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医原病 Iatrogenesis




■言及

◆Foster, George M. & Anderson, Barbara G. 1978 Medical Anthoropology, John Wiley & Sons, Inc(=19870100, 中川米造訳『医療人類学』リブロポート).
(pp41-42)
 開発の成功は、最終的にはある種の疾病の発生を顕著に増加させ、それ以前には存在しなかったか、存在しても重要でなかったような健康問題を新たに作り出すことも、時にある。逆説的に、感染症のコントロールや撲滅の成功も、隠された健康損失を伴っているのである。まさにこのような成功が、人口爆発を引き起こし、それが人類の未来に対しての最大の脅威となっていると多くの人が考えている。疾病コントロールに近代医学が成功したことにより人口増大がおきたのだが、また、この人口増大のために、一世紀も前と同じように、世界的規模で病いが存在し続けていると指摘することも可能であろう。
 我々はかくして、疾病によって導入される円環的連鎖関係に直面する。疾病は開発を阻害する――そこで疾病は医療サーヴィスと疾病コントロールの発展を生み出す刺激剤として働く――そしてこれが多くの種類の開発を可能とするこれらの開発の「成功」の結果として、しばしば人口過剰と疾病増加とが出現して、ここで新しいサイクルが再び始まるのである。
 開発による疾病
 疾病間の平衡関係は、ある程度までは開発による変化によって影響されているということができるだろうが、全ての病いが同じように影響されているわけではない。しかし、開発の活動によって、有病率が顕著に増加した疾病もいくつか存在する。ヒューズとハンターは、医療行為の結果起きる疾病を「医原病」と呼ぶことから類推して、このような疾病を「開発原病」(develop-genic disease)、つまり「開発による疾病」と呼んだ(Hughes and Hunter 1970 : 481)。この分類に入れられる疾病のうちで重要なものは、トリパノゾーマ症(睡眠病)、ビルハルツ症(住血吸虫病)、河盲目(オンコセルカ病)、フィラリア病、マラリア、栄養失調からの劣悪健康状態などがある。そして多分、結核と慢性疾患も一般的な意味では入れられるであろう。これらの疾病は比較的少い原因によって引き起こされるものであり、その原因の主なものは、人造湖、灌概農業、労働力移動と商業活動を結果として伴う道路建設、自給農業から換金農業への交代、そして急速な都市化などが挙げられるのである。
(pp169-170)
 多くの劇的な発見の結果もたらされた科学の進歩が、進歩しなければ存在しなかった新しい医療問題を起こすのは皮肉なことである。バーネットとホワイトは次のように述べる。「ほとんど例外なしに、我々はこれらの作用の長期にわたる影響を予測しそこない、しばしば望ましくない結果が起きる。長期の影響による問題点や偶然の事故を考慮せずに、我々が成果を評価できる医学の進歩は、感染症に関するかぎり今までほとんどなかった」(Burnet and White 1972 : 186)。彼らの感染症の歴史の最新版では、院内感染と医原病(これらはほかの疾患や病態の治療にもあたっている医師によって偶然に引き起こされる)だけをとりあげる新しい一章が設けられている。これらのほとんどは、標準的な病院の機構での治療組織下では、抗生物質抵抗性細菌株の院内確立下では、また輸血によって伝染する以上は(血清肝炎が一番有名である)、また、癌の化学療法や臓器移植での免疫抑制剤使用といった危険性の高い技術を使う以上は、「どうしても避けられない結果」と見なされている。これらの問題は人為的なエラーが全くない場合でさえ発生することにも注意しなければならない。実際にはこれらは、避けえない結果などではなく、医学の進歩の致命的な産物なのである。この興味ある著作の中で、彼らは次のような指摘をしている。例えば、多くの人が信じているように、癌が(そのうち一部分でも)ウィルスによって起きるのならば、その特異で致死的な遅延型ウィルスを住まわせるために、人体を長期の「高級住宅」に改良した科学的医学の成功も癌の病因となるであろう。
 医学の進歩の複雑な影響への「非難」は多分より正しくは西洋の進歩それ自体の性格が受けるべきであろう。


◆増子忠道, 19790615, 「正常と異常」川上武 ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:37-68.
(pp38-39)
 ところが最近十数年の医学の進歩と、社会生活様式の変化や人権意識の向上など、相互に刺激し合いながら、これまでの伝統的な正常異常観では割り切れない諸事実を蓄積してきた。
 疾病構造の変化(急性・伝染性疾患中心の疾病から成人老人病中心へ)をはじめ、自覚症状の乏しい病気の急増、そして一方では「一億総半病人」などと警告されたりしている。さらに、医原病のように、治療のための薬が疾病をつくり出す恐ろしい事実も発生してきた。未熟児の医学が長足の進歩をとげた裏で、羊水診断からダウン症候群の胎児などの堕胎が奨励される。男女うみ分け法や試験管ベビーの誕生。心臓移植のように他の個体の死を判定する問題のあいまいな解決のうえに行なわれる技術や、一生機械にしばりつけられる人工腎など。精神障害の急増・暴力や犯罪など反「社会的」行為の低年齢化が進んでいる。一方でリハビリテーション医学・脳外科の発展と他方で植物人間、安楽死、ホスピスの論議等々、一口に進歩とだけ割り切れない諸現象が発生している。ここでは正常・異常観の混乱が重大な問題になっているのである。
 さらに「医療医学のあり方」を見直そうという圧力は、わが国など医療費急増に困惑している発展した資本主義国の各政府の側からも生じている。「医者にかかりすぎる」という言い分は、医療資源の有限性の強調に正統性を見いだしているかのようではあるが、その実、あたかも軽症の病気は医療の対象ではないかのような主張をしているのを見ると、正常や異常をどう考えているのか、病気や医療とは何かについて正しい認識が欠如しているのではないかと危惧される。


