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台(臺)人体実験批判

精神障害/精神医療歴史


■人・事項

人体実験
臺 弘/台 弘(精神科医,1913〜2014)
石川 清(精神科医,1942〜)
吉田 哲雄(精神科医,1935〜1994)

■全文を掲載している文章

小池 清廉 19730915 「石川清氏よりの台氏批判問題」委員会(仮称)の討論経過をふりかえって」『精神医療』第2次3-1(11):3-20
石川 清 19730915 「台氏人体実験批判の総会可決に際して考える」『精神医療』第2次3-1(11):21-30
吉田 哲雄 19730915 「台実験の危険性について――2人の患者の病歴を中心に」,「台氏人体実験批判の総会可決に際して考える」,『精神医療』第2次3-1(11):31-39
小沢 勲 19730915 「「台氏による人体実験」批判」『精神医療』第2次3-1(11):47-71



 *必要な文書等は今後収録・掲載していきます。

◆1971/03/17 石川清「前理事長台弘氏を全学会員に告発する」
◆1971/03/17 石川清→保崎秀夫精神神経学会理事長(石川[1975:21])

◆1971/03/21 台弘

◆1971/03/27 「生きた患者から脳をとるロボトミー」
 『朝日新聞』1971/03/27(高杉[1974:83-84]に引用)

◆1971/12/12 「石川清氏よりの台氏批判問題委員会(仮称)」第1回
 (高杉[1974:89]に言及)

◆1972/06/13 石川清が日本精神神経学会大会で報告

◆1972/06/14 『朝日新聞』報道
 (高杉[1974:88]に紹介)

◆1973/04 日本精神神経評議会有志が人体実験を告発

◆日本精神神経学会 1973 「石川清氏よりの台氏批判問題J委員会(仮称)(委員長,小池清廉)報告書――人体実験の原則よりみた台実験の総括と人体実験の原則の提案」,『精神経誌』75;850

◆1973/03/24 日本精神神経学会理事会
 (高杉[1974:98-99]に言及)

◆1973/03/25 日本精神神経学会理事会
 (高杉[1974:99]に言及)

◆1973/05/01 「医学的な討論を妨害 トロツキスト暴力集団評議員にも暴行――精神神経学会」,『赤旗』1973/05/01
 (高杉[1974:107-108]に引用)
<
◆1973/05 台弘による人体実験批判決議を採択

◆精神医療編集委員会 編 19730915 『精神医療』3(1) 特集:精神医療と人体実験,岩崎学術出版社,137p. ※(第2次・通巻11)
 *以下のうち必要なものについては全文を収録・掲載する予定です。

小池 清廉 19730915 「石川清氏よりの台氏批判問題」委員会(仮称)の討論経過をふりかえって」『精神医療』第2次3-1(11):3-20

石川清 19730915 「台氏人体実験批判の総会可決に際して考える」『精神医療』第2次3-1(11):21-30

吉田 哲雄 19730915 「台実験の危険性について――2人の患者の病歴を中心に」,「台氏人体実験批判の総会可決に際して考える」,『精神医療』第2次3-1(11):31-39

◆宮下 正俊 19730915 「医局講座制と科学至上主義」,『精神医療』第2次3-1(11):40-46

小沢勲 19730915 「「台氏による人体実験」批判」『精神医療』第2次3-1(11):47-71

◆高杉 晋吾 19740710 『日本の人体実験――その思想と構造』,三笠書房,311 p. ASIN: B000J9OWG0  980 [amazon] m.
 3 台人体実験――研究至上主義と医局口座の栄光と悲惨 75-137

◆小澤 勲 編 19750325 『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』,田畑書店,201p. 1100 ASIN: B000J9VTT8 [amazon] ※ m.

 「日本精神神経学会はかなりの程度までわれわれの手によって動いてきた。われわれは金沢学会闘争を契機として精神科医全国共闘会議を結成した[…]この委員会はようやく全国的に政治的課題とされ始めていた刑法改悪阻止、保安処分新設粉砕闘争の一つの要として運動を進めてきた。認定医制度はもはや問題にもされなくなり、十全会病院、烏山病院、北全病院をはじめとする精神病院問題、台人体実験問題に対しても、われわれの糾弾、告発闘争は圧倒的多数の支持をうけた。[…]だが、にもかかわらず」

◆1975/05/19 日本精神神経学会、精神外科を否定する決議を採択

◆秋元 波留夫 19760531 『精神医学と反精神医学』,金剛出版,371p. ASIN: B000J9WA3M [amazon] 13567〜 ※ m. [広田氏蔵書]

◆1976/11/23 日本精神神経学会『精神外科廃絶に向けての決議』案

◆石川 清 19790525 『現代教育亡国論――精神科医の現場からの発言』,実業之日本社,218p. ASIN: B000J8HB2S 1200 [amazon] ※ m.

