HOME > 事項 > 水俣・水俣病 >

水俣・水俣病:関連新聞記事


last update:20140926

Tweet

■目次

◇20140930 「『のさり』と生きる:番外編 「弱さ」ってすごい 高橋源一郎さんインタビュー:毎日新聞
◇20140920 「『のさり』と生きる 水俣:第5回止 流れる時 寄り添う心」:毎日新聞
◇20140919 「『のさり』と生きる 水俣:第4回 役に立てるはず」:毎日新聞
◇20140918 「『のさり』と生きる 水俣:第3回 迫りくる病と加齢」:毎日新聞
◇20140917 「『のさり』と生きる 水俣:第2回 自転車から車椅子に」:毎日新聞
◇20140916 「『のさり』と生きる 水俣:第1回 『自由。ここが僕の家』」:毎日新聞


>TOP

◆20140916 「『のさり』と生きる 水俣:第1回 『自由。ここが僕の家』」:毎日新聞
 http://mainichi.jp/feature/news/20140912mog00m040021000c.html


 1962年9月15日、熊本県水俣市で、脳性小児まひと診断されていた女児が短い人生を終えた。小さななきがらを解剖した結果、母親の胎内で有機水銀の被害を受けたことによる水俣病であることが判明した。「胎盤は毒物を通さない」との当時の常識を覆す結果。前年に死亡した水俣病の女児の脳から高濃度の水銀が見つかった例も踏まえ、熊本県の水俣病審査会は62年11月、同様の症状を示していた16人の子どもたちを「胎児性水俣病患者」と認定した。

 あれから半世紀あまり。胎児性患者に加え、幼少期に汚染された魚介類を食べた「小児性患者」らは成長し、還暦にさしかかっている。病を抱えてこの世に生をうけた患者たちは今、水俣病すらも「のさり(方言で『天からの授かり物』)」と受け止め、受難の日々を生き抜いている。彼らを水俣に訪ねた。

 ◇小児性水俣病患者・渡辺栄一さん

 台風8号が九州に近づいていた今年7月8日、胎児性・小児性患者が入居するケアホーム「おるげ・のあ」(水俣市浜町)の落成式典が開かれた。全国各地から支援者や関係者ら計170人が詰めかけ、祝杯を上げた。

 「おるげ」は「私の家」という意味の方言。人間と動物が大洪水から生き延びる旧約聖書の物語「ノアの方舟(はこぶね)」から「ノア」をもらい、名前にした。

 水俣病患者らの通所作業施設「ほっとはうす」を運営する社会福祉法人が、総事業費約1億円で建設し、4月に開所した。事業費のうち約6000万円は、環境省と熊本県の補助金だ。木造一部2階建てで延べ床面積は約360平方メートル。1階には事務室と居室(約30平方メートル)が5部屋、バリアフリーのトイレと浴室。2階には、食堂を兼ねた共有スペースや家族用の和室を備えた。

 キッチン付きの五つの居室は廊下でつながりながら、プライバシーに配慮した別棟形式になっている。化学物質を抑えて木材をふんだんに使うなど、ぬくもりを感じられる設計だ。朝・夕の食事が付き、介護ヘルパーが常駐して、自立に近い暮らしを支える。

 「胎児性・小児性」と一言で言えないほど、病態は個人差が大きい。親やきょうだいも高齢化し、すでに鬼籍に入った人も少なくない。多くの患者にとって完全自立の生活は難しく、現在、入居している62?57歳の4人も「ここがついのすみ家」と口をそろえる。

 その一人、7歳で発病した小児性患者の渡辺栄一さん(62)を訪ねた。「渡辺」の表札がかかった引き戸を開けると、18畳ほどのスペースにベッド、テーブル、テレビ、趣味のキーボード、4人家族が使うような大型冷蔵庫が並んでいた。

 壁や冷蔵庫には写真がたくさん飾ってある。有名な写真家が映した父の写真、40年前の弟との写真。仲間と一緒に遊びに行った東京スカイツリーでのスナップ。

 「ビール、飲む?」

 栄一さんは冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、テーブルにグラスを二つ並べた。私たちは再会を祝して乾杯した。ゴクッと一口飲み干した栄一さんは「ああ、うまいなあ」と笑顔を浮かべた。

 私は2005年春から2年間、水俣に勤務した。彼をはじめ「ほっとはうす」のメンバーとは取材で何度も顔を合わせた。仕事中の失敗談、人間関係の愚痴などいろんな話を聞いた。一緒にお酒を酌み交わし、時にはカラオケで歌った。7年ぶりに会った栄一さんは、以前より冗舌で若返って見えた。

 栄一さん一家は、祖父母、父母、姉と弟の家族7人全員が水俣病患者だ。祖父の渡辺栄蔵さんは、水俣病の原因企業チッソを相手に裁判を起こした水俣病第1次訴訟の原告団団長を務めた。チッソの企業城下町で、チッソを訴えた29世帯の原告団は、激しい非難にさらされた。

 祖父母、父、そして姉が亡くなり、栄一さんと母、弟が残された。体力が衰えて台所に立てなくなった母に料理を教わりながら家事をこなしたが、その母も大腿(だいたい)骨にがんが見つかり、「子ども2人を残して私は死なれん。まだ生きんと」と、80歳を前に脚を切断する手術を決断した。しかし転移したがんが原因で、手術から3カ月後の2009年5月に亡くなった。弟の政秋さんも翌年、後を追うように逝き、栄一さんはとうとう独りになった。

 ◇小さな仏壇を買った

 栄一さんは現在、かろうじてつえを使って歩いている。この数年間で足腰の衰えが進み、立っていられる時間も短くなった。胎児の時、あるいは幼少期に有機水銀に侵された人の症状が、年をとってどのように変化するのかは、分かっていないことも多い。

 「おるげ・のあ」に入居した後、小さな仏壇を買った。市内の実家にあった父母の位牌(いはい)と亡き弟の写真を移し、菩提(ぼだい)寺に頼んで魂入れの儀式も済ませた。「ここが僕の家だから」。ここをついのすみ家と思い定め、生きていく決意の表れと感じた。

 「ここに入居して一番よかったのは、気をつかわんでよかけん。勝手に、自由でいい」と栄一さんは言う。ずっと1人暮らしをしてみたかったが、実際にアパートを借りて住むのは難しいと分かっていた。だからケアホームの建設計画が持ち上がった時から入居を決めていたという。

 今は体に無理のないよう、自分の生活リズムを守っている。ほっとはうすで週4日、午前10時から午後4時まで、新聞紙エコバッグ作りをする。仕事の後は、自分で考えた献立に従ってヘルパーさんが作ってくれた夕食を食べる。

 他の居室には、車椅子のまま入れる広さのシャワーブースがあるが、栄一さんはゆったり体を伸ばせる浴槽を置いた。入る時と上がった時にはスタッフに声をかける。入浴中に不測の事態が起きた時に備えてのことだ。「僕は、声をかけんでも大丈夫と思うんやけど」が本音だが、「やっぱり心配するけんね」と周りを気づかって行動する。

 風呂上がりには、大好きなドラマを見たり、タブレット端末でナツメロをダウンロードして聴くのも楽しみだ。この日は秋葉原で買ったキーボードで「北国の春」と「ふるさと」を弾いてくれた。やさしい音色が部屋いっぱいに広がった。

