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府中療育センター/闘争


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■府中療育センター闘争関連の新聞・雑誌記事
 2005.07 安藤 道人 「府中療育センター闘争関連の新聞・雑誌記事」
 2013.2追加 廣野 俊輔
 2013.3追加 廣野 俊輔
 2018.5追加 立岩 真也
 2018.6追加 立岩 真也

発行日 記事タイトル ( 雑誌・新聞名  新聞縮刷版ページ数)

◇1968.04.00 東京都立府中療育センター開設 センター長:白木 博次

◇中嶋 理 2015年12月1日 インタビュー NHK *
 https://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100428_00000

 「これを構想したのが東京大学の医学部の教授だった白木博次先生。白木先生が美濃部知事の時代の東京都顧問だったんですね。圧倒的な力をお持ちでして。保険医療面については全面的に白木先生の指揮下にあったみたいなぐらいに強い力をお持ちだったですね。美濃部さんとどういうご関係か私どもは知らないんですけれど。非常に信頼関係が厚くて。ですから顧問に就任されて。それでこのことを構想されたんですね。」

白木 博次:1970年7月、美濃部都知事から委嘱され、都知事のブレーンである東京都参与となり、医療行政に関与
 このころ、東京都参与として、都知事から老人医療の無料化の相談があったが、そうなると老人が外来あるいは入院という形で病院に押し掛け、青年層や壮年層が病院を利用しにくくなることが予想されるため、老人の専門病院を作る必要があると都知事に提案

◇1970.12.14 「重度障害者も人間です」(朝日新聞)

白木 博次 197105 「美濃部都政下における医療の現状と将来像――わが国における医学と医療の荒廃への危機との関連で」,『都政』1971-5:31-72 ※ *

 「たとえば、都立府中療育センターの重症心身障害児(者)の問題を考えてみると、すくなくとも、現在の段階の医学と医療では、どのように頑張っても、まず、社会復帰の見込みはないといってよく、社会復帰できるとすれば、それは、死亡、退院するときであるという、冷厳な現実が、ここで、指摘されるのである。にもかかわらず、そこでは、九五%の赤△040 字をだす、濃厚な、いわゆる不採算医療が行なわれている。つまり、月平均、一人の障害者に対し、都から約一六万円の援助を受けていることになり、要するに、その分が都民の税金から交付されていることになる。しかし、それは、社会的、経済的両効果からみれば、どう考えても、そのみかえりを期待できない、ホープレスな患者が、その対象となっているわけである。
 にもかかわらず、なぜ、そうしなければならぬかを考えてゆくと、それこそが、医者のヒューマニズムであり、良心であり、生命への尊厳、それへの畏敬から発する行動そのものであり、それは、理屈や、論理以前の問題であるといってしまえば、それは、医師仲間にとっては、それでも通ずる論理であるとしても、医者以外の人たちが、それを、どう受けとめるかとなると、問題は、そう簡単ではなくなってくる。
 つまり、東京都の政治情勢なり、何なりが変わった場合、重症児(者)達が、どのような扱いを受けるか、かならずしも、予断を許さないし、大きな危機が訪れないとはいいきれない。なぜなら、国なり、地方自治体の考え方が、何を指向するかによって、この問題は、前進することも、また、逆に、大きく後退する可能性も、そこに秘められているからである。どう考えても、社会に役立たない人間は、その存在自体に意味がない、あるいは、それ以上に、悪であるという考え方が優位となれば、予算も、何もかも、切られてしまうことも起こりうるし、一方、それこそが、本当の医療であり、福祉であり、わが国のGNPを伸ばしてゆく真の目標は、各論的にみれば、まさに、そこにあるのだという発想が定着してゆくならば、幾らでも前向きにすすんでゆく可能性もある。つまり、重症児(者)という対象そのものが、きわめて深刻なだけに、また、その成り行きについても、情勢次第では、きわめて安定性を欠く問題が、そこに存在するといわねばならない。」

1972.04.25 府中センターをつぶせ 東洋一の福祉施設の正体 (都立大学新聞)
1972.06.26 府中療育センターにおける日常的差別(保安処分・コロニ―資料集)
1972.09.19 民間への移転は追出し 府中療育センターの障害者 抗議の座り込み( 朝日新聞)
1972.09.19 都庁前に車イスの抗議――「療養所かわるのはイヤ」と (毎日新聞 545)
1972.09.20 車イス座込み2夜  (毎日新聞 578)
1972.09.22 2局長と話合い (毎日新聞 649)
1972.09.27 強制移転イヤだ 身障者、座り込み十日目 (読売新聞 887)
1972.09.29 二人がハンスト 都に抗議の身障者 (朝日新聞 967)
1972.09.29 座込みの2人がハンスト (毎日新聞 876)
1972.09.30 都庁前のハンスト続く 障害者「隔離」反対の二人 (朝日新聞 1003)
1972.09.30 ハンストに突入 都庁前の身障者 (読売新聞 999)
1972.10.03 テントの底 (朝日新聞)
1972.10.09 都庁前のハンスト 10日ぶりに解く 抗議の障害者 (朝日新聞)
1972.10.09 身障者支援で座込み 東京都立府中療育センターの看護助手 松本隆弘さん(朝日新聞)
1972.10.16―23合併号 女性民生局長が初めて難局に直面 (ヤングレディ―)
1972.10.20 車イス座り込み 『施設を移さないで』 都庁前にもう33日 (朝日新聞)
1972.10.30 車イスで40日座り込み なぜ・・・「差別反対」に反対 ジレンマに苦しむ都( 朝日新聞 夕刊)
1972.11.04 身障者拒絶するこの大都会 府中療育センター在所者 早大生らと対話集会 (朝日新聞 117)
1972.11.17 「身体障害者」の与えられた生(朝日ジャ―ナル)
1972.11.17 「わたしたちは人形じゃない 新田絹子さんの手記」,『朝日ジャ―ナル』
1972.12.09 都、説明会を提案 座り込みグル―プ「覚書違反」と不満 (朝日新聞 317)
1972.12.13 都の説明会を"拒否" 府中療育センター座り込みグル―プ (朝日新聞 453)
1972.12.21 車イスと"対話"して座り込み百日目 (読売新聞 夕刊 732)
1972.12.25 都庁前 100日目 カンパにみる人情(朝日新聞)

