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第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)

日本精神神経学会

last update:20110108

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『生存学』3 表紙阿部あかね 20110325 「わが国の精神医療改革運動前夜――一九六九年日本精神神経学会金沢大会にいたる動向」,『生存学』3:144-154 cf.第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)

*立命館大学生存学研究センター 編 20110325 『生存学』Vol.3,生活書院,272p. ISBN-10: 4903690725 ISBN-13: 9784903690728 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ お送りできます→『生存学』3

*上記の論文の目次

はじめに
1 医師の卒後教育をめぐる議論
1‐1 インターン制度問題
1‐2 専門医・認定医制度
2 健康保険抜本改革問題
2‐1 健康保険抜本改革の経過
2‐2 健康保険抜本改革についての学会の動向
3 学会における専門医・認定医制度の賛否をめぐる議論
おわりに―学会専門医・認定医制度議論のその後

*上記の論文の文献表
有岡二郎 1997 『戦後医療の50年―医療保険制度の舞台裏』日本醫事新報社
江熊要一 1969 「第66回日本精神神経学会議事録」『精神神経学雑誌』71(11): 1090
稲場雅紀・山田真・立岩真也 2008 『流儀』生活書院
石川清 1969 『東大闘争・教官の発言 私はこう考える』田畑書店
井上清 1969 『東大闘争―その事実と論理』現代評論社
懸田克躬 1968 「シンポジウム 精神医学教育と専門医制度をめぐって」『精神神経学会誌』70(12): 627-629
金沢彰 1968 「シンポジウム抄録 精神医学教育と専門医制度をめぐって」『精神神経学雑誌』70(2): 180
厚生白書 http://www.hakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpaz197001/body.html (2010/09/18)
中沢(名は不明) 1969 「第66回日本精神神経学会議事録」『精神神経学雑誌』71(11): 1201
日本精神神経学会 1968 「シンポジウム 精神医学教育と専門医制度をめぐって」『精神神経学雑誌』70(12):627-633
―――― 1969a 「学会だより」『精神神経学雑誌』71(4): 420
―――― 1969b 「学会だより」『精神神経学雑誌』71(4): 423-425
日本精神神経学会百年史編集委員会 2003 『日本精神神経学会百年史』社団法人日本精神神 
経学会
小沢勲 1969a 「第66回日本精神神経学会議事録」『精神神経学雑誌』71(11): 1177-9
―――― 1969b 「第66回日本精神神経学会議事録」『精神神経学雑誌』71(11): 1202
サンケイ新聞社会部東大取材班 1978 『ドキュメント東大精神病棟』光風社書店
青医連中央書記局編 1969 『日本の大学革命6 青医連運動』日本評論社
園田隆也 1969 『東大医学部―闘争の記録と教育の未来像―』徳間書房
高久史麿 (年月日不詳)「日本における専門医制度の方向性―新たな専門医制度のあり方」www.jio.or.jp/html/offical/report/6/pdf/070527takaku.pdf (2010/09/20)
臺弘 1968 「第66回日本精神神経学会議事録」『精神神経学雑誌』70(4): 381-382
―――― 1972 『精神医学の思想―医療の方法を求めて』筑摩書房
山本俊一 1998 『浮浪者収容所記―ある医学徒の昭和二一年』中央公論社
―――― 2003 『東京大学医学部紛争私観』本の泉社
吉田哲雄 1982 「日本精神神経学会の歩み」『精神科看護』(13): 97-102

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%AD%A6%E4%BC%9A

 1969年(昭和44年)5月19日〜22日 - 金沢学会(台弘理事長)で、理事会不信任。評議員会解散勧告が提出される。関西精神科医師会議がパンフレット『学会を告発する』を作成。

 1969/05 第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)

 精神医療改革の発端となった第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)では、認定医制度設置をめぐって理事会が糾弾された。大学医学部内部での教授を頂点とした医局講座制という医師の階級制度と、その制度を支えるべく行われている研究が患者のためのものではなく、精神医療全体を歪めるものになっていると糾弾され、理事長と理事会が解任された。

