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烏山病院闘争



■関連事項・人

 ◆生活療法
 ◆西尾 友三郎(精神科医,〜2008)
 ◆竹村 堅次(精神科医,1924〜)
 ◆松島 昭(精神科医)
 ◆野村 満(精神科医)

■言及

◆1959(昭和34年)烏山病院、生活療法の方針を打ち出す。
※1960(昭和35年)烏山病院、「生活療法に関する服務要綱」、1961年「生活療法服務規定」、1962年医師や看護婦に「医師服務規程」「看護服務規程」、1965「生活療法服務基準」
※武蔵療養所との違い:病棟を機能別とし、治療病棟、生活指導病棟、作業病棟のほかに社会復帰病棟をつくった。

◆烏山病院闘争委員会 1970 「治療管理社会との闘い」『精神医療』第1次4:15-19(東大精神科医師連合)
 ※全文を収録しています。

◆『精神医療』編集部 1970 「烏山病棟斗争の告発するもの」,『精神医療』第1次4:79-80

◆野村 満 19710310 「「烏山病院問題」について」『精神医療』第1次5:18-27
 ※全文を収録しています。

◆武居 敦 197105 「烏山病院闘争と精神医学」,『思想の科学』 第5次 1971-05 116:58-61(特集・学問の意味を考える)

◆高杉 晋吾 19720229 『差別構造の解体へ――保安処分とファシズム「医」思想』,三一書房,284p. ASIN: B000J9OVWA [amazon] ※ m.

2 精神病棟EF2の反乱

 精神医療の現状
 「墓場」とよばれ「終身刑務所」とよばれた病棟を担当した一精神病医が、「鳥は空に、魚は水に、人は社会に!」という患者の解放の信念に燃え、あらゆる重苦しい管理の網の目を突き破って治療に突進した結果、一年間に、約五〇人の中小企業への通勤者と八名の退院者を出し、病棟は「墓場」から一転して人間の息吹きが通いはじめた。しかし、その精神病の医師は「ルール違反」という理由でその病院から追放されようとし、反対闘争が展開された。その医師の名はA・M氏。
 七〇年六月初旬以降、国立武蔵療養所、都立松沢病院と並んで都内精神病院御三家といわれ、「進歩的」という点でも評判の高い、厚生省が推すモデル病院・烏山病院の生活指導病棟でA・M医師は「ルールに従わぬ」などの理由で西尾院長、竹村副院長らによって配置転換を命ぜられた。だがA・M医師はこれを拒否、若手医師や治療スタッフ、患者家族などが「配転反対闘争」に起ち上がった。そのころ、「A・Mはキチガイだ」という噂が烏山病院内に流された。一九世紀末に書かれたアントン・チェーホフの『六号病室』という小説は、患者の心に人間として触れたとき、精神病者扱いされ、死んでいった精神病医師アンドレイ・エフィームイチ・ラーギンの物語りだが、精神医療の歴史は、患者を人間として扱った医師の受難の歴史でもある。アンドレイ・エフィームイチが自己の病院を「こ<0141<の施設が不道徳なものであり、なしうるもっとも賢明なことといえば、それは病人たちを解放して病院を閉鎖すること」と結論しながら、一人の人間の心にも喰いこみえないまま、医師としての個人的良心のめざめにとどまって、敗れ亡び去った一八九〇年代のロシアと、一九七〇年代の日本の精神医療の状況の、いかに酷似していることか。
 だがそこには一つの重要な相違点がある。A・M医師のたたかいが一八九〇年代と異なるのは、人間の解放をめざしてたたかう炎が、精神医療の分野にさまざまな努力で開始されていることであり、それらが、社会におけるさまざまの重圧に対して決起した人びとのたたかいと深いところで結びつき、広がろうとしていることだろう。
 だが精神病者をつくり出す社会から排除され、精神病院にようやくたどりついた患者の運命は、けっして明るくない。それは企業の搾取、不安と焦燥の管理社会がつくり出した労働者の精神や肉体の廃疾に対して、医療や、福祉の分野の労働者が、兄弟の運命を自己のものとして捉えることを知らず、収容された者、管理さるべきものとして、いつしか廃疾をつくり出した支配者の意識に染まり、そしてそれゆえに廃疾者の怨念を恐れ、反乱を恐れる意識と同一の視点で兄弟をみるのに馴れすぎているからだ。

 改善された沈澱病棟
 どこの病院にも、いわゆる「沈澱病棟」というのは存在する。さまざまの療法の機能にしたがって、作業病棟とか生活病棟、社会復帰病棟といった病棟が存在し、医者がサジを投げた救いようのない患<0142<者はみはなされ、ついにこの沈澱病棟に落ちていく。
 烏山精神病院、五百数十名の患者は、治療病棟、作業病棟、社会復帰病棟、生活指導病棟に分けられている。烏山病院の墓場、沈澱病棟に相当するのは、この生活指導病棟である。
 昨年八月にA・M医師が主治医になるまでは、薬漬けにされ、ヨダレをたらし、完全な無表情の状態の患者が、前かがみの姿で鉄の扉に重く閉ざされ、さらにほとんどの患者は独特の姿勢で自室に横たわっていた。それは十数年来、退院することもなく、変化することもない墓場の冷え切った姿であった。
 なんの変化もない患者の姿は、医療の姿勢のそのままの反映でもあった。ある患者の母親は、次のように語っている。
 「東邦医大である医師から息子さんは破瓜型分裂症で再起不能です。私がある病院を紹介します。そこで呆けて廃人として一生終わるでしょうと宣告され、全身の力がなえるようなショックを受けました。でも、必死の思いでよい病院という名の高い烏山病院に入れたときは、ホッとしたんです。ところが病院恐怖症に陥っていた息子は、先生とは口をきかないほうが安全だ、という確信を持ってしまったんですね。烏山病院でも、先生とは絶対に口をきかず、骨と皮のようにやせ細り、ここでもふたたび再起不能ですと宣告されたのです。私は、もうダメだ、と思いました。息子は治療病棟から墓場といわれた生活指導病棟に移されました。私はすがるような気持ちで先生に、息子の病状を訊ねるのですが、先生は息子さんは口をきかない。わかりませんというだけで、とりつくシマもなく立ち去ってしまうのです」<0143<
 どの家族に聞いても、医師(石)の地蔵さんで返事をしてくれないという医師への批判がはね返ってきた。
 この母親の息子さんの病院恐怖症には、はっきりした理由がある。東邦医大における脅迫に近い電気ショック。桜ヶ丘保養院における、患者の些細な言動を捉えて保護室へたたき込むという脅迫や、実際にたたき込まれる患者。さらに、ロボトミー(前頭葉切載術)手術を受けた精神障害者の存在等が「先生とは口をきかないほうが安全だ」というひえびえする恐怖感を彼の心の底にカキガラのようにこびりつかせたのだ。
 だが、昨年八月、A・M医師が、生活指導病棟に赴任してから、状況は、患者にとっても家族にとっても信じられないほど、急激に変化した。この変化の全貌を限られた紙面で語ることはたいへんむずかしい。それほど数多くの改革をこの一年間にわたってつぎつぎとA・M医師は手がけたからだ。このことは逆にいえば、それほど多くの改革をせねばならない課題が患者を重圧していた、ということだ。
 そしてその改革の主要な点は、なによりも鉄格子や、保護室や薬漬けや電気ショック、手術に代わって、烏山病院の特徴であった「ルール漬け」、より具体的にいえば「三大服務規定」という医師、看護士やパラメディカル・スタッフをガンジガラメにするルール、そして医療労働者や患者の日常生活の二四時間を一五分〜三〇分刻みでしばりつける日課表、週課表の呪術から、労働者、患者を解き放つ作業であった。
 この体制については後ほど詳述するとして、まず、患者家族にとってのおどろきは、従来は家族が患者に面会するのに、まるで留置場や刑務所の面会所のように、病棟からは鉄扉でさえぎられたカギ<0144<のかかった部屋でしか会えなかったのに「病室の面会所化」あるいは「聖域の消滅」として語られているように、少なくともEF2病棟(生活指導病棟でA・M先生が主治医をしている二階の病棟、E=男子病棟、F=女子病棟)内部では患者も家族も、医師も看護者も、すべての人が立ち入れない聖域は存在しなくなり、家族は初めて自分の肉親がどのような姿で病棟で生活しているのか、じかに眼に触れることができるようになったのだ。
 「A・M先生が、患者さんのところにいってロッカーでも整理してあげて下さい、といわれたときにはびっくりしました。病人がどんな生活を病棟のなかでしているのかみたことは、いままで経験した病院でも、ここでもただの一度もなかったし、それが精神病院というものなのだ、と思っていたんです」と患者の家族のすべてが語る。
 しかしいまでは、患者は自由に医務室に出入りするし、男女病棟間の往復も自由である。「先生、たばこ、ちょうだい」と精簿の患者がA・M氏の吸いかけのたばこを持っていったりする姿のなかには、威嚇と束縛のもとにしか精神医療が成立しないと考えているらしい現在の精神医療の威圧的な姿はかけらもない。

 患者−家族関係の改革
 このことはもうひとつの重要な意味として、家族の治療への参加という問題がある。先述の母親の話にもあった「医師(石)の地蔵さん」の沈黙ぶりのなかには、家族の質問や口出しは医師の権威へのなにがしかの侵害であり、医療とはエリートがほどこすもの、という特権層の意識がありありとう<0145<かがえる。
 「息子の発病にも、再発にも、父親の態度が関係していました。社会的地位へのさしさわり、近隣への気がね、優秀な者に育てたい願望を裏切られた怒りと失望などが、はしばしに現われ、息子はそれを敏感に感じとり、そして矛盾が爆発するとき、息子は再発していました。私はそれに気づいていましたが、家庭内でなかなかそれがいえずにオロオロして、なんとか主人と息子の関係を融和しようとだけしていたんです。
 A・M先生に息子と主人との関係を指摘されたときはビックリしました。お母さん、調停してはいけません。息子さんとお父さんの間で相克し、克服する以外はありませんと先生にいわれ、つらいけれどもやってみました。いさかいがある。息子は悪化する。少しよくなる。ふたたびいさかい。そして悪化。これをくり返して主人はやっと自分に原因があるのだ、と気がついたのです。主人が態度を改めたとき、私はこれで廃人を宣告された息子もなおるのだ、と一〇年来の闇に一筋の光がさすのを覚えました」
 家族関係の克服はある意味では患者と家族の思想改造である。そして患者の闘病は、家族のみずからとのたたかいでもある。この関係は必ず、家庭から社会への外延を求めずには解決しないだろう。そしてこの父親は、いまもっとも確固とした精神医療の人間解放への信念を抱き、A・M医師を追放する病院当局の動きに反対して家族たちのたたかいの先頭にたっている。この家族にとって、父親のこの自己改革は、家族史の革命でもあっただろう。その自信の背景には、廃人を宣言された息子がA・M医師の指導と、家族あげての闘病への参加の結果、すでに退院し、家庭において正常な日常生活<0146<を送っているという治療の実績が、厳然としてある。
 EF2病棟で、A・M医師の配転に反対して坐り込みに参加する家族の一人ひとりの家族史のなかに、EF2病棟の一年間の経験はこのような激動を与えている。テクノクラート、医療エリートによる専断からの医療の解放が、A・M医療のなかで、患者−家族関係の改革として生まれつつある点を見落すことはできない。