1972.12.27 都、身障者に最後通告 身障者の移転反対すわり込み100日目に (朝日新聞 908)
1972.12.27 施設移転で車イス座り込み―とが交渉打切りを通告 (毎日新聞 846)
1972.12.31 怒りは寒風を切る―座り込みの越年(読売新聞)
1973.01.14 在所生の意思、あす都が確認―療育センター (毎日新聞 396)
1973.01.16 身障者の民間移転 処遇は都立施設並みに 都が説明 反対者は納得せず (朝日新聞 465)
1973.01.16 来月移転で賛否を聞く―都、在所生に説明 (毎日新聞 442)
1973.01.17 車イスの座り込みのなか3人が移転 一次移転終わる (毎日新聞 夕刊 490)
1973.01.18 移転反対座り込み―府中療育センターで身障者
1973.01.20 重度障害者の一次移転終わる――府中療育センター( 毎日新聞 570)
1973.01.26 「多摩更正園は不祥事続き」施設替え反対派が態度硬化 (朝日新聞 夕刊 822)
1973.01.26 「職員不足なくせ」―移転反対派が抗議  (毎日新聞 夕刊 779)
1973.01.29 移転第2陣へ阻止の座込み (毎日新聞 夕刊 866)
1973.01.30 反対派支援学生が気勢 府中療育センター (朝日新聞 945)
1973.02.01 第二次組4人移転おわる 府中療育センター (毎日新聞 18)
1973.06.08 都市と市民 都議選を前に考える<4> 「豊かな社会」の少数派 (日本経済新聞)
1973.09.15 座り込み一年 車イスの抗議 多摩更生園への移転反対 (読売新聞 531)
1973.09.18 一年たった都庁前の車イス座り込み―きょう交渉再開要求の交渉 (毎日新聞 572)
1973.09.18 座り込み一年で総決起集会 身障者ら (読売新聞 夕刊 640)
1973.09.19 都知事、一年目に面会 すわり込みの身障者 都議会建物に乱入 (朝日新聞 672)
1973.09.19 27日に知事と話合い―一年で"糸口" (毎日新聞 608)
1973.09.19 やっと対話へ 都庁座り込み身障グル―プ (読売新聞 663)
1973.09.27 知事と初めて"対話" 福祉の実情訴える (朝日新聞 夕刊 970 )
1973.09.27 座り込み一年、車イスの対話―"施設移転責任"を知事に迫る (毎日新聞 871)
1973.09.28 "強制移転はしない" 療育センター問題 美濃部さん初の対話 (東京新聞)
1973.09.28 都政の目 解決の努力確認 車イスドキュメント (朝日新聞)
1973.09.28 量の福祉から質の福祉へ 都に転換問う 車イス座り込み (毎日新聞)
1973.11.01 「座り込み放置」と行政を追及―身障者グル―プが都と話合い (毎日新聞 18)
1973.11.17 話合いが前進 都側が"改善"を約束 (毎日新聞 548)
1973.12.25 白木教授との公開討論会を 府中センターの療養者 (朝日新聞 735)
1973.12.28 身障者ら越年座り込み 都庁前 白木元院長の退任要求 (朝日新聞 807)
1974.02.14 在所生有志に都が文書で回答―府中療育センター移転騒動 (毎日新聞 328)
1974.06.03 車イスでの都庁座り込み 一年半ぶり解決へ あっせん案 重度身障者棟 来年、民生局へ移管 (朝日新聞 夕刊 86)
1974.06.03 やっと"和平"座り込み解く―都庁前の身障者(読売新聞 夕刊)
1974.06.05 療育センター"テント闘争"終結―都と調印 (毎日新聞 夕刊 140)
1974.06.05 テントを自主撤去 都知事との覚書に調印 (朝日新聞 夕刊 154)
1974.06.17 運営に新たな波紋 一階部門の民生局移管 重症者の親が反発 (朝日新聞 173)
1974.11.23 重症身障者には危険 府中療育センターの移管 家族ら反対の署名運動(朝日新聞)
1974.12.4.協議会設置を検討 副知事が表明 府中療育センター問題 (朝日新聞)
1974.12.13(解説)住民負担は限度 府中療育センター紛争 (朝日新聞)
1974.12.14 都に改造早期実施申し入れ―府中療育センターの重度障害者
1975.02.06 都と賛否両派あす三者会談―府中療育センター重度身障者棟問題(読売新聞)
1975.02.06 あす五者が初協議  府中療育センター紛争(朝日新聞)
1975.02.08「話し合う会」が発足 府中療育センター問題 五者、初めての協議 (朝日新聞)
1975.04.08 話し合い進展なし―府中療育センターの移管(読売新聞)
1975.04.09. 府中療育センター 11.までに解決策示す 都衛生局長が表明 (朝日新聞)
1975.06.06覚書を実施せよ 有志グル―プ、都に迫る 府中療育センター紛争 (朝日新聞)
1975.06.06 20日までに最終案府中療育センターの民生局移管(読売新聞)
1975.6.12.身障者ら座り込みを再開 府中療育センター紛争(朝日新聞)
1975.06.12 再び抗議の座り込み―府中療育センター"早く一階を民生局に"(朝日新聞)
1975.06.14 座り込み派に屈するな 医師団など要請 府中療育センター紛争 (朝日新聞)
1975.06.14"重度棟問題"泥沼に 民生局移管に反対―職員ら都知事に訴え(朝日新聞)
1975.06.17「運営は民生局で」 重度棟で都最終案 府中療育センター紛争 (朝日新聞)
1975.06.17 都"別棟の建設"を提示―府中療育センター 両派とも即答避ける(読売新聞)
1976.02.03開放急げと座り込み―府中療育センター民生局移管求めて(読売新聞)

1999.09.17 石原慎太郎都知事 府中療育センター視察後、重度者の人格否定の発言 *
1999.09.20 全国青い芝の会 石原発言に抗議、発言の撤回と謝罪を要求* 

■人

猪野 千代子
岩楯 恵美子
新田 勲
三井 絹子



◆1968

◇中島 初恵 19750425 「東京都の難病問題と難病対策」,川村・木下・山手編[1975:62-75]*
*川村 佐和子・木下 安子・山手 茂 編 19750425 『難病患者とともに』,亜紀書房,259p. ASIN: B000J9OGWK [amazon] ※ n02.

 「府中療育センターは、昭和四三年、重い心身障害をもつ児童および成人を収容する施設として発足した。その内容は、衛生局担当の重症心身障害児(者)のための二〇〇床、民生局担当の重度精神薄弱児のための五〇床、重度精神薄弱者のための五〇床、重度身体障害者のための一〇〇床である。このように、さまざまな重い障害をもつ児童・成人を対象としているため、施設の運営において多くの問題が生じた。昭和四三年暮に、美濃部都知事は療育センターを視察し、センターを終生の収容施設とみなすのは不適当であり再検討を要すること、少なくとも重度関係は早急に分けるべきこと、を指摘した。このような指摘に基づいて、療育センターのありかたについての検討が活発に始められた。この検討と併行して、神経病院の設立準備および心身障害総合研究所(仮称)の設立準備のための検討が進められた。こうして、先天的または周産期の原因による重症・重度心身障害児を対象とする府中療育センター、後天的要因による神経疾患(心身障害)患者の対象とする神経病院、およびこれらの対象者の疾患・障害の基礎的研究や予防・治療・リハビリテーション・看護・福祉のための応用的研究を行なう研究所、の三施設が同じキャンパスにおいて密接な協力関係を保つことができるよう計画が立てられ、逐次実現されつつある。」(中島[1975:68])
 *センター闘争への言及はない