 2本目の缶ビールが残り少なくなったころ、栄一さんが、女性の写真を差し出した。気になる女性がいて、アプローチするけれどなかなかうまくいかないという。「みんなの中にいても、彼女がどこで何をしているのか、つい目で追ってしまうんよ」。「それって恋心というものに違いない」と私が返すと、「でしょ、でしょ。こんな気持ちは初めて。自分でもビックリしたあ」と言いながら、栄一さんは左胸に手をあて、心臓の鼓動を感じていた。=第2回「自転車から車椅子に」は17日掲載(この連載はデジタル報道センターの平野美紀が担当します)

 ◇水俣病

 チッソ水俣工場(熊本県水俣市)が不知火海に流した排水によってメチル水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた人に起きた中毒性の神経疾患。1956年4月下旬、歩行障害、言語障害、狂躁(きょうそう)状態を訴える姉妹が相次いでチッソ付属病院に入院した。「近所に同じような症状の子供がいる」と聞いた医師は計8人を入院させ、5月1日、水俣市保健所に「原因不明の中枢神経疾患が起きている」と報告した。これが公式確認日とされた。実際には、その数年前から被害が出ていたことが分かっている。

 ◇のさり

 2008年に69歳で亡くなった水俣病患者の語り部、杉本栄子さんが、よく口にした方言。「天からの授かり物」といった意味で、大漁を喜ぶ時「きょうはのさったねえ」などと使う。水俣病を理由に差別された杉本さんは、父親から「水俣病も『のさり』だと思え」と諭され、耐え抜くすべを身につけた。杉本さんは生前、「ほっとはうす」や「おるげ・のあ」を運営する社会福祉法人「さかえの杜」の理事長として、多くの胎児性・小児性患者に「のさり」の精神を語りかけた。


>TOP

◆20140917 「『のさり』と生きる 水俣:第2回 自転車から車椅子に」:毎日新聞
 http://mainichi.jp/feature/news/20140912mog00m040030000c.html


 「公害の原点」とも呼ばれる水俣病。化学製品製造会社「チッソ」水俣工場(熊本県水俣市)が不知火海に流した排水中のメチル水銀が環境を汚染し、湾で取れた魚を食べた住民が神経を侵された。被害は、母親の胎内にいた赤ちゃんにも及んだ。「胎児性水俣病」の患者たちだ。

 1962年に、胎児性患者の存在が明らかになった。しかし、胎児性患者が何人いるのかは正確には分かっていない。そもそも行政は、胎児性患者と大人の患者を区分けして発表していないのだ。

 熊本大大学院生時代に胎児性患者の存在を突き止め、半世紀にわたって胎児性患者を多く診察した原田正純医師(2012年死去)は生前、死者を含め68人の胎児性患者を確認していた。原田さんが把握していない死産やごく初期の死亡を含めると、母胎内での被害者はさらに増えるだろう。

 水俣病を背負って生まれてきた彼らは、水俣病を「のさり(方言で天からの授かり物=運命)」として受け入れ、生きてこざるを得なかったといえる。【平野美紀/デジタル報道センター】

 ◇胎児性水俣病患者・松永幸一郎さん

 白いベストにパンツ、サングラスにグローブ。さっそうとマウンテンバイクを走らせる姿がトレードマークだった胎児性水俣病患者の松永幸一郎さん(51)は、車椅子の生活になっていた。7年ぶりに再会した胎児性・小児性患者の中でも変わりようが最も大きく、私は一瞬目を疑った。

 私が水俣に住んでいた2007年までは、市の中心部にある水俣病患者の通所作業施設「ほっとはうす」へ、松永さんは隣町の自宅から5キロほどの道をマウンテンバイクで通っていた。しかし40代半ばに近づいた頃から右足が思うように動かなくなり、4年前、とうとう車椅子生活に切り替えた。移動の便を考えて住まいも水俣市内に移し、1人暮らしをしている。

 「股関節が痛いけんが(痛いので)、自転車には乗れんくなった。今はこれが愛車」。いたずらっ子のように笑いながら、松永さんは愛用の車椅子を器用に操ってみせた。実は熊本県内の養護学校で生活していた子ども時代、車椅子はおもちゃ代わりだったのだ。

 衰えを最初に感じたのは足の脱力感だったという。「歩いとったら、急にカクンと右膝の力が抜けてこけた。それから半年は1本づえで歩けよったし、調子の良いときはつえなしでも歩けた」。だが、次第に足の痛みが強くなり、つえも2本必要になった。夜中にトイレに行こうとして転び、テーブルで頭を打った。大事には至らなかったが、「打ちどころが悪かったらと、とぞっとした」。やがて車椅子が手放せなくなった。

 週5日、ほっとはうすに出勤し、仲間と一緒に押し花名刺や新聞紙エコバッグを作る。月収は給料、チッソからの補償金、障害年金などを合わせ約20万円。そこからアパートの家賃や食費、雨の日の移動用のタクシー代をまかなう。「生活はできるけどね、障害が重くなった時のことば考えれば……」と不安がよぎる。天気のいい休日の午前中は、鉄道に乗って隣町まで買い物に出かける。かつてマウンテンバイクで走っていた道を、今は鉄道と電動車椅子が頼りだ。午後は自宅アパートを開放し、70?30代の将棋仲間と腕を磨いている。

 松永さんが将棋に興味を持ったのは高校1年の時。自宅で父と近所のおじさんが指しているのが面白そうで、高校の先輩に教わった。対局のたびに力が付いていくのがうれしく、今ではアマチュア3段の腕前だ。「最近つくづく、将棋を覚えていてよかったと思う。障害のあるなしは関係なかもん」。将棋の時だけは、水俣病を忘れて真剣になれる。

 ◇あの段階で排水が止まっとったら

 松永さんは20歳の時に胎児性患者と認定された。生まれたのは1963年。59年、熊本大研究班が「(水俣病の)主因はある種の有機水銀化合物」と指摘し、チッソ付属病院の細川一院長も、工場廃水を摂取した猫が水俣病を発症することを確かめていた。しかし、チッソや国は他の原因仮説を持ち出すなどして認めようとせず、排水が完全に止まったのは、水俣病が公害に認定された1968年のことだ。「チッソがあの段階で排水を止めとったら、自分は水俣病にはならんやったんやないか」。松永さんはやりきれない。

 将来への不安は、年々増している。脊髄近くで飛び出した骨が神経を圧迫し、体にしびれを感じるようになった。「足の長さも2?3センチ短くなった。足首が上に曲がらず、つま先立ちで歩きよる。筋肉も落ちてきた」。痛みを薬で抑えながら、週1回のリハビリに通う。「今は右足をかばってなんとか歩きよるけど、左足も悪くなれば一人では生活できんくなるかもしれん。介護が必要になれば他の仲間と同様に、ケアホームに入居せなかなあ」

 車椅子の生活になって気づいたこともある。買い物に出ても、手動のドアは自分で開けられないし、上の棚の商品には手が届かない。売り場の通路が狭く、移動もままならない。これまで長い間、車椅子の仲間と過ごしながら、自分がその立場になって初めて不便さに気付いたという。だからこそ「ドアを開けてくれる人、棚の商品をとってくれる人のありがたさが分かった。歩けんくなったのは悔しいけど、感謝の本当の意味が分かった」