川上武, 19790615, 「医学的真実と法律的真実――誤診と誤判決」川上武 ほか『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店:101-126.
(pp106-107)
 つぎに、医療訴訟を訴えられる医師の側からみると、もちろん前者(患者=被害者側からの分類)と実体が同じなので対応する面があるのはもちろんだが、"個人か集団訴訟か"の分離では見えないものが見えてくるように思う。この場合にも、医師個人の不注意、低劣な技術水準より起こった医療事故が基本になるわけだが、その枠内で処理できない事例がふえてきているところに現代医療のもつ困難があるといえよう。
 集団訴訟の薬害・医原病・公害などの場合もこの範疇にはいるわけだが、これらにしても結果からみると集団訴訟だが、そのスタートの時点では一人の患者の医療被害の発生にあったのはいうまでもない。そして、この場合には事態をすこし追究してみると、患者(被害者)を診療した医師個人の責任というより、もっと大きな要因の集積よりくるもので、ときには当事者の医師さえも犠牲者の一人であるといったことが少なくない。そこで裁かれるのは、医学研究・医療技術の開発・医療制度・医療産業のあり方だといってもよいであろう。
 最もわかりやすい例をあげると、医師が患者に抗生物質(例えばペニシリン)の過敏性テストを事前に行ない、陰性だったので注射したところ薬剤ショックを起こしたといった事例である。適当な条件のもとに予防接種をしたのに、後遺症(ワクチン禍)を発生した場合などもこの例であろう。これらは、当事者の医師個人の責任というより、行使した医療技術自体のなかに、事故原因があるとみなくてはならない。したがって、その責任追及にあたっては、より高次の医学・企業・国家とのかかわり合いを問題にしていかなくてはならなくなる。


◆Kleinman, Arthur 1980 Patients and Healers in the Context of Culture,University of California Press(=1992, 大橋英寿・遠山宜哉・作道信介・川村邦光 訳『臨床人類学――文化のなかの病者と治療者』弘文堂).
 機能4・機能5の「癒しの活動と治療結果への対処」。これはヘルス・ケアのよく知られている側面であり、くわしくのべる必要はないだろう。ただ、留意すべきなのは、通文化研究が明らかにしているように、治療が、関連しあいながらも区別できる二つの臨床課題をさしていることである。ひとつは、生物学的・心理的プロセスの疾患を効果的にコントロールすることであり、これを私は"疾病の治療"curing of diseaseと呼びたい。もうひとつは、病気がつくりだす生活上のさまざまな問題に私的、社会的意味を与えることであり、それを"病いの癒し"と呼ぶ。この二つの活動がヘルス・ケア・システムの主要目標をなしているのである。
 脅威にさらされた価値を再び擁護したり、社会的ストレスを緩和させるために治療儀礼がおこなわれるとすれば、そこには"文化的な癒し"。cultural healingが起きているといえよう。したがって、治療行為は、それを受ける病者に対する効果とは別に、社会的ストレスをも同時に癒している場合もある(Douglas1970)。同様に、臨床過程に影響をおよぼすさまざまな問題が、社会的・文化的に組織化されて、結果的にはヘルス・ケア・システムのなかに"計画的に"組み込まれてしまう("文化的な医原病"cultural iatrogenesis)。そのような問題としてあげられるのは、(上述のような)適応性を欠いた病い行動の形成の問題、また社会的逸脱に対して"医学的な"ラベルを貼ることをめぐる葛藤の問題、さらに、重大な問題として、ヘルス・ケア・システムの各セクターの当事者のいだく信念や価値のくいちがいから生じる臨床リアリティの解釈の対立の問題がある。このような問題が結果的には効果のない、ときには有害な専門的ケアを生むばかりでなく、ヘルス・ケア資源の乱用、文化的に不適合なケアに対する患者の不応諾(ノン・コンプライアンス)、不満足をひきおこしているのである。