 管理秩序に抗して
 病棟において閉ざされてきた患者の息吹きをみてみよう。患者約五〇名はいま、中小企業に通勤している。これらの人たちは、従来「治療不能だ」といわれ、いわゆる「無為自閉」でゴロゴロ寝転んでいるほかはない、とみはなされていた人びとである。そして、「作業療法」と称して強制的に駆り出され、看護者の督励で内職をやらされてきた。報酬はゼロ。
 それは「生活療法に関する服務規定」に「作業療法は精神科における最も重要な治療の一つであり、通常、作業という概念から報酬を考えやすいが、治療行為である以上報酬は認めない」として、労働に対する対価という憲法の人権の精神は、ここでは治療という名目で奪われていた。問題はそれが、本当に治療であったか、ということだろう。
 A・M氏はこの「ルール」を無視して、患者が作業に参加するのは自由とし、参加したものにはきちんと報酬を支払った。いままでみはなされていた「無為自閉」の患者が、二トントラック一杯分の一升ビンにレッテルを張る作業を、二日間でやり切ってしまった。患者は「この仕事では割が悪いよ」<0147<と主張し、A・M氏らは手分けして仕事捜しに中小企業にあたった。こうして開拓した職場に通勤するようになった患者は、自分から参加したことで作業への持続性をもち、全員脱落することなく現在にいたっており、他病棟で「ルールにもとづく作業療法」として通勤したものが、半月ともたずに脱落する例が多いのにくらべて、明確な差を示した。もちろん、「精神障害者でも身(⇒体)障害者でもどしどし低賃金労働者として使う」という資本の論理にのせられる危険性はA・M氏らも認識している。だが、問題は、「患者の労働が、人間の労働として回復していく過程(治療の過程)に、治療と称して強制的に働かせ、報酬を収奪するのか、患者の意欲を解放し、労働をあくまで治療としつつ、患者の日常性のなかにとり入れていくか」という医療者のかかわり方で、結論は根本的に異なってくる。そこにはじめて作業療法が、ていのいい患者からの搾取から、治療の本質を取りもどす過程があるだろう。そして珍妙なことには、強制的に無料労働に患者を駆りたてていた人びとから、A・M氏の行為は「利益で患者を釣る物質刺激であり、ルール違反だ」という噴飯ものの批判が出されていることだ。「患者だとか、病人だとかいう眼でみなければ、通常人と変わりません。ただ、テンポが遅いとか器用でないとかいう点はあっても、なんでこの人たちが見放されなければならいのか、私には理解できません。最初、一点を見つめたきりだった人も、どんどん明るさをとりもどしています。感情鈍麻とか無為自閉なんてのは理解できませんね。収容所では通常の人間だってそうなるでしょう」
 午前と午後で七人の患者が通っている世田谷の肉屋さんはこう話っている。見放すべきでない人間を見放してきたのが精神病院であることを支配・管理意識に毒されぬ眼は素直に見抜いてしまうのだろう。<0148<
 患者の労働によってえた賃金が患者に支払われたことが「ルール違反」となったように、A・M氏らの「治療」はことごとくルール違反となった。人間として患者と触れ合うこと、そのためにとられる具体的た行動がことごとくルール違反となるという結果は、なにもA・M氏が意識してやったことではなく、患者を人間としてみつめ、治療に専念しているうちに、周囲の声に気がついたら「ルール違反」となっていた、というようなものだ。
 しかも、このルールは、烏山病院という一個の病院だけの問題ではなく、このようなルールを、文書化するかしないかは別として、少なくとも病院「管理」の秩序として成り立たせている日本の精神医療の収容所性から生まれてきている。簡単にいってしまえば「精神病者に対してはなにをしてもよい」「身体障害者にはなにをしてもよい」「自分で自分の始末もできない人間に主張する権利はない」「彼らを支配する資格者の権限は絶対である」等々の思想から成り立っている。このような「非人間」「ゴミ」「汚物」管理の思想の具体化として病院が存在している。
 A・M氏はこの結果、六月一〇日、西尾院長、竹村副院長から「ルール違反」としてEF2病棟追放処分を通告された。理由はこのほかに「事故が多い」「診療会議に参加しない」の三点であった。ここでまず、この「ルール」とよばれるものの実態を明らかにしてみよう。

 医師団権力の病棟支配
 烏山病院の医療者から患者にいたるすべてのものの一日の行動を、三〇分、一五分刻みで律しているものが、三大服務規定と週課表、日課表である。これは、企業でいえばベルトコンベアーによる合<0149<理化の役割を果たすものだ。日課表(別表)を参照していただこう。これで看護者と患者が一〇分刻みの行動に日常的に縛られている実情が明瞭になるだろう。これは、患者ばかりか、医療従事者そのものが、ものを考えない、ロボットとして、時間と時間のつなぎめをただ流れていく存在に化していることを物話っている。

 男子生活指導病棟看護課日課表

0.30 引継ぎ,点検〜備品点検
1.00 巡視,諸記入
2.00 巡視
3.00 失禁誘導介助
4.00 巡視,消毒
5.00 巡視,病棟勤務室掃除〜洗面準備
6.00 電源〜布団部屋開放〜起床太鼓〜洗面介助〜たばこ渡し,検温〜配膳室点火
6.40 投薬
7.00 朝食準備,配膳配食指導
7.20 重症者食事介助,ホール掃除指導
8.00 たばこ渡し
8.30 引継ぎ〜巡視,点検,重症者全身清拭,ベッドメーキング,掃除
9.00 ラジオ体操誘導・指導,排尿誘導介助,私物整理(木),床磨き(土)
9.20 作業準備,指導,処置,グループ会準備
9.30 グループ会
10.00 病棟会議(木)
10.30 ホール掃除指導,たばこ,私物,牛乳渡し
11.00 排尿誘導介助,昼食準備,配膳配食指導
11.20 重症者食事介助〜投薬,ホール掃除指導
12.00 たばこ渡し
12.30 入浴(火・金)
1.00 排尿誘導介助,入浴介助(火・金)レク準備・指導
1.30 おやつ用意
2.30 点呼(水・土は3.00)おやつ,たばこ渡し
3.00 排尿誘導介助,検温,投薬準備(1人準夜の日)
4.00 夕食準備,配膳配食指導
4.20 重症者食事介助
4.30 引継ぎ〜点検〜投薬,ホール掃除指導
5.00 たばこ渡し〜病棟勤務室掃除〜洗濯〜シャワー浴誘導
5.45 たばこ渡し
6.00 布団部屋開放〜就床準備指導,施錠点検,電源
6.30 布団部屋閉鎖,グループ髪剃(グループ前日)
7.00 失禁誘導介助,回診準備
8.00 脱衣指導・投薬
9.00 消灯〜失禁誘導介助〜備品準備
10.00 巡視
11.00 失禁誘導介助〜干物取込み整理
12.00 巡視
<0150<


 このように医療者のロボット化を成立させる権威と秩序の体系(ヒエラルキー)の完成は、院長を頂点とする医師団権力による各病棟支配であり、その下に中間職制として存在する看護者・パラメディカル・スタッフによる患者支配である。
 まず「医師服務規程」は冒頭から「命令系統の重視」と「院長による任免権」がうたわれ、ついで病棟管理における医師の責任と権限の絶対性をうたい、チームワークにおけるリーダーであると格付けし、同時に「直属上級医師への連絡報告義務」を課し、医師間の上下関係をも規定している。さらに「政治活動に類する対外活動の制限」まで記して、医師が院内においての絶大な権力者である地位(管理支配者)を与える反面、医療制度への改革者ではあり得ないようにしめつけているのである。さらに中間職制としての「看護服務要領」は、なによりも「命令系統」「看護業務の上下の各々特有の責任と権限」を強く打ち出し、その位階秩序の確立の思想をすべての行動の下敷きとして規定化している。そしてこの位階を1婦長、U主任看護婦、V主任補佐、W正看護婦、X准看護婦、Y看護助手、Z看護補助員として格付けし、それぞれの位階の業務権限の範囲、してよいこと、してはならないことを業務記録、流通伝票に至るまで明記している。
 一例としていえば「服装、みなり(髪型を含む)、は婦長の指示に従う」とまで書かれており、そし<0151<て「看護婦は医師の指示を賢明に忠実に実行する義務を有する」として、医師の唯々諾々たる奴れいの位置と、その奴れいの間での位階の確立とで髪の毛一本にいたるまでしばりつけているのだ。
 「生活療法服務規定」は、烏山四病棟のそれぞれの療法の特色に応じていかに上級者の命令が、最下級者=患者にいたるまで貫徹するかを決めた規定である。例えば会議の項目を見ると「生活療法管理委員会」「医局会議」「看護主任会議」「職場主任会議」「給食会議」「医局事務連絡会」「合同看護研究会」「社会復帰連絡会」等々があり、その性格は、前述の固定させられたヒエラルキーを日常的にいかに貫徹させ、さらに固めるかに主眼がおかれている。
 「生活療法管理委員会」は院長が委員長で、記録も院長が保管する。
 「医局会議」は決定した事項を生活療法管理委員会に報告する。
 「職場主任会議」も院長が開催し、記録は院長が保管。
 「合同看護研究会」は婦長が主催する。
 こうして、西尾院長、竹村副院長を頂点とするピラミッドが、烏山病院にそびえたって、烏山病院全体はノロノロした刻みでロボットのように動き出す。それは治療とは縁遠い奇怪な光景だ。

 位階秩序の破壊
 まずA・M医師が着任早々の昭和四四年八月にEF2病棟でやったことはこの生活療法服務規定の廃止であった。そして週課表・日課表をも廃止してしまった。そして毎朝いっせいの定時病棟内巡視も、患者に対する威圧効果のみで、なんの治療効果もないことから廃止した。通信や電話の許可制や<0152<検閲制を廃止した。たばこの本数制限、消灯時間の厳守(→看護者の判断に任せる)、面会室使用と医師、パラメディカル、婦長、主任にのみ家族と面会できる権限があった面会制度(→面会場所無制限、随時来院、だれとでも話せる)、薬剤の大量投与、歯みがきや夜、寝小便しないため、むりやり定時に起こしたり、整理整頓掃除など押しつけの生活指導等を廃止した。
 そして大幅に看護婦の主体的判断を重視し、看護業務の拡大と質的充実をはかった。一般看護者の家族との面接や職場訪問も行なわれるようになった。こうした努力のうえに患者の家庭からの通院・通勤が行なわれるようになった。
 このことはことごとく、烏山精神病院のルールに反することであり、烏山精神病院の位階秩序の崩壊でもあった。
 ある看護婦は、次のように自分の行動の経験を記している。
 「先日入院したS君は入院当初、壁に便を塗りたくり、これを黄金にかえるといったり、保護室のドアをどんどん蹴飛ばしたりするので保護衣を着せられました。夜勤に行くと衣類を三枚も破いたりするので注意するよう日勤者からの申し送りを受けました。交代して間もなくS君がドアを蹴りますので話をしてみますと、彼が衣類を破るのは保護衣が窮屈で自由がまったく許されないからだ、ということがわかりました。そこで医師に話し、保護衣を取り除きました。それ以来彼は衣類を破りません。そうして今度は保護室という狭い、まったく自由のない独房への収容に対する彼の抗議が、ドアを蹴ること、ガラスを鳴らすこと、叫び声をあげることによって示威されました」。彼らは、そこで保護室の中に入り、彼が絵を描くことが好きだと知り、いっしょに絵を描く。しかし彼の示威行為は止ま<0153<ない。「それで私は、私の判断から彼を看護室の中を自由に散歩させてみることを試みました」「腹の中ではなぜ彼を一般病室に移さないのか不満をもっていました。ある人はこんな状態(保護室内にあって騒いだりドアを蹴ること)ではとても開放できないでしょうといいました。なぜこんな状態を呈するのかは追究しようとしないのです。そうしたある日、やはり彼を看護室内を散歩させているところへ一人の心理判定員がやってきて、職分が違うのだからまずいじゃないですかと憤懣を表明していました。そして数日後スタッフミーティングの場でそれは越権行為であると指摘されました」
 ヒエラルキーを越え「分をわきまえない」行為は、ミーティングの場が取り締まる。そして判断は、人間が治療のために、行なうのではなく、階級が秩序を守り、患者支配のためになされる。彼女の実践は、ここでの治療の行為が、ルールに違反せぬ限り実現しないことを、明白にしているのではないだろうか。
 治療の行為を「地位による権限」としかみない「労働者」。その多くが、A・M医師らの行為が、自分の生活の場を崩壊させるものとしてしか映じなかったのも無理はないかも知れない。この、自己保存本能に訴えて、烏山病院労働組合は「多数決」によってA・M医師を「院内民主主義の破壊者」と決議した。