=第3回「迫りくる病と加齢」は18日掲載

 ◇チッソ

 創業者の野口遵が1906(明治39)年、鹿児島県大口村に設立した「曽木電気株式会社」が前身。08年、日本窒素肥料株式会社(日窒、現在のチッソ)に改称し、32年には水俣工場でアセトアルデヒド製造を始めた。53年ごろ、不知火海の住民に原因不明の中毒症状が多発し、56年に「水俣病」が公式確認された。59年には熊本大の研究班が病因を有機水銀と指摘したが、チッソ側は反論した。しかしチッソ付属病院長が工場廃水をネコに投与して、水俣病の発症を確認。政府が水俣病を公害と認定した68年、アセトアルデヒド製造設備の運転を停止した。未認定患者を救済する「水俣病被害者救済特別措置法」の成立(2009年)を受け11年、患者への補償に専念する「チッソ」と、事業子会社の「JNC株式会社」に分社した。JNCの主力は液晶生産。


>TOP

◆20140918 「『のさり』と生きる 水俣:第3回 迫りくる病と加齢」:毎日新聞
 http://mainichi.jp/feature/news/20140917mog00m040014000c.html


 胎児性・小児性水俣病患者が暮らすケアホーム「おるげ・のあ(おるげは方言で「私の家」)」は2014年春、熊本県水俣市に完成した。病院通いにも買い物にも便利な中心部にある。五つの居室は廊下でつながっているが、外観は小さな家が5軒並んでいるように見える。

 水俣病公式確認50年を機に発足した環境相の私的懇談会は「国は、被害者が高齢化しても安心して暮らすことのできる対策を積極的に推進すること。胎児性患者には格別の配慮が必要」と提言した。「おるげ・のあ」はその唯一の「成果」ともいえる。7月の落成式典で、施設長の加藤タケ子さん(63)は、「出来上がったのは部屋ではありません。家が5棟です」と説明した。

 化学物質を可能な限り排除して、日本古来の「木と紙の家」を目指した。杉の香りが心地よい。内装は入居者とも親しい建具職人、緒方正実さん(56)が腕を振るった。緒方さん自身、水俣病患者だ。4度も申請を棄却され、11年間の粘り強い訴えの末、2007年に認定を得た。市立水俣病資料館の「語り部の会」会長も務める。「自分より苦しんだ人たちに、自分はどう向き合えるのか」という思いで「おるげ・のあ」建設にかかわったという。【平野美紀/デジタル報道センター】

 ◇とうとう「世帯主」になった

 胎児性患者の長井勇さん(57)は今春、「おるげ・のあ」に入居した後、住民票を実家のある鹿児島県出水市から水俣市に移した。3人兄弟の2番目。兄と弟が学校を卒業して実家から出て行く時、住民票を新天地に移したのを見て「大人になるちいうんは(というのは)家から出ることち思った。兄弟がうらやましかった」という。住民票を実家から移すことが、長井さんにとっての「自立」の証しだった。

 「おるげ・のあ」が、その願いをかなえてくれた。加藤さんに付き添われて出水市役所に転出届を出し、その足で水俣市役所に転入届を出した。住民票の世帯主欄には「長井勇」の名前。「その場に立ち会い、非常に感激した」と加藤さん。入居者は家賃3万5000円のうち2万5000円を負担し、光熱費や食費は使用分を支払う。

 長井さんは生まれつき歩くことができない。その代わり車椅子でどこへでも1人で出かけ、周囲から「車椅子暴走族」とからかわれるほどだった。しかし、2010年ごろから身体機能が急激に衰えた。糖尿病も患い、食事前にはインスリン注射が欠かせない。ここへ入居した後も、体調を崩して入院したり実家に一時帰省したりする生活だ。

 加賀田清子さん(59)も胎児性患者。両親が亡くなった後、姉家族と暮らしていたが、入居を決心した。「若い時から1人暮らししたかったので、うれしい。完成が待ち遠しかったんよ」と満足そうだ。「それぞれの部屋が離れて建ってて自分の家みたい」と言う。

 夕食は2階の共有スペースで食べる。2時間ほどテレビを見ながらのんびり過ごす。居室に戻れば五木ひろしの演歌などを聞いて独りの時間を満喫しているという。
 独りで気ままに、というごく当たり前のことが、清子さんには長い間の夢だったのだ。7歳から25歳ごろまでは、病院と水俣病患者の施設「明水園」で暮らした。誰かの世話になることが多い水俣病患者にとって、自分で自分の行動を決められる生活はかけがえのないことなのだ。

 清子さんは今も時折、胎児性患者の仲間が生活する明水園を訪れる。仲間の多くは上手に発音できない「構音障害」があり、慣れない人には「アー」とか「ウー」としか聞こえない。長年、生活を共にした清子さんには、彼らの言葉や心情がよく分かり、通訳してくれる。私も、よく「通訳」してもらった。

 7年前まで水俣で勤務していた私は、清子さんと一緒に居酒屋でビールを飲み、ニュースや芸能界の話題、おいしい店の情報など、たわいもない話をした。夏にはビアガーデンにも行った。

 当時、すでに車椅子を使っていた清子さんから「体がこうやなかったら本当は看護婦さんになりたかったんやけど……」と聞いたことがある。自分より重症の仲間を手助けしたいという思いと、夢は重なっていた。

 ◇「認定・未認定」超え支え合う

 「おるげ・のあ」から徒歩3分ほどの「ほっとはうす」を訪ねた。同じ社会福祉法人が運営する、水俣病患者のための通所作業施設。自分の健康状態に合わせてここで軽作業をし、給料を生活費に充てる。

 ここで働く山添友枝さん(62)は小児性患者。未認定のため「おるげ・のあ」には入居できない。私の顔を見るなり「なんけ、元気にしとったね?」と声をかけてきた。まるで実家に帰省した時に声をかけてくる近所のおばさんみたいで、人なつこさがうれしい。7年前には、ほっとはうすの喫茶コーナーで働いていた。今は長時間立っていられなくなり、2階での軽作業に切り替えたという。

 別の人と話す横から「これ、食べんね」と差し入れしてくれた。エコバッグの中には、ほっとはうすで売っている手作りのクリームパンとあんパン。生活費が潤沢とはいえないはずなのに、私のために用意した、彼女なりの「おもてなし」だった。昼食を食べそびれていた私は、ありがたくほおばった。気遣いがうれしく、涙があふれた。

 永本賢二さん(55)は認定患者だが、山添さん同様、自宅から送迎バスで通ってくる。他の仲間より体が動く分、頼りにされている。

 ユーモアセンスがあり、常に周囲に気を配るムードメーカー。市立水俣病資料館や学校を訪ねて体験を語る「語り部」活動では、つらい経験も笑いを交えてありのままに伝えてきた。幼いころ、ぎこちない歩き方で同級生からいじめられ、姉におぶわれて帰ったこと。いじめられたつらさを誰にも話せず、港にある大型クレーンに話しかけていたこと――。

 そんな永本さんも、最近は手の小指のしびれがひどくなるなど、健康に自信が持てなくなってきた。「元気に歩けていた仲間も車椅子生活になった。俺にもその日がくるかもしれんばってんが、少しでも遅らせられるよう、自分で気を付けないかん」

 ◇二重三重の被害が起きている

 「おるげ・のあ」「ほっとはうす」の両方で施設を束ねる加藤タケ子さんは、複雑な胸の内を語ってくれた。「同じ職場(ほっとはうす)でも、あの人はこのサービスが使えるけどあなたは使えないのよ、と言わざるを得ない。心苦しい」。たとえば「おるげ・のあ」は胎児性・小児性患者のためのケアホームだが、認定患者しか入居できない。「水俣病対策は、本来ならば不知火海全域で苦しんでいる被害者たちを安堵(あんど)させる施策につながっていかなくてはならないのだけれど」