伊藤公雄, 19860105, 「日本人とクスリ」宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』世界思想社.
(pp30-32)
 こうした社会システムに内在化されたクスリの不確実性問題を、もう少し別の角度、つまり近代社会の内部に構造化された文化的―歴史的要因という視座から考察することもできる。I・イリッチが、その『脱病院化社会』で提示している「医原病」という概念は、こうした問題を考えるのにいくつかのヒントを与えてくれる。つまり、産業化とそれに伴なう医療技術の発達によって、その発達自体を原因とした「病」が増大する、というのである。資本による欲望の創出→消費の増大→資本の増殖とさらなる欲望の創出→消費のさらなる増大、という制御し切れない自己運動のメカニズムは、医療を大量消費化させ、病を生産―再生産しつつ、この分野においても貫徹している。まさに「ある地域の健康調査で、一〇〇〇人中たった六七人だけが完全に元気(25)」な社会は、こうしたメカニズムの産物といえるだろう。
 「医療の介入が最低限しか行なわれない世界が、健康がもっともよい状態で広く行きわたっている世界である(26)」とするイリッチの結論に、全面的に賛同はできないにしても(たとえば、医療の「発達」は伝染病の抑制に大きく影響してきた)、またそうした社会が、いかにして実現可能なのか、という当然の疑問は別にしても、彼のいう医療化が復讐の女神として、クスリの分野においても、その安全性における不確実性を増大させているということができよう。
 同様に、J・リフキンは、「物質とエネルギーは、一つの方向にのみ、すなわち使用可能なものから使用不可能なものへ、あるいは利用可能なものから利用不可能なものへ、あるいはまた秩序化されたものから無秩序化されたものへと変化する」という熱力学の第三法則、いわゆる「エントロピーの法則」を用いて、こうした「医療制度によって作り出された病気」を説明しようとしている。「薬づけ、検査づけがますますエントロピーを増大させる」というわけだ。「全成人の五〇〜八○%が一日から一日半ごとに医師の処方による薬を服用している」アメリカ社会において、「薬による副作用は、入院加療を必要とする原因の上位十傑に入っており、これによる入院加療日数は、なんと年間で総計五〇〇〇万日に達する(27)」という。
 しかも、ことは医療技術の提供する不確実性にとどまらない。化学物質多用の社会で、クスリを飲む人間の体そのものが副作用をおこしやすいように変わってきているとさえ言われているのである。かつては安全で副作用も少ないといわれていたマーキュロ(赤チン)が、激しいショック症状をひき起こし、危険薬とされるに至った経緯を、田村豊幸は、「現代人の体質の弱まりがマーキュロさえも危険薬としてしまったのだ(28)」と指摘する。
 こうした医原病の発生メカニズムは、個人や企業、政府の意志を超えた、「文明」それ自体の産物といえるだろう。
 われわれが、クスリの安全性をめぐる、こうした社会的-文化的-歴史的な不確実性を突破しうるかどうか、それは定かではない。しかし、われわれの生活とクスリとの間に、こうした構造が存在しているということは、まぎれもない現実である。


◆Conrad, P. and J. W. Schneider, 1992, Deviance and Medicalization: From badness to sickness, Temple University Press(=2003, 進藤雄三監訳『逸脱と医療化――悪から病いへ』ミネルヴァ書房).
(pp70-71)
推薦図書
Illich, I. Medical nemesis. New York: Pantheon Books, Inc., 1976. (邦訳:脱病院化社会/イヴァン・イリッチ著; 金子嗣郎訳, 晶文社, 1998年)
近代社会における医療の位置づけに関しての,読み応えがあり論争を呼んだ分析。イリイチは,医療が癒しの遂行者というよりは健康に対する脅威となりつつあることを論じ,医療を取り壊し,脱中心化し,様々な形態の自助活動(セルフ・ヘルプ)によって置き換える必要があるとしている。「社会的医原病」(social iatrogenesis)の章が,逸脱の医療化に最も関連している。


◆宝島社編, 19930509, 『わかりやすいあなたのための社会学入門』(別冊宝島176号)宝島社.
(pp165-166)
ー尊厳死論議や臓器移植間題を見ても、今さまざまなかたちで医療問題が取り上げられています。病院や医者に対する一連の異議申立てを見ても、イリイチが告発した「医療システムによる過剰な管理」あるいは「医原病」(*1)といったテーゼはきわめて核心をついた言葉だと思います。
 イリイチは、学校論やジェンダー論の分野においても卓抜な仕事をした思想家ですが、彼によれば、基本的に医療はひとつのシステムになっていて、患者は、実は医療システムそのものを存続させるための素材でしかない。だから、患者に対しては投薬なり外科手術なり、あるいは健康診断という名目で過剰な管理を行なう。
 イリイチが提起したのは、まさにそういう医療システムに取り込まれた自己の身体をどう回復していくかということだったと思うんです。肥大化したシステムによって奪われてしまった自分の自立性を取り戻す、つまり〈私〉あるいは〈私〉の自立性をもういちど探り出すということだと。
(p168)
 (*1)医原(源)病(Iatrogenesis)
 イヴァン・イリイチが提示した概念で、本来、病を癒すはずの医者(=iatros)が、逆説的にも起源(=genesis)となって生じる病の総称。イリイチは、この医源病を次の三つに分類している。@臨床的医源病……臨床の現場で医療関係者の過誤や不注意が直接の原因となって生じる病や障害。この場合、それが「医源病」であることははっきりしている。さまざまなかたちで訴訟の対象となってきた医療過誤あるいは最近注目を集めている院内感染などがその例。A社会的医源病……医療がシステムとして社会的に制度化された結果、目には見えないかたちで構造的に再生産される病や障害。本来、病の克服を目標とする医療は、患者が健康を回復した時点で、自らを不必要なものとして廃棄しなければならないという逆説的な構造を有している。しかし、医療がシステムとして社会的に制度化され、その存続自体が目標になると、医療システムは自らを不必要なものとして廃棄する代わりに、不必要な「病」を構造的に再生産するようになる。過剰な投薬や不必要な手術(美容整形など)は、そうした背景から生まれてくる。B文化的医源病……医療システムが不必要な「病」を再生産していく一方で、患者の側も、必要以上に医療システムに依存する生活様式や価値観を持つようになる。定期的に心理セラピストに通い、生活上の悩みをうちあけることが社会的ステイタスにもなっているアメリカのセラピー文化は、文化的医源病の典型と言えよう。
 参考文献……イヴァン・イリイチ『脱病院化社会』(晶文社)/同『生きる思想』(藤原書店)/イヴァン・イリイチ他『専門家時代の幻想』(新評論)


