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ライシャワー事件



◆ライシャワー
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http://blog.goo.ne.jp/cool-susan/e/cddfdff243e40379aeaa2901ec967ae1

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.


 「一九六四年三月にライシャワー事件が起こる。犯罪を起こす(可能性のある)精神障害者に対する対策が必要だとされ、六五年一月に精神衛生審議会は精神鑑定医・精神障害者の緊急入院・保護拘束制度の創設などを答申。日本精神神経学会(秋元波留夫理事長)はこれに反対する。「当時、松沢病院にいた岡田靖雄、吉岡真二氏がその実質的な事務局をにない、松沢病院の医局には、さまざまの立場の医者が出入りして熱気をおびた風景がみられた。」(藤沢[1982→1998:36])


 「精神科医たちが、精神医療は医療だが、そこにそうでない側面、つまり「社会のために」という面があることにある時に気がついたという理解は正確ではないだろう。治安・社会防衛は当然のことだと思っていた。社会は、それに医療という名を冠したりしなかったりした。一九六四年の、駐日大使が大使館前で統合失調症者にナイフで刺され重傷を負ったライシャワー事件がきっかけだったとされる――実際にはそれ以前からあった――国の政策に精神医学界からの抵抗はあった(それには秋元らも関与した)が、それは保安処分に反対するというものではなかった。六五年に日本精神神経学会が作成した法制審議会に提出する意見書の原案は保安処分の必要性を認める内容だった。さらに六九年には中央精神衛生審議会が「保安処分の規定を設けることは、犯罪を行った精神障害者もしくは中毒者に早期治療の機会を与えるとともに、それらの者の犯罪を防止するために適切かつ必要な措置」であるとしている。日本精神神経学会が総会決議として「保安処分制度新設に反対する意見書」を出すのは七一年のことだ★06。これは、むろん是非の評価は分かれるとしても、大きな変化ではある。」


 さきに、医療者たちは精神医療のこうした性格に長く無自覚であったと述べた。実際にはたいへん長い間、「社会防衛」は普通のことと受け止められていた。自明によいこととされてきた。例えばこの問題が日本精神神経学会で問題にされたのはライシャワー事件(→◆頁)をきっかけとする精神衛生法改定の動きであったとされる。改定案に対して日本精神神経学会他が意見を言ったのは事実である。ただその案は当初、医療者が把握した精神病者を警察に届け出させるといったものだったから、反対された。警察による取り締まりより医療――基本的にそれは強制医療になるだろう――を優先させるべきであるのにそうしないことに対する反対であった。そして医療の人・予算が足りないこと、そして精神科医の権限――それは責任でもあるが、責任を有するという権限でもある――を問題にした。他害性に対する対応についてむしろ積極的であった、つまりは警察ではなく自分たちに渡せという主張であったと言ってもよい。秋元の、「事件」のだいぶ前の文章(もとは文化放送で話した話の原稿)と、起こった六四年の文章(『日本医薬新報』の五月十六日号、ライシャワー事件が起こったのは三月)。

 「精神分裂病は[…]病気の初期に適当な治療をすれば治癒をみる場合が少なくない。ところが、この病気はその始まりの症状がはっきりせず、だんだんと日常の生活態度に変化を来たして、いつの間にか病勢が進行してしまい、治療の機会を失することがある。病気の治療が手遅れになるばかりでなく、この病気に罹ると、幻覚や妄想が現われ、ときには病人がこの幻想や妄想に支配されて危害を及ぼすようなことさえ起こる。この病気については、早期発見と早期治療は病人自身のためであるとともに、家族、隣人、ひろくいえば社会のためでもある。」(秋元[1958→1971a:132])