 「次に執筆の理由について、自己紹介を兼ねて若干述べよう。私は本来「主義」を奉じない、いわゆるノンポリの医学部教官であるが、昭和四十三年(一九六八)に始まった東大闘争で、同年十一月に精神神経科医局が解散すると同時に設立された、東大精神科医師連合(約百二十名の精神科医から成る任意加盟の医師集団)の実行委員長(代表者)に公選され、これを昭和五十二年(一九七七)七月に年齢の関係でやめるまで十七期つとめた。その間いろいろと紆余曲折はあったが、因襲的な医局制度の解体、人体実験問題、薬害問題、精神病院不祥事件等々に連合員やその他の同志とともに取りくみ、学内学外でいささか活動した。
 連合は日本精神神経学会でいくつかの宣大決議を採決することに成功し、人体実験や生体解剖を行った教授たちに反省を求めた。
 第五回国際脳神経外科学会(昭和四十九年、一九七四年)では、帝国ホテルの会場に入って、<0004<外国の学者にもアピールした。現在さらに連合はロボトミーやロベクトミーの廃絶に努力し、刑法改正・保安処分の立法化にきびしく反対して、東大精神科仮病棟の自主管理を続けている。」(石川[1979:4-5])

……

◆台 弘(臺 弘) 19931127 『誰が風を見たか――ある精神科医の生涯』,星和書店,335p. ISBN-10: 4791102622 ISBN-13: 978-4791102624 [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆富田 三樹生 20000130 『東大病院精神科病棟の30年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』,青弓社,295p. ISBN-10: 4787231685 ISBN-13: 978-4787231680 3000 [amazon][kinokuniya] ※ m. ut1968.
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/doshisha/2-6.html
 「●台脳組織摘出実験(1950年頃)
 東京都立松澤病院の臺(台・うてな)弘医師(後に東京大学医学部精神科教授)が、精神分裂病患者42人(男性25人、女性17人)、対照患者(精神病質、[躁]鬱病、神経症、脳炎後性格異常、てんかん、進行麻痺など)および診断に疑義のある患者(ヒロポン中毒含む)28人(男性20人、女性8人)の計70人に対し、ロボトミー(前頭葉白質切截手術)の際(切截の前に「小尖刃刀又は小鋏を以て軟膜の一部を切り、其処から鋭匙を入れて主として皮質組織をsubpialにすくひとる」。皮質白質を合わせて約1g。摘出した脳組織の試験管内でのin vitro代謝状況を調べる。論文では1名死亡のみを記載。学会で告発後にそのほか2名の死亡例の詳細(脳の出血多い)が報告される(台弘・江副勉「精神分裂病者脳組織の含水炭素代謝に就いて」[第一報・第二報]H. Utena & T. Ezoe, "Studies on the Carbonhydrate Metabolism in Brain Tissues of Schizophrenic Patients"『精神神経学雑誌』Psychiatria et Neurologia Japonica Vol.52, No.5 [May 1951])
 1971年3月、石川清氏が精神神経学会に質問書を提出。学会は「『石川清氏よりの台氏批判問題』委員会(仮称)」を設置して審議。1973年3月に報告書(「人体実験の原則(提案)」を含む)を提出。1973年4月の評議員会で2名の死亡例の詳細が報告されて台氏擁護論が影を潜める。第70回大会で「(1) 被実験者に直接利益をもたらすものではなく」「(2) 患者および家族の同意を得ていない」がゆえに「人権上の立場から、医学実験として到底容認しえない」こと、後に提示された2名の死亡については「皮質採取がなければ死にいたらなかった可能性が強い」として、台氏を批判する決議を行う。(『精神医療』3(1) [Summer 1973])」