Young, Allan 1995 The Harmony of Illusions: Inventing Post-Traumatic Stress Disorder, Princeton University Press(=20010215, 中井久夫・大月康義・下地明友・辰野剛・内藤あかね訳『PTSDの医療人類学』みすず書房).
(pp94-95)
リードはイェランドが電気治療を使っていることにひんしゅくして、パヴロフ流の条件付けだと亡霊を呼び出しているが、電撃は戦争のずっと以前から機能的疾患治療の技術として確立されていた。電撃室は一八六三年にロンドンのガイ病院に設置され、三年後に同様のものが国立病院にも設置された。使用開始後の何十年か、医師は電気がこの種の疾患に対してひょっとするとあるかもしれない生理学的効果についての思弁をあれこれともてあそんだ。しかしイェランドの時代になると電撃の使用法はだいたい、理論はともかく、使って効けばよしというものになっていた。そして多くの医者の意見では、電撃は単なる手段で臨床的には逆暗示に使われ、また詐病者を発見する道具でもあった(Beveridge and Renvoize, 1988: 157-160 )。イェランドが詐病着発.見の手段であるという見方を採っていたのは、たとえば軍医たちに「強力な電気刺激は感覚も運動も麻痺していると思われる手足に感覚と運動とを生み出し、このこと自体でじゅうぶん患者に回復の途上にあるという確信を起こさせるであろう」と助言していることからも明らかである(Royal Soc. Of Med., 1915: ii および British Med. Assoc., 1919: 709にあるモットによる同様の注解をも参照のこと)。イェランドはこれに続けて、電気治療が逆暗示の成功に役立つためには、患者が、医師は彼の病状を理解していること、彼を治療できると思っていることを確信していなければならない。したがって「医師が採るいちばんよい態度は患者の障害はもうたくさん診てきたからまたかと軽くうんざりしている態度である」。
 病状を患者とできるだけ簡潔に話し合ってから、これまでどのような治療を受けてきたのかを聞くことに全力を集中するのがよい。過去の失敗した治療は(患者の症状をいっそう固定化する効果があり)医原性他者暗示iatrogenic heterosuggestionの重要な原因である。このことは、これまで電気治療を受けたことのない患者が弱い電流で治癒できるのに、以前電撃治療を受けたが成功しなかった患者が分単位でなく時間単位にわたる、苦痛な強い電流を必要とする理由を説明するものである(Adrian and Yealland, 1917: 869-871)。


◆Barnes, Colin ; Mercer, Geoffrey ; Shakespeare, Tom 1999 Exploring Disability : A Sociological Introduction, Polity Press(=20040331, 杉野昭博・松波めぐみ・山下幸子 訳『ディスアビリティ・スタディーズ――イギリス障害学概論』明石書店).
(pp.x-x)
( 3章の「5.医療化」の冒頭)
 イヴァン・イリイチ(Illich, 1975)によれば、人々の自助と自己責任の能力がかくも破壊されたのは、“日常生活の医療化”のせいだ、ということになる。イリイチはまた、医師は不健康の真の原因を神秘化し、医師自身の解決能力を誇張していると主張する。医療自体の役割が増大していることと同様、このような医療化こそが、社会統制の手段としての医療の権力を拡大する基盤なのである。イリイチによると、大衆は、医療の“医原的”な(つまり供給者主導の)結果について、誤った方向に導かれてきたという。この医原病は三つのレベルで起こる。つまり、@“臨床”レベル:現代の治療は非効果的かつ有害である。A“社会”レベル:保健医療システムや供給者に一般の人々が依存している。B“構造”レベル:個人は痛み・病気・死に対処する能力を奪われてきた。それに対して、イリイチが唱える解決策は、医療の根本的な“脱専門家化”である。


◆Hacking, Ian 1999 The Social Construction of WHAT ?, Harvard University Press(=20061222, 出口康夫・久米暁訳 『何が社会的に構成されるのか』岩波書店).
(pp333-334)
 アーヴィン・ゴフマンは、社会科学による逸脱の分類が、逸脱的行為を強化したりあるいは発生させたりするかもしれないと考えた(Goffman 1963)。児童虐待は間違いなくラベリング理論に沿った思考を促す。つまり、人間は児童虐待者というラベルを貼られることによって、自分が児童虐待者であると見なすようになる、と考えるようになる。さらに興味深いことは、シュルツが論じたように、虐待されたという症状は医原性のものであるかもしれない、すなわち、児童虐待の事例に携わって手助けをしてくれる専門家によって引き起こされているのかもしれないということだ(Schultz 1982,29)。「子供の、十代の若者の、そして大人の性的相互作用へのラベル貼りや介入それ自体が、被害者意識を植えつけ、トラウマを与える」。それはつまり、子供がトラウマを経験したり、自分は被害者であると経験したりするのは、彼女の人生がそうしたケースであると扱われた後になってからなのだ、ということである。「子供に性的被害者であるというラベルを貼ること、何かある症候群だと決めつけることは、そうした診断自体がその診断通りの結果を生み出す可能性がある」(Schulz and Jones 1983)。これは、進化している種類である児童虐待のループ効果・フィードバック効果の事例と言えるだろう。研究が増えると専門家の数が増え、専門家の数が増えるとその事例が増え、その事例が増えると研究が増える、という様子をC・K・リーが描いている(Li, West,and Woodhouse 1990,177)。「正のフィードバックの円環が児童虐待に関して働いてきたことは明らかである」(正のフィードバックの円環を私はループと呼んでいる)。リーは、事例が多いともっともらしさが増すという信念に注意をうながす。児童虐待の調査の処理方法に関する二つの論文(Wyatt and Peters 1986a,1986b)について論じながら、リーは以下のように述べている。「明白には言われていないが、その目的は、より「狙った通りの」すなわちより高い普及率を生み出すことにある。児童虐待は偏在するのだから、高い率だけが問題の大きさを本当に示してくれる、というのがそもそもの前提である。調査のためのインタヴューが、あなたは児童虐待を受けていたと説得する過程であるという可能性は無視されるばかりである…」(p.179)。