 敵対する組合執行部
 そして一方では、このような「混乱の原因は非民主的な運営を行なった病院当局にある」としながら、これに対してA・M医師からは秩序破壊によって院内に混乱を招いているから、これは「両極<0154<(病院当局とA・M氏ら)からする民主主義の破壊であり、両者とたたかう」という「二つの敵」論を展開した。だがその後の経過をみると、組合執行部の攻撃の方向は、明らかに当局と結託し、A・M医師らの追放にのみ全精力を注いだ。
 そして病院当局によるA・M医師の「追放」を了承し、その教宜部発行の機関紙「ひだね」はあらゆる努力を、A・M医師らの開放療法が、事故を多発し、危険なものであるというキャンペーンを張り、A・M医師を支持してたたかっている烏山病院闘争委員会はトロツキストであり、烏山病院乗っ取りを策していると攻撃している。そしてとくにA・M医師を支持している若手医師に対して次のような批判を浴びせる。
 「精医連医師四名は院内改革をキャッチフレーズにして」「破壊的同伴者の組織を拡大せんとしている人たちである」「他の職種、他の現業労働者が同じような行動はできない。たちまち飯の喰いあげである」「烏山病院で散々暴れても医師だから喰っていける。生活の基盤が違うのだ」「このもっともよい例は碧闘委である。彼らは自分の病院が告発されたときたち上ったのはよいが、自発的当直拒否などをやってヤマネコストをやり解雇された。彼らの主張も破壊的傾向を帯び、もはややとってくれる所もない」(烏山労組教宣部『ひだね』七月二七日号)
 碧闘委というのは、朝日新聞で暴露された碧水荘病院の内情に抗議して決起した碧水荘闘争委員会のことであるが、ある有名な電パチ先生や、牢獄以上の非人間性、背徳性に対して決起した労働者を「破壊的だからやとってくれる所もない」といって小気味よさそうにしている神経は、もはやだれがみても、烏山病院労働組合の執行部がどこまで堕落し切っているのかを明確に証拠づけている。<0155<
 西尾院長、竹村副院長が労働者をここまで手玉にとっている力量はたいしたものである。こうして労働組合は、たんなる言葉のキャンペーンにとどまらず「自警団」の本領を発揮しはじめる。八月後半、連日にわたる西尾院長、竹村副院長を先頭にするEF2病棟への押しかけ攻撃に、職制、組合員ら五、六〇名が加わってEF2病棟の診療妨害を行なった。
 だが、この労働組合をまき込んだ院長、副院長の手腕をもってしても、患者家族のA・M医師支持の結束の固さは崩せない。それが病院当局にとっては頭痛の種なのだ。しかし、こうまでして西尾・竹村ラインが強硬にA・M医師配転を行なおうとする背景は意外に根深いものがある。

 収容機能の悪用
 この点について烏山病院闘争委員会は「西尾・竹村ラインによって院内外に積極的売名的になされてきた権威・名声からの失落への予防線であり、竹村副院長の精神衛生構想、中間施設構想の欺瞞性の露見防止のため」だと分析している。
 竹村氏は今年四月、烏山病院の経験をもとにして「慢性経過、長期在院の精神分裂症のための社会復帰施設に関する研究」という論文を厚生省に提出している。これが烏山病院闘争委員会のいう「中間施設案」であるが、その内容には昭和四一年一〇月以来、烏山病院が厚生省がうちだしている中間施設的運営を研究的治療として行なう方針が打ち出され、患者と病棟を厳選してその突験が続けられていることを報告している。
 この中間施設は、政府が、精神障害者対策治安対策として進めようとする方針として打ち出してい<0156<る@精神障害者の医療費公費負担制一本化の追求、A精神衛生法を支柱とする「地域精神衛生網」の強化、B刑法改正による保安処分の新設、のAに相当する部分の実施のための施設だが、烏山病院はおそらく院内のほとんどの部分が知ら間に、政府の治安対策のモデル病院とされ、竹村氏は病院全体を政府の実験の場と化していたのだ。このことが、労働者支配の方法としてきわめて巧妙な三大服務規定の重圧と労働者の抵抗力の圧殺なしには実現し得なかったのは当然であろう。
 竹村氏はすでにふるくから強硬な刑法改悪論者であった。周知のように刑法改悪はスパイ罪、騒擾予備罪、内乱教唆罪、保安処分など、いっさいの平和憲法下における労働者の権利よう護を削除し、執行権力の刑執行裁量権を拡大し、権力支配秩序の網の目に国民をスッポリ包みこもうとする企図にほかならない。したがって権力が批判者を弾圧するときに、つねに強力に利用されてきた精神病院という収容所機能をフルに活用するものとして、保安処分がもっとも重要な柱として持ち出されたのは当然であった。保安処分とは、アルコール中毒、麻薬中毒、精神病質(異常性格)、犯罪者を法務省管轄下の施設に収容し治療処分に付そうというものだが、問題は精神病質者という概念の反動性にある。
 この精神病質者というのはK・シュナイダーが一九二三年に提起した概念であり、ナチスドイツの常習犯罪取締法(一九三三)に導入され、精神病質者の中にふくまれる闘争性狂信者、確信犯などの概念を利用して、ナチスの敵対者を「精神病者」として強制収容する根拠となったものである。
 竹村副院長は、昭和三六年三月一七日の朝日新聞に「異常性格者の保安処分」と題して論文を書き、「病院施設より機能分化した保安施設を新設すべきだ。刑法改正が大事業で時間がかかるなら、この保安処分だけでも早急に実現せよ」と主張している。<0157<

 強制収容所化する精神医療行政
 精神病院と国家権力が結合したとき、歴史上どのような恐怖の弾圧機関となっていったかは、端的にナチスドイツの歴史が物語っているとはいえ、アメリカにおいて広島原爆飛行士クロード・イーザリーが後に熱心な原爆反対活動家となったところ、たちまち、アメリカの国家権力は、彼を二度と出られないといわれた重症精神病者のみが入る精神病院に収容した。また、スイスの作家ヨアヒム・イシュテンが、『ケネディ暗殺の真相』というウォーレン報告に反論する著作にとりかかったところ、アメリカのスイスにおける出先機関に警告を受け、精神病院に監禁された。
 ソ連の場合は、社会秩序維持省管轄の特殊型精神病院があり、例えば作家ワレリ・タルシスは八ヵ月間強制入院させられ、在ソ中国人留学生がアメリカ大使館にベトナム侵略反対のデモを行なったところ、その一人が神経治療室というところで拘禁された。日本の労働者が労働争議のなかで当局側から精神病者として引っ張られるという扱いを受けることもしばしば起こっている。
 これらの事実を背景にして烏山病院に起こっている事実をみるとき、全体的政治状況と無関係に、個別企業秩序のゆるす範囲で自己の存命をはかる労働者が、本当の意味での労働者の連帯を話る資格がないばかりではなく、逆に、ナチス強制収容所において、他民族を、そして政敵を、さらに精神病者を、心身障害者を虐殺していった親衛隊(SS)の役割にさえ堕しかねないことを、けっして速い将来のことではなく、現実の問題としてわれわれは危倶するのである。
               (『月刊労働問題』七〇年一一月号)
<0158<


3 精神医療・幻想の解体ヘ

 薬漬けや保護室拘束、そして規則ずくめで精神障害者をしばりつけることから患者を解放し、多数の治癒者、軽快者を出したA・M医師を首切った昭和大学附属烏山病院が、一九七一年後半の精神医療界全体をゆるがす震源地として再登場しようとしている。

 生活療法という終身刑
 近代的・良心的精神病院を売物としていた烏山病院の生活療法体系が、じつは「民主的に粧われた終身刑」体系にすぎず、一方に生活指導病棟という終身刑(治癒不能といわれた者が入れられた)の恐怖と、一方において社会復帰病棟という幻想の体系を置くことによって、患者は病院当局の秩序に強制的に従わせられる体系がさまざまな委員会、会議の設置で巧みに粧われたものでしかないことが、また「治癒不能」といわれた患者が、じつは通勤も出来るし、治癒もするのだという実績が明るみに出された。
 この第一幕では、患者を秩序に従わせることにしか「医療」の道がない日本の精神医療に深刻な衝撃を与えた。
 だが肝心の問題提起を行なった医師がエリートとしての地位のワク内でしかこの問題提起を行ない<0159<得なかった限界性が、その闘争を崩壊させていったことはいなめない。
 第一幕での主要なメンバーは、昨年末のA・M医師の解雇を契機に全部烏山闘争から去り、闘争の意志を表明して烏山病院に踏みとどまったのは野村満医師ひとりであった。
 第二次闘争の幕あけは、量的に圧倒的な劣勢のなかで展開されてゆく。だが皮肉なことに、第二次闘争は、第一次闘争より、はるかに強固な戦闘力を構築し得ていた。
 その第一の強さは、野村医師の強固な患者との密着性であった。そして第二は、支援する「精神病院を考える市民運動」の、内部職員(労働者)への呼びかけの強さであった。そして何よりも自己の闘争の戦略的課題への把握の強さであった。
 医師が与えられた特権のワク内でいかに理念を掲げても、それ自体としては強固な改革への闘争力にはなり得ない。権限のワク内での患者解放への主張は、家族・患者からの支持が強烈に得られた。しかし、碧水荘事件で明らかにされた労働者の仕事=患者への加害者としての側面の解明は、労働者が患者と共通の被抑圧者として何をせねばならないか、という統一的な把握にまでは第一次烏山闘争のなかでは深められなかった。
 この結果、職員から必要以上の反発を招き、孤立していった。このことが、西尾院長、竹村副院長の体制維持の作業をやりよくし、職員をまき込んだうえで、A・M医師を有無をいわさず追放することに成功させていたのだ。

 賞罰委員会の誤算
<0160<
 A・M医師を解雇した大義名分は「賞罰委員会」の答申であった。西尾院長、竹村副院長はこの賞罰委員会という「手続き」をもって、院内外に首切りは正当であり、民主的に行なわれたという印象づけを行なった。烏山闘争委員会が世論から孤立した第一次闘争では、このことが成功した。
 しかし、第一次闘争以上にたった一人の野村医師に対しておこなう首切りはいっそう容易だろうと軽く見て、五月末に野村医師を賞罰委員会に召喚した西尾、竹村氏らは、そこで思いも及ばぬ誤算に気づかざるを得なかった。
 前後数度に及ぶ賞罰委員会に野村医師は出席したが、それは賞罰委員会が「院長の任命するメンバーのみで構成されている」「非公開」のものであるという密室性を暴露し、糾弾する場となった。
 野村医師は「非公開」をぶち破るやむを得ない手段として、賞罰委が勝手に決めた「録音器の持込み禁止」に反して、テープレコーダーを強引に会場に持込んだ。
 このようにして賞罰委員会の「民主性」は、じつは病院当局の暗黒独裁の本質を持ち、烏山の○○委員会、××会議という民主性・良心性の「売物」が、患者を抑圧するための形式でしかなかったことまで逆に暴露されていった。
 六月半ばの日本精神神経学会は、従来、烏山闘争の本質を知らなかった部分にも、党派的利害から中傷誹謗していた部分にも、賞罰委員会での録音をふくめた具体的証拠の提起によって、烏山病院の本質確認の場となった。
 総会に出席し、野村医師と公開討論することを要求された西尾、竹村氏は、これを拒み、総会後「精神神経学会は暴徒化した」と院内にビラをまき、学会総会が賞罰委の中止を決定したのに、賞罰<0161<委の答申を得たとして七月二二日、野村医師の解雇を強行した。

 医療闘争の軸へ
 野村医師と「精神病院を考える市民運動」は、内部職員に、「賞罰委員会は職員抑圧の最大の道具である」ことをねばり強く訴え、この粉砕のための共闘をよびかけている。野村医師の解雇撤回の本訴訟は、日本の精神医療を根源から問い直す裁判であり、小長井法律事務所を中心とする大型弁護団の形成や、日弁連人権擁護委員会の活動開始などによって、にわかに七一年後半闘争の輸となろうとしている。
               (『朝日ジャーナル』七一年九月三日号)<0162<」(高杉[1972:]


