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自立:障害者運動における




青い芝の会・全国&神奈川

◆1970・全国青い芝

 「神山嘉子さんが東京久留米園という救護施設から独立して生活したいと願い、
福祉事務所に要求したところ、福祉事務所では担当のワーカーがやって来て、「施
設を出たいならば家に帰れ。」という意味のことを発言し、神山さんの要求を押さ
えつけました。私達数人が…」(若林克彦「社会活動部の一年のまとめ」、『青い
芝』78号、1970年6月)

◆1971・全国青い芝

 「最近では独立して生活する、かなり重度の脳性マヒ者が増え…」
(『青い芝』、p.4、一九七一年三月)

◆1971・神奈川青い芝

 「園(東京久留米園)での生活訓練により社会性を身につけて、好伴侶と共に、
又は独身のままでも、民間アパート・公営住宅などの独立した生活に入っていく人
が大勢おります。」(横塚晃一「我々の手で小さな施設を」、『あゆみ』12号、
1971年3月→横塚[  ]、[合本版110])

◆1972・府中療育センター移転阻止全国総決起集会

 「現在の状態で、「障害者」用の住宅と介護料の要求が充たされたとしても、そ
れは語の真の意味で自立した生活ができることを意味はしない。社会での生活の、
最低限の根拠地と経済的基礎ができたことを意味するだけである。自由に生きたい
ところへ行き、やりたいことをする為には、余りにも多くの壁がある。歩道橋・階
段・急な坂道など、いくらでもある。……」
(府中療育センター移転阻止全国総決起集会基調報告、一九七二年九月十七日、
『府中療育センター移転阻止闘争』より)

◆1972〜1973・関西

 1972年12月には「自立障害者集団姫路グループ・リボン」が結成される。そして、
1973年1月に「自立障害者集団友人組織グループ・ゴリラ」が、1973年5月には
「自立障害者集団グループ・リボン連合会」(姫路・大阪・神戸)が結成される。

◆1973・神奈川青い芝

 「「どんなに障害の重い者であっても、また経済活動能力がいかに低い者であっ
ても、街の中で生活することを保障されなければならない」と高らかに主張するも
のです。」](「「福祉の街づくり」についての要請書」、『あゆみ』、1973年11
月、[315])

 そして「自立生活」という言葉も一九七〇年代の中盤に現われている。

◆1974

 関西グループゴリラの規約の第3条(会の目的)
 「本会の目的は、人間総体の自由と尊厳を求める、障害者の自立と解放、障害者差別を許さない運動を、健全者の立場から担いきることであり、自立と解放の道を歩む障害者と、とことんつき合いきる健全者、新たなる健全者の創出をめざす各地区ゴリラの運動を、関西レベルで結集し、連帯をはかり、関西を拠点としての障害者解放運動の健全者の潮流の創出にある。」(『ゴリラ』2 1974:12、山下[2003]*に引用)
 *山下 幸子 2003/10/13 「健常者として障害者介護に関わるということ――1970年代障害者解放運動における健全者運動の思想を中心に」
 日本社会福祉学会第51回全国大会報告

◆1975

 1976年に全国障害者解放運動連絡会議(全障連)が結成されるが、その準備会へ
の「よびかけ」(1975年)には「障害者の自立と解放」という言葉があり、また結
成大会への「よびかけ」(1976年)にも同様の文言がある。「自立と解放」は以後、
この組織の基本的な主張とされる。
 さらに、1976年夏の全障連の結成大会の第一分科会・生活分科会のテーマは「障
害者が地域社会で自立生活するために」、1977年夏の第二回大会の生活分科会のテ
ーマは「障害者の自立生活の理念を確立し、地域社会で生きるために行政闘争を拡
大しよう」、機関誌第五号(1978年4月)の特集は「障害者にとっての生活自立を
考える」だった。

◆神奈川

 「私達は、……「どんなに障害の重い者であっても、又、経済活動能力がいかに
低い者であっても、街の中で生活する事を保障されなければならない」とする立場
から…」
(「「福祉のまちづくり」についての質問状」、『あゆみ』、[合本版373-374])

◆神奈川

 「自立相談」
 小山「会員が独立したいとか、就職したいけれどと言う事に対して諸先輩の助言
を受けてその人の自力更生にあたりたい。」(『あゆみ』、[合本版429])

