品の重視に見られる、遺族の執着の強さである。そこにあるのは、むしろ、霊肉二元論ならぬ霊肉一元論あるいは鈴木大拙のいう〈日本的霊性〉の立場であろう。)またわが国では、人格性の原理にもとづく権利・義務関係が、建て前として存在すると同時に、共同性の原理にもとづく実感的な相互性が、本音として根強く生きてきたという事情がある。 日本社会は、これらの諸価値あるいは諸原理を違ったレヴェルでソフトに共存させることは巧みである。しかし、性質上あいまいな部分を残さざるをえない実践的な問題に際して理論的な詰めを必要とする場合には、それらの諸価値があまりにかけ離れ、食い違うために、一向に議論が進展せず、コンセンサス不成立や、慎重論の名のもとに、問題がいたずらに先送りされることになってしまう。脳死問題をめぐる議論の帰趨としてわれわれが見てきたものは、まさにそのようなものではなかったか。 日本で心臓移植の問題がいっそう紛糾するようになった原因に、一つの不幸な出発があった。すなわち、一九六八年という時点で、札幌医大教授の和田寿郎は心臓移植をおこなったが、最初彼は、世界的な先駆者の一人として脚光と称賛を浴びたのち、間もなく移植に際して人権的、医学的にとるべき手続きを欠いていたとして、糾弾され、告訴されるようになったのである。しかもこの問題は、事実としても法的にも十分真相が究明されないままに、うやむやになってしまい、あとにはただ、〈医者への不信〉という漠然とした、しかし拭いがたい感情だけが残ることになった。 その結果、関係医学諸学会でも心臓移植問題に関しては極度に慎重になり、ようやく七四年になって、日本脳波学会の「脳死と脳波に関する委員会」が脳死判定基準をうち出した。さらに八五年になって、それへの再調査のかたちで厚生省「脳死に関する研究班」によって脳死の判定基準がまとめられた。両者とも全脳死の立場を採り、慎重な基準を設けてはいるが、アメリカの場合とちがって、脳死を以て人の死とするかどうかについては触れられていない。(厚生省基準では(1)深い昏睡、(2)自発的呼吸の消失、(3)瞳孔の固定、(4)脳幹反射の消失、(5)脳波の平坦化、(6)以上の条件を充たした上で六時間経過すること、が挙げられている。) (p191) スウェーデン保健社会省の「死の定義委員会」が八四年に出した報告『死の概念』のなかに、「宗教における死の概念」という一章がある。短いものだが、われわれが日本で議論する際に、適切な仕方で考慮されてこなかった、この問題の要点をなかなかよく押さえているので、これを手がかりにして考えていこう。 (pp193-194) 個々の宗教の〈死の概念〉に関する、このような報告書の捉え方は、あくまで概括的なものなので、こまかいところでは問題があるだろう。しかしそれでも、一般的に、世界の主要な諸宗教が〈死の判定〉についてさほど問題にしていたいということは、言えそうである。これは、一見、意外なことのようにみえるが、よく考えてみると、宗教の観点では、重要なのは〈死の意味〉であり、また〈死者の身体の保全〉ではあっても、科学や技術の進歩とともに変わりうる〈死の判定〉ではなかったのである。 ところで私はいま、〈世界の主要な諸宗教〉と言いながら、仏教について言わなかった。なぜなら、スウェーデン報告書では、仏教はヒンドゥ教とともに、死の判定に関してなんらの見解も示さず、死体解剖や臓器移植に反対していない、とだけ言われているに過ぎないからである。(事実、スリランカ、タイ、台湾などの仏教国には、臓器移植についてもつよい反対はない。) スウェーデン報告書のなかで仏教国と言われている国々のなかには、日本も入れて考えられているはずである。もしも、日本についてまで、こういうことが言われているのだとしたら、どうしてだろうか。情報の不足ということもあるかもしれない。しかしそれよりも、早々と一九六八年におこなわれて一時絶賛を浴びた〈和田移植〉の例もある上に、〈人工妊娠中絶〉が倫理的にほとんどなんの疑問も抱かれずに罷り通っている日本は、外から見ると、脳死を肯定しているようにしか見えないのではなかろうか。 それはともかく、日本人の場合でも、広い意味での宗教意識と深く関わるのは、実は〈死の判定〉の基準そのものではなくて、死者あるいは死に行く者の、肉体への特別な感情であろう。ここで、とくに重要な意味をもつのは、前にも指摘したように、外地で戦死した肉親の遺骨収集や飛行機事故の際の遺体・遺品の重視に見られる、遺族の執着の強さである。そして、そこにあるのは、仏教渡来以前から存在した基層的な霊肉一元論の宗教意識であろう。つまり、鈴木大拙がその積極面を〈日本的霊性〉として主張した宗教意識である。この立場に立つとき、霊と肉、精神と身体とは、それぞれ別個なものではなく、心身は合一している、と見なされる。しかもその霊は、祖霊として追慕の対象であると同時に、怨霊としておそれの対象でもあった。 ◆土屋貴志, 199303, 「「シンガー事件」の問いかけるもの」加藤尚武・飯田亘之編『応用倫理学研究・』千葉大学教養部倫理学教室:324-348. では、積極的安楽死の容認がナチスの「安楽死」のような障害者抹殺につながる、という議論についてはどうか。仮にシンガーの主張を実行に移すなら、殺すことに対する歯止めがなくなっていき、果てはユダヤ人虐殺のような事態に至る可能性が、現実にあるだろうか。 この問いに対する答は、社会の状況によって違う。ナチス政権下のドイツのように総統の命令がそのまま実行に移されてしまう社会と、民主的な決定がなされ、公の討議や正当な法的手続きが確保されている社会とでは、この種の「滑りやすい坂」の議論の妥当性は全く異なる。ただし、医療専門職の責任において、補佐の医師の同意を得て安楽死を行うという、シンガーの主張する手続きだけで十分とは思われない。とりわけ、和田心臓移植事件にみられたような医学界の密室性がなお問題とされる日本では、決定手続きをさらに公開すべきであろう。脳死判定と同様に、「生きるに値しない」という診断には決して誤診があってはならない。仮にシンガーの主張を現実化するつもりがあるなら、その診断の基準と手続き、決定を下す際の手続き、および安楽死実行の手続きについて、正確な情報に基づいた公開の討議を十分に積み重ねる必要がある。 ◆村岡潔, 19950425, 「先端医療」黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』世界思想社:225-244. (pp235-236) 臓器移植は、患者の臓器を他の人間や動物の対応する臓器と交換する医療技術で、一九世紀後半の皮膚移植、二〇世紀初頭の血管吻合術の確立、腎臓移植や心臓移植の動物実験に端を発している。人に対する臓器移植の本格的な臨床実験は、一九五〇年代に腎臓移植から始められた。六〇年代には、肝臓、膵臓の移植やサルからの心臓移植まで試みられた。 しかし、臓器移植が、先端医療として世界に衝撃的に登場するのは、一九六七年暮れに南アや米国で行われた人から人への心臓移植によってであった(日本でも半年後、札幌医大で初の心臓移植が行われた)。移植医の側も、病院にテレビカメラを入れるなど、マスメディアを通じて移植医療を積極的にプロパガンダした。つまり心臓移植を有名にしたのは、その成績(初期は手術後の数時間から数カ月でほとんどが死亡)ではなく、科学はついに心臓までも交換可能にしたという人々に与えた驚きであった。 一方、心臓移植の開始は、従来の死の定義に抵触する問題を提起した。それが「移植は他者の死という犠牲のうえに成立する」という関係を明示したからだ。こうして死の判定に対する疑問や移植後の治療成績の不振から、移植に対する反対意見も活発になり、日本でも最初の心臓移植が殺人罪で告発された(証拠不十分で不起訴)。その後、日本では現在(一九九四年一二月)まで心臓移植は行われていないが、腎臓・肝臓の移植はかなり行われている。 また、臓器移植は、拒絶反応を防ぐ目的で、病気の治癒過程に不可欠な免疫機能を人為的に抑える免疫抑制剤を生み出した。七〇年代には、成績不振で移植の熱狂は冷めるが、その後、強力な免疫抑制剤シクロスポリンAが開発され、八○年代以降は、心臓や肝臓などの移植件数は増加し、米英を中心に日常的に行われるようになった。 ◆太田和夫, 19990601, 『臓器移植の現場から――移植免疫のしくみから脳死移植の実際まで』羊土社. (pp144-147) わが国の移植はなぜ進まないのか、欧米ではすっかり日常の医療として定着し、毎年三万件を超える症例が報告されている。アジアでも台湾は法律をつくり、すでに三百例を超える心臓移植を実施している。また韓国は法律はないが医師会の承認のもとに百例以上の心、肝の移植を行っており、腎臓移植についても人口比でみるとわが国の四・六倍の症例がある。なぜわが国で進まないのか、この問題に関してはいろいろな理由があげられてる。(校正者註:原文まま) 和田移植に対する不信感 脳死や臓器移植の論議が始まるとすぐ話題にでてくるのが一九六八年八月八日に札幌医大の和田寿郎が行ったわが国における心臓移植第一例をめぐる問題だ。この手術は心臓弁膜症で心不全となった一八歳の少年に、海で溺れ、脳死になったとされる二一歳の青年の心臓を移植したものであった。レシピエントは一時的には車椅子で散歩できるくらいになったが、感染症のため移植後八三日で死亡している。この移植手術は世界的にみても早期に行われたもので、術後順調に経過しているうちはマスメディアもはやしたて この和田移植に多くの問題があることは誰しも認めるところだろう。医師としてもつべき基本的な認識の欠如があったといわざるをえない。この手術については一九六八年秋の日本胸部外科学会総会に報告されている。その後この件に関して漢方医からの告発によって翌年五月より札幌地検の捜査が開始された。当該学会は一九八八年一二月に臓器移植問題特別委員会を組織し、一九八九年に最初のレポートを、さらに一九九一年には心臓移植・肺移植-技術評価と生命倫理に関する総括レポート-(金芳堂、一九九一)を出し検討している。当時はまだ脳死判定の基準がなく、また救急医療は外科と分離してはおらず、また心臓外科における弁置換の成績が悪かったなどの問題があり、現在の基準をそのまま押しつけることはできないが、そのような状態であったからこそ、@ドナー脳死判定は正しく行われたのか、Aレシピエントの医学的適応は正しかったのか、B患者、家族や紹介医に事実に基づいて説明し同意がえられたのかなどについて記録を公開すべきであったろう。これに加えてC提出された標本についての疑問や資料の欠如などについても納得のいく説明をするなど、慎重に対応し、実施したことについて十分批判に耐えるだけの資料を残しておくべきであった。こ このような世間から疑惑をもたれるような手術を二度とやらないということが和田移植以後に育ってきた移植医たちの決意である。 ◆森岡正博, 199909, 「脳死の意味論――「脳死臓器移植」研究の可能性」『生命倫理』9(1):4-10. (pp4-5) 1999年に脳死の人からの心臓・肝臓等の移植が再開された。1968年の和田移植から31年ぶりの脳死移植である。1980年代半ばから日本中を巻き込んで繰り広げられた脳死論議のひとつの決着が、このような形でなされたということになる。2月に高知赤十字病院で行なわれた脳死判定と、その後大阪大学病院等で行なわれた複数の臓器移植について、新聞やテレビなどのマスメディアは、激烈な報道合戦を繰り広げた。脳死患者の家族とメディアのあいだに対立と不信感が生まれた。慶応大学病院で行なわれた第2例目の脳死判定とその後の移植については、その反省もあってか、比較的落ち着いた報道であった。 1999年のこれらの出来事によって、日本における脳死移植の「事件性」は消滅したと言ってよい。これから継続されてゆくであろう脳死移植は、メディアにとってはもはや新奇性に乏しい単なる出来事にしかすぎないであろう。脳死移植は、新聞やテレビのトップページから徐々に消え去ってゆき、やがては現在の生体肝移植の報道と同じくらいの位置を占めることになるにちがいない。メディアの関心が薄れるにつれて、一般市民の関心もまた薄れていくと思われる。 (pp8-9) 即物的な政治プロセスの研究もまた必須である。臓器移植法が制定され、脳死移植が再開されたいまこそ、ここ30年の脳死臓器移植を巡る政治とは何であったのかを、学際的に研究する必要がある。たとえば、「脳死と臓器移植は本来別物であり、脳死と判定された身体を、いかに有効利用するかというときに、移植が選択肢として登場したのだ」という「説明」がなされることがある。しかしながら、脳死と移植の実際の歴史を見てみれば、この説明がまったくの欺瞞であることが判明する。脳死のような病態は1960年代から専門家のあいだで話題にはなっていたが、60年代には脳死という概念すらなかった。そのなかで、1967年に南アフリカで世界初の心臓移植が行なわれる。生きている心臓を取り出したのだから、その人間はほんとうに死んでいたのかという疑問が世界中でわき起こる。それに答えるようにして、翌68年にハーバード大学で、世界初の「深昏睡判定基準」が作成される。しかしこのときでも、まだ「脳死」ということばは使われていない。すなわち、まず最初に「心臓移植」が行なわれ、それを正当化するかのように、その翌年に「深昏睡判定基準」が作り上げられるのである。順序は、心臓移植→脳死なのであって、けっしてその逆ではない。 日本においても事情はまったく同じである。1968年に札幌医大でいわゆる和田移植が実施される。そのあと、1974年に、日本初の脳死判定基準が日本脳波学会によって発表されるのである。ここでもまた、心臓移植→脳死という順序は維持されている。歴史が教えるところに従えば、脳死の概念は、心臓移植を行なうために作り出されたものである、という見方しか導けない。日本の臓器移植法もまた、臓器移植のために法的な脳死判定を行なうという筋立てになっている。 このことは、ふたつの興味深い論点を提供する。ひとつは、心臓移植という「行為」を遂行するために、脳死という「新概念」が要請されたということである。新概念が登場してあらたな行為が登場したのではなく、あらたな行為を根付かせるために、あるいは正当化するために、あらたな概念が導入されたということである。これは、他の分野においても見られる構図なのだろうか。このことは、いったい何を意味しているのだろうか。 もうひとつは、事実はそのようであるのにもかかわらず、国民を説得したり「啓蒙」する場合には、事実とは逆の構図の説明がなされてきたということを、どう考えればいいのかということである。つまり、脳死と臓器移植は切り離して考えるべきであり、不幸にも脳死になった人から、臓器を取り出して他人の役に立てることができるのだという説明がなされるのはなぜなのか。もちろん、「脳死」という病態と、「臓器移植」という施術それ自体はまったくの別物であるのだが、そのふたつは、歴史的には移植を船頭とする共生関係で動いてきた。このあたりの力学を、どのように考えればいいのか。 さらには、日本の臓器移植法制定に至る10余年間の紆余曲折のなかに反映している政治力学と、その背景にあるように見える「生命観」の政治的戦いのプロセスをあぶり出す研究がぜひとも必要である。これは近過去政治史研究の巨大で意義深い素材であると確信する。数百冊を超えるといわれる日本の脳死関連書籍をはじめとした文献の海は、まだほとんど研究されていない(小松美彦の研究はこの点でも注目に値する)。 ◆坪田一男, 200001, 『移植医療の最新科学――見えてきた可能性と限界』講談社. (pp16-18) 遅れた日本の移植医療 日本での臓器移植は、一九五六年に新潟大学で、急性腎不全の患者さんに一時的に、心臓死したドナー(臓器提供者)の腎臓を移植したのが最初といわれる。その後一九六二年に東京大学で、根本的な治療として、慢性腎不全の患者さんに生体腎移植が行われた。 もっとも有名なのは、一九六八年八月八日に札幌医科大学で、日本で初めて行われた心臓移植である(写真1-1:和田寿郎教授と移植手術を受けた宮崎信夫さん)。執刀者は和田寿郎教授。ドナーは海水浴で溺れて脳死状態だったとされるが、本当に脳死だったかが疑問視された。 僕は最近、和田先生にお会いする機会があったが、医療に対する情熱的な取り組みと、患者さん本位の考え方に感銘した。当時の報道には偏見があったのではないかと思うほどだった。 