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東大病院精神神経科病棟(通称赤レンガ)占拠・自主管理



◆台 弘(臺 弘) 19931127 『誰が風を見たか――ある精神科医の生涯』,星和書店,335p. ISBN-10: 4791102622 ISBN-13: 978-4791102624 [amazon][kinokuniya] ※ m.

p216(東大赤レンガ自主管理)
 「学生の授業再開に伴う病棟実習を二学期から始めることになって準備を始めたところ、ストの続行を唱えている精医連は、自派から離脱した教室員を診療中にも拘らず暴力的に病室から排除して「自主管理」なるものを始めた。[…]
 「自主管理」された病棟には患者が入院していることは、それまでの占拠、封鎖とは全く違った条件である。「精医連」は医師たちは自分たちだけが正しい治療を行うことのできる者であると僭称して、反対派とみなす者が病棟と研究室、検査室に入ることを暴力的に拒否した。さらに許しがたいのは、攻撃に対して患者を盾に使うことができたことである。しかもそれらの施設は大学の公的な建物であって、私物化するのは犯罪的な行為である。しかしそこにはストレスに対して過敏さをもつ傷つきやすい患者たちがいる以上、外から圧力をかけたり、警察力を呼び込んで開放するわけにはいかない。私はゆっくり構えて自主管理派が自滅するのを待つしかないと考えた。[…]
 私が「自主管理」は自滅するはずだと考えたのは、封鎖と管理の精神はもともと精神障害者の治療と両立しないからである。」(臺[1993:216])

高杉 晋吾 1972/★/★ 「赤レンガ内で何が起こったか――東大病院の患者めぐる争い」,『朝日ジャーナル』14-8:★

 「東大闘争以来、東大病院精神神経科病棟(通称赤レンガ)は全共闘系の東大精神神経科医師連合(石川清委員長)が自主管理する東大内全共闘系唯一の拠点として知られている。もっとも民青系等、反全共闘派は、これを不当占拠とよび、台東大精神神経科主任教授らとともに「不当占拠解体」を目指してきた。この東大闘争以来の矛盾が昨今、東大構内に活火山的様相を呈し始めている。」(高杉[1972:★])

要約:看護婦病棟が赤レンガ病棟から追い出されたとされる事件
 看護科内部は多数の民青系がリードし、精医連(赤レンガ派)と対立していた。ここに、患者観、医療観、医学教育観など東大闘争の原点ともいうべき対立が含まれていた。看護科では「過剰労働」を理由に入院の差し止めを求め、精医連側も了承した。しかし、その約束に反し、「自殺未遂の可能性があり緊急的に医療が必要」とされる女性患者が入院してくる。怒った看護科は翌日からその女性患者の看護をボイコットする。そのことに関して患者や精医連側医師が怒り、患者側も民青系看護婦による看護を拒否し、看護婦の病棟立入を拒んだ。

◆森山 公夫 19751128 『現代精神医学解体の論理』,岩崎学術出版社,309p. ASIN: B000J8RJWK 3000 [amazon] ※ m

 「講座制を真に解体せしめるには、どうしたらよいのであろうか。<0297<
 ――告発者が大学を去るのでは問題はまったく始まらない。なぜなら、真の解体とは、内部解体でしかありえないのだから。
 大学を去るのではなく、大学に居続けることの中から徹底的に大学講座制の悪徳を告発し続けること。こうして権力の座をおり、権力を抗する運動を組み続けると同時に、「患者の犠牲による医学の進歩」なる虚妄な幻想を排し、まず目の前にいる一人一人の患者の苦悩との真のわかり合い、それとの苦闘の中にしか真の医療はありえないのだということの自覚に立つのが、まずもっての出発点である。そして地点からわれわれは、誰と真に連帯し得るのかを模索してゆかなくてはならない。このような営為の積み重ねの中からのみ、新たな展望がきり拓かれてゆくことになろう。
 そしてこれこそが「自主管理の思想」である。今こそ、あらゆる大学講座制の内部で、そしてそれと連帯しつつ、現場精神病院の中で、「自主管理」が闘いとして組まれてゆかなくてはならないのである。そしてこのことこそが、現在のところ、あの鎮圧された大学闘争の意味を継続させ、発展させてゆく最大の道であると私は考える。」(森山[1975:297-298])