◆全国・1977

 「障害者の自立についての青い芝の会の見解
 厚生大臣渡辺美智雄殿 全国青い芝の会総連合会 会長 横塚晃一
 ……
 私達青い芝の会の求める障害者の自立とは、社会の中で、障害者と健全者が対等
に生きていくことのできる状況を創り出すことにあります。そしてこのことは障害
者が働いて、自分の金で食べていける状況をつくりだそうとするものではなく、経
済的自立のできる者だけを人間として扱い、それのできぬ障害者はごくつぶしのや
っかい者として隔離し、殺していく現在の社会常識を根底から変革していこうとす
るものであります。
 そして、自立への過程としてまず、私達障害者が家などに隔離された状態から地
域社会に出て生活すること。次にこの社会の中で健全者が出入りする所にはすべて
障害者も出入りできる状況を創り出すこと。そして障害者の行った先々で、障害者
の主体性が確立されている社会、つまり障害者に聞くべきことを介護者を通して聞
くといったことのない状況を創り出すこと。さらに障害者の意志で発した言葉、行
なった行動など、その生活のすべてに障害者が自分で責任をとること。これらのこ
とが実現されたとき障害者自立への基盤ができると考えております。そして現在、
自立にむけて多くの障害者が街へ出て、地域社会の中で生活しておりますが、障害
者名義では自分の住む家すら借りることができない。バスの乗車拒否、風呂屋の入
浴拒否などの障害者差別は根深く、いたる所で私達の自立をさまたげているという
のが現状です。」(1977年9月28日、『あゆみ』41号、1978年1月、[824])

◆1977・神奈川

 「去る七月十九日、二十数年の在宅生活を脱して自立しようとする根岸さと子さ
んの介護の問題について、青い芝神奈川県連執行部と婦人部との話し合いがもたれ
ました。
 この時出席した根岸さんは執行部の質問に対し「私は、私の方から親兄弟にあい
そをつかした。親のもとにいればいつかは殺される。だから自立したい。」と他か
ら口をさしはさむ余地など全くない程のきびしい答えをされました。そして「私は、
私の介護を健全者にたのみたい。私が自立し、多くの仲間を外に出し、健全者の意
識を変えていくこと、これが私の社会参加だ」と言われました。
 これに対し、執行部は「たしかにその通りだが、あまりにも理想的すぎて神奈川
の実情には合わない。」と応じられました。
 なぜ根岸さんの言葉が現実と合わないのでしょうか。たとえ合わないとしても、
現実を一歩でも理想に近づけることはできないのでしょうか。
 …」(横塚り■「私の意見」、『あゆみ』38号、1977年8月、『合本』[743])

◆1977・神奈川

 「いのちを考える集会」(1977年11月7日)の「自立の問題分科会」
 「この分科会(自立)に集まってこられた兄弟は、地域での自立生活を形作るた
めに努力して来られたことでしょう。
 私達は、単に障害者が地域社会で独立した生活をすれば良いと考えている訳では
ありません。また、現在の健全者社会が軽々しくそれを許す筈がありません。
 私達が自立生活を目指す事は、地域社会に充満している差別現実に対して、身を
もって切り返すことではありませんか。…
 …重度障害者が自立していくためには、保障されなければならない事が数多くあ
ります。
 (1)生活保障 (2)重度障害者が生きていく場合、どうしようもなく他人の手足を
必要とします。
 そして、それらの部分は、在宅者は親に、施設にいる仲間は、職員によってなさ
れています。しかし、多くの仲間達が死んでいった状況に現われている様に、それ
ら施設職員・親等、取りまく健全者は、我々「障害者」を障害者として認めようと
はしない。障害者の自己主張に対する様々な形での抑圧、無視、愛情と云う形で決
めつける。
 また、隔離することによって、別枠「障害者」用の世界が用意され、施設・在宅
以外に存在するところはありません。そして、実際個々の命は、総て健全者によっ
て牛耳られているのです。そこには、意思決定行動の自由すらありません。
 生存権の確立、愛と正義を否定しない限り、CPの自立の方向性は生まれて来な
いのではないか。
 …」(基調報告?)
 「車イス使用者の自立とは、健全者を使って、二四時間介護によって自立したと
してもそれは本当の自立ではない。
 健全者を使うことが解放だ、と思っているが、それは間違っている。健全者を使
えば、健全者から抑圧を受けることになる。
 自分達の限界まで落ちて、そこから自覚した時こそ、本当の自立が生まれる。そ
の時「青い芝」神奈川県連合会も協力しなければならない状況が現われて来る。」
(小仲井万蔵「「いのちを考える集会」自立分科会報告、『あゆみ』41号、1978年
1月、[812])