ともかくその結果、日本では脳死からの移植が大前提となる心臓、ひいては肺などのメジャーな臓器の移植はタブーになってしまった。このため、技術的にも倫理的にも研究が滞る状態になって、欧米に比して数十年分も遅れたといわれている。 大阪大学の松田暉教授らの調査では、一九九三年から九八年までの五年間に、心臓や肺の移植でしか治療法がないとみられた一五歳未満の子どもの患者さんは一三九人いたが、このうち海外で移植できたのは一〇人にすぎず、半数以上の七七人が空しく亡くなっている。 またその他の推計によれば、年間一〇九〜三五五人の患者さんが、心臓移植の適用がありながら亡くなっているとみられる。 こうした状況にあった日本に対して欧米の医療先進国では、脳死基準の制定や免疫抑制剤による拒絶反応の克服など、移植医療の環境整備を着実に進め、あとで述べるようにかなりの移植件数が行われている。 ただし脳死を前提としない臓器の移植については、数こそ少ないが、技術的には世界のトップレベルにあることを、日本の移植医たちの名誉のために言っておきたい。 たとえば腎臓移植は、肉親などから二つある腎臓の一つをもらう生体腎移植と、心臓停止したドナーからの死体腎移植がある。日本だけで生体腎移植はこれまでに九〇〇〇例を超え、死体腎移植も四〇〇〇例近い。年間一五〇〇例行われている角膜移植とならんで、日本でも定着した移植医療になっている。 ◆内田宏美, 200109, 「ネット上討論から見た脳死・臓器移植の価値構造――近代化・グローバル化の視点から」『生命倫理』11(1):9-16. (p10) 臓器移植法成立後1年4ヶ月が経過した1999年2月、我が国初の脳死状態のドナーからの臓器移植が実施された。我が国の移植医療に長く影を落とすことになった、1968年の和田(わだ)心臓移植以来、実に31年ぶりのことである。以後、現在までに10件の脳死移植が実施された。しかしながら、臓器移植法制定までの紆余曲折のプロセスといい、法制定後の沈黙期間といい、医療化の進行した先進国としては、特異な経過を辿っていることには違いない。 ◆森岡正博, 20011110, 『生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房. (pp26-28) ドイツは最近まで脳死法を持っていなかったが、すでに1980年代から脳死の人からの移植を行なっていた。ところが、1992年に妊娠4ヶ月の女性が脳死となり、この女性の体内で胎児は生き続けた。だが、約1ヶ月後に流産となり、女性の生命維持装置ははずされた(エアランゲン妊婦のケース)。この事件をきっかけにして、妊娠を継続できる人間が果たして死んでいると言えるのか、女性の身体が保育器代わりに用いられたのではないかなどの国民的な大議論が起きた。その後、1997年にドイツの連邦議会で、脳死を人の死とする法律が制定された。その際に同時提出された「脳死を前提としない移植法案」に対して、626票中202票の賛成があった。国会議員の約3割が、脳死を人の死としない案に賛成したという事実は、ドイツにおいても根強い脳死反対論が存在することを意味している(6)。 日本では、1968年の和田寿郎による心臓移植が告発されてから、1983年までのあいだ、脳死はタブーになっていた。1985年に脳死判定基準(竹内基準)が発表されると、「脳死は人の死か」どうかをめぐって国民的な大議論が起きた。中島みち『見えない死』(1985年)、立花隆『脳死』(1986年)がベストセラーとなり、メディアの関心が集中した。1992年、脳死臨調が脳死を人の死とする最終答申を作成したが、同時に、脳死を人の死としない少数意見を併記して注目を浴びた。1997年、脳死を人の死とする法案と、脳死を人の死としない法案が衆議院に同時提出され、紆余曲折を経て、現行の臓器移植法が制定された。これは、脳死判定と臓器摘出について本人の意思表示があり、家族がそれを拒まないときに限って、脳死判定を行なって人の死とし、臓器を摘出できるとしたものである。臓器移植の意思表示があるときに限って、脳死を人の死とするという、世界的にもユニークな法律となった(7)。2000年に、現行の臓器移植法の見直しが始まった。臓器移植法が改正される可能性もある(8)。 ここで、以下の3点を確認しておきたい。 第一に、ほとんどの国において、脳死に関する一般市民を巻き込んだ国民的議論は行なわれていないということ。また、大きな国民的議論が行なわれた三つの国では、脳死を一律に人の死とみなすことへの根強い疑義が表明されたこと。 第二に、それにもかかわらず、脳死を人の死とみなして臓器移植を可能にする法律あるいはそれに準ずる規約が、これらの3国をも含む多くの国で制定されたということ(例外はイスラム諸国や第3世界諸国)。 第三に、1983年から1997年までのあいだ、日本は多様な一般市民を巻き込んで、世界でもっとも濃密な脳死論議を行なった国であるということ。150冊を超える脳死本が刊行されており、そのほとんどが一般読者を対象としたものである。英語で出版された脳死本の数ははるかに少なく、かつそのほとんどは専門書である。2001年3月時点で検索したところ、タイトルに「脳死」を含む日本語の書籍は171冊、そのうち現在書店で購入できるものは142冊である。これに対して、タイトルに「brain death」を含む英語の書籍は17冊、そのうち現在書店で購入できるものは9冊である。日本の脳死論議は、世界でも最先端の議論をしてきた(9)。言語の壁があるので、海外にはほとんど紹介されていない。その一部は、第2節で紹介する。 世界的に見たとき、ほとんどの国では「脳死問題」はすでに「終わった」問題として処理されている。そのなかで、デンマーク、ドイツ、日本で執拗な脳死論議がなされた。なかでも、この問題に対する日本のこだわりは一種異様であり、突出した議論の深まりを達成している。議論が低調だったアメリカ合衆国において、1990年代の半ばから、生命倫理の専門家のサークル内部で脳死論議が再燃し始めてきた。1980年代から90年代にかけての、日本の脳死論議を振り返って再検討することによって、われわれは新たな生命倫理の扉を開くことができるであろう。また、この作業は、世界の生命倫理の議論に対しても、重要な貢献をなすことになるはずである。 (pp46-47) 日本の、脳死についての議論は、1968年の和田心臓移植直後に始まった。しかし、和田寿郎が告発され、心臓移植がタブー化してゆくなかで、脳死についての議論もまた下火になっていった。1983年、厚生省が「脳死に関する研究班」を設置して、脳死判定基準の作成に着手したのをきっかけとして、脳死についての議論が再燃した。脳死の人からの移植を日本でも可能にしようとする「推進派」の言説が、新聞記事や書籍の形で、多数刊行された。1984年、筑波大学病院で、脳死状態の患者から膵臓・腎臓などが移植のために取り出された。脳死を人の死と考えないグループが、医師たちを殺人罪で告発した。これ以降、脳死移植「賛成派」と「反対派」のきびしい対立が続いた。 すでに述べたように、1983年から現在に至るまで、150冊を超える脳死論の書物が刊行されてきた。これは、世界でも例を見ない現象である。このような突出した議論がこの15年間の日本でなぜ起きたのかについては、様々な推測があるが、定説はない(43)。海外の脳死論と比較したときの、日本の脳死論の特徴のひとつは、脳死患者を看取る家族の心情というものに、その当初から強い焦点が当てられたことである。脳死患者と家族との関わり合いが注目され、「見えない死」「脳死の人」「二人称の死」「共鳴する死」などの概念が生み出された。これらの概念は、一連の系譜を形成する。それは、私が、「脳死への関係性指向アプローチhumanrelationship oriented approaches to brain death」のパラダイムと呼ぶものである(44)。このパラダイムがどのようにして形成され、深化していったのかを、以下に検討してみたい。それによって、新たな生命倫理の視座が切り開かれるはずだからである。 ◆川上武, 20020325, 「脳死・臓器移植の軌跡――心臓移植の提起した問題」川上武編『戦後日本病人史』農村漁村文化協会:611-639. (pp615-620) その後約30年間で、心臓移植は約4万例を数え、現在では欧米を中心に世界で年間約5000例が実施されており、5年後の生存率も65%を超えているという(2)。