◆19780624 六・二四政府、自民党の弾圧介入に抗議し、東大精神科病棟自主管理斗争を支援する市民集会

◆サンケイ新聞社会部東大取材班 19781030 『ドキュメント東大精神病棟――恐るべき東大のタブーを暴く』,光風社書店,208p. ASIN: B000J8LMO6 [amazon] m.※

◆浜田 晋 19791025 『「ふれあい」の精神医療』,弘文堂,258p. ISBN-10: 433560002X ISBN-13: 978-4335600029 1200 [amazon][kinokuniya] ※

 「悲惨な彼らの生活をじかにこの眼で見た時、私(精神科医)と患者の「距離」が深くて暗い絶望的な溝として感じられたのです。その時、私自身も疲れきってぼろぼろでした。東大赤レンガ病棟の連夜の当直と、過酷な状況の中で、私自身が追い詰められていました。しかし、一方ではこのような危機的な時にこそいろいろなものが見えてくるとも言えましょう。この機に、私は今後の精神科医としての実践活動の一番大切な手がかりをつかんだのかもしれません。
 そのひとつに精神科医と患者の間のどうしようもない「距離」を、私の医療の原点にすえて、そこからでなおしてみるしかないのだという覚悟がかたまったことです。それが裏返せばどうして患者さんと同じ地平に立てるか、それにはどうしたらよいかということでした。」(浜田[1979:★])

◆中澤 正夫 19850215 「精神医療の歩み」,中澤・宇津野編[1985:4-15]*
*中澤 正夫・宇津野 ユキ 編 19850215 『精神衛生と保健活動』,医学書院,公衆衛生実践シリーズ9,228p. ISBN-10: 426036409X ISBN-13: 978-4260364096 2300 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1958.

 「'71年、今度は研究者が過去に行なった研究の不備を十数年後の今、告発するという研究告発が行なわれ、それに盾つく研究者が狙いうちされるという様相をおびてきた。それは個人的中傷であり、学問上の正偽を学問論争以外で裁くという点で許せないものであった。宗教や政治思想信条が学問を裁くことは誤りであり、許されないことである。このように昭和40年代は精神医療改革の中核部隊となるべき医師や学会は混乱しつづけ、ついに一度も統一意志をもつことができなかったのは、不幸の極みであった。」()

◆富田 三樹生 20000130 『東大病院精神科病棟の30年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』,青弓社,295p. ISBN-10: 4787231685 ISBN-13: 978-4787231680 3000 [amazon][kinokuniya] ※ m,

◆森山 公夫 20010810 「島さんへの鎮魂歌」,藤沢・中川編[2001:34-41]*
*藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m

 「島さんは幸か不幸か、ちょうど前年の67年春に東大病院を出て、国立武蔵療養所に常勤医の職をえたばかりでした。さらに68年の5・6・7月の3ケ月間、派遣医として沖縄にこだわっています。だがそれ以外の時期、彼ははるばる小平から本郷までかけつけ、終始この東大精神科の若手が主導する運動にかかわり、節目節目の大きなところでその運動の基本方針をリードしてきた、と云えます。4つにわけてその活動ぶりを語ってみましょう。
 まず、その活動スタイルです。若手医師は常にラジカルに問題をつきつけ、連合員すべてに対しても告発調になります。島さんはそれを受けながら、できるだけ多勢を糾合しようとし、できるだけ連合を割らないように努めていました。だがいざどうしようもないと判明すると、断固として進みました。つまり彼は、可能な限り構成員民衆の意見を聞き取ろうとし、その上に皆を納得させうる方針をうち出そうとしていたのです。
 だが一方で彼は、一般のわれわれの予想を超えた大胆な方針を提起しました。そもそもおそらく後世に残るであろう「赤レンガ病棟自主管理」闘争の発端を提起したのは彼でした。ただし準備は入念で、半年以上も前から若手の活動的医師を集め、東大精神科医師連合の闘いを継続させるために東大病院への「乗りこみ部隊」を組織し、それが闘いを担う主題になるべきことを力説し、その責任者に当時外に出ていたわたしになれと云ったのです。これが後に、「自主管理闘争」に発展していくもとになります。」