◆ばびっち佐野 2002/10/26 「旅人さん、ロボトミーのやりかたいろいろです。」  『地上の旅人』 http://mental.hustle.ne.jp/log/log1zw.html  「[…]精神外科療法が問題視されるようになったのは東大教授臺弘の過去の業績に対して人体実験だと東大講師石川清が朝日新聞に告発したことに発する。これは赤レンガ側の石川が臺教授のあらさがしをするという低次元のものであったが精神神経学会に影響をもたらした。この時、ナチス・ドイツの人体実験を裁いたニュールンベルグ裁判の判決(1947.8)中の10原則が引用された。1964年にはヘルシンキ宣言により精神外科は衰退し、現在はほとんど行われていない。」

◆立岩 真也 20080701- 「身体の現代」,『みすず』50-7(2008-7 no.562):32-41から連載 資料

 「臺弘は東京大学医学部での闘争(紛争)のすこし前からそれ以降、そこに教授として勤めていた人で、前回すこし取り上げもした青年医師連合(青医連)等から「人体実験」の告発を受けた人でもある。その告発に対する全面的な反論は、自伝である臺[1993]にある。」

◆スーさん 2010.03.05 「脳組織摘出事件(昭和46年)」
 http://blog.m3.com/yonoseiginotame/20100305/4
 http://blog.m3.com/m/yonoseiginotame/show_entry?entry_id=80265&_session_id=ba9db75fa78ffa17645b66814ee51067

 「20世紀初頭の精神医学は病名をつけるだけで,治療と呼べるものは存在しなかった.この流れを変えたのは「社会的適応」であり,「ショック療法」であった.社会的適応は精神病患者を社会に適応させながら病気を緩和する方法であり,ショック療法とは生命の危険にさらさずに激しいショックを与え科学的手段で現実に取り戻そうとする方法であった.ショック療法にはインシュリンを与えて低血糖にして治そうとするインシュリン療法,また頭部に電流を与え痙攣発作を人為的に与え治そうとする電気ショック療法があった.この新しい積極的精神病治癒方法として考えられたのがロボトミー(精神外科)であった.
 昭和37年,リスボン大学のモリスが精神病患者の大脳の一部を切断して精神状態を改善させるという新たな治療法を考案した.この治療法は精神病を治すのではなく,たとえ患者の人格が変わっても精神病患者の社会的適応性が増せばよいという考えが根底にあった.モリスが考案したロボトミーは社会に受け入れられ,昭和23年にノーベル生理医学賞を受賞している.
 ロボトミーは精神病患者の病的な脳細胞を取りさればよい,病気を治すのではなく患者の管理がうまくゆけばよいという考えがあった.反省のない犯罪者は精神病院に入れて頭に穴でも開ければ暴力的なところは消え,病院や社会にとって都合が良いという考えであった.医学的というより保安上の理由から犯罪を繰り返す困った人たちを「精神病質」と名づけて入ロボトミーをすることが普通に行われていた.ロボトミー手術は精神障害の治療が目的とされているが、術後の患者の体の機能は維持されるが感情がほとんど失われるなどの問題があった.もちろんそこには精神病患者の人格を人間として考えていなかった側面があった.そのため患者の人権を無視した人体実験に近い研究が成されていたと容易に想像された.
 このような背景に置いて,東大の石川清講師によって東大教授・台弘の医療行為が告白された.東大教授・台弘は精神分裂病とは脳の脚気であるという仮説を持ち,それを証明するため20数年前から都立松沢病院に入院している精神分裂病42人の患者,さらに比較検討するためにそううつ病や性格異常の患者約40人の大脳皮質摘出手術(ロボトミー)の前に脳組織を0.3から1グラムを取り出し,生化学的分析を行っていたと日本精神学会会員全員に告発したのである.生きている人間の脳を取り出して研究が成されていたのだった.脳組織を取られたのは11歳の少女も含まれており,手術直後に死亡した患者も2人いた.そしてその根底にあるのは研究至上主義の医局制度であると指摘したのである.
 この時期に至るまで,患者の人権が問題になるようなことはなかった.731部隊の歴史はもみ消されたまま,731部隊の幹部が反省もなく日本医学会中枢で生き残っていた時代である.患者への人体実験があってもなくても,患者の人権がそれほど問題になることはなかった.教授は絶対権力の中で,患者の権利などは眼中になかった時代であった.
 今回,東大の石川清講師が台弘教授を学会に告発したが,このことはそれまでの精神医学,医学研究,医学講座制,患者の権利への大きな問題提供であった.学会自身が東大教授・台弘の事例への委員会をつくり検討することになった.石川清講師は日本精神神経学会評議員であり,台弘教授は精神神経学会の理事長をつとめた人物である.日本精神神経学会では大きな問題となり,特別委員会が設けられ検討されることになった.
 まず台弘教授の行った実験が治療の範囲内であったかどうかが検討された.ロボトミー前に脳組織を0.3から1グラムを取り出すことが無視できる範囲であり,ロボトミー治療の範囲内とする擁護する医師もいた.
 昭和47年6月13日の日本精神神経学会で人体実験かどうかが取り上げられ,3時間にわたり議論された.そして評決では台弘教授の人体実験は間違いであるとする主張する医師は235人,擁護する医師は28人,保留は69人であった.大部分の医師たちは台弘教授の研究を人体実験として批判したが,しかし投票直前に100人以上が会場を退出したため,学会の正式決議とはならなかった.
 しかし松沢病院のカルテが調べられ,脳組織摘出後に摘出により出血で死亡した患者の経過が記録されており,患者が手術を拒否しているのに手術を強行されていたことが分かった.さらに患者,家族の同意を得ていないことが分かった.このことから昭和48年5月の日本精神神経学会で,台弘教授の行った実験はロボトミーを利用した安全性を確認していない実験であったこと.精神障害患者の人権を無視した医療行為であったこと.医学上の人体実験であったことと発表され,台弘教授だけでなく本学会としても深く反省すべきであることを発表した.またちょうど向精神薬の開発もあり,昭和50年の日本精神神経学会では精神外科は医療として認めないという決議がなされた.我が国では20年間に12万人の患者がロボトミー手術を受けたとされている.
 なお昭和40年代は大学紛争の時代である.精神医学界も大揺れに揺れていた時期であり,昭和44年の精神神経学会は、左翼系若手医師と執行部の間で吊るし上げに近い激しい討論が行われて紛糾した.また東大では、昭和43年10月、精神科医局が自主解散し、左翼系の医師たちが「東大精神科医師連合」なるものを結成。翌年には保守派の人たちが「教室会議」を結成し、東大の精神科は2つに分かれてしまった。「精神科医師連合」は病棟を、「教室会議」は外来をテリトリーとして対立し、外来患者を自分の病院の病棟に入院させることはできなかった.また病棟から退院した患者は別の病院の外来で診るしかなかった.このような時代背景を持った事件であった.」(全文)