現在では心臓移植が技術的問題(死期判定、救命技術との相剋、免疫抑制剤による生涯管理の問題など)を残しながらも、先進技術の一翼として定着してきているのが、世界的傾向とみてよいであろう。 ところが、医療先進国の1つである日本では、この動きと少し違った経緯をたどっている。 2 日本の心臓移植で明確になった問題 (1)和田心臓移植への不信 日本の心臓移植第1号は、1968年8月6日に札幌医大で和田寿郎教授によって行われた。ドナー(臓器提供者)は海水浴で溺れて脳死状態になったとされた青年であり、レシピエント(臓器受給者)は心臓の弁に異常のある少年であった。和田教授はその発表に際して、「2つの死より1つの生を」という説明をしたために、テレビ、新聞の連日の報道は礼賛調が目立ち、レシピエントへの激励調の報道が続いた(3)。 ところが、患者が83日後に死亡すると、和田心臓移植についての不信が、医学界、世論から起きてきた。この心臓移植に医学面から疑問の声を発したのは、札幌医大の内部からであった。レシピエントの心臓を手術前に診断した内科教授は、僧帽弁を人工弁に置換することが可能との判断で和田外科に送った前後事情を、医学雑誌に発表した。また、病理解剖をした教授もその所見をめぐって、和田教授の手術に不信を提起した。和田移植は南アの世界第1例から数えて30例目といわれるが、ここにいたって報道のトーンはその技術、人間性の評価から技術不信、外科医の功名心・ウソへの批判に変わっていった(4)。 社会的にも、南アの心臓移植いらいその技術的問題に関心をもっていた有志の医学者(松田道雄・石垣純二・中川米造・川上など)は「和田心臓移植を告発する会」を結成し、世論に訴えた。このあと同年12月には大阪府の漢方医ら6人が和田教授を殺人罪で告発した(5)。しかし、これらの1部の医学者、マスコミ、世論の動きを、医学界の大勢も検察当局も黙殺し、問題の所在をあいまいにしてしまった。 (2)その後日本では心臓移植がなぜ行われなかったか 和田心臓移植(1968年)いらい31年間、日本の心臓移植は空白時代に入る。世界的にはその間、何万例もの心臓移植が行われていた事実と比較すると、従来の医療技術導入の常識からみて確かに奇妙な現象である。しかし、この歴史的事実は必ずしもマイナスとは思えない。移植についての技術レベルは世界並みといわれながら、実施しなかった意味について検討する必要がある。「外科医に勇気がなかった」(和田)というレベルの発想ではすまされない。その根柢には、従来の医療観では了解できない"医療と文化"の問題があり、医学・医療のパラダイム転換にまで及ぶ近代医学史いらいの転換があった。そして、日本の医学者・思想家の中には、この問題に最初から最後まで慎重な姿勢を崩さなかった人々がいたからである。 この問題に入る前に、なぜ心臓移植の空白時代が発生したかについてのいくつかの要因にふれておきたい。 第1は、「2つの死より1つの生を」(和田)が、結果として「2つの生より2つの死に」に終わったのではないかという声なき世論が予想外に強かったことである。ドナーとなった溺死青年の救命・救急技術とレシピエントの少年の手術適応への不信に対して、検察も医学界もはっきりした姿勢をとらなかった。この検察と医学界の姿勢が日本の心臓移植実施の大きな障害となったのは事実である。 第2は、「東大PRC(患者の権利検討会)」などの批判団体がその後の筑波大移植にかかわった3人の移植医を殺人罪で告発し(85年1月11日)、その後も批判活動を続けていたことである。これは、移植医療が前進するには、何か日本には大きな壁があることを痛感させていった(6)。 さらに、第3の決定的な要因として、日本人の生死観がこの問題に深くかかわっていることがはっきりしてきた。 日本人の生死観は「死はこれを精神と肉体とにわけることはできない」(吉本隆明)がその核心をついており、精神身体1元論であるといってもよい(7)。 これに対し、欧米の生死観は、デカルト哲学的な精神身体2元論である。それもアメリカとヨーロッパではちがい、アメリカでは個人が承諾すればよく、ドイツはプロテスタント、フランスはカトリック、イギリスは国教会派が強いので、死期判定―臓器移植についてある種の価値判断が求められる。やはり教会を横目でみるといわれるという(米本昌平)。この場合、日本が臓器移植の推進・具体化にあたって、ヨーロッパの研究が必要であるという発想が根柢にある。これは適切な発言だと思う(8)。 3 医師が死期判定 (1)心臓死の時代 脳死→臓器移植が技術的・社会的問題として登場する以前は、人間の死は心臓死(心死)が、明治期の医療の近代化いらい当然のことと医学でも一般でも受けとめられてきた。心死は"呼吸停止、心拍停止、瞳孔拡大・対光反応消失"の3特徴で長いこと判定されてきた。現実の問題として、臨床医が若い頃に「ご臨終です」と2回も言うという失敗をおかすことがあった。たしかに、患者が死の過程に陥ってから、短いが一定の時間が存在しているのは事実である。しかし、心死は素人でも納得できるぐらい明白なものである。 しかし、人間が出産・誕生によって社会に入り、死亡によって社会を去るにあたっては、その判定は法的には医師の判定イコール決定に委任されてきた。誕生―出産届も産婆・助産婦→産科医の届出が必要だが、死亡については、死亡診断書・死体検案書・死亡証明書、死体検案書の記載・内容・書式については、医制いらい医療法の関係法規の中で、きびしく規定されていた(9)。この死亡診断書を書けるのは社会から委託された医師だけの権利義務である。他の何人もこれを代行することはできない。医師は個人的には医療技術者としての責任を負うと同時に、社会的には生死、とくに死期判定を委託されていたわけである。この後者は重要な役割だけに、医師がプロフェッショナルとして、特別な処遇を受けてきた歴史的根拠はここにあるといってもよい。 昭和恐慌の頃、東北農村では死亡診断書が必要なだけに、生の最後に医師にかかるという儀礼が少なくなかった。さらに、死体の埋葬にあたっては、「埋火葬は死後24時間経過後行いうるものとし、市町村長の認可を受けること」(10)という取締規則があった。この24時間という時間は、死をめぐる犯罪、誤診などの不祥事の予防を意図していたものである。 ただ、不思議なことに、明治近代化いらいの医事法制をみると、医師や関係者の資格、出生・死亡診断書などについては、詳細な規則が定められているのに、現代医療の重大事となっている死期判定については、心死を当然として何の規定もない。これが日本近代・現代医療史の事実であり、死(心死)は誰の眼にみても了承できることだったからである。このパラダイム転換を迫ったのが、脳死―心臓移植である。 (2)脳死の登場 現在でこそ脳死による死期判定が医療・社会の生命観を一変させるものとして、その歴史的意義が一般にも徐々に了解されつつある。しかし、"脳死"と呼ばれる状態それ自体が医療の場で問題になってきたのは、敗戦後、いま一般が考えているより早い時期(1950年代後半)からである。 この間の事情について、斎藤隆雄は「脳死を人の死としてよいか」の中で、次のごとく述べている。「昭和20年代の終わりころから徐々にではあるが、現在の方式に近い人工呼吸器(レスピレーター)が臨床に導入され、名称はさまざまだったが、集中治療室(ICU)に相当するものが動き始めた。脳死と呼ばれる状態、つまり脳の機能を不可逆的に(後戻りがきかないところまで)喪失しながらなお人工呼吸器によって呼吸が維持され、心臓が拍動を続けている状態が登場した」(11)。 ところが、1967年に南アでバーナード博士が、「脳死」と呼ばれる状態を利用して、心臓移植第1号を実施するにおよび、脳死と人工呼吸器の関係が明確となり、人工呼吸器を切るかどうかが、その後の重大な決断をうながす契機となってきた。「脳死」状態になると、実際には数日中に心拍停止になる人も多く、長く人工呼吸器を続けていると、脳がどろどろにとける「レスピレーターブレイン」になるという報告もすでになされるようになった。