◆小池 清廉 1989 「一九六〇年代の精神医療運動をかえりみて」,『精神医療』18-1

「金沢学会前夜、すっぽん会、医局連合そして新たに結成された「関西精神科医師会議」が一堂に会した。江熊ら新日本医師協会グループは、我々は出ないといって去っていった。新たな状況がそこに生まれていたのである。」(小池[1989:44]、高岡[2010:38]に引用)

cf.
「高岡 それでは、ここから当時の改革派が何を考え、何を行動してきたのかという話に移っていくことにします。1968年以前からの組織としては、全国大学精神神経科医局連合と、それから、全国すっぽん会の2つがあります。
広田 すっぽん会は京大です。
松本 高木(隆郎)先生・小池(清廉)先生たちのグループですね。」(広田他[2010:24])
「松本 京大評議会の位置づけは、大学の中の闘争というよりも、1968年から69年にかけて結成される関西精神科医共闘会議というのがありまして、その一端でしか位置づけられないと思います。  当時の精神病院の乱立問題も含めて、他の科の先生たちが精神病院をつくる、たとえば婦人科の先生が精神病院をつくって経営するという、転科医の問題もありましたし、しかも関西ではいろいろな病院で不祥事件が起きていました。ですから、大学の問題というようりも、民間病院に赴任した人たちや、一度大学から散ってしまった人たちがまた再結集して、関西精神科医共闘会議をつくって活動したのです。それが、大きな運動の発火点だったのではなかったかと思いますね。<0020<
 ですから、私たちが関西にいて、東大の自主管理闘争を見ていると、やはり大学の中での争いという感じが非常に強いという印象を受けましたね。関西の方は、もっと精神科医療の問題に真っ正面から向き合わされて、そこにのめり込まれされたといった感じがします。
広田 東京から見ていると、関西の方は日本全体の精神医療をどうするのか、ということを考えていた。東大は、自主管理闘争という、大学の中の改革にのめり込んでいたという感じがします。
松本 同じような感じを受けましたね。
中山 そういえば近畿各県から集まっていました。
松本 そうそう。
中山 和歌山も、徳島も、神戸はもちろんですし、大阪はかなりの数でした。来なかったのは奈良ぐらいかな。
佐原 敵を撃ったら自分たちに返ってきたため、自分たちの現場を再点検するのだという意見が出てきた。それは、そういうことなのですね。
中山 そうだと思いますね。」(広田他[2010:20-21])