4 烏山病院闘争が告発したもの

 烏山病院闘争が告発した精神医療の実態とは何であったのか?それは一口に言って「管理あって治療なし」と言われる精神医療の中にあって、モデル病院、良心的病院の代表格の如く話られた昭和大学附属烏山病院の医療幻想の仮面が「管理を忘れた」不届きな医者によって、白昼夢のように一瞬はぎとられ、その正体をさらけ出した、ということにほかならない。
 樋田精一氏も『季刊病院精神医学』第二九集のなかで要約しておられるように、日本の精神医療の歴史は、
 1 私的監置主義から、公的病床を利用した公的監置主義への転換(一九〇〇〜一九五〇年)
 2 健保体制保険のしくみを利用した精神障害者対策の資本主義経済体制への組みこみ――精神障害者は単に監置の対象であるだけでなく新たに製薬資本・病院資本の利潤追求の素材としての機能を与えられた(一九五〇年〜一九六三年)
 3 公安的見地に立った地域行政組織(福祉事務所、保健所、精神病院、精神衛生鑑定医、警察、医師会、地方自治体衛生部、教育委員会、商工会議所、保護司、地域婦人会、企業、ライオンズクラブ、ロータリークラブ、隣組的密告組織……)確立の方向がうち出され、精神病者監護法の行政を、直接的な警察行政によらない新しい形でより中央集権的効率的復活の方向がうち出された(一九六四年以降)<0163<という風に要約できるだろう。
 この歴史のなかで明白なのは、形式こそ様々であるが、実質は精神医療の歴史が唯の一度も患者を治療することに主眼をおくのではなく、患者を管理抑圧することにのみ全力を上げて来たという事実であり、この歴史を欠落させた精神医療観が生み出す精神医療への主観的な努力や、精神医療の「民主化」「近代化」が、実はその主体である患者にとって抑圧形式の「近代化」「民主化」にほかならなかった、という事実を、「民主的」「近代的」烏山病院における一部の医師・医療労働者の闘いは鋭利に突きつけたからである。
 烏山病院の歴史は如実にそのことを物語っており、こうした歴史の中での位置づけぬきに烏山闘争を語ることはできない。なぜならば、昭和三四年、西尾・竹村・松島氏ら慶応三羽烏による烏山病院改革のエネルギッシュな展開こそは実に生活療法を旗印とした烏山病院が日本の精神医療近代化のトップランナーとして位置づけられるゆえんであり、しかも三四年の生活療法開始宣言より一〇年後の昭和四四年、この改革のマスタープランを形成した当の松島医師自身による生活療法体系への実践的批判と克服の内容そのものが、実は、日本の精神医療の先端を行くと見なされ、開放を内容とすると目されていた烏山病院の生活療法体系にすら、「管理あって治療なし」というショッキングな実体が白日のもとに露呈したからである。
 昭和三四年、西尾・竹村・松島氏らによって展開された烏山病院の改革の主内容は、次のようなものであった。
 (1)開放の促進、(2)「集団療法」及び「生活療法」(作業、レク、グループ会、生活指導等)、(3)パラメデ<0164<ィカルスタッフの採用養成(OT・CP・PSW)、(4)病棟管理体系(各種会議、生活療法、服務要領等)、(5)社会復帰活動、(6)家族へのアプローチ 等。
 だが、この「近代化」の促進は、後に烏山闘争の進展の過程で「三大服務規程体制」と概括された医師服務規程、看護服務要領、生活療法服務規定および週課表、日課表による病院管理社会の形成を促進し、労働者にとって、何よりも患者にとって身動きもならぬ重圧体制を形成するに至る。
 問題となるのは、この三大服務規程体制による重圧を、医療労働者が「民主的・良心的・進歩的秩序」として受け留め、進んで「民主的諸会議」(例えば病院管理会議、生活療法管理委員会等々約二〇にも及ぶ全体会議、部門別会議)に参加し、多数決秩序による福祉幻想的満足の中で患者抑圧ヘ積極的に参加し、自らを抑圧体系の一環として形成しおおせている事実である。
 精神医療の歴史的把握ぬきの参加がいかなる犯罪性を自らの労働にもたらすか、好個の実例を見る思いがするのである。
 第一次烏山闘争が支持したM・A医療の基軸は、実にこの三大服務規程体制、週課表・日課表体制の実質的解体作業であった。しかも、決定的な事実は、それがほかならぬ烏山病院の中で患者が最も恐れ、収容されるのを拒否する沈澱病棟、生活指導(EF2)病棟での解体作業であったということである。
 俗にアメとムチと表現される一部の人間による多数の人間管理の方法は精神医療においては、医師の診断と判定によって「治癒した」と宣言されるまではいつまで(終身でも)病院に監禁しておいても人権の名による世間の批判はないという合法性のなかで、終身の恐怖を一方に設定し、他方におい<0165<て「秩序」に服従する者を「治癒――退院(釈放)」とさせるという幻想を設定することで、人間を強制的屈従の体制下におく方法として普遍化している。この恐怖と幻想の体系の全面的完成こそが「保安処分」と名づけられる独占資本の人民管理の方式(ファシズム)の原型である。
 烏山病院が昭和三四年来開始した開放医療(生活療法)を支えるものとして「墓場」「終身刑」といわれ、「治癒不能」と医師がレッテルを張った患者の溜り場の設定、患者にとって「あそこにだけは入れられたくない」という恐怖の「生活指導病棟」の存在が構造的な存在であり、この存在をぬきにしては「開放」さえあり得なかった、いや、むしろ、このボケ病棟の恐怖を強めれば強めるほど、「開放」の幻想性もふくらみを増したというカラクリの中にあって、松島医師らが生活指導病棟で行なった三大服務規程体制解体、週課表・日課表廃止、その他あらゆるチームごっこ(突体は多数決原理による患者抑圧)、抑圧体制の廃止の意味するところは余りにも明白ではないだろうか。
 一言でこれを概括するならば恐怖と幻想の体系の解体である。
 一九七〇年来、松島医師が解雇され、一九七一年四月に至るまでに烏山闘争委員会が自己解体を遂げるに至るまで、第一次烏山闘争が提起した告発内容を基本的な問題点にしぼって語るならば以上のように要約できるだろう。
 しかし、第一次烏山闘争は、自らが告発した問題の本質を充分に捉えたとは言い難い。むしろ、敏感に自己の国家権力から与えられた「医療幻想」的役割の中で、EF2病棟の恐怖性の解体が何を意味しているのかを鋭く感じとった西尾・竹村氏らの対応は、的確に松島医師らが、それとは知らずに、良心的医師、管理より治療をめざす医師として行なった当然の「抑圧性をとり除く」作業を人事配転<0166<――解雇という形で強烈に反応し、抑圧して行った。
 第一次烏山闘争は、それとは知らず、国家権力が人民に対する治安管理の装置として、医療・福祉の幻想性を利用しつつ拡大しつつあった第二の暴力装置(=精神病院として姿を現わし、保安処分施設として完成する)の引き金の部分(最も抑圧の強い終身刑=生活指導病棟)をいじくりまわし、解体せんとしていたのである。恐怖と幻想の体系は、一部の人間を終身刑の抑圧状況におくことで、他の患者、労働者、一般市民を無限に、国家権力への屈従体系の中に叩き込む強制収容所の論理の体系にほかならない。
 この体系の実現が、昭和四〇年に「性格異常者の保安処分」と題して「刑法改正そのものが大事業であるから、異論の少ない保安処分新設の項だけでも早急に実現されることを期待する」と発表し(竹村氏)、中精審委員として保安処分推進のイデオローグとしての役割を果すという西尾・竹村氏ら管理者たちによって病院を実践の場として推進されたのは必然のことであろう。
 この暴力装置性は、保安処分制度の設置によって、タテマエとして医療に「限定」されていた不定期刑、終身刑を、一般大衆ヘ無限に拡大して行くことを可能にした。生活療法などという粉飾が実は秩序に従わぬ患者は終身刑、反抗する労働者は民主的に粧われた「賞罰委員会」(実は院長が任命し、非公開で追放を決定する)によって有無を言わさず追放する暴力装置によって支えられており、様々な会議、様々なミーティングが実は様々な姿をした賞罰委員会にほかならぬことを、体系的に明らかにして行ったのは、一九七一年五月以降の野村医師と精神病院を考える市民運動を軸にした「賞罰委員会解体」の闘争の展開以後のことである。<0167<
 この闘争は、西尾院長の国立久里浜病院への逃走(九月一日国立久里浜病院長として辞令発令)という事態の展開をもたらした。国立久里浜病院におけるアル中病棟は、西尾氏の烏山における経験を「開放療法」という幻想性と実質的暴力装置として、実体的保安処分の施設の全国的展開(厚生省は全国一四ヵ所に烏山的存在の国立病院を建設する予定であり、久里浜は手始めである)をめざしている。
 われわれは、この国家権力の精神医療への位置づけの歴史的把握と、戦略的視点を欠落させて精神医療を語るならば、第一次烏山闘争における「良心的医師」の試みに患者を利用したという犯罪的役割に自己を陥れ、同時に一部医師の政治主義的参加の場となってしまい、この闘争が病院構造の保安処分的体系化に対する個別闘争であるという視点を欠落させる結果となるであろうことを自戒とすべきであろう。
               (『烏山病院闘争』七一年九月一六日)<0168<」(高杉[1972:141-168])

◆林 徹郎  19720925 「管理社会と精神医療」,精神科医全国共闘会議編[1972]*
*精神科医全国共闘会議 編 19720925 『国家と狂気』,田畑書店,270p. ASIN: B000J9OSW8 [amazon] ※ m

 「…烏山共闘会議は、これまで私的精神病院のモデルであった烏山病院が、実は資本制社会に疎外された患者を一層貧しく差べつし、治療(作業療法や生活指導)の名の下に管理し、抑圧しつつ、可能な限り労働力として再生産しようとする、新たな隔離収容の病院でしかないことを徹底的に明らかにした。」(林[1972:83])

◆野村 満* 19750129 「烏山病院問題」『精神医療』第2次Vol.4 No.2[通巻16]:40-42(特集:裁判闘争/行政闘争)
 *烏山病院闘争委員会
 ※全文を収録しています。

◆小澤 勲 編 19750325 『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』,田畑書店,201p. 1100 ASIN: B000J9VTT8 [amazon] ※ m.

 「日本精神神経学会はかなりの程度までわれわれの手によって動いてきた。われわれは金沢学会闘争を契機として精神科医全国共闘会議を結成した[…]この委員会はようやく全国的に政治的課題とされ始めていた刑法改悪阻止、保安処分新設粉砕闘争の一つの要として運動を進めてきた。認定医制度はもはや問題にもされなくなり、十全会病院、烏山病院、北全病院をはじめとする精神病院問題、台人体実験問題に対しても、われわれの糾弾、告発闘争は圧倒的多数の支持をうけた。[…]だが、にもかかわらず」

◆樋田 精一 19791207 「「烏山裁判」から――「生活療法」をめぐって」,『精神医療』第3次8-4(33):96-102(特集:精神医療の現場から)

『全国「精神病」者集団ニュース』1980.1

 「烏山病院斗争
 八年前、烏山病院で一医師が解雇され、解雇撤回斗争が一九七九年十二月末まで斗われました。
 一医師の解雇は、烏山病院在籍中、「沈殿病棟」の開放化をめざし、一方「作業療法」と称して病人を作業にかりだし、そのうえその作業でえた収益を病院の利潤としている事に対し、「病」者の人権擁護、病院経営のあり方に対して、批判した事に対しての解雇でした。
 現在まで日本精神神経学会をはじめとして、さまざまな支援の中で精神医療の荒廃を問いただしつつ、自らの不当解雇撤回斗争を斗いぬきました。しかし、昨年十二月病院側がおれ、和解金八百万円とし、裁判が終結しました。
 この医師が投げかけた医師側からの精神医療批判(作業療法批判)は、各地に刺激を与え、一定批判的な流れとなった事もあり、和解で終結しました。その中から「病」者集団に、五万円のカンパが寄せられました。」

◆野村 満 19800525 「「烏山裁判」終結の報告」,『精神医療』第3次9-2(35):71-75(特集:社会復帰)

◆烏山病院間題資料刊行会編 1981 『烏山問題資料T――鳥は空に魚は水に人は社会に』,精神医療委員会

 「しつけを行うという、いわば生活のリズムを人なみに回復させるための再教育である。起床から就寝に、更に夜間のトイレット・トレーニングにいたる24時間の生活にあって、指導すべき項目は限りなくある。この生活指導は、レク・作業の基礎となり、またこの二者と組合わされて生活療法は成り立つ」(烏丸病院問題資料刊行会編[1981]、浅野[2000:40]に引用)

◆樋田 精一 19810320 「烏山病院問題」,『精神医療』第3次10-1(38):41 (特集:戦後精神医療の変遷 1945-1980)