 今年7月、水俣病患者支援者が半年おきに東京で開いている報告会に、加藤さんの姿があった。首都圏から集まった70人に、加藤さんは「おるげ・のあ」の完成を笑顔で報告した後、こう続けた。

 「胎児性・小児性患者の皆さんは、30代後半から脚を中心に機能低下が非常に目立ちます。ケアホームは実現しましたが、彼らにとっては水俣病を引き受けて生きること自体が大変大きな困難。それに加えて、年を重ねるにつれて自分の身体機能が落ち、『いつか歩けなくなるかもしれない』という不安も抱えるようになる。水俣病の、二重三重の被害が起きています」=第4回「役に立てるはず」は19日掲載

 ※「のさり」は水俣の方言で「天からの授かりもの=運命」という意味

 ◇水俣市立明水園

 水俣病認定患者の療養施設。不知火海を見下ろす高台に1972年に開設された。定員65人。2014年3月現在の入所者の年齢は54?102歳で、40年近く暮らす胎児性患者がいる一方、肉親との離別などで入所を待つ患者もいる。4人部屋が基本だったが、プライバシーを確保するため、個室6室を今年3月に整備した。見舞いの家族と患者が一緒に過ごせる家族棟もある。


>TOP

◆20140919 「『のさり』と生きる 水俣:第4回 役に立てるはず」:毎日新聞
 http://mainichi.jp/feature/news/20140918mog00m040001000c.html


 胎児性水俣病は、1962年に正式認定されるまでは「隠れた」存在だった。生涯を水俣病患者支援にささげた原田正純医師(2012年死去)が、その「発見」にまつわる経緯を著書「水俣病」(岩波新書)につづっている。

 61年8月。原田さんは往診に訪れたある集落で、隣の家で遊んでいる「一目で異常と分かる」男児2人と出会う。6歳の弟は首が据わっておらず、「この種の障害の子どもに特徴的にみられるように、体をくねくね動かして足を投げ出して、ただはにかんだような笑顔を見せるだけであった」

 やがて帰ってきた母親に聞くと、「兄は水俣病だが、弟は脳性小児まひ。だって(水銀に汚染された)魚を食べていないから」と説明し、似たような子どもがあの集落にもこの集落にもいる、と話したという。

 これを手がかりに、原田さんや先輩医師たちは、母親の胎盤を通して胎児が水俣病になる胎児性水俣病の存在を初めて明らかにした。この時の「はにかんだような笑顔」の男の子が、水俣市のケアホーム「おるげ・のあ」にいる金子雄二さん(59)だ。【平野美紀/デジタル報道センター】

 ◇胎児性患者 金子雄二さん

 久しぶりに見る「はにかんだ笑顔」は健在だった。鼻筋の通ったイケメン。昔は自分の足で歩けたが、38歳ごろには車椅子に頼るようになった。今は、生活のほとんどに介助が必要で、言語(構音)障害も重い。だが、絞り出すように発する一言一言が的を射ていて、もっともっと言いたいことがあるに違いない、と私は彼の言葉に聴き入ってしまう。

 金子さんは父親を知らない。彼が生まれる3カ月前に、劇症型水俣病で亡くなったのだ。水俣病公式確認前の54年に発病した時、熊本大病院は「小脳失調症」と診断していた。金子さんは3兄弟の末っ子だが、すぐ上の兄は生後29日で亡くなった。原田医師は「胎児性だろう」と話していた。きらきらと光る不知火海を望む小さな集落で、一家5人全員が水俣病に侵された。

 今年7月上旬、まだ真新しい「おるげ・のあ」に金子さんを訪ねた。「金子さん、7年分老けた感じがしないですよ」と声をかけると、「自分では年をとったと思う。白髪が増えた。体も痛い」と返ってきた。体調が良いのだろう、言葉がいつもより聞き取りやすい。

 金子さんは、「おるげ・のあ」の完成が待ち遠しかった。開所初日に入居したほどだ。理由を聞くと「……お、かあ、さんが(大変だから)」と言う。体調の衰えが目立つ母スミ子さん(83)を思いやってのことだった。話をしている間、金子さんは硬直した手でふた付きのコップを持ち、ストローで中身を口に運んでいる。傍らの瓶を見たら、吟醸酒だった。その日は2杯目。すかさず仲間が「毎日飲みよるもんね」とはやす。

 夕食後は、2階の共有スペースでしばらく過ごす。自室で友人に電話するのが日課だ。どうやら「彼女」らしい。イケメンの金子さんの笑顔が、はにかみから「にやにや」に変わった。

 「おるげ・のあ」に暮らす胎児性・小児性水俣病の患者たちは、金子さん同様、還暦世代にさしかかっている。親の世代は80歳超。昔は頻繁に集まって子どもの将来を語り合ってきたが、今は年に数回しか集まれなくなった。数人は鬼籍に入った。

 ◇水俣病との出会いが進路決める

 金子さんと出会い、進路を決めた大学生がいる。東京都台東区に住む立正大4年の西井伽耶(かや)さん(22)だ。

 水俣病との出会いは高校2年の冬。学習旅行で、長崎と水俣を訪れた。事前学習として、原爆や公害に関する授業を科目横断的に多く受けた。水俣病の悲劇を告発した石牟礼道子の「苦海浄土」も読んだ。実際に長崎を訪れた時にはあまり驚かなかったが、水俣は違った。

 市立水俣病資料館近くのホールで、金子さんたち胎児性患者から直接、話を聞いた。その存在は事前に学んでいたし、映像を通して金子さんの事も知っていたが、生で聞く経験談は想像を超えていた。

 生まれながらに水俣病を患ったこと。一家の大黒柱を失い、貧しい子ども時代を送ったこと。働きたくても水俣病のために仕事がなく、パチプロのような生活を送ったこと。同じ運命を共有する仲間たちと一緒に、通所作業所「ほっとはうす」を作ったこと??。喉の奥から絞り出すような金子さんの話は「一言一言が重かった。もし、自分が金子さんたちの立場だったら、とても耐えられないと思った」。

 話が終わり、資料館見学が予定されていた。西井さんは金子さんに駆け寄り「お父さんが生きていたら、一緒に何をしたかったですか?」と聞いた。一呼吸置いて返ってきた答えは「一緒にチッソと闘いたかった」だったという。「頭をガツンとやられました」。ただただ涙があふれ、号泣した。

 見学時間の大半を割いて金子さんを質問攻めにした。東京に戻った後も水俣での体験が頭から離れなかった。金子さんらと手紙をやり取りした。「公害のことは学校で習うけれど、人ごとで終わらせてはいけない」と、福祉の道に進むことを決めた。

 大学では社会福祉学部を選んだ。毎年1、2回のペースで水俣へ通っている。旅費は自腹。滞在中は毎日、患者の通所作業施設「ほっとはうす」に通い、金子さんらと話をした。「友達に会いたくなって、会いに行っている感じ」と、気負いはない。「知りたい」「会いたい」という思いに突き動かされている。今年8月には1週間滞在し、患者にインタビューした。胎児性患者たちがどんな人生を生きてきたかや、今後の課題などを卒論にまとめるつもりだ。

 公式確認から58年。同世代の若者にとって、水俣病は遠い過去の話だ。同級生に話をしても「聞いたことはあるがよく知らない」という声が圧倒的だという。「私自身も、学習旅行で胎児性患者に出会うまで同じだった。でも、出会ってしまったから……」