 「精神病質はその実態を把握することが、精神薄弱に比していっそう困難であるが、最近の犯罪事件の中には、精神病質者の犯行と思われるものが少なくなく、その実態を明らかにして、適切な処理を講ずることは、社会秩序をまもり、社会生活の安定をはかるためにも、きわめて必要なことである。しかし、この方面の研究や施策は、わが国ではごくわずかな研究者以外にはほとんど手がつけられていない状態である。/[…]さまざまな精神症状をもち、なかにはその症状のために自分だけでなく、周囲に危険を及ばすおそれのある患者も合まれている、精神病患者の約五〇%がまったく医療をうけることなく放置されているのが、現実の姿である。精神薄弱は、医療の対象であると同時に、教育の対象であり、重い精神薄弱のためには、医療と教育とをかねた精神薄弱者サナトリウムやコロニーが、また、比較約軽いもののためには、そのための特別な教育施設や職業補導所が必要である。しかし、そのような機会をめぐまれているのは、わずかにそれを必要とする精神薄弱の九%にすぎないことを厚生省の調査は示している。精神病質者にいたっては、どこにいるのか、見当もつかない状態で、社会のいたるところに生息しているのが現実である。
 このように精神障害者の診療の実態は、ヨーロッパやアメリカの現状とくらべて、劣っているが、その理由は、第一には、精神障害に関する社会一般の理解の不足、ないし、偏見によるところが大きいと同時に、これと関連して国家的施策が貧困であるためでもある。わが国の精神障害に対する医療施設についてみても、精神病のための全国の病床数は十四万床であって、入院を必要とする患者の最小限度の数が三十五万程度とみつもられるから、必要数の三分の一程度をまかなうことしかできない。したがって、精神病院の病床利用率は一般病院のそれが八〇%程度であるのに一〇〇%をうわまわっており、定員以上の患者を収容しなければならない状態てある。人口一〇〇〇に対する病床数は国によっていろいろ差があるが、文化国家といわれるところでは三十〜四十台であるのに対して、わが国はわずかに十四にすぎない。日本は[…]この点に関するかぎり、文化国とはいえない。」(秋元[1964→1971a:167-169])

 三十五万は、おおむねこの国でやがて達成された――現在とんでもなく多いとされる――病床数である。「最小限度」期待・希望通りのことになったということだ★15。そして、この時もちろん著者は、米国で脱病院化を開始させたとされる、一九六三年に出された「ケネディ教書」を知ってもいる。日本精神神経学会は、ライシャワー事件後の政府の政策に反対はしたが、「保安処分」に反対の立場を明らかにするのはそのずっと後のことだ。そして、臺弘の「人体実験」を告発した石川清他を説得している最中にクモ膜下出血で倒れ、そして全快した(→216頁)後の一九七四年、『精神科看護』の創刊号に寄せた文より。さきに(→242頁)より長く引用したものの一部である。

 「自分は病気ではないといって医療を拒否したり、まわりの人たちをあやまった認識にもとづいて敵視したり、暴力的攻撃を加えようとする場合に、本人の意志に反して入院その他の処置を加えることが果たしてその人の人権を侵害することになるのだろうか。人権とは、個人の精神が自由であること、いいかえれば権利とともに義務の遂行が可能であることを前提としている。この可能性が疾病によって侵害されていることが明らかであれば、それを回復させることが人権をまもる道であり、逆説的ではあるが、精神病の人たちについて、ある場合にはその人権をまもるために、人権をおかす(強制入院、拘束、本人の意志に反する与薬、栄養補給など)ことがあり得る。うつ病患者有の自殺企図を「本人の意志に反して」防止する処置をとることが人権の侵害だと主張するものはまず存在しないだろう。」(秋元[1974→1976a:127-128])

 ここでは「病気」である(本人は病気でないと言う)という契機と「精神の自由(がないこと)」と「攻撃」と「自殺企図」がこの短い文章の中に並べられていることだけを確認しておけばよい。すくなくとも他害の防止自体は、当人の痛みを除去あるいは軽減するという意味での「治療」という行ないではない。このことと(通常は本人の苦痛・不調ゆえに)「治療」が望まれるものとしての「病気」との距離に鈍感な人がおり、異なることを知らないではないのだろうが、あっさりと並列させる人がいる。そして分けて並べたうえで、それらはみな本人のためだとも言う。たしかに人を害してしまったことで害した人自身が苦しむといったことはあるだろう。ただまずは二つは別のことである。複数の目的と、それぞれにおいてなされる(べき)ことが異なるはずであるものが、いっしょにされている。


UP:20140217 REV:
精神障害/精神医療 
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