◆広田 伊蘇夫・中山 宏太郎・松本 雅彦・岩尾 俊一郎・佐原 美智子・高岡健 「1968年――時代の転換期と精神医療」(座談会),『精神医療』60:8-33

「高岡 1968年から69年5月の金沢学会までの期間には、水面下でさまざまな動きがあったのでしょうか。
佐原 小澤さんとパンフレットをつくったりとか、いろいろやったのでしょう。
中山 自分たちで何とかしなければならないというのがありました。教授に頼んでどうなるものでもないし、行政に頼んでもどうなるものでもなし、ある意味では孤立感みたいなものがあった。松本さんは、非常に達筆なものですから、僕らが原稿書いたら、その文章を一所懸命直してながら、ガリ版を切ってくれるわけです。それを刷って、いろいろなところに配る。それは、とにかく自分たちでどうにかしないといけないという意識があったからだと思います。
松本 確かにありましたね。
広田 あの頃は、全国誌を出して、それを全国にばらまいたりしていました。岡田靖雄さんや吉田哲雄さん、そして僕など、医局連合のメンバーがやったのです。
中山 僕らは、医局連合ということ自体がちょっと自分たちと違うな、という感じだったですね。大体、医局連合というのはおかしいのではないかというのが当時の感覚です。
岩尾 でも、医局という言葉はとれたのでしょう。
高岡 全国精神神経科連合になった。
佐原 関西と関東で大分落差があったのですね。金沢学会を周到に準備したのは、関西、なかでも京都あたりだと言われていますが、それはどのように準備されたのでしょうか。
松本 あの頃はよくガリ版切りをさせられていましたからね。最後は別れますけども、やはり金沢彰論文による認定医批判がはじまりでしょうね。さきほど話があったように、長崎学会で日本精神神経学会の理事会が何とか認定医を通そうとした。
 そこには何ら現状に対する批判的な視野がなく、ただ優れた精神科医を育成するための制度だという感じでしたから、それはおかしいではないかということを、金沢先生<0022<が指摘されたのです。
 大きな批判の焦点は、学会の教授連からなる理事会に対する異議申し立てでしょう。彼らが認定医制度を通そうとするのは、医局講座制の強化にすぎないのではないか、という批判に展開したのです。
中山 何度も言いますが、そこのところは僕の評価と違うわけです。僕自身は、よくわからない主張を根気よく聞いてくれるのはなぜだろうと、ずっと考えていた。だから、そのときも計画を立てて行ったわけではなく新井(清)君が、「先生、自動車で行くから乗ってください」と言って来たので、それで、僕は何となく、乗っただけなのですよ。そんな感じでしたね。情勢分析ができていないですから、あまり目的意識をもってということではなかったのです。
佐原 でも、京都の多くの人は、目的意識をもってやっていたわけでしょう。
松本 金沢では、「精神科医にとって学問とは何か」というビラを書いたのです。やはり、それなりの目標みたいなものをもっていたのではないかと思います。
中山 でも、金沢学会闘争は、少なくとも京都大学の精神科医が中心になってやったわけではないのですよ。
松本 そうではないと思いますね。やはり関西精神科医共闘会議ですよね。
中山 関西精神科医師会議という組織があって、現状認識に関しては一致していたのですが、立て看板をつくったりするのが上手な人がいて、勝手にやっていたのではないかと思いますね。
広田 やはり精神神経学会のあり方はおかしいということを、東京でも言っていましたね。
中山 それは言っていました。
広田 それを、金沢学会の中で明確にしようとした。薬屋から金をもらって学会をやっていいのかということもありました。学会というのは、もう少しつつましくやるものだという考え方が強かったですよ。 中山 そういう意識はあったと思いますが、それでは周到に計画されて、目標を持って、戦術を立ててやったかというと、必ずしもそうではない。理事会側にしても、理事会の周りの先生方、つまり教授層にしても、精神医療の悲惨さという共通の認識があったというのが僕の結論なのです。ですから、精神医療の悲惨さということに対する共通した認識が、旧体制の中でも、極右的な人とそうではない人を分離させたように僕は思います。
非広田 金沢学会が始まる前は、そういう共通した認識はなかったと思います。
中山 そうですね。なかったのです。
広田 そういうものが浮き彫りにされたという意味で、僕は金沢学会を評価しています。
中山 やはり、現状の悲惨さという言葉で言いあらわされているものは、一部の先生方を除いて共有できていたのではないか。にもかかわらず、必ずしも目標や戦術を立てずに突っ込<0023<んだ部隊が、あれよあれよという間に学会を支配するようになってしまった。
広田 学会で討議を重ねているうちに、変な部分がどんどん出てきたということですね。
中山 そういう感じですね。
広田 そこの中で学会の方針というのが少し変わっていったと思いますね。
松本 僕は、そうとは思わないですよ。わかっていながら、それに対して何もしようとしない、しかも、認定医制度という体裁のいい制度をつくって、ますます権威づけようとしていくことに我々は怒ったのですよ。
高岡 関西から東京へオルグに来ていたのは誰なのですか。
松本 僕と中山さんと新井君が……新井君にひっぱられてですけどね。最初に慶應義塾大学へ行って、そして、藤澤さんにも小平に会いに行ったのですよ。
高岡 中山さんは、どういう内容を持って東京へオルグに行っていたわけですか。
中山 若い連中がただごとならぬ雰囲気なわけですよ。これは無理ないなという同情ですね。放っておくわけにはいかない、というような感じでした。」(広田他[2010:22-24])

◆関西精神科医師会議 1969 「学会を告発する」

 「今年の学会は、全国の大学闘争、とりわけ医学部における医局講座制と医療の帝国主義的再編に対する闘争を背景として開催されるのであり、この文脈に学会を位置づけるとき、なんらの批判を経ることなく、学会の恒例的セレモニーとして今回の学会がもたれることは許されない。」
 「健保抜本改悪を通じて、医療を受ける勤労大衆からの医療経費の収奪が行われようとしている。さらに基幹病院構想により報告医制度および指定病院によって若年医師を基幹病院に低賃金で釘付けにし、また中堅医師をも医局講座制のかくれみのから引きずり出し、直接国家の支配下に置いて、効率よく基幹病院に配置しようとしている。看護婦に対しても職階制の導入と労働強化を強要し、医療労働者に対する労働強化収奪が図られようとしているのである。この場合、医療は、高度産業社会の労働力の維持・再生産として規定されるのであって、労働力として期待されることの少ない精神病者は、およそ政府厚生省の考える医療の対象に該当しないのは、この体制のもつ効率原理からいって至極当然である。」