佐藤純一, 19991030, 「医学」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』世界思想社.
(pp2-3)
 T・マッケオーンは、英国(イングランドとウェールズ)の肺結核の人口あたりの死亡率の変遷を調べて次のような報告をした。英国での肺結核での死亡率は、一九世紀前半以降、ほぼ直線的に減少し続けており、一九四七年の抗生物質ストレプトマイシンによる化学療法開始や、その後のBCGによる予防接種導入以前に、大幅に減少してしまっていたのである。抗生物質療法やBCGの普及は、この下降する死亡率のカーブを、ほんのわずかだけ、さらに下降させたにすぎないのである。近代社会で達成された、結核を含めた多くの感染症死亡率の低下は、栄養状態の改善、近代的上下水道の普及、住宅環境・労働環境の近代的改善、教育(識字率)の向上などと強い相関があるのである。つまり、感染症の減少の多くの部分は、抗生物質や予防接種によって得られたのではなく、「生活の近代(西欧)化」によってもたらされたのである(T. McKeown and R. G. Record, “Reasons for the Decline in Mortality in England and Wales During the Nineteenth Century,” Population Studies, vol. 16, 1962, pp. 94-122)。
 このような、「近代医学勝利の神話」を疑ってみる研究は、同様の方法を使って、米国でも、日本でも行われ、ほぼマッケオーンと同じような、「感染症による死亡率の減少の多くの部分は、抗生物質や予防接種によって得られたのではなく、生活の近代(西欧)化によってもたらされたのである」という結論を、提示している(J. B. Mckinlay and S. M. Mckinlay, “The questionable contribution of medical measures to the decline of mortality in the United States in the twentieth century,” Milbank Memorial Fund Quarterly: Health and Society, vol. 55, No. 3, 1977, 西田茂樹「わが国近代化の死亡率低下に対して、医療技術が果たした役割について 1・2」『日本公衆衛生雑誌』三三巻九号・一〇号、一九八六年)。
 I・イリイチは、このマッケオーンの報告を援用し、近代医療(医学)は、人々の健康改善にはなんの役にも立っておらず、むしろ「医原病」を創出し、人々の健康状態を悪くしているのだと、近代医療(医学)を痛烈に批判した(I・イリイチ、金子嗣郎訳『脱病院化社会』晶文社、一九七九年[原著一九七六年])。


◆市野川容孝, 19991030, 「医療倫理」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』世界思想社.
(pp161-162)
 フランスの劇作家モリエールは、いくつかの喜劇で当時の医師と医学を痛烈に風刺した。一六六六年に上演された『いやいやながら医者にされ』(岩波文庫)は、こんな荒筋である。ある富豪の娘は、親が決めた結婚が嫌でたまらず、これに抵抗するため、突然、口がきけなくなったふりをする。父親は娘の「病気」をなんとか治そうと、次から次へと大学出の医師に診察させるが、医師たちはその原因が皆目わからず、さじを投げる。そこに、医学の心得などまったくない男がやってきて、富豪には「お医者様」と頼られながら、大芝居をうち、娘を窮地から救う。
 一六七三年初演の『病は気から』(岩波文庫)には、自分が重病だと思い込んでいる大富豪が登場する。大学出の医師たちは、この大富豪の言いなりになって、無駄な治療や投薬をおこないながら、私腹をこやす。大富豪の若い後妻は、夫の遺産目当てに、そうした無駄な治療や投薬が夫の命を縮めてくれればと期待するが、実弟たちの活躍によって、大富豪はやっと目を覚ます。
 これらの喜劇では、一体なにが笑われているのだろうか。
 一つには、空理空論に終始し、有効な治療をおこなえない当時の大学医学(正統医学)がある。「かれら[=大学出の医師たち]の大部分は古典の教養をじゅうぶん、身につけています。きれいなラテン語をしゃべり、ありとあらゆる病気にギリシャ語の名前をつけ、それらを定義し、分類するすべをわきまえています。しかし、病気をなおすことにかけては、まったく無知なのです」(鈴木衛訳『病は気から』岩波文庫、一九七〇年、八五頁)。
 役に立たないばかりではない。大学医学(正統医学)は有害でさえあるとモリエールは告発する。病気になったら、医者になどかからず「じっと安静にしていればいいんです。自然のままに任せておけば、体調の乱れも、おのずから徐々に回復して行くものです。……患者の大部分は、病気のために死ぬんじゃなく、薬のために死ぬんです」(同書、八七頁)。一九七〇年代になってI・イリイチがおこなった「医原病」という現代医療批判(金子嗣郎訳『脱病院化社会』晶文社、一九七九年)は、ある意味でモリエールの風刺を反復したものだと言えよう。


