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ニーズ




◆Sen

 「この問題は、固定化してしまった不平等や貧困を考える場合に、特に深刻なものとなる。すっかり困窮し切りつめた生活を強いられている人でも、そのように厳しい状態を受け入れてしまっている場合には、願望や成果の心理的尺度ではそれほどひどい生活を送っているようには見えないかもしれない。長年に亘って困窮した状態に置かれていると、その犠牲者はいつも嘆き続けることはしなくなり、小さな慈悲に大きな喜びを見出す努力をし、自分の願望を控えめな(現実的な)レベルにまで切り下げようとする。実際に、個人の力では変えることのできない逆境に置かれると、その犠牲者は、達成できないことを虚しく切望するよりは、達成可能な限られたものごとに願望を限定してしまうであろう。このように、たとえ十分に栄養が得られず、きちんとした服を着ることもできず、最小限の教育も受けられず、適度に雨風が防げる家にさえ住むことができないとしても、個人の困窮の度合いは個人の願望達成の尺度には現われないかもしれない。
 固定化してしまった困窮の問題は、不平等を伴う多くのケースで、特に深刻である。このことは特に階級や共同体、カースト、ジェンダーなどの差別の問題に当てはまる。このような困窮の性質は、(p.77)重要な潜在能力に関して社会的に生じた差異に注目することによって明らかにすることができるが、もし潜在能力アプローチを効用の尺度で評価してしまうと、それらの点は明らかにできないだろう。潜在能力アプローチを補完するものとして古い順応主義に舞戻ってしまうことは、慢性的に剥奪されている者が望むことすら許されていない潜在能力を過小評価することになり、新しいアプローチから得たものを(少なくとも部分的には)奪い去ってしまうことになるだろう。潜在能力の評価は、これらの潜在能力から得られる効用を単純に合計することによっては行なうことができない。根の深い慢性的な不平等を扱う場合、二つのアプローチから生ずる差は、極めて大きなものになる。」(Sen[1992=1999:77-78])

◆Ignatieff

 「わたしたちの社会には、きわめて長期間にわたってあまりにも乏しいものだけで生存を維持してこなければならなかったために、そのニーズが生命をようやく維持できる必要最低限度にまで萎縮してしまったような人びとがいる。かれらの期待水準を引き上げ、かれらがそれなしでやってきたものに目を向けさせることは間違っているだろうか。……かれらの生活水準を改善しようとするどんな政治も、おそらくかれらが自分ではっきりと表明しえないであろうニーズを代弁しなければならない。まさにこれこそが、なぜ政治はかくも危険な仕事(ビジネス)なのかという理由なのだ。変革に向けて多数を動員するためには、期待水準を引き上げ、今そこにある現実の限界を跳び越えるようなニーズを創りださなければならない。ニーズを創出することはすなわち不満を創出すること、さらには幻滅をよび寄せることにほかならない。それは人生と希望をもてあそぶことに等しい。このゲームにおける危険を避けるただひとつの防御手段は、納得ずくでの同意(インフォームド・コンセント)という民主的な要件である。およそ人は、自分が代表するその当人たちが自分自身のものとしてはっきりと承認できないようなニーズを代弁する権利など有してはいないのだ。
 以上が、わたしが手はじめに提起した第一の問いであった。すなわち、見知らぬ他人たちのニーズを代弁することが正当なのはどういう場合なのか、という問いである。政治とは、たんに見知らぬ他人たちのニーズを代表する技というにとどまらない。それは、見知らぬ他人たちがこれまで自分ではっきりと表明する機会をもたないできたようなニーズに代わって語るという剣呑な仕事でもあるのだ。」(Ignatieff[1984=1999:19])

◆Said

 「普遍性の意識とは、リスクを背負うことを意味する。わたしたちの文化的背景、わたしたちの用いる言語、わたしたちの国籍は、他者の現実から、わたしたちを保護してくれるだけにぬるま湯的な安心感にひららせてくれるのだが、そのようなぬるま湯から脱するるには普遍性に依拠するというリスクを背負わなければならない。いいかえるとそれは人間の行動を考える際、単一の基準となるものを模索し、それにあくまで固執するということである。……社会政策を考えるとき、これが、ゆるがせにできない問題となる。」(Said[1994=:9-10]、山森[:156-157]に引用)

◆効用

 「効用は、心理的側面についての概念だから、たとえば快活な貧農より、憂鬱な金持ちの方が、貧困だということになりかねない。」(山森[2000:151])

◆貨幣的ニーズ/非貨幣的ニーズ ?

 「社会福祉とそうでないものの境界が時にはっきりしないものに思われるのは、行為の内容について社会福祉が規定されるのか、行為あるいはそれに要する財の供給源から規定されるのかが曖昧にされることがあるからである。
 かつて政治領域においてなされる社会福祉と呼ばれるものは、経済的な困窮者を主要な対象とし(選別主義)、ここには他に援助する主体がないという現実、生存権といった基本的人権に照らしての要求、所得の再分配といった要因があった。それが今日、対象の経済的状態を問わないものとされるべきものとなってきた(普遍主義)とも言われる。しばしばこの移行が論じられる際に、「貨幣的ニーズ」から「非貨幣的ニーズ」への移行という言葉が用いられる(三浦[85]、等を参照)が、もちろんそれを字義通りにとって誤解すべきではない。必要な財・サービス自体はいずれの場合も商品として購入することが可能だからである。…」(立岩[1990])

■文献

Ignatieff, Michael 1984 The Needs of Strangers, Chatto and Windus=1999 添谷育志・金田耕一訳、『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』,風行社
Sen, Amartya 1992 Inequality Reexamined, Oxford Univ. Press=1999 池本幸生・野上裕・佐藤仁訳,『不平等の再検討――潜在能力と自由』,岩波書店
山森 亮 20000325 「貧困・社会政策・絶対性」
 川本隆史・高橋久一郎編[2000:140-162]*
 *川本 隆史・高橋 久一郎 編 20000325 『応用倫理学の転換――二正面作戦のためのガイドライン』 ナカニシヤ出版,274p. 2300 山森 亮 20000320 「福祉理論――アマルティア・センの必要概念を中心に」
 有賀・伊藤・松井編[2000:163-179]*
 有賀 誠・伊藤 恭彦・松井 暁 編 20000320
 『ポスト・リベラリズム――社会的規範理論への招待』
 ナカニシヤ出版,267p. 2000



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