★ 【全障連】

 パンフレットとしては一九七九年に『障害者の自立生活――地域社会での自立生
活をかちとるために』(全国障害者解放運動連絡会議編[1979])、『政府・厚生
省の「地域福祉」政策糾弾!――障害者の地域での自立生活をかちとるために2』
(全国障害者解放運動連絡会議編[1979])が出されている。

★ 【『そよ風のように街に出よう』】

 『そよ風のように街に出よう』はその表紙の雑誌名の下に「障害者の自立と解放
のねがいと、すべての人たちの生活と思いを結ぶために」と記されている。
 0号(創刊準備号、一九七九年八月、五千部発行)「自立に向かう障害者たち1」
 連載を始めるにあたっての取材の方針のようなものとして。
 「……「自立障害者」というコトバは眼にして久しい……このシリーズに登場し
てもらう人は、1)二十四時間の介護を必要とし、2)生活保護・年金などで生活をま
かなっている、の二点を前提にした。自立生活を始めるにあたっては、手足とお金
が一番問題になるであろうし、この二点は、通常イメージされる「自立」とは縁遠
い状況だろうと考えたからである。」(p.14)
 これに対して「生活保護をとって自立といえるだろうか」という投書があり、創
刊号(七九年十二月、一万部発行)でとりあげられた。

 「…ちょっと考えてみて下さい。1.二四時間の介護を必要として、2.生活保護、
年金などで生活をまなかっている―障害者が「自立に向かう障害者たち」といえる
のですか???素朴な疑問をもちました。
 人間的な暮しができぬ施設と、気がねしながらの家族の中での生活から、より自
由な生き方を求めて、1.と2.の条件を満たしてでも、外の社会と触れあいたいとい
う願いは、無視するつもりはありません。しかし、だからといって障害者があれば
どんな要求をだしても当然というようなこの女性の姿勢には、反発をもつのです。
また、これらの一連の行動と同じ地盤に立つ運動として、ケアつき住宅を要求する
動きが最近みられますが(東京都で)、これなどもあまりにも虫の良すぎる要求と
思います。障害者一人一人にケアつき住宅を供給できるほど我々の社会は豊かでは
ありません。こうした形ではなく、障害者も一人の人間としての自由と尊厳を保て
るような生き方を探り、作りだしていくのが今後のケーマでしょう。 匿名希望・
三二歳(主婦)東京都…」(十一頁)

 創刊号では「自立に向かう障害者たち2」、「決意と意地とバイタリティ――本
部富生の地域での自立生活」
 第2号(八〇年三月)で特別企画「「自立」って何だろう」。「この他にも、
「自立」についてのご意見、ご感想は多く寄せられました。『そよ風……』で紹介
した障害者の生きかたに同意される方と、反発される方が、ほぼ同数であったよう
です。」(八〇頁)
 九名からのアンケートを掲載

 「…残る方法は、障害をハンディと考えない人どうしが生活と仕事の場をつくり、
その価値観を社会全体に拡げる拠点をつくることです。集団としての自立、コンミ
ューンです。
 きみは生存に専心すればいい、わたしは働いたり重度の人を助けよう、それでお
互いありがとうと言い合えるのが日々の人間関係となる場です。」
(木沢豊、八二頁)

 「生活保護をもらい、のんべんだらりと毎日をすごすのでは、「自立」とはほど
遠いだろう。自らの差別されている現状をふまえ、それの打破のため毎日を苦闘す
ることこそ、障害者が志向すべき「自立」への道ではないだろうか。いいかえるな
らば、このことは健全者ひとりひとりにとっても問われなければならないこととし
てあるはずである。サラリーマン生活にどっぷりとつかり毎日を送る者が「自立」
生活をしているとされる今、障害者にだけ「自立」が問われ健全者及び労働者に問
われないのは「ばか」げた話である。」(西岡務、八三頁)

 「自立に向かう障害者たち3」は「「出たい」という気持ちさえあれば――大野
忠夫さん(徳島市・二六才)の一年半の暮らしから」。

 第3号(八〇年六月)、「自立に向かう障害者たち4」は「生の軌跡で自立を描
く――加藤みどりさん(米沢市・二二才)の昨日・今日・明日」。

 第4号(八〇年十二月)、特集「「自立」って何だろう――自立を求める障害者
の生が語りかけるもの」
 吉本澄江へのインタビュー
 「やはり「自立」と「自活」と分けなくちゃなんないでしょう。「自活」いうの
は自分のお金で生活していくことでしょう。「自立」いうのはまた違うでしょう。
確実に一人で生きていくことでしょう。
 今、自立している人間なんていないんじゃない。」
 座談会「私たちの明日に向かって」
 そして「自立に向かう障害者たち5」、「このままで良いわけはない」。アンケ
ートの結果を報告している。市山千恵子