しかし、脳死論議が始まるまで、その現場にいた数少ない医師でもこの状態を"患者がすでに死んだ状態"と考える人は少なかった。まして、付添っている患者家族や見舞いの一般人にとっては、従来の心死の概念からみて、とても「死んだと実感する」のは困難であった(12)。 しかし、南ア→アメリカ→和田心臓移植とつづく心臓移植→臓器移植の流れは、「脳死」状態の医学的意義(判定)を明確にすることを要請してきた。とくに、日本ではこれをあいまいにしたままでの臓器移植は、移植医が殺人罪で訴えられるという事件もあり、その判定に慎重にならざるをえなかった。 4 臓器移植法の制定 (1)日本人の海外での臓器移植の流れ 和田心臓移植への不信、医学者の慎重論もあり、日本では「脳死」状態からの臓器移植は行われなかったが、この間、アメリカを中心に臓器移植が医療技術の前面に登場してきていた。この動きをみて、日本の移植学者は条件の許す者には海外移植の道をすすめ、心臓移植適応の患者の家族の中には、一般からのカンパによって海外移植の道を選ぶようになった人もある。 ◆小松美彦, 20020822, 「臓器移植」市野川容孝 編『生命倫理とは何か』平凡社:95-101. (pp97-98) 臓器移植が盛んに試みられるようになったのは,血管吻合技術が開発された20世紀初頭からである。だが,約50年間にわたって成功例といえるものはなかった。拒絶反応を克服できなかったからである。1950年代になると,拒絶反応の正体が免疫反応であることが解明され,遺伝子型が同一の一卵性双生児間での生体腎移植に成功例が出る。 さらに1967年12月,臓器移植は新たな段階に突入する。南アフリカのC・バーナードが,人間の同種間心臓移植を試みた。この移植は世紀の快挙として世界の人びとの耳目を驚かせたが,術後18日目にレシピエントは拒絶反応のため死亡した。しかし,これを機に心臓移植は次々となされ,その数は1年間でおよそ100件にのぼった。札幌医大で68年8月におこなわれたいわゆる和田移植は,世界で30例目の心臓移植に当たる。 また,バーナードの移植以降,脳死を人の死とせんとする議論が全面浮上する。すなわち,心臓移植は拍動停止後の心臓では成功しがたいが,拍動中のものを摘出すれば移植医は殺人罪に問われかねないため,脳は機能停止しているもののいまだ心臓が動いている状態が着目されたのである。そして,従来は不可逆昏睡などと呼ばれたこの状態に脳死と改名され,人の死とする世界的な動向が生まれる。しかしながら,効果的で安全な免疫抑制剤が未開発であったため,心臓移植の長期生存者は存在しなかった。 ◆安藤泰至, 200209, 「臓器提供とはいかなる行為か?――その本当のコスト」『生命倫理』12(1):161-167. (p164) まず、臓器提供カードを持っていたために、救命のための医療がおろそかになる、という可能性を無視することはできない。現にこれまで日本で行われた脳死移植の検証例からも、その疑いをもたれているものが存在する。従来、こうした疑念は国民の医療不信(とりわけ日本では、和田移植の後遺症と関係づけられて)の問題としてとりあげられることが多かった。もちろん脳死移植に関してはそうした疑念を払拭すべく、その過程を厳重にチェック、検証するシステムが必要である。しかし、この問題が単なる医療者集団への信頼・不信のそれでなく、臓器移植というシステムの構造そのものから発していることを認識しなければならない。村上(1993)が述べる通り、臓器移植という事態は、「医師こそ、人間の死を最後に絶対確実になるまでは宣言しない職業である」という前提を侵害してしまう。先に述べたように、ある時点から、患者の身体に「その患者の治療をする」ためのまなざしではなく、「別の患者の治療のための資源として役立てようとする」まなざしが向けられるようになることこそが本質的な問題であり、こうした構造自体は、いかに移植医療の信頼性を高めようとも、変えられるものではない。移植医療に対して人々が抱く「なんとなくうさんくさい」という感情はこうした所に起因するものであろう。 ◆松本文六, 20040423, 「「脳死」移植問題を考える――医療現場の感覚と生命倫理との乖離」西日本生命倫理研究会編『生命倫理の再生に向けて――展望と課題』:275-312. (pp276-277) 私が「脳死」や臓器移植の問題に直接かかわりはじめたのは、一九八九年十一月におこなわれた西日本臓器移植協議会と東京大学PRC(患者の権利検討会)企画委員会共催による「移植と脳死」に関する公開討論会であった。このとき私は、敗戦間近に九州大学医学部で、アメリカ軍捕虜の生体解剖がおこなわれたという暗い過去を総括することなしに、臓器移植を語ることは許されないのではない これらの発言は、「脳死」問題や臓器移植問題、とくに、そのとき成立に向けて議論が進みつつあった臓器移植法案に対する疑念を、ますます深めるものだった。 (pp287-289) 一九六八年七月末までに、全世界で心臓 しかし日本の医学界で、和田事件に関しての総括は一切なされていない。一九八八年一月の日本医師会生命倫理懇談会での「脳死および臓器移植についての最終報告」および、九二年一月の「脳死及び臓器移植臨時調査会」(以下、脳死臨調)による最終答申である「脳死及び臓器移植に関する重要事項について」のいずれにおいても、和田事件の総括はないのである。後者で和田事件に関連する項を拾ってみると、レシピエント(移植を受けようとする人)の適応に関する議論が中心で、ドナーに対する救命措置がどの程度なされたのか、そして、脳死判定・臓器摘出は適正におこなわれたのかという疑問にはまったくふれられていない。他方で、和田事件が人びとに少なからぬ不安と不信を与えたので、「こうした脳死・臓器移植をめぐる不安感・不信感に応えるために、確実な脳死判定の方法、適正な移植適応基準の確立、必要な記録の保持と開示、インフォームド・コンセント、適正な外部のチェックシステムの指導等、いくつかの具体的な提案を行った」と述べている。しかし、その後の文章で 脳死臨調多数派の意図と、脳死臨調全体の真の目的は、この公式文書のなかにしっかりと表現されている。すなわち、脳死状態にある病者から新鮮な臓器をいかに摘出し、移植を成功させるのかという視点で一貫している。これに対して、脳死臨調内の少数派は、多くの人が脳死を人の死とすることに同意しているという論拠は、各種の世論調査とアンケート調査などを通しても成り立っていないと反論している。しかし、結局脳死臨調の最終答申で、和田事件の真相解明はなされることなく、医療の密室性や不透明性をえぐり出すことはついになされないままで終わってしまった。 このようにして、「脳死」を前提とした心臓移植は、ハーバード大学特別委員会報告によって拍車がかけられ、一九六七年に実践された。八0年代には免疫抑制剤シクロスポリンの開発によって、さらに急速な広がりをみせている。このような過程をへて、「脳死は人の死」という言葉が日本の社会を闊歩しはじめたのである。 ◆田中智彦, 20040708, 「日本の生命倫理における「六八年」問題――東大医学部闘争と和田移植」中岡成文編『岩波 応用倫理学講義1 生命』岩波書店:147-168. (p147) 生命倫理は一九六〇年代後半から七〇年代をつうじてアメリカで成立し、八〇年代前半になって日本に輸入された。したがって、東大医学部闘争が佳境に入り、他方で和田移植が事件となった「六八年」は、日本の生命倫理にとってはいわば「有史以前」にあたる。そのためであろうか、日本の生命倫理では東大医学部闘争も和田移植も、「いま」につながる問題として語られることはまずない。だが歴史をひもとくならば、この二つの出来事が提起した問いは、そのとき日本に生命倫理を誕生させうるだけの射程を秘めたものであったように思われる。しかしまた、そうであるとするならば、日本の生命倫理は「六八年」を視野の外におくことで、かえってみずから盲点をつくり出しているとも考えられよう。 東大医学部闘争と和田移植はいかなる問いを提起したのか、そしてその視点に立つとき、日本の生命倫理に対してどのような課題が提示されるのか――ここではこうした論点を、「六八年」問題というテーマで検証してみたい。 (pp162-166) なぜ日本では生命倫理の「誕生」に至らなかったのか。いいかえれば、なぜ「六八年」は「医療思想革命」につながらなかったのか。その理由はおそらく、東大医学部闘争だけでなく、そこから発展した東大闘争がなぜ「安田砦落城」で終わらざるをえなかったのかということとも関係している。ここでその詳細を論じるゆとりはないが、それでも「六八年」の限界については、これまでのところからいくつかの示唆をすることはできよう。 「六八年」が提起した問いは、日本の医療体制の根幹にかかわるものであったにもかかわらず、その後ひろく共有されるには至らなかった。その理由の一端は、東大医学部闘争が六八年二月以降、医学部教授会との争いという様相を強めていったことにある。むろん東大医学部の歴史に鑑みれば、また医局講座制の解体をめざすからには、教授会との争いは避けられなかったであろう。しかし、その争いが前景を占めるようになれば、医療体制の変革という本来ならすべての人びとが関心をよせる争点も、あるべきひろがりをもつことが難しくなる。くわえて、争点を明らかにする方法にも問題があったように思われる。象徴的なことに、当時の文献では「国家権力」や「大衆」といったことばが随所にみられる一方で、「患者の権利」や「個人の権利」といったことばはまずみつからない。この点はアメリカの場合と実に対照的であって、日本では医局講座制の解体が追求されながら「医者=患者関係を包んでいた政治的空間の組換え」にまで至らなかったことと無関係ではないだろう(注31)。 もっともそこには、マルクス主義的な枠組みの問題だけでなく、日本の知識人層の問題もあったと考えられる。なぜならアメリカの場合、神学者や哲学者、法律家といった医学の非専門家たちが医学研究・医療の問題にとりくみ、それぞれの視点からパラフレーズすることによって、それらの問題が一般の人びとにも開かれた、公的な議論の対象となりえたからであり、またそのことが、生命倫理の成立に大きく寄与したからである(注32)。しかし日本の場合、東大医学部闘争なり和田移植なりをきっかけに、そうした学際的なとりくみがなされることはなかった。それがいわゆる学問の「タコツボ化」に起因するものなのかどうか、にわかには判断しがたい。だがいずれにせよ、医学とは別の領域の専門家によって――研修生・医学生の連帯がひろがりをえて、公的な議論を呼び起こすのに十分なほどに――医学の内と外とが架橋されることはなかった。そのような外部からの媒介がなかった以上、医学の内部における異議申し立てが社会的に孤立せざるをえなかったのは、むしろ必然であったとさえいえるかもしれない。 では「六八年」のこうした意義と限界とをふまえるとき、そこから日本の生命倫理にとってどのような課題が立ち現れてくるだろうか。さきにみたように過去へと眼をひらくこと、また、そこで提起された問題が今日までにどれほど解決されてきたのかを検証することとあわせて、さらに将来に向けて、以下の三つの課題を提示することができよう。 第一の課題は生命倫理の相対化である。生命倫理の「局地性」(locality)の認識といってもよい。日本に生命倫理が輸入された八〇年代前半は、アメリカではすでに生命倫理が理論的にも制度的にも一応の確立をみた時期であり、日本ではもっぱらそのような「完成品」が、新しい倫理として受容されてきた。しかし、生命倫理の成立に貢献した医療社会学者フォックスが指摘するように、生命倫理には「アメリカの社会と文化に深く影響されていながらそうした属性に目を向けない風潮(注33)」があるのだとすれば、それを一般化することは、受容した生命倫理の特殊性だけでなく、それが適用される文脈の固有性まで見失うことになる。だが日本の生命倫理においては、まさにそのような一般化がなされてきたのではないだろうか。さもなければ「六八年」は、もっと早くに、「いま」につながる問題として省みられていたはずである。むろん「局地性」といっても、いわゆる「日本的な生命倫理」が求められているわけではない。「局地性」が意味するのは問題の固有性であり、その問題を解く方法の固有性である。日本には、医局講座制と低医療費政策に象徴される固有の諸問題がある。それらの問題が、アメリカの生命倫理で解決できるならそれでよい。しかし、それで十分ではないならば、よりふさわしい解決法をみつけることこそ、ほかならぬ日本の生命倫理の責務であろう。 これに関連して第二に、生命倫理を本来の学際的なあり方へと近づけてゆくことが要請されよう。さきのフォックスは、アメリカで「医療科学やテクノロジーに付随する多種多様な問題、それもおびただしい数にのぼる問題に、片っ端から「生命倫理」というラベルを貼りつける傾向が一般化した」ことをさして、「なんでも倫理症候群」(“everything is ethics” syndrome)と呼ぶ(注34)。その結果、他の人文科学・社会科学の視点は脇に追いやられ、ついにはすべてが個人の権利と手続的正義の問題に還元されてゆく。この種の倫理学的還元主義は、日本に輸入された八〇年代アメリカの生命倫理に特徴的なものであり、それゆえ日本の生命倫理にも受け継がれている可能性が高い。実際、日本における「深刻な臓器不足」の原因を戦後の倫理的退廃に求め、臓器移植法成立の遅れで移植待機者の医療アクセス権が侵害されたと憤る議論などは、そうした倫理学的還元主義の典型といえよう(注35)。そこには、ドナーの死と遺された者へのまなざしも、医局講座制への洞察も見いだすことはできない。なるほど、個人の権利や手続的正義の確立は、日本の場合はとくに重要である。しかし、たとえば「六八年」が提起した問いは、それで尽くされうるものではない。さらに「六八年」の限界を想起するならば、倫理学的還元主義はそうした問いの多くを、公的な議論から遠ざけることになるだろう。逆に、公的な議論を喚起するためには、生命倫理が「倫理」ではなく、さまざまな学問領域が交差し、協働する「場」となる以外にはないといえよう。 第三に、軍産学複合体と医学・医療との関係――産学協同はその一形態にすぎない――をあらためて問うことがあげられる。軍産学複合体については「六八年」にも問われたが、ただしそこには、「生―権力」やそれに類する視点はみられなかった。だが今日、バイオテクノロジーとバイオ産業が諸個人の生命と身体の「資源化」「商品化」を加速することで、「生―権力」が以前にもまして貫徹されつつある。臓器移植法の制定が、移植待機患者のためだけでなく、バイオ産業のためでもあったのは、その好個の例であろう。実際、臓器移植法の成立に尽力した日本移植学会理事長・野本亀久雄は、成立後に手記のなかで、「脳死後の臓器提供を承諾された人は「自分の身体から離れたものはもはや自分のものではなく社会に帰属する」ことを認めてくれている、つまり合意されているわけで、いまはなばなしく離陸しようとしているバイオ産業も臓器移植が実現しないかぎりはむりだった(注36)」と述懐している。こうした言説にあっては、個人の自己決定権は否定されず、むしろ尊重されさえすることに注意すべきである。それゆえにまた、所有的個人主義もこの言説に回収されざるをえない。アメリカの生命倫理を相対化すべきもうひとつの理由がここに見いだされよう。しかし、だからといって連帯を説くことが解決になるわけではない。臓器移植を「もっとも厳粛な意味での人間の"助けあい運動(注37)"」と名づけたのは、ほかならぬ和田であった。人間の「資源化」「商品化」に抗する言説を、個人の自由と連帯のはざまからつむぎ出してゆくこと――それは日本の生命倫理にとっては、あらためて「無責任の体系」と対峙することをも意味するのである。 「六八年」についてはまだ語るべき多くのことが残されている。とりわけ、なぜ日本では「医療思想革命」が起こらなかったのかについては、東大闘争の?末はもちろんのこと、戦後日本の社会、さらには日本における法意識・権利意識とも照らし合わせて検討する必要があるだろう(注38)。 ◆小松美彦, 20041101, 「脳死者は生きている――管理社会の中の先端医療」『現代思想』(特集:生存の争い)32-14(2004-11):126-140. (p138) ここで、臓器不足をめぐってほとんど知られていないことを見ておきたい。脳死の子供からの臓器提供がすでに多数行われてきたという事実である。 