◆田間泰子, 19991030, 「ジェンダーと医療」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』世界思想社.
(pp188)
 医療化、特に医療専門職の実践のレベルでの医療化がジェンダーと無縁でないことについては、フェミニストたちの研究の蓄積がある。E・フリードソン(E. Freidson, Profession pf Medicine, Harper and Row, 1970)が医療専門職のパターナリズム的理想像を批判し、またI・イリイチが「医原病」という表現(金子嗣郎訳『脱病院化社会』晶文社、一九七九年[原著一九七六年]、一一頁)によって諸生活領域の医療的植民地化を批判する以前から、すでにフェミニストたちは問題を指摘していた。その淵源は、米国で興ったラディカル・フェミニズムの成果にみることができる。それらの研究は妊娠・出産・授乳機能、避妊と中絶、セクシャリティや心理的な「女性らしさ」など、女性の身体と生活領域が、医療的な専門職によって支配的に定義され、また統制されてきたことを主張したのである。その最も初期のまとまった、しかし荒削りな書物はV・クラインによる『女とは何か』(水田珠枝訳、新泉社、一九八二年[原著一九四六年])だといってもよいだろう。その後、まだ医療化という概念は登場しないが、E・リード『性の神話』(三宅義子他訳、柘植書房、一九七四年[原著一九六九年])やK・ミレット『性の政治学』(藤枝濡子他訳、ドメス出版、一九八五年[原著一九七〇年])を含む多くの研究において、生物学や医学、精神医学、心理学等における「女性」の構築のなされ方が批判的に明らかにされた。


Bauman, Zygmunt 2000 Liquid Modernity, Polity Press(=20010620, 森田典正 訳『リキッド・モダニティ――液状化する社会』大月書店).
(pp102-103)
 実際、無限の可能性を特徴とする「流体的」近代においては、健康基準をふくむ、あらゆる基準の価値が激しくゆさぶられ、非実体化しつつある。きのうは正常、順調と思われていたものが、きょうは異常でないかと心配となり、加療が必要だと思えてくることもあるだろう。第一に、からだにまったく新しい状況がおこっただけでも、医師にかかる必要があると考えられ、それにあわせて、医学的治療もたえず更新されるようになった。第二に、かつて明瞭だった「病気」の定義が、しだいにぼやけ、曖昧になった。昔であれば、はじめがあり、終わりがある一回性の異常として理解されていた病は、いまや、健康の永遠の付属物、健康の「裏面」、つねに現存する脅威とみなされるようにもなっている。病気への警戒はけっして怠ってはならず、病気とのたたかいは昼夜をたがわず続けられねばならない、と思われるようになった。健康への配慮は、病にたいする永遠の戦いの一部だ。そして、最後に、「健康生活」はつねに変わらぬものではなくなった。たとえば、「健康な食生活」という概念は、つぎつぎ推奨される食品の効果が確認される前から、変化をはじめる。健康にいい、健康に害がないとされる食物が、その栄養効果のでる前から、長期的には健康に被害をおよぼすと指摘されたりする。病気の治療や予防が、別の疾病を併発させることもある。「医原性」の病が、さらなる医学的治療の必要性を生んだりする。ほとんどすべての治療には危険性がふくまれ、危険性をおかした結果おこったものを治療するため、また別の治療が必要となる。
(pp137-138)
 こうした方法は中途半端な、次善の解決策、無害な必要悪でしかない。「公的でありながら市民的でない場所」は、見知らぬ者とのかかわり、危険な交渉、面倒な意思疎通、緊張する取引、いらだたしい妥協とは無縁だ。とはいっても、見知らぬ者と会わずにすむというわけではない。ここは、むしろ、見知らぬ者同士の出会いを前提とし、この前提にしたがって設計され、使用される。すべての治療が病気に効くわけでないことは、周知の事実だろう。完全な治療体制といったものは、あったとしても、非常にまれである。免疫性を生命体に植えこむことによって、治療が無用になるとすれば、どんなにすばらしいことだろう。同じように、見知らぬ者との関係が完全に断絶できれば、かれらの存在感をゼロにするどんなに複雑な手法より、はるかに安全、確実なはずだ。
 一見、すぐれてみえる解決法には、リスクがともなう。免疫構造の操作は、危険な作業で、他の疾病発生の原因となることも考えられる。それ自体が病原体となることさえ考えられる。さらに、ひとつの疾病にたいする免疫性を生命体がもっても、他の疾病にたいしてほとんど無防備であることに変わりはない。免疫構造の操作は、ほとんどの場合、激しい副作用をともなう。実際、多くの医学的介入が、医原的な疾病、つまり、医学的介入に起因する、治癒されるべき疾病よりも、少なからず重い病を発生させるといわれる。


◆Iversen, Leslie L. 2001 Drugs : a very short introduction(=20030605, 廣中直行・鍋島俊隆 訳『薬 (1冊でわかる)』岩波書店).
[6]薬物による予期せぬ作用―生化学・薬理学テキスト
 Iatrogenic Diseases (Textbook for Students)。 R。 R。 Raje and P。 D。 Wong、
PJD Publications、 1999。
森昭胤(監訳)、 野田泰子、 熊谷学(訳)、 (株)じほう、 2003年。
 アメリカの病院では、医師から処方された薬の副作用や有害作用によって身体をこわし入院している患者が、全入院患者の3割以上を占めているといわれている。治療薬、診断薬、診断などが原因で生じた、軽度から重度にいたる副作用や有害作用を含むあらゆる病理的症状を医原病という。医原病は病気を治したいから病院に来たのに、薬が適正に使われなかったことによって新たにおきた病気である。たとえば薬の過量投与、複数の薬が処方された場合には薬物相互作用によっておこり、用量と関連性がない場合にはアレルギー反応などによっておこる。患者のQOL(Quality of Life、生活の質)を考えたら、あってはならないことである。医師によって薬が処方された時に、患者の状態を考えた適正な処方内容であるかどうか、用量や投与間隔は適正であるか、薬の相互作用はないかなどを、薬剤師は鑑査する義務がある。また薬を患者が服用するにあたっての注意として、どのように服用するのか、どのような効果が期待できるか、どのような副作用が予想されるのか、そのチェックポイントは何かなど、薬剤師は説明する義務がある。患者は説明を受けたことを十分理解して、決められたとおり服薬をしなければいけない(コンプライアンスという)。患者が薬の副作用、有害作用の兆候について十分理解していれば、医原病の多くは回避できるので、医師、薬剤師、看護師のみならず、一般の方々も「薬物による予期せぬ作用」について知っておく必要がある。この本は臓器別にどのような薬剤誘発性の有害反応(医原病)がおこるかを解説している。