■文献

白木 博次 197105 「美濃部都政下における医療の現状と将来像――わが国における医学と医療の荒廃への危機との関連で」,『都政』1971-5:31-72 ※ *

◆新田 絹子(三井 絹子) 19721117 「わたしたちは人形じゃない――新田絹子さんの手記」,『朝日ジャーナル』1972.11.17
 http://www.arsvi.com/1900/7211nk.htm

◆府中療育センター在所生有志グループ・支援グループ 1973 『府中療育センター移転阻止闘争』,府中療育センター在所生有志グループ・府中斗争事務局,122p.※r:[椎木章氏蔵書]

高杉 晋吾 1979 「府中療育センター闘争の切り拓いたもの」,『季刊福祉労働』3:44-55

◆岩楯 恵美子 著・「岩楯恵美子学校へ入る会」 編 19780620 『私も学校へ行きたい――教育を奪われた障害者の叫び』,柘植書房,271p. ASIN: B000J8OFS6 1800 [amazon] ※ e19.

◆中島 初恵 19750425 「東京都の難病問題と難病対策」,川村・木下・山手編[1975:62-75]*
*川村 佐和子・木下 安子・山手 茂 編 19750425 『難病患者とともに』,亜紀書房,259p. ASIN: B000J9OGWK [amazon] ※ n02.

 「府中療育センターは、昭和四三年、重い心身障害をもつ児童および成人を収容する施設として発足した。その内容は、衛生局担当の重症心身障害児(者)のための二〇〇床、民生局担当の重度精神薄弱児のための五〇床、重度精神薄弱者のための五〇床、重度身体障害者のための一〇〇床である。このように、さまざまな重い障害をもつ児童・成人を対象としているため、施設の運営において多くの問題が生じた。昭和四三年暮に、美濃部都知事は療育センターを視察し、センターを終生の収容施設とみなすのは不適当であり再検討を要すること、少なくとも重度関係は早急に分けるべきこと、を指摘した。このような指摘に基づいて、療育センターのありかたについての検討が活発に始められた。この検討と併行して、神経病院の設立準備および心身障害総合研究所(仮称)の設立準備のための検討が進められた。こうして、先天的または周産期の原因による重症・重度心身障害児を対象とする府中療育センター、後天的要因による神経疾患(心身障害)患者の対象とする神経病院、およびこれらの対象者の疾患・障害の基礎的研究や予防・治療・リハビリテーション・看護・福祉のための応用的研究を行なう研究所、の三施設が同じキャンパスにおいて密接な協力関係を保つことができるよう計画が立てられ、逐次実現されつつある。」(中島[1975:68])
 *センター闘争への言及はない

◆木下 安子 19780725 『在宅看護への出発――権利としての看護』,勁草書房,304p. ISBN-10:4326798394 ISBN-13:978-4326798391 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ n02. a02

 「一九七〇年八月、朝日新聞東京本社の講堂で一つの講演会がもたれた神経病総合センター設置促進講演会≠ナある。会場に集まった人々の大半は明らかに身体上の不自由をもっていた。全国スモンの会、東京進行性筋萎縮症協会の会員たちである。そして美濃部東京都知事の登壇を待っていた。その期待のまなざしを受け、都知事はあっけないほどはっきりと「神経疾患患者のための施策に着手する」と発言した。患者会が準備した要望書は手渡されたが、既にその必要さえないほどであった本当だろうか≠ニ互いに顔を見合わせていた患者さえいた一幕であった。しかし、事実この会で△086 の都知事の発言は行政レべルで実現されていった。既に六八年六月、重い心身障害をもつ児童および成人を収容する施設として府中療育センター≠ェあり、その在リ方の検討と併せて、後天的原因による神経疾患(心身障害)患者を対象とする神経病院、およびこれら対象者の疾患、障害の基礎的研究や予防・治療・リハビリテーション・看護・福祉のための応用的研究を行なう研究所、の三施設が同じキャンパスに置かれ、協力関係を保つことができるよう計画が推進された。
 まず七一年五月には府中病院に神経内科が置かれ、七二年四月、神経科学総合研究所が開設になったのである。
 これら患者の期待と要望を担って発足した神経科学総合研究所は、その目的に「脳・神経系についての基礎医学的研究、脳神経系の疾患ないし障害の臨床医学的研究、ならびに脳神経疾患患者および心身障害児(者)の社会福祉に関する基礎科学的研究を行い、広く神経科学の発展を通じて都民の健康と福祉の増進に寄与すること」をうたっており、明確に社会科学的研究が位置づけられている。
 七三年四月、社会学研究室が開設され、その中に看護学部門が置かれ、木下安子・山岸春江・関野栄子が着任した。看護学の基礎に立ち、それぞれ現場経験をもつ研究者三名が、この研究所を基盤にどういう方向で研究を進めるか、それは全く主体的に決めうることである。」
 *センター闘争への言及はない

◆立岩真也 1990 「はやく・ゆっくり」より
 安積他[1990]→安積他[1995]*→安積他[2012:]
*安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 19950515 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』,藤原書店,366p.,4-89434-016-X 3045 [amazon][bk1] ※
[p179]3 転換2: 施設から