法改定の議論では子供の移植を可能にするということが前面に出ているため、今までに脳死の子供からの臓器提供は一切なかったかのように思われている。だが、それは誤解や誤報に他ならない。あるいは、68年の札幌医大での和田移植から97年の「臓器移植法」施行まで、脳死・臓器提供は皆無だと認識されがちだが、そもそもその認識が事実に反する。殺人罪などで11件の脳死・臓器移植が告発されたことは一部では著名だが、それも氷山の一角にすぎない。すなわち、太田和夫日本移植学会会長(当時)自らが90年に公表したところによると、84年から89年までに行われた死体腎臓摘出429件のうちおよそ35パーセントに当たる152件は脳死状態からの摘出だったのだ(太田和夫「わが国における死体腎提供の現況と問題点」[『移植』25巻4号所収])。腎臓移植は現在までに万単位でなされており、35パーセントという数値をそのまま当てはめれぱ、脳死者からの腎臓摘出は相当数に及ぶ。その中にはかなりの数の子供も含まれていることになる。ちなみに、「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会」の試算によれぱ、81年から00年の20年間で約200人の小児脳死ドナーがあったのだ。つまり、子供の移植をめぐる今回の法改定とは、今まで無法ないしは非合法でなされてきたことを初めて合法化することに他ならない。 ◆山中浩司, 20050228, 「医療における「臨床」と「技術」――臨床文化のゆくえ(1)」山中浩司編『臨床文化の社会学――職業・技術・標準化』昭和堂. こうして臨床医学は、外科医たちの治療の世界、大学教授たちの図書館の世界、後に登場する研究医たちの実験室の世界から、一定の距離をとりながらそのアイデンティティを確立しようとしたのである。 明治以降形成されてきた日本における医師のイメージというのは、やはり、この内科医が作ってきた臨床医学の産物ではないかと私は思う。医者は、単なる物知りではない。また単なる職人でもない。また人知れず試験管を操る秘教的な科学者でもない。患者に接しながら、患者に左右されない。診療費を受け取りながら、営利が目的ではない。本を読みながら、空論を論じない。こういうのが何となく臨床の現場に登場する医師の一般的イメージではないだろうか。このイメージにぴったりくる医師の活動は、具体的な治療や論文の執筆ではなく、「診断」という行為であろう。実際、内科医というのは、自分で薬を作るわけでもなく、また手術をするわけでもなく、整骨医のように患者の体に馬乗りになって骨を矯正するわけでもない。患者を診て、考えて、診断し、薬を処方するだけである。ふつうの医師が、薬の処方については製薬会社や大学の臨床試験のデータに大幅に依存していることを考えれば、内科医の特権的な領域は「診断」という行為に集中しているということは疑いを得ない。いわゆる「見立て」という言葉が、ここでは重要な響きを帯びている。したがって、内科医の「診断」こそが、ここで扱う医学的「臨床文化」の中核をなしているといってもいいように思われる。実際、治療の面においては外科医に対してある種の気後れを覚える内科医も、こと「診断」に関しては、外科医に対してしばしば批判的になる傾向がある。日本の心臓移植を何十年も押しとどめてきたあの和田心臓移植事件でも、内科医は移植に暴走する外科医の診断に辛辣な批判を加えていたのである。 ◆宮坂道夫, 20050315, 『医療倫理学の方法――原則・手順・ナラティヴ』医学書院. もう一つ重要なのは,患者の権利の確立で先行した米国においても,またその他の諸外国においても,重要事例landmark caseが生じ,その社会的インパクトの上に新しい医療倫理の考え方が生まれてきたという点である。その社会で生じる具体的な事例がどう理解され,それに応じてどのように法制度を含めた医療のあり方が変わっていくかが,特に重要である。こうした観点で日本の過去を振り返ると,わが国でも,医療倫理の考え方を変えるような重要事例が数多くある(表2-3)。 しかし,表2-3を見ていて気がつくのは,日本には模範事例paradigmatic caseが少ないことである。日本の重要事例の多くが,「国民の共感を呼んだ,模範となるような事例」ではなく,「そのような事件は二度と起こしてはならない」という,いわば反面教師型の事例である。反面教師型の事例は,日本の近代医療史をみるかぎり,その事件の処理や関係者による反省,謝罪,あるいは賠償金の支払いのような形式で決着することが多く,新しい医療倫理の考え方を生みだす力をもちにくい。このことを「和田移植」,薬害エイズ事件,ハンセン病問題を例にみておこう。 1968年の「和田移植」は,和田寿郎医師(当時札幌医科大学)による日本初の心臓移植であるが,ドナー(臓器を提供する人)が本当に脳死であったのか,またレシピエント(臓器移植を受ける人)が本当に心臓移植を必要とする病状だったのか,という移植治療におけるきわめて重要な点についての疑問が未解明のままになった(共同通信社社会部移植取材班編1998)。この事例は,臓器移植には,ドナーについての脳死判定や,レシピエントの選択についての明確な判断基準が必要であることを教訓として残した。また臓器移植のような有効性の確立されていない医療では,特に透明性─今日の言葉でいえば説明責任,アカウンタビリティであろう─が確保されていなければならないことを示した。 ◆瀧井宏臣, 20051020, 『人体ビジネス――臓器製造・新薬開発の近未来(フォーラム 共通知をひらく)』岩波書店. (pp86-87)(*中畑龍俊(京都大学医学部)へのインタビュー) 「欧米ではひとつの新しい医療技術として受け入れられ、胎児の細胞を産業として扱っている。日本にもクスリと同じような形で、否応なく入ってくるという状況にあります。胎児の細胞を医療ではなく、産業として扱ってよいのか悪いのか。議論して日本の方向を決める必要があるのです」(中畑教授) 中畑「それだけではありません。文部科学省、厚生労働省の予算が投下され、再生医療が爆発的に進み、あちこちの施設で再生医療と称して新しい医療をやろうとしている。どこの施設も億単位のお金をかけて、小さなセルプロセッシング(細胞培養)センターを作ろうとしていますが、税金のムダ遣いです」 ――それで、指針が必要だと? 中畑「なぜ今頃になって指針について論議するのか、奇異な感じがしないわけではありませんが、猫も杓子も再生医療研究に取り組むという異常事態を迎えて、どう考えても問題ある医療も行なわれようとしている。このままでは和田心臓移植(一九六八年に札幌医科大学の和田寿郎教授らが日本で初めて心臓移植手術を行なったが、脳死判定などが密室で行なわれたことが社会問題になり、和田教授は殺人罪で告発された)のようなことになりかねない。そういう国内での状況をふまえて、ガイドラインが必要なのです」 ――今は各施設のIRB(倫理審査委員会)で審査していますね。 中畑「一九九〇年代になって、各施設のIRBで審査し、承認を得た上で研究を進めるケースが出てきていますが、委員の審査能力に疑問符が付くようなIRBも見受けられます。医師への免罪符を与えているだけではないか、という声もあります」 ――施設によってIRBのレベルが違う? 中畑「IRBのレベルが、あまりにも違いすぎる。どこの病院でもどんな医療をしてもよいというのが国民皆保険の医療ですが、IRBがない病院で熟練が必要な移植医療が行なわれたりするのは問題です。 (pp175-177) 日本で最初に臓器移植が行なわれたのは一九五六年。新潟大学で急性腎不全の患者に一時的に腎臓が移植されたのが一例目だ。続いて、一九六四年には千葉大学で肝臓移植、一九六八年には札幌医科大学で心臓移植が行なわれた。ちょうど臓器移植の研究と臨床への応用が世界的なブームとなった時期で、日本の ところが、札幌医科大学の和田寿郎教授のチームが行なった心臓移植で、ドナー(臓器提供者)の脳死判定や患者の選定が密室で行なわれたことが社会問題となり、和田教授は殺人罪で告発された。一九七〇年、札幌地方検察庁は容疑不十分で和田教授を不起訴処分としたが、脳死状態での臓器移植はストップ。