◆20020325, 「薬害・医原病の多発とその背景」川上武 編『戦後日本病人史』農村漁村文化協会:321-367.
 医原病と医療事故、医療過誤、薬害などの用語について、本書では以下のように扱う。
 荒記俊一によると、医原病は「本来、医師の言動に対する患者の心理的反応(誤解、自己暗示など)によって起こる疾患をさすが、現在は、広く医療行為が原因となって不可抗力的に発生する傷病のすべてを包括する言葉として使われる」(2)。
 また黒田満によれば、医療行為が「予想もしていなかったような意外な結果に終わり」、「患者は不満をもつ」とき、医療事故と呼ばれる。そのなかで「医師や病院の側に過失があったとされたものが医療過誤といわれ、避けることができなかったであろう(不可抗力)とされたものを狭義の医療事故ということもできる」(3)。「過誤」と「事故」の区別が困難な場合も多いが、いずれも広義の医原病に含まれる。しかし、戦後病人史においては、医療者の故意で行われたと考えられる被害の例もある。
 さらに薬害のなかには、現場で薬物を使用した医療従事者のみでなく、企業や国家の責任が問われるケースがある。「薬」以外の医療材料による被害で、同じ構造をもったケース(乾燥ヒト硬膜によるクロイツフェルト・ヤコブ病など)もある。いずれも被害者からみれば、医療を受けたことによる被害である。
 本章では、これらをも含めた最も広い意味で、「医原病」を用いることとする。


鈴木利廣, 20020822, 「医療過誤」市野川容孝 編『生命倫理とは何か』平凡社:50-57.
(p50)
医療過誤とは
 医療の過程で患者が受けた被害のうち,医療従事者や医療機関に法的責任(とくに損害賠償の民事責任及び業務上過失致死傷罪の刑事責任)がある場合をいう。
 古くは診療過誤という用語が使用されていたが,現在はmedical malpracticeの訳語として「医療過誤」が使用されている。類似の用語に「医療事故」があるが,これは法的責任の有無を問わない。また「医事紛争」は医療従事者・医療機関と,患者・家族の間の紛争を指す用語で紛争内容を問わない。
 医療事故・医療過誤には大別して二つの類型がある。
 一つは,医原病型と呼ばれ,医療行為を原因として被害を生じる場合で,患者や薬のとり違えや手術部位の誤認等のケアレスミス以外にも医薬品の有害作用・医療用具の不具合,検査・処置・手術の副損傷・合併症,院内感染等がある。
 もう一つは,治療の不実施型(病状悪化型)と呼ばれるもので,適切な診察・診断・治療を欠いたために原疾患が悪化して避け得た被害を生じた場合である。


◆別府宏圀, 20020822, 「薬害」市野川容孝 編『生命倫理とは何か』平凡社:58-64.
(pp58-59)
薬害
 文字通り薬による害であるが,薬がもたらす「副作用(害作用)」とは区別して用いられることが多い。薬には多かれ少なかれ副作用(害作用)が存在し,すべての副作用発現を予見し,回避することは困難であり,また病気を治すためにはある程度の副作用は容認せざるをえないこともありうる。したがって,副作用被害すべてが薬害になるわけではない。
 薬害という言葉が用いられるようになったのは,「公害」が一般用語として広く社会に定着しはじめた時期と一致することからも明らかなように,概念的には「公害」と重なる内容を含んでいる。すなわち,「薬害」とはたんに個々の副作用事例ないしはその集合をさすのではなく,その発現には社会のもつ何らかの構造的欠陥が関与しているという認識が存在する。すなわち薬が研究・開発され,その製品が国(厚生労働省)によって製造・販売を承認され,実際の患者に使用されるという一連の過程のなかに何らかの過失や不備があったために被害が発生したという考え方であり,製薬企業・国・医師の複合的な責任が問われることが多い。
 これと似た用語に「医原病」や「医療過誤」という言葉がある。もともと病気を治すために医師が与えた薬が他の病気を引き起こしたのであるから,「薬害=薬によって引き起こされた医原病」という解釈も当てはまるが,明らかに医師個人の注意義務違反等によって起きた被害は,「薬害」としてよりは,むしろ「医療過誤」としてとり扱われる。
 最近ではまた,「薬害」の表現がより広範囲に適用されるようになり,広義には,医薬品だけでなく,食品添加物,家畜飼料等に含まれる抗生物質,農薬その他の化学物質によって引き起こされる環境被害も含まれることがある。また「薬害エイズ」,「薬害ヤコブ病」などの表現にもみられるように化学薬剤だけでなく,汚染した生物製剤や医療用具が引き起こした医療被害にも「薬害」の接頭語が用いられる。これらの病気もまた,一般の薬害事件と同じように社会の構造的欠陥が引き起こしたのであるという認識が,適用の範囲を拡大させているのであろう。