◆臺 弘 1984 「生活療法の復権」,『精神医学』26(8):803-841→臺[1991:135-159]*
*臺 弘 19911201 『分裂病の治療覚書』,創造出版,260p. ISBN-10: 4881582283 ISBN-13: 978-4881582282 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「生活療法が学会で次に取り上げられたのは,昭和48年の大阪学会においてである。司会の森山公夫はこの時の主旨を次のように述べた。「生活療法の実体は,烏山病院闘争などを通じて暴露されてきている。一方,一連の不祥病院事件を通じて,悪徳病院における悲惨な状況は,生活療法の実体と基本的には同じ体質をもち,それの拡大歪曲としてあるのではないかという問題を提起している。生活療法は,現在,根底的に問いなおされる必要がある」。そこでこのシンポヅウムは,当時生活療法の名のもとに行なわれていた諸活動の功罪,特にそのネガティブの側面を強調する結果となった。
 藤沢敏雄8)は,武蔵療養所の生活療法が精神外科患者の後保護と関係が深かったという特殊な経緯を一般化して,それを生活療法の本質と結びつけ,この概念は廃止さるべきものであると述べた。この意見は,関根による生活指導が時代に先がけて開拓されたことを忘れている。小沢勲45)は,批判の矢を主として生活臨床に向けつつ,間題は生活療法の悪用にあるという江熊の反論に対して,弊害はむしろ生活療法そのものに内在する本質的な欠陥に基づくものであると言った。それは保守的で体制に奉仕する活動であり,典型的な適応論であると決めつけた。井上正吾16)のような老練の士までが,反精神医学の考え方に同調して,精神医学の医学モデルの是正を主張した。同じ頃に開かれた第6回の地域精神医学会では,生活臨床批判が集中的に取り上げられ,ここでも会議は混乱して,学会活動は停止した。
 このような批判はその後も長く尾をひいた。批判者の多くは,生活療法を自分から作り出すというより,厚生省あるいは病院経営者から与えられたものとして受け取ったので,治療者を権威者,患者を被害者とする受動的な固着観念から離れられなかった。このような例として稲地14,15)の論文をあげることができる。
 生活療法批判の対象となった烏山病院と生活臨床は,私見によれば,わが国の土壌に生まれて地道に積み上げられた典型例のように思われる。そ<0139<れだからこそ批判がとりわけてこの2つに向けられたともいえるが,このことをどのように理解し消化したらよかろうか。10年の歳月による風化はことのほかに早く,烏山裁判とはどういうものだったかを知らない若い人たちも増えてきている。生活療法批判には,価値の転換論と反体制運動が混同され。技術主義がおとしめられて精神主義が叫ばれ,漸進と急進という路線上の相違,手直し論と世直し論がからんでいた。そこでは原則論 principle と優先性 priority と実行可能性 feasibility の区別も明らかでないままに,政治的,感情的,利害関係の対立の渦が建設的な論議を阻んでいた。
 この貴重な経験を無駄に流してしまってはならない。そこで独断のそしりをおそれずに,私見を述べることにしたい。今になって考えてみると,たしかに烏山問題には「組織対個人」という根本的な問題が含まれていた。生活療法が治療者と患者という1対1の関係だけでは成立せず,治療チー厶による集団的活動を病院という組織の中で実践するものとなってくる以上,当事者相互の善意とは無関係に,組織を破壊する行動に対して反発が起きることは避け難い。もともと組織は患者のすべてに対して十分なサービスを及ぼすことはできないものであり,落ちこぼれの個人が生ずる可能性を同時に認めなければならない。この矛盾はすべての組織に内在する。これを承認したうえで,それをどのように克服するかは,組織をソフトにして融通のきく対応をするほかはないが。これを生活療法の本質に由来するものとして全面的に否定するよりも,技術的課題として具体的に処理することが必要なのではあるまいか。」(臺[1984→1991:139-140])

◆竹村 堅次 19881126 『日本・収容所列島の六十年――偏見の消える日はいつ』,近代文芸社,247p. ISBN-10: 4896070275 ISBN-13: 978-4896070279 [amazon][kinokuniya] ※ m

◆竹村 堅次 19941010 『患者は教科書――精神科医療・今昔談』,りん書房,147p. ISBN-10: 4795273804 ISBN-13: 978-4795273801 \1019 [amazon][kinokuniya] ※ m

◆竹村 堅次 19981215 『日本・収容所列島の六十年――その後の十年』,りん書房,390p. ISBN-10: 4795273936 ISBN-13: 978-4795273931 \3150 [amazon][kinokuniya] ※ m

 六 お別れ講演 私の生きた時代と私の歩いた道、これからの道
 19980320 東京武蔵野病院にて
 (財)精神医学研究所業績集 1997年に収載

 「烏山紛争の真相
 あれは、要するに反体制運動、それが次いで反精神医学になったときにどうなるかというと、精神病は社会が作るというわけです。病院に入院させるとかえって悪くなる。全部解放すべきだ。そして世の中がめちゃくちゃになろうと、彼らの自由にやらせろ。自殺したい患者は死んでいいと、そういう極端なことを言っていました。あの連中に任しておくと何がおこるかわからんということだったんだけれども、私は大学紛争の中にいたわけではなくて、烏山の中でリハビリのいい態勢を築いていたという立場にいたんですね。そこを目指していけばいいと考えて、いわゆる市中病院をねらってきたのが東大紛争の中心にいた精神科を目指す連中だったのです。共産主義を信奉してた連中ですね。それで医者の方も大変になった。その当時先輩の西尾院長の時代だったんですが、医者が一〇人いると、五人はその連中、五人は我々といったことで、たえずはりあった形でしてね、精神病の診断能力がまだっかないうちにあのインターン闘<0116<争をやったあと、何でも反対でやってきて、日本の国を改革するんだという具合でしたね。今の精神病院はなっておらん、俺たちに任せろという気負いで、もう無法なことをやりだしたんてすね。それが烏山紛争の発端であったわけです。で、烏山病院の紛争は、その中の一人の若年医師を解雇して八年も裁判が続いたのですが、いまだに真相が分からない人がたくさんいると思うんです。
 もう今になってみると、ある程度話さなければわからないだろうから話しましょうというここをいってもいい時代だと思うんだけれども、私はね、声を大にして実は精神科の医者が問題なのだといっているわけです。精神科の医者は一番常識がないといけない。それから一番物を見るのが正しい中立の立場にいなくちゃいけない。その人たちが精神的に偏ったらどうなるか、ということを言っているのです。理論的な根拠がど、っだこうだというんじゃなくて、日常の生活態度において、精神科医として何をするかということがですね。烏山病院の紛争の真の発端であり、またのちの世に残す忠告であったわけです。ですから連中がね、どんな思考や理論でやろうと、共産主義であろうと、社会主義であろうと、何でも構わないけれども、まずちゃんとした勉強をしろということで叱ったのだけれども、一人の医者がおかしくなってしまって、ワーッと躁状態になってね。それに同調むしろそれを利用、患者を完全開放する。それを誰もとめられなかった。とめようと思っても説得不可能。だからあとで私いろんな検討をしてみたんだけれども、あの躁状態になる時というのは絶対自分では止められないんですね。前から予防しよ<0117<うと思っても、薬飲んでよく寝ろとかいってもだめ。分裂病の場合はどうかというと、薬の飲ませ方を非常に注意深くやっているでしょう。その効かせ方もね、副作用がないように飲ませればいいんですからね。だが躁欝病は、仏教でいえば、業だというんです、業。こういうことで、問題は、朝日新聞が増幅して、世の中に、いままでの精神病の治し方は間違ってると報道したのです。あの若手医師たちの反精神医学理論は、明らかに誤りだったのだが、烏山紛争はこれだけでは起こらなかった。それが真相なのです。」(竹村[1998:116-118])

◆浅野 弘毅 20001010 『精神医療論争史――わが国における「社会復帰」論争批判』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー3,211p. ISBN:4-8265-0316-4 2100 批評社,メンタルヘルス・ライブラリー3,211p. ISBN:4-8265-0316-4 2100 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1956. m01h1958.

3 烏山病院の場合
 もう一方の旗頭であった烏山病院では、1959 (昭和34)年に、生活療法の方針が西尾友三郎、松島昭、竹村堅次らによって打ち出された。
 1960 (昭和35)年には、「生活療法に関する服務要領」が定められ、その後改訂を重ね、「生活療法服務規定」(l96l年)「生活療法服務基準」(1965年)となっていく。
 医師や看護婦についても、それぞれ「医師服務規定」(1962勺年)「看護服務基準」(1962年制定、1965年改訂)が示されている。
このように、病院内の諸活動をさまざまな規定や基準で規制しようとしたのが烏山病院における生活療法の特徴である。
 もう一つの特徴は、病棟を機能別に配置したことで、1961(昭和36年)に最初の4単位8病棟の構成がとられた。
 竹村は、烏山病院における生活療法について、つぎのように説明している。
 「当院では開放下の病棟管理に重点をおき、し生活指導、2.レク療法、3.作業療法、4.社会的療法(または社会治療)に4大別しています。このため病棟区分もさしあたり、1.治療病棟、2.生活指導病棟、3.<0038<作業病棟、4.社会復帰病棟の機能別4単位(男女別計8単位)にするのが便利と考えました。このように病棟を区分すると、入院患者の流れは治療病棟からはじまり、身体的治療後の病状に応じて他の病棟へ、最後には社会復帰病棟へと移ることになります。治療の内容を模式化すれば、
     一生活指導一集団療法導入
開放管理一一作業・レク一組織化
     一社会治療一社会復帰活動
となります。
 このような病棟移動は、あくまでも生活療法中心主義ではじめて徹底できるのですが、実際にやってみますと、かなりおおきな効果があるものです。」6)
 小林との違いは、社会治療と称するものが追加されていることと、治療を段階的に捉えて病棟構成をそれに対応させていることである。
竹村がここで提起している社会治療(ないし社会療法)という概念ははなはだ奇妙である。別のところで、竹村はつぎのように述べている。
 「社会療法は社会復帰を目ざす集団療法、生活療法のなかに含まれ、広義の生活指導のなかにも拡散浸透していく」7)というのである。
 これでは、生活指導との違いが雲散霧消してしまう。
 しかも社会復帰病棟で行われた社会治療の実際は、たかだか院内作業およひび院外作業にすぎなかった。
 そのことにことさら拘泥するのは、病院のなかで行われた生活指導や作業に社会治療なる言葉を冠することによって、問題の所在をあいまいにし、しかも院内で治療が完結するがごとき幻想をばらまいたからである。
 さて、「生活療法に関する服務規定」のなかでは、生活療法とは、作業療法、レクリェーション療法、生活指導を総称したもので、入院患者の生活管理の大部分を占めると定義されている。<0039<
 なかでも「病棟管理は生活療法の根幹」であるとされた。
 また、生活指導については、「しつけを行うという、いわば生活のリズムを人なみに回復させるための再教育である。起床から就寝に、更に夜間のトイレット・トレーニングにいたる24時間の生活にあって、指導すべき項目は限りなくある。この生活指導は、レク・作業の基礎となり、またこの二者と組合わされて生活療法は成り立つ」8)と述べ、その重要性を強調している。
 このような考え方が根底にあって、病棟毎の日課表、週問予定表が作られていった。
 たとえば、生活指導病棟の日課表は以下のごとくである。
午前6.00起床〜洗面〜喫煙〜服薬
  7.20朝食〜ホール掃除〜喫煙
  9.00ラジオ体操,私物整理(ホ),床磨き(土)
  9.20作業(室内・養鶏・園芸)
  9.30グループ会
  10.30ホール掃除〜喫煙〜牛乳
  11.20昼食〜服薬〜ホール掃除〜喫煙
午後0.30入浴(火・金)
  1.00レク・昼寝(夏)
  2.00絵画(土),"コーラス泳)
  2.30点呼〜おやつ,喫煙
  4.20夕食〜服薬〜ホール掃除〜喫煙
  5.10シャワー浴(夏)
  5.45喫煙
  6.00就床準備,髭剃
  8.00更衣,服薬
  9.00消灯
 かくして判で押したような生活がくる日もくる日も続くのである。また、この患者の日課表に対応する形で、看護者の日課表が分きぎみで作成されている。
 さらに、生活指導病棟で実施された作業についてはっぎのように考えられていた。
 「一般に慢性欠陥分裂病に対しては広く生活指導が、その基本的治療であることはいうまでもない。無為、不潔、怠惰、自閉の殻に閉じこもったぼう然とした生活、欠陥とホスピタリズム、これらを打ち破るためには、基本的な日常の生活習慣の回復、人間的な生活の回復からはじめなければならない。
 患者をめぐる日常生活の中から、すぐ身近にあって、生活指導と結びっいた仕事に目を向け、治療として利用し、病棟内日常生活を治療的に有効に過ごさせる様にすべきである。」9)
 その結果、本来は病院職員の業務であるはずの各種の作業が、作業療法という名目で患者に割り当てられることとなった。
 配膳当番・配食当番・便所掃除・ホール掃除・風呂の手伝い・床みがき・布団介助・歯みがき当番・残飯係・手洗い誘導・チャイム係・洗面所清掃・べット部屋掃除・廊下掃除・ちり拾掃除・各部屋掃除・新聞当番・足洗い当番・買物運び・おむつ運び・洗濯物運び・包布運びときりがない。
 こうした作業は治療の一環と位置づけられることにより、使役が免罪されることとなった。
 ところで、烏山病院における生活療法体系を編み出したひとびとが、精神分裂病をどのように捉えていたかは興味あるところである。
 中心的役割を果たした竹村は、分裂病の成因について「遺伝原基の想定なくして成因を考えることはできない。分裂病の異種性は周知の事実として、少なくとも浸透度、表現性の異なる、かっ臨床上の特殊性を発揮する<0041<こともありうる単一(優性)遺伝子の常染色体上の存在を予告してよい。もちろん多因子性、劣性等の遺伝様式も、異種性を認める以上否定しえないが、やはり優性遺伝の根拠を否定することはできない。」10)皿と述べ、遺伝性の疾患であるという考えを強く持っていた。
宿命的な病である分裂病に期待できるのは、たかだか社会的適応である。したがって生活指導を日常生活のすみずみまで徹底して、「しつけ」をすることが重要であると考えたのであろう。