◆日本精神神経学会 1969 決議(小澤勲会員提案)

 「第66回日本精神神経学会は製薬資本、関連病院の寄付や金沢大学医学部神経精神医学教室員の犠牲の上に立っておこなわれてきた。このような従来の慣習は精神医療、精神医学のあり方を歪めるものであったことを反省し、今後は学会員の負担によって運営していくことを決議する。」(山口[2003]、高岡[2010:38-39]に引用)

◆日本精神神経学会 1969 「第66回日本精神神経学会議事録」,『日本精神神経学会誌』71(11):1029-1206

小澤 勲

◆小澤 勲 編 19750325 『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』,田畑書店,201p. 1100 ASIN: B000J9VTT8 [amazon] ※ m.

 「1969年5月、金沢で開催された第66回日本精神神経学会に、医局解体闘争を闘いつづけてきた精神科医が全国から集結してきた。「学会は医局講座制によって支えられており、また、医局講座制は、入れ替わり立ち替わり儀式的におこなわれる、それぞれ数分づつの演題発表で象徴されるように、学会を自らの支柱の一つとして成立している」とわれわれは考えた。[…]そして。この金沢学会闘争はその後、全国的な(あるいは全科的な)拡がりをもつにいたった学会闘争の嚆矢となったのである。[…]この時いらい、日本精神神経学会はかなりの程度までわれわれの手によって動いてきた。われわれは金沢学会闘争を契機として精神科医全国共闘会議を結成した[…]この委員会はようやく全国的に政治的課題とされ始めていた刑法改悪阻止、保安処分新設粉砕闘争の一つの要として運動を進めてきた。認定医制度はもはや問題にもされなくなり、十全会病院、烏山病院、北全病院をはじめとする精神病院問題、台人体実験問題に対しても、われわれの糾弾、告発闘争は圧倒的多数の支持をうけた。[…]だが、にもかかわらず、われわれは学会でとびかう言葉の軽やかさにある種の「後ろめたさ」を感じてきたのも事実である。[…]つまり、思想と論理のうえではほとんど完全に講座制や日共・民青に勝ちきってきたことは確かなことなのだが、現実の場面においては力関係は逆転している。当たり前といえば、当たり前のことだが、われわれは現実場面においては圧倒的少数派にすぎない。(小澤編[1975:7]*)

 学会は、「政府厚生省の支配の下での、医学の帝国主義的再編の実務管理機構」として批判された。日本精神医学と精神医療は、実は、国家が精神病者を排除し、処遇するあり方の合理化にすぎなかった、という批判がなされた。医局講座制という支配機構に従属させられてきた精神科医たちは、その意味で被害者であり続けたが、代償としての保身は、 精神病者への弾圧に通ずるものであることが確認された。」(小澤編[1975:24]*)

◆小澤 勲 1981 「金沢学会闘争」,『精神医療』10-1

 「大学闘争の昂揚期に闘われたこの闘いは、医局講座制解体闘争の一環として、まず位置づけられた。[…]だが、金沢学会闘争は単に医局解体闘争の一環として闘われたにとどまらず、従来の精神医療のあり方を問いなおす出発点でもあった。」(小澤[1981:38],高岡[2010:39]に引用)

島 成郎

島 成郎 20000314- 「連続講座」,於:ノーブルメディカルセンター→藤沢・中川編[2001:130-207]
*藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m