藤澤 敏雄 20100510 「日本における精神医療改革運動の歴史」,精神医療編集委員会編[2010:12-24]*
*精神医療編集委員会 編 201005 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「激しい討論を展開しながらも、学会闘争は、ある集約点を目指して動いていた。しかし、すでに改革の内容と手段を巡って、改革運動内部に対立が起こっていた。1973年の台人体実験反対決議は、台を支持する日本共産党に連なるグループにとっては、苦々しいことであった。彼らにとっては、学会闘争という位置づけにも不満があったようである。日本共産党の理論機関紙「前衛」が「トロツキストの『反精神医学』と妄動」という論文を掲げて、学会改革運動を公然と批判したのは1974年である。日本の大学闘争から学会闘争の流れは、新左翼の影響を受けてはいても、ノンセクトラジカルと呼ばれる人々と、戦後民主主義派によって担われたのであり、日本共産党部分との対立は、今日も穏やかになったとはいえ、完全に解消されてはいない。」(藤澤[2010:22])

◆立岩 真也 2010/11/01 「社会派の行き先・1――連載 60」,『現代思想』38-(2010-11):

 「その秋元の後を継いだのが臺〔うてな〕弘(台弘)であり、彼は東大闘争を展開した人たちからの攻撃にされされることになる。一九六八年十一月に主任教授不信任、一九七一年三月に二〇年前に行なった精神病患者へのロボトミー手術が人体実験だったと告発されることになる。その告発に対する全面的な反論は、自伝である臺[1993]にある。
 (一時期の)「日本精神神経学会」「日本臨床心理学会」等で「改革」がなされ、「代々木系」の人たちに対する批判がなされた。この人たちはそれを受けて立つ側だったということである。そしてみたように上田もまたそうした系列に連なる人である。上田の最初の概説的な単著『リハビリテーションを考える――障害者の全人間的復権』(上田[1983])は青木書店から刊行されている。また上田は長く「共作連」の活動に関わり、支援し、その顧問等を務めた。」