4 生活療法の破綻

 国立武蔵療養所と烏山病院の生活療法は、1957 (昭和32)年に発足した病院精神医学懇話会を舞台に華々しく喧伝され、全国に広まった。
 薬物療法の出現ともあいまって、精神病院内を治療的に再編しょうと考えていたひとびとに、ひとつの方向性を示したのである。
 ある意味で、生活療法の管理形態は、病院運営に一定の近代化をもたらした。
 しかしながら、増殖し続ける精神病院のなかで、入院患者の在院日数は延長するばかりでであった。
 しかも、生活療法に積極的に取り組んだ病院ほど、患者の入院が長引くという事態が進行したのである。
 あたりまえの生活とはかけ離れた環境、生活を奪われた環境のもとで、こと細かに毎日の行動を監視されるのが生活療法である。
 治療者の意向にそうような行動が取れなければ、退院の許可はおりないということになり、社会はますます遠のくことになった。
 さらに、院内の使役作業もすべて生活療法としての意味をもっとされたため、全国各地の病院で、患者の使役と収奪が公然と行われた。<0042<
 かくして、病院内の生活を治療的に再編しようと企てた生活療法は、精神病院を収容所と化すことによって自ら破綻したのである。」(浅野[2000:38-43])

6) 竹村堅次:生活療法を主とする烏山病院5年間のあゆみ.松沢病院医医局編:これからの精神病院シリーズ.1966.
7) 竹村堅次:社会療法。小林八郎ほか編:精神科作業療法,医学書院,1970.
8) 烏山病院問題資料刊行会編:烏山問題資料し鳥は空に魚は水に人は社会に.精神医療委員会,1981.
9) 多賀谷譲ほか:生活指導作業.[文献8)所収]
10)竹村堅次:日本・収容所列島の60年.近代文藝社.1988.

 「臺は、生活療法が批判を受けた烏山病院問題は、生活療法の本質に由来したものではなく、組織と個人の矛盾にすぎなかったので、技術的に処理可能だったとしている。しかし、この問題については、本書でさきにふれたように、決して技術的な問題に還元できない本質的な思想の相違が含まれていたのである。」(浅野[2000:110])

◆鎌倉 矩子 20010620 『作業療法の世界――作業療法を知りたい・考えたい人のために』,三輪書店,204p. ISBN-10: 4895901483 ISBN-13: 978-4895901482 3300+ [amazon][kinokuniya] ※ r02. m.

 「生活療法は、1956(昭和31)年に初めて小林八郎によって提案された(小林,1965;関,1981;臺,1984)。モデル病院の役割を果たしたのは、国立武蔵療養所および昭和大学烏山<0047<病院である。」(鎌倉[2001:47-48])

◆田原 明夫 20031225 「「環境療法」ということ」*
*京都大学精神医学教室 編 20031225 『精神医学京都学派の100年』,ナカニシヤ出版,121p. ISBN-10: 4888488347 ISBN-13: 978-4888488341 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01a.(増補)

 「青医連運動・大学闘争を経て精神医療に足を踏み入れた私にとって、単科精神病院は、まさに課題の塊であった。広い窓に格子のない2階建ての開放病棟を持つ光愛病院は当時では開放的な病院であった。烏山病院に習い機能別4単位制を導大していた。しかし、作業や当番と称する使役的作業があり、内職作業の売り上げや院外作業での給与の殆どがレク費用とされていた。閉鎖病棟では買い物は伝票で処理され、煙草の本数も制限され、看護活動の重点は患者の日常生活管理に置かれていた。ISやESが「治療」と称される一方、日常的な関わりは治療活動とは意識されていなかった。年数回の「レクリエーション」も患者さんを楽しませてあげる、押しつけの企画の色彩が強かった。」

◆小野寺 光源 20070425 『精神保健福祉の問題点を考える』,新風舎,79p. ISBN-10: 4289018483 ISBN-13: 978-4289018482 900+ [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1969k.

第4章 障害者を支援する家族会の活動
 昭和大学附属烏山病院患者家族会(あかね会) 42-47(この部分引用)

http://www7b.biglobe.ne.jp/~shobar/shobarprofile.html

 「学校の隣の療養所に烏山病院闘争の発端となった精神科閉鎖病棟の開放を行った松島医師が非常勤で診察にきていて、少しだが臨床というものを教わった。松島医師の診察は精神療法で話をじっくり聞くというより、薬の処方を的確に、手早く簡潔に行っていた。地域の活動・診療所作業所が拠点で自然な人間の営みが大事といっていたように思う。」
http://homepage2.nifty.com/kotetsu-k/midoributa/HPdata/shimin-no-koyomi/1003.html

 「東京では72年2月、烏山病院闘争の中から、「精神病院問題を考える市民運動の会」がうまれた。このような流れは、さらに刑法改正・保安処分制度新設への反対、現在すでにある保安処分体制(地域・職場の治安管理体制)との闘いへと発展しつつある。(樋田精一)」

◆「昭和大学精神医学教室概要」
 http://www10.showa-u.ac.jp/~psychiat/info/index.html

cf.
http://www.showapsy.com/about/about02/

昭和大学精神医学講座沿革

教室創設から現在に至るまでの沿革の大要
昭和3年4月1日 財団法人昭和医学専門学校開校
昭和3年5月15日 財団法人昭和医学専門学校附属医院開設
昭和6年4月 精神病学教室教授として金子準二、植松七九郎が就任
昭和11年4月1日 附属医院に内科より分離して神経病科を置く。医長植松七九郎が担当
昭和13年4月1日 副医長として小沼十寸穂が就任するも応召出征により、副医長として塩崎昇吉が就任
昭和21年4月25日 医学専門学校から医科大学に昇格、昭和医科大学となる
昭和24年6月21日 塩崎昇吉、神経科教室主任教授に就任
昭和24年12月15日 財団法人から学校法人昭和医科大学に名称変更
昭和26年3月28日 世田谷区在の烏山病院が本学に寄付され、附属病院となる
昭和27年2月20日 学校教育法の施行により新制医科大学となる
昭和32年3月23日 学位審査権が寄与される
昭和34年3月2日 昭和医科大学大学院設置 精神医学指導教授として塩崎昇吉が就任
昭和34年5月1日 ◆西尾友三郎、烏山病院長に就任
昭和39年3月18日 薬学部が新設され、昭和医科大学から昭和大学医学部となる
昭和43年6月1日 本館東棟竣工、神経科移転
昭和46年8月31日 ◆西尾友三郎烏山病院長を辞職、竹村堅次、院長に就任
昭和48年3月31日 塩崎昇吉教授定年退職、名誉教授となる
昭和48年7月1日 ◆西尾友三郎、主任教授に就任
昭和50年7月16日 藤が丘病院開院
昭和50年8月1日 伊東昇太、藤が丘病院精神神経科教授に就任
昭和52年1月10日 歯学部設置認可、三学部体制となる
昭和55年12月 新入院棟落成、神経科病棟は西4階病棟より新病棟9階混合病棟に移動
昭和58年3月31日 ◆西尾友三郎教授定年退職
昭和58年4月1日 ◆竹村堅次、主任教授に就任(烏山病院長兼任)
昭和62年4月 東棟落成
昭和62年6月 精神神経科として東棟に移動、3階に精神科専門病棟完成
昭和63年4月1日 奥山清一、烏山病院長に就任
平成2年3月31日 ◆竹村堅次教授定年退職
平成2年7月1日 上島国利、主任教授に就任
平成6年3月1日 伊東昇太藤が丘病院精神神経科教授定年退職
平成6年10月1日 樋口輝彦、藤が丘病院精神神経科主任教授に就任
平成8年 烏山病院中央棟完成
平成10年3月31日 奥山清一烏山病院長定年退職
平成10年4月1日 井口 喬、烏山病院長兼教授に就任
平成11年4月1日 東棟を昭和大学病院附属東病院に名称変更
平成13年2月1日 工藤行夫、横浜市北部病院メンタルケアセンター教授に就任
平成13年4月1日 昭和大学横浜市北部病院開院、メンタルケアセンター開設
平成14年7月 烏山病院新入院棟完成
平成16年1月1日 大坪天平、烏山院長代理就任
平成18年3月31日 上島国利、主任教授定年退職 井口 喬、烏山病院長兼教授定年退職
平成18年6月1日 東病院3階病棟、精神科専門病院から一般混合病棟へ
平成19年4月1日 加藤進昌、主任教授に就任(烏山病院長兼)
平成24年3月31日 加藤進昌、主任教授定年退職 烏山病院長に継続就任
平成24年4月1日 岩波明、主任教授に就任

http://www.byochi.org/contents/07_shiryo/files/nenpyo2008.pdf

1962年(昭和37)
第6回病院精神医学懇話会
(東京・烏山病院、西尾友三郎世話人)
・特別講演:精神病院の建築について(吉武泰水)
(病院精神医学第7集掲載)
・病院精神医学第5
集:「精神障害者の開放問題特集」発行
・組織改革により会員制度に

◆小林 八郎・松本 胖・池田 由子・加藤 伸勝・徳田 良仁・鈴木 明子 編 19700525 『精神科作業療法』,医学書院,247p. ASIN: B000JA0RBS 2300 [amazon] ※ m. r02.

第5章 社会療法 烏山病院副院長 竹村堅次 173
 A.概論 173
  1.治療体系のなかの位置づけ 173
  2.集団療法と病相管理教育 174
   a)社会療法との関係 174
   b)精神分裂病について 174
  3.臨床チームによる社会療法 176
 B.社会療法の実際 177
  1.集団療法のなかの社会療法 177
   a)社会復帰学 177
   b)特殊なグループ会 177
   c)外来グループ 177
  2.生活療法のなかの社会療法 178
   a)ナイト・ホスピタル 178
   b)デイ・ホスピタル 179
   c)病院内職場作業 179
   d)その他の社会療法 179
 C.社会療法の背景と問題点 180
  1.社会療法と社会的治癒 180
  2.地域社会における社会療法 181
  3.これからの課題 181

精神科リハビリテーション 烏山病院院長 西尾友三郎 227
 A.精神医療体系の変遷 227
  1.精神病院中心主義 227
  2.地域精神医療 228
  B.入院・退院・就職・復職 229
 C.リハビリテーション医学 230
  1.リハビリテーションの定義 230
  2.精神科リハビリテーション 231
   a)特徴 232
   b)現況 233
   c)活動の内容および関与する職種 234

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/066/0200/06609030200005c.html