 「私が初めて沖縄に来た1968年の翌年、1969年は私にとっては非常に記憶に残る大事な年です。
 日本の精神科の医者の集まりである日本精神神経学会という一番大きな学会があります。それが金沢で大会を行い、その時に、日本の精神病院の実状、これに対して精神科医の医者はどう答えるか、ということが若い医者を中心に激しく告発されました。<0144<
 総会はまる2日間、学会発表を全部やめて、その問題だけに集中して討議した。それは若い人がやんや騒いだ訳ではなくて、古くからずっと真面目に民間病院で医療をやっていた古い年取った人たちもいた。
 それまで威張っていた大学の教授を中心とする学会の理事会というのは、投票により不信任されました。そして学会の体質、そういう精神病院を支えている体質を無くそうではないか、そのために新しい執行部体制を選ぶということで総選挙を行うという決議をやった。金沢学会として知られている学会が行われたのが、1968年です。
 私はまだ精神科医になりたてで3年ぐらいだから、まあちょっと図々しいことをやったと思いますけども、あまりにもひどい精神病院の状況に抗議を発して、新執行部を選ぶ選挙に立候補して評議員になり、理事になり、そして全国の精神病院改革の運動を心ある医療者と一緒にやることにした訳です。その運動は医者だけじゃなくて、その後は看護者に広がり、或いは心理士に広がり、OTに広がり、一般の市民運動にもなり、病院の開放化、患者の人権を守るという運動となってずっと全国に広がっていった、そういう大きなうねりのあった年です。」(島[2000→2001:130-207])

森山 公夫 20010810 「島さんへの鎮魂歌」,藤沢・中川編[2001:34-41]*
*藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m

 「島さんは、精神神経学会に対する対策として、早い時期から学会の評議員に若手の代表を送りこむべきことを主張してきました。69年6月の金沢学会で全国の若手精神科医のすさまじい反乱が起こり、学会理事が総退陣する中で、やはり島さんの、今度は理事を送り込むべきだという意見が入れられ、島さんや私も含めて多数の若手が理事となり、理事会活動をリードしていくもとになったのです。」(森山[2001:39])

藤澤 敏雄

◆藤澤 敏雄 19821106 『精神医療と社会』,精神医療委員会,253 p. 1880
◆藤澤 敏雄 19981110 『精神医療と社会 増補新装版』,批評社,431p. ISBN-10: 4826502648 ISBN-13: 978-4826502641 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「言うまでもなく、一九六九年は日本精神神経学会金沢大会が精神医療改革の端緒を切った年である。金沢学会がどのような影響を私自身や精神医療に与えたかについては、詳しく語らねばならないのであるが、ここでは私の地域活動の、金沢学会の精神医療改革ののろしをあげた年にはじまったということの重要さを私自身のこととして強調しておくにとどめたい。金沢学会の精神医療批判を、いかにして地域活動と自分の病院実践のなかで具体化し、のりこえようかという思いがありつづけたということである。
 私は一九六九年春の金沢学会の時、ひたすら告発者達に感動した人間でしかない。なぜ感動し<0072<たかといえば、すでに語った精神医療の日常的実践のなかで感じていた疑問や不満が明確に言語化されたということだったからである。
 金沢学会の告発者に私は心から共感したし、自分にはとてもできないことをやってくれた人人だという感嘆にとらわれたものである。「やっと何かがはじまる」という感慨にとらわれたと言ってよい。臨床の中に埋没し、その中で憤ったり無力感を抱いたことが、やっと方向性を見出せるといような感じであった。金沢学会以降、私の実践は、批判者であると同時に実践者でりつづける自分達がどのように自分自身の実践をかえていくのかということが主要な課題となったと言ってよい。」(藤澤[1982→1998:72-73])

 「一九六九年の金沢学会は、平凡な日常の中で、しかし精神医療の現状に疑問を抱いていた一人の精神臨床医であった私に衝撃をあたえ、目ざめさせたのである。目ざめた<0261<といったも大それたことではない。自分が日々接する病者のおかれた状況があまりに過酷すぎるのではないかという素朴な疑問に「そのとおりなのだ」という気づきを与えてくれたということである。」(藤澤[1982→1998:261-262]、浅野[2010:83]に引用)

藤澤 敏雄 20010810 「先達であった島成郎さんをおくる」,藤沢・中川編[2001:42-46]*
*藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m