 西井さんは今、別の「大学」にも通っている。NPO法人「水俣フォーラム」(東京都)が、立教大池袋キャンパスを主会場に開講する「水俣病大学」だ。

 「水俣病を学ぶ人を導く人」を養成する計30回の専門講座で、水俣病という複雑な事象を、事件史▽医学▽化学▽経済▽裁判▽報道▽文学??などの視点から各分野の専門家に学ぶ。西井さんはアルバイトを二つ掛け持ちしながら、昼は大学、この水俣病大学へも週3日通う。「歴史的背景を学んでおかないと、患者さんと話をしても理解できない。もっともっと知識を詰め込まないと」と感じている。

 大学の実習で昨年、埼玉県所沢市の知的障害者施設へ1カ月間通った。利用者の家族から就職などの相談を受け、一緒に考えて的確なアドバイスをする社会福祉士の仕事に興味を覚えた。

 迷った揚げ句、この施設への就職を決めた。経験を積み、実力を蓄えてから水俣へ行っても遅くはないと思ったからだ。来春、卒業したら社会福祉士を目指し、成年後見人を務められる司法書士の資格もとりたいという。「人と深く関わりたい。私にも役に立つことがあるはず」。西井さんは話してくれた。

 水俣病を「のさり(方言で天からの授かりもの=運命)」と思い定め、懸命に生きる胎児性患者たち。西井さんにとっては、その出会いこそが「のさり」だった。南九州の小さな街で生まれた思いは、遠く離れた東京で新しい芽を出そうとしている。=第5回「流れる時 寄り添う心」は20日掲載

 ◇水俣病を伝える

 通所作業施設「ほっとはうす」では、「伝えるプログラム」と題して、胎児性・小児性患者自らが、水俣病の歴史やいじめられた体験を語る授業を実施。熊本県内の小中学校をはじめ、全国の高校、大学や市民グループからの依頼に応じて各地へ出向いている。市立水俣病資料館でも1994年10月から、水俣病の苦しみに負けずたくましく生きることの尊さを感じ、水俣病に対する認識を深めてもらおうと、患者たちの体験を聴講できる「語り部制度」を始めた。現在、13人の語り部がいる。民間団体では「水俣フォーラム」が96年に東京で開いた展示会「水俣・東京展」を皮切りに、これまでに全国23会場で「水俣展」を開催。パネルや写真など300点以上を展示し、関連書籍の販売、水俣物産展、毛髪水銀調査などもうけられる。これまでに約13万人以上が足を運んだ。今年は11月22?30日に岐阜市の岐阜市民会館で「水俣・岐阜展」が開かれる予定だ。


>TOP

◆20140920 「『のさり』と生きる 水俣:第5回止 流れる時 寄り添う心」:毎日新聞
 http://mainichi.jp/feature/news/20140920mog00m040003000c.html


 今年7月、東京都内で開かれた水俣病支援の報告会で私は一人の研究者に会った。和光大などで環境社会学(水俣論)を教える丹波博紀さん(35)だ。会場で売られていた本をぱらぱらとめくっていたら、「これ、僕が関わったものなんです」と声をかけてくれた。本は水俣病の「不知火海総合学術調査団」に参加した和光大名誉教授、最首悟さん(78)の著作。丹波さんは最首さんを「師匠」と仰ぎ、この本では、最首さんが1990年代に記した水俣関連の文章を集める過程で関わった。最終回は、水俣病を当事者の「外側」から見つめる人々の物語である。【平野美紀/デジタル報道センター】 

 丹波さんが、親子ほども年の離れた最首さんと出会ったのは、大学受験に失敗し、浪人していた19歳の冬だった。予備校の講師から「いい論文を書きたければ、いい先生に教わることが大切」と、別の予備校で小論文を指導していた最首さんを紹介された。紹介といっても「会いたければ行っておいで」というだけだったが、丹波さんは言われるままに最首さんを訪ね、最首さんも熱意に応えた。最首さんは、当時を「もうあまり覚えてないなあ。なんだかウマがあったんだよなあ」と温和な口調で振り返る。

 研究をなりわいとする2人だが、その関係は同じ学問分野や学会での師弟関係とは異なる。初めは小論文を通して、そしてやがて「水俣を受け継ぐ」活動を通しての絆になっていった。

 ◇集めた証言類を次世代に

 最首さんは福島県に生まれ、千葉県で育った。幼いころぜんそくを患い、同級生より数年遅れで東京大理科1類に入学した。エンジニアを目指して工学部を志す同級生が多い中、最首さんは「『象牙の塔』の片すみで生きたい」と理学部動物学科を選び、大学院ではウナギの研究に明け暮れた。

 博士課程に在籍していた1967年、駒場にある教養学部の助手に採用が決まり、中退して職に就いた。その駒場では学生運動が盛り上がっており、最首さんは学生と教員の中間の立場で関わった。やがて最首研は闘争の拠点となる。居ついた人の中には70年に発足し現在も活動を続ける「東京・水俣病を告発する会」のメンバーもいた。

 転機は76年12月。水俣病の悲劇を告発した「苦海浄土」の作者、石牟礼道子さんが自分に会いたがっていると人づてに聞き、「ミーハーな気持ちもあって」出かけて行くと、発足したばかりの「不知火海総合学術調査団」のメンバーがいた。

 調査団は、そうそうたる顔ぶれだった。歴史学者の色川大吉さん、社会学者の鶴見和子さん、水俣病のドキュメンタリー映画を数多く撮った映画監督の土本典昭さん……。「調査するなら生物学の研究者も必要」と、最首さんに白羽の矢が立ったのだ。最初は気乗りしなかったが、「水俣病の公式確認から20年たった今だからこそ見えてくるものがある」と説得され、77年から参加した。

 第1次調査で最首さんは、芦北町女島の漁師から水揚げの状況や日記を提供してもらい、聞き取り調査も踏まえて漁の盛衰と高度成長、水俣病の発生との関係をまとめた。

 第2次調査では団長を務めた。助成金を出してくれた財団への報告は済ませたものの、正式な報告書は、実は完成していない。

 調査を終えた後、「(調査した)現実が重すぎて論文にまとめられない」と調査書類を最首さんに預けたまま亡くなったメンバーもいる。「今となっては、論文をまとめるのは無理だろうなあ」と最首さん。次世代に引き継ぐ潮時と考え始めている。
 ◇エネルギーをもらえる

 丹波さんは、最首さんを囲む月1回の勉強会を通して水俣病の支援者らとの付き合いはあったが、水俣を訪れたことはなかった。水俣病の悲劇を基に石牟礼さんが書き下ろした能「不知火」の現地公演が決まり、「力仕事を引き受けてくれる若手」として最首さんに連れられて現地を訪ねた。2004年8月のことだ。

 「汗だくになって、仲間と公演を支えた体験に充実感を覚えた。場所、出演者、観客の周りにうごめいていたエネルギーに圧倒されました」。以来、水俣にはまった。

 年に2回は水俣へ行く。親しくなった支援者家族の家に泊めてもらって作業を手伝ったり、その家の同世代の友人と語り明かしたりして過ごす。研究者として、患者からの聞き取り調査も進めている。

 今年9月には、現地の若い世代が町おこしのために始めた「じゃなかしゃばまつり」を手伝った。じゃなかしゃばとは、「……ではない(別の)社会」を意味する水俣弁。「心を裸にして、互いの違いを認め合う社会にしたい」との願いを込めたネーミングだ。丹波さんも、露店に客を呼び込む手伝いをしたり、スタンプラリーに参加したりして盛り上げた。