第066回国会 社会労働委員会 第5号
昭和四十六年九月三日(金曜日)
    午前十時五十一分開議
 出席委員
   委員長 森山 欽司君
   理事 小沢 辰男君 理事 澁谷 直藏君
   理事 谷垣 專一君 理事 田邊  誠君
   理事 大橋 敏雄君 理事 田畑 金光君
[…]
 出席国務大臣
        厚 生 大 臣 斎藤  昇君
        労 働 大 臣 原 健三郎君
 委員外の出席者
[…]
        厚生省医務局長 松尾 正雄君
        厚生省社会局長 加藤 威二君
[…] ○谷垣委員長代理 次に、厚生関係の基本施策に関する件について調査を進めます。
 質疑の申し出がありますので、これを許します。大橋敏雄君。
○大橋(敏)委員 わが国の精神病院における事故とか事件が続発しておりますけれども、精神病院に関係しまして若干質問するわけでございますが、まず最初に確認しておきたいことがございます。
 それは昭和大学附属烏山病院の院長であった西尾友三郎氏が国立久里浜療養所に九月一日付をもって赴任されたと聞いておりますが、これは事実かどうかということです。
○松尾説明員 九月一日付で西尾さんを、ただいまお話のあった療養所長に発令をいたしております。
○大橋(敏)委員 先ほども申し上げましたように、わが国の精神病院でとかく事故あるいは事件等が続発しておりますけれども、実は先般、たしか二十一日だったと思いますが、厚生省に予算要求の申し出をやりました際、政務次官ではございましたが、精神病院の実態についての資料を要求いたしました。その返書といたしまして、いま私手に持っておるわけでありますが、きわめて荒削りの、粗末なといいますか簡単な資料が私の手元に届きましたが、それを見ましても、たとえば「精神病院における管理運営上のことについて昨年来各種の不祥事例が指摘された。その主なものは、一、患者の不当拘束、二、患者に対する暴力行為、三、施設整備の不十分、四、火災の防止、五、医師、看護職員の不足等がある。」このようにまず五つの項目が列挙されておりますが、実は私も精神病院の事件についていろいろと調査を進めてみましたところ、膨大な資料が手に入ったわけであります。
 きょうはきわめて制約された時間でございますので、それを一々読み上げるわけにはまいりませんが、そのおもなものを要約して申し上げますと、まず第一に、京都の十全会問題がございます。これは結局、医療よりももうけ主義に走っているという実態があったわけです。あるいはまた重高濃度の薬物投与、与えなくてもよさそうな患者に対してじゃんじゃん薬を与えていたという実態、あるいは患者の虐待、あるいは三医師の京都地検への告発等があったわけです。また相模湖病院においても医師、看護婦の不足等からいろいろな問題が起こっております。危険なしろうとによるこそくな医療処置、あるいは県からの改善命令がすでに出ていたにもかかわらず、それに応じていなかったとか、あるいは診療不在といいますか、アル中のための医療であるということで、きわめて簡単な対策がなされていた。またその中身は保安処分制度ではないかと思われるようなきわめて粗雑な内容であったということですね。いわゆる診療不在。また藤沢中央湘南台病院においても不法入院の問題あるいは不当監禁、不必要な超濃厚医療あるいは不法な治療行為。また岩手の南光病院においても、これは東北地方でも最も近代的な病院とされているわけでありますが、盛岡地裁への告発等が起こっております。内容は、エピアジンという新薬の実験投与、生体実験。かなり問題があらわれているわけであります。あるいは大阪の泉が岡病院ですね、ここには小づかいのピンはねの問題あるいはずさんな秘密裏の会計等が指摘されております。また五条山の問題については、すでに二人の良心的な医師が追放されているという問題。あるいは宮城県の小島病院の火災、ここでは六人が死亡しております。栃木県の両毛病院の火事においては、十七人の死者を出している。とにかくその中身を見れば見るほど、常識はずれの事件が続発しているわけでございますが、いま私が申し上げました精神病院の事件等は、いうならば氷山の一角ではなかろうかと私は思うのであります。
 そこでお尋ねしたいことは、実は先ほど申し上げました烏山病院と、いま私が申し上げましたいろいろな病院とは違うのか同じなのか、その治療のあり方あるいは管理のあり方等も含めてどうかということをまずお尋ねしたいと思います。
○滝沢説明員 ただいま先生から精神病院のいろいろな事件について御指摘がございました。具体的に烏山病院といま御指摘になった病院との比較の問題については、少なくとも昭和大学の附属病院であり、五百床の大きな規模を有し、しかも医師の数におきましても、常勤、非常勤含めて二十数名の医師がおると聞いております。少なくとも大学の附属病院であり、りっぱな医師がこの管理に当たっておられますので、いまあげられました例との比較では、常識的には烏山病院のほうが運営管理はりっぱであるというふうに、私は、少なくとも行政官としては常識的には考えております。
○大橋(敏)委員 いま御答弁がありましたように、われわれも、鳥山病院は厚生省がモデル病院であるというくらいに評価しているりっぱな病院であると聞いておりました。ところが先ほども申し上げますように、一般の精神病院で人権無視あるいは虐待、もうけ主義、医療不在、差別待遇、人体実験等々不祥事件が起こっているわけでございますが、それにも似た事柄があったというわけであります。というのは、御承知かどうかわかりませんが、この鳥山病院においてすらも、管理あって治療なしといわれるような実態があるわけです。それはE、F二病棟、生活指導病棟といわれているところでありますが、その病棟に入りますと、一生涯退院できないというような状態に置かれているというわけです。普通ぼけ患者の病棟であるとまでもいわれているわけでございますが、ここには百三十人の患者がいるということであります。従来の治療をしてもさっぱりきき目がない、沈でん病棟といわれて、その患者の家族の方々も、あそこに入ってしまえばだめだと、もう絶望視しているそうでございますが、実際に調べてみますと、そこに入った患者のほとんどが、入院日数というのは平均十年とかあるいは十五年、二十年の人が多いわけであります。要するに、ここは患者を治療してなおして社会に復帰させるというのではなくて、まるで収容所的な感じすら受けるわけでありますが、こういう実態がモデル病院といわれる鳥山病院の中にすらあったわけですね。私は、この一点から見まして他の病院においておやという感じを深くするわけであります。事実、昭和四十四年の七月ごろから実は松島という方と野村という二人の医師がこの病棟を受け持って、非常に空気は一変した、明るくなった、患者たちが生き生きしてきた。そして四十五年六月ごろまでに、約一年の間に八人の退院患者ができた。あるいは四十名くらいが外勤作業につけるまでになった。ところが問題なのは、そのようにいままで一生涯入院したきりであろうと思われた患者が、このような医師の努力によって、あるいは治療法によって現実に救われてきた患者がいるわけですね。そういう働きをやった医師に対して病院側はどのような措置をとったかといえば、四十五年の十二月には松島医師を解雇いたしております。それから松島医師と一緒に働き、同様な治療をしていた野村医師も四十六年七月二十二日付で解雇されているわけでありますが、私は非常にこれに疑問を抱くものであります。いままで私の説明を聞かれて大臣はどのような感じを持たれたか、まずお伺いしたいと思います。
○斎藤国務大臣 詳しいことは局長からお答えをいたしますが、私の感じといたしましては、やはり病院内の秩序を保って、そうして患者の治療に当たるということが肝心であろうと思うわけでございまして、どういう療法がいいか、どれがいいかということは、私はしろうとでございますから、これは学界なり専門の判断もあろうと思います。しかしながら、病院の経営は、一つの秩序を保った管理体制のもとにおいではじめて経営が効果をあげる、かように考えまするので、したがって、その病院としてとった措置が必ずしも不当ではなかろう、かような感じがいたすわけでございます。
○大橋(敏)委員 いまの大臣の答弁きわめて表面的なものでありまして、これまで絶望視されておりました十数名の患者が退院をした。中には二十七年ぶりに初めて退院をしたという人もおるわけです。しかも、それが会社にもうすでに働いているという事実があるのですね。また、一般の人たちと同様に数万円の賃金をもらって会社につとめておる人々が何人もいるわけであります。こういう事実の上から見た場合、これまでのいわゆる精神科医療のあり方というものは大きく検討されねばならない、抜本的に検討されねばならないという一つの評価がなされると私は思うのでございますが、どうでしょうか。
○滝沢説明員 ただいま先生が例示されました鳥山病院の病棟における古い、長く療養している患者、これはもうわが国の精神病院には多かれ少なかれ長期療養の患者がおりますけれども、これが退院ということまでにもつていくためにはたいへんな努力がいるわけでございます。先生の申された事実を私は確認したわけではございませんけれども、その事実がそうであるとするならば、たいへんな努力があったものと思うわけでございます。病気を治療することは、治療の方法その他患者の取り扱いにいろいろな療法がございますが、これは精神神経学会等の学会の場で論じていただく。また、新しい試みというものはいつの世にも医療の中にあるわけでございまして、そういうようなことから、たとえば従来精神病院というものは、各部屋とも全部かぎを締めておるのが常識であるというのが精神病院の実態でございましたが、十数年前、国立病院等はじめ各地にいわゆる開放療法というものが取り入れられまして、かぎのない患者の取り扱いという、従来取り扱ってきた方々から見れば画期的な一つの治療法が開拓されまして、そしてこれが逐次広がり、ほとんど全国の精神病院では何らかの形で、その取り扱いをでき得る患者に対しては開放的に取り扱う。これでいろいろの生活指導を含めた日常の治療をする。これらにつきましては、いま申し上げましたように、どのような方法がいいか、あるいはどうすることによって効果があがるかということについていろいろの試みをなさるということは、特に大学の付属病院等ではあり得ると思うのでございます。そういう意味で、先生が例示されましたような問題の――私詳細は承知しませんが、結果がよいということであれば、それは学会の場で大いに議論して、そしてその方法が一般的な精神病院の治療法として、あるいは患者の指導方法として取り入れることがよければ、これは学会として承認され、先ほど例に引きました開放病棟のようにこれが普及していくということが十分考えられると思うのでございます。
○大橋(敏)委員 いまあなたがおっしゃるように開放療法、これを現実に実施してみた。思いがけないすばらしい成果があらわれたということであるわけであります。そこでこれは、精神科の治療全般にこれを取り入れるべきであるかないかは、いまおっしゃった学会で当然これは議論になっていく問題だとは思いますけれども、少なくともこのような現実の証拠が出たからには、当然それは学会の中で検討されていくであろうし、また精神障害者の社会的回復については大いに研究に値する価値を持っている。これははっきり認める必要があろうと思うのですね。私が言いたいことは、そのように一烏山病院の中で起きた開放療法、そうしてそれから出てきた結果であろうけれども、それが精神科医療全般に及ぼす重大な内容を秘めているということから見た場合、そうした医師を簡単に解雇していった。先ほど大臣は秩序を乱すようなことであれば云々とおっしゃいましたけれども、これは当然解雇された関係の医師は裁判に持ち込むでありましょう。その裁判の上で明瞭になると私は思うのでありますけれども、いずれにいたしましても、病院というのは患者を治療してなおしていくというところであろうと私は思うのであります。
 もう一回大臣に基本的に聞きますけれども、その精神病患者を人間として見ていかれるのか、人間の病気として見ていかれるのか、あるいは精神病患者というものはもう人間以外の感覚で扱っていこうとするのか、これはきわめて基本的な問題でありますので、大臣からお答え願いたいと思います。
○斎藤国務大臣 申し上げるまでもなく、治療は人間の人権尊重ということが第一でございます。申し上げるまでもございません。私が申し上げましたのは、そういういい医療、いい治療方法をやって、いい効果があらわれたというような場合に、他に理由がなくして解雇ということは、これは独断的なやり方ではできない仕組みになっているわけでありますから、そこに何らかぐあいの悪い点があったのではなかろうか、かような観点から申し上げたわけでございます。
○大橋(敏)委員 まあ中身を知らない間は確かにいま大臣が感ずるようなことになると思いますけれども、現実に烏山病院のそうしたごたごたをいろいろと調べてまいりますと、非常に不都合じゃないかと思われる個所が幾らもあります。現実問題として、いろいろと、悪いといわれていた精神病患者の家族の方々が、その治療を受けて帰ってきた、非常な喜びのもとに、こうした医師の解雇についての措置に対して抗議を申し込んでおります。私はその抗議文を持ってはきておりますけれども、時間が制約されておりますので、その中身は省略いたします。しかし、いつ、どこで、だれが抗議を申し込んだかはここで申し上げておきます。患者家族九人、代表として、昭和四十六年八月二十三日です、これは西尾友三郎院長あてに抗議文が提出されております。また、四十六年六月七日付で患者家族十数名による、これは「御願書」という見出しでありますけれども、これまた西尾院長あてに提出されております。その「御願書」の全文を読む時間がございませんので、その中身の一部分を読ませていただきますが、「患者家族の心情と致しましても、かつては患者治療の捗々しからざることに絶望状態でありました。これは真に患者家族の佯りない心情でありました。しかしいまは野村先生の治療により、患者も癒り得るとの希望を持てる様になりました。これは私共患者家族としてどんなに嬉しいことか真に量り知れないものがあります。私共患者家族としていま心から願いますことは野村先生の手による治療は何としてもこのまま続けて欲しいということであります。野村先生が貴病院の措置の為めに万一病院を去ると云ったことにでもなれば、これは現に野村先生の治療を受けて居る患者に対し、また私共その家族に対し余りにも大きい打撃を与へることになります。」患者の家族の皆さんは、野村医師等がやりました開放療法というものを非常に喜んで受け取っているわけですね。そうした事実の上から、野村医師のやっていることはりっぱじゃないか、それを解雇するというのは不都合だと、こういって抗議あるいはお願いをしているわけですね。ところが現実には解雇になってしまっているわけであります。それはいろいろな問題があっただろうという御認識のようでございますが、それは先ほど言いましたように、いずれは裁判等で明らかになっていくことであります。また局長のほうからも、これは医学界で当然そういういい療法ならば取り上げられていくはずだというお話もありましたけれども、現にこの鳥山病院の中の問題が起こりまして、日本精神神経学会の理事長大熊輝雄さんから西尾友三郎院長あてに要請書が出ております。これは四十六年八月です。それもこの際読ませていただきますが、「日本精神神経学会理事会は、昭和四十六年七月十二日付で、一、野村医師に関する賞罰委員会活動を直ちに停止すること、二、野村医師問題に関して学会の参加において公開の場で事態を明らかにすることを貴殿に要請いたしましたが、これらの要請が無視され野村医師が解雇されるにいたったことは遺憾であります。今後とも上記要請の趣旨に沿い事情調査に協力されんことを重ねて要請します。」日本精神神経学会理事長大熊輝雄氏の要請書であります。これは四十六年八月に提出されているわけでございますが、このようにすでにこの問題を重視して学界が動き始めているわけであります。