◆森山 公夫 2007 「東大闘争と東大精神科」,『東京大学 精神医学教室120年』

◆富田 三樹生 2007 「自主管理闘争の私的回顧」,『東京大学 精神科教室120年』

p.229
 1960年代の10年間はこうして(日本社会全体を覆う合理化・民主化の嵐の中でも大学の医局・講座制の古い体質は温存されたが、それにより腐敗度は一掃高まった、と前述に述べられている)、矛盾の拡大の時代であった。大企業を中心に、産業の最先端に太刀打ちするレベルの合理化を推進してゆく一方で、社会の周辺的な諸分野では、反封建的ともいえる古い体質が温存していったのであり、この矛盾の拡大が次の時代の「革命」を醸成していったといえよう。(森山)

1950年 インターン制度廃止闘争
1968年1月 東大医学部全体の無期限ストライキに突入。
   3月 東大医学部「医学部不当処分事件」(春見事件)
 上田病院長と交渉を持とうとした学生・研修医が春見医局長にかけあった際に暴力があったとされ、17名が処分されたが、そにいなかった学生も処分者の中に入っていたことなどが問題となった。
   6月15日 安田講堂を学生が占拠。
   7月5日  全共闘が組織される
   10月14日 精神科医局解散(119名)
   10月21日 東大精神科医師連合結成(102名)
 @インターン制度撤廃を方針とした医学生青年医師による横断的研修協約闘争。→東大で医局講座解体闘争へとつながる。
 A医局講座制のもとで教授による医師支配体制が研究至上主義によって貫かれながら、民間精神病院に寄生しつつ支配する抑圧的精神医療と構造的に結びついている(富田)
   11月7日  臺主任教授不信任

1969年1月 安田講堂「落城」
   4月 「8名の助手公選」をめぐり精神科医師連合は分裂。臺教授と8名の助手(共産党系学生を加え)が外来に退く。
   5月 日本精神神経学会金沢大会が開催。若手精神科医による圧倒的な「クーデター」
   9月8日 病棟自主管理闘争の開始(赤レンガ)

p.231(赤レンガ自主管理闘争が長く続いた要因)
 東京大学のうちでは、69年の安田講堂の「落城」後、なお様々な運動がおこり続けては、やがて潰されていった。だが、なおかつ、完全に潰えたわけではなくいくつかの自主管理組織として存在し続けた。そうした諸組織の連帯・支援がわたしたちにとって大きな力となったことは言うまでもない。
 もう一つの支えは、日本精神神経学会の動向を中心とした全国的な精神医療界の動きである。[…]1969年5月に開かれた「金沢学会」が画期的だった。[…]精神神経学会は以後連綿と、精神医療改革運動の全国的な舞台となってきたのであり、こうあらしめたのは全国的な精神医療の悲惨さだったといえよう。

 1972年1月24日 赤レンガ病棟自主管理会議、開始。

 予定外入院となった患者をめぐり、看護側が看護をボイコットする。そのことへの批判が患者を巻き込んで大問題となる。20日の病院長と病棟側の団交でこの患者の入院が正式に認められることになるが、2名の看護者以外は業務を放棄。24日、赤レンガ内の医師、残った看護、OT、心理などの職員と入院患者は「赤レンガ病棟自主管理会議」とし、これより20年にわたる自主管理体制がスタートする。
 この「会議」は一時コミューンのような色彩を持ち、GTと称したミーティグは闘争会議の色彩を帯びるなど、会議の運動体的性格は間もなく消滅したものの治療共同体的運営は後まで続き、独特の治療環境をつくった。 
1974年 臺教授、定年退官
1974年 赤レンガを拠点に「保安処分に反対する百人委員会」ができる。
p.238
 「保安処分に反対する百人委員会」という、患者、医師、弁護士、学生、市民、労働者が混然とした運動組織形態を生みだしました(富田)