★ 【東京青い芝の会】

 「巣立ちとしての自立」「自己管理としての自立」「孤立からの自立」
 「私たちが、二七年にわたる東京青い芝の会の運動のなかで、一貫して訴えてき
たのは、「家族、とくに親への依存からの自立」、いいかえれば「巣立ち」であり、
そのために必要な社会的、制度的条件として、所得保障、多様な居住の場、移動の
自由、の三つの柱に沿って運動を推し進めてきました。」(磯部[1984:31])
 「……私たちは、脳性マヒ者をはじめとする全身性障害者が、社会の一員として
自立し、意義ある役割を追求し続けるためには、自らの能力とその限界を的確に把
握し、自己管理していくことが重要であるという認識に到達しました。」
(磯部[1984:33])
 「私たちの仲間のなかにも、一人でアパートを借りて生活すればそれが即自立で
あるという考え方があります。しかし私は、障害者が生活のなかで一定の影響を及
ぼし、とくに自分と同じあるいはより悪い条件にある人たちの問題の改善に貢献し
てはじめて、社会的存在としての自立があると確信しています。運動のなかで八王
子自立ホームをつくり、運営の責任を担ってきたのも、集団の力で社会に貢献し、
影響を与えていくという観点を貫いたからなのです。」(磯部[1984:34])

★ 【自立生活セミナー】

 ▼第1回

 「…アメリカでおこっている障害者運動と日本でおこった障害者運動が時を同じ
くしている。今から10年前、日本にも同じような息吹きがおこり、地域で生きる活
動が生まれました。残念なことにそれが地道な活動として、障害者を変え、専門家
をまきこみ、社会全体を動かす、そういう時代を作り出すまでには至らなかった。
このことをアメリカのCILの活動家たちから学びたい。きょうも多くのことを学
んだ。日本の障害者がかわることだと私たちも言い続けてきましたが、米国、ヨー
ロッパではすでに実践をされている。このことに私は注目をしたい。日本の運動が
盛り上がらない、なかなか地道な活動になりえないのは何かに気がつくとすぐ怒り
として爆発する、相手を破壊しようとする。地道な活動が難しい状況に今障害者は
おかれている。同様に、障害者のことをいちばん知っているはずの専門家や行政担
当者が、何かをやろうとすればするほどおせっかいになる。しかし行政の人たちの
中でも私たちを理解し、いっしょに物事を進めようとする人が今ほど多くいる時代
はない。これをもっと多くしたい。しかし、一方で行政や専門家と言われる人たち
の中には、未だに私たちのことを知らない、わからない、わかろうとしない人たち
も少なくない。…」(磯部真教「セミナーの趣旨」、エド・ロング氏の講演後にな
された、『第1回障害者自立生活セミナー報告書』、p.13)

 ▼第2回

 「…日本にはアメリカのように、いわゆる自立生活運動というシステム、あるい
は系統だった運動というものがまだ存在していません。しかし、東京では自立ホー
ム、施設ではなく、ケア付住宅というものが地方自治体によって造られています。

 しかし、一方では、日本では自立生活をしていく上で条件整備が非常に遅れてい
ます。…
 しかし、そういう中でも、各地でなんとか施設に入所しないで地域で生活をしよ
うと苦闘している人達がいる。…非常に苦しみながらそういうことをやっている所
が全国各地でうまれてきました。系統だったものではあたませんけれどもそういう
ことが実際に行なわれ始めてきています。」
(調一興「日本のIL運動」、『第2回障害者自立生活セミナー報告書』、p.1)

 赤塚光子(東京都心身障害者福祉センター)「「自立生活プログラム」の担当者
として」、三沢了(東京都八王子自立ホーム)「自立ホームにおける自立生活の模
索」(三沢は後にここを出た)、碓井英一(世田谷ミニキャブ区民の会)「地域活
動の中から」、小山内美智子(札幌いちご会)「札幌いちご会」、

 ▼第3回

 シンポジウム「自立生活を実現させるための方策」
 所得
 住宅
 介護
 移動
 リハサービス



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