 「私が沖縄にいる間に、日本の精神医療、精神医学を改革しようとする気運が全国に拡がっていたのでした。療養所に戻った私は、改革へのうねりとは離れたところで、長期在院者の退院促進の仕事に没頭していましたし、東京の基地の街立川の保健所の嘱託医となったことを機に、多摩地区の地域精神衛生活動に関わるようになっていました。
 そして、1969年5月、金沢。第66回日本精神神経学会総会で、若手精神科医を中心とした人々の告発が展開されました。強制収容所的精神病院の悲惨な状況、手配師的な人事支配で精神病院をコントロールすると同時に、それに寄生している教授を頂点とした医局講座制、唯々諾々と状況に従う精神科医総体、製薬資本との癒着、研究至上主義……が自己批判を込めて告発されたのです。この告発は、関西精神科医師連合、東大精神科医師連合などとの人々を中心として準備された反乱だと知りました。
 経験7年、ひたすら臨床に埋没しながらも、「どこか変だ」「どこか間違っている」と感じてきた私にとって、全て納得のいくことでした。貴方はその先陣を切った人々の中に居ました。精神医療改革運動に私が関わることをインスパイヤーした先達の一人だったのです。自分が精神科医として生きるということは、臨床医としての着実な実践は当然のこと、病者がこの日本という社会で置かれている状況とも切り結ぶことなのだと思い決めました。過重な負担であっても、過渡期の時代の中にいる精神医療従事者の一人として、やむを得ないのだと考えられたのです。」(藤沢[20010810:43])

浅野 弘毅 20100510 「藤澤敏雄論――「生活療法」批判を中心に」,精神医療編集委員会編[2010:81-88]

◆藤澤 敏雄 20100510 「日本における精神医療改革運動の歴史」,精神医療編集委員会編[2010:12-24]*(原稿執筆時期不詳)
*精神医療編集委員会 編 201005 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 1969年「当時、私は、大学病院、民間病院、都立松沢病院を経て、国立武蔵野療養所で働く臨床経験7年の精神科医であった。その7年間、精神病院の実態と、精神病者の置かれた状況に、驚きと怒りに身をこがし続けていた。この学会の体験は、当たり前の臨床医であった私には、鋭い問題提起と励ましを与えてくれるものであった。
 この金沢大会のインパクトは、当時計り知れないものがった。金沢学会で確立された会議の公開性の原則は精神医療改革運動の中に、初めて当事者の登場を促す第一歩となった。また、その秋開かれた病院精神医学会は、生活療法の批判を軸に揺れて、学会そのものが解体して、若い世代を中心として再建準備委員会が結成された。同じように[…]」(藤澤[2010:19])

中山 宏太郎 20100510 「さようなら、東京の良寛さん」,精神医療編集委員会編[2010:120-121]

 「初めてお会いしたのはおそらくは金沢学会であったと思う。
 1969年というのは大変な時で、私がいた大学でも全体が流動化していたが、この学会で諸大学の精神科医が合流すると、私はスタンピード(カウボーイ西部劇に出てくる牛の群れの大奔走)のさなかに入ってしまった感じで誰が誰やらさっぱりわからなかった。
 40年後の藤澤さんの追悼会の時に、西山詮さんが、「何百人もの人が議論していくところを、一言で静寂に戻すことができるのが藤澤さんだ」と教えてくれた。私の頭の中にはこの学会のこととして収まった。」(中山[2010:120])

松本 雅彦 201005 「藤澤敏雄先生 追悼」,精神医療編集委員会編[2010:126-128]*
*精神医療編集委員会 編 201005 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「そう、たぶん昭和44(1969)年春のことだった、はじめて藤澤先生にお会いしたのは……。
 5月に開催を予定されている日本精神神経学会第66回大会(通称 金沢学会)を前にして新井清(故人)に誘われるまま、中山宏太郎とともに、三人で東京に赴いた。精神病院の荒廃、その劣悪な医療を支える医局講座制、そのなかで精神神経学会はなお学会認定医を制定化しようとしている。精神科医療を取り巻くこの状況に、私たちはどう対処していったらよいのだろうか。そのような課題を抱いての状況だった。
 慶応大学精神科で、河合洋先生、馬場謙一先生、北穣之介先生を訪ねたあと、私たちは小平の国立武蔵野病院に向かった。[…]
 待つことしてしばらくして現れた藤澤先生は、大きな籐椅子にゆったりと坐り、私たちの学生運動じみた性急な話ぶりに穏やかに耳を傾けられていた。私たちの話しを聞き終わって、先生<0126<は、自治体病院の現状、生活療法の背後に隠されてある問題点、精神障害者のおかれている社会的状況などを淡々と語りはじめる。学会闘争だけを焦点にした私たちの視点をはるかに凌ぐ広い視野を展望させる語り口だった。私のこころには、静かな感動が浸透していった。この最初の出会いがどのような形で終わったか、遠い記憶の陰にかすんでしまっているが、それを語る柔和な先生の顔だけは今も目に浮かぶ。」(松本[2010:126-127])