 「東京都府中療育センターは、六八年四月、「東洋一」――国立身障センターの設立時にもやはりこの言葉が飾られた――といわれる「超近代的」な医療施設として開設された。
 その管理体制に対して在所生から批判の声があがった★30。彼らが耐え難いと感じたのは例えば次のような事々である。[p180]ついたてのようなしきりがあるだけの男女各一部屋ずつの大部屋に収容され、起床は朝六時(五時一五分に電灯がつけられる)、消灯は夜九時。トイレの時間も決まっていて、後にはトイレに行く(連れて行く)手間を省くために朝は全員に便器があてがわれる。面会は月に一度。外出・外泊は許可制で、回数が制限されていた。持物、飲食物は規制され、終日パジャマを着せられた。洗うのにじゃまだから髪は伸ばせない。男性職員による女性の入浴介助が行われていた。さらに、施設開設の当初には、入所時に、死亡した場合の解剖承諾書を書くことが条件となっていた。この施設の中で、はり絵、おり紙をし、歌を歌い、体操をし、週に三度散歩の時間がある。  こうした扱い、直接的には在所生に理解を示す職員の一方的な移動を発端にして、七○年十一月、在所生がハンストを始める。これは具体的な成果をあげられないままいったん終息したが、翌年、一部在所生の民間施設への移転が計画が計画されると、それに対する反対運動が起こった。それはその計画が第一に在所生の意向を無視した一方的なものであり、問題の起こった五階建ての建物の一階に収容されている重度身体障害者、及び二階・四階の重度精神薄弱者・重度精神薄弱児を移転の対象とし、センターを重症児・者だけの施設にしようとするもので分類収容をさらに徹底するものであること、第二に、移転先の施設(一階の在所生については多摩更生園(八王子市)が都立・民営の施設として新たに用意された)が市街から遠く離れた場所にあること、しかも民間依託されることによる処遇の劣化が予測されたことによるものだった。
 センター側との交渉は進展せず、都との交渉を求めて七二年九月から都庁前でテントを張って座り込みが始まるが、交渉は実現されず、七三年一月以降、数次に渡る移転が行われる。
 この時期は、施設整備が推進されていた時期であり、このセンターも、革新都政の成果と肯定的に評価された。既成の政党、労働組合は積極的な支援を行わない。そこで、運動は、在所生と大きな組織によらない障害者・非障害者の支援者によるものとなった。だが、在所生の間でもその方向は完全に一致していたわけではない。施設を出[p181]て生活することを目標とする者、それを理解しつつまず施設の改革、また移転先の施設でその施設を変えていこうという志向。さらにそこには、支援者の側との、あるいはその中の、食い違いがある。まず、障害者が現実から出発せざるを得ないのに対して、支援する組織においては、この問題の本質規定が先に立つ。またこの時期のいわゆる新左翼諸党派間の主導権を巡る争いがある。こうして都庁の前には二つのテントが立つことになった★31。
 座り込みを始めて一年を経、偶然得られた都庁での知事との直接的な接触を機に事態はようやく動き出した。七四年九月の都知事との交渉以降、継続的な交渉がもたれるようになり、その結果、一階の衛生局から民生局への管理移管、運営に関する協議会の設置で双方が合意し、運動は一つの区切りを迎える。だがそれで終わったのではない。運動に加わった者の多くはこの時点でセンターに残っている。その中で、例えば依然として行われる異性による入浴介助に反対し、入浴を拒否して待遇の改善要求が続けられる★32。ある者は移転先とされた施設に行く。施設に対する反省の中で、施設を肯定せず、とりあえずは施設でないような施設に向けての改革を始める★33。
 けれども具体的な生活の方向は各々に分かれながら、現実にそう簡単に施設から出ると言えない中で、この運動は単に施設の改善に向かうというだけのものではない。この運動は施設での生活条件の劣悪さから出発するが、そ[p182]もそも特定の場所に分けられ、不足していると同時に余計な「処遇」を受ける必要がないこと、基本的に生活するのは施設の外であることを明らかにしていく。そして実際に、少しずつ、施設から出て生活することを志向する者が現れる。彼らは、各地で生活し、運動を行ってきた人々とともに、生活の獲得への運動を始めるのである★34。」

◇安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 [amazon][kinokuniya] ※

『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙

◆日本社会臨床学会 編 19960831 『施設と街のはざまで――「共に生きる」ということの現在』,影書房,社会臨床シリーズ3,242p. 2800 ISBN-10: 4877142266 ISBN-13: 978-4877142261 [amazon][kinokuniya] ※

田中 耕一郎 20051120 『障害者運動と価値形成――日英の比較から』,現代書館,331p. ISBN: 4768434509 3360 [boople][amazon] ※,

「日本の障害者運動において、消費者主義の提起の嚆矢となったのは、府中療育センター闘争から分派したグループによる介助料要求運動である。」([148])

◆安藤 道人 2005 「府中療育センター闘争関連の新聞・雑誌記事」

◆三井 絹子 20060520 『抵抗の証 私は人形じゃない』,「三井絹子60年のあゆみ」編集委員会ライフステーションワンステップかたつむり,発売:千書房,299p. ISBN-10: 4787300466 ISBN-13: 978-4787300461 2100 [amazon][kinokuniya][JUNKDO] ※, d i05 i051970

◆立岩 真也 20070925「『私は人形じゃない』」(医療と社会ブックガイド・75),『看護教育』48-09(2007-09):-(医学書院)

 「ともかく、これが日本における施設批判の始まりである。私たちは「脱施設」や「ノーマライゼーション」が外国から入ってきたものだと思っているのだが、そんなことはない。1960年代後半、1970年前後にことは起こっている。
 当時、その事件はまったく知られなかったわけではない。新聞や雑誌の記事にもなった。その一覧を一橋大学の大学院にいた安藤道人さんが作ってくれた。私たちのHPに掲載されている。三井本人が書いた文章「わたしたちは人形じゃない」は、1972年、『朝日ジャーナル』に掲載された。それから25年の時を隔て、同じ題の本が出たということだ(この文章は本には収録されていないが、私たちのHPに全文掲載)。けれども、デンマークにおける脱施設の運動のように取り上げられることはまずない。舶来のものでないものをわざわざそう語ることはない。あったことは好き嫌いは別に知られてよい。そう思って私たちも『生の技法』を書いたのではあった。
 どうして無視し忘れることにしたか。いくつか言えるが、その一つは、医療や福祉を担っている当の人たちが非難されてしまうできごとであったことによる。
 まず施設を作ることが障害者福祉の前進だとされていた。また、待遇改善要求は、現実には労働者により多くの労働を求めることであり、労働組合、それと関係する(革新)政党が訴えを聞くのは難しかった。そして当時こうした動きに関わっていたのは、革新政党と対立する別の左派だった(p.160等)。都知事は美濃部亮吉で、「革新都政」の時期に都庁前でハンストをした。だから、ごく一部の動き――それは事実だ――だったとして無視しようというのは、わかる話ではある。
 しかしあったことはあった。聞きたくなくてももっともなことが言われた。1971年の「婦長への抗議」というセンターのN婦長への手紙から引用する(p.101)。
  「私はみんなによく言われることですが、「センターの悪口を言っている」と決してそうではないのです。施設と言うそのものの、存在を明らかにしているだけです。別にここだけの問題ではないのです。全国にある施設が問題をもっている共通な問題なのです。例えば、腰痛です。なぜ腰痛になるのか。と言う事を掘り下げていかなければ、解決などしません。又、なぜ私たちは施設という、特殊な社会に置かれなければならないのか。私たちもこういう所で、働く人も、考えて行かねばならないのです。それをみんな誤解して悪口だと言っているんです。
  それからはNさんは「親しくしている人なら、男の人でもトイレをやってもらっても、いいじゃないか。」と言いましたね。[…]Nさんは男女の区別を乗り越えるのが本当だと言いましたね。だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別々にしてあるんですか。」

◆新田 勲 20080315 『足文字は叫ぶ!』,全国公的介護保障要求者組合,434p.

◆新田 勲 編 20091110 『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』,現代書館,270p. ISBN-10: 476843486X ISBN-13: 978-4768434864 2200+ [amazon][kinokuniya] ※

◆新田 勲 20120815 『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』,第三書館,上:448p. ISBN-10: 480741206X ISBN-13: 978-4807412068 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ 下:352p. ISBN-10: 4807412078 ISBN-13: 978-4807412075 1200+ [amazon][kinokuniya] ※ d00p.d00h.i051970.

◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2017/03/01 「施設/脱施設/病院/脱病院 生の現代のために・19 連載・131」,『現代思想』45-6(2017-3):16-27

『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙   立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

『病者障害者の戦後――生政治史点描』 2018/12/20
 青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※

 4 諸力が合わさる
  1 諸力が合わさっていく
 「もう一つ所謂重症心身障害児の親たちの動きがあった。まず、熱心であった医療者たち――島田療育園の小林提樹が有名だ――の活動があり、その周りに親たちの集まりができて、それが当時の(今でも与党の)与党に働きかけた。筋ジストロフィーの親の組織の結成と同じ六四年「全国重症心身障害児を守る会」が結成される。この組織は「誰とも争わない」という方針を掲げた。「争わない」というのは――内部において、争ってよいはずだと言う人たちは抑え除外しつつ――具体的には政府・与党の批判はしない、お願いをするということを意味する。そしてそうした姿勢は六〇年代からしばらく、例えば自民党の厚生(厚労)族の大物議員たちに対して効果的だった。その運動とそれが得たものを調べておくことが必要だが、窪田好恵が研究を始めているので略す★26。一点だけ補足しておく。現在「重心」というと、身体的にも知的にもとても重い人たちがいる施設だと思われているし、実際そんな規定になっており、おおむね現実にもそうだ。ただ少なくともその初期においてはかなり多様な人たちがいたようだ。琵琶湖学園に務めたことのある窪田に、そこには脳性まひでものを書いたりする人もいると聞いた(264頁)。そしてその人たちは当然、今はもう小児などではまったくなく、高齢に達している。さらに文献にも当時サリドマイド児も入所していたことが記されている。制約はありながらも、まだそれほど規定がはっきりしていなかったこともあり、困窮度によって、あるいは施設やその関係者への訴えが――ときには有力者を介してということがあったかもしれない――有効であった限りで、入れる人は入れたということかもしれない。」([116])
 「★26 他に、数少ない論文として、やがて「府中療育センター問題」が起こるのでもある府中療育センターについて森山治[2004][2005]、そこでの闘争について岡田英己子[2002]を加えてあげておく。[…]」([188])

第4章 七〇年体制へ・予描1
 2 医(学)者たち
  5 白木博次(一九一七〜二〇〇四)
 「いま紹介した人に比べて、白木博次には思想のようなものがあった。出身はやはり東京大学の医学部で、東京大学医学部脳研究所病理部教授。医学部長になり(病院長は『造反有理』で取り上げた臺弘、一九一三〜二〇一四)、東大医学部闘争に巻き込まれ、争いを起こした側から批判される。後には宇都宮病△243 院との関係が批判される。実際、関わりがあったことは宇都宮病院院長・石川文之進の「追悼文」(石川[2004])にも記されている。そして一九四九年の松沢病院での「人体実験」が批判される。その場に居合わせてそれを見たという、敵方であった東大青医連の委員長だった石川清が、赤レンガと呼ばれた精神科病棟の不法占拠を糾弾するキャンペーンを張ったサンケイ新聞の取材に応じた記事のなかでその話をしている(サンケイ新聞東大取材班[1978:90])。青医連の富田三樹生の著書にわずかな記述がある(富田[2011:261])。あげられている資料は白木博次糾弾共闘会議[1975](未見)。そのことの真偽、それがどれほどの出来事であったかの吟味は大切だとは考えるが、ここではそれは不可能でもあり、取り上げない。造反派の人たちがやり玉にあげたのが、争いのための争いであった側面を否定はしない。人体実験はわかりやすい攻撃点ではあるが、別の場を検討したいと考えてこの文章を書いている。私はウィキペディアをよく使い、たいがい立派なものだと思うが、これらのことはそこには出てこない。
 椿と白木には共著の岩波新書『脳を守ろう』(白木・佐野・椿[1968])等もあって、もとは同じところにいたが、大学紛争に疲れた、という言い方ですむのかどうか、白木は大学を辞め、以後公的な機関の要職に就くことはなかった。在野で行動した人ということになり、椿・井形らと違い、水俣病への対応を変えるといったことはなかった。水俣病の被害者の側にいた人たちにとっては、今回の数人の中ではこの人だけがよくやったということにもなる。さらに白木は、科学物質による病は水俣だけではないこと、水銀他が脳に及ぼす影響を憂い、訴えた。その主張は幾度も繰り返され、終生のものとなる。それに感じいった人たちがいて、本(白木[1998][2001])も出版される。
 しかしその上で、二つのことが言えると思う。本節では一つ。
 その一つとは「思想」だ。この人は、東京都の医療政策・社会政策に大きく関わったが、むろんその時の都政が美濃部革新都政であったこともあって、たんに為政者的な人ではなく、負担を抑えざるをえ△244 ないとすぐに言う人ではない。むしろ、医療は不採算のものであってよい、採算を別として人を救うべきであると述べる。

 ▼医療が、なぜ、コトバの正しい意味での不採算でなければならぬかという哲学、あるいは、論理、また、学問体系は、やはり、うちたてられなければならず、それは単に、直観的、情緒的、宗教的なものに終止してよいとは考えられない。つまり、そのこと自体も、専念的な研究対象とすべきであり、片手間でできるものとは考えられない。つまり、今後、都に設立されてゆく医学関係の、それぞれの研究所のなかに、純医学的な研究部門と併行して、とくに疫学、社会学、心理学などの諸部門を中心として、そのような側面を、専念的に研究してゆく体制がとられなくてはならない。このことは、つまり、都立病院が、今後、重点的にうけもつことになるであろう、きわめて慢性、症状もひどく、治りにくい、あるいは、ほとんど不治と考えられる疾患について、とくにいえるところである。」(白木[1971:39])
 「本質的なアプローチの初期段階としては、たとえば、このような患者を抱えている家族達が、どれだけ、時間的、経済的な損失をうけているかというデータを、正確にとらえてゆかねばならず、そして、一見、不採算医療を行なっているかにみえる病院や施設に、収容することによってかかる費用と、患者からの重い負担から開放されることによって、家族達に浮いてくる時間的、経済的、また、心理的な利益の両者を秤にかけてみる必要があろう。/が、それは、むしろ純経済的、社会対策的な側面に主体がおかれていることを意味するわけであるが、それ以上に、決定的に重要なことは、結局、モラルの視点からの、この問題への認識であろう。つまり、そのような不採算医療を、社会の連帯責任において、なぜ、やってゆかねばならぬかの必然性、そのモラルが、やはり、体系的、学問的に思△245 弁され、研究されねばなるまい。(白木[1971:40])
 たとえば、都立府中療育センターの重症心身障害児(者)の問題を考えてみると、すくなくとも、現在の段階の医学と医療では、どのように頑張っても、まず、社会復帰の見込みはないといってよく、社会復帰できるとすれば、それは、死亡、退院するときであるという、冷厳な現実が、ここで、指摘されるのである。にもかかわらず、そこでは、九五%の赤字をだす、濃厚な、いわゆる不採算医療が行なわれている。つまり、月平均、一人の障害者に対し、都から約一六万円の援助を受けていることになり、要するに、その分が都民の税金から交付されていることになる。しかし、それは、社会的、経済的両効果からみれば、どう考えても、そのみかえりを期待できない、ホープレスな患者が、その対象となっているわけである。
 にもかかわらず、なぜ、そうしなければならぬかを考えてゆくと、それこそが、医者のヒューマニズムであり、良心であり、生命への尊厳、それへの畏敬から発する行動そのものであり、それは、理屈や、論理以前の問題であるといってしまえば、それは、医師仲間にとっては、それでも通ずる論理であるとしても、医者以外の人たちが、それを、どう受けとめるかとなると、問題は、そう簡単ではなくなってくる。/[…]社会に役立たない人間は、その存在自体に意味がない、あるいは、それ以上に、悪であるという考え方が優位となれば、予算も、何もかも、切られてしまうことも起こりうるし、一方、それこそが、本当の医療であり、福祉であり、わが国のGNPを伸ばしてゆく真の目標は、各論的にみれば、まさに、そこにあるのだという発想が定着してゆくならば、幾らでも前向きにすすんでゆく可能性もある。(白木[1971:40-41])▲