 また日弁連の人権擁護委員会といいますか、そこもこの問題を重視して調査に乗り出そうとしております。すでに動きは始まっているわけでございますが、このように人権擁護の立場から見た場合も、これは重大問題だといわれる、鳥山病院のこの問題ですね。あるいは病院、精神学界、あるいは日本精神神経学会などの主要な学会が調査の続行をやっている問題というのは、これは私はきわめて大きな事柄であろう。そういう中にきわめて簡単に二人の医師は解雇されたわけでありますが、私はこの解雇された医師の内容についても、これは労働基準法に照らしても、あるいは不当解雇ではなかろうか、不当労働行為ではなかろうかというようなことを感ずるわけでございますが、この問題は労働問題でございますので、後日私は労働省にただしてみたいと考えているわけでありますけれども、いずれにいたしましても、人権擁護の立場から見ても、あるいは医学界のオーノリティーの立場から見て、烏山病院の解雇問題あるいは治療の問題はこれは重大問題である、こうして事件が進んでいるわけですね。そういう中に、この院長が久里浜病院に転任したというのは、私は厚生省として少し早まったのではないか、このような感じを受けるわけですが、その点はどうですか。
○松尾説明員 私どもが院長を久里浜病院の院長に迎えたい、こういう希望を持っておりましたのはすでにかなり前でございます。正式にはやはり理事長あてに、この人をちょうだいしたいということを申し入れておったわけでございますけれども、学内としてはいろいろな事情もあってだんだん延びておった。しかし辞任をされるにあたりましては、正式に一定の予告期間をおいてその辞表を出されて、それが大学内の理事会におきましても正当に議論をされた上で認められている、こういう形になった上で、私どもはそういう、大学側がこの辞意を正式に認めたということで、私どものほうも採用に踏み切ったわけでございます。
○大橋(敏)委員 先般、二十一日に鳥山病院の実態についても、その資料要求をいたしました。一枚の返事が来たわけでありますが、これを見ましても、最後にこう書いてありますね。「その他問題点及び措置状況」として、「昨年来烏山病院内で医療の方法について一部の医師との間に意見の相違をみてトラブルが生じていたが、現在は一応正常化し、特に問題は生じていない。」こう書いてあります。
    〔谷垣委員長代理退席、委員長着席〕
私は、烏山病院の中で起こった、いま私が申し上げましたいろいろな事件、トラブルというものは、おそらく単なる一病院の問題であって、それはすでに解決済みである、その他の病院に関係はないんだ、しかもそれはすでに解決してしまっているんだという認識の上に立っての今度の措置であっただろう、こう私は思うのですね。そこに非常に厚生省の甘さがあるんではないか、こう言いたいところなんです。もう一度その点について、私が言ったことについてどうお考えになるか、お答え願いたいと思います。
○松尾説明員 いろいろな病院内で起こっておりました問題、特に大学の付属病院として起こっておるような問題の始末をどういうふうに結論をつけるか、これは私どもが実は介入すべき問題ではございませんで、大学当局自身がそれについてどういう処理をするかということの御判断をされるべきだと存じます。したがいまして、もしいま先生御指摘のような事態が真に大学側にあって、それは結論をつけるべきではないという御判断であれば、その院長が出した辞意というものはその場ではむしろ撤回をさせて、引き続き何らかの収拾策をはかるという決定をすべきであろうと存じますけれども、私どもはそういう一応の手続を踏んでもらった上で、先ほど申し上げましたように正式に理事会も承認をした、こういうことであれば私どもはやはりその結論を一応尊重して、私どもの予定どおりの発令をした、こういうことにならざるを得なかったわけでございます。
○大橋(敏)委員 現在私が申し上げましたような問題をかかえたまま国立病院の院長の座につくということ自体が、私は問題であろうと感ずるわけです。また、彼らの医療のあり方が批判されている現在、厚生省が何らの考慮もなくかの医療を国立でやらせる、このような考えでやっていることにも問題があるんじゃないか。というのは、いま烏山病院で行なわれている従来の医療、それだけではこれは確かに問題である。開放療法といいますか、それをもって何とか切り開くときが来ているという一つの事例が出ているわけですから、そういうときにこの問題が整理されないまま久里浜病院に転任するということは、これは私は早まったような気がしてなりません。
 それからまた、厚生省の資料を見まして非常に不可解に感ずることは、医師の数が、これに常勤十四人、こうなっております。ところが実際私が調べてみますと、常勤は院長を含めて四名。だけれども、実際に働いている者は三人しかいないのですよ。入院患者数は五百四十一名となっております。もちろんこれは四十六年七月末現在の調査になっておりますが、患者は五百四十一名なんです。それで実際に働いている常勤の医師は四名。実質的には三名ですね。はたしてこのぐらいの医師でその患者のめんどうが見られるかということですね。これはどうなんですか。これがモデル精神病院といわれた烏山病院の実態なんです。これについてどうお感じになりますか。
○滝沢説明員 資料は、東京都等が烏山病院の実態をお知らせいただいた資料の中から、そのままのものを先生に差し上げたわけでございます。現実の常勤の医師が四名ということと、資料として十数名ということで食い違いがあるようでございますが、その間の事情は私はここで明らかにする――御報告をいただいた事実をそのまま資料といたしたので、その点の確認はいまの段階ではお答えできませんけれども、ただ私は、一つの大学の付属である精神病院というものの医師の管理が著しく悪い、あるいは医師の定員においても、あるいはその発令、いわゆる人事の上で発令している正式の定員というものと、それから実際に医療に携わる者との日常的ないろいろな違いというものはあり得る可能性はあると思いますけれども、少なくとも教育というものを兼ねた烏山病院が、このような問題について全くその四名なり三名だけで、ある極端な時点をとらまえればいろいろそういう時点はあろうと思いますけれども、実態としてそういうようなことがあるとは私は想像できませんので、むしろ常識的には資料で差し上げたような――医師の日常ある時点をとらまえたとき、学会があったとか、いろいろな事情で医師が少ないという実態はあるだろうけれども、少なくともそういうようなことで医療に携わる実態はそう少ないものではないというふうに思っておりますが、なお、いまの数字の食い違いにつきましては、御指摘がございましたので、その点については再確認の上、先生に資料を提出いたしたいと思います。
○大橋(敏)委員 実態は私が申し上げたほうが間違いないと言いたいところです。というのは、私は現実にその点は調べてきた。確かに十四名の数はそろいます。けれども、ほかの方はパートタイム的な医師ですよ。私が言いたいことは、五百四十一名の患者をかかえて、それでいいかということですね。モデル精神病院といわれた烏山においてこうですから、まして他の病院においておやと言いたいところですね。この烏山病院は私立の精神病院でありますが、私立だから調査権限云々とかいうことで等閑視しないで、これは精神病院全体の大きな問題であるととらえて、徹底的にいろいろな問題を調査してもらいたい。そして報告をお待ちします。
 時間がありませんので結論的に申し上げてまいりますけれども、先ほども読み上げましたように、家族の方々からは開放療法の結果について非常に喜びの声があがっている。しかも二人の解雇された医師に対して、解雇しないように、そしていまの療法を続けてもらいたいという要請文あるいはお願い文があったわけです。また日本精神神経学会も、先ほど読み上げましたように問題として取り上げて、いま進行中でございます。また、日弁連人権擁護委員会もその問題について進行中でございます。当の野村医師もこれを裁判に持っていこうということで、着々と準備が進められております。そして、大型弁護団も準備されている等々が今度の「朝日ジャーナル」の中にも報道されております。それだけに、今回の院長の赴任の問題はあとあと非常に問題を残すんじゃないか、このように私は懸念するわけですね。これは、厚生省のために私はいま言っているわけです。だから、もし将来、今度西尾院長が行かれた久里浜病院が精神病院にかわっていくと聞きますけれども、その医療の上において、あるいは管理の上において烏山と同じような事件や問題が起こった場合、どのような責任をとられるかということになるわけですね。この点はどうですか。
○松尾説明員 国立精神療養所につきましては、私どもの直轄しております施設でございます。したがいまして、直接のいわば指導監督というものの責任を持っているわけでございますので、一般的な指導監督という立場よりもさらに強い、きびしい指導下にあるというふうに考えていただきたいと思います。また、国立同士のお互いの提携連絡ということも密にしながら精神医療を最もよくしていくということが国立精神療養所に課せられた使命だ、こういうふうにも考えておりまして、したがって、いわゆる独断的な動きとか、あるいは最新の医学にはずれるようなことをただ黙ってやっていくというようなことは私どもとしても許しませんし、またそういうただいま申しましたようなやり方から見ても許されないという環境にございます。また、かりに、いろいろなことを試みていくということは必要でございます、しかしながら、その場合でもやはり病院内におきましてのすべての人の協力がなければ新しい治療というのはやれないわけでございます。そういう意味においては、院内全部の関係者が一つの方法について十分調整をし、合意に達した上で踏み切る、こういうことがやはり必要でございまして、こういう精神療養につきましては、たとえば看護婦の問題にいたしましても、あるいはその他の訓練に従事する人でありましても、これは医師とともに一体となってやらなければできない問題でございます。ただ注射をすればやれるというような治療ではございませんので、特にそういう院内全体のチームワーク、意思の疎通というものによって新しい問題も展開しなければならぬ、こういうふうに私は考えております。したがいまして、そういう形でこの新しい院長にも運営をさせたい、かように考えておりますが、万一そういうことにもとるような運営があったといたしましたならば、それは国立療養所の所長として不適格という判断をせざるを得ませんので、そのときは私どもはき然たる態度をとって処理をいたします。
○大橋(敏)委員 じゃ最後に、もう時間が来ましたので申し上げますが、いま全国で百万人をこえる精神病の患者さんがいるといわれますけれども、この方々はいわゆる犯罪者というような先入観といいますかあるいは偏見に囲まれて、社会復帰の道もなく、小さくなって暮らしているというのが実態でございます。こういうのは現在の精神科医療行政そのものに大きな欠陥があるのではないかと、私はそう思うのですね。行政そのものに欠陥がある。治療制度において、いま申し上げましたような、従来にない新しい精神科医療、つまり開放療法という問題が鳥山病院の中から現実に起こってきているわけであります。したがいまして厚生省も、単にいままでの精神病患者に対する医療行政のあり方を踏襲するのでなくて、新しく切り開いていこうという立場から、この開放療法のあり方についても大いに研究を進めてもらい、そして学会のほうにその問題点あるいは改善点を提起してもらいたい、私はこう思うわけでございます。
 最後に大臣に所見をお伺いしたいわけでありますが、今回の烏山病院の問題はまだ消えたわけではないわけです。くすぶっているわけですね。そういう中に院長が国立病院に赴任した、ここに大きな事柄が一つあろうと思います。それから将来何か起こった場合は適確に処断していくというような、いま局長のお話がありましたけれども、これは当然のことであろうと思いますが、私はその院長を処罰するとかしないとかいうものよりも、精神科医療のあり方について大きく転換させなければならないときが来ているということを大臣も認識を深められて、その方面でしっかりと戦っていただきたい。そして、精神病患者も人間として扱われるように、つまり治療を重点とした医療が行なわれるように、心から希望する次第であります。最後に大臣の所感を聞いて終わりたいと思います。
○斎藤国務大臣 精神病院のあり方につきましては、お説のとおりどこまでも患者の治療ということを本旨にしてまいらなければならないと、かように考えます。同時に、社会にそのまま置いておいて、そして他に危害を与えるというような場合もございますが、本旨はいまおっしゃるような点だと、かように考えます。新しい治療方法の開発につきましては今後もできるだけ努力をしてまいりたい、かように思います。
○森山委員長 滝沢公衆衛生局長からちょっと補足的な発言があります。
○滝沢説明員 大橋先生、答弁済んだあとでたいへん恐縮でございますが、私がさっき答えました開放療法というのは、実はかぎをはずしてやる治療法ということを一般的にいう意味でございまして、今回の鳥山病院でいろいろやっておられる治療法を開放療法というと、ちょっと私の答弁と先生のことばの使い方とが誤解を招くおそれがございますので、たいへん恐縮でございますが、この際念を押させていただきます。
○大橋(敏)委員 あと五分、古川さんが……。
[…]
   午後六時一分散会」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E6%95%8F%E9%9B%84

大橋 敏雄(おおはし としお、1925年11月3日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(8期)。1967年2月、衆院選福岡2区に公明党から立候補し、初当選(連続8回)する。

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.


UP: 20110730 REV:20110731, 0806, 13, 20130402, 0829, 20140412
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