1978年1月 産経新聞「反赤レンガキャンペーン」『東大精神科病棟はこれでよいのか』
   3月 医学部当局と病棟スタッフの間で確認書を取り交わす。
   6月 森山公夫、助手に就任。
1979年3月 吉田哲夫、助手就任。
1980年11月 富田三樹生 助手就任。
  これらにより、「自主管理」一部解除。
1980年代 新宿バス放火事件――保安処分新設反対運動
     宇都宮病院事件――精神衛生法改正問題
1990年7月 森山、赤レンガ病棟を退職。

p.239
「1980年代の赤レンガは、上述の保安処分反対運動、83年の精神衛生実態調査反対運動、1984年の宇都宮病院事件とその後の1987年の精神衛生法改正問題と続く激動の中にありました。1990年にいたり、自主管理闘争の客観的主体的状況の変化の中で、教室統合へと舵を切ることになりました。」

1994年1月 診療統合が開始。
   12月 活動停止の声明発表。
1996年6月 教室の組織統合が実行。精神科医師連合と自主管理闘争は東大の現実の形においては消滅。

◆森山 公夫 20101010 「1968年革命素描」,『精神医療』60:68-81

 「なぜ精神科自主管理闘争はかくも長く続いたのだろうか。それは基本的には精神科医療の現実があまりにも悲惨であり、そのためわたしたちの「自主管理」闘争を支持する層は予想以上に多かったため、と考える。では、なぜそれは最終的には終了(敗北)せざるをえなかったか。いろいろ事情はあるにしても究極的な問題は、「一国社会主義」の問題と同様、1箇<0076<所だけの孤立した「自主管理」の永続困難性にあったと考える。さまざまな供給源が絶たれた状態では、「自主管理」を前進的に発展させることは結局困難であった。」(森山[2010:76-77])

◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-5(2011-5):- 資料

 森山の他の著作でもそんな具合であるように、このように〔東大病院の所謂「赤レンガ病棟」の「占拠」を〕まとめようと思えればまとめることもできるだろう。ただ、そこでは、結局はうまくいかなかったことも多くありながら、たしかに格別明るいことも起こらなかったにしても、そこを一つの場として、起こりなされ続けられたことがあった。
 私たちは一九八〇年代の前半にここにいくらか関係することにはなった。この首謀者たちの(たぶん比較的若かった人たちの)演説・挨拶の類も聞いことがあるはずだ。ただ、病棟の中に入ったのはたまにビラを印刷するために使わせてもらうといった時ぐらいのことだった。その頃あった幾つかの「闘争課題」について人々が出入りしている場所でもあったのだ。開放病棟であったから、入院している人は辺りを歩いたりしており、他の人もとくに誰に断わることなく建物には入れたのだと思う。言われているように、その建物はけっして明るい感じのところではなかったが窮屈な感じはしなかった。
 「赤レンガ」は(たいしたことない)普通の精神病院だったと言われる。薬だってずいぶん使っていたではないかと言われる。たぶんそうだったのだろうと思う。もっときれいな建物であったらよかったと思うが、それはその状況下ではありえないことでもあったのだろう。ただ、ここに関係した人たちが、けっして幸福な結末を迎えたりしなかったできごとに関わったことは様々にあった。あの悪名高い「宇都宮病院事件」――といってもどれだけの人たちがどれだけのことを覚えているのか――について書かれたものが幾つかあるが、そのなかでも知られることが少ないだろう『宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集』(宇都宮病院事件・廣瀬裁判資料集編集委員会[2008])という冊子が出されている。[…]」

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※

■人

富田 三樹生(精神科医,1943〜)
中島 直(精神科医)
森山 公夫(精神科医,1934〜)


*作成:阿部 あかね
UP:20080819 REV:20101231, 20110110(ファイル名変更), 12, 0414, 27, 0809
精神医学医療批判  ◇精神障害/精神障害者  ◇東大闘争:1970'〜  ◇歴史  ◇BOOK
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