 東京都渋谷区にある丹波さんの自宅には、師匠の最首さんが歩いて集めた資料が大切に保管されている。漁民たちの漁獲記録や収益計算書、証言記録など、財産の一部を引き継いだのだ。「快く話を聞かせてくれた漁師の親族の思いに報いたい」という。

 丹波さんがなぜ、水俣に関わっているのか聞いてみた。師匠の影響ももちろんあるだろう。丹波さんはしばらく考えて言った。「水俣へ通う理由がまだ分からないから、じゃないかなあ。理由なんてないのかもしれない。確かに言えることは、エネルギーをもらえるということ」

 ◇まだ知らない世界がある

 私が水俣と関わるようになったのは記者としてだった。会社から水俣への転勤を命じられ、正直戸惑った。水俣病を取材したい記者は他にもいた。

 約1カ月後、最低限の知識を詰め込み、赴任した。満開の桜が迎えてくれた。水俣川の土手には「MINAMATA」の文字が花で書かれていた。私はここで何ができるのか。引っ越しから2日後だったと思う。患者が集まる通所作業施設「ほっとはうす」にあいさつに行った。初めて会う胎児性・小児性患者は、これまで出会った障害者と変わらず、気負っていた私はほっとした。今回取材させてもらった胎児性・小児性水俣病患者は、それ以来の縁だ。

 彼らは、家の外でもつながりを持とうと積極的に「表」へ出ている人たちで、だから私も取材できるが、ほぼ寝たきりで外界との接触が物理的に不可能だったり、家に引きこもりがちな患者は少なくない。

 ある胎児性患者の家を訪ねた時のことだ。その患者は私を見て急に不機嫌になった。知らない人に自分の姿を見せたくないようだった。以来、自宅訪問は遠慮し、両親が何かの集まりに出席するタイミングを見計らって話を聞くようにした。

 患者とその家族が抱える怒り、喜び、嘆き、悲しみを、わずか2年間だが、そばで見聞きした。その間も、その後も、水俣に触れるたびに「自分は支援者か、否か」を自問自答してきた。

 水俣には、患者を支援しよう、あるいは自分の理想を追求しようと全国各地から移住してくる人が数多くいる。そのまま住み着き、子や孫をもうけた人もいれば、水俣を去った人もいる。丹波さんや最首さんのように、遠く離れた東京などに住みながら、水俣に関わり続ける人たちもいる。自分の人生の選択肢を変えてまで支援に取り組む人たちと出会うたびに「私はそこまでできない」と、後ろめたさを感じていたのかもしれない。記者として、状況を客観的に理解し、共感はするが、自らがその活動の渦にのみこまれてしまえば「記者」ではなくなる。そんな自制心もあった。

 とはいえ、離れてからも水俣とは細くつながってきた。転勤先で水俣関連の講演会などがあれば顔を出すし、休みを利用して現地に遊びにも行った。そして今回、改めて水俣を訪ね、過去の資料を読み込んだり、知らない参考文献に出くわして「まだまだ知らないことのほうが多い」と感じる。

 最首さんは、水俣と関わる理由を「なんでかなあ。自分の知らない世界があって、興味をひかれるからかなあ」と語る。学者として40年近く関わってもそうなのだ。水俣に関わり続ける人たちは皆、同じ言葉を口にするだろう。

 私は、国が水俣病を「公害病」と認めた1968年、四大工業地帯と呼ばれた北九州市で生まれた。家のすぐ近くには洞海湾があり、建ち並ぶ工場からの排水で、水面はてらてらと虹色に光っていた。そこでとった魚を食べることはなかったが、家の目の前が鮮魚店で、子どもの頃から毎日のように魚を食べていた。

 歴史に「たら、れば」はない。しかし、もし私が不知火海沿岸に生まれていたら、胎児性患者だったかもしれない、そういう思いが私を水俣病に向かわせるのかもしれない。

 人ごとではなく、自分の身に置き換えて思いを巡らす。それが寄り添うことであり、水俣を語り継ぐことにつながると思っている。=おわり

※「のさり」とは、水俣の方言で「天からの授かりもの(運命)」という意味。

◇不知火海総合学術調査団

 水俣病の被害実態を学術面から調査するため、専門家が1976年に結成した。その前年、熊本県議が水俣病患者の認定申請を「ニセ患者が申請している」と発言、抗議した患者ら4人が逮捕される「ニセ患者事件」が起き、水俣病患者への反感や無理解が広がりつつあった。石牟礼さんや、胎児性水俣病患者の存在を証明した原田正純医師らが、こうした状況を打開しようと調査団結成を呼びかけた。第1次調査は、不知火海沿岸の患者多発集落などを対象に、差別の実態なども踏まえて社会学、政治学などの観点から論文をまとめ、「水俣の啓示 不知火海総合調査報告」(筑摩書房、83年)として出版された。第2次調査は81年から実施された。


>TOP

◆20140930 「『のさり』と生きる:番外編 「弱さ」ってすごい 高橋源一郎さんインタビュー:毎日新聞
 http://mainichi.jp/feature/news/20140930mog00m040014000c.html


 弱い者や声の届きにくい者が虐げられる、という日本の生きづらさを克服するには、いったいどうすればいいのか。水俣や福島では、いまだにその構図が色濃く残っている。胎児性・小児性水俣病患者の今の生活ぶりを伝えた企画「『のさり』と生きる 水俣」を9月16〜20日に5回連載で掲載したが、今回はその番外編として、「弱さの研究」を通して弱者に目を向け続ける作家の高橋源一郎さん(63)に話を聞いた。【平野美紀/デジタル報道センター】=文中敬称略

 ◇次男の大病で気づいた「弱さ」

 −−「石牟礼道子全集」(藤原書店、全17巻・別巻1)の完成を記念したシンポジウム(今年7月)で高橋さんは、初めて「苦海浄土」を読んだ後、数年前まで、「通り過ぎていた」とおっしゃっていました。

 高橋 1970年代に入った頃、知人が「いいわよ」とすすめるので、読んでみました。確かに傑作だと思いましたが、どこか、心の奥底から自分を揺り動かしてくれるものではありませんでした。仲良くしている詩人の伊藤比呂美さんも「道子さん、いいわよ」と言っていたのですが、自分にとって「出会い」というほどの意味はなかったと思います。僕とは関係ないのかなあ、と。

 80年代、90年代にも石牟礼さんの代表作は読んでいましたが、その時も通り過ぎていたように思います。「弱さ」について考えるようになったのは、(「弱さ」を主題にした初のルポルタージュ)「101年目の孤独」(岩波書店)に書いているように、次男が病気になってからです。今から考えると、どれも初めて考えたことではなかったような気がするんですが、「弱さ」という言葉で、まとまりがつくようになったのは、この5、6年ですね。

<<「苦海浄土」は、石牟礼さんを思わせる「私」の視点で、企業城下町・水俣で耐えるしかない水俣病患者と家族の苦しみを、方言を多用し描き出した。1969年に第1部が刊行され、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたものの、石牟礼さんは受賞を辞退。後に第3部まで書き上げられた。今年9月には、男の視点で書かれた第1部の未発表“新章”の原稿が見つかったことが分かっている。九州の片田舎で「奇病」と呼ばれた水俣病が、広く全国に知られるきっかけとなったのは、この「苦海浄土」によるところが大きい>>

 −−講演で「うめいているだけの次男を見て、強い喜びを感じるようになった」ともおっしゃっていました。それは、「助けられるのは自分しかいない」という意味ですか?