 はたしてなすべきことの正当性が「体系的、学問的」な「思弁」「研究」によって獲得されるものな△246 のか、私にはそうは思えないのだが、白木はそう言う。ときにそうした人がいる。二〇一八年に没した早川一光にもそんなところがあった(早川他[2015])。いっしょに研究しようと言ってもらった。それは私には不思議に思える。ただとにかく、基本的には、生きるためのことがなされるべきであると白木は述べている。
 その上で、そして同時に、白木は繰り返し、危機を語った。[…]」

  6 府中で
 「白木は六〇年代から七〇年代にかけて、東京都の医療福祉行政に大きく関与した。そして、むろん他に様々があってのことではあるが、京都府中市の同じ敷地内に三つの施設ができる(木下[1978]等)。白木は未来を構想し現実を作ることに関わるのだが、その構想ゆえにという部分も含め、そこに生じる現実を通り抜けてしまう。本節では、二つのうちのもう一つ、このことを示す。
 三つの施設の一つは六八年開設の(1)「東京都府中療育センター」、一つは七二年開設の(2)「東京都神経科学総合研究所」、一つは八〇年開設の(3)「東京都立神経病院」――ただそれ以前、七一年、府中病院に神経内科設置が設置されている。おおまかには、(1)脳・神経に関係する生まれながらの(重い)障害の人たち対象の施設、(3)後天的原因による神経疾患(心身障害)患者を対象とする病院。(2)それらを総合的に研究する研究所といった具合になっている。そして各々がこれまで述べてきた動きに関わる。
 (1)府中療育センター「を構想したのが東京大学の医学部の教授だった白木博次先生。白木先生が美濃部知事の時代の東京都顧問だったんですね。圧倒的な力をお持ちでして。保険医療面については全面的に白木先生の指揮下にあったみたいなぐらいに強い力をお持ちだったですね。美濃部さんと[…]非常に信頼関係が厚くて。」(中嶋[2015])
 ただこれは、それ以前、「重心」(身体と知的の重い障害が重複した人)の親の会の人たちが六四年十一月に陳情して計画が進められた(東京都立府中療育センター編[1988:28]、森山[2004:102,110])★28。これと△252 別に「重度」の身体障害および知的障害の人たちの施設を建設しようとしたが、住民の反対があって、無理に一つの施設に収容定員を多くして「重症」と「重度」の両方を入れることになったようだ(長畑[1993]、森山[2004:105-106])。白木は美濃部亮吉東京都知事の要請により、東大教授は続けつつ、このセンターの初代院長に就任。
 (2)も研究の場を作ろうという案は白木以前からあったようだ。そして七〇年、スモン、東京都の筋ジストロフィー関係者の組織(東筋協、既出)の人たち等が「神経病総合センター設置促進講演会」を実施、陳情、そこに出席した知事があっさりと受け入れたという。スモンの原因がわかる直前の開催であったため、伝染説も強かったスモンについて、社会不安の軽減、社会防衛のための研究という主張が通りやすかったとも言われる。研究所の目的として「脳・神経系についての基礎医学的研究、脳神経系の疾患ないし障害の臨床医学的研究、ならびに脳神経疾患患者および心身障害児(者)の社会福祉に関する基礎科学的研究を行い、広く神経科学の発展を通じて都民の健康と福祉の増進に寄与すること」が謳われている。 (3)の都立神経病院は、八〇年、椿がその初代の院長になった病院だが、その前、七一年五月には府中病院に神経内科が置かれた。
 そして、七〇年代以降、こうした場所を拠点にあるいは出発点に実際に動いたのは看護師だった。医師たちは研究(体制作り)に邁進するが、筋ジストロフィー、ALSといった障害・疾患については残念ながら結果は出ない。そのままの状態が続く。施設の中でも実質的には医師たちがなにほどのこともできなかったこの人たちのもとで当初働いた木下安子(一九二七〜二〇一六)、川村佐和子(一九三八〜)といった看護師たちがいて、その貢献には大きなものがあった。この二人も東京大学に関係するが、その後そこの医学者も関係した府中の組織に関わった。
 木下は、東京大学助手を経て、(2)神経科学総合研究所内に七三年四月に設置された社会学研究室の看△253 護部門に着任(他に山岸春江・関野栄子)。川村は、六五年から東大医学部保健学科疫学研究室勤務。井形の研究室でスモン調査・研究に関わった(川村[1994:45-49]、川村・川口[2008]等)。六七年頃に神経難病の人たちの訪問看護を始める。六九年に全国スモンの会副会長。そして、(3)都立府中病院神経内科医療相談室に務める(他に鈴木正子・中島初恵)。こうした人たちは実践的な自主研究グループ「在宅看護研究会」を作り、在宅看護の実践を行ない、記録し、研究した(木下[1978:86-89]等)。その人たちは志のある人たちで、その志をずっと持続させてきた。そして、これら施設は一定の役割を果たしてきた。その実践・研究の中身はこれらの人たちの多くの書き物である程度知ることができるが、それを外から見た研究はなく、これからなされるべきだと思う。ここでは、挿話的なこと、そこに不在であったこと、しかしそれが何ごとかを意味しまた効果したと思うことを二つ記す。
 一つ、白木においても他の人々においても、府中療育センターであったできごとのことは書かれない。白木や椿は学生から突き上げられた苦渋は語る。他方看護師の人たちは、「難病」の方にいて、騒ぎを起こした学生に直接に対したわけでなく、その経験はないから書かない。それは当然だ。だが「府中療育センター闘争」と呼ばれるものは実在した。そこにいてこの騒ぎを起こした人たちことについて言及した文献がなく、それはよくないと思ったから、一九九〇年に短く記した([199010→201212:272-275,339-340])。その時にあげた文献は略す(それ以後の文献は440頁・註09に紹介)。ただ、NHKが二〇一五年に関係者の幾人かにインタビューをしている★29。そして(『現代思想』連載でこの辺りを書いていた)二〇一八年七月一日に三井絹子とその夫の俊明が多摩市で講演をした(三井[2018])。
 それは施設をつぶせといった勇ましい運動ではない。まずは(少なくとも私はよくわかっていなかったことだが)「重心」の部分を残して「重度」の部分を移転させようという計画に反対する運動であり、△254 そこから始まった運動だった。七〇年十二月十四日の『朝日新聞』に「重度障害者も人間です」。三井(当時は新田)絹子の手記(新田[1972])が『朝日ジャーナル』に掲載されるのが七二年十一月十一日。白木の任期は六八年四月から七〇年六月まで(副院長は大島)、「重心」を規定する基準としての「大島分類」でその名が業界に残っている大島一良(一九二一〜九八)が七二年四月まで(森山[2004:108])。『朝日新聞』の記事が載った時には白木は院長を辞めていて、新田の手記が出た時には大島も辞めている。ただ、七三年十二月五日の『朝日新聞』に「白木教授との公開討論会を 府中センターの療養者」、十二月二八日の同じ新聞に「身障者ら越年座り込み 都庁前 白木元院長の退任要求」と、この時点で白木はこの問題から逃れられてはいない。
 その白木が社会の危機を語り、未来を展望し、東京都における具体的な体制を構想するという大きな話をしている文章――さきに長く引用した――は『都政』という名の雑誌に掲載された「美濃部都政下における医療の現状と将来像」(白木[1971])という第の文章だ。ここには何も書いてない。その二年後『ジュリスト臨時増刊』に掲載された 「自治体(東京都を中心に)の医療行政の基本的背景」にも事件についての言及はない。ただその終わりは、「客観的にみて、できるかぎりの正確な認識に立つ今後の見通しのなかで、また毀誉褒貶のあらしのなかで、身を見失うことなく、忍耐強い実践行動への発条となりうるものがなにかをのべたつもりである。したがって、それは、筆者自身のものであり、読者諸賢に押しつけるつもりはない。」(白木[1973c:247-248])となっている。闘争・騒動に具体的にはまったくふれられていないが、事態は少なくとも知られているということだ。
 そして府中の同じ敷地にあったという病院や研究所にいた木下や川村の著書や編書のたいがいにあたったつもりだが★30、そこにもやはりでてこない。木下や川村は施設としては(3)が関わる「難病」の方が専門で、(1)の「重心」にも「重度」にもあまり関わりがなかったという説明も可能ではあろう。ただ、△255 同じ敷地にあった施設で起こり、報道もされたできごとである。だが、出てこない。ただ一箇所、『難病患者とともに』(川村・木下・山手編[1975])のなかに、六八年の暮れ、「美濃部都知事は療育センターを視察し、センターを終生の収容施設とみなすのは不適当であり再検討を要すること、少なくとも重度関係は早急に分けるべきこと、を指摘した。このような指摘に基づいて、療育センターのありかたについての検討が活発に始められた」(中島[1975:68])という文章だけはあった。先に記したように、発足の経緯として、当初予定になかった「重度」の部分が加わったことが、この時点で既に問題になり、切り離す(移転する)計画があったこと(だけ)が記されているということである。切り離し(人里離れた施設への移転)に反対する運動にはふれないが、切り離しが――書かれている限りで理由は判然とはしないが――必要でありそれが開設の当初から、つまり反対運動の前から正当なこととされていたことは書かれているという文章になっている。
 問題は「重度」の部分に起こった。そこにいた人に文句を言える人がいて、処遇――私も記したことがある、普段の生活の、入浴や用便や外出等に関わる処遇――に対する批判がなされた。(当時は丸の内にあった)都庁の前でのテントを張った闘争があって、都の役職者はやがて出てくるが――院長他は出てこない。今年の七月一日の講演会より。三井絹子が講演者だが、夫の俊明も話している。