『生存学』3 表紙 ◆立岩 真也・天田 城介 2011/03/25 「生存の技法/生存学の技法――障害と社会、その彼我の現代史・1」『生存学』3:6-90 文献表

 「立岩:台人体実験事件っていうのは、一方の側が、二〇年前の手術を探し出してきてというか、東大の中で批判して学会で批判してということがあって、それに彼も反論している。その出来事だって、それだけのボリュームはある。あれは結局どうなのっていう評価を巡る話は残るから、最終的には難しい話だけど。でも、時代的にも七〇年代以降の話だから、実験が行なわれたのはずっと前だけど、それがどう人々にどう受け止められたか、あるいはどう利用されたのかということは書ける。だから、どうなのよっていう気もしないではないけれど。
 それからずっと遡って、実際、日本でどうやっていたかとか、どう受け止められてきたのかっていうところはもっと難しい。でも、そっちの方が価値は当然あるわけです。そしてさっきの末安さんの話ですが、八〇歳とかの元看護師とかそういう人に聞いて回ると、けっこういろいろ出てくる。」

http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/medical_experiments.html

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

『造反有理――精神医療現代史へ』表紙

臺(台)弘[うてな・ひろし](一九一三〜)。東京帝大卒業。都立松沢病院医員、群馬大教授をへて、六六年秋元波留夫の後の東京大学医学部教授。東大闘争・学会闘争を展開した人たちからの攻撃にさらされることになる。六八年十一月に主任教授不信任。六九年の金沢大会で理事長解任。七一年三月に二〇年前の松沢病院時代に行なわれたロボトミー手術の際に採り出された脳組織を用いた実験が不当な人体実験だったと告発される(→HP)。その告発に対する全面的な反論は、自伝である臺[1993]にある。臺[1972]にもこの時期に関わる記述がある。告発と反論については別途検討する。
吉田哲雄(一九三五〜一九九四)。一九六〇年東京大学医学部卒。六一年東京大学医学部附属病院神経科医局入局、六六年医学博士。六九年都立松沢病院勤務、七〇年北病棟移転阻止闘争で座り込みに参加、七一年都立松沢病院精神科医長。七九年東京大学附属病院精神神経科助手、八五年東京大学保健センター講師、九〇年同センター助教授(このとき、規約により青医連を離脱、実行委員会議長辞任)、副所長(吉田[1988b]の紹介より)。七八年から日本精神神経学会理事、九一年から九四年に肺がんで死去(五八歳)するまで副理事長。『精神医療』の精神外科の特集の序(吉田[1974]、HPに全文掲載)、その前年同誌に臺実験批判の文章(吉田[1973]、HPに全文掲載、実験と患者の死に関係がある可能性を示し、それが学会での決議に影響を与えたとされる)、札幌・北全病院訴訟(→◆頁)の判決について同誌掲載の吉田[1978]、名古屋事件(→◆頁)では原告側証人を務める。『精神科看護』に「日本精神神経学会の歩み」(吉田[1982])、講演の記録として吉田[1988](HPに全文掲載)等。追悼文集として東京大学精神科拡大医師会議臨時幹事会編[1994]、遺稿集として吉田[1998]。 ◇富田三樹生(一九四三〜)。一九六九年新潟大学医学部卒業、佐久総合病院勤務をへて、七一年に東京大学精神科。精神科医師連合に参加。九〇年十一月東京大学精神医学教室助手。日本精神神経学会「精神医療と法に関する委員会」委員を務めた。後に多摩あおば病院(二〇〇三年の新病棟完成に先立ち北久米川病院から名称変更)院長。著書に『精神病院の底流』(富田[1992]、『東大病院精神科の30年』([2000])、『精神病院の改革に向けて――医療観察法批判と精神医療』([2011])
 「その対象とされたのはこの時期に発見・発掘されたもの、その意味で批判・糾弾は意図的だと言って言えなくはない。過去になされた手術が問題化され、裁判がなされる。北全病院ロボトミー裁判(一九七三〜)、名古屋Mさんロボトミー裁判(一九七三〜)、横手興生病院ロボトミー裁判(一九七四〜)、弘前ロボトミー裁判(一九八〇〜)がある。また手術をした医師の家族を手術をされた人が殺害したロボトミー殺人事件(一九七九)がある。これらの事件・裁判に関わった「ロボトミー糾弾全国共闘会議(ロ全共)」(一九七九〜)といった組織もあった。それ以前、一九七一年に石川清によってなされた臺弘の(松沢病院において行なわれたロボトミーの際に取り出された組織を用いた)実験に対する批判にしても、それは、その人がその立場にいなかったらなされなかったことだったかもしれない。そして医療者たちの一部、造反派の雑誌、『精神医療』第2次第3巻1号が「精神医療と人体実験」を特集するのが一九七三年(このうちまず、臺の実験の問題性を指摘する石川[1973]吉田[1973]小池[1973]の全文をHPに掲載)、第2次第3巻4号が「精神外科の実態」を特集するのは一九七四年(まず吉田[1974]全文を掲載)、「精神外科とは、脳に不可逆的な侵襲を加えることを通して人間の精神機能を変化させることを目指す行為である。かかる行為は医療としてなさるべきでない。」という「精神外科を否定する決議」がなされたのは一九七五年五月の第七二回日本精神神経学会総会でのことだった。」