以来、日本の移植医療はタブー視されて三〇年近くにわたって停滞したままだったが、一九九七年の臓器移植法施行をきっかけに、日本でも臓器を医療や研究の材料として本格的に利用する時代が始まったわけだ。 法の施行から七年が経過した今、臓器はどのように使われているのか。そして、どのような問題が生じているのだろうか。 日本臓器移植ネットワーク(以下、移植ネット)によると、二〇〇四年一年間に国内で実施された臓器移植(生体除く)は一九〇件。内訳は、腎臓が一七三件、心臓とすい臓がそれぞれ五件、肺が四件、肝臓が三件となっている。これらの臓器を提供したドナーは九五人で、脳死での摘出が五人、心臓停止後の摘出が九〇人である。 腎臓移植がダントツに多いのは、心臓停止後の提供が可能だからだ。腎臓移植一七三件のうち、脳死移植は六件にすぎず、残りは心臓停止後の提供による移植なのだ。 腎臓は心臓や肺と違って、移植可能なリミットが死後二四時間から四八時間と比較的に余裕があるため、心臓停止後でも提供を行なうことができる(心臓は死後四時間、肺は死後八時間)。また、脳死移植の場合、本人が生前に意思表示をしている上に家族の同意があって初めて行なわれるが、心臓停止後の移植(腎臓、眼球)の場合は、本人の意思表示がなくても家族の承諾だけでできるため、同意が得やすいのも数が多い (pp184-185) なぜ、脳死による臓器移植は進まないのか。 移植ネットによると、これまで七年間に亡くなった人で意思表示カードを携帯していたケースは八○○例を超えるが、このうち臓器提供に至ったのは全体の四%にすぎない。その理由としては、(一)記載に不備があって意思表示を認定できなかった、(二)大学病院や救命救急センターなど臓器の摘出を認められた医療施設の対象外だった、(三)連絡が心臓停止後であった、(四)脳死判定基準を満たさなかったことなどが挙げられる。 これについて、移植ネットの雁瀬副部長は「和田心臓移植以来、日本では脳死や移植医療への不信感が強かったために脳死判定のシステム等がきわめて厳格になっていることも一因としてある」と言う。 また、救命医療に従事している現場の医師や看護師たちが、患者の家族に臓器提供という選択肢をなかなか切り出せないという医療現場の事情もあるようだ。ある関係者は「現場の医療関係者が救命を使命とし、亡くなった場合は滞りなく死者のお見送りをすることを第一としているために、患者の意思表明や家族の申し出がない限り、医師側から臓器提供について話を持ち出すことはない」と説明する。 脳死での臓器移植が進まない理由にはこうしたさまざまな要因が横たわっているが、それ以前の問題と (pp204-205) 私はひとりの親として、臓器移植で助かる子供を何とか救ってやりたいと思う。と同時に、第三世界で臓器売買が蔓延するのを黙認するわけにもいかない。臓器の闇売買を誘発する海外渡航は原則としてすべきではないのである。とすれば、脳死での臓器移植を増やし、子供も国内で移植ができるようにするしか道はないが、医療サイドで肝心の脳死の判断がゆらいでいては話にならない。 ◆美馬達哉, 20070530, 『〈病〉のスペクタクル――生権力の政治学』人文書院. さて、ここまでの分析を、日本における「脳死」と臓器移植をめぐる議論の流れに当てはめて解釈してみると、いくつかの論点がさらに浮かび上がってくる。簡単にたどってみよう。 日本での「脳死」患者からの臓器移植が最初に登場したのは、一九六八年の札幌医大で行われた和田寿郎教授による心臓移植によってである(移植を受けた青年は術後八三日で死亡した)。この事例は、その後、マスメディアなどで強い批判を受け、臓器提供者(溺死事故だった)に対しての救命治療が十分であったのかという点やその「死の判定」に対しても疑問がもたれ、殺人罪として告発される事態にまで至った(ただし、不起訴処分)。 だが、数少ない例外を除けば、当時の議論の中心は死生観や死の定義をめぐるものではなかったことに注意しておく必要がある。むしろ問題とされたのは、こうした事例の背景にあると考えられた医師の名誉欲や人命より研究を重視する姿勢(研究至上主義)だった。それ以後、移植した臓器に対する拒絶反応などの問題が当時の医学技術では解決できないため、心臓移植自体に治療としての意義が乏しいことが明確になった。その結果、心臓移植は米国の一部以外ではあまり行われなくなり、一九七〇年代に日本国内での議論はなされなかった。この歴史的経過は、「臓器移植は必要である」という意味素こそが、「脳死」と臓器移植が現実に議論されるための出発点であることを確証している。札幌医大での事例のように、臓器移植が治療として成り立たないという結論に落ち着けば、「脳死」をめぐる議論自体が存在し得なくなってしまう。あるいは、たとえ、議論されても、その力点は異なったところ(医師の名誉欲や人体実験の問題)におかれるのである。したがって、一九七〇年代までは、研究至上主義や人体実験という問題設定での議論はあっても、「脳死」問題は存在していない。 「脳死」と臓器移植の問題が国内で再び議論されるのは、一九八〇年代に心臓などの臓器移植が、強力な免疫抑制剤の開発という援軍を得た結果、標準的な治療として米国を中心に受け入れられるようになって以降のことである。 ◆町田宗鳳, 20070920, 「生命倫理の文明論的展望」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:17-54. (pp17-18) 「人間改造」の最初に登場したのが、臓器移植である。一九六八年、札幌医大付属病院の和田寿郎医師が十分な手続きを踏まえず、心臓移植手術を強行し、しかもその患者がまもなくして死亡したため、臓器移植に対して否定的な見方が一気に広がった。その波紋から日本医学界の移植技術は四十年の遅れをとったとも言われる。 しかし今や世情は大きく移り変わり、免疫抑制剤の開発も相まって、諸々の内臓疾患に苦しむ人たちに回復の希望を与え、また実際にその恩恵に浴する人たちも増加の一途をたどっている。日本では臓器を提供するドナーや移植手術が行なえる病院が少ないため、その数は限定されているが、米国や中国ではさかんに行なわれ、わざわざ国外に足を運んで、移植を受ける日本人も少なくない。そのような場合、手術や移動のために高額の経費がかかるため、患者救済のために募金活動が展開されることも珍しくなく、そのようなことが美談として新聞記事に載るようになった。 ◆島薗進, 20070920, 「先端科学技術による人間の手段化をとどめられるか?――ヒト胚利用の是非をめぐる生命倫理と宗教文化」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』新曜社:168-197. (pp172-173) では、日本の国民が人のいのちへの医療の介入について、もっぱら許容的かというとそうでもない。脳死・臓器移植問題については日本では世界のなかでも際だって力強く慎重論が主張され、結局、「脳死は人の死である」という、死の新たな法的定義は採用されなかった。医学が人の死を定める権威をもつということに対して、また脳死を人の死とすることの妥当性について多くの疑義が示され(森岡 二〇〇一、小松 一九九六)、長期にわたる論議の末に成立した「臓器の移植に関する法律」(一九九七年)においても、脳死を人の死とする死の定義は採用されていない。そしてその後も、日本では脳死による臓器移植が頻繁には行なわれていない。 脳死への懐疑論の根拠の一つは、権威主義的な医師による患者の身体への暴力的な介入への懸念である。世界で初めての心臓移植が伝えられたすぐ後の一九六八年、札幌医科大学の和田寿郎教授らは水泳中に溺水した二一歳の男性の心臓を、心臓弁膜症の治療を受けていた別の患者に移植したが、このレシピアント男性は移植後、八三日目に死亡した。ところが、その後、和田教授は二一歳のドナーの男性がまだ生存している間にその心臓を摘出して死に至らしめたのではないかと疑われた。証拠不十分のため不起訴処分とされたが、和田が潔白であるかどうか、国民の多くは疑いをもち続けた。 *作成:植村 要 UP:20080626 REV:20080727, 0818, 0907, 1019, 1123 ◇臓器移植 ◇生命倫理[学] |