松本 雅彦

◆松本 雅彦 19960928 『精神病理学とは何だろうか 増補改訂版』,星和書店,363p. ISBN-10: 4791103300 ISBN-13: 978-4791103300 3990 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「私自身精神病学を専門とするものではなく、一介の臨床医にすぎません。そのような精神科医がこれまで精神病理学というものをどう齧ってきたのか、どう眺めてきたのかの報告にすぎず、連載を続けながら私はこの二十年の復習をしてきたのかもしれません。カッコヨクいえば、精神科医としての二十年の営みを振り返りながら、自分なりの再度の論点の整理をここで試みたかったのだともいえます。
 といいますのも、精神科医となって四〜五年目のあの一九六九年当時、私も学会闘争の後衛部隊としてその闘争に参加し、これまでの精神医学・医療のあり方に異議申し立てを行った一人だったからです。それは、私の携わっていた粗悪な臨床現場と学会で報告される麗々しい論文発表とのギャップがあまりに大きく、このギャップはどこからきているのだろうという疑問を素朴に疑問として投げつけたにすぎないものでした。多くの患者たちが狭い鉄格子の中に閉じ込められ、その中から精神科医に興味のある症例のみが選ばれ、精神病理学の考察の対象とされているにすぎないように思われたのです。私たちは、この状況を「九十九人の犠牲の上に立った精神病理学」として批判したのですが、その批判はいわば「外」から精神病理学を批判したにすぎないものでした。<0354<精神病理学を成立せしめている外的な諸条件を盾に批判したにすぎず、精神病理学そのものを「内側から批判的に捉えるところにはいたっていませんでした。現在の日本の精神医学・医療界の中で「精神病理学はこれでいいのか」という素朴な疑問とともに、精神病理学そのものをどう考えるかが、闘争後の私たちに課せられた課題として残されたように思われたからです。」(松本[→1996:354-355])



◆中井 久夫 1991 「吉田脩二『思春期・こころの病――その病気を読み解く』序文」→中井[19961028:385-286]
 (著者の吉田は)「基礎医学である解剖学の大学院から精神医学に転じているが、大学も大学院も金沢であると聞けば、精神医学に大きな地殻変動を起こした金沢学会を思い合わいられないであろう。実際、この変動のさなかという時期に、氏は、いかなる契機によってか、精神科の道にはいり、精神科医となって、今は二十年。」(中井[1991→1996:385]*)  「氏の属する「団塊の世代」すなわち”学園紛争”世代の医師は、多く、道のない坂を登るような修行をしてきた。いちおう鋪装してある道はあるのに、そこに登った先はほんとうの山頂ではないとして、薮をこぐほうを選んだのである。これは楽な道ではない。連帯などどいう言葉が虚ろに聞こえる、独りの道である。そして、臨床の努力をやめたり、一時中止する理由はいくつもあった。氏がつねに臨床のためのヒゲ根を伸ばす努力をやめなかったことは、その著作を追って読めばさらに明らかになるだろう。」(中井[1991→1996:386]*)
*中井 久夫 19961028 『精神科医がものを書くとき・U』,広英社,423p. ISBN-10: 4906493033 ISBN-13: 978-4906493036 [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆富田三樹生[2007]