 高橋 そうですね。「あなたの仕事です」という指名を受けたような気がしました。6年前、次男が脳炎にかかって危篤になりました。「このまま亡くなる可能性が3分の1、助かっても重度の障害が残る可能性が3分の1」と言われたのです。1週間、獣のようにうめいているだけの次男を見て、「この子はうめいているだけで死んでいくのか」と思った時、強い喜びを感じるようになりました。この世で最も弱いと思われる子を見た時に、自分の中で眠っていた深い感情がゆり動かされた。いやもしかしたら、眠っていたのではなく、新しく作られたのかもしれない新しい感情に自分自身、驚きました。

 重い病気のある子どもを持つ人たちが、ただ苦しいだけではなくて、喜びも感じるには何か理由があるのだろうと。これは僕の解釈になるのですが、(その人にとって)かけがえのないあなたがやりなさいと。自分の仕事というふうに感じ、初めて、役割を自覚できる。逆に、普段やっていることは、たいてい、交換可能というか代替可能というか、自分である必要がないものが多い。しかし、そのことに関してだけは、自分しかいない、というのは、心理的にも大きいのかな、と思いました。

 それから、時には知人と、時には1人で、「弱者」と呼ばれる人たちを訪ねる旅をするようになりました。子どものホスピス、重度の心身障害者の施設、認知症の老人のための施設、そういった場所です。興味本位ではなく、そういう場所に行き、そういう人の横にたたずむと、なぜ力が湧いてくるのか、ということを知るためでした。その途中で、「3・11」があり、「苦海浄土」が、池澤夏樹さんが編集された世界文学全集(河出書房新社、全30巻)に日本の作品で唯一収容され、何年かぶりに読むことになりました。

 確かに前に読んだはずだったのに、「自分は読んでいなかったんだ」ということに気がつきました。感想も一言では言うことができません。最も弱い、水俣病に侵された子どもの横にたたずんで、眺め、記述し、正確にその言葉を再現している石牟礼さんは「その人のことを知っているんだ」と思いました。言葉が非常識なほど美しいとも思いました。虐げられた人、弱い人、侵された人のことを書いて、なぜ、あのように美しいのか。それは、弱いものの横に立ち止まることの意味を、よく知っているから、と思ったんです。

<<「急性小脳炎」と診断された当時2歳の次男は劇的に回復した。入院していた2カ月間、病院で重い病気や難病の子どもたちが亡くなっていくのを目の当たりにした。ある日、過酷な状態であるにもかかわらず母親たちの表情がとても明るいのに気づいた。思い切って、どうしてそんなことが可能なのか、と話しかけると「だって可愛いんですもの」という答えが返ってきた。「この時の経験は私を変えた」と高橋さんは言う>>

 ◇ただ、そこにたたずむ

 −−息子さんの脳炎の体験を経て、弱い人の横にたたずむということを積極的にされていますが、それはどうしてですか?

 高橋 正確に言うと、たたずんでいる人の横に行って、話を聞いたのです。実際にたたずんでいるのは脳性まひの子供のご両親とか、認知症の人を介護している人たちです。その現場へ行って、ただ見ている。僕自身は何もしていないんです。実際に行ってみると、それは、予想していたことではあるんですが、みんな同じような構造をしていて、みなさん、言うことが同じなんですよね。ということは、一つのある普遍的なシステムというか、普遍的なあり方、構造として、この社会に組み込まれていたのではないか、というふうに思うようになったんです。

 自分から何かをするのではなくて、とりあえずずっとそこにいる。だいたいそこの人たちは、力がなかったり、病気だったり、ほとんどははっきり声が出せない人ばかりです。そこで横にいる人が、何をしているかと言えば、とりあえず「聞いている」。正確に言えば、横にいて「聞いてあげている」。

 僕たち、そういう時ってまず何かするでしょう。でもマニュアルなんかない。その人、一人一人全部違うけど、やることは一緒で、横にいてあげる。できることって限られているんです。例えば、死にそうな人には手を握ることぐらいしかできない。ただそこにいる、ということなんですよね。

 −−そうすることによって高橋さんの中で何が変わるのですか?

 高橋 最終的には、作家としての僕にフィードバックされているような気がします。ものを書くことはマニュアルがなくて、僕たちはまず、耳を澄ますわけですね。それは人に限らず……モノだったり、世界で起きている出来事だったりを静かに聞く。そこから始めるわけなので、そういう意味では、病気の子どものご両親とか、施設の介護者がやっていることは、僕たち作家がやっていることとあまり変わりがないのだと思います。作家はその声を聞いて、作品にしている場合もあるでしょうし、今はまだ生まれていない読者がどんな読者だろうかと、想像してみる。

 高橋 最終的には、作家としての僕にフィードバックされているような気がします。ものを書くことはマニュアルがなくて、僕たちはまず、耳を澄ますわけですね。それは人に限らず……モノだったり、世界で起きている出来事だったりを静かに聞く。そこから始めるわけなので、そういう意味では、病気の子どものご両親とか、施設の介護者がやっていることは、僕たち作家がやっていることとあまり変わりがないのだと思います。作家はその声を聞いて、作品にしている場合もあるでしょうし、今はまだ生まれていない読者がどんな読者だろうかと、想像してみる。

 −−そういう活動を始めた後に、東日本大震災が起きました。「3・11」の前後で、意識の差が生まれましたか?

 高橋 それを受け入れる準備ができていたと思います。文章を書く人たちの中には、震災のショックでしばらく書けなくなった人もいますが、僕は震災が起きた後、すぐに文章を書き始めました。その理由を考えてみたら、「弱さの研究」の中で既に準備していたんだと思います。震災で亡くなったり、家を流されたり直接被害にあった人たちだけでなく、災害の影響で大学の卒業式がなくなって困った大学生たちも巻き込まれることによって、「弱い立場」になってしまったわけです。大学生も「ボランティアに行けばいいんでしょうか」とか、自分がどうすればいいのかが分からなくなっていた。僕たちはその横にいて、とりあえず彼らの話を聞いてあげる。ただ聞くだけではなくて、いろいろアドバイスするわけなんですが、それ以前の何年かの間で、非常時に対応できる態勢がとれていたように思います。僕自身はあまり混乱はありませんでした。

<<高橋さんは、教べんをとる明治学院大学国際学部で、文化人類学者の辻信一さんと2010〜13年、「弱さの研究」という共同研究を行った。身体的、年齢的な「弱者」だけでなく、国籍や差別に悩む、社会によって作り出された「弱者」に共通するのは、世の中が「弱者という存在がやっかいなもの」と考えていること。弱者は社会にとって不必要な害毒なのか。社会にとってなくてはならないものではないだろうか。「弱さ」の中に、効率至上主義ではない、新しい社会の可能性があるはずだ。そういう視点での研究だ>>

 ◇やっかいなものを押しつけられる地方

 −−3・11と水俣の共通項は、「国や巨大な組織に対してあらがえない、そしてあまり声の届かない地方の人たちが利用されてしまった」システムなのかな、と私は感じるのですが。

 高橋 そういうこともありますよね。これもよく言うんですが、阪神大震災の時は復興も早かったんですが、東日本大震災の場合は東北ということでそうはいかなかった。この国の政策の中で「地方」として利用されてきた場所でした。現在の日本では、地方は最終的に中央から切り捨てられる運命にあるように思えます。原発があるところって、そのほとんどは大きな産業がない場所ですよね。近代日本が発展してきた一つの構図の中で、やっかいなものを押しつけられる場所と言えるでしょう。