 ▼絹子:院長は次々と。実験が済むと次の新しい人になり、また来てまた実験をして新しい人になるって感じで、次々と替わっていました。私たちはモルモットでしかない存在でした。院長が替わったところで私は何の変化も感じなかったです。
 俊明:[…]たとえば白木博次っていう東大の教授で、その人が院長になったことがありますけれども、その人のレポートを見るとですね、「なんでこんなに役に立たない人間にたくさん金をかける△256 んだ」みたいなことを書いています。だけどそんな人間がですね、水俣病の研究みたいなところでは良い医者というふうに見られたりっていうことがあったりしました。(三井[2018])★31▲

 きっと院長たちに自ら実験する時間的他の余裕はなかったと思う。また、さきに見たように、役に立たない人間に金を「かけるべき」だと(かけるための根拠他を追究するべきだと)白木は言っているのでもあった。ただ、そこに住んでいて抗議した人(絹子たち)、それを支援した人(俊明たち)はいま引用したように思った、そしてそれから五〇年を経た今も思っているのが事実だ。白木には忌まわしい学園闘争の記憶があり、このセンター闘争に幾つかの党派が関わったことも一方の事実ではあり、面したくない気持ちはわからないでもない。ただ、構想され建設された施設の中でのことは、ないかのごとくにされ、別の立派な実践や構想が語られたのである。
 もう一つ、私がもっと大切だと考えるのは、その医師・医学者や看護師たちが関係して作って護ってきたものと、ここで遮断され、いないことになっている人たちが作ってきたものの間に断絶と対立があることだ。まず断絶について。三井や三井の兄で同じセンターを出所した新田勲(一九四〇〜二〇一三)★32は、その後の約四〇年を介助(介護)の制度を作りそれを地域に実現することに専心した。そして、そんなことがあったから、新田が住んで役所と交渉を続け相対的に制度が進んでいた東京都練馬区で、日本ALS協会の会長なども務めた橋本操が単身独居(に近い)生活をすることができたことは『ALS』にも記した。しかし、そうした制度のことは、その人たちが編集・監修して出版された「在宅ケア」について出されるたくさんの本に出てこない。あるのは、新宿区保険障害福祉部資料(一九八五)を引き写した「重度脳性麻痺者介護人派遣 給付内容:本人の指定する介護人の介護を受けるための介護券を月十一枚公布します。対象:二〇歳以上の脳性麻痺者で身体障害者手帳一級の方」(伊藤△257 [1988:226])といった記載だけだ★33。
 そして対立について。在宅看護・難病看護を進めた人たちは、やがて、「医療的ケア」を誰が担ってよいかという議論――『ALS』に基本的に考えるべきことは述べてはあるが、このできごとについても研究がなく、これもまた嘆かわしいことだと思う――において、それは看護師の仕事であるという主張を強く長く維持することになった。技術は必要であり安全は大切だが、その条件を満たせるなら誰でもその仕事ができるのが当然だという立場に反対した。