 「この学会の若手精神科医による圧倒的な「クーデター」は、刑法改正――保安処分推進のそれまでの学会の方針を完全に覆し、学会は保安処分反対へと大きく舵を切ったのでした。」(富田三樹生[2007:★]*)
*「東京大学精神医学教室120年」編集委員会 編 20070331 『東京大学精神医学教室120年』,新興医学出版社,286p. ISBN-10: 4880026611 ISBN-13: 978-4880026619 6825 [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆浜田 晋 20100510 「藤澤敏雄の言葉の力」,精神医療編集委員会編[2010:122-125]*
*精神医療編集委員会 編 201005 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「もう20年か30年か忘れたが、私は久しぶりに精神神経学会なるものに出た。東京都庁あとに出来た国際フォーラムでひらかれていた。
 出てみてびっくり! 金沢学会というものが一体何であったのか。学園闘争とは何だったのか。それは昔の学会と何も変わっていない。いやもっと巨大になり、分派化し、バラバラになった部会には、精神医療の臭いは全く消えていた。広田、鈴木(良)、黒川(故人)、その他数名と藤澤と私はいっしょに昼食に出た。たまたま藤澤が私の前に坐った。私は茫然としていた。しばらくしてこんなことを藤澤にいった。
 「藤澤よ! 俺はもう歳をとった。精神科医や学会には絶望した。なにも出来ない。これから一体俺は何をして生きたらいいのだろうか」と。藤澤はじっと私の顔をみて、しばらくだまっていた。長い沈黙があった。やがて、「先生、今のお気持ちを率直に私たちのやっている『精神医療』という雑誌にお書きいただけませんか。原稿用紙8枚の倍数で年4回、お願いします」と言った。そして深々と頭を下げた。また彼にやられた。
 「老いのたわごとか…」と私。彼「そうです。それ」と。
 なんとそれが今日まで一四年間延々とつづくとは思ってもいなかった。」(浜田[2010:124])

■文献

浅野 弘毅 20100510 「藤澤敏雄論――「生活療法」批判を中心に」,精神医療編集委員会編[2010:81-88]
◆藤澤 敏雄 19821106 『精神医療と社会』,精神医療委員会,253 p. 1880
◆藤澤 敏雄 19981110 『精神医療と社会 増補新装版』,批評社,431p. ISBN-10: 4826502648 ISBN-13: 978-4826502641 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m.
藤澤 敏雄 20010810 「先達であった島成郎さんをおくる」,藤沢・中川編[2001:42-46]*
◆藤沢 敏雄・中川 善資 編 20010810 『追悼 島成郎――地域精神医療の深淵へ』,批評社,『精神医療』別冊,215p. ISBN-10: 4826503350 ISBN-13: 978-4826503358 [amazon][kinokuniya] ※ m
◆浜田 晋 20100510 「藤澤敏雄の言葉の力」,精神医療編集委員会編[2010:122-125]
◆広田 伊蘇夫・中山 宏太郎・松本 雅彦・岩尾 俊一郎・佐原 美智子・高岡健 20101010 「1968年――時代の転換期と精神医療」(座談会),『精神医療』60:8-33
◆関西精神科医師会議 1969 「学会を告発する」
◆小池 清廉 1989 「一九六〇年代の精神医療運動をかえりみて」,『精神医療』18-1
松本 雅彦 「藤澤敏雄先生 追悼」,精神医療編集委員会編[2010:126-128]*
森山 公夫 20010810 「島さんへの鎮魂歌」,藤沢・中川編[2001:34-41]*
中山 宏太郎 20100510 「さようなら、東京の良寛さん」,精神医療編集委員会編[2010:120-121]
◆小澤 勲 1981 「金沢学会闘争」,『精神医療』10-1
◆小澤 勲 編 19750325 『呪縛と陥穽――精神科医の現認報告』,田畑書店,201p. 1100 ASIN: B000J9VTT8 [amazon] ※ m.
◆日本精神神経学会 1969 「第66回日本精神神経学会議事録」,『日本精神神経学会誌』71(11):1029-1206
◆精神医療編集委員会 編 201005 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆『精神医療』編集委員会 編 20101010 『精神医療』60,特集:精神医療の1968年,批評社,144p. ISBN-10: 4826505329 ISBN-13: 978-4826505321 1700+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
島 成郎 20000314- 「連続講座」,於:ノーブルメディカルセンター→藤沢・中川編[2001:130-207]
◆高岡 健 20101010 「資料・クロニクル1968」,『精神医療』60:34-39
◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※
◆富田 三樹生 2007 「★」,「東京大学精神医学教室120年」編集委員会編[2007:★]
◆「東京大学精神医学教室120年」編集委員会 編 20070331 『東京大学精神医学教室120年』,新興医学出版社,286p. ISBN-10: 4880026611 ISBN-13: 978-4880026619 6825 [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆山口 成良 2003 「学会の歴史に残る金沢総会」,『日本精神神経学会百年史』
◆立岩 真也 2011/04/01 「社会派の行き先・6――連載 65」,『現代思想』39-4(2011-4):- 資料


UP:20100110 REV:20100112, 29, 0309, 0313
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