 「Mは、一九七三年五月の日本精神神経学会の台実験糾弾決議についての新聞記事を知り、その実験を告発した石川清に手紙を書く。石川医師の呼びかけもあって上京し診断を受ける。ロボトミー後遺症の診断を受ける。また石川は、Mは統合失調症ではないとし、(自らも経験したことがある)ヒロポンの後遺症ではないかとした。名古屋の医師、学生、市民など一五〇名で「守山十全病院におけるロボトミーを糾弾し、M氏訴訟を支援する会(M支会)」が結成される(正式結成は十二月)。同年十一月、Mは、M支会メンバーの支援をうけて、守山十全病院院長重富克美と執刃医岩田金次郎(愛知医大脳外教授)の両者を相手どって名古屋地裁に提訴。  石川清(→◆頁)・青木薫久吉田哲雄(→105頁)医師らが原告側証人として証言する(『ロボトミー徹底糾弾』第六号、一九八〇)。八〇年七月結審、八六年三月に判決。「医療は生体に対する医的侵襲であるから[…]緊急[…]等特別の場合を除いて、患者の承諾が必要というべきで、患者の自己決定権に由来する右の理は、精神衛生法上の措置入院させられた精神障害者に対しても」適用させられるべきであるとされた(「名古屋ロボトミー事件 名古屋地判昭和五六年三月六日」、『判例時報』一〇一三)」

 五八年十二月一日、横手興生病院を退院。六六年、横浜港の登録日雇港湾労働者として働き始める。七一年、生活保護を受給。「真面目によく働いていたが、一〜二年経つうちに事故はめだって多くなった。体力の衰えは、六六年に来た当時と比べものにならなかった。ついに過酷な港湾労働についていけなくなり、七一年、生活保護を受けるのだが、その過程で、彼の通院していた精神病院医師、ケースワーカーは、ロボトミーの疑いをいだいた。ちょうどその頃、東大の石川清医師は、「ロボトミー人体実験」を学会で告発していた。ロボトミーに対する関心は高まりつつあった。頭痛、不眠、緩慢な行動、反射能力の減弱など藤井の状態は、施術の後遺症とも考えられた。だが、当の藤井はなんの反応も示さず、いったんもちあがった疑いは立ち消えた。」(佐藤[1982(3):214])

 「(2)七一年に臺(台)実験告発(→129頁)がなされる。七四年の『精神医療』(第二次・三巻四号)は「精神外科の実態」を特集、七五年の日本精神神経学会大会の総会では「精神外科を否定する決議」がなされる。最初に裁判になった札幌での事件では日本精神神経学会・病院問題調査委員が調査に入り、三人の医師が裁判では特別補佐人になった。また二番目の裁判になった名古屋での事件(手術は六九年)では、手術をされた本人が石川清らの臺実験告発を新聞で知り、石川に連絡をとり、会いに行き、石川らは裁判で原告側の証人として出廷する。加えて高杉晋吾、より広く知られたものとしては大熊一夫によるルポルタージュがこの時期に出され、そこでもロボトミーの実態が記されるのだが、すくなくとも、この時期の医師たち・学会の動きが――例えば石川による告発は不当なものだと(批判された側から)批判されもするのだが――一定の役割は果たした。次にこのことを確認しておく★23。」


UP:20110731 REV:20110803, 0908, 14, 20121002, 20130603, 0823, 20140507
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