★28 都立病院、東京都医療行政について、そして白木博次がどのように関わったのかについて森山[2004][2005][2006]があり、いろいろと知ることがあった。「府中療育センター闘争については、次△275 回論文にて検証を行う予定でいる」(森山[2004:109])とあるが、続く二つの論文ではそれは果たされない。美濃部都政のもとでの福祉政策を(主に税制面について)検討した著作として、当時都政に関わった人でもある日比野登の日比野[2002]がある。
★29 NHKが「NHK戦後史証言プロジェクト日本人は何をめざしてきたのか・二〇一五年度「未来への選択」」の一環として関係者にインタビューした記録――岸中健一(福祉指導員)[2015]、中嶋理(東京都職員)[2015]、三井絹子(入所者)[2015]――をNHKのサイトで聞くこと読むことができる。
★30 集めて読んだのは以下。「難病と福祉」(川村[1974])、『難病患者とともに』(川村・木下・山手編[1975])、『看護実践と看護社会学』(山手・木下[1976])、『難病患者の在宅ケア』(川村・木下・別府・宇尾野[1978])、『在宅看護への出発』(木下[1978])。『難病に取り組む女性たち――在宅ケアの創造』(川村[1979])、『難病と保健活動』(乾・木下編[1985])、『生をたたかう人と看護――ある病院のターミナルケア』(木下編[1986])、「難病への取組み」(川村・星[1986])、『在宅ケア』(島村・川村編[1986])、『在宅ケア 増補版』(島村・川村編[1988])、『ホームヘルパーは"在宅福祉"の要――家庭奉仕員の専門技術と事例集』(木下・在宅ケア研究会編[1989])、『訪問介護の手引』(川村[1990])、『続 ホームヘルパーは“在宅福祉”の要』(木下・在宅ケア研究会編[1991])、『素顔のノーマリゼーション』(木下[1992])、『難病患者のケア』(川村編[1993])、『現場発想の看護研究』(川村[1994])、『筋・神経系難病の在宅看護』(川村編[1994a])、『在宅介護福祉論』(川村編[1994b])、『忘れられない患者さん』(木下編[1997])、『在宅介護福祉論 第2版』(川村編[1998])、『看護学概論』(川村・松尾・志自岐編[2004a])、『基礎看護学』(川村・松尾・志自岐編[2004b])、『基礎看護学――ヘルスアセスメント』(川村・志自岐・城生編[2004])、『基礎看護学 看護研究』(川村編[2007a])、『在宅看護論』(川村編[2007b])、「難病ケアの系譜――スモンから在宅人工呼吸療法まで」(川村・川口[2008])。△276
★31 「俊明:東大の夜間シンポジウムという所に、「府中療育センターの告発」っていうのが三井絹子の日記を含めて、出たのが初めてです。そういうようなことで、電動の仮名タイプが命を救ってきたというのはあるかと思います。」(三井[2018])府中療育センターでの闘争に東京大学での争いが関係しているのかどうか現時点で確認できていないが、すくなくとも闘争のことが東京大学で報告されたことはあったということだ。俊明は次のようにも言う。
 「私がこの人に面会しに行きます。そうすると、日頃面会する人がいないもんですから、私と絹〔三井絹子〕の間に障害持った人がたくさん並ぶんです。私も話したい、私も話したいみたいなことになっていって、その人たちを中心にして、府中療育センターの移転阻止闘争有志グループっていうのを作ったりなんかしたんです。そういうものに参加した障害を持った人たち、見せしめだと思いますが、御蔵島という伊豆七島の一つの島に返されて、一年くらい帰ってこなかったかね? この人もそうですけれど、親が見るのが大変な状態にもかかわらず、また親というか親族の所に返されるんですよね。結局、日野療護園でその人は亡くなっていきましたけれど。卑劣なやり方をすごくやっていましたよね。それで、「共に寄りそって五〇年」〔センターのHPにそう記されている〕なんていうと、いま持っているマイクを投げつけたいくらいの気持ちがあるんだよね。ちゃんとね、そういう過去の歴史もきちっと反省して書いた上で言うんだったら話は別なんだけど、まるでなんにも無かったがごとくに、よい施設ですみたいな感じで表現されても、そんなことはしませんけど、火をつけて燃やしたいくらいですね。そのくらいの怒りは感じるところはありますよ。[…]なんて言うんだろう、小さな怒りでも、やっぱり諦めないでぶつけて行くことがけっこう必要なんではないかって思う部分がありますね。」(三井[2018])
 編書に新田編[2009]。私との対談(新田勲・立岩真也[2009])も収録されている。著書に『愛雪』(新田[2012])。新田に就いて調べた博士論文がもとになった本に深田耕一郎[2013]。
★32 編書に新田編[2009]。私との対談(新田勲・立岩真也[2009])も収録されている。著書に『愛△277 雪』(新田[2012])。新田に就いて調べた博士論文がもとになった本に深田耕一郎[2013]。
★33 『ALS』では「「家族は患者と人生哲学を共有している人たち(責任者)である」「家族は素人であるが、家族として担うべき看護・介護を行う」(川村編[1994a:55-56])[…]といった了解・主張には与しない」と記した([200411:141])。川村編[1998]中の須加美明[1998]等でも、介助の全体をヘルパーから得るという発想は見られない。(とくに高齢者福祉の)現状に照らせばそうだとしても、どのような態度で考えるかである。

■文献(一部〜これから掲載します)

◇瀬野 喜代 i2019 インタビュー 2019/12/19 聞き手:立岩真也 於:於:京都市北山・ブリアン
◇新田 勲 20120815 『愛雪――ある全身性重度障害者のいのちの物語』,第三書館,上:448p.下:352p. [118][131]
◇新田 勲・立岩 真也 2009 「立岩真也氏との対話」,新田勲編[2009:124-148]『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』,現代書館 [118]
◇新田 勲 編 20091110 『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』,現代書館,270p. [118][131]
◇新田 絹子(三井 絹子) 19721117 「わたしたちは人形じゃない――新田絹子さんの手記」,『朝日ジャーナル』1972.11.17 [148]
三井 絹子 20060520 『抵抗の証 私は人形じゃない』,「三井絹子60年のあゆみ」編集委員会ライフステーションワンステップかたつむり,発売:千書房,299p. [131]
◇―――― 20151012 「私は人形じゃない」,NHK戦後史証言プロジェクト「日本人は何をめざしてきたのか」・2015年度「未来への選択」 ◇―――― 20180701 「みんながわかる しょうがいしゃのれきし――しせつのじったい、ふちゅうりょういくせんたーとうそう、そしてちいきに」,多摩市市民企画講座「しょうがいしゃが差別されない街をめざして」http://www.city.tama.lg.jp/0000007073.html [148]
◇深田 耕一郎 20131013 『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』,生活書院,674p.

作成:安藤 道人廣野 俊輔立岩 真也
UP:20080928 REV:..20120421, 20120830, 20130228, 0314, 20141206,19, 20170302, 20180526, 20200624
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