野口裕二, 20050125, 『ナラティヴの臨床社会学』勁草書房.
(pp158-161)
 近代医療のもたらす弊害について、きわめてラディカルな見方を示したのがイリイチ(Illich,1976)である。イリイチは医療が社会統制の主要なエージェントとなることによる弊害を「医原病」(Iatrogenesis)という言葉で表現する。
 医原病とは文字通り、「医療に原因がある病気」という意味であり、「医療そのものが健康に対する主要な脅威となりつつある」というイリイチの基本的認識を表す造語である。彼によれば、医原病には「臨床的」、「社会的」、「文化的」の三つの種類がある。
 「臨床的医原病」は、「過度の治療的副作用」および「医療過誤」を指しており、最近の事例でいえば、薬害エイズ問題や院内感染問題などがこれにあたる。たしかに、「医療に原因がある病気」には違いないが、これらは例外的な逸脱ケースと考えることもできる。これに対して、残りの二つは例外としては片付けられない面を含んでいる。
 「社会的医原病」は、個人の生活のさまざまな領域が医療の管理化におかれる結果、ひとびとの「不快と痛みに対する許容性を下げ、個人が苦しむ際にひとびとが譲歩する余地を低下させ、自己ケアの権利すら放棄させることによって不健康を作り出す」ことを指す。つまり、医療の守備範囲が拡大することにより、個人が「自らの内部の状態と状況に対する制御力を奪われてしまう」のである。生活の少なからぬ部分が医療の直接、間接の管理下におかれ、自己決定できる部分が相対的に縮小していくことを問題にしている。
 「文化的医原病」は、「医療企業が、人間が現実に耐え忍ぶ意志を吸い取るときに始まる」ものであり、「「受苦」という言葉が現実の人間反応を示すためにほとんど無効になる」ことを意味する。避けがたい苦痛を受け入れるという人間の能力が奪われていくというのである。社会的医原病が、自己制御や自己決定の能力の衰退を問題にするのに対し、文化的医原病は、忍耐や受苦の能力の衰退を問題にしている。
 これら二つの点は、かつてはひとに備わっていたある種の「能力」の衰退に着目するものであり、従来の議論にはみられなかった新たな問題点を示している。もちろん、耐え忍んで死ぬよりも専門家に助けてもらう方がいいとも言えるが、ちょっとした問題に関しても、耐え忍び、受け入れる能力がなくなるとすれば、それもまた問題といえよう。また、「尊厳死」のように、専門家に助けてもらって生きのびるよりは自ら死を選ぶという自己決定もありうる。
 ところで、これらの問題は、パーソンズが定式化した「病人役割」にともなう必然的な帰結としてとらえることができる。パーソンズが示したように、近代社会において病人になることには独特の義務が伴うが、そのうちのひとつが、「専門家に援助を求めその指示に従う義務」である(Parsons,1951)。この義務は、非科学的な自己流の治療ではなく、科学的根拠に基づく適切な治療をすみやかに受けることが最良の方策であるという意味で病人に求められる義務である。しかし、それは同時に、ひとが自分で考え自分で対処する機会を奪うものともいえる。専門家に援助を求め、そこで病気と認定されないと病人となることができないという意味でも、まさしく専門家が病気を作っているといえる。
 さらに、イリイチは、この問題を医療だけでなく専門家一般に広げて議論を展開する。そして、現代を「ひとびとを無能力化する専門家の時代(The Age of Disabling Profession)」と名付ける(Illich,1978)。「無能力化」とは「ひとびとの能力を奪う」という意味であり、さきほど述べた自己決定能力や忍耐能力の衰退のことを指している。「この時代は、ひとびとが「問題」をもち、エキスパートたちが「解答」をだし、科学者たちは「もろもろの能力」とか「もろもろの必要」とか本来測定しえないものを数量化しようとした、そういう時代」だというのである。
 それではどうしてこのようなことが起こったのか。「専門職がこんなに支配的になり、ひとびとが無能力化するようになったのも、エキスパートがひとびとに押し付ける不足(lack)を、ひとびとが実際に必要なものとして受け止めるようになっていった」からだとイリイチは述べる。さらに、かつては「ニードという言葉はおもに動詞として使われていた」のだが、それが名詞として頻繁に使われるようになったことに着目する。「福祉専門職は、(中略)、「問題児」らが必要とするもの(ニード)を標準化しようと努めた。名詞として使われるニードは、専門職が肥大化し、支配的地位を得るうえで「まぐさ」の役割を果たした」(Illic,1978)。
 あまりに辛辣な言い方ではあるが、福祉の専門化の進展が、「ニード」という概念を中心に進められていったことは重要な点である。それは、医療化における 「疾患」という概念とちょうど対応するものといえる。さらに、動詞から名詞への変化は、それが操作すべきものであり、操作可能なものであるという意味合いを強めていく過程を示している。専門化は、専門的な操作対象の確立(=「名詞化」) によって進展する。このことをイリイチの議論は教えている。


UP:20080609 REV:20100602
作成:植村 要
患者の権利  ◇医療過誤、医療事故、犯罪…  ◇薬/薬害  ◇医療と法  ◇人体実験
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