 水俣も、近代日本に必要な産業を押しつけられた場所でした。富は中央へ集められ、そのお裾分けが一部、金で戻ってくる。その代わり、廃棄物がまかれる、という構図です。中央のための「迷惑施設」を作るという典型的な場所だった。そういう構造が繰り返し、この国では起きています。

 −−水俣病は2016年で、公式確認から60年となりますが、その悲劇は進行形です。

 高橋 今も日々ですね。やがて、すべての地方が、国によって切り捨てられるだろうとも考えられています。僕は広島県の尾道市の出身です。尾道は原発もないし、のどかなところですが、人口は激減しています。全国をみてもすごい勢いで人口が減少している。僕は「弱い」とされる所や施設を巡る過程で、「地方」にも重なっていることに気づきました。

 都会に青年、労働者を奪われて、地元に1次産業が残って、老人だけが残される。場所が人とともに衰退していく。全ての地方で起こってきたこのことの中に、水俣をはじめいろいろな公害問題があったりしたのです。固有名詞としての悲劇もありますが、すべての地方で「大小さまざまな衰退」がいまも進行中です。山口県には、対岸に(中国電力上関)原発計画があり、高齢化、人口減少、過疎化が全部重なった「祝島」という過疎の島があります。「水俣」「福島」と並び、固有名詞で呼ばれる「切り捨てられた」場所といえますね。

 −−多くの人が住む都会にいると、国の構図に気づきにくいですね。

 高橋 そう、気がつかない。

 −−経験値が低い若い人たちだと、なおさら気づきにくいのでは? そういう人にどんなメッセージを送りますか?

 高橋 ただ、若者たちもここ何年かで気がつき始めているのではないでしょうか。一つには、貧困が激しくなり、都会に住めなくなってきたのを若い人たちが実感しているからです。実質賃金がどんどん下がって、都会に出てきたら暮らせない。非正規労働の若者は、2人じゃないと生きていけない。でも、都会には保育園が少ない。結婚して家庭を持とうと思ったら、地方に戻るしかない、みたいな感じです。「都会に出て仕事を見つけて、お金持ちになって家庭を持つ」という夢が、実際には都会に出ても仕事が見つからないし貧乏になる。「これまで聞いてた話とちょっと違うんですけど」ということがさらに増えると思います。

 それでも都会にしがみつくと、ブラック企業でこき使われたり、結婚しても子供が作れなかったり、その前に結婚できなかったり。そういうふうになった時、みんなが何を選択するのか。地方に戻るのか、この社会おかしいから変えなきゃいけないとなるのか。あきらめるのか。

 −−そこで、「弱さ」を基準とした社会、という発想が出てくる。

 高橋 今のままでは、お金持ちはいいけれど、若くて貧しい人たちは選択の余地が狭まってきているので、生き方そのものを自分で考えないといけない。社会が教えてくれることはどうも怪しい、だまされているのではないか、と。

 今の若い子はお金を使わなくなりました。すごくささいなことですが、ゼミでの飲み会ができなくなりました。僕は10年前から大学で教えているんですが、「今度ゼミで飲みに行こう」と行ったら、「はーい」とすぐに参加希望が集まっていた。でもこの3年間、ほとんどできてません。アルバイトががっちり入っていて、全員のスケジュールが合わないからなんです。他の先生たちも「ゼミ飲みができない」と嘆いています。

 僕はゼミ合宿を修善寺でやってるんですが、僕の前任の加藤典洋さんの時には、毎回約20人が車6〜7台くらいに分乗して来ていた。僕が始めた10年前には、約20人が集まり、車は5台くらい。最近、車なんかだれも持っていない。もしかしたら親も持っていないからかもしれません。劇的に変わりました。貧困化が激しく、「弱く」されちゃったわけです。

 ◇共同体は弱い人たちの知恵

 −−今の社会は、「強い」側にいる人たちが「弱さを認めるな」と主張している感じがあるように思います。

 高橋 「強い国」って言い方をしますよね。それが典型で、「弱気になるな」と。グローバリズムというのは、強い人が残るんです。一方で、弱い人間が増え、切り捨てられていく。「切り捨てられたくなかったら、強くなりましょう」という構図なんです。弱い人間があまりいなければ、ことさらに強さを強調しなくてもいい。だれしも落後者が増えると不安でしょ? 不安の解消には「強くなる。自分が弱い方に入らない」か「弱さを受け入れるか」のどちらかしかないんです。

 弱さを受け入れるということは、「一人一人では弱いから共同体で生きる」ということかもしれません。かつて、僕たちは束縛のない都会や個人主義に憧れ、農村という古い共同体を嫌って外に出た。100年近くそうやって暮らしてきた結果、地方には弱い人間だけが残ったんです。束縛がないというのは、逆に言うと守るものもない。

 祝島に行った時、泊まった宿屋のおかみさんが病気で食事を作れなくなったんです。すると近所の人が勝手に宿屋に入ってきて、僕たちの晩ご飯を作り始めたんです。こんな経験もあります。僕の奥さんの友達の旦那さんの実家が福島にあって、うちの子供たちは去年に続いて今年も1週間くらい遊びに行ったんです。そこにいるおじいちゃんを、血がつながっていないのに「じいじ」とか呼んで、膝枕で寝たりするくらいなついちゃって。そして、家主がいないのに、知らない近所の人が勝手に入ってくる。「これ食べて」と枝豆をどっさり置いていく。お茶を出そうとすると、「いいよ、俺分かってるから」と勝手にいれてる。

 そういうズケズケしていて、プライバシーのない世界がイヤで、昔はみんな田舎を出て行った。でも、こういう社会なら孤独死する人なんかいなくなるでしょう。具合が悪くなったら、誰か来てくれるから。これを、都会でやろうとすると、「見守る人」とか言ってお金がかかる。

 共同体は弱い人間たちの知恵です。全員が少しずつ弱ければ、とても弱い人間を、少し強い人間が助けてあげられる。とても合理的なんです。

 −−実をいうと「弱さの研究」と聞いた時、頭の中にクエスチョンマークがたくさん並びました。

 高橋 「弱さ」ってすごいです。「弱さ」を排除し「強さ」を至上原理とする社会は、本質的にもろさを抱えていると思います。

 −−水俣病の公式確認は1956年です。51年生まれの高橋さんは、「自分が水俣で生まれていたら、自分が胎児性・小児性水俣病患者になっていたかもしれない」と考えたことがありますか?

 高橋 自分が(患者になっていたかもしれない)とは思わなかったです。

 −−水俣では今年、胎児性・小児性患者のためのケアホームが完成しました。入居した患者さんは、部屋で自由にお酒を飲んだり好きな音楽を弾いたり、少しの介助を受けながら、人間らしい生活を楽しんでいます。高橋さんの水俣へのシンパシーは、「苦海浄土」に貫かれている「弱さに寄り添う」ところが原点ですか?

 高橋 「苦海浄土」は悲惨なものを書いているのに美しい。ドキュメンタリーだと、「悲惨だね」となってしまうでしょう。そうならないのが文学なんです。文学は肯定的なもので、99%が闇でも、1%の光を求める。つまり「何があっても生きる」とするものなのです。この世界には、弱いけれども確かな声がここかしこにあるはずです。それは、地方の言葉なのかもしれません。あるいは、子供や老人や病者の言葉なのかもしれません。そういった聞き取りにくい言葉を、聞き取る努力、能力こそが、今一番必要とされているかもしれません。

*作成:小川 浩史
UP: 20140926  REV: 